先日、自動車を運転していた時のことですが、高速道路の分岐点で、曲がらなければならないところを妻の話を聞いているうちに、見逃してしまったのです。
結局かなりの回り道になり当然時間も遅れ、行くことになっていた先方に謝罪の電話をすることになりました。
私にすると妻の一方的な話に、氣を取られた、つまり注意を奪われたということです。
20年ほど前の私なら、自分の不注意を棚に上げて、「おまえのせいで間違った」と言うところですが、「マイナスの氣の影響があるかもしれない」ということを知ってからは、そんなこともすっかりなくなりました。
「氣を取られる」ということば通り、何かマイナスの氣が影響して、注意が向けられなくなることがあります。
何かに氣を取られることで、事故が起きてしまうこともあるでしょう。
人は考えるだけではなく、行動できることで結果が現れ気づき、それによって魂の輝きが増します。
ですから、氣を取られ注意をそらされることで上手く行動できずに、魂の輝きにならないということがあり、それはマイナスの氣が邪魔をするように仕組んでいることもあるのです。
私の場合だと、時間に遅れることで上手く行かないようにしたり、イライラさせることで喧嘩をさせて、さらにマイナスの氣を呼び込むように仕向けたりということです。
つまり文字通り「氣を取られる」とは氣という魂のエネルギーを失うように仕向けられるということです。
一般的な意味では注意をそらされるということですが、やらなければならないことが、「氣を取られて」疎かになると考えれば、いろいろな「氣の取られ方」があると思います。
例えば、心配や後悔をさせられたり、時には怒りや嫌な事に意識を占領されていたりと、そのような場合も氣を取られ、エネルギーを失っている状態です。
私は真氣光を知る前は、かなりの後悔癖がありました。
適度な反省で次に生かせればよいのですが、それが過度になると、すでに後悔の念で亡くなっている多くの人の思いと同調し、それらを呼び寄せどんどん後悔が多くなるという繰り返しです。
それは何かやっている、あるいは考えている時、さらには何かやろうとしている時にも、後悔したことや、後悔することが浮かんできて、先に進めないという状況です。
こうならないためには少しぐらいのマイナスの現象であれば、そこにあまり意識を向けず、水に流していくということも大切です。
それには真氣光のエネルギーを日頃から充電しつつ、それでも氣を取られそうな時には普段よりはしっかりと氣を受けたいものです。
(中川 雅仁)
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