すべてのことには意味がある

 今、新しい本を作っていて来月には出版とのことです。
私は、しばらくのあいだ連日の原稿書きに追われ、少々頭の中がおかしく(笑)なっていましたが、やっと一段落といったところです。
「もう原稿はうんざり」と言いたいところですが、根が好きなんでしょうか?こうやってこの原稿を書いています。
ところで、私が本を出すなんて、サラリーマン時代には考えられないことでした。
でも不思議なものですが、その時代には会社での実験と報告書の納期に追われるあまり、自由な生活ができる(当時はそんなふうに見えた)小説家になりたいと思ったものでした。
今では、いつも原稿に苦しんでいる私を見て、妻がニヤニヤしながら「あなたの希望どおりになったじゃない」と言うのです。
私は返す言葉もありません。
当時そんなことを思ったのも意味があったのでしょうか。
 ところで、こういうことになったのも先代が‘95年12月に亡くなったからでした。
その年の3月、先代は一度倒れたのですが、6月には驚くほどの早さで復帰し、亡くなるまでの半年で、セミナーを開いて全国を回りました。
少し体に不自由な部分が残っていたので、私はどの会場にも付き添って行きました。
そのときの話の内容は、自分が病に倒れた経緯に始まり、氣づきというものの重要性まで、病に倒れたという一見マイナスの出来事ですが、おもしろおかしい話にしていました。
何回も聞くうちに、私の頭の中にこびりついた言葉が「すべてのことには意味がある」というものでした。
先代は、すべてのこと、たとえ悪い出来事が起こっても、それには意味があり、それに気がつくことが重要だということを話していました。
 どんな人も「すべてのこと」の一番始まりは、生まれたということでしょう。
その家に、その土地に、そしてこの時代に生まれた、・・・大きな意味があるのでしょうね。
先代は、その時は分からなくても後になって意味があったと思えるものだとも言っています。
自分自身で生まれる場所を選んでくると言う人もいますが、私は神とも言うべき宇宙の大いなる存在が、その人の魂の成長に最適な場所を選んだのだと思います。
そういう意味では、切っても切れない縁がある、親子という関係は、もっとも根本的な氣づきの原点とも言えそうです。
父である先代が教えてくれた、この真氣光というエネルギーは、私自身の毎日の生活に無くてはならないものです。
まだまだこの先、いろいろな意味があることに巡り会いそうです。
(中川 雅仁)
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