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いい人いい話
いい氣づき

会員向け隔月刊誌『HiGENKI』で連載中の『いい人いい話いい氣づき』をご紹介します。
この企画では、中川雅仁が毎回ゲストを招き、心温まる対談を繰り広げています。
本ページでは、その対談の一部を、これまでのバックナンバーと合わせてお楽しみいただけます。

最新の対談

2025年07月

対談者:永峰 英太郎さん

家系のヒストリーを探るのは 最高のエンターテインメント

過去の対談

2025年05月

対談者:坂本 敬子さん

がんで倒れた夫。 彼の生きた証として造った有機のお酒

2025年03月

対談者:大門 正幸さん

人間の本質は意識や魂であると知ると人生が輝き出す

2025年01月

対談者:菊地 英豊さん

幸せになる住宅作り。人を喜ばせる仕事がしたい

2024年11月

対談者:八木澤 高明さん

忘れ去られた人たち。現場を歩くとそのかなしみが伝わってくる

2024年09月

対談者: 池川 明さん

お母さんを満面の笑みにする。それが赤ちゃんのミッション

2024年07月

対談者:山本 伊佐夫さん

口腔内は宇宙とつながっている。

2024年05月

対談者:山元 加津子さん

すべてはいいことのために。サムシング・グレートの思い

2024年03月

対談者:佐々木 厳さん

慰霊・鎮魂・祈りのエネルギーを乗せて

過去の対談一覧

2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
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2010年
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2007年
2006年
2005年
2004年
2003年

永峰 英太郎(ながみね・えいたろう)さん

1969年東京生まれ。明治大学政治経済学部卒。業界紙記者、出版社勤務を経てフリーに。企業ルポ、人物ルポを得意とする。著書『日本の職人技』『「農業」という生き方』(アスキー新書) 『70歳をすぎた親が元気なうちに読んでおく本』(二見書房)『家系図をつくる。』(自由国民社)など 。

『家系のヒストリーを探るのは 最高のエンターテインメント』

偉い人だったと聞いていた曾祖父のことを知りたくなった

中川:
永峰さんが書かれた「家系図をつくる。」(自由国民社)という本を知り合いからすすめられて拝読しました 。具体的にどうやって調べればいいかが、永峰さん自身の家系を追った体験をもとに書かれていますので、とてもわかりやすくて参考になります 。ご先祖様を知ることは真氣光でもとても大切にしています 。じっくりとお話をお聞かせください 。
永峰:
ありがとうございます。私も氣には興味がありますのでお話をうかがえるのが楽しみです 。
中川:
家系図の本を書かれていますが、永峰さんは家系図の専門家ではないですよね 。
永峰:
基本的にはルポライターですから、いろいろな人や企業、出来事を取材して文章にするのが仕事です 。2014年に、母親が末期がん、父親が認知症になって、母親は亡くなり、父は施設に入りました 。親をがんで亡くすのも認知症の親を介護するのも経験がないわけで、何をすればいいのかわからず困りました。たぶん、世の中の多くの人が困惑することで、私の体験は役に立つのではないかと思って、「70歳をすぎた親が元気なうちに読んでおく本」(アスペクト)にまとめました 。それがきっかけで自分自身をルポするようになりました 。
中川:
私も両親を亡くしていますが、経験のないことなので戸惑います 。
永峰:
たとえば、母が意識を失ったときに、親のお金を銀行で下せないという事態になって、なんで下せないのと慌てました。銀行に掛け合ってもけんもほろろだし、どうして家族なのにダメなんだと憤慨しました。親を介護するのも経験がないわけで、何をすればいいのかわからず困りました。たぶん、世の中の多くの人が困惑することで、私の体験は役に立つのではないかと思って、『70歳をすぎた親が元気なうちに読んでおく本』(アスペクト)にまとめました。それがきっかけで自分自身をルポするようになりました。危篤状態の母親に「暗証番号は?」と聞いたけれども、ほとんど意識がないわけですから答えてくれるはずもありません。本当は静かに見送ってあげるべきときに、銀行の暗証番号を聞く自分というのも嫌だなと思いました。暗証番号を元気なときに聞いておけば介護に専念できたわけです。母は父親の認知症を隠していました。自分で何とかしようと思っていたのではないでしょうか。そのストレスでがんになったのかもしれません。自分自身がノータッチだったのが悔やまれます。
中川:
お住まいは離れていたのですか 。
永峰:
それも悔やまれることです。今鎌倉に住んでいるのですが、その前は両親の住む所沢にいました。母親が末期がんになる2年くらい前に鎌倉に越しているんです。親が年を取っていくのにあえて遠いところ行くのは・・・。親が認知症になるなんてありえないと思っていたし、母親も病気ひとつしなかった人でしたから、がんになるなんてまったく考えなかったですよ 。すべて結果論ですが、反省というか後悔というか、少しでも読者の参考になればいいと思って、自分自身の苦い体験をまとめた本です 。
中川:
家系図もいろいろ動いて調べておられます。専門家に作ってもらう人も多いようですが、ご自分で作ることでご先祖様のことがよりわかったようです 。そもそも家系図を作ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか 。
永峰:
私は失敗ばかりしている子どもでした。失敗するたびに、「あなたはちゃんとできるよ。あなたのひいおじいちゃんは偉い人だったんだよ」と母親が言ってくれたのをよく覚えていました。だから、ひいおじいちゃんがどんな人だったのか、興味はもっていました。2018年に父が亡くなったとき、相続手続きのために戸籍謄本を取りました。そしたら、父の婚姻時の本籍が、「東京都台東区浅草橋」だとわかりました。僕が生まれてすぐに幕張に引っ越して、そこで幼稚園時代まで過ごして、その後はずっと所沢でした。僕が生まれた病院は葛飾区の立石に住んでいたのだろうなとは思っていましたが、浅草橋だということでびっくりです。「父親のこと、何も知らかった」と愕然として、父親やひいおじいさん、もっと前のご先祖様がどんな人生を送ったのだろうと、いろいろ調べ始めました。
中川:
親が亡くなったときくらいしか戸籍謄本は見ないですからね。戸籍もいろいろあってややこしいです。
永峰:
戸籍には全員が記載されている「謄本」と特定の一人が記載されている「抄本」があります。家系を調査するときには謄本を使用します。戸籍謄本は、記載されている人が、死亡、離婚、婚姻、転籍すると、その戸籍から抜けることになります。それを「除籍」と言います。除籍によってだれもいなくなった戸籍は除籍簿に入れられ、この戸籍を「除籍謄本」と言います。また、戸籍法が改正されるたびに、書式が変わります。
改正前の戸籍を「改正原戸籍謄本」と言います。家系を調べるときには、これも手に入れると、より詳しい情報がわかります。

中川:
戸籍謄本、除籍謄本、改正原戸籍謄本を手に入れるということですね。
永峰:
どれも市役所や区役所へ行けばとれます。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

東京池袋・KÌPLACE(キープレイス)にて 構成/小原田泰久

坂本 敬子(さかもと・けいこ)さん

1961年茨城県生まれ 。86年に月の井酒造店6代目蔵元坂本和彦さんと結婚 。87年長男・直彦さん、92年次男・貴彦さん、94年長女・有沙さん誕生 。2004年2月、和彦さん死去により株式会社月の井酒造店の代表取締役となり、和彦さんの思いを引き継いで有機のお酒「和の月」を完成させる 。著書『さいごの約束一夫に捧げた有機の酒「和の月」』(文芸春秋)

『がんで倒れた夫。 彼の生きた証として造った有機のお酒 』

ご主人の病気によって人生が激変。7代目の蔵元に

中川:
茨城県の大洗。地名は聞いたことがありますが、初めてうかがいしました。東京から車で2時間ほどですかね。 今回のゲストの坂本敬子さんは、大洗にある「月の井酒造店」の代表取締役 。慶応元年(1865年)創業ということですから、160年の歴史をお持ちの由緒ある酒蔵です 。20年以上前に志半ばで亡くなられたご主人の跡を継ぎ、7代目の蔵元として有機にこだわったお酒を造られています 。坂本さんが2005年に書かれた「さいごの約束」(文芸春秋刊)を読ませていただきましたが、40代のご主人が末期の食道がんと診断されて、何とか元気になってほしいと懸命にがんばる姿には感銘を受けました 。
坂本:
わざわざ大洗までお越しいただきありがとうございます。 来年の2月で主人の23回忌になります 。主人ががんになったとき、すぐに余命を宣告されて、あのときは治したい!少しでも役に立ちたい!という一心で細かく記録を残しました 。別の病院で診てもらうときも、前の病院ではどんな治療をしたかというデータがとても大切だと痛感したものですから 。そのとき闘病記録を書きながら日々のことをメモしていたので、それをもとにまとめた本です。読んでいただきありがとうございます 。
中川:
会社を継ぐことになり、本が出版され、その後テレビドラマにもなりました。ご主人の病気によって、人生ががらりと変化しましたね 。
坂本:
私は主人が病気になるまでお気楽な専業主婦でした。手帳を開けるといつも友だちとのランチの予定ばかりが書かれていましたから(笑) 。主人の病気、そして亡くなってしまったことによって確かに日々の生活は大きく変わりました 。主人が亡くなったあと、社長になりましたが、私はレジ打ちと酒蔵見学の案内をするくらいしか仕事を手伝っていなかったので、どうやって日本酒を売ればいいか?さっぱりわからなかったのです 。主人のために必死に造った大切な有機の酒なので、東京の有名な酒屋さんにもって行ったら、有機だからと言って何がいいの?値段が高いだけで意味がないと言われ途方にくれたこともあります 。そんなとき、残間恵理子さんというメディアプロデューサーが知り合いだったので、どうすればいいかと相談したら、有機のお酒は珍しいから新聞に投稿してみたらとアドバイスしてもらったんです 。朝日新聞に投稿したところ、社会面に大きく紹介されました 。テレビ欄をぱっとめくると「遺志刻む 妻の酒」というタイトルで、私がそのお酒をもっている写真が載っていて、本当にびっくりしました 。その新聞記事を読んだたくさんの出版社から、本を出しませんか と話がきました 。本を出す気はなかったのですが、文芸春秋の編集者さんと時間をかけて色々な話をしているうちに、この方なら信用できるかなと思ってお引き受けしました 。本が出版されると新聞や電車の中吊り広告にまで紹介記事が出たり、大きな書店で平棚に積まれたりして、またまた驚きました 。本の反響もすごくて混乱していると、各TV局が「ドラマにしませんか」と声をかけてくださいました 。
中川:
すごい展開ですね。
坂本:
制作会社の方が最初にもってきた台本では、主人の役も私の役も、あまりにも有名な俳優さんだったので、またまたここでも驚きました。何しろ大スターのアイドルと超大物俳優さんだったので恐れ多すぎてちょっとお受けできないとお断りしました。それでも、制作会社の人があきらめずに、次にもってこられたのが、舘ひろしさんと安田成美さんのキャスティングだったのです。安田さんには私と同じようにお子さんが3人いらっしゃり、ご主人はとんねるずの木梨憲武さんです。安田さんと最初にお顔合わせしたとき、「憲ちゃんがもし具合が悪くなって、突然、自分が敬子さんと同じような立場になったらどうするんだろうと、自分のことに置き換えて考えさせられた。子育てで遠のいていたお仕事だけど、女優復帰作としてやってみたい」と、おっしゃって下さったそうです。その言葉で、なんとなく親近感が湧いてお任せすることにしました。
中川:
本が出てドラマにもなって、まわりの反応はいかがだったですか。
坂本:
今の私だったら、本をこともドラマのことも、上手に宣伝に使えるかなと思います(笑)。でも、あのときはまわりが気になって逆に話題にしたくなかったですね。
中川:
いろいろ言われたりしましたか。
坂本:
あわれな未亡人を演じてお酒を売りたいのかと心無い言葉を言われたりして、それがすごくつらかったですね。主人の同級生とか応援してくださる方もたくさんいましたが、私からはメディアに売り込んでいないし、流れに身を任せていただけなのに、なんでそんなことを言われなければならないのかと涙が出ました。
中川:
どんなにがんばっていても、いいことをやっていても、その姿を見ないで足を引っ張ろうとする人はいますよね。マイナスの方ばかりに目が向く人です。自分が坂本さんと同じ立場になったら、応援されてどれほどうれしいか想像できるはずです。もう少しだけ想像力を働かせれば、心無いことは言えないはずです。

坂本:
本当に悲しかったですね。そのあともいろいろありました。やっと会社が軌道に乗ってきたと思ったら、3・11があってまたどん底です。そこからがんばって這い上がってきたら新型コロナ。7代目だからラッキーセブンだと思っていたのですが、とんでもなかったですね(笑)。でも、もともと楽天家ですから、なるようになるかなと思って乗り切ってきました。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

茨城県東茨城郡大洗町の月の井酒造店にて 構成/小原田泰久

大門 正幸(おおかど・まさゆき)さん

中部大学大学院教授、米国バージニア大学医学部客員教授。1963年三重県伊勢市生まれ。もともとは唯物論だったが、長女の誕生、親友の死、次女が語る過去生記憶などの体験から肉体はなくなっても魂は存在し、自分たちを守ってくれていることを実感し、専門である言語研究に携わる一方で、生まれ変わりを科学的に検証し始める。著書『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社)『生まれ変わりを科学する』(桜の花出版)など。

『人間の本質は意識や魂であると知ると人生が輝き出す』

過去生の記憶を語り出す子どもたちが増えている

中川:
ご無沙汰しています。先生とは2015年2月号で対談させていただきました。ちょうど10年前です。 この間はテレビでも拝見しましたが、先生の研究されている「生まれ変わり」についての見方もずいぶんと変わってきたように思います。
大門:
私が過去生の記憶をもつお子さんに初めてインタビューしたのは2010年でした。トモ君という当時10歳の男の子です。日本に生れる前はイギリスで料理屋さんをやっている人の子どもだったという記憶をもっていました。イギリスでの両親のことや自分がイギリスで体験したいろいろな出来事を話すので、お母さまは心配して病院へ連れて行ったりしました。しかし、病院では過去生を扱ってませんから(笑)、お母さんの不安や心配は解消されませんでした。
中川:
過去生のことは親御さんもわからないでしょうから戸惑いますよね。
大門:
会長も見てくださった「クレイジージャーニー」というテレビ番組は怪しげなものとしてではなくまじめに過去生を扱ってくださいました。ユウ君という過去生の記憶をもつ10歳の男の子を取り上げた番組でした。あの番組を見たトモ君のお母さんは、自分にもユウ君の母親の心配する気持ちはよくわかるし、最後にユウ君と一緒に過去生の人物の家族に会えて本当に良かった、いいお仕事をされましたね、といった内容のうれしいメールをくださいました。
中川:
ユウ君は3歳くらいから過去生のことを話すようになって、その内容から2011年9月11日の同時多発テロで亡くなった男性の生まれ変わりではないかと考えられ、先生と一緒にユウ君の過去生はだれだったのか探るという内容でしたね。最後には、ユウ君の過去生である可能性が非常に高いという方のご家族と面会するという感動的なお話でした。ユウ君と過去生の人物だと思われる方の間にはいろいろな共通点があって、びっくりしました。 面会のときにユウ君のそばにいたお母さんもほっとした表情でした。 たぶん、トモ君やユウ君のような子どもはほかにもたくさんいると思います。親は病気なんじゃないだろうかと不安になるでしょうが、ああいう番組があると、いきなり病院へ行くのではなく、先生に相談すると考えたりもするでしょうね。
大門:
今ではコンスタントにお話を聞くくらいはあちこちから連絡をいただきます。
中川:
生まれ変わりの研究はバージニア大学が世界的な拠点になっているわけですね。何人くらいの研究者がいるのですか。
大門:
現在は12人です。生まれ変わりだけでなくて臨死体験を中心にやっている人もいるし、霊媒現象を研究している人とか、脳の仕組みも含めて幅広くやっている人とか、いろんな方がいますね。 心とか意識というのは人間の体とは独立しているのではないか。それを追求するのが研究の目的のひとつです。そう考えざるを得ない事例がたくさんあるので、証拠固めをして、法則性を突き止め、独立しているなら心や意識とはどういうものか、そこまでいきたいと考えて研究が進んでいます。
中川:
心や意識は体から独立した存在ではないか。これは重要なポイントだと思います。
大門:
そうですね。会長がやっておられる氣を考える上でもそこはポイントになるんでしょうね。氣は機械で測定できるようになりましたか。
中川:
できないですね。どれくらい科学が進めばできるようになるでしょうか。今は、体験から知るしかありません。でも、体がすべてではなくて、心や意識は独立して存在し、生まれ変わりや氣の世界が本当にあるとわかれば、救われる人も多いと思うのですが。
大門:
多くの人の一番の恐怖は死ですからね。死に対する考え方が大切です。生き方も変わるはずです。今は南海トラフ地震がくると言われていて、みなさんいろいろ備えをしていると思いますが、100パーセント起こるとは限りません。その点、死は100パーセントですから、南海トラフ地震以上に備えをしておく必要があるのではないでしょうか。
中川:
日ごろから、死について、死後の世界や生まれ変わりの有無を含めて考えることが大事ですね。
大門:
死んでも次があると思うのと、死んだら終わりと思うのとでは、生活の仕方も違ってくるでしょうからね。
中川:
学生さんは先生の出ているテレビを見たり、本を読んだりして、どんな反応でしょうか。
大門:
授業で生まれ変わりを教えているわけではないので、限られた人数の学生とのやり取りから受ける印象でしかないのですが、ずいぶんと受け入れてくれているような気がしますね。データとしては、1950年と2000年のしっかりしたものがあります。2000名くらいインタビューしていて、年代もわけています。1950年の20代、死んでも意識が残ると考えている人が2割くらい。70代は4割くらいです。50年後、死んでも残ると考えているのが70代で3割くらい。20代は5割を超えています。男性と女性とを分けると、20代女性は8割くらいが死んでも終わりではないと答えています。
中川:
このデータはどう解釈すればいいでしょうか。死後の世界だけではなく、生まれ変わりも信じる若い人が確実に増えているようですね。特に女性は顕著です。
大門:
昔は、死んでもおじいちゃんやおばあちゃんがそこらへんで見ているという感覚の人がたくさんいました。戦前は「七しょう報こく」という言葉もありました。七回生まれ変わって国に報じるということです。
生まれ変わりをどこまで信じていたかはともかく、気持ちとしては、今回命がなくなったとしても、もう一度生まれ変わってきて国に報じる、家族を守るという人が多かったんですね。精神性も高かった。戦後、GHQは、こんなことを考えている人が多いと日本を統治できない、と危機感をもち、死んだら終わりなんだと植え付けたのではないでしょうか。戦後80年になりますから、そんな洗脳も溶けてきて本来の日本人に戻ってきたように思います。若い人たちは何度も転生して魂の力を磨いてきたように感じますが、どうでしょうかね。
中川:
死んだら終わりだと思っていると、どうしても自分のことしか考えなくなりがちです。今、地球の環境や世界の平和を考える若者が増えてきているようにも思いますね。魂的に成長しているのかもしれません。ところで生まれ変わりの研究ですが、日本の事例がきっかけになっているということですが。
大門:
生まれ変わりの問題について、世界で最初に系統立てて論じ、過去生の記憶を語る子どもに着目したのはバージニア大学の精神医学者、イアン・スティーブンソン博士でした。彼は論文の中で過去生の記憶を語る子どもの事例を7例紹介しました。その筆頭が今から200年も前、多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に生まれた、当時8歳の勝五郎だったのです。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

 愛知県春日井市の中部大学にて 構成/小原田泰久

菊地 英豊(きくち・ひでとよ)さん

昭和23年(1948年)東京都生まれ。中央大学商学部を卒業後、建築業を営む父親の跡を継ごうと工学院大学に入り直し、建築学を学ぶ。現場でさまざまな建築技術をマスターしながら、あるときから人が健康で幸せになれるオーガニック住宅作りを目指す。現在、ファミリア建設株式会社代表取締役。https://t-eizen.com ファミリア建設株式会社 〒189-0002 東京都東村山市青葉町1-1-35

『幸せになる住宅作り。人を喜ばせる仕事がしたい』

父親に連れて行かれた建築現場が遊び場だった

中川:
菊地さんは東村山市で建設会社を経営されていますが、家を作るに際して、場のエネルギーをとても大切にしているとお聞きしました。それに、77歳という年齢でまだまだ現役でがんばっておられる。 今日は、お会いできるのを楽しみにしてきました。
菊地:
ありがとうございます。せっかくこの時代に地球という惑星に生れてきたのですから、少しでも人の役に立てて、自分も楽しめるような仕事ができればと思ってやってきました。
中川:
今はシックハウス症候群で苦しんでいる方も多いかと思います。どんな家に住むかはとても重要ですね。
菊地:
シックハウス症候群、多いですね。私のところへ相談に来られる方もたくさんおられます。 最近では、私どもが行った補修工事でシックハウス症候群が出なくなった方がいました。私は、いいと思ったものは積極的に活用するようにしていますが、とても気に入っている抗酸化作用のある溶液を、その方の家の中の壁に塗りました。そしたら、空気ががらりと変わりました。私も作業をしていて、急に呼吸が深くなるのを感じました。その部屋を出ると、また浅くなりました。スタッフにも試させたところ、同じように呼吸の深さが変わると不思議がっていました。
中川:
空気の質が変わったんですかね。
菊地:
そういう気がしますね。私たちが呼吸で取り込んだり出したりする空気の量は、食べ物や飲み物とは比べ物にならないくらい大量です。どんな空気の中にいるかは健康にも大きな影響があるはずです。
中川:
空気も氣ですからね。菊地さんの施工によって家の中の氣が高まったように思います。 氣をしっかり受けることでシックハウス症候群が出なくなった方もいますから、シックハウス症候群も氣と関係があるのではないでしょうか。 ところで、氣のような目に見えない世界のことにもご興味があるとお聞きしています。何かきっかけはあるのですか。
菊地:
振り返ってみると、子どものころから「何のために地球に生れてきたのだろう」と考えていました。 いくら考えても答えが出るはずもありません。それで15歳のときに居直りました。現実をしっかりと見ようと思ったのです。 現実を見ないで、夢の中で何だろうどうしてだろうと探してみても何も見つからないのではないか、と考えられるようになりました。今、自分は地球の上で生きているという現実からのスタートです。 つらいこと、理不尽なことがあっても、現実をしっかりと見つめて、自分で道を切り拓いていかないといけないことに気づきました。
中川:
15歳でそんなことに気づいたのですか。すごいですね。それから建築に向かったわけですか。
菊地:
建築のことは小学校の2、3年のころからやっていました。
中川:
えっ、小学校2、3年ですか。
菊地:
父親が左官業をやっていまして、よく父親のオートバイの後ろに乗せられて現場へ行っていました。 好奇心が旺盛な子どもだったのだと思います。職人さんの仕事を見て、いろいろ教えてもらうのが好きでした。現場が私の一番の遊び場でしたね(笑)。
中川:
小さいころからお父さんや職人さんたちのお手伝いをしてこられたわけですね。
菊地:
大工さんやブリキ屋さんたちが面白がってあれもこれもとやらせてくれました。釘の打ち方やブリキの切り方を覚えて、小学生のうちから建築の基礎をマスターしていました(笑)。しっくいも自分で作れたし、竹を組んで壁に塗るのも一人前にできましたから。
中川:
小学生のうちに建築の基礎をマスターですか。もう天職としか言いようがないですね。
菊地:
でも、すっと建築の仕事に入ったわけではないんです。大学は商学部に入って、会計事務所への就職も決まっていました。 卒業を前に考えました。ちょうど父親が60歳になっていました。いつまで仕事ができるかわかりません。けっこう大きくやっていましたので、自分が跡を継いだ方がいいのではと思い始めたのです。 それで、会計事務所への就職を断って、大学の建築科へ入り直して、建築士の資格をとって、父親の会社で働くことになりました。 遠回りをしたように思われますが、会社を経営するようになって、商学部で学んだことが生きてきました。世の中、無駄なことはないなと思いましたね。
中川:
それはありますね。私も30年前に父が亡くなり、父の会社を継ぎましたが、その前の10年ほどは電機会社でエンジニアをやっていました。扱っているものはまるで違いましたが、エンジニアとして働いていたときの技術や知識が、新しい商品を開発するのにけっこう役に立ちましたからね。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

 東村山市・ファミリア建設 株式会社にて 構成/小原田泰久

八木澤 高明(やぎさわ・たかあき)さん

1972年横浜市生まれ。ノンフィクション作家。世間が目を向けない人間を対象に日本国内、世界各地を取材。『マオキッズ 毛沢東の子どもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア』『日本殺人巡礼』(集英社文庫)『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)などがある。

『忘れ去られた人たち。現場を歩くとそのかなしみが伝わってくる』

無名の人たちの味わったかなしみにスポットを当てる

中川:
八木澤さんのご著書『忘れられた日本史の現場を歩く』を興味深く拝読しました。 拝み屋さんの話から始まって、からゆきさん、蝦えみ夷しの英雄、潜伏キリシタン、平家の落人、飢饉で全滅した村など、さまざまな時代の、日本各地の学校では習わない歴史が紹介されています。 私は氣の世界に足を踏み入れて30年になりますが、氣を通していろいろな体験をするうちに、苦しい中、がんばって生きてきた、名もなきご先祖様たちに思いを向ける大切さを感じるようになりました。 無名の人たちの味わったかなしみにスポットを当てるという、八木澤さんの活動には共鳴できる部分が多く、お会いできるのを楽しみにしていました。
八木澤:
ありがとうございます。 私は小学校2年生のときに、源義経の伝記を読んで歴史に興味をもちました。その後、私が生まれ育った横浜は源氏とのかかわりが深く、義経を祀った神社もあって、親族はそこの氏子だとわかりました。はるか遠い昔の出来事だと思っていたことが、いつも見慣れた景色の中にあると知ったのは大きな衝撃でした。 大学は歴史学科に入りました。しかし、古文書とか統計といったアカデミックなアプローチに興味がもてず、現場を歩きたいという思いが高じて、大学を中退してネパールへ行きました。ネパールには何度も足を運び、反政府闘争をしているゲリラや児童労働など、日本では報道されていない現実を見て、記録に残ることが少ない出来事に関心をもつようになり、世界各地、日本国内の、歴史上あまり陽の当たらない場所や人を訪ねて歩いてきました。 ところで、さきほど会長は氣と歴史が関係あるようなお話しされましたが、それはどういうことなのでしょうか。
中川:
実は、氣を受けるといろいろな反応が出る人がいます。体が温かくなるとか揺れるといったのはよくあることで、ほかにも、感情が湧き上がってきて泣き出したり、怒り出したりする人もいます。 中には恨みとか憎しみをしゃべり出す人がいます。それも氣を受けている人自身の思いではなくて、すでに亡くなっている人だとしか考えられないようなこともたくさんあります。 たとえば、山に埋められて苦しかったとか、戦場で殺された、自分が死んだのはあいつのせいだといった話をするのです。今もつらい思いをしているのを知ってほしい、と訴えてきたりします。 そういうエネルギーを、私はマイナスの氣と呼んでいますが、マイナスの氣の影響を受けると、生きている人が病気になったり、人間関係で苦しんだりすることがあるのです。 氣を受けると、マイナスの氣も苦しみが軽くなるのでしょう。「ああ、楽になってきた」と喜びます。 そして、十分に氣を受けると、光になって行くべき場所に行くので、生きている人も苦しみから解放されたりするのです。 そうしたマイナスの氣は、つらい亡くなり方をしたご先祖様の場合が多く、まさに忘れられた存在です。歴史を知っていれば、マイナスの氣の話す恨み言から、どういう状況だったのかが想像できます。 マイナスの氣がどんなつらさを抱えていたかをわかった上で氣を受ければ、よりたくさんの氣を届けることができるようなのです。
八木澤:
マイナスの氣を追い出してしまうのではなく、彼らの苦しみを理解してあげるということですね。
中川:
マイナスの氣にはマイナスの氣になってしまった理由があります。 たとえば、貧しくて食べる物がなくて苦しんだご先祖様もいたでしょう。八木澤さんの本にも書かれていたような飢饉があったかもしれません。極度の空腹の中で心身ともに衰弱し、子どもたちを殺さなければならなかったり、年老いた親を山に捨てにいったり、まわりの人たちがバタバタ死んでいく。希望をもてと言われても難しいでしょう。「いい人生だった」とニコニコ笑いながら死んでいける人はほとんどいないのではないでしょうか。 しかし、そういう苦しい中でもがんばって生き抜いたご先祖様がいたからこそ、自分がいるわけです。マイナスの氣だからと追い出すのではなく、本当は感謝すべき存在です。そして、ご先祖様の苦労を知ることで、自分がいかにいい環境で生きているかもわかります。 マイナスの氣になったご先祖様の状況を知り、大変だったなと思えるようになると、不平不満ばかりを言っていた人が、そうじゃない、自分は恵まれているのだと気づくこともできます。不平不満が少なくなり、感謝の気持ちを言葉にすることが多くなります。 そうした気づきが、自分自身の氣を高め、ご先祖様にもたくさんの氣を届けることができて、自分もご先祖様も幸せに近づけるようになるのではないでしょうか。
八木澤:
実はネパールで不思議な体験をしました。 お医者さんもいない村で、1ヵ月ぐらい咳が止まらなくなって寝込んだことがあったんです。村の人からは『魔女に呪いをかけられているからだ』とか言われました。 ある日、祈祷師みたいな人が来て、刀を振り回してまじないをかけるんです。最後に刀の刃の先からしずくが出て、それを飲んだら、咳が止まりました。
中川:
それは良かったです(笑)。氣と関係があると思いますね。 氣のことは理屈ではなかなか説明できませんから、体験させられる人がけっこういます。私も30年前は氣のことを信じていませんでしたが、体調を悪くしたことで氣を受けることになり、すぐに元気になって氣に興味をもちました。 あの体験がなければ、こうやって氣に深くかかわることはなかったと思います。 八木澤さんの本を読んでいると、見えない力の応援があるように感じます。 取材のきっかけもそうだし、現場に行くと奇跡とも思えるような出会いがたくさんあるじゃないですか。
八木澤:
そうなんですよ。「適当に話を作って書いているんじゃないの」と言われることもあります(笑)。そんなに都合のいい出会いって嘘くさいって思うんでしょうね。でも、編集者も一緒にいたりするわけですから、捏造ならすぐにばれてしまいます。
中川:
インドに売られていった山口県岩国市のからゆきさんのお話がありましたよね。たまたま門司で読んだ郷土史の資料で情報を得て、そこに書かれていた集落を訪ねたら、最初に入った雑貨屋のご主人が「その人なら、この先の家に住んでいましたよ」とあっさりと教えてくれたってあるじゃないですか。そんなことなかなかないでしょう(笑)。まして、そのからゆきさんは明治時代の方ですからね。すぐに住んでいた家がわかるなんて奇跡ですよ。
八木澤:
実家が商店街の肉屋をやっていましたから、商店には人も情報も集まることを、感覚として知っています。 だから、取材で知らない場所を訪ねたときには、まずは米屋、床屋、クリーニング屋、酒屋といったお店に入って情報収集することにしています。 それにしても、一軒目で「知っていますよ」と言われたときはびっくりしました(笑)。 その女性は、23歳のときに岡山県の紡績工場で働いていて、ある人から清国の紡績工場で働けば日本の3倍は稼げると言われて船に乗るわけです。そしたら、香港に連れて行かれて、現地の女郎屋に売り飛ばされて、シンガポールをへて、インドのボンベイにたどり着きました。ボンベイで救助されて3年ぶりに岩国の故郷に帰ることになりました。 その間、ボンベイで現地の客との間に子どもができて出産しましたが、子どもはどこかへ売り飛ばされました。 20代で故郷へ帰ったのですが、ずっと未婚だったそうです。きっと、まわりから後ろ指さされたりして、つらい思いをしたことと思います。 貧しい村で生まれ育って、少しでもたくさん稼ごうと清国の話に乗ったばかりに、とんでもない苦難の人生になってしまったわけです。切ないですよね。
中川:
その方のお墓も探したそうですね。
八木澤:
村はずれの墓地へ行って、その方の名前を探しましたが見つかりませんでした。 海外に取材に行くときには、日本人墓地を訪ねるようにしています。インドネシアのメダンという町に行ったときに、大きな日本人の墓地があるというので出かけました。300基くらいがからゆきさんのお墓でした。みなさん、だいたい20代の若さで亡くなっています。 かつて、横浜に一大売春宿があって、タイやコロンビア、ベネズエラなど外国人の娼婦がたくさん働いていました。エイズで亡くなった人もいます。そこで働く娼婦たちを取材して『黄金町のマリア』という本にまとめたことがありましたので、海外に売られていって、故郷のことを思いながら若くして亡くなる日本人女性の話を聞くと、どうしてもお墓に手を合わせたくなるんですね。
中川:
そういう気持ちで取材されているからこそ、導かれるような出会いがあるんでしょうね。 まさに忘れ去られた人たちで、光を欲しがっていると、私は思います。そういう方々のことを本にして知らせるというのは、とても大切なお仕事です。八木澤さんもさらに氣を高めていただけると、八木澤さんが興味をもたれている方々のもとに、これまで以上にたくさんの光が行くはずです。 真氣光は、氣を高めるためのひとつの手段なので、今日は氣を受けてお帰りください。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

東京・池袋 キープレース にて 構成/小原田泰久

池川 明(いけがわ・あきら)さん

1954年生まれ。1989年に横浜市に産婦人科池川クリニックを開設し、2016年までの28年間で約2700件の出産を扱った。現在は出産の扱いをやめ、研究論文・書籍の執筆、講演、新聞・映画などメディアへの出演など、胎内記憶を世界に広める活動に専念している。胎内記憶に関する著書は多数。映画「かみさまとのやくそく」にも出演。

『お母さんを満面の笑みにする。それが赤ちゃんのミッション』

科学的に証明されてなくても、胎内記憶を語る子がいる

中川:
ご無沙汰しています。池川先生が対談に登場していただくのは2度目ですが、前回は2009年3月号ですから、15年も前のことです。先生が研究されている胎内記憶が話題になっているころだったと思います。
 胎内記憶というのは、お母さんのお腹にいたころの記憶のことで、先生はたくさんの子どもたちにインタビューして、3人に1人が胎内記憶をもっていると発表されました。
 生まれる前のことなど覚えているはずがないというのが常識ですから、疑いの目で見られることも多かったかと思います。
 あれから15年たちましたが、かなり理解されるようになったのではないでしょうか。
池川:
私は「生まれる前の記憶」について調べて、本に書いたり講演をしたりしています。生まれる前の記憶というのは、大きく4種類に分けることができます。
 まず会長がおっしゃった「胎内記憶」。次が「誕生記憶」。分娩時の記憶です。「過去世の記憶」。いわゆる前世の記憶です。そして、輪廻転生の中で、ある人生から次の人生に生れ変わるまでの「中間世の記憶」ですね。つまり、お母さんのお腹に宿る前の世界ですね。
 いずれもこれまでの常識では「ない」とされてきたことで、私も子どもたちから話を聞いて驚きました。しかし、研究を続けていくうち、命のこと、人生のことを考える上で、彼らが語ってくれることがとても大切だと感じたので、いろいろ言われながらもあちこちで発表しているわけです。今日は、4つの不思議な記憶のことをひっくるめてお話しさせていただきます。
 おかげさまで日本では、興味をもってくださる人が増えてきています。しかし、私は世界の人口の3割、24億人に知ってもらいたいと思っています。まだまだですね。
中川:
科学的に証明されないと真実ではないと思っている人も多いですからね。氣もそうですが、科学がまだそこまで行き着いていないわけで、科学的に証明されないからと言って、ないと決めつけるのはどうかと思いますね。私は、まずは体験してみて、そのあとで自分の頭で考えてくださいとお話ししています。
池川:
科学は正しいけれども、小さい子が胎内記憶をしゃべるというのも事実です。お父さん、お母さんを喜ばせるためにウソを言っているのではと言う人もいますが、けっこうお母さんが嫌がることも言うんですよ。お母さん、あんなことやってダメだったよね、みたいなお母さんが聞きたくないことも言います。
 生れる前の記憶がある、と仮定しないと成立しないこともたくさんあります。科学が証明できてないだけかもしれないと考えてほしいんですね。 私たちが子供を育てるのに科学はあまり必要でないかもしれません。普通は今日何カロリー食べたとか科学的に考えて育ててないじゃないですか。それでいいんですよ。ほとんどの日常生活に科学はあまり関係ない、と私は思いますね。
中川:
胎内記憶の研究は海外でも行われているのですか。
池川:
アメリカに「APPPAH(アパ)=出生前・周産期心理学協会」という団体があります。『胎児は見ている』(祥伝社 1982年)という本の著者である精神科医で元ハーバード大学教授のトマス・バーニー博士が40年ほど前に設立しました。学者たちの集まりですが、メンバーの半分くらいが胎内記憶の持ち主です。ですから、そこでは胎内記憶があるかないかという議論はなされません。あるのが当たり前。ただ、社会的にもっと受け入れられるようにと、科学的なアプローチをしようと活動しています。 私も2003年にひょんなことから入ることになりました。現役の産婦人科医ということでずいぶんと歓迎されました。
 また、アメリカのエリザベス・カルバンさんという方は、世界25ヵ国で胎内記憶をもっている人を調査し、『COSMIC BABY』という本を出しています。
 でも、まだ世間一般では信じない人が多いですね。
中川:
これからどんどん広がって行くような気がしますね。
池川:
胎内記憶のことを知っているのと知らないのとでは、子育てがまったく違ってきます。
 私は、立ち合い出産とかカンガルーケアとか、いい出産をすれば、その家族は幸せになると思っていました。しかし、お産のときはすごく感動し、感謝していた方でも、その後、産後うつになったり、育児放棄をしたり、夫婦仲が悪くなって離婚したりする人がけっこういるんですね。だから、お産の瞬間だけ幸せでもダメらしいです。
 じゃあ、何が大事なのかというと、赤ちゃんがお腹にいるときからの長い時間の関係性が大切なのだと気づいたわけです。
中川:
胎内記憶があることを知っていれば、お腹の中の赤ちゃんに話しかけたりしますからね。
池川:
そうなんですよ。たとえば、お腹の中にいるときから話しかけているお父さんだと、生まれたあと赤ちゃんがなつくんです。話かけてないお父さんだと、抱っこしたら泣くんですね。 出生時の記憶がある20代の女性が、初めてお父さんに抱っこされたときのことを話してくれました。そのときの写真があって、彼女は大泣きしています。
 お父さんは、お腹にいた自分に話しかけることもしなかったので、彼女にしてみればまったく未知の存在でした。知らないおじさんに抱っこされたようなもので、不安で仕方なかったんでしょうね。早くお母さんに戻せと泣いて抗議するわけです。
 そうなると、お父さんも自分は嫌われているのかなと困ってしまいますよ。 興味深いことですが、お腹の中にいるときから話かけているお父さんだと抱っこされても泣かないですね。いわゆる無駄泣きがないんですよ。泣くときはどうして泣いているのか、きちんと意思表示をします。 話しかけてない赤ちゃんはギャン泣きします。お父さんになつきませんから、お母さんは負担ですよ。それが産後うつや育児放棄につながることもあります。そして、お父さんは抱っこすれば泣かれるわけですから、何となくかやの外に置かれた感じで、家庭内がぎくしゃくして、離婚にまでなってしまったりします。
 そういうこともあって、胎内記憶のことを、特にお産を控えるお父さん、お母さんに知ってもらいたいと思っているんですね。
中川:
お父さん、お母さんがお腹の赤ちゃんに話しかけている光景というのは、とても微笑ましいし、温かな気持ちになりますよね。
 いい氣が充満していますよ。 先生が調査したところによると、胎内記憶をもつ子どもたちは、3割くらいいるということですよね。
池川:
3分の1の子どもが語ってくれましたね。6歳までの子が多いですね。3歳くらいがピークで6割くらい、5歳になると5割くらい、6歳で2割から3割かな。
 中学生1000人で調べたら、2・5パーセントの子に胎内記憶がありました。高校生から大人で1パーセントくらいです。
 記憶をもっていても、親に話すと頭から否定されるじゃないですか。特に、20年くらい前だと、母親から人様に言うなと言われて封印してしまうんですね。 でも、本人としては、昨日のことを覚えているみたいにとてもリアルなわけです。それで悩んで精神科を受診したら、統合失調症と診断され薬を処方されている人もいます。
 胎内記憶をもっていると精神病にされてしまうんです。それってまずいですよね。
中川:
先生のように子どもたちから根気よく話を聞いて、それを真剣に受け止めて、データにしていくという姿勢はとても大切だと思います。
 ただ、世間は、生まれる前は脳が完全にできてないのだから、記憶がないと思い込んでしまっています。
池川:
科学の世界では脳がすべてを司っていると考えられていますからね。だから、脳が完成していない胎児に記憶があるはずがないと決めつけています。
 でも、子どもたちに話を聞くと、お腹の中から外を見ていたと言うんですね。それもカラーですよ。 新生児は白黒でしか見えていないと言われています。フルカラーで見ていると言うと、それは子どもたちの幻想だと否定されます。
 でも、もし子どもたちが言っていることが本当だとすると、科学が間違っていることになります。脳がすべてを司っているという考え方が間違っているとしたら、今の科学が根底からくつがえってしまいます。
中川:
量子力学も出てきて、科学も目に見えない世界に少しずつ近づいていますが、氣とか魂といったところに踏み込むのはハードルが高いみたいですね。私も科学的な世界で生きてきたので、科学の発展には大いに期待しているのですが。
池川:
出産・子育ては科学が証明するのを待っていられないですよ。30年後に胎内記憶があると証明されたとして、30年間、そんなものないと信じて出産・子育てをしてきた人はどうなりますか(笑)。
 私が胎内記憶のことを妊婦さんやご家族の方に伝え始めて20年以上になります。お腹の中にいるときにお父さん、お母さんに話かけられて生まれてきた子が、成人しているわけです。話を聞くと、みなさん笑顔でやりたいことをやっている子に育っています。お父さん、お母さんもとても幸せで、だれも不幸になっていません。お腹の中の赤ちゃんに話しかけていると20年後に幸せになっているんですよ。最高じゃないですか(笑)。
 長くやってきたからこそ、現実の中で答えが出てきて、自信にもつながりました。科学的にどうのということは置いといて、お産を控えている方、ご家族は、お腹の赤ちゃんに話しかけてもらいたいと思っています。
中川:
帝王切開とか中絶とか、赤ちゃんにとっては大変ストレスになると思うのですが、それに関してはどうですか。
池川:
帝王切開の後で自然に生まれたかったと怒る子どももいますが、あのままだったら大変だった。助けてくれてありがとうと言うお子さんも多く存在します。
 中絶も、母親は自分を責めますが、胎内に宿れて喜んでいる子ばかりです。ですから一概に悪いとは言えません。
 大事なのは、胎児たちとしっかりとコミュニケーションをとることです。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

東京・池袋 キープレース にて 構成/小原田泰久

山本 伊佐夫(やまもと・いさお)さん

1960年神奈川県生まれ。86年神奈川歯科大学卒業後、歯科医院勤務、日本医科大学医学部法医学教室。92年医学博士、同大学非常勤講師。現在、神奈川歯科大学法医学講座講師。歯科医院非常勤勤務、公益社団法人日本厚生協会理事長。下田33回、38回氣功師養成講座及び、生駒第19回、47回、76回真氣光研修講座を受講。

『口腔内は宇宙とつながっている。』

脳歯科は氣の医学真氣光研修講座に参加してO-リングテストを知った

中川:
ずいぶんとご無沙汰しています。山本先生は歯科医ですが、口腔内だけでなく全身的な、さらには氣のレベルでの健康を大切にされておられるとうかがっています。真氣光の研修講座にも参加してくださっていますし、普通の歯医者さんとはやっていることが違うようですね。
 今日は、先生が週に何日か診療されている横浜の歯科クリニックをお訪ねしました。面白いのは、椅子が倒れる歯科治療用の診療台の後ろに、患者さんが横になる治療ベッドがあることです。けっこうこの治療ベッドを使うことが多いと聞いていますが。
山本:
今日はわざわざご足労いただき、ありがとうございます。
 私の場合、歯以外の頭痛、肩こり、腰痛、不眠やアレルギーなどさまざまな症状の方がたくさんお越しになります。悪影響を与えている歯があれば、わずかに削りますが、全身のバランス、身体の動作などを診ますので、診療台は使わないことが多いですね(笑)。治療ベッドに横なって、足を上げてもらったり、立ったままでエネルギーが調和しているかどうかをチェックしています。
中川:
悪影響を与えている歯ですか。
山本:
会長にも後程体験してもらいたいと思いますが、Oーリングテストや筋反射テストを使って、原因となっている歯を見つけ出して、処置をします。
 Oーリングテストというのは、患者さんが右手の指で輪(Oーリング)を作って、左手で、たとえばある薬をもったときに、輪を作る力が強くなったか弱くなったかで、その薬が合うかどうかをチェックするものです。強くなれば合うということです。
 問題のある歯にさわると、Oーリングに力が入りにくくなります。 筋反射テストというのは、それを腕とか足を使って行うものです。
 氣の世界ではよく使われていて、真氣光でも氣グッズをもつとOーリングが強くなるとか、体が柔らかくなったり、体に力が入るという実験をしていましたよね。
中川:
不思議ですけれども、氣グッズをもつと、指で作った輪が離れなくなったりしましたね。立っている人を押しても倒れにくくなったりね。
山本:
そうなんです。私はOーリングテストを習い始めのころは、真氣光グッズのテレホンカードをもつと開かない(+)、普通のテレホンカードだと開く(-)ということで練習していました。
中川:
山本先生は、どういうきっかけで氣の世界に興味をもたれたのですか。
山本:
下田でやっていた真氣光研修講座ですよ。最初に参加したのは、1993年の8月、第33回でした。あのころは、医療氣功師養成講座と言っていましたね。
 9日間の講座でしたが、仕事を辞めて参加しましたよ。
中川:
当時、基本は一週間でした。難病の方の参加がどんどん増え、一週間では足りなくなって、9日間になったころですね。
 先生は、仕事を辞めて参加されたということですが、なぜそこまで興味をもたれたのですか。
山本:
1986年に歯医者になって、すごく気になったのが、子どもたちに元気がないことと、アトピーなど私が子どものころにはなかった病気が多くなっていたことでした。
 どうしたんだろう? とネットのない時代だったので、本を読み漁り、同じ疑問を感じている歯医者仲間と勉強会をしたりしました。
 戦後、食事の内容が大きく変わったのが原因ではないかと、食事に着目して自分でも玄米菜食をしたりもしました。 ところが、あるがんの患者さんとかかわったとき、食事の指導をしたり、食事療法を取り入れている病院を紹介して、いったんは良くなりましたが、そのあとすぐに悪化して亡くなってしまいました。 それで、食事だけではダメなのではないかという疑問が出てきました。
 そんなとき、伊豆の方にすごいパワーをもった氣功師がいるらしいと聞いたんです。先代のことです。 先代が書かれた『医者に見放されたヒフ病が氣で治った』『一週間で氣が出せた』という本を読みました。 正直、信じられませんでした。でも、著者である先代を写真で拝見すると、とてもいい顔をされている。 それで行ってみようと決めました。
中川:
実際に下田へ行かれてどうでしたか。
山本:
実は、Oーリングテストは下田で初めて知ったんです。
 一日の終わりに作文を書くじゃないですか。なかなか作文が進まなくて、受講生が夜、何人か集まって、雑談をしたり、いろいろ情報交換をするんですよ。そのとき、こんな面白いものがあるよ、とある人が実際にやって見せてくれたのがOーリングテストでした。
 Oーリングテストは霊感がなくてもできます。特別な能力もいりません。これをマスターして歯の治療に使えればいいなと思って、自分でも勉強するようになりました。
中川:
真氣光研修講座では、講義とか実習ばかりではなく、休み時間の受講生同士の交流の中から、ある人の話にすごく共鳴したと言って人生観が変わる人もいます。
 氣が充満していますから、気づきのきっかけがあふれているんでしょうね。 山本先生も30年以上も前の下田での作文の時間が大きな転機になったわけですね(笑)。
山本:
その後、Oーリングテストを本格的に学ぼうと思って神戸の藤井佳朗先生(新神戸歯科医院名誉院長)と出会い、脳歯科という領域に足を踏み入れることになるわけです。Oーリングテストには何かぴぴっとくるものがありましたね。貴重な作文の時間でした(笑)。

横浜市の歯科医院 にて 構成/小原田泰久

山元 加津子(やまもと・かつこ )さん

映画監督。石川県金沢市生まれ。富山大学理学部卒業。小松市在住。長く特別支援学校の教諭に勤務し、並行して、養護学校の子供達の理解を広く社会に知らせる活動を行ってきた。モナ森出版を立ち上げる。著書『たんぽぽの仲間たち』『宇宙の約束―私は、あなただったかも』『リト』『銀河鉄道の夜 イーハトーブの賢治さんへ』など多数。映画作品『銀河の雫』『しあわせの森』。

『すべてはいいことのために。サムシング・グレートの思い』

地震で被災しても みなさんやさしくて強くて感動した

中川:
山元加津子さんというよりも「かっこちゃん」という愛称で呼ばれていることが多いようなので、かっこちゃんで進めさせていただきますね。
 調べてみたら、前回、かっこちゃんと対談したのは1999年でした。25年も前の話です。あのときは、石川県の小松市にあるかっこちゃんのご自宅にうかがってお話をお聞きしました。特別支援学校の先生をされていました。
 読み直してみると、小さいころは魔女になりたかったとか、やくざの方と仲良くなった話とか、方向音痴ですぐに迷子になってしまうとか、障がいのあるお子さんたちからたくさんのことを学んだとか、ユニークですてきなお話をたくさんしていただきました。
 その後、特別支援学校をお辞めになって、本を書いたり講演をしたりといった活動をなさっています。映画も作られています。多岐にわたる活動なので、何からお聞きすればいいか迷っているのですが、やっぱり地震のお話は聞きたいですね。元旦から大変だったですね。小松でもかなり揺れましたか。
かっこ:
がつんという音がしたと思ったらすごく揺れてびっくりしました。5年くらい前に、仲間たちが集まる場所として、小松の森の中にある築180年の古民家をリノベーションして「モナの森」という施設を作りました。私はそこにいました。
 近所の家は壁にひびが張ったりして大変でしたが、モナの森は、太い梁があったりして、造りがしっかりしていたのか、何ともなかったし、本棚の本も一冊も落ちませんでした。
中川:
地震と言えば、東日本大震災のとき、私は仙台でセミナーをやっていました。あのときの激しい揺れは忘れられません。
 新幹線も止まって東京へ帰れなくなったので、会場で一晩を過ごしましたが、まわりの人たちが、ご本人たちも大変なのに、おむすびや毛布を用意してくれたりして、本当に助けられました。
 災害はない方がいいし、被災者の方は大変だったと思いますが、ああいうことがあって人の温かみを感じることもありますね。
かっこ:
みなさん、やさしくて強くて、私は感動しました。
 ある財団の方から、能登の障がい者施設に寄附をしたいとのご連絡がありました。知り合いの施設に連絡をとったら、そこも被災しているのに、もっとひどいところがあるから、うちよりもそっちに寄附をしてあげてとおっしゃるんです。
 あるドラッグストアでは、商品が棚から落ちたりして店内が大変な状態だったのに、お店を閉めないで、お金はあとでいいということで、販売を続けました。お店がないと困るだろうという心づかいだと思います。
 お客さんも、みなさん、きちんと順番を守りますし、買い占めもしません。あんたのところは子どもがいっぱいいるからもっともっていっていいよとか、自分のことよりもほかの人を思いやっている姿はすてきでした。
 金沢弁で「ありがとう」は「気の毒な」って言うんですね。野菜をお持ちすると「気の毒なね」って言われるんですよ。
 それは、かわいそうという意味ではなくて、あなたがうれしいと私もうれしい、あなたが悲しいと私も悲しいという感じなんです。 とってもいい言葉だなと思っています。
中川:
人は一人では生きられないし、みんなで助け合わないと幸せにはなれません。相手の気持ちをわかろうとすることで、氣の交流が生まれて、お互いにエネルギーが高まっていくのではないでしょうか。 新しく作られた映画『しあわせの森』を拝見しました。人と人、人と自然とのつながりが大切だということがとてもよくわかりました。
 宇宙には幸せになるプログラムがあって、動物も植物もみんなが幸せになれるはずだという、すてきなテーマですね。その根底には、筑波大学の教授をされていた村上和雄先生のおっしゃるサムシング・グレートの働きがあるということで、村上先生もとても重要な登場人物でした。
 村上先生は、2021年4月にお亡くなりになりましたが、この対談にも2度出ていただきましたし、私どもの会社のホールで、スタッフや会員のみなさまに講演してくださったこともありました。 村上先生は、かっこちゃんなりのやり方、言葉でサムシング・グレートのことを伝えてほしいと言い残されたそうですね。
かっこ:
私が特別支援学校の教員として子どもたちと一緒にいるとき感じたことと、先生がおっしゃっていることと、共通点がたくさんあって、自然に親しくお話をさせていただくことになり、たくさんのことを教えていただきました。
中川:
村上先生は遺伝子工学の世界的な権威でした。人は遺伝子を読み解くことができたけれども、いったいだれが遺伝子を書いたのだろうという疑問をもち、そこでサムシング・グレート、人知の及ばない偉大な力というのを考えないと説明がつかないと言われていました。
 言われれば、確かにその通りです。遺伝子を読み解くことには一生懸命になっても、なかなかだれが書いたのだろうという疑問はもたないですよね。

2024年2月 26 日 東京・池袋 エスエーエス にて 構成/小原田泰久

山元加津子さんの著書『リト』
かっこちゃんの書籍、映画に関するお問い合わせ
モナ森出版
〒923-0816 石川県小松市大杉町ス1-1
TEL:080-3741-1341
Eメール:kakkoy@icloud.com

佐々木 厳(ささき・げん)さん

1984年埼玉県川口市生まれ。大学卒業後、花火の道を志し、山梨県内の煙火製造会社に6年勤務。その後、日本の伝統花火「和火」にひかれて独立。和火を専門に研究、和火の魅力や日本の精神文化を広める活動を行っている。山梨県富士川町の自然環境の豊かな場所で花火作りを行っている。魂を癒す花火。

『慰霊・鎮魂・祈りのエネルギーを乗せて』

夜空へ江戸時代の花火はワビサビを感じる和火ばかりだった

中川:
今日は、東京から甲府まで特急で来て、身延線に乗り換え、市川大門という駅で下りました。駅からは佐々木さんの車に乗せてもらって花火工場までうかがったわけですが、ずいぶんと山の中なので驚いています。 ひと通り工場を案内していただきましたが、花火の工場なので、コンクリートで丈夫に作られた建屋がいくつか並んでいて、小さな要塞みたいな感じです。この時期、寒いと思いますが、火気厳禁ですから、暖房も使えない。今日も冷えます。 毎日ここに来られているんですね。
佐々木:
そうです。毎日、ここで花火を作っています。寒いときはしっかりと着込んで働いています。それでも寒いですね(笑)。
中川:
前号で炭焼き職人の原伸介さんにお話をうかがったのですが、その中に和わ火び師しの方とコラボしたという話があって、和火師って何だろうと調べていて佐々木さんに行き着きました。和火というのはあまり聞いたことがないのですが。
佐々木:
原さんとは彼の講演会でお会いして、すっかり意気投合し、私の花火に原さんの炭を使わせていただくことになりました。 和火ですが、日本の伝統的な花火のことを言います。江戸時代までは和火ばかりでした。明治に入って、西洋から、今私たちが見ているような派手な花火が入ってきて、それが主流になりました。西洋の花火を洋火と言っています。
中川:
先ほど、作業場を拝見しましたが、和火の材料は3種類だけなのですね。
佐々木:
そうですね。塩えん硝しょう、硫い黄おう、木炭という3種類の自然原料です。
中川:
塩硝というのは?
佐々木:
硝しょう石せきのことで火薬の原料になります。塩硝と硫黄、木炭を混ぜることで黒色火薬になります。戦国時代には火縄銃を撃つのになくてはならない火薬でした。
中川:
火縄銃に使われていた技術だったんですね。
佐々木:
江戸時代になって戦争がなくなり平和になったので、火縄銃も必要なくなりました。それで、火薬の技術が花火に使われるようになったようです。 洋火は化学薬品が使われていますので、あんなにも華やかに開きます。 和火は暖かみのある赤褐色の灯りと、幽ゆう玄げんな美しさをもつ炭火の火の粉が特徴です。
中川:
今の花火がカラフルで派手なのは、化学物質が燃焼しているからですか。和火は、木炭の粉が燃えるから、オレンジ色の暖かな色になるわけだ。 私も夏には花火を見に行ったりします。きれいはきれいなのですが、上がったあと空に白煙が広がって見えにくくなります。あれは化学薬品のせいなんですね。 長く見ていると、飽きてきたり疲れてきたりします。和火は見たことないのですが、和火と洋火ではエネルギーが違うのかもしれません。
佐々木:
どこの花火会社でも和火は作っています。ただ、花火大会では洋火と洋火の間の休憩の意味合いで上げています。私は、和火だけで十分に楽しんでもらえる自信がありますけど。
中川:
3種類の自然の原料だけでも変化は出せるのですか。
佐々木:
塩硝と炭の配分によって燃焼のスピードが変えられます。炭の原料が松であるかクヌギであるか、ほかのものであるかによって色味が違ってきます。炭の粉の大きさで火の粉が残る時間が違います。細かい粉だとすぐに消えてしまいます。 そういったことを考えながら設計していきます。3種類の原料をいろいろ変化させながら作る花火なので、私は洋火よりも奥行きが表現できると思っています。
中川:
日本の伝統であるワビサビの世界ですね。渋さがあるんでしょうね。
佐々木:
おっしゃる通り、和火にはワビサビだったり幽玄だったり、日本の精神文化が入っています。原さんはそのあたりのことをよくご存じなので、彼の炭を使った和火は本当に気持ちいいですよ。作り手の思いが乗るのだと思います。
中川:
作り手の思いは大切ですね。料理でも、相手のことを思って作るのと、面倒くさいなと思って作るのとでは、エネルギーが全然違います。 ところで、花火はいつごろからあるものなのでしょう。
佐々木:
原型は中国の狼の ろし煙で、狼煙が発展して花火になったと言われています。 狼煙というのは字を見てわかるように、もともとは狼の糞ふんを使っていたそうです。狼の糞を燃やすと、風に流されることなく、まっすぐに上がるのだそうです。それに時間の経過によって色が変わるらしく、何種類かの色の煙を上げることができたとも聞いています。

2024年1月 17日 山梨県南巨摩郡富士川町 にて 構成/小原田泰久

原 伸介(はら・しんすけ)さん

1972年横浜市生まれ、横須賀育ち。14歳のときに遊び場だった里山がつぶされ、「将来は山に恩返しをする」と決心。信州大学農学部森林科学科を卒業。1995年に大正生まれの炭焼き職人に出会い、伝統的炭焼き技術を学ぶ。炭焼き歴29年目の現在も、伐採から搬出、炭焼きまでの全てを一貫して行う傍ら、日本の伝統技術や文化・ 人生の素晴らしさを伝える活動に命を燃やしている。主な著書「山の神さまに喚ばれて」《修行編》《独立編》(フーガブックス)「生き方は山が教えてくれました」(かんき出版)など。

『努力は好きに勝てない。好きを武器に炭焼きを極める』

遊び場の山が崩され、山に恩返しをすると決心

中川:
炭焼き職人さんということで、どんな方だろうと、こちらも勝手にイメージをしていましたが、着物姿とは驚きました(笑)。普段から着物を着られているのですか。
原:
着物は普段着です。炭焼きは作業服に地下足袋ですが。
中川:
山の男というイメージをもっていましたから、着物とは想像もしませんでした(笑)。
原:
父が落語好きで、幼いころから子守歌代わりに落語を聞かされていました。 覚えたのを話すと受けるのでうれしくなって落語が好きになりました。初めて高座に上がったのが3歳のとき。惜しまれて5歳で引退しました(笑)。 落語に親しむことで、話芸だけでなく江戸の価値観が自分の中に入ったような気がします。昭和47年生まれですが、自分だけ元禄生まれみたいな感じで(笑)、まわりとのギャップは大きかったですね。 先生の言っていることもよくわからないし、「勉強していい学校へ行けばいい人生が送れる」みたいなことを言われると、「先生、それはちょいと野暮ってもんじゃねぇですか」なんて思ったりしていました(笑)。 落語には職人が出てきますが、その気風のよさに憧れたりしてましたね。炭焼き職人になったのも、父の落語好きが遠因の一つかもしれません。 とにかく、日本文化が大好きで、着物はぼくにとってはなくてはならないものです。まわりの人にも日本の伝統に少しでも関心をもってもらいたくていつも着物姿でウロウロしています(笑)。
中川:
職人さんというと無口で笑わないようなイメージですが、原 さんはあちこちで講演をされたり、話す機会が多いみたいですね。まだ少ししかお話ししていませんが、とてもお話しのテンポが良くて、こちらも楽しくなってきます。わずか3歳で高座に上がった成果が出ていますね(笑)。
原:
おかげさまでけっこう受けていますね(笑)。
中川:
落語以外にも炭焼きに興味をもった理由はあると思いますが。
原:
出身が神奈川県横須賀市なのですが、小さいころはぎりぎり自然が残っていて、野山を駆け回って遊んでいました。 ところが、ぼくたちはベビーブームの生まれだったので、小学校も中学校も教室が足りないのです。それで、ぼくの大好きだった野山が潰されて、中学校が建てられることになりました。ぼくにとって、人生最大のショック。ものすごい喪失感がありました。 中学3年生の4月から自分の遊び場だった山を崩してできた学校に通い始めることになりましたが、楽しかった野山の変わり果てた姿を見るのがつらくて、いつか山に恩返しをしようと決めたのです。 それが炭焼きをやることになった原 点だと思います。
中川:
それで信州大学に行って、森林科学を勉強することにしたんですね。
原:
その前に高校なんですが、入学して間もなく進路調査用紙が配られて、希望大学・希望職業を書くように言われたことがありました。高校へ入っても山に恩返しをしたいという気持ちがずっとあったので、山の職業を書きたいわけです。でも、横須賀には林業をやるような立派な山もないし、山の職業が思いつかないんですね。山の仕事をしている人なんて見たこともなかったですから。 「山にいる人ってだれだろう」と考えたときに頭に浮かんだのが「仙人」でした。それで、希望職業欄に「仙人」と書きました(笑)。 すぐに先生から呼び出しを受けました「ふざけるな」「ふざけてません」とどちらも引きません。結局、「希望職業・仙人」を3年まで変えませんでした。
中川:
希望職種が「仙人」ですか。先生も面食らったでしょう。
原:
仙人になるにはどこへ行けばいいかと考えたとき、さすがに神奈川には仙人はいないだろう、と。もっと山深いところ、自分の中で一番山のイメージが強かったのが長野県でした。いろいろ調べたら、信州大学農学部に「森林科学科」があることがわかりました。信州→森林→仙人という連想が働いて、ものすごくときめきました。 それで信州大学農学部森林科学科に進路を決めました。
中川:
なるほど。現実的な進路が見つかったわけですね。
原:
でも、入ったはいいけれども、同級生に仙人を目指している者もいないし(笑)、そばに山があるのに実習がないんですよ。板書をノートにとるだけの授業です。こんなことをやりに来たのではない、とすぐに学校へ行かなくなりました。
中川:
期待した内容とはまるで違ったんですね。卒業は?
原:
卒業はしました。親との約束でしたから。 ほかの学科で単位をとってもいいことがわかって、いかに学校へ行かなくても単位が取れるか頭を働かせました。レポートだけで単位がとれるものがけっこうあったので、その授業ばかりを選んで、3年が終了したころには卒業の単位はとれていました。ほとんど大学へ行かずに卒業できました(笑)。

長野県松本市の伊太利亜炭 火焼きレストラン「ドマノマ」にて 構成/小原田泰久

山の神様に喚ばれて

竹本 良(たけもと・りょう)さん

1957年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。UFO研究家。科学問題研究家。聖パウロ国際大学サイキックパワー開発研究科主任教授。年末恒例の『ビートたけしの超常現象Xファイル』(テレビ朝日系)ではコメンテーターを務める。著書に『宇宙人革命』(青林堂)、『テロとUFOー世界貿易センタービル「あの瞬間」に現れた謎のUFO』(徳間書店)などがある。

『U F O 、宇宙人を知ることで見えない世界の謎が解ける』

子どものころから数々の神秘体験。UFOは大学から

中川:
最近、ネットニュースでUFOや宇宙人に関する記事がよく流れてきます。NASAが本格的にUFOや宇宙人の研究をしているという話だったり、宇宙人からのメッセージが届く可能性があるとアメリカの大学が発表したとか、メキシコでは宇宙人の遺体が公開されたり。今まではオカルトだとまともには議論されなかったことですが、何か様子が変わってきた気がします。だれか専門家にお話を聞きたいと思っていたところ、そう言えば竹本さんがいるとひらめきました。竹本さんは、阿久津淳さんというペンネームで、ハイゲンキマガジンの創刊当初に連載をしてくださっていました。 今では、テレビのU F O番組にもよく出られていてUFOのことをお聞きするには最適な方だと思い、対談を依頼した次第です。
竹本:
ありがとうございます。ハイゲンキには、初代の編集長の木上さんとのご縁で原稿を書かせてもらっていました。30年近く前になりますかね。先代の会長が亡くなって、真氣光が新しい会長のもとでどう変わっていくのか、とても気になっていましたが、いい形で発展されていて、今回、会長にお会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
竹本さんが連載していたころ、私はまだ父の会社には入っていなくて、真氣光を懐疑的に見ていました(笑)。それでもハイゲンキマガジンは家にあったので毎号目を通していて、竹本さんの記事はとても興味をもって読ませていただきました。あのころは異能の科学者ということで、目に見えない世界を研究していた人たちを紹介してくださっていました。私もエンジニアでしたから、氣のような怪しげな世界に科学的にアプローチしている人たちがいたということに関心をもちました。 
竹本さんは、もともと目に見えない世界のことはお好きだったのですか。
竹本:
いろいろな神秘的な体験をしたのがきっかけだったですかね。 最初は小学生のときでした。江の島に遠足に行ったときのことです。小田急線の特急に乗っていて外を見たら、この場所知っていると思いました。初めて来たところなのにです。いわゆるデジャヴュですね。 変な夢もたくさん見ました。どうしてそんなことがあるのかと神秘の世界、無意識の世界に興味が出てきました。 中学校のときにはラップ音の現象があったり、子どものころからけっこう不思議な現象に囲まれていましたね。でも、学校ではそんなことは教えてくれません。余計に興味が膨らみましたね。 高校でグリークラブ(男性合唱団)に入りました。練習でハモったときに細胞がわななくという体験をしました。
中川:
細胞がわななくんですか。
竹本:
体がぼわーっとなるんですね。とても気持ちがいい。さらに、ミサ曲を歌っていたとき、先生が途中で止めました。その瞬間、頭のてっぺんから何かが突き抜けていくような感覚がありました。ハモったときには何倍もの快感でした。 これは何だろうと知りたくなりました。当時はヒッピーの町だった下北沢の古書店へ行ったら、神秘の世界の本がたくさん置いてあって、チャクラとかクンダリーニといったことも知るわけです。「これかもしれない」と思い、ずいぶんとその手の本を読んで勉強するようになりました。
中川:
U F Oのこともそのころからですか。
竹本:
U F Oは大学に入ってからですね。あるとき、友だちから「変な人が大学の構内を歩いている」という話を聞かされました。その人は卒業しているのによく大学へやって来るのだそうです。着流しに下駄という格好で歩いていて、学生たちに「U F O あるって知っている?」「宇宙人いるって知っている?」と話しかけているって言うんですね。気持ち悪いでしょう(笑)。でも、私は彼にとても興味をもって、友だちに会わせてほしいと頼みました。その先輩というのが、後に日本UFO党という政党を立ち上げた森脇十と九く男おさんでした。 森脇さんの部屋へ行ったときはびっくりしました。3畳間にUFOに関する本がびっしりとありました。全部、英語の本です。国連の資料なんかもありました。 私はUFOのことがアメリカではこんなにも研究されているのに、日本ではまったく翻訳もされていないことを知り、その情報はもっと世に知らせないといけないと思いました。
中川:
そこからUFOの研究が始まったわけですね。
竹本:
そのころ森脇さんは大手の会社を辞めてUFO研究に人生を捧げていました。そんな先輩がいるのに、のほほんとしていていいのかと勉強をし始めました。 森脇さんと一緒に、テレビ局や新聞社などいろいろなメディアに資料をもっていきました。けっこう真剣に聞いてくれたところもあって、NHKのニュースでは5分くらい流してくれたこともありました。動いていれば少しは成果が出るものです。

東京。目黒区の会議室で 構成/小原田泰久

舘岡 康雄(たておか・やすを)さん

東京都生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業。日産自動車中央研究所材料研究所に入社し、研究開発部門、生産技術部門などをへて、人事部門で日産ウェイの確立と伝承を推進。その後、静岡大学大学院教授を務める。現在、一般社団法人SHIENアカデミー代表理事。1996年からSHIENに関するワークショップや講演活動を国内外で行っている。主な著書『利他性の経済学:支援が必要となる時代へ』(新曜社)『世界を変えるSHIEN学』(フィルムアート社)。博士(学術)。

『競争の時代は終わった。力を引き出し合うS H I E N の時代へ』

SHIEN学は人間の内側を解放する科学。意識の科学、間の科学

中川:
舘岡先生のお書きになった『世界を変えるSHIEN学』(フィルムアート社)を読ませていただきました。私ども真氣光で言っていることと共通する部分がたくさんあって、ぜひお会いしてお話をうかがいたいと思いました。今日はよろしくお願いします。
舘岡:
ありがとうございます。ずいぶんと前に対談のオファーをいただいていたのにお返事ができずに失礼しました。真氣光のこと、私なりに調べさせていただきました。SHIEN学と似たところがたくさんあって、私も中川会長にお会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
先生は大手自動車会社のN社に入社されて、研究開発、生産技術、購買、品質保証、人事といった部門で働いてこられました。N社が経営的に危機を迎え、回復していくという激動の中で、これからの時代は競争ではなく、お互いの力を引き出し合うことが大切だということにお気づきになり、それをSHIEN学ということで学問、科学として提唱されています。 私たちは今、大きなパラダイムシフトの中で、生きているわけですね。
舘岡:
これまでの社会は、お金や物といった目に見えるものが大事にされてきました。これからの時代は、見えないもの、お金に代わるものが大切になると、2006年に『利他性の経済学:支援が必然となる時代へ』(新曜社)という本に書きました。 今、あの本に書いたことに時代が追いついてきています。 これまでの学問は外側ばかりを対象にしてきました。私が提唱しているSHIEN学は人間の内側を見る科学です。意識の科学とか間の科学という言い方もしています。
中川:
間の科学ですか。
舘岡:
現代社会のベースとなってきた西洋科学は一個が最小単位で、一つの会社と別の会社が競争しているとか、一つの国と別の国が争っているというモデルです。 SHIEN学では「間」にこそ実体があると考えます。最小単位は一個一個ではなく「対」なんですね。お互いにしてあげたりしてもらったりするのが自然の姿です。会社でも、社長がいて管理職がいて従業員がいますが、それぞれが個として別々にあるのではなくて、その間に関係性、間があって、してもらったりしてあげたりしているわけです。 私は莫大な借金を抱えて倒産しそうになっているN社がダイナミックな改革によって奇跡的に復活するのを目の当たりにしました。その根底には、大きなパラダイムシフトがありました。その経験がSHIEN学のもとになっています。
中川:
「支援学」ではなく「S H IEN学」と表現しているのはどうしてでしょうか。
舘岡:
「支援」は「難民支援」や「被災地支援」のように、上位者が下位者に、力のあるものがないものに施すという概念です。「SHIEN」は、自分を犠牲にし、人を助ける一方的な「利他」とは異なり「寄り添い」を軸に重なり、互いに行動を起こすことを指します。 重なりのなかったところに重なりをつくり、「させる/させられる」ではなく「してもらう/してあげる」を、双方向に交換する行為のことで、新たな時代に必要される在り方だと考えていただければと思います。それがSHIENということです。
中川:
一方的に片方だけが助けるということはありませんからね。被災地で困っている人を助けるという形であっても、助ける人もいろいろ学んでいることがあったり、感謝されたり、さまざまな感動や喜びをもらったりするものです。支援は一方通行のようなイメージがありますが、SHIENは双方向ということですね。
舘岡:
おっしゃる通りです。私は、N社の復活劇の最中、大学院へ通って、ある研究をまとめていました。社会は「リザルトパラダイム」から「プロセスパラダイム」、「コーズパラダイム」へとシフトしていくというものです。それがSHIEN学の基礎になっています。パラダイムというのは、その時代に共通するものの見方や考え方のことです。 これまではN社を含めた企業社会というのは、常に競争でした。トップダウン方式の働き方で「やらせる/やらせられる」の一方向の考え方です。私は、それを「リザルトパラダイム」、略して「リザパラ」と名付けました。同期はライバルで、他部門も敵だと感じるような関係です。しかし、それでは会社はN社のように行き詰まってしまいます。 本当にいい関係というのは、お互いがお互いの力を必要とし、お互いを活かし合う働き方ができることです。仲間が自分を認め、自分も仲間の力を引き出す。会社が自分を大切にし、自分も納得して心から納得して会社に貢献できるような状態です。N社もそういうパラダイムシフトがあって奇跡的な回復を遂げました。

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

奥山 暁子(おくやま・あきこ)さん

幼少のころより、草木や虫たち、動物たちとお話しすることができた。その後、自らの不思議な力のことは忘れて、ごく普通に生き、マスコミの仕事をしていた。40歳ころの大病をきっかけに本来の能力がよみがえり、縄文土器さんたちともお話しできるようになり、縄文土器さんたちから聞いた古代の暮らしと心について伝えている。

『縄文土器に込められた縄文の神々の思いを現代に伝える』

がんになったのがきっかけで縄文土器に興味をもった

中川:
今回の対談のお相手の奥山暁子さんは、真氣光の会員さん、小松八惠子さんのご紹介です。縄文土器とお話ができる方ということですが、最初に、小松さんはどういう経緯で奥山さんとお知り合いになったのか、お聞かせくださいますか。

小松: 
今日は諏訪郡の原村までお越しいただき感謝しております。どうしても会長には奥山さんに会っていただきたかったので、対談が実現してとてもうれしいです。 私は一昨年の2月に腕を骨折して、退院後、ここ「もみの湯」は、自宅から車で3分の所にありましたので、骨折のリハビリを兼ねて通っておりました。その後、昨年の7月からこの施設をお借りして、真氣光サロンもみの湯という、気功整体の仕事をしております。 私が奥山さんのことを知ったのは、昨年「もみの湯」の玄関の所に、原村で奥山さんの「縄文人の健康法」の講演会があるというチラシが置いてあってとても興味があったのですが、その日は都合がつかず、それでも気になって仕方なくて、直接奥山さんに電話をしました。 奥山さんのことを真氣光の仲間にもお話ししたところ、ぜひお会いしたいということでした。奥山さんはその頃、伊東市に住んでいらっしゃいましたが、原村までお越しいただいて少ない人数でしたが、お話を伺うことができました。2回目は、富士見町にある井戸尻考古館を案内していただき、縄文土器さんのお話をお聞きしました。 そのときにすっかり意気投合して、会長に会っていただきたいと思った次第です。 奥山さんも、真氣光のことを以前からご存じで、会長ともお話ししたいとおっしゃってくださいました。
奥山:
八惠子さんのおかげで中川会長にお会いできて光栄です。今日はよろしくお願いします。 私は、もともとは週刊誌の記者をしておりました。ところが、がんが見つかって手術を受け、そのあと、先代の会長から真氣光を学んだ静岡の高橋呑どん舟しゅう先生のお世話になりました。 関英男先生のご著書も拝見し、真氣光が宇宙エネルギーを使ったものだと知ってとても興味をもちました。
中川:
病気がきっかけで大きな変化があったわけですね。
奥山:
そうですね。記者をしているときは、仕事で成功したり、お金をたくさん稼げることが幸せだと思っていました。物質にしか目を向けない唯物論者でした。 しかし、思い返してみると、子どものころはいろいろなものが見えていて、森や木、川、風などの精霊さんと話をしていました。小学校に入って、私には当たり前に見ているものが、ほかの人には見えていないことを知り、自分はおかしいのかなと思うようになって、次第にそうした能力にふたをするようになりました。 がんになって死んじゃうかもと思ったとき、もともとの能力がよみがえったのかもしれません。
中川:
動物や植物とお話をするという話はよく聞きますが、縄文土器と話すというのは初耳です。縄文土器とはどういうきっかけだったのですか。
奥山:
ゆっくり順を追ってお話ししますね(笑)。ずっとサラリーマンをやっていて、たくさんのストレスを抱えて病気になったとき、自分の体の声を聞いてみようと思いました。何をしたいのだろう? と自分に問いかけると、土を触りたいとか、田んぼでバッタをとりたいという意外に素朴な気持ちが湧き上がってきました。 そんなときに、高橋先生の治療院で長野のこのあたりの人と知り合って、長芋掘りにおいでよと誘われました。 すぐに出かけました。これが大きなきっかけになりました。 長芋を掘って、お昼にしましょうというので近くのおそば屋さんに出かけました。 2人で行ったのですが、とても混んでいて4人掛けの席で相席になりました。向かいに座った60代の男性はカメラマンでした。それも、縄文土器を撮影している方だったのです。
中川:
ここで縄文土器との接点ができるのですね。
奥山:
最初は、縄文土器なんて撮ってどうするのだろう、と思っていました。 でも、話を聞くうち、じわじわと興味が湧いてきました。 そのカメラマンは、滋しげ澤ざわ雅人先生というお名前ですが、もともと能面の撮影をされていて、そのときに照明の大切さに気づかれたそうです。 能面はもともとは野外で使われるものだから、電気の光のもとではそのものの本来の姿が見えてこないとおっしゃるんですね。それで、かがり火やたき火を意識して能面に照明を当てると、私たちが電気のもとで見るのとはまったく違う表情が浮かんでくると言うのです。 縄文土器も、能面と同じで博物館の人工的な照明では本当の姿が浮かび上がってこないと気づかれました。縄文時代に製作された土器は自然の光のもとで作られたものですから。それで、できるだけ自然の光、つまりかがり火やたき火、月の光を再現できるような照明を工夫して縄文土器を撮影しようと思ったそうです。 自然の光のもとで縄文土器を撮影すれば、縄文人が森や川や空間の中に見ていた八百万の神々の姿が浮かぶだろうというひらめきというか確信が生まれたとおっしゃっていました。実際に、滋澤先生の写真には縄文人が見ていたであろう神々の姿が写っています。

長野県諏訪郡原村のふれあいセンターもみの湯にて 構成/小原田泰久

湯川 れい子(ゆかわ・れいこ)さん

音楽評論家、作詞家。東京都目黒で生まれ山形県米沢で育つ。1960年ジャズ専門誌『スイングジャーナル』への投稿が認められてジャズ評論家としてデビュー。ラジオのDJやテレビへの出演、雑誌への連載など、国内外の音楽シーンを紹介している。作詞家としても『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル・ジャーニー』『恋に落ちて』などヒット曲多数。主な著書に『音楽は愛』(中高公論新社)『時代のカナリア』(集英社)などがある。

『戦争はダメ!  すべての生き物に 優しい地球であってほしい』

時代のカナリアとしてダメなものは ダメだとはっきり言いたい

中川:
本誌のバックナンバーを調べましたら、湯川先生にはちょうど20年前に対談にご登場いただいています。その前をたどると父である先代と2回、対談してくださっています。先代も、まだまだ氣について理解されなかった時代に、湯川先生と目に見えない世界について思う存分お話ができてうれしかったと思います。
湯川:
先代に2度目にお会いしたのは1990年代の前半だったかと思いますが、ちょうど第一次スピリチュアルブームのときでした。
中川:
1992年ですね。父の主宰していた真氣光研修講座に、私が参加した年です。私は父のやっていることを怪しいと思っていたのですが、仕事のストレスで体調を崩して研修講座を受講することになりました。ずっと技術者として働いてきた私には、見るもの聞くものとても新鮮で、これからの時代に氣はとても重要な役割を果たすと感じ、翌年に父の会社に入社して、以来30年、氣にかかわっています。 ちょうど、私が入社したころは、氣功もブームになっていて、父の活動をNHKが取材に来たりしていました。 1995年12月に父が亡くなり、私が跡を継ぐ形になりました。

湯川:
先代の中川先生とは、成田空港でばったりお会いしたことがありました。確か1995年だと思います。チェルノブイリの原発事故で被ばくした子どもたちを治療してお帰りになったのではなかったでしょうか。 荷物を受け取る台のところでしたが、ひどく疲れておいでのご様子でした。それがお会いした最後でした。
中川:
休みなく世界中を飛び回っていましたからね。 ところで、湯川先生は日本のスピリチュアルの走りですよね。
湯川:
はい。限りなく怪しいところを歩いてきました(笑)。用心してあまりスピリチュアルなことを言わないようにしながら。 風向きが変わったのは1980年代でしたでしょうか。アメリカの女優のシャーリー・マクレーンさんが「アウト・オン・ア・リム」という本で自分の神秘体験を書いて、日本でも大ヒットしました。 それ以来、現実世界できちんと何かをやっていれば、目に見えない世界のことを話してもあまり胡散臭く見られなくなりました。 音楽も目に見えないですよね。当時は音楽で体や心が癒されると言うと変に見られることも多かったのですが、私は1972年から音楽療法に興味をもっていましたから、音楽療法として語れるように勉強しました。
中川:
去年『時代のカナリア』という本を出されました。どういう意味なのだろうと思って読み始めましたが、カナリアは炭鉱で有毒ガスなどを検知するために使われたことから、世の中が変な方向に行きそうになるのをキャッチして知らせる存在として生きていきたいという意味だとわかりました。
湯川:
残念なことに3月にお亡くなりになりましたが、坂本龍一さんが『芸術家、音楽家と言われる人たちは、炭鉱のカナリアです』とおっしゃっていました。 芸術家、音楽家、アーティストと呼ばれる感性が鋭い人たちは、世の中の状況に対して「時代のカナリア」の役目を負っていると思うんですね。 マイケル・ジャクソンは2009年に公開された『マイケル・ジャクソン THIS ISIT』というドキュメンタリー映画の中で、地球が後戻りするには、あと4年しかない、と警告していました。地球の危機を切実に感じ取っていたからです。でも、メディアは彼の少年愛疑惑などをかき立てるだけ。世界はそんなことにしか興味をもたなくって、あのころからあんなに一生懸命に言っていたのに、と悲しくてたまりませんでした。
中川:
「鈍感なカナリア」にはなりたくない、と書かれていますよね。
湯川:
はい。時代の変化、とりわけ時代状況の悪化に対しては、決して黙認するようなカナリアではありたくないと思っています。 私が「これだけはダメ」と考えていることはいくつかありますが、その第一が戦争です。この本を書いたときには、ウクライナの戦争は起こっていませんでしたが、一体人間はいつから戦争をしているのだろうと思って調べてみたら、1万3000年前から、集団で武器を使って同じ人間が産んだ人間と殺し合っているんですね。あらゆる動物がそんなことをしていない。恥ずべきことだと思います。 核兵器もダメ。地球環境汚染もダメ。原発もダメです。時代のカナリアとしてダメなものはダメだとはっきり言って、責任ある行動をしていきたいと思っています。<後略>

東京都目黒区の会議室にて 構成/小原田泰久

湯川れい子さんの著書

『時代のカナリア』(集英社)

吉田 明生(よしだ・あきお)さん

一般社団法人災害防止研究所代表理事。1977 年防衛大学卒業。元陸上 自衛隊第11旅団長、元ゆうちょ銀行社長特命担当顧問。2020年3月に退 職 。 一 般 社 団 法 人 災 害 防 止 研 究 所 を 設 立 。 著 書「 ま ぁ る い 日 本 ~ リ ー ダ ー シップの時代【人を動かす】』『まぁるい日本究極の戦い究極守り』『しなやかで まぁるい心のつくり方』など。法人災害防止研究所

『災害によって培われてきた日本人のメンタリティを大切にする』

防災グッズは日常的に防災を考えるためのツールになる

中川:
東日本大震災から 年がたちますが、相変わらず地震は多いし、この間はトルコ・シリア大地震がありました。豪雨の被害も毎年出ています。多くの人が災害に対してとても敏感になっています。 吉田さんが代表理事をやられている災害防止研究所の災害へのアプローチの仕方はとてもユニークだと思います。たとえば、防災グッズ展というのを開催されて、防災グッズ大賞を選ぶなど、防災を身近に感じられるように工夫されているような気がします。
吉田:
ありがとうございます。防災グッズ展は防災意識を普及するにはどうしたらいいか、みんなで考えて出てきたアイデアです。 防災の重要性はだれもがわかっていると思います。しかし、教訓ばかりでは聞く方もあきてしまうのではないでしょうか。多くの人が興味をもってくれて、楽しみもあって、長く続くものはないかということで防災グッズに目をつけました。
中川:
災害はないに越したことはありませんが、起こることを前提に準備した方がいいと思います。どんな防災グッズがあるかを調べて、これは使えると思うものをそろえておくといいですね。
吉田:
防災グッズは日常では体験することのない酷な環境で使うもので、これまでの災害を踏まえた上での創意工夫がなされています。そういう意味で、災害の教訓が集約されているのが防災グッズだと思うんですね。
防災グッズを手に取ったときには、どうやって使うのかイメージするわけです。あるいは、どういう状況なのか想像すると思うのです。防災防災と言わなくても、地震があるとこんなことに注意しないといけないと、意識が防災に向くと思います。 
日常的に防災意識を普及するためのツールとして防災グッズという切り口は面白いのでは? というのが、防災グッズ展、防災グッズ大賞を始めた理由です。
中川:
今年も4月1日からエントリーが始まっているようですね。企業や個人からたくさん集まってくるそうですが、吉田さんたちも探したりするのですか。
吉田:
最初の年は、モノマガジン社さんが協力してくれました。防災グッズを取り扱った日本で最初の雑誌ですね。モノマガジンにさまざまな防災グッズが掲載されているので、10数年のバックナンバーからリストを作って、それをベースにして選びました。今は、ネットに出ていますので、応募してくださる企業や個人の方々の商品にプラスして、面白い防災グッズがないか探しています。防災グッズはまだマーケットが小さくて、大きな会社で開発していても、一セクションでやっている程度です。特徴のあるのは小さなメーカーが作っているものが多いですが、営業力が無かったりして、すぐれた防災グッズが世間に知られないまま埋もれていたりします。災害があったときには防災グッズは欠かせません。それがあったことで命が助かる方もいるでしょう。防災グッズ展や防災グッズ大賞を通して、防災グッズがもっと注目されればと願っています。
中川:
吉田さんはもともと陸上自衛隊に勤務されていたそうですね。どうして災害防止研究所を立ち上げようと思われたのですか。
吉田:
東日本大震災があったときに、友だちが「自衛隊が終わったら防災の仕事をしたらどうだ」と言ってくれました。 防災の大切さはわかっていましたが、そのときには自分で取り組もうとは思いませんでした。その後、ゆうちょ銀行に勤め、6~7年たったころにふと浮かんだのが、先ほどの友だちの言葉で、防災のことをあれこれ考え始めました。 防災のことはたくさんの人がやっているので、私の出る幕などないように思っていましたが、災害というのは自然災害ばかりではなく、戦争やテロといった人為的なものも入りますし、事件や事故も災害ですし、最近は地球温暖化が大きな問題になっています。 そう考えると、これからはもっと災害が増える時代がやってくるのではないかと思いました。防災というのを幅広くとらえて、さらにメンタルな面まで踏み込んで災害を防止するということなら、長く自衛隊で働いていた自分にも経験を活かせるかもしれないと思って、この団体を立ち上げました。
中川:
吉田さんのご著書を読ませていただきましたが、メンタルな面に力を入れている印象がありました。 メンタルは大事だと思います。いきなり災害に見舞われれば、だれもがパニックになってしまいます。そのために被害が大きくなったりします。日ごろから冷静に頭の中で考える訓練をしておくことも大切ですね。
吉田:
自衛隊というのは危機管理が主な仕事です。最悪の事態を想定して、危機にどう対処するのかを常に考えてきました。そうした経験や知識が少しは役に立つのではないかと思いました。<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

しなやかで まぁるい心 の作り方: ~災害に備えて、レジリエンスを養う/メンタルヘルスケア

菅谷 晃子(すがや・あきこ)さん

千葉県生まれ。引き売り士、講演家、シンガー。小学校5年生からのいじめによりコンプレックスの塊となり、高校を中退する。仕事も続かず、23歳のときから豆腐の引き売りを行う。お客様との支え合いによって生きる楽しさを知る。いじめをなくし高齢者を支える活動はTVでも紹介されている。看取り士の資格も取得。著書『ありがとうは幸せの贈り物 あこのありが豆腐』(三冬社)

『トーフ― ♫  ラッパを吹いて笑顔と幸せを届ける』

「かわいそうだから」から「ありがとう」「助かるよ」へ

中川:
『あこのありが豆腐』(三冬社)という本を読ませてもらいました。わかりやすい文章と漫画でとても読みやすかったです。リヤカーを引いて豆腐を売っている女性と聞いて、どういう経緯でそんな仕事を始めたのだろうと興味をもって読んだのですが、子どものころからいじめられたりして、つらい思いをして、23歳でこの仕事に出あったそうですね。19年もやり続けている中で、さまざまなドラマがあったようで、今日は、そんなお話がお聞きできればと思っています。
あこ:
声をかけていただきありがとうございます。
中川:
名刺を拝見すると、引き売り士、講演家、シンガーとありますが、いろいろなことをやっておられるんですね。
あこ:
週に5日はリヤカーを引いて豆腐やお惣菜、お菓子などを販売しています。休みの水曜日と日曜日には、講演やライブ活動をしています。

中川:
今に至るまでに悲喜こもごもの物語があったようですが、大きな転機になったのは、フリーペーパーの求人広告だそうですね。
あこ:
小学校5年生のときからいじめにあい、人と話をすることがどんどん苦手になりました。中学生のときには、父親と血がつながっていないこともわかり、「私のことずっとだましていたんだ」と両親に嫌悪感をもち、家を飛び出したこともあります。高校も中退しました。 つらい学校生活から逃れて、やっと自分のやりたいことができると思って働き始めたのですが、もともとのんびりした性格なので、急かされたりすると失敗してしまいます。いくつか仕事を変わりましたが、どれもうまくいきません。何をやってもダメだということでコンプレックスの塊でした。 23歳のとき、何気なくフリーペーパーを見ていたら、そこに「腕よりも、心で販売できる人募集」という求人が目に飛び込んできました。「リヤカーを引いて街へ出て、ぬくもりのある仕事をしてみませんか?」という触れ込みにピンとくるものがあって、「私、腕なんて何もないけれど、心ならきっとある!」と思って、この仕事に飛び込んでみることにしました。
中川:
昔ながらの、ラッパを吹きながらリヤカーを引いて豆腐を売る仕事でしょ。人と話すのが苦手なのによく思い切りましたね。
あこ:
人と話すのは苦手だけどけっこう目立ちたがり屋なんです(笑)。 実際やってみると、見ず知らずの人に声をかけるのは怖かったし、戸惑いました。それでも、珍しさや懐かしさから、商店街のおじさんやおばさんが「がんばっているね」とほめてくれたり、みなさんニコニコしながらお豆腐やお惣菜を買ってくれてうれしかったです。 このころは、どうやったら売れるだろうと一生懸命に考えていて、まだ20代でしたから、かわいい仕草をするとおじさんたちが買ってくれたりしました(笑)。 でも、「かわいそうだから買ってあげるよ」とよく言われることがあって、それには反発を感じましたね。
中川:
一生懸命にがんばっているのだから、「かわいそう」と言われるとむっときますよね。
あこ:
そんなときに川澄さんというおじいさんに会いました。毎週火曜日にコインランドリーの前で待っていてくれて、商品を買ってくれて、帰り際には「あきちゃんありがとう。がんばれよ」と見送ってくれました。寒い冬にはカイロを束でくれたり、暑い夏には一緒にアイスを食べたりしました。 川澄さんのおかげで、毎週、いろいろなお客さんに会えるのが楽しみになって、お客さんのことが大好きになりました。そんな大好きなお客さんを喜ばせるにはどうしたらいいだろうと考えるようになりました。どれだけ売れるかから、どれだけ喜んでもらえるだろうに、考え方が変わりました。 そしたら、「かわいそうだから」と言う人はいなくなって、「ありがとう」とか「助かるよ」という感謝の言葉をいただけるようになって、私も心の底から笑顔が出せるようになりました。
中川:
打算的な付き合いから、心と心のかかわりができるようになったんでしょうね。自分が変わるとまわりが変わるとよく言いますからね。 お客さんはうれしいから「ありがとう」と言うし、あこさんも「ありがとう」と言われてうれしい。相互に「ありがとう」のやり取りがある。いい氣が行ったり来たりしていますね。いい関係ですよ。
あこ:
一週間だれともしゃべらないお年寄りも多くて、短い時間だけど、私と話すのを待ってくれている方もいます。喜んでもらえることがこんなにもうれしいなんて考えたこともなかったです。<後略>

足立区綾瀬 ふれあい貸し会議室 : 綾瀬Aにて 構成/小原田泰久

著書『ありがとうは幸せの贈り物 あこのありが豆腐』(三冬社)

和合 治久(わごう・はるひさ)さん

1950年生まれ。東京農工大学大学院修士課程修了後、京都大学にて理学博士号取得。埼玉医科大学教授を経て、現在、埼玉医科大学短期大学名誉教授、松本大学客員教授。免疫音楽医療学、腫瘍免疫学、アレルギー学、動物生体防御学などが専門。著書『免疫力を高めるアマデウスの魔法の音』(アチーブメント出版)『モーツァルトを聴けば免疫力が高まる』(ベストセラーズ)など多数。

『昆虫少年が免疫を研究し、音楽療法の草分けとなる』

未病の段階でブレーキをかけられないかと音楽に着目

中川:
和合先生のことは、内観の石井光あきら先生と中野節子先生からご紹介いただきました。ぜひお話をうかがいたいと、松本の先生のご自宅までお邪魔した次第です。石井先生は、長年私どもの真氣光研修講座の講師をやっていただいています。中野先生には本誌の昨年12月号の対談に出ていただきました。先生方とのお付き合いは長いのですか。 
和合:
いえいえ、まだ2年くらいじゃないでしょうか。私の本を読んでくださったかで、石井先生から連絡がありました。安曇野の内観研修所で初めてお会いして、私が音楽療法のことや「うちにはチョウチョがたくさん来るんですよ」といった話をしたら、ずいぶんと興味をもたれたようで、内観の研修があるたびに、お二人でここへ遊びに来てくださいます。
中川:
チョウチョの話もぜひ聞いてくださいと言われました。チョウチョのことは後程お聞きするとして、まずは音楽療法のお話をお聞かせください。 子どものころから音楽はお好きだったんでしょうね。 

和合:
好きでしたね。中学校のときはブラスバンド部でクラリネットを吹いていました。初代の部長を務めました。 今でも講演のたびに、ハーモニカを持って行って、ぼくの演奏で歌ってくださいと言っています。

中川:
音楽好きが高じて音楽療法の研究を始められたのですか。 
和合:
音楽は好きだったけれども、すぐに音楽療法にいったわけではありません。私の専門は免疫学です。25歳のときからずっと研究してきました。40歳近くになって、21世紀は未病との戦いの時代になると思いました。未病というのは、まだ発病していないけれども、何となく体に不調があるという状態です。検査では異常が見つからなくても、放っておいたらどんどん進んで、病院通い、あるいは入院することになってしまいます。そうなる前の未病の段階でブレーキをかけることはできないかと考えて、そのツールとして何かないかと探していたときに、音楽を聴くことで免疫力が上がればいいということで研究を始めたわけです。
中川:
最初から音楽ではなく、免疫の研究をしている中で、音楽の効果に気づかれたわけですね。今では音楽療法はよく知られていますが、30年以上前のことですから、なかなか理解してもらえなかったのではないでしょうか。
和合:
私が音楽療法を研究し始めたのが、1980年代後半です。その当時、日本では音楽を聴くと免疫力が上がると言っても、変人扱いですよ(笑)。「音楽で病気が治るはずがないよ」というのがほとんどの人の反応でしたね。 けれど、学会ではデータに基づくエビデンスを示して発表しているわけです。協力してくれた看護師や学生が証人としていますから、文句を言われることはありません。それでやっと着目されるようになりました。
中川:
ご自分でも音楽を聴くとリラックスしたりして免疫が上がるのではと感じるところがあったんでしょうね。
和合:
特にクラシック音楽だとリラックスできるという感覚はありました。医学的にも、アメリカでは1950年に北米音楽療法協会が立ち上がって患者さんに音楽を提供して疾病の回復に役立てるという活動が行われていました。でも、患者さんにどんな変化があるかという現象が残っているだけで、データはとられていませんでした。 このときにモーツァルトが使われていたという記録もあって、私はモーツァルトをモデルシステムにしてデータをとってみようと思いつきました。
中川:
未病というのも、当時としては新しい視点だったと思います。
和合:
中国に長春中医薬大学というのがあって、当時、私はその大学の客員教授をやっていました。中国は一人っ子政策でしたから、一人っ子同士が結婚して4人の親の面倒を見ないといけないわけです。親が病気になったら大きな負担になります。だから、未病の段階で対処するということがとても注目されていました。2100年くらい前の後漢の時代では、未病を治療できるドクターが聖人でした。「黄帝内経」という医学書に記されています。中国では、昔から未病への関心が高かったんですね。 私は日本でも同じだと思いました。発病してからでは患者さんも家族も大変です。発病する前に対処することの大切さを感じて、未病対策を考え始めました。今は、未病克服が言われるようになりましたが、あのころは未病という言葉も知られてなかったですね。
中川:
国民医療費は40兆円を超えているそうですし、未病対策はもっともっと広がらないといけないと思います。
和合:
健康保険制度が破綻し、年金も当てにできない。病気になってなんかいられませんよ。音楽は身近で安価で副作用がないじゃないですか。感動もあって継続が可能。それで免疫力が上がるわけです。最高のツールです。<後略>

長野県松本市の和合先生のご自宅にて  構成/小原田泰久

免疫力を高めるアマデウスの魔法の音(CD付)

丹葉暁弥(たんば・あきや)さん

北海道釧路市の大自然の中で生まれ育つ。自然写真家。シロクマ写真家の第一人者。高校を卒業後東京へ。1995年に野生のペンギンにあいたくて南極へ行く。1998年からはカナダ北部にシロクマにあいに行くようになる。『HUG! friends まずはハグしよう。』(小学館)『HUG! earth シロクマと友だちと地球の物語』(小学館)など写真集がある。

『シロクマに出あったことで人生に光が差し込んだ』

ペンギンにあうために南極まで出かけて行った

中川:
丹葉さんは20年以上、シロクマの写真を撮り続けておられるそうで、写真集やカレンダーを拝見したのですが、何とも言えないシロクマたちの表情や仕草に癒されますね。シロクマのお話をいろいろお聞きしたいと思うのですが、その前に、目に異常があって真氣光を受けられたという話からうかがいましょうか。
丹葉:
一昨年でした。朝目覚めたとき、最初に目に入ってきたのがテレビだったのですが、2台に見えました。1台しかないのにです。目をこすったりしたのですが、全然直りません。ほかを見ても、全部、2つに見えるのです。病院へ行ったら複視だって言われました。私の場合、右目の眼球を真ん中から右に動かす筋肉がマヒしていたみたいです。外へ出ると道路も電柱も2つに見えました。右目をふさがないと危なくて仕方ありません。イライラしますしね。こちらへうかがったときも眼帯をしていました。
中川:
病院では治療法はないんですか。
丹葉:
ないですね。自然に治るのを待つしかないと言われました。治療と言っても、ビタミン剤を飲むくらいです。そのことを知り合いに話したら、真氣光がいいんじゃないかとすすめられました。
中川:
それで東京センターへ通われたんですね。
丹葉:
一昨年の年末でした。最後の営業日だったですね。同時に帯状疱疹だと思うのですが、足が痛くて動けなくて、2021年から22年にかけてはさんざんでしたね。年明けから何度か通って、おかげさまで目は良くなりました。
中川:
それは大変でしたね。原因がわからなかったり、治療法がない場合、氣が有効な場合があります。でも、そういうことがあったからお会いできたわけで、縁というのは不思議です。きっと、丹葉さんとシロクマとのご縁にもすてきなストーリーがあると思います。シロクマとの出あいのきっかけから聞かせていただけますか。
丹葉:
最初の出あいは小学校5年生のときです。夏休みの宿題で近くの動物園でお手伝いをすることになり、私がシロクマの担当になりました。シロクマのエサを作ったりしてお世話をしたのですが、このとき大人になったら野生のシロクマを見に行くぞと思いました。
中川:
子どものころの夢がかなったわけですね。
丹葉:
紆余曲折ありましたが(笑)。私は釧路の出身で高校を卒業後、東京へ来ました。学校へ通い、その後、就職をしたのですが、会社にもなかなか適応できず面白くないし、だからと言って、何かやりたいことがあるわけでもあく、非常に悲観的に生きていました。ただ動物は好きで、あるときペンギンにあいに行きたいと思い始めました。
でも、1995年でしたから、インターネットもありませんし、南極に関する本も見つからず、ほとんどあきらめていました。でも、願いは叶うもので、夜の11時からのニュースを見ていたら、キャスターの櫻井よしこさんが「今日の特集は南極観光です」と言うわけです。南極観光ツアーが始まったということで特集を組んだようです。
テレビに釘付けになりました。問い合わせの電話番号が紹介されたので、夜中なのにすぐに電話しました。スタッフの人が残っていて、資料を送ってもらうことにしたのです。
中川:
人生の転機ですね。何気ないことから道は拓けてくるものですね。カメラにも興味があったのですか。
丹葉:
当時はメーカーで技術者をやっていました。実家が写真館だったので、カメラは小さいころから触っていました。でも、南極へ行くのは写真を撮るというよりも、ペンギンにあうのが一番の目的でした。
ロスアンゼルスからブエノスアイレスへ行って、さらに南に移動して、船で南極へという予定だったのですが、オーバーブッキングとかあって、えらく遠回りしました。
中川:
初めての海外旅行だったのですか。
丹葉:
英語もできないし、外国は怖いところだと思っていましたので、海外へ旅行に行こうと思ったことはありませんでした。でも、ペンギンにあえるのですから、そんなこと言っていられません。 
オーバーブッキングがあったせいで、飛行機では隣がアメリカ人でした。ドキドキしていたら、その人が私に話しかけてきました。どうしようと戸惑いながら、片言の英語で、自分は英語も苦手だし、海外旅行は好きじゃないというようなことを話しました。そしたら、「私に任せなさい」と、機内誌を教材にして英語のレッスンをしてくれました。その方は小学校の先生で、教え方がとても上手でした。到着するまで思いのほか楽しい時間が過ごせて、海外旅行が好きになりました(笑)。<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

廣澤英雄(ひろさわ・ひでお)さん

1937年茨城県に生まれる。1958年に合気道「龍ヶ崎道場」に入門。1961年から68年までの約7年間、開祖・植芝盛平師の弟子。1994年に7段を取得。2006年イタリアに招待され合気道の模範演技を披露し指導。現在、公益財団合気会廣澤塾(岩間)師範。他に大学や道場、カルチャースクール、クラブなどで合気道を指導。

『勝ち負けを捨て宇宙と一体になって世界平和を実現』

85歳になってやっと合気道の真髄をつかむことができた

中川:
ご無沙汰しています。前回対談に出ていただいたのは2006年8月号でしたから、16年以上前のことです。先生をご紹介くださったのは会員の山田秀明さんでしたが、今回も山田さんから「廣澤先生も85歳になられてすばらしい境地に達しておられるのでぜひ会ってみてください」と言われて、お話をうかがいたいと思った次第です。
廣澤:
85歳ですが、まわりには65歳だと言っています(笑)。まだまだやることがいっぱいあるので年を取っていられないんです。山田さんも、前に会長とお会いしたときにはたまにお会いしてお話をするくらいの関係でしたが、2年ほど前から道場へ通うようになって、本格的に合気道を始めています。
中川:
そうでしたか。氣のことをずっと勉強されていますので、上達も早いと思います。もうひとり、尾崎靖さんも真氣光の会員さんですが、先生のお弟子さんで、先生を東京にお呼びして、ワークショップを開いたりしていますね。
廣澤:
2人ともいろいろ協力してくださってありがたいですよ。


中川:
先生はタクシーの運転手さんをやっておられて、2人ともたまたま乗せたお客さんだったそうですね。
廣澤:
そうなんですよ。お客さんで弟子になってくれたのは2人だけですよ(笑)。まさに氣が合ったんでしょうね。山田さんとは25年ほど前、尾崎さんとは15年ほど前ですね。山田さんを乗せたのは六本木だったかな。大雨でした。どういうわけか氣の話になりましてね。降りるときに名刺の交換をして、ときどき電話で話をするようになりました。尾崎さんは仕事帰りじゃなかったかな。以来、長くお付き合いさせてもらっています。縁があったのでしょうね。

中川:
タクシーは、狭い車の中で運転手さんと二人きりになるじゃないですか。運転手さんが嫌なことがあってかイライラしていると、こっちも居心地が悪くなります。私はそんなときには運転手さんに氣を送ります。それで雰囲気が変わることがあります。

廣澤:
私もいろいろなお客さんを乗せました。タクシーの運転手は、人間観察もできたし、合気道のいいトレーニングにもなりました。呼吸によって相手の意識と自分の意識を結びます。そうすると、お客さんがどんな人かがよくわかるし、私と一体化しますから、イライラしていた人もご機嫌になります。行先を聞く前にどこへ行くかがわかるようなこともあります。私の車に乗ると気分が良くなると、銀座のママさんがファンになってくれて、たくさんのお客さんを紹介してくれたこともあります。
中川:
氣の交流ができているんでしょうね。先生はあの当時から合気道の達人だったわけですが、修行は終わりがないとおっしゃっていました。最近になって、すごい境地に達したそうですが。
廣澤:
武術をやっていると、「これでよし」と思うことはないですね。まだまだ修行をしないといけないのですが、それでも「ここまでこれたか」と感慨深くなることもあります。私の手相は50代からどんどん変わりました。二つの線(感情線と頭脳線)がくっつき始めました。今では一直線になってしまいました。両手ともです。知り合いの手相見がびっくりしていました。こりゃ豊臣秀吉と一緒だってね。なかなかこんなのはなくて、天下取りの手相だっていうんですね。70歳を過ぎたらとんでもないことになるよと言われました。天下を取ろうとは思っていませんが、人はどんどん変わるし、強く思って行動していれば、夢が叶います。65年前、合気道の開祖である植芝盛平先生から一回だけ習った技がついにできるようになりました。ずっとその技が頭に中にあって、毎日稽古をしてきたのですが、うまくできません。それができたのです。
中川:
どうすればできるのか、ずっと考えていたのですね。
廣澤:
私の部屋には大きく伸ばした大おお先生(植芝先生)の写真が飾ってあります。じっと見ていると何か伝わってくるものがあります。
中川:
あちらの世界から開祖が教えてくれているんでしょうね。やっとわかったかとおっしゃっているのではないでしょうか。
廣澤:
合気道は「和の武術」です。戦わず競い合わない。だから試合はありません。敵を作らず勝ち負けはない。宇宙と一体になることを目的としています。大先生も、その境地に達したのは晩年になってからです。私は、理屈としては宇宙と一体になることはわかっていましたが、心底は理解していませんでした。だから、大先生が教えてくれた技ができなかったのだと思います。それができたというのは、私も80歳を過ぎて、先生の境地に手が届いたのかなとうれしくなりました。<後略>

東京都千代田区内神田にて「 構成/小原田泰久

長島 彬(ながしま・あきら)さん

CHO研究所代表、ソーラーシェアリング推進連盟最高顧問。1943年神奈川県生まれ。東京 都立工業短期大学(現東京都立大学)を卒業後、約40年にわたり農機具の総合メーカーに勤 務。2003年定年退職後、慶應義塾大学法学部に入学、同時にCHO研究所を設立。2004 年に光飽和点の存在を知り、ソーラーシェアリングの考え方を発案。2010年には千葉県内に 実証試験場を開設し、ソーラーシェアリングの普及に務める。著書『日本を、変える、世界を変え る! 「ソーラーシェアリング」のすすめ』(リック刊) ソーラーシェアリングのすすめ

『電気を自分で作る。 ソーラーシェアリングの可能性』

上は発電、下は農地として使える ソーラーシェアリング

中川:
先日、『原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち』という映画を見ました。映画の中に、原発事故で一度は農業をあきらめた福島の農家の人たちが、ソーラーシェアリングという太陽光発電で電力を自分たちで作るという場面があって、こういうシステムがあるんだと驚きました。長島先生はソーラーシェアリングの開発者で、映画でもコメントされていました。今日は、ソーラーシェアリングについてお聞きしたいと思っています
長島:
映画で紹介されていた福島のソーラーシェアリングに関しては、私は直接かかわっておりませんが、あの映画もなかなか評判が良いみたいで喜んでいます。会長のように、映画を通してソーラーシェアリングを知っていただいた方もたくさんいるでしょうしね。
中川:
ソーラーシェアリングというのは、田んぼや畑に3メートルほどの支柱を立て、その上に適度な間隔でソーラーパネルを並べて発電をするという方法です。発電をするという方法です。 従来の太陽光発電だと、山を削ったり、田畑を使えなくしてしまうので、自然エネルギーと言っても、どこか自然破壊をしているようなイメージがありました。だけど、ソーラーシェアリングだと、下は農地として使えますから、耕作放棄地を発電と農地の両方に活用できるということですよね。
長島:
太陽光発電は普及とともにいろいろ非難され始めていますが、化石燃料の使用を減らすにはどうしても必要な技術です。 従来のメガソーラーは、自然と共生する方法といいにくいのが現状です。しかし、ソーラーシェアリングにすれば、太陽光発電が大面積が必要という大きな問題点が解決できますし、私たちが生活するのに十分な電力を供給できることがわかりました。

中川:
私も映画を見て、これは期待できると感じました。そのあたりのことをじっくりとお聞きしたいと思います。
長島:
私たちは石炭や石油、天然ガス、ウランを地下からとってエネルギーを作るのが当たり前だと思ってきましたが、それは産業革命以降の約400年の技術に過ぎません。人類が火を使うようになってからおよそ50万年です。そのうちの400年ですから、ほんの一瞬です。その一瞬で地球環境をどれだけ悪化させたか。人類はあらゆる生物に対して愚かで申し訳ないことをしてきたと思います。石油で財を成してきたロックフェラー財団の後継者も、化石燃料を使う企業には投資しませんと言っているくらいですから、いよいよ人類もその愚かさに気づき始めているのではないでしょうか。 化石燃料での発電は限界ですし、原子力を推進したい経産省が出した2030年の発電コストの予測データでも、太陽光発電が一番安いことを認めました。いろいろな側面から見て、太陽光発電はもっと広がっていかないといけません。
中川:
政府は原子力発電を増やすような発言をしていますが。
長島:
原子力は地震の危険もありますが軍事的な標的になります。そのことはロシアとウクライナの紛争で明らかです。いくら防衛費をかけても、原発があると、それが急所になりますから、国を守るには大きな困難が生じます。原発にミサイルを撃ち込まれたら、国だけじゃなく地球全体が大変なことになってしまいます。それに原発の発電単価はとても高いのです。福島第一原発の事故で危険性は痛感したと思いますし、ウクライナのことで有事のときの攻撃対象になることもわかりました。もはや経済的にもまったく優位性はありません。高くて危険なエネルギーです。いずれ立ち枯れていくしかないと思います。ほかにも水素の時代になると言っている方もいます。だけど、私はそうはならないと思います。と言うのも、水素は長期保存ができません。鉄のタンクに入れても、分子が小さく徐々に分解して漏れてしまいます。水素を液体にして貯蔵する方法はあるけれども、マイナス260度近くまで温度を下げないといけません。そのための設備と極低温を保つためのエネルギーをどうするのかという問題が残ります。
中川:
化石燃料に変わるエネルギー源はいろいろ言われていますが、なかなか実用化できないのが現状ですね。
長島:
そもそも大きな発電所を作ってみんなに配るという考え方を変える必要があります。もともと発電所は大きく作る方が発電の効率が上がりコストが下がります。だから、ずっと電力会社の仕事として評価されてきました。 今は太陽光発電を使えば、だれでも電力会社と同じように効率よく電気が作れます。まさにエネルギーの民主化と言えるでしょう。電力料金の中に原子力維持や超高圧の送電網の負担金も均一に分担される仕組みになっていますが、これは、お酒が飲めないのに宴会の飲み放題の参加費を払っているようなものだったのです。これからは、必要なときに必要な分だけ自分で作ることができる時代が到来するでしょう。北海道で地震による大規模停電がありました。大きな発電所に依存していたから、発電所に異常が起こったことで、あんな大事に至ったのです。各家庭で電気を作っていれば、あれほどの大騒ぎにはならなかったのではないでしょうか。<後略>

千葉県市原市 ソーラーシェアリング実証実験場にて 構成/小原田泰久

中野 節子(なかの せつこ)さん

信州内観研修所所長。長野県飯田市に生まれる。法政大学社会学部卒業。 心理学博士号取得。現在 心身カウンセラー、日本矯体療術師協会会員、 日本内観学会会員、国際内観学会日本代表、上海交通大学名誉教授、上海 精神衛生中心医学顧問

『不満を感謝に。内観で気づきを得て幸せな人生を歩む』

クライアントの劇的な変化を見て内観を受けようと思った

中川:
中野先生とお会いするのは2回目ですね。長野県の安曇野での真氣光研修講座のとき、研修講座で講師をしてくださっている石井光先生を会場まで案内してきてくださいました。先生は安曇野の信州内観研修所の所長さんをやっておられますが、石井先生とのお付き合いは長いのですか。
中野:
石井先生と初めてお会いしたのは35年くらい前、私が東京の小金井市にあった意識教育研究所でお手伝いをしていたころです。意識教育研究所は、もうお亡くなりになりましたが、波場武嗣先生が主宰されていて、内観をもとに、いろいろな手法を取り入れた「内省」という手法で、さまざまな問題を抱えた方たちを救っていました。石井先生は外国からの内観関係のお客様と一緒に意識教育研究所を訪ねて来られました。講演をされたり、内省の面接のお手伝いをされたりもしていましたね。でも、私はただのお手伝いですから、あのころは親しくお話をすることはありませんでした。
中川:
石井先生は学生時代から内観をやっておられて、今では内観の第一人者として世界中に内観を広めておられます。中野先生はいつごろから内観にかかわり始めたのですか。
中野:
25年くらい前ですね。その当時、私は子育てをしながら、東洋医学の資格を取得して、体の治療とカウンセリングをしていました。7年間、毎週通ってくれている女性がいました。その方は、40歳になっていましたが独身で、自宅で編集の仕事をしていました。人との付き合いもほとんどなく、自分はこの先どうなるのだろうと心配していました。私は意識教育研究所でやっていた内観のセミナーに彼女を送り込みました。そしたら、一週間でがらっと変わって帰ってきました。今までずっと会ってなかった親に20年ぶりに会いに行けたり、兄弟とも行き来するようになりました。結婚もして子どももできました。あのままだったら、天涯孤独だったのに、想像もできないような明るい人生が開けてきたのです。その後もクライアントを研修に送り、みなさんとても元気になられました。私は、もちろん内観のことは知っていましたが、自分は特に問題を抱えているわけでもないし、年を取ってから受ければいいやと思っていました。

中川:
なかなか自分のことはわからないものですからね。クライアントさんが教えてくれたんですね。
中野:
栃木の内観研修所の柳田鶴声先生が「これは遺言です」ということで講演をされました。私は、内観を受けるなら柳田先生に面接をしてもらいたいと思っていましたので、栃木で一週間の集中内観を受けました。内観で、一番身近な人から始めて、配偶者、子ども、まわりの人たちに対して、その人から「していただいたこと」「してさしあげたこと」「迷惑をかけたこと」という3つの質問に取り組みます。
中川:
いろいろな気づきがあるんでしょうね。
中野:
私の場合、自分がいかに自己中心の塊であったかわかり懺悔して懺悔して、自分は生きていてはいけないのではと思うくらいでした。でも、最終日でした。窓から外を見ると、山桜や春の色とりどりの花が咲いていて、その花たちが、私に笑いかけているんです。うぐいすが鳴いていました。その鳴き声が「大丈夫だよ。そのままでいいよ」と聞こえてきたんです。見るもの聞くもの生き生きとしていて雲の上を歩いているようなすべてのものと一体になったような気分でした。ああ、生まれ変わったと思いました。内観が終わったあと、柳田先生から、半年間、車の運転をしないでください、と言われました。覚醒状態だったらしいんですね。そして、夜も眠れなくなったらこの先生に電話しなさい、と言って教えられたのが石井先生の電話番号でした。案の定、眠れなくなって、夜、石井先生に電話をしました。まだ帰ってきてないので3時くらいならいいですよと言われて、夜中に電話をして、内観の面接をしてもらいました。その後、大宮に研修所ができて、石井先生が所長になるというのでお手伝いをしました。そうしたご縁から、飯田や、安曇野の信州内観研修所でもずっと応援していただいています。
中川:
内観研修ではどんな気づきがあったのですか。


中野:
カウンセリングをしたり、人のお世話をしていたので、自分はいい人だと思い込んでいました(笑)。自分がよくみられたいという思いが強かったし、クライアントが良くなればうれしいし、良くならなければどうしてだろうと悩んだり、自分の力で何とかしようとしていました。なんとごう慢なことかと恥ずかしくなりました。まわりにさんざん迷惑をかけてきたのに、自分はいいことをやっているのだから、家族は少しは我慢してくれてもいいではないかと、まわりの人への感謝はまるでありませんでした。両親に対しても申し訳なくて仕方なかったですね。大学生のころ、70年安保で、私は学生運動をしていました。そのことを知った両親が長野県の飯田から上京してきて、私を連れ帰ろうとしました。私は「帰らない」と突っぱねました。父は「勘当だ」と怒鳴りました。母は「一緒に帰ろう」と泣いていました。

中川:
内観をしないと思い出さないことだったかもしれませんね。
中野:
私は両親からの束縛を逃れて自由になった気分でいました。でも、内観をして、両親はどれほど心配していたか、娘を勘当しなければならない父の気持ちはどんなだったか、気がつきました。自分が情けなくなって涙が止まりませんでした。飯田には兄と弟が住んでいたので、私は親の面倒を見ることはないだろうと思っていましたが、少しは恩返しをしないといけないなと心から思いましたね。結果的には、実家が一軒空いていたので、そこを研修所にして、両親のそばにいることもできました。内観をしてなかったら、そうはなってなかったと思います。
中川:
親がしてくれることは当たり前だと思ってしまいがちですからね。本当は、たくさんのことをしてくださっている。そのことを見ないで生きるのと、感謝しながら生きるのとでは雲泥の差だと思います。先代は、両親が一番身近なご先祖様だから大切にしなさいと言っていました。両親に感謝して生きることが、ご先祖様を敬うことにもつながるのではないでしょうか。
中野:
両親への思いが変わるだけで、いろいろなことが変化します。私の場合、体調がすごく良くなりました。小さいころから陰性の体質で、ひどい冷え性、肩こりでした。母が心配して、兄も体が弱かったので、玄米を炊いてくれたり、いろいろな健康法を試してくれました。大人になってからも胃が痛くて、特にカウンセリングをしているときは一番ひどくて、金曜日の夕方になると激痛で病院へ駆け込んでいました。検査してもどこも悪くなく、神経性のものだと言われました。内観の前は、すごい低血圧で、上が90、下が60くらいでした。朝も起きられませんでした。内観したら血圧が180まで上がりました。なんか体が熱いし汗が出るんです。それまで、なかったことでした。柳田先生に話したら、細胞まで変わったんだよと言われてうれしくなりました。陰性から陽転したって感じです。それ以来、血圧も普通で、この間の健康診断でも異常はないし、昔は胃薬を飲んでいましたが、今は必要ありません。生まれ変わりましたね。
中川:
心と体は連動しているんでしょうね。真氣光でも氣を受けていろいろな気づきがあると、体調も良くなっていくという人がいます。真氣光研修講座では、石井先生に内観の講義をしていただいていますが、親をはじめまわりの人にどれだけお世話になり、迷惑をかけたか気づけたという受講生の方はたくさんいますね。新型コロナウイルスの影響もあるかと思いますが、人間関係が非常に希薄になって、自分さえ良ければいいと思ったり、自分のことを顧みずに人を責めたりする人が多くなっているような気がします。私は、マイナスの氣の影響を受けてそうなっているように感じています。氣を受けてマイナスの氣がとれていくと、まわりへの感謝の気持ちが出てきます。感謝の気持ちが大きくなれば、光が増えますから、マイナスの氣は減っていって、プラスの氣が増え、ますます感謝の気持ちが出てくるんですね。そういう人は幸せになれます。いくら物質的に恵まれていても、感謝の気持ちがないと幸せは遠ざかっていきます。真氣光は氣を通して、たくさんの人が幸せになるためのお手伝いをするのが役割だと思っています。
中野:
実は、私は真氣光とすごく縁があるんです。父が飯田の公民館で先代の会長の体験会があるというので参加したらしくて、ハイゲンキを買ってきたんです。毎日、喜んで当てていました。そのうち父が使わなくなって、私がいただいて、自分に当てたり、クライアントにやってあげていました。だれかに貸してあげたら返ってこないんです(笑)。その後、東京センターに酵素風呂があるとお聞きして通っていました。そのとき、ハイゲンキミニというのがあるというので買って、石井先生にも貸してあげたりしたんですよ。
中川:
先生は下田の真氣光研修講座に参加されたのですが、その前の話ですか。
中野:
父がハイゲンキを買ったのは、かなり古い話です。渋谷公会堂であった先代の体験会にも参加しました。行ったら満席で、壁に沿って立っていたのですが、どんどん押し出されて、一番前の壁際から先代のお話を聞いていました。先代が氣を送り始めたとき、何をやっているのだろうと薄目をあけて見ていたら、先代の手からオレンジの光が出ていたのが見えました。そういうことがときどきあるんです。座っている人がくねくね動いていました。終わったら、車いすの人が立って歩き始めたんです。あれには驚きました。それも、何人もそういう人が現れたのですから。
中川:
氣には興味があったんですね。

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

中野節子さんの情報

信州内観研修所

「内観への誘い」著:石井光・中野節子
「素敵な自分に出会いましょう」著:中野節子

桑原 浩榮(くわはら こうえい)さん

鍼灸医師。米国マサチューセッツ州ボストン在住(1989,1991-現在)クーリア氣クリニック院長
日本はり協会、北米小児はり協会会長ニューイングランド鍼灸大学元助教授

『鍼灸師は直観が命。真氣光で直観力を高める』

真氣光と鍼灸では 道具の使い方がまったく違う

中川:
ここ3年は、新型コロナウイルスの影響で桑原先生とはオンラインでしかお会いできません。先代の時代から先生はボストンでセミナーを開いてくださっていて、私も毎年ボストンへうかがっていました。
桑原:
先代が亡くなる前の年、1994年からでしたかね。だから28年間ですか。私はその3年前に日本の古典鍼灸を指導するためにボストンに渡りました。当時は『氣功師養成講座』と言っていましたが、下田で行われていた一週間の講座にも参加しました。
中川:
桑原先生は鍼灸師ですが、治療のときはほとんど鍼を刺さないそうですね。鍼を刺さない鍼灸治療というのはあまり聞かないのですが、氣に通じるところがあるように思います。
桑原:
刺さない鍼は日本で発展しました。中国の文献にも出ていますが、中国ではほとんど使われていません。鍼灸治療も氣がとても大切で、術者の心の使い方、意識の持ち方がとても大切です。先代のころから真氣光では当たり前に言われていますが、中国では、古典には書かれていても、今では霊や魂、心のことはあまり言いません。このツボに打てばこんな変化が起きるという経験的なものになっています。私もツボに鍼を打つことはやりますが、術者の心の持ち方、受ける側の気持ちの変化が治療結果に大きくかかわることは常に実感していますね。だから、術者は精神的な修行をする必要があるんですね。真氣光と同じですね。


中川:
真氣光も、ここまでやったからもういいというのがありません。常に向上心が必要で、真氣光を実践しながら成長していくことが大事です。先代は、病気治しに力を入れていましたが、「これは療法ではない。療道だ」と言っていました。患者さんを治療するという行為を通して、自分を成長させ、同時に患者さんの意識も高めていくということだと思うんですね。その精神は、今も続いています。
桑原:
3年前に会長がボストンに来られたとき、すばらしいものを作っていただきました。私は真氣光ぺろぺろキャンディと呼んでいるのですが、氣グッズであるディスクヘッドに鍼灸で使うてい鍼という鍼をくっつけてもらったんですね。てい鍼というのは先端が丸くなっていて、刺さない鍼灸治療に使います。これがいいんですよ。
中川:
てい鍼の頭の部分にネジを切っただけです。ディスクヘッドの枠にあるネジ穴とサイズがぴったりでした。これには驚きました。使っていただいているんですね。
桑原:
もちろん使わせてもらっていますが、使い方は簡単ではないですよ。真氣光と鍼灸では道具の使い方がぜんぜん違います。それを合体させてしまったのですから、作ってもらったのはいいけれどもどう使えばいいのか、ずいぶんと悩みました。真氣光は、たとえばハイゲンキなら、それを体に当てなくても瞑想をしていれば氣がどんどん入ってきますよね。触れなくていいというのが本来の真氣光のグッズの使い方です。私は、これまでの体験から触れない方が効果が上がるのではないかと考えています。でも、鍼灸だと、道具を患者さんに見せるだけ、横に置いておいて瞑想させるだけでは効果が出ません。刺したりこすったりさわったりすることで肉体が反応するわけです。ぺろぺろキャンディはどっちの使い方をすればいいのだろう。そんなことを考えたら迷いが生じるんですね。迷いは治療効果に大きな影響を及ぼします。迷っているうちは、真氣光的な効果も鍼灸的効果も出にくいんです。せっかく会長に作っていただいたのにどうすればいいのだろうと悩みましたよ。
中川:
そうでしたか。今は使い方をマスターしたのですか?


桑原:
おかげさまで、いろいろいじくりながら考えているうちわかりました。鍼灸は、どのツボにどう打てばいいか、長年の研究によってかなりわかっています。刺さない鍼も、それなりに日本では研究がなされています。しかし、真氣光のグッズは技術的なことはあまり関係ありません。逆に、操作しようという意識が働くと良くないみたいです。お任せの気持ちが大事なんですね。もっと言えば、お任せの気持ちになれないと働いてくれないんです。ですから私は、ぺろぺろキャンディは、鍼灸の道具とは考えないようにしました。ほかの真氣光のグッズと同じで、お任せの気持ちをもって使っています。直観を大切にして、患者さんによっては、触れた方が効果が出るという直観があったりするので、そのときはてい鍼をツボに当てたりします。
中川:
ディスクヘッドは真氣光のエネルギーを自分に入れるという目的で作ったものです。でも、てい鍼と合体させることで、方向性が自分だけでなく、患者さんにも向くようになったのでしょうかね。
桑原:
そうかもしれません。真氣光でも鍼灸でも、私たち術者の気持ちがとても大切ですが、人間である以上、どうしてもぶれてしまいます。嫌なことがあっても動じてはいけないとわかりつつも、動揺したり落ち込んだりするわけです。その気持ちは患者さんにも伝わってしまいます。でも、真氣光の氣グッズだと、自分の気持ちがどんな状態であっても、あるレベルの安定した氣を中継してくれます。ぶれがないんですね。そういう意味で、本当にありがたいですよ。
中川:
桑原先生は、ニューイングランド鍼灸大学の先生として世界中の方たちに鍼灸を教えてらっしゃいますよね。刺さない鍼とか氣のこととか、すんなりと受け入れてもらっていますか。
桑原:
大学は大丈夫です。真氣光のクラスもあるし、大学内にクリニックも作りました。そのときに、学長とお話ししました。「真氣光はある意味、宗教のようなところもあるけれども、問題ありませんか?」と聞きました。学長は即座に「まったく問題ありません。気にする必要はありません」と言ってくれました。学長も真氣光にとても興味をもって、「そんな簡単にできるの?」「悪い影響は受けないの?」といろいろ質問し受けないの?」といろいろ質問してきました。
中川:
日本よりもわかってもらえやすいんですかね。日本では魂とか霊という言葉を出すと宗教じゃないのと敬遠されますからね。
桑原:
こちらの鍼灸の大学は古典医学が中心ですから、魂とか霊とか神といった言葉は常に使っています。何の抵抗もありません。日本の鍼灸学校では氣のことは教えませんが、アメリカは氣が基本です。魂のことも普通に教えますね。ただ、中には頭で理解しないと納得できない学生もいます。そういう学生に氣のことを理解させるのは時間がかかります。
中川:
頭で考えることは大切ですが、真氣光の場合は、理屈では説明できないことが多いのも事実で、それを頭で理解しようとしても難しいですね。
桑原:
私は治療の際には3つの力をうまく使う必要があると考えています。一つ目が「霊能力」ですね。今風に言えばスピリチュアルな能力です。二つ目が「超能力」です。三つ目が「科学的・理論的な力」です。真氣光は一つ目の霊能力ですね。中国の気功は二つ目の超能力です。トレーニングをして宇宙のエネルギーを自分の体に取り込み、普通の人にはできないようなことをやってしまいます。治療でも、自分の体にためたエネルギーを使います。科学的・理論的な力というのは、エビデンスに基づいた方法ですね。
先代の会長は、「真氣光は第三医学だ」とおっしゃっていました。第一医学が西洋医学に代表される科学的な医学です。第二医学が鍼灸などの経験的医学です。そして、第三医学が直観に基づいた医学ですね。第一医学も第二医学も、道具が主役です。しかし、第三医学は道具は直観をサポートする手段として使います。真氣光の氣グッズはまさにそういう道具ですよね。
中川:
先代は直観で生きていました。そもそもハイゲンキは先代が夢を見て作ったものです。氣グッズは、基本的な使い方は伝えていますが、使う方それぞれがさまざまな工夫をして直観を磨くのに役立てています。逆に私たちが使っている人から「こんな使い方をしたらすごく良かったですよ」と教えられることもよくあります。
桑原:
私は一か月半くらい前からハイゲンキ8型を使っています。昼間はパソコンの裏に置いてあって、夜になると枕の下に敷くんです。直観が冴えるんですね。夢がどんどんクリアになってきています。昔はノイズが含まれていて、理解できない夢が多かったですよ。ところが、8型を枕にしてから、役に立つ夢ばかりです。<後略>

ZOOMにて 構成/小原田泰久

桑原浩榮さんの情報

Culia Ki Clinic Inc.
25 Church St., Watertown MA02472 TEL:617-926-6986

YouTube それ気のせいです【中川雅仁】の動画 Shinkiko Webinar 2022 from Japan & USA ボストンとのオンラインセミナーについて桑原先生にインタビューもご覧ください。

ミネハハ(みねはは)さん

ネイティブアメリカンの言葉で、MINEは水、HAHAは微笑みの意味をもつ。本名は松木美音。フェリス女子短期大学音楽科声楽卒業。CMソング3000曲、バックコーラス2万4000曲、アニメの声優、主題歌など、多岐に渡る活躍の後、アフリカへのバックパック一人旅で人生が大きく転換。1994年ミネハハとしてソロデビュー。全国のミネハハファンがコンサートを開催。37枚のCDをリリース。

『歌声を宇宙に響かせて、すべての生き物の命を癒したい』

3000曲以上のCMソングを歌うCMソングの女王

中川:
これまで3000曲を超えるCMソングを歌ってこられたそうですね。ミネハハさんが歌ったCMソングをCDで聴かせていただきましたが、よく知っている曲ばかりでびっくりですよ。今は、感動して涙を流しながらミネハハさんの歌を聴く人がたくさんいますが、ここまでに至る道のりはとてもドラマチックです。まずは、CMソングの女王だったころのお話からお聞かせください。
ミネハハ:
お菓子に宅配便、フィルム、インスタントラーメン、コーヒー、サラダオイル、化粧品、トイレ用品などなど、1978年から93年までの間は、毎日スタジオに通って歌っていたし、大袈裟ではなく、一日中、私の歌声がテレビから流れていました(笑)。
中川:
どれも声のトーンが微妙に違ってきて、一人の方が歌っているとは思えないですね。
ミネハハ:
声をかえて歌っていました。商品に合う声、歌い方がありますから。

中川:
商品に合わせて声が決まるんですね。
ミネハハ:
私の特性は、商品そのものになって歌うことです。スタジオへ入ると、クライアント、広告代理店の偉い人が背広を着て座っているわけですよ。CMの映像を作る監督さんや音楽制作会社の方もいらっしゃいました。そこに私も座らされて、商品の映像を見せられます。ぱっと映像を見た瞬間にどの音色で、どの活舌で、どういうトーンで、どういう語尾で、どういう表現をしたらいいかわかるんですよ。
中川:
商品のエネルギーを感じるということでしょうか。
ミネハハ:
その商品の役割の波動がくるって感じです。たとえば、トイレに置いておくと、ブルーの水が流れる商品があるじゃないですか。青い水が流れて便器まできれいにする感じを歌ってほしいって商品から伝わってくるので、そういう歌になるんですね。

中川:
確かに、あのCMソングを聴くと、「置くだけでいいんだ」という、ちょっとした驚きがありますよね(笑)。

ミネハハ:
みかんのジュースのCMのときは自分がみかんになったつもりで歌います。太陽の光、土の栄養、水、人々のまごころによって、完熟したみかんになって、それをジューサーにかけてコップに注いで、ぐっと飲んだときに、ああおいしいと感じる。その気持ちがCMソングになりました。日本人形のCMでは、箱にしまわれていたお人形が一年ぶりに箱から出されて、「ああ、うれしいな」という気持ちを込めて歌うんです。そんな私の感性の特性があるものですから、私が歌うと商品が売れるという評判になって、次々とオファーがくるようになりました。
中川:
もともとは短大の音楽科で声楽を習っておられたんですよね。
ミネハハ:
そうなんですよ。始まりは小学校の入学式です。清泉小学校というキリスト教ミッションスクールに入ったのですが、入学式で「君が代」を斉唱したとき、土屋友子という先生が、「すばらしい声の生徒がいる」と私の才能を見つけ出してくれたんです。父と母が呼び出されて、「お嬢様すごい声をおもちなので、将来音楽の道に進ませてあげてください」と言ってくれました。8歳のときに、鎌倉のカトリック雪ノ下教会に聖歌隊があると知って、父と母は、そこに入れてくれました。NHKの番組にもしょっちゅう出させてもらいました。中学3年までそこで歌っていました。また、父が中学校の英語の教師だったことから、歳くらいからは海外のアーティストの歌もよく聴いたり歌っていました。
中川:
音楽の道に進むのは必然だったんですね。
ミネハハ:
私の本名は松木美音というのですが、松の木にそよぐ風が美しい音を奏でるようにという願いを込めて父がつけてくれました。だけど、学校での声楽の勉強は向かなくて、学生時代は新宿や六本木のディスコで、ホットパンツと編み上げのブーツ、ビーズじゃらじゃら、カーリーヘアのかつらをかぶって、ソウルバンドのボーカルとしてステージに立っていました。
中川:
ディスコですか。あの当時は流行っていましたからね。
ミネハハ:
会長も行かれました?。
中川:
いやいや、私はあまり得意じゃなかったですから(笑)。
ミネハハ:
ディスコで歌っていたときに、某有名歌手のプロデューサーにスカウトされたんです。オーディションがあるといわれて、何のオーディションですか?って聞いたら、「スタジオミュージシャンのコーラスガールを探している」と言われました。そのころは、スタジオミュージシャンって知らないわけです。でも、とにかく行ってみよう、なんでもチャンス・チョイス•チャレンジ!というノリで出かけて行きました。私は譜面も読めるし、音の高さやハーモニーのバランスも問題なし。いろいろなジャンルの歌をこなせるということもあって、スタジオミュージシャンにぴったりでした。それがきっかけで、レコーディングのバックコーラスやアニメ声優、そしてCMソングと、どんどん仕事が広がっていきました。
<後略>

東京・ 品川にて 構成/小原田泰久

ミネハハさんの情報

最新コンサート情報
9月17日(土) 静岡県三島市 連馨寺本堂
9月24日(土) 福岡市中央区 鳥飼八幡宮 神徳殿
9月25日(日) 福岡市早良区 ユーテラス高取
10月 1日(土) 静岡県榛原郡 川根本町文化会館
10月 2日(日) 静岡県三島市 カフェ&スペースほとり
10月 8日(土) 福岡県久留米市山本町豊田1957
10月19日(水) 岡山県岡山市 まほろばの里
10月29日(土) 埼玉県本庄市 五州園
11月 3日(木) 伊東市観光会館別館
11月 4日(金) 千葉県千葉市美浜区文化ホール
*詳細はホームページをご覧ください。

小原浩靖(おばら ひろやす)さん

テレビのCMを中心に企業プロモーションなどの映像広告を手がけ、作品数は700本を超える。2020年『日本人の忘れものフィリピンと中国の残留邦人』で劇場用ドキュメンタリーを初監督。第26回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞、第38回日本映画復興賞奨励賞を受賞。『原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち』では、企画・製作も務めた。

『樋口理論プラス被災農家の復活劇で脱原発へ!』

原発が危険だという話だけでは 広がりがないと思った

中川:
監督の作品、『原発をとめた裁判長原発をとめる農家たち』を拝見しました。今は試写の段階で、9月から全国で上映が始まるそうですね。映画に登場する"原発をとめた裁判長"樋口英明さんには、この対談でも明快な理論で原発の危険性をお話していただきました。とてもわかりやすくて、たくさんの人に聞いてもらいたいと思っていましたので、映画化されるとお聞きしてとても楽しみにしていました。映画では、イラストやグラフを使って、樋口理論がよりわかりやすく説明されていましたね。それに、原発は危ないからやめようということだけではなく、被災された農民の方が自ら立ち上がって太陽光発電に取り組んでおられる姿が紹介されていました。これから、電力をどうすればいいか、ひとつの指針になると思いました。
小原:
ありがとうございます。会長は、樋口さんと対談をされて、この映画にも興味をもってくださるくらいですから、原発は危険だという考えをおもちなんですね。

中川:
真氣光の創設者である父は、氣の観点から見て、原爆はもとより原発に対しても反対だという立場でした。当時はソ連でしたが、チェルノブイリの被ばく者の治療に何度も足を運んでいましたし、被ばくした子どもたちを日本に呼んで静養させたりしました。アメリカインディアンのホピ族の村を訪ねて、原爆の原料になったウランの採掘に従事させられて体調を崩している人たちの治療もしました。そうした経験から、「ウランは利用時だけでなく、採掘から処分まで問題」だと考えていました。私も原発には疑問をもっていて、脱原発を訴える元スイス大使の村田光平先生や京都大学の原子炉実験所にお勤めだった小出裕章先生とも、この対談でいろいろお話をうかがいました。
小原:
そうでしたか。この雑誌を読んでくださっている方にも応援していただけそうでうれしいです。

中川:
原発問題には興味をもっている方たちが読んでくださっています。原発の危険性は多くの人がわかっていると思います。でも、原発を止めてしまって電力は大丈夫なのだろうかという心配もあるわけです。この映画は、みなさんが原発のことを知り、これからどうしたらいいかを考える上で、とても参考になると思います。樋口さんのお話でびっくりしたのは、原発の耐震性が普通の住宅より低いということです。確かに、原発の建屋は頑丈に作られているかもしれませんが、揺れで配管が壊れたら大事故につながる危険があるわけです。なのに、原発の建っているところには大きな地震はこないという、エッと驚くような前提で原発が作られてきたわけですよね。そういうことを知ることから始めないといけないと、映画を見ながら感じました。
小原:
樋口理論は、そのあたりのことがとてもわかりやすいですからねこの映画は、樋口さんの大飯原発訴訟の弁護団代表だった河合弘之弁護士から「樋口理論を映像化してYouTubeで流さないか」という提案を受けたことからスタートしました。昨年の2月ごろの話です。私はすぐに返事をしませんでした。と言うのも、原発は危険だとか、こういう被害があったという話だけだと、広がりという面では限界があるかなと思ったからです。YouTubeはたくさんの人が見てくれるというイメージがあるかもしれませんが、ぼくの感覚だと、せいぜい3万人くらいしか見てくれません。これまで、河合さんと一緒にYouTubeで原発関連の動画を流したことがありますが、3万回くらいの再生で終わっています。
中川:
YouTubeだと、原発に関心のある人しか見ないですからね。
小原:
そうなんですね。原発の危険性をよく知っている人しかアクセスしてくれないのではと危惧したわけです。

中川:
原発に関心のない人、CO2削減や電力不足がやかましく言われている中で再稼働は仕方ないかと思っているような人にも見てもらいたいですからね。問題意識を植え付けるということでしょうかね。

小原:
脱原発しないといけないと思っている人の数が、ぼくの感覚でいうと2017年くらいから伸びていないような気がするんですね。福島第一原発での事故の記憶が薄れている人もいるし、まあ大丈夫なんじゃないかという気持ちになった人もあると思うんですね。だから、原発の問題点ばかりをテーマにしても、これまでそういう映画を見たことのある人しか見てくれないのではと思いました。だから、すぐに「やりましょう」と言えなかったんです。
<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち

上映館(2022 年7 月時点)
・東京  ポレポレ東中野(9/10~)
・福島  フォーラム福島(10/7~)
・山形  フォーラム山形(10/7~)
・宮城  フォーラム仙台(10/7~)
・群馬  シネマテークたかさき
・長野  長野相生座・ロキシー
・神奈川 横浜シネマ・ジャック&ベティ
・静岡  シネマイーラ(11 月公開)
・愛知  名古屋シネマテーク
・京都  京都シネマ
・大阪  第七藝術劇場
・兵庫  元町映画館
・広島  福山駅前シネマモード
・広島  横川シネマ(10/14~)
・愛媛  シネマルナティック
・大分  別府ブルーバード劇場(9/16~)
・鹿児島 ガーデンズシネマ
・沖縄  シアタードーナツ(10月公開)
https://saibancho-movie.com

井下田 久幸(いげた ひさゆき)さん

1961年生まれ。青山学院大学理工学部卒業後、日本 IBMに入社。その後、 IT企業4社を渡り歩き、東証一部上場企業で執行役員を務めたあと、独立してドルフィア株式会社代表取締役。今も現役のプログラマーとして活躍している。著書『コンペ 300戦無敗のトップエンジニアが教える理系の仕事術』(かんき出版)は、理系に限らず幅広く読まれている。

『コンペ300戦無敗。根底にはお客さん目線の温かさ』

再現性があり応用が利く法則を見つけて対応する

中川:
井下田さんの『理系の仕事術』というご著書を読ませていただきました。私も、大学は工学部したし、卒業後も10 年くらい電機会社でエンジニアをやっていました。バリバリの理系です。氣の世界には30 年近くいますが、氣というとどうしてもあいまいな部分が大きいので、最初はずいぶんと戸惑いました。敏感な人もいればぜんぜん感じない人もいます。測定もできないし、再現性もないし、物質だかエネルギーだか、それも明確になっていません。私自身、氣によって体調が良くなったり、人生観が大きく変わったりしましたので、氣をもっとわかりやすく伝えることができる方法はないものかと、ずっと試行錯誤してきました。エンジニアという立場で、プレゼン 300戦無敗というすごい成果をあげた井下田さんの体験は、理系の人間として伝え方を考える上でとても参考になりました。
井下田:
ありがとうございます。中川会長は、氣の出る機械を作っておられるとお聞きしました。
中川:
私の父が夢で見て作ったものです。時計の技術者だった父が夢で教えられた通りに作ったところ、使った人から元気が出たとか体調が良くなったとか、喜びの声が寄せられました。でも、なぜ体調が改善するのか作った本人もわかりませんでした。あるとき、中国の氣功師がその機械を見て、「氣が出ている」と教えてくれたそうです。父は、宇宙にある癒しのエネルギーを中継しているという言い方をしていました。当時、私はエンジニアだったので、機械を分解してどういう構造になっているのか調べたこともありました。とても気になる部分が一つだけありました。小さなピラミッドとセラミックの板と永久磁石が意味ありげに組み合わさっていたのです。
私はそこに氣を中継するカギがあるのではないかと思い、父の死後、もっと性能を向上させようと、サラリーマン時代にやってきたコンパクト化、集積化という技術を使って、機械を改良して今に至っています。エンジニアのときはマイクロマシンという小さなロボットを開発していましたが、そのときの経験が生きましたね。
井下田:
お父様も理系だったのですね。私は氣については門外漢なのですが、世の中にそういう機械はあまりないように思うのですが。

中川:
あまり聞かないですね。一般的には機械と氣というのはなかなか結びつかないみたいですね。理屈ではなかなか理解していただけなくて、今の時点では、体験して判断してもらうしかないかなと思っています。
井下田:
会長は、それを何とか論理的に説明しようと努力されているわけですね。

中川:
氣というと感覚的にとらえることが多いのですが、そればかりではなく、しっかりと頭で考えることも必要だと、私は思っています。人は、理論的に考えたら起こる確率の非常に低いことに不安や恐怖、怒りを感じて落ち込んだり、イライラしたりします。そんなときこそ、しっかり考えることが大切だと思います。考えることで感情に振り回されることが少なくなるのではないでしょうか。余計なことで不安にならないし、取り越し苦労をしなくてすみます。感情に振り回されて落ち込んだりすると、良くない氣の影響を受けてしまいます。それを防ぐためにも、しっかり考えていく理系的なアプローチは必要かと思っています。
井下田:
ノリや直感も大切ですが、それだけではなくて、再現性があり応用が利く法則のようなものを見つけて対応する人には、まわりの人もついてきます。会長のようなリーダーにとって、理系の戦略的思考はとても大切なスキルではないでしょうか。
中川:
ただでさえもわかりにくい氣というものをどう伝えればいいか、まだまだ工夫しないといけないと思っています。
ところで、井下田さんのご著書では、最初に「人生すごろく」でご自身の半生を紹介しているじゃないですか。とてもわかりやすくて、自分をプレゼンするのにとてもいいツールだと感じました。
人生すごろくに沿ってお話をお聞きしていきたいのですが、おじいさんがドイツ人で、子どものころは父親のDVでずいぶんとつらい思いをしたようですね。

井下田:
ひどい暴力を受けていました。部屋に閉じ込められたりして、私は引っ込み思案なのですが、あのころの体験が原因ではないかと思っています。まわりからもいじめられましたし、学校でも、勉強が遅れました。
だけど、今振り返れば、とてもつらかったですが、その分、人の痛みがわかる人間になれたかなと思います。弱い人を見ると助けたくなるんですね。

<後略>

東京都品川区・シンシア高輪にて   構成/小原田泰久

コンペ 300戦無敗の
トップエンジニアが教える
理系の仕事術

井下田久幸著
かんき出版

侑季蒼葉(ゆうきあおば)さん

一般社団法人伝筆協会理事長。1961年愛知県生まれ。センスがなくても、クセ字を矯正しなくても、だれでも一定以上のグレードのうまさを再現できるノウハウを構築。2015年一般社団法人伝筆協会設立。2017年エヴァンゲリオン展とのコラボを実現。手書き文字を通して、心が通い合う喜びを世界中に広げたいというビジョンのもと、オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパなどにも展開中。著書「直線で書けば今すぐ字がうまくなる!」(サンマーク出版)

『筆一本で世界中に「笑顔」と「元気」を広げたい』

難しい技術を捨てて単純な線さえ書ければ何とかなる

中川:
侑季先生は『伝筆(つてふで)』という筆文字を教えておられますが、拝見すると、心が温かくなるような字で、とてもいいですね。こんな文字ではがきをもらえば幸せな気持ちになると思います。 4時間半ほどのレッスンで書けるようなるということですが。
侑季:
90分を3回ということで初級コースを設けています。90分あれば大体のコツはつかめます。でも、それだと「書ける」ということはわかっても、なかなか普段の生活で使ってみるところまで行かないことが多いんですね。自信をもって書けるよう、あと90分を2回やります。そうすると、手紙を書いたり、カフェをやっていればメニューを書くといったようなことに使ってくれます。
中川:
でも、けっこう芸術的なセンスが必要なんじゃないかと思います。たった90分でコツがつかめるんですか。
侑季:
字を上手に見せるには規則性があるんですね。それに則って練習すればだれでも簡単にできます。「私は字がへたくそなので」と言っていた人が、90分後にはしっかりとした筆文字が書けるんです。みなさん、びっくりされますね。 ある程度書けるようになると、楽しくて仕方なくなります。「練習しなさい」と言わなくても、どんどん書くからますます上手になにくい。だったら、それは捨ててしまえばいいと気づきました。つまり、直線で書くことを意識するんです。それだけでも、字全体の統率がとれると同時に、図形のような字になって、バランスが整います。
中川:
そういうものですか。先生はもともと字がお上手だったのではないんですか。
侑季:
とんでもありません。謙遜ではなく、とてもへたくそで、人前で字を書くのが恥ずかしいくらいでした。でも、面倒で練習もしなかったものですから、字にはずっとコンプレックスがありました。特に筆なんて、小学校、中学校の習字の授業以来もったこともありませんでした。
中川:
私もそうですが、多くの日本人は学校の習字で挫折しているのではないでしょうか。どうがんばってもお手本のような字は書けませんから嫌になってしまいますよね。
侑季:
学校教育では、できないことをできるようにしようというのがあって、いつもできないことを指摘されるので気持ちがなえてしまいますね。 習字は難しいものだと思い込んでしまうと、筆をもつのが怖くなります。 でも、難しいハネやハライ、ソリを捨てて単純な線さえ書ければ何とかなるんだと思うと、チャレンジしてみようと思いますよね。ダメだと思っていたものができるかもしれないと思えるうれしさってあるじゃないですか。 そして、やってみたら書けちゃったとなると、エネルギーは一気に上がります。家に帰って家族に見せると、「買ってきたの?」と言われて、「私が書いたの」とどや顔で答えるのって快感だと思いません(笑)。
中川:
それは快感ですよ。ところで、先生はどういう経緯で伝筆を始められたんですか?
侑季:
そうそう、いつごろだったか忘れましたが、「真氣光」のことをどこかでお聞きしたことがありました。と言うのも、私は22歳のころからヨガのインストラクターをやっていました。今のようなおしゃれなヨガではなくて、瞑想とか断食といった修行的なことをやっていたころです。だから、東洋的なことにとても興味があって、真氣光のことを聞く機会があったのだと思います。

中川:
ヨガをやっておられたのですか。真氣光も、伊豆下田にある沖ヨガさんの道場で研修講座をやっていました。
侑季:
私が習った先生も沖ヨガの関係じゃなかったかな。
中川:
ヨガのインストラクターは長くやられていたのですか?
侑季:
20年間やっていましたね。その後、コミュニケーションのコーチングを知って、そちらに力を入れるようになりました。 ヨガはみんなが元気になればいいなと始めたのですが、体からのアプローチが中心でした。私は、元気になるには、人間関係や自分らしく生きるためのアプローチも必要なのではと思い、コミュニケーションの世界に足を踏み入れました。 コーチングも好きでしたが、もっと簡単に人が笑顔になって元気になれるものはないかと、コーチングをやりながらずっと模索していました。
<後略>

東京・日比谷松本楼にて   構成/小原田泰久

直線で書けば今すぐ字がうまくなる!

侑季蒼葉 (著)
サンマーク出版

屋宮直達(おくみや なおたつ)さん

鹿児島県奄美大島生まれ。鹿児島県立大島高校卒業。東京都立大学中退。会員が1500人を超える交流会・直達会会長。鳥越アズーリFM(https://azzurri-fm.com/)で、『直達会!! 大好きな素敵な友人をご紹介します!!』(毎月第三日曜日16時〜16時50分)『直達会!! 世界はみな友達!!』(毎月第二土曜日13時? 13時50分)を放送中。

『素敵な活動をしている素敵な人が集まって応援し合う』

親からほめられて育ったから人のいいところがよく見える

中川:
屋宮さんのプロフィールを拝見しましたが、ずいぶんといろいろなことをやられていますね。鹿児島県の奄美大島のご出身ということですが、奄美には私どもの会員さんも多くて、私も何度か行ったことがあります。
屋宮:
今日はお招きいただきありがとうございます。奄美大島の宇う検けん村そんというところの出身です。湯ゆ湾わん岳という奄美大島で一番高い山があります。 会長も奄美にお越しいただいてうれしいです。
中川:
熱心な会員さんがいらっしゃるんですよ。ところで屋宮さんは、直達会という異業種交流会を主宰しておられるそうで、有名な方々がたくさん集まられているようですね。
屋宮:
大好きな素敵な友人と出会った素敵な方にお声掛けして開催しています。素敵な友人が素敵な友人を紹介してくださって、今では1500人を超えるメンバーがいます。
中川:
1500人ですか。すごいですね。どんな方が集まっているのですか?
屋宮:
日本一、世界一、国内外で活躍している方、創始者、創業者、創設者、社長、会長、各種団体代表、アーティスト、武道家、医者、弁護士、公認会計士など、さまざまな分野で活躍されている方が集まっています。皆さん誠実でやさしくて世の為、人の為、世界平和素晴らしくて幸せです。私がいいと思っていることは相手にも伝わります。出会った方も喜んでくださいます。 そして素敵な友人を紹介してくださいます。 素敵な友人が素敵な友人を紹介して、それがどんどん広がって喜んで参加してくださるのがうれしいです。
中川:
屋宮さんがいい氣を発しているからいい人が集まってくるんでしょうね。 いいところを見るというのは、氣の観点から言っても、すごく大切なことだと思います。真氣光の会員の皆様には、日々いいことを探して暮らすといい氣が集まってきますよとお話しています。 9割が不愉快な一日であっても、1割は不快ではないことがあるわけですから、9割の悪いことにイライラしたり、落ち込んだりするよりも、1割の良かったことに意識を向けてニコニコしている方が幸せじゃないですか。 いいところを探して喜ぶ癖をつけると、9割の不愉快な出来事の中にも、良かったことを見つけ出せたりします。嫌なことを言われたけれども、あれは自分を見直すいいチャンスだったと思えるようになったりするのです。そうなれば、どんどんいいことが増えて、よりたくさんの幸せを感じられるようになります。
屋宮さんがいい氣を発しているからいい人が集まってくるんでしょうね。 いいところを見るというのは、氣の観点から言っても、すごく大切なことだと思います。真氣光の会員の皆様には、日々いいことを探して暮らすといい氣が集まってきますよとお話しています。 9割が不愉快な一日であっても、1割は不快ではないことがあるわけですから、9割の悪いことにイライラしたり、落ち込んだりするよりも、1割の良かったことに意識を向けてニコニコしている方が幸せじゃないですか。 いいところを探して喜ぶ癖をつけると、9割の不愉快な出来事の中にも、良かったことを見つけ出せたりします。嫌なことを言われたけれども、あれは自分を見直すいいチャンスだったと思えるようになったりするのです。そうなれば、どんどんいいことが増えて、よりたくさんの幸せを感じられるようになります。 
屋宮さんのように、人のいいところが自然に見えてくるという方は、たくさんのいい人間関係が築けて、仕事もプライベートもうまくいくと思いますね。
屋宮:
人は皆いいところがあります。私は、人のいいところが大きく見える力があります。 人のいいところが見えると自分も幸せ、周りも幸せです。 初めて出会った方が仏様、福の神、島神様と出会いを喜んでくださいます。 会社を三つ株式上場させた創業者からは、「屋宮さんは葬儀社になったら大成功間違いなし、宗教家になったら大幹部間違いなし」と言われました。
中川:
相手のいいところを見て素直にほめることができたら、宗教家じゃなくても大成功しますよ(笑)。 歯の浮くようなほめ言葉ではなくて、相手をきちんと観察した上でいいところを見てほめるから感動するんでしょうね。心からほめないと伝わりませんからね。
屋宮:
私は、鳥越アズーリFMというラジオ、インターネットテレビで、直達会番組を2つもっています。ひとつは『直達会!! 大好きな素敵な友人をご紹介します!!』。もうひとつは、世界の大使や国を素敵に紹介してみんな仲良く世界平和を目指す番組『直達会!! 世界はみな友達』です。 すばらしい方たちが喜んで出演してくださいます。 いい人に出会って、いい人の素敵な活動を応援しています。 私を良く思ってくださる友人の皆さんが、素敵な友人を紹介してくださいます。『直達さんを紹介すると皆さん喜ぶんです』とうれしいことを言って、素敵な友人を 毎月の交流会、直達会で参加者全員に一人一分の自己紹介をしていただいていますが、皆さん素晴らしくて、感動します。

<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

敬天愛人と仲間たち

内外出版株式会社
屋宮 直達 (著), 田村 重信 (著), 吉田 明弘 (著), 笠間 千保子 (著), 三好 那奈 (著)その他

覚 和歌子(かく わかこ)さん

作詞家・詩人。平原綾香、SMAP、沢田研二などの作詞を手掛ける。2001年『千と千尋の神隠し』の主題歌『いつも何度でも』の作詞でレコード大賞金賞。詩集に『ゼロになるからだ』(徳間書店)、『海のような大人になる』( 理論社)など。自唱ソロCDに『青空1号』(ソニー)、『カルミン』(valb)、『ベジタル』(valb)、『シードル』(モモランチ)がある。エッセイ、絵本など著作多数。

『不思議な感覚で降りてきた『千と千尋の神隠し』の主題歌』

詩は、もともと祝詞から始まっているのではないか、と思います

中川:
覚さんはスタジオジブリの映画『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」を作詞された作詞家であり詩人です。音楽やアニメにそれほど詳しくない私でも、この歌はよく知っています。不思議な詩だな、と思いながら聴いていました。その作者にお会いできるとは本当に光栄です。今日はご自宅におうかがいしたのですが、テーブルの上にはCDや詩集、それに占いのカードを用意してくださっていて、いろいろなことをやっておられる覚さんですから、何からお話をうかがいましょうかね。この占いのカードにしますか。「ポエタロ」って言うんですね。覚さんが作られたんですか?
覚:
「ポエタロ」は「ポエムタロット」の略です。一般的にオラクルカードと呼ばれるものの一種ですが、友だちがくれたカードで私自身、気持ちが楽になったことがありました。それで、詩でも作れるんじゃないかと思いました。心理学者のユングが偶然に見えることにはすべて意味があると言っています。ぱっと開いたカードにも意味がある。自分で聞きたいことを考えながら直感と結びついてる左手で引くんですね。 でも、いきなりカードの話でいいんですか(笑)。さすが氣功の先生ですね。
中川:
何となくふっと気になったあるのではないでしょうか。 詩も短い言葉でメッセージを伝えるわけですから、詩人の覚さんがこういうカードを作るのも意味があるのかと感じました。
覚:
ふっと気になったとおっしゃいましたが、詩も作るものではなく、ふっと生まれるものほど、エネルギーがあるように、私は感じています。 私は、詩はもともとは祝の り詞とが始まりだと考えています。神様と交感する言葉が芸能になり、詩になったのではないでしょうか。 目で読む文字言葉と発声する言葉のうち、私が大事にしているのは音声としての言葉です。記録としては残らないけれども、波動が残ります。私の場合、そこへのアクセスが強いと思っています。
中川:
なるほど。お経を作りたいとお書きになっていましたが、お経も祝詞も意味を知ることよりも、波動を感じることが大事なのかもしれないですね。ポエタロも言葉の波動を感じて引くんでしょうね。 詩集の中にはひらがなだけのものもありましたが。
覚:
ひらがなは響きにとても近い文字だと思います。ひらがなは一文字一音です。漢字は意味を伝えるけれどひらがなからは音が伝わってきます。
中川:
ひらがなの方が、波動を感じられるということでしょうか。私も日本語は不思議だなと思っています。50音があって、その組み合わせで言葉ができるわけですから。 覚さんは、子どものころから波動を感じるような特殊な感性があったのでしょうか。
覚:
幼いころからカンの強い子で、見えないものの存在をキャッチして生きてきたように思います。HSPというのをご存じでしょうか。HighlySensitivePersonの略で、過剰な感受性をもって生まれた人という意味です。昔は、単に神経質な人で精神修養が足りないのだと見られていましたが、HSPという形でカテゴライズされたときに、「自分はこれなんだ」とわかってとても安心しました。背が高いのと同じように生まれ持った個性だとわかって、居場所が見つかったような気がしました。
中川:
初めて聞きますが、どんな特徴があるのですか。
覚:
細かいことを過剰に気にするというのが特徴の筆頭です。また私は聴衆がいないところで歌ったり合唱するようなときには、上手に歌えるんですが、ソロで人前でとなると膝がガクガク震えて声が出なくなるんですね。それもHSPの大きな特徴で、衆目の中で自分を発揮できないという気質です。
中川:
でも、ライブをやっておられますよね。
覚:
実はライブのときもすごく怖いんです。でも、どういうわけかやらずにいられません。どうしてでしょうね(笑)。小学生のとき、所属していた合唱団から先生に推薦されて、独唱コンクールに出ることになりました。練習では上手に歌えたのに本番では緊張してボロボロ、その後のトラウマになりました。歌は大好きですが、自分では失敗体験を重ねているという認識です。
中川:
まわりの人の氣を敏感に感じ取ってしまうんでしょうね。覚 詩も気が乱れている東京では書けなくて。今は八ヶ岳にアトリエがあって、詩作はもっぱらそちらですね。 人の気配があると集中できないんです。『千と千尋の神隠し』の主題歌のときは、八ヶ岳にまだ家がなかったので、静かな夜の時間を使って東京で書きましたけど。 
<後略>

都内の覚和歌子さんご自宅にて 構成/小原田泰久

はじまりはひとつのことば

覚 和歌子 (著)
出版社 ‏ : ‎ 港の人

覚 和歌子(かく わかこ)さん

作詞家・詩人。平原綾香、SMAP、沢田研二などの作詞を手掛ける。2001年『千と千尋の神隠し』の主題歌『いつも何度でも』の作詞でレコード大賞金賞。詩集に『ゼロになるからだ』(徳間書店)、『海のような大人になる』( 理論社)など。自唱ソロCDに『青空1号』(ソニー)、『カルミン』(valb)、『ベジタル』(valb)、『シードル』(モモランチ)がある。エッセイ、絵本など著作多数。

『不思議な感覚で降りてきた『千と千尋の神隠し』の主題歌』

詩は、もともと祝詞から始まっているのではないか、と思います

中川:
覚さんはスタジオジブリの映画『千と千尋の神隠し』の主題歌「いつも何度でも」を作詞された作詞家であり詩人です。音楽やアニメにそれほど詳しくない私でも、この歌はよく知っています。不思議な詩だな、と思いながら聴いていました。その作者にお会いできるとは本当に光栄です。今日はご自宅におうかがいしたのですが、テーブルの上にはCDや詩集、それに占いのカードを用意してくださっていて、いろいろなことをやっておられる覚さんですから、何からお話をうかがいましょうかね。この占いのカードにしますか。「ポエタロ」って言うんですね。覚さんが作られたんですか?
覚:
「ポエタロ」は「ポエムタロット」の略です。一般的にオラクルカードと呼ばれるものの一種ですが、友だちがくれたカードで私自身、気持ちが楽になったことがありました。それで、詩でも作れるんじゃないかと思いました。心理学者のユングが偶然に見えることにはすべて意味があると言っています。ぱっと開いたカードにも意味がある。自分で聞きたいことを考えながら直感と結びついてる左手で引くんですね。 でも、いきなりカードの話でいいんですか(笑)。さすが氣功の先生ですね。
中川:
何となくふっと気になったあるのではないでしょうか。 詩も短い言葉でメッセージを伝えるわけですから、詩人の覚さんがこういうカードを作るのも意味があるのかと感じました。
覚:
ふっと気になったとおっしゃいましたが、詩も作るものではなく、ふっと生まれるものほど、エネルギーがあるように、私は感じています。 私は、詩はもともとは祝の り詞とが始まりだと考えています。神様と交感する言葉が芸能になり、詩になったのではないでしょうか。 目で読む文字言葉と発声する言葉のうち、私が大事にしているのは音声としての言葉です。記録としては残らないけれども、波動が残ります。私の場合、そこへのアクセスが強いと思っています。
中川:
なるほど。お経を作りたいとお書きになっていましたが、お経も祝詞も意味を知ることよりも、波動を感じることが大事なのかもしれないですね。ポエタロも言葉の波動を感じて引くんでしょうね。 詩集の中にはひらがなだけのものもありましたが。
覚:
ひらがなは響きにとても近い文字だと思います。ひらがなは一文字一音です。漢字は意味を伝えるけれどひらがなからは音が伝わってきます。
中川:
ひらがなの方が、波動を感じられるということでしょうか。私も日本語は不思議だなと思っています。50音があって、その組み合わせで言葉ができるわけですから。 覚さんは、子どものころから波動を感じるような特殊な感性があったのでしょうか。
覚:
幼いころからカンの強い子で、見えないものの存在をキャッチして生きてきたように思います。HSPというのをご存じでしょうか。HighlySensitivePersonの略で、過剰な感受性をもって生まれた人という意味です。昔は、単に神経質な人で精神修養が足りないのだと見られていましたが、HSPという形でカテゴライズされたときに、「自分はこれなんだ」とわかってとても安心しました。背が高いのと同じように生まれ持った個性だとわかって、居場所が見つかったような気がしました。
中川:
初めて聞きますが、どんな特徴があるのですか。
覚:
細かいことを過剰に気にするというのが特徴の筆頭です。また私は聴衆がいないところで歌ったり合唱するようなときには、上手に歌えるんですが、ソロで人前でとなると膝がガクガク震えて声が出なくなるんですね。それもHSPの大きな特徴で、衆目の中で自分を発揮できないという気質です。
中川:
でも、ライブをやっておられますよね。
覚:
実はライブのときもすごく怖いんです。でも、どういうわけかやらずにいられません。どうしてでしょうね(笑)。小学生のとき、所属していた合唱団から先生に推薦されて、独唱コンクールに出ることになりました。練習では上手に歌えたのに本番では緊張してボロボロ、その後のトラウマになりました。歌は大好きですが、自分では失敗体験を重ねているという認識です。
中川:
まわりの人の氣を敏感に感じ取ってしまうんでしょうね。覚 詩も気が乱れている東京では書けなくて。今は八ヶ岳にアトリエがあって、詩作はもっぱらそちらですね。 人の気配があると集中できないんです。『千と千尋の神隠し』の主題歌のときは、八ヶ岳にまだ家がなかったので、静かな夜の時間を使って東京で書きましたけど。 
<後略>

都内の覚和歌子さんご自宅にて 構成/小原田泰久

はじまりはひとつのことば

覚 和歌子 (著)
出版社 ‏ : ‎ 港の人

ウォン・ウィンツァン(うぉんうぃんつぁん)さん

1949年神戸生まれ。19歳でプロとしてジャズやソウルを演奏。87年、瞑想の体験を通して自己の音楽の在り方を確信し、90年にピアノソロ活動開始。サトワミュージックを設立し「フレグランス」をはじめ30作近くのCDをリリース。NHK「目撃!にっぽん」Eテレ「こころの時代」テーマでも知られる。YouTubeではピアノソロ動画が160万回再生突破。

『音楽で自分らしく生きるためのスイッチをオンにする』

コロナがきっかけでYouTubeでの発信が柱になった

中川:
ご無沙汰しています。前回の対談がいつごろだったか調べてみたら、1999年でした。もう23年も前のことなんですね。 実は、私ども真氣光の会員さんで本の編集のお仕事をされている尾崎靖さんから、ウォンさんと親しくしているというお話をお聞きし、その後どうされているかと思って、対談をお願いした次第です。今日はよろしくお願いします。
ウォン:
もう23年もたっていますか。ぼくも会長と再会できてうれしいです。 尾崎さんとは、阿蘇で自然農をやっている野中元(はじめ)さんという共通の友だちがいて知り合いました。野中さんは農家でありながら、カメラマンとしても活躍していますが、ぼくが彼の家にライカのいいカメラを忘れていったことがきっかけでカメラマンになったというのですから面白いでしょ。当時、ぼくは写真に凝っていました。 ちょうど、会長と対談したころじゃないかな。
中川:
そうでしたか。人と人との縁は本当に面白いし、縁によって進む道が決まったりしますからね。 前回は、ウォンさんが音楽家になる経緯とか瞑想で大きく変化した話などお聞きしました。あれから23年。いろいろなことがありました。 特に、2011年の東日本大震災。それにここ2年ほどのコロナ禍。活動にも影響があったし、考えることもおありだったと思いますが。
ウォン:
東日本大震災と原発事故には日本中がショックを受けたと思います。日本全体が追い詰められた感じになっていて、こんなとき自分にできることは何だろうかと考えました。 息子にも相談して、インターネットでライブ配信をすることにしました。 ほぼ毎日、50日間配信しました。ぼくにとっては修行のような毎日でしたが、すごくたくさんの人が喜んでくださって、やって良かったと思いました。 チャリティコンサートも企画しました。500人以上の大きな会場でしたが、すぐに満員になり、義援金もたくさん集まりました。
中川:
あのときは、日本全体が一致団結していましたよね。
ウォン:
すべての日本人が不安や危機感をもっていて、それが一体感を生み出したのだと思いますね。

中川:
今回のコロナ禍ではどうでしょうか。YouTubeではずいぶんとたくさんの方がウォンさんの演奏を聴いているようですが。
ウォン:
2019年まではすごい勢いでコンサートをやっていました。2020年に入ってからコロナが広がり始めたために自粛ムードが出てきて、雲行きが変わってきました。2~3年は動きがとれないのではないかという予感があって、YouTube配信に方向展開することにしました。 音楽活動の柱を、コンサートとCDからYouTubeに移す大きなきっかけがコロナでした。 前々からオンラインを活動拠点にしたいと思っていたので、これだけはコロナのおかげです。
中川:
コロナがオンラインでのコミュニケーションを確立させた感がありますね。私も、オンラインでセミナーやセッションをすることが多くなりました。 だけど、ミュージシャンの方にとっては、YouTubeで聴けるとなるとCDが売れませんから収益という面では厳しいのではないでしょうか。コロナのせいで音楽が衰退してしまっては大変です。
ウォン:
YouTube配信では確かに収益にはなりませんね(笑)。 だけど、まずは聴いてもらわないと話にならないですからね。聴いてもらうための手段としてはYouTubeはいいと思います。 コンサートではある一定の人にしか聴いてもらえないし、遠い人はなかなか会場まで来ることができません。 YouTubeだと全国で聴けます。160万人とか170万人が見てくれるのもありますからすごいと思いますよ。 YouTubeを始めてからいろいろな意味で広がりは出てきています。何しろ顔が出ますから、街を歩いているとウォンさんじゃないですかと声をかけられたりすることもありました。サウナやクリニックでもYouTubeが縁で友だちができました(笑)。



中川:
なるほど。聴衆との距離がものすごく縮まりましたね。

ウォン:
ミュージシャンがオンライン化するのは難しいのではないでしょうか。でも、ぼくの場合はスタジオがあるし、機材もあるし、息子の助けがあって、恵まれています。それに、スタッフがオンラインで広げていくノウハウをしっかり勉強してくれました。スタッフの2人はネットでの配信が得意なので助かっています。 音はCDで聴けるくらいのレベルにはしています。映像もカメラ4台を使っていいのを撮っていますよ。 先ほど言いましたが、写真が趣味だったので、いいレンズがたくさんあって、それが使えるんですね。 YouTubeの広がりで音楽が映像ありきになってきました。音楽よりも映像の制作費の方が高いということも起こってきていますね。

<後略>

東京・新宿区のサトワミュージックにて 構成/小原田泰久

童謡 Doh Yoh vol.1

ウォン・ウィンツァン
サトワミュージック

ジョー 奥田(じょー おくだ)さん

1954年大阪市生まれ。大阪歯科大学を卒業し歯科医師免許取得。1980年渡米。ロサンゼルスで活動開始。1998年自然音楽家として活動を始める。2013年拠点をハワイ島に移す。世界各地の自然音を録音し、ストーリー性豊かな、新しい自然の音の世界をクリエイトする。2021年日本に戻り、歯科医として医療の分野から自然音による癒しを追求する。

『自然の音は神様が作った。だから常に完璧で美しい』

歯科の国家試験に受かったのに、音楽の道を志した

中川:
ジョーさんは自然の音を録音するお仕事をされていて、CDもたくさん出されています。私も何年か前にダウンロードして、疲れたときにはよく聴いています。 聴いているうちに眠くなってきます。体も心もリラックスするのだと思います。 まるで実際にその場にいるような臨場感のある音ですね。
ジョー:
ありがとうございます。「バイノーラルマイク」という特殊なマイクで録音しています。人間の頭の形をしていて、表面も音の反射の具合が人間の皮膚と同じように作られています。精密なゴムの耳がついていて、鼓膜の位置にある高感度のマイクで音を拾いますので、人間の聴覚を正確に再現することができます。 あたかも自然の中に自分がいるかのように聴こえるというのが、私の作品のベースになっています。 屋久島の森や奄美大島の森を体験しようとしてもなかなかできないじゃないですか。肉体的な条件、年齢的な条件で、行きたくても行けない人にも、屋久島や奄美大島やハワイの森の音を体験していただきたいというのがもともとの出発点です。
中川:
プロフィールを拝見すると歯科大学を卒業されているのですが、どうして歯医者さんにならずに自然音楽家の道に進まれたのでしょうか。とても興味深いですね。
ジョー:
歯科大学を卒業して、国家試験を受けて合格したのですが、歯科医にならずに、すぐにアメリカへ渡って音楽の道に進みました。それが1980年ですから約40年前です。 ロスで25年ほど活動し、東京に戻って10年、その後ハワイ島で暮らしていました。2021年11月に東京へ帰ってきました。そして、ある歯科クリニックで仕事を始めました。67歳の新人歯科医です(笑)。
中川:
大変なチャレンジだと思います。国家試験まで合格していたのに音楽の道ですか。よほど音楽が好きだったんですね。
ジョー:
そうですね。大学6年生になると、病院で1年間診療実習があって、その後半に国家試験の勉強をするわけです。国家試験は医大生、歯科大生にとっては一生を左右することですから、私もご飯を食べるとき、寝るとき以外はずっと勉強をしていました。 試験勉強中は合格することだけしか頭にありませんでしたから、自分の将来について考えることはあまりありませんでした。 しかし、試験が終わって発表があるまでに2カ月くらい時間があります。そのときに自分のこれから先の人生についてじっくりと考えました。このまま歯科医になって後悔はないのかと自分の思いを突き詰めていくうちに、どんどん音楽への思いが膨れ上がってきました。 国家試験の発表があって、歯科医の免許がもらえて、ほっとしたのも束の間、やっぱり音楽の道に進もうと決めました。 親はすごく怒っていました(笑)。
中川:
そりゃ怒りますよね。せっかく国家試験に受かったのに歯医者さんにならずに音楽の道ですからね。それもアメリカへ行くわけですよね。
ジョー:
でも、歯科大学で勉強したことは無駄にはなってないと自分では思っています。自然の音を扱うようになって、自分が学んできた医療のベーシックな知識とか、人間との向き合い方がとても役に立っています。 今回、日本に戻ってきて歯科医になろうと思ったのも、今までアーティストというアングルで表現してきたことを、今度は医療者という違った立場で伝えていければと考えてのことです。 自然の音は世界で一番美しいと思います。完璧だからこそ美しい。完璧な音は、人間の肉体にも精神にも、いろいろないい作用をもたらせるはずです。そこにアプローチできれば、医療者としても貢献できるのではないでしょうか。
中川:
自然の音を録ろうと思ったきっかけがあるかと思うのですが。
ジョー:
あるとき、レコード会社から自然の音を録音してほしいと依頼されました。やったことがなかったので試行錯誤しながらやっと録音ができて、ある日、ロスのスタジオで夜中に自分の録った自然の音を聴きました。ものすごくショックを受けました。感動するほど美しかったのです。パーフェクトな美しさでした。 なぜこんなにも美しいのだろう? と考えました。答えはすぐに出ました。神が作った音だから完璧なのです。美しいのです。 人間は音楽や絵画、彫刻など芸術作品を作るとき、完璧を目指すけれどもとても完璧には到達できません。完璧ではないところが人間の美しさであり良さだと思いますが、自然の音は非の打ちどころがありません。人間にはできないことを自然はやってのけていることにすごさを感じました。 そのことがきっかけで、神が作った音の完璧さを意識することができるようになりました。自分のこれまでの録音や編集といった経験、感性を全部注いで作品として自然の音の美しさを伝えたいという思いが湧き上がってきたのです。

<後略>

東京・池袋のSAS東京センターにて 構成/小原田泰久

CD:Tokyo-Forest-24Hours

ジョー奥田

松浦 智紀(まつうら とものり)さん

1975年埼玉県富士見市生まれ。九州東海大学農学部農学科卒。大学卒業後、福岡県久留米市の食品会社(流通・小売り)に就職。その後帰郷して、(有)サン・スマイルを起業。現在、同社代表取締役。自然栽培パーティ理事など多くの会で中心的な役割を果たす。自社の農園で自然栽培も実践中。

『自然栽培の生産者と自然食を食べたい消費者をつなぐ』

自然栽培がやりたくて九州の大学の農学部へ進学

中川:
自然栽培にはとても興味をもっていて、奇跡のりんごの木村秋則さんはじめ、生産者の方には何人もお話をうかがってきました。松浦さんは、自然栽培で作った作物を小売店に卸すという仕事をされています。 自然栽培の農家さんは少しずつ増えていると思いますが、松浦さんのような方が販売先を開拓しているからこそ、生産者も安心して作ることができるのだと思います。 自然栽培というまだマイナーな分野で生産者と消費者をつなぐというのは、けっこう大変だろうと思います。ご苦労されたこと、やりがいを感じるときといったお話をお聞かせ願えればと思います。
松浦:
ありがとうございます。大学時代から自然栽培にはかかわっていて、もう25年ほどになります。振り返ってみるといろいろなことがありました。

中川:
高校生のころに、農業、それも自然栽培をやろうと思って、大学は農学部に入ったそうですね。
松浦:
そうです。母がとても病弱でした。全身神経痛と言われていましたが、今で言う化学物質過敏症だったと思います。 スーパーで買った野菜が食べられず、農家から直接、無農薬の野菜を購入して食べていました。 あるとき、台所に一枚のはがきが置いてあるのを見つけました。母が野菜を届けてくれる農家に書いたものでした。何気なく手に取って読んでみたところ、母の感謝の気持ちが綴られていて、農業という仕事はこんなにも人に喜ばれるのだと思ったのがきっかけでしたね。
中川:
それまで農業の体験はなかったんですよね。
松浦:
父はアルミ工場を経営していて、農業とは無関係です。私も、近所の畑で遊んだことはありますが、農作業はやったことがありませんでした。食にもまったく関心がありませんでした。
中川:
熊本の九州東海大学の農学部に進学したわけですが、そこには自然栽培を学ぶコースがあったのですか。
松浦:
高校の先生に聞いてもわからないので自分で調べて、九州東海大学に自然栽培や有機栽培を研究している片野学先生という方がいるとわかって、ここへ行こうと決めました。
中川:
今から25年以上前のことですよね。自然栽培をテーマにしているという先生はあまりいなかったでしょうね。
松浦:
いませんね。片野先生は岩手大学におられるときに大冷害があって、ほとんどの田んぼが全滅したのに、自然栽培の田んぼだけはコメが実ったのを見て、自然栽培の研究を始めたそうです。 もっと本格的に研究をしようと九州東海大学へ来られたのですが、私が入学したころは完全に異端児でした。ある授業で、教授が「うちには片野というとんでもない奴がいる。無農薬という社会の役に立たないことを研究している」と言っていたのがとても印象に残っています。ほとんどの人がそう思っていたんじゃないでしょうか。 そんな状況ですから、大学に自然栽培のコースがあるわけではありませんでした。授業では現代農業のことしか教えてくれません。遺伝子組み換えの実験とかもやりました。 学校の勉強ではやりたいことが学べないとわかったので、片野先生にお願いして、県内を中心に自然栽培や有機栽培をやっている農家さんを回り、無肥料栽培についての論文を書いて卒業したわけです。
中川:
何軒くらいの農家さんを回られたのですか。
松浦:
100軒は回りましたかね。
中川:
当時から、自然栽培や有機栽培をやっている農家さんはけっこうあったんですね。
松浦:
熊本県は環境問題に対してとても意識が高いと思います。水俣病がありましたからね。そういう面では、いい大学に進めたと思っています。

中川:
熊本県には、私ども真氣光の会員さんも多いです。氣のような目に見えない世界のことにも関心が高い県なのかもしれません。野菜を作っていたり、野菜の卸売業をしている方もいます。 100軒も農家を回れば、いろいろな方がいたでしょうね。
松浦:
学生が訪ねて行くと、みなさん大歓迎してくれました。九州ですから、必ず焼酎が出ました(笑)。泊めてくれて、朝方まで飲みながら語り合いました。 どなたもこだわりがあって、みなさん独自の道を進んでおられましたね。もっと協力し合えば、自然栽培や有機栽培は広がるのにと思ったものです。 でも、考えてみれば、当時は無農薬の技術や知識も少なかったから、試行錯誤しながら自分のやり方を築いてきた人ばかりです。まわりの人たちには理解されず、村八分になった人もいました。お前のところが農薬を使わないからうちの父ちゃんが怒っていた、と子どもたちが学校でいじめられたりもしたようです。 家族を守るために、歯を食いしばってやってきた人たちばかりですからね。自立心とか自尊心が強いのが当然だと思います。 そういう人たちの苦労があったからこそ、今になって、彼らの技術を使わせてもらっているという面もありますよね。<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

高砂 淳二(たかさご じゅんじ)さん

1962年宮城県石巻市生まれ。ダイビング専門誌『ダイビング・ワールド』の専属カメラマンを経て、1989年にフリーカメラマンとして独立。世界100ヶ国を超える国々を訪れ、海中、虹、生き物、風景まで、自然全体のつながりや人とのかかわり合いなどを テーマに撮影活動を行っている。また、数多くの写真集・エッセイを出版している。

『リスペクトと感謝の気持ちをもって「自然」にカメラを向ける』

すべての生き物は役目があって地球上で生きている

中川:
ご無沙汰しています。どれくらいご無沙汰しているか調べてみてびっくりしました。前回、この対談に出ていただいたのが2000年でしたから、21年ぶりということになります。 あのときは写真家になった経緯などお聞きしました。先代のこともご存じだったというお話もされていたのを覚えています。
高砂:
そんなに前のことでしたか。早いですね。あのころから私は氣のことにすごく興味があったので、先代のことも存じ上げていました。先代もそうだし、ハイゲンキという機械にもとても興味がありました。
中川:
対談では、『アシカが笑うわけ』というご著書を紹介しました。あれからいろいろなところへ行かれたでしょうし、さまざまな体験をされたことと思います。
高砂:
『アシカが笑うわけ』のころは海に潜りながら写真を撮ることが多かったのですが、海底に這いつくばっているナマコとか石みたいに動かないサンゴとか人間と遊びたがるイルカなどを見て、なんでこんなにいろいろな生き物がいるのだろうと思っていました。 陸上にも目を向ければ、地球上には数えきれないほどのたくさんの生き物がいるじゃないですか。生き物たちが多種多様な生き方をしているのが不思議でたまらない時期でしたね。
中川:
確かに、地球の上は動物、植物であふれていますね。必要があって、いろいろな生き物がいるんでしょうね。
高砂:
その中に人間もいるわけですが、ほかの生き物から見たら、人間ってすごく不思議な生き物なんじゃないでしょうか。ほかの生き物が人間を見てどう思っているのだろうと想像したことがあります。獲物を追いかけるわけでもないのにわざわざ走ったり、釣った魚を食べずに逃がしたり、動物たちをペットにしてご飯を与えて散歩をさせたり、会社という群れで来る日も来る日も何かを手分けして作り、それを自分では使わずに紙切れと交換して喜んでいる。私たちがナマコを見て不思議だと思う以上に、彼らには人間のことが理解できないんじゃないでしょうか(笑)。
中川:
環境を破壊するのも人間だけだし。
高砂:
その通りですね。そんなことを考えているうち、人間ってなんのためにいるんだろうと気になって仕方なくなったのです。 いくら考えても答えは出ませんでしたが、2000年の夏にハワイの自然を撮影するためにマウイ島にひと月ほど滞在したとき、カイポさんという先住民の男性にお会いしたことがきっかけで、いろいろな疑問が解けていきました。
中川:
どんな方なのですか?
高砂:
薬草やロミロミというハワイの伝統的なマッサージ法で病気の治療をしている方でした。カイポさんを紹介してくれた知人の父親は、病院では治らなかった病状が、彼の治療で劇的に回復したそうなのです。 その話を聞いて、私は彼に弟子入りして、毎日のように彼のもとに通いました。 それまで何度かハワイへは行っていましたが、リゾート地としかとらえていませんでしたから、カイポさんとの出会いはとても新鮮でした。

中川:
カイポさんからはどんなことを教わったのでしょうか?
高砂:
ハワイでは「アロハ」とあいさつをしますが、とても深い意味があります。ひと言で言うと「愛」なのですが、もっと細かく言えば、アロハは「アロ」と「オハ」と「ハ」に分解されて、「アロ」は目の前のとか、シェアするとかいう意味、「オハ」はあいさつ、喜びなど、「ハ」は、呼吸、神の息吹き、生命などのことです。アロハになると神の息吹を共有する、分かち合うといった意味になります。
中川:
神の息吹を共有し分かち合うことですか。それがアロハなんですね。「ハロー」くらいの軽い気持ちで言っていますが、深い意味があるんですね。
高砂:
私は、アロハこそ人間の役割なのかなと思いました。 それで、私がずっと疑問に感じていた、なぜこんなにたくさんの生き物が地球上にいるのかということをカイポさんに聞いてみました。 カイポさんからはこういう答えが返ってきました。 生き物にはみんな役目があって、パズルのピースが集まって形を作り出すように、地球を成り立たせているのです。 ハイエナやバクテリアだったら大地の掃除をする存在だし、ミミズは土を耕します。なんのためにいるのだろうと思えるような小さな生き物も、自分では気づいていないかもしれませんが、もっと大きい生き物に食べられて栄養を与えるという役目があります。植物は酸素を供給したり、動物に食べられて命を養うという役目があります。 彼らはすべての生き物は意味があって存在するということをまったく疑っていません。食べられるというのも大事な役目だというのは、新しい発見でした。 海に潜っていると、逃げまどって一生を終える小魚たちを見ますが、彼らは逃げながらも嬉々として生きているように見えます。役目を果たしているからなんでしょうね。植物たちも「さあ、食べてください」と言わんばかりに凛として大地から生えているように見えます。

<後略>

東京・渋谷区の高砂さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

PLANET OF WATER (NATIONAL GEOGRAPHIC)

高砂 淳二 (著)
ナショナル ジオグラフィック

あじろ ふみこ(あじろ ふみこ)さん

新潟県立高田北城高校卒後、国立清水海員学校・専修科(現・国立清水海上短期大学校)卒。東京港で150人乗り海上バスの船長兼機関長を務める。2000年会社員の夫と結婚、長男・長女二人の発達障害児を育てる。現在、東京都公立学校特別支援教室専門員。著書『母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年』(中央公論新社)

『右往左往の子育て体験。息子も娘も発達障害だった』

すごい勢いで移動して障子をバリバリと破り始めた

中川:
知り合いからあじろさんが書かれた『母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年』(中央公論新社)という本をすすめられました。 2人のお子さんが発達障害ということで、悪戦苦闘の子育てをされた様子が詳しく書かれていてとても興味深かったです。 発達障害のことはあまり知識がありませんでしたが、世間の理解もまだまだだし、悩んでいるお母さん方も多いのではないでしょうか。あじろさんの体験は、こうやればいいのか、こう考えればいいのかと、参考になるかと思います。
あじろ:
ありがとうございます。 これまでは、学校は毎日行かないといけないし、いろいろな方とかかわるのがいいことだとされてきました。それが適応力があるということだったんですね。 ところが、今はコロナ禍で、学校が休みになったり、人とかかわってはいけませんという風潮になっているじゃないですか。真逆ですよね。 適応力があるとされてきた子は戸惑っていると思いますよ。親御さんもそうです。遊ばせる場所がない、学校へ行かなくて大丈夫だろうかと、心配になってしまいます。 だけど、発達障害の子は、家の中でゆっくりできて、友だちと緊張状態の中で付き合う必要がないというのはとても快適です。コロナ禍の社会に適応しているんですね(笑)。 そういうものの見方もあるということを知るのもとても大事かなと思ったりしています。
中川:
確かにそうですね。状況に応じて、プラスがマイナスになったりマイナスがプラスになったりしますね。 息子さんが普通の子とは違うなと感じたのはいつごろですか?
あじろ:
生まれたときから「なんか変」と感じていました。とにかく寝ないで泣きまくるんです。抱っこしているといいのですが、床におろしたとたんにギャーと泣くんです。絶対に寝ない。 家で抱っこしていても泣くようになって、夜風に当たりながら外で抱っこしていたこともありました。 公民館で7 ヵ月から1 歳2ヵ月までの子どもを対象とした子育てサークルに参加しました。 ほとんどの子どもたちはお母さんの膝に乗って絵本を読んでもらったり、おもちゃで遊んでいるのに、うちの息子は絵本やおもちゃには見向きもしませんでした。 すたすたと障子のもとへ向かい、障子を次々と破いていったのです。ものすごいパワーです。 つかまえると大声で泣き、離すと一目散に障子に向かっていって、また破き始める。障子の下の方のマスは全滅でした(笑)。
中川:
それは大変だ。
あじろ:
買い物に連れて行っても大変です。息子がスーパーへ入ったとたんに突進していく場所はお菓子コーナーではなくて鮮魚売り場。ケースの中に入った鮮魚をつかんで大騒ぎするんです。 水たっぷりの樽にドジョウを入れて売っていたことがありました。おもむろに樽に両手を突っ込み水をばしゃばしゃかき混ぜながらドジョウとたわむれ始めました。床は水浸し。ドジョウだって飛び出したりしますよ。必死で止めようとしましたが、全身全霊で号泣ですよ。もう収拾がつきません。ほんの数分が永遠と思うほどの長い時間に思えました(笑)。
中川:
すごいですね。そんな状態だと出かけられなくなりますよね。
あじろ:
息子のように何をするかわからない子どもを育てていると、家に引きこもっていたほうが、他人の目を気にする必要もないし、他人に迷惑をかける心配もないので安心かもしれません。 でもそれって、「しつけもまともにできないダメな親」と非難されるのがいやだというのが本心だと思うんですね。人は体験を積むことで成長する、と私は信じているので、息子をあちこち連れて行きました。
中川:
まわりからいろいろ心ないことも言われたんじゃないですか。
あじろ:
事情を知らない人たちが、目の前で起こった出来事だけで非難を口にするのには参りましたね。上から目線で「私が正してあげる」というある種の正義というんでしょうか、もっと相手の立場に立って、非難ではない別の伝え方があるのではと思いました。 理不尽な非難を受けて、最初は悲しんでいましたが、何度もそういう体験をするうちに、私は「言うのは相手の自由。聞かなかったことにするのは私の自由」と割り切ることができるようになりました。 とにかく何が大切なのかと考えました。私が非難されないのが大切ではなく、息子にいろいろな経験をさせてあげることを優先しよう。そのためには、私が防波堤になる、と覚悟を決めましたね。


<後略>

東京・池袋のSAS東京センターにて 構成/小原田泰久

母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年

あじろ ふみこ (著)
‎ 中央公論新社

立川あゆみ(たちかわあゆみ)さん

千葉県八千代市の農家の長女として生まれ、畑を遊び場として育つ。アパレル会社勤務、お笑い芸人、専業主婦、飲食店勤務など、さまざまな職をへて、パクチーの栽培を始める。その間、夫が他界するなどつらいことも体験した。今はパクチーの6次産業化を進め、新聞やテレビ、ネットなどで紹介されるようになった。

『つらさを乗り越え、パクチー栽培でワクワクする毎日』

お笑い芸人、結婚、夫の急死と波乱万丈の20代30代

中川:
Yahooニュースを見ていたら、《元芸人が農業に転身、話題のパクチー自販機で活路「最愛の夫の他界が転機に」》という立川さんに関する記事があって、すぐに読ませていただきました。私はパクチーが大好きです。それでこの記事が目に止まったのだと思います。「元芸人が農業」とか「最愛の夫の他界」というタイトルを見て、きっと波乱万丈の人生を送った方だろうと興味をもちました。パクチーの自販機という発想も面白いなと思いました。
立川:
ありがとうございます。私も氣とか波動には興味があります。会長は氣の専門家ということですが、会長のところへはどんな方が来られるんですか?
中川:
体調が良くない方とか、迷い、悩みがある人が多いですね。氣は生命エネルギーですから、不足したり流れが悪いと体調も悪くなりがちだし、運気も高まりにくいと思います。だから、氣をしっかりと受けていただいて、氣を充電し、流れを良くすることで、いろいろな変化が起こってきます。氣を受けていると、生き方や考え方が変わってきて、つらいことがあっても、押しつぶされるのではなく、それをバネにして一歩二歩と前進できるようになる方も多いですね。立川さんもつらいことがいっぱいあったと思いますが、それを乗り越えて、今は充実した毎日を過ごしておられるのは、氣がしっかりと充電されているからじゃないかと思います。若いころはお笑い芸人を目指していたんですね。
立川:
小さいころから芸能界に興味があって、お笑い芸人になりたいと思っていました。テレビの『オレたちひょうきん族』なんかが流行っていたころです。大阪のNSC(NewStar Creation 吉本総合芸能学院)に受かりました。ダウンタウンさんは、ここの一期生です。千原兄弟さんとかナインティナインさんといったお笑い界で大活躍している人たちが卒業しているところです。でも、両親に反対されて、服飾の専門学校へ進みました。ファッションにも興味がありましたから、卒業後はアパレル関係の会社でデザイナーの仕事をしました。しばらくして吉本興業が東京に進出して銀座七丁目劇場ができました。オーディションがあると知って、お笑い芸人になりたいという気持ちがよみがえり、オーディションを受けました。そしたら受かっちゃったんです。何年かはアパレル会社に勤めながら、舞台に立ってお笑いをしていました。
中川:
それから結婚されたんですね。
立川:
結婚して専業主婦になりました。今は26歳の娘と23歳の息子がいます。
中川:
ご主人は亡くなったとニュースには出ていましたが。
立川:
結婚して12年目。私が33歳のときでした。主人は13歳上の46歳でした。死因は心筋梗塞でした。
中川:
突然だったんですね。
立川:
春分の日に、みんなで息子の野球チームの応援に行きました。そしたら、胸が苦しいからと言って、主人は先に家へ帰りました。心配だったので、しばらくしてから電話をしましたが出ません。メールの返事もありません。おかしいなと思ってあわてて帰ったら、ベッドで亡くなっていたんです。玄関を開けたとき、いつもと違った雰囲気がありました。ああいうときって、119番に連絡するんですよね。でも、慌てていたので110番に通報してしまい、救急に回してもらいました。救急車が来るまで心肺蘇生をしましたが、結局戻ってきませんでした。

中川:
大変だったんですね。お子さんも小学生ですしね。
立川:
3年くらいは突然涙が出てきたりして、精神的に不安定でしたね。いいこと嫌なこと、いろいろあったけれども、いつもそばにいた人がいなくなる喪失感は想像以上でした。たくさんの人に助けてもらったり支えてもらったりしましたが、それでもさみしさはどうしようもなかったですね。子どもたちのケアもしないといけないですしね。子どもたちは、お父さんが突然いなくなった寂しさもあるけれども、親って、お父さんが怒ったらお母さんが慰めるみたいなバランスがあるじゃないですか。それが崩れちゃって、私一人で怒っては慰めるということをやらないといけないので、接し方が難しかったですね。戸惑いばっかりでした。
中川:
お子さんたちもお母さんのことを気遣ってくれたりしたんじゃないですか。
立川:
母と子どもの絆という面では強くなったと思います。ずっと仲のいい親子ですねと言われますから。3人で支え合って生きていこうという意識が自然に芽生えたのだと思います。ただ、子どもたちも精神的に不安定な部分はありました。下の子が4年生のときだったかな。行動が変なので病院へ連れて行ったことがありました。今は、私の仕事を手伝ってくれたりしてとても助かっています。

<後略>

千葉県八千代市のPAKUCISISTERSにて 構成/小原田泰久

濁川孝志(にごりかわ たかし)さん

1954年新潟県生まれ。立教大学で30年以上にわたって教鞭をとり、学生たちに霊性(スピリチュアリティ)について真摯に語りかけている。「霊性の喪失が現代社会のさまざまな問題を生み出している」という確信から、数々のシンポジウムやイベント、講演会を通して霊性の重要性を訴えている。著書に『星野道夫 永遠の祈り』『ガイアの伝言 龍村仁の軌跡』『大学教授が語る霊性の真実』などがある。

『若者たちに“霊性”の大切さをわかりやすく伝えたい』

日本人には、見えないものを敬い畏れるという気持ちがある

中川:
 先生の書かれた『大学教授が語る 霊性の真実』(でくのぼう出版)を読ませていただきました。 霊性とかスピリチュアリティといった話は、どうしても非科学的だということで、なかなか学問の対象にはならないと思います。にもかかわらず、20年以上も霊性をテーマに研究をされてきた大学教授というのはどういう方なのか、お会いできるのをとても楽しみにしていました(笑)。
濁川:
 ありがとうございます。私も、氣功にはとても興味があって、論文を書いたこともあります。氣を受ける前と後とでは体や心の状態が変わるという内容です。たとえばせっかちな人が氣を受けることでゆったりと生きるようになったりするのです。 私の方こそ、会長からどんなお話が聞けるのか楽しみにして来ました。
中川:
さっそくですが、先生はなぜ霊性に興味をもたれたのかお聞かせいただけますか。
濁川:
私はもともとの専門は運動生理学でした。運動や山登りが大好きでしたから、人間の体の研究というのはとても面白かったですね。 健康科学という講座をもつことになって、健康は体だけでないだろうと思い始めました。心の健康も大切だし、霊性というのもあるじゃないかと少しずつ膨らんでいきました。気づいたら霊性が中心になっていました。それが40歳くらいでしょうか。 振り返ってみると、子どものころ「自分は何のために生きるのか」とよく考えた記憶があります。自宅の部屋で一人ぼんやりと過ごしていて、なぜかものすごい孤独感に襲われるわけです。そんなとき、人は死んだらどうなるのだろう、なぜ生きないといけないのだろう、宇宙の果てには何があるのだろう、と思ったりしていました。 かなり変わった子どもだったかもしれません(笑)。 20年ほど前、あることで大きなストレスに襲われました。悩みに悩みました。自分は何のために生まれてきたのだろうと毎日、自分に問いかけていました。 そんなときに、同僚が当時福島大学の教授だった飯田史彦先生の『生きがいの創造』(PHP出版)という本を紹介してくれました。「死後の生」や「生まれ変わり」「ソウルメイト」といったスピリチュアルな世界から生きがいについて論じたとても奥深い本でした。この本を読んで私は「これでいいんだ」と思えて、悩みから脱することができました。それがきっかけで、本気で霊性について研究をするようになりました。
中川:
 なるほど。WHOの健康の定義でも霊性を入れようという提案があったということで話題になりました。もう20年以上も前になりますかね。残念ながら、提案だけで終わっているようですが。 私の父である先代の会長が「氣によって霊性を高め、地球の環境を浄化する」とよく言っていたので、私には霊性という言葉に抵抗はないのですが、一般の人にはまだまだすんなりとは受け容れられませんね。 先生は霊性についての講義をしているそうですが、学生さんの受け止め方はどうでしょう。
濁川:
 いきなり生まれ変わりの事例とか臨死体験、幽体離脱といった話をすると、学生は目を白黒させています。そんな話、大学の講義で聴くとは思ってもないでしょうから。 いきなりスピリチュアルな話をするのではなく、講義をする前に、あなたは神社やお寺へ行ったことがありますか?と聞きます。だいたい「ハイ」と答えます。次に「神社やお寺では手を合わせますか?」と聞くと、「ハイ」という返事が返ってきます。「お墓参りをしますか?」「何のためにお墓参りをしますか?」と質問を続けていきます。そんなこと深く考えてない学生がほとんどなので、何のための質問なのかときょとんとしています。
中川:
 習慣だからとか何となくという人がほとんどでしょうね。
濁川:
 日本人の根底には、見えないものを敬い畏れるという気持ちがあるから、神社やお寺で手を合わせたり、お墓参りをするのだと思います。
中川:
 最初に日本人の心というものにアクセスしてから講義に入っていくのですね。
濁川:
 そうですね。3〜4週間講義をしてから、神社やお寺に行って手を合わせたり、お墓参りをする意味を問い直してみます。 半数くらいは、習慣でやっていたことにもこういう意味があったのだと、私が言っているスピリチュアルな内容を受け容れてくれます。残りの半数は理屈としてはわかるけれども理解しがたいとか、にわかには信じられないという反応です。

<後略>

大学教授が語る霊性の真実 ─魂の次元上昇を求めて

濁川孝志 (著)
でくのぼう出版

小澤隆秋

小澤 隆秋(おざわ たかあき)さん

1938年(昭和13年)山梨県生まれ。15歳から和菓子職人の道に。10年の修行の後、大手企業の和菓子工場で責任者として和菓子を製造しつつ後進の指導に当たる。15年前から無添加の和菓子作りを始める。山梨県内各地で和菓子教室を開くと、たちまち、50人~100人が集まる人気の教室になった。現在、山梨県甲州市にあるアグリヒーリングヤギーずビレッジで商品販売。

『和菓子作り一筋67年。無添加でおいしい和菓子を広げる』

相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれる

中川:
 先ほど、小澤さんがお作りになった大福と水ようかんをご馳走になりました。とてもおいしかったです。私は和菓子には目がなくて、特にあんこと餅が大好きなので、うれしかったですね。
 小澤さんは長年、和菓子職人として働いてきて、82歳の今も現役で和菓子教室を開いているそうですが、そもそも和菓子職人になったきっかけは何だったのですか?
小澤:
 中学を卒業後、母親が勤めていた和菓子屋さんで、住み込みで働くことになりました。母親がまじめな人だったので、その息子なら安心だろうと、私を雇ってくれました。
 私は高校へ行って勉強をしたかったのですが、母親が『職人になったら定年もなく、いくつになっても働けるから』と言うので、仕方なく決めた道でした。
 2回脱走しましたね(笑)。高校へ行きたいという気持ちが捨てられませんでしたから。
中川:
 2回もですか。
小澤:
 母親に連れ戻されて、『手に職をもつといいから』とこんこんと説得されて、やっと『よし、まじめにやろう』と決めました。あれから67年もたちました。早いですね。
中川:
 修行は大変だったんでしょうね。
小澤:
 いつも言われたのは『人に負けないようにやれ』ということでした。しかし、技術を身につけようとしても先輩は教えてくれませんから、技術は見て盗まないといけません。
 それに上下関係は厳しかったですね。先輩にはぜったいに逆らえないし、仕事が終わるとお湯とタオルを用意して差し出すなど、仕事以外のことで気を使うことがいっぱいありました。
 人のお世話をするのは嫌いではありませんでしたが、先輩だからと言って威張るのはおかしいと思いました。
 自分が上になったらぜったいにこういう真似はしたくなかったですね。このときに、人を大切にしようと心に決めました。
 給料は2年間、一銭も出ませんでした。これもつらかったですね。
 でも、そのおかげで我慢することを覚えました。今考えると、すべてのことがプラスになっているように思いますね。
中川:
 そうですね。どんなことも気づきのチャンスですよね。それにしても15歳で人を大切にしようと決心したのはすごいですね。
小澤:
 経営者は従業員を、先輩は後輩を大切にしないと会社は成長しませんね。上の人が威張っている会社はダメになりますね。
中川:
 そのお店ではどれくらい働いたのですか?
小澤:
 10年間修業をしました。このお店で働いて良かったのは、5年間は工場で和菓子作りをやり、あとの5年間は営業の仕事ができたことです。
 特に、営業で外へ出ていろいろな人とかかわったのは後々、とても役に立ちました。
 人と接することで、人を見る目が養われました。和菓子を作ってばかりだと、技術は上達しても、人間的に成長できなかったのではと思います。
中川:
 営業では、お客さんが何を望んでいるかをキャッチする能力が必要ですよね。相手の氣を感じる力だと、私は思っています。
 人と接することで、相手の気持ちがわかったり、どうしたら自分の気持ちを伝えることができるかと、あれこれ考えますからね。
小澤:
 ちょっとした気づかいで営業の成績を上げることができます。私は、個人のお宅を回って和菓子を売っていましたが、困った人を見ると助けたくなる性格がプラスに働いたことはよくあります。
 道で荷物をもっているおばあちゃんに会うと、ついつい『もってあげましょうか』と声をかけたくなるんです。そのおばあちゃんがお得意様になってくれたこともあります。
 先ほど、人を大切にするという話をしましたが、相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれますね。
中川:
 氣が伝わるんでしょうね。こちらがいい氣を発すると、相手からもいい氣が届けられますね。
小澤:
 私には氣の話はよくわかりませんが、目に見えない何かが伝わるという感覚はわかります。
 父親は大の動物好きで、わが家には馬や牛、ヤギ、ヒツジ、ニワトリ、ミツバチなど、たくさんの生き物がいました。
 動物の世話をするのは子どもたちの役割です。子どもですから、ときどき餌やりを忘れたりしました。父は怒りましたね。ご飯抜きで蔵に放り込まれました。餌をもらえない動物たちの気持ちを、身をもって知りなさいというわけです。そんなこともあって、動物たちとは家族のように接するようになり、動物たちの気持ちもわかるようになってきました。
 彼らは言葉もよくわかっていて、しゃべれませんが、私たちが言っていることは、全部わかっていると思いますよ。やさしく接すれば、彼らはとても喜びます。
中川:
 人を大切にしようと思ったのは、子どものころのそういう体験があったからかもしれませんね。
小澤:
 そう思います。ミツバチもたくさん飼っていましたが、一度も刺されたことがありません。ハチはこちらが何もしなければ絶対に刺しません。ミツバチだけでなくて、アシナガバチやスズメバチも同じです。

<後略>

龍村ゆかり

龍村 ゆかり(たつむら・ゆかり)さん

ドキュメンタリー映画「地球交響曲」プロデューサー イメージメディエーター NVC認定トレーナー候補生。86年よりテレビ番組のディレクターとして数々のドキュメンタリーや情報番組を手がける。91年、のちの夫となる龍村仁と出会い、以降テレビ番組、映画を共に製作。03年映画プロデュース修士修得。チベット砂曼荼羅展などのイベントやCD、ワークショップ等のプロデュースも手がける。この30年は地球交響曲を世に出すことに専念。いのちへの好奇心から脳と心の不思議な仕組みを学び、修復的対話トーキングサークルや共感的コミュニケーションなども伝え始めている。一男一女の母 共著:「地球の祈り」(角川学芸出版)

『何かに導かれるようにして地球交響曲最終章が完成』

小林研一郎指揮の「第九」。地球交響曲の最終章を飾る

中川:
 ついに完成しましたね、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第九番』。先日、拝見しました。とてもいい作品で感動しました。1992年に一番が上映されて約30年になるんですね。
 龍村仁監督には、この対談に何度か登場願っています。今回も第九番が完成したということで、監督にお越しいただこうと思ったら、体調が芳しくないということでお断りの返事があってがっかりしていました。
 龍村ゆかりさんは、監督の奥様であり、この映画には一番からかかわってこられ、九番については、監督の体調不良もあって、上映までこぎつけるのにとても重要な役割を果たしてこられました。大変だったと思います。
 今日は、ゆかりさんに第九番についてお話をお聞きしたいと思います。 
 まず、監督の体調ですが、かなり難しい病気だそうですね。
龍村:
 前頭葉と側頭葉の機能が低下していく病気です。体は元気なのですが、言語を司る部分の機能がダメになっていくということで、うまくコミュニケーションができません。
 2019年2月に骨折で動けなくなったときに検査を受けてわかりました。今思えば、その前から兆候はありましたけどね。
中川:
 第九番のメインの出演者は指揮者の小林研一郎さん。コバケンさんと呼ばれていますが、ベートーヴェンの第九の指揮では世界でも右に出る人はいないと言われています。
 2019年12月25日にサントリーホールで行なわれた第九のコンサート。もちろん、指揮はコバケンさんですが、映画ではコバケンさんはじめ、関係者が大変な準備の末に、コンサートを成功させた様子が描かれています。
 私は12月25日のコンサートにもうかがいましたが、映画を見てこれほどの練習をしたのかとびっくりしたし、それだけ準備をしたからこそ、すばらしい演奏会になったのだと思いました。
 オーケストラと合唱団。総勢何人くらいのコンサートだったのですか?
龍村:
 合唱団だけで200名、オーケストラが80名くらいです。
中川:
 300名近い人が当日に最高の演奏ができるように準備をするわけですからね。すごいなと思いました。
龍村:
 会長はオンラインで映画を見てくださったのですか?
中川:
 そうです。オンラインでやってもらって良かったですよ。仙台から新幹線に乗ったらちょうど始まりました。東京に着くまでじっくりと見させていただきました。
 コバケンさんもベートーヴェンにはすごく思い入れがあると感じましたね。
龍村:
 コバケンさんは今の福島県いわき市のお生まれですが、10歳のときにラジオから流れてきた第九を聴いて、心が震えて涙が止まらなかったとおっしゃっていました。以来、ベートーヴェンに心酔し、第九の世界を追求してきたようです。
中川:
 監督とは同い年で、生まれた月も一緒だそうですね。
 もともとお知り合いだったのですか?
龍村:
 最初のご縁は1974年でした。コバケンさんはブダペスト国際指揮者コンクールで優勝し、一躍ハンガリー中で注目される指揮者になりました。
 そのころ、監督は『地球は音楽だ!』というテレビ番組を作っていました。取材でハンガリーへ行ったときに、監督が言うには、畳二畳ほどの大きさのコバケンさんのポスターが飾ってあって、びっくりしたそうです。そのときに「小林研一郎」という名前がインプットされたみたいですね。
中川:
 50年近く前の話ですね。そのあとも何か接点がありましたか。
龍村:
 第五番でアーヴィン・ラズロ博士を取材しました。ラズロ博士は世界賢人会議「ブダペストクラブ」の創設者です。
 ブダペストクラブを訪ねたとき、壁に飾ってある写真を見ていたら、そこにコバケンさんがいたのです。「また小林研一郎」だと、ただならぬ縁を感じたのではないでしょうか。
 実は第五番にその写真が出ています。
 さらにご縁は深まって、コバケンさんの奥様の櫻子(ようこ)さんが「地球交響曲」をずっと見ていてくださっていたのです。コバケンさんの写真が映画に出ているのにも気がついて、それがきっかけでコンサートにご招待してくださるようになりました。
中川:
 どんどん接近していきますね。監督はコンサートに行ったときに、楽屋で出演を申し込んだそうですね。そのときが初めての直接の出会いだったのですね。
龍村:
 監督としては、出会うべき人に出会ったという感じだったのではなかったでしょうか。櫻子さんのお口添えもあったと思いますが(笑)、コバケンさんは監督の作品をとてもリスペクトしてくださっていて、龍村さんの作る映画であればと承諾してくれました。
 でも、せっかく話が決まったのに監督が骨折してしまって、2年くらいストップしてしまいました。

<後略>

2021年6月3日 東京・エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

笹原六氣

笹原 六氣(ささはら・りっきー)さん

1960年東京生まれ。幼少時から病弱で各地の大学病院や湯治場に通う。20代からパソコンにのめり込み、電磁波の影響で目が見えなくなり、右手も動かなくなる。有機農法の師匠と出会い、農業を始める。山梨に移住しアーモンド作りを開始。2021年4月13日に「令和2年度未来につながる持続可能な農業推進コンクール」で関東農政局長賞を受賞。

『苦難の日々を糧にして、今は心を込めてアーモンドを育てている!』

パソコンにのめり込んで体がボロボロになった若いころ

中川:
 山梨県甲斐市にある「リッキーランド」という農園にうかがいました。こちらでは、アーモンドを無農薬で栽培されています。前例のないことなのでさぞかしご苦労もあったかと思いますが、私が気になったのは、農園主の笹原さんのお名前です。
 六氣と書いて「リッキー」さんと読むんですね。
笹原:
 会長のやっておられる真氣光と同じ氣ですよね。私もとても親しみを感じます(笑)。
中川:
 六つの氣というのはどういう意味が込められているのですか。
笹原:
 私は子どものころから病弱でした。あちこちの病院へ行っては新薬を出されて、その影響で体がボロボロになって、内臓の機能がものすごく低下していました。小学校4年のときには腎臓が悪くなって、人工透析を受けるほどでした。
 見かねた親が姓名判断を受けたところ、画数が悪いと言われたことから何度か名前を変えることになりました。
 六氣を名乗るようになったのは30代になってからです。悲惨な人生が続いていましたので、精神世界とか宗教とか哲学とか、心のあり方についてずいぶんと勉強しました。そんな中で五行思想が好きになりました。古代中国の思想で、万物は木・火・土・金・水の5つの元素からなるという説です。私は、それに空を加えて、6つの元素、エネルギーということで六氣としました。
 それからも苦難は続きましたから、改名に即効性があったわけではありませんでしたが、私はこの名前がとても気に入っています。
 会長も、リッキーと呼んでください。
中川:
 そうでしたか。リッキーさんは61歳ですよね。苦難の人生をへて、アーモンドにたどり着いたわけですね。
笹原:
 病弱な子ども時代から始まって、20代後半にはうつになり、ITの仕事でしたから、一日中パソコンの前に座っていたせいで、電磁波の影響を受けて、体がどんどん悪くなっていきました。
 何のために生まれてきたのか、いっそのこと生まれてこなければ良かったのではと、自問自答の繰り返しでした。
 小学校のときから薬には苦しめられてきたので、どんなに苦しくても抗うつ剤や睡眠薬には頼らず、その代わり、新興宗教、伝統宗教、霊能者、超能力者、いろんなところを回りました。オウム真理教にも行きました。まだサリン事件を起こす前でしたが、幸いなことに、相手にされずに追い返されました。
とにかく、なんでこんな思いをしないといけないのか、答えを知りたくて探し回り、40代後半まで模索の旅は続きました。20年間ですね。その間、何度も自殺を試みました。でも、なぜか死ねませんでしたね。
中川:
 20年間とはすごいですね。IT関連の仕事をされていたのですか。
笹原:
 パソコンに救われている感じでしたね。ネットを通してでしたが、社会に参画しているという安心感があったのではないでしょうか。顔も名前も知らない関係でありながら、心の深いところまで話せる友が見つかったりするわけです。自分にとってはありがたいツールだったですね。
 だからこそのめり込んでいきました。毎日16時間、パソコンの前に座っていたこともあります。トイレとお風呂と寝るとき以外はパソコンの前です。こんな異常な生活をしていて何ともないはずがありません。
 体が悲鳴を上げました。目が見えなくなってきたんですね。手術をしましたが、これで一年以内に視力が落ちてきたら失明する、と主治医に言われました。
 私の場合、術後すぐに視力が低下し始めました。ちょうど自動車の免許の更新がありました。視力が悪いので更新ができませんでした。それで、車を売り払って、白い自転車を買いました。
 白い杖をつくのは抵抗があったので、白い自転車を押して歩いていました。
 絶望的な気持ちになりました。徐々に視力が落ちていくというのはものすごい恐怖でした。生きながらにして人生のどん底を味わったという感じです。
 さらに右手が痛くて箸も持てません。手首も曲がらず肩も上がりません。パソコンもできないし、もう何をやっていいかわかりませんでした。このときに何度目かの自殺を試みました。でも、なぜか死なせてもらえませんでした。
中川:
 やるべきことがあって、なかなか死なせてもらえない人もいるかと思います。今のリッキーさんを見ていると、だれもやったことのないアーモンドの無農薬栽培を成功させているのですから、そういう役割があったのかもしれませんね。
笹原:
 確かに、苦しい体験は今に生きていますね。あのころは苦しいだけの毎日でしたが。
 ひとつ発見がありました。視力という一つの感覚が衰えると、別の機能が敏感になるんですね。目が見えなくなって、人の心がわかるようになってきました。
 言っていることと考えていることが違う人がいるじゃないですか。手に取るように、その人が何を思っているかがわかってしまうようになったんです。

<後略>

(2021年5月20日 山梨県甲斐市のリッキーランドにて 構成/小原田泰久)

岩本光弘

岩本 光弘(岩本 光弘)さん

1966年熊本県生まれ。生まれつき弱視だったが、16歳で全盲になる。教員になるために筑波大学理療科教員養成施設に進学し、在学中アメリカ・サンフランシスコ州立大学に留学。筑波大学附属盲学校鍼灸手技療法科で14年間教員として勤務。2006年サンディエゴ州に移住。2013年ヨットにて太平洋横断に挑戦するもトラブルが発生し断念。2019年再チャレンジで見事に成功する。

『絶望を希望に変えた盲目のヨットマン。太平洋横断に成功!』

目が見えなくなったのも意味があるという伯父さんのメッセージ

中川:
 岩本さんは生まれつきの弱視で、13歳のころから視力を失い始め、16歳で全盲になったということですが、徐々に見えなくなるというのは、私には想像ができないのですが、とてもつらいことでしょうね。
岩本:
 自転車に乗っていても、だんだんと視力が落ちてくると、木や車にぶつかってしまいます。自分は目が見えなくなるんだと思うと、恐怖と不安でおしつぶされそうになりました。
 全盲になったのは16歳のときでした。落ち込んでしまって、ほとんど外に出かけることができなくなりました。あるとき、歯磨き粉を歯ブラシではなく手につけてしまいました。こういうことすら人のお世話にならないといけないのかと絶望してしまって、死んだ方がいいと思い詰めました。
 母に「なんで産んだんだ!」と怒鳴ったこともありました。
中川:
 絶望の中にいた岩本さんが、2013年にはヨットでの太平洋横断にチャレンジします。このときは途中で断念しましたが、2019年には再チャレンジして、見事に成功しました。
 普通に考えれば無謀とも思えることを成し遂げた岩本さんのストーリーは、何かで迷っている人、悩んでいる人、落ち込んでいる人には、すごく参考になると思います。
 全盲になった16歳のとき、人生を決めるような大きな出来事があったそうですね。
岩本:
 全盲になったころは、お気に入りの海が見渡せる橋から飛び込んで自殺しようと真剣に考えていました。実際に、その橋まで行きましたが、どうしても飛び降りることができず、近くの公園に行ってベンチに座っていたら、いつの間にか眠ってしまいました。
 そのときに、5年前に50歳で亡くなった伯父さんが夢に出てきて、私に語りかけてきたのです。伯父さんは、私を自分の子どものようにかわいがってくれました。人のことを第一に考える伯父さんで、人望もあって、私はとても尊敬していました。伯父さんは私にこんなことを言いました。今でもしっかりと記憶の中に焼き付いています。
《お前の目が見えなくなったのには意味がある。お前がポジティブに生きる姿を見せることで、見えていても何のために生きているのかわからなくなっている人たちに、勇気と希望を与えるんだ。
 きっと彼らはお前から、目が見えない人から、何か希望を見る。だから自分の命を断とうとするな。逃げるな。
 目が見えないことにも意味があるんだ。まわりの人々を励ますために、勇気を与えるために》
 というものでした。天から、宇宙からのメッセージだったのでしょうか。
 そのときは意味がわからず、歯ブラシに歯磨き粉もつけられないぼくが、目の見えている人に勇気や希望を与えるなんてあり得ないと思っていました。でも、死んじゃいけないんだなということだけはわかりました。
中川:
 きっと伯父さんが岩本さんのことを心配して、あちらの世界からメッセージを送ってくれたのではないでしょうか。その意味が、時間がたつにつれて、少しずつわかってきて、その後、とても行動的な生き方ができるようになったのだと思います。
 高校時代にはアマチュア無線を勉強し、海外の人と英語で話したいと英会話学校に通い、盲学校を卒業した後は専門学校の鍼灸科へ進み、さらに鍼灸の技術を視覚障がい者に教えたいと筑波大学に進学します。絶望の中にいた岩本さんとは別人のようにダイナミックですよね。
岩本:
 徐々にですが、できないと思っていたことができるようになってきました。歯磨き粉もつけられるようになったし、みそ汁をこぼすこともなくなると、気持ちも前向きになってきましたね。
 伯父さんの言った言葉の本当の意味がわかったのは、23、4歳だったか、大学の友人と富士山に登頂したときのことでした。まわりの人たちが、『目が見えないのにすごいですね』と声をかけてくれるんですね。『勇気づけられます』と言ってくれた方もたくさんいました。こういうことなんだと、伯父さんの言ったことが理解できました。それがきっかけで、いろいろなことに挑戦しようと思えるようになりました。

<後略>

2021年4月6日 エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「見えないからこそ見えた光 絶望を希望に変える生き方」 岩本光弘(著) ユサブル

二木 謙一

二木 謙一(ふたき·けんいち)さん

1940年東京生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。『中世武家儀礼の研究』でサントリー学芸賞を受賞。文学博士。國學院大學教授·文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長·理事長を歴任。現在は、國學院大學名誉教授。NHK大河ドラマの風俗·時代考証は14作品を担当。著書は『関ヶ原合戦』『大坂の陣』(中公新書)『徳川家康』(ちくま新書)など多数。

『戦国武将から生き方の 知恵·極意を学ぶ』

戦国時代は実力社会。現代にも通じるものが多い

中川:
 二木先生は國學院大學の教授を長く務めておられました。日本の歴史がご専門で、「有職故実」をテーマにされていたとお聞きしましたが、有職故実というのはどういうものなのでしょう。
二木:
 朝廷・公家や武家の制度・先例などの研究ですが、わかりやすく言えば、衣食住や儀式などのいわゆる時代考証ですね。つまり、その時代の服装、鎧や兜といった戦で使う道具の形、しきたりや生活作法、武家や庶民がどういう暮らしをしていたかなど風俗を研究する仕事をしていました。
中川:
 それでNHKの大河ドラマでも時代考証を担当されていたんですね。
 私は歴史が大好きで、大河ドラマを楽しみにしていますが、時代考証というのはとても大切な役割かと思います。大河ドラマで印象に残っているエピソードなどありましたら、聞かせていただけますか。
二木:
 大河ドラマでは14作品で時代風俗考証を担当しました。毎週の定例会議での台本検討のほか、國學院大學は渋谷にあってNHKには近いので儀式などのリハーサルにもよく呼び出されましたよ(笑)。
 翌年の作品と2作同時に進んでいることもあって、けっこう忙しかったですね。
 それぞれの時代にふさわしい場面を作っていかなければならんし、しかも現代人にも理解できるようにしないといけないので、いろいろ苦労しました。
 衣装も数がないので、公家の装束などは場面によってはたらい回しをすることもありました。
 時代によって武器や兜も違います。戦国時代に平安時代の武具を使うのは、古いのを使っていた可能性もあるのでいいのですが、逆はできません。鎌倉時代に戦国時代の武具は使えませんから。
 戦国時代、男はあぐらをかいていました。でも、若い俳優さんの中には子どものころから椅子で暮らしているのであぐらをかけない人もいて、これには驚きましたね。
 当時の武士は正座をしていたと思っている方が多いのですが、正座をするようになったのは畳を敷き詰めるようになった江戸時代の中期からです。
 女性は立てひざでした。絵巻物にはそう描かれています。でも、立てひざだと鉄火場の女みたいだと評判が悪くてやりませんでした。昨年の『麒麟がくる』では思い切って立てひざ姿を取り入れていました。今後はどうしていくのでしょう。
中川:
 私がとても印象的だったのは、2012年に放送された「平清盛」でした。先生が時代考証をされていたと思います。清盛がボロボロの状態から這い上がってくる姿に感動したのですが、平氏はもっと豊かだったという話も聞いたりするのですが。
二木:
 あれは東日本大震災の影響がありました。地震と津波と原発事故で東北を中心に日本中が大混乱になった年の収録でした。節電で町も暗くなっているし、NHKでの打ち合わせも薄暗い中でやっていました。
 みなさん不安で、どこに希望を見出せばいいかわかりません。そういう環境にあって、当時の野球界と同じように、ドラマを作るスタッフたちにも、「見せようドラマの底力」といった雰囲気がありました。
 それで廃墟の中からたくましく立ち上がっていく清盛になったのです。
 宋と貿易をしていて平氏は金持ちでした。だけど、つらさを乗り越えたという話の方が世の中のためになるのではということでああいうストーリーになったようです。
 ドラマ作りと学問とは違いますね。
中川:
 そういうことだったんですね。あのドラマで元気づけられた人も多かったと思います。
先生は清盛よりももっと後の戦国時代の研究に力を入れておられますが、戦国時代の魅力というのはどういうところにあるのでしょうか。
二木:
 戦国時代は現代社会に通じるものがあって、お手本となることが多いと思います。まずは実力社会だったということです。戦国時代より前は、身分が定められていました。下級武士の子は、どんなにがんばっても有能であっても、下級武士のままです。
 しかし、戦国時代は違いました。だれもがよく知っているように、豊臣秀吉は貧しい農家の出身です。それが生まれに関係なく実力次第でどんどん上へ登っていくことができました。現代人も同じように実力社会です。常に生と死との極限状態にあった戦国武将の生き方はお手本になるのではないでしょうか。
中川:
 英雄もたくさん登場しますしね。
二木:
 全国にすごい武将がたくさんいました。上洛戦は甲子園の地区代表のようなもので、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、駿河・遠江の今川義元、尾張の織田信長らそうそうたる面々が全国制覇に向けて戦い、織田信長が上洛に成功して優勝したみたいな、そんな図式が描けます。

<後略>

2021年2月5日 東京都練馬区の二木先生のご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「戦国武将に学ぶ究極のマネジメント」 二木 謙一 (著) 中央公論新社

板野肯三

板野 肯三(いたの・こうぞう)さん

1948年岡山県生まれ。東京大学理学部物理学科卒。専門はコンピュータ工学。筑波大学システム情報工学研究科長、学術情報メディアセンター長、評議員、学長特別補佐等を歴任。現在、筑波大学名誉教授。著書に「地球人のための超植物入門」(アセンド・ラピス)など。

『霊性に目覚める人が増えれば地球が癒され問題は解決する』

山にも川にも地球にも 魂が宿っている

中川:
 板野先生の書かれた『コロナから世界を観る』を読ませていただきました。先生は東京大学理学部物理学科を卒業後、筑波大学でシステム情報工学研究科の教授として科学の最前線でご活躍されていたわけですが、この本にはスピリチュアルなことがたくさん書かれていてびっくりしました。
 お持ちいただいた『地球人のための超植物入門』という本も「森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界」というサブタイトルがついています。パラパラと拝見したら、植物の精霊とお話するといった話が書かれていました。とてもコンピュータがご専門の方が書かれるような内容ではないように思いますが(笑)、もともとスピリチュアルなことにも関心があったのでしょうか。
板野:
 若いころから宗教書は読み漁っていましたから、興味があったと言えばあったと思います。でも、知識レベルの興味でしかありませんでした。
 初めて霊的な体験をしたのは結婚して間もないころでした。その何年か前には家内が幽体離脱のような体験をしたこともあって、布団の上に寝転がって、魂というのは本当にあるのだろうかととりとめもなく考えていました。
 すると、突然、体や頭が内部から発熱するように熱くなって、心の中からだれかが語りかけているように感じました。耳から聴こえる声ではありません。男性のようでした。「あなたを見守っていた」とか「あなたが女性の科学者として世に出るためには、それしかなかった」とか「再会できてとてもうれしい」とか、そんな言葉を感じ取りました。でも私は男性です。何のことだろうと思っていると、「これは過去世のことだ」とピンときました。過去世の自分は女性の科学者で夫と死別していて、そのときの夫が出てきたのだ、と記憶がよみがえったような気がしました。懐かしさ、うれしさが込み上げてきて、涙が流れてきました。
 理屈抜きに、魂はあるのだと実感しました。そういうことがあってから、見えないエネルギーを感じるようになりました。
中川:
 奥様が幽体離脱をされたとおっしゃいましたが、奥様もスピリチュアルな方なんですか。
板野:
 幽体離脱なんて初めてのことだし、当時はスピリチュアルなことは話さなかったと思います。だけど、最近になって、理論的な説明は私の方が得意ですが、スピリチュアルな感覚は家内の方が鋭いのではと思うことはよくありますね(笑)。
 よく「この部屋は磁場がいい」と言います。磁場というのも独特の言葉ですよね。物理学で言う磁場ならよくわかるのですが、霊的な意味での磁場はまた違うんですね。その空間とかその人が漂わせている霊的エネルギーの個性を磁場と表現することが多いみたいですね。家内は、霊的な磁場を感じるのが私よりもはるかに敏感です。家や土地を買うときとか、そういう感覚は役に立つかもしれませんね。
中川:
 その土地特有のエネルギーがありますからね。パワースポットもある種のエネルギーをもった土地のことを言うと思います。引っ越しをしたことで、急に運が良くなったり、逆に体調が悪くなったりする人もいますしね。土地のエネルギーが関係していると、私は思います。
板野:
 宗教的な本を読むと「自然霊」のことがよく書かれています。山とか川とか岩、樹木などに宿っている霊があるということですが、山とか川は体に当たるんでしょうね。富士山は体でそこに霊とか魂が宿っているという考え方ですが、私もそう思っています。
中川:
 地球にも魂が宿っているわけですね。
板野:
 地球も一つの生命体だと言ったのはジェームス・ラブロック博士です。1960年代のことで、ガイア仮説とかガイア理論と呼んでいます。エビデンスがあるわけではないので科学者には受けが良くありませんでしたが、エコロジストには受けたようです。
 もっとも、科学はまだ生命そのものをとらえることができていないわけで、地球が生命体かどうかを議論するというのはどだい無理なことです。
中川:
 科学がもっと進歩しないことには生命のことはわからないんでしょうね。先生のような科学者がもっと増えるといいのですが。
板野:
 物理学は科学の中ではもっとも宗教的な学問です。宇宙全体のことを追求するのですから。今の物理学でも量子のような物質レベルを超えた現象が見えてきています。
 物理学には、この世界がどういう仕組みになっているか、その基本が詰まっているように、私は思っています。
中川:
 先生は植物に対してとても親近感をもっておられるようですが。
板野:
 コンピュータをやっていたのですが、生き物にアプローチしないと、この世の仕組みの本質に近づけないのではと思っていたころ、野澤重雄さんという方に出会いました。野澤さんはハイポニカという水耕栽培法で1本のトマトの木から1万7000個のトマトを収穫したことで有名になりました。水耕栽培というのは、水に肥料を溶け込ませて、これを根に循環させる方法です。水耕栽培を成功させるには、肥料の組成とか光の量とか炭酸ガスの温度とか、管理がとても大変です。
 でも、私にはとても魅かれるものがあって、野澤さんにお話をお聞きしました。

<後略>

2021年1月27日 株式会社エス・エー・エス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

地球人のための超植物入門ー森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界
板野肯三(著) アセンド・ラピス

新井利昌

新井 利昌(あらい・としまさ)さん

埼玉福興(株)代表取締役。NPO法人Agri Firm Japan理事長。1974年埼玉県生まれ。1996年に父親とともに埼玉福興(株)を設立する。同社を農業法人化して、障がい者とともに野菜の水耕栽培、露地栽培、オリーブの栽培・加工などを手掛け、ソーシャルファームという新しい概念で社会的就労困窮者の働く場を創出している。著書に『農福一体のソーシャルファーム~埼玉福興の取り組みから』(創森社)がある。

『農業と福祉が一体になって、人の役に立てる場を作る』

障がい者の行く場所、働く場所がないことに気づいた

中川:
 農園を見学させていただきましたが、オリーブ畑もあれば、白菜の畑もあるし、ネギの苗を育てていたり、水耕栽培もありました。たくさんやっておられてびっくりしました。障がい者のみなさんが、生き生きと働いていますね。
新井:
 ここでは健常者に頼らない生産体制というのをめざしています。水耕栽培を取り入れたのも、重度の障がい者も作業ができるという理由からです。毎日同じ仕事があるし、単純作業の繰り返しができます。また、水耕栽培は一人だけでできる作業もありますから、人と接するのが苦手だという人も働けます。
中川:
 種をプラスティックの容器にまいている女性がいましたね。いろいろ説明していただきましたが、彼女も人と接するのが苦手な方なんでしょうかね。
新井:
 そうです。みんなと一緒にいるとパニックを起こす子でした。だから一人でできる仕事をしてもらっています。でも、おしゃべりも好きなんですね(笑)。だから、見学のお客さんがくると一生懸命に説明してくれます。それはそれで、とても役に立ってくれています。
中川:
 この対談には新井さんも親しくしている自然栽培パーティの佐伯康人さんや銀座ミツバチプロジェクトの高安和夫さんにも出ていただきました。障がい者が農業に携わって収入を増やしたり生きがいを見出すという農福連携の活動には、私もとても関心をもっています。これからの時代、ますます大切になってくるのではないでしょうか。
 新井さんが代表を務めている埼玉福興(株)も農福連携をやっておられるわけですが、どういうことをやっておられるのか、簡単に説明していただいてもいいでしょうか。
新井:
 大まかに言うと、埼玉福興グループとして動いていて、農業生産法人が農業を、NPOが中心になってグループホームや就労支援といった福祉事業をやっています。
 障がい者が寮やグループホームなどで生活をともにしながら、農業という分野で仕事を覚えたり、仕事を得て働くことを支援している団体だと言えばわかりやすいでしょうか。
 障がい者の人たちは、寮やグループホームから農園に通って農業をやります。その中で企業で働けると判断できる障がい者は、埼玉福興(株)で雇用したり、ほかの企業でお世話になったりしています。
中川:
 もともとは新井さんとご両親の3人で始めたことだそうですね。
新井:
 父は小さな縫製の会社をやっていました。縫製業も斜陽産業だったので次をどうしようかと考えていたとき、父が知り合いのすすめで障がい者の生活寮を始めることを決めました。
 1993年、私は19歳でした。自宅の2階を改装して、4人の障がい者を受け入れました。そこから始まって、1996年に父が社長、私が専務の埼玉福興(株)を立ち上げ、障がい者と暮らすうちに、障がい者の行く場所、働く場所がないことを知りました。居住場所を確保して生活をケアするだけでは不十分なんですね。もっと社会とのかかわりをもつにはどうしたらいいか。そこがとても大切なことだと気づいたのです。
中川:
 障がい者も働ける場所が必要だということですね。
新井:
 そうですね。最初は縫製業の下請け作業を障がい者の方にやってもらいました。でも縫製業は下火でしたから、だんだんと仕事が減っていきました。それで、血圧計の腕帯を作ったり、ボールペンの組み立ての仕事を請け負いました。しかし、受注量は安定しないし、作業に慣れたころに仕様が変更になったりしますから、障がい者は戸惑ってしまいます。
 さらに、うちが請け負うような単純作業は海外に移したり機械化する企業が増えてきて、受注量はどんどん減っていきました。
中川:
 大変なピンチですよね。そんなときに農業に参入しようと決めたわけですね。
新井:
 農業というのは人が生きていく上で必要不可欠な食料を作るわけですから仕事がなくなるはずがないと考えました。また、農業にはいろいろな作業があって、どんな障がいがあっても、何らかの作業ができるはずです。先ほど見ていただいたように、ひたすら種を蒔くということでもいいし、草むしりならできるという人もいるし、作物を袋詰めするのが好きだという人もいます。
 父が昔から農業をやりたいと思っていたこと、障がい者の生活をケアする者として、どんな事態になっても食べ物を提供しないといけないという責任感。理由はいろいろありますが、農業への参入は大きな転機でした。
 2003年から農業参入に取り組んだわけですが、当時は福祉と農業とはまったく畑違いで、障がい者が農業の担い手になるといったことも理解してもらえず、私たちが農業に参入するハードルは非常に高かったですね。

<後略>

2020年1月20日 埼玉県熊谷市の埼玉復興(株)にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

農福一体のソーシャルファーム 〜埼玉福興の取り組みから〜 新井利昌(著) 創森社

今井仁

今井 仁(いまい・じん)さん

1949年埼玉県与野市(現さいたま市)生まれ。立教大学社会学部観光学科卒業。通産省外郭財団法人余暇開発センター、ぴあ株式会社を経て2000年50歳で独立。1994年取材活動を開始、2014年から本格的に作家の道に。2020年いまじん出版を創業。著書「全図解インターネットビジネス儲けのヒント」(あさ出版)「空海の秘密」(セルバ出版)「バリの桜 三浦襄の愛情物語」(双葉社)「伝活のすすめ」(いまじん出版)アマゾンでベストセラー1位

『子孫のために自分のことを書き残しておく「伝活のすすめ」』

暇と遊びの研究が最初の仕事。世界中のリゾートを回った

中川:
 今井さんの『伝活のすすめ』という本を読ませていただきました。「伝活」というのは今井さんの造語だそうですね。自分の人生を語り、伝え残す活動で「伝活」とはうまく表現したなと思います。「終活」ではウキウキしませんが、「伝活」ならやってみようという気持ちになれる気がします。
今井:
 ありがとうございます。伝活というのは、いわゆる自叙伝を書きませんかということです。しかし、文章を書いて本にするとなると、自分には無理だと尻込みしてしまう方がほとんどだろうと思います。私はこれまでたくさんの本を書いてきました。その経験をもとに、自叙伝作製のノウハウを紹介すれば、だれもが手軽に本が書けるのではと思って出版しました。財産を残すのも大切ですが、もっと大切なのは自分の生きた証を残すことではないでしょうか。そのひとつとして自分の人生を書き残してもいいと思います。
中川:
 祖父母がどんな人だったかなら、本人に記憶があったり、親に聞いて知ることができます。でも曽祖父よりも上の世代となるとわからなくなります。もし自叙伝が残っていたら、子孫もうれしいですよ。
 自叙伝を残しておけば、亡くなったあとも子孫が読んで、あれこれ話題にしてくれますよ。
私は子孫が思い出してくれることでご先祖様に光が届くと考えています。自叙伝によって、思い出してもらえるチャンスも多くなるし、その分、たくさんの光が届くと思います。
 今井さんの経歴を拝見していると、これまでいろいろなことをやっておられますよね。最初は通産省関係のお仕事ですか。
今井:
 大学卒業後は通産省外郭財団法人である余暇開発センターというところへ就職しました。そこでは暇と遊びの研究をしていました(笑)。
 「世界のリゾートで遊んでこい!」というのが最初の仕事でした。世界水準の遊びを体験し海洋性リゾートのエキスパートになれ!というわけです。
 1972年本土復帰した沖縄で、'95海洋博を行うことにし、それを起爆剤として沖縄を海洋性観光立県として産業構造変換させるという通産省の仕事です。世界中で遊んだ経験が生きましたね(笑)。
 その後、国民健康体力作り運動にもかかわり、日本体育協会、日本リクリエーション協会、日本医師会、日本商工会議所などと組んでトリム運動とかフィジカルフィットネスを普及するという仕事もやりました。
 当時の余暇開発センターの理事長は佐橋滋さんと言って、事務次官として日本の経済成長の旗振り役をやった方でした。豪快な人で、『官僚たちの夏』という城山三郎さんの小説のモデルにもなりました。NHKやTBSでもドラマになりました。佐橋さんには本当にお世話になりました。
中川:
 そのあと情報誌を出しているぴあ株式会社に転職するわけですね。
今井:
 余暇情報センターを作れということになって、徐々にITの関係に引き寄せられていったわけですが、ちょうど「ぴあ」が売り上げを伸ばしているときでした。
 「ぴあ」というのは映画・演劇・音楽・美術の情報だけが並んでいる雑誌で、余暇情報センターもそういうことをやりたいと思っていたときですから、この雑誌を手に取ったときには衝撃を受けました。それで、矢内廣社長に会いに行ったら、彼も余暇情報センターに興味をもっていて、1年くらいやり取りしていたら、「うちに来ませんか!」とスカウトされたんです。
 私も迷いました。それで佐橋理事長に相談しに行ったところ、理事長は、「いい話じゃないか。人に請われることは長い人生、そんなにあるものじゃない。チャンスだから行って来い」と、私の背中を押してくれました。32歳のときでした。
中川:
 そのころは終身雇用が当たり前で転職というのはあまりなかったかもしれませんね。ぴあ株式会社ではどういうお仕事をやられたのですか。
今井:
 矢内社長は、いくら売れる商品でも商品寿命は30年だと考えていて、「ぴあ」はちょうど10年目でしたから、10年後20年後に売れる新しい商品を開発してほしいと言われました。私は13ほどのアイデアを出しました。その中で矢内社長が「これだ!」と言ったのがオンラインでチケットを販売する仕組みでした。
 そこがスタートとなって出来上がったのが「チケットぴあ」です。このネーミングも私がつけました。社長にご縁つなぎをさせて頂いた佐橋理事長のお声掛けで、サントリーの佐治敬三さん、三井不動産の江戸秀雄さん、伊藤忠の瀬島龍三さん、日本精工・経済同友会の今里廣紀さんらそうそうたる方々が応援団としてバックアップしてくれました。
 ちょうどそのころ、劇団四季の浅利慶太さんがミュージカル「キャッツ」の興行権をブロードウエイから買ってきて、「ロングラン形式で日本にミュージカル文化を根付かせよう」と動いていました。その志に共鳴して、劇団四季のチケット販売を全面的に引き受けました。

<後略>

2020年12月17日 東京・八王子の今井さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

西川悟平

西川 悟平(にしかわ・ごへい)さん

1974年大阪府堺市生まれ。15歳からピアノを始め、1999年に故デイヴィッド・ブラッドショー氏とコズモ・ブオーノ氏に認められ、ニューヨークに招待される。2000年、リンカーンセンター・アリスタリーホールにてニューヨークデビュー。2001年に両手の指が動かなくなり再起不能と診断される。リハビリによって機能を取り戻し、7本の指での演奏活動を始め、世界の超一流のホールでコンサートを行う。著書に「7本指のピアニスト」(朝日新聞出版)がある。PanasonicのCMや映画「栞」の主題歌に起用され、2019年にはベストドレッサー賞を受賞する。

『あきらめたらアカン! 指が動かなくてもピアノは弾ける』

大ピアニストの前座をやったことがきっかけでニューヨークへ

中川:
 西川さんの『7本指のピアニスト』(朝日新聞出版社)を読ませていただきました。絶頂期から一気にどん底に突き落とされ、そこからまた這い上がってくる。まさにジェットコースターのような人生ですね。だれもがいろいろな困難にぶち当たって苦しんだり悩んだりしますが、そんなときにこそ、考え方や生き方を変えることがとても重要だと改めて思いました。今日は、そのあたりのことをお聞きしたいと思います。
西川:
 ありがとうございます。私は今、全国でコンサートをしていますが、ぼくは絶対に無理だと思っても頭の中にクリアに想像できれば実現できるということを、7本指でピアノを弾く姿や実体験から感じ取っていただきたいと思っています。ですから、トークもけっこう重視していて、「トーク&ピアノコンサート」という形で行なっています。
中川:
 いろいろなエピソードをお持ちですからね。だいたい、15歳からピアノを始めて、プロのピアニストになる人もいないでしょう。
西川:
 中学生のときはチューバをやっていて、音楽の先生がとてもすてきな女性だったので、彼女の後輩になりたくて大阪音楽大学を目指すことを決めました。下心ありありです(笑)。高校生になって先生からピアノを習うことになり、先生が弾くピアノにものすごく感動して、チューバはやめてピアノ科に行くと決めました。そのことを先生に言うと、「今、ピアノを始めたばかりで、受験まで3年もないのに絶対に無理」と一刀両断でした。ドの音がどこにあるかを知ったばかりの超初心者が3年で音大のピアノ科に合格できるとはだれも思わないでしょうからね。
中川:
 常識的には100パーセント無理だと思います(笑)。
西川:
 でも、ぼくは無理だとは思わなかったんですね。毎日何時間も、課題曲をCDで聴きながら自分が見事に弾きこなしている姿をイメージしました。学校も行かずに一心不乱に練習をして、同時に理想の演奏を頭の中にクリアに描き出すことを続けると、いつかそれが合致するときがきます。ぼくの場合、受験の前に合致して推薦で憧れの先生の後輩になれました。
中川:
 すごいですね。どんなことでも「無理だ」「できない」と思ったら、もう前へ進めませんからね。無理だと思わないから、どうしたらできるようになるか、工夫が生まれてくるんでしょうね。まず一つのハードルを超えたわけですが、卒業してからも、いろいろなことがあったようですね。
西川:
卒業後、デパートに就職し和菓子の部門に配属されました。あるとき、調律師の方からニューヨークのジュリアード音楽院を卒業して世界中で演奏活動をしている大物ピアニストが大阪でコンサートを開くので前座で弾いてみないかと言われました。ジュリアード音楽院と言えば、ぼくにとっては夢のまた夢の音楽院です。そこを出て世界的に活躍しているピアニストの前座。そんなの、ぼくにできるはずがないと思ってしまうじゃないですか。「忙しくて時間がないので」とぼくは断りました。
 そしたら、調律師の方はぼくの目を見てこう言いました。
「どこの世界に音大まで出て、まんじゅうを売るのが忙しいからとコンサートを断るバカがいるんや。時間がないんやなくて、自信がないだけやろ」
 図星でした。ここまで言われたら後には引けません。「やります」と答えました。
中川:
 この決断が人生を大きく変えることになったわけですね。
西川:
 そうなんですよ。そのときはびびっていましたけどね(笑)。
コンサート当日、ぼくを出迎えてくれたのは、デイビッド・ブラッドショー先生とコズモ・ブオーノ先生という2人の大物でした。心臓が口から出るかと思うほど緊張しながら、それでもこんなチャンスはないと、あれこれ質問したのを覚えています。本番では清水の舞台から飛び降りるような気持ちで弾きました。演奏時間は約10分。緊張し過ぎて5~6回はつっかえてしまって、失敗したとうなだれて楽屋へ戻りました。そしたら、ブラッドショー先生はこんなアドバイスをくれました。
「表現したいことがいっぱいあるんだね。それはわかるけれども、技術が追いついていない。鍵盤をもっとコントロールすることを覚えれば、やりたいことが表現できる。やりたいという思いはきちんと伝わってきたよ」
 がっかりされると思っていましたから、この言葉には感動しました。がっかりどころか、この演奏がきっかけで、ぼくはニューヨークへ行って先生たちからピアノを教えてもらえることになったのです。
 デパートで和菓子を売っていた男がいきなりニューヨークですから、信じられないような展開です。

<後略>

(2020年11月20日 東京・江東区のシンフォニーサロンにて 構成/小原田泰久)

メディアの紹介

CD『西川悟平 20th Anniversary』

平井正修

平井 正修(ひらい しょうしゅう)さん

臨済宗国泰寺派全生庵住職。学習院大学法学部政治学科卒業。2002年より、中曽根元首相、安倍前首相らが参禅する全生庵の第七世住職に就任。2016年より日本大学危機管理学部客員教授。全生庵にて坐禅会、写経会を開催。『心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ』(幻冬舎)『老いて自由になる』(幻冬舎)など、多数の著書がある。

『不安なときは静かに坐って自分の内側に意識を向ける』

悩みやつらさを抱えつつ落ち着くことが求められる

中川:
 ご住職の書かれた『老いて自由になる。』(幻冬舎)という本を読ませていただきました。新型コロナウイルスで多くの人が不安を抱えている中で、どうすれば心が安らぐか、とても参考になりました
平井:
 ありがとうございます。もともとはそういう意図で書き始めたわけではなかったのですが、書いているうちにコロナの騒ぎが広がって、こういう内容になってしまったんですね。
 私は53歳になるのですが、50歳を過ぎると体力的にも社会的にも「あれっ」と感じることが多くなりました。疲れやすくなったり筋力が落ちたり、日々の生活の中で、若いころはこんなことがなかったのにと思うことも多々あります。
 大学時代の友人と会うと、若いころの勢いがなくなっていてびっくりすることがあります。出世コースから外れて出向させられた友だちもいます。こんなはずではなかったと思うのも50代なのだろうと思いますね。
 コロナ以前は、人生100年時代と声高に言われていました。50歳というとちょうど折り返し地点です。先はまだまだ長いのに、どうすればいいのかと途方に暮れているのが、私たちの年代だと思いました。
「あなたは100歳まで生きなければいけない」
「そのためには貯金がこれだけ必要だ」
「それまでに認知症になるかもしれない」
 そうやってさんざん脅されて、ますます不安になってしまいます。
 そんな矢先のコロナです。体力の衰えを感じ先が見えてきて、あれこれ迷っているときに、病気や死の不安にも襲われてしまっているのが現状なのではないでしょうか。こういうときこそ、「老い」とか「死」について考えないといけない。そう思って書いた本です。
中川:
 緊急事態宣言が出されるという物々しい状況でしたからね。感染すると死んでしまうのではないかという恐怖をもった人も多かったと思います。
平井:
 新型コロナウイルスを見くびってはいけないし、対策を十分に講じる必要はありますが、この何ヵ月かを見ていますと、肉体的なダメージよりも、精神的に痛めつけられている部分の方が大きいのではないかと思えます。コロナという「心の病」に冒されているような気がしてならないんですね。
中川:
 私も帯津良一先生はじめ、何人かのドクターにお話をうかがいましたが、みなさん、大騒ぎしすぎではないかという意見でした。いたずらに怖がるのではなく、免疫力を高めることを心掛ければ、感染を防ぐこともできるし、感染しても軽症ですむということだと思います。免疫力は気持ちの持ち方と密接に関係しているそうです。恐怖や不安に振り回されず、状況を冷静に見て、適切な判断をすることが大切なのだろうと思います。
平井:
 その通りですね。これだけコロナのことがテレビや新聞で騒がれれば気にするなと言われても無理なことです。不安や恐怖を持つのは当たり前です。人間というのは、不安は感じやすいのに、安心はキャッチできないようにできていますから。
 よく「落ち着く」と言いますが、一般的にはさまざまな問題が解決して安心できることを落ち着くと考えます。しかし、禅では、怒っていても、悲しくても、悩んでいても、その状態の中で落ち着くことが求められます。怒りや悲しみ、悩みといったネガティブな感情をなくそうとすると余計に落ち着かなくなります。最初から、「人はネガティブなものだ」と構えていれば大抵のことは容認できるものです。
 坐禅をすると、最初のころは足が痛くてつらいんです。とにかく痛い。朝晩で5時間くらい坐りますから。接心という1週間の坐禅の強化期間が年に6回から8回あります。そのときは1日10時間くらい坐っています。
 痛くて痛くてたまらないとき、師匠が「痛いか。足があったということじゃ。その痛いところに落ち着くのじゃ」と言うんですね。
 「五体満足という言葉があるじゃろ。禅では、片手片足がなくても五体満足、風邪をひいていても五体満足、明日死ぬという状態でも五体満足じゃ。そういうところが落ち着くということじゃ」
 そうは言われても、痛いものは痛いですから(笑)。なかなか師匠の言うような心持ちにはなれないですよ。
 私は、さんざん足の痛みを体験したことで、どんなつらい状況であっても、苦しみを消そうとするのではなく、今できることを探して、やってみることが大切だと気づくことができました。コロナでも、あれができなくなった、これができなくなったと嘆くのではなく、今何ができるかと考え、それをやってみることで、不安も少なくなるのではないでしょうか。
中川:
 痛みだけに心が奪われますが、まずは自分が置かれている状況を受け入れて、そこから先を考えるということでしょうか。
平井:
 受け入れるということは大切です。個人でも企業でも、自分の立脚しているところが見えないと先に進めないですから。
中川 足が痛いのも良しですかね(笑)。
平井 3年くらいすると慣れてきてそれほど痛くなくなります。そうなると坐っているときに余計なことを考えたり、眠くなったりします。痛くてたまらないときにはほかのことを考える余裕がないから無心でいられたのにですよ。何がいいか、わかりません(笑)。

<後略>

2020年10月8日 東京都台東区の全生庵にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

老いて、自由になる。 智慧と安らぎを生む「禅」のある生活 平井正修(著) 幻冬舎

のぶみ

のぶみ(のぶみ)さん

1978年東京生まれ。保育の専門学校に進み、そこで知り合った女性が絵本好きだったことから絵本作家になる。NHK eテレみいつけた!『おててえほん』担当。eテレアニメ『うちのウッチョパス』『ぼく、仮面ライダーになる』「しんかんくん』『うまれるまえにきーめた!』『ママがおばけになっちゃった!』など約200冊の絵本作品を発表している。

『ママも子どももいろいろなことを学べる絵本を作りたい』

悪いことが起こったときこそ、今運を貯めてると思う

中川:
 のぶみさんの『ママがおばけになっちゃった!』(講談社)という絵本を読ませていただきました。ママが交通事故で亡くなっておばけになるというお話ですが、死をテーマにした絵本ってあまりないですよね。
 私は、親と子が死について話し合うことはとても大切だと思ってきました。でも、あまり深刻になっても良くないし、絵本というのはいい手段だなと感心しながら読ませていただきました。死んだらすべてが無になると考えている人もいますが、私は魂と呼ばれるものが存在していて、亡くなったママが子どものことを思って会いにくるというのは十分にあり得ることだと考えています。あの絵本を読む限り、のぶみさんも魂はあると考えておられるようですね。
のぶみ:
 読んでいただいてありがとうございます。私はいろいろな体験から、魂はあると思っています。両親は牧師で、小さいころは礼拝所の上に住んでいました。礼拝所ではお葬式があって、私はよく見学をしていました。
 お葬式のとき、棺桶の横に人が立っているのがぼやーっと見えました。何度もありました。そのことが記憶にあったので、大人になってから、きっと人は死んだら自分のお葬式に出るのではないかなと思うようになったんです。もし自分が死んだら、きっと自分の葬式に出て、こいつも来てくれたんだ、あいつはどうしたって、きょろきょろするんじゃないかと思うんですね(笑)。
 絵本を描くようになって、長男がけっこうやんちゃで、妻が『私が死んじゃったらこの子、どうなっちゃうんだろう』とつぶやくのを聞いたとき、はっとひらめくものがありました。
 母親だったら、子どもが小さければ、絶対に子どものところへ行くんじゃないか。行くはずだ。そう思ってできたのが『ママがおばけになっちゃった』なんです。
中川:
 このお話では、おばけになったママは子どものことが心配でなかなかあの世へ行けないですよね。子どももたとえおばけでもママと一緒にいたいと思って、おばけになったママに甘える。
 亡くなった魂さんは、残された人のことが心配なんだと思います。残された人たちがいつまでも悲しんでいると、魂さんは後ろ髪を引かれるようでなかなか光の世界へ旅立っていけないんだと、私は思っています。
のぶみ:
 中川会長はおばけが見えるんですか?
中川:
 いえいえ、見えません(笑)。私はみなさんに氣をお送りするのですが、氣を受けた方の中には、思ってもみなことをしゃべり出す人がいるんですね。苦しみを訴えたり、恨み言を言ったりするわけですが、現在のことではなさそうで、どうも氣を受けている本人ではなくて、その人に影響を与えている魂さんが言っているようなのです。
 もう25年もそういうことをやっていますから、たくさんの人から出てくる不思議な話を総合すると、おばけは見えなくても、魂さんたちはどんなところにいて、どんなことを思い、何をしようとしているのか想像がつくわけです。
 残した子どものことが心配でたまらなくて苦しんでいる魂さんが出てくることもあります。亡くなったママがいつまでも子どものそばにいたい気持ちはわかりますが、それでは自分も子どもも幸せになれません。光の世界へ行くことで、もっと強い力で子どもを守り、応援できるんですね。そういう意味で、この物語はすばらしい結末だと思います。
のぶみ:
 中川会長の本を読ませていただきましたが、光の世界へ行けない魂さんがマイナスの氣であり、先代の会長がおっしゃっていたおばけなんですね。
中川:
 ご先祖様がマイナスの氣として子孫に影響を与えることがよくあります。だれにもたくさんのご先祖様がいて、中には悲しみとか恨みとか、ネガティブな感情をもって亡くなった魂さんもいるはずですから、だれもがマイナスの氣の影響を受けている、と私は考えています。
 マイナスの氣の影響を受ければ次々とマイナスの出来事が起こりますが、そんな中でどう生きるのかということが大切です。落ち込んでしまえば、まわりからさらにたくさんのマイナスの氣を集めてしまいますし、つらいことをバネにしてがんばれば、自分も成長するし、ご先祖様にも光が届いて、苦しんでいるご先祖様も楽になれます。
のぶみ:
 なるほど。コロナ騒ぎでも大変だ大変だと思っている人が多いと、マイナスの氣が増えてくるんですね。
中川:
 一時的には増えると思います。しかし、コロナは自分が変わるチャンスだとか、地球の環境が良くなったとか、プラスに考えられる人も増えているじゃないですか。そういう人が増えれば、形勢が逆転して、良くない波動は少なくなっていくと思いますよ。
のぶみ:
 実は、よくサウナへ行くのですが、この間、財布を忘れましてね。よく財布を忘れますが、これまでは必ず出てきました。でも、今度は見つからないんですね。免許証やクレジットカード、それに現金も8万円入っていました。
 それにインスタグラムが一時停止の制限がかけられ、一週間止まりますと言われ、踏んだり蹴ったりでした。
 一瞬落ち込みましたが、気持ちを切り替えることにしました。間もなく新しい絵本が2冊出ます。このマイナスに思える出来事は、2冊の絵本がヒットする予兆じゃないかと思うようにしました。
 何か良くないことがあっても「何だよ」って言わないようにしています。悪いことが起こったときこそ、今運を貯めてるなと思うようにしています。会長の考え方だと、これは大正解ですよね。

<後略>

2020年9月8日 東京都練馬区ののぶみさんのアトリエにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左上:「ママがおばけになっちゃった!」 のぶみ(著) 講談社
右上:「さよなら ママがおばけになっちゃった!」 のぶみ(著) 講談社
下: 「暴走族、絵本作家になる」 のぶみ(著) ワニブックス

Satoko

Satoko(さとこ)さん

大阪府堺市生まれ。フリーランスの作曲家として活躍していたときに、子宮頸がん、慢性骨髄性白血病であることが判明。闘病中に生まれた『宮古の風』でシンガーソングライターとしてデビュー。全国各地で行うコンサートのほか、がん患者さんや難病の子どもたちに笑顔と元気を届ける活動に励んでいる(コロナで休止中)。

『大きな力に動かされての音楽活動。 私の「神様の仕事」』

音楽には 瞬時に場のエネルギーを変える力があります

中川:
シンガーソングライターのSatokoさんのご自宅兼仕事場におうかがいしました。お部屋にはどーんとグランドピアノ。ギターやキーボードもありますね。壁には変わった楽器がかけられていますが、どこかの国の民族楽器ですか。
Satoko:
暑い中、わざわざお越しいただきありがとうございます。
壁にかかった楽器は、ブラジルとかメキシコのものです。タンバリンみたいなのがパンデイロといって、サンバやボサノヴァで使われるブラジルの楽器ですね。
民族や文化によって、楽器も違うし、奏でるリズムも違うのが面白くて集めています。
日本人は農耕民族のリズムです。沈む感じですね。お相撲さんが四股を踏むじゃないですか。ああいう重厚なリズムかな。
ブラジルだと浮き上がるようなリズムです。陽気で軽やか。まったく逆のリズム感をもっているんです。
たとえば、踏切の警報音、どんなふうに聞こえますか?
中川:
カーンカーンカーンですか。
Satoko:
そうですよね。日本人にはそう聞こえるのですが、ブラジル人は違うみたいなんです。
中川:
どう違うんでしょう。
Satoko:
ンーカンーカンーカって、日本人とは逆の聞こえ方みたいなんですね。それが音楽にも影響を与えているのではないかと思います。
中川:
へえー。初めて聞きました。確かに、カーンカーンカーンは沈むようだし、ンーカンーカンーカになると、浮き上がるような感じがしますね。
Satoko:
音楽には場の雰囲気を変える力があります。空気がどよーんと淀んでいるときには、サンバとかボサノヴァを流してみるといいですよ。さっきまで落ち込んでいたのに、音楽がかかった途端に踊り出したくなってしまいますから(笑)。
今は新型コロナウイルスでみなさん沈みがちです。でも、陽気な音楽を聴くと体が勝手に反応して、音楽を聴いているときくらいは、重い気持ちから解放されるじゃないですか。
中川:
なるほど。演歌とボサノヴァでは場の雰囲気がまったく違いますよね。クラシックにはクラシックの雰囲気があるし。それが音楽の力ですね。
Satoko:
私は、障がいがあったり、難病で体が動かせない人と一緒に音楽をやることがよくあります。彼らは海外旅行に行けないけれども、思考が豊かなので、音楽を聴きながら、意識の中で世界を旅するのです。ボサノヴァやサンバを聴くと、彼らはブラジルのあの陽気な人たちと踊っている気持ちになれるみたいなのです。
中川:
音楽で世界旅行ですか。なかなかない発想ですね。
Satoko:
会長はさっき、音楽の力とおっしゃいましたが、音楽にはある種のエネルギーがあると思うんですね。そのエネルギーに聴く人の意識が反応して、想像の中で世界を旅することができるのではないでしょうか。
特に民族楽器は、もともとは祈りのために作られたもので、エネルギーが強いように思います。
中川:
祈りですか。
Satoko:
多くの場合、雨乞いですね。水不足は命の危機に直結しますから、必死で祈ります。その願いを天に届ける手段のひとつが楽器だったのではないでしょうか。
多くの人が一斉に太鼓をたたくと、雨雲が広がって猛烈な雷雨になるのを体験したことがあります
中川:
雨乞いというのは、単なる迷信や気休めではなく、何か目に見えないエネルギーが作用して雨をもたらせることもあるのだと思います。
私はその目に見えないエネルギーを氣と呼んでいます。想いや意識が現実を作ると言いますが、私もそうだと思います。雨を降らせてほしいという強い願いが氣となって広がり、宇宙のエネルギーと共振して、現実に雨を降らせることもあると思います。
Satoko:
わあ、うれしいことを言ってくださって感動です。
このグランドピアノ、大屋根を開けてみますね。弦が並んでいるでしょ。こうやって見るとピアノが弦楽器だってわかるんですね。
会長、弦に向かって大きな声で「あー」と言ってみてくれますか。
中川:
あー!
Satoko:
どうですか?
中川:
声が響きますね。
Satoko:
そうでしょ。会長の声と同じ周波数の弦が共振現象を起こしているんですね。面白いでしょ。さっき会長が宇宙のエネルギーと共振するっておっしゃったじゃないですか。今は会長の声とピアノの弦との共振でしたが、雨が降ってほしいという想いが会長の声で、宇宙のエネルギーというのがピアノの弦じゃないでしょうか。
自分が強く発した想いは波動となって宇宙に広がって、同じ波長のエネルギーを響かせるのだと思うんですね。
実は、私は個人レッスンもやっていますが、こんな実験のようなことをして、意識や想いは大切ですよという話もしています。

<後略>

2020年8月24日 東京都西東京市のSatokoさんのご自宅にて 構成/小原田泰久

メディアの紹介

SatokoさんのCD「Flower of Life」、「宮古の風」、「みどりの風」

関野幸生

関野 幸生(せきの・ゆきお)さん

1971年埼玉県生まれ。30歳で家業である農業を継ぐ。4年目から無農薬・無肥料による自然栽培を始める。1町歩の畑で野菜を栽培しつつ、各地で自然栽培の指導や講習・講演を行っている。著書に『固定種野菜の種と育て方』(野口勲氏との共著・創森社)『とっておきの野菜づくり』(渋谷正和氏との共著・成美堂出版)がある。

『無農薬・無肥料・自家採種で生命力のある野菜を作る』

肥料をやり過ぎると病気にもなりやすくなり虫が集まってくる

中川:
関野さんが書かれた『とっておきの野菜づくり』(成美堂出版)という本を読ませていただきました。写真がたくさんあって、私のように農業には不案内な者でも、ダイコンやニンジンはこうやって作るんだとイメージすることができます。どんな虫がつくかも書かれていて、農業をやろうという人にはすごく参考になりますね。
関野:
ありがとうございます。渋谷正和さんという長く有機栽培をしている方と一緒にまとめたものです。編集者の方も農業をやっていたので、とても力を入れて作ってくれました。でも、絶版になると連絡がありまして、とても残念です。
中川:
絶版ですか。残念ですね。これを一冊もっていると農業はやりやすいと思います。私は、これからは農業がとても大切になってくると思います。特に、関野さんがやっておられる自然栽培は、健康の問題、環境の問題にもかかわるということで、ますます注目されるのではないでしょうか。
関野:
農薬も肥料も使わない自然栽培を始めて16年になりますが、始めたころはなかなか理解してもらえませんでした。みなさん、肥料なしで野菜ができるはずがないという先入観があって、有機栽培ならわかるけれども、自然栽培は無理だろうと言われました。
ところが何年か続けているうちに興味をもってくれる人が出てきて、インターネットで仲間ができたり、扱ってくれるお店や飲食店が増えてきました。奇跡のリンゴの木村秋則さんが本や映画で話題になったのも追い風でしたね。
中川:
野菜を作ればそれだけ土地の養分が減ると考えますよね。減った分、肥料で補わないといけないというのが普通の考え方なのでしょうね。関野さんの家はもともと農家だったのですか。
関野:
私が4代目です。地主ではなく小作でたくさんの畑があったわけではありませんでした。父も、それほど一生懸命に農業をやっていた人ではなかったですし。
私は、車の整備士をやっていて、30歳になったのをきっかけに農業を継ぎました。祖父が種のまき方、収穫の方法、出荷の仕方など、基本的なことを教えてくれました。祖父が教えてくれたのは、農薬も化学肥料も使う普通の農業です。私は、農薬は使いたくないと思っていたので、2年目から無農薬にして、肥料は試行錯誤しながら使っていましたが、4年目からは農薬も肥料も使わない自然栽培を始め、16年がたちました。
中川:
今、どれくらいの広さの畑をやっておられるのですか。
関野:
最近3反ほど借りて、1町になりました(1反は約1 0 0 0 ㎡。一町は約1 万㎡)。40種類ほどの作物を、基本的には妻と2人で作っています。たまに研修という形でお手伝いに来てくれる方もいます。
中川:
自然栽培については、木村秋則さんや川口由一さんら大御所にもお話をお聞きしたことがあって、ずっと興味をもっていましたが、彼らもとても苦労をしてやり遂げています。関野さんもご苦労はあったのではないでしょうか。
関野:
農薬をやめたとき、私の畑は住宅街にあったので、虫なんかこないだろうと思っていました。ところが、どこからともなくやってくるんですね。そして、葉っぱを食べてしまいました。虫食いの野菜は出荷なんかできないですよ。
そのときに、農薬を使わずに栽培するには知識も経験も必要だと痛感し、本を買って独学で無農薬栽培のやり方を模索しました。『野菜づくりと施肥』(農文協)という本がすごく参考になりました。そこには肥料をやり過ぎると良くないと書かれていました。ネットを見ると、肥料を使わずに野菜を作る方法があると知り、半信半疑でしたが始めてみました。
試行錯誤の連続で、何となく行けると思ったのが7年目。8年目からは、だいたいの作物が無肥料でも育つようになりました。ピーマンなんかはいまだに苦戦していますけどね。
中川:
肥料をやり過ぎるのは良くないんですね。
関野:
人間でも朝昼晩とお腹いっぱいご飯を食べると体調を崩すじゃないですか。食べ過ぎて病気になっている人はたくさんいます。どんな生き物も食べ過ぎは良くないのではないでしょうか。
中川:
肥料をたくさんあげれば大きくて立派な野菜ができるように思ってしまいますけどね。
関野:
肥料をたくさん入れれば野菜は大きくなりますが、言ってみれば、メタボの野菜です。ダイコンをおろすと水ばっかりじゃないですか。水膨れなんですよ。自然栽培のダイコンは、おろしても綿みたいにフワッとしています。キュウリもそうですが、肥料で大きくなっても、水を食べているようなものです。
中川:
肥料をあげると病害虫も多くなるんですね。
関野:
植物には細胞膜の外に細胞壁があります。肥料をあげると、細胞壁が薄くなってしまうことがわかっています。それに細胞同士の結びつきも弱くなります。そのために病気にかかりやすくなります。不健康な野菜だと、虫も集まってきます。

<後略>

著書の紹介

「とっておきの野菜づくり」 関野 幸生、渋谷正和(共著) 成美堂出版

川嶋朗

川嶋 朗(かわしま・あきら)さん

1957年東京都生まれ。東京有明医療大学保健医療学部鍼灸学科教授・医学博士。北海道大学医学部卒業後、東京女子医科大学入局。ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院、東京女子医科大学附属青山自然医療研究所クリニック所長などを経て2014年から現職。『医者が教える 人が死ぬときに後悔する34のリスト』(角川SSC新書)『代替療法で難病に挑む』(ペガサス)『難病に挑むエネルギー療法』(幻冬舎)など著書多数。

『新型コロナウイルスを教訓に、医者も患者ももっと賢くなろう』

死ぬということに限れば、新型コロナウイルスは怖がらなくていい

中川:
ご無沙汰しています。新型コロナウイルス(以下コロナ)で世界中が大騒ぎになっていますので、お忙しいとは思いましたが、先生はこの騒ぎをどう考えておられるのかお聞きしたくてうかがいました。
川嶋:
うちもそうですけど、どこの医療機関も今は暇ですよ(笑)。みなさん外へ出るのを怖がっているんでしょうね。医者へ行くのは不要不急だってことですよね(笑)。最初は、今までにないルスだったのでどうしていいかわからず右往左往していた感がありましたが、時間がたってかなりのことがわかってきました。
まずわかったのは、コロナに感染したら死んでしまうという恐怖はあまりもたなくていいということです。毎年流行するインフルエンザですが、去年も一昨年も、1月2月の2ヶ月間で2000人ほどが亡くなりました。インフルエンザ関連で亡くなった人は、年間では1万人はいますよ。それと比較してコロナによる死者は1000人弱です。
中川:
新型ということで、不安ばかりが広がった感じがしますね。テレビでも不安をあおるような報道が多いですしね。
川嶋:
死ぬということに限って言えば日本では怖がらなくていいと思います。今年はインフルエンザがすごく少ないと思いませんか。去年も一昨年もワクチンや薬があって、先ほど申し上げたようにたくさんの死者が出ています。今年はインフルエンザによる死者が減っています。コロナに感染したくなくて、みなさんが予防したからインフルエンザも少なくてすんでいるのではないでしょうか。
手洗い、うがいをきちんとして、濃厚接触を避ければインフルエンザもコロナもかなり予防ができるということがわかりましたよね。マスコミにはそのことをもっと言ってほしいです。
中川:
そういう報道があれば、みなさん安心しますよね。
川嶋:
社会は安全ではなく安心を求めますからね。インフルエンザはワクチンや薬があるからたくさん亡くなっていても安心していられます。コロナは死者数は少なくても治療法がないから安心ができない。だから大騒ぎするんでしょうね。
中川:
安心できないと不安が募って冷静に考えられなくなるんでしょうね。
川嶋:
熱が出たからと大慌てで来院した患者さんがいました。PCR検査を受けたいって言うんですね。だけど、コロナの場合、指定感染症になっていますから、もし陽性という結果が出たら少なくとも2週間は隔離されます。それでもいいんですか? と聞きますと、やっぱりやめると言って帰って行かれました。コロナを指定感染症にしてしまったから、まったく症状がなくてもPCR検査で陽性になると隔離になります。軽症患者で病院のベッドがふさがると、重症患者を入れられなくなってしまいます。
私には、WHOがなぜこんなにも大騒ぎしたのかわかりません。死亡者の数からしてもがんや心臓病や脳血管障害の方が圧倒的に多いじゃないですか。それに、8割は重症化せず治っているんですよ。何をこんなに大騒ぎしたんでしょうね。
亡くなった方も骨になるまで帰れないじゃないですか。亡くなって、棺桶の中であれば、接触感染も飛沫感染もないと思うんですけど。よくわからないですね。
中川:
用心するに越したことはありませんが、亡くなった方とお別れできないほどの警戒をしないといけないのか、そこは冷静にリードしてほしいと思いますね。
川嶋:
万が一コロナに一人でも感染すると問題になるからでしょうか。責任逃れの極みです。もう一度言いますが、日本では死ぬということに限って言えばコロナを怖がる必要はありません。
お風呂でおぼれ死ぬ人が年間4~5000人います。コロナで亡くなる人の4~5倍です。コロナが怖いと言う人に聞いてみたくなります。毎日、溺れる心配をしながらお風呂へ入りますかって。そんな人いないでしょ。コロナで死ぬのは、お風呂で溺れるよりも低い確率ですから、お風呂で溺れるなんてありえないと思っている方は、コロナで死ぬことはもっとありえないことになります。
予防すれば感染も非常に少ないこともわかっているわけですから、密集を避け、手洗いをしっかりとやっていればいいと思います。

<後略>

2020年6月5日 東京都渋谷区・東洋医学研究所附属クリニックにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「難病に挑むエネルギー療法」 川嶋 朗(著) 幻冬舎

西本真司

西本 真司(にしもと・しんじ)さん

1961 年和歌山県生まれ。近畿大学医学部卒業。熊本大学医学部附属病院 麻酔科などを経て、1996 年西本第 2 クリニックを開業。2006年に西本クリニックと西本第 2 クリニックを統合し、西本クリニックの院長に。自らの闘病体験を生かしたホリスティックな医療を実践している。著書に『潰瘍性大腸炎が治る本』「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」(マキノ出版)な どがある。

『統合医療、ホリスティック医療でコロナウイルスを乗り切る』

コロナウイルスで亡くなる人は家族に看取られずに旅立つ

中川:
新型コロナウイルスの関係で外出を自粛しないといけないので、会社の会議や真氣光研修講座、セッションもオンラインでやっています。 今日の対談もオンラインということでよろしくお願いしま す。前回、先生が対談に出てくださったのは2015年6月号でした。ちょうど5年前です。
西本:
5年前はわざわざクリニックまで来ていただき、ありがとうございました。患者さんたちも会長から氣の話を
中川:
新型コロナウイルス、和歌山はいかがですか。
西本:
和歌山では2月の半ばにクラスターが発生しましたが、感染症の専門医や県が早急に情報を集め、適切な対応をしたことで、感染の広がりを防ぐことができました。今はとても安定しています。
中川:
世界中で大騒ぎになっていますが、日本は比較的成績がいいと思うのですが。
西本:
いいと思いますよ。亡くなった人は本当にお気の毒ですが、統計から見れば、人口100万人当たりの死亡率は金メダル級じゃないでしょうか。もうちょっと胸を張ってもいいのではと思います。
中川:
新型コロナウイルスは未知のウイルスということで警戒が必要だとは思うのですが、私たちのまわりには常にウイルスはいるわけですよね。
西本:
ウイルスや細菌は約38憶年も前から地球にいます。人類の祖先が地球に出現したのは500万年とか600万年前のことです。
中川:
そんなに昔からいたのですか。大先輩なのだから、一方的に悪者扱いするのは良くないですね。
西本:
共存することが大切だと思います。
私は1990 年、麻酔科医になって2年目の暮れ、潰瘍性大腸炎を発症し、大腸全体に炎症が起こる「全大腸炎型」と診断されました。99・999パーセント治らないと言われ、落ち込みました。当時は、一日に40回以上の下痢に悩まされていましたね。生死の境をさまよったこともありました。
7年間、良くなったと思ったら悪化するといった状態を繰り返しました。そのときに真氣光を知って、真氣光研修講座、当時は氣功師養成講座という名前でしたが、そこにも参加しました。
潰瘍性大腸炎になったことで、腸内の環境についてずいぶんと勉強し、人間が健康に生きるためには腸内細菌はなくてはならない存在だということもわかりました。細菌を悪者だと決めつけて体内から排除すると人間は健康ではいられなくなります。きちんと共存できているからこそ、人間も細菌も生きていけます。ウイルスも同じで、お互いに助け合う関係にあるはずです。上手に折り合いをつけながら付き合っていくことが大切です。
中川:
西洋医学的な考えだと、どうしてもウイルスや細菌を殺してしまうという発想になりますからね。もちろん、ウイルスがあまりにも広がり過ぎれば、そういう処置が必要なこともあるのでしょうが、根本は自分自身の免疫力
を高めることだと思います。
西本:
西洋医学を否定するわけではありませんが、こういうときこそ、東洋医学とか代替療法、統合医療、ホリスティック医療にも目を向ける必要があると思います。
私は、病気の治療というのは「Body(体)」「Mind(心)」「Spirit(魂)」のすべてにアプローチしないといけないと考えています。西洋医学は基本的にはBodyを対象にします。Mindは、ほんの少し、Spiritには手が回りません。
コロナウイルスのことで言えば、看取りのときに家族は何もできません。ずっとお世話になったおじいちゃんやおばあちゃんに別れも言えず、骨になってから家に帰ってくるというのはどうでしょう。亡くなった方も遺族の方もつらいだろうと思いますよ。MindやSpiritの部分でのケアが必要な場合もあります。
中川:
新型コロナウイルスで亡くなった芸能人の方が、お葬式もできず、骨になって自宅へ帰ってきたというニュースを見ました。ご家族のことを思うと胸が痛みました。
西本:
感染症は危険度によって5段階に分類されています。エボラ出血熱やペストなどが1類、ポリオや結核、SARSなどは2類。新型コロナウイルスも2類です。1類と2類は危険度の高い感染症ということで、隔離が必要です。ですから、1類2類の感染症で入院すると、だれもお見舞いに行けないし、亡くなれば家族に会えるのは骨になってからという悲しいことになってしまいます。新型コロナウイルスが、3類以下になればきちんとお別れができます。そうなるといいのですが。
新型コロナウイルスがどれくらい危険かを、さらに検証して、看取りというところでも、悲しみを減らす方向に進んでくれるといいと思います。
私は、ご家族が亡くなったときのご遺族の心のあり様とか、亡くなった人の魂はどうなのかといったことまで考える医療が大事だと思っています。

<後略>

5月14日 エスエーエス本社と西本クリニックをZOOMでつないでの対談 構成/小原田泰久

著書の紹介

小林正観さんの「奇跡のセイカン」 (生まれてきた本当の意味がわかる本) 西本真司(著) マキノ出版

帯津 良一(おびつ・りょういち)さん

1936年(昭和11年)埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業後、東京大学第三外科、都立駒込病院をへて、1982年(昭和57年)に帯津三敬病院を設立。人間まるごとを対象とするホリスティック医学の確立に情熱を注ぐ。帯津三敬病院名誉院長。200冊を超える著書がある。最新刊は『ボケないヒント』(祥伝社黄金文庫)。

『ウイルスを排除することばかり考えず共存の道を探る』

新型コロナウイルスはちょっと騒ぎ過ぎの感がある

中川:
先生とお会いするのは4年ぶりですが、お元気そうで何よりです。
今年に入ってのコロナ騒ぎ、先生も影響を受けていると思いますが。
帯津:
患者さんがガタッと減りました。池袋のクリニックだと、毎日30人くらいの患者さんを診察していましたが、今日は10分の1の3人ですよ。みなさん、新型コロナウイルスに感染するのが怖くて外出を自粛していて、ホメオパシーや漢方薬を送ってくださいという連絡が相次いでいます。
それから、土日は講演で埋まっていたのですが、すべて秋以降に延期になりました。
中川:
私も土日は地方へ行くことが多かったのですが、東京から行くとみなさん不安がるので、今は自宅とか会社からネットで情報を発信しています。
先生も、こんなに自分の時間があることは珍しいと思いますが、どうされているのですか?
帯津:
私はもっぱら原稿を書いています。たくさん頼まれるのですが、普段は診療をしていますからなかなか進みません。出版社の人にはずいぶんと迷惑をかけているので、この機会に集中して書いています。
中川:
先生は今回の新型コロナ、どのように見ておられますか。
帯津:
油断はできませんが、ちょっと騒ぎすぎのような気もしますね。
私はあまりテレビを見ないし、新聞も読みません。でも、世の中で起こっていることにうと過ぎてもまずいので、早朝のNHKニュースだけは15分ほどですが見ています。今はコロナウイルスのことばかりですが、以前から嘆かわしいニュースばかりで、憤りを感じたり、気持ちが沈んだりしました。あまりネガティブな情報は入れないほうがいいですね。15分くらいのニュースがちょうどいいんじゃないでしょうか。気持ちが落ち込むと免疫力も下がりますから。
中川:
私もそう思います。テレビの報道など見ていると気が滅入ってきます。感染したらどうしようとか、外出すると移るんじゃないかとか、どんどん不安になります。不安は氣のレベルを下げますから、余計に感染しやすくなります。不安が大きくなると眠れなくなるとか、感染してないのに熱が出ることもあります。それで余計に心配になるという悪循環にはまり込んでしまいます。
そういう方にはしっかりと氣を受けてくださいとお話しています。
帯津:
毎日、何人が感染して、何人亡くなったと発表されますよね。亡くなられた方は本当にお気の毒ですが、これも不安をあおってしまいますね。
私の専門のがんですが、年間100万人以上の人が罹り 患かんします。死亡者は38万人くらいいます。一日当たりにすると、2800人くらいががんと診断され、1000人以上が亡くなっているわけです。
もし、テレビで毎日、今日のがんの罹患者数は3000人で1000人が亡くなりましたと発表したら、みなさんどう思うでしょうね。東京都は何人、大阪府は何人とか。不安と恐怖で大変なことになるのではないでしょうか。
インフルエンザでも毎年3000人以上が亡くなります。流行するのが冬場の3ヶ月だとして、それでも毎日30人以上が亡くなる計算になります。
毎日、これだけの人が亡くなりましたと言われたら怖くなりますよ。
新型コロナウイルスは未知のウイルスですから、慎重になって警戒を促すのも大切ですが、かからない人もいるし、治った人もいるし、軽症の人もいるといったことも、もっと報道しないといけないと思いますよ。
中川:
先生は毎月、「生きるも死ぬもあるがまま」という記事を書いてくださっていますが、いつも「なるほど」と思いながら読ませてもらっています。インフルエンザが流行しているときでも先生はマスクをしないそうですね。
帯津:
SARSが流行ったときでしたか、とてもお世話になった中国の方が亡くなりました。お葬式にはどうしても出たかったので、「これから中国へ行く」と言ったら、「こんな時期に行くことはないでしょう」と、みんなが反対しました。しかし、事情が事情ですから、次の機会にというわけにはいきません。「呼吸法をやっているから2日や3日は呼吸しなくて大丈夫だ」と言って反対を押し切りましたが、マスクを山ほどもたされました。中国へ着いてもマスクはしませんでした(笑)。
私は病院の医師にも看護師にも事務の人にも、「医療は格闘技なのだからマスクなんぞしていてはダメだ」と言ってきました。コロナの場合は、感染力が強い可能性もあるので、全面的にマスクを否定しませんが、あくまでも気持ちとして、どんな細菌でもウイルスでもかかってこいというくらいの迫力が必要です。医療者は感染予防には細心の注意をしつつ、気持ちの上では、立ち向かってほしいですね。医者が感染を怖がっておどおどしていては医療は成り立ちません。

<後略>

2020年4月22日 東京池袋・帯津三敬塾クリニックと神田・うなぎ久保田にて  構成/小原田泰久

著書の紹介

「ボケないヒント 認知症予防、わかってきたことこれからわかること」(帯津良一著) 祥伝社黄金文庫

辻信一

辻 信一(つじ・しんいち)さん

1952年生まれ。文化人類学者。明治学院大学国際学部元教授。ナマケモノ倶楽部世話人。環境=文化運動家として「キャンドルナイト」、「スローライフ」、「GNH」「しあわせの経済」などのキャンペーンを展開してきた。著書に『弱虫でいいんだよ』(ちくまプリマ―新書)『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)『よきことはカタツムリのように』(春秋社)『アジアの叡智(DVDブックシリーズ)』(SOKEI)など。

『スロー、スモール、シンプルで危機を乗り越える』

もう一度、われわれの文化を見直すことが大切

中川:
先生の書かれた『よきことはカタツムリのように』(春秋社)という本を読ませていただきました。先生は20年以上も前から、スローな生活にシフトチェンジしたほうがいいと唱えておられます。
速いこと、強いこと、大きいことがいいとされる中で、スローライフと言ってもなかなか受け入れてもらえなかったと思います。2011年に東日本大震災、福島第一原発の事故があって、人の意識も少しは変わったと思いますが、今、新型コロナウイルスが世界中にパニックを引き起こしている中で、改めて先生のおっしゃっていることはとても大切だと感じました。
何がスローライフを提唱するきっかけになったのでしょうか。
辻:
スローライフという考え方のベースは自然生態系と調和した生き方ですが、そこに導かれていったのはやはり環境問題にぶつかったからです。ぼくは1977年から10数年間、カナダやアメリカで暮らしました。大自然の中でよくキャンプをしたこともありますが、インディアンと呼ばれる先住民族の人々に出会ったこと、また日系カナダ人の生物学者、デヴィッド・スズキとの出会いも大きかったですね。
彼は、ただ研究室にこもって遺伝学を研究するだけではなく、積極的に外へ出て、生態や環境が破壊されている現状を自分の目で見て、それをメディアを通して世界に発信してきた人です。カナダの公共放送CBCテレビの自然番組「ネイチャー・オブ・シングス」シリーズは、1979年に始まり、もう40年以上も続く人気長寿番組ですが、その中心人物がデヴィッドです。彼との出会いがきっかけになって、ぼくも環境運動に取り組むことになったのだと思います。
中川:
先生のご専門は文化人類学ですよね。
辻:
文化人類学の中でも、文化と自然、文化と環境問題の関係をテーマにしてきました。文化と環境とを別々のものだと考えないことが重要だと思っています。
中川:
今、環境破壊が世界中で問題になっていますが、文化と切り離しては考えられないということでしょうか。
辻:
文化というのは、人間が特定の生態系の中で生きてゆく上で、その生き方を律する土台、枠組みとしてあるはずなんですね。何百年、何千年もの試行錯誤の末に出来上がったその枠組みの中で、していいことやいけないことを学びながら生活してきたわけです。
でも現代は、どうでしょう。文化的な制約を取り払ってしまって、もう制御がきかなくなっていませんか。自分たちが生存の基盤である地球とその生態系が壊されつつあるというのに、ま、お金のためだから、経済のためだから仕方がないと言っている。科学技術を動員して、人間が自然界を徹底的にいじくりまわし、改造し、痛めつけてきたせいで、自然界は疲弊し、混乱している。その結果さまざまな問題が発生している。
文化という枠組みがなくなり、人々は限りなく自己の利益を最大化する自由を得た、その結果が環境破壊です。環境問題を何とかするには、もう一度、文化的な存在としての自分を思い出すことじゃないか。自分にとって幸せとは何か、生きがいは何か、本当に大切なことは何か、人生の意味は何か・・・。これらはどれも文化的な問いです。
歴史を振り返ったり、伝統から学ぶことも大切ですし、まだ世界のあちこちに、伝統的な価値観や世界観を今に伝えている先住民族の文化から学ぶこともできます。
中川:
これまでの人類の歴史を振り返っても、こんな時代はなかったのではないでしょうか。現代は科学技術が発達して、生活がとても便利になっていますが、科学技術だけでは環境問題は解決できそうにありませんね。
辻:
ぼくたちは画期的な時代に生きているのだと思いますよ(笑)。
有名なアインシュタインはこんなことを言っています。
「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットのままで、その問題を解決することはできない」
マインドセットというのは人の行動や思考を左右する心の習慣のことです。科学技術というマインドセットによってここまで環境が破壊されてきたわけですから、それと同じ考え方でこの問題は解決できないのです。

<後略>

著書の紹介

「よきことはカタツムリのように」辻 信一(緒)春秋社

星亮一

星 亮一(ほし・りょういち)さん

1935年仙台生まれ。東北大学文学部国史学科卒業。日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長等を経て現在、歴史作家。著書に『幕末の会津藩』『斗南藩―「朝敵」会津藩士の苦難と再起』(以上、中公新書)『呪われた明治維新』(さくら舎)『偽りの明治維新』(だいわ文庫)などがある。

『最果ての地に追いやられ苦難の日々を送った会津人』

幕末、戊辰戦争で薩長を相手に勇猛果敢に戦った会津藩

中川:
みなさん、明治維新のことは学校の歴史で習ったと思います。日本が大きく動いた出来事でした。維新を成し遂げた人たちは、後世、ヒーローとしてもてはやされています。日本にとっては近代化の重要な節目ではありましたし、多くの人の輝かしい活躍もありました。しかし、実際には国内を二分する戦争だったわけで、勝者の栄光のドラマだけでなく、その陰ではたくさんの方たちがつらくて悲しい思いをしたはずです。そこになかなか意識が向かないのも現実です。
歴史は勝者の立場から見て語られます。負けた方の歴史は表に出てきません。
星さんは維新で敗者の側に立たされた会津藩の視点から何冊もの本を書かれています。『斗南藩~「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(中公新書)というご著書を読ませていただきました。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」(2013年)を見て、戊辰戦争での会津藩の悲惨な歴史には興味をもっていたのですが、星さんの本にはテレビでは描かれなかった会津の人たちの大変な苦労が書かれています。衝撃を受けました。
星:
斗南(となみ)藩というのは、戊辰戦争のあと、会津藩の人たちが朝敵の汚名を着せられて青森県の下北半島に流罪になり、そこで作った藩です。
とにかく人並の暮らしとは程遠い生活を強いられ、老人や子どもたちは飢えと病でばたばたと亡くなっていきました。それでも歯を食いしばって生きてきた会津の人たちに光を当てたい、と思って書いたものです。
中川:
星さんはもともとは仙台の生まれですが、どうして会津藩のことを書こうと思われたのですか。
星:
先祖代々仙台です。若いころに江戸へ行って12年間も砲術の勉強をし、仙台に帰って藩の砲術師範を務めた先祖もいます。自慢の先祖です。戊辰戦争では仙台藩は会津を支援、私の一族はこぞって参戦、白河で戦いました。敗因は武器の差でした。先祖は新式銃の導入を強く訴えたのですが、なかなか取り上げてもらえなかった。さぞかし無念だったでしょう。
父親の実家に行くと、土蔵の中に大筒とか火縄銃、洋式銃、鎧、兜、槍とかありました。火事になってみんな焼けてしまいましたけどね。
そんなことで、戊辰戦争とは無縁ではないのですが、本格的に会津藩と明治維新のことにかかわるようになったのは大学を出て福島民報社に入ってからです。地元の新聞社ですから、会津藩のこととか白虎隊のことを記事にする。調べたり勉強したりしているうちに会津藩のことに詳しくなって、興味も出てきて、いつの間にかライフワークになってしまいました。
中川:
相当調べないとこれだけの本は書けないと思いますね。
星:
斗南へもたびたび足を運びましたが、あまりにもひどい歴史なので触れないようにしてきたということもあって、最初はなかなか話してくれませんでした。会津藩は賊軍だから、ときの政権を批判するようなことを言うのは好ましくないという風潮もあったでしょう。でも、私は新聞記者ですから、たくさんの会津人の末裔の方に会って話を聞き、資料を調べたりするうち、いろいろなことがわかってきました。中には、最初は口が重くてなかなか話してくれなくても、少しずつ話すうちに「かわいそうだ、かわいそうだ」といって突然、泣き伏す人もいました。地べたに手をついてオンオン泣くのです。いかに無念であったかという事でしょう。胸が締め付けられました。
中川:
そうでしたか。戊辰戦争は会津にとっては屈辱の歴史ですからね。
星:
戊辰戦争というのは慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いから、上野戦争、越後戦争、会津戊辰戦争と続き、明治2年(1869年)の箱はこ館だて戦争で終了する内戦です。会津藩は鳥羽伏見の戦いから長州や薩摩と敵対し、会津戊辰戦争で敗れるまで勇猛果敢に戦い続けました。
幕末、会津藩主の松平容かた保もりは幕府に頼まれて京都守護職になりました。そのときの将軍は15代慶よし喜のぶです。慶喜は鳥羽伏見の戦いでは敵前逃亡をしたりして、あまり評判は良くありません。会津藩に藩祖保ほし科な 正まさ之ゆきは徳川家康の孫、三代将軍家光に実弟ですから幕府そのものでした。それで会津藩は幕府に忠義を尽くすわけです。
容保はとても真面目な人でしたから孝明天皇からも信頼されていました。元治元年(1864年)に長州軍が御所に攻め込みました。いわゆる「禁門の変」です。「蛤はまぐり御ご 門もんの変」とも呼ばれています。
このとき会津藩は薩摩藩とともに長州藩を撃退しました。このときに孝明天皇から宸しん翰かんと呼ばれる天皇直筆の文書を受け取りました。つまり、このときの朝敵は長州藩です。しかし、孝明天皇が謎の死を遂げ、長州と薩摩が手を結び、いつの間にやら会津藩は朝敵にされてしまいました。西郷隆盛とか大久保利通らは戦いに長けていましたから、会津藩ではとても太刀打ちできません。武器の差もあり、会津藩は会津戊辰戦争で玉砕しました。以来ずっと朝敵、逆賊の汚名を着せられてきました。生真面目、一本気な会津人にとっては、それが耐えられない苦しみだったと思います。
中川:
最初のうちは奥羽諸藩や越後が味方してくれましたが、やがては孤立無援の状態になってしまいましたよね。どこかで和解ができなかったのでしょうか。
星:
薩長にとって和解という選択はありませんでした。徹底的に叩こうとしました。そうしないと革命は成立しません。その標的に会津がなったわけです。
仙台藩は東北の雄藩です。京都できな臭いことが起こっているときに動くべきだったと思いますよ。もし、あの時代に伊達政宗がいたら1000人くらいの兵を率いて京に上って、会津と薩長の間に割って入りましたよ。そうすれば、あんなひどい結末にはならなかったでしょう。政宗のようなスーパースターがいなかったのは残念ですね。

<後略>

2020年2月7日 福島県郡山市のホテルロビーにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起  星 亮一(著)  (中公新書)

髙信幸男

髙信 幸男(たかのぶ・ゆきお)さん

1956年茨城県大子町生まれ。水戸、札幌、さいたま、甲府、東京、横浜の法務局に勤務し、2017年(平成29年)に退官する。高校時代から名字の研究をし、名字の由来やエピソードを本に書いたり、講演会等で発表している。多くのテレビやラジオの番組にも出演している。主な著書『難読稀姓辞典』『名字歳時記』(日本加除出版)『トク盛り「名字」丼』(柏書房)など。

『すべての名字に ご先祖様の思いがのっている』

四月一日と書いて 「わたぬき」さん。 小鳥遊で「たかなし」さん

中川:
茨城にお住いの私どもの会員さんが、髙信先生の講演をお聞きしてとてもいいお話だったので対談してみてはいかがですかとすすめてくださいました。さっそく先生の書かれた『トク盛り「名字」丼』(柏書房)を読ませていただきました。面白かったですね。名字がこれほど奥深いものとは思いませんでした。
髙信:
ありがとうございます。私は16歳のときに名字に興味をもちましてね。以来、半世紀近く名字を研究しています。珍しい名字は限りなくあって、珍名を探すのは昆虫や植物の新種を追いかけるのと同じですよ。この名字のルーツは何だろうとか、興味は広がっていくし、終わりのない研究ですね(笑)。
中川:
16歳のときに名字に興味をもたれたのですか。髙信さんはもともと法務局に勤める国家公務員で、今は司法書士をしておられるので、その関係で名字研究を始めたのだと思っていましたよ。
髙信:
法務局は戸籍や不動産登記に関する業務を行っていますから仕事絡みで名字に興味をもったと思われますが、そうじゃないんですね。仕事と名字研究とはたまたまの縁でしかありません。
中川:
16歳というと高校生ですが、どんなきっかけで名字に興味をもたれたのですか。
髙信:
私が生まれたのは茨城県北部の大だい子ご 町という福島県や栃木県と接する小さな町です。かつては人口4 万2 0 0 0 人くらいの町だったのですが、今は1万5000人ほどに減りました。
日本三大名瀑の一つである袋田の滝が有名ですが、私の生家は滝の上、源流にありました。とんでもないところでしょ(笑)。
中川:
滝の上ですか?
髙信:
そうですよ。観光客は下から滝を見上げていますが、断崖絶壁の上に家があるなんてだれも想像しないと思います(笑)。ここで生まれなければ名字の研究などやってなかったでしょうね。
中学校のとき、生徒が360人くらいいましたが、名字は30くらいしかありませんでした。みんなが同じ名字で下の名前で呼び合っていました。そのころは、名字の数はそんなにないと思っていました。
高校に入ってびっくりしました。50人のクラスで45の名字があったんですね。みんな名字がバラバラ。こんなに名字ってあるの? と思って、電話帳で町の名字を調べ始めました。意外に多くて数百種類はあったかな。小さな田舎町でこんなにあるなら日本全国ではどれくらいあるだろうと興味が湧いてきて、電話帳を丹念に見るようになりました。
中川:
それで珍名さんに出あうんですね。
髙信:
あるとき電話帳で「四月一日」という名字を見つけました。最初は、どうしてこんなところに日付があるのだろうと不思議に思いました。でもよく見ると名字らしい。それも渡辺さんが並んでいるあとにポツンとあるんですね。なんて読むのだろう?
俄然、興味が湧いてきました。疑問に思うとすぐに解明したくなるたちで、すぐにそこに出ている電話番号に電話をしてみました。そしたら「わたぬきです」と電話に出られたんです。四月一日と書いて「わたぬき」と読むんだ。私にしてみればとんでもない発見をした気分でした。すぐにどうしてそんな読み方をするのですかと質問しました。先方は迷惑がらずにていねいに答えてくれました。
中川:
確かに四月一日という名字があるとは思わないし、だれも「わたぬき」なんて読めないですよね。
髙信:
由来を聞いて、こんなふうに名字がつけられることがあるんだとまたまたびっくりしました。4月になると綿入れから綿を抜いたからというのが理由の、トンチのきいた名字なんですね。それでますます興味が出てきたというわけです。
中川:
名字をつけるにも遊び心があったんですね。「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませる名字もあるそうですね。
髙信:
1872年(明治5年)に全国的な戸籍制度(壬申戸籍)ができ、1875年(明治8年)には全国民が戸籍に名字を登録しなければならなくなりました。そのときに、先祖から伝わった名字をそのまま役所に届けを出すのではつまらないと考えた人がいたようです。
「たかなし」さんもその1人で、もともとは「高梨」と書いていましたが、高梨を「鷹無」と書き換え、さらに鷹がいなければ小鳥が自由に遊べるということで「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませたようです。こんなユニークな発想で名字をつけるのは日本人くらいです。
中川:
世界でも日本の名字の数は特に多いそうですね。
髙信:
お隣の中国は人口が14億人もいるのに名字の数は4000種類程度、韓国は約5000万人の人口に対して名字の数が500くらいです。日本は約13万種類もの名字があるんですね。佐藤、鈴木、高橋がベストスリーで、ベスト10だけで日本の人口の1割を占めますが、たった1軒だけだとか数軒しかない名字がたくさんあります。

<攻略>

2020年1月 22日 茨城県水戸市の髙信幸男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

日本全国歩いた! 調べた! トク盛り「名字」丼 髙信幸男 緒 (柏書房)

青野豪淑

青野 豪淑(あおの・たけよし)さん

1977年大阪府生まれ。高校を卒業後、食肉店に勤めるがBSEのあおりで転職。住宅や宝石販売などの営業をする。26歳で4000万円の借金を背負い自殺を考える。生き直そうと思い、ヤンキーや引きこもりなどの若者を救うために2006年にIT企業「株式会社フリースタイル」を設立。著書に「ヤンキーや引きこもりと創ったIT企業が年商7億」(朝日新聞出版)がある。

『どん底からの志。 ウルトラマンになって世の中を良くする』

26歳のとき、4000万円の借金を背負って死のうと思った

中川:
青野さんのことは青山学院大学名誉教授の石井光あきら先生から、面白い人がいるので対談してみてはどうだろうとご紹介いただきました。さっそく青野さんの書かれた『ヤンキーや引きこもりと創ったIT企業が年商七億』(朝日新聞出版)という本を読ませていただきました。本当に波乱万丈の人生ですよね。内観で人生が変わったといったことも書かれていました。
青野:
石井先生はすばらしい方です。偉い人なのに威張らないし、いつも静かで冷静で、尊敬しています。
中川:
青野さんの20代のころのジェットコースター人生、すさまじいですね。
青野:
クズの人生でしたね(笑)。小学校のときにお金があれば幸せになれるって信じていましたし、そのころからお金を稼ぎたくてたまりませんでした。
高校を出て肉屋に就職したのですが、早く仕事を覚えてたくさん稼ぎたかったので内定が決まってから毎日お店に行きました。その甲斐あって、入社後はだれよりも高い評価をもらって「肉屋のスーパースター」と呼ばれました(笑)。
ところが2001年にBSE(牛海綿状脳症)が流行って、肉が売れなくなりました。自分が店長になる辞令も出ていたのに、その話も立ち消えになり、一気にやる気をなくしてしまいました。
肉屋は3年で辞めました。もっと稼ごうと住宅販売の会社を皮切りに、羽毛布団、浄水器、宝石と、会社を転々としながら営業の腕を上げていきました。とにかく片っ端から販売して月に200~300万円を稼いでいましたから大成功ですよ。
当時は調子に乗っていました。まわりを見下していましたから。年上の人に対してよく噛みついているような奴でした。まあ、最低のクズですよ。
中川:
そんな青野さんが多額の借金を背負って自殺しようとまで思いつめたわけですよね。
青野:
もっと成長したかったんです。成長するには勉強をしないといけないと思い、高い教材を惜しげもなく買いました。大阪から東京まで高額のセミナーを受けに通ったり、自腹を切って東京から講師を呼んだりもしました。気がついたら稼いだお金はすっからかん。どんどん借金がかさみました。
自分はいつでも稼げるという思い上がりがありましたから、そんなもんすぐに返したると、さらに借金を重ねてしまうわけです。ところが、いざ営業の仕事につくと、これまでと違ってまったく成績が伸びない。売ろう売ろうと利益だけ考えるから売れないんですね。
いつの間にやら借金は4000万円。26歳のときでした。
電気もガスも止まってしまったので水風呂に入っていました。出勤するとまわりから臭いと言われる。そんなこと気にしなくていいのに、落ち込んでいるときはいろんなことが気になってしまって、今でも言われた事を覚えているぐらいです。
玄関にはいつも借金取りがいました。借金を毎月返しながら生活しようと思うと、毎月200万くらい稼がないといけませんでしたが、そんな状態でやる気を出せと言ってもでないんですよ、当時3階に住んでいましたが、3階の窓からパイプを伝って出勤していました。
気が沈んで沈んで沈みまくって、その先に行くとどうなると思いますか。死のうと思うと、心が浮かれてくるんです。死ねば借金取りから逃げられると思うとちょっとルンルン気分になるんです。早く生まれ変わって次は王子様に生まれたいなみたいなね(笑)。
これは自殺の体験をした人しかわからないと思います。でも、ほとんどの人は亡くなっていますので、そのことを話せるのはぼくくらいですかね(笑)。
中川:
借金取りが玄関で待ち構えているわけですね。
青野:
顔を合わせると胸倉をつかまれて脅されるわけです。最初は自信過剰だったから、「すぐ返したるわ」とタンカを切っていましたが、だんだん自信もなくなってきて、3階から出るような情けない状態になってしまいました。
自殺を考えるころになると、友だちや姉から弁護士に支払いをせんとあかんからとウソをついてお金を借りたりしていました。
母や姉が料理を作って持って来てくれたことがありました。そんなときも、なんでお金をもってきてくれへんのや、と思っていました。そう思う自分が嫌で自己嫌悪に陥ったりと、完全に悪循環でしたね。
中川:
どんどん暗闇に引っ張られていくって感じだったんでしょうね。
青野:
こんなクズはおらんほうがええ、と心底から思いましたよ。

<後略>

2019年12月3日 東京・日比谷松本楼にて 構成 /小原田泰久

著書の紹介

「ヤンキーや引きこもりと創ったIT企業が年商7億」 青野 豪淑(著) 朝日新聞出版

木下勇

木下 勇(きのした・いさみ)さん

千葉大学大学院園芸学研究科教授。工学博士。1954年静岡県生まれ。東京工業大学工学部建築学科卒業。同大学大学院社会開発工学専攻の博士課程を修了。子どもをはじめとする住民参加の街づくり、持続可能な都市開発などを推進している。主な著書に『遊びと街のエコロジー』(丸善)『ワークショップ 住民主体のまちづくりへの方法論』(学芸出版社)がある。

『子どもたちが外で遊べる街づくり。 住民主体の地域開発を!』

仮想空間で遊ぶ子どもたち。 生の人間関係を学べずに成長する

中川:
木下先生の書かれた『遊びと街のエコロジー』(丸善)という本を読ませていただきました。先生は街づくりをご専門とされていて、子どもたちが外で遊ばなくなったことに警鐘を鳴らされています。20年以上前の本ですが、そのころから子どもが外で遊ばなくなっていたんですね。
木下:
ずっと調査を続けていますが、子どもが外で遊ばない傾向はますます顕著になっています。都市部で8割、地方都市で7割、農村で6割の子どもが外では遊ばないという結果が出ています。中には「どうして外で遊ばないといけないの?」と質問してくる子もいます。とても危機的な状況だと思いますね。
中川:
家で遊ぶことしか知らなくて、外で遊ぶなんて考えてもみないのでしょうか。私が子どものころ、昭和40年代50年代は、学校が終わると暗くなるまで外で遊んでいましたからね。
木下:
子どもの成長にとって遊びは大事だということをずっと提言しているのですが、アカデミックな世界ではエビデンス(科学的根拠)が必要で、なかなか受け入れてもらえません。動物を使った実験はあっても、人間で調べたデータはないんですね。
海外では、心理学や公衆衛生の分野で研究が行われていて、やる気だとか主体性、何かに挑戦する意欲といった「非認知能力」は遊びによって培われるといったことは言われているのですが、日本ではそういう研究があまりありません。
成長に遊びが大切だということは、学術的なデータがなくても、わかる人には感覚的にわかるんですけどね。
中川:
子どもを取り巻く環境も変わってきましたしね。都会だと外に遊び場があまりありませんし、外で遊ぶよりも家でゲームをしているほうが楽しいわけですから。
それに、親も外で遊んでいると事故や犯罪に巻き込まれるという不安があるんでしょうね。
木下:
共稼ぎの家庭のための学童保育のみならず、親が子どもを自由に遊ばせることに犯罪や事故の心配以外に何もしないことに不安で習い事に預けるわけです。その傾向は低年齢化しています。子どもは与えられた環境の中で過ごすことになります。学校が終わったら自由に遊ぶということはなくなりました。
親もゲームで遊ぶ時代に育っています。子どもたちは、小さいころからスマホを見ています。楽しく遊べる電子機器は生まれたときからそばにありましたから、ゲームばかりの毎日に何の抵抗もないでしょうね。
ゲームメーカーも興味をそそるものを作ります。子どもたちの遊び場は架空の空間なんですね。たとえば、バーチャルな世界で秘密基地も作れるわけです。仮想の空間の中で一緒に基地を作る仲間を集めます。実際には会ったことのない仲間です。
すると、ほかのグループが、秘密基地を乗っ取ろうと、外から攻撃を仕掛けてきます。そこで戦いが始まります。会ったこともない仲間が力を合わせて、会ったことのない敵と戦います。
実生活上の遊び友だちはいないけれども、オンライン上で遊ぶ友だちはたくさんいるというのが、現代っ子たちの当たり前の生活になってきているんですね。
人間社会の進んだものは子どもが先取りします。昔、炭鉱に入るときにはカナリアを一緒に連れて行きました。有毒ガスが発生すると、カナリアは人間よりも早く影響を受けるので、カナリアが苦しみ出したら危険だと判断して引き返せばいいのです。
子どもは常にカナリアのように環境の変化の影響を受けて、場合によっては犠牲になってしまいます。
中川:
みんながゲームに夢中になる世の中がどうなっていくかは、子どもを観察していればわかるということですね。でも、そうなってからは遅すぎますよね。
木下:
その通りですね。小さいころに喧嘩をするとか、困ったことがあったら助けを求めるとか、そういう体験があって人間関係を学んでいきます。でも、外遊びをしなくなって、人とどうかかわっていいかを学ぶ機会が少なくなっているのだと思います。
そのせいか、すぐに心が折れてしまう若者が多いですね。大学の研究室でも、学生の指導には気を使いますよ(笑)。
私たちのころは、教授からしょっちゅう雷を落とされていて、叱られるたびになにくそと思ってがんばりましたが、今の学生はきつく叱ると学校へ来なくなってしまうこともあります。アカデミックハラスメントなんかが問題になることもあって、叱り方が難しくなっていますね。
よその研究室では、学長にクレームを言う学生がいたり、親まで出てくることもありました。中には指導教官からのひどいアカハラもありますから学生だけの責任ではないかもしれませんが、それにしても、ストレスに弱くなっているのは間違いないですね。
子どものときに失敗したりけんかをしたりけがをすることで不屈の精神が養われるのだと、私は思っています。

<後略>

2019年 11月6日 千葉県松戸市の千葉大学園芸学部の木下教授の研究室にて 構 成/小原田泰久

著書の紹介

「ワークショップ住民主体のまちづくりへの方法論」 木下勇(著) 学芸出版社

中川雅仁

柳沢 三千代(やなぎさわ・みちよ)さん

大阪府出身。青二プロダクション所属。日本大学芸術学部演劇学科卒。在学中に如月小春主宰の劇団「NOISE」に旗揚げより参加、卒業後声優の道へ。【アニメ】『それいけ!アンパンマン』カレーパンマン役、『機動戦士ガンダムSEED』エリカ・シモンズ役、上田トシコ原作『フイチンさん』フイチン役、ちばてつや原作『風のように』語り...他。【TV】フジテレビ『ライブニュースイット』特報ナレーション..他。演劇ユニット「WAKU」プロデュース、朗読ユニット「はんなりラヂオ」で、舞台の活動も続けている。

『アニメや舞台からみんなを元気にする氣を届ける』

夢は小学校の先生‥ ひとつひとつの ご縁が繋がって声優に

中川:
これまであまりご縁のなかったお仕事の方をゲストにお迎えしました。声優さんの柳沢三千代さんです。
『それいけ!アンパンマン』という子どもたちに大人気のアニメがありますが、柳沢さんはカレーパンマンの声をずっと演じておられるんですよね。
柳沢:
『それいけ!アンパンマン』は1988年10月3日に放送が始まりました。カレーパンマンは第2話からの登場で、それ以来の付き合いになります。おかげさまで、この10月から32年目に突入しました。長く続く番組にレギュラーで出演出来る事に感謝しています。
中川:
30年以上も続くアニメってそんなにはないと思うのですが。『サザエさん』とかは長いんでしょうけどね。
柳沢:
『サザエさん』が50年、『ドラえもん』が40年、それに続くのが『アンパンマン』、そして『ちびまる子ちゃん』も30周年です。
中川:
長く続くにはきっと愛される理由があるんでしょうね。最初からこんなにも続くと思っておられましたか。
柳沢:
いえ当初は、先輩方もワンクールと思っていらしたようです。新人の私は只々必死で、先の事を考える余裕は全くありませんでしたが(笑)。ワンクールというのはだいたい3か月です。原作者のやなせたかし先生もびっくりされていました。
中川:
ほのぼのとした内容で、ストーリーもすごくわかりやすいですからね。愛すべきキャラクターもたくさん出て来るし。子どもたちはこういうアニメが好きなんでしょうね。
柳沢:
親御さんたちが、ディズニーのアニメを見せたいと思っても、なぜか子どもたちは、アンパンマンを見たがるようなんです。いったい何がそうさせるのか、ちっちゃな頭の中をのぞいてみたいですね(笑)。
中川:
カレーパンマンというのはどういうキャラクターなんですか。
柳沢:
頭がカレーパンで出来ていて、空腹の人がいると、カレーを振る舞うんです。性格的にはけっこうおっちょこちょいで、短気でけんかっ早い。でも、とても人情家で正義感が強くて、困った人を見ると放っておけません。
中川:
憎めないキャラクターですね。
柳沢:
物語の中では、アンパンマンとしょくぱんまんとカレーパンマンが、正義の味方トリオです。
中川:
重要な役ですよね。そもそも柳沢さんが声優になったきっかけというのはどういうことだったのですか。いつ頃から声優さんになろうと思われたのでしょう。
柳沢:
子どもの頃の将来の夢は、小学校の先生だったんですよ。小学校の担任の先生がとても素晴らしい方で、その影響を強く受けて、先生になりたいと思っていました。
中川:
小学校の先生ですか。柳沢さんはやさしそうだから向いているかもしれませんね。憧れていた小学校の担任の先生というのは、どんな方だったのですか。
柳沢:
男の先生でしたが、ユーモアたっぷりで、遊びを上手に取り入れながら授業をしてくださいました。社会で地名を覚える時も、暗記をさせられるのではなく、地図帳を広げてみんなでどこにあるかを見つける競争をします。一番に見つけようと必死になって探すわけです。そんなことをしているうちに、自然と地理を覚えました。
他にも、ときどき教室を暗くして、「お化けの話」と称して、先生が怖い話をしてくださいました。推理小説がメインでしたが、あまりに怖すぎて泣いちゃったことも(笑)。松本清張さんの「砂の器」のような大作を、何日もかけて語ってくださったこともあります。
中川:
一方的に押し付けるような授業じゃなかったんですね。公式や英単語や西暦を覚えるのは退屈ですからね。私も暗記は大嫌いでした(笑)。
小学校の先生になるなら、教育学部を目指すのが普通ですが、柳沢さんは演劇学科に進まれましたよね。
柳沢:
高校の時に、教育学部の大学生が教育実習にみえたのですが、とても堅苦しい印象で、どこかで教員養成のための大学へ行って教員になるということに抵抗が生まれたのかもしれません。もちろん、たまたまその時受けた印象がそうだっただけで、教育学部が全てそうだということではありません。でも、私の心に残っていた小学校の担任の先生とはあまりにも違っていて、もし自分が小学生なら、大学でやりたい事を学んだ先生がいいなと。
中川:
それで演劇学科を専攻されたんですね。高校で演劇をやっておられたのですか。
柳沢:
いえ、運動部でした。高2の文化祭で、クラスで「王様と私」をやったのですが、その時に演出と王妃の1人の役をしたのが、唯一の演劇の体験でした。その時に、演劇の面白さとみんなで造る喜びを知りました。その作品の背景を描いていた親友が、美術を学びたいと、東京の大学を目指していたのですが、彼女と話しているうちに、大学にも演劇科がある事がわかり、日大芸術学部の演劇学科を受験することにしました。

<後略>

2019年10月17日 エス・エー・エス東京センターにて  構成/小原田泰久

ハイゲンキ

石井 美恵子(いしい・みえこ)さん

北里大学大学院看護学研究科修士課程修了、富山大学医学薬学教育部博士課程修了。現在、国際医療福祉大学大学院教授。1995年アメリカでの災害対応に関する研修を受けたことがきっかけで災害医療の活動に入る。イラン大地震、スマトラ沖地震・津波災害、ジャワ島中部地震、四川大地震、東日本大震災などで支援活動。日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2012」大賞受賞。

『運命の導きか。 災害支援がライフワークに』

アメリカの研修に参加したことが大きな転機になった

中川:
石井先生の書かれた「幸せをつくる、ナースの私にできること」(廣済堂出版)という本を読ませていただきました。今、とても災害が頻繁に起こっていて、この間も千葉で大変な台風被害がありました。どこでどんな災害が起こっても不思議ではないと思います。自分が被災することをいつも頭に入れて生活する必要がありますよね。
石井先生は、災害医療にかかわってきた体験を通して、どうしたらより良い災害支援ができるかということを提言されていますが、もともとは看護師さんだったんですよね。
石井:
実は、看護師になりたくてなったわけではないんですね(笑)。父はとても封建的な人で、彼が理想とする女性像は、女子高にいって、近くでお勤めして結婚して、孫を連れてときどき訪ねてくるというものでした。女が学問をしたらろくなものではないとずっと言われていましたから。
私の実家は新潟ですが、父が一番にお風呂へ入るのが当然みたいな中で育ってきました。長男ばかりが大事にされるわけです。私は小さいころから、その考え方には納得できませんでした。男だから、女だからではなく、その人の能力によって評価されるべきだと思ってきました。
高校を卒業してからの進路も、息苦しい家を何とか出たくて、どうしたら父を説得できるだろうと考え、父が女の子らしい職業と思える仕事につけばいいだろうと思って看護学校へ行くことにしました。
それでも半径60キロ以内じゃないとダメだとか、いろいろ制約がありました。
中川:
家を出たくて選んだ職業が看護師だったんですね。
石井:
でも、実際に看護学校へ入ると、父と母の関係と同じ構図が医師と看護師の間にあって、いくら看護師が勉強してもなかなか認められない現実を見せられました。もうやめようと思いましたが、恩師から「今はそんな時代かもしれないけれども、いずれ看護が自立した時代がくる。作りなさい」と言われ、続けよう、やるからには本気でやろうと気持ちを切り替えました。
中川:
若いころから意識が高かったんですね。
石井:
不条理なことには人一倍敏感に反応してきましたね(笑)。女だからとか看護師だからという理由で意思決定権がないのはおかしいと思っていました。
新人ナースのときから、医師に指示されて動くような働き方は、私のプライドが許しませんでした。医師が治癒は難しいと診断していた肺気腫の患者さんがいたのですが、私は自分で勉強して、こんな呼吸ケア(治療を看護師が実施することは医師法に抵触しますので)をしていいかと医師に相談して、その方が自転車で通院できるまでに回復させたことがありました。
このとき、医師だとか看護師だとか関係なく、本気でやればできるんだということを体得しましたね。
その後、新潟から東京へ出て、救急医療の現場で働くことにしました。どんなことがあっても慌てず、的確な判断と行動ができる自分になりたかったんですね。そのためには救急医療がもっとも適していると思ったからです。
中川:
そこから災害医療につながっていくわけですね。
石井:
そのころは災害にはあまり興味はありませんでした。アメリカへ留学してもっと救急医療の勉強をしようと思っていたのですが、ひょんなことでイラン人の男性と知り合って結婚することになりました。1991年でした。2年ほど、イランで専業主婦をしながら働くことを模索していましたが、息子が生まれて、イランには兵役があったのでそれが嫌で日本へ帰ってきました。このときはイランで暮らしたことが後から大きな意味をもってくるなんて想像もつきませんでした。
そしたら1995年に阪神淡路大震災があったんですね。さらに地下鉄サリン事件もあって、日本でも災害医療が大切だということになり、私もアメリカの研修プログラムに派遣されることになりました。1ヵ月ほどの研修でした。
中川:
アメリカは災害医療が進んでいるんですね。
石井:
当時は大統領直属だったFEMA(連邦緊急事態管理庁)という組織がありました。専門家集団で、平時から災害があったときにはどう動けばいいか、災害に備えてどんな準備をすればいいかをサポートしています。もちろん、災害があったときにはとても重要な働きをする組織です。
日本には災害の専門家がいるわけではなく、災害が起こったときには何をしていいかわからず、右往左往するしかないのが現状でした。アメリカの研修で、私は災害医療に興味をもつようになりました。

<後略>

2019年9月10日 東京都港区・国際医療福祉大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「幸せをつくる、ナースの私にできること」(石井 美恵子 著)廣済堂出版

大野聰克(おおの・としかつ)さん

1945年長野県下伊那郡生まれ。飯田工業高校卒業後、民間企業を経て、1980年に埼玉県川越市に電気機器関連の会社を設立。1991年帯津三敬病院で直腸がんの手術を受ける。それを機に生活が一変。1999年帯津三敬病院の職員となり患者さんと太極拳をやったり、ビワ葉温灸の施術をする。著書に「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)がある。

『がんはその人を生かすため、 助けるためにできる』

5年生存率3割。 1万人中3000人と考えれば元気が出る

中川:
大野さんが書かれた『ガンは悪者なんかではない』(風雲舎)という本を読ませていただきました。30年前に4期の直腸がんになって、それを独特の考え方で克服されました。大野さんならではのとてもユニークな話が展開されていて、なるほどと思うことがいっぱいありました。
大野:
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
もう自分は死んでしまうんだと思うと夜も眠れませんでした。睡眠薬を飲んで寝るんですが、夜中の2時ごろには目が覚めて、それから夜が明けるまでの時間の長いこと。
中川:
手術を受けて、人工肛門になりますよね。
大野:
人工肛門はがんになったこと以上にショックでしたね(笑)。そんなことになるなんて、想像もしていませんでしたから。
中川:
しかし、考え方を変えて、徐々に恐怖や不安から脱却しますよね。
大野:
自分の命がかかっていますから、がんについていろいろ勉強しました。でも、本を読めば読むほど絶望してしまいます。これじゃいけないと、本を読むのをやめて、自分で考えることにしました。
中川:
5年生存率が3割だと言われたら、多くの人が絶望するのに、大野さんは違う考え方をしましたね。
大野:
私のような状態だと5年後も生きている確率は3割くらいだろうと思いました。3割というと10人のうちの3人に入らないといけません。けっこうハードルが高いですよね。そのとき私が考えたのは、10人のうちの3人と考えるからきついわけで、もし1000人だったらどうだろうということでした。300人ですよね。300人でも厳しいと思えるなら、1万人ならどうだろう。3000人ですよ。
たとえば、マラソンでも、10 人走って3人の中に入るのは自信がありませんが、1万人のうちの3000番までなら入れるかもしれないと思えるじゃないですか。そう思うことですごく心が軽くなりました。
中川:
そのとおりですよね。ちょっと考え方を変えると、気持ちも変化していくし、希望も出てきますね。
大野:
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
当時45歳でしたが、昔なら、50歳くらいで亡くなる人がたくさんいたわけで、自分もそこそこ長生きしたのではないかと思えるようになりました。100歳まで生きても、早いか遅いかの違いで、死ぬときには不安や恐怖があるのではないでしょうか。死に対して少しは腹がくくれたかなと思います。
そのときから、残された時間が少ないなら、その時間を大切にしようと考え始めました。思い出をいっぱい残したい。楽しいことをいっぱいしたい。この世に私という人間がいたことを少しでもたくさんの人に覚えておいてもらいたい。そう思って、一瞬一瞬を大切に生きられるようになりました。
中川:
がんと診断されると、すぐに死を連想してしまいます。それで多くの人が落ち込んでしまうんでしょうね。気持ちが落ち込めば免疫力も低下しますから、病気も進行してしまいます。
大野:
がんと診断されても、その時点では死んでいないわけです。もっと体力が落ちると死ということになりますが、今は死んでないのだから、今よりも少しでも体力や生命力を上げれば死から遠ざかることができます。だから、私は少しでも体力をつけようと
考えました。手術を受けてすぐに廊下を歩き回って貧血を起こしたこともありました。病院の階段を上ったり下りたりもしました。
中川:
がんになったころ、大野さんは電気関係のお仕事をされていたということでしたね。
大野:
下請けでしたが、小さな工場を経営していました。
中川:
お忙しかったでしょう。
大野:
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
でも、確実に体を酷使していました。徹夜なんてざらだし、食事も食べられるときに何でもいいので腹に入れていました。工場にこもりっきりだったので運動不足です。冷たいコンクリートの上で何時間も働いていますから、体が冷えます。
それにいつも納期に追われていて、常にストレスを抱えていました。
仕事仕事の毎日で、家へは寝に帰るだけ。今思い返せば、病気に向かってまっしぐらの生活でした。女房は「いつか体を壊すのではないか」と心配していたようです。

<後略>

2019年8月28日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「ガンは悪者なんかではない」(大野聰克 著)風雲舎

G.G.佐藤(ジージー・さとう)さん

1978年千葉県生まれ。大学卒業後、単身渡米しマイナーリーグと契約。3年間プレーする。2003年のドラフト会議で西武から7位で指名される。オールスターにも出場するなど第一線で活躍。北京オリンピックでは日本代表に選ばれる。2011年西武から戦力外通告。イタリアに渡る。その後、千葉ロッテに入団。2014年に現役引退。現在は株式会社トラバースで営業の仕事に従事。著書『妄想のすすめ~夢をつかみとるための法則48』(ミライカナイブックス)。

『どんな失敗も挫折もとらえ方ひとつで大きな学びとなる』

願い続ければ夢は必ずかなう。 かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ

中川:
元プロ野球選手のG.G.佐藤さん。G G(ジージー)さんとお呼びしていいでしょうか。埼玉西武ライオンズとか千葉ロッテマリーンズで活躍されました。
プロのスポーツ選手とお会いするのは初めてですが、背が高いですね。何センチくらいあるのですか?
GG:
どうぞGGと呼んでください。会社でもみんなそう呼んでいますから。身長は184センチです。体重はずいぶんと絞りましたが、大学を出たころは110キロく
らいありましたね。
中川:
今はスリムでモデルさんになれるような体型ですね(笑)。GG佐藤というユニークな名前の由来は何なのですか?
GG:
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
オーナーにはよく怒られました。ぼくは猫背だったので、「ちゃんと背筋を伸ばせ。ただでさえ顔がジジくさいんだから」といつも言われました。顔がジジくさいには参りました(笑)。毎日のようにそう言われているものですから、いつしかチームメイトが私を「ジジイ」と呼ぶようになりました。「GG」はそこからきているんです。だから、名付け親は沙知代さんです(笑)。
中川:
プロの選手になるくらいですから、野球のエリートだと思っていたのですが、そうではなかったみたいですね。
GG:
中学時代から挫折だらけですよ。港東ムースでも、まわりは私よりもはるかに上手な子ばかりです。いつも辞めたいと思っていました。高校は甲子園の常連校に進みましたが、私の代は地区予選敗退でした。法政大学へ入ってもずっと補欠でした。
私のような経歴のプロ野球選手はいないんじゃないでしょうかね。
中川:
挫折の連続というのは意外でした。中学生のころ、野村克也さんから心に残る言葉をもらったそうですね。
GG:
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
「願い続ければ夢は必ずかなう。かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ」
体が熱くなりました。プロ野球選手になりたければ願い続ければいい。そう思うと希望がわいてきました。とにかくこれからもずっと願い続けようと決心しました。野村さんからは「念ずれば花開く」と書かれた色紙をいただきました。私の宝物です。苦しくなるとこの言葉が頭に浮かびます。
中川:
挫折すると、やっぱり自分はダメだとか、自分には無理だとか、夢なんかかなうはずがないとあきらめてしまいますからね。
大学時代もレギュラーになれなくて腐りそうになったそうですね。
GG:
同期には、その後、プロ野球で活躍した連中が何人もいました。とても太刀打ちできません。3年生になると、もう完全に心が折れて、練習をさぼるようになりました。プロの夢も消えてしまい、取りあえず卒業だけするかという情けない状態でした。
このままじゃいけないと思って、「どうしたらやる気が出るだろう」と自問自答しました。行き詰ったときには自問自答するのが私の癖ですね。自分に聞くことで次に何をすればいいかぱっとひらめくことがよくあります。
このときも、人が望む姿ではなくて、自分はどうなりたいのかを考えることが大切だというような答えが返ってきました。そうか、監督やコーチから、お前はこうなったらいいんじゃないのと言われたとおりの選手になろうとするのではなくて、好きな自分、なりたい自分に向かっていくのがいいんじゃないかと思ったんですね。
中川:
ほお。好きな自分、なりたい自分ですか。
GG:
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
あのころはウエートトレーニングをする選手はあまりいませんでしたが、そんなこと関係ありません。ホームランを打つにはパワーが必要です。プロテインを飲んでウエートをやって、筋肉もりもりの体を作りました。
そしたら、どんどん飛距離が伸びて、練習をやっていても楽しくてたまりません。公式戦に出ることもできました。それで自信も取り戻しました。もっとも、この時点ではプロから声がかかるほどではなかったですけどね。

<後略>

2019年7月24日 千葉県市川市・株式会社トラバー スにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「妄想のすすめ 夢をつかみとるための法則48」G.G.佐藤 (著) ミライカナイ

氷月 葵(ひづき あおい)さん

1958年東京都生まれ。出版社勤務などを経てフリーライターに。秋月菜央の筆名で『虐待された子供たち』(二見書房)など、福知怜の筆名で『タイタニック号99の謎』(二見書房)などを執筆。小説では、第四回「北区内田康夫ミステリー文学賞』において大賞を受賞(筆名・井水怜)。その後、時代小説『公事宿裏始末シリーズ』『婿殿は山同心シリーズ』『御庭番の二代目シリーズ』を執筆。

『歴史とスピリチュアルには密接な関係がある』

霊感の鋭い人に会うと、自分も霊的な能力に目覚めます

中川:
氷月さんがお書きになった時代小説『御庭番の二代目』(二見時代小説文庫)シリーズを楽しく拝読しました。
時代小説以外にも『邪心~飛鳥の霊視ファイル~』というスピリチュアルな内容の小説も書かれているので、こちらも読ませていただきました。
『邪心』は、まさしく氣の世界の話でした。氷月さんが氣とか霊についてよく理解されている方だとわかって安心しました。今日は小説家というお立場で歴史をどうとられておられるのかお聞きしようと思っていましたが、まずは氣とか霊の話からお聞きできればと思います。
氷月:
ありがとうございます。御庭番のシリーズでも、主人公が中国医学を学ぶようになるので、これからは氣の話がたくさん出てくる予定です。
昔は精神世界と言われる分野の本をたくさん出している出版社にいたこともあります。氣とか霊という世界にとても興味があって、その出版社に入りました。テレビによく出ていた有名な霊能者の担当編集者もやっていて、その霊能者と一緒に心霊スポットへ行って心霊写真を撮ってきたこともありましたね。
ライターとして独立してからも、スピリチュアルな内容の本を書いていました。先代の会長にも取材をしているんですよ。当時は、伊豆の下田で合宿をやっていたじゃないですか。あそこへお邪魔して、合宿の様子を拝見したり、お話をうかがったりしました。たくさんの人がいてびっくりしました。氣を受けていろいろな反応をする人もいましたし。
中川:
そうでしたか。それはご縁がありますね。下田で研修講座をやっていたのが1990年から94年です。25年以上前ですね。
すごかったでしょ(笑)。先代は「お化け」という言い方をしていましたが、その人についているマイナスの氣が出てきて、大声を上げたり、転げまわったりしていましたから。私も最初に行ったときには、あれほどとは思っていませんでしたので、びっくりしました。
その後、94年の5月に奈良県の生駒山に場所を移して、その翌年の12月に先代は亡くなりました。
当時は1週間とか、長いときには9日間の講座でしたが、今は2泊3日で、特定の場所でやるのではなく、全国あちこちで開催しています。
この『邪心』という本では、主人公の霊感のある女の子が人や物の氣を読んで、殺人事件を解決していくわけですが、氷月さんは霊的な感覚がよくおわかりになっているんだなと感心しました。
氷月:
これまでたくさんの霊能者や超能力者にお会いしてきたことが生きましたね。それに、霊的な感覚の鋭い人たちと会っていると、自分自身もそういう能力に目覚めるんですね。氣を感じやすくなります。
中川:
そうでしょうね。私どもがやっている真氣光研修講座に参加される方でも、氣を集中的に受けることで、霊的な感覚が鋭くなる人がいます。
氷月:
そうだろうと思います。手かざしで浄霊する宗教があるじゃないですか。下田であったような現象が浄霊でも起きますよね。先代は、そういう宗教とも関係がある人なのかなと思ったのですが。
中川:
まったく関係ありません。あるとき夢を見たのがきっかけで始めたことです。宗教は勉強してなかったので、氣や霊のことも、体験して理解していったのだと思います。
真氣光が宗教と違うのは、ハイゲンキという氣を中継する機械があることです。先代は、夢で教えられてハイゲンキを作りました。最初の頃、一度だけ先端からボーッと光が出ているのが見えたと言っていました。体の調子の悪い人に当ててみると、劇的な効果が次々と出てきて、本人がびっくりしたみたいです。
そのハイゲンキを、いろいろな人に当てて治療をしていたら、本人もたくさんの氣を受けたのでしょう。2年後にまた夢を見て、手から氣が出ると教えられて、気功家になりました。そうやって、ハイゲンキと手からの氣の二本柱ができました。
そのあたりから、霊的な世界も無視できないという流れになってきました。
ところで、スピリチュアルな世界に詳しい氷月さんが、なぜ時代小説を書くようになったのですか。
氷月:
古くから一緒に仕事をしていた編集者にすすめられたのが直接のきっかけですが、基本的に歴史は好きでしたね。中学校のときには日本史部の部長をやっていましたし、それと並行して友だちと超心理研究会を作ってテレパシーの実験なんかをやっていました(笑)。
あのころから、歴史とスピリチュアルが私の両輪でした。今は、歴史とスピリチュアルは深い関係があるなと思っています。

<後略>

2019年6月26日 東京・池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:「邪心―飛鳥の霊視ファイル」氷月 葵(著) コスミック出版
右;「将軍の跡継ぎ 御庭番の二代目1」氷月 葵(著) 二見書房

金菱 清(かねびし きよし)さん

1975年大阪生まれ。関西学院大学社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学博士。現在、東北学院大学教養学部地域構想学科教授。専攻は環境社会学・災害社会学。
著書に『生きられた法の社会学』(新曜社)『呼び覚まされる霊性の震災学』(編著 新曜社)『私の夢まで、会いに来てくれた』(編著 朝日新聞出版)『3・11霊性に抱かれて』(編著 新曜社)など多数。

『東日本大震災から8年。 死者とともに生きるご遺族たち』

また幽霊らしき人が手をあげたら乗せると答えるタクシー運転手

中川:
『3.11霊性に抱かれて‒魂といのちの生かされ方』(新曜社)を読ませていただきました。この本は、先生のゼミの学生さんたちが東日本大震災の被災地を回って取材してまとめたものですよね。それも、幽霊を乗せたタクシー運転手とか、死をしっかりと受け止めている猟師町の話、生者と死者とのつなぎ役になろうとする宗教者の葛藤、手紙や電話を介して死者と対話をすることで癒されていくご遺族の心情など、この世的なことばかりではなく、あの世のことも視野に入れた調査ということで、私もとても興味深く読ませていただきました。
先生のご専門はどう説明すればいいのでしょうか?
金菱:
環境社会学、災害社会学が専門で、大学では地域構想学科の教授をやっております。
地域構想学科と言ってもよくわからないかと思いますが、「人と自然」「健康と福祉」「社会と産業」といった視点で、地域の問題、その解決策について考えていく学科です。設置されて15年くらいになります。
私のゼミでは、全員がフィールドワークに出て、地域の人たちの生の声を聞いて、資料を読むだけではわからないことを感じ取って、それをまとめて論文にしています。それを一般の人が見られる本の形にしているんです。
中川:
本を読んでいると、非常に生々しいし、迫力あるし、学生さんたちは本当にがんばったんだなということが伝わってきます。
金菱:
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
中川:
テーマが「霊性」じゃないですか。2016年に出された『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)には、タクシードライバーが遭遇した幽霊の話がありますが、そういう話はなかなか聞き出せなかったのではないかと思いますが。
金菱:
最初は、運転手さんにいきなり『幽霊を乗せたことありますか?』とゼミ生が聞くわけです。運転手さんも面食らうし、中には怒り出す人もいました。この調査をしたのは女子学生でしたが、失敗を何度も繰り返し、『もう辞めたい』とべそをかきながら、それでも何とか聞き出せないかと工夫していました。
彼女はタクシーが止まっている駅のロータリーでギターの弾き語りをしたり、一緒に釣りに行ったりすることで運転手さんと仲良くなって、彼らが誰にも話したことのない幽霊の話を聞き出すことができました。たとえ誰かに話してもバカにされるだけで、自分の中に封印していた話でした。
中川:
真夏なのに厚着をした人を乗せたというのが共通していましたよね。ある女性が津波で大きな被害を受けたところに行ってほしいと言うので、「あそこはさら地になっていますけど」と言うと、「私は死んだのですか?」と震えた声で答えて、運転手さんが「えっ」と思ってルームミラー越しに後ろを見ると姿が消えてしまったといった話がいくつも出てきます。
金菱:
運転手さんも最初は幽霊だと思わないで乗せるわけです。だから、料金メーターを実車にして出発します。だれかを乗せて走ったという記録は残っているわけです。
でも途中でいなくなってしまう。だれが料金を支払うの?ということになります。全部、運転手さんが負担しているんですね。運転手さんも幽霊を乗せたなんて言えませんから(笑)。どの運転手さんもすごく冷静に対処していて、夢や妄想だとは考えられません。そう考えると、すごくリアルな話じゃないですか。
中川:
それに運転手さんは、最初はぞっとするんだけど、また幽霊らしき人が手をあげたとしたら乗せるって言っていますよね。
金菱:
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
ホワイトスワン(白い白鳥)を見つけても、「そりゃそうだね」で終わってしまいますが、黒い白鳥を一羽でも見つければ、白鳥は白いものだという固定概念が変わります。
被災地で幽霊が出ると知ったある有名な宗教学者は、不成仏霊だから供養して彼岸へ送らないといけないとコメントしていました。これは当たり前の考え方、つまりはホワイトスワンです。
でも、学生たちが現地でタクシー運転手に話を聞くと、次にそういうことがあっても乗せるという証言が出てくるわけです。「怖い」とか「不気味」といったこれまでの幽霊に対する見方とは違いますよね。それこそブラックスワンであって、生きている人と幽霊との新しい関係性が見えてきます。話を聞いていて温かみを感じるじゃないですか。
学者だと、既存の考え方に当てはめてしまうので、こういう証言を引き出すことはできないと思います。学生だからこそ、運転手さんの素直な感想を聞き出せたのではないでしょうか。
フィールドワークにはそういうアプローチが大切だと、私は考えています。

<後略>

2019年4月16日 東北学院大学泉キャンパスにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:3.11霊性に抱かれて: 魂といのちの生かされ方
金菱 清 (編集) 新曜社
右:私の夢まで、会いに来てくれた — 3.11 亡き人とのそれから
金菱清(ゼミナール) (編集) 朝日新聞出版

樋口 英明(ひぐち ひであき)さん

1952年三重県生まれ。京都大学法学部卒。全国各地の裁判所の判事を務め、2017年に定年退官。2014年、関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じる判決を下した。2015年、福井県と近畿地方の住民ら9人が関西電力高浜原発3・4号機の再稼働差し止めを求めた仮処分申請に対し、住民側の申し立てを認める決定を出した。

『原発は極めて危険!原発を止めた元裁判長の責任感』

原発の建っているところには大きな地震がこないということが前提の基準

中川:
先代の会長である私の父は、当時のソ連へ出向いて行って、チェルノブイリ原発事故の被ばく者に氣の治療をしました。アメリカインディアンのホピ族の居留地にも行き、ウラン採掘で被ばくした人の治療をしたり、核の問題を長老と語り合ってきました。
そういう経緯があって、原子力発電所については、氣の観点から言っても良くないし、ひとたび事故があったら大変なことになるのは福島第一原発事故で明らかですから、やめたほうがいいという考え方でいます。
樋口さんは、2014年に福井地裁の裁判長として、関西電力の大飯原発の運転差し止めを命じる判決を出されました。
私は、こういう裁判官もいるのだと感心してあのニュースを見ていました。裁判で原発を止めたというのはあまり聞きませんからね。
樋口:
この間、数えてみたのですが、福島の事故以降、原発差し止め訴訟、あるいは仮処分で、地震を理由として差し止めるという決定をしたのは、裁判長の数で言うと2人ですね。それに対して止めなかった裁判長は17人になるかと思います。
中川:
2対17ですか。福島の事故のあとですよね。危ないことはわかり切っていても止めないという判決がほとんどなのはどうしてですか。
樋口:
原発の怖さを知っているかどうかじゃないでしょうか。私は、大飯(おおい)原発の裁判が始まったとき、「私は、原発が危険かどうかで決めます」と明言しました。
中川:
危険かどうかで判断するのは当たり前のことじゃないですか? ほかに何か基準があるのですか?
樋口:
危険かどうかがもっとも大切なことですよね。普通に考えればわかることです。私が出した判決は高裁で破られたわけですが、その判決の内容を見ると「新規制基準に従っているから心配ない」というものでした。でもその基準があやふやなのですから心配ですよね。
簡単に言うと、規制基準というのは震度7の地震は原発の建っているところにはこないということが前提に作られています。
中川:
えっ。原発のあるところには大きな地震はこないのですか?
樋口:
そんなことはあり得ませんよね。でも、それが前提になっているのです。
中川:
地震学というのもありますから、大きな地震が起こるかどうか、計算ができるのでしょうかね。でも、地震が起こるのを正確に予測したという話は聞いたことがないですね。地震がないとされているところに立て続けに大きな地震がきたりしていますから、その前提はあまり信じられないように思いますが。
樋口:
地震学は三重苦の学問だと言われています。地下深いところで起こることだから観察ができません。実験もできないですよね。それに資料が不足しています。
そもそも地震学はまだ歴史の浅い学問です。気象学だったら明治時代から観測をしていて、そのデータが蓄積されています。しかし、日本で本格的に地震の観測が始まったのは阪神淡路大震災以降です。それまでは地震計の設置個所が少なくて、データは非常に乏しいのです。
原発の耐震基準として「ガル」という単位が使われます。これは観測地点での地震の強さのことです。最近の地震では、北海道胆振(いぶり)地震が1796ガル、熊本地震が1740ガルです。中越地震が2515ガル、東日本大震災が2933ガル。日本でもっとも強かったのが2008年にあった岩手宮城内陸地震で4022ガルです。
それに対して、私が止めた大飯原発は、3・11当時の耐震基準が405ガルです。2018年3月時点で856ガルまで上げていると言っていますが、それでも2000年以降、1000ガルを超える地震が16回もありました。とても安心していられる状況ではありません。ほかの原発も同じです。これでは、「原発は安全です」とはとても言えません。
中川:
そういう地震は原発の建っているところにはこないという前提なわけですね。いいんでしょうかね。
樋口:
よくないですよ。多くの人が、原発はものすごく丈夫に作られている。どんな地震だって耐えられると思っているのではないでしょうか。でも、そんなことはありません。
住宅メーカーでは、今は3000ガル、4000ガル、5000ガルの地震に耐えられるような家を作っています。
住宅よりも地震に弱い原発が、こんなにも地震の多い日本にあっていいのかということですよ。それも、原発のあるところには大きな地震はこないということが、この基準で大丈夫という根拠ですから。少なくとも5回は耐震基準を超えた地震が原発を襲っています。その根拠もいい加減なものです。
そういう状況を「危険」と思わない感覚がおかしいと、私は思います。

<後略>

2019年4月5日 日比 谷松本楼にて 構成/小原田泰久

中川 由香子・中川 貴恵(なかがわ ゆかこ・なかがわ たかえ)さん

中川 由香子 さん 1962年札幌生まれ。1984年からハワイやマイアミを拠点に海外に真氣光を広げる活動をする。2000年帰国後、真氣光研修講座の食事ボランティアをする。2007年東京移住。2016年認知症カフェを立ち上げる。2018年、8月SAS東京センターで『しんきこうカフェ』を始める。

中川 貴恵 さん 1970年札幌生まれ。東京音楽大学付属高校、同大学声楽専攻卒業。日本オペラ振興会研究生終了。イタリアのミラノ、ローマでイタリアオペラの勉強をする。1994年より真氣光研修講座の音感行法を担当。今年4月より東京センターにて「音だまスイッチ」という呼吸と声講座を開催。

『真氣光に新しい風。すそ野を広げて、 よりたくさんの人に光を』

3人が得意な分野でセッション、カフェ、 ワークショップ

小原田:
今月は、私が司会進行を務め、中川会長、中川由香子さん、中川貴恵さんにお話をうかがいます。会長から由香子さん、貴恵さんをご紹介いただけますか。
中川:
由香子は私の2つ違いの妹です。この雑誌に出るのは初めてだったかな。あまり会員さんの前には出ていませんが、真氣光歴は私よりもずっと古くて、1984年に先代が北海道から東京へ出てきたときからいろいろと手伝っています。2000年から、生駒での真氣光研修講座での食事ボランティアをやっていました。
真氣光の「氣」のロゴ、みなさんご存知だと思いますが、あれを書いたのも由香子だったよね。
由香子:
そうなんですよ。太極氣功18式のビデオのカバーに使いたいので書くように言われて、何枚か書いたうちの1枚を先代が選んで、いつの間にか、看板に使われるようになったのでびっくりでした(笑)。
中川:
東京へ出てきたと思ったら、すぐにハワイに住むことになって、あのころは激動の時期だったよね。
由香子:
ハワイのセミナーを手伝ってくれって言われたので喜んでついていったら、そのまま置いていかれて(笑)。
セミナーで知り合ったご夫妻が大きな家に住んでいたので、そこに居候させてもらって、そのご夫妻や近所の人たちの治療をしたりしていました。そうこうするうちに、もう仕送りはしないので、そちらで会社を作って自分で稼げと、とんでもないことを命じられました(笑)。
言われたとおりに会社を作って、先代が定期的にセミナーに来てくれたので、その会場を準備したり、人を集めたりといった仕事をしました。あとは、ハイゲンキを購入してくださった人のアフターケアですね。次から次へとひらめいたことを形にしていく人でしたね。鍛えられました(笑)。
中川:
貴恵は私とは10歳違います。赤ん坊のときには、私がおしめを取り換えたこともあります(笑)。
小さいときから音楽をやっていて、音楽大学でオペラを学んだあと、イタリアにもしばらく留学して、真氣光研修講座では、生駒で行われるようになった1994年5月から音感行法をやってくれているよね。
貴恵:
先代から、講義だけだと受講生も退屈するから音楽会をやってくれないかと言われて、音感行法が始まりました。私はクラシックが専門なのですが、先代からは「クラシックではわからんから演歌をやれ」と無茶な注文が入りました(笑)。でも、演歌ばかりでもまたおかしいでしょ。童謡を入れたり、いろいろ試行錯誤しました。
中川:
それは大変だった(笑)。でも、真氣光研修講座でも音楽が入ると、みなさんほっとしているし、いい雰囲気になるよね。
貴恵:
参加している方によって雰囲気が違いますから、その場にあった歌を歌うようにしています。
基本は、こちらが楽しく幸せな気持ちで歌うことですね。そうじゃないと、いい氣が伝わらないですからね。
中川:
それは大事なことだと思いますよ。参加者の中には、「あの歌、思い出の歌なんです」と涙を流す人もいるからね。歌に癒され、歌で気づくことがたくさんあるみたいだね。
今は、ほかにもあちこちでボランティアで歌ったりしているけど。
貴恵:
2011年の大震災のあと、老人ホームへ行くことが多くなり、母が通っていたデイサービスの施設でも歌っていました。
豊島区でも「歌って健康講座」と言うのをボランティアでやっています。
小原田:
由香子さんは昨年の8月から「しんきこうカフェ」を、貴恵さんは4月から東京センターで「音だまスイッチ」というワークショップを始めました。このお話はあとから詳しくお聞きします。
三本の矢とか三位一体とかよく言いますが、こうやって会長と妹さん2人が、それぞれの得意な分野で真氣光を広げていくというのは、先代が仕組んでいることではないかと思ったりもします。ひとつの節目を真氣光も迎えているのではと思えてなりません。どんな展開が起こってくるのか、すごく楽しみです。

<後略>

2019年3月28日 エス・エー・エス 東京センターにて 構成/小原田泰久

シーラ・クリフ(しーら くりふ)さん

1961年イギリス生まれ。リーズ大学大学院博士課程修了。1985年来日。埼玉大学、立教大学の非常勤講師をへて、十文字学園女子大学教授。大学では、英語と着物文化を教えるかたわら、国内外で着物展覧会やファッションショーを企画・プロデュースしている。著書に「日本のことを英語で話そう」(中経出版)「シーラの着物スタイル」(東海教育研究所)などがある。

『着物は日本人が誇るべき伝統。もっと気軽に着ればいい』

着物を初めて見て、絹の光沢、しなやかさ、色、柄に心を奪われた

中川:
私はFM西東京で「今日も一日、い氣い氣ラジオ」という番組をもっているのですが、そのラジオ局で社長を務められていた有賀達郎さんから、すてきな方がいるとご紹介されました。シーラ先生は、十文字学園女子大学の教授ということですが、何を教えられているのですか?
クリフ:
英語と着物文化ですね。講義以外に、ワークショップとして、着物の着付けやファッションショーなどもやっています。
中川:
今日もすてきな着物姿ですが、いつも着物を着ておられるのですか。
クリフ:
いつも着物ですね。洋服は、近くのお店に買い物に行くときとか、庭仕事をするときくらいかな(笑)。
中川:
イギリスのご出身で、学生時代に日本へ遊びに来たときに着物と出合い、すっかり魅せられたということですが。
クリフ:
24歳のときに友人に誘われて日本へ来て、陶器に興味があったので骨董市に連れて行ってもらいました。そしたら、あるお店にきれいな着物が飾られているのが目に入り、それがきっかけで着物のことが大好きになりました。そのときに買ったのが赤い長襦袢。友人に「それは着物じゃなくて下着だよ」と言われて、こんなにきれいなものを中に着るんだとびっくりしました。
あれからもう30年以上になりますが、ずっと日本で着物を着て暮らしています(笑)。
中川:
もともとファッションには興味があったようですね。
クリフ:
私は双子だったので、小さいころ、いつも妹と同じ洋服を着せられていました。私は金髪、妹は茶色の髪の毛で、顔も違っているのに、同じ洋服を着ているので、よく名前を間違われました。それが嫌で、妹とは違う洋服を着るようになりました。
誕生日もいつも2人一緒で、ケーキも2人でひとつ。そういう扱いがとても不満でしたから、自分は自分だというメッセージを、ファッションをとおして出していきたいと思ったのかもしれません。
中川:
日本で最初に着物を買ったとき、予算をオーバーしてしまって、もやしをずっと食べていたとお聞きしましたが。
クリフ:
そうそう。新宿の大きなデパートで買ったのですが、私は値札に書かれている金額でいいと思っていました。ところが、あれは生地だけの値段で、そこに仕立て代、八掛、長襦袢なんかが加わって倍以上の金額になってしまいました。まだ日本へ来たばかりで、どうやって断ればいいかわからなくて、代金を支払うためには食事を節約しないといけないので、毎日、もやしばかりを食べていました(笑)。
中川:
倍以上ですか。普通、すぐに着られる状態で売っていると思いますからね。シーラ先生は着物のどこにそれほど魅かれたのですか?
クリフ:
初めて着物を目にしたとき、絹の光沢、しなやかさ、それに伝統的な技法を駆使したデザイン性豊かな模様や柄。一瞬のうちに心を奪われてしまいました。
着物には、たくさんの色や柄があって、季節に合ったものが着られるじゃないですか。
正月には南天柄の着物、雪の柄もあるし、梅が咲くときには梅の柄、桜の季節だからピンクにしようかとか、どんな色や柄の着物にするか選ぶのが楽しいですよ。
今は洋服に色と柄がなくなりました。世界中がそうなってしまいました。大学の教室を見ても、グレーか紺かベージュかグリーンの無地が多いですよ。柄があっても、チェックか縞、それが2~3人いるくらいです。
今は洋服を大量に作って安く販売しますから、どうしてもそうなってしまうんでしょうね。それに、世界的に民族衣装がなくなり、その分、色や柄も少なくなってしまいました。
中川:
着物を着る人も少なくなっているんでしょうね。
クリフ:
いえ、増えていると思いますよ。私がこの大学で働き始めたころは、卒業式は全員がスーツ姿でした。今は99%が袴です。成人式でも着物が圧倒的に多いでしょ。
中川:
今はレンタルできますからね。
クリフ:
レンタルが多いですね。私はもっぱら古着屋さんで買います。私の講座を受けてくれている学生でベトナムから来ている子がいます。彼女にとってはレンタルでも高いんですね。だから、古着屋さんへ連れて行って、安い着物を見つけました。安いけれども、物はすごくいいんですよ。袴も探して、彼女はそれを着て卒業式に出ます。
卒業したら、その着物をもってベトナムに帰れば、いいお土産になります。日本の文化もあちらの人に知ってもらえますし。

<後略>

2019年2月8日 埼玉県新座市の十文字学園女子大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

SHEILA KIMONO STYLE「シーラの着物スタイル」
シーラ・クリフ 著 (東海教育研究所)

桃崎 有一郎(ももさき ゆういちろう)さん

1978年東京生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。史学博士。高千穂大学教授。専門は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)「武士の起源を解きあかす」(ちくま書房)など。

『武士の起源とは? 都と地方のハイブリッドだった』

年賀状はなぜ出すのか? 初詣はいつ始まった?

中川:
先生の書かれた『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)を読ませていただきました。だれにもご先祖様がいます。そのおかげでこうやって生きているのだから、ときにはご先祖様にも思いを馳せた方がいいと、私はお話ししています。
ご先祖様のことを知るには、歴史も勉強しないといけません。歴史に関する本を読んだり、専門家のお話を聞いたりして勉強しているのですが、武士の起源がわかってないというのが意外でした。わかっているものと思って武士のことを聞いたり、語ったりしていましたから。
先生は、武士がご専門ではないけれども、その起源がわかってないと知って、ご自分で調べられたということでしたね。
桃崎:
私は平安時代の終わり頃から室町時代という中世が大好きです。中世は決まった枠組みがない時代でした。古代なら律令国家があるし、近世なら幕藩体制があって、近代以降なら大日本帝国という枠組みがありました。しかし中世は枠組そのものが壊れて存在しません。ダイナミックで生々しい政治が行われていました。
そんな中世の中でも、「儀礼」にとても興味がありました。儀礼というのは、今で言うなら、結婚式や葬式、法事といったものです。人はなぜ、形骸的な儀礼をしたがるのか。儀礼はなぜその形で行われるのか。そういった研究をしています。
中川:
儀礼ですか。
桃崎:
儀礼の研究というとピンとこないだろうと思いますが、けっこう面白いものですよ(笑)。身近な話をすれば、年賀状をなぜ出すのかわかりますか? 新年になると「明けましておめでとう」と言いますが、何がおめでたいのでしょうか? 初詣にはなぜ行くのでしょうか? 私たちがお正月に当たり前にやっている儀礼も、どうしてかと聞かれると困りますよね。
中川:
わからないですね。考えたこともないですよ(笑)。
桃崎:
だれに聞いても答えが出ないですね(笑)。それでも年賀状を出さないと悪いと思っている人は多いですよね。
もともと年賀状というのは元日にあいさつに行けなかったおわびとして出すものだったようです。確かに、昔の記録を見ても年賀状のことは書かれていません。
明治になって近代郵便制度ができて年賀郵便を扱うようになり、あいさつを年賀状ですませるようになったということです。
年が明けて何がおめでたいのかですが、昔は数え年で年齢を数えていました。つまり、元日に一斉に年を取るわけです。今は年を取るのはネガティブにとらえられますが、長生きできない時代では、年を取るのはうれしいことでした。だから、「おめでとう」と言い合ったわけです。人々が、世界そのものが、無事に+1年延命できたということです。
中川:
なるほど、そういうことですか。初詣はどうでしょう?
桃崎:
関東に住んでいると、よくテレビで、初詣は川崎大師へとか、成田山新勝寺へといったコマーシャルが流れます。どうして神社でもない川崎大師と成田山新勝寺なのだろうと疑問に思っていました。
そうしたら『初詣の社会史』(平山昇著、東京大学出版会)という本に出あいました。その本によると、明治の初めに新橋と横浜の間に鉄道が開通したので、鉄道に乗って川崎大師に来てもらおうとしたみたいなのです。乗客を増やすための戦略だったんですね。成田山新勝寺も同じような理由で、盛んに宣伝されて、それが現代まで続いているということでした。
中川:
それでは観光ビジネスの影響ですね(笑)。
桃崎:
そのとおりです。年賀状も初詣も、日本の古い伝統だと思っていた人は多いのではないでしょうか。よく調べてみれば明治時代から始まったことですから、伝統文化とは言えません。
日本の伝統文化を守りたいと言う人がいますが、何を守ろうとしているのか、勘違いしていることがたくさんあるのではないでしょうか。何が本当の伝統文化で、何を守ればいいかをはっきりさせないといけません。
日本人は裁判沙汰を嫌うというけれども、中世では今のアメリカみたいに次から次へと裁判をしています。実は日本人は裁判が大好きだったのです。
儀礼の研究をしていくと、昔の日本人が何を大切にしていたのかが見えてきます。
私は、儀礼は過去からのメッセージではないかと思っています。まだ読み解かれていないメッセージが、儀礼を研究すると見えてくるんですね。

<後略>

2019年1月18日 東京・高千穂大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「武士の起源を解きあかす」桃崎 有一郎 著(ちくま書房)

阿部 一男(あべ かずお)さん

元宮城県警警視正。昭和8年(1933年)宮城県生まれ。高校中退後、鉱山で
の勤務をへて20歳のときに宮城県警に採用。昭和53年(1978年)警部に
昇進し、気仙沼署の刑事課長に。そのころから異様な「声」を聞くようにな
る。平成20年(2008年)瑞宝双光章を受章。著書に「霊感刑事の告白」(幻
冬舎)がある。

『犯人や被害者の声が聞こえる。霊感で事件を解決する刑事!』

45歳のときに突然、異様な声が頭に飛び込んできた

中川:
阿部さんが書かれた「霊感刑事(デカ)の告白」(幻冬舎)を読ませていただきました。私がやっている真氣光は霊的な世界ともとても深くかかわっていて、阿部さんが書かれていることには、共感する部分がたくさんありました。
氣を受けた方から、その人とは違う人格の何者かが出てくることがあります。「つらい」とか「苦しい」と訴えてくるのですが、氣を受けるうちに、「光がきた」「楽になった」とどんどんと変化していきます。たぶん、肉体を失った魂さんが出てくるのだと思います。
長年、そういう現象を目にしていますので、私は、人間には魂があることを確信しています。
阿部:
私は85歳になりましたが、霊的な体験をした者としては、人間だけでなく、動物も植物も、生きているものにはすべて魂があることを伝えないといけないと思っています。
われわれが肉体をもって地球上で体験していることは単に入口にしか過ぎなくて、死後の世界が本番になると考えています。
中川:
体をもって生きているのは一時期のことですよね。
阿部:
いくら科学が発展しても、人類の知識で宇宙のすべてがわかるわけではありません。なのに、すべてをわかったように思うのは、愚かなことじゃないでしょうか。死後の世界とか魂のことも、今の科学ではわからないことだと思います。
霊的な感覚も同じで、科学ではなかなか証明できないものです。証明できないからないものと考えるというのは、浅はかなことではないでしょうか。
中川:
阿部さんは刑事さんだったそうですね。霊感刑事というのがすごいですね。刑事さんが霊感を使って犯人を捜すというと、何をバカなことを言っているんだということになるでしょうね。
阿部:
犯罪現場での捜査活動は、合理的な根拠をもとに行われます。ですから、「何となくピンときた」というような、直感とか第六感と言われるようなものは排除されます。
自分が刑事として働いてきた経験を振り返ると、ずいぶんと霊感に助けられてきたことがあったと思います。霊感とまではいかなくても、ひらめきのようなもので犯人の手掛かりをつかめたという体験はだれもがもっているはずです。でも、そんなことを言う人はいないし、言っても軽視されてしまいます。
この本を出しても、警察関係からは電話一本かかってきませんよ。読んだ人がいたとしても、いい加減なことを書いていると思っているんでしょうね。
中川:
45歳のとき警部に昇進されて、気仙沼署の刑事課長のときに、突然異様な声が聞こえたということでしたよね。それが最初の霊的な体験ですか。
阿部:
自分では狂ったと思いましたよ。最初の聞こえ方は、いわゆる耳で聞く音ではなくて、音が頭に飛び込んでくるという感じだったように思います。刑事仲間たちの声が、スイッチが切ってあるラジオやテレビから聞こえてきました。部下たちの心の声が頭に飛び込んできたこともよくありました。
一番おかしいと思ったのは、朝起きて、カラスが鳴いていて、その鳴き声に人の声が混ざってくるんです。早朝だったので、私は心の中で「うるさい!」と怒鳴りつけました。そしたら、カラスがカァカァと鳴くのをやめました。そして、「うるさいと言っているぞ」という声が聞こえてきました。びっくりして眠気が吹っ飛んでしまいました。カラスとはずいぶんと話をしましたよ(笑)。
中川:
カラスとですか。霊的な部分ではつながっているでしょうから、そういうこともあるんでしょうね。
それ以前でも、兆候のようなものはあったのではないですか。
阿部:
兆候はありましたね。気仙沼へ行く前のことです。仙台市内を流れる川の橋の上から5歳の男の子が見知らぬ男に投げ落とされるという事件がありました。幸い、男の子はけがもなく無事に救出されましたが、悪
質な事件ですので、殺人未遂事件として捜査が始まりました。しかし、捜査は難航して、有力な手掛かりがないまま1ヶ月がたちました。
私は現場に行って「どうしたらいいだろう」と考えていました。そのときに強いひらめきがありました。そのひらめきがきっかけになって犯人が徐々にしぼれてきて、10ヶ月後についに犯人逮捕となりました。
あのときは、単なるひらめきだと軽く考えていましたが、今はあれは霊界から教えられたのだと確信しています。真剣に考えたり、取り組んでいると、霊界に応援してもらえるのではないでしょうかね。

<後略>

2018年11月23日 仙台市の阿部一男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「霊感刑事の告白」阿部一男 著(幻冬舎)

野村 進(のむら すすむ)さん

1956年東京生まれ。ノンフィクション作家。拓殖大学国際学部教授。在日コリアンの世界を描いた『コリアン世界の旅』で大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞。『アジア 新しい物語』でアジア・太平洋賞受賞。ほかにも、『千年、働いてきました』『解放老人』『どこにでも神様』など多数の著書がある。

『神様に手を合わせるのは気持ちいいこと、幸せなこと』

出雲の山奥まで若い女性が。一過性ではない神社ブーム

中川:
野村先生の書かれた『どこにでも神様』(新潮社)という本を読ませていただきました。とても興味深く読ませていただきました。ちょうど、新年号なので、神様の話はいいかなと思ってお願いした次第です。
これはどれくらいの期間、取材をされたものなのですか。
野村:
大学での講義やほかの取材も続けながらですが、7年くらいかけました。
中川:
3人の若い女性と一緒に出雲の神社を回っておられますが、あれはいつごろのことなのですか。
野村:
2016年の4月から5月にかけてですね。
中川:
若い女の子たちの反応がとても新鮮に感じられました。最近は神社巡りが好きな若い女性が増えているようですね。
野村:
この本とは別に、月刊「文藝春秋」に「女子はなぜ神社を目指すのか」という記事を書きました。出雲だけではなくて、東京でも若い女性の間で“神社ブーム”が起きています。
千代田区に東京大神宮という神社があります。最寄駅の飯田橋から女性たちの波ができていますよ。行列が延々と続いていて、正月だと2、3時間待ちだそうです。30年くらい前は、正月でも境内で凧揚げができたと宮司さんはおっしゃっていました。ここ20年くらいの現象だそうです。平日の9時くらいでも、けっこう若い女性たちがいます。会社へ行く前にお参りしていくようですね。
中川:
神社というと、お年寄りが集まる場所のようなイメージがありますけどね。
野村:
マスコミは、「神社ガール」とか「御朱印ガール」とか「神かみ女じょ」とか、ちょっとからかうように書いています。若い女性の神社ブームなど一過性のものと軽く見ているんでしょうね。実は、私もそう思っていましたが、出雲の山奥にまで若い女性たちが来ているのを見ると、これは一過性じゃないなと、考えを改めざるをえませんでした。
これまで、神社について、若い女性たちの声をきちんと聞いたレポートは、ほとんどありませんでした。それで、神社ガールたちと実際に出雲の代表的な神社を巡ってみて、彼女たちが感じたことや考えたことをその場で尋ねて、記録しようと思い立ったわけです。
中川:
出雲に興味をもったきっかけはスーパーマーケットでの福引で出雲旅行が当たったことだったそうですね。
野村:
そうなんですよね。10年以上も前の話ですが、当時小学校5年生だった娘がスーパーの福引で金賞を当てまして、それが「松江・出雲大社・足立美術館二泊三日ペア」というものだったんです。それを娘からありがたく頂戴しまして(笑)、夫婦で出かけていったのがきっかけでした。
妻は、初めての松江にとても興奮していました。彼女の、いまは亡き明治生まれの祖母が幼少期に過ごした借家というのが、「小泉八雲」と改姓する前のラフカディオ・ハーンが暮らし、現在は小泉八雲記念館と隣り合っている日本家屋だったのです。
いま考えれば、“ご縁”の強い力があったのかもしれないと思いますね。何しろ、福引で金賞を射止めたというのは、わが家にとってはあとにも先にもこのときだけですから(笑)。
中川:
出雲の神様のことをもっと世に知らせたいというご先祖様の力が働いているのかもしれませんね。
私どもは、目に見えないものを氣と呼んでいます。霊とか魂とか神様も氣のひとつとして考えています。科学では測定できないし説明もつきませんが、日々の生活の中で、そういう理屈では説明できないことというのはいくらでもありますからね。
野村:
私の場合、50歳を過ぎたころから、「シンクロニシティー」というんでしょうか、「えっ!」と思う偶然によく出くわすようになりました。
中川:
どんなことあったのですか。
野村:
東京西部の山間地で林業を営む田中さんという方に取材でお会いしたら、「うちの親父も『野村進』なんです」と言われてびっくりしたことがあります。田中さんのお父さんは田中家に婿養子に入った人で、旧姓は「野村」、名前が「進」だったというんですね。それまで同姓同名の人には、一度も会ったことがありませんでした。こんな形で同姓同名の人に巡り合うというのは、どれくらいの確率で起こることなんでしょうかね。
もうひとつは、取材で山形県の重度認知症の病棟に取材でうかがったときのことです。ナースステーションに入ったら、デスクの上にカルテが重ねておいてあるのが目に入りました。何気なく一番上のカルテを見てびっくりしたのです。そのカルテの女性患者の生年月日が、私の母親とまったく同じで、そのころ母も認知症を患って都内の施設に入っていましたから。
つまり、この病棟には、母と同じ年の同じ日に生まれ、しかも同じ病気にかかっている女性がいて、その人のカルテが私の目に止まるようなところに、これ見よがしに置かれていた。いったいどういうことなのだろうと、私は考え込んでしまいました。

<後略>

(11月22日 東京・拓殖大学 八王子国際キャンパスにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「どこにでも神様:知られざる出雲世界をあるく」野村 進 著(新潮社)

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田辺 鶴瑛(たなべ かくえい )さん

昭和30年11月22日、北海道函館市生まれ。札幌藤女子短期大学別科卒業。18歳のとき母が倒れて介護をすることに。結婚、出産、子育てのあと、義母が倒れ3年間の介護。平成2年に漫談師・田辺一鶴に弟子入り。平成15年真打昇進。平成17年認知症の義父を在宅介護。平成23年に在宅で看取る。

『暗く深刻にならない。つらい介護を笑いに変える』

まじめに介護をしていると心身ともにクタクタになる

中川:
『田辺鶴瑛の介護講談』という映画を拝見しました。介護というのは、とても深刻な問題で、介護で疲弊してしまっている人も多いかと思います。でも、鶴瑛さんのお話をうかがっていると、こういう介護もあるんだと元気がもらえますね。
この映画を作られた荻久保則夫監督には、この雑誌の対談(2015年3月号)にも出ていただきました。もともとお知り合いだったのですか?
田辺:
いえいえ。娘の銀冶(ぎんや・講談師の田辺銀冶)が、荻久保監督が作られた『かみさまとのやくそく』という映画のファンで、監督にお会いしたときに、母が「介護講談」をやっているとお話ししたら、とても興味をもってくださいました。それがきっかけです。
中川:
介護講談では、実際のご自分の介護体験を語っておられるわけですね。
田辺:
そうですね。18歳から3年間、脳動脈瘤で入院した実母を。31歳から3年半は義母の介護。そして、2011年末までの6年間は、このお話の主役でもある義理の父親。じいちゃんと呼んでいますが。
中川:
3人ものご家族を介護したというのは珍しいのではないですか。
田辺:
講談を聞きに来てくださった人の中には4人とか5人の介護をしたという方もおられましたよ。
そういう人はだいたいやさしい人で、要領のいい人は介護からすっと逃げてしまいます。逃げ足の遅い人が、介護をする羽目になってしまいます(笑)。
まじめに深刻に介護に取り組むと疲れてしまいますね。私も実母と義母のときはまじめにやりました。もうクタクタになってしまいました。
なんで自分がこんな思いをしないといけないのだろうとか、だれも手伝ってくれないとか、愚痴や不平、不満だらけで、感謝のかの字もなかったですよ。
中川:
大変だったと思います。自分を犠牲にしながらやらないといけないのが介護ですからね。
田辺:
がんばりすぎていましたね。ばあちゃんを元気にしてあげようと玄米を食べさせたりね。ばあちゃんは「おいしくない。食べたくない」と困った顔をしていました。柔らかなうどんが大好きな人でしたから。
うどんを作るにしても、細くて柔らかいものだったら満足してくれるのに、あれこれと工夫してね。本人がやってちょうだいと言ってないのに、余計なことをしてしまうんですね。
世間がよくがんばっていると思ってくれることをしようとするわけです。いい嫁だと思われたいし、感謝もされたい。でも、うまくいかない。拒絶されたりする。そうなると、こんなにがんばっているのにとイライラしてしまう。
中川:
完全に悪循環ですよね。
田辺:
ヒステリーを起こして仕事から帰った夫の頭にソースをぶっかけたこともありました(笑)。夫はきょとんとしていました。私は猛反省ですよ。自己嫌悪になって、仮病を使って布団にもぐりこみましたよ。
中川:
それがお義父(とう)さんの介護のときはがらりと変わったわけですね。お義父(とう)さんは、ずいぶんと好き勝手をして生きてきた人だったようですね。
田辺:
仕事人間で休みの日はゴルフと麻雀。それに(小指を立てて)これですね。だから、ばあちゃんとは長年、口もきかなかった。でも、夫が「親父が一番苦労をかけたんだ。罪滅ぼしをしたら」と言ったら、じいちゃんは反省したのか、病院の送り迎え、背中のマッサージを毎日しましたね。
ばあちゃんは、最初は反発しましたが、最期は「ありがとう」とじいちゃんにお礼を言って亡くなりました。それを見て、「ああ、いろいろなことがあったけど、ばあちゃんはじいちゃんのこと愛していたんだ」と、心がほっこりとしました。罪滅ぼしをすると、氷がとけるように、怒りも消えていくんですね。
じいちゃんとは、ばあちゃんが亡くなった3年後まで同居していました。だけど、静かに老後を過ごすような人ではなくて、高齢者のお見合いの会で知り合った女性と同居するために家を出ていきました。
そして14年後、認知症になってわが家へ帰ってきたんです。

<後略>

(2018年10月26日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

田辺 鶴瑛(たなべかくえい)さん

昭和30年11月22日、北海道函館市生まれ。札幌藤女子短期大学別科卒業。18歳のとき母が倒れて介護をすることに。結婚、出産、子育てのあと、義母が倒れ3年間の介護。平成2年に漫談師・田辺一鶴に弟子入り。平成15年真打昇進。平成17年認知症の義父を在宅介護。平成23年に在宅で看取る。

『暗く深刻にならない。つらい介護を笑いに変える』

まじめに介護をしていると心身ともにクタクタになる

中川:
『田辺鶴瑛の介護講談』という映画を拝見しました。介護というのは、とても深刻な問題で、介護で疲弊してしまっている人も多いかと思います。でも、鶴瑛さんのお話をうかがっていると、こういう介護もあるんだと元気がもらえますね。
この映画を作られた荻久保則夫監督には、この雑誌の対談(2015年3月号)にも出ていただきました。もともとお知り合いだったのですか?
田辺:
いえいえ。娘の銀冶(ぎんや・講談師の田辺銀冶)が、荻久保監督が作られた『かみさまとのやくそく』という映画のファンで、監督にお会いしたときに、母が「介護講談」をやっているとお話ししたら、とても興味をもってくださいました。それがきっかけです。
中川:
介護講談では、実際のご自分の介護体験を語っておられるわけですね。
田辺:
そうですね。18歳から3年間、脳動脈瘤で入院した実母を。31歳から3年半は義母の介護。そして、2011年末までの6年間は、このお話の主役でもある義理の父親。じいちゃんと呼んでいますが。
中川:
3人ものご家族を介護したというのは珍しいのではないですか。
田辺:
講談を聞きに来てくださった人の中には4人とか5人の介護をしたという方もおられましたよ。
そういう人はだいたいやさしい人で、要領のいい人は介護からすっと逃げてしまいます。逃げ足の遅い人が、介護をする羽目になってしまいます(笑)。
まじめに深刻に介護に取り組むと疲れてしまいますね。私も実母と義母のときはまじめにやりました。もうクタクタになってしまいました。
なんで自分がこんな思いをしないといけないのだろうとか、だれも手伝ってくれないとか、愚痴や不平、不満だらけで、感謝のかの字もなかったですよ。
中川:
大変だったと思います。自分を犠牲にしながらやらないといけないのが介護ですからね。
田辺:
がんばりすぎていましたね。ばあちゃんを元気にしてあげようと玄米を食べさせたりね。ばあちゃんは「おいしくない。食べたくない」と困った顔をしていました。柔らかなうどんが大好きな人でしたから。
うどんを作るにしても、細くて柔らかいものだったら満足してくれるのに、あれこれと工夫してね。本人がやってちょうだいと言ってないのに、余計なことをしてしまうんですね。
世間がよくがんばっていると思ってくれることをしようとするわけです。いい嫁だと思われたいし、感謝もされたい。でも、うまくいかない。拒絶されたりする。そうなると、こんなにがんばっているのにとイライラしてしまう。
中川:
完全に悪循環ですよね。
田辺:
ヒステリーを起こして仕事から帰った夫の頭にソースをぶっかけたこともありました(笑)。夫はきょとんとしていました。私は猛反省ですよ。自己嫌悪になって、仮病を使って布団にもぐりこみましたよ。
中川:
仕事人間で休みの日はゴルフと麻雀。それに(小指を立てて)これですね。だから、ばあちゃんとは長年、口もきかなかった。でも、夫が「親父が一番苦労をかけたんだ。罪滅ぼしをしたら」と言ったら、じいちゃんは反省したのか、病院の送り迎え、背中のマッサージを毎日しましたね。
ばあちゃんは、最初は反発しましたが、最期は「ありがとう」とじいちゃんにお礼を言って亡くなりました。それを見て、「ああ、いろいろなことがあったけど、ばあちゃんはじいちゃんのこと愛していたんだ」と、心がほっこりとしました。罪滅ぼしをすると、氷がとけるように、怒りも消えていくんですね。
じいちゃんとは、ばあちゃんが亡くなった3年後まで同居していました。だけど、静かに老後を過ごすような人ではなくて、高齢者のお見合いの会で知り合った女性と同居するために家を出ていきました。
そして14年後、認知症になってわが家へ帰ってきたんです。

<後略>

2018年10月26日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久

三田 一郎(さんだ いちろう)さん

1944年生まれ。1965年6月イリノイ大学工学部物理学科卒業。1969年6月プリンストン大学大学院博士課程修了。コロンビア大学研究員、フェルミ国立加速器研究所研究員、ロックフェラー大学準教授などを経て、1992年より名古屋大学理学部教授、2006年4月より名古屋大学名誉教授、2006年〜2014年 神奈川大学工学部教授。著書「科学者はなぜ神を信じるか」(講談社)など。

『科学者たちは科学と神の関係をどう考えてきたか』

科学の話の中で神を持ち出すのは卑怯なことか

中川:
書店で先生の書かれた「科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社)が目に止まって、手に取って何ページか目を通しました。そしたら引き込まれてしまって、最近の書店には椅子が置いてあるので、そこに座って最後まで夢中になって読んでしまいました。難しい科学の話をわかりやすく書いてくださっていて、それに科学という視点から神を見るというのはとても新鮮で、科学者というのはこういうふうに神を感じるのだなと、興味深く読ませていただきました。
先生は、若いころにアメリカに渡り、長年、理論物理学者として素粒子を研究されていて、紫綬褒章をはじめさまざまな賞を授賞されています。2008年に「小林・細川理論」がノーベル物理学賞に輝きましたが、その理論の実証にも貢献されるなど、科学者として輝かしい経歴をおもちです。その上、最近はカトリック教会の助祭という立場で神様とかかわっておられます。科学と神を語るにはぴったりの方だと思いますが、キリスト教とのかかわりは長いのですか。
三田:
母がカトリックの信者でした。カトリックの場合は幼児洗礼と言って、赤ちゃんのときに洗礼を受けますから子どものときから教会には行っています。
ただ、物理をやっていたときには、時間がなくて教会にはどっぷりとつかれませんでした。親からもらった信仰だから子どもに伝えないといけないと思っていて、子どもは教会に連れて行っていました。それくらいのかかわり方でしたね。
中川:
今では、教会でミサを執り行ったり、講座を開いたり、科学者と神様の本も出されて、ずいぶんと神様とのかかわりが深くなっていますね。
三田:
研究者としていろいろなことを学んだとき、宇宙にしても自然にしても素粒子にしても、物理的にものすごくきれいに感じるようになりました。どうしてこんなものができたのかと単純に思いました。
宇宙や地球が偶然できたと言われたら否定はできません。しかし、そうだとしても、この宇宙には科学法則があるのは間違いありません。この法則によって惑星は楕円軌道を描き、電磁気力は距離の2乗に反比例します。科学法則は「もの」ではないので偶然にはできません。宇宙が創造される前には、必然的に科学法則が存在していたはずです。では、その科学法則はだれが作ったのだろうと、疑問は広がっていったわけです。
私自身は、科学法則の創造者を「神」と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在することだと考えるようになりました。
中川:
なるほど。この世のすべては法則に基づいて動いていますからね。その法則はだれが作ったのだろうと考えると、神様としか言いようがないということですね。
先生が講演をしているとき、ある学生さんが「先生は科学者なのに、科学の話の中で神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と質問してきたそうですね。
三田:
科学というのは神の力を借りずに宇宙や物質のはじまりを説明するものだと、彼は思い込んでいるようでした。一般の方は科学と神についてこのように考えているのだなと、このときに気づきました。
それ以来、ぼくにとってはぼくが科学者であることと、神を信じていることが矛盾しているわけではないことを、どのように説明すればよいかが一つのテーマになりました。
中川:
それでこの本を書かれたわけですね。歴史に残るような有名な科学者たちも、どこかで神を意識していたようにも思います。特に、欧米人はキリスト教を信じている人が多いので、神様は身近にあったでしょうから。
三田:
実はこの本もとても不思議な縁でできたものです。ぼくは、科学と神というテーマで本を書きたくて準備をしていました。でも、ぼくが書くと教科書みたいに硬くて難しいものになってしまいます。こんなのを出してくれるところはないだろうと思いながら一応、5年くらいかけて300ページ分くらい書き上げたわけです。
あるとき、結婚式を挙げたいというカップルが訪ねてきました。新郎新婦と証人2人だけでの結婚式をしたいと言うのですね。それもいいね、だれもいないから思い切ったことをやろうよ、アメリカだったら2人が抱きついてキスをするからそれをやろうよ。そんな話で盛り上がりました。
そのときの新郎が講談社の編集副部長で、ぼくが書いたものにとても興味をもってくれて、本にしてくれたんですよね。それこそ、神様に後押ししてもらったような気分でしたよ。

<後略>

(2018年9月10日 東京都港区・国際文化会館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「科学者はなぜ神を信じるか」三田一郎 著 (講談社)

三田 一郎(さんだいちろう)さん

1944年生まれ。1965年6月イリノイ大学工学部物理学科卒業。1969年6月プリンストン大学大学院博士課程修了。コロンビア大学研究員、フェルミ国立加速器研究所研究員、ロックフェラー大学準教授などを経て、1992年より名古屋大学理学部教授、2006年4月より名古屋大学名誉教授、2006年〜2014年 神奈川大学工学部教授。著書「科学者はなぜ神を信じるか」(講談社)など。

『科学者たちは科学と神の関係をどう考えてきたか』

科学の話の中で神を持ち出すのは卑怯なことか

中川:
書店で先生の書かれた「科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社)が目に止まって、手に取って何ページか目を通しました。そしたら引き込まれてしまって、最近の書店には椅子が置いてあるので、そこに座って最後まで夢中になって読んでしまいました。難しい科学の話をわかりやすく書いてくださっていて、それに科学という視点から神を見るというのはとても新鮮で、科学者というのはこういうふうに神を感じるのだなと、興味深く読ませていただきました。
先生は、若いころにアメリカに渡り、長年、理論物理学者として素粒子を研究されていて、紫綬褒章をはじめさまざまな賞を授賞されています。2008年に「小林・細川理論」がノーベル物理学賞に輝きましたが、その理論の実証にも貢献されるなど、科学者として輝かしい経歴をおもちです。その上、最近はカトリック教会の助祭という立場で神様とかかわっておられます。科学と神を語るにはぴったりの方だと思いますが、キリスト教とのかかわりは長いのですか。
三田:
母がカトリックの信者でした。カトリックの場合は幼児洗礼と言って、赤ちゃんのときに洗礼を受けますから子どものときから教会には行っています。
ただ、物理をやっていたときには、時間がなくて教会にはどっぷりとつかれませんでした。親からもらった信仰だから子どもに伝えないといけないと思っていて、子どもは教会に連れて行っていました。それくらいのかかわり方でしたね。
中川:
今では、教会でミサを執り行ったり、講座を開いたり、科学者と神様の本も出されて、ずいぶんと神様とのかかわりが深くなっていますね。
三田:
研究者としていろいろなことを学んだとき、宇宙にしても自然にしても素粒子にしても、物理的にものすごくきれいに感じるようになりました。どうしてこんなものができたのかと単純に思いました。
宇宙や地球が偶然できたと言われたら否定はできません。しかし、そうだとしても、この宇宙には科学法則があるのは間違いありません。この法則によって惑星は楕円軌道を描き、電磁気力は距離の2乗に反比例します。科学法則は「もの」ではないので偶然にはできません。宇宙が創造される前には、必然的に科学法則が存在していたはずです。では、その科学法則はだれが作ったのだろうと、疑問は広がっていったわけです。
私自身は、科学法則の創造者を「神」と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在することだと考えるようになりました。
中川:
なるほど。この世のすべては法則に基づいて動いていますからね。その法則はだれが作ったのだろうと考えると、神様としか言いようがないということですね。
先生が講演をしているとき、ある学生さんが「先生は科学者なのに、科学の話の中で神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と質問してきたそうですね。
三田:
科学というのは神の力を借りずに宇宙や物質のはじまりを説明するものだと、彼は思い込んでいるようでした。一般の方は科学と神についてこのように考えているのだなと、このときに気づきました。
それ以来、ぼくにとってはぼくが科学者であることと、神を信じていることが矛盾しているわけではないことを、どのように説明すればよいかが一つのテーマになりました。
中川:
それでこの本を書かれたわけですね。歴史に残るような有名な科学者たちも、どこかで神を意識していたようにも思います。特に、欧米人はキリスト教を信じている人が多いので、神様は身近にあったでしょうから。
三田:
実はこの本もとても不思議な縁でできたものです。ぼくは、科学と神というテーマで本を書きたくて準備をしていました。でも、ぼくが書くと教科書みたいに硬くて難しいものになってしまいます。こんなのを出してくれるところはないだろうと思いながら一応、5年くらいかけて300ページ分くらい書き上げたわけです。
あるとき、結婚式を挙げたいというカップルが訪ねてきました。新郎新婦と証人2人だけでの結婚式をしたいと言うのですね。それもいいね、だれもいないから思い切ったことをやろうよ、アメリカだったら2人が抱きついてキスをするからそれをやろうよ。そんな話で盛り上がりました。
そのときの新郎が講談社の編集副部長で、ぼくが書いたものにとても興味をもってくれて、本にしてくれたんですよね。それこそ、神様に後押ししてもらったような気分でしたよ。

<後略>

2018年9月10日 東京都港区・国際文化会館にて 構成/小原田泰久

佐伯 康人(さえき やすと)さん

1967年北九州市生まれ。小学校のとき愛媛県松山市に転居。若いころよりバンド活動をし、1992年にメジャーデビュー。しかし、芸能界の風習になじめず音楽活動を休止して松山に帰る。2000年三つ子が誕生。3人とも運動機能に障がいをもって生まれた。2003年居宅介護施設「パーソナルアシスタント青空」を設立。2016年「一般社団法人 農福連携自然栽培パーティ全国協議会」を立ち上げる。

『 体の不自由な三つ子から学んだこと。障がい者はイノベーターだ!』

三つ子が授かったが、出産時のトラブルで脳に障がいを受けた

中川:
佐伯さんとお会いするのは二度目です。以前、愛媛県の砥部町にある坂村真民記念館の館長さんと対談しました。佐伯さんも本拠地が砥部町で、記念館へ行く途中に佐伯さんが経営する「あおぞらベジィ」というカフェに寄って、少しだけお話ができました。あのカフェは、店長さんがダウン症の若者で、彼が顔を出すだけで店内が和んで、障がい者の持ち味をうまく引きだそうとしている佐伯さんの思いが感じられました。
佐伯さんは、障がい者の就労支援やデイサービスといった事業をされていますが、その活動がかなりユニークだということで注目されています。
その話は追々お聞きするとして、もともと佐伯さんはミュージシャンだったということですね。
佐伯:
若いころはロックをやっていました。東京へ出てデビューもしましたが、ああいう世界は自分にはあまり合ってなかったですよね。プロになっても、音楽活動は遊びの延長でしたので、まわりとずれが出てきて、自分でも面白くなくなってきてやめてしまいました。ずいぶんと迷惑をかけましたよ(笑)。
中川:
それで愛媛へ帰って、そこから大きなドラマが始まったんですよね。お子さんが生まれました。それも三つ子でした。
佐伯:
2000年のことです。7ヶ月半の早産でした。生まれたときは小さくてびっくりしました。長男が890グラム、長女が1200グラム、次男が1300グラムで、手のひらに乗るくらいの大きさでしたから。
しばらくして先生に呼ばれました。先生からは子どもたちの脳のCT画像を見せられ、「脳室周囲白質軟化症」という病名を告げられました。3人とも脳室の周囲に問題があって運動機能に障がいが出るだろうとのことでした。次男は自分で呼吸をしてなくて、生きられるかどうか保証ができないとも言われました。
中川:
それはショックだったでしょう。
佐伯:
言われた瞬間はショックがあったと思います。でも、そのショックは1秒も続かなかったという感じです。すぐに気持ちが切り換えられて、妻やこの子たちを守っていくのが自分の使命だと思えました。そのためにも、まずはこの子たちの命を救うことだ。そして、できるだけ元気な姿で母親に会わせてあげたい。そういう思いで胸がいっぱいになりました。不安や心配にひれ伏している間もなく、不思議なファイトが湧いてきたのを覚えています。
中川:
そこはすごいと思います。お子さんが障がいをもって生まれてくるというのは、だれもがネガティブにとらえてしまいます。実際、お子さんを育てていく上でもさまざまな苦労を伴うでしょうし。それも3人ですからね。絶望するような状況なのに、よくそんなふうに気持ちを切り替えることができたと感心します。
佐伯:
面白いのですが、彼らが生まれるときにぼくの母親と待合室にいたら、テレビからベートーベンの交響曲第九番第四楽章「歓喜の歌」が流れてきました。歓喜の歌というと年末というイメージがあるじゃないですか。それが6月18日のテレビで流れていました。彼らの誕生が祝福されているような、そんな気がしました。
中川:
佐伯さんは、意識の深いところで障がいのある子どもを3人も授かるということに、大事な意味を感じていたのかもしれませんね。それを知らせるために歓喜の歌が流れたということもあり得ると思います。
自発呼吸をしていなかったお子さんはどうなりましたか。
佐伯:
先生は早く名前をつけてほしいと言いました。きっと死亡届に名前を記入する必要があるからということを、先生は言いたかったのだと思います。長男は宇宙(コスモ)、長女は素晴(スバル)と名付けましたが、なかなか次男の名前は決まりませんでした。
ぼくは、保育器の中にいる次男の手に小指を当てて、「生きろ! 生きろ!」と声をかけました。お前の人生の主人公はお前しかない! という気持ちを送り続けました。そのとき、この子の名前がぱっと浮かびました。「主人公」と書いてヒーローと読ませよう。そう決めました。たくましく生きていけるヒーローになってほしいという願いを込めての命名でした。
3人の名前が決まったので、姉に頼んで市役所へ出生届を出しに行ってもらいました。ぼくは、子どもたちのそばに付きっきりだったので、動けませんでしたから。
しばらくして、姉から無事に出生届を出したよと電話がありました。そしたら、何とその直後に主人公(ヒーロー)が自発呼吸を始めました。彼は生きることを選んでくれたんですね。うれしかったですね。

<後略>

(2018年7月27日 東京日比谷の松本楼にて 構成/小原田泰久)

池田 清彦(いけだ きよひこ)さん

1947年東京生まれ。生物学者。早稲田大学名誉教授。東京教育大学理学部卒業。東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。科学論・社会評論の執筆からテレビ番組出演まで幅広く活躍している。趣味は昆虫採集。著書は「なぜ生物に寿命はあるのか」(PHP文庫)「この世はウソでできている」(新潮文庫)「ほどほどのすすめ」(さくら舎)など多数。

『何事もほどほどにしておいた方がうまくいく』

虫にも人にも個性がある。 自分のキャパの範囲でがんばる

中川:
池田先生のことは、テレビ(「ホンマでっか!?TV」)でよく拝見していて、ユニークなものの見方をされる先生だと感心しています。今日は、その先生にお目にかかれて、直接お話が聞けるというので楽しみにしていました。
最近、先生が書かれた「ほどほどのすすめ」(さくら舎)という本を読ませていただきました。先生の歯に衣を着せないお話は、読んでいてすかっとしたり、ほっとしたり、とても楽しくためになる本でした。
池田:
ありがとうございます。もうこの年ですから、何を言っても許されるかと思いましてね(笑)。言いたいことを言っています。
中川:
先生のご専門は生物学で山梨大学や早稲田大学で教鞭をとられていたんですよね。
池田:
山梨大学が25年、そのあと早稲田大学に14年ですね。
中川:
先生は虫がお好きだということでも有名ですね。今日は、先生が名誉館長をされている「TAKAO 599MUSEUM」にうかがっているのですが、高尾山に生息する動物や昆虫、植物が展示されていて、なかなか見ごたえがありますね。昆虫の標本をこんなにじっくりと見たのは初めてですが、よく見ると、虫ってすごくうまくできていますよね。子どもが昆虫採集に夢中になるのもわかる気がします。
池田:
そうでしょ。どれだけ科学技術が発展しても、あれだけのものを作り出すことはできませんよ。そんなすごいものが、ちょっと野山へ入ると、たくさんいます。興奮しませんか(笑)。
解剖学者の養老孟司さんも虫が好きでしょ。10月28日には養老さんをお呼びして、ここでトークショーをします。6月4日の虫の日には、養老さんに呼ばれて鎌倉の建長寺へ行ってきました。養老さんは、建築家の隈研吾さんに頼んで建長寺の一画に「虫塚」という建物を建てて、そこで毎年6月4日に虫供養をしているんですね。虫をずいぶんと殺してしまっていますから、供養をしないといけないというわけですよ。養老さんは医学部だし、ぼくも生物学なので、年に一度、実験動物の動物慰霊祭というのをやっていました。その虫版かな。
月曜日の1時だったにもかかわらず、トークショーはすぐに満員になりました。そのあと、虫供養ということでお焼香をして、建長寺のお坊さんが13人で読経をしてくれましてね。
中川:
それはずいぶんと大がかりですね。ところで、今年の夏は異常に暑いですが、虫たちにも影響があるのではないですか。
池田:
暑いと虫は減りますね。虫取りをするなら朝の9時か10時まででしょう。でも、暑いのが好きな虫もいますけどね。虫にも個性があります。
虫の世界もいろいろと変化がありまして、高尾山にはルリボシカミキリというきれいな虫がいますが、昔は1500メートルくらいの高い山にしかいなかったのが、だんだんと下がってき599メートルの高尾山でも見られるようになりました。ナガサキアゲハみたいに昔は九州しかいなかったのに、今は関東にもいます。
中川:
虫にも個性があるとおっしゃいましたが、先生の本を読んでいると、人にもそれぞれ個性があって、こうでなければならないと決めつける必要などないのだと思えてきますね。今は、ひとつの価値観にがんじがらめになっている人が多いですからね。
池田:
ほどほどって悪いみたいに思われているじゃないですか。「いい加減」とか「適当に」と似ていますよね。でも、多過ぎず少な過ぎずいい加減なんだから一番いいんですよ。何事もいい加減にやったほうがいいと、ぼくは言っているんですね。いい加減を過ぎると疲れちゃうし、いい加減に達しないのもまた困りますよ。適当がいいし、ほどほどにやることがちょうどいいんです。
中川:
とにかくがんばれば皆同じようにできるみたいな教育だし、自分にとってのほどほどがわからなくなっている人も多いと思います。
池田:
学校は横並びですから。教え方も同じでしょ。同じように教えると、わかる人はあきるし、できない人は付いていけないし。親も、隣の子と比較して、どうしてうちの子はできないのかと悩んでしまう。キャパが違うのだから仕方がないんですよ。
おとなになっても、職場で隣のやつはちっとも仕事ができない、何をさぼっているのかとイライラしてみたりするけれども、その人はその人なりに目いっぱいやっていたりするわけです。目いっぱいやってできないのだから仕方ないじゃないですか。
自分のキャパを知って、その範囲でがんばることですよ。仕事のできる人を見て、自分もがんばればあれくらいできるようになると思ったりすることもあるでしょ。でも、いくらがんばってもキャパが違うとなかなかできないんですよ。それでもまだがんばろうとする。あまりがんばると切れてしまいます。

<後略>

(2018年7月20日 東京都八王子市のTAKAO 599 MUSEUMにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「ほどほどのすすめ ― 強すぎ・大きすぎは滅びへの道」 池田 清彦(著)(さくら舎)

佐伯 康人(さえきやすと)さん

1967年北九州市生まれ。小学校のとき愛媛県松山市に転居。若いころよりバンド活動をし、1992年にメジャーデビュー。しかし、芸能界の風習になじめず音楽活動を休止して松山に帰る。2000年三つ子が誕生。3人とも運動機能に障がいをもって生まれた。2003年居宅介護施設「パーソナルアシスタント青空」を設立。2016年「一般社団法人 農福連携自然栽培パーティ全国協議会」を立ち上げる。著書に「あの青い空に向かって」(海竜社)がある。

『体の不自由な三つ子から学んだこと。障がい者はイノベーターだ!』

三つ子が授かったが、出産時のトラブルで脳に障がいを受けた

中川:
佐伯さんとお会いするのは二度目です。以前、愛媛県の砥部町にある坂村真民記念館の館長さんと対談しました。佐伯さんも本拠地が砥部町で、記念館へ行く途中に佐伯さんが経営する「あおぞらベジィ」というカフェに寄って、少しだけお話ができました。あのカフェは、店長さんがダウン症の若者で、彼が顔を出すだけで店内が和んで、障がい者の持ち味をうまく引きだそうとしている佐伯さんの思いが感じられました。
佐伯さんは、障がい者の就労支援やデイサービスといった事業をされていますが、その活動がかなりユニークだということで注目されています。
その話は追々お聞きするとして、もともと佐伯さんはミュージシャンだったということですね。
佐伯:
若いころはロックをやっていました。東京へ出てデビューもしましたが、ああいう世界は自分にはあまり合ってなかったですよね。プロになっても、音楽活動は遊びの延長でしたので、まわりとずれが出てきて、自分でも面白くなくなってきてやめてしまいました。ずいぶんと迷惑をかけましたよ(笑)。
中川:
それで愛媛へ帰って、そこから大きなドラマが始まったんですよね。お子さんが生まれました。それも三つ子でした。
佐伯:
2000年のことです。7ヶ月半の早産でした。生まれたときは小さくてびっくりしました。長男が890グラム、長女が1200グラム、次男が1300グラムで、手のひらに乗るくらいの大きさでしたから。
しばらくして先生に呼ばれました。先生からは子どもたちの脳のCT画像を見せられ、「脳室周囲白質軟化症」という病名を告げられました。3人とも脳室の周囲に問題があって運動機能に障がいが出るだろうとのことでした。次男は自分で呼吸をしてなくて、生きられるかどうか保証ができないとも言われました。
中川:
それはショックだったでしょう。
佐伯:
言われた瞬間はショックがあったと思います。でも、そのショックは1秒も続かなかったという感じです。すぐに気持ちが切り換えられて、妻やこの子たちを守っていくのが自分の使命だと思えました。そのためにも、まずはこの子たちの命を救うことだ。そして、できるだけ元気な姿で母親に会わせてあげたい。そういう思いで胸がいっぱいになりました。不安や心配にひれ伏している間もなく、不思議なファイトが湧いてきたのを覚えています。
中川:
そこはすごいと思います。お子さんが障がいをもって生まれてくるというのは、だれもがネガティブにとらえてしまいます。実際、お子さんを育てていく上でもさまざまな苦労を伴うでしょうし。それも3人ですからね。絶望するような状況なのに、よくそんなふうに気持ちを切り替えることができたと感心します。
佐伯:
面白いのですが、彼らが生まれるときにぼくの母親と待合室にいたら、テレビからベートーベンの交響曲第九番第四楽章「歓喜の歌」が流れてきました。歓喜の歌というと年末というイメージがあるじゃないですか。それが6月18日のテレビで流れていました。彼らの誕生が祝福されているような、そんな気がしました。
中川:
佐伯さんは、意識の深いところで障がいのある子どもを3人も授かるということに、大事な意味を感じていたのかもしれませんね。それを知らせるために歓喜の歌が流れたということもあり得ると思います。
自発呼吸をしていなかったお子さんはどうなりましたか。
佐伯:
先生は早く名前をつけてほしいと言いました。きっと死亡届に名前を記入する必要があるからということを、先生は言いたかったのだと思います。長男は宇宙(コスモ)、長女は素晴(スバル)と名付けましたが、なかなか次男の名前は決まりませんでした。
ぼくは、保育器の中にいる次男の手に小指を当てて、「生きろ! 生きろ!」と声をかけました。お前の人生の主人公はお前しかない! という気持ちを送り続けました。そのとき、この子の名前がぱっと浮かびました。「主人公」と書いてヒーローと読ませよう。そう決めました。たくましく生きていけるヒーローになってほしいという願いを込めての命名でした。
3人の名前が決まったので、姉に頼んで市役所へ出生届を出しに行ってもらいました。ぼくは、子どもたちのそばに付きっきりだったので、動けませんでしたから。
しばらくして、姉から無事に出生届を出したよと電話がありました。そしたら、何とその直後に主人公(ヒーロー)が自発呼吸を始めました。彼は生きることを選んでくれたんですね。うれしかったですね。

<後略>

2018年7月27日 東京日比谷の松本楼にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

あの青い空に向かって「障がい者と農業」新しい関係への挑戦
佐伯 康人 著 (海竜社)

佐伯 康人(さえきやすと)さん

1947年東京生まれ。生物学者。早稲田大学名誉教授。東京教育大学理学部卒業。東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。科学論・社会評論の執筆からテレビ番組出演まで幅広く活躍している。趣味は昆虫採集。著書は「なぜ生物に寿命はあるのか」(PHP文庫)「この世はウソでできている」(新潮文庫)「ほどほどのすすめ」(さくら舎)など多数。

『何事もほどほどにしておいた方がうまくいく』

虫にも人にも個性がある。 自分のキャパの範囲でがんばる

中川:
池田先生のことは、テレビ(「ホンマでっか!?TV」)でよく拝見していて、ユニークなものの見方をされる先生だと感心しています。今日は、その先生にお目にかかれて、直接お話が聞けるというので楽しみにしていました。
最近、先生が書かれた「ほどほどのすすめ」(さくら舎)という本を読ませていただきました。先生の歯に衣を着せないお話は、読んでいてすかっとしたり、ほっとしたり、とても楽しくためになる本でした。
池田:
ありがとうございます。もうこの年ですから、何を言っても許されるかと思いましてね(笑)。言いたいことを言っています。
中川:
先生のご専門は生物学で山梨大学や早稲田大学で教鞭をとられていたんですよね。
池田:
山梨大学が25年、そのあと早稲田大学に14年ですね。
中川:
先生は虫がお好きだということでも有名ですね。今日は、先生が名誉館長をされている「TAKAO 599MUSEUM」にうかがっているのですが、高尾山に生息する動物や昆虫、植物が展示されていて、なかなか見ごたえがありますね。昆虫の標本をこんなにじっくりと見たのは初めてですが、よく見ると、虫ってすごくうまくできていますよね。子どもが昆虫採集に夢中になるのもわかる気がします。
池田:
そうでしょ。どれだけ科学技術が発展しても、あれだけのものを作り出すことはできませんよ。そんなすごいものが、ちょっと野山へ入ると、たくさんいます。興奮しませんか(笑)。
解剖学者の養老孟司さんも虫が好きでしょ。10月28日には養老さんをお呼びして、ここでトークショーをします。6月4日の虫の日には、養老さんに呼ばれて鎌倉の建長寺へ行ってきました。養老さんは、建築家の隈研吾さんに頼んで建長寺の一画に「虫塚」という建物を建てて、そこで毎年6月4日に虫供養をしているんですね。虫をずいぶんと殺してしまっていますから、供養をしないといけないというわけですよ。養老さんは医学部だし、ぼくも生物学なので、年に一度、実験動物の動物慰霊祭というのをやっていました。その虫版かな。
月曜日の1時だったにもかかわらず、トークショーはすぐに満員になりました。そのあと、虫供養ということでお焼香をして、建長寺のお坊さんが13人で読経をしてくれましてね。
中川:
それはずいぶんと大がかりですね。ところで、今年の夏は異常に暑いですが、虫たちにも影響があるのではないですか。
池田:
暑いと虫は減りますね。虫取りをするなら朝の9時か10時まででしょう。でも、暑いのが好きな虫もいますけどね。虫にも個性があります。
虫の世界もいろいろと変化がありまして、高尾山にはルリボシカミキリというきれいな虫がいますが、昔は1500メートルくらいの高い山にしかいなかったのが、だんだんと下がってき599メートルの高尾山でも見られるようになりました。ナガサキアゲハみたいに昔は九州しかいなかったのに、今は関東にもいます。
中川:
虫にも個性があるとおっしゃいましたが、先生の本を読んでいると、人にもそれぞれ個性があって、こうでなければならないと決めつける必要などないのだと思えてきますね。今は、ひとつの価値観にがんじがらめになっている人が多いですからね。
池田:
ほどほどって悪いみたいに思われているじゃないですか。「いい加減」とか「適当に」と似ていますよね。でも、多過ぎず少な過ぎずいい加減なんだから一番いいんですよ。何事もいい加減にやったほうがいいと、ぼくは言っているんですね。いい加減を過ぎると疲れちゃうし、いい加減に達しないのもまた困りますよ。適当がいいし、ほどほどにやることがちょうどいいんです。
中川:
とにかくがんばれば皆同じようにできるみたいな教育だし、自分にとってのほどほどがわからなくなっている人も多いと思います。
池田:
学校は横並びですから。教え方も同じでしょ。同じように教えると、わかる人はあきるし、できない人は付いていけないし。親も、隣の子と比較して、どうしてうちの子はできないのかと悩んでしまう。キャパが違うのだから仕方がないんですよ。
おとなになっても、職場で隣のやつはちっとも仕事ができない、何をさぼっているのかとイライラしてみたりするけれども、その人はその人なりに目いっぱいやっていたりするわけです。目いっぱいやってできないのだから仕方ないじゃないですか。
自分のキャパを知って、その範囲でがんばることですよ。仕事のできる人を見て、自分もがんばればあれくらいできるようになると思ったりすることもあるでしょ。でも、いくらがんばってもキャパが違うとなかなかできないんですよ。それでもまだがんばろうとする。あまりがんばると切れてしまいます。

<後略>

2018年7月20日 東京都八王子市のTAKAO 599 MUSEUMにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「ほどほどのすすめ ― 強すぎ・大きすぎは滅びへの道」 池田 清彦(著)(さくら舎)

新井 勝紘(あらい かつひろ)さん

1944年東京都生まれ。東京経済大学経済学部卒業。東京都町田市史編さん室、町田市立自由民権資料館主査、国立歴史民俗博物館助教授などをへて、専修大学文学部教授を務める。現在、認定NPO法人・高麗博物館館長、成田空港 空と大地の歴史館名誉館長。著書に『民衆憲法の創造』(共著 評論社)『戦いと民衆』(共著 東洋書林)『五日市憲法』(岩波新書)などがある。

『開かずの蔵から解き放たれた五日市憲法と千葉卓三郎』

五日市の山の中の古い土蔵を調査したら思わぬ貴重な資料が

中川:
新井先生の書かれた「五日市憲法」(岩波新書)を読ませていただきましたが、たくさんの驚きがありました。東京の西のはずれ、JR五日市線の終点「武蔵五日市」駅から山道を1時間ほど歩いたところにある“開かずの蔵”で、学生だった先生が、ゼミの指導教授や仲間たちと一緒に土蔵を調査するところから話が始まります。今から50年も前のことです。そこで先生は大変なものを見つけたわけですね。
新井:
今年は明治150年ですが、あの年は明治100年でした。首相が佐藤栄作で、政府も地方も明治100年の一大キャンペーンを張って大いに盛り上がっていました。
その騒ぎを横目に見ながら、私の恩師である色川(いろかわ)大吉先生は、そんなにめでたい100年じゃないと、私たちに言いました。冷静に日本近代史を見直せば、明治以降、日本は半分くらい戦争をしてきたわけです。今の時代の人たちがお手本にするような100年ではなかったし、アジアの国々に誇れるような100年ではない。君たちも近代日本史を学ぶゼミに入ったのだから、そのあたりのことを真剣に考えろと言われました。
それがきっかけでした。日本全体を見るかではなくて自分の足もとの歴史を振り返ってみて、地域にとって100年はどうだったかを見るといいということで始まったのが土蔵の調査でした。
中川:
それで五日市の土蔵に入られたわけですね。
新井:
前々から先生が交渉されていた蔵だったのですが、ここで改めてお願いしてもらったところ、『ガラクタしかありませんから』と、断られてしまったのです。それでも、なければないでいいし、何もないとわかればそれでいいんですと、再度交渉をしていただき、夏休みならご当主も立ち合えるので調査の許可が出ました。1968年(昭和43年)8月27日、開けたことのない土蔵が開けられました。
中川:
当時の土蔵の写真をおもちいただきましたが、かなり古いものですね。
新井:
かつては深沢家という豪農の屋敷がそこにはありました。母屋は町の方に引っ越していたので、残っていたのはこの土蔵とお墓くらいでした。土蔵の屋根は樹木の皮でふいてあって、そこにはところどころに夏草が生えていました。土壁も中身が見えるほど崩れていて、失礼ながら朽ち果てているという表現がぴったりでした。
中川:
でも、こんな山の中にある古い土蔵に重要な資料があるかもしれないと、どうして思われたのでしょうか。
新井:
『利光鶴松翁手記』という小田急電鉄の創業者・利光鶴松さんの伝記があります。そこに、若いころ、五日市にいていろいろな刺激を受けたということが書かれてありました。この土蔵の主である深沢さんにも、彼はずいぶんとお世話になったみたいです。当時、深沢家では、東京で出版された書籍はことごとく購入して、だれにでも自由に見せてくれていたようです。利光さんも、深沢家にある本をむさぼるように読んで、さまざまなことを学び、考えました。伝記には、自分の原点は五日市にあるとまで書かれていますから、彼としては目を開かれたような数年間だったのだと思います。深沢家の土蔵を調査すれば、利光さんたちが一生懸命に読んだ本があるかもしれないという期待はありました。
中川:
そうですか。何か貴重な資料があるだろうという期待はあったわけですね。それでも、大日本帝国憲法の草案まで出てくるとは思ってもいなかったでしょうね。
新井:
土蔵は2階建てになっていて、1階にはお盆とかお皿とかとっくりとか、人寄せのときに使う道具がありました。2階に上がってみると、長持ちとか箪笥とかが並んでいました。箪笥を開けたら、本とか文書が押し込まれていました。いよいよ調査が始まると、緊張感が走ったのを覚えています。
自然の流れの中で、私は2階の左奥のあたりを調査することになりました。そこに弁当箱くらいの大きさの竹で編んだ箱がありました。ふたをあけたら風呂敷包みが出てきました。その中には一群の資料が入っていました。その風呂敷包みの中にもっとも重要な資料が集中して納めてあったんですね。
私が手にした資料群の一番下に、筆で書いた条文みたいな文書がありました。表紙に「日本帝国憲法」と書いてありました。私は、大日本帝国憲法の大が虫に食われたか消えたか、書き忘れたかと思いました。大日本帝国憲法が発布され、彼らがそれを書き写したのだろうというのが第一印象でした。

<後略>

(2018年6月19日 東京都新宿区の高麗博物館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

新井勝紘 著「五日市憲法」(岩波新書)

新井 勝紘(あらいかつひろ)さん

1944年東京都生まれ。東京経済大学経済学部卒業。東京都町田市史編さん室、町田市立自由民権資料館主査、国立歴史民俗博物館助教授などをへて、専修大学文学部教授を務める。現在、認定NPO法人・高麗博物館館長、成田空港 空と大地の歴史館名誉館長。著書に『民衆憲法の創造』(共著 評論社)『戦いと民衆』(共著 東洋書林)『五日市憲法』(岩波新書)などがある。

『開かずの蔵から解き放たれた五日市憲法と千葉卓三郎』

五日市の山の中の古い土蔵を調査したら思わぬ貴重な資料が

中川:
新井先生の書かれた
「五日市憲法」(岩波新書)を読ませていただきましたが、たくさんの驚きがありました。東京の西のはずれ、JR五日市線の終点「武蔵五日市」駅から山道を1時間ほど歩いたところにある“開かずの蔵”で、学生だった先生が、ゼミの指導教授や仲間たちと一緒に土蔵を調査するところから話が始まります。今から50年も前のことです。そこで先生は大変なものを見つけたわけですね。
新井:
今年は明治150年ですが、あの年は明治100年でした。首相が佐藤栄作で、政府も地方も明治100年の一大キャンペーンを張って大いに盛り上がっていました。
その騒ぎを横目に見ながら、私の恩師である色川(いろかわ)大吉先生は、そんなにめでたい100年じゃないと、私たちに言いました。冷静に日本近代史を見直せば、明治以降、日本は半分くらい戦争をしてきたわけです。今の時代の人たちがお手本にするような100年ではなかったし、アジアの国々に誇れるような100年ではない。君たちも近代日本史を学ぶゼミに入ったのだから、そのあたりのことを真剣に考えろと言われました。
それがきっかけでした。日本全体を見るかではなくて自分の足もとの歴史を振り返ってみて、地域にとって100年はどうだったかを見るといいということで始まったのが土蔵の調査でした。
中川:
それで五日市の土蔵に入られたわけですね。
新井:
前々から先生が交渉されていた蔵だったのですが、ここで改めてお願いしてもらったところ、『ガラクタしかありませんから』と、断られてしまったのです。それでも、なければないでいいし、何もないとわかればそれでいいんですと、再度交渉をしていただき、夏休みならご当主も立ち合えるので調査の許可が出ました。1968年(昭和43年)8月27日、開けたことのない土蔵が開けられました。
中川:
当時の土蔵の写真をおもちいただきましたが、かなり古いものですね。
新井:
かつては深沢家という豪農の屋敷がそこにはありました。母屋は町の方に引っ越していたので、残っていたのはこの土蔵とお墓くらいでした。土蔵の屋根は樹木の皮でふいてあって、そこにはところどころに夏草が生えていました。土壁も中身が見えるほど崩れていて、失礼ながら朽ち果てているという表現がぴったりでした。
中川:
でも、こんな山の中にある古い土蔵に重要な資料があるかもしれないと、どうして思われたのでしょうか。
新井:
『利光鶴松翁手記』という小田急電鉄の創業者・利光鶴松さんの伝記があります。そこに、若いころ、五日市にいていろいろな刺激を受けたということが書かれてありました。この土蔵の主である深沢さんにも、彼はずいぶんとお世話になったみたいです。当時、深沢家では、東京で出版された書籍はことごとく購入して、だれにでも自由に見せてくれていたようです。利光さんも、深沢家にある本をむさぼるように読んで、さまざまなことを学び、考えました。伝記には、自分の原点は五日市にあるとまで書かれていますから、彼としては目を開かれたような数年間だったのだと思います。深沢家の土蔵を調査すれば、利光さんたちが一生懸命に読んだ本があるかもしれないという期待はありました。
中川:
そうですか。何か貴重な資料があるだろうという期待はあったわけですね。それでも、大日本帝国憲法の草案まで出てくるとは思ってもいなかったでしょうね。
新井:
土蔵は2階建てになっていて、1階にはお盆とかお皿とかとっくりとか、人寄せのときに使う道具がありました。2階に上がってみると、長持ちとか箪笥とかが並んでいました。箪笥を開けたら、本とか文書が押し込まれていました。いよいよ調査が始まると、緊張感が走ったのを覚えています。
自然の流れの中で、私は2階の左奥のあたりを調査することになりました。そこに弁当箱くらいの大きさの竹で編んだ箱がありました。ふたをあけたら風呂敷包みが出てきました。その中には一群の資料が入っていました。その風呂敷包みの中にもっとも重要な資料が集中して納めてあったんですね。
私が手にした資料群の一番下に、筆で書いた条文みたいな文書がありました。表紙に「日本帝国憲法」と書いてありました。私は、大日本帝国憲法の大が虫に食われたか消えたか、書き忘れたかと思いました。大日本帝国憲法が発布され、彼らがそれを書き写したのだろうというのが第一印象でした。

<後略>

(2018年6月19日 東京都新宿区の高麗博物館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

新井勝紘 著「五日市憲法」(岩波新書)

山田 幸子(やまだ さちこ)さん

1936年東京生まれ。横浜市立高等看護学院を卒業後、横浜市立大学病院外科病棟、都立豊島病院脳神経外科、都立駒込病院ICU外科病棟、都立北療育園に勤務。その後、帯津良一先生とともに帯津三敬病院の立ち上げにかかわり、会員後は総師長として勤務。帯津三敬塾クリニック勤務をへて2015年9月に退職。著書に「つなぐ看護 生きる力」(佼成出版社)がある。

『看護師生活52年。ホリスティック医学を支えた名脇役』

駅前の安い居酒屋で総師長になってほしい誘われた

中川:
山田さんとは、ずいぶんとお会いしてなくて、20年ぶりくらいになりますかね。ごぶさたしてしまっていますが、お元気そうですね。
山田:
こちらこそごぶさたしています。それくらいになりますかね。ゆっくりとお話をしたことはありませんでしたが、会長のことはよく覚えています。もっとも、私はこの雑誌(月刊ハイゲンキ)を毎月読ませてもらっていて、会長の姿を写真で拝見しているので、久しぶりにお会いするという感じがあまりなくて(笑)。
中川:
ありがとうございます。今は病院も辞められているんですよね。
山田:
川越の帯津三敬病院と池袋の帯津三敬塾クリニックで35年間、看護師長を務めさせていただきました。その前の都立病院での勤務も入れると、看護師として52年間働きましたよ。長いですね(笑)。
クリニックを退職したのは2015年5月です。私は帯津先生と同い年ですから、先生がバリバリと働いているのに自分が退職するのは本意ではありませんでしたが、左足が痛くて思うように動けなくなったので、ここらが引き時かと決心しました。
今は、先生の運転手兼スタイリストですね(笑)。先生の出張のときは東京駅や成田空港、羽田空港まで車で送っていきます。講演のときの服装も、ほとんど私が選んでいますね。そうやって先生とつながっていられることは、私にとってはありがたいことです。
中川:
『つなぐ看護 生きる力』(佼成出版社)という本を出されたのが今年の1月ですよね。読ませていただきましたが、とてもわかりやすくていい本でした。
山田:
ありがとうございます。看護師としての私の生き方、考え方が少しでも医療の発展に役立てばと思って出しました。お手紙で感想を送ってくださる方がけっこういて、とてもうれしいですよ。
中川:
帯津先生とのご縁は面白いというか劇的というか。勤務先の都立駒込病院の廊下ですれ違ったときに声をかけられたということでしたね。
山田:
先生に初めてお会いしたのは、私が駒込病院のICU(集中治療室)に勤務していたときでした。先生は食道がんの手術を専門にやっておられました。手術後の患者さんは必ずICUへ入るものですから、先生とはそこでよく顔を合わせました。 
先生に声をかけられたのはICUから外科病棟へ移ってしばらくしたころでした。病院の廊下を歩いていたら先生とすれ違いました。そのときに「今日、話があるんだけど一杯飲まないか」と誘われました。先生が連れて行ってくれたのは駅の近くの安い居酒屋でした。汚いところでしたよ(笑)。
そこで、自分が開業したら総師長として来てもらえないだろうかと言われました。
中川:
そうですか。汚い居酒屋で運命が決まったんですね(笑)。本によると、先生には三人の看護師長候補がいて、最初に声をかけたのが山田さんだったとか。
山田:
そうなんですよ。開業してから5年くらいして、あとの2人の名前を教えてもらいました。「ああ、あの2人なら、私で良かったですよ」と言った覚えがあります(笑)。
中川:
その場で「お世話になります」と答えたそうですね。即決できたことが素晴らしい。
山田:
あのころはちょうど看護師長の試験を受けないといけない時期でした。仕事をしながらの試験勉強ですから、ほとんど寝る時間がないほどでした。
試験には合格しましたが、当時は師長になると別の都立病院に異動しなければならないという決まりがありました。実際私は他の都立病院の小児科に異動が決まりました。
これまで脳神経外科、腹部外科、救急、外科のICUと外科一筋だったし、外科の仕事が大好きだったので、今までのキャリアを生かせる場で仕事をしたいと思っていました。ですから、帯津先生からのお誘いは本当にありがたかったですよ。

<後略>

2018年5月25日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「つなぐ看護 生きる力」山田幸子(著)  佼成出版社

西澤 孝一(にしざわ こういち)さん

昭和23年愛媛県生まれ。16歳のときに坂村真民と出会う。18歳で真民の詩に感銘を受け愛読書となる。大学を卒業後、愛媛県庁に就職し定年まで勤める。その間、真民の三女・真美子と結婚。真民の晩年を共に過ごし、最期を看取る。平成24年より坂村真民記念館館長。著書「かなしみをあたためあってあるいてゆこう」(致知出版社)

『自分に厳しく、人にやさしく。詩人・坂村真民の生き方に学ぶ』

東日本大震災の一年後の3月11日に記念館はオープン

中川:
こちらは松山市の隣の砥部(とべ)町というところですが、とてものどかでいいところですね。坂村真民さんというと「念ずれば花ひらく」という詩が有名ですが、仏教詩人とか癒しの詩人と呼ばれて、真民さんの詩や随筆はたくさんの方に読まれています。2006年に98歳でお亡くなりになりましたが、今でも根強いファンがこの坂村真民記念館を訪ねてこられるようです。今回は坂村真民記念館の西澤孝一館長にお話をうかがいます。よろしくお願いします。
西澤:
ようこそ砥部町へ。砥部町で良く知られているものというと砥部焼でしょうね。ほかの陶磁器と比べると厚手で頑丈なのが特徴です。隣の香川県は讃岐うどんが有名ですが、讃岐うどんの器としてよく使われています。
中川:
初めてうかがいました。真民さんの詩は、私どものこの会報誌でも連載で紹介させていただいていました。1996年10月号から98年3月号まで18回です。何とすてきな詩を書かれるのだろうと、一度、お目にかかりたいと思っていました。残念ながらお会いできませんでしたが、こうやって記念館にうかがうことができたのも何かのご縁かと思います。
この記念館のオープンの日は3月11日だそうですね。東日本大震災の翌年の2012年ですね。
西澤:
この記念館の計画が進み、いつ開館するかを決めようとしていた矢先に東日本大震災が起りました。その後、東北の方は大変な思いをされているわけですが、被災された方々から、坂村真民の詩を読んで勇気や希望をもらったという声がたくさん寄せられるようになりました。それなら、3月11日をオープンの日にして、愛媛から東北にエールを送ろうと、翌年の震災の日に開館しました。
中川:
そうでしたか。真民さんは熊本のお生まれですよね。長くこの砥部町に住んでおられたので、それでこの場所に記念館が作られることになったわけですね。
西澤:
真民は、神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業後、生まれ故郷の熊本で教員になりました。その後、朝鮮に渡って師範学校の教師をし、終戦後、朝鮮から引き揚げて愛媛に移住し、高校の教員として国語を教えていました。58歳のときに砥部町に居を構え、亡くなるまでここに住みました。
この記念館は町営の施設ですが、前の町長が坂村真民の詩の大ファンで、真民が亡くなった後、記念館を作りたいという働きかけが家族にありました。
本人が生きていたら作らせてくれなかったでしょうね。そんなのは必要ないという考え方でしたから。でも、自分の詩を若い人とか後の時代の人たちに読んでもらいたいという思いは強くありましたから、記念館があれば真民の世界をもっと広く知ってもらえます。それなら許してくれるだろうと、家族が勝手に判断しました(笑)。
中川:
きっと喜んでおられますよ。さっき、特別展(「坂村真民という生き方~坂村真民の生涯を貫いた生き方とは~」6月17日まで)を拝見しましたが、すっかり見入ってしまいました。直筆の詩はもちろんですが、日記も公開されていて、真民さんがどう生きたのか、じわっと伝わってくる感じがしました。
西澤:
ありがとうございます。年に三回の企画展をしていますが、今回はその集大成といった意味合いで開いたものです。この記念館のスタッフはパートでお手伝いしてくださっている方ばかりなので、どういう展示をするかは私がすべて考え、展示品や資料も集めないといけません。けっこう大変なんですよ(笑)。
中川:
真民さんのことは西澤さんが一番ご存知だとお聞きしています。真民さんとはとても不思議な縁でつながっているわけですが、そのあたり、お話ししていただけますでしょうか。
西澤:
私が真民の詩を知ったのは高校を出て福岡の予備校へ行っているときでした。寮に入っていたのですが、富山から来ていた友だちから、お前は愛媛県出身だけどこの人を知っているか? と言われて『自選 坂村真民詩集』を紹介されました。その詩集を読んで、私はすごく感動しました。
そのあとですよ、驚いたのは。実は私の家内は真民の三女で真美子といいますが、高校時代に私は彼女とお付き合いをしていました。高校生のころ、彼女のお父さんとして真民とはお会いしていますが、詩人だったとは知りませんでした(笑)。
真美子は、確かにちょっと変わった女の子でした。ああいう詩を書く人の娘だからだったんだと納得した覚えがあります。

<後略>

(2018年4月4日 愛媛県伊予郡砥部町の坂村真民記念館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「かなしみをあたためあってあるいてゆこう」 西澤 孝一 著(致知出版社)

梶原 誠(かじわら まこと)さん

画家。絵本作家。アートディレクター。1967年大阪府生まれ。1988年から葦プロダクション(現プロダクションリード)のアニメーターとして活動。2016年「はじめてのしんかんせん」の挿絵を担当。日本で初めての細密画による絵本として話題になる。2017年から世界堂新宿本店絵画教室アートカルチャーで鉛筆画、色鉛筆画の講師を務めている。

『人物や風景。写真とは違ったリアルさを鉛筆や色鉛筆で描く』

絵にすると写真では出せないものが出せることがある

中川:
梶原さんは画家としてご活躍されていて、今、鉛筆を使ってリアルに表現する絵がとても注目されています。作品をホームページで拝見しました。鉛筆や色鉛筆でこのような写真みたいな絵が描けるんですね。驚きました。
梶原:
ありがとうございます。ああいう絵を鉛筆画とか色鉛筆画とか細密画と言います。鉛筆の方が消しゴムで消したり、ぼかしたりできるのでよりリアルに描けますね。
この「はじめてのしんかんせん」という絵本は私が挿絵を担当しました。子どもたちは、最初は写真だと思ってページをめくるのですが、よく見るうちに絵だとわかって目を丸くします。
中川:
本当ですね。ぱっと見ただけだと絵だとは思わないですよ。こんな絵本はなかなかないですね。
梶原:
一部にカラーが入ると全体が明るくなりますね。
私は鉛筆画も色鉛筆画も描きますが、鉛筆と色鉛筆とでは、それぞれ使い勝手のいい紙が違うので使い分けています。鉛筆画でリアルに描くにはつるつるのケント紙を使います。色鉛筆画ではざらざら感のある水彩紙などを使います。
この絵本の中に鉛筆と色鉛筆をほぼ半分ずつくらい使った絵があるのですが、これは難しかったですね。まずはどっちの紙を使うか迷いました。鉛筆で描く範囲の方が大きかったのでケント紙を使いましたが、鉛筆と色鉛筆が重なる部分には硬い鉛筆を使うなどいろいろと工夫をしました。
中川:
今日は何枚か作品をもってきていただきましたが、この女性を描いた鉛筆画は髪の毛にすごく張りがありますよね。でも、よく見ると、髪の毛の中に白い色が見えます。光が当たっているところなんですかね。これはどうしているのですか。
梶原:
消しゴムを使います。ペンのようになった細い消しゴムがありまして、それで線を入れます。そうすると光が当たっているように見えます。
中川:
写真みたいな絵ですが、写真よりも柔らかな感じがしますよね。何て言えばいいんだろう。表現が難しいですよね。
この女性は、髪の毛が顔に少しかかっているのですが、これも鉛筆でさっと線を引いて描かれたものですか。
梶原:
そうですね。すっと引いています。
中川:
ただの線では髪の毛らしさは出ないですよね。どうしてこんな線が引けるんだろうと思いますよ。こうした絵は写真を見て描かれるんですね。
梶原:
そうですね。今は写真の解像度がすごく良くなっていますので、写真を撮ってそれを絵にすることが多いですね。でも、写真と同じに描いてもつまらないですから、写真以上のものにしたいという気持ちはいつももっています。
中川:
リアルに描いているのですが、写真とは違った味がありますよね。
梶原:
絵は作者の感覚や感性、オリジナリティが出て、写真には出ないものが出るのではないかと思っています。ですから、同じ写真を見て描いた絵であっても、慣れてくればだれが描いたかわかります。写真にそっくりなリアルな絵を描いているのに、作者によってそこに何かわからないけれども微妙な違いが出ます。それが面白いところじゃないでしょうか。
中川:
個性が出るんでしょうね。この絵を描くのにどれくらい時間がかかるんですか。
梶原:
早くても10時間くらいですかね。30時間くらいかかる作品もあります。
中川:
そうでしょうね。絵には作者の氣が込められると思うんですね。そんなにも時間をかけて、集中して描いているわけですからね。だから、同じ写真を見て同じように描いても、どこか違いがあるのではないでしょうか。作者の描き方や癖もあるでしょうが、見ている人は絵が発している氣を感じているのかもしれませんね。
Youtubeで梶原さんが絵を描き上げるまでを早送りで撮っている動画が見られますが、完成に近づくにつれて紙の中から人が浮き上がってくるような感じがしますよね。まるで、命を吹き込んでいるみたいですよ。
梶原:
ぼくは、写生画と空想画との混合画法だと言っているのですが、写真のまま描くのではなく、背景を変えたりすることで、違った雰囲気を作ることができますね。写真と違って絵はいろいろとアレンジができます。肖像画を頼まれることありますが、写真の通りではなく、こうしてほしいという注文があれば、それに応じます。部屋の中で撮った写真だけども、それを森の中にいるような感じにするといったことも可能です。

<後略>

(2018年3月26日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

前野 茂雄(まえの しげお)さん

1966年東京で生まれ、輸入雑貨や飲食業の事業を展開するが、1998年に大病を患ったことがきっかけで、営利目的の仕事ではなく社会に寄与する活動を始める。現在、特定非営利活動法人頭脳スポーツ財団理事長、一般財団法人日本認知症総合対策推進機構会長、一般財団法人地球環境振興財団理事長、一般社団法人社会貢献事業財団代表理事など、さまざまな役職を兼務しながら活動している。

『何度も大病を乗り越え、頭脳スポーツで社会に貢献する』

大人と子どもが対等の関係で楽しめるアナログゲーム

中川:
前野さんの『今を生きる』(八重洲出版)という本を読ませていただきました。波瀾万丈の人生の中で、今は「頭脳スポーツ」を普及させる活動をされているとのことですが、頭脳スポーツというのはあまり聞きなれない言葉ですよね。まずは、頭脳スポーツとはどういうものかご説明いただけますか。
前野:
要は、頭を使って行うゲームのことです。たとえば、将棋や囲碁、チェス、オセロ、人生ゲームといったボードゲーム、麻雀のようなテーブルゲームやパズル、トランプなどのカードゲーム、百人一首のような伝統的なゲームですね。世界には、数え切れないほどの頭脳スポーツがあります。この事務所の中だけでも約5000種類のゲームがあって、遊び方は8000種類くらい。倉庫にも保管してありますから、本当にどれくらいあるかわかりません。
中川:
今はデジタルゲームの時代ですから、一人で楽しんでいる人がたくさんいて、実際に人と人が向き合ってゲームを楽しむような場は少なくなりましたね。
前野:
そうなんですね。デジタルな世界が広がり過ぎて、子どもも大人も、人とのコミュニケーションが苦手になっています。直接顔を合わさなくてもメールで用が足りてしまったりしますから。子どもばかりではなくて、大人も初対面の人にあいさつができなくなっています。
学校では「知らない人と口をきいてはいけない」と教えているものですから、こちらから子どもたちにあいさつをしても返事が返ってきません。これっておかしいですよね。
頭脳スポーツはアナログの世界ですから、頭を鍛えながら心も育てることができます。ゲームを通して、あいさつや礼儀から始まり、楽しみながらさまざまなことを、学校の勉強とは違った視点で学べます。
中川:
今は少子化で一人っ子も多いじゃないですか。コミュニケーションの取り方がよくわからない子どもも増えているのではないでしょうか。
前野:
そうですよね。兄弟げんかはいい勉強の場なんですね。けんかをしたとき、どうしてけんかになったのか、どうやって仲直りするのかを学ぶことができます。他人だと、けんかをしたら口もきかなくなって疎遠になってしまうじゃないですか。兄弟だからこそ学べることがあります。
若い人たちがたくさんの子どもを産んで育ててくれればいいのですが、なかなかそうもいかなくて、少子化の流れは止まらないですよね。
そうなると、親が兄弟のような立場になることが必要になってきます。子どもと対等の立場で一緒に遊ぶことです。遊ぶと言っても、キャッチボールやサッカーは、小学生くらいなら親が子どもに教えるという上下関係があります。しかし、ゲームだと違ってきます。たとえば、カタンというゲームをご存知ですか。ドイツではとても人気のあるテーブルゲームですが、このゲームを親と子が一緒にやった場合、子どもの方が先に覚えて、強かったりするわけです。子どもが親に「こうやってやるんだよ」と教えてあげる。親もがんばって覚えて対決しても勝てなかったりする。悔しくて本気になる。そんな対等の関係がゲームだと作れるのです。
中川:
なるほど。対等の関係が大事だということですね。アナログゲームにはそういう良さがあるということですね。
前野:
デジタルゲームで一人で遊んでいては人と人との関係は学べません。
世の中は、何かを得たら何かを失うようになっています。昔は、100軒くらいの電話番号を覚えていたじゃないですか。でも、今は全部携帯が記憶してくれているから、覚えなくていいですよね。記憶する力を失っているかもしれません。カーナビが登場して、道も覚えなくていいですしね。でも、道に迷ったときに、こっちへ行けばいいという感覚が失われてしまいました。便利であまり体を使わなくなれば、健康を損ねることもありますしね。と言っても、デジタルを否定しているわけではなくて、アナログを見直そうよと言いたいのです。

<後略>

(2018年2月23日 東京・台東区の頭脳スポーツ財団の事務所にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

今を生きる ~人生は三度やり直せる~前野茂雄(著) 八重洲出版

伊藤 千尋(いとう ちひろ)さん

1949年山口県生まれ。東京大学法学部卒。74年朝日新聞社に入社。東京本社外報部などを経て、84~87年サンパウロ支局長。88年『AERA』創刊編集部員を務めた後、91~93年バルセロナ支局長。2001~04年ロサンゼルス支局長。現在はフリーの国際ジャーナリスト。「コスタリカ平和の会」共同代表、「九条の会」世話人も務める。著書は「一人の声が世界を変えた!」(新日本出版)「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂!」(高文研)「凛とした小国」(新日本出版)ほか多数。

『小さな国の制度や価値観から日本はたくさんのことが学べる』

「幸せですか?」と聞くと、即座に「幸せです」と返ってくる国

中川:
伊藤さんが書かれた「凛とした小国」(新日本出版社)という本を読ませていただきました。アメリカやヨーロッパの国々、オーストラリア、中国といったところには興味があっても、あまり名前も聞かないような小さな国に関心をもつ人は少ないと思います。伊藤さんの本には、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーが紹介されていましたが、国の名前こそ知っていてもどんな国かはほとんど知りませんでした。本を読ませていただいて、日本も大国の方ばかり見ずに、小さな国からもたくさん学ぶことがあるのではと思いました。
伊藤:
ありがとうございます。日本は経済大国だと言っているし、国民はみんな、そう思っているじゃないですか。でも、一人ひとりを見ると幸せだと思っている人は少ないのではないですか。コスタリカは貧しい国だけれども、それでも会う人会う人が幸せそうな顔をしています。「幸せですか?」と聞いてみると、言下に「幸せです」と答えるんですね。日本人で「幸せですか?」と聞かれて、すぐに幸せですと答えられる人は少ないだろうと思ますよ。
中川:
日本人で「幸せです」と胸を張って答えられる人は少ないでしょうね。伊藤さんは、学生時代にキューバに行かれてから小さな国に興味をもたれたようですね。
伊藤:
そう思ったのは20歳のときですね。あのころは、とにかく外国へ行きたくてたまらなかったですよ。と言うのは、日本の社会の息苦しさをすごく感じていましたから。中学と高校で生徒会長をやりました。生徒手帳を見ると、やたらと細かい規則が書いてあるじゃないですか。あれするな、これするなばかりで、これじゃあ人間が委縮すると疑問に思っていました。なんで日本はこうなのだろう? と思うわけですよ。外から日本を見ればわかるんじゃないか、日本の常識と世界の常識とは違うんじゃないか、とにかく出てみようと思ったんですよ。
中川:
それでキューバに行かれたのですか。だいたい、当時の若者のあこがれはアメリカじゃないですか。それに、あのころキューバに入国することはできたのですか?
伊藤:
会長のおっしゃる通り、海外へ行くとしたら、みなさんアメリカかヨーロッパでしたね。も、ぼくはみんなが行くところは行きたくありませんでした。大きなものとか権力のあるところに群がることが恥ずかしいと思っていましたから。だれも目を向けない知らないところへ行きたかったですね。そこで選んだのがキューバでした。社会主義でも小さな社会主義の国には、正しいとは限らないけれども、新しい価値観、面白いものがあるのではないかと思ったのです。
当時はキューバへは個人では行けませんでしたから団体で行きました。キューバの産業は砂糖だけでサトウキビを人力で刈っていましたが、革命が起こってから多くの人が亡命して人手が足りない状態でした。それで、アメリカの学生が、政府はキューバに対して経済制裁をしているから、若者がキューバを助けようと立ち上がり、何百人とキューバに渡ってサトウキビを刈るという労働奉仕をやっていました。日本からも行こうという団体ができて、それが新聞に載りました。このツアーに申し込んで、1971年にキューバに行き、半年間滞在しました。

<後略>

(2018年1月17日 東京都狛江市の 伊藤千尋さん の仕事場にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「凛とした小国」 伊藤千尋 著 (新日本出版)

長田 夏哉(おさだ なつや)さん

田園調布長田整形外科院長。1969年山梨県生まれ。日本医科大学卒業後、慶應義塾大学整形外科教室に入局。慶應義塾大学病院などで整形外科専門医の研さんを積み、2005年大田区田園調布に「田園調布長田整形外科」を開院。著書に「体に語りかけると病気は治る」(サンマーク出版)「治癒を引き出すエネルギーの秘密がわかった」(ヒカルランド)「後悔ゼロで生きるために、いまのうちにやっとくこと」(大和書房)などがある。

『病気やケガは自分のことをもっと知るための気づきのチャンス』

病気の原因は肉体にはない。エネルギー体の乱れが問題

中川:
先生のことは、沖ヨガの龍村修先生にご紹介いただきました。龍村先生には先代のころから真氣光研修講座で講師をしていただいたりして、とてもお世話になっています。体と心の関係について、実習も含めて非常にわかりやすい講義をしてくださって、本当に助かっています。
長田:
僕も龍村先生からはたくさんのことを学ばせていただいています。もともと、僕のクリニックでもヨガを取り入れていて、沖ヨガのセラピストの方が来てくださっていました。その方が龍村先生の指導を受けていた関係で紹介されました。いろいろとお話をしたところ、龍村先生も僕のことに興味をもってくださって、このクリニックでコラボトークショーをしました。以来、沖ヨガのキャンプに呼んでくださったりして、お付き合いを続けています。
中川:
ここは田園調布の駅前ですが、田園調布と言えば、有名な高級住宅街ですよね。ここにクリニックを開かれたのは何か理由があるのですか。
長田:
よく聞かれますね。僕は山梨県の出身で、特に田園調布には縁があったわけではありません。ただ単に「ここかな」と思ったからここにしたということです。開業したのは2005年です。最初は商店街の中で今よりも狭いところでしたが、家賃も高いし、採算もとれないからやめた方がいいとさんざん言われました。でも、自分が「ここで」と思ったのだからそれでいいんだと決めました。開業したら患者さんも増えてきて、手狭になったころに、この場所を貸してもらえることになりました。そんな流れが最初から決まっていたのではないかと思います。
中川:
いわゆる直観とかひらめきというものですよね。確かに、頭で考えるとそんなのうまくいくはずがないと思えることでも、ひらめきに従って動くと、トントン拍子に進んでいくことはありますよね。
先生は、今のひらめきの話もそうですが、見えない世界をとても重視されているようですね。
長田:
直観だけではなく、論理や科学的な知識も大切ですから、両方の視点から見るようにしています。
僕が医師として患者さんによく言うのは、「肉体には原因はない」ということです。
腰痛だと腰の骨が悪いとか、ひざ痛だとひざに問題があるという具合に、肉体に原因を求めがちですが、本当の原因はエネルギー体にあります。結果として、肉体的な問題が起こってきているのです。
肉体ばかりを見ていると、もぐら叩きになってしまって、原因に近づくことができません。だから、僕は結果に対する治療をしながら、原因についてもアプローチするというスタイルでやっています。
多くの人が病気やケガのない世の中にしないといけないと言うけれども、病気もケガもなかなか減っていきません。それは本当の原因からアプローチするという視点が欠如しているからじゃないでしょうか。
今の医療は肉体を治すことに重点を置き過ぎています。一時的に体に出ている症状を抑えても、自分の声を聞き、自分とつながらないと、また別の症状として現れてきます。
中川:
私は長く氣をやっていますが、氣の乱れが体に不調として出てきていることがよくあるように感じています。根本的な解決をしようと思ったら、氣を整えていかないといけないなというのが、私の感じていることです。
長田:
その通りだと思います。たとえば、膝が痛いと言って来られた方がいれば、どこが異常なのかを調べるためにレントゲンを撮ります。変形性の膝関節症があったとします。そうすれば、膝の痛みの原因はそこにあるということで、治療が決まってきます。でも、よく考えてほしいんですね。膝が変形しているからと言って、ずっと痛いわけではないんです。痛くないときもある。膝関節の変形はそのままなのに、どうして痛いときと痛くないときがあるのか。おかしいでしょ。原因は膝だけじゃないということです。
感情が影響しているかもしれません。怒りとか悲しみとかは良くない感情だと思っている人が多いじゃないですか。そうすると、心の奥では怒ったり悲しんだりしているのに、それを抑え込んでないものにしてしまうことがあります。
そうするとエネルギーの滞りが生じます。その結果として肉体の自律神経や内分泌、免疫などのホメオスタシス(恒常性)が影響を受けます。このエネルギーの滞りが原因とり、痛みなどの様々な病状が生じ、そして病気になります。
つまり肉体に出た結果だけに対応していても、原因であるエネルギーの状態にも視点を持たないと、結果として肉体への表出が繰り返されていきます。

<後略>

(2017年12月18日 東京都大田区・田園調布長田整形外科にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「体に語りかけると病気は治る」長田 夏哉 著(サンマーク出版)

寺門 克(てらかど まさる)さん

1936年東京生まれ。早稲田大学卒業。旅行会社、出版社をへて、1967年からフリーライターに。1995年からエッセイ教室、俳句教室講師を始める。2001年から5年間、東京経済大学非常勤講師。2014年から俳句研究会「土果塾」を主宰する。著書に『母恋旅――正一と山頭火』(里文出版)『帯津良一「人間まるごと、いのちまるごと」(工学図書)などがある。

『俳句で脳内エステ。楽しく老いに抵抗しながら生きていく』

帯津先生と同級生。 一冊目の本ができるきっかけを作った

中川:
今日は田端のご自宅まで押しかけさせていただきましたが、田端というところは小説家とか陶芸家とか詩人、歌人、画家といった文化人がたくさん住んでいたところだそうですね。
寺門:
田端駅から歩いてくる途中に「田端文士村記念館」というのがありましたでしょ。ここらあたりは、芥川龍之介はじめたくさんの文士たちが住んでいて、いろいろと交流があった場所なので、彼らの素顔や功績を紹介しようということで北区が作ったものです。小説家だと芥川に室生犀星、菊池寛らですね。ほかにも小林秀雄、詩人の萩原朔太郎、画家の竹久夢二とか。わが家から5分くらい歩くと正岡子規のお墓もありますよ。
中川:
そうですか。寺門さんはこちらで生まれ育ったのですか。
寺門:
もともとは赤羽で、疎開して間もなく爆弾で消えました。戦後、昭和23年に田端に親父が家を建てました。中学一年のときです。
中川:
帯津良一先生とは高校の同期生だったそうですね。だから81歳ということですが、お元気ですね。
帯津先生には、私の父である先代のころからお世話になっていましてね。先代と帯津先生も同い年で、ずいぶんと気が合ったみたいで、一緒にアメリカインディアンのホピ族の村へ行ったりしましたね。
寺門:
帯津先生とは小石川高校の同期生ですよ。彼が勤めていた駒込病院はすぐ近くですから、うちへも寄られたことがありました。早朝に駅でばったり会ったこともありました。私が「これから朝粥会に行くんだ」って言ったら、「俺も行こうかな」なんて話になって、一緒に行ったことがあります。朝粥会というのは毎月新橋でやっていた会ですけど、「朝が愉快」にかけているんですよ。わかる人にはわかります(笑)。けっこうな大物がたくさん来られていましたね。
中川:
なるほど。単純に聞こえつつも、なかなか凝ったネーミングなんですね。
寺門さんは出版関係の仕事をやっておられて、帯津先生の一冊目の本は寺門さんがきっかけを作ったとお聞きしていますが。
寺門:
出版関係は長かったですね。最初は小さな出版社で企業内教育の教材を作り、それからフリーライターになって週刊現代の記者をやったり月刊現代に記事を書いたりして、そのあと第一勧銀経営センターというところで会員誌を作る仕事をやっていました。
帯津先生の本にかかわったのは経営センターのころですね。会員誌に、がんの戦略的アプローチというテーマでがん治療は西洋医学一辺倒ではなくていろいろな方法があるという話を書いてもらいました。川越に病院を作ったころかと思います。西洋医学と中国医学を合わせた中西医結合医療というのを始めていましたね。
富士山に登るのも吉田口とか御殿場口とかいくつかあるじゃないですか。それと同じでがんを克服する道はひとつではないという話には、私もすごく納得できました。 
その記事がきっかけで、帯津先生も自分の考え方ややっていることを書きためるようになったみたいで、あるときこんなのを書いたから本にならないだろうかと相談されました。私は帯津先生のやっていたことには賛同していましたから、すぐに講談社の知り合いに話をもっていって、出版が決まりました。
それが「ガンに勝つ《食・息・動・考》強健法」という、彼の記念すべき第一冊目の本です。
中川:
帯津先生は今や300冊近い本を出されていますが、そのスタートに寺門さんはかかわられたのですね。今でこそ、ホリスティック医学とか統合医療は多くの人が知るようになりましたが、その当時は医療と言えば西洋医学だけの時代ですから、なかなか本にはなりづらかったでしょうから、寺門さんという知り合いがいたのは大きかったのではないでしょうか。
寺門:
それはわかりませんけれども、彼の一冊目にかかわったというのは誇らしいですよ。私も『帯津良一「人間まるごと、いのちまるごと」』(工学図書)という、彼のことを書いた本を出させてもらいました。
今でも彼とはときどき飲みますが、高校時代の友だちとこの年までかかわっていられるのはうれしいですよね。

<後略>

(2017年11月27日 東京・田端の寺門克さんのご自宅にて 構成/小原田泰久)

岡村 幸宣(おかむら ゆきのり)さん

1974年生まれ。東京造形大学造形学部比較造形専攻卒業。同研究科修了。2001年より、原爆の図丸木美術館に学芸員として勤務。2016年第22回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受賞。著書に「《原爆の図》のある美術館」「非核芸術案内——核はどう描かれてきたか」 (岩波ブックレット)「《原爆の図》全国巡回——占領下、100万人が観た!」( 新宿書房)など。

『核の危機が迫る今だからこそ見てほしい原爆の図』

原爆の図には人間のもつ深い悲しみがあふれている

中川:
森の中にあって、近くを川が流れていてとても静かで、何か異空間に紛れ込んだような感じがしてしまいます。この丸木美術館に展示されているのが原爆の図ですけれども、見ているとぐっと胸に迫ってくるものがあります。原爆の悲惨さを描いた作品ですが、それだけではなくて、人間のもっている奥深い悲しみがあふれていて、言葉を失ってしまいました。
岡村:
ありがとうございます。原爆の図は、広島出身の水墨画家・丸木位里(いり)と妻で油彩画家の俊(とし)が1950年に発表したのが第1作で、その後30年にわたって全15作の連作として描き上げたものです。
単なる虐殺の記録ではなく、かけがえのない一つひとつの命に寄り添っている作品だからこそ、たくさんの人が感動してくれるのではないでしょうか。この絵に自分の思いを重ねながら、「自分も何かをしなければ」と思ってくださるのだと思います。
中川:
広島に投下された原爆でたくさんの方が亡くなりましたが、亡くなった方にはそれぞれ家族もあり、生活もありました。その一人ひとりに思いを寄せながら描かれているのが伝わってきました。
ところで、岡村さんは丸木美術館の学芸員をやっておられるわけですが、学芸員というのはどういうお仕事をされるのですか?
岡村:
作品の管理はもちろんですが、企画展をやって美術館と人をつなぎ、多くの人に来てもらうように働きかけたり、美術館の歴史性や性格を生かした展示をしたりします。来館される人に絵の説明をするような教育普及の仕事や、なぜこの作品が生まれてきたのか、それがどう受容されてきたのかを掘り起こして、今の時代の人に伝え、未来にも残していく研究調査の仕事もやっています。
中川:
大事なお仕事ですよね。特に、原爆の図はメッセージ性のとても高い作品ですからね。いつごろから丸木美術館の学芸員をやっておられるのですか?
岡村:
2001年から学芸員として働いていますのでもう17年になります。この美術館のことを知ったのは美大の学生だったころです。1996年でした。当時はまだバブル景気の影響が残っていて、授業の内容も最新の美術館や現代美術の話がほとんどでした。私は流行とは対極にある美術館の実情を知りたいと考えて、この美術館で実習をしました。
中川:
そうですか。学生時代ですか。そのころから原爆のこととか興味があったり、核に対する問題意識をお持ちだったんですね。
岡村:
いえいえ。恵まれた中で育った世代なので、平和も当たり前だったし、社会の矛盾についてもほとんど考えたことがありませんでした。
確かにここはよくある美術館とは違って、とても人間臭くて新鮮だったのですが、卒業したらうちに就職しないかと言われたときには、『いいです』とすぐに断りました (笑)。
中川:
そうでしたか。一度断ったのに、どうしてこちらの学芸員になったのですか?
岡村:
その後、半年ほど自転車でヨーロッパを旅しました。ヨーロッパの美術館を回っていると、丸木美術館よりもお金がなくてやっている美術館はいっぱいありました。小さな美術館は決して背伸びせずに自分たちがやれる範囲で、大切に文化を守り伝えていました。そのときに、文化はこういうところから生まれてきて、その上澄みを大きな美術館はもらっているだけだということがわかって、よそでやっていないような根源的な価値を自分たちで作り出す美術館で働きたいと思うようになりました。
丸木美術館は原爆の図のために建てられ、この絵を大切だと思う人たちが集まってきて、絵や思いを守り、伝え、つなぎ続けてきた場所です。ここでしか伝えられないし、守れないものがあるんだと、丸木美術館を見る目ががらりと変わって、ここで働くことを決めました。
中川:
大きな美術館ではなかなかできませんからね。
岡村:
大企業に依存していると不況に弱いんですよ。私が学生のころは、都内のデパートがいくつ美術館をもっていました。ああいう立派な美術館がなくなるなんて予測できなかったですよ。丸木美術館は、多くの人の小さな力に支えらえている美術館だから、景気に左右されずに、細々とですがこうやって残っていられるんでしょうね。

<後略>

(2017年10月24日 埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

《原爆の図》のある美術館――丸木位里、丸木俊の世界を伝える
岡村 幸宣(著) (岩波ブックレット)

里見 喜久夫(さとみ きくお)さん

1948年大阪生れ。1991年に「株式会社ランドマーク」を設立。商品プランニング、デザインなどの業務に携わる。2012年「株式会社はたらくよろこびデザイン室」を設立。障害者の経済的自立をテーマにした季刊誌『コトノネ』の発行に関わり、編集長を務める。2008年にドイツW杯を記念して、選手のいない写真集『‘06 GERMANY』を出版。『ボクは、なんにもならない』(2008年、美術出版社)、『ボクも、川になって』(2010年、ダイヤモンド社)、『もんばんアリと、月』(2012年、長崎出版)などの絵本の著作もある。

『障害者の働く姿を通して、生きるよろこびを伝えたい』

東日本大震災がきっかけで知った障害者福祉

中川:
里見さんは「コトノネ」という雑誌の編集長をされていますが、障害者をテーマにしている雑誌というのはあまり聞いたことがありません。最新号を拝見しましたが、とても興味深い記事が掲載されていて、どんな方が作っているのだろうと、対談をお願いしたわけです。
どういう経緯から、こういう雑誌を作ろうとされたんですか。
里見:
興味をもっていただいてありがとうございます。経緯はよく聞かれますが、いつも「成り行きです」と答えています(笑)。
うちは、デザインの会社で、お酒やスポーツ用品のメーカー、通信関係の会社などの仕事を主にしていて、福祉とはまったく関係ありません。私も福祉のことは何も知らないし、関心もありませんでした。
すべては、東日本大震災でした。何かしなければ、との思いで、とりあえず、絵本を集めて被災地へもって行こうという活動をしました。福島県の相馬市立図書館へ1500冊の絵本を運んだときに、相馬市内で障害者施設をやっている方と出会いました。その方が、障害者の置かれている状況をいろいろと話してくれました。たとえば、福祉施設ではたらく障害者の工賃は1万円ちょとだとか、施設の中にはいいものを作っているところがあるからもっと知ってもらったら障害者の工賃も上がるのにといった話が出るわけですそんなこと、私はぜんぜん知らないし、考えたこともありませんでした。ちょっとした驚きでした。
うちの会社だったら、編集者もデザイナーもいて、障害者のこと、施設のことを知らせる雑誌を作るにはちょうどええんやないかと言われたりして、そうかもしれんと思って動き始めました。
中川:
だけど、こういう雑誌は売れると言っても限られているでしょうし、採算を考えれば、必要だとわかっていてもなかなか踏み切れないのではと思うのですが。
里見:
そら考えますよ。私も経営者ですから。ビジネスということを考えたら二の足を踏みますよ。
でも、福島から帰っても「何かやらなあかん!」という気持ちがずっとあって、その次は、今回は当事者にならなあかんという気持ちになってきましてね。やるやるて言うてるだけで、3ヶ月たっても4ヶ月たっても何も進んでなくて。このままやらへんかったら、忘れてしまうやろなあ。これは、とりあえずやると決めた方がいい。そんなふうに思ったのかな。
中川:
ほお、当事者ですか。
里見:
これまで、家庭でも社会でも、当事者として生きてきたことはあったやろか。ないなあ。また口だけで、忙しさにかまけてやらずに終わるんと違うやろか。そんなふうに、どんどんと追い込まれていくわけですね。やる言うてたのに何やったんやと責められるような感じがしましてね。もう、降参ですわ。やりますわと言いました。
中川:
それで2012年1月に創刊号が出るわけですね。
里見:
2011年8月から予備取材を始めましたが、とにかく障害者のことはまるっきり知りませんから、戸惑うことだらけでしたよ。あるケアハウスへ行ったとき、よだれを垂らしてはる人がいました。部屋を案内してもらいました。そのとき、よだれいっぱいの手で物を渡されたんですわ。よだれのついたところつかみたくないやないですか。受け取るのを躊躇してしまうわけですね。差別しているつもりはないけど、意図せず傷つけているなあと思ってね。ものすごい孤独感でしたよ。自分はこういう仕事、向いてないなあと、自己嫌悪に陥りました。こんなんやっててええのかなあと悩みました。
中川:
障害は個性だと言いますけど、頭ではわかっていても、いざそういう人と接することになると、どうしても戸惑ってしまいますよね。どうかかわっていけばいいのか分かりませんからね。
でも、そういう気持ちがあるのをごまかして彼らと接するよりも、自分の戸惑いや孤独感というのをきちんと見つめられる人の方が、私はより親密な付き合いができるようになるのではと思います。

<後略>

(2017年9月26日 東京・ ㈱ランドマークにて 構成/小原田泰久)

早坂 隆(はやさか たかし)さん

1973年生まれ。愛知県出身。ノンフィクション作家。著書に『永田鉄山昭和陸軍「運命の男」』『松井石根と南京事件の真実』(以上文春新書)、『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』(PHP研究所)、『昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』(文春文庫)、『鎮魂の旅 大東亜戦争秘録』(中央公論新社)、『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争』(中公文庫)など

『戦争でつらい体験をした人たちの思いに心を寄せる』

数千人のユダヤ難民の命を救った「オトポール事件」

中川:
早坂さんの書かれた『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)という本を興味深く拝読しました。私どもは毎月、全国各地で真氣光研修講座という3泊4日の合宿を行っています。7月には小樽の朝里で開催しましたが、そのときに、ある参加者の話から、ここにはたしか、戦争中にユダヤの難民にビザを発給した樋口季一郎が住んでいたという話を思い出したのです。
樋口季一郎については、私も詳しいことは知りませんでしたので、気になっていろいろと調べてみることにしました。そしたら、早坂さんの本に出会い、読ませていただいて、こんなにもすばらしい人がいたのだといたく感動しました。それで、ぜひお話をうかがえればと思って、この対談をお願いした次第です。
早坂:
ありがとうございます。樋口季一郎という人は、最近になって少しずつ知られるようになってきましたが、私が本を書いた2010年当時は一般的には知名度はとても低かったですね。
日本人によるユダヤ人の救済と言うと、リトアニア駐在の外交官だった杉原千畝が有名です。1940年(昭和15年)、杉原はリトアニアに逃げてきた約6000人のユダヤ人難民に特別にビザを発給し、その命を救ったということで、多くの人に知られています。
実は、樋口はその2年前、昭和13年にナチスに迫害されてソ連と満州の国境の地まで逃げてきたユダヤ難民に対して、特別なビザを発給して、彼らの命を救っています。当時、樋口はハルビン特務機関のトップでした。
この出来事は、その舞台と
なった地名から「オトポール事件」と呼ばれています。まだまだ知らない人が多いですけね。
中川:
私も杉原千畝のことは知っていましたが、樋口という人については、ぼんやりとしか知りませんでした。
早坂さんは、どういうことから樋口季一郎のことを知られたのですか。
早坂:
私は20代のころ、海外の紛争地に興味をもちました。ルーマニアに2年ほど滞在して、首都ブカレストのストリーチルドレンの取材をしたこともあったし、ほかにも、パレスチナやイラク、旧ユーゴスラビアなどを取材して回っていました。
海外を回っているうち、自分の国の戦争はどうだったのだろうと、調べてみる気になりました。当時、日中戦争を体験している祖父が存命だったので、その話を聞くことから始め、それがきっかけで埋もれている昭和史を取材するようになって、その流れの中で、樋口のことを知りました。
中川:
ユダヤの難民は、満州国を通って上海へ行き、そこからアメリカやオーストラリアへ渡ろうとしていたんですよね。でも、満州国は入国ビザの発給を拒否しました。当時、日本はドイツととても親しい関係でしたから、日本の属国だった満州としては、拒否するのは当然のことだったでしょうね。そんな中で、樋口がビザ発給という大英断を下すわけですよね。大変なことだったと思います。
彼の決断で数千人のユダヤ人が救われました。2年後に同じことをした杉原千畝が映画やドラマにもなって多くの人に知られているのに、樋口のことは、なぜ知られてなかったのでしょうね。まさに埋もれていたわけですが。
早坂:
杉原は外交官で樋口は陸軍軍人だったということも関係していると思います。どうしても、戦後の風潮として、軍人のポジティブな話は美化と言われて、批難されることも多かったですからね。
中川:
軍人イコール悪だと思っている人が多いでしょうか。
早坂:
ひとつのタブーになっていましたね。私としては、史実は史実として掘り起こす必要があると思ったから取材して記録として活字にしたかったのです。決して美化しようとしたものではありません。
ユダヤ人へのビザ発給は、樋口の独断でできたわけではありません。当時満鉄の総裁だった松岡洋右や関東軍の参謀長だった東条英機も協力的に動いていました。
樋口の行動には、当然のことながら、ドイツから抗議がきました。軍の司令部でも問題になって、樋口に出頭命令が出ます。樋口は東条に会ってこう言い放ちました。
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」東条は樋口の言葉に耳を傾け、彼の決断に理解を示しました。それがきっかけになって軍司令部内での樋口への批判は下火になり、ドイツからの抗議も不問に付されました。

<後略>

(2017年8月22日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「指揮官の決断―満州とアッツの将軍 樋口季一郎」 早坂隆(著) <文春新書>

齋藤 文吉(さいとう ふみよし)さん

通称ぶんちゃん。1953年生まれ。幼少のころより、里山百姓一筋の父親の背中を見て育ってきた。農薬、化学肥料を使わないオーガニック農業を45年続けている。混沌とした現代こそ、自給自足の叡智、知恵・知識を、必然の出会いのあった方々に伝授すべく感性を磨く日々を送っている。オリーブパーク東京グランドプロデューサー。

『都心の近くで農業を体験。自然から学びと気づきを得る』

江戸時代からの農家の10代目。オーガニック農業も45年に

中川:
私は、FM西東京で番組をもたせてもらっているのですが(毎週日曜日朝9時25分~40分『中川雅仁の今日も一日い氣い氣ラジオ』)、FM西東京の前社長の有賀達郎さんから、東村山に都市型の農業をやっていて、氣のことも興味がある方がいるとお聞きして、ぜひお話をうかがいたいと思って、お邪魔しました。
東村山は初めて来ますが、私どもの本社のある池袋から40分くらいで着くんですね。東京の都心に近いところで、どんな農業をやっておられるのか、今日は、いろいろとお話をお聞かせください。
齋藤:
ありがとうございます。有賀さんから連絡を受けて、雑誌を送ってもらって、巻頭ページに、カラーで写真まで出るということで、私はビジュアルには自信がないので、最初はお断りしようと思いました。
でも、ずいぶんと前ですが、私は先代の会長のお話もお聞きしたことがあるし、池袋のクリニックへもうかがったことがあるんですよ。これは何かのご縁だろうと思ってお引き受けすることにしました。
中川:
そうでしたか。そうすると、20年以上前のことになりますね。
齋藤:
高次元科学の関英男先生や足立育郎先生のお話もうかがったりして、今回、こういうご縁をいただいて、あれが自分の原点だったかなと、そんなことを思いました。会長にお会いするのもとても楽しみにしていました。
でも、私の話すことは、普通に聞けば非常識で、受け入れていただけるかどうかわからないのですが(笑)。
中川:
いえいえ。だいたい氣の世界は非常識なことばかりです(笑)。ご存知のように、先代はハイゲンキという機械を作って、それで宇宙の氣を中継しようとしました。氣をやっている人たちからも非常識だと言われましたから(笑)。
世の中を変えるのは、非常識からじゃないかと、私は思っています。齋藤さんの非常識な話こそ、私はお聞きしたいと思います。
でも、まずは常識的なところからお話を始めたいと思いますが、齋藤さんは農家として10代目で、45年前から、農薬や化学肥料を使わないオーガニック農業をやっておられるそうですね。
齋藤:
江戸中期からここで農業をやっています。今は3000坪の農地があります。
父は、牛や豚やヤギを飼っていました。私もずっとそのお手伝いをしていて、馬もいましたから、馬を乗り回していました。
私の代になってからは、有機ゲルマニウムに興味をもちまして、それを含む霊芝(サルノコシカケ)とか明日葉などの栽培をしました。当時から変わったところがあったみたいで、人が作らない作物を作ろうと思いましてね(笑)。私は農業が得意ではないので、人と比べられたくなかったんですね。
明日葉は大手のスーパーがたくさん買ってくれました。さまざまな体験を重ねて、生産をして売るだけの農業ではなく、都会に住む人たちが農業体験をしたり、農業を学ぶ農業塾ができないかと思って、去年、本格的に「オリーブパーク東京」というのを立ち上げました。
中川:
オリーブパークというくらいですから、オリーブを栽培されているんですよね。オリーブというと、地中海とか瀬戸内というイメージがあるんですが。
齋藤:
オリーブは聖なる木だと言われています。それにおしゃれでしょ。私は、オリーブパークを始めるに当たって、「楽しい」「おしゃれ」「おいしい」の3点セットでアピールしようと考えました。そういう意味で、オリーブはぴったりなんですね。
面白い話があるんですよ。今、建売住宅を売っている人たちの間で、庭にオリーブの木を植えると売れやすいという話が広まっているようなんですね。苗木屋さんに、オリーブの苗木はどういう人が買いますかって聞いてみると、建売屋さんという返事が返ってきますから。
中川:
そうですか。それは知らなかったですね。それにイタリア野菜にも力を入れておられるようですね。
齋藤:
おしゃれだからですよ(笑)。東村山の駅からここまでお越しになる途中に私の畑がありますが、道路際にスイスチャードが大きくなっています。サラダとか炒め物にするととてもおいしい野菜です。あとから見ていただきたいと思いますが、あんなに込み合って育つことはないんですよね。常識ではね(笑)。でも、ビシッと隙間がない状態で育っているんですね。
それに、その横にバジルがありますが、とても大きいですよ。あれもこの間の台風でぺしゃんこになったのですが、すぐに復活してきました。ものすごく生命力のある野菜たちです。
私が作りたいのは、おしゃれでおいしくて食べた人が元気になれる野菜たちなんですよ。そういう野菜を使って料理を作るのは楽しいものです。
都会の人に、そんな体験をしてもらいたいんですね。

<後略>

(2017年7月28日 東京都東村山市にて 構成/小原田泰久)

高安 和夫(たかやす かずお)さん

1965年千葉県生まれ。国学院大学卒業。2004年「銀座食学塾」を設立。代表世話人として2ヶ月に1度のシンポジウム、交流会を開催。2005年4月「銀座食学塾米作り隊」を結成。2006年3月28日に「銀座ミツバチプロジェクト」を立ち上げる。2008年「銀座農業塾」を開講。2010年には、銀座ミツバチプロジェクトが環境大臣表彰受賞。現在、一般社団法人トウヨウミツバチ協会代表理事。著書「銀座ミツバチ奮闘記」(清水弘文堂書房)。

『ミツバチが共に生きることの大切さを教えてくれる』

銀座を活性化させようと考えていたときにミツバチと出あう

中川:
月刊ハイゲンキ3月号の「行動派たちの新世紀」で取り上げさせていただいた「銀座ミツバチプロジェクト」、とても興味深く読みました。ミツバチに不思議な魅力を感じまして、もっとミツバチのこと、ミツバチから広がっている波紋についてお聞きしたくて今日はおうかがいしました。
さっき、銀座の松屋通りにある紙パルプ会館というビルの屋上を拝見しました。ミツバチの巣箱があって、たくさんのミツバチがぶんぶんと飛んでいました。
ハチというと刺されるというイメージがあったのですが、別に私たちがいることなど気にせず飛んでいましたね。
高安:
今日はありがとうございます。みなさん、ミツバチというと、最初は刺されるのではと警戒されますね。でも、きちんとミツバチの性格を知って、ルールを守っていれば刺されることはありません。ミツバチは、人を刺せば自分も死んでしまいますから、よほどのことがない限り人を刺したりはしません。こちら側が危害を与えようとすれば刺すこともありますけどね。
私たちは、銀座の真ん中にあるビルの屋上で養蜂をやって12年になりますが、街の皆さんが刺されたというのはほんの数回です。それも、刺されるには理由があって、何もしないのにハチが襲ってくることはありません。
ミツバチは高さ50メートルくらいのところから更に上昇したあと、蜜源である花に向かって飛んでいきます。人が行き交うところを飛び回ったりしませんので安心してください。
私たちに養蜂を教えてくれた先生は、「ミツバチは蜜を集めるのに一生懸命で、人のことなどかまっていられないよ」と笑っていました(笑)。
中川:
12年間、都会の中の都会とも言える銀座でミツバチを飼っていて問題が起きてないというのは説得力がありますね。銀座とミツバチというのは意外な組み合わせですよね。養蜂というと、農村とか山の中というイメージがありますからね。高安さんは、どんなことがきっかけで銀座で養蜂を始めたのですか。
高安:
私はもともと、茨城にある有機農法で米や野菜を生産して販売する会社に勤めていました。そのときに、都会のみなさんに、農業のことを理解してもらいたいと、銀座に営業所を作って、食や農の勉強会を紙パルプ会館の会議室を借りて開いていました。
勉強会にこられたみなさんに茨城へ来ていただいて農業体験をするということもやっていました。しかし、茨城まで米作りに連れていくのはとてもハードルが高いので、銀座で農業ができないだろうかと考えました。もちろん、銀座には田んぼも畑もありませんから、使うならビルの屋上だと思い、紙パルプ会館取締役の田中淳夫さんに、農産物を作るのに屋上を貸してくれないかとお願いしました。
そしたら、「街が活性化するなら貸してあげよう」ということで、先の見通しがあったわけではありませんでしたから、なにか銀座に合う農産物はないか必死で探しました。
中川:
最初は屋上で農業をやろうと思われたんですね。
高安:
イチゴがいいとか、メロンだとかマンゴーだとか、あれこれアイデアは出ました。でも、素人がやるわけですから、銀座の高級なお店で扱ってもらえるような高いクオリティは期待できません。いきなり壁にぶち当たりました。
さてどうしたものかと、あちこちにアンテナを伸ばしていたとき、皇居の近くにあるビルの屋上で養蜂をやっている藤原誠太さんという方に出会いました。話を聞くと銀座で養蜂というのはなかなか面白そうだし、実際にその方もたくさんのハチミツをとっていましたので、これはいけると思いました。最初は、藤原さんに屋上をお貸しして、養蜂をやってもらおうという腹づもりでした。しかし、スペース的に狭くて商売にならないというわけで、結局、私たちがやらなければならなくなってしまったという次第です(笑)。
最初は戸惑いましたが、ミツバチは何とも魅力的で、まわりの人に話しても、とても反応が良かったので、2006年に銀座ミツバチプロジェクトをスタートさせ、本格的に取り組むことにしました。
中川:
今考えると運命的な出会いですよね。それに、高安さんもよくやろうと決心しましたよね。感心します。ところで、銀座のミツバチはどこから蜜を集めてくるんですか。
高安:
ミツバチの行動範囲は2キロくらいです。銀座に巣箱を置くと、日比谷公園、皇居、浜離宮庭園まで飛んでいって、蜜を集めてきます。なかなか質のいい蜜を集めてきてくれて、初年度は3ヶ月くらいしかやりませんでしたが、巣箱3箱で160キロくらいとれました。これはすごくいい成績です。

<後略>

(2017年6月20日 東京都中央区立環境情報センターにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「銀座ミツバチ奮闘記―都市と地域の絆づくり」 高安和夫 (著) 清水弘文堂書房

高橋 恵(たかはし めぐみ)さん

1942年生まれ。一般社団法人おせっかい協会会長。短大卒業後、広告代理店に勤務。結婚退職後、2人の娘の子育てをしながらさまざまな商品の営業に従事し、トップセールスを記録。40歳で離婚。42歳のときに当時高校生だった長女とともに自宅のワンルームマンションで株式会社サニーサイドアップを創業。70歳になっておせっかい協会を設立。著書に「幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ」(PHP)「笑う人には福来たる」(文響社)などがある。

『おせっかいの輪を広げて、笑顔があふれる社会に』

おせっかいは悪いことではない。とても大切なこと

中川:
高橋さんのお書きになった「笑う人には福来たる」(文響社)を読ませていただきました。私どものやっている氣のことと共通する点がたくさんあったので、ぜひお話をうかがいたいと思いました。
高橋:
わざわざお越しいただきましてありがとうございます。
中川:
ここはマンションの19階ということでずいぶんと見晴らしがいいですね。東京スカイツリーも見えますし、きっと富士山も見えるんでしょうね。
高橋:
晴れているときれいに見えます。今日はちょっと曇っていますが、少し見えますね。あちらの方向です。
中川:
本当ですね。うっすらと見えます。
高橋:
ここは私の自宅兼事務所です。いつも人が集まってにぎやかですよ。パワースポットだと言って、しょっちゅうお越しになっている方もいます。
中川:
たくさんの方が集まるんですか?
高橋:
ランチ会をやったりすると、20人とか30人くらい集まりますね。30人入ると、このスペースではちょっと狭いかもしれませんが。
中川:
それはすごいですね。事務所とおっしゃいましたが、一般社団法人おせっかい協会の事務所ですか?
高橋:
そうです。協会と言っても会員登録があるわけでもないし、会費があるわけでもないし、賛同してくれた人が集まってワイワイとやっているんです。
悩みがある人や何かアドバイスをもらいたいと思っている人、人脈を作りたい人、どこも行くところがなくて寂しい人、いろいろな人が集まってきますよ。そういう人が、食事をしたりお茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら交流するのですが、人が集まってお話をしていると、大抵のことは解決してしまいますよね。こうやって自宅を開放しているのも、私のおせっかいです。
会の活動としては、毎週土曜日に地域の掃除をしています。おそろいのオレンジ色のオリジナルTシャツを着てね。わざわざ遠くから来てくださる方もいるし、私たちが掃除をしているのを見て、どういう集まりだろうと興味をもって、わが家へやって来られる方もいます。
本当はこういうのが日本のあちこちにできるといいんですけどね。
中川:
おせっかいと言うと、どこか余計なお世話を焼くという良くないイメージがあるのですが、高橋さんはおせっかいが大事なんだとおっしゃっていますね。
高橋:
よく娘たちに「ママは本当におせっかいね!」と叱られます。確かに、私は人の世話を焼くことはよくします。出しゃばることは好きではありませんが、やる人がいなければ、イベントの感じでも何でも、率先してやってしまいます。だから、まわりからは出しゃばりだと思われているかもしれませんね(笑)。
でも、私が子どものころは、まわりにおせっかいな人がたくさんいて、そういう人に随分と助けられたものです。今の時代は、あまりにも「こんなことは迷惑じゃないか」と、人との距離を必要以上にとったり、人とあまりかかわらないようにしている人が多すぎるのではないでしょうか。「無縁社会」とか「孤独死」とか問題になりますが、その背景にはおせっかいは悪いものだという考え方があるのではないでしょうか。
大学でお話しすることもあるのですが、アンケートをとると、ずっとおせっかいは悪いことだと思っていたけれど、話を聞いてとても大事なことだと思ったと書いてくれる学生がたくさんいます。そのアンケートを見て、私はおせっかいの大切さを伝えていかないといけないなと思いました。
中川:
昔は、どこにでもおせっかいなおばさんがいて、年頃の若者を見ると、頼んでもいないのに結婚相手を探してくれたりしましたよね。
高橋:
実は、本の打ち合わせをしているとき、担当者がポツリと「彼女がいないんです」とこぼしたんですね。別に彼女を紹介してほしいと頼まれたわけではないのですが、私のおせっかいの虫が騒ぎ出しまして、彼に合うような人を紹介しました。そしたら、いいご縁だったんですね。2人は結婚することになりました。

<後略>

(2017年4月18日 東京中野区 一般社団法人おせっかい協会にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

左:「笑う人には福来たる」高橋恵 (著)(文響社)
右:「幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ」高橋恵 (著)(PHP研究所)

宇井 眞紀子(うい まきこ )さん

1960年千葉県生まれ。1992年、子どもを連れてアイヌ民族の取材を始める。2009年、全国のアイヌ民族100組を撮影するプロジェクトを開始。2017年5月「アイヌ、100人のいま」を刊行。日本写真芸術専門学校講師、武蔵野美術大学非常勤講師。
写真集に「アイヌときどき日本人」(社会評論社)「アイヌ、風の肖像」(新泉社)などがある。

『えない世界を大切にするアイヌの人の伝統や魅力を伝える』

小学生のときに、アイヌの少女が主人公の物語を書いた

中川:
宇井さんというのは珍しい苗字ですよね。
宇井:
そうですね。小さいころは、宇井って苗字はうちだけだと思っていました。私は千葉の生まれですが、親戚以外まわりにはいませんでしたから。
中川:
宇井さんはカメラマンとしてアイヌの人たちを撮っておられるわけですが、千葉で生まれた方が、どういうことからアイヌに興味をもったのか、そのあたりからお聞かせいただけますか。
宇井:
小学生のときからなぜかアイヌに興味がありました。国語の時間に、物語を作りましょうという授業があって、そのときにアイヌの少女が主人公になる物語を書いた覚えがあるんですよ。
中川:
すでに小学生のときにアイヌのことを知っていたんですね。
宇井:
何か印象的なことがあったはずなのですが、覚えてなくて。アイヌに関する最初の記憶がこれなんです。
今のような質問をよくされるので、なぜ興味をもったのだったのだろうと、いろいろと考えたことがありました。
そしたら、私が小さいころ、父親が日本中央競馬会に勤めていて、競馬場の近くに住んでいたことと関係があるかもしれないということに思い当たりました。競馬場には、厩務員という馬をお世話する人がいて、そういう人たちの中に、アイヌの方がいたということを、あとから知りました。
そこで、何か出会いがあったかもしれませんが、決定的にアイヌのことを知りたくなったのは、元夫の話からです。彼は、北海道の静内というアイヌの人がたくさん住んでいるところで育ったので、彼から幼いころの思い出話を聞いているうちに、アイヌの話が出てきて、もともと気になっていたので、片隅にあったアイヌが前面に出てきたという流れでしょうかね。
中川:
もうそのころは写真を撮っておられたんですね。
宇井:
そうですね。私は、最初からフリーランスで仕事をしていました。雑誌の仕事が主で、対談の場面とかポートレートとかアイドルとか、依頼があったら何でも撮っていました。でも、依頼されたものを撮るだけでなく、自分の作品作りをしたいという思いもありましたので、最初はダンサー、そのあとは自分の子どもの写真を撮って、写真展を開いたりしていました。
中川:
もともと人を撮るのが好きなんですね。
宇井:
そうだと思います。娘の写真を撮って、写真展が終わったところ、次は何を撮ろうかと思っていたとき、アイヌの人たちのことが気になり出して、本を読んだり、講演を聞いたりするようになりました。
中川:
そこからすぐにアイヌの方とのご縁ができたのですか。
宇井:
私は、ご縁というのは不思議なものだと思っていますが、私が撮った写真が掲載された雑誌が送られてきて、それを見ていたら、アシリレラさんというアイヌの女性の書かれた文章が載っていました。
そこには、北海道の二に風ぶ谷だにというところにダムができる計画があって、ダムができるとアイヌの聖地が壊されてしまう。アイヌとして何とかしなければいけないと思っている。ダムができるというのは人間で言えば、血管を止めるようなもの。なぜダムをやめてほしいと思っているのか。そんなことが書かれていました。
私も、アイヌのことがずっと気になっていましたから、二風谷のダムのことには興味をもっていました。それで、アシリレラさんに会いたいと思い、私はアイヌに興味があって記事を読んで二風谷に行ってみたいと思いましたというような手紙を書きました。1992年だったですね。
そしたら、泊まるところもあるからすぐにおいでと、返事が来ました。それがきっかけですね。
中川:
そうでしたか。これも導かれるようなご縁ですね。たまたま仕事をした雑誌に記事が出ていたのですからね。
宇井:
あれから25年ですね。あの雑誌が私の運命を決めましたね。

<後略>

(2017年4月12日 株式会社エスエーエス 東京セン ターにて 構成/小原田泰久)

小林 さやか(こばやし さやか)さん

ミリオンセラー「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(坪田信貴著)、映画「ビリギャル」の主人公“ビリギャル”本人。慶応大学卒業後、ウエディングプランナーとなり、自身の結婚を機にフリーに転身。独自の子育て論を持つ母(通称ああちゃん)と「ダメ親と呼ばれても3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話」を共著で出版。現在、講演活動を中心に、全国を回っている。

『これぞビリギャル流!不可能を可能にする生き方、考え方』

「聖徳太子」を「せいとくたこ」と読むような学力だった

中川:
今回のゲストは小林さやかさんです。「ビリギャル」と言った方がわかるかと思います。
さやかさんのことを書いた『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴著 発行/株式会社KADOKAWA アスキーメディアワークス)という本が100万部以上売れていて、お母さんとの共著の『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』(発行/株式会社KADOKAWA アスキーメディアワークス)もベストセラーになっていますし、「映画ビリギャル」というタイトルで映画化もされていますから、さやかさんのことをご存知の方も多いと思います。
私も、2冊の本を読ませていただきました。全国模試で偏差値30程度だったさやかさんが、坪田先生という塾の先生と出会い、お母さんに応援されて、慶応大学に受かったという物語ですが、そこには、氣という観点から見ても、いろいろと学ぶべきことがありました。
小林:
ありがとうございます。本が売れて、映画にもなって、自分でもびっくりするような反響が起こっていますね。でも、坪田先生は、私だけでなくて、1300人を超える子どもたちを教えてきて、短期間で偏差値を上げて希望の大学に合格するというケースは少なくないです。先生にとっては、私のケースは特別なものじゃないんですね。
ただ、私がとんでもない落ちこぼれのギャルだったし、受かった大学が慶応だったから、とてもわかりやすくて、インパクトがあったんでしょうね(笑)。
中川:
本を読むと、高校2年生のときに坪田先生の塾へ行くわけだけど、そのときの学力が小学校4年生くらいだったと言うことでしたよね。
小林:
本当にそうでした。私が通っていた高校は、勉強ができる子たちとできない子たちの差が激しく、高校2年のときに学力別に分類されるのですがわたしは通称「バカクラス」のビリでした。
何しろ、坪田先生のところへ通うようになって、日本史の勉強を始めたとき、「聖徳太子」を「せいとくたこ」と読んで笑われるようなレベルでしたから。太子だから太った女の子なのかな、こんな名前をつけられてかわいそうだなと、本気で思っていました(笑)。
それに、「Hi, Mike!」って英文を、読んでみなさいと言われたとき、私は、これも本気で「ヒー、ミケ」と読みましたから(笑)。
中川:
「しょうとくたこ」に「ヒー、ミケ!」ですか。それはすごいや。
でも、先生は怒ったり、あきれたりしなかったんですね
小林:
そうなんですよ。逆に、「君はなんてユニークな発想をするんだ」とか「良かった。ローマ字は読めるんだ」というように、面白がってくれるわけです。それで、この人は、今まで出会った先生たちとはまったく違うタイプの人だと思って、「この先生だったら、もっと喋ってみたいな」と思い塾に通うようになりました。
中川:
それにしても、高校2年生の夏の段階で小学校4年生くらいの学力しかないのに、慶応大学を目指すというは、普通は考えられませんよね。
小林:
ほとんどの学生が、最初に「東大目指してみる?」ときかれると、「無理です。自分はこのくらいの大学に受かればいいです」と自分で自分のハードルを下げたり、絶対無理だと決めつけてしまいがちです。しかし私は、「東大は興味がない」と若干上目線で断りました。イケメンがいなさそう、という理由で。じゃあ慶応は?となったわけです。先生から、「君みたいな子が慶応とか行ったら、チョー面白くない?」と言われて、「おお、確かに! 超イケメンいそう! さやかが慶応とか、超ウケる!」というノリで志望校は決まりました(笑)。
中川:
そういう女の子が、1年半で慶応に受かってしまうわけですからね。いったい、どんなことがあったのだろうかと、興味津々で、本を読み進めましたよ。
小林:
あの本は、先生が出版しようと思って書いたものじゃないんです。
私が慶応を卒業した頃に、小学校の頃から不登校だった妹が上智大学に入学し、これまた落ちこぼれの弟が家庭をもつというおめでたいことが重なりました。それで、母が、家族ぐるみでお世話になっていた坪田先生に長いお礼のメールを送ったんですね。
坪田先生がおっしゃるには、そのメールの返答を考えていたら、私との思い出がよみがえってきたらしくて、それをワードにしたためて、母に送り、ネットにも載せたんですよ。
そしたら、次の日に、その投稿があちこちに拡散されて、一気に2万人くらいのアクセスがあったそうです。それで、次の日には、出版社からオファーがきたと言うことでした。
だれも、本とか映画にしようなどとは思ってなかったことです。だから、逆に受け入れられたのかもしれませんね。

<後略>

(2017年2月2日 東京・ 日比谷 松本楼にて 構成/ 小原田泰久)

著書の紹介

「ダメ親と呼ばれても3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話」 小林 さやか 共著 KADOKAWA

ナシル(なしる)さん

本名は、名城奈々。沖縄県那覇市生まれ。青山学院大学卒。シンガーソングライター。2000年、妹と「737(ななみな)」というユニットを結成、都内でのライブを中心に活動を始める。2006年に活動を休止し、2007年からナシルとしてソロ活動を開始。三線を使ったライブを中心に、司会、ラジオ沖縄やFM世田谷、かわさきFMなどでのパーソナリティを精力的にこなしている。2016年BIGINの島袋優プロデュースによる「君という未来へ/うつぐみ」でメジャーデビュー。
http://nacil.net/

『大好きな沖縄から世界へ!元気と笑顔を音楽で届ける。』

真氣光の施術をしてもらったらとても体が軽くなり大ファンに

中川:
ナシルさんは、シンガーソングライターとして活躍されていますが、最近、真氣光のことを知って、すごく気に入ってくださっているそうですね。
ナシル:
あるところで、こちらの会社のスタッフの方とお知り合いになって、とても疲れていたときでしたが、私にいろいろなものを使って氣の施術をしてくださったんですね。そしたら、気持ちが良くて、体も軽くなって、これはすごいものと出あったと、大ファンになってしまいました。今日も、会長のセッションを受けて、いろいろと不思議な体験をさせていただきました。これからも、もっと勉強させていただきます。とても興味深いです。
中川:
ありがとうございます。氣というのは目に見えないエネルギーなので、言葉で説明してもよくわからないんですね。まずは体験してもらうことですね。
ナシルさんは、氣に敏感な方だと思います。確か、沖縄出身ですよね。
ナシル:
そうなんです。高校まで沖縄の那覇市で育って、それから東京に出てきました。
中川:
沖縄は、ユタと呼ばれるシャーマンがいたり、御う嶽たきという神聖な場所があったり、とてもスピリチュアルな土地柄だと思います。そこで生まれて育った人や、沖縄に魅かれる人たちは、スピリチュアルな感性をもった人が多いですよね。きっと、ナシルさんもそういう方で、だからこそ、真氣光と縁があったし、体験してみてすぐに、もっと知りたいという気持ちになられたのだと思いますよ。
ナシル:
そう言われればそういう気もします。今日、会長がご先祖様のお話をしてくださいましたが、私は、もともとはあまりご先祖様のことは考えていませんでした。ナシルという名前で活動を始めたのが10年ほど前になりますが、そのあたりから、ご先祖様がいるからこそ、自分がここにいて、さらに先につながっていくというのを、感じるようになりました。もっとも、私は結婚していないので、先はないかもしれませんが(笑)、甥っ子や姪っ子がいるので、そちらから未来につながっていくなと思うと、何とも言えない不思議さというか、感動というか、神秘なものを感じています。
中川:
もちろん、血のつながりというのもありますが、魂のレベルで、先祖は子孫に影響を与えることがよくあります。結婚しなくても先につながっていきます(笑)。
恨みとか執着をもって死んでしまうと、後々、子孫にいい影響を及ぼさない存在になってしまうかもしれません。満足して感謝して亡くなると、子孫を応援する魂になることができると思います。
ナシル:
そうですか。結婚しなくてもつながるんですね。安心しました(笑)。でも、子孫に悪い影響を与える魂にならないように、気をつけないといけませんね。
会長に差し上げたCDの中にも入っている「那覇空港」という曲は、私が作詞作曲したものです。20年以上前に沖縄から東京に出るとき、家族が見送りに来てくれていたのですが、あの当時は、家族のありがたみとか、まったくわかっていませんでした。でも、7年ほど前に、自分の出発点は那覇空港で、その旅立ちに家族が立ち会ってくれていたのだと気づいて、何の感謝もなく出てきたことが悔やまれました。それで、この曲を作りました。
中川:
何か、ご先祖様からのメッセージがあったのかもしれませんね。そういう気持ちになられたのは、とても大切なことだと思います。ご先祖様にも光がいって、ナシルさんの活動を応援してくれる方も増えているのではないでしょうか。
ナシルさんは、高校を出てから東京の大学へ進学していますが、そのころからプロのミュージシャンになりたいと思っていたのですか?
ナシル:
それが、そんなことは思ってもみませんでした(笑)。大学を出たら、テレビのレポーターになって、世界中を回りたいというのが夢でした。「世界ふしぎ発見!」のミステリーハンターになれば、ただで世界が回れるじゃないですか(笑)。ただどころかギャラまでもらえちゃいますよね。東京の大学を出ればレポーターになれると信じて、東京へ出てきました。
中川:
それがどうしてまた、ミュージシャンの道に?
ナシル:
沖縄から東京へ出てくる人のほとんどは、どこかに沖縄の人がいないか、一生懸命に探すんですね。私も、やっぱり沖縄の人が恋しくてたまりませんでした。
一番手っ取り早く沖縄の人を見つける方法というのは、沖縄料理の店で働くことです。私も、沖縄料理店でアルバイトをすることにしました。沖縄出身の人とか、沖縄の好きな人が集まってきますから、話をしていても楽しいし、とても気持ちが落ち着きます。
そしたら、その店に、大手のレコード会社のプロデューサーが飲みに来ていました。その方が、「君は話が面白いから、音楽イベントの司会でもやったらどうだ」って、声をかけてくれました。

<後略>

村上 貴仁(むらかみ たかひと)さん

1970年札幌市生まれ。97年より洞爺にて農業を始める。2005年11月10日、4歳の長男・大地君を突然亡くす体験をきっかけに命について真剣に考えるようになる。現在は、「佐々木ファーム」を運営しながら、「生きることは食べること、食べることは命をいただくこと」をコンセプトに、「一般社団法人大地が教えてくれたこと」で「ありがとう農法」の普及に取り組んでいる。著書に「大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡」がある。
佐々木ファーム http://sasakifarm.net/
一般社団法人 大地が教えてくれたことhttp://daichi-guide.com

『すべての命にありがとうと感謝する「ありがとう農法」の奇跡』

4歳の息子が突然旅立って行ったのをきっかけに大きな変化が

中川:
村上さんは、北海道の洞爺湖で佐々木ファームという農園を経営されていますが、もともとは札幌の出身だそうですね。実は、私も札幌生まれなんですよ。
村上:
そうですか。何歳くらいまで札幌におられたのですか。
中川:
大学を出てから就職で東京へ出て来ました。ちょうどそのころ、父も東京で仕事をするようになったので、結果的に、一家で東京へ来ることになりましたね。
私は、もともとエンジニアだったのですが、ひょんなことから父がやっていた氣の世界に入って、もう20年を超えました。こんな人生になるとは、東京へ来たころには想像もしていませんでしたが、村上さんは、私以上に思ってもみないような流れの中で、大変なご苦労をされながらも、すごい世界にたどり着いていると思います。村上さんが去年出された『大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡』(サンマーク出版)という本を読ませていただいて、自分の身に起こってくることは、すべて必然なのだということを、改めて感じることができました。
2005年に、4歳の息子さん、大地君が、突然亡くなりましたよね。お子さんを亡くすということは何よりも辛いことだと思います。でも、あとになって振り返ると、彼が亡くなったことで、大きな変化が起こってきましたよね。今、村上さんがやっておられる「ありがとう農法」ができたのも、大地君が亡くなったのがきっかけになっています。
大地君は亡くなることで、ご両親に、とても重大な使命があることを伝えてくれたように感じました。それが、彼の役割だったかもしれません。
本を読むと、大地君は、自分が亡くなることを、知っていたような行動をとっていますよね。
村上:
そうなんですよ。大地は、亡くなることでも、そして亡くなったあとも、私たちにいろいろなことを教えてくれているように感じてなりません。
彼が亡くなったのは、2005年の11 月10日でした。それまで、大地は健康優良児で、病気などしたことがありませんでした。でも、あの日は、保育園から帰ってくると、ちょっと疲れたから寝るねとベッドに入りました。2時間くらいしたら熱が出てきました。それで、頭を冷やしたりして看病をしていたのですが、その2時間後くらいには、心臓が止まっていました。
大地は、10月の上旬から、いつもと違うことをやり始めました。まずは、1日1個ずつ、壊れたおもちゃを私のところへ持ってきて、直してほしいと言うんですね。ちょうど、秋の農作業が忙しい時期で、それどころじゃなかったのですが、言い出したらきかない子だったので、仕方なく直してあげていました。それが毎日続きました。亡くなったあと、部屋を片付けに入ったら、直した順番に、おもちゃが並べてありましたね。
おもちゃのあとはDVDでした。機関車トーマスとか戦隊ものが大好きで、DVDがたくさんありました。そのDVDを、私と一緒に見たいと言うのです。一日一本、亡くなるまでに、持っているのを全部見ましたね。
おじいちゃん、おばあちゃんが、何か買ってあげるといっても、いらないって言うようになりました。それまでは、喜んで買ってもらっていたのに、どうしたのかなと思っていました。ランドセルを買ってあげるという話になったときも、欲しがらないのです。
中川:
自分が間もなく死んでしまうことがわかっていたんでしょうかね。
村上:
そうかもしれないと思います。ほかにも、自由帳を細かく切って、そこに数字の1を書いて横に0をたくさん並べて、お札を作っていましたね。まだ、字も書けないし、数字だってよくわかってなかったと思いますよ。
当時、うちは経営が厳しくて、借金もたくさんありました。もちろん、そんなことは大地には一言も言っていません。なのに、お札を一日に何枚か作って、何十枚かになると赤いテープで束ねて札束にして、それがいくつかできると、封筒を作って札束を入れて、妻に「これでうちはお金持ちだからね。ぼくがお金をいっぱい作ったからね。大丈夫だよ、お母ちゃん」って言って渡すんですよ。4歳ですから、お金のこともわからないし、札束なんて見たこともないのに。
何だったんでしょうね。今はお金がなくても絶対にうまくいくからというメッセージだったのでしょうかね。
今でも、その札束はとってあります。

<後略>

(2017年1月13日 東京・大森カンファレンスセンターにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡」 村上 貴仁 著 (サンマーク出版)

望月 龍平(もちづき りゅうへい)さん

脚本・演出家。18 歳で劇団四季に入団。「CATS 」「ライオンキング」「マンマ・ミーア」「美女と野獣」「ウエストサイド物語」「エクウス」などに出演。2008年に退団後、俳優のみならず、演出家、脚本家、プロデューサーとして活躍。「t wel ve 」「鏡の法則」「文七元結」「君よ 生きて」といった話題作を世に出す。現在、株式会社蒼龍舎代表取締役、NPO法人OFF OFF BROADWAY JAPAN代表などを務める。

『演劇を通して、シベリアでつらい思いをした人に光を送る』

メインキャストとして2500もの舞台に立った劇団四季をやめて独立

中川:
急な対談のお願いにもかかわらず、お引き受けいただきましてありがとうございました。
シベリア抑留の芝居を上演されるとお聞きして、ぜひ、お話をうかがいたいと思い、お願いしました。と言うのも、私の母は、終戦のとき樺太にいて、命からがら内地へ逃げてきましたが、そのとき、母の父がソ連の捕虜になって、シベリアへ送られたということがあったからです。祖父は、ロシア語ができたこともあって、比較的早く釈放されたようです。私が生まれたときには、もう亡くなっていましたので、詳しいことは何もわかりませんが、とても気になっていました。
望月さんとお会いできるというのも、何かのご縁だろうと思います。
望月:
こちらこそ、声をかけてくださってありがとうございます。
ぼくも、ひょんなことからシベリア抑留のことを芝居にすることになって、いろいろと調べましたが、ものすごく感じることが多くて、人生観が大きく変わりました。
中川:
シベリア抑留のお芝居の話は、後からお聞きするとして、まずは、望月さんご自身のことを教えてください。劇団四季で俳優をやっておられたとか。それも、メインキャストとして活躍されていたとお聞きしています。
望月:
劇団四季には、高校卒業と同時に入団し、12年間所属していました。2500回以上の舞台に出演させていただきました。
キャリアを積めば積むほど自分の未熟さを知り、いつももっと成長したいという気持ちで演劇に取り組んできました。とても充実した毎日でした。
キャリアを積むにつれ、俳優としてだけではなく、みんなをまとめるという役割を担うようになってきて、自分の中に、演出家としてやっていきたいという思いが芽生えてきました。
初めは、劇団四季の中で演出家になって、恩返しをしたいと思っていましたが、劇団も大変動の時期でしたし、自分自身も、劇団の中にずっといては成長できないと感じるようになってきました。それで、演出家として、外で技術を磨き、いずれ劇団にもお返しをしたいという気持ちが膨らんできて、退団をすることに決めました。それが2008年ですね。
中川:
でも、劇団四季というと、なかなか入れる劇団ではありませんよね。メインキャストという地位も得ているわけですから、所属していれば安泰ということもあったにもかかわらず、それでも退団するというのは、かなりの覚悟があってのことだと思います。退団後はどうされたのですか?
望月:
1年間、ロンドンに勉強に行きました。ロンドンは、シェークスピアに代表されるように古くから演劇が盛んな場所ですから、学ぶことがたくさんあると思ったからです。
実際、すごく勉強になった1年でした。常に古きものと新しいものの葛藤があって、シェークスピアも、繰り返し繰り返し上演されていたのですが、演出の仕方、表現の仕方が、その都度、違っていました。現代的なアレンジがあったりして、どこかに挑戦が見られました。とても刺激的でした。
それに、海外へ行くと、日本の良さが見えてきます。日本人の精神性とか、外から見ると、すごいものをもっているのに、自分もそれに気づいてなかったし、多くの日本人が気づかずにいます。
実は、ぼくが小さいころ、母が気功をやっていましてね。お腹が痛いときには、よくお腹に手を当ててくれましたよ。だから、中川会長にお会いしてお話をうかがうのをとても楽しみにしていました。
中川:
そうですか。じゃあ、氣のこともよくわかっていらっしゃるんですね。ロンドンと言えば、私も帯津先生に案内していただいて、スピリチュアルヒーリングの研修に参加したことがあります。スピリチュアルという面では、イギリスというのは、とても伝統のある国ですよね。
私は、演劇も氣の世界だと思っています。観客の方々と俳優さんとの間に、目に見えないエネルギーの交換がありますよね。それに、ある役を演じるというのも、多分に氣と関係があるかなと思っています。
望月さんは、そんなことを感じたことはないですか。
望月:
ぼくは、自分が舞台に立つときは、一番後ろの席までグルンと空気を循環させるイメージをもちます。繊細なシーンのときは、真空の状態で、スッとエネルギーを届ける感じかな。ぼくのイメージの世界だけですが。劇団四季をやめてから、40人50人の場所でも何度かやりました。その空気の動かし方と、劇団四季のころの1000人の小屋での動かし方は違うということを感じました。40人とか50人の場所では、目の前にお客さんがいるので、最初は緊張しましたね。

<後略>

(2016年12月19日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

マンリオ カデロ(まんりお かでろ)さん

イタリアのシエナで生まれる。高校卒業後、パリのソルボンヌ大学に留学。フランス文学、諸外国後、語源学を習得。1975年に来日、ジャーナリストとしても活躍。1989年に駐日サンマリノ共和国の領事として任命される。2002年駐日サンマリノ共和国特命全権大使を任命され、2011年に、駐日大使全体の代表である「駐日外交団長」に就任。著書に「だから日本は世界から尊敬される」(小学館新書)最新刊(2016年11月発売)では「世界で一番他人(ひと)にやさしい国・日本」(加瀬英明先生との共著、祥伝社新書)などがある。

『神道の考え方、生き方が、世界を平和にし、環境を守る』

戦争はだれも勝たない。みんなが負ける。いいことはひとつもない

中川:
大使の「だから日本は世界から尊敬される」(小学館新書)を読ませていただいて、大使は日本が大好きで、日本や日本人をとても高く評価してくださっていることがうれしくて、ぜひ、お話をうかがいたいと思いました。
日本人は、どうしても、自分の国に対してネガティブなところに目が向きがちです。大使の本を読むと、「ああ、こういういいところがあったのだ」と、これまでとは違った目で自分の国を見ることができます。
カデロ:
ありがとうございます。少年時代、父の書斎に日本の歴史について書かれた本があって、それが日本への興味の始まりでした。パリの大学へ行ったのですが、そこで日本に関する本を読んだり、クラスメイトの日本人からいろいろと話を聞いて、日本は神秘的でとてもすばらしい国だと、興味が膨らんでいきました。
中川:
ところで、カデロ大使は、サンマリノ共和国の駐日大使でいらっしゃいますが、サンマリノという国について、少し、ご紹介していただけますか。
カデロ:
わかりました。サンマリノは、イタリアの中部、アドリア海側ですから、ローマの反対側に位置する世界で5番目に小さな国です。国は小さいですが、歴史は古くて、世界最古の共和国です。
面積は東京の世田谷区くらい(約62㎢)で、人口は約3万6000人。首都は、サンマリノ市です。
平和と自由を重んじる国で、軍隊をもっていないのが大きな特徴です。
サンマリノが誇っている特産物はワインです。その品質は国が保証しています。すごくおいしいので、会長も召し上がってください。私は、昼食のときから飲んでいますよ(笑)。
もともとは、農業、酪農、石切りが産業の中心でしたが、最近は、軽工業や観光の割合も大きくなってきています。
サンマリノ市の歴史地区とティターノ山は、ユネスコの世界文化遺産に登録されていて、世界各国からたくさんの観光客が来られています。
そんな説明でサンマリノがどういうところか、少しはイメージできますでしょうか。
中川:
ありがとうございます。美しい街並みと自然が浮かんできました。平和と自由を重んじるというのがいいですね。軍隊がないのですね。
カデロ:
今、世界のあちこちで戦争が行われています。私は、戦争をやっていいことなどひとつもないと思っています。
戦争はだれも勝たない。みんな負けです。
アメリカ人は、自分たちはイラク戦争で勝ったというけど、そんなの大間違いですよ。戦争をやっていた9年間、毎日400万ドル(土日祭日含めて)、日本円にして約4億円も使っています。そして、7500人ものアメリカ人の若者が亡くなっています。
それでは戦争に勝ったと言えません。勝つというのは、お金も使わないし、だれも死なないことです。
中川:
そんなにお金がかかっているのですね。もっと有効に使ってほしいですね。
カデロ:
戦争をやめれば貧乏人はいなくなります。一番お金がかかるのが武器。アメリカが武器の65%を製造しています。あとはロシアとか中国とか日本とかです。
武器を作るのをやめて、平和のためにお金は使うべきです。
世界204ヶ国のうち、軍隊がないのは27ヶ国です。とっても少ないです。でも、軍隊のない国々は、みんなハッピーです。お金を平和のために使っているから。
中川:
日本もそうなってくれるといいのですが。
カデロ:
日本も、ものすごく軍事費を使っていますよ。世界第8位。あれがなければ、国民がどれだけ豊かになるか。世界一住みやすい国になりますよ。みんなお金持ちになりますよ(笑)。
中川:
自国を防衛するために軍備をもとうという流れがありますが、私にはかえって、まわりを警戒させてしまって、関係が悪化するように思うのですが。
カデロ:
その通りですね。日本は、第二次世界大戦でもっともつらい思いをした国です。戦後に日本は、平和を強く望んできたことを、多くの人が知っています。なのに、軍事費を増大させていくと、日本が戦争の準備をしていると勘違いしてしまいます。
私は、あえて軍事費を削って、それを社会保障に回す勇気を持ってほしいと思います。日本はそれができる国だと思います。

<後略>

坂本 光司(さかもと こうじ)さん

法政大学大学院政策創造研究科教授。人を大切にする経営学会会長。ほかに、経済産業省やJICAなど、国や自治体、団体の委員を務める。専門は、中小企業経営論、地域経済論、障がい者雇用論。著書は「日本で一番大切にしたい会社」シリーズ1~5(あさ出版)、「経営者の手帳」(あさ出版)、「さらば価格競争」(商業界)など多数。

『企業は社会のもの。最大の使命は、人を幸せにすること』

良くない会社は、社内の空気がギスギスしている

中川:
坂本先生の書かれた「日本でいちばん大切にしたい会社」という本はたくさんの人に読まれていて、今年は、パート5が出版されました。私も、この本を読ませていただきましたが、こんな会社があるんだとびっくりしましたし、会社のあり方に対する考え方が変わってきましたね。
会社の良し悪しというのは、数字で判断されがちですが、そうじゃないということがよくわかりました。
坂本:
ありがとうございます。私は、これまでに7500社以上の会社を、自分の足と目を使って調査してきました。いい会社か悪い会社かは、その会社へ行って、社内の空気を吸ってみればわかります。それは、小さな子どもでも感じられます。
すべての答えは現場にあると、私はいつも言っています。
中川:
会社の空気ですか。ギスギスしているところもあれば、和やかなところもあるでしょうからね。それは、大事なことだと思いますね。
坂本:
いくら取り繕っても、社員の顔つきや目つきや言葉遣いでわかりますね。長年、やっていますから。良くない会社は、だいたい、空気がギスギスしていますね。
学生たちでもわかります。この間、一緒にある会社を訪問したら、学生が、「この会社は空気が違う。娑婆の空気ではなく、天国の空気だ」と言っていました。
中川:
天国みたいな空気の会社だと、社員の人たちも、伸び伸びと働いているんでしょうね。先生の会社を評価する基準は、従来のものとはまったく違うわけですが、どうして先生は、会社のあり方について興味をもたれるようになったのですか?
坂本:
私の最初の仕事は、中小企業を回って、景況調査をする仕事でしたが、あちこちの会社を回っているうちに、中小企業がとても厳しい現実にさらされていることを知りました。
たとえば、「親会社からコストダウンを迫られて困っている」とか「今までやってきた仕事のラインを中国に移すと言われて、仕事がなくなってしまった」といったことに、経営者は頭を悩ませていました。いろいろと経営者の相談に乗ったり、相談に乗る限りは知識も必要ですから、専門家に話を聞いたり、業績のいい中小企業を訪ねて話を聞いたり、本を読んだりと、勉強をしているうちに、中小企業が抱える本質的な問題が見えてきて、会社にとって何が大切なのかということを考えるようになりました。
当時、普通の調査員はだいたい2社くらいしか回っていませんでしたが、私は、6〜8社くらいは訪問していましたね。それで、ずいぶんと煙たがられましたけどね。
中川:
企業というのは、業績を上げたり、ライバル企業を打ち負かしてシェアを大きくしようとすることが目的となりがちですが、先生はそうじゃないとおっしゃっていますね。
坂本:
企業はだれのものかと問われたら、私は、迷うことなく、社会みんなのものと言います。企業は、社会のシステムの中で機能しているし、社会の空気を吸っているし、ゴミを捨てれば処理をしてくれるし、仕入れ先もあるし、銀行はお金を貸してくれるし、お客さんもいる。社会とは切り離せません。ですから、社会のために役に立つのは当然じゃないですか。社会のために生きるのが企業です。
私の経営学から言えば、業績を上げるとかライバル企業に勝つというのは、結果としての現象でしかなくて、企業経営の最大、最高の使命は、人を幸せにすることですよ。人を幸せにするために、どういう手を打つか、それを考えるのが経営者の仕事です。
中川:
そう言われてみると、当たり前のことのように聞こえますが、実際には、企業の活動が人の幸せにつながっていないのが現状なのでしょうね。
坂本:
教え子が、日本で一番大きな会社について本を書くというので、コメントを求めてきました。「あの会社は、ホワイト企業ですか、ブラック企業ですか?」という質問を彼がしてきましたので、私はすぐに、「今やっていることを見ると、ブラックとしか言えない」と答えました。その会社は、好況だろうが不況だろうが、年に2回のコストダウンをしています。下請けを泣かせているわけです。幸せになりたい人を無視した経営をしているから、ブラックだと答えたのです。
自分の利益ばかりを考えた経営をしていると、大手企業を取り巻く環境は厳しくなってくると思いますよ。下請けが一斉に反旗を翻したときどうしますか。
現実、すでに、反旗を翻しているじゃないですか。廃業している中小企業が多発しています。そうすると、部品を作るところがなくなってしまいます。大企業が自分のところでやると言っても、なかなかできないことだし、できたとしても、従業員の賃金は高いですから、部品の原価もそれだけ上がってしまって国際競争ができなくなってしまいます。
だから、私は、仕入れ先を大切にしなさいと言っているんです。

<後略>

(2016年9月30日 東京・新宿区の法政大学にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「日本で一番大切にしたい会社」 坂本 光司 著 (あさ出版)

辰巳 玲子(たつみ れいこ)さん

1957年神戸生まれ。1988年映画『ホピの予言』と宮田雪監督に出会って、アメリカでの日本山妙法寺による平和行進や、祈りの大陸横断ランニング、日本縦断ランニングに参加。その後宮田監督とともに、ランド・アンド・ライフの活動に関わる。95年から宮田監督の看病と介護に専心するも、ニューヨークテロとイラク戦争開戦を機に、『ホピの予言2004年版』を制作し活動を再開する。現在、群馬県をベースに、平和や環境問題などに関するさまざまな活動を行っている。

『ホピに導かれ「浄化の日」のメッセージを伝える』

再生のための浄化でなければいけないのに破壊の恐れも

中川:
辰巳さんとお会いするのは20年ぶりくらいになりますかね。確か、ご主人の宮田雪きよし監督が、帯津先生の病院に入院していたころだから。
辰巳:
そうですね。もう20年になりますね。宮田が倒れたのが1995年3月3日、50歳の誕生日でした。アメリカのカリフォルニアで新しい映画の編集をしていたときでした。
中川:
宮田監督は、「ホピの予言」というすばらしい映画を残されていて、下田で行われていた真氣光研修講座でも、毎回、お話をしてくださっていました。月刊ハイゲンキでも「ホピの予言」のこと、連載してくださっていました。
それに、帯津先生や先代と一緒にホピの村へ行ったこともありましたよね。
辰巳:
本当にいろいろとお世話になりました。宮田も先代の会長も亡くなってしまいましたが、こうやって声をかけてくださって、ありがとうございます。
中川:
「ホピの予言」は、以前にも拝見しましたが、改めてDVDで見せてもらって、30年も前に、よくぞこういう映画を作ってくださったと感心しました。
宮田監督が亡くなられたあとも上映会を続けておられる辰巳さんの活動もすばらしいと思います。
ホピというのは、アメリカインディアンの部族のひとつで、そこには、ずっと昔から、とても重要なメッセージが言い伝えられていて、それが、今の時代にはとても重要な意味をもつという内容の映画でした。
真氣光では、先代の時代から、意識を変えて生きないと、これから大変なことになるよと言ってきましたが、まさに、意識や生き方を変えることの大切さを、あの映画では訴えていますね。
DVDでは、2004年に辰巳さんが長老のマーティン・ゲスリスウマ氏にインタビューした映像がプラスされていますね。
辰巳:
「浄化の時代を迎えて」というタイトルで、25分ほどのインタビューを、「ホピの予言」に追加してDVD化しました。ちょうど、2001年にニューヨークでテロがあって、2003年にイラク戦争が始まって、こは第三次世界大戦の引き金になるのではという危機感をもちました。
第三次世界大戦が始まれば、必ず核兵器が使われます。そうなると、いよいよ地球は大変なことになります。
ホピの予言では「浄化の日」と言われていていますが、浄化はあくまでも再生のための過程でないといけません。しかし、核戦争になってしまったら、再生ではなくて、破壊になってしまいます。
私たちは、再生のための浄化を潜り抜けないといけないのに、このままだと破壊になってしまうと危惧して、マーティンさんにインタビューをしました。
中川:
創造主は、人間たちに、「こういうふうに生きなさい」という道を示してくれたのだけれども、あるときから物質を神様とする道を人が歩き始めて、そのことによって、さまざまな歪みが生まれ、それが戦争とか天災という形で表面に出てきているというお話でしたよね。
そして、今の時代は、物質を神様とする道から、創造主が示してくれた本来の道に戻ろうとする人が増えてきているということで、意識を変えていける人が増えてくれば、大きな犠牲を払うことなく、浄化の日を潜り抜けられるわけですよね。
今は、私たちの将来を決めるような大切な時期だと、私は映画を見て感じました。
辰巳:
そうですね。まだまだ経済が優先される危険な時代であることには変わりませんが、若い人たちの中には、これまでとは違うライフスタイルで生きている人が増えてきました。
伝統的な技術に興味をもって、それを学んで自分でもやってみようという人も出てきています。経済や物質だけを追いかけないで、心とか自然を大切にする磨かれた魂が出てきているのかなと、私は感じています。
中川:
私もそう思います。確実に、新しいライフスタイルを求めている人が増えてきています。これまでの価値観にとらわれないで、もっと広い視野で行動しようという動きが出てきているのを感じます。
多くの人が、何かに気づき始めているという気がしますね。そういう動きを加速させるためにも、目に見えない世界のことを、もっと多くの人に学んでいただきたいと、私はそう思って活動をしています。

<後略>

(2016年9月28日 群馬県高崎市のオーガニックファーマーズファクトリーBIOSKにて 構成/小原田泰久)

鶴田 能史(つるた たかふみ)さん

1981年千葉県君津市生まれ。文化服装学院デザイン専攻を卒業。㈱ヒロココシノに入社。コシノヒロコに師事する。2015年1月テンボデザイン事務所を設立。3月には、東京コレクションに初参加。障がい者のモデルを起用する。10月の東京コレクションでは、平和へのメッセージを発表し、国内外で注目された。

『すべての人が分け隔てなくおしゃれを楽しめる世の中に』

平和をテーマに思い切った演出で話題になった2015年のショー

中川:
今回は、ファッションという、この対談では、これまであまりご縁がなかった業界の、鶴田能史さんにお話をうかがいます。ファッションデザイナーというお仕事をされているわけですが、ただのおしゃれではなくて、社会性の高い活動をされていることにとても興味を持ちました。
今は、10月19日に行われる大きなファッションショーの準備でお忙しい中、時間をとっていただきました。よろしくお願いします。
鶴田:
こちらこそ、よろしくお願いします。私のやっていることは、人と違い過ぎるので、「なぜ、ファッションデザイナーがそんなことをするの?」という反応が多いのですが、会長には興味をもっていただけて、とても光栄です。
中川:
10月に参加される「東京コレクション」は、ファッションに興味のある人ならだれでも知っているような大きなショーだそうですね。
鶴田:
ファッションショーは、パリコレクション(パリコレ)、ロンドンコレクション、ミラノコレクション、ニューヨークコレクションを、世界4大コレクションと言いますが、東京はそれに次ぐ位置づけです。東京コレクションで注目されて、世界に羽ばたいていったブランドはたくさんあります。
それだけに、実績のあるブランドしか参加できませんが、うちは「テンボ」というブランドを立ち上げて1年も立たないうちに、東京コレクションデビューを果たしました。
中川:
2015年は、世界に衝撃を与えるようなショーだったとお聞きしていますが。
鶴田:
「世の中全ての人へ」というのがうちのコンセプトで、障がいの有無や年齢、国籍を問わずに、ありとあらゆる人に、ファッションを届けていきたいと考えています。平和や人権についても、踏み込んだメッセージを出していますので、自ずと、ほかのブランドとは内容が違ってきます。
プロのファッションモデルだけでなくて、一般の人もモデルとして使っていますし、車椅子の人、重度障がいの人、目の不自由な人にも、おしゃれをしてもらって、ショーに出てもらっています。
中川:
去年は、「平和」をテーマに、思い切った演出をされたそうですね。
鶴田:
去年は戦後70年という区切りでしたから、ファッションショーを通して、恒久平和を願う思いを伝えたいと思いました。
オープニングでは、原爆投下の映像をバックに、アメリカをイメージできる服を着た2人の男性が登場しました。小柄な人と太った男性。広島に落とされた原爆はリトルボーイ、長崎に落とされた原爆はファットマンと呼ばれていたので、そんな組み合わせにしました。
そのあと、プロのモデル、一般の人、障がいのある人、重病の人・・・いろいろな人が着飾ってランウェイと呼ばれている舞台を歩きました。そして、最後に、1万羽の折鶴で作ったドレスを着た黒人の女性が登場しました。原爆の子の像に捧げられた折鶴をいただいて作ったものです。そこには、原発の問題も含めて、核のない平和な世界への願い、そして、人種差別をなくしたいという思いを込めています。
中川:
きっと、ファッションショーとしては前代未聞だったのではないでしょうか。反響はいかがでしたか?
鶴田:
うちのショーは、観客席の一番前に、車椅子が並びます。そんなファッションショーはないですよ。健常とか障がいとか関係なく、みなさん、感動してくださって、涙を流しながら見てくださっていた方もいます。
マスコミでは、いくつもの新聞が大きく取り上げてくれました。日刊スポーツという新聞では、全面を使って紹介してくれました。自分としては当たり前のことをやっているのですが、だれもやる人がいなかったので、すごい話題になりましたね。障がい者にスポットを当てるデザイナーが一流の舞台に現れたと、海外でも高く評価されました。

<後略>

(2016年8月23日 東京・武蔵野市のテンボデザイン事務所にて 構成/小原田泰久)

李 久惟(りー じょ)さん

1975年台湾高雄生まれ。2000年東京外語大卒。卒業後台湾新幹線プロジェクトに従事。専門は語学教育、歴史、比較文化、国際関係論、異文化コミュニケーション。拓殖大学客員教授。日本李登輝友の会理事。主な著書に『本当は語学が得意な日本人』(フォレスト出版、2013年)、『日本人に隠された《真実の台湾史》』(ヒカルランド、2015年)がある。

『本人の利他の心が世界を救うと信じています』

台湾と日本。地震が交互に起こり、お互いに助け合ってきた

中川:
はじめまして。李さんは、まわりからはジョーさんと呼ばれているそうなので、私もジョーさんと呼ばせていただきます。
ジョーさんが書かれた「日本人に隠された《真実の台湾史》」(ヒカルランド)という本を読ませていただいて、日本と台湾とがとても深い絆で結ばれていることがよくわかりました。特に、台湾の方々が、日本をとても大切にしてくれているのを知って、胸が熱くなりました。
2011年の東日本大震災でも、台湾は、世界からの義捐金の約3分の1に当たる200億円を寄付してくださいました。今年4月の熊本の震災でも、2月には台湾で地震があったばかりなのに、すぐに3億円もの義捐金を集めて、届けてくださいました。ありがたいことです。
今日は、ジョーさんに、台湾と日本の、あまり知られてないすばらしい関係についてお話ししていただこうと思います。ジョーさんは、15言語以上を自由に話せるマルチリンガルです。日本語もとてもお上手です。
李:
今日は、このような場を設けていただいてありがとうございます。
熊本の地震から何ヶ月もたっていますが、余震があったり、大雨があったりして、なかなか復旧が進んでいません。現地の方は、とてもつらい思いをしていると思います。心より、お見舞い申し上げたいと思います。私も、5月の終わりに、ボランティア活動で、友人と一緒に被災地をお訪ねしました。
地震の話をすると、台湾では1999年9月21日に、2000人以上が亡くなる大地震がありました。このとき、日本の救援隊が真っ先に駆け付けてくれましたし、義捐金もたくさん届けてくれました。台湾の人たちは、そのことにとても感謝しています。
ですから、2011年の東日本大震災でお返しをするのは当たり前のことでした。日本の人たちは、そのことにとても感謝してくださいました。
今年の2月には台湾南部で大地震がありました。このときには、日本が台湾を助けてくれました。そして、そのあとの熊本です。
私たち台湾人は、助け合いの精神をとても大切にしています。そして、それを教えてくれたのが日本人です。
中川:
地震でたくさんの方が被災して、悲しいこともいっぱいあったけれども、そこでさまざまな感動的なドラマも生まれました。ジョーさんのおっしゃるように、台湾と日本で交互に大地震が起こって、そのたびにお互いが助け合ったというのも、すばらしい話ですよね。ジョーさんからお聞きして、改めて、台湾と日本はいい関係なのだなと思いました。
李:
日本人には、伝統的に利他の精神があります。その精神が、かつてはアジア一の貧しい地域だった台湾を豊かにしてくれました。台湾の歴史の中で、それは奇跡的なことだったと思います。
そういう過去の事実を見直す中で、私は日本人の利他の心が世界を救うと考えるようになってきました。
中川:
そう言っていただけるのは、日本人としてとてもうれしいことです。でも、ジョーさんは、どういうことから、そう考えるようになったのでしょうか。歴史的な事実というのは、どういったことだったのでしょうか。
李:
大航海時代、スペインやオランダに統治されるまで、台湾には、先住民たちが30以上の部族に分かれて暮らしていました。部族同士は、言葉も違っていましたので、あまり交流もありませんでした。
ヨーロッパ人は、先住民を銃で脅してプランテーションを始めました。そのために、大陸南部から数千人の漢民族を連れてきました。先住民との混血が起こりました。八百万の神を信じる先住民にキリスト教を布教し、考え方にも変化が起こりました。このときを境に、台湾は大きく変わっていきました。
その後、清に支配され、中華的な台湾が作られていきます。清は、先住民の部族同士を戦わせるという分割統治というのをやりました。そのせいで、部族間の関係がとても悪くなりました。そして、1895年から50年間、日本が治めることになります。
私の曽祖父は、日本が統治する前と後をよく知っています。その違いを、私の祖父や父親に話して聞かせたそうです。祖父や祖母が若いころは、日本時代でした。日本が去った、戦後の台湾も知っています。
祖父は、こんなことをよく言っていました。「日本時代は、台湾にとって光が9割以上、闇が1割以下。比較して、オランダ時代、清国の時代、初期の国民党時代は、闇が9割、光がわずか1割だった」
私たちの世代は、学校で反日教育を受けました。しかし、祖父母が話してくれることと大きく違っているのです。どちらが本当だろうと混乱しました。
でも、日本時代がいかにすばらしかったかを語る祖父母の真剣な姿の方を、私は信じることができました。そして、冷静に当時の状況を考えたり、歴史の資料を調べていくうち、祖父母の言っていたことが本当だと確信するようになりました。

<後略>

(2016年7月26日 東京・日比谷公園の松本楼にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

台湾《日本語世代》がどうしても今に伝え遺したい 日本人に隠された《真実の台湾史》 韓国は「嫌日」なのに台湾はなぜここまで「親日」なのか? (Knock‐the‐Knowing)
李久惟(ジョー・リー)(著) 出版社:ヒカルランド

川嶋 朗(かわしま あきら)さん

1957年東京都生まれ。北海道大学医学部卒業後、東京女子医大へ。93年〜95年、ハーバード大学へ留学。2003年より、東京女子医大附属青山女性・自然医療研究所自然医療部門責任者。2014年より、東京有明医療大学保健医療学部鍼灸学会教授、一般財団法人東京医学研究所附属クリニック自然医療部門担当。著書「医者が教える行ってはいけない病院、間違いだらけの健康法」(洋泉社)「病気で死なない生き方33 普通の医師には教えられない」(講談社)ほか多数。

『幸せを感じながら亡くなっていける医療を実現したい』

真氣光研修講座に参加し、氣功師になってすぐに治療に使った

中川:
ごぶさたしています。先生とお会いするのは何年ぶりでしょうかね。相変わらず、若々しいですね。そうそう、いつだったか、飛行機でばったりお会いしましたね。鹿児島からの帰りだったかな。通路を挟んで隣が先生で、びっくりしましたよ。
川嶋:
そうでした。ホント、びっくりでしたよ。ご縁を感じました。会長は、大学の後輩だし。会長が入学されたとき、私は医学部の5年生だったかな。大学ではお会いすることはなかったですけどね。私も、来年は還暦ですよ。
中川:
還暦ですか。先輩に対して失礼ですが、先生には青年のイメージがずっとありますよね(笑)。還暦というと、ひとつの区切りですけど、先生の人生も波乱万丈ですね。
川嶋:
いろいろありましたね。前回の対談のときは、東京女子医大の青山自然医療クリニックでお会いしたかと思いますが、あそこも、何と言っていいか、突然、閉鎖すると言われてしまいましてね。
中川:
そうですか。自然医療とか統合医療というのは、大学病院ではなかなか理解されないでしょうからね。まして、先生は、その先頭を走っておられるわけですから、風当たりも強いでしょう。今は、東京有明医療大学の教授でいらっしゃいますよね。
川嶋:
鍼灸学科の教授をやっていますが、メインは、この東洋医学研究所附属クリニックの自然医療部門での診療ですね。
中川:
やはり、患者さんは難病の方が多いんでしょうね。
川嶋:
がんの患者さんが一番多いですね。それに精神的な疾患の方、アトピーやリウマチの方などですね。治療法のアドバイスもしますが、それよりも、患者さんには、なぜ病気になったのかということを考えてもらうようにしています。
中川:
病気になるのは理由がありますからね。生活面もそうだし、精神的なことも影響していますよね。そこに気づかないと、本当の解決にならないですね。
先生が真氣光研修講座に参加されたのは1995年でしたよね。先生は、大学時代に東洋医学を勉強するサークルを作られたわけですから、氣というものも身近に感じておられたとは思いますが、ハーバード大学に留学されて、西洋医学どっぷりの研究生活を送っていて、帰国してすぐに参加されたでしょ。
川嶋:
帰国してしばらくしたら、急に右の耳が聴こえなくなりました。突発性難聴ですね。耳鼻科の教授に、一生治りませんと言われて、なんて言い方がきついんだろうと思いました。それがきっかけで、医者へ行かなくてもできる治療法はないかと考えていたら、氣功があるじゃないかと思って、いろいろと調べてみました。でも、氣功とひと言で言っても、数え切れないほどたくさんの種類があって唖然としていました。
そしたら一人のナースが、腎センター所長の阿岸(鉄三)先生が氣功をやっていると教えてくれました。「うそだろ」と思ったのですが、見に行ったら、本当に患者さんに氣を送っているわけです。「教えてくださいよ」って頼んだら、「あなたにはわからないよ」と、あっさり言われてしまったので、「ぼくは、北大に東洋医学研究会を作ったんですよ」と言い返したら、それならここに連絡すればいいと言って、真氣光を紹介してくれたんです。
中川:
そうでしたか。それで、1995年7月に生駒で受講されたんですね。先代が、復帰したのが6月でしたから、いいタイミングでしたよね。
川嶋:
申し込んだのが3月ですから、お会いできないかもしれないなと思っていましたからね。
最初は、とんでもないところへ来たと思いましたよ(笑)。ちょうど、地下鉄サリン事件のすぐあとでしたから、オウムと同じなんじゃないかって、あせりましたよ。でも、工学博士の関英男先生の講義など、いいお話をたくさん聞けましたし、自分でも氣を感じることができて、身も心もきれいになっていく感じがして、とても気持ち良かったですね。氣を受けているうちに、歩けなかった人が歩き出したり、目が見えない人が見え出したり、奇跡的なことが目の前で起こって、あのときは9日間でしたが、驚きの連続でした。
おまけに、氣功師にも認定されましたしね。ただ、講義で氣の出し方なんて、全然、教えてもらってないのに、氣功師になってしまって、どうなっているのかと、きつねにつままれた感じでした(笑)。

<後略>

(2016年5月27日 東京・渋谷の一般財団法人東洋医学研究所附属クリニックにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「見えない力」で健康になる
川嶋 朗 (著) 出版社: サンマーク出版

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長を経て、82年埼玉県川越市に帯津三敬病院、2005年に東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。人間まるごとのホリスティックな医療を実践している。帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会名誉会長。著書は、「粋な生き方」(幻冬舎ルネッサンス)「ドクター帯津の健康暦365+1」(海竜社)「健康問答」(平凡社・五木寛之との共著)など多数。

『潔く、はりがあって、色っぽい。そんな粋な生き方で養生を極める』

先代とは上海で初めて会って、 被曝したインディアンの治療にも行った

中川:
先生、お久しぶりです。私が「氣―こころ、からだ、魂を満たす光のエネルギー」という本を出したときに、対談をお願いして以来ですから、7年ぶりくらいでしょうか。
帯津:
そんなになりますか。会長は、いくつになられました?
中川:
55歳です。先生は、うちの父親と同じで1936年生まれですから、80歳になられたんですよね。お元気ですね。
帯津:
そうそう、先代の中川先生とは1ヵ月くらい、私のほうが早く生まれているんです。いくつでしたか、お亡くなりになったのは。
中川:
59歳の12月でした。あと3ヶ月くらいで60歳だったのですが。
帯津:
じゃあ、20年以上もたつんですね。楽しい人でしたね
中川:
先生が最初に先代に会われたのは、中国だったですよね。
帯津:
1988年でしたね。上海で「国際氣功シンポジウム」というのが行われたんですね。第二回目で、日本からもたくさんの方が参加されていました。もう亡くなられましたが、ユング心理学の研究で有名だった湯浅泰雄先生とか、氣功とカイロをやっていたひげの吉見猪之助さん、山内式気功体操の山内直美さん、日本気功科学研究所の仲里誠穀さん、日本気功協会の山本政則さんとか、その後の日本の氣の世界をリードしていく面々がそろっていました。いずれも、個性豊かな人でしたね。
そんな中に混じっても、中川先生は目立っていました。何しろ、髪の毛が真っ白、白い顎ひげでしょ。氣が出る機械・ハイゲンキもインパクトありましたよ。
中川:
怪しさプンプンですよね(笑)
帯津:
いやあ、あれくらいがいいんですよ。これから氣を広めていかなければならないときですから、ああいう目立つ人を、神様は送り込んだんじゃないですか(笑)。
上海から帰って来て、中川先生から電話があって、一緒に飲もうということになりましてね。そのときに、夢に白髭の老人が出てきて、明日から氣を出せと言われたという話を聞きました。
下田の一週間の合宿も見学に行かせていただきました。
中川:
そうでしたね。それから、アメリカインディアンのホピ族が住む村へ同行してくださいましたよね。
帯津:
1994年の8月でしたね。一緒に行ってくれないかと言われて、ちょっと難しいかなと思ったのですが、当時から場のエネルギーにとても興味があって、インディアンが聖地だと崇めている場所はどんなエネルギーなのだろうと思って、スケジュールを調整して行きました。
飛行機の中では隣同士だったのでゆっくりと話ができました。機内食を、「おいしい、おいしい」と言って、本当に嬉しそうに食べている中川先生の姿に感心しました。ああ、この人は素直な人なんだなと、ますます好きになりましたね。
中川:
食べるのが好きな人でしたから。ホピの村へは、ウランの採掘で被曝した人たちの治療に行ったんですよね。
帯津:
そうなんですね。「ホピの予言」という映画を作った宮田雪きよし監督が案内してくれました。最初は、ホピ族やナバホ族の被曝者が入院している病院へ行ったのですが、治療の許可が出ませんでした。それで、個人の家を訪ねたり、コミュニティセンターのようなところで治療会をやったりしました。
コミュニティセンターのときは、最初は数人だったのですが、その人たちが家へ帰ってからまわりの人に話すものだから、次々と人が集まってきました。トラックの荷台に人がびっしりと乗ってやってきたのにはびっくりしました。
中川先生だけでは追いつかないので、私まで氣功治療をすることになりまして。それにしても、すごい人でした。
中川:
ホピの予言の岩絵も見られたんですよね。
帯津:
見てきました。ホピの大地のエネルギーはすごかったですね。あるところでは、写真を撮ろうとしたらシャッターが切れませんでした。私のカメラだけじゃなかったので、何かエネルギーの影響があったのかなと思います。
長老のマーティンさんの家も訪ねました。生のニンジンが出てきたので、それをかじりながら話を聞いたわけです。
なかなかできない体験をさせていただきました。
帰りの飛行機は、ビジネスクラスが予約してあったのですが、何かの都合で、ファーストクラスに乗せてもらいました。ホピの神様からのプレゼントだと、中川先生と楽しく話したのを覚えています。

<後略>

(2016年4月26日 埼玉県川越市の帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

粋な生き方 病気も不安も逃げていく「こだわらない」日々の心得
帯津 良一 著 
(幻冬舎ルネッサンス)

エバレット ブラウン(えばれっと ぶらうん)さん

アメリカ生まれ。88年から日本に永住。日本芸術文化国際センター芸術顧問、文化庁長官表彰(文化発信部門)被表彰者。epa通信社日本支局長を経て、2012年より日本文化を海外に紹介する企画に携わる。国内の媒体を始め、「ナショナル・ジオグラフィック」「GEO」「家庭画報INTERNATIONAL」などに広く作品を寄せる。著書に『俺たちのニッポン』、『日本力』(松岡正剛氏との共著)ほか多数。

『湿板(しっぱん)写真で日本の文化、日本人の感性を甦らせたい』

先代がマデレーネ島へ行ったときに写真を依頼されて同行した

中川:
エバレットさんは、先代と会っているんですよね。
ブラウン:
そうなんですよ。何度も。でも、会長ともお会いしていますよ。どこでだったかなあ。
中川:
あれ、そうでしたか。それは失礼しました。ひょっとして、先代を訪ねて来られたときに、ごあいさつしたのかな。
ブラウン:
そうだったかもしれません。いずれにせよ、ずいぶんと前の話です。先代の会長が亡くなられてから、20年くらいたちますか。楽しくてすてきな方でした。
中川:
亡くなったのが1995年の12月です。北極圏の小さな島で、先代と会ったということでしたが、偶然だったのですか?
ブラウン:
カナダのマデレーネ島というところでした。
会ったのは偶然じゃないですよ。グリーンピースのマイケル・ベイリーという人が、マデレーネ島を舞台に、環境保護のビデオを作るという企画を立てました。写真も必要だと言うので、ぼくが依頼を受けました。確か、静子さんという通訳の方が、ぼくをマイケルに紹介したのだと思います。静子さんとは、その前に何度かお会いしたことがありましたから。
中川:
撮影は氷の上でしたからね。
ブラウン:
あのころ、あざらしが漢方薬の原料として殺されていて、それを何とかしようとマイケルは考えたみたいです。氣功がもっと広がれば、病気を治療するために、動物たちの貴重な命を奪って漢方薬を作る必要はないということを、ビデオで訴えたかったみたいです。それで、先代にビデオへの出演を依頼したみたいです。
一週間くらい、その島に滞在しました。みんな防寒着を来て、大変な撮影でしたが、楽しい旅でした。先代から、氣の話をたくさんお聞きしました。とても面白かったですよ。すごく納得できました。
それに、あの島は、イセエビがたくさん取れるんです。ですから、イセエビが食べ放題。あれは、最高でした(笑)。
中川:
そうですか。きっと先代は喜んだでしょう。カニとかエビが大好きでしたから。
そう言えば、先代とあざらしの赤ちゃんの写真が、全日空の機内誌に載ったことがありましたが、あれを撮ってくれたのはエバレットさんだったんですね。
ブラウン:
そうです、そうです。ぼくが企画を持ち込んで掲載されることになりました。懐かしいですねえ。
今回、こうやって会長とお会いできたのは、『地球交響曲第八番』を見に行ったとき、ライターの小原田さんとばったりとお会いしたことがきっかけでした。
何か、導かれるような再会だと、とても感動しています。
中川:
私も、先代とご縁のあった方と、こうやってお会いできるのは、すごく縁を感じます。きっと、あちらの世界では、先代も喜んでいることと思います。
ところで、エバレットさんが撮っている写真を拝見したのですが、これ、なんて説明すればいいのでしょうか、深い味わいのある写真ですね。100年も前の写真のように見えるのですが。
ブラウン:
ありがとうございます。湿板写真と言います。1851年にイギリスで発明されて、日本にも数年後の享保年間に入ってきています。
幕末から明治に撮られたもので、よく目にする写真がありますよ。坂本龍馬です。あれは、湿板写真で撮られています。
中川:
わかります。確か、何十秒か動いてはいけないんですよね。
ブラウン:
そうです。20秒とか30秒とか、暗いところを撮るには15分くらいというのもあります。
中川:
湿板写真というのは、今はほとんど使われてないでしょうが、カメラがよくありましたね。
ブラウン:
レンズは、幕末から明治に使われていたものが手に入りました。カメラ本体は、どこにもなかったので、職人さんに頼んで作ってもらいました。
レンズは、もちろん性能は良くありませんが、逆に、性能が悪い分、ぼけ具合がすごくいいのです。ぼくたちが肉眼で物を見ているときというのは、これに近いんじゃないでしょうか。
中川:
意識して見ているところにだけピントが合って、その周辺部はぼけているというのが、私たちの物の見え方かもしれませんね。
ブラウン:
そうなんですよ。みなさん、ぼくの写真を見て、幻想的だと言いますが、実は、幻想的でも何でもなくて、ぼくたちがいつも見ている世界なんだということですね。
中川:
なるほど。今のカメラで撮った画像は、きれいすぎて、私たちが見ている景色じゃないんですね。
ブラウン:
そうです。あれが理想的な見え方なのかもしれませんが、何か、きれいすぎて違和感がありますよね。

<後略>

2016年4月5日 東京・有楽町 日本外国特派員協会 にて 構成/小原田泰久

スティーブ・ウィクバイヤ・ ラランス(すてぃぶん うぃくばいや ららんす)さん

ゲスト/スティーブ・ウィクバイヤ・ラランスさん
1958年生まれ。ジュエリーアーティスト。トゥーファストーンという石で鋳型を作り、そこに銀を流し込んで作るトゥーファキャスト技法を用いて作品つくりをしている。フープダンスショーでは、太鼓と歌を担当している。

ゲスト/ナコタ・ロマソフ・ラランスさん
1989年生まれ。フープダンサー、ヒップホップダンサー。フープダンスの世界大会で8度のチャンピオンになる第一人者。シルク・ドゥ・ソレイユでは、2013年からプリンシパルダンサー(主役のダンサー)を務めている。26歳。

『ホピ族と真氣光。不思議な縁でつながり、再び出会うことに』

フープダンスの世界チャンピオン。日本にもこの踊りを広めたい

中川:
今回は、真氣光の会員さんで、カナダのトロントにお住いの神田陽子さんが、とてもすてきなゲストの方をご紹介くださいました。ネイティブアメリカンのホピ族の血を引くスティーブ・ウィクバイヤ・ラランスさんと、息子さんのナコタ・ロマソフ・ラランスさんです。
スティーブさんは、インディアンジュエリーのアーティストで、ナコタさんは、フープダンスの世界チャンピオンだそうです。
まずは、神田さんに、彼らとのご縁をお聞きしましょうか。神田さんには、通訳もやっていただきます。よろしくお願いします。
神田:
今日はよろしくお願いします。スティーブさん、ナコタさんにご縁ができたのは、昨年の6月、会長がトロントへ来られましたが、その3週間ほどあとでした。あのとき、会長からたくさんの氣をいただいて、それ以来、すてきな方とお会いする機会がとても増えました。ありがとうございました。
会長は、シルク・ドゥ・ソレイユってご存知ですか?
中川:
名前は聞いたことあるなあ。サーカスでしたっけ。
神田:
モントリオールでできたエンターテインメントの集団で、今は、世界的にもすっかり有名になりました。日本でも、2月から全国各地で公演していますよ。
昨年、会長が帰国されたあと、ナコタさんが、シルク・ドゥ・ソレイユの主役を務めるダンサーとして、トロントにお越しになりました。ちょうど、うちの14歳の娘もシルク・ドゥ・ソレイユで踊ることになって、私は、付き添いで行きました。そこで、スティーブさん、ナコタさんの2人に、初めてお会いしました。
そのときに、彼らが日本でもフープダンスを広げたいと言っていたので、私も20年以上、カナダに住んでいますが、日本人ですから、何か役に立てるのではと、応援することにしたという経緯です。
中川:
そういうことでしたか。それで今回、日本の何ヶ所かで公演をするわけですが、神田さんがコーディネイトしたということでしたね。
神田:
私と、今日、同席してくださっている近藤明子さんとで、どうなることやらと思いながらやりました。近藤さんとは、カナダで知り合ったのですが、がんばって日本の知り合いに当たってくださって、いい感じで進んでいます。
ホピの神様が応援してくれているに違いないって話しているんですよ。
ところで、今日は、どういう形で対談をしましょうか。と言うのは、ナコタさんが、ぜひ会長にフープダンスを見ていただきたいというので、これから準備に入ります。別の部屋で着替えて、ストレッチとか、準備運動をします。ここには同席できないので、スティーブさんとお話ししていただくということでよろしいでしょうか。
中川:
ダンスを見せていただけるんですね。それはうれしいな。じゃあ、お話しはお父さんのスティーブさんにお聞きして、あとでナコタさんのダンスを見せていただくことにしましょうか。
では、いろいろとお聞きしていきますが、スティーブさんは、ホピ族だということですね。
スティーブ:
母親がホピ族です。私の名前のウィクヴァイヤというのは、ホピ族の名前です。息子のロマソフというのもそうです。私の母がつけました。英語で言うと、ハンサムスターという意味です。その名前のおかげか、フープダンスでは、スターになることができました。いい名前をもらいましたね。
中川:
実は、25年ほど前ですかね。ホピ族の長老のマーティン・ガスウィスーマ氏が、私の父を訪ねて来られました。私どもは、真氣光と言いまして、氣、つまり生命エネルギーですが、それをもっと世の中に知ってもらおうと活動しているのですが、父はその創始者でもあるんですね。(月刊ハイゲンキを見せて)これが、そのときの記事です。写真も出ています。ガスウィスーマさんのこと、ご存知ですかね。
スティーブ:
わかります、わかります。お会いしたことはありませんが、名前は聞いたことがあります。たぶん、私の家内の姪っ子が彼の孫と結婚しているはずです。この記事の写真を撮ってもいいですか? 間違いないか、確認してみますね。確か、ホトヴィラ村に住んでいたと思うのですが。
中川:
確か、そういう名前の村でした。ご縁がありますね。
スティーブ:
でも、どうしてガスウィスーマさんは、会長のお父さんを訪ねたのですか。

中川:
宮田雪(きよし)さんという映画監督が仲立ちしてくれました。宮田監督は、ホピ族の置かれた状況やメッセージを『ホピの予言』という映画にして世に伝えようとしていました。先代も、宮田監督の活動に賛同して、応援していたようです。ホピ族の村の周辺の地下には、たくさん埋まっていて、ホピ族の人やナバホ族の人たちが、その採掘に従事して、たくさんの人が被曝しました。そのウランが、日本に落とされた原爆の原料となりました。そのことはホピの予言でも言われていたそうです。
ウラン採掘に従事した人は、ほとんど無防備の状態で仕事をしていたため、しばらくすると体調が悪くなり、その後もずっと後遺症で苦しんでいる人がたくさんいました。国からの保証もないので、病院にもかかれません。そういう人たちを氣で治せないかというのが、彼らの依頼のひとつでした。
1994年夏には、先代とがん治療ではとても有名な帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長)とが、ホピの村へ行って、被曝した人たちの治療に当たりました。
スティーブ:
そういうことがあったのですね。それは知りませんでした。

<後略>

(2016年3月29日 日比谷松本楼4階真珠の間にて 構成/小原田泰久)

山田 火砂子(やまだ ひさこ)さん

東京生まれ。戦後、女性バンド「ウエスタン・ローズ」で活躍後、舞台女優をへて、映画プロデューサーに。実写版の「はだしのゲン」はじめ「春男の翔んだ空」「裸の大将放浪記」など数多くの映画を製作・公開してきた。監督としても、「石井のおとうさんありがとう」「筆子・その愛」で、児童福祉文化賞を受賞。最新作が「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」。三浦綾子原作の「母」の映画化を準備中。著書に「トマトが咲いた」がある。

『福祉と反戦の映画を通して、何が大切なのかを伝えていきたい』

孤児や障がい者のために一生を捧げた十次(じゅうじ)さんに筆子(ふでこ)さん

中川:
山田監督は、長年、映画作りにかかわってこらましたが、監督が撮られるのは、とても社会的なメッセージの強いものばかりです。今は、最新作の「山本慈昭(じしょう) 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」が、全国各地で上映されていて、さらには、「母 小林多喜二(たきじ)の母の物語」を準備されているそうですね。
両方とも、戦争をテーマにした作品ですが、もともとは福祉の関係の映画を撮られていましたよね。
山田:
もともとは夫の山田典吾(てんご)が監督をしていて、私は、プロデューサーをやれというので、お金集めから雑用から、いろいろなことをやってきました。
夫が亡くなってから、監督として映画を撮るようになりました。最初の作品が、「エンジェルがとんだ日」というアニメです。平成8年だから、もう20年も前の話になりますね。
長女が、知的な障がいをもって生まれましてね。今でこそ、障がい者への理解も深まっていますが、長女が生まれたのは昭和38年ですからね。当時は、あからさまな差別もあって、本当に大変でした。私も、娘に障がいがあると知ったときには、絶望して死のうと思いましたからね。
その娘が巻き起こしたいろいろな出来事なんかをアニメにしました。おかげさまで、とてもたくさんの方に見ていただけました。
それから、初めて撮った劇映画は、「石井のおとうさんありがとう 岡山孤児院石井十次の生涯」という作品です。平成16年ですね。
中川:
石井十次(じゅうじ)さんですか。どういう方なのですか?
山田:
まあ、すごい人ですよ。慶応元年(1865年)に、高鍋藩ですから、今の宮崎県で生まれ、日本で最初に孤児院を作った人で、「児童福祉の父」と呼ばれています。松平健さんが、石井十次役を引き受けてくださって、とてもいい映画になりました。
十次さんは、明治20年に、四国巡礼の帰り道の母親から男の子を預かることになって、それがきっかけで孤児救済を始めました。そのころは、社会福祉という制度はなかったですから、資金集めも容易じゃなかっただろうし、大変な苦労をします。
地震や洪水や凶作のたびに、親を亡くした子どもたちがあふれます。そういう子たちをできるだけ引き取って育てました。明治39年には、1200名もの孤児の面倒を見ていたようです。とても真似のできることではありません。尊敬しますよ。頭が下がりますね。
中川:
そういう方がいたんですね。世の中のために損得を考えずに動けるというのは、感動しますね。監督も、映画作りということでは、損得考えずに、社会が少しでも良くなるためのいい作品を作ろうと思っている点では同じじゃないですか。
山田:
いやいや、足もとにも及びませんよ。もっとも、お金で苦労しているという点では同じですけどね(笑)。
十次さんが「魂の孤児になることが一番の不幸」だと言い残しているんですね。まあ、お金はなくても、心豊かに生きないといけないですよ。今は、子育てを放棄したり、虐待をする親も多いじゃないですか。心が豊かじゃないねえ。魂の孤児になってしまっているんですねえ。
中川:
魂の孤児ですか。人と人とはつながり合って生きているのだけれども、そのつながりがなくなった状態の人たちですかねえ。世の中がギスギスしてきたのは、魂の孤児が増えたからかもしれません。
そのあと、石井筆子(ふでこ)さんという方の話を撮られていますね。
山田:
「筆子・その愛 天使のピアノ」という映画です。筆子さんは、文久元年(1861年)の生まれです。十次さんと同じ年代に生きた人ですね。
この方もすごいですね。滝乃川学園という、今でも国立市にありますが、知的障がい者の施設を創設した方です。
彼女のお父さんは男爵で、何不自由のない家に生まれました。頭も良くて美人で、将来有望な男性と結婚し、これほど恵まれた女性はいないというくらいの方でした。ところが、生まれた長女に知的な障がいがありました。さらには、次女が生後10ヶ月で亡くなり、三女は結核性脳膜炎になり、夫も亡くなるという苦難に次々と襲われ、どん底に突き落とされます。そんなときに出会ったのが、障がい児教育に人生をかけていた石井亮一という人でした。筆子さんは、周囲の反対にあいながらも、亮一さんと再婚し、2人で知的障がい者の施設を創設しました。
それからも、大変な思いをして、施設を切り盛りするのです。壮絶な一生ですね。この方にも頭が下がります。

<後略>

(2016年2月15日 東京・新宿の山田火砂子監督の自宅にて 構成/小原田泰久)

映画の紹介

「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」 監督 山田火砂子

吉藤 オリィ(よしふじ おりぃ)さん

本名・吉藤健太朗。奈良県葛城市出身。小学5年~中学3年まで不登校を経験。奈良県立王寺工業高校にて久保田憲司先生に師事、電動車椅子の新機構の発明により、国内最大の科学コンテストJSECにて文部科学大臣賞、ならびに世界最大の科学コンテストISEFにてgrandaward 3rd(銅賞)を受賞。高専にて人工知能を研究した後、早稲田大学にて2009年から孤独解消を目的とした分身ロボットの研究開発を独自のアプローチで取り組む。2012年、株式会社オリィ研究所を設立、代表取締役所長。http://www.orylab.com

『OriHime(オリヒメ)は、人と人をつないで孤独を癒す分身ロボット』

遠くにいる人も、遠隔操作によって、その場にいるように感じられる

中川:
これがOriHime(オリヒメ)ですね。表情は無機的な感じですが、何か、ほんわかと温かみが伝わってきますね。よくテレビのUFO番組とかで見る宇宙人のような顔と言えばいいのかなあ。そこに、小鳥の羽根のような手がついていて、面白いロボットですねえ。
吉藤:
ありがとうございます。コミュニケーションロボットと言われていますが、たとえば、ずっと入院していなければならない人がいたとして、自宅の居間に、このロボットを置いておけば、ベッドの上にいながら、家族団らんが楽しめるわけです。
中川:
パソコンとかiPhone、iPadで遠隔操作ができるんですね。額の部分にカメラがあって、首が動くので、自分がその場にいるように、右を見たり、左を見たりできますね。マイクロフォンやスピーカーも内蔵されていて会話もできるわけだ。
これはすごいですね。
吉藤:
手も、バンザイをしたり、「やあ」と片手を上げたり、「しまった」と頭を抱えたり、「あっち」と指を差したり、バタバタとしたりできます。
操作している人とOriHimeがいる場所とは遠く離れているのだけれども、まるでそこに本人がいるように感じてしまうはずです。
今、OriHimeが会長の方を見上げるようにしていますが、見られているって感じしませんか。
中川:
しますねえ。ついつい、あいさつをしてしまいますよ(笑)。何でしょうね、この感覚は。
吉藤:
OriHimeの表情は、能面をモチーフにしていて、存在感はしっかりあるけれども、人格はもたさないというデザインにしてあります。だから、笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えます。
たとえば、電話で親しい人と話しているときって、相手の顔を想像しながら会話しているじゃないですか。人間には想像力という能力があるので、私は、それを壊しちゃいけないと思っています。
OriHimeそのものがキャラクターではなくて、抜け殻として存在していて、そこに、操る人の魂が入ってくるって感じですかね。
中川:
なるほど。抜け殻という言い方は面白いですね。OriHimeが、かわいい顔をしていたり、漫画のキャラクターだったら、イメージが固定してしまうかもしれませんね。
吉藤:
実は、最初のころのOriHimeはかわいい犬型でした。それをある会社の社長が使ってくれました。社員旅行の直前にアキレス腱を切って入院しなければならなくなったので、自分は行けないけれど、自分の分身としてOriHimeを社員に連れて行ってもらおうと思ったみたいです。
宴会のときには、社長の席に犬型のOriHimeが座って、乾杯の音頭も取ったと言っていました。社長は病院にいたのですが、まるでみんなと一緒に旅行に行ったような感じがしたと、とても喜んでくれました。
その社長が、私に言いました。「すごくいいんだけど、ひとつだけ問題がある。あれ以来、社員がぼくを犬扱いするんだ」というわけですよ(笑)。そのときに、そうか、かわいくしてしまうと、その人ではなくなってしまうと思って、露骨なかわいさをOriHimeにはもたさないようにしました。
特定の人とか動物をイメージしないようなデザインにした結果が、今のOriHimeです。
中川:
特定できない分、だれにでもなれるということですからね。きっと、OriHimeと一緒にいて話をしていると、この能面の表情が、遠くで操作している人の顔になってくるんでしょうね。
吉藤:
そうですね。私は、演劇とかパントマイムも学んできました。と言うのは、演劇や映画は現実ではないのに、見ている人をまるで現実のように思わせることだし、パントマイムは、何もないのに「ある」と思わせる技術じゃないですか。アニメーションもそうですよね。所詮は二次元の絵なのに、それが見る人の中では人格をもって、生き生きと動いているわけです。
そして、作り話なのに、そこに感情移入をして泣いたり笑ったり怒ったりするじゃないですか。
OriHimeも同じで、そこにはいない人なのに、まるでいるように思わせるようなロボットです。病院のベッドにいる人も、自分がまるで家の居間にいるように感じられるし、家族の人も、すぐそばにその人がいるような錯覚をもつわけです。両者が錯覚すれば、それはもう現実なんですね。
映画を見て、主人公がピンチの場面ではハラハラしたり、感動して泣いてしまっているのと同じです。

<後略>

(2016年1月19日 東京都三鷹市のオリィ研究所にて 構成/小原田泰久)

中澤 宗幸(なかざわ むねゆき)さん

1940年兵庫県生まれ。8歳のときに、父親からヴァイオリン作りを教えてもらったことがきっかけでヴァイオリンに興味をもつ。ヨーロッパでヴァイオリンの作り方や修復の技術を本格的に学び、1980年に東京に工房を開く。現在、東京、長野県上田市、イタリアのクレモナに工房をもち、名器の修復や鑑定、調整を手がけている。2015年「地球交響曲第八番」に出演。著書に「ストラディバリウスの真実と嘘」(世界文化社)「いのちのヴァイオリン」(ポプラ社)などがある。

『木には命がある。ヴァイオリンにも魂があり意志がある』

どん底の生活のとき、晩ごはんのあと、父がヴァイオリンを弾いてくれた

中川:
中澤さんは、「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の最新作、第八番に出演されていますね。私どもは、この映画の龍村仁監督とはとても縁が深く、いろいろとお世話になっています。監督の弟さんの龍村修先生がヨガをやっておられて、私どもが毎月開催している真氣光研修講座の講師をお願いしています。そのご縁もあって、監督も、この対談に何度か出てくださいました。
中澤:
そうですか。私は、監督からこの映画の話をいただき、今回の作品も含めて、どんな方々が出演されているのかを知って、とても私なんかと、最初はご辞退しました。でも、出させてもらって、本当に良かったと感謝しています。そういう意味で、2015年というのは、私にとっては、特別な年でした。
縁と言えば、面白いことに、この映画のもとになった「ガイア理論」の創始者で、映画にも出演している(第四番)ジェームズ・ラブロック博士には、20数年前にお会いしたことがあったのです。そのときにお聞きした、博士のガイア理論には感銘を受けました。実生活では、そのことを意識することはなかったのですが、龍村監督の映画に出ることになって、改めて、博士の理論に感動したときのことを思い出しました。不思議なご縁だなと思いますね。
中川:
そうでしたか。中澤さんは、確か兵庫県にお生まれで、ヴァイオリンとかかわったのはお父さんの影響だそうですね。
中澤:
兵庫県の真ん中あたりですね。生野(いくの)鉱山のあったあたりです。山の中です。
父は、山林業を営んでいました。植林をし、下草を刈り、間伐をし、伐採、製材までやっていました。ですから、私は、木とともに育ったようなものです。
父は、特別な勉強をしたわけではなかったでしょうが、自然の中で暮らして、そこでいろいろなことを学んだのではないでしょうか。父の話からは、とても大きな影響を受けましたね。
私は、8人兄弟の5番目ですが、上に4人の姉がいて、父にしてみれば、待ちに待った男の子だったので、とてもかわいがってくれました。
幼いころは、割合、豊かに過ごせていました。しかし、私が8歳くらいのときに、知人の保証人になって、山林も田畑も家も、すべて失い、バラックみたいなところでみじめに暮らさなければならなくなりました。
それまでの我が家は、お客さんがいつも来ていましたが、貧しくなったら、とたんに人が散っていきました。それが、父にとってはとてもショックで、絶望して一家心中をしようとまで、思いつめたようです。
そんなどん底の時期に、父が、いつも晩ご飯を食べたあとに、ヴァイオリンを弾いてくれました。どこで手に入れたのでしょうね。商売で、神戸や大阪へよく行っていましたから、そこで譲ってもらったのかもしれませんね。
中川:
つらい生活の中で、ヴァイオリンの音が希望の光になったわけですね。
中澤:
そうだったですね。上手だったかどうかはわかりません。曲になってなかったかもしれません。でも、私にとって、あんなにもすばらしい演奏はなかったですよ。今でも、ずっと記憶に残っています。
父は、ヴァイオリンを弾いたあと、いろいろと話をしてくれました。
印象にのこっている3つの言葉があります。
一つ目は、『宗幸なあ、お金は大事にしろよ。でも、お金に動かされるような人間になったらあかんでえ』。二つ目は、『どんなことがあっても、音楽はもってないとあかんぞ』。そして、三つ目が『生きていることは美しいことなんだぞ』です。
お金で苦労し、音楽に救われた父です。自分が自殺まで考えたからこそ生きることのすばらしさを感じ、それを子どもに伝えたかったのだろうと思いますね。
父親の声が、今でも聞こえてきますよ。
お金とか土地といった財産はのこさなかったけど、金銭に代えられない宝物をのこしてくれました。

<後略>

(2015年12月22日 東京都渋谷区の日本ヴァイオリンにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「いのちのヴァイオリン」 中澤宗幸 著(ポプラ社)

舩後 靖彦(ふなご やすひこ)さん

1957年岐阜県生まれ。10歳より千葉で育つ。大学卒業後、プロミュージシャンを目指すも断念。時計や宝石の専門商社の営業マンとしてバブル時代を駆け抜ける。1999年、41歳の夏、手のしびれを感じ、翌年春、ALSと診断される。その後、麻痺は全身に及び、人工呼吸器装着に至る。現在、株式会社アース副社長、湘南工科大学テクニカルアドバイザー、立正大学人文科学研究所客員研究員、上智大学非常勤講師。著書に「しあわせの王様」(共著 小学館)「三つ子になった雲」(日本地域社会研究所)などがある。

『絶望から希望へ。命ある限り道は開かれる』

41歳のときにALSを発症。体も動かず、言葉も出ない中でも大活躍

中川:
今回は、いつもとは違った形の対談になります。舩後靖彦さんにお話をうかがうのですが、舩後さんは、1999年にALS(筋委縮性側索硬化)という難病を発症されました。41歳のときでした。ALSというのは、原因はわからないのですが、運動ニューロン(運動神経細胞)が侵される進行性の病気で、日本には8000人以上の患者さんがおられるようです。舩後さんも、現在は寝たきりで、人工呼吸器をつけ、言葉も発することができない状態です。そういう状況であっても、舩後さんは、大学などで講演をしたり、執筆をしたり、介護関連の企業の副社長をやっていたりされています。
舩後さんは、パソコンを使ってコミュニケーションをとられています。ベッドの前にはパソコンがあって、舩後さんは、口の中に入れた管を噛むことで、センサーを経由してパソコンを操作しています。ディスプレイ上には、50音の文字盤が出ています。文字盤の上でカーソルを動かして文字を特定し、文章を作っていきます。その文章を音声に変換することで、会話が可能になっているのです。
舩後さんが副社長をつとめる株式会社アースの佐さ塚づかみさ子社長も同席してくださっていますので、佐塚さんにも、お話をうかがいながら、対談を進めていきたいと思っています。舩後さん、佐塚さん、よろしくお願いします。
舩後:
はじめまして。舩後です。よろしくお願いします。
中川:
舩後さんと佐塚さんとは、どういうきっかけで出会われたのですか?
佐塚:
私が説明しますね。舩後さんがうちの会社へ来て3年半になります。私は、平成21年に訪問看護事業所を立ち上げて、いずれは施設を建てたいという計画をしていました。施設を作る上で私が考えていたのは、利用者さんと介護する側の溝をなくしたいということでした。介護の現場では、いろいろなことがあります。できるだけ、利用者さんの目線で介護ができる施設にしたいと思っていましたが、具体的にどうするかということになると、なかなかいい案が出てきませんでした。
そのころに、ある施設を出て一人暮らしをすることになった舩後さんのところに、訪問看護でうかがうことになりました。舩後さんのことは何も知らないし、ただの一利用者でしかありませんでした。
ところが、通っているうちに、この人、いろいろなことを知っているなと感心するようになりました。そして、この人が、私の悩みを解決してくれるのではと思い始めて、介護される側の視点で、私たちを教育してもらおうと決めました。一緒に仕事をしてもらうには、中途半端ではいけないので、取締役に入ってもらうことにしました。そうすれば、スタッフの人たちも話を聞いてくれるだろうと思ったからです。
中川:
確か、舩後さんは病気になる前は、バリバリの企業戦士だったですよね。営業でもトップの成績だったそうですね。
佐塚:
そうなんですよ。だから、私たちのような介護の業界は、彼にしてみれば、生ぬるく感じたのでしょうね。仲良しこよしでいいのか。これで会社はやっていけるのか。そんな疑問をぶつけられると、こちらは返答できなくなります。仲良くやっていればいいと思っていたけれど、組織として、企業としてやっていくには、それじゃいけないと言われました。
遠慮なく言ってくれたのが良かったんだなと思います。おかげさまで、今は100人ほどの職員がいて、みなさん、生き生きと働いています。
中川:
なるほど。経営という視点もあり、介護される側という視点もあって、まさに佐塚さんがやりたいことにぴったりの人が、たまたま訪問看護で行ったところにいたわけですね。舩後さんも、自分の体験が生かせるし、運命の出会いですよね。
佐塚:
舩後さんと出会ったことで、健常者とか障がい者とか関係なく、同じ立場として付き合うという体験をさせていただき、考え方も、ずいぶんと変わりました。舩後さんと会うまでは、差別だらけの人間だったと思います。まだまだ今でもそういうことはあるとは思いますけどね。
運営会議を、舩後さんの家でやったり、月に一度は、舩後さんにも朝礼に出ていただいて、訓示を代読させてもらったりします。いいお話をしてくれるんですね。入居者にアンケートをとった方がいいというアイデアを出してくれたこともありました。どこも、そんなことやっていませんから、みなさんに感心されました。うちの会社にとって、なくてはならない存在です。
中川:
<後略>

(2015年11月25日 千葉県松戸市 舩後靖彦さんのご自宅にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「三つ子になった雲」 舩後 靖彦 著 (日本地域社会研究所)

山本 博文(やまもと ひろふみ)さん

1957年岡山県生まれ。東京大学史料編纂所教授。日本近世史を専門として、武家社会や武士道精神など、江戸時代に関する研究で知られる。NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」シリーズの時代考証など、多くのメディアで活躍。92年、「江戸お留守居役の日記」で第40回日本エッセイイスト・クラブ賞受賞。著書「武士はなぜ腹を切るのか」(幻冬舎)「武士道の名著 日本人の精神史」(中公新書)ほか多数。

『武士の生き方、死に方。先人の思いを感じながら歴史を学ぶ』

江戸時代は切腹が 一番多かった。腹を切って責任を取るのが武士の生き方

中川:
私は、中学や高校のとき、あまり歴史は好きではありませんでした。でも、氣の世界とかかわるようになって、昔の人たちの思いが、今の人たちに大きな影響を与えているのではと思うようになり、歴史に興味を持ち始めました。
ですから、歴史の専門家である山本先生にお会いできるのは、とても楽しみにしていました。学校で習う歴史は、何年にどんなことがあったというような話ばかりで、あれだと、本当の歴史の面白さというのはわからないと思うのですが。
山本:
年号と事項を覚えていって、それを順番に並べるというのは、つまらないですよね。歴史の中で起こったさまざまな出来事を、ひとつのドラマとか物語としてとらえていけば、もっとみなさん、歴史に興味をもってくれると思うのですが。細かく専門的に研究していくとなると、事件の関係性や展開を見たり、情報の流れを知るために、いつその事件が起こったかということがわからないといけませんから、年号も重要になってきます。でも、最初に年号から入ると嫌になる人も多いでしょうね。
中川:
歴史を楽しく学べるようにということで、先生が監修されているまんがが出ていますよね。あれはいいなと思います。
山本:
ビリギャルって、話題になっていますよね。「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」という長いタイトルの本が評判になって、映画にもなりました。この本に、勉強ができない子は、まんがで勉強すればできるようになると書いてある影響で、学習まんがが爆発的に売れています。カドカワから出た学習シリーズ『日本の歴史』の監修を頼まれて、担当することになったということなんですよ。
中川:
そうでしたか。テレビにも出演されたり、大活躍の先生ですが、今、日本人がどこか自信をなくしてしまったり、日本という国の先行きがとても不透明だったりする中で、歴史を学んでいくということは大切だなと思います。
山本:
その通りですね。日本人と中国人、あるいは韓国人、アメリカ人とは、価値観や考え方が違うわけですね。なぜ、違うのか。長い歴史の中で形成されてきたものがあるからですね。どうして日本人はこういう考え方をするようになったか。それは、歴史を紐解かないとわからないですよ。
中川:
私は、先生の書かれた「武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった」という本を興味深く読ませていただきました。
日本人には、腹を切る文化があった。つまり、死んで責任を取るということですよね。切腹というのは、日本独自のもので、武士として生きる上では、常に腹を切る覚悟をして生きてきたわけです。とても強烈な生き方で、今の日本人にも影響を与えているのではと、思えてならないんですね。
先生のご専門は江戸時代ということですが、江戸時代にも切腹はあったんですね。
山本:
江戸時代が、一番、腹を切った時代ですね。それ以前の中世は、戦いに負けたときに、最後に腹を切るというものでした。江戸時代になって、戦いがなくなって、制度が確立して、武士はいろいろな役割を担うことになります。役人としての仕事が多くなり、役割がうまくいかなかったときには、腹を切らないといけないこともありました。今なら辞職して責任を取るわけですが、当時の武士は腹を切ることで責任を取りました。
中川:
そうでしたか。戦いで負けたり、犯罪を犯したときだけ腹を切るのかと思っていました。当時の武士は、命がけで仕事をしていたわけですね。失敗が許されないということですね。
山本:
そうでしたか。戦いで負けたり、犯罪を犯したときだけ腹を切るのかと思っていました。当時の武士は、命がけで仕事をしていたわけですね。失敗が許されないということですね。けないということです。しかし、その弊害として、失敗を次に生かすということができないんですね。それは、近代になっても続いていて、旧日本軍でも、戦いに敗れると、そのまま指揮官がピストル自殺をしてしまいます。そうやって責任を取ります。それは潔いことではありますが、失敗から学ぶことはたくさんあるはずです。なぜ失敗したかを究明して次に生かすのが大切なのに、死んでしまったら、それができないですね。
日本人には、今でも、そういう傾向はありますね。

<後略>

(2015年10月21日 東京都文京区の東京大学史料編纂所にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった」 山本博文 著 (幻冬舎)

山田 義帰(やまだ よしき)さん

1954年生まれ兵庫県出身。奈良県立医科大学卒業。1991年真氣光研修講座を受講。1994年に大和郡山市で 慈恵クリニックを開設、2003年にJR関西線・大和小泉駅前に移転し、ホリスティックな医療に取り組む。ホリスティックスピリチュアル医学研究会代表理事、日本ホリスティック医学協会理事。著書「ガンと共に生きる!~ホリスティック医療のすべて~」(文芸社)ほか多数。
http://www.jikei-clinic.com/index.html

『スピリチュアルをベースに医師とヒーラーが手を組む医療を』

医療現場で氣功を使いたくて、ハイゲンキを買って下田にも参加

中川:
山田先生のことは、西本真司先生(西本クリニック院長)から、よくお聞きしているのですが、お会いするのは初めてですね。もっと早くにごあいさつにくればよかったのですが、本当に失礼しました。
山田:
こちらこそ、お会いしたいと思いながら、なかなか実現しませんでした。先代にはとてもお世話になりました。私が知ったときは、中川氣功と言っていましたが、今は、真氣光と言っているんですね。ずいぶんと前の話になりますね。新しい会長は、どういう活動をされているのか、ずっと気にはなっていたのですが。
中川:
会社で調べたら、山田先生がハイゲンキを買われたのは1990年で、翌91年には下田で行われていた真氣光研修講座(当時の医療氣功師養成講座)に参加されていますね。
山田:
そうですね。ハイゲンキも東京へ学会に行った帰りに寄って、その場で購入しました。合宿は2月4日に研修所に入っていると思います。確か、うちの末っ子が生まれた日でしたから。家内に怒られるのを覚悟して合宿に参加しました。(笑)
中川:
お子さんが生まれた日ですか。
山田:
当時、私は大学病院に勤務していまして、1週間の休みというのはなかなかとれなかったんですね。しかし、その年だったか、冬休みにスキーに行きたい医局員の希望を聞いてくれて、2週間の夏休みを2回にわけてとれるようになったのです。私は夏休みを1週間だけにして、2月の合宿に合わせて1週間の休みをとる計画をしていたので、思い切って参加してみました。
中川:
そうでしたか。先生は外科医ですよね。それで、どうして氣功に興味をもたれたのですか?
山田:
西洋医学でのがんの治療というのは、手術で切除したり、放射線で焼いたり、抗がん剤でがん細胞を殺すというものです。しかし、そういう治療は、患者さんにけっこうダメージを与えるんですね。治療現場では、治療が進むに従って、どんどんと弱っていく患者さんを毎日のように見るわけですよ。何とかならないかと、ずっと思っていました。自然治癒力を高めてがんを治す方法はないのかと、そんなことばかり考えていましたね。
中川:
当時の下田の講座ではびっくりされたことがたくさんあったのではないですか?
山田:
いろいろな現象が起こっていましたからね。私も体が大きく揺れたりして驚きましたが、霊障って言うんですか、氣を受けると、体が動くばかりじゃなくて、唸り声や大声を上げたり、あちこち走り回ったりする人がいっぱいいてね。びっくりしました。でも、あれを見せてもらったのが、今の活動にもつながっているんじゃないかと思ってますね。
それに、一週間で氣が出せるとうたっているのに、氣の出し方をまったく教えてくれない(笑)。ホンマに氣が出るようになるのかと、心配になったのを覚えていますよ。
でも、5日目の夜だったかなあ。やっと氣を出すトレーニングがあって、そのとき、私が氣を送ると、相手の人がグラグラと揺れたので、自分にも氣が出せたと、とてもうれしかったですね。
中川:
そうでしたよね。真氣光の場合は、テクニックではないんですね。先代も、氣は心だとよく言っていました。心の持ち方が変わればいい氣が出るんだということで、見えない世界のことについて、いろいろな角度から話を聞いて、意識を変えていくことで、氣が出るようになるという講座でしたね。
先生は、氣が出るようになって、すぐに医療現場で試されたんですよね。
山田:
自分でも氣が出せるとなると、うれしくて感動しましてね。家へ帰ったら、まずは家内や子どもで試しました。でも、本当にやりたいのは医療現場での治療ですから、そういうチャンスをうかがっていました。最初は、アルバイト先の病院に運ばれてきた手と足を痛めた主婦でした。息子さんに突き飛ばされたらしいのですが、レントゲンを撮っても骨には異常がありませんでした。でも、痛くてたまらない。普通は、痛み止めの注射と湿布で終わりですが、ふと氣功をやってみようと思って、患者さんの足に手をかざしました。患者さんには氣功のことは何も言いませんでした。5分くらいしたでしょうか。「痛みがとれてきた」って言うですね。それでうれしくなって、手にも氣功をやったら、こちらも痛みが軽くなりました。やったーと思いましたよ(笑)

<後略>

(2015年9月17日 奈良 県大和郡山市の慈恵クリニックにて 構成 小原田泰久)

永田 浩三(ながた こうぞう)さん

1954年大阪生まれ。東北大学教育学部卒業。1977年NHKに入社。ドキュメンタリー、教養番組に携わり、ディレクター、プロデューサーとしてたくさんの番組を作ってきた。「芸術作品賞」「放送文化基金賞」「ギャラクシー賞」などを受賞し、「菊池寛賞」を共同受賞した。2009年にNHKを退社し、現在、武蔵大学社会学部教授。著書に「ベン・シャーンを追いかけて」(大月書店)「NHKと政治権力」(岩波現代文庫)「奄美の奇跡」(WAVE出版)などがある。

『非暴力、団結、若者たち。奄美の本土復帰運動から学ぶべきこと』

ある出会いから、奄美の本土復帰運動について調べることに

中川:
永田先生の書かれた「奄美の奇跡」という本を読ませていただきました。私どもは氣をテーマに活動をしていますが、会員さんの中には、奄美の方も多くいますし、スタッフにも奄美出身者がいます。私も、何度か奄美大島へは行っていまして、奄美には、とても興味をもっています。戦後、奄美はアメリカの支配下にあってとてもつらい思いをしていて、島民をあげての本土復帰の運動があったことは知っていましたが、先生のご著書を読ませていただいて、こんなドラマがあったんだと、改めて奄美への関心が深まりました。
永田:
それはありがとうございました。私も、ひょんなご縁から奄美のことを調べることになったのですが、何度も出かけて行って、たくさんの人にお会いして、とても大切なことを教えられました。
中川:
ひょんなご縁というのは、どういうものだったのでしょうか?
永田:
2010年に神戸で公共放送が抱える問題を考える集会がありました。私は、もともとNHKにいたということで、スピーカーとして登壇しましたが、そのあとで、井上邦子さんという方が私のところへお越しになって、興味深いお話をしてくださいました。これまで語られてきた奄美の本土復帰運動と、実際に運動にかかわった人たちとの実感の間には、ずれがあるので、もし、興味があったら、一緒に調べてみませんかということでした。
私は、奄美のことについてはあまり知らなかったので、勉強させてくださいとお話ししました。そしたら、井上さんは、たくさんの本や雑誌や新聞を送ってくださいました。それが、そもそもの始まりでした。
中川:
神戸ですか。神戸と奄美は関係が深いという話を聞いたことがありますが。
永田:
そうです。20年前の阪神大震災のとき、私は取材で、かなり長い間、神戸に滞在しました。被災された方に話を聞いて回ったのですが、神戸にはずいぶんと奄美出身の人が多いなと思ったのを覚えています。それで、いろいろと取材していくうち、被害のひどかった長田区に沖お きのえらぶ永良部島のコミュニティがあって、島の人たちが震災で大変な目にあいながらも、助け合っているというのを知りました。
第二次世界大戦後、奄美がアメリカの占領下にあった軍政時代の8年間、奄美の人たちは、密航で本土へやって来るわけですが、神戸は、密航の人たちの拠点だったということもわかってきました。当時、奄美の産業である、大島紬とか黒糖を現物でもってきて、神戸でお金に換えるという仕組みがあったんですね。井上さんとお話しして、そんなことを思い出しました。
中川:
こういう本を書かれるのは大変なエネルギーが必要だと思いますが、阪神大震災のときに奄美のコミュニティとの触れ合いがあったように、いろいろな偶然が重なって、導かれるように作品作りをするということがあるかと思います。
先生の本を読ませていただいて、冒頭に金かな十と丸まるという船のことが出てくるのですが、最後まで読んでびっくりしたのは、その船を作ったのが、何と先生のご実家だったということでした。ご実家は、造船所だったんですね。
奄美ととても縁の深い船が、先生ともとても縁が深かったわけで、何か私は因縁めいたものを感じてしまいます。
永田:
金十丸は、戦争中、奄美と本土を結ぶ船でした。たくさんの船が空襲とか機雷によって沈められたのに、金十丸だけは生き延びて、奄美と本土を結ぶ命綱になっていくんですよ。この船が、私の実家の藤永田造船所で作られたということがわかりました。そのことを知っていて奄美を調べたわけではなくて、後からわかったことでした。
金十丸は、奇跡の船とか海の貴婦人とか言われた船でした。奄美が本土に復帰した後は、沖縄とか台湾を結ぶ船として使われましたが、西表島で、台風をやりすごすために、港に入ろうとして座礁して、22年の短い生涯を終えてしまいました。その2年後に、うちの実家も三井造船という大会社に合併吸収されてなくなってしまいましたから、何ともシンボリックな船かなと思います。
中川:
意味ありげなエピソードですよ。先生が奄美に興味をもたれたのは、私がやっている氣の観点から言えば、何か目に見えないところで引き寄せられるものがあったのだと思いますね。
永田:
軍政下におかれて、奄美では人の行き来も、物の流れも制限されていました。人や物をつなぐ命綱が船だったんですね。私がやってきたテレビの仕事は、人と人とを映像で結ぶコミュニケーションの道具じゃないですか。もっと物理的に人と人とを結ぶのが船ですよね。奄美にも、船によって教科書とか本も運ばれていましたから、船がメディアの役割を果たしていたんだなと、改めて自分と金十丸の役割の共通点が浮かび上がってきたりもしました。

<後略>

(2015年8月21日 東京都練馬区の武蔵大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

奄美の奇跡「祖国復帰」若者たちの無血革命  永田 浩三 著  (WAVE出版)

汐見 稔幸(しおみ としゆき)さん

1947年大阪府生まれ。東京大学教育学部卒。同大学院博士課程修了。現在、白梅学園大学学長、東京大学名誉教授。専門は教育学、育児学。育児や保育を総合的な人間学と位置づけ、その総合化=学問化を自らの使命と考えている。主な著書に、「はじめて出会う育児の百科(共著、小学館)「小学生 学力を伸ばす 生きる力を育てる」(主婦の友社)「本当は怖い小学一年生」(ポプラ新書)などがある。

『目に見えない世界を感じる力を磨いていくことこそ教育の本質』

答えのわかっていない問題を解決する力が求められている

中川:
この対談では、さまざまな分野の方にお話をうかがっていますが、あまり教育関係の方をお迎えする機会はありませんでした。今回は、教育の専門家である汐見先生ということで、とても楽しみにしていました。
汐見:
ありがとうございます。この「月刊ハイゲンキ」を拝見していたら、沖ヨガの龍村修先生が記事を書いておられるので、びっくりしました。私も、ヨガと言いますか、ヨガもどきをやっていまして(笑)、私が指導を受けている先生と龍村先生とは、沖ヨガの弟子仲間ということで、龍村先生ともその縁で親しくさせていただいています。
中川:
そうですか。それは驚きです。龍村先生は、私の父の時代から、お世話になっていて、今でも毎月行っている真氣光研修講座の講師をしていただいています。
龍村先生とのご縁は知らなかったのですが、私は、汐見先生のお書きになった「本当は怖い小学一年生」という本を読ませていただいて、教育の世界も、いろいろな問題を抱えているんだなと、改めて思いました。それで、教育のことに興味をもって、お話をうかがえればと思いうかがったという次第です。
汐見:
私は、学校にもヨガを取り入れたらいいんじゃないかと、真剣に考えているくらいです。今は、大きな過渡期にあって、学習指導要領も、国が変えようとしているところです。
中川:
過渡期ですか。
汐見:
今の学校教育というのは、トーク&チョーク方式と呼んでいますが、先生が黒板に板書して、それをノートに写させて、しっかりと覚えておけよという方法です。先生が教えてくれたことをどれだけ正確に覚えるか、それが学力を計る物差しとなります。そういうやり方にうまく対応できる人間をどんどんと作っていけば、社会がうまく流れて行くという考え方ですね。
たとえば企業なら、作るものが決まっていて、いかに早く作るか、いかにたくさん売るかというのが大事なテーマだという時代では、そういう教育をやって、とにかくがんばる人材を作れば結果は出ます。外国が7時間働くなら、こちらは9時間、10時間働くぞということで、競争に勝てるわけです。受験勉強というのは、そのためのトレーニングです。四当五落でがんばった子どもが、人生の勝ち組となります。
「蛍の光」という歌がありますね。あれは、貧しい環境でがんばる人間こそ立派だと思わせるための歌です。
中川:
二宮金次郎の像も、そういう意味ですよね。薪を背負い働きながら勉強をしている。とにかく、がんばって欧米に追い付くんだということでしょうね。
汐見:
とにかく、がんばることが大事だと教え込もうとしてきました。でも、仏教では、がんばるというのは、「我を張る」ということで、してはいけないという意味だったそうです。我執にこだわる、無理をする。自分の体が求めてないことをするという意味です。
中川:
とにかく、我慢してがんばるのが偉いという教育で、そのトレーニングの場が学校だったんですね。でも、それがあったからこそ、日本は大きく発展してきたという面もありますよね。
汐見:
確かに、そういうやり方が良かった時代があります。ところが、今の日本は、成熟社会になって、がんばれ、がんばれでは立ち行かなくなっています。
人々は何をほしがっているのか、地球の環境はどうなのかまで考えていかないといけないようになってきました。産業も、新しいアイデアを柔軟に生み出す知性がないと、世界に太刀打ちできなくなっています。学校時代に、これを覚えておけばいいんだというような教育ばかりを受けていたのでは、指示された通りにやることはできても、果たして、新しいものや関係を美しく生み出す力がつくのだろうかということですね。
中川:
過去の経験だけでは解決できないことがいっぱいありますからね。ゼロから何かを作り出すかというような発想力が必要ですね。
汐見:
私のような団塊の世代も、同じような教育を受けてきました。しかし、私たちが子どものころは、野原や河原、道端で、いろいろと遊びを工夫していました。学校では型にはまった教育を受けましたが、遊びの中から知恵が生み出されました。今は、生活の中で工夫をする余地もありません。何でも与えられて、それ以外はダメということになり、その枠にきちんとはまる子がいい子だと評価されます。
このままだと、地球環境は悪くなるし、人口は増えるし、貧困も大変だという世の中になっていきます。だれも答えをもっていない問題に立ち向かっていかないといけないわけです。今までの教育の中で、いいと評価されてきた中身では、とても手に負えないのではないでしょうか。私は、「大人たちは地球資源を無駄使いして許せない。俺たちはこうやって世の中を良くしてやる!」と言うくらいの気概のある若者が出てきてほしいと思っていますよ。

<後略>

(2015年7月7日 東京都 小平市・白梅学園大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「本当は怖い小学一年生」 汐見稔幸 著(ポプラ新書)

北原 照久(きたはら てるひさ)さん

1948年東京生まれ。1986年「多くの人に見て楽しんでもらいたい」という思いで、横浜山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館。ブリキのおもちゃのコレクターとして世界的に知られている。株式会社トーイズ代表取締役、横浜ブリキのおもちゃ博物館館長、箱根北原おもちゃミュージアム館長、河口湖北原ミュージアム館長。テレビ東京「開運! なんでも鑑定団」に鑑定士としてレギュラー出演。著書は「横浜ゴールドラッシュ」「夢はかなう きっとかなう」(一季出版)「珠玉の日本語・辞世の句」(PHP研究所)「facebook100の言葉」(たちばな出版)「出会い 夢 感謝 北原照久の人生コレクション」(マネジメント社)ほか多数。

『「ありがとう」と「やればできる」を胸に夢を叶えてきた』

最低の状態のときに、母親の言葉で生き方が大きく変わった

中川:
今日は、お忙しいところ、お時間を作っていただきましてありがとうございます。テレビでちょくちょく拝見しているので、初めてお会いするような気がしません(笑)。テレビの「開運! なんでも鑑定団」は、もう20年を超えるそうですね。
北原:
鑑定団は、もう22年になりますね。皆勤賞は、僕だけですよ。テレビは、地元の番組を含めて、今4本かな。それにラジオがあって、講演は年に150回。毎日、講演しているって感じですね。一日に3回講演をしたこともあります。今67歳ですが、人生で一番忙しくて、充実していますよ。
42歳の厄年のときに、10年後、20年後、今が一番いいという人生を送りたいと言った覚えがありますが、まさにその通りになっていますね。
中川:
常に今が一番ですか。それは間違いなく充実の人生ですね。
北原:
37歳のときに、お金がない、人脈がない、ノウハウがないという中で、「ブリキのおもちゃ博物館」をオープンさせて、そのあともいろいろとありましたが、本当にいい人生を送れていると感謝しています。開設当初、妻とスタッフと3人で、いつかだれもが一度は足を運んでくれる「横浜の名所」にしようと、夢を語り合っていたのを、よく覚えていますよ。熱意、情熱、夢があれば、何とかなるということを学びましたね。
中川:
人生の転機もいろいろとあったでしょうね。
北原:
ありました、ありました。波乱万丈と言ってもいいかもしれませんね。だけど、いつもまわりに助けられて、ピンチをチャンスにすることができました。
特に、まわりの人たちがかけてくれた言葉には本当に救われました。実は、僕は言葉のコレクターでもあります。言葉にはすごいエネルギーがありますね。僕は、それを実感してきたから、いい言葉を集めて、それをフェイスブックや本で発信しています。
中川:
言霊と言いますからね。言葉によって人は大きく変わりますね。何か、言葉のエネルギーを感じたきっかけというのはあるのですか?
北原:
中学生のとき、反抗期がひどくて、ほとんど学校へ行きませんでした。学校をさぼって、映画館や遊園地をブラブラしていました。喧嘩もしたし、結局、退学になってしまいました。越境入学をした中学校だったので、本来の校区にある学校へ戻れというわけですよね。さすがに落ち込みました。そのときに、母親に言われた言葉が胸に響きましたね。僕は、てっきり怒られるものだと思い込んでいましたから。
母は、こう言ったんですね。
「すんだことはしょうがな
い。お前はこれからの人生の方が、これまでよりも何倍も長いんだよ。めげることはないよ」
さらに、こんなことも言ってくれました。
「人生はやり直しはできないが、出直しはいつでもできる。それに、お前はタバコを吸わないじゃない。いいとこあるよ」
心にすーっと染みましたね。確かに、僕はタバコには一度も手を出していませんでした。悪さばかりやっている息子なのに、きちんと見ていてくれていたんですね。
そしてもうひとつ。
「お前は本当はやさしい子なんだよ。だって、お前は花を踏まなかったじゃないか」
幼稚園のころ、初めて新品のゴム長靴を買ってもらって、うれしくて水たまりではしゃいでいたとき、傍らにあった花をよけて踏まなかったことを褒めてくれたんですよ。うれしかったですね。
中川:
すてきなお母さんですね。普通なら、カンカンになって怒るんでしょうけどね。人は、褒められるとエネルギーが湧き上がってきますね。特に、母親から褒められるのはうれしいものですよ。
北原:
そんな中学時代ですから、高校なんて行けないと思っていました。でも、父親が高校くらい行っておけと言うので、考え直して、何とか高校に滑り込むことができました。ここで、すばらしい先生に出会いました。担任でラグビー部の顧問をしていた沢辺利夫という先生です。僕がテストで60点をとったら、自分のことのように喜んでくださって、「北原、お前はやればできるじゃないか、すごいな!」と褒めてくれました。それがうれしくて、先生に褒められたい一心でがんばりました。そしたら、ビリで入学した僕が、トップで卒業しましたからね。先生に言われた「やればできる」という言葉は、今でも僕の生き方の根底にしっかりと根付いていますよ。

<後略>

(2015年6月26日 横浜ブリキのおもちゃ博物館にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「出会い 夢 感謝 北原照久の人生コレクション」 北原 照久 著 (マネジメント社)

堤 江実(つつみ えみ)さん

詩人、エッセイスト。文化放送アナウンサーを経て、現在、詩、翻訳、絵本、講演など幅広いジャンルで活躍中。世界一周クルーズ「飛鳥Ⅱ」では詩の朗読教室を、また自作の詩の朗読コンサート&ワークショップ、日本語の研修などを通して詩と言葉の魅力を伝えている。著書に「日本語の美しい音の使い方」(三五館)「何兆分の一の奇跡」(YES)「つたえたいことがあります」(三五館)ほか多数。http://homepage3nifty.com/emitsutsumi/

『詩を通して、日本語の美しさ、素晴らしさを伝えていきたい』

急に詩が書きたくなり、天から言葉が落ちてくるように書き出した

中川:
目に見えないエネルギーをテーマにしてきましたが、言葉というのも、一種の氣だと思っています。日本には言霊という言い方もありますしね。堤さんの詩からは、やさしいけれどもとても芯の強いエネルギーを感じますし、堤さんが書かれた日本語に関する本を読ませていただくと、言葉をこうやってとらえておられるのかと、はっとすることがたくさんありました。今日は、どんなお話をお聞きできるのか、とても楽しみにしてきました。
堤:
ありがとうございます。対談相手に選んでいただいてとても光栄です。私も、氣にはとても関心がありますので、中川会長とお会いできるのを楽しみに参りました。
中川:
堤さんは、今は詩人ということで活動されていますが、もともとはアナウンサーだったそうですね。
堤:
大学を出て最初の仕事がラジオのアナウンサーでした。大学に入学したとき、演劇部に入ろうと思っていたのですが、やたら派手で(笑)、これは合わないと思ったので、放送研究会に入りました。アナウンサーになりたいとは思っていませんでしたが、卒業するときに、全員がアナウンサーの採用試験を受けたので、私もつられるように受けたら受かったというわけです。決して、主体性があってのことではありませんでした。
アナウンサーをやったのは5年だけです。そのあと、ビジネスを立ち上げて、24年間、社長をやりました。
中川:
ビジネスをやっておられたのですか。そのあとですか、詩をお書きになるのは。
堤:
50歳くらいになったとき、このままではお金と人の心配ばかりで一生が終わってしまうかもしれないと思いましてね。それで、会社を辞めようと決心しました。でも、当時、一人で子ども2人を育てていましたので、自分のできることで稼がないといけません。それで、ビジネスコンサルタントをしたり、マーケティングや女性の仕事についての本を書いていました。あのころは、女性で事業をしているという人は珍しかったので、あちこちから声がかかり、おかげさまで、子どもたちはアメリカの大学へ行き、無事に卒業することができました。
中川:
詩は、それからなんですね。
堤:
詩は、書こうとか、書きたいと思って始めたことではないんですよ。流れに乗せられたという感じで始めました。
子どもたちが大学へ行っているとき、彼らが大学を卒業したら、3人そろって何かをするということはできなくなると思って、夏休みに、みんなでヨーロッパの友人を訪ねようという計画を立てました。私だけ先に行って、ドイツの友人宅にお世話になっていましたが、その友人がスピリチュアル系のコンベンションがあるので、2泊3日で出かけることになりました。私も、同行することにしましたが、友人と、その友人の知り合いとの車での旅で、道中、彼らはドイツ語で会話しているので、私には何を話しているかさっぱりわかりませんでした。暇を持て余していると、急に詩が書きたくなってきて、紙とペンを出して車の後ろの席で書き始めました。天から落ちてくるようにスラスラと言葉が出てきました。結局、車の中で、23篇の詩が出来上がりました。
中川:
急に、詩を書いてみようという気持ちになったんですね。そして、落ちてくるように詩が浮かんだ。何か、大きな力が、堤さんに詩を書かせたのでしょうかね。
堤:
そんな気がします。帰国してからも、とても面白い流れが起こるんですね。ある翻訳の企画を出版社に預けてあって、帰国したあと、その打ち合わせをしました。そのときに、編集者が、短い詩の本をつくりたいと言い出しました。私は、ドイツで作った詩をコピーしてもっていたので、すぐにそれを見せました。すると、詩を読んだ編集者が、実は天使の絵を描く人がいて、その絵とこの詩で一冊本を作りたいと、その場で話が決まりました。
それをきっかけに、その本を含めて、とんとん拍子に、3冊の詩集が世に出ることになるんですね。
中川:
それは、何か導かれているような感じがしますね。自分が本当にやるべきことと出あうと、びっくりするほどスムーズに事が運んでいきますからね。
堤:
詩集を出したあと、いろいろとお手紙をいただきました。いただいた手紙を読んだとき、これが私の中の一番いいものかもしれないと思いました。
私が書いたみたいとか、私が思っていたことを言ってくれているというようなお手紙がほとんどでした。だれにでも書けるって言われているのかなと、最初はむっとしましたが(笑)、ユングの集合無意識みたいなもので、みんなの思いが私のところからひょっと出ただけのことなのだと思い直したら、そこで、自分がどう詩と向き合っていけばいいか、スタンスが決まりましたね。

<後略>

(2015年5月12日 東京都新宿区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「日本語の美しい音の使い方」 堤 江実 著 (三五館)
「つたえたいことがあります」 堤 江実 著 (三五館)

西本 真司(にしもと しんじ)さん

1961年和歌山県生まれ。近畿大学医学部卒業。熊本大学医学部附属病院麻酔科、熊本赤十字病院麻酔科、山鹿市立病院をへて、1996年、西本第二クリニックを開業。2006年、西本クリニックと西本第二クリニックを統合し、西本クリニック院長に就任。潰瘍性大腸炎を克服した体験をいかしたホリスティックな医療を実践している。著書に「潰瘍性大腸炎が治る本」「潰瘍性大腸炎 医師も患者もこうして直した」「奇跡のセイカン」「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」(マキノ出版)などがある。

『難病を体験したからこそ、理想の医療に近づける』

さまざまな治療法を組み合わせた統合医療によって難病にアプローチ

中川:
西本先生、お久しぶりです。今日は、呼んでいただいてありがとうございます。
西本:
こちらこそ、お忙しいのにお越しいただいてありがとうございます。ずっと、会長には、和歌山で患者さんたちに氣の話をしていただきたいと思っていました。やっと実現できました。
中川:
先生がクリニックを開業されて何年になりますか?
西本:
父親が1980年から西本クリニックを開業していまして、私は、父親と連携を取りながら治療に当たろうと、1996年に西本第二クリニックを作りました。2006年に父親が亡くなったので、2つのクリニックを西本クリニックとして統合することになりました。西本第二クリニックから数えれば、来年で20年、2つを統合してからも10年になります。
中川:
先生は、潰瘍性大腸炎という難病を患われて、当時下田で行われていた研修講座に参加され、それ以降、講師として研修講座で、病気で苦しんだときのお話、どういうふうに治癒にいたったかなど、先生ならではの笑いがいっぱいの講義をしてくださっていましたよね。
西本:
ジョークばかりで申し訳ありませんでした(笑)。私が最初に下田での研修講座を受講したのは1992年3月でした。会長は、すぐその後に受講されましたよね。あのころは、160人くらいの方が参加されていましたね。がん、リウマチといった難病や、モヤモヤ病のような大変な病気の方が、1週間でずいぶんと良くなってお帰りになったりしていましたから、私も自分の体調が良くなったのも嬉しかったですが、医師としてさまざまな症例を見ることができたことも、大きな財産になりました。
中川:
霊的な現象もたくさんあって、私も受講したときはエンジニアでしたので、正直、何が起こっているんだろうと、戸惑うことばかりでしたよ。
西本:
いろんなことが起こっていましたよね。その研修講座も25年というのですから、感慨深いものがあります。もうすぐ300回だそうですね。これだけ長く続いている講座も珍しいのではないでしょうか。それに、氣の中継器のハイゲンキも、先代が開発したものを会長のアイデアでバージョンアップしたり、新型が登場したりして、たくさんの方が使っておられて、本当に嬉しいですね。あの機械を熊本の病院で使い出したときのことを思い出しますよ。
今回も、ハイゲンキを使っている方が、どうしても会長にお会いしたいと言うものですから、思い切ってお願いして、来ていただいたわけです。その方は、網膜色素変性症という難病で、失明は免れないと病院では言われていたのですが、ハイゲンキと氣功、それに私の専門の星状神経節ブロックという方法を使って、もう10数年、症状が進んでいません。その方は、今は、マッサージと鍼灸の治療院を開いていますが、患者さんの中に、やはり網膜色素変性症の一歩手前の方がいて、その方は私のクリニックまで治療に来てくださって、氣功とハイゲンキでずいぶんと経過がいいんですね。自分で気が出せるところまで行っていたのですが、奥さんの母が他界してから少しアンバランスとなり往診でハイゲンキ治療に行ってあげたところ、同じ器械を購入したいという流れになりました。ハイゲンキ3型を購入したところです。でも、まだ真氣光を十分に理解できるところまでいっていないので、気持ちが揺れ動いたりして、症状も不安定だったりします。ほかにも、真氣光を治療に取り入れたら、もっと良くなるだろうと思える患者さんもいますので、こうやって会長にお話が聞けるのは、ありがたいことです。
中川:
西本先生は、さまざまな方法を使って難病を治療されていますよね。死後の世界のこと、魂のことも考えに入れておられる、とても珍しいお医者さんです。貴重な存在だと思いますね。
西本:
ありがとうございます。長くかかりましたが、私がやっていることも、やっと受け入れられつつあるかなと感じています。でもまだまだやることはたくさんありますよ。治療実績を上げながら、理論的な裏付けもとっていかないといけなくて、治療ばかりではなく、データをとって、論文を出すこともとても大事な仕事だと思っています。
治療実績で言えば、私自身が体験した潰瘍性大腸炎の方ですが、100人以上、薬なしで回復できるようサポートできました。これは、「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」(マキノ出版)という本にまとめたので、潰瘍性大腸炎という難病であっても、治る可能性はあるし、治療法は薬だけではないということが、少しはわかってもらえたかなと思っています。
すい臓がんや乳がんや肝臓がんの方でも、さまざまな治療法を使った統合医療的なアプローチをすることで改善している人も何人かいます。これからは、何かひとつの方法だけで治療するということではなく、いいと思える治療法をうまく組み合わせて使っていく必要があると思います。氣は、その一つとして、私はとても有効な治療法だと考えています。
私は難病がどうやって治っていくのか、そのメカニズムの謎を解きたいと、ずっと思ってきました。これからも、その謎解きに挑戦していくつもりです。自分が難病を患って回復したという体験があるから、そう思うのでしょうね。

<後略>

(2015年4月15日 和歌山市の西本クリニックにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」西本真司 著(マキノ出版)

たくき よしみつ(たくき よしみつ)さん

作家・作曲家。1955年福島市生まれ。1991年、原子力の問題をテーマにした「マリアの父親」で第四回小説すばる新人賞を受賞。2004年の中越地震で新潟県の家を失い、川内村に移住。3・11で被災して、その年の11月に日光市に移り住む。著書は、「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」(講談社)「3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ」(岩波ジュニア新書)ほか多数。

『3・11福島での体験。そして、今、思っていること』

山あり谷ありの人生。中越地震で家が壊れ、福島でも被災することに

中川:
鹿沼市に来たのは初めてです。さっき、見学させていただいた彫刻屋台は、本当に立派なものでしたね。祇園祭の山鉾のように、あの彫刻屋台が、お祭りにときには町を巡行するわけですね。
たくき:
こちらへお越しになる方には、「これを見ないで帰る手はないよ」と言って、必ずご案内しています。すごいでしょ。江戸時代には、こんなすばらしい技術があったんですよね。この屋台もお祭りも、あまり知られていなくて残念です。もっとPRすべきだと思って、自分でも彫刻屋台を紹介するサイトを作ったりしています。(http://nikko.us/yatai/)
中川:
意外と身近にあるものは、その価値がわからなかったりしますからね。たくきさんは、ここからそう遠くない日光市にお住まいですが、こちらへ引っ越して来られてどれくらいですか?
たくき:
2011年の11 月11日に引っ越してきました。1並びで覚えやすいということで(笑)。その前は、福島県の川内村にいまして、そこで、あの3・11を迎えました。
中川:
そうでしたね。川内村というのは、福島第一原発から30キロ圏内の村ですよね。地震と原発事故という、未曽有の災害を体験されて、『裸のフクシマ 原発30キロ圏内で暮らす』(講談社)とか『3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ』(岩波ジュニア新書)を書かれていますが、たくきさんのことは、どうご紹介すればいいでしょうか。小説家ということでいいのでしょうか。
たくき:
何なんでしょうね(笑)。組織に所属して働くことは自分にはできないと思っていましたが、それ以外は、生きるためにいろいろなことをやってきました。ずっと志してきたのは作曲家です。ステージに立って演奏するよりも、メロディを作って作品を残すことに生き甲斐を感じています。若いころ、大手のレコード会社からデビューする寸前までいきました。会社も、日本を代表する作曲家に育てようと力を入れてくれたのですが、いろいろと行き違いがあって、チャンスをつぶしてしまいました。
並行して小説家デビューも狙っていて、新人文学賞への応募も続けていました。小説は中学生のころから書いていました。長い文章を書くのは少しも苦にならないんです。「群像」という文芸誌の新人賞では、最終選考まで残りました。ただ、そのとき受賞したのが村上春樹さんだったから、ちょっと相手が悪かったかな(笑)。
1991年に、『マリアの父親』という作品で、第四回小説すばる新人賞を受賞しました。奇しくも、この作品を書くきっかけというのが、当時、活発に行われていた原発論争だったのです。あのときに、原子力についてはずいぶんと勉強しましたが、20年たった今、事実は小説よりも……の世界になってしまいましたね。
中川:
それからは、主に小説を書かれてきたのですか?
たくき:
新人賞をとっても、出版社の事情に振り回されたりして、なかなか作品を発表するチャンスに恵まれませんでした。『マリアの父親』を読んで、『たくきは、反原発の危険人物だ』と言っている人もいたみたいです。でも、思えば、今よりはずっと自由で活気のある世の中でしたね。チャンスをつぶしたのはやはり自分の責任でしょう。
結局、生きるために再びいろいろやらなければならなくなり、その後は小説だけでなく、デジタル文化論とか芸術としての狛犬とか、多岐に渡るテーマで書いてきましたし、チャンスがあれば音楽関係の仕事もしてきました。肩書は「作家・作曲家」としていることが多いですかね。
中川:
山あり谷ありということでは、2004年の中越地震でも被災されているということですね。
たくき:
今、お話ししたのは、ほんの表面的な話で、とにかく話せばキリがないほど、いろいろなことがあって、都会での生活に息苦しくなってきたんですね。音楽で大成功して、里山ひとつくらい買って、そこに一軒家を建てて、豪華なスタジオを作って、優雅に音楽三昧なんて考えていたのですが、そうはいかなかった。このままじり貧になって一生を終えることの恐怖にかられました。それで、幸せの価値観をシフトしないといけないと思い、田舎暮らしを考えました。でも、当時はまだネットの時代じゃないし、やっとファックスが出始めたころですから、首都圏に仕事場をもちながら、田舎にも家をもつという形でしたね。そういう生活をするために選んだのが新潟でした。古い家を買って、夏だけそこで仕事をし、仕事の合間に、家の修理をしたりして、十数年かけて、自分が気に入るような家にした矢先に中越地震で全部失いました。
中川:
そのときは、新潟におられたのですか?
たくき:
いえ、川崎にいました。地震の報を聞いて、家がどうなっているか心配で、飛んで行きたかったのですが、道路は寸断されていましたし、近所の人に電話をしようとしてもつながりません。本当にやきもきしましたよ。
一週間ほどして、隣のおばさんから電話があって、『残念だけど、もうダメだねえ。斜めになっているし』なんて言われ、がくっときましたねえ、あのときは。集落は、『この土地には二度と家を建ててはいけない、住んではいけない』という条件をのんで、集団移転を決めてしまいました。仕方なく、次に住む家をあちこち探し回り、川内村の阿武隈の山奥にあった売り家を見つけ、2004年の末に引っ越しました。

<後略>

(2015年3月17日 栃木県鹿沼市内の喫茶店にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」たくき よしみつ 著 (講談社)

研修講座 講師(けんしゅうこうざ こうし)さん

龍村 修 さん 1948年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。94年龍村ヨガ研究所を創設し、国内外でヨガの指導に従事。龍村ヨガ研究所所長、国際総合生活ヨガ研修会主宰、NPO法人沖ヨガ協会理事長、NPO法人日本YOGA連盟副理事長。主な著書に「眼ヨガ」「龍村式 耳ヨガ健康法」(以上、日貿出版社)「深い呼吸でからだが変わる」(草思社)など。

石井 光 さん 東京生まれ。東京大学大学院法学研究科博士課程を修了。青山学院大学法学部教授。犯罪学、犯罪者処遇、少年非行の教鞭をとる傍ら、オーストリア、ドイツなどヨーロッパ各地、カナダ、中国などで内観の指導を行っている。著書に「一週間で自己変革、『内観法』の驚異」(講談社)「子どもが優しくなる秘けつ」(教育出版)など。

中川 貴恵 さん 東京音楽大学声楽専攻卒業。日本オペラ振興会オペラ歌手育成部研究生修了。ミラノ、ローマ、ヴィテルボでオペラ唱法を学ぶ。イタリアで勉強中、日本の歌の素晴らしさを実感する。現在、「歌は祈り」という思いで、聴き手に親しみやすい叙情歌や唱歌を中心に活動中。老人ホームなど福祉施設でのコンサート依頼も多い。

『真氣光研修講座25周年特別企画 感動、感激、感謝、気づきの講座!会長と3人の講師が振り返る25年』

1990年3月、下田の沖ヨガ道場で合宿制の講座が始まった

中川:
今年の3月で真氣光研修講座が丸25年となりました。本当に早いものです。先代が亡くなったのが1995年ですから、それから数えても20年になります。
今回は、真氣光研修講座の講師を務めてくださっている3人の方をゲストにお迎えして、25年を振り返ってみたいと思います。25年前の第1回目からヨガを教えてくださっている龍村修先生、1994年から内観を講義してくださっている石井光先生、それに音感行法の中川貴恵の3人にお話をうかがいました。ちなみに、中川貴恵は私の妹です。
龍村先生、研修講座が始まって、もう25年になりますね。第1回目から、すべての回に、講師を務めてくださっていただき、本当にありがとうございます。先生も、きっと研修講座には、思い入れをもってかかわってくださっていると思いますが。
龍村:
思い入れも、思い出もいっぱいですよ(笑)。もう25年ですか。20周年のときにもお話ししたかもしれませんが、先代が下田の沖ヨガ研修所を訪ねて来てくださったときのことはよく覚えています。真っ白な髪の毛、白い髭。あの風貌は、一度見たら忘れられません。何か、すごい力をもっておられる方だと、そのとき感じましたね。最初にお会いしたのは1989年の年末で、翌年の1月にも道場にお越しになりました。最初のときに、沖ヨガの創始者である沖正弘先生の本をお渡ししたのですが、それを全部、読んでくださって、何か感じるところもあったようで、この研修所で医療氣功師を養成する講座を開きたいというお話をされました。2000人の医療氣功師を養成するのが急務なのだとおっしゃっていました。
沖先生も、現代医療には大きな問題があると言っていました。目に見えないエネルギーのこととか、毎日の生活のあり方には、現代医療はまったく目を向けていませんでしたから。そういう意味で、先代の話にはとても共感するところがありました。
中川:
沖先生はすでに亡くなっておられましたが、沖先生の精神性というか生き方、考え方に、先代も共鳴するものがあったのだと思いますね。
龍村:
ヨガというのは、本来は神と結ぶという意味です。神とつながるというのは、宇宙の神聖なエネルギーを中継することです。そのアンテナが曲がっていては、いいエネルギーは取り入れられませんから、体を動かしたり、呼吸を整えたりするわけです。ヨガというと、体操のように思ってしまっている方もいますが、それは大きな勘違いで、宇宙のエネルギーを生かしていくためのものなのです。そのあたりに、先代は自分の考えとの共通項を見出したのではないでしょうか。
中川:
1990年3月の第1回目の参加者は40人ほどでしたが、どんどんと増えていきましたね。
龍村:
私どもでも、企業の新入社員研修などで大人数の研修を引き受けることもありましたが、せいぜい、1年に1度とか2度で、毎月、あれだけの人が集まってきたのには、びっくりしましたね。
中川:
石井先生は下田のときに受講されて、生駒で研修をするようになってから、講師としてお越しくださっていますよね。
石井:
そうですね。ゼミで、「人間とは何か」に迫るテーマを探してくるよう、学生たちに課題を出したら、一人の学生が「真氣光」を選んできました。合宿があるので先生もぜひ行ってみてくださいと言うので、素直に「はい」と言って、受講しました。私は、学生時代から坐禅をやり、長く内観の指導もしていますので、氣とか心のことについてはとても興味がありました。でも、坐禅にしろ、内観にしろ、静かに自分を見つめるものですから、下田での合宿のあのすごい状態にはびっくりしましたね。
中川:
そうですよね。氣の時間になると、転げ回ったり大きな声を上げる人がたくさんいましたからね。
先生は、青山学院大学で教鞭をとっておられて、それ以外にも、世界を回って内観を指導されていて、本当に忙しいのに、当時1週間の講座に、よく来られましたね。
石井:
春休みでしたが、私が参加したときは1週間ではなくて8泊9日でしたね。本当に貴重な体験で、魂のことについて興味を持って本を読んだりしていたころでした。目の前でさまざまな現象を見せられて、とても感動しました。
真氣光研修講座も内観も、「いいとわかっていても忙しくて行けないんです」と、なかなか参加できない人がいるとは思いますが、これから何十年か生きるうちの3泊4日とか1週間ですからね。それで人生が変わると思えば、思い切ってもいいのかなと、私は自分の体験から思いますね。
私は、学生時代からお寺にこもって坐禅を組んだり、内観も何度も参加していますから、それを全部合わせると、3年くらいは世の中から隔絶された状態にいたことになります。でも、それで得たことは、本当に大きかったと思っています。
石井:
これまでは、夏休みとか春休みしか、ヨーロッパや中国に、内観の指導に行けませんでしたが、これからはいつでも堂々と行くことができます(笑)。向こうでも、手ぐすね引いて待っていてくれています。ありがたいことです。
中川:
ところで、貴恵も下田の講座に参加しているんだよね。
中川貴恵:
音大の1年生のときでした。先代から、精神修養だから来いって言われまして…。氣は、実験台として、よく受けさせられていました(笑)。氣を受けるといろいろと反応もありましたが、それが精神的なものともかかわっているとは、あのころは思っていませんでした。精神的に強くなれるなら行こうと思って、参加しました。
とにかく、人数が多いし、休み時間も短くて、気を張って受けていましたね。それでも、終わったら、身も心も軽くなっているのにびっくりしました。今までの自分は、鎧を着ていたみたいだって思いましたね。
中川:
貴恵は、両親と同居していたから、よく実験台になっていたので、氣のことについては、私より信じていたみたいで(笑)。あのころの私は、今、こんなことをやっているのが自分でも信じられないくらい、見えない世界には関心がなかったですね。体調が悪くなって、研修講座を受けて、人生がびっくりするくらい変わりました。
中川貴恵:
私は、霊的な現象もよく話で聞かされていたし、自分も、氣を受けると、ゴホゴホと咳き込むような反応が出ていたし、霊的な現象についても、そういうのもあるかなというくらいには思っていました。
研修講座を受けて、本当に前向きになりました。それまでは、いつも、こんなことをやるとつらいことがあるに違いないとか、悪いことばかりを先に考えていましたが、下田から帰ったら、自然の流れに身を任せられるようになりました。
中川:
下田での講座は、1994年4月までで、5月から奈良県の生駒山で行うようになりました。名前も、「医療氣功師養成講座」から「真氣光研修講座」に変わりました。内容も変化して、石井先生の内観や音感行法が入ってきたんですよね。

<後略>

(構成 小原田泰久)

荻久保 則男(おぎくぼ のりお)さん

1966年長野県生まれ。15歳から、フィルムの8mmカメラで自主映画制作を始める。20歳から、フリーの映像スタッフ(照明、録音、撮影)として、たくさんのテレビのドキュメンタリー番組、劇映画に関わってきた。白鳥哲監督のドキュメンタリー映画「不食の時代~愛と慈悲の少食~」「祈り~サムシンググレートの対話~」の撮影を担当。「かみさまとのやくそく」が、初の劇場用映画監督作品。映画「かみさまとのやくそく」の自主上映、上映の情報に関しては、ホームページ http://norio-ogikubo.info/でご確認ください。

『どこから来てどこへ行くのか。胎内記憶から見えてくる魂の旅路』

公共の電波では扱えないけれども大切だと思えるテーマに取り組みたい

中川:
荻久保監督の作られたドキュメンタリー映画「かみさまとのやくそく」を、先日、拝見しました。親子の関係、あるいは命に対する見方について考えさせられる、すばらしい映画でした。今日は、どんなお話が聞けるのか、楽しみにしてきました。よろしくお願いします。
荻久保:
ありがとうございます。私も、会長から氣のことをうかがおうと、楽しみにして来ました。
中川:
荻久保監督は、長年、照明とか音声とか、映画を陰で支えるような仕事をされていたそうですね。
荻久保:
映画が好きで、学生時代には映画研究会に入って、映画作りをしていました。その当時は、8ミリで撮っていて、今のビデオみたいに性能が良くありませんでしたから、照明の良し悪しが、映画の出来具合に大きな影響を与えました。いい映画を撮るには照明の技術を勉強しないといけなかったのです。それで、ピンク映画の照明の助手をすることになったのが始まりですね。
中川:
私たち映画を見る側にとっては、照明の仕事というのはほとんど意識しないわけですが、照明の仕事の難しさというのはどういうところですか。
荻久保:
光の当て具合で、映画の雰囲気ががらっと変わってしまいます。だから、映画の内容、ジャンルによって、照明はいろいろと工夫をしないといけないのです。私の場合、実際に映画制作の現場に入ってみて、自分にはドラマよりもドキュメンタリーの方が性に合っていると思いました。
中川:
ドラマとドキュメンタリーとでは違うんですね。
荻久保:
違いますね。ドラマの照明は、主役を際立たせるのが大切ですが、ドキュメンタリーの照明になると、出演者の方があまり緊張しないようにしないといけませんし、普段の状態がうまく出せるようにすることも重要です。見ている人にも、照明を当てて撮っているとわからないようにしたいというのもありますね。なるべく、自然な姿が撮れるようにというのがドキュメンタリーの照明の役割です。ときには、照明を当てない方がいいと思うときもあって、そんなときは、照明を使わないことを監督にすすめます。
中川:
なるほど。そういうお話をお聞きすると、ちょっと映画の見方が変わってきますね。
荻久保:
でも、今はビデオカメラの性能が良くなっていますので、あまり照明に神経を使うことはなくなりました。ドキュメンタリーだと、照明よりも音声ですね。極端なことを言えば、顔がピンボケでも、音声がきちんと録れていれば、ドキュメンタリー映画の場合、そのカットは成立します。
中川:
ところで、今回撮られた「かみさまとのやくそく」ですが、胎内記憶という、生まれる前の記憶をテーマにされています。以前には、白鳥哲監督の「祈り~サムシンググレートとの対話~」という映画の撮影を担当されていますが、一般的に言えば、非科学的とされるものを扱っていますよね。
荻久保:
白鳥監督からは、テレビのような公共の電波では取り扱えないけれども、とても大事なテーマだということで、祈りについての映画を作りたいとオファーをいただきました。というのも、監督自身が脳腫瘍におかされて、死を覚悟していた時期がありました。映画に出た子どもたちが祈ってくれたことで、監督は難病を克服することができました。打ち合わせのときに声も出せなくて筆談で話していた監督が、祈りによって回復していくのを、そばで見ていましたから、そういう不思議な力があるということは、私もよくわかっています。アメリカロケでも、がん患者さんのまわりを何人もの方で囲んで祈っている場面にでくわしました。見えないけれども、そこには何かすごい力が宿っているなというのを実感しました。
この映画は、震災で制作が一時ストップしましたが、被災地ロケから撮影が再開しました。それまでは、祈りというと宗教的なものと見られていましたが、震災があったことで、もっと日常的な行為なんだと多くの人が感じ、実際に祈る姿も報道などで目にする機会も増え、この映画も予想以上に受け入れてもらえました。
中川:
私たちは、目に見えないエネルギーを氣と呼んでいるのですが、祈りも氣だろうと思います。氣は、大きくプラスの氣とマイナスの氣に分けられます。祈りは、プラスの氣の代表的なものだと思います。

<後略>

(2014年12月22日 東京都渋谷区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)

劇場用映画の紹介

「かみさまとのやくそく」〜胎内記憶を語る子どもたち〜
制作・撮影・編集・監督:荻久保則男 2013年/日本映画/114分/カラー
上映情報は、ホームページ http://norio-ogikubo.info/ でご確認ください。

大門 正幸(おおかど まさゆき)さん

1963年三重県生まれ。大阪外国語大学卒。名古屋大学文学研究科修了、人文学博士(アムステルダム大学)。中部大学大学院国際人間学研究科・全学共通教育部 教授、米国バージニア大学医学部客員教授、国際生命情報科学会(ISLIS) 常務理事、人体科学会理事、Society for Psychical Research会員、Society for Scientific Exploration会員。言語研究に携わる一方、「意識の死後存続」や「生まれ変わり」現象の研究を通して人間の意識や、心の問題の探究を続けている。著書に、退行催眠中に本人が知らないはずの言語を話す異言現象について報告すると同時に、21世紀のスピリチュアリティ研究構想について提案を行った『スピリチュアリティの研究~異言の分析を通して』(2011年、風媒社、人体科学会 湯浅賞奨励賞受賞)がある。また池川明氏との共著 “Children with Life-Between-Life Memories”をはじめ、臨死体験や過去生の記憶を持つ子供に関する論文を多数執筆。映画『かみさまとのやくそく〜胎内記憶を語る子どもたち〜』(荻久保則夫監督)出演。ホームページ http://ohkado.net

『真の幸福のためにはスピリチュアルな世界は不可欠』

思考や意識、記憶は、脳を超えたところにあるのではという疑問

中川:
私どもは、氣を通して、目に見えない世界の大切さを知ってもらおうという活動をしています。しかし、氣というと、言葉としてはかなり浸透してきましたが、まだまだ科学では解明されてないものなので、怪しいものだと思っている方もたくさんおられます。そんな中で、スピリチュアルな世界を研究されている大学の先生がおられるということで、ぜひお話をお聞きしたいと思い、おうかがいしました。私としては、そういう研究をされている先生がおられるというのは、本当に力強い限りです。大門先生は、どうしてまた、スピリチュアルなことに興味をもたれたのですか?
大門:
流れとしては2つあります。私はもともとは言語学をやっております。人間の頭の中で、言葉がどう処理されているのだろうかというのが、私のメインの研究テーマです。ずっとその研究をしていて、ふと疑問に思ったことがありました。それは、言語もそうだし、思考とか意識とか記憶というのは、脳の働きだけでは説明できないのではと思うようになってきました。
中川:
思考や意識や記憶と脳の関係ですか。
大門:
そうです。それと、もうひとつが、飯田史彦先生の「生きがいの創造」という本を読んだことですね。学生から、おばあちゃんが亡くなって悲しんでいるとか、両親が離婚して悩んでいるとか、就職活動で全滅して落ち込んでいるといった悩み相談を受けたりしたとき、うまく語る言葉がなくて、それでも慰めになることを言ってあげられればいいなということで、人生論的な本を読んでいたときに出あった本です。この人生観はいいなと思いました。
中川:
確か、生まれ変わりについて書かれている本ですよね。
大門:
そうです。この本では、ある程度、研究の裏付けのある事例が出ていましたので、学生たちに、この本を読んでみたらとすすめたりしました。でも、この本は海外の研究がほとんどで、日本で同じような研究はないのかと探しましたが、どうもやっている人はいなさそうだということで、自分でやってみるかと思ったわけです。それが、2009年でしたね。
中川:
なるほど。今、先生が言われた、思考や意識や記憶が脳だけの働きではないということですが、もう少し、詳しくお話ししてくださいますか。
大門:
言語でコミュニケーションをするときには、インプットとアウトプットが正常でないとできませんよね。言葉がうまく入ってこなくても、言葉を出すことができなくても、コミュニケーションがスムーズにできません。これは脳の働きと見てもいいと思います。
しかし、インプットとアウトプットの機能ばかりではコミュニケーションはできません。そこに、思考や意識や記憶という働きが必要で、それらは脳のコントロールを受けないところにあるのではないか。そう考えないと説明できない事象が多々あるのです。
たとえば、バム・レイノルズさんという女性ミュージシャンの臨死体験の報告があります。医学的データに基づいた、とても信ぴょう性の高いものです。
彼女は、脳幹の部分に大きな動脈瘤があって、いつ破裂するかわからないというので、特別な手術を受けました。体温を15度くらいに下げて、血液を抜いて、まったく脳波もフラット、心拍も停止した状態にして取り除くという手術です。いわゆる脳死状態にするわけです。その手術中、彼女はいわゆる幽体離脱をして、手術の様子を見ていたり、あちらの世界で知人にあったりするという体験をします。そのことを、術後に語るわけですが、手術で使った器具とか、医師たちの会話の内容など、細かなところまで、あまりにも正確に語るので、医師たちはびっくりしました。彼女の例から言えることは、言語中枢が止まっていても、回復したときに、そのときのことは覚えていて、思考はしているということです。
中川:
なるほど。脳が働いていなくても、思考したり記憶していたりするということが実際にあるわけですね。それなら、思考や記憶はどこで行っているのでしょうね。
大門:
肉体を超えたところと言うしかないと思います。今の科学では、意識とか思考は、すべて脳によって生み出されているものだと考えられています。ですから、肉体が滅べば、意識も思考も消滅する。死んだらすべてなくなりますよというのが主流です。でも、こういった事例を研究することで、そうじゃないのではないかという問題提起ができると思います。

<後略>

(2014年12月11日 愛知県春日井市の中部大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『スピリチュアリティの研究~異言の分析を通して』
大門 正幸 著 (風媒社)

高野 誠鮮(たかの じょうせん)さん

1955年石川県羽咋市生まれ。大学時代には、科学ジャーナリスト、テレビ番組の企画・構成作家として活躍。1984年に羽咋市役所の臨時職員となり、宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」を作り話題になる。2005年、過疎高齢化が問題になっていた神子原地区を立て直すべく、神子原米のブランド化などのアイデアで、限界集落をよみがえらせる。さまざまなアイデアと行動力で「スーパー公務員」と呼ばれている。著書に「ローマ法王に米を食べさせた男」(講談社)がある。

『UFO、町おこし、自然栽培。アイデアと行動力で日本を変える』

UFOで町おこしをするという突飛な発想を実現させる

中川:
実はですね、私どもの会員さん向けの機関誌である月刊ハイゲンキで、まだ創刊して間もないころですけれども、高野さんをご紹介しているんですね。石川県の羽はく咋い市がUFOで町おこしをしているという話で、その仕掛け人である高野さんにインタビューしています。1988年ですから、もう25年も前のことです。その高野さんが、今、町おこしもそうですが、自然栽培とかUFOとか、さまざまな分野で活躍されているというので、ぜひ、お話をお聞きしたいと思って、対談をお願いしたという次第です。
高野:
ありがとうございます。記事のことは、よく覚えていますよ。当時のハイゲンキの編集長がUFO仲間でして、そのご縁で取材に来てもらいました。
中川:
でも、なんでまたUFOで町おこしをと考えたのですか?
高野:
私は、羽咋市にある日蓮宗のお寺に生まれました。次男坊でしたから、高校を出てから東京の大学へ行き、在学中から、雑誌のライターやテレビ番組の構成作家をやっていました。テレビでは、『プレステージ』や『11PM』というけっこう有名な番組も手がけました。『11PM』では、UFOの番組を担当し、有名な矢追純一さんとも一緒に仕事をしました。
楽しかったですね。でも、28歳のとき、事情があって、羽咋へ帰ってお寺を継がなければならなくなりました。それが1984年かな。でも、父親もまだ元気だし、すぐにお寺の仕事をしなくてもいいというので、市役所の臨時職員に応募して採用され、東京時代とは180度違う、田舎での規則正しい生活が始まりました(笑)。
中川:
UFOとは学生時代からかかわっているのですね。
高野:
もう離れられないですね(笑)。若いころは、UFOの国際会議なんかあると、アメリカでもブラジルでも、すっ飛んでいきました。国連にUFOプロジェクトがあって、その責任者だたコールマン・フォン・ケビュツキー少佐にはずいぶんとかわいがってもらいましたよ。UFO問題の本質は彼に教えてもらいましたね。でも、このプロジェクトも、アメリカの横槍が入りました。アメリカという国は、UFO問題に触れられるのが嫌でたまらなくて、UFOや宇宙人がいるという話になると、すぐにつぶしにかかりますからね。
たとえば、ケネディ大統領ですが、殺される一週間前のホワイトハウスでの彼の会見のメモが、数年前に見つかりました。そこにはとても興味深いことが書かれているんですね。地球外には未知なる勢力があって、もう我々とソ連は戦っている場合ではない。このことを私は近々、国民に発表しようと思っている。そう書いてあるんです。ダラスで殺される一週間前ですよ。何かにおいませんか? 国連UFOプロジェクトも、当時のウ・タント事務総長が、ベトナム戦争の次はUFO問題だと発言して、すぐに失脚させられ、コールマンさんも辞めさせられ、プロジェクトもなくなってしまいました。
中川:
そうですか。軍事的な問題なんでしょうかね。
高野:
戦略軍事基地にUFOが着陸するわけですから、どんな防衛網も役に立ちません。ケネディが言ったように、国と国とが戦っている場合じゃないんです。でも、地球上で戦争がなくなると、軍事企業は儲けられなくなります。だから、UFOのことは隠そう隠そうとするわけです。
中川:
UFOに詳しい高野さんだから、UFOで町おこしをしようと考えたわけですね。でも、まだまだ一般的には怪しいと思われていたわけで、すんなりと受け入れられたわけではないと思いますが。
高野:
羽咋に戻ってすごく気になったのは、住民の人たちが、自分が住んでいる町の悪口ばかり言っていることでした。それじゃ、町おこしなんてできっこないですよ。それで、『羽咋ギネスブック』作りというのをやりました。羽咋市で一番のもの、誇りたいものを探して発表しようという企画でした。それを始めたら、いろいろな反響が出てきました。『うちのかあちゃんが作った味噌は最高だ!』とか『うちの漬物は羽咋で一番おいしいぞ!』とか、みんなが前向きになってきました。
このギネスブックを制作する中で、羽咋の古い伝記や伝承を調べていくうち、奇妙な古文書を見つけたのです。

<後略>

(2014年11月6日 東京・ホテルニューオータニ にて 構成 小原田泰久)

山口 創(やまぐち はじめ)さん

1967年静岡県生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程修了。現在、桜美林大学教授。専攻は健康心理学・身体心理学。スキンシップの大切さなど、心と体の癒しをテーマに研究している。主な著書に「愛撫・人の心に触れる力」(NHKブックス)「幸せになる脳はだっこで育つ。」(廣済堂出版)「手の治癒力」(草思社)など多数。

『手には治癒力がある。鍵はオキシトシンというホルモン』

心が体に影響を与える場合もあれば、その逆もある

中川:
日本ホリスティック医学協会の情報誌「HOLISTIC NewsLetter」で、山口先生の講演要旨を読ませていただいて、とても興味をもちました。「手の治癒力」という演題でしたが、私どもは氣功をやっていますので、手に治癒力があると聞くと、自分たちがやっていることが裏付けられたような気がしてうれしくなります。昔から、治療や癒しを「手当て」と言いますから、手の治癒力というのは感覚的にはとらえられていたのでしょうが、それが理論として説明できれば、薬だけに頼らずに、手の力をもっと活用しようという人がさらに増えるのではと思います。
先生は、心理学がご専門ですよね。心理学と言うと、心のことを研究する学問ですが、手の治癒力とどう結びつくのか、そのあたりからお話いただけますか。
山口:
講演要旨を読んでいただき、ありがとうございます。私の専門は健康心理学です。一番新しい心理学です。大学として講座をもっているのは2校だけです。桜美林大学と大阪人間科学大学ですね。これは、健康な人がストレスを感じたときそれをどう回復させていくか、あるいはもっと幸福で充実感をもって生きるにはどうしたらいいかということを考えていく学問です。
アメリカではとても注目されていて、認知度も高いのですが、日本ではまだまだですね。
中川:
私も初めて聞きます。もともと、身体心理学という分野から始められたそうですが、身体心理学というのも、あまり耳慣れない学問ですが。
山口:
心理学の中の一分野として確立されたものではないのですが、体の方から心を見ていくという考え方で研究活動をしているものです。心理学というと、心だけを追求する学問で、体のことはあまり考えません。ストレスによって胃潰瘍になるといったように、心の状態が体に影響を与えるというのは、心と体の関係としてずっと語られてきました。しかし、その逆もあるのではということから、身体心理学は始まっています。東洋的な思想では、「身心一如」と言って、心と体は分けて考えられないわけで、心が体に影響を及ぼすこともあれば、逆に体が心に影響を与えることもあるはずです。
19世紀後半に、ウイリアム・ジェームズという心理学の大家が、「我々は悲しいから泣くのではなくて、泣くから悲しくなるのだ」と言いました。泣くという身体変化が悲しいという心を生み出すというわけです。その時代には、それを証明する手段がなかったのですぐに否定されてしまいましたが、最近では、体を動かしたときにどのような変化が脳に伝わり、心がどのように変わっていくかというメカニズムが次々と明らかになってきたのです。
中川:
心というのはなかなか思うようにコントロールできませんが、体から入れば、心のコントロールもしやすいかもしれませんね。笑顔でいれば心も晴れてくるといったような、そういう解釈でいいのでしょうか。
山口:
その通りですね。姿勢もそうですね。自分の意志で姿勢を変えると、心に変化が出てくるという実験結果も出ています。
中川:
以前に対談した禅宗の枡野俊明さんも、所作を整えることで、言葉が変わり、心が豊かになるとおっしゃっていました。たとえば、礼服を着れば、背筋がピンと伸びて、心もシャキッとしますよね。ジャージ姿でソファに横になっているときとは心の状態も変わってきます。
ところで、体と心の関係で、手の治癒力というのは、どうかかわってくるものなのでしょうか。
山口:
身体心理学という学問の中で、私がとても興味をもってかかわっているのが「人に触れる」という行為です。人に触れる、あるいは触れられるというのは、まさに体に働きかける行為なので、8体から心を変えるアプローチの一つなのです。たとえばマッサージをしてもらうと、とても気持ち良くて、心もリラックスしますよね。手で触るというのは、人の根源的なところに浸み込んでいく力があります。辛い思いをしているとき、ハグされたり、手で背中をなでてもらうと、とても勇気づけられます。相手の心に働きかける不思議な力を手はもっているのです。もっともっと活用した方がいいと、私は思っています。

<後略>

(2014年10月1日 東京都町田市・桜美林大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「手の治癒力」 山口 創 著 (草思社)

田口 ランディ(たぐち らんでぃ)さん

1959年東京生まれ。作家。2000年に初の長編小説「コンセント」でデビュー。2001年「できればムカつかずに生きたい」で第1回婦人公論文芸賞を授賞。近年は、福祉や医療、原発、水俣問題をはじめとする現代社会が抱える問題や宗教、精神、生死などをテーマに、小説やノンフィクションを執筆。著書に、「アンテナ」「モザイク」(新潮文庫)「富士山」「ドリームタイム」「被爆のマリア」(文春文庫)「キュア」(朝日文庫)「サンカーラ」(新潮社)「座禅ガール」(祥伝社)などがある。

『人間の奥底にある霊的なものはものすごく傷ついています』

兄が引きこもりの末にアパートの一室で餓死した

中川:
はじめまして。ランディさんとは初めてお会いするわけですが、ご著書を拝見していると、共通の知り合いがいたり、ランディさんの関心が、私ども真氣光が伝えようとしていることと重なっているところがあったりして、失礼ながら、すごく親しみを感じてしまいます。
ランディさんは、この月刊ハイゲンキに連載してくださっている帯津良一先生ともお知り合いだし、以前に対談に出ていただいた佐藤初女先生とも親しくされています。それに、「アルカナシカ」(角川学芸出版)という本には、無農薬リンゴの木村秋則さんも登場してきますしね。私も、木村さんとは2度対談させていただいています。リンゴ園にもおうかがいしましたし、私どものセンターに講演に来ていただいたこともあります。まだまだ木村さんがこんなにも有名じゃないときですけどね。
ランディさんは、UFOや霊的なことなど、見えない世界にも非常にお詳しいし、原発や原爆の問題にも触れておられますよね。
今日は、いろいろな話がお聞きできそうで、楽しみにして参りました。
田口:
こちらこそ、よろしくお願いします。木村さんですが、私は、彼の自然栽培塾に通っていたんですよ。石川県の能登までね。羽咋(はくい)市に高野誠鮮(じょうせん)さんという方がいます。彼は、もともと東京でUFO関係のテレビ番組を作っていたのですが、実家のお寺を継ぐために羽咋へ帰り、市長が高校の同級生だったこともあって、市役所に入って地域興しに貢献するようになった方です。NASAやロシアから宇宙船の現物を買い付けてきて、「宇宙科学博物館コスモアイル羽咋」を作りました。また、限界集落の復興なんかもやっています。
その高野さんが、羽咋で農協を巻き込んで自然栽培をしたいということで、木村さんを呼んで自然栽培塾を開催しました。これまでの常識だと、農協が自然栽培をするというのはあり得ないことですよ。高野さんから、その取材をしてみないかと誘われて、自然栽培塾に通うことになりました。
中川:
能登の自然栽培の動きと一緒に、木村さんのUFO体験を取材されたわけですね。自然栽培とUFOとどういうつながりがあるのか、とても興味深いですね。
ところで、ランディさんが、作家になり、見えない世界に興味をもたれたというのは、どういうことがきっかけだったのですか?
田口:
作家になるひとつのきっかけは、兄が引きこもりを20年くらいしていて、その兄が、最終的に引きこもりの末にアパートの一室で餓死をしたことですね。1995年ですから、世の中はとても豊かだし、引きこもった兄が何も食べずに亡くなったのは、私にとっては、大変な衝撃でした。
兄が引きこもりになった原因としては、父との関係がありました。父は、お酒を飲んだり、気に入らないことがあると、急に逆上して暴れたりする人でした。専門家に診断してもらえば、境界性人格障害という病名がつくかもしれません。
子どもたちは、なぜ怒られているのか、なぜ機嫌が悪いかわからないので、混乱するわけです。私は、兄よりも8つ年下で、父が年を取ってからの子どもだったし、女の子だったので父に殴られた記憶はありませんが、兄はよく暴力を振るわれていました。
そのせいか、兄は中学時代から内気で引っ込み思案で、就職しても転職を繰り返して、だんだんと家に引きこもるようになりました。
父は働き者でしたから、家でぶらぶらしている兄が許せなかったんですね。それでまたぶつかるわけです。今考えると、兄は怠け者だったということではなく、働こうにも働けなかったのだと思います。それこそ、氣がだだ漏れ状態でね。
中川:
そうですか。そのころランディさんは?
田口:
私は東京で広告関係のプロダクションを経営していました。私は、兄のような人はカウンセリングを受けさせる必要があると思い、説得して東京へ出て来させました。そして、私が仕事場にしていたアパートに住まわせました。それが1993年か4年ごろのことですね。
1995年は、1月には阪神淡路大震災があり、3月には地下鉄サリン事件がありました。世の中が揺れていて、自分も揺れていて、すごく嫌な年でしたね。
その6月、兄が突然、アパートから姿を消しました。お金もないのにどうしたのかなと思って家に電話をしたら、少し前に兄から父に連絡があって、今度こそ自立するからお金を貸してくれと言ってきたそうなんですね。ぜったいにお金は渡さないでねと言っておいたのに、父は100万円を、手切れ金だと言って渡したと言うのです。お金が手に入ったからどこかへ行ってしまったんですね。そのお金をもとに、部屋を借りて、アルバイトを探して、自分で生活できるようになればいいなと思っていましたが、8月1日、アパートの一室で餓死しているのが発見されたという連絡が入りました。

<後略>

(2014年9月18日 神奈川県足柄下町湯河原町の田口ランディさんの仕事場にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「座禅ガール」 田口ランディ 著 (祥伝社)

枡野 俊明(ますの しゅんみょう)さん

1953年神奈川県生まれ。曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学環境デザイン学科教授。玉川大学農学部卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得る。2006年「ニューズウイーク」誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。カナダ大使館、セルリアンタワー東急ホテル日本庭園、ベルリン日本庭園などをデザイン。著書は「心配事の9割は起こらない」(三笠書房)「禅が教えてくれる美しい人をつくる「所作」の基本」(幻冬舎)など多数。

『無駄なものをそぎ落とせば心配や不安が消えていく』

所作を整えることで、言葉が変わり、心も豊かになる

中川:
ご住職の「心配事の9割は起こらない」(三笠書房)という本を拝見しまして、まずタイトルにひかれて買ったのですが、内容もとてもすばらしくて、ぜひお目にかかりたいと思っていました。そしたら、ご住職が書かれた「禅が教えてくれる 美しい人をつくる『所作』の基本」(幻冬舎)という本を家内がすでに買っていたみたいで、家の本棚にあったので、それも読ませていただきました。この本にも感銘を受けました。デザイナーの芦田淳先生の推薦文が帯に書かれていますよね。芦田先生の書かれている本を何冊か読んだことがあり、お人柄には惹かれておりました。
枡野:
ありがとうございます。私は、芦田先生とはまったく面識がなかったのですが、先生がこの本をとても気に入ってくださいまして、社員の方全員に配ってくださったそうなのです。それがきっかけで、芦田先生のお宅におうかがいしました。縁というのは不思議なものです。
中川:
「所作」という言葉は日本的でとてもいい響きですよね。今は、日本人が脈々と受け継いできた伝統が西欧化によって失われつつあると思います。日本人がずっと大切にしてきた所作を見直すことで、日本人の心も取り戻せるのではないでしょうか。
枡野:
私は禅宗の僧侶ですから坐禅をしますが、坐禅というのはとらわれない心を得るためにやります。心を整えるためには、ルールがあります。三さん業ごうを整えるといいます。
最初の整えるのが、身しん業ごうです。これが、所作なんですね。心を整えるといってもどうしていいかわかりません。心を整えるためには、正しく体を動し、折り目正しい生き方をして、一つひとつのことを心を込めてやっていくことを心がけます。そうすると、不思議と出てくる言葉もていねいになって、雑な言葉が出なくなります。所作と言葉はリンクしています。所作が整っていると、そこから出てくる言葉もきちんとしてきます。それを口く業ごうといいます。
身体の動きが整い、言葉が整えば、心が整います。それを意い業ごうといいます。心を整えてくださいというと何をしていいかわかりませんが、所作を整えると、連動して言葉が整い、所作と言葉が整えば、心も整ってきます。
中川:
確かに、服装ひとつでも気持ちが変わりますね。服装だけでなく、朝起きたら手を合わせてみるとか、自然を感じながらゆっくりと歩くとか、背筋を伸ばすとか、深い呼吸を心がけるとか、そんなことでも、心は変わります。受験生も、はちまきをするとやる気が出たりしますしね(笑)。
枡野:
そうなんですね。サラリーマンの方は、昔は夏でもネクタイをしていましたですね。今は省エネルックということでノーネクタイの方が増えましたが、ノーネクタイだと心がしまらないと言う人は多いのではないですか。ネクタイをキュッとしめると、仕事をするというモードになるのでしょうね。たかがネクタイ、されどネクタイですね。
中川:
私ももともとはサラリーマンでしたから、その気持ちはわかります。確かに、形から入ると、気持ちも変わりますね。でも、今は、形ばかりが優先されている風潮があると思います。心の大切さが、どこかへ置き去りにされているように思えてなりません。
枡野:
心の問題というのは、形がないものですから、見える部分だけが重要視されてしまいがちですね。きれいな服を着るとか、ブランドのバッグをもつとかといったことばかりに目がいってしまってます。そこが終着点になってしまって、心をきれいにしていくということが、欠落しがちですね。しかし、いくらブランド品で着飾っていても、心が曇っていると、必ずそれは表に出てきてしまいます。形をしっかりと整えることで心が磨かれ、磨かれた内面が外見も輝かせる。そうなると一番いいのですが。

<後略>

(2014年8月5日 横浜市鶴見区の曹洞宗徳雄山建功寺にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「心配事の9割は起こらない」 枡野 俊明 著 (三笠書房)
「日本人はなぜ美しいのか」 枡野 俊明 著 (幻冬舎新書)

やました ひでこ(やました ひでこ)さん

東京都出身。早稲田大学卒。学生時代に出あった沖ヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」に着想を得た「断捨離」を、日常の「片づけ」に落とし込み応用提唱、誰もが実践可能な自己探訪メソッドを構築。全国各地でセミナー、講演をするほか、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等、さまざまなメディアでも精力的に発信をしている。著書は、「断捨離」「俯瞰力」「自在力」(ともにマガジンハウス)「伝説のヨガマスターが教えてくれた究極の生きる智慧」(龍村修先生との共著 PHP)「捨てる勇気」(大和出版)など多数、ミリオンセラー作家でもある。

『断捨離で、心地よい快適な氣の環境を演出する』

タンスに着ない洋服がたくさんあるという話にはっとした

中川:
やましたさんが出された「断捨離」という本が大ベストセラーになって、家を片づけることの大切さがずいぶんと浸透したと思います。でも、断捨離は、もともとはヨガで言われてきたものだそうですね。やましたさんは、ヨガを長くやっておられたし、驚くことに、真氣光の研修講座が下田の沖ヨガ道場で行われていたとき、参加されたそうですね。調べてみたのですが、やましたさんが参加されたのは92年でしたね。
やました:
それくらいになるかもしれませんね。あのときに連れて行った小学生の子どもが30歳になりましたから。私は、もともと沖ヨガを学んでいて、下田の道場は何度も行ったところです。そこで氣の合宿が行われているのを知り、懐かしさもあり、とても興味があったので参加させていただきました。
中川:
実は、私も92 年に受講しています。そのころは電機会社のサラリーマンで、ストレスで体調を崩したので参加してみました。
やました:
汚い道場でびっくりしたのではないですか? 私は、ヨガの研修に行くたびに、龍村先生にもきれいにした方がいいですよと言っていたくらいですから(笑)。
中川:
せんべい布団でしたしね(笑)。
やました:
はい。私は慣れていたからいいけど、初めての人は氣どころではなかったかもしれませんね(笑)。
中川:
道場が汚かったのと、断捨離とは関係あるんですか?
やました:
あるようなないような(笑)。断捨離というのは、ヨガの行である「断行」「捨行」「離行」からくるもので、断行=執着を断つ、捨行=執着捨てる、離行=執着から離れる、ということです。私は大学4年のときに沖ヨガに出あって、以来、ずっとヨガをやっていますが、自分には、執着を断つことも捨てることも離れることもとても無理だと思って、しばらくは、なるべく考えないようにしていました。
断捨離についてはっと思ったのは、沖正弘先生が亡くなって、お葬式から帰るときでした。沖ヨガの先輩と一緒に帰ったのですが、そのときに、断行、捨行、離行の話になって、私にはできませんよという話をしたのを覚えています。何しろ、執着だらけですから。
そのときに、先輩の先生が、家のタンスの中も着ない服でいっぱいだものと言われてハッとしました。女性は、着る服がないとよく言いますが、タンスの中を見ると、たくさんの服がしまってあります。それでも、心の中ではないと思っている。つまり、それは、着る服がないのではなく、「着たい服」がないということです。逆に言うなら、「着たくない服」がいっぱいあるわけです。どうして着たくない服がたくさんあるのだろうか。
そんな疑問が頭から消えませんでした。だれかにもらったとか、いつか着るだろうとか、そんな理由で、好きでもない、着ることもない服がたくさん眠っているのです。関係が終わっているのに元カレや元カノにずっと未練をもっているようなものです。
心の中の執着というのは、目に見えなくてつかみどころがないけど、こんなところに証拠品があるじゃないかという発見があったのです。そこから、断捨離と片づけがつながっていきました。
中川:
沖ヨガは生活ヨガとも言われています。道場で習ったことは生活の中で役立てていくという教えですよね。やましたさんの場合は、断捨離を片付けという形で生活の中に取り入れたわけですね。
やました:
でも、時間はかかりましたね。まずは、断行、捨行、離行のことは知っていたけれど、知識として知っていただけだったのだということに気づきました。それを生活の中で実践しようとすれば大変なことになるので、無意識に封印していたのだと思います。10年20年と右往左往してきて、30年たってやっと人に伝えられるようになったかなということでしょうか。
中川:
頭ではわかっていてもそれを実践するとなると、なかなか大変ですよ。私なんかも、長く真氣光をやっていますが、頭ではわかっているんだけどという部分は、まだまだ多いですよ。知識を一つひとつ、生活の中に落とし込んでいくのが修行ですね。知識のまま終わらせてしまうと、わかったつもりになっているだけで、魂が成長していきません。私どもは、やましたさんが参加してくださった研修講座を、今もずっと続けていますが、そこで学んだことを日常の中にどう生かしていけるかが大切なんだと、いつもお話させてもらっています。
やました:
学校で言えば、部活動と同じだって私は言っています。テニス部なら、知識としてラケットの振り方を習ったら、次は実際にコートに出て振ってみないことには、テニスはうまくなりません。できるできないではなく、やるしかないんですね。やらないことには本当のトレーニングになりません。

<後略>

(2014年7月10日 東京日比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「捨てる勇気! あなたの日常にも新陳代謝を」 やましたひでこ 著 大和出版

髙橋 史朗(たかはし しろう)さん

昭和25年兵庫県生まれ。早稲田大学大学院修了後、スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員に。政府の臨教審専門委員、少子化対策重点戦略検討会議分科会委員、自治省の青少年健全育成調査研究委員会座長、埼玉県教育委員長などを歴任。現在、明星大学教授、内閣府の男女共同参画会議議員、一般財団法人親学推進協会会長などを務める。著書に「歴史の喪失」(総合法令出版)「日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと」(致知出版社)など。

『日本の真の姿を知って、日本人が自信と誇りを取り戻すために』

アメリカへ留学し、占領軍の資料を 片っ端から調べた

中川:
先月号の「行動派たちの新世紀」で、髙橋先生のことを紹介させていただきました。その記事では、親としてどう生きればいいのかという「親学」のお話が中心でしたが、先生は、もともと歴史がご専門で、戦後のアメリカの占領政策が日本人の意識を大きく変えてしまったとおっしゃっています。今回の対談では、そのあたりのお話をお聞きしたいと思っておうかがいしました。
最近、『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』(致知出版)を出されましたね。250万ページもの占領文書を読まれて研究されたそうですね。
髙橋:
私が30歳のときですが、新聞に「アメリカで陸軍と海軍の文書が25年、30年たつと公開される」という記事が載りました。私は、その記事を読んで、アメリカへ行って、公開されている陸軍、海軍の文書を読めば、占領時代の隠された事実がわかるのではないかと、メリーランド州立大学の大学院に留学しました。
中川:
占領文書に興味をもったというのは、なにかきっかけでもあったのですか?
髙橋:
いくつか理由がありました。戦前の人たちは、教育勅語で育ってきたわけです。教育の柱として教育勅語がありましたから。ところが、戦後になると、教育勅語は、まるで軍国主義の元凶のように思われるようになりました。180度、評価が変わってしまったのです。それを決めたのは、教育勅語で育ってきた国会議員たちです。どうして、教育勅語が全会一致で否決されてしまったのだろうという疑問の答えを見つけたかったというのがひとつです。
中川:
教育勅語には、私もとても興味があります。明治天皇が、人が人として生きていくために必要な心得として著わしたものだと聞いてます。内容も、親孝行をしましょうとか、兄弟姉妹は仲良くしましょうとか、夫婦は仲良く、友だちは信じ合って付き合いましょうとか、とても大切なことが書かれていて、どうして軍国主義につながっていくのか、理解できません。先生が言われるように、それが廃止されてしまって、悪い教えのように思われるのはどうしてか、私も疑問を感じます。この話は、あとで詳しくお聞きするとして、ほかの理由も教えてください。
髙橋:
その通りですね。そして、3つ目の理由が、大学時代の経験ですね。私は、大学紛争の時代に大学に行きました。東大の入試がなかったし、東京教育大学の入試も一部中止になったころです。私は早稲田に入りましたが、入学式の翌日から、無期限バリケードストライキになりました。6ヶ月授業がなかったのです。兵庫県から東京へ出てきて、勉学を楽しみにしていたのに、無期限のストライキです。授業が始まっても、学生運動の活動家がやってきて、先生を追及して、授業が成り立ちません。内ゲバもありました。そんな中、学内で一人の学生が殺されるという事件がありました。すごくショックでした。どうして、日本人同士が殺し合いをしなければならないのか。我々は戦後教育で民主主義と平和教育を学んできたはずなのに、どこに平和があるんだ。民主主義は相手を尊重することじゃないのか。大学には、平和も民主主義もない。どうしてそんなことになってしまったのか。そんな憤りで胸がいっぱいになりました。戦後という時代に、私たちが学んできたことには嘘がある。占領文書で日本とアメリカがどんな議論をしたか残されているはずだ。どういう思想の戦いがあったのか、それを研究してみたい。学生時代に、そういう気持ちになりました。
中川:
きっと、突き動かされるような思いがあったのでしょうね。それで、先生はアメリカに渡ったということですが、いくら公開されたとは言え、膨大な量の資料の中から、必要なものを探すのは大変なことだったのではないですか。
髙橋:
占領軍の担当官の名前が書いてある段ボールが乱雑に置いてあるだけで、体系的に整理されていません。とにかく、手当り次第に調べるしかありませんでした。2年半、まったく資料は見つかりませんでした。このまま見つかりませんでしたと日本に帰るわけにはいきません。それで、女房を先に帰国させ、インスタントラーメンと乾燥ワカメとシイタケばかりを食べて、人とも会わずに文書探しに専念しました。腹をくくると集中力が高まるのでしょうか、直感で探し求めていた資料に行き着いたりしました。最後の半年の間に、今回本にしたような重要な文書を見つけることができました。当時、年間にコピーできる枚数は100枚に限られていましたので、私はひたすら筆写しました。それが、段ボール10箱以上にもなりました。
中川:
いやあ、すごい執念ですね。でも、腹をくくると直観力が増すというのはわかります。心に強い決意をもつと、氣が満ちてきますからね。氣が満ちてくると、まわりからいろいろな応援がやってきます。たぶん、先生に歴史の真実を突き止めてほしいというエネルギーもあったと思います。先生が腹をくくったことで、そういうエネルギーがサポートしてくれたという部分もあるかと思いますね。

<後略>

(2014年6月11日 明星大学、日野キャンパスにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと」
髙橋 史朗 著 (致知出版社)

金山 秋男(かねや まあきお)さん

1948年栃木県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専攻は死生学、宗教民俗学。明治大学法学部教授、明治大学死生学・基層文化研究所代表、明治大学野生の科学研究所副所長、国際熊野学会副代表。著書に『歎異抄』(致知出版社)『古典にみる日本人の生と死』(共著・笠間書店)『生と死の図像学』(共著・至文堂)などがある

『日本人独特の死生観。その根底にあるのは魂の信仰』

日本人の死生観を知りたくて、沖縄や熊野へ行くようになった

中川:
先日は、沖縄センターまでお越しいただき、ありがとうございました。あのときは、ごあいさつ程度しかできませんでしたが、今日は、ゆっくりと、先生のご専門である死生学についてお聞きしたいと思っています。先生がセンターへ来てくださったのは、アウエハント静子さんのご紹介でしたよね。
金山:
直接先生のもとへお連れいただいたのは石嶺えりさんです。彼女も熱心に真氣光の道を歩んでおられて、ちょうど先生が沖縄に来ておられるから是非会ってみてということで。静子さんとは数年前からのご縁で、明治大学が行っている社会人向けのリバティアカデミーという教養・文化講座の講師をお願いしたこともあります。スピリチュアルなお話、いろいろと聞かせていただいています。彼女も、真氣光とは、ずいぶんと古いご縁だとお聞きしましたが。
中川:
先代が初めてヨーロッパへ行ったころですから、25 年くらい前からのご縁ですね。通訳をやってくださったり、いろんな方をご紹介くださったり、ずいぶんとお世話になりました。今回も、こうやって先生とのすばらしいご縁を作ってくださって、ありがたいですね。ところで、先生のご専門の死生学ですが、そういう学問というのは古くからあったのですか?
金山:
学問として意識されてくるのは90年代でしょうか。それまでも英語でサナトロジーと言い、どう死ぬかということをテーマにした死学というのはありましたけどね。がんで亡くなった千葉敦子さんというジャーナリストに、『よく死ぬということはよく生きることだ』という著書がありますが、それがとても印象に残りました。以来、死ぬことと生きることとの関係をずっと考えてきました。それを死生学という名前で呼んで、8年ほど前に、死生学研究所というのを作りました。ですから、まだ学問体系として整っているものではありません。
中川:
どうして先生は死のことを考えるようになったのでしょう。あまり、死のことは考えたくないというのが普通じゃないですか。
金山:
私は、死生学をやる前は英文学をやっていました。ところが、30代半ばで神経症になりまして、自分の首を吊る枝ぶりを探して歩いている時期がありました。以前に、夏目漱石の『行人』という小説を読んでおりましてその中で、主人公の一郎が、人生の出口は三つしかないと言っているんですね。ひとつは死ぬこと、それから狂うこと、三っつめが門を叩くことだって言うわけですよ。狂い死ぬのはきついなと思って、私は門を叩くことを選び、横浜の鶴見にある總持寺の門を叩き、坐禅を組むようになりました。それが縁で、道元禅師のことを勉強するようになりましたが、これが難しい。『正法眼蔵』にはとても歯が立たず、そのまわりをグルグルと回っていました。どこかとっかかりがないかと入口を求め続けて、5~6年たってやっと論文が書けました。そのとっかかりが、生しょう死じの巻で、そのあたりから、今の方向へと進んできた訳です。それが1990年代の末ですね。
中川:
死ぬとか狂うではなく、門を叩くという道を選んだのが良かったのでしょうね。マイナスの状況になったとき、ちょっとした気持ちの切り替えで、それが大きなプラスに転換することはよくありますね。
先生自身が死まで考えるほどの状況になったからこそ、死を現実的にとらえることができるわけで、神経症になったのも、今の研究をされる上で、とても意味があることなんだって思いますね。
日本人というのは、独特の死生観をもっているんじゃないですか。
金山:
そうですね。日本人独特の死生観の背後にあるのは、やはり日本人特有の霊魂観、他界観だと思います。私は、それが知りたくて、熊野とか沖縄とか出雲に行くようになりました。それが2000年以降ですね。
中川:
日本人は、霊魂とかあの世とか、信じている民族じゃないかと思うのですが。
金山:
私もそう思います。日本人の根底にあるのは魂の信仰です。そのあと、遺骨の中に魂が宿るということで、遺骨を大事にするようになりました。もともとは魂の信仰で、高野山など聖地への納骨信仰を通して、骨に執着する文化はあとから出てきたものです。日本人は、まず魂があって、次に遺骨があって、最後にお墓がくるんです。昔はお墓はなかったですからね。たいてい風葬でした。
中川:
太平洋戦争で亡くなった方のお骨を拾いに行くとかありますからね。魂を信じつつも、骨とか遺体がないと、なかなか死は実感できませんよね。

<後略>

(2014年4月30日 明治大学・駿河台キャンパスにて 構成 小原田泰久)

岩崎 靖子(いわさき やすこ)さん

映像作家。OLから転身し、映画を撮り始める。2007年に、入江富美子監督の「1/4の奇跡」をプロデュースし、映画を配給するためのNPO法人「ハートオブミラクル」を設立。その後、監督として、「宇宙の約束」「僕のうしろに道はできる」「日本一幸せな従業員をつくる!」を次々と発表。たくさんの気づきを与える映画作りを続けている。ハートオブミラクル http://www.heartofmiracle.net/●自主上映を希望される方、上映に関する最新情報は、ホームページをご覧ください。http://www.heartofmiracle.net/

『夢や希望を失わないで!こんなにもすてきな生き方がある』

まるごとの自分を受け入れることができたことで大きく変われた

中川:
岩崎さんの撮られた「僕のうしろに道はできる~奇跡が奇跡でなくなる日に向かって」という映画を拝見しました。脳幹出血で倒れて、あと3時間の命と言われた男性(注:宮田俊也さん=愛称・宮ぷー)が奇跡的に回復していくドキュメンタリーですが、その男性を一生懸命に介護されていたのが山元加津子さんでした。山元さんとは、1999年に、彼女のご自宅にうかがって対談させていただきましたから、懐かしい思いで映像を見させていただきました。あの当時、山元さんは、特別支援学校の先生で、彼女の人柄というか、一生懸命さというか、何とも言えない温かな雰囲気によって、障がいをもった子どもたちとの間にとても強い信頼関係ができているという話に、私はとても感動しました。中には、すてきな詩を書くなど、もっている能力を最大限に発揮できるようになった生徒もいるといった話も聞かせてもらったのを覚えています。
岩崎:
映画を見てくださって、本当にありがとうございます。そんなにも前から、かっこちゃん(注:山元加津子さんはまわりから「かっこちゃん」と呼ばれている)をご存知だったとはびっくりです。本当にすてきな方です。
中川:
岩崎さんは、今は、ドキュメンタリー映画の監督さんという肩書ですが、もともと、映画関係の仕事をしておられたのですか。
岩崎:
いえいえ、ずっとOLをやっていました(笑)。OLをやめて10年くらいになります。「僕のうしろに道はできる」は、私にとっては3作目の作品です。
中川:
どうして、OLをやっておられた方が映画を撮るようになったのですか。何かきっかけがあったと思うのですが、とても興味深いですね。
岩崎:
OL時代の私というのは、ちょっとしたことですぐに落ち込んでしまうタイプでした。ホント、ヘコタレ虫でした。人前に出ると極度に緊張するし、生きて行くのがとても大変でした。そんな自分を何とかしたいと、コーチングを受けたりしていたのですが、そのときに、コーチから言われたひと言が、私の人生を変えましたね。そのコーチは、「心理的なことと結果とは関係ない。自信がない人の方がいい結果を出すものだ」と教えてくれました。つまり、自信があるとかないということと、いい結果が出るかどうかは関係ないと言うのです。自信がないからいい結果が出せないと思い込んでいた私にはびっくりするような言葉で、自信がなくてもいいんだ、ヘコタレ虫でもいいんだと、そのときはじめて、自分を受け入れることができました。
このままの自分で、やりたいことにチャレンジしてもいいんだと思ったら、人前に出ることをあんなにも嫌がっていたのに、今度は、人前に出てみたくてたまらなくなりました。女優もやったことがあるんですよ。コマーシャルなんかに出たりしました。でも、こういう役をやりたいというこだわりがあって、女優を続けるのは無理だと思い、それなら大好きなドキュメンタリー映画を撮ろうと、方向転換したわけです。
中川:
そうですか。変われないと悩んでいる人が多いのに、OLから女優、そして映画監督と、この転身はすごいですね。それも、変わらなくていいと気づいたら変わるんですからね。ちょっとしたアドバイスで、ぱーっと世界が開けたわけですね。
岩崎:
そうなんですね。でも、映画監督をするとは思ってもみませんでしたけどね(笑)。振り返ってみれば、人との出会いが大きかったなと思います。
中川:
山元さんとの出会いは大きかったでしょうね。
岩崎:
そうですね。もともとは、今、一緒に映画を作っている入江富美子さんという監督のご縁です。私たちは、ふーちゃんと呼んでいますが、ふーちゃんもすごい人ですよ。一人の平凡な主婦が、大晦日の夜、感謝を呼び起こす映画を作るんだというひらめきをもらって、かっこちゃんを撮り始めました。でも、彼女は映画なんて撮ったこともないし、かっこちゃんとも会ったことがありませんでした。かっこちゃんの描いた絵の展覧会に一度行っただけでした。感じるところはあったのでしょうが、まったく無謀な話ですよ。ふーちゃんは、初めてかっこちゃんの講演会に行って、カメラを回すわけですが、その映像はとても使い物にならないものでした。彼女は、かっこちゃんの話に感動して、カメラを回しながら泣いているわけですよ。だから、鼻水をすする音が、いっぱい入っている。それじゃとても使えません(笑)。そんなド素人が作った映画が、何と、世界16か国で上映されているんですからね。「1/4の奇跡~本当のことだから~」という映画です。ぜひ、ご覧ください。

<後略>

(2014年4月11日 東京都中央区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)

安藤 久蔵(あんどう きゅうぞう)さん

1911年(明治44年)千葉県生まれ。慶應義塾大学卒業。貿易会社を経て、家業の水産業を継ぐ。50歳で引退し、学生時代からの趣味である登山に没頭。日本の山々だけにとどまらず、世界各地に遠征する。85歳から、コーヒー豆の輸入・販売の事業を始める。現在、東京都杉並区西荻窪で「アロマフレッシュ」という店を営む。

『長生きの秘けつ? 生きることが好きになればいいんじゃないかな』

若い人が喜ぶことをすれば若い人が集まって来て若返る

中川:
安藤さんは、今年の2月で103歳になられたとか。これまでたくさんの方とお会いしてきましたが、103歳の方というのは初めてです(笑)。それにしても、お若くてびっくりしています。100歳を過ぎているとはとても思えませんね。
安藤:
みなさん、そう言ってくれるね。最近、また若くなったみたいでね(笑)。私、山へよく行くでしょ。そのとき、若い人を連れていくんですよ。山ガールね(笑)。若い人と付き合うと若返るよ。
若返るには、何と言っても、気力が大事だね。年を取って「ダメだあ」とか言っていると、どんどんとしわが増えてくる。気力をなくしちゃおしまいだね。
昔から、健康でいるには、食べること、運動が大事だって言うでしょ。でも、それだけじゃ足りなくて、三番目に思考ね。これが大事。今は、この思考が欠けている。食べて多少運動はしても、あとはテレビを見ているだけ。人と付き合うのを嫌がるしね。それじゃあ、若くいられるはずがない。
中川:
なるほど、気力ですか。私どもは、氣をテーマにしています。きっと、安藤さんがこうやって元気で生き生きとされているのは、氣のエネルギーが高いからだと思いますよ。氣が満ち満ちている人のそばにはたくさんの人が集まってきます。安藤さんのまわりにも、人がいっぱい集まってきますよね。
安藤:
毎年、春になると近くの善福寺公園で花見をするんだけど、300人くらい集まってくるからね。ほとんどが若い人。10時くらいに集まり出して、若者は夜の11時くらいまで大騒ぎしている。私は、早めに失礼するけど、よく集まってくれると思うね。
中川:
みんな安藤さんのエネルギーに引き寄せられて集まってくるんですよ。安藤さんは、西荻窪でコーヒー豆を販売されていますが、お店にもたくさんの人が来られるみたいですね。
安藤:
ニートの兄ちゃんも来たことがあったね。平日の昼間に、それも2人で。「仕事は何やっているの?」って聞いたら、「何もやってない」って言う。私は、ほめてやるの。偉いねって。皮肉じゃないよ。だって、働かないで食っていけるんだから大したものでしょう。私なんかこの年で働かないといけないんだから。
私は、生まれ変わったら、あんたたちみたいに、働かなくても生きて行ける人生を選ぶよって言ってやる。だから、一生、この生き方を通しなさいよって、励ましてあげるわけだ。
彼らは、ニートでほめられたことなんかないから、最初は面食らうんだけど、居心地がいいのか、しょっちゅう、顔を出すようになる。まあ、うちへ来ればただでコーヒーが飲めるからね(笑)。
中川:
説教ばかりされてきたでしょうから、ほめられたらうれしくなりますよね。でも、ほめられているうちに、彼らも変わっていくんじゃないですか。
安藤:
そうね、何ヶ月か通ってくるんだけど、だんだんと来なくなる。久々に顔を出したときに、どうしてたんだと聞くと、働き始めたって言う。「何言ってんだ。一生、ニートを通すって言ったじゃないか」って、文句言ってやるんだけど、ここへ通っているうちに、自分みたいな若いのがぷらぷらしていちゃいけないなって思うようになったって言い出してね。レストランでアルバイトを始めたんだって。「近くへ来たら寄ってよ。焼きそば、二人前おまけするから」なんて言ってたよ(笑)」
中川:
安藤さんの働く姿を見て、何か感じるものがあったんでしょうね。言葉だけで言ってもなかなかわかってもらえないけど、行動していれば、それを見て感じてくれますね。
安藤:
100歳を過ぎて働いているんだから、何か感じたんだろうね。人間は、ついつい、口でわからせようとしてしまう。昔は、職人なんか、見て覚えろと言われたものでね。親方のやるのを見て覚えて一人前になったから、腕も確かだよ。いまは、一から十まで当たり前のことまで教えてあげるから。
中川:
でも、安藤さんのところに若い人が集まってくるというのは、何かコツがあるんでしょうかね。
安藤:
簡単、簡単。若い人が喜ぶことをすればいいだけのこと。年寄りはすぐに説教をしたがるから若者が寄り付かない。特に、現役時代に偉かった人は、若いころの自分はこうだった、ああだったって自慢したりするから、若者が寄りつかない。そういう人が定年になると、さみしい人生になるよ。自分は大したものじゃないという気持ちで若者と接すれば、若者も話に乗ってくる。
それと、年寄りだから面倒を見てもらうのが当たり前だと思ったら嫌がられるね。反対に、何かをやってあげれば、まわりがありがたがってくれる。長生きしてねと大事にしてくれるものですよ。だから、やってもらうよりもやってあげることを考える。そのためには健康じゃないといけないよね。
もてる年寄りになるには秘けつがある。教えてあげるよ。まず、愚痴らないこと。次にさみしいからと言って相手をべたべたと触らないこと。そして、仲良くなったからと言って、ふだんの買い物とかまでお願いしちゃダメ。とにかく、いつになっても自立していることが大事なんだよ。その気力を失わないことだね。

(後略)

(2014年3月12日 杉並区西荻窪「かがやき亭」にて構成 小原田泰久)

松崎 運之助(まつざき みちのすけ)さん

1945年旧満州生まれ。長崎市立高校(定時制)をへて明治大学第二文学部を卒業後、江戸川区立小松川第二中学校夜間部、足立区立第四中学校夜間部などに勤務。2006年3月に教職員を退職した。山田洋次監督作品の映画「学校」のモデルであり原案者。著書に『夜間中学があります!』(かもがわ出版)、『母からの贈りもの』(教育史料出版会)『学校』(晩声社)「ハッピーアワー」(ひとなる書房)などがある。

『母親の深い愛、夜間中学校の生徒たちから学んだこと』

予期せぬことばかり起こる夜間中学校の授業。だからこそ学びになる

中川:
松崎先生は、長年、夜間中学校の教員をやっておられたそうですが、夜間中学校というのがあるとは知りませんでした。夜間の高校というのは全国にありますけどね。
松崎:
夜間中学校は、全国に35校あります。東京には8校ですね。ぼくは、東京の下町、江戸川区の小松川第二中学校、足立区の第九中学校、第四中学校の夜間部で教員をしていました。
中川:
夜間中学校というと、どのような生徒さんが来られているのですか。
松崎:
実にいろいろな方が来られています。ぼくが勤めていた学校だと、生徒が80人くらい。10クラスにわけて勉強していますから、1クラス7~8人ですね。貧困や病気や学校嫌いなど、さまざまな理由で長期間学校を休み、義務教育を修了できなかった人、障がいがあって就学を断られた人、中学校の卒業証書はもっているけれども、掛け算の九九や「あいうえお」が満足にできない人、在日朝鮮人の方、タイやフィリピンから来られている人など、事情も国籍もさまざまです。年齢も、16歳の若者から80歳くらいのおじいちゃん、おばあちゃんまで、本当にバラエティに富んでいます。
いずれも、基礎教育から切り捨てられ、文字と言葉を奪われ、生活を脅かされてきた人たちです。学びたくても行くところがない人たちが集まってきているところです。
中川:
そうですか。どんな授業が行われているか、ちょっと、想像もつかないですね。
松崎:
めちゃくちゃ楽しいですよ。普通の学校だと、教師は授業の準備をしていって、それに沿って授業を進めるのですが、そんなのは通用しませんからね。
あるとき、教育委員会から視察の方々が見えましてね。みなさん、背広にネクタイ姿で教室に入ってくるわけですよ。生徒の皆さんは、いつもと違う雰囲気に緊張しています。そんなところへパートが長引いてしまったおばちゃんの生徒が遅れて入ってきます。そのおばちゃんは、焼き芋を抱えている。「今日、給料が出たの。駅を出たら焼き芋を焼いているおっちゃんがいたの。おいしそうだったし、みんなも寒い中やってきているので、みんなの分を買ってきた」なんて、うれしそうに言うわけですよ。普通の学校では、授業中に飲食するというのは許されていませんが、ぼくは、寒いのでみんなに食べさせたいとか、給料が出たうれしさを分かち合いたいという気持ちが大事だと思うから、みんなで焼き芋をいただくことにしました。教育委員会の人にも、「どうぞ」なんて渡したりして。すっかり、緊張感がほぐれて、いつもの雰囲気になるんですね。教育委員会の人たちは、目を白黒させていましたよ(笑)。
毎日、予期せぬことが起こります。予期せぬことが起こるからドラマなんですね。
中川:
視察中に焼き芋ですか。教育委員会の方もさぞかしびっくりされたでしょう(笑)。でも、先生は、どうして夜間中学校の教師になろうと思われたのですか。
松崎:
ぼくは、終戦の年に生まれたのですが、貧しい中、長崎のバラック小屋でおふくろに育てられました。中学校を出てから造船所で働き、18歳になって定時制高校に行きました。大学へ行きたかったので、東京の大学の夜間部へ入り、昼間は町工場で働きながら、夜は大学へ通うという生活をしていました。教員免許を取ろうと思いましたが、そのためには3週間の教育実習が必要でした。私にとって、昼間の仕事は大切だったので、昼間の実習には行けません。その稼ぎを、体調を崩していたおふくろや弟や妹の生活費として仕送りしていましたから。
それで、大学に相談したら、8校の公立の夜間中学校があって、そこで実習をすればいいということを教えてくれました。それだったら、昼働きながら夜に実習ができるということで、夜間中学校で教育実習をすることにしたのです。それがきっかけですね。
中川:
夜間中学校のことは、そのときはご存知なかったんですね。行ってみていかがでした。ずいぶんと驚かれたんじゃないですか。
松崎:
びっくりですよ(笑)。中学校だから中学校の勉強をすると思っているじゃないですか。私は国語が担当ですから、「走れメロス」とか、一生懸命準備をして出かけて行きました。ところが、ここがあなたの教室ですよと、指導の先生に連れて行かれて、生徒の皆さんが何をやっているのか見ると、ひらがなの勉強なんですよ。どうして中学生でひらがなやっているのかと、まずは驚きました。こんな調子じゃ、ぼくの用意した「走れメロス」にたどりつくのにどれくらいかかるかと途方に暮れてしまいました(笑)。
ぼくは、いっぱい教材研究してきましたから、それをやりたいわけですよ。でも、生徒の皆さんは、最初こそ、あいさつするぼくを見てニコッとしてくれましたが、あとは下を向いてひたすら字の練習ですよ。ぼくには、ひらがなをどう教えればいいかわからないし、一人一人違うことをやっているし、だれもぼくの方を見てくれないし、イライラしてきました。皆さん、自分のことだけを夢中になってやっているわけですよ。

(後略)

(2014年2月19日 SAS東京センターにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『学校』 松崎 運之助 著 (晩声社)
「ハッピーアワー」 松崎 運之助 著 (ひとなる書房)

長堀 優(ながほり ゆたか)さん

1958年東京都生まれ。群馬大学医学部卒業。横浜市立市民病院研修医をへて、横浜市立大学医学部第二外科(現・消化器腫瘍外科)に入局。ドイツ・ハノーファー医科大学に留学。その後、横須賀共済病院外科医長、横浜市立みなと赤十字病院外科部長をへて、現在、「財団法人 船員保険会 横浜船員保険病院」副院長・外科部長。著書に「みえない世界の科学が医療を変える」(でくのぼう出版)がある。

『えない世界を受け入れたとき医療は大きく変化する』

病気がきっかけで 今まで以上に充実した 毎日を送れる人もいる

中川:
先生は「見えない世界の科学が医療を変える」(でくのぼう出版)という本を出されましたが、病院の副院長と外科部長をやっておられる方がこういう本を書かれたというので、とてもワクワクしながら読み進めました。本の中にいろいろな先生方が登場してきますが、推薦文を書かれている村上和雄先生をはじめ、池川明先生、安保徹先生、寺山心一翁先生、鈴木秀子先生、それに臨死体験の話で出てくる木内鶴彦さんら、対談させてもらったことのある方がたくさん出ていて、先生にはとても親近感を感じています。先生とはご縁が深そうですね(笑)。
長堀:
そうですか。何か深いつながりを感じますね。今日、こうやってお会いできたのも、きっと必然なのでしょうね。
中川:
先生は、昔から見えない世界のことには興味をもたれていたのですか。
長堀:
いえいえ、若いときは唯物論者でした。学生時代は物理が大好きでしたし、医者になりたてのころは、大学で教えてもらった医学以外には目が向かなかったですね。ですから、死についてはもちろん、患者さんの心についても考えたことはほとんどありませんでした。
中川:
それがまたどうしてこういう本をお書きになるようになったのでしょうか。
長堀:
医師として経験を積むうち、いろいろなことを感じるようになりました。たとえば、人間の治る力ですね。若いころは、術後の経過が順調じゃないときには、自分の手技が良くなかったからだと思っていました。しかし、ある程度の経験をつんで技術も安定してくると、治療の結果には、手技の良し悪しだけではない、別の要因もあることがわかってきました。それが、患者さんの治る力ですね。同じように手術はうまくいったのに、Aさんはすぐに回復して、Bさんはなかなか元気になれないということは、よくあることです。これは、科学では説明できません。
中川:
機械なら、同じ処置をすれば同じ結果が出ますからね。人間はそういうわけにはいきませんね。
長堀:
そうなんですね。私の学位論文を指導してくださった先生は、徹底的に科学的な思考を仕込んでくれたのですが、私の論文が出来上がったときに言った言葉がとても印象的でした。「医療は科学ではないんだ。科学らしくしているだけなんだぞ」って言いました。これは本当に意外でした。それがずっと頭に残っていました。そのあと、医学に対する見方を変える上でとても影響があったひと言でしたね。
中川:
アプローチ的には科学的なものの見方は大事ですよね。ただ、それだけでは説明できないことがたくさんあるということも知っていないといけないですね。科学を突き詰めていくと、わからないことがたくさんあることに気づくようですね。村上先生も、生命というのはあまりにもうまくできすぎているとおっしゃっていました。
長堀:
その通りですね。医者を何年もやっていると、さっきの治る力もそうですが、患者さんからいろいろなことを気づかせていただけます。特に、がんの患者さんは死と直面している方たちで、中には医療では治せない方もいます。そうした方と接することで、考え方が大きく変わっていきました。
彼らは決して落ち込んでいるばかりではありませんでした。驚いたのは、病気をきっかけに、生き方や考え方を見つめ直して、健康だったときよりも充実した毎日を送っている人がいたことです。さらに、気持ちの持ち方が変わることで、実際に病気の進行が遅くなるという患者さんもおられました。
絶望的な状況を理解しながらも、微笑みすら浮かべながら病気に立ち向かっている患者さんたちと触れ合っていると、目に見えない心のあり方というものが、体の状態や病気の進行に影響を与えているんじゃないかと思うようになってきましたね。今までの私の知識や考え方では説明のつかないことが、医療の現場ではたくさん起こっていたのです。

(後略)

(2014年1月22日 神奈川県横浜市の横浜船員保険病院にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「見えない世界の科学が医療を変える―がんの神様ありがとう」 長堀 優(著) (でくのぼう出版)

横澤 和也(よこざわ かずや)さん

長野県安曇野市出身。大阪芸術大学演奏学科フルート専攻を卒業。昭和60年奈良県奥吉野になる天河弁天社で石笛と出あいその音色に魅せられる。西洋音楽から学んだ確かな音楽理論とテクニックに加え、日本人としての感性を生かした、独特の即興演奏スタイルは、民族や宗教を越えた命の響きとして好評を得ている。
http://iwabue.com/

『石笛の音は、太古からのエネルギー、自然のリズム』

新月や満月を意識することで、体が変化してくることも

中川:
はじめまして。実は、うちのスタッフの一人が、横澤さんの石笛(いわぶえ)コンサートをお聴きして、とても良かったからぜひ対談をと、推薦してきましてね。何か、コンサートが終わったあと、「石笛はどこで拾われるのですか?」という質問をしたようですが。
横澤:
そうですか。ありがとうございます。そんなことを聞かれたの、覚えていますよ。うれしいですね。
奇遇と言えば、私は、会長のお父様も存じ上げています。私の知り合いに、マクロビオティックをやっていた方がいましてね。お父様が生駒で講座をやっておられるときに、お手伝いに行っていたようで、その人のご縁で、お父様のお話をうかがったことがありました。
あのころ、食への意識は、お腹がいっぱいになればいいんだという程度のものでした。マクロビオティックも、正食という言い方をしていて、まだあまり広がってなかったころですよ。そんな時代に、食の大切さをきちんと踏まえて講座をやっておられたお父様の先見性には、今更ながら、びっくりしています。
中川:
今は、マクロビオティックもずいぶんとおしゃれになりましたからね。あのころは病気を治したり修行のための食事みたいな感じがありましたね。食べてみると、すごくおいしかったんですけどね。
横澤:
そうなんですよ。そもそも石笛と出あったのは天河神社ですから。
中川:
父も私も、天河神社の柿坂宮司とは対談をさせていただいたことがあります。天河神社へはよく行かれているヨガの龍村修先生が、研修講座の講師をしてくださっているご縁で、ご紹介くださいました。何度かお参りにも行っています。
横澤:
そうでしたか。私は、「地球交響曲」という映画を撮られた龍村仁さんは、よく存じ上げています。
中川:
修先生は、仁監督の弟さんですね。父が合宿制の講座を始めたとき、下田にあった沖ヨガの道場が気に入りまして、そこでやらせていただくようになったのですが、そこの道場長をやっておられたのが修先生でした。仁監督とも、何度か対談をさせていただいています。
横澤:
仁さんが作られた映画も、今の時代にとても大事なメッセージを発信されていて、私は大好きです。今、新しいものを作られていますね。天河神社が大事な役割を演じるようですよ。深いご縁の中で、今日、こうやってお会いできたのを感じます。本当にうれしいですね。
中川:
今日は、横澤さんから神社で対談をということで、おごそかな感じでお話をさせていただいているのですが、渋谷の駅のすぐそばに、こんな神社があるとは知りませんでした。ここでは、奉納演奏とか、よくやられるのですか。
横澤:
ここは、金王八幡宮と言いまして、とても由緒ある神社です。私は、ここだけではないのですが、神社の境内をお借りしまして、新月の会というのをやっています。新月の日に願い事をすると、満月の日にかなうと言われていますから、新月の日に集まるというのは、何か夢があっていいじゃないですか。願いがかなうかどうかはともかく、私は月を通して、自然の摂理というのを感じてもらいたくて、毎月、新月の夜に、お話をしたり、石笛を吹いたりするという集まりをやっています。
中川:
月もそうだし、太陽や星もそうだし、私たちは天体からのエネルギーの影響を受けて生きていますからね。でも、今は、そんなことをあまり考えないようになっていますね。新月でも満月でも、あまり関係なく生きています。
横澤:
今日は新月だからお月様は見えないよと言うと、「えーっ」と驚く子どもたちもいます。お月様が見えても見えなくても、別に生活に変化があるわけでもないし、暗ければ電気をつければいいんだくらいにしか思わないですよ。でも、今日は新月だとか、満月だとか、意識するだけで、何かが違ってくるはずです。会に参加された女性の方が、月を意識すると、体のリズムまで変わってくるとよく言われます。女性の体は月の影響を受けやすいということもあると思いますが、自分でコントロールできない力が働いていることを感じるんでしょうね。
中川:
意識するだけで体は変わると思いますよ。もうどれくらいやっておられるんですか。
横澤:
もう4年になります。参加者は若い女性が多いですね。少ないときは10人くらい。多いと30人、40人と集まってくださいます。決めているのは新月の夜ということだけなので、ウイークデーになることもあります。土日なら参加できるのにという人もいますが、人間の都合でいろいろなことを決めるのではなくて、人間が自然に合わせるという生き方も大事かと思います。
なるべくたくさんの方にご案内するようにしています。参加できなくても、その案内を見てくださって、そろそろ新月だと思ってくださるだけでも違うでしょうから。

(後略)

(2013年11月15日 東京都渋谷区・金王八幡宮にて 構成 小原田泰久)

水谷 もりひと(みずたに もりひと)さん

1959年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部卒。学生時代に「国際文化新聞」を創刊。卒業後、宮崎に戻り、宮崎中央新聞に入社。94年に編集長となり、表記を「みやざき中央新聞」と変え、内容も一新する。また、ラジオのパーソナリティとしても活躍し、講演会や読者会で全国を回る多忙な日々を送っている。著書「日本一心を揺るがす新聞の社説」(ごま書房新社)はベストセラーとなり、第二弾、第三弾も発売中。最新著書「この本読んで元気にならん人はおらんやろ」(ごま書房新社)

『宮崎から世界に向け、新聞を通してプラスの氣を発信する』

新聞社を譲り受け、プラスの情報を発信する新聞を作り始める

中川:
はじめまして。水谷さんが編集長を務めておられる「みやざき中央新聞」を拝見しました。名前を見て、宮崎県のことが書かれている新聞かと思ったのですが、ぜんぜんそんなことはなくて、編集長のエッセイのような社説から始まり、いろいろな方の講演の内容が紹介されていたりして、とても興味深く読ませていただきました。
産婦人科医の池川明先生とかヨットの白石康二郎さんといった、月刊ハイゲンキにも登場していただいた方の講演も紹介されていて、すごく親しみを感じます。どういったことで、こういう新聞を作ろうと思われたのですか。
水谷:
今日はこういう機会を作っていただいてありがとうございます。
私、学生時代を東京で過ごしたのですが、留学生との交流がきっかけで、国際交流に目覚めまして、その後、国際交流を体験した仲間たちで国際感覚や国際性を啓発しようと、「インターナショナル・カルチャー・プレス(国際文化新聞)」というフリーペーパーを発行したんです。広告を企業から募りまして、東京都内の大学で無料で配っていました。スタッフもいろいろな大学から集まっていて、かなりエネルギーを注ぎました。おかげで2年留年しましたね(笑)。
30歳で結婚して、子どもの出産と同時に宮崎へUターンしました。最初は仕事もなく、フリーターみたいなことをしていたのですが、2人目の子どもができてからは真面目に仕事せなあかんと思いまして、ハローワークに行き、そこで「新聞記者募集」という求人票を見つけたんです。これはいいなと思って応募し、採用されたわけです。
この新聞は県庁の広報課からもらった情報をそのまま流すといった面白味のないものでした。心の中で「もし自分に編集を任せてもらえたらおもしろい新聞を作れるのに」と思いながら、生活のために働いていたのですが、1年くらいして、社長に呼び出され、「自分はもう引退する。あんた、引き継いでやらないか?」と言われて、「やります」と即答しました。
中川:
面白いですね。もらっちゃたんですね。それがいつごろの話ですか。
水谷:
23年前です。もらったのはいいんですけど、「台所」は火の車で、一人分の給料も出る状況ではなかったので、2人いた社員には辞めてもらって、新たにぼくの妻を入れて2人で再スタートとなったわけです。というのは、事情を相談したとき、妻が「私が営業をするから、あなたがいい新聞を作って」と言ってくれまして、それから彼女が飛び込み営業から始めて、今日の新しい読者の基盤を作っていきました。
当時の情報源は行政がメインでしたから、行政が行うイベントに取材に行くんですけど、時々、記念講演があるんですね。ほかの新聞記者は式典が終わったら帰ってしまって、翌日の紙面に「こんな大会が開催されました」という簡単な記事しか載せません。でも、私は、記念講演まで聞いていて、どんな話が語られたかを書いていたんです。それが面白いと評判になって、それなら、それを専門にしようと、講演会の中身を紹介するようになりました。今は、宮崎県内だけでなく、全国を回って、感動した講演、為になった講演、面白かった講演を紹介しています。
中川:
この新聞を読ませていただくと、たくさんの勇気や元気をいただけますね。普通、新聞というと、凄惨な事件とか事故、紛争、災害、病気、いろいろな不祥事など、不安をあおるような記事が多いですよね。読んでいるだけで気が重くなってきます。新聞だけでなく、テレビでも雑誌でも、ネガティブな報道が多くて、私どもの言い方だと、マイナスの氣がどんどんと送り込まれています。そんな中で、こういうプラスの氣を送ってくれる新聞は貴重ですよ。
水谷:
実は、対談するに当たって、中川会長のラジオ番組を拝聴しました。その中に運気を上げる14の方法があって、そのひとつに「情報をあまり取り過ぎない」というのがありましたよね。私も大賛成です。
中川:
真氣光は私の父が始めたものですが、父は新聞やテレビのニュースからは悪い波動を受けるから、あまり読んだり見たりしない方がいいと言っていましたね。
そういう意味では、こういう新聞なら多くの人に読んでもらいたいなと思いますね。でも、最初のころは、広げるのに苦労されたんじゃないですか。
水谷:
最初の10年間は、購読者が少し増えたと思ったら減ってということの繰り返しでした。私は、取材が楽しかったので、毎日ワクワクして飛び回っていましたが、営業をやっていた妻は大変だったと思います。彼女は飛び込み営業を始めるにあたって、自分でルールを決めました。それは「1軒も飛ばさないで飛び込む」。だからやくざの事務所であろうと、風俗のお店であろうと、銀行であろうと、1軒も飛ばすことなく回っていました。だいたい100軒回れば3軒くらい話を聞いてくれて見本紙を受け取ってくれ、1か月後に返事を聞きにいくと、3軒のうちに1軒は有料購読をしてくれるという割合でしたね。

(後略)

(2013年10月25日 東京都豊島区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「日本一心を揺るがす新聞の社説」 水谷もりひと 著 (ごま書房新社)

高山 良二(たかやま りょうじ))さん

1947 年愛媛県生まれ。地雷処理専門家。1966 年陸上自衛隊に入隊。1992 年カンボジアPKO に参加。以来、カンボジアに特別な思いを抱く。2002 年陸上自衛隊を定年退官と同時に認定NPO 法人日本地雷処理を支援する会(JMAS)に参加。1 年の大半をカンボジアの地雷原の村で過ごし村人と共に地雷処理をする傍ら、村の自立を目指した地域復興にも奔走している。現在、NPO 法人国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)理事長。著書「地雷処理という仕事」(筑摩書房)。

『カンボジアでスイッチがオンに。人生、これからが本番』

日本に帰るとき、もう一度、カンボジアへ 戻ってきたいと強烈に思った

中川:
カンボジアから日本へ帰られたとお聞きしたので、急きょ、連絡をとらせていただいて、対談をお願いしたわけですが、快く引き受けてくださいまして、本当にありがとうございました。高山さんは、カンボジアで地雷処理の仕事をされていますが、どれくらいの割合で、カンボジアと日本を行き来されているのですか?
高山:
こちらこそ、声をかけていただいて感謝しています。今は、カンボジアに2ヶ月いて日本に帰り、日本には1ヵ月ほど滞在するというペースですね。
中川:
地雷処理の活動を始められて、10年になるそうですね。その前は陸上自衛隊におられて、PKOに参加されたことが、今の活動のきっかけだということでしたね。
高山:
私の所属する部隊がPKOに参加することになり、人事の担当をしていた私は、派遣部隊の編成をする立場になりました。600人の人選をしたわけですが、人を行かせて自分だけ残るわけにはいきませんので、自分の名前もリストの中に入れました。カンボジアには、1992年10月から93年4月まで行っていました。
中川:
PKOというのは、日本としては初めてのことでしたし、国内でも賛否両論、大変な騒ぎでしたね。高山さんにしても不安はあったのではないですか。
高山:
正直なところ、「地雷で足を吹っ飛ばされたり、悪くすれば命をなくすこともあるかもしれない」と、不安に感じたことはありましたね。
中川:
でも、この体験が、高山さんの人生を大きく変えることになるんですよね。
高山:
私は、PKOに参加するまで、確たる夢があったわけではないし、日々を、思いつくまま、優柔不断に生きてきました。行き当たりばったりで生きてきた人生でした。
しかし、PKOでの体験は、言葉では言い表せないのですが、これまで感じたことのない「桁違いのやりがい」を感じました。一人でジープを運転しているときなど、「もう、命なんかなんぼでもあげるわい」という気持ちになるくらいでした。
PKOの仕事を終えて日本に帰るとき、飛行機の窓から見た光景が強烈に目に焼き付いています。眼下に広がるカンボジアの光景を見て、「私の求めているものはこれだ」と思いましたね。
中川:
何かのスイッチが入ったんでしょうね。それで、またカンボジアへ戻ろうと、そう思ったわけですね。
高山:
みなさんから、「どうしてカンボジアへ戻ったのですか?」と聞かれるのですが、よくわからないんですね。なぜ、あんなに強烈なものを感じたんでしょうね。地雷処理をしようとかカンボジアの人に何かやってあげたいということではないんですね。理由はわからないけれども、それしか選択肢がないように、私には思えて仕方ありませんでした。
今から考えると、悔しいというか、6か月の仕事に対して中途半端だったという気持ちが強かったのかもしれません。要するに、やったという満足感がなかったんですね。ボクシングでぼこぼこにされながら、それでも立ち上がって、まだ負けるわけにはいかないと、相手に向かっていこうとしたときにタオルを投げられて強引にリングの外に出されたという感じですかね。もっと戦わせてくれという思いのまま、半年が過ぎてしまったということかな。だから、何をしたいということもなかったけれども、ただ、カンボジアへ戻りたい。それだけでしたね。
中川:
何か目に見えない力が働いていたのではないでしょうか。私どもは、氣という目に見えないエネルギーを扱っていますが、世の中は、目に見える部分よりも、目に見えない部分の方が大きいと、感じることがよくあります。そういう得体の知れない力に、高山さんは導かれてカンボジアへ行き、そこで自分の使命のようなものを感じ取ったのではないでしょうかね。
高山:
私も、目に見えるものはわずかで、目に見えないものがほとんどだと思っています。作家の天童荒太さんと対談したとき、カンボジアへ戻りたかった理由がわからないという話をしたら、天童さんは、「高山さんの前世はカンボジア人だったんじゃないですか」と笑っていました。
中川:
そんなこともあるかもしれませんね。でも、PKOに行く前は、カンボジアに興味はなかったんですか。
高山:
まったくないですよ。カンボジアがどこにあるか、正確なことは知りませんでしたから(笑)。

(後略)

(2013年9月27日 羽田空港ティーラウンジにて 構成 小原田泰久)

稲垣 栄洋(いながき ひでひろ)さん

1968 年静岡県生まれ。農学博士。岡山大学大学院農学研究科修了後、農林水産省に入る。1995年に退職し、静岡県職員に。現在、静岡大学大学院農学研究科教授として農業研究に携わるかたわら、雑草や昆虫などに関する著述、講演を行っている。著書に、『雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方』(亜紀書房)『身近な雑草の愉快な生きかた』(ちくま文庫)『都会の雑草、発見と楽しみ方』(朝日新書)などがある。

『逆境をプラスに変える雑草の生き方から人生を学ぶ』

雑草は、弱いから競争相手のいない場所を選んで芽を出す

中川:
先生のご著書『雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方』(亜紀書房)を拝読しました。やっかい者だと思われている雑草ですが、現代のような激動の時代にこそ、彼らの〝生き方〟が参考になるというお話、とても興味深く読ませていただきました。
先生がおっしゃっている「ルデラルな生き方」というのはどういうことでしょうか。そこからお話をお聞かせいただけますか。
稲垣:
ありがとうございます。「ルデラル」を理解するには、雑草に対するイメージを変えていただく必要があるかもしれません。
雑草というと、「ぜったいにあきらめない雑草魂」とか「雑草のようにたくましく」とか「踏まれても踏まれても立ち上がる」とか、強いイメージがありますが、実際にはとても弱い植物で、彼らは弱くても生きられる戦略をもっているからこそ、あんなふうにあちこちにはびこることができるのです。彼らは、競争して勝ったから生き残っているわけでもないし、特別にストレスに強いわけでもありません。雑草の生き方は、実にしたたかで合理的なのです。
たとえば、コンクリートの割れ目から顔を出している雑草があります。あの姿を見ると、雑草は強いなと思ってしまいますが、あれこそ、彼らの生き残るための戦略です。弱いから、競争相手のいない場所を選んで芽を出しているのです。ルデラルというのは、荒れ地を生き延びる植物のもつ性質を言います。彼らは、強いから荒れ地で生き残れるわけではなく、荒れ地のような変化に富んでいて、とても困難な環境だからこそ生きていける戦略をもっています。
たとえば、野球でもサッカーでも、条件が整っていれば、実力通りの結果になる場合がほとんどです。しかし、グランドがぬかるんでいて、風が強くて、雨が降っていて、という条件だと、どちらが勝つかわからなくなります。条件が悪ければ、強いものも実力を発揮できません。弱い方も実力が発揮できないかもしれませんが、もし、弱い方のチームがいつもぬかるんだところで練習していたとしたら、番狂わせを起こせる可能性も高まります。
中川:
なるほど。恵まれた環境だと、結局、力の強いものが勝ちますから、わざわざ恵まれない環境を選び、そこに適応できるような形で生き残るということですね。
でも、雑草が弱いというのは、意外な気がしますね。
稲垣:
雑草は、ほかの植物がたくさんあると生えてこられないんですよ。豊かな森林には、雑草は生えてないはずですよ。ほかの植物を押しのけて自分が目立つということを雑草はできないのです。雑草は、道端とか、人が踏んで歩くところに生えてきます。競争しなくても生きられる場所を、雑草たちは選んで、その環境に適応できるようにして、生き残るのです。
中川:
そう言われればそうかもしれないですね。ところで、雑草というのは定義されているんでしょうか。
稲垣:
雑草と言うのは、邪魔者になる植物と考えればいいのではないでしょうか。山野草は雑草とは言わないですからね。田んぼや畑や道端に生えて、邪魔になるものというくらいの認識しかないですね。
実は、雑草という言葉は、あまり科学的な言葉ではありません。アメリカ雑草学会では、望まれないところに生える植物と定義されていますが、とてもあいまいです。たとえば、ヨモギなんかは、それを邪魔だと見る人がいれば雑草ですが、草餅の材料として使う人にとっては雑草ではないわけです。人によって違ってきたりします。だから、邪魔者になりやすい植物ということでいいのではないでしょうか。
中川:
そうですか。雑草というのは、学術的な言葉じゃないんですね。でも、先生は、どうしてまた、雑草を研究しようと思われたのですか。
稲垣:
農学部ですから、作物をどう育てるかというのが本来のテーマです。あるとき、作物を育てていたら、畑の横の方に雑草が生えてきました。指導してくれていた先生に「これは何という植物でしょうか」と聞いたら、「花が咲いたらわかるから、花が咲くまで育ててみなさい」と言われました。それで、いつもこの雑草を見ていたら、作物よりも雑草の方が面白くなってきました。
雑草というのは、知れば知るほど興味深い植物なんですね。作物は、ある程度、人間の予想通り予定通りに育っていきます。しかし、雑草は、そのときの環境に合わせて成長の仕方が変わります。人間の思い通りにはいきません。早く花を咲かせたり、遅かったりするんですね。次、どうなるのか、予測がつきません。雑草は育てるとなると、とても難しいですね。

(後略)

(2013年9月10日 静岡大学農学部附属 地域フィールド科学教育研究センター 藤枝フィールドにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

雑草に学ぶ「ルデラル」な生き方 稲垣 栄洋 著 (亜紀書房)

志賀内 泰弘(しがない やすひろ)さん

24年間金融機関に勤め、2006年に独立。コラムニスト、経営コンサルタント、俳人など、幅広い分野で活躍。「感謝の心」と「ギブ&ギブの精神」こそ、人生がうまくいく秘訣だと説く。「プチ紳士・プチ淑女を探せ! 運動」の代表として、思いやりでいっぱいの世の中を作ろうと東奔西走中。「毎日が楽しくなる17の物語」(PHP研究所)「つらくなったとき何度も読み返す「ポジティブ練習帳」」(同文館出版)「「また、あなたと仕事したい!」と言われる人の習慣」(共著 青春出版社)など、著書多数。

『ギブ&ギブ。与え続けていれば、必ず、自分に戻ってくる』

世の中には、うれしいことや感動することがあふれている

中川:
はじめまして。名古屋に、「いい話」をたくさん集めて、それを新聞や本で紹介しておられる方がいるとお聞きしまして、ぜひお会いしたいということで、対談をお願いしました。新聞やテレビは、不安になるニュースばかりですので、いい話をお聞きして、ほっとしたいと思いましてね。
志賀内:
ありがとうございます。会長のおっしゃる通りで、新聞もテレビもネガティブな情報ばかりです。「人の不幸は蜜の味」と言いますが、テレビのワイドショーというのは、他人の不幸をネタにして視聴率を稼いでいるようなものだと、私は思っています。ああいう情報は、知らず知らずのうちに、人の心をむしばんでいきます。私は、テレビを見ていて暗いニュースになったらチャンネルを変えたり、新聞なら三面記事は読まないようにしたり、ネットでもネガティブな話題はクリックしないようにしています。
今の時代は、暗い話があふれていますから、いい話を伝えるのは大事だと思って、私は、「プチ紳士・プチ淑女を探せ!」という活動を始めました。「プチ紳士・プチ淑女」というのは、ついつい見過ごしがちな、小さな小さな親切をする人のことです。たとえば、車を運転していて渋滞に巻き込まれたとします。先で工事をしていて車線が減っているので、隣の車線に移ろうとしても、なかなか割り込ませてくれないときってありますよね。イライラしてしまいます。そんなときに、横に来た車が、入っていいよと合図してくれる。ありがとうということで、ハザードをつける。相手も、ライトをぱっとつけて、どういたしましてと返してくれる。うれしいですよね。
エレベーターに乗るときに、走ってきた人のために、手でドアを押さえてあげるという光景もよく見ますね。手でドアを押さえていると、待っていますよという合図にもなって、走ってくる人にとっては安心感になります。
だけど、親切にしてくれた方々とは、通りすがりの関係でしかないから、あとからお礼も言えません。あまり大したことだとは思わない人が多いのですが、こうした小さな親切というのは、見返りを求めない、とても貴重な行為だと、私は思っています。そういう話をずっと集めては、あちこちで発表しています。
中川:
確かに、車で割り込ませてもらっても、エレベーターで待っていてもらっても、当たり前のこととして流してしまいがちですよね。でも、実際には、とてもありがたいことです。日常の小さなことに、感謝の気持ちがもてると、その人の心の中の喜びは増えていくでしょうね。
志賀内:
世の中には、うれしいことや感謝することがいくらでもあるはずです。でも、それに気づいていない場合が多いんですね。忙しいとか俺が俺がと言っていると、小さな親切を見逃してしまいます。世の中には親切があふれているのにもったいないことです。
私は、人から親切にしてもらったら、それを今度は他の場所で他の人にしてあげるといいと思っています。小さな親切がぐるぐると回れば、世の中が「思いやり」でいっぱいになるのではと思って、この運動をしているのです。
中川:
人は、どうしてもあら探しをしたり、悪口を言ってしまう方向に流れがちですよね。意識していないと、小さな親切にはなかなか気づけません。そういう意味で、志賀内さんが、こんないい話があるよと教えてくれると、そちらの方向にスイッチが入ったりするんでしょうね。
ところで、志賀内さんは、もともとはサラリーマンだったそうですが、どうして、いい話を集めようという活動をするようになったのですか?
志賀内:
そうなんですよ。しがないサラリーマンなんで、「志賀内」というペンネームをつけました(笑)。
私が勤めていたのは金融会社でした。人間関係で大きなストレスを抱えてしまいましてね。特に、上司との関係が最悪でしたね。叩かれて叩かれて、つらい毎日だったんですよ。でも、サラリーマンというのは、上司に仕えるのが当然だと思っていたので、反抗もできなかったですね。あのころは、真面目過ぎたんですね(笑)。それで、35歳のころに、原因不明の高熱、下痢、吐き気が続いて、あるとき大量の出血をして、生死の境をさまようようなことになってしまいました。
その後、両親が倒れて、2人の介護をすることになり、会社を辞めることにして、今の仕事に移行していきました。

(後略)

(2013年8月20日 SAS名古屋センターにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

左:「また、あなたと仕事したい!」と言われる人の習慣  高野 登、 志賀内 泰弘 著  青春出版社
右: 毎日が楽しくなる17の物語  志賀内 泰弘 著  PHP研究所

吉澤 誠(よしざわ まこと)さん

明治大学卒業後、大学院に進学し国際政治を学ぶ。国際交流のための本や地球環境問題を考える本の出版に携わるなど、多数の本の編集を手がける。世界各国をまわり、一貫して社会貢献を目的とした活動を続けている。著書に、イラク人の友達との共著『旅の指さし会話帳 イラク』がある。絵本『カーくんと森のなかまたち』は全国各地の小中学校や幼稚園、保育園等で、心の健康のための授業に取り入れられており、児童教育評論家、絵本作家として、講演や読み聞かせもしている。株式会社 エムケイプランニング 顧問、社団法人 国際文化芸術交流協会 理事、特定非営利活動法人日本バングラデシュ交流基金(JBCF)監事などを務める。

『絵本の読み聞かせを通して、命の尊さ、支え合いの大切さを伝える』

後輩が自殺し、力になってあげられなかった自分を責めた

中川:
はじめまして。「カーくんと森のなかまたち」という絵本を拝見しました。自分みたいにダメな鳥はいないと落ち込んでしまったホシガラスのカーくんが主人公で、彼は、こんな自分なんか死んでしまった方がいいとまで思い詰めてしまうのですが、まわりの仲間たちに支えられて、自分の良さやみんなの優しさに気づいて元気を取り戻して行くという物語ですね。吉澤さんは、子どもたちの自殺を防ぐために、小中学校や幼稚園、保育園等で、この絵本の読み聞かせをやっておられるそうですね。
吉澤:
ありがとうございます。あの絵本は、画家で絵本作家の夢むら丘実み果か先生が絵を描かれて、私が文を担当しました。今日は、夢ら丘先生も一緒におうかがいするつもりだったのですが、どうしても都合がつかず、失礼しました。
WHO(世界保健機関)の報告によりますと、自殺の原因のほぼ100%に精神疾患がかかわっているそうです。そのうちのかなりの割合をうつ病が占めているということです。そして、うつ病になる前には、必ずうつ状態があります。このうつ状態のときに何か対策を講じておけば、うつ病も少なくなりますし、自殺も減るはずです。この絵本を作り、読み聞かせをしているのは、うつ状態を何とかできないだろうかという思いがあるからです。
専門家としては、「日本いのちの電話連盟」の齊藤友紀雄理事(内閣府自殺対策推進会議委員)と厚生労働省科学研究班の主任研究者で元東海大学医学部精神科の保坂隆教授(現・聖路加国際病院精神腫瘍科医長)に協力をいただきました。「いのちの授業」に取り組まれている聖路加国際病院の日野原重明理事長にも、推薦文もいただきました。
出版したのは平成19年9月10日。「世界自殺予防デー」でした。
中川:
自殺を防ぎたいと思うようになったきっかけというのはあるのですか。
吉澤:
そうですね。夢ら丘先生も、親しい友人が自ら命を断つという悲しい体験をお持ちです。それに、子どものころからぜんそくがあって、学校も休みがちで、いじめにもあったそうです。また、2002年1月に、自宅近くの交差点で自転車に乗っていて、車にはねられました。100%、相手の過失でした。その後遺症で右手がしびれるようになって、絵も描けないし、家事もできないような状態になってしまいました。すごくショックで、重いうつ病になってしまいました。2年ほどリハビリ生活を送ったようですが、「死んでしまいたい」という気持ちになることもたびたびだったとおっしゃっていました。あるとき、当時小学校3年生だった娘さんに、「死んじゃいたい」と漏らしたら、娘さんは「私は、ママがいるだけでうれしいよ」と言ってくれたそうです。
そういった体験がありますから、自殺を防ぐという活動には、とても思い入れをお持ちです。
中川:
2年前に、滋賀県大津市で中学生がいじめを苦にして自殺するというショッキングな事件があって、さらに最近でも名古屋で同じようなことがありました。
「命を大切に!」といくら口で言っても、なかなか子どもたちの心の中には響いていきません。でも、この物語を作られた吉澤さんたちの思いは、氣として子どもたちにも伝わっていっているのではないでしょうか。だから、子どもたちもいろいろなことを感じてくれるのだと思います。
吉澤:
先ほど、14年連続して自殺者が3万人を超えたというお話をしましたが、危惧すべきことは、10代、20代、30代の死因の1位が自殺だということです。これは、何とかしないといけないでしょうね。
やっと日本でも、2~3年前から、自殺予防教育に力を入れるようになってきました。欧米では、1970年代に自殺が増えたときに、自殺予防教育に力を入れ、中長期的に考えれば、必ず減っていくということがわかっています。我が国では、性教育と同じようにタブー視されていて、なかなか取り入れられませんでした。寝た子を起こすと思われてきました。性教育の場合は、エイズの問題もあって、知識として知っておいた方が対処できるということで、真剣に取り組むようになってきました。自殺の予防教育も、同様に寝た子を起こすのではと、危惧されていましたが、小学生の10人に1人、中学生の4人に1人が「うつ状態」という調査結果もあって、そんなことも言っていられなくなっています。自殺のこと、自殺につながるうつ病やうつ状態のことを、もっと知っておくべきだという流れになりつつありますね。

(後略)

(2013年7月16日 東京日比谷松本楼蘭の間にて 構成 小原田泰久)

DVDの紹介

『カーくんと森のなかまたち』読み聞かせDVD(ワイズ・アウル社)¥2,800(税別)体育館等でも映像授業が出来ればと教師や人権擁護委員からの要望で今年4月に女優中井貴恵さんのナレーション入りのDVDが完成し、読み聞かせに活用されている。鳥のさえずりや川のせせらぎ等も入っており、絵本の付録同様、DVD付録には、「いのちの電話」「チャイルドライン」等の電話番号の他、法務省の「子どもの人権110番」「子どもの人権SOSミニレター」「SOS-eメール」等がリスト掲載されている。絵本、DVDと指導案があれば、簡単に効果的な「心の健康ための教育」が出来るようになったと、現場の先生方に喜ばれている。幼児用と小中学校用の道徳授業での活用方法を記した指導案は、夢ら丘実果さんのHPからダウンロードできる。http://mika-muraoka.com

宮田 太郎(みやた たろう)さん

1959年東京都多摩市生まれ。玉川大学農学部卒。1986年に関東で国内最大級の鎌倉街道や古代東海道跡を発見。以来、全国や近隣国で古街道跡や山城、古代祭祀遺跡や古墳、古代都市遺跡、など未知の遺跡を数多く発見。独自の“古街道学”を考古学と歴史地理学の視点で考案。未知の遺跡や身近な歴史を地域活性に活かす歴史系総合プロデューサー。総務省地域力創造アドバイザー。歴史古街道団・団長。歴史ライフ総合研究所・代表。著書に、「新視点・日本の歴史」(中世編・共著 新人物往来社)「鎌倉街道伝説」(ネット武蔵野)他がある。

『古街道を通して古代の人たちからのメッセージを聞く』

土器に夢中になり、将来は考古学者になりたいと思った少年時代

中川:
実は、ずっと、歴史を研究されている方にお話をお聞きしたいなと思っていたんですね。氣をやっていると、ご先祖様と私たちは、非常に大きな影響を与え合っていることがわかってきましたし、もっと歴史のことを知らないといけないなと思っていました。でも、目に見えない世界のこともわかっておられる方でないと、なかなか氣のことを理解していただけないし、さて、いい方はいないかと、探していましたところ、宮田さんはUFOにも関心をもっておられたことがあるとお聞きして、そういう研究者の方だったら、ぜひお会いしてお話をうかがいたいと思って、対談をお願いした次第です。
宮田:
ありがとうございます。私の祖父は、東洋医学とかちょっと変わった治療をやっていた人で、その影響を受けたのか、私も未知の世界には早くから興味がありました。UFOに夢中になっていたのは、中学生から大学入学くらいまでのころですかね。当時は、UFOという言葉もなくて、空飛ぶ円盤と言っており、「円盤太郎」などとあだ名されました。作家の小松左京さんや星新一さんらが、日本空飛ぶ円盤研究会というのを作っていましてね。私は、その最年少の会員でしたよ。でも、やっぱり考古学の方が好きだということで、UFOからは足を洗った形になりました。
中川:
考古学ですか。私は、年号を覚えるのが不得手で、どうしても歴史が好きになれませんでした。でも、学校で習う歴史と考古学とは違いますよね。
宮田:
私も年号を覚えるのは嫌いだったですよ。だけど、小さいころから、土器を拾ったり掘り出したりするのが大好きでした。私はずっと東京の多摩市に住んでいましたが、子どものころは多摩丘陵が開発される前で、どこへ行っても土器片に出会えました。学校が終わると土器を拾いに行く毎日で、畑の横に土器が埋もれているようなスポットを見つけてはそれを掘り出し家に持ち帰って接着剤でくっつけて形を作っていくのが楽しみで、大きくなったら考古学者になりたいとずっと思っていました。小学校4年の時に、両親が僕の誕生日にトロイの遺跡を発見したシュリーマンの本「夢を掘り当てた人」を買ってくれましてね。数人が大型の土器を肩に乗せて高く掲げている表紙の写真は今でも覚えていますよ。それを読んで、考古学者への憧れがどんどんと膨らんでいきました。
中川:
そうですか。土器から、古代の人のエネルギーを感じておられたのだと思いますね。でも、土器というのは、そんなにゴロゴロと落ちているものなのですか。
宮田:
今でも、毎日のように拾っていますよ(笑)。みなさん、気がつかないけど、あちこちにあります。だいたい、人間が生活をしてきたところは、その痕跡が地面に残っているものです。でも、地面を見ながら歩いている人はいませんから、気づかずに生活しているだけです。
中川:
そうですよね。意識しないと目に入らないですからね。歴史フットパスという活動をされているということですが。
宮田:
フットパスというのは「歩くことを楽しむ小径」というような意味で、イギリスから入ってきた地域活性や観光の新しい方法でもあります。昔から生活のために使われてきた何気ない小路や裏道、産業や信仰などによって育まれてきた街道を歩きながら、地域の人と交流していくというものですが、私の場合は、歴史ストーリーや歴史ロマン、遺跡の魅力などをテーマに歩きます。どんな小さな山里でも、人間の営みが行われてきたところであれば、そこには古い道があり、そこで暮らしてきた人たちの生きた証があり、人間ドラマの数々が眠っています。それを探り、味わい、楽しみながら道を歩くことの価値は大きなものです。もちろん一片の土器片からも古代人の息吹やメッセージを感じとることもあります。歴史フットパスに参加すると、みなさん、次第に土の上に転がる昔のものが気になって下ばかり見て歩くようになり、はたからみると妙な集団に見えることもあるようです(笑)。
日本の歴史ツアーの多くは、江戸時代を時代背景とする史跡巡りや旧街道歩きが多いのですが、私は「古街道(こかいどう)」がテーマで、縄文時代の初めから戦国時代まで約8000年に渡る時代の道と歴史をテーマにしています。
中川会長がお生まれになった北海道は本当に歴史的にも素晴らしい地域ですね。アイヌ以前の文化の痕跡をたくさん見ることができます。
中川:
そうですか。道をたどっていくと、大昔に戻っていくというわけですね。そんなこと考えてもみませんでした。
宮田:
「道」を調査していると、次々と「未知」の遺跡にあたるんですね。それで、いくつもの研究会を作り、また発掘調査や探索ウォーク、講演などで紹介してきました。朝日カルチャーセンターほかでの講師もいつの間にか30年目になりますね。
中川:
道を発掘するというのは、どうやってやるのですか?
宮田:
道は人が歩くとそこだけが固まりますよね。人が歩かなくなると、そこに柔らかな土が積もっていきます。地面を掘っていくと、急に固い層にぶつかることがあります。さらに掘るとまた柔らかくなります。さらに、その周囲には、土器などの遺物や生活の痕跡が出てきたりして、そこが道だということが特定されます。縄文時代の道だと、場所によっては2メートルくらい掘らないと出ないし、別のところでは30センチ掘れば出てくるところもあります。

(後略)

(2013年5月28日 東京 日比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「鎌倉街道伝説」 宮田太郎 著
この本の購入は下記へお申し込み下さい。
「歴史ライフ総合研究所」
Tel&Fax:042-719-6336 
E-mail:kokaido@r3.dion.ne.jp

すずき じゅんいち(すずき じゅんいち)さん

本名・鈴木 潤一。1952年神奈川県生まれ。東京大学卒業後、日活に助監督として入社。『マリリンに逢いたい』『砂の上のロビンソン』『秋桜』など、22本の劇映画を監督する。2001年、女優の榊原るみと結婚。以降、11年にわたってアメリカに住み、日系アメリカ人社会との出あいから、戦時下の日系人の歴史を記録することを決意した。著書に「1941 日系アメリカ人と大和魂」(文藝春秋)がある。

『貴重な映像から明らかになる戦時下の日系アメリカ人の真実』

日系アメリカ人の歴史をあまりにも知らないことに呆然

中川:
ロスにお住まいの会員さんから、「日系アメリカ人のことを描いた、すごくいいドキュメンタリー映画がある」と教えていただきました。太平洋戦争のとき、日系アメリカ人が情報収集に大活躍して、そういう人たちがいたから、戦争の集結も2年早まったと言われているのだそうですね。自分が住んでいる国と故郷とも言える国が戦争したのですから、日本で生まれて育った者にとっては、想像できないような難しい立場にいたわけですよね。正直、申し訳なかったと思うのですが、そういった方々のことは、考えたこともなかったですね。
ぜひ、見たいと思っていたのですが、上映が終わってしまっていて、残念だったと思っていたら、その前にも2作、監督は、日系アメリカ人のことを描いておられるとわかったので、すぐにDVDで拝見しました。3部作となっていますが、どういうきっかけでこういう映画を作ろうと思われたのですか。
すずき:
見ていただいてありがとうございます。ボクは、2001年にアメリカの永住権をもらって、せっかくもらったからと、アメリカに移住し、ロスに11年間住みました。ロスでは、多くの日系アメリカ人と知り合いになりました。彼らと親しくなるうち、彼らの歴史を自分があまりにも知らないことに気づいて呆然としました。日系アメリカ人のことは、日本人として知らないといけないし、その足跡も残さないといけないと、柄にもなく真面目に考えましてね(笑)。こういうことに偶然出会ったのも意味があることだし、ボクにできることは映画を作ることだから、映画にして残そうと思って動き始めました。
そしたら、Yさんという70代後半の女性に会いまして、彼女から収容所体験によって家族がバラバラになったという話をお聞きしました。戦争が始まって、日系アメリカ人は刑務所のような収容所へ強制的に入れられました。その仕打ちを彼女は心から恨んでいました。そして、膨大な量の強制収容所に関する本やDVD、ビデオテープ、写真集をもっていて、自分でその意味を考え続けていました。ボクが、日系アメリカ人の歴史に興味をもっていると知って、その資料を貸してくれました。それが3部作を作るきっかけですね。
中川:
私もDVDを拝見して、自分は何も知らなかったということを思い知らされました。みなさん、高齢になっていますし、証言を残すチャンスは、今しかないですよね。収容所の生活を撮り続けてきたカメラマンの東洋宮武さんを描いた『東洋宮武が覗いた時代』(2008年)から始まって、ヨーロッパの戦線で大活躍した日系兵士中心の部隊が主役の『442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』(2010年)、それに日系兵士中心の軍秘密情報組織(ミリタリー・インテリジェンス・サービス=MIS)をテーマにした『二つの祖国で・日系陸軍情報部』(2012年)と続くわけですが、最初から3部作というのは意識されていたのですか。
すずき:
3本できればいいけれども、ビジネス的には期待できないので、無理だろうなと思っていました。だから、1本目の東洋宮武を作ったときには、この1本で終わってしまっても悔いはないようにと、442部隊のことも、MISのことも入れて、戦争のときの日系史全体を描くようにしました。442部隊のときも、これで終わってもいいようにと考えましたね。
MISのことはほとんどの人が知りませんから、これを一番描きたかったのですが、強制収容所のことも、戦地で戦った人たちのこともきちんと描いておかないと、なかなか理解できない部分もあるので、ここまでたどりつけて、本当に良かったと思っています。
中川:
とても意味のあるお仕事ですから、きっと、いろいろな力にも応援されて、3本作ることができたのだと思います。
すずき:
日本では一本目の「東洋宮武が覗いた時代」は、あまりお客さんが入りませんでしたし、アメリカでもメジャーにはなりませんでした。それでも、リトル東京で上映したときは、日米劇場という800席以上ある大きな会場でやったのですが、25年以上の歴史ある劇場ができて以来の一日当たりの最高の動員数を記録しました。3回の上映予定だったのですが、入りきれない人が続出したので4回やりました。
この映画を見てくださったポール・テラサキさんという方が、次、映画作るなら支援してあげると、好意的なことを言ってくださったのです。その支援があったので、2本目、3本目と進むことができました。

(後略)

(2013年4月17日 東京都千代田区のフィルムヴォイスにて 構成 小原田泰久)

著書・DVDの紹介

左上:1941 日系アメリカ人と大和魂 [単行本] 出版社: 文藝春秋
右上:二つの祖国で日系陸軍情報部 [DVD] 販売元: ワック
左下:442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍 [DVD] 販売元: フイルムヴォイス
右下:東洋宮武が覗いた時代 [DVD] 販売元: ワック

広田 千悦子(ひろた ちえこ)さん

文筆家。うつわ・ことば・絵の作家。三浦半島の西海岸に暮らし、にほんの歳時記・暦・四季、日々の暮らしの中にあるたからものなどをテーマに新聞や雑誌でイラスト&エッセイを連載中。「ほんとうの「和」の話」(文藝春秋)「暮らしを楽しむ七十二候」(アース・スターブックス)「おうちで楽しむ日本の行事」(三笠書房)など著書多数。

『変わりゆく季節の中にささやかな幸せを見つける』

宇宙の不思議をたどっていくうちに日本の行事にたどり着く

中川:
はじめまして。先々月は、こちらでご主人(広田行正さん)と対談させていただきました。そのときには、ご執筆がお忙しいということでお会いできず、ご著書をいただいて帰りました。それを読ませていただいたところ、とても面白くて、ぜひ、ゆっくりとお話をうかがいたいと、再度、お邪魔した次第です。今日は、よろしくお願いします。
広田:
ありがとうございます。私も、氣のことには興味がありますので、お会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
すてきな着物ですね。日本の行事とか、和の魅力を書かれておられる方だけに、とてもお似合いですよ。普段から着物が多いのですか。
広田:
そうですね。着物を着ますと、背筋がぴっと伸びますし、気持ちが引き締まりますね。着物は、特別なときに着るというイメージが多いですが、本来は普段着からハレの日の服装まで、あらゆる場で着分けすることができます。面倒な決まりごとがあると敬遠されがちですが、慣れてしまえば簡単です。お店によっては、洋服と同じような値段で買い求めることもできますので、もっとたくさんの方に着物を着ていただきたいですね。中川会長も着物を着られたらいかがですか。お似合いになると思いますよ(笑)。
中川:
似合いますかね(笑)。なかなか着るチャンスはないですが、機会があったら、ぜひチャレンジしてみます。
だけど、この場所は、なんとも言えないいい氣に包まれていますね。この間と比べると緑がまぶしくなっていますし、季節感がありますね。さっきから、うぐいすの鳴き声が聞こえてきて、なんだか別世界に来たような感じですよ。広田さんは、もともとは東京にお住まいだったんですよね。
広田:
長い間、東京で暮らしていました。でも、結婚していずれ生まれてくる子どものためには、もっと自然の多い環境がいいのではないかと、こちらへ引っ越してきました。慌ただしく暮らしていると、どうしても季節を感じて生きることが難しくなりますが、こういう環境にいると、季節の変化が身近にあって、心が豊かになってくるような気がしましたね。
中川:
ここに座っているだけで、その感じはわかるような気がしますよ。
ところで、広田さんは、日本の行事などにとても詳しくて、日本人の伝統的な生活や行事について、たくさんの本を書かれていますが、もともと、そういうことに興味があったのですか?
広田:
特に専門的な知識があるわけではありません。生きていることはどういうことなのだろうと、小さいころからよく考えていて、それをたどっていくうちに、日本の伝統とか行事に行き着いたという感じですかね。日本の行事について、その方法を伝えるのも大事ですが、私にとっては、それが一番の目的ではなくて、宇宙の不思議が、日々の生活の中に落とし込まれているということがすごいということを伝えたいなと思っています。
中川:
『ほんとうの「和」の話』(文藝春秋)という本を拝見すると、「私は星を見るのが好きです」という書き出しですね。星を見ながら、自分たちはどこから来てどこへ行くのかと思いを馳せておられるわけですが、それが日本の伝統や行事とどうつながっていくのか、すごく興味をひきますね。
広田:
私としては、そのつながりを、宇宙とか自分たちがどこから来てどこへ行くのかといったことにあまり興味をもたない人に、どうやったら伝えられるだろうと考えて本を書いているのですが、なかなかうまくいかなくて(笑)。
お彼岸なども、天体の動きと関係しているわけで、日本の行事は、宇宙の摂理を日々の生活の中でだれもが楽しめるようにしているものですよね。特に宇宙を意識しなくても、生活の中に宇宙があるんですよね。そこがすごいことだと、私は思っています。
中川:
私は、週に一度、FM西東京というラジオで話をしていますが、お彼岸の時期には、広田さんのご本からお話を拝借しました。ぼた餅とおはぎの違いも、普段はまったく意識していませんでしたが、春のお彼岸はぼた餅、秋のお彼岸はおはぎなんですね。春と秋と、季節の花に合わせて名前がつけられているという説があると聞いて、なるほど、日本の行事というのは季節と密接な関係があるんだなと思わされました。お彼岸は宇宙の動きとも関係あるわけですから、ぼた餅やおはぎは宇宙ともつながっているということですよね。そんなこと、思ってもみませんでした(笑)。
広田:
不思議なことには以前から興味があって、魂ってどういうものだろうかと、よく考えていました。本を読んだり、瞑想をしたり、ワークショップを受けたりもしました。氣功はやりませんでしたが、中川会長のお名前は存じ上げていました。
いろいろなことをやって、ある程度、自分では納得できたし、これくらいでいいかなというところにたどり着いて、次は、それを日々の生活にどう生かしていけばいいかということを考えるようになりました。
私の場合は、仙人になろうとか悟りを開こうといった大それたことではなく、自分自身もさまざまな葛藤をしてきて、その中でこれでいいんだというところに落ち着けたので、同じような気持ちをもった人と、体験や気づきを共有したいなという気持ちで、本を書き始めました。

(後略)

(2013年4月22日 神奈川県横須賀市 ギャラリー&スタジオ「秋谷 四季」にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

左:「おうちで楽しむにほんの行事」(三笠書房) 広田 千悦子・著
右:「ほんとうの「和」の話」(文藝春秋) 広田 千悦子・著

小原田 泰久(おはらだ やすひさ)さん

1956年三重県生まれ。名古屋工業大学卒業。6年間のサラリーマン生活をへて、28歳でフリーライターに。1988年中国旅行で、先代の中川雅仁会長に出会って氣の世界を取材するようになり、取材をしているうち、自らも氣が出せるようになった。先代のイルカとの意識交流にも同行し、その体験をまとめた「イルカが人を癒す」(KKベストセラーズ)がベストセラーに。以来、「イルカみたいに生きてみよう」(大和書房)など、イルカに関する著書を何冊も出す。ほかにも、「ヒーリング・ドクター」(法研)「犬たちのネバーエンディングストーリー」(廣済堂)「木村さんのリンゴ 奇跡のひみつ」(学研パブリッシング)「原爆と原発 ホピの聖なる預言」(学研パブリッシング)など、著書多数。

『統合医療の施設がオープン。真氣光もその一員に』

統合医療の施設がオープン。真氣光もその一員に

中川:
今度、メディカルプラザ市川駅という病院がオープンしましたが、そこは、統合医療の施設ということで、西洋医学だけでなく、東洋医学や代替療法が必要に応じて受けられるようになっています。その中に、気功療法として真氣光が取り入れられることになりました。小原田さんは、医療ジャーナリストして、活動されていますが、今の医療は、徐々に統合医療という方向に進んでいるのでしょうか。
小原田:
西洋医学の以外の治療法をCAM(Complementary and Alternative Medicine=補完代替医療)という言い方で呼んでいます。CAMを取り入れている医師はとても増えていると思います。ただ、CAMに関する評価というのは、医師によって違いますので、大きな病院で統合医療を実践するのは難しいようで、個人のクリニックという形での広がりがほとんどです。
中川:
今回、私どもがお手伝いすることになったメディカルプラザ市川駅は、母体が江戸川病院という総合病院です。今回、統合医療施設を作る上で、中心となって動いてこられた阿岸鉄三先生は、世界に類を見ない施設だとおっしゃっていましたが、画期的な試みがなされていると考えていいのでしょうか。
小原田:
とても大きな一歩だと思いますね。江戸川病院は、ベッド数が418床の総合病院ですからね。昭和7年に開設された歴史のある病院ですし、最初にこの話をお聞きしたときには、ずいぶんと思い切ったことを始めるものだと驚きました。でも、今、どこの病院も過渡期にあって、江戸川病院の試みがうまくいけば、一気に、統合医療が広がる可能性もありますね。そういう意味では、とても大事な一歩だと思いますね。
今回、真氣光の入るメディカルプラザ市川駅は、駅前ということでアクセスもいいし、450坪というのも、なかなかぜいたくな広さだと思います。保険診療がベースのようですが、医師の診断のもと、必要に応じて、気功、ヨーガ、アロマセラピー、カイロプラクティック、鍼、温泉療法などを自由診療としても受けられるわけで、患者さんとしては、どの療法を受けるにしても、医師の指導のもとなので、とても安心できると思います。
オープンに先立っての内覧会におうかがいしました。療法ごとに部屋が分かれていましたが、これは患者さんにとっても施療する側にとってもとてもやりやすいだろうなと思いました。真氣光の部屋も、ベッドが2つ置けるスペースがあって、非常にゆったりと施療が受けられますね。
お医者さんの方々のお話もうかがいましたが、とても代替療法に対する造詣が深くて、感心しました。
今回、真氣光がこういった医療施設で採用されたということは、真氣光の可能性が、さらに広がっていくように思いますね。
中川:
もともと、先代のころは、たくさんの難病の方がセミナーにも研修講座にも来られました。しかし、法的な制約もあって、気功を医療として広げていくのは難しいのが現状でした。今回、こういう形で採用されて、お医者さんの管理のもとで、病気の方に真氣光を体験していただけるというのは、とてもありがたいことです。私どもは、真氣光によって患者さんの苦痛が少しでも和らげばいいなと思いますし、同時に、真氣光でいつも話しているように、病気は気づきのチャンスだということを、おいおいお伝えしていけるようになればと思っています。
小原田:
阿岸先生もおっしゃっていましたが、WHO(世界保健機関)では、健康の定義として「スピリチュアリティ(霊性)」を入れようということが検討されましたからね。採択はされていませんが、これからの医療はその方向に進んでいくと思いますね。人間は、体ばかりでなく心もあって、さらには、もっと深い部分、いわゆる魂もあるということは、昔から言われていることですから、そこまで目を向けないと、本当の意味での健康は得られないのではないでしょうか。そういう意味で、真氣光はこれからの医療でも、とても重要な役割を果たすことになると思います。その第一歩が、今回、メディカルプラザ市川駅で始まったというふうに考えられると思いますね。
中川:
私どもも、そういうことをきちんと自覚して、せっかくのご縁ですので、西洋医学を手助けするような働きができればと思っています。
まだまだ始まったばかりで、手探りの部分は多いのですが、これからの展開が、私は楽しみで仕方ないんですよ。

(2013年3月30日 メディカルプラザ市川駅にて 構成 小原田泰久)

広田 行正(ひろた ゆきまさ)さん

1962年生まれ。写真家。タヒチ、モルディブ、バハマ、ハワイなど南の海を中心に100回近い海外ロケを行っている。長く読み続けられる本を作ることを目標とし、奥さんで作家の広田千悦子さんとの共著は多数ある。「湘南ちゃぶ台ライフ」(阪急コミュニケーションズ)「「捨て犬サンの人生案内」(メディアファクトリー)「おうちで楽しむ日本の行事」(技術評論社)など。東京新聞、中日新聞で毎週月曜日、「くらし歳時記」連載中。

『湘南発! 身近にあるすてきな光景を写真で伝える』

山の中なのに海まで歩いて数分、富士山も見えるというロケーション

中川:
はじめまして。この家は、広田さんが仕事場にされている所ですか。縁側にお日様が当たって、古き良き日本の家屋という感じがします。
広田:
この家は、築70年ほどたちます。お年寄りのご夫婦が住んでおられたのですが、ご主人が亡くなって、おばあちゃん一人じゃちょっとと言うので、出て行かれて、空家になっていたのをお借りしました。壁にしっくいを塗ったりして補修しましてね、今はスタジオとして使ったり、展覧会をやったりしています。庭で、仲間を集めて焚き火をやることもあります。
中川:
映画の撮影とかでも使われるそうですね。
広田:
昨日も、秋に公開される映画の撮影がありました。こたつを置いたり、塀を作ったり、すっかり様子が変わってしまってびっくりでしたよ。
以前、モスバーガーのCMでも使われました。この庭で、忽那汐里ちゃんが、ハンバーガーを食べるというシーンを撮っていました。小泉今日子さんが雑誌の撮影で来られたこともありました。
中川:
この家の雰囲気もいいし、まわりにも自然がたくさんあって、いいですよね。今日は、車でおうかがいしましたが、1時間くらいで来られますからね。東京の近くに、海あり、山ありの、こんないいところがあるとは驚きですよ。
広田:
この下に川がありますが、梅雨の季節にはホタルが出ます。昔、護岸工事をする前は、ホタルが乱舞していたようですが、今は毎年30匹ほどですかね。
中川:
いいですね。このあたりに住まれてどれくらいになるのですか。
広田:
もう20年くらいになります。前は東京に住んでいたのですが、この近くに友だちが住んでいるので、ときどき遊びに来ていました。子どもが欲しくなって、自然の中で暮らしたいと思い、そういう物件を探したら、この場所を紹介されました。山の中なのに、海まで歩いても数分で出られます。富士山も見ることができて、なんてすてきなところだと気に入ったのですが、東京の生活に慣れていると、山の中の静けさや、真っ暗な夜というのは、最初は怖かったですね。
中川:
広田さんはカメラマンで、横須賀とか葉山とか、このあたりの風景を撮っておられて、中日新聞や東京新聞には、毎週、「くらし歳時記」というのを連載されていますね。広田さんの写真に奥さんの文章が添えられて、すごく温かいコラムになっていると思います。きれいな富士山がバックにあって、海では漁師さんがわかめを取っていたり、とても季節感のある写真を撮っておられますね。
私がびっくりしたのは、蜃気楼の写真です。富山湾の蜃気楼は有名ですが、こちらでもあんなにはっきりと蜃気楼が見られるんですね。
広田:
ありがとうございます。新聞の連載は5年半になります。毎週締め切りが来ますから、今度はどうしようかと、いつもネタを探しています。幸い、山も海もあるので、何かしらいいネタは見つかります。蜃気楼は、1月の寒い朝でしたが、8時ごろに海を見たら、あの蜃気楼が出ていたんですよ。蜃気楼はときどき見るのですが、あんなにはっきりと見えたのは初めてでしたね。
中川:
蜃気楼は衝撃的な光景ですから、ぱっと目につくとは思いますが、そのほか、小さな発見がいっぱいあるじゃないですか。日々、まわりを観察していないと、なかなか目につかないことですよね。
広田:
私は、毎朝、高校生の子どもを逗子の駅まで送って行って、ゆっくりと朝の海を見ながら帰ってきます。毎日のように見ていますから、ちょっとした変化でもキャッチできるようになりました。カメラはいつももっていますから、何かあると、それを撮るようにしています。山も、ゆっくりと歩きながら見ていると、そろそろふきのとうが出てきたなとか、いろいろと発見がありますよ。
中川:
玄関に、富士山の頂上に夕日が沈む写真が飾ってありますよね。すごい写真ですね。日常の景色を撮りつつ、ああいったスケールの大きな写真も撮られるわけですね。
広田:
ダイヤモンド富士ですね。あの写真も、我が家の周辺で見られる光景です。春と秋に、あの位置に太陽が落ちるのが見られます。でも、ちょうどモヤがかかりやすい時期なものですから、なかなかうまく撮れません。あの写真は3年前に撮ったのですが、それ以降、天候の関係でうまく撮れていませんね。
この近くでは、富士山に満月が沈むパール富士も見られますし、いいところに住めたと感謝していますよ。

(後略)

(2013年2月25日 神奈川県横須賀市 ギャラリー&スタジオ「秋谷 四季」にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「湘南ちゃぶ台ライフ」
広田行正、広田千悦子 共著
(阪急コミュニケーションズ)

瀬戸 謙介(せと けんすけ)さん

昭和21年父親の赴任先である旧満州で生まれる。獨協大学卒業。14歳で空手を初め、現在社団法人空手協会7段。A級指導員、A級審査員、A級審判員、空手東京都本部副本部長、同技術局長などを務める。平成18年第6回空手協会熟練者全国空手道選手権大会形の部で優勝。著書に『子供が喜ぶ「論語」』『子供が育つ論語』(ともに致知出版)などがある。

『論語や武士道を学んで、日本人の誇りを取り戻そう』

ご先祖様の名を汚さないような生き方をするにはどうしたらいいか

中川:
先生の『子供が育つ論語』を読ませていただきましたが、考えてみれば、論語に触れるのは、高校時代の漢文以来じゃないかと思います。人間としてどう生きればいいか、とても大事なことが書かれていると、改めて思いましたが、論語については、学校でも、私のころのように、漢文でちょっと勉強するくらいなんでしょうね。
瀬戸:
このごろは、ほとんどやってないかもしれませんね。笑い話ですが、大学を出た若者に論語を見せたところ、ルビが振ってないものでしたが、「子曰わく」を見て、「先生、コーヒーわく」ってどういう意味ですかって質問してきましたから(笑)。きっと習ってなかったんでしょうね。
中川:
そうですか。そう読めないこともないですからね(笑)。もっとも、私たちの世代も、内容をよく知っているわけではないですから、彼らを笑えませんけどね。
ところで、先生は空手を教えながら、論語も教えているということですが、これは何か理由があるのですか?
瀬戸:
空手の練習のあとに論語の素読をしています。今月の論語というのを決めて、1ヶ月、練習が終わると毎回やって、最後の日曜日に1時間半かけてその論語を座学で勉強するようにしています。
私の場合、空手を教えていますが、空手が上達することだけを目的としてやっているわけではありません。あくまでも、空手は自分を磨く手段です。もし空手よりももっと自分を磨く手段としていい方法があれば、そちらをやってもいいと思っています。論語も自分を磨く方法のひとつだと考えています。論語というよりも、私は武士道に興味があって、武士道を理解するには論語は必要ですから、そういう意味で論語を取り入れているわけです。子どもたちには、論語は暗記しやすいし、わかりやすいということもあります。先ほど言った、月に一度の1時間半の勉強のときも、論語を40分やって、残りは武士道という割合で教えています。
中川:
武士道に興味をお持ちなんですね。昔からですか。
瀬戸:
本格的に武士道を研究しだしたのは大学時代からです。子どものころ両親から武士道と言った言葉はしょっちゅう聞かされていましたので、自然と興味を持つようになっていました。父は、全ての論語を暗記していましたので、何か子どもに言い聞かせることがあると、論語を持ち出していましたから、自然に武士道とか論語とか、私の中に染み込んでいたのだと思います。
中川:
体を動かす空手と精神性や生き方を説く論語や武士道と、とてもいい組み合わせになっていますね。
武士道というと、日本独自のもので、ヨーロッパには騎士道とかありますが、かなり違うものなのですか?
瀬戸:
武士道の素晴らしさ、日本人の感性の素晴らしさは、激しい戦場において、命のやり取りの中から無常感を感じ取ったところにあります。生死に直面し仏教の死生観を受け入れ、儒教の人倫(注)を学び、己を磨き、苦悩の果てについにその壁を破り、勝負から離れ生死を超越した域に達したことです。騎士道や外国の武術と呼ばれるものでこの域にまで達したものは見当たりません。武士道とは表面的美しさを求めるのではなく「心の美学」を追求したもので、これは日本独特の哲学です。
(注)
人倫…君臣・兄弟・夫婦などの人間関係を保持していくための道徳。人としての道
武士はとても名を惜しみました。名を惜しむというのは、自分の名前を汚さないということだけではなくて、ご先祖様の顔に泥を塗らないということまで含んでいます。いつの時代も、日本人には、自分が生きているということはご先祖様のおかげだという意識があります。縦の関係を意識して生きている民族です。ご先祖様の名を汚さないためにどういう生き方をすればいいのかというのを追求しているのが武士道なんですね。
『菊と刀』という有名な本がありますが、その中で、日本は恥の文化だと書かれています。その本では、どこか、恥の文化を見下したようなニュアンスを感じるのですが、恥の文化は重要だと、私は思っています。恥ずかしいという感覚がなくなればなんでもできてしまいます。これをやったら恥ずかしいと思うからこそ、身を正して生きるんじゃないですか。時には命に代えてでも名誉を守る。それが武士の生き方です。
中川:
確かに、日本人はご先祖様を意識して生きていますね。お盆とかお彼岸にはきちんとお墓参りをしてご先祖様にごあいさつしますからね。
瀬戸:
お墓と言えば、去年、ドイツからお客さんが来ましてね。ちょうどお彼岸だったのでお墓参りに連れて行きました。なんでお墓に行かないといけないのだと変な顔をしていましたけど、お墓に行って、掃除をして、わいわいと賑やかにお墓参りをしたら、驚いていました。ドイツでは、しんみりとして暗くて、日本のようににぎやかなお墓参りなんかしないって言うんですね。まるで、ご先祖様と対話しているようだって感心していましたよ。

(後略)

(2013年1月8日 東京日比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

草場 一壽(くさば かずひさ)さん

1960年佐賀県佐賀市生まれ。1987年、焼き物の里・有田に入り、新しい表現「陶彩画」の模索と研究を始める。以後、全国各地で展覧会を開催。2004年には、初の絵本『いのちのまつり ヌチヌグスージ』(サンマーク出版)を刊行。小学校3 年生の「道徳」の副読本にも掲載される。その後、『いのちのまつりつながっている』『いのちのまつり おかげさま』も刊行され、幅広い世代に愛されている。 http://manai.co.jp/

『私たちはご先祖様のいのちとつながって生きている』

「いのち」や「愛」は言葉だ けでは伝わっていかない

中川:
はじめまして。2005年でしたが、沖縄へ行ったときに、草場さんの書かれた「いのちのまつり」という本を見つけました。とてもいい本だったので、会員さんにもご紹介しました。今日は、草場さんにお会いできるのを楽しみにしていました。
草場:
ありがとうございます。私も、氣のことにとても興味があるし、うちのスタッフも氣が大好きな者ばかりなので、中川会長が来られるのを心待ちにしていました。
「いのちのまつり」を読んでくださったそうですが、おかげさまでたくさんの方に読んでいただき、道徳の副読本としても採用されています。沖縄の皆さんは、沖縄の文化を広げてくれたと、とても喜んでくださっていて、バスガイドさんが、観光客のために、バスの中で、この本の読み聞かせをしてくれています。空港にも本を並べてくださっています。
中川:
すごいですね。この絵本は、何ページか読み進めると、面白い仕掛けがあって、だれもがはっとしますよね。私も、びっくりするやら、感心するやら。すごいインパクトでしたよ。
草場:
いのちのつながりをテーマにして、ご先祖様がたくさんいることを伝えたかったのですが、「たくさん」と言葉で言っても、子どもたちは、自分の体験をもとに考えますから、10人でたくさんだと思う子もいれば、100人の子もいます。それなら、視覚に訴えた方がいいというので、まさに「たくさん」のご先祖様の顔を描きました。あれを見れば、理屈抜きにたくさんのご先祖様がいることがわかると思いますね。
この絵本、もともとは自費出版でした。お絵描き教室をしていた保育園のクラスの子どもと卒園する子どもにプレゼントするのに31冊を作ったのが始まりです。
中川:
それが瞬く間に広がって、30万部を超えるベストセラーになったそうですね。
こういう絵本を作ろうと思ったのは、何がきっかけだったのですか。
草場:
私の本業は、陶彩画という焼き物の画家です。故郷は、佐賀県の武雄市というところで、隣の有田ともども、有田焼で有名な地域です。私は絵が大好きだったものですから、有田焼の技法を基本にして、絵が描けないだろうかと思いました。まわりの人に相談すると、ほとんどの人から「そんなのは無理だ」と言われ続けましたが、中には、理解してくださる人もいて、試行錯誤、暗中模索の末、陶彩画というのを作ることができました。まったくのオリジナルですから、陶彩画家というのは、世界で私一人です。
今は、武雄と東京にギャラリーを設け、多くの人に作品を観ていただけるようになりましたが、最初はずっと失敗の連続で、食べていくのに四苦八苦しているような状態でした。そんなときに、地元の保育園の園長先生から、「うちの保育園でお絵描き教室をしてみませんか」というありがたいお誘いを受けたのです。それから10年間、私は保育園で、どもたちにお絵描きを教えましたが、そのときの体験が、この絵本の原点にあるのかなと、思っています。
中川:
子どもと接すると、いろいろなことに気づかされますからね。貴重な体験をされましたね。
草場:
大人目線で何かを伝えようとしても、何も伝わっていかないことがわかりました。特に、私は、「いのち」とか「愛」を子どもたちに伝えたかったのですが、言葉でいくら力説しても伝わっていきません。
私が、「いのち」とか「愛」にこだわったのは、保育園でお絵描き教室をしているころ、いのちを粗末にするような悲惨な事件が頻発したからです。1997年の神戸の連続児童殺傷事件を皮切りに、私の住む佐賀近辺でも、西鉄バスジャック事件とか、長崎で男の子が駐車場の屋上から突きとされた駿ちゃん事件、佐世保でも女の子が殺傷されました。私は、いのちって何だろうと、考え込んでしまいました。なぜいのちは大切なのだろう、それに答えられる先生も親もいません。私自身も、いのちがなぜ大切かと言われて答えられない。
そんなときに、父が心臓の手術で脳死状態になり、1年3ヶ月、意識がないまま生きて、2001年に亡くなりました。大好きで尊敬していた父でした。手術の前の夜、お前は手術が終わってから来なさいというものですから、私は手術室へ向かう父を見送ることができませんでした。あのとき、朝から病院へ付き添っていけば良かったと、今でも悔いが残っています。そんなことがあって、いのちに対する自問自答が始まりました。
中川:
そうですか。私の父が亡くなったのは1995年でした。脳出血で、2度倒れて、2度目のときは、意識も戻らず、そのまま旅立っていきました。真氣光というのは、父が始めたものですが、最初は、私も信じていませんでした。電機メーカーの技術者でしたから、自分には氣なんて関係ないと思っていました。でも、仕事のストレスから体調を崩し、それが氣で良くなったことで氣に興味をもつようになり、父の会社に入って、氣のことを勉強し始めた矢先に、亡くなってしまいました。右も左もわからない状態で、真氣光を引き継ぐことになって、戸惑うことばかりでしたが、今考えると、私にとても大事なテーマを残して旅立って行ったような気がします。
草場さんのお父さんも、草場さんに「いのち」のことをもっと考えて、多くの人に伝えていけと、テーマを与えてくれたのかもしれないですね。
草場:
そうですね。父が亡くなって、私は大泣きしました。そして、これからは自分が父に代わって家族を守っていかないといけないんだという気持ちになりました。このときに、私も自立できたのかなと思います。そのあと、すぐに沖縄へ行く機会が巡ってきました。

(後略)

(2012年12月17日 東京都品川区の池田山公園ギャラ リーにて 構成 小原田泰久)

秦 万里子(はた まりこ)さん

1956年生まれ。国立音楽大学ピアノ科を卒業後、ボストンに留学し、アメリカ音楽を学ぶ。帰国後、女の子を授かり、育児に専念。その後、音楽活動を再開。身近な題材を自らピアノを弾きながら歌うスタイルが評判となり、2007年から主婦を中心とするコーラス隊を結成する。2009年に「半径5メートル物語」でメジャーデビュー。2010年NHK 総合テレビの「歌うコンシェルジュ~あなたに番組案内~」のコンシェルジュ役として活躍。著書に、「半径5メートル物語」(幻冬舎)「気づき・つまづき アラッ! エッサッサ」( ヤマハミュージックメディア)などがある。http://www.hatamariko.com/

『主婦たちの目線で。半径5メートルの日常を歌う音楽家』

おしゃべりをしているように自然に詞や曲が出てくる

中川:
“半径5メートルの日常を歌う音楽家〟というのが秦さんのキャッチフレーズだそうですね。主婦目線で書かれた詞が多くて、きっと、主婦の方は、「そう、そう」とうなづきながら、秦さんの歌を聴いているのではないでしょうか。普通なら見過ごしてしまうような日常の何でもないようなことを、うまく詞にして、それをテンポよく歌って感動させるというのは、すごい才能だと思います。52歳でメジャーデビューして、次々とCDや本を出され、NHKの「歌うコンシェルジュ~あなたに番組案内~」のコンシェルジュ役で出られたり、各地で主婦たちのコーラス隊を作られたり、大活躍ですね。
小さいときから歌を作ったり歌ったりするのがお好きだったのですか?
秦:
3歳のころからピアノを習っていました。でも、譜面通りに弾くよりも、自分が好きな音楽を好きなように弾くのが好きでしたね。自分で「白雪姫」のお話のそれぞれのシーンに合わせて、ここはこんな感じと想像しながら曲を作って弾いていました。ですから、私の譜面立てには、いつも絵本が乗っていましたね(笑)。5歳のときの発表会では、自分で作った曲を弾きました。
中川:
それはすごいですね。5歳で、もう作曲をしていたということですね。
秦:
私は、ピアニストよりも、作曲家になりたいと思っていたみたいですね。ピアノを弾くときは、楽譜が正解で、楽譜通りに弾かないと、間違いとされます。でも、作曲家には正解がありません。自由に音楽を作れます。とにかく、小さいころから、決められたことをやるのが苦手でしたね。
中川:
そういうことが基礎にあるから、秦さんの即興で作った歌がみなさんにうけるんでしょうね。ライブでは、お客さんに5分くらいインタビューして、その方の歌を作ってしまうのだそうですね。
秦:
みなさん、驚かれますが、私にとっては、おしゃべりをしているように自然なことです。考えなくても、詞や曲が出てきてしまいます。気をつけるのは、その人をけなさないこと、最後にきちんとオチをつけること。それくらいですね。ほかは、何も考えずにやっています。スイッチが入れば、一日いくらでも作れます。自動販売機みたいなもので、100円玉を入れてボタンを押せばいくらでも出てきます(笑)。
たとえば、ちょっと風邪気味で、鼻水が出てきたとしますね。鼻水ってどこからくるのかなと疑問に思うわけですよ。すると、それが歌になってしまいます。Where does hanamizu come from?って曲を作りましたから(笑)。
中川:
ふっと疑問に思ったことが、すぐに歌になるんですね。だから、半径5メートルの出来事を次々と歌にできるんでしょうね。
秦:
子どものころから、言葉遊びは好きでしたね。学校でもつまらない授業のときは、先生の名前をいろいろと言い換えたりしながら遊んでいました。
中川:
小さい頃というのは、変わったお子さんだったんでしょうね。
秦:
自分ではよくわかりませんが、小学校のときの同級生に会うと、「秦さんは反応がすごく面白かった」と言われます。何か質問すると、突拍子もないような答えが返ってきたりしたのだそうです。
子どものころ、ピアノを一緒に習っていた方がコンサートに来てくださいました。何十年ぶりかの再会ですよ。終わったあと、その方は、「あなた、全然変わってないわ。小さいころとまったく同じことをしているし、同じように輝いている」と言ってくださいました。小さいころも今も、勝手に歌って勝手にしゃべって、ピアノの前では勝手に弾いている。そのスタイルは変わらないんでしょうね。
ほかにも思い出すのは、地下鉄に乗ると、知らない子にも片っ端から声をかけるような子だったことですね。「お友だちになりましょう」とか「どこで降りるの?」とかね。それでいて、一人でいるのも好きだったから、友だちと遊ばずに、音楽室でピアノを弾いていたりしました。やっぱり変わった子どもでしたよね(笑)。

(後略)

(2012年10月16日 東京都 港区のNYパワーハウスにて  構成 小原田泰久)

著書・音楽CDの紹介

○ 気づき・つまずき アラッ! エッサッサ ~キラキラ生きる61の考え方 - ヤマハミュージックメディア
○ 秦 万里子ソングブック 今日にありがとう-やさしい女声合唱で- 河合楽器製作所・出版事業部
○ 半径5メートル物語 - 徳間ジャパンコミュニケーションズ
○ あ・な・た - NYパワーハウス
○ mottainai - NYパワーハウス
○ 主婦たちへの応援歌 - 徳間ジャパンコミュニケーションズ

清水 克衛(しみず かつよし)さん

1961年東京生まれ。書店「読書のすすめ」店主。NPO法人「読書普及協会」理事長。94年「読書のすすめ」を東京都江戸川区篠崎にて開業。2003年に「読書普及協会」を設立し、「良質なご縁から生まれる成幸の法則」をテーマにした講演活動を全国で行っている。著書に、「5%の人」「他助論」(サンマーク出版)「非常識な読書のすすめ」(現代書林)などがある。「読書のすすめ」公式サイト http://dokusume.com/

『たった一冊の本との出あいで、人生はがらりと変わる』

八百屋さんで新鮮な野菜をすすめるように本をすすめる本屋さん

中川:
清水さんは、「本のソムリエ」ということで、よくマスコミでも取り上げられていて、たくさんの本も出されています。私も『他助論』という本を読ませていただきましたが、この人、ただ者ではないぞと感じまして、今日は、お話をうかがいにまいりました。よろしくお願いします。
清水:
ありがとうございます。「本のソムリエ」というのは、3年前に「エチカの鏡」という番組に出たときに、ディレクターから「そう呼んでもいいですよね」と言われて、「いいですよ」と言ったことが始まりです。自分からは恥ずかしくて言ったことなんてないですよ(笑)。
中川:
そうですか。お客さんに、その人が読むといいだろうなと思える本をずっとすすめてこられたんですよね。本を選ぶ手助けをするという意味では「本のソムリエ」という言い方も間違ってないかもしれません。本屋さんで本をすすめられるというのは珍しいですよね。私は、そんな体験ないですね。
清水:
あんまりないでしょうね(笑)。立ち読みしていると、店員さんに肩を叩かれて、「こんな本があるけどいかがですか」ってすすめられるんですから。最初のうちは、声をかけると、みなさんびっくりされました。すーっと店を出て行ったり、中には、「何かの宗教ですか」といぶかしがったり、「放っておいてくれ」と怒鳴る人もいました。でも、だんだんと私の気持ちがわかっていただいたのか、口コミで、あの店は面白いという話が伝わって、店に足を運んでくれる人も増えてきました。
中川:
どうしてそんなことを始められたのですか?
清水:
たとえば、八百屋さんや魚屋さんへ行けば、「今日はこんなにイキのいいのが入っているよ」ってすすめられるじゃないですか。それと同じですよ。
中川:
なるほど。そう言われればそうですね。本屋さんで本をすすめるのは当たり前のことかもしれませんが、私の知る限り、そんなお店はないですね。
清水:
世間で売れている本は、うちくらいの規模では入荷しません。世間で売れているものを売るという発想だったら、とっくにつぶれていたと思いますよ。それに、うちの店は、駅からも離れているし、人通りが多いわけでもないし、繁盛する要素はまったくありません。ここで本屋を始めるとき、だれもが反対しました。「エッチな本の専門店だったらいいかもしれない」というありがたいアドバイスをしてくれた人もいました(笑)。そんな状況ですから、生き残るためには、工夫するしかありません。
中川:
確かに立地はいいとは言えませんね。
清水:
あるとき、斎藤一人さんがふらっとお店に入って来られたことがありました。タイトルは忘れましたが、ある本を探していました。私はその人が斎藤一人さんだとは知らず、「お客さん、もっと面白い本がありますよ」とおすすめしました。1時間くらい話しましたかね。あのころ暇でしたから(笑)。「じゃあ、それも買っていくよ」と言ったあと、一人さんは、「君みたいに元気な人が江戸川区でがんばっているのはうれしいよ。これとっときなよ」と、1万円くれました。一人さんも江戸川区にお住まいなんですね。それがきっかけで、「何か面白い本はないの」と、昔は週に3回くらいきてくれました。おすすめして、面白いとなると、2千冊とか3千冊買ってくれました。自分がすすめた本をそんなに買ってもらうと、もっと勉強しないといけないと思いましたね。
中川:
出会いのドラマですね。普通の本屋さんだったら、そんなことは起こらなかったですからね。
清水さんは、本との出あいで、何か印象的なことはあったのですか。
清水:
大学生のときでしたが、3時間くらい電車に乗らないといけないことがあって、そのとき暇つぶしに読もうと思って買ったのが、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」でした。この本が、私の人生をがらりと変えました。竜馬は、独自の商人感覚で武士の時代を変えていきました。「まわりに流されず、時代に流されず、常に自分流で生き抜く男の中の男に出会った、この男に惚れた!」と思いました。そして、それをきっかけに、「商売って面白い」「商人ってかっこいい」と、自分の進むべき方向が決まりました。

(後略)

(2012年9月25 日 東京都江戸川区「読書のすすめ」にて  構成 小原田泰久)

著書の紹介

「他助論」(サンマーク出版)
「非常識な読書のすすめ」(現代書林)

鈴木 七沖(すずき なおき)さん

1964年愛知県生まれ。日本大学、文化服装学院を卒業後、さまざまな職業をへて、33歳のときに㈱サンマーク出版に入社。現在、取締役TB編集部編集長。担当書籍の累計実売数が300万部を突破。2011年3月、ドキュメント映画「SWITCH」を制作。各地で自主上映会が広まっている。英語版も完成し、海外上映も始まっている。

『本と映像作品で、楽しく豊かな人の輪を作っていく』

自分で作っていた50部の新聞が人生を変えるきっかけに

中川:
はじめまして。鈴木さんは、編集者としていろいろな本を作られていますが、『「原因」と「結果」の法則』など、みなさん、よく知っている本がたくさんありますね。ずいぶんとベストセラーを世に出されているとお聞きしていますが、私は、沖縄で『いのちのまつり』という絵本を見つけて、とても良かったので、会員さんにご紹介したことがあります。あれも、鈴木さんが編集されたそうですね。
鈴木:
ありがとうございます。おかげさまで、絵本としては異例とも言える大変な売れ行きで、小学校の道徳の副読本としても使われています。週に2~3校から、スライドにして全校生徒に見せてもいいだろうかというような問い合わせをいただきます。小学生のお子さんをおもちの親御さんは、きっとこの絵本のことをご存じじゃないでしょうかね。
もともとは、佐賀に住んでいる草場一壽さんという男性が自費で出版したものです。男の子がパーキングビルから突き落とされた事件や西鉄バスジャック事件が九州の近県で起こり、これは黙っていられないというので、絵本という形でいのちのことを訴えたんですね。
それが、口コミで広がって、約5000部も出ました。自費出版では考えられないことですよ。その本が、回り回って、私のところへ来ました。読んだ瞬間に、「これをやりたい」と思いましたね。
中川:
見た瞬間に、ぴぴっときたわけですね。
鈴木:
どの仕事も瞬間ですね。この本を、うちの代表のところへもっていきました。そしたら、代表のところへも、違うルートからその本が届いていました。5000冊のうちの2冊が、うちの会社へ来ていたわけです。
そういう偶然の多い編集者人生ですね。
中川:
一瞬のひらめきというのは大事だと思います。考えて考えて、考え抜いて決断するというのも必要なことはあるかもしれませんが、ぱっとひらめいたことに従うと、うまくいくというのは、私も、氣をやっていてよく感じますね。
この絵本の何ページ目かにある仕掛けにはびっくりさせられました。ある絵が折りたたまれているページがあって、それを広げていくと、「あっ」と思ってしまいました。「なるほど」と納得する人もいるでしょうね。
鈴木:
だれにでもお父さんとお母さんがいて、さらにその上にお父さんとお母さんがいて…それをずっとさかのぼっていくと、無数とも言えるご先祖様がいるわけですよ。それを絵にしたんですね。言葉で、「たくさんのご先祖様がいる」と言っても、なかなか実感できませんが、こうやって絵にすると、納得できるのではないでしょうか。
中川:
その通りですね。私は長年、氣をやっていますが、氣とはこんなものだと、いくら言葉で説明してもなかなか伝わりません。でも、体験してもらうと、何も言わなくても、わかる人にはわかります。
ところで、鈴木さんは、編集者になる前、いろいろな仕事をされてきたようですが。
鈴木:
いやいや、威張れるようなことではないのですが、両手の指ではおさまらないくらいの仕事をしてきました。今の会社へ入る前は、産業廃棄物を回収するトラックの運転手でした。今はお台場と言われていますが、当時は夢の島という関東地方のゴミの最終処理場へ、ゴミを運んでいました。
中川:
それがまた、どうして出版社へ入ることになったのですか。
鈴木:
妻が乳がんになりまして、田舎で暮らした方がいいと思って、埼玉県の伊奈町というところに引っ越しました。産廃の仕事をやめて、新居近くの町工場で働き出しました。そのころ、ずっと50部くらいの新聞を出して、親しい人に配っていました。そしたら、そのうちの一部が、当時のサンマーク出版の社長の目に止まりまして、会いたいと呼び出されました。そしたら、うちに来ないかという話になりまして、それがきっかけですね。一度はお断りをしたのですが、こんな話はなかなかないだろうと思って、お世話になることにしました。
中川:
ご自分で作っておられた新聞が縁だったわけですね。それも、たった50部だけなのに、それで人生が変わってしまいましたね。どんな新聞を作っておられたのですか。
鈴木:
そのころはパソコンもありませんでしたから、ワープロで自分の思いを書いて、写真を切り張りして作った新聞です。それまでいろいろな仕事をしてきて、広告業界でも働きましたし、文章を書くのは好きでした。
内容は、夢の島で仕事をして感じたことですね。たとえば、いくら川下の夢の島で仕分けをしたって、川上の私たちの生活が変わらなければ、ゴミ問題は何も解決しないということを訴えたり、夢の島の土壌の微生物を調べたり、当時はEM菌というのが流行りはじめていて、それを飲むとどうなるかという人体実験を自分の体でしたりもしましたね。会長がやっておられるような目に見えない世界のことにも興味がありましたので、そういう話も書いていました。

(後略)

(2012年9月 19 日  東京日比谷 松本楼にて 構成 小原田泰久)

柴田 保之(しばた やすゆき)さん

1958 年大分県生まれ。1987 年東京大学大学院教育学研究科単位取得退学。 同年より、國學院大學に勤務し、現在、人間開発学部初等教育学科教授。専門は、重度・重複障害児の教育に関する実践的研究。障害の重い子にも内的な言語があることに気づかされ、障害児教育の根本的な問い直しを続けている。 http://www2.kokugakuin.ac.jp/~yshibata/ 著書「みんな言葉を持っていた―障害が重い人たちの心の世界―」(オクムラ書店)

『障害の重い人たちの心の世界に耳を傾ける』

心の中で、豊かで潤いの ある美しい世界を紡ぎ出す人たち

中川:
柴田先生のことは、私どもの会員の神原康弥君の お母さんから紹介していただきました。康弥君は、幼いころに、突然の発作を起こし、体が不自由になり、言葉も話せなくなりました。しかし、お母さんに手を添えてもらうことで字が書けるようになり、自分の意思を表現したり、詩を書くこともできるようになりました。 先生に出あって、ずいぶんと励まされ、勇気をもらったとおっしゃっていました。康 弥君と知り合ったのはいつごろのことですか。
柴田:
年くらい前でしょうか。康弥君が小学校の低学年でしたから。
中川:
先生は、重度の障害 をもつ人たちにも言葉があるということで、障害者や家族の方々の相談に乗ったり、パソコンの文字盤を使って、彼らに心のうちを表現させてあげたりしておられます。 脳に問題があって、重度の肉体的な障害をもっている人は、自分の意思表示がないので、言葉もないと思われていましたが、実際には言葉もあるし、すばらしい感性をもっていると、先生は言われています。どういうことがきっかけでそう思われたのですか。
柴田:
私の恩師はとてもユ ニークな人で、障害をもった人には深い感性、研ぎ澄まされた感覚があると常々おっしゃっていました。彼らは健常者と呼ばれる私たちよりもずっと偉い存在だということもおっしゃっていて、言葉がないとは一切おっしゃっていませんでした。しかし、私たちは時代の流れもあって、言葉のある障害者とない障害者があると考えていました。重度の障害のある人の中には、言葉をもっている人もいるだろし、いない人もいるだろうとは思って接していました。言葉の理解の ある人とない人という具合に分けて考えていたわけで す。
しかし、長年、彼らと接しているうちに、どうもそうではない、だれもが言葉をもっているのではと思うようになってきました。
私たちは、一般に障害のある人に質問して 、「ハイ」と「イイエ」を答えられるかどうかで、言葉があるかないかを判断しています。たとえば、まばたきで質問に「ハイ」「イイエ」の返答ができれば、この子には言葉があると判断するわけです。でも、まばたきもできないし、自由に体が動かせなかったり、不随意運動が激しい人は、言葉を理 解していても、返答ができませんから、言葉がないとみなされてしまうのです。
中川:
そうですか。康弥君の場合、お母さんは知的な遅れはないと確信していたようですが、「ハイ」「イイエ」の返答ができなかったので、コミュニケーションはできないと、外からは見られていたわけですね。
柴田:
そうですね。でも、少し考えてみればわかりますが、目の前の人が、私たちにわかるような表現をしない からと言って、どうして言語がないと結論づけることができるのでしょうか。表現すべき内容はもっているのだけれども、表現するのに必要な運動を起こすことに障害があるだけだと考える方が自然なのではないでしょうか。
中川:
先生の本には、重度の障害をもった方のすばらしい詩が紹介されています。本来なら、それらが外に出ることはなかったわけですね。先生がコミュニケーションをとる方法を考え出されて、実際にコミュニケーションすることで、それが表に出て、読ませていただくと、すごく心にしみる言葉が並んでいます。彼らは、外に表現できない中で、ずっと詩を作っていたということですよね。
柴田:
15年ほど前から、パソコンとスイッチを使ってコミュニケーションをしてきたのですが、最初は、ゆっくりと一文字ずつを綴っていくくらいで、長い文章にはなりませんでした。しかし、彼らの短い文章の中に、とても深い表現があることには気づいていました。援助の方法も進歩して、より速くたくさんのコミュニケーションができるようになったとき、彼らの使う言葉があまりにも美しいので、「詩を作ったことがありますか」とたずねたら 、「ハイ」と答え 、「 今 、書けますか」とお願いすると、すらすらとよどむことなく 詩がつづられてきたのです。 最初に詩を聞き取れるようになったときには驚きました。発表をする機会もないのに、一生懸命に自分の頭の中に美しい世界を作り出しているのだなと感激しました。彼らの置かれた状況としては、非常に殺伐としたものです。にもかかわらず、ちゃんとした豊かで潤いのある世界を作り上げているのです。現実のつらさから逃避するためだけではなく、彼らにとっては、厳しい現実に再び向かい合うために、心を見つ めてもう一度自分を見つめ直すための大切なひとときだと感じました。
東日本大震災のとき、「故郷 (ふるさと)」という歌が、こんなにも心に染みるものだとは思わなかったと感じた方も多いと思います。素朴な歌詞が、一人ひとりの望郷の念を掻き立てたのではないでしょうか。つらい出来事があったからこそ、そういう気持ちになったのだと思い
ます。つらいときの詩の意味というのは大きいのでしょうね。
中川:
私が想像するに、これまで自分の思いを伝えられなかった人が、やっとわかってくれる人がいて、それを外に伝えてくれるとわかったとき、自分のつらさや愚痴のようなものが最初に出ると思ってしまいました。しかし、最初の言葉として、みなさんが、お母さんやまわりの人への感謝の気持ちを言っているのには驚きました。
柴田:
そうなんですね。お母さんが一生懸命に世話をしていることに、彼らはすごく感謝していますし、その気持ちを伝えてきますね。付き合いが長くなると愚痴も出てきますけどね(笑)。愚痴と言っても、自分たちは言葉がわかっているのに、なぜそのことをわかっても らえないのかといったことですけどね。

(後略)

(2012年8月8日 國學院大學 たまプラーザキャンパスにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「みんな言葉を持っていた ―障害が重い人たちの心の世界―」(オクムラ書店)

町田 宗鳳(まちだ そうほう)さん

1950年京都市生まれ。14歳で出家し、臨済宗大徳寺で修行。20年間の修行の後、寺を離れて渡米、ハーバード大学で神学修士号を、ペンシルバニア大学で博士号を習得する。プリンストン大学助教授、国立シンガポール大学准教授、東京外国語大学教授をへて、現在、広島大学大学院総合科学研究科教授。著書に、「法然の涙」「ニッポンの底力」「異端力」などがある。

『異端力によって、自分で納得し楽しめる人生を切り開く』

14歳で出家。 20年間の禅寺での修行の後、ハーバード大学へ留

中川:
はじめまして。車で来たのですが、途中で道がわからなくなりまして(笑)。福山の市街から、5~6キロ離れるだけで、こんなにも静かなところがあるんですね。この永照院というのは先生のお寺ですか。
町田:
ようこそおいでくださいました。ここは、本来はお寺ではなくて、ある大手造船会社が、月見の宴を開くために建てた古民家です。それを私が譲り受けて、観音菩薩をお迎えしてお寺にしました。人工の建物がここからはまったく見えないでしょ。
中川:
駐車場から池のほとりを歩いて、坂道を登ってきましたが、下界とは氣がまったく違いますね。すばらしいところです。
実は、先生のことは、青山学院大学の石井光先生からご紹介いただきました。石井先生は、私どもが行っている真氣光研修講座で講師をしてくださっていて、内観のエッセンスを参加者に体験してもらっています。
町田:
そうでしたか。私も内観のことはすごく評価していまして、石井先生からはいろいろとお話をうかがったことがあります。内観というのは、日本人にしか効果がないかと思っていたのですが、石井先生は長年ヨーロッパでやっておられて、そうじゃないことを証明されましたね。すばらしいことを世界に発信されていると思いますよ。
中川:
町田先生は、今は広島大学大学院の教授をされていますが、経歴を拝見すると、何と言えばいいのか、ちょっとこういう方はいないのではと驚かされます。14歳で出家されたということですが、まだ中学生ですよね。どうして出家しようと思ったのですか? ご家族の影響とかあったのですか?
町田:
うちの家族は、まったく宗教には関心がありませんでした。私は、小学校のときからキリスト教の教会に出入りして聖書の勉強をしていましたから、宗教には関心があったのだと思います。中学生のクラスメイトにお寺の小僧さんがいまして、休みの日に遊びに行ったりしたのですが、禅寺の生活がとてもシンプルで、私には魅力的に映りました。当時、体が弱くて、お寺で修行すれば強くなれるんじゃないかという気持ちもあって、中学二年生の大みそかに「除夜の鐘を撞きに行く」と親に言って、風呂敷包一つで家を出ました。
中川:
ご両親は心配したんじゃないですか。
町田:
ひどく心配したと思いますよ。でも、どこのお寺へ行ったかはわかっていましたから。
中川:
中学生がお寺へ行って、どういう生活をするのですか?
町田:
朝、早くに起きて、お経をあげてから掃除をします。それから学校へ行きます。学校では普通に授業を受け、終わったら、走って帰ってきます。そして、畑仕事をして、薪を割って、お風呂をわかすというような生活ですよ。
中川:
遊びたい盛りの中学生が、わざわざそういう生活に飛び込むというのは、何か突き動かされるものがあったんでしょうね。でも、ほかの子が遊んでいて、うらやましいとか思わなかったんですか。
町田:
もちろん、友だちと比べて、自分には遊ぶ時間も勉強する時間もなくて、つらいと思ったことはありますよ。でも、自分で決めてやったことですから。なんでこんな道を選んだのだろうと疑問に思うことはありましたが、失敗したと思ったことはなかったですね。
中川:
そのお寺で20年間修行をされた後、アメリカへ行かれますよね。それもハーバード大学で勉強をすることになるわけですが、それはどういういきさつだったのですか。
町田:
20年間お寺にいて、仏教を外から見てみたくなりましてね。師匠が亡くなるということもあって、思い切って外へ出てみようと思ったわけです。
中川:
それでハーバード大学というのも、またすごい飛躍ですね。
町田:
別に私がハーバードを望んだわけではなかったのです。外国に留学してみたいという思いはあったので、機会があるごとに、いろいろな人に、その思いを伝えていました。そしたら、アメリカの有名な数学者の方が、アメリカの主要な大学に、日本に非常に変わったお坊さんがいて、留学したがっているが受け入れてもらえないかと、手紙を出してくださいました。それを、ハーバード大学の神学部の先生が見てくださって、私を受け入れてくれたという流れです。
中川:
すごい流れですね。道というのは、人とのご縁の中から開けていきますね。
町田:
私は、ずっとたなぼた人生ですよ(笑)。自分から動くことはなくて、声がかかるのを待っています。
中川:
結婚はされていたんですか。
町田:
アメリカへ行くと同時にしました。家内とは、京都の大原の小さな庵で一人暮らしをしていたときに出あいました。アメリカへ行く2~3ヶ月前でしたかね。まだ、ハーバードへの留学も含めて、先がまったく見えていないときに結婚を決めたのですが、私よりも家内の方が、勇気がいったんじゃないかなあ。アメリカへ行ってからは、勉強はもちろんしなければならなかったし、アルバイトをしないと食べていけませんでしたから、大変と言えば大変でしたね。

<後略>

(2012年7月19日 広島県福山市の永照院にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

異端力――規格外の人物が時代をひらく(祥伝社新書283) 町田 宗鳳 (著)

阿岸 鉄三(あぎし てつぞう)さん

1934年(昭和9年)札幌生まれ。北海道大学医学部卒業。同大学院(外科系)修了。神戸大泌尿器科講師、2度のアメリカ留学をへて、東京女子医大腎センター外科教授、所長を務め、2000年に定年退職。現在、同大名誉教授、大分大学客員教授、桐蔭横浜大学客員教授、江戸川病院ヘルシーエイジングセンター長。

『医学部教授が気功師になって気づいたこと』

透析患者の血流が良くなれ ばと外気功を試してみた

中川:
先生と初めてお会いしてからもう20年ほどになりますかね。お変わりなくお元気そうで何よりです。まだ現役で診療されているそうですね。
阿岸:
77歳になりましたけど、おかげさまで元気にしています。会長とお会いしたのは、先代会長のころで、私が生駒の研修所へ見学におうかがいしたときです。1994年だったかな。
中川:
18年前ということになりますね。研修講座にお医者さんが来られることはありましたが、現役の医学部教授がお越しになるというのは初めてだったと思います。先生は一泊してお帰りになりましたが、その一泊が先生の人生に大きな影響を与えたわけですよね。
阿岸:
本当にそうでしたね。自分でも想像できないような展開となりました。
中川:
もともとは、当時、東京女子医大の助教授だった本田宏先生がきっかけですか。
阿岸:
そうですね。そのころ、私は腎臓病総合医療センターの外科教授でした。あるとき、本田先生が、病院に気功師を連れて来ました。先代の弟子だった方です。私は手をかざして何かが起こるなどということは信じていませんでした。医学なり医療というのは、科学技術を応用したもの以外には考えられなかったからです。
それでも、せっかく来られたのですからお話だけはお聞きしました。その方の話をお聞きして、私が興味をもったのは、手をかざすと患者さんの体が温かくなるということでした。透析の患者さんの中には、閉塞性動脈硬化症と言って、血液の巡りが悪くなって、体が芯から冷えてたまらないという方が少なくありません。下肢に起こることが多くて、夏でも毛糸の靴下を3枚重ねてはき、湯たんぽやアンカを使っても足が冷たくて眠れないという人もいます。
体が温かくなるなら、そういう患者さんに外気功を受けさせたらどうだろうと、ひらめいたんですね。
中川:
いやあ、それはすごいですよ。頭から拒絶せずに、試してみようと思われたのですからね。
阿岸:
何だったんでしょうね(笑)。すぐに数人の患者さんにお話をして、外気功を体験してもらいました。そしたら、みなさん、体が温かくなったと言うんですね。それで、私は温かくなったというのをもっと客観的にとらえられないかと思って、サーモグラフィで測定してみることにしました。あと、血流の測定ですね。
過去の医学論文も調べてみました。過去10年間検索をしましたが、気功のことを書いた医学論文はなかったですね。あとからわかったのですが、気功を研究する団体というのはほとんどなくて、あっても小さな団体で、それも医学者よりも理工学を専門とする人が多く、権威ある学会誌や商業誌に気功をテーマに投稿しても、査読の段階で掲載を拒否されてしまっていたようでした。気功のことがわかっている査読者なんていませんからね。結局、少部数の雑誌に掲載されるだけなので、論文検索をしても引っかかってこなかったんですね。
中川:
なるほど。ある意味、先生はパイオニアですから、すべて自分で考えてやっていかなければならなかったわけですね。でも、サーモグラフィで調べてみようとひらめいたのはすばらしいですね。あれを使えば、体が温かくなるのが一目瞭然ですからね。
阿岸:
気功師の方に毎週1回来てもらって、下肢閉塞性動脈硬化症の患者さんに対して外気功をしてもらいました。女子医大の地下にサーモグラフィの検査室があって、気功治療を行うに当たっては私も責任がありますから、数時間の治療の間、そこに詰めていました。20名の患者さんに、それぞれ1回から6回、延べ30回の外気功治療を行いました。
その結果ですが、まず、患者さんの自覚症状では、気功を受けて数分以内に、下肢が温かくなってきて、温かくなるに従って痛みも軽減してきたと言う人が多かったですね。お風呂に入っているみたいに温かいのですが、お風呂だと出るとすぐに冷えるのに、外気功だと24時間、温かさが継続するという方もいました。
30回の外気功のうち、25回はやや改善以上の“有効〟という結果が出ました。

(後略)

(2012年5月23 日  SAS東京センターにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

科学的医療と非科学的医療の統合―統合医療の本質 (スコム・同時代医学双書) 金原出版

篠浦 伸禎(しのうら のぶさ)さん

1958年生まれ。東京大学医学部卒。東大医学部附属病院、国立国際医療センターなどで脳神経外科医として勤務。シンシナティ大学分子生物学部に留学し、帰国後、国立国際医療センター、都立駒込病院に。現在、都立駒込病院脳神経外科部長。脳の覚醒下手術ではトップクラスの実績をもつ。著書に「人に向かわず天に向かえ」(小学館)「臨床脳外科医が語る人生に勝つ脳」(技術評論社)など。

『脳外科の臨床現場から見た瞑想・氣・人間学の効果』

脳の覚醒下手術によって脳の各部の機能がわかってきた

中川:
先生は、脳外科医なのに、心のことや人間学の大切さを盛んにお話されています。ユニークなお医者さんもいるものだと思いまして、本を読ませていただいたら、とても興味深いお話がたくさん書かれていましたので、ぜひお会いしたいと思っていました。こうやってお会いできて光栄です。
篠浦:
ありがとうございます。私は、脳外科医で、脳の覚醒下手術を行っています。文字通り、患者さんが起きたままの状態で手術を行います。実際に、患者さんと話をし、反応を見ながら脳の手術をしていると、さまざまなことがわかってきます。言い方は悪いかもしれませんが、どんな脳科学の実験よりも、はるかに具体的で重要な情報を手に入れることができたのです。その経験から、人間の行動や感情をコントロールしているのは脳だと、実感できるようになりました。そんなことから、心とか人間学に興味をもつようになってきました。
中川:
意識がある中で脳の手術をするというのは、正直、驚きなのですが、どれくらい前からそのような手術は行われているのですか? 想像すると、怖いような気もしますけど(笑)。
篠浦:
都内では、駒込病院と東京女子医大病院くらいですかね。一番技術レベルが高いのはうちだと自負しています。この手術が始まったのは6~7年前で、脳腫瘍の患者さんの手術のときに、覚醒下で行っています。初めてこの手術をしたときには感動しました。この手術中、脳を露出した患者さんが普段どおりに、私たち医師と話したり、手を動かしたりします。脳には痛覚がありませんので、皮膚などに局所麻酔を効かせておけば、患者さんはほとんど痛みを感じずに開頭手術ができるのです。
中川:
驚きですね。覚醒下での手術のメリットというのはどういうことがあるのですか?
篠浦:
患者さんの反応を見ながら手術が進められるということです。腫瘍を摘出するとき、脳の一部に電気刺激を与えたりしながら、患者さんの反応を見ます。これまでの脳外科手術では、全身麻酔で行っていましたので、手術中に、大事な機能のある部分の神経回路に傷をつけてしまって、麻痺や失語症が残ったりしたこともありました。覚醒下で行えば、大事な神経回路を圧迫したりすると、即座に目の前の患者さんに変化が出るので、そこで手術をストップすることができます。その段階だと、少し休めば、回復することが多いので、手術によって障害が残ることを最小限に抑えることができます。
この間、女性の患者さんでしたが、自分の手術をずっとモニターで見ていた人もいました。途中で出血があったりして、それでも動揺しませんでしたからね。大変なツワモノだと感心しました。
中川:
そういう時って、女性の方が強いみたいですね(笑)。私だったら、怖くて見られないですよ。
そうやって、何例もの患者さんの手術を覚醒下で行われているわけですが、その手術をするうちに、脳の機能が具体的にわかってきたということです。
篠浦:
右脳は感性の脳、左脳とは論理の脳と、よく言われますが、確かに右脳と左脳の機能は違います。右の前頭葉の手術をしていると、それまで普通に会話できていた患者さんの集中力が急に途切れ、眠くなり始めることがあります。逆に、左の前頭葉の手術をしているときには、数を逆に言っていくような簡単なことも面倒くさがり、怒り出したりします。
外来に来られる方で観察しても、右脳に障害のある方は、どこか活気がありません。知的なことは問題なくこなせるのですが、料理などをすると非常に時間がかかったりします。左脳に障害があると、気分が高揚していてお酒を飲んだときのように、よくしゃべります。しかし、感情の起伏が激しくて、急に怒りっぽくなったりします。複雑な課題に取り組むのが苦手で、不機嫌になったりします。
中川:
面白いですね。氣は、よく右脳だと言われていますが。
篠浦:
そうでしょうね。右脳は、直観とか感性とか芸術の脳ですし、他人の考えを憶測したり、感情を読むときに使われますね。
日本人は基本的には右脳の民族です。右脳は多義的と言われていて、さまざまな価値観を同時に受け入れられてそれを器用にこなせる脳です。日本人のように、宗教でも、あらゆるところに神様はいるし、神道も仏教もキリスト教も受け入れられます。変化の多い社会の中でもすばやく対応できるという特徴があります。
しかし、右脳に過大なストレスがかかるとどうなるかというと、防衛反応として、人は逃げようとします。手術中でも右脳に刺激を与えると逃げ出そうとする人もいますからね。それが高じるとうつ病になって、自殺に結びつきやすくなります。

(後略)

(2012年4月18日 都立駒込病院にて 構成:小原田泰久)

著書の紹介

左上:「臨床脳外科医が語る人生に勝つ脳」(技術評論社)
右下:「人に向かわず天に向かえ」(小学館)

有田 秀穂(ありた ひでほ)さん

1948年東京生まれ。1973年東京大学医学部卒業。その後、東海大学医学部内科で臨床、筑波大学基礎医学系で脳神経の基礎研究に従事。その間ニューヨーク州立大学に留学。現在東邦大学医学部統合生理学教授。セロトニン研究の第一人者。脳内セロトニンを活性化させる技法を教えるセロトニン道場の代表。著書は、「脳からストレスを消す技術」(サンマーク出版)、「セロトニン脳健康法」(講談社+α新書)、「セロトニン欠乏脳」(NHK生活人新書)「思春期の女の子の気持ちがわかる本」(かんき出版)など多数。

『セロトニン脳でストレスと上手に付き合う』

ストレスには勝てないからうまく受け流すようにする

中川:
私どもは、氣という癒しのエネルギーをベースにして意識とか気づきの大切さをお伝えしています。私の父の代から25年ほどやっている中で、氣を受けることによってさまざまな変化が起こってくることは、体験的にわかってきました。しかし、理論的には説明できないことが多々ありまして、何とかもっと多くの人にわかりやすいようにお話できないかと思ってきました。
ちょうどそんなときに、和歌山でクリニックを開業されている西本真司先生から、有田先生のことをお聞きし、ご著書を読ませていただきましたら、いろいろな疑問が解けていきました。これは、ぜひお会いしてお話をうかがいたいものだと思いまして、今日、こういう機会を設けていただきました。
さっそくですが、まずはいろいろな病気の原因とされているストレスについてお聞きしたいと思います。先生は脳科学という視点で、ストレスについて語っておられますね。
有田:
よろしくお願いします。ストレスですが、私たちの脳は、心身が不快に感じることは、すべてストレスと認識します。仕事のプレッシャーとか人間関係のトラブルといった精神的なものばかりでなく、痛みとかかゆみ、疲れ、空腹、暑さ、寒さなどもストレスです。
つまり、人は生きている限り、何らかのストレスを感じているということです。よく、ストレスに打ち勝つと言いますが、ストレスというのはどう頑張ってもなくなることのないものですから、打ち勝とうとすることが無理な話です。打ち勝とうとすると、それが余計にストレスになってしまうという矛盾をはらんでいるのです。
では、どうしたら、なくそうと思ってもなくせないストレスとうまく付き合うことができるのか。この問題に世界で最初に取り組んだのがお釈迦様でした。お釈迦様は6年間、大変な苦行をします。まさに、ストレスに戦いを挑んだわけです。しかし、結果は完敗でした。お釈迦様でもストレスには勝てなかった。その経験によって、お釈迦様は、ストレスには勝つことはできない、だから上手に受け流せばいいと気づきました。これは、最新の脳科学がたどり着いた結論でもあります。
中川:
ストレスをなくそうとするのではなくて、あって当たり前だと思うことですね。どうやったらストレスを上手に受け流せるかということを考えることの方が重要で、それができないから、現代は、うつ病をはじめ、さまざまな病気が蔓延しているということでしょうね。
有田:
ストレスについての西洋医学的な研究は、100年ほど前、ハンス・セリエというカナダの免疫学者が取り組みました。ストレスという言葉も、彼の提唱した「ストレス学説」によって認知されたものです。
セリエは、生体にストレスがかかるとどうなるかを、動物実験で調べました。ストレスを受けると、生体はストレスホルモンを出します。そして、そのストレスがずっと続くとどうなるか見るため、ラットにストレスをかけ続けたところ、ラットは死んでしまいましたが、その過程でとても興味深いことがわかりました。最初にストレスがかかったときには、ラットは何とかしようと大騒ぎしました。払いのけよう、打ち勝とう、逃れようとするわけです。このときには、自律神経の交感神経が緊張して、血圧も代謝も上がりました。しかし、しばらくして、いくら抵抗してもらちがあかないとわかると、生体は抵抗しなくなりました。血圧も上がりません。
そのときに、ラットの体に何が起こっているか、セリエは調べました。胃潰瘍ができていました。胸腺やリンパ腺が委縮していました。副腎皮質が肥大していました。これは、「セリエのストレス三兆候」と呼ばれていて、ストレスを受け続けると、生体に必ずと言っていいほど起こる反応です。
中川:
ストレスによって肉体にも変化が出てくるわけですね。副腎皮質というのはよく聞きますが、ステロイドホルモンを出すところでしたよね。ステロイドというと、アトピー性皮膚炎で治療薬として使われているので、よく耳にします。これが、ストレスホルモンなのですね。
有田:
そうですね。おっしゃるように、ステロイドというのは副腎皮質ホルモンのことです。アトピー性皮膚炎や火傷などの炎症に効く薬ですが、これが体内で出すぎると、高血圧になったり糖尿病になったりします。また、副腎皮質ホルモンは免疫を抑える作用があります。これが大量に分泌されるということは、免疫を低下させますから、病気にかかりやすくなります。
さきほど、ストレスが続くと、ラットも抵抗することをやめると言いましたが、体内でも副腎皮質ホルモンを大量に出して免疫を抑制し、外敵と戦うことをやめてしまうという現象が起こってきます。

(後略)

(2012年4月4日 東邦大学医学部にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

左上・「思春期の女の子の気持ちがわかる本」(かんき出版)
右下・「脳からストレスを消す技術」(サンマーク出版)

棚次 正和(たなつぐ まさかず)さん

1949年香川県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程(宗教学専攻)修了。筑波大学哲学・思想学系助教授、シカゴ大学神学校・高等宗教研究所シニア・フェロー、筑波大学哲学・思想学系教授をへて、現在、京都府立医科大学教授(人文・社会学教室)。著書に、『宗教の哲学』(創言社)『宗教の根源』(世界思想社)『人は何のために「祈る」のか』(村上和雄先生との共著 祥伝社)『祈りの人間学』(世界思想社)

『「祈る」ことは「生命をその根源から生きる」こと』

人間は絶対的なものを 求めずにはいられない 生き物

中川:
去年3月11日の地震と津波と原発事故で、たくさんの人が悲しい思いをしました。今でもつらい状況の人がたくさんいます。たくさんの物的な支援が行われると同時に、日本全国、世界各国の人たちが、被災地の人たちのために祈りのエネルギーを送り続けています。私たちも、たくさんの仲間が集まって、被災地に氣のエネルギーを送ろうというイベントを行いました。
私は、祈りの気持ちはすごく大事だし、間違いなく、被災地にその気持ちは届いていて、被災者の方々を元気づけたり、勇気を与えたりできると信じています。しかし、何分にも、祈りも氣も目に見えないものなので、証明のしようがありません。今日は、祈りのことを研究されている棚次先生に、祈りがいかに大切かということをお聞きしたくておうかがいしました。どうぞよろしくお願いします。
先生は、宗教哲学というのがご専門ですが、京都府立医科大学という、お医者さんになる学生さんたちの学校で、どういうことを教えられているのですか。
棚次:
こちらこそよろしくお願いします。この大学では、宗教学とか医療倫理学というのを教えております。授業は熱心に聞いてくれるのですが、あまり専門的なことは、理系の学生たちなので、それほど興味がないみたいです。卒業して、医療の現場に入れば、病気で苦しむ方とか亡くなる場面とも向き合うことになるので、そのときに、私の話したことが少しでも役に立てばいいのではないかと思っています。ターミナルケアなどの話は、医療倫理学でしっかりと話しています。
中川:
日本人というのは、あまり宗教のことは前面に出して語りませんよね。○○教の信者という形で宗教にかかわっている人も少ないですしね。そのへんは、世界でも異質なんじゃないですか。
棚次:
日本人というのは、宗教がらみの話は嫌う傾向にありますね。特に、若い人はそうかもしれません。オウムの事件以来、宗教というと、非常にネガティブにとらえられています。
でも、世界的に見ると、70億人の人口のうち、55億人以上が宗教の信仰をもっています。日本人は、ほとんどが宗教の信仰を持たないという特異な民族なんですね。そのへんの話をすると、学生もショックを受けるみたいですね。
中川:
日本人は、特定の宗教はなくても、宗教的な精神性をもっていますよね。大きな山があれば、そこに神様を感じるとかですね。
先生は、宗教体験を、「相対と絶対との統一」とおっしゃっていますね。非常に哲学的で難しいのですが、わかりやすく説明してくださいますか。
棚次:
相対と絶対とは、明らかに次元を異にする2つの世界です。相対とは、他の相対との関係においてあるものを指します。絶対とは相対を絶しているものを指して、他との関係なしに独立自存する実在です。その両者が統一されるというのは矛盾なのですが、宗教体験では、それが統一されているのです。
たとえば、私たちの欲望ですが、それが充足されることは決してありません。欲望の本質はそれが決して満たされないところにあります。なぜなら、欲望というのは、相対の存在だからです。これは、どこまでいっても絶対的なものにはなりません。幸せにしても、それが永続的なものかというと違いますよね。何かあると不幸のどん底に陥ったような気分になってしまいます。私たちが肉体をもっている限り、こういった相対的なものに支配されざるを得ないですし、相対的なものである限り、苦がつきまといます。
私は、人間というのは、「絶対と相対との関係」だと考えています。絶対だけでもなく相対だけでもない。多くの人は、相対的なところで人間をとらえている。その限りだと、いつまでも落着はないでしょうね。
相対からくる苦しみを乗り越えるには、絶対的なものを意識する必要があります。宗教というものが、絶対を考えるきっかけになります。
中川:
人間は、どうしても人と比べて自分はどうだとか考えてしまうわけですよね。そこに苦しみとか悩みが生じてきて、そこから脱するには、どうしても神のような絶対的な存在を意識するしかないということですよね。よく、弱いから宗教に逃げるという考え方をする人もいますが、それはどうなのでしょうか?
中川:
そういう側面もあるでしょうね。でも、私は違うとらえ方をしています。宗教にしても祈りにしても、弱いから絶対的なものを求めるのではなく、人間はもともと絶対的なものを求めざるを得ないようになっているのではないでしょうか。

(後略)

(2012年2月22 日 京都府立医科大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

左上・『祈りの人間学』(棚次正和著 世界思想社)
右下・『人は何のために「祈る」のか』(村上和雄先生との共著 祥伝社)

森山 徹(もりやま とおる)さん

1969年生まれ。神戸大学理学部化学科卒。同大学院の博士後期課程修了後、公立はこだて未来大学助手、助教をへて、現在、信州大学ファイバーナノテク国際若手研究者育成拠点(繊維学部応用生物学系バイオエンジニアリング課程)助教。専攻は、比較認知科学、動物心理学。「オカダンゴムシにおける状況に応じた行動の発現」で日本認知科学会奨励論文賞を受賞。著書に「ダンゴムシに心はあるのか」(PHPサイエンス・ワールド新書)がある。

『科学の目で心に迫る。ダンゴムシにも心があった!』

心は発達した大脳のみに宿るわけではない

中川:
ある書店へ入ったら、先生の書かれた本が、ぱっと目に止まりました。「ダンゴムシに心はあるのか」という、とても興味をそそられるタイトルだったので、さっそく買い求めて読ませていただきました。面白かったので、ぜひお話をうかがいたいと思いまして、研究室までお邪魔した次第です。よろしくお願いします。
森山:
ありがとうございます。お送りいただいた雑誌を拝見しましたが、中川会長は工学部のご出身だそうですね。
中川:
機械工学です。卒業後は、電機メーカーで研究開発の仕事をしていました。森山先生も、メーカーで開発の仕事をされていたそうですね。
森山:
私は化学の出身で、修士課程を卒業した後、やはり電機メーカーに就職しました。電車の推進制御装置の新製品開発グループというところに配属されまして、大電力半導体の開発にかかわっていました。
中川:
私は化学の出身で、修士課程を卒業した後、やはり電機メーカーに就職しました。電車の推進制御装置の新製品開発グループというところに配属されまして、大電力半導体の開発にかかわっていました。
森山:
当たってますね(笑)。心って何だろうということは昔から興味がありました。学部のときは、化学も面白くて一生懸命に勉強しました。しかし、化学というのは、根気が勝負の研究ですからね。ノーベル化学賞を受賞された、ある先生の研究室では24時間電気が消えなかったという話を聞いたことがあります。その精神力には大いに感心しますし、当時の先生や先輩から学んだ研究者の心構えが、今の私の研究を支えています。しかし、当時の私は、そのような態度を続けられるかどうか不安でした(笑)。それで、もともと興味のあった心や意識について研究してみようという気持ちになり、修士課程では、個人的に興味のある研究をさせてくれる研究室があったので、そこで勉強をすることにしました。しかし、どう研究を進めていいかわからなくて、試行錯誤でした。ただ、「心は発達した大脳のみに宿るという考え方には賛成できない」という思いはあったし、それを示すには「動物が行動を自分で選択するという様相を実験で提示することが必要なのではないか」という考えまではたどりついていました。
そこまでは行っても、その先へはなかなか進みません。そんなある日、今でも共同で研究をしている同級生が、「タコって面白そうだなあ」というようなことを言っているのを聞いて、私はこれもきっかけだと思い、タコで研究をすることに決めたわけです。
中川:
最初はタコだったのですか。でも、心というと、人間だけにあると考えたり、せいぜい、犬とか猫に心があるかなというくらいの見方しかできないのに、タコで実験しようというのは、なかなか出ない発想ですよ。先生の研究のポイントとなっているのは、心とは何かを独自に定義していることだと思います。その上で、対象となる生き物と長く付き合う中で、心の存在を明らかにするというアプローチをしているわけですが、なかなか根気のいる研究ですよね。
森山:
この定義も、独自と言えば独自だし、自分勝手と言えば自分勝手なものですけどね(笑)。科学の現場では、心というと、脳の特定部位の働きによるものだと思われています。しかし、心の概念を「脳の特定部位」だと言う科学者は、自分の知り合いの、心を司る脳の特定部位が機能しなくなったとしたら、その人は心も失ってしまったと考えるかと言うと、そうじゃないと思いますね。心を感じるはずです。記憶や思考、判断といった認知的活動や感情を司る特定部位が脳にあるのは確かですが、その機能を挙げ連ねるだけでは、心とは何かという問いへの答えにはなりません。心というのは、もっと抽象性の高いものではないかと思いますね。
中川:
先生は、心というのを、「私の中にある何者か」というとらえ方をされていて、それは第六感で把握する気配のようなものだと言われていますね。ある人を前にして、その人に心があると思うのは、その人の内に隠れている気配を感じるからだとおっしゃっていますが、これは、まさに氣のことだなと、私は思いました。私どもがやっている真氣光というのは、私の父が始めたものですが、父が「氣は心だ」と、ずっと言っていたのを思い出しましたよ。

(後略)

(2012年2月1日 信州大学上田キャンパスにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「ダンゴムシに心はあるのか」(PHPサイエンス・ワールド新書)

南 研子(みなみ けんこ)さん

女子美術大学油絵科卒。NHK「ひょっこりひょうたん島」「おかあさんといっしょ」などで美術制作を担当。1989年イギリスの歌手スティングのツアーに同行したアマゾンの先住民のリーダー、ラオーニと出会ったことがきっかけで、熱帯森林保護団体を設立。その後、約22年間、2011年までに25回現地を訪れ、年数ヶ月アマゾンのジャングルで先住民とともに暮らし、支援活動を続けている。著書に「アマゾン、インディオからの伝言」「アマゾン、森の精霊からの声」(ほんの木)がある。 http://www.rainforestjp.com/news/index.html

『アマゾンのインディオからもらった大きな気づき』

スティングのツアーで長 老と会い、アマゾンにか かわることに

中川:
はじめまして。この22年間、1年に数か月はアマゾンのジャングルで暮らしておられるというので、どういう方が来られるのだろうと、ちょっとドキドキとしていました(笑)。
南:
頭に鳥の羽の飾りが乗っていると思っていましたか(笑)。いたって普通でしょ。
中川:
ほっとしています(笑)。私どもは、宇宙のエネルギーである氣を扱っている団体ですが、どんなことをやっているか、説明がなかなか難しいんです。南さんの活動も、簡単に言えば、アマゾンの森林を守ろうということですが、本を読ませていただくと、すごいドラマがいっぱいありますね。南さん自身、アマゾンの森林の破壊をずっと憂えていて、やむにやまれずに行動を起こしたのではなく、最初は、衝動的に動き出したと、そんな印象を受けましたが。
南:
だいたい、私は、人生の中で「こうやるぞ!」と決めたことはありません。直感だけ。とってもアバウトな人間です。あまり物事を深く考えても変わらないじゃないですか。力を入れればいれるほど、その力が自分にかえってきて疲れるばかりです。私が大事にしているのは、出会いとご縁ですね。出会いとご縁がないと、人生が進んで行きませからね。
中川:
アマゾンにかかわるようになったのも、ちょっとした出会いからでしたよね。
南:
1989年でしたね。当時も私はわがままに生きていましたが、それでも何か、自分らしく生きてないなって感じがしていました。そんなときに、アメリカ人の友だちが、イギリスのスティングのことを私に話してくれました。彼は今、アマゾンの森がなくなっているので何とかしたいと、長老を引き連れてツアーをしているというのです。私は、あまり音楽に興味はなかったのですが、アジアで唯一日本に来るので、手伝ってほしいと言われて、「いいですよ」と軽く返事をしてしまいました。それが始まりですね。友だちの話を聞いたとき、アマゾンっていいサウンドだなと思って、アマゾンというのはどこにあるんだろうと、地図を調べました。一生懸命にアフリカを探していましたからね(笑)。アマゾン川は、ナイル川と並行して流れていると思っていましたよ。その程度の知識で始まったわけです。
中川:
それがどうしてこんなにものめりこんでしまったんでしょうね。
南:
長老と会ったときは、この人は違う星の人かなと思いました(笑)。でも、しばらく一緒にいるうち、氣がいいというか、見ていて心地いいんですね。帰りに空港まで送ったとき、握手をしました。そのとき、行ったこともないアマゾンの景色が一瞬見えたんです。音もにおいも感じました。勘違いかなと思いましたが、そういうことを感じさせるというのは、自我がない人なんだろうなと、とても彼のことを気に入りました。空っぽで、アマゾンの精霊なんかの思いを運んできたメッセンジャーなんだこの人は、と思って目を見たら、アマゾンの状況を日本に伝えてほしいと言っているように感じたんですよ。勘違いなら勘違いでいいやって思いましてね。この男のためにひと肌ぬぐかと、そのときに決心しました。悪い男につかまったみたいなものですよ。アマゾンと離れられなくなってしまいました(笑)。資金繰りとかうまくいかなくなってもうやめようと思ったら、そんなときに限って、ちょろっといいことがあったりするわけです。ジゴロみたいでしょ(笑)。このままいっちゃえ。こんな軽い乗りですよ。がんばったら続かなかったでしょうね。
中川:
それですぐにアマゾンへ行かれたんですね。すごい行動力ですね。
南:
軽いんですよ(笑)。とにかく、現場を見ないと始まりませんからね。こんなに遠いのかってびっくりしました。ブラジルまでが飛行機で24時間。そこからジャングルの現場へ行くのに4日ほどかかりました。日本から1週間はかかります。そんなこと前もって調べていませんでしたから。ただ、遠いところへ行くんだなというくらいで出かけました。
中川:
そんなにかかると知っていたら行かなかったかもしれませんね(笑)。それで、ジャングルは今、どういう状況になっているんですか。
南:
年間に四国の1・5倍の面積の森林が、大豆畑や牧場になったり、鉱物の採掘やダムの建設で壊されています。東京都の12倍ですね。科学的には証明されていませんが、アマゾンの森林が地球上の酸素の4分の1から3分の1を作ってくれていると言うじゃないですか。それを壊していくというのは、人間は自分で自分の首を絞めているようなものですね。私たちの支援地域は、本州と同じくらいの面積があります。そこで、植林をしたりしているのですが、砂漠に水をまくようなものです。それでも、まかないよりはいいだろうと、毎年、行っています。マンモスに立ち向かうアリみたいなものかな。でも、アリをたくさん増やせば何とかなるかもしれないと、一生懸命にアリを集めています。

(後略)

(2012年1月 25 日 東京日比谷松本楼にて 構成 小原田 泰久)

著書の紹介

アマゾン、森の精霊からの声 [単行本]
南 研子 (著)
出版社: ほんの木

高橋 淳(たかはし じゅん)さん

1922年(大正11年)東京生まれ。海軍予科練に入隊し、海軍飛行隊として戦線に赴く。昭和28年、日本飛行連盟発足に参加。以来、小型軽飛行機のプロパイロットとして活躍。パイロット養成のほか、赤十字飛行隊隊長として、災害時にはボランティアで救護活動を行う。これらの活動に対して、厚生労働大臣、国際航空連盟から表彰状が送られる。現在、日本飛行連盟名誉会長。

『日本最高齢のプロ・パイロット。ヒコーキこそ永遠の恋人』

小学生のときから飛行機 に乗りたくて、予科練に 入った

中川:
家内が「徹子の部屋」で高橋さんを拝見しましてね。すばらしい人がいるからというので、ぜひ、お話をうかがいたいと思って、こうやって押しかけました。今日はよろしくお願いします。
高橋:
いやあ、恐縮です。知り合いの奥さんが広告会社に勤めていまして、その方が、こんなのがいるよと、テレビ局の人に私のことを話したみたいですね。
いい体験をしましたよ。さすがに人気のある番組ですね。ベンツの560で送り迎えをしてもらいましたよ。そして、局へ着いたら特別応接室ってところへ案内されまして、すごい部屋でしたね。そこへ徹子さんがあいさつにこられて、少しお話をして、それから、リハーサルもなしに本番ですよ。スタジオも立派なものでしたよ。
中川:
反響がすごかったんじゃないですか?
高橋:
電話やFAXが次々に入ってきました。やっと落ち着きましたけどね。昔の飛行機仲間とか、操縦を教えた人たちからですね。
中川:
高橋さんは、最高齢のパイロットでいらっしゃるわけですね。89歳ということですが、かくしゃくとされていて、とても若々しいですよね。その赤いジャンパーもお似合いですよ。
高橋:
徹子の部屋でも、これを着てほしいと言われました。特注なんですよ。背中の刺繍、見てくださいよ。
中川:
すごいですね。やっぱり柄は飛行機ですね。世界にひとつしかないジャンパーですよね。こういうおしゃれな洋服を着ようという気持ちがあるから、いつまでも現役で飛行機が操縦できるんでしょうね。
高橋:
ぼくはおしゃれが好きですし。それに、年を取ったからって、地味な格好をすることはないと思っています。うちは、息子の嫁が、いろいろとアドバイスしてくれるんですよ。徹子の部屋のときも、嫁のアドバイスでGパンを1本買いましたよ。たくさんもっているのに、それじゃダメだって言われましてね(笑)。
中川:
いいですね。それで、高橋さんは、いつごろから飛行機に乗ろうって思っていたのですか?
高橋:
もう昔々の話ですよ(笑)。小学生のころから飛行機に乗りたいと思っていましたね。当時の中学校は5年生までありましたが、3年のときからグライダーに乗って、もう空の虜になってしまいました。
中川:
戦前の話ですよね。まだ飛行機もあまりなかったんじゃないですか。
高橋:
そうね。でも、将来は飛行機乗り以外には考えられなかったですね。それで、飛行兵を養成する予科練という制度があるのを知って、すぐに応募しました。昭和16年10月ですから、太平洋戦争が始まるちょっと前ですね。ぼくは、18歳でした。
中川:
夢はかなったわけですが、すぐに戦争になってしまったわけですよね。
高橋:
2ヶ月後には真珠湾攻撃があって、太平洋戦争が始まってしまって、訓練もそこそこに戦地へ行かされました。最初は、地上部隊で訓練を受けて、それから実践部隊として飛びました。
ぼくが乗った飛行機は、大型の双発機でした。大型の飛行機なので消耗が激しくてね。スピードも遅いし、あれに乗っていた人で、生きているのは少ないんじゃないかな。
南方にいたぼくの部隊でも、最初は40機くらいいたけど、終戦の前の年にはほんの2~3機でしたからね。
それから内地へ帰ってきて教官を少しやって、米軍が沖縄へ上陸しましたから、鹿児島の出水(いずみ)というところにある飛行場から沖縄攻撃へ飛んで行ったりね。
終戦間際では、このタイプの飛行機だと、残っていたのはぼくのだけだったですよ。それから、北海道へ移れということになって、北に向かって移動しているときに、終戦になりました。23歳のときでしたね。
中川:
よく生きて帰れましたね。危ないこともあったでしょう。
高橋:
雨のように弾が飛んできましたよ。それをかいくぐって、敵艦に向けて、魚雷を発射するんですからね。
中川:
かいくぐるって言われますけど、そんなことできるんですか。雨のように弾が飛んでくるのに。
高橋:
敵は、飛行機の前方を狙って撃ってくるでしょ。飛行機は前へ飛んでいるからね。だから、そのまま飛んでいれば当たってしまいます。だから、飛行機を横滑りさせるという技術を使うんですね。自動車で、急カーブを切ると、横滑りするじゃないですか。あの要領ですよ。それで何とかかわしてきました。
それから、敵艦に向かうときも、甲板の下を飛んで弾に当たらないようにして、魚雷を落とします。魚雷攻撃は、2、3回行ったら帰って来なかったですよ。10機行けば、帰ってくるのは半分くらいだったな。

(後略)

(2011年12月6日 東京都調布飛行場内にて 構成 小原田泰久)

桜井 邦朋(さくらい くにとも)さん

1933年埼玉県生まれ。京都大学理学部、同大学院理学研究科に学ぶ。理学博士。卒業後、京都大学工学部、NASAゴダード宇宙飛行センター、メリーランド大学を経て、神奈川大学工学部教授に。同工学部長、学長などをつとめる。現在、早稲田大学理工学術院総合研究所客員顧問研究員、神奈川大学名誉教授。著書は「命は宇宙意志から生まれた」(致知出版)「なぜ宇宙は人類をつくったのか」(祥伝社)など110冊を超える。

『生命は宇宙の意志によって生かされている存在だ』

最初は生物学をやりた かったが、太陽を研究 テーマに

中川:
実は、ずいぶんと前から、うちに先生のご著書がありましてね。「宇宙人探索のパイオニアたち」という本です。たぶん、私の父が買ったものだと思います。本棚に大切にしまってありました。父は1995年に亡くなりましたが、宇宙のエネルギーによって人を癒すという活動をしていたものですから、宇宙に関してとても興味をもっていました。
私も、先生のご著書を何冊も読ませていただきました。宇宙というのは、とても夢があって、その研究に先生が夢中になっておられる様子が伝わってきますね。特に、宇宙に意志があるというお話、これは普通の科学者では発想できないのではと感心して読ませていただきました。
桜井:
ありがとうございます。「宇宙には意志がある」というのは1995年に出た本です。出版社の方が原稿を読んで、このタイトルをつけてくれました。だけど、研究者仲間からは、『お前、そんなタイトルでいいのか』と、さんざん言われましたよ(笑)。最近は、「命は宇宙意志から生まれた」という本が出ました。
中川:
普通の感覚では「宇宙の意志」と言ってもピンとこないし、怪しく感じるかもしれません。私は、宇宙の意志と聞いて、「人は生かされているんだ」ということを先生はおっしゃっているのかなと思いました。
でも、先生のような感覚で宇宙を研究するというのは、とてもワクワクしますよね。
桜井:
私は、最初から宇宙に興味があったわけではなくて、生物学をやろうと思っていたんですよ。
中川:
生物学ですか。動物とか植物とか、お好きだったんですか?
桜井:
私は、埼玉県の児玉郡という田舎で生まれ育ちましてね。父は農業をやっていました。牛や豚など動物をたくさん飼っていまして、動物たちの世話をするのが子どもたちの仕事でした。中学生のころ、片道14キロくらいの道のりを自転車で通学していましたが、帰りに私の自転車が家に近づくと、必ず牛が「おかえり」とでも言うように鳴くんですね。あの牛にはだれの自転車の音かわかるんだろうかと不思議に思っていましたよ。牛小屋へ行くと、柵から顔を出して、うれしそうに私の顔をぺろぺろとなめるんですよ。動物たちにも心があって、話せばわかるんだと思っていましたね。そんな経験がありましたから、生物学にはとても興味をもっていて、大学でも生を勉強するんだと心に決めていましたね。
中川:
しかし、なぜか宇宙物理学の方へ進まれるわけですね。
桜井:
私が大学2回生のころというのは、DNAの二重らせん構造が明らかになりまして、分子生物学という新しい分野の研究も進み出していまして、生物学がとても活気づいていた時期です。でも、生物学の教授は、そういうことはまったく教えてくれない。だから、非常に勢いづいている学問とは私も知らなかったし、先輩たちからも、「生物学では飯は食えないぞ」と言われて、気持ちも揺らいでいました。
専攻を変える決定的なきっかけとなったのは、『科学とは何か』という本を読んだことでした。そこには、生物学はもう終わりだと書いてあった(笑)。
中川:
それで物理の方へ進路を変更したわけですね。でも、生物学と物理学とではずいぶんと違うと思いますが、ご苦労はありませんでしたか?
桜井:
そりゃ、大変ですよ(笑)。何しろ、私は大学受験のときも、生物と化学で受けて、物理は選択していないんですから。当時の京大の物理は、理論物理、実験物理、宇宙物理、地球物理の4つの分野がありました。一番よくできる学生は理論物理を選択しました。それは当然で、ノーベル賞を受賞された湯川秀樹先生をはじめ、そうそうたる先生方がそろっていましたから。私も、湯川先生たちの研究室に入れればとあこがれましたが、とても学力的に太刀打ちできませんでした。実験物理はどうか。私は手先が不器用で実験が下手だからダメ。宇宙物理は、ものすごくたくさんの解析数学を使いました。ところが、私は数学が得意じゃない(笑)。それで結局残ったのは、地球物理ということになり、地球磁気とか電離層の研究をしている長谷川万吉先生の研究室にお世話になりました。湯川先生の研究室は、希望者が多くて、選考試験がありましたが、長谷川先生の研究室は希望者が私一人だったので歓迎されましたよ(笑)。
中川:
先生は、ずっと宇宙のことを話されたり、書かれたりしているので、宇宙物理学を専攻されたものとばかり思っていました。最初は地球物理学だったのですか。
桜井:
あれもダメ、これもダメで、消去法によってたどり着いたわけですよ(笑)。
地球物理の研究室へ入ったものの、何をやっていいかわかりません。本来なら先生が指導してくれるんでしょうが、長谷川先生は、「ぼくは指導しないよ。やりたいことが見つかったら言ってきなさい」という調子ですから、途方に暮れましたよ。そして、研究室で与えられた席は、助教授と助手の先生の間でしたから、落ち着かないですよね。
そんなぼくを、助手の廣野求和(ともかず)先生という方がいろいろと面倒を見てくれました。あるとき、廣野先生から「桜井君、こんな本がきたけど読んでみますか」と、分厚い本を渡されました。「TheSun」というタイトルの本でした。太陽に関する本です。それをお借りして下宿へ持って帰り、ペラペラとめくっていると、不思議なもので、ここが読んでみたいというところが見つかるんですね。私が最初に興味をもったのは、「ソーラー・アクティビティ」という太陽活動についての章でした。読みながら、大学ノートの片ページに日本語に直して書き取りをしました。

(後略)

(2011年 11 月 25 日 早稲田 大学理工学術院総合研究所にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

命は宇宙意志から生まれた
桜井邦朋 著  致知出版社

アーサー ビナード(あーさー ぴなーど)さん

1967年米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英文学部卒業。1990年に来日。日本語での詩作を始める。詩集「釣り上げては」(思潮社)で中原中也賞、「日本語ぽこりぽこり」(小学館)で講談社エッセイ賞、「ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸」(集英社)で日本絵本賞、「左右の安全」(集英社)で山本健吉文学賞を受賞。青森放送「サタデー夢ラジオ」、文化放送「吉田照美ソコダイジナトコ」でパーソナリティをつとめる。

『レンズを変えて観察すれば世の中の嘘が見えてくる』

英語眼鏡と日本語眼鏡を使って大きな嘘を見抜く

中川:
ビナードさんが書かれた『ここが家だ』という絵本を1年ほど前に拝見しました。第五福竜丸の事件について書かれていましたが、第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんとも対談をしたことがありましたので、非常に興味深く読ませていただきました。その後、『亜米利加ニモ負ケズ』というエッセイ集も読ませていただきました。
ビナード:
ありがとうございます。大石さんとは、この間、震災の直前でしたが、丸木美術館で対談をしました。そのとき、大石さんが、原発事故を予言するようなお話をされましてね。あの話を聞いていた人は、現実に事故が起こって、驚いたと思いますね。
中川:
原発は、半年以上たってもまだ終息しないわけで、放射能の汚染がじわじわと広がっていて、多くの人が不安を抱えています。私どもは、父の代から、原子力の危険性についてずっと取り上げてきました。前の号では、『二重被爆』という映画を作られた稲塚監督にお話をうかがいました。66年前の原爆も、まだまだ深い傷跡を残したままになっていますよね。
ビナード:
これはちょっとした奇遇ですね。実はその映画の主人公、山口彊つとむさんが『二重被爆』という本を残しているのですが、その英訳を頼まれているんですよ。
中川:
そうですか。何かご縁を感じますね。イギリスのBBCは、山口さんの体験を茶化すような番組を放送したみたいですが、そんな興味本位の見方ではなく、世界の人たちに、核兵器の本当の意味での悲惨さを知っていただきたいですね。あの本をビナードさんが英訳されるというのはうれしい話ですね。
それにしても、ビナードさんは日本語がお上手で、話すばかりでなく、すばらしい文章を書かれていて、本当にすごいなと感心させられます。日本語は、どういったことで習おうと思ったのですか?
ビナード:
大学では英米文学を学んでいたのですが、5ヶ月ほどインドのマドラスへ行って、タミール語を集中的に勉強したことがありました。そのとき、初めてアルファベット以外の文字に触れて、すごく興味をもちました。アメリカへ帰ってから卒業論文に取り掛かったのですが、そのとき偶然に、漢字のことについて書かれている論文に出あいました。一字一字意味を孕はらんでいる文字ですから、使えるようになれば自分の思考も大きく変わるかもしれないと思い、中国へ行こうか、日本へ行こうか、と迷い始めたんです。
中川:
そうですか。それで、中国ではなく日本を選ばれたのはどうしてですか?
ビナード:
日本語は、異質なものがいろいろと交じり合ってひとつの言語になって、そこがおもしろそうだなと思い、大学卒業と同時に日本へ来ました。早く日本へ行ってみたくて、卒業式は出ませんでした。卒業証書は、あとから送ってもらいましたよ(笑)。来日して21 年になります。あと1年で、人生の半分は日本ということになります。
中川:
ビナードさんのエッセイに、嘘発見器というのがありましたね。「英語眼鏡」で見たり、「日本語眼鏡」で見たりしていると、嘘が見えてくるという話でした。米軍がイラクに侵攻したときも、アメリカの英語ではイラク人をinsurgency(反乱の暴徒)と呼び、日本では「武装勢力」と呼んでいて、英語の方が、イラクを強く否定しようという意図が感じられると書かれていました。日本でも、「侵略」を「進出」、「戦争」を「事変」と言うなど、自分たちを正当化するために、意図的な言い換えが行われていました。違う言語で見ると、それがおかしいということがよくわかるわけですね。
ビナード:
英語眼鏡と日本語眼鏡をもっていると、そのちょっとした違いから出発して、深く掘り下げていくと、大きな嘘の発見につながることがあります。
多言語だけでなく、絵を描く人は絵画的な思考があるし、音楽をやる人には音楽的思考回路があります。それを、一般の言語と対比して考えてもいいかもしれません。違うものを通して世界を見つめるというのは、嘘を見抜く有効な方法のひとつですね。

(後略)

(2011年9 22日 東京 日比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『ここが家だ ー ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)

稲塚 秀孝(いなづか ひでたか)さん

1950年北海道生まれ。中央大学卒業。1973年㈱テレビマンユニオンに入社し、「遠くへ行きたい」や「オーケストラがやってきた」を担当する。以後、数々のドキュメンタリーや情報番組を手がけた後、1985年に㈱タキオン、2001年には㈲タキシーズを設立。「ネイチャリング・スペシャル アマゾン紀行」で民間放送連盟優秀賞を、「ドキュメンタリー・スペシャル 人間の筏」で民間放送連盟優秀賞、ATPドキュメンタリー部門優秀賞を受賞。

『人間の世界に核はいらない。二重被爆者からのメッセージを伝える』

広島で被爆した後、長崎 へ帰って2度目の被爆

中川:
稲塚さんの作られた「二重被爆」という映画をDVDで拝見しました。1945年に広島と長崎に原爆が落とされましたが、あのときに、両方で被爆した方がいたんですね。その事実だけでも驚きですが、あの映画に出ておられる山口彊つとむさんが話された言葉一つひとつがとても衝撃的でした。
稲塚:
ありがとうございます。あの映画が2006年に上映されまして、山口さんが2010年に93歳で亡くなり、その1年後に「二重被爆~語り部山口彊の遺言」ができました。中川会長は、最初の作品の方を見てくださったんですね。
中川:
そうです。2作目もぜひ拝見させていただきます。ところで、「二重被爆」という言葉、あまり耳にしませんが、山口さんの例で少し説明してくださいますか。
稲塚:
1945年8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下されました。山口さんは、長崎の生まれで、三菱造船の技師として長崎で働いていました。その年の5月、山口さんは、広島造船所への出張を命じられました。当時、山口さんは29歳でした。
戦局はどんどんと悪化してきました。長崎にも空襲があったと聞き、奥さんとまだ生まれて間もない息子を長崎に残してきていた山口さんは、気が気じゃなかったと思います。
7月末になって、会社から山口さんに、長崎へ帰れとの命令が出ました。その帰任日は、何と8月7日でした。
中川:
8月7日ですか。原爆の翌日ですね。
稲塚:
もちろん、会社から長崎に帰れと命令があったときには、原爆のことなど、山口さんは考えてもいませんでしたが、今から思うと、運命的な感じがしますよね。
中川:
明日は家へ帰れるという日ですから、山口さんも、ウキウキした気持ちで朝を迎えたでしょうに。
稲塚:
そうでしょうね。そして、6日の朝8時15分、広島に原爆が投下されました。
山口さんは、ちょうど出勤の途中で、芋畑の中を歩いていたそうです。爆心地から約3キロほどのところでした。爆風に吹き飛ばされ、しばらく意識を失っていたようです。意識を取り戻すと、髪の毛はすべて燃え、顔も首筋もとろけていて、左腕も焦げていたそうです。その後、放射能の黒い雨にも当たっています。
中川:
すごいですね。そして、そんな状態で長崎へ帰ったわけですね。
稲塚:
原爆に焼かれた広島の街で、悲惨な光景を嫌というほど見せつけられたみたいですね。山口さんは20歳のときから短歌を詠んでいるんですが、そのときの様子を詠んだ句があります。“大広島燃え轟きし朝明けて川流れくる人間筏〟という句です。川面を埋めるように死体が流れている様子が、筏のように見えたんでしょうね。
中川:
映画の中でも、山口さんはその句を泣きながら読んでいましたね。その悲惨な光景が、60年以上たっても忘れられなかったんでしょうね。この句だけで、胸が詰まる思いがしますよ。
稲塚:
その後、山口さんは避難列車が出るということを聞かされました。それに乗れば長崎へ帰れます。それに乗らないと、最低、1ヶ月は帰れないと聞き、7日の朝、やけどでひどい状態だったと思いましたが、列車に乗り込みました。そして、8日の昼に長崎へ到着し、病院で治療を受けて、包帯だらけの姿で自宅に帰りました。仏壇にお参りしていると、母親が帰ってきて、「足はあるとね?」と聞いたそうです。幽霊かと思ったんでしょうね。
そして、翌9日です。熱でふらふらしていましたが、会社へ報告に行きました。責任感の強い人だったんですね。会社では、一発の爆弾で広島が壊滅したと言っても、だれも信用してくれなかったとおっしゃっていました。
ちょうど、山口さんが課長に報告しているころ、11時2分、広島で見た閃光を再び見たのです。その瞬間、山口さんは机の下へ潜り込んでいたそうです。
こうやって、わずか3日間で、2回も被爆するという大変な体験をしているんですね。上空のキノコ雲を見ながら、『まるであれに追いかけられているみたいだ』と思ったそうですよ。

(後略)

(2011年8月25日 東京日 比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

映画・DVDの紹介

上・「二重被爆」映画ポスター  下・「二重被爆」DVD 監督: 青木亮 販売元: アルドゥール DVD発売日: 2011/07/22 時間: 60 分
二重被爆の上映予定については、 ホームページ◎http://www.hibaku2.com/ 自主上映については、 「二重被爆」(59 分) 「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」(70 分)と もに1回5万円。稲塚監督の講演は講師料5 万円(交通費別)。自主上映希望者は、タキシー ズまでご連絡ください。 FAX◎03-3485-2597

チャールズ マクジルトン(ちゃーるず まくじるとん)さん

1943年アメリカ・ミネソタ州生まれ。高校卒業後、アメリカ海軍に入隊し、横須賀基地に配属となる。1991年に上智大学に留学、山谷で生活する。その後、フードバンク運動にかかわり、2002年にセカンドハーベストジャパンを設立する。現在、理事長。Tシャツに作業ズボン姿で、あるときは運転手、あるときは営業マン、あるときは経営者という、さまざまな顔で活躍中。

『捨てられ死んでいく食品に命を吹き込むフードバンクという活動』

廃棄される食品を引き取 り、それを必要としてい る人に配る

中川:
セカンドハーベスト・ジャパン(以下2HJ)のことを本で読ませていただきました。フードバンクというのだそうですが、とてもユニークなシステムですね。
チャールズ:
ユニークですか。アメリカでは、フードバンクは40年の歴史があります。日本では、私が2HJを立ち上げたのが2002年で、最初のフードバンクでした。今は、10 団体くらいありますね。
中川:
食品メーカーや卸し、小売店、食品輸入業者、レストランなどで廃棄される食品を引き取り、それを児童養護施設や女性シェルター、福祉施設など、食品を必要としているところに配布するというシステムですよね。
チャールズ:
そうですね。廃棄される食品と言っても、賞味期限、消費期限が切れたようなものではなく、安全に食べられるにもかかわらず、捨てらてしまうものを引き取ります。
中川:
たとえばどんなものがあるんですか?
チャールズ:
いろいろありますね。コンビニやスーパーでは、賞味期限、消費期限が近づくと、買ったお客さんがすぐ食べないといけないのでという理由で捨ててしまいます。また、メーカーから出荷するときの検査で、ラベルの印刷が薄かったりすると、それも廃棄されます。運送中に外箱がへこんだり少し破れたりするだけでも、もう商品にはなりません。
どれも、品質には何も問題がありません。しかし、外見上の問題で、廃棄されてしまうのです。
中川:
食べられる食品の3分の1が捨てられているそうですね。全然知りませんでした。本当にもったいないことですね。
チャールズ:
その一方で、私たちの調査によると、貧困層と言われる人たちの中で、約65万人の方が十分な食料を確保できていません。母子家庭とか高齢者、ホームレスの方々ですね。そういう人たちに、食べられるのに捨てられている食品を届けようというのが私たちの仕事です。
中川:
大きな矛盾ですよね。世界一の食料の輸入国なのに、捨てる量も半端ではなく、その一方で、食料がなくて困っている人もたくさんいるわけですから。
チャールズ:
食品企業にとっても、食品を廃棄するのにはコストがかかります。私たちが引き取って、それを必要としているところへ配れば、企業としてもコストもかからないし、捨てる罪悪感ももたなくていいですから、とても大きなメリットだと思いますよ。
中川:
3月に震災があって、何か変化はありましたか。
チャールズ:
すごい変化ですね。まず、寄付金がびっくりするくらい集まりました。ホームページを見ていただければわかりますが、今は一時寄付をストップしてもらっています。去年は年間で集まった寄付金が6500万円でした。それが、災があってから3ヶ月で9000万円ほど寄付がありました。
1年半分の金額だし、それを被災地のために使うとなると、しっかりと予算を組む必要があります。まだ、予算が組まれていませんので、どう使っていいかわからない状態で、これ以上集まるとまずいということでストップしました。
中川:
普通はたくさん集まれば喜んで受け取ると思いますが、ストップしたのですか。
チャールズ:
おかしいんじゃないのと言われました(笑)。でも、私たちはビジネスセンスをもって2HJを運営していきたいので、きちんと予算が立ってから寄付をお願いすると、寄付を申し出てくださる企業にも伝えました。
そしたら、逆にとても信頼されましたね。必要なときはいつでも言ってほしい、応援するからと言われました。
中川:
それはとても大切なことですね。非営利な組織だと、どうしてもビジネス面が弱くなりますからね。
チャールズ:
それはとても大切なことですね。非営利な組織だと、どうしてもビジネス面が弱くなりますからね。
配った量も、震災後5月末までに400トンです。去年は1年で813トンでしたから、1ヶ月半で半年分働いたことになります。スタッフもボランティアもがんばってくれました。

(後略)

(2011年7月21日 東京都 台東区のセカンドハーベスト・ ジャパンにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

フードバンクという挑戦 岩波書店

北山 耕平(きたやま こうへい)さん

1949年神奈川県に生まれ、東京で育つ。立教大学卒業。雑誌「宝島」の編集に携わり、その後、アメリカに渡って取材活動を続け、「ポパイ」や「ホットドッグ・エクスプレス」といった雑誌に、アメリカの若者文化についての記事を書く。1979年ローリングサンダーとの運命的な出会いがあり、以来、インディアンたちの中に自分のルーツを探す旅を続けている。著書・訳書に「ネイティブ・マインド」「虹の戦士」「自然のレッスン」「地球のレッスン」「ジャンピング・マウス」などがある。

『インディアンに学び、本質を見る目を養っていく』

皆既日食を砂漠へ見に 行って、ローリングサン ダーと出会う

中川:
はじめまして。北山さんは、翻訳家であり作家で、アメリカ・インディアンのメッセージを伝えておられることでよく知られています。今日は、インディアンの生き方や考え方についていろいろとお聞きしたいと思っています。インディアンというとアメリカの先住民のことですが、近頃はネイティブ・アメリカンとよく呼んでいるようです。インディアンなのか、ネイティブ・アメリカンなのか、ほかにもっと適切なものがあるのか、どういう呼び名がいいのでしょうか。
北山:
たくさんの呼び名があります。「インディアン」や「ネイティブ・アメリカン」だけではなくて、「アメリカ・インディアン」「ネイティブ」「ネイティブ・ピープル」…などいくらでもあります。私は、そのときどきの気分や文脈で使い分けています。
それぞれ、歴史も意味もありますが、臨機応変に使い分ければいいと思います。ただ、彼ら先住民は、自分たちのことを「インディアン」とか「インディアン・ピープル」「ネイティブ」という言葉で呼んでいるようです。自分たちを「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶインディアンには会ったことがないですね。彼らは、チェロキーとかショショーニといった自分の部族の名前で呼ぶのが一番自然なようです。
インディアンは差別語ではないかという気を回す人たちもいますが、決して差別語ではありませんから、安心して、そう呼んでいただいていいと思います。
中川:
そうですか。では、聞き慣れているし、言い慣れていますので、インディアンと呼ばせていただくことにします。
北山さんは、若い頃には編集の仕事をしておられて、アメリカで仕事をしているときにインディアンに会って、その生き方、考え方に魅せられていったとお聞きしていますが。
北山:
1970年代ですね。宝島の前身であるワンダーランドという雑誌の編集の仕事を始めました。新しい雑誌文化を作ろうという機運が盛り上がっていたころです。ポパイという雑誌の創刊を手伝いまして、アメリカの若者文化を伝えるため、特派員としてロスに行きました。自由にアメリカへ行けるようになったころの話です。
2年間は真面目に働いていました(笑)。アメリカの全部の州を、ジェットコースターに乗って回って、どれが一番怖いかといったような記事を書いていましたね。
中川:
日本人がアメリカ文化をあこがれの目で見ていたころですかね。編集者としても最先端を走っていたわけですね。それが、どうしてインディアンに向かっていったのか、興味深いですね。
北山:
私は、アメリカへ行ったときに、あまりカルチャーショックを受けませんでした。日本と変わらないような感覚で生活を始めましたから。でも、インディアンに初めて会ったときには、大きなカルチャーショックでした。
インディアンに会う前に、私の場合は、砂漠に魅せられたという段階があります。あるとき、アリゾナに取材に行く機会がありました。そこで砂漠を見ました。砂漠は湿気がないから霞んでいません。晴れていればずーっと先まで見えるんです。何十キロ四方、だれもいなくて、聞こえるのは風の音だけということもあります。それに、砂漠には地球ができたそのままがあります。そんな砂漠を見て、何とも言えないものを感じ、自分は砂漠が好きかもしれないって思いました。そして、2年間、毎月、どこかの砂漠へ行っていました。2年間砂漠に通いつめて、私はそこに人が住んでいるってことに気づいたんです。それまで、砂漠に住んでいる人がいるってことに考えが及びませんでした。私はこんな場所に住める人のすごさを感じ、彼らに関心をもつようになりました。それがインディアンへの関心の始まりです。
中川:
なるほど。
北山:
1979年2月26日ですが、ユタの砂漠で皆既日食が見られるというので出かけて行きました。20世紀最後の皆既日食と言われていました。途中、ネバダのカーリンというところのカフェで腹ごしらえをしました。そのとき、そこのおばさんから、「お前も、あの頭のおかしなインディアンに会いに来たのか」と聞かれました。近くに住んでいるインディアンが、天気を変えるとか言って、若い人たちを集めていると言うんですね。私は、これも縁かもしれないと思って、そのインディアンの家を教えてもらって訪ねて行きました。
そのインディアンが、ローリングサンダーと呼ばれている人だったのです。
私が訪ねて行くと、ローリングサンダーは留守で、奥さんが応対してくれました。奥さんは、私が皆既日食を見に来たと知ると、ローリングサンダーは皆既日食を見ない方がいいと言っていることを教えてくれました。そして、今日は遅くまで帰って来ないので、泊まっていけと毛布を貸してくれて、ゲストハウスへ案内してくれました。
ゲストハウスと言っても、お椀を伏せたような形をしたところで、土まんじゅうのようだと思いました。近くをフリーウエイが走っているのですが、そこからだと、家があるなんて、だれも思いません。生まれて初めてそんなところで寝たのですが、これまでの人生の中で、一番ぐっすりと眠れました。
中川:
寝心地が良かったんですね。そこは、何か特別な場所だったのですか。
北山:
お椀を伏せたような形ですから、家の中に角がないんですね。角がないというのは、プラネタリウムで寝ているようなもので、宇宙とつながっているという感覚になるんです。角というのは、直線と直線が交わってできますよね。それはインディアンの世界では時間を意味しているそうなんです。丸いところでは時間がないんですね。そういう場所だったからよく眠れたんでしょうね。
翌朝、4時半ごろだったか、ローリングサンダーが来ました。すごい存在感のある人でした。彼は、チェロキー族のメディスンマンでした。これから山で儀式があって、弓矢をもって頭には鳥の羽根をさして、いわゆるインディアンの正装をしていました。インディアンのメディスンマンに会うのも、そんな本格的な正装を見たのも初めてですから圧倒されました。
彼は、部族の仲間が皆既日食を見ないようにお祈りに行くのだと言っていました。皆既日食を見ると、脳にダメージを受けると言うのです。どんな動物も、皆既日食を見ないようにしているのに、人間だけは見たがると、彼は言っていました。皆既日食は、9時過ぎから11時頃に終わる予定でしたが、その時間、ずっと雪が降っていました。彼が、そうさせたのだと言うわけです。私にとっては、非常にショッキングな出会いでした。

(後略)

(2011年6月9日 東京 都立 小金井公園にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「古井戸に落ちたロバ」じゃこめてい出版

有賀 達郎(ありが たつろう)さん

1950年(昭和25年)生まれ。東京都立大学卒業後、株式会社文化放送に就職。営業、制作、報道と現場を経験、16年間在籍。その後自営業を経て、1997年9月よりエフエム西東京開局準備に携わり、現在に至る。2007年6月に代表に就任。

FM西東京 84.2MHz http://842fm.west-tokyo.co.jp/
インターネットでも聴けます。サイマルラジオhttp://www.simulradio.jp/#kantou

『地域を温かい氣で満たすのがコミュニティFMの役割』

震災があって、非常時の情報源として見直されたラジオ

中川:
はじめまして。これまでラジオの方とはあまりご縁がなかったので、お話をお聞きするのをとても楽しみにしていました。真氣光を始めた父は、ラジオ番組に出ていたことがあります。
有賀:
こちらこそ楽しみにしていました。氣については、前に勤めていた会社の先輩が退職してからやり始めましてね、腰が痛いときに治療をしてもらったりしました。すごく興味があるのですが、なかなかきちんと勉強する機会がなかったので、今日はいろいろとお聞きしたいなと思っています。
だけど、私は、いつも取材をする側なので、こういう対談形式というのは、ちょっと勝手が違って緊張しちゃいますね(笑)。それに、取材者という立場から見ると、この対談に出ておられる方々は、そうそうたる人たちばかりで、そんな中に、私が入っていいのかと、恐縮してしまいますね。
中川:
いえいえ、大歓迎ですよ。私たちは、氣づきの大切さをずっと言ってきましたが、さまざまな分野の方のお話をお聞きして、私自身もそうだし、読者の方も、何か氣づきのきっかけになればいいというのが、この対談の目的です。特にテーマを決めなくても、いろいろと話しているうちに、ハッと思えることがたくさんあると思いますので、気楽にお話してください。
ところで、有賀さんは、FM西東京の社長さんでいらっしゃいますが、FM西東京というのうは、西東京市が放送エリアなんですか。
有賀:
西東京市というのは、10年ほど前に田無市と保谷市が合併してできた市です。私どもは、合併の3年ほど前に設立しています。たまたま私たちの局名が市の名前になったわけですが、エリアは西東京市全域と、その周辺の小平市とか東久留米市あたりですかね。コミュニティラジオですから、エリアの限られた放送として許可をもらっています。
中川:
インターネットでは何処からも聴けるそうですね。
有賀:
有賀 去年からインターネットで聴けるようになりました。iPhoneなどでも聴けます。
でも、内容はあくまで地域のことということでやっています。全国区のものは大きなラジオ局に任せておいて、こちらは、西東京とその周辺に住んでおられる方や西東京出身でほかの地域に住んでいる方がアクセスしてくださるということを意識しています。
ありがたいことに、地域の人が、番組作りにも参加してくださったり、面白い人を紹介してくださったりしています。そういうつながりを大事にしながら、私たちにしかできない地域に根ざしたものが作れればと思っています。
中川:
ラジオは、この震災でもずいぶんと活躍しましたよね。被災地では、停電になってテレビが見られなくなりましたから、情報を得るのにラジオはなくてはならないものだと、多くの人が感じたんじゃないでしょうか。
有賀:
コミュニティ放送というのは、1992年に放送法の一部改正にともなって制度化されて、1995年の阪神淡路大震災の後から、防災という面でも地域のラジオ局が必要だと、設立が相次ぎました。非常時になってラジオというのは見直されるみたいですね。
うちは、1998年に84番目の局として立ち上がりました。今は、248の局が全国にあります。
東北地方の局の中には、今回の震災で放送が続けられなくなり、市役所などに間借りをして被災の情報を出し続けているところもあります。そうやってがんばっている姿を見たり聞いたりしていると、ラジオの使命を考えさせられるし、勇気ももらえますね。
中川:
実は、私も仙台で被災しましてね。ちょうど、セッションの最中にグラグラと揺れました。一旦は避難所へ行ったのですが、暗いし寒いし、スタッフ2人と一緒に、セッションを行なっていた会館へ戻りました。そこは、上が公団住宅になっていて、そこの住民の皆さんが会館に避難していまして、私たちも仲間に入れてもらいました。
暗くて寒い中、住民の人が持ってきたラジオは貴重な情報源になりました。携帯もワンセグになっていてテレビが見られるのですが、電池がすぐになくなってしまいます。その点、ラジオはいいですよ。ラジオに救われましたね。
有賀:
そう言っていただけるとうれしいですね。あんなちっぽけなものなんだけど、人と人をつなぐことができるんですね。
仙台には、東北放送(TBC)という大きな放送局があるのですが、震災の後は自家発電で放送していました。でも、燃料が限られているので、パワーを落として放送したそうです。いよいよ燃料が切れて、放送できなくなるという直前に燃料が届いたようです。

(後略)

(2011年5月24日 東京都西東京市のFM西東京にて 構成 小原田泰久)

森田 拳次(もりた けんじ)さん

昭和14年(1939年)東京生まれ。生後3ヶ月で奉天(今の瀋陽市)に渡る。7歳のときに舞鶴港に引揚げる。小学校4年生のころから漫画を描き始める。17歳で単行本デビュー。「丸出だめ夫」で第5回講談社児童漫画賞受賞。ほかに、「ロボタン」「珍豪ムチャ兵衛」など。31歳のときに、アメリカへヒトコマ漫画の修行に。以来、ヒトコマ漫画の道へ。数々の賞を受賞している。

『丸出だめ夫、戦争体験を伝えるため 「中国引揚げ漫画家の会」を結成』

満州から引き揚げてきた漫画家が集まり、体験を伝える

中川:
森田先生は、終戦直後に満州から引き揚げてこられたそうですが、その体験をお聞きしたいと思ってうかがいました。宜しくお願いします。引き揚げてきたのは、何歳くらいのときのことですか。まだ、小さい時期ですよね。
森田:
僕は、昭和14年生まれですから、7歳のときです。小学校1年生でしたかね。
中川:
昭和14年のお生まれですか。うちの母親と同じですね。母は、樺太からの引き揚げ者です。大変だった話はよく聞きました。森田先生も、辛い思い出がいっぱいあるんでしょうが、漫画家には、満州からの引き揚げ者がけっこうおられて、「中国引揚げ漫画家の会」というのをお作りになったそうですね。
森田:
そうなんですよ。戦後50年を迎えた1995年に結成しました。中国のことは親に聞けばわかるだろうと思っていましたが、その親が亡くなる年齢になってきましてね。僕の親も亡くなって、中国での住所とか帰国のルートもあいまいになってしまったわけです。それで、自分たちの体験を漫画で残せないだろうかということになって、会を作りました。「天才バカボン」の赤塚不二夫さんも、僕と同じ奉天(今の瀋陽市)に住んでいました。年齢は4つ上ですけどね。面白いのは、後からわかったことですが、赤塚さんと「あしたのジョー」を描いたちばてつやの家が500メートルしか離れてなくて、同じ小学校へ通っていたんですね。
中川:
何か運命的なものを感じますよね。それで、先生と赤塚さん、ちばさん、ほかには、どういうメンバーで結成されたんですか。
森田:
いつも飲んで騒いでいる仲間なので敬称は略しますね(笑)。2008年に90歳で亡くなりましたが、「フイチンさん」という名作を描かれた上田トシコ、和光大学の教授だった石子順、「釣りバカ日誌」の北見けんいち、「総務部総務課山口六平太」の高井研一郎、「ダメおやじ」の古谷三敏、動物文字絵をやっている山内ジョージ、アイヌのことなどを描いている横山孝雄、それに赤塚、ちば、僕の10人ですよ。「天才バカボン」「釣りバカ日誌」「ダメおやじ」、それに僕の「丸出だめ夫」でしょ、代表作にバカとかダメがついている漫画家ばかり(笑)。漫画には、ストーリー漫画とギャグ漫画があるんだけど、僕たちのメンバーは、ギャグ漫画家ばかり。ストーリー漫画を描いているのはちばだけですよ。
中川:
でも、漫画というのは、年齢に関係なく、受け入れられやすいですよね。ギャグ漫画だと、深刻な話も、笑いで軽くすることができますしね。先生の描かれた「ぼくの満洲」という漫画も、上下巻ある長い話でしたが、さっと読めました。それでも、とても印象に残るし、当時の満州の状況や引き揚のことがよくわかりました。あのころの影響というのは、先生にとっても大きいんでしょうね。
森田:
まあ、いろんなことがありましたからね。でも、みんなギャグ漫画家ですから、何でも笑いにしようとする。困ったものですよ(笑)。笑いなんていうのは、習って覚えるものじゃないでしょ。いつも、頭を笑いのモードにしておかないといけない。結局、バカかアル中しかギャグ漫画家にはなれない(笑)。
赤塚さんのお父さんは憲兵だったんですね。その父親がモデルになっているのが、「天才バカボン」に出てくるピストルを撃ちまくるおまわりさんですよ。それに、流行語になった「これでいいのだ」というセリフがあるでしょ。あれは、中国語の「没法子(メイファーズ)」からきているんですよね。しょうがないという意味ですが、赤塚さんも苦労した時期があって、そのころ、よくこの言葉をつぶやいたりしていたみたいですね。そんな経験もあって、どんなことがあっても、明るく「これでいいのだ」と肯定していこうというのが彼の生き方になったんでしょうね。お葬式で配られた彼の最期のメッセージにも、「これでいいのだ。さよならだ」と書かれていましたから。
中川:
2009年に南京で「私の八月十五日展」というのを開きましたよね。森田先生たちが、戦争の記憶を伝えようと、当時の思い出を一枚の漫画にして、日本各地で展覧会を開いていたのを中国でやったわけですよね。でも、何と言っても、南京ですからね。「日本」「戦争」とくれば南京大虐殺ということで、反日感情を刺激するような企画だと思います。よくそんなことを企画したし、実現させたと感心しますね。
森田:
決死の覚悟ですよ(笑)。参加した漫画家仲間の中には、家族会議を開いたのもいましたから。私も、生卵をぶつけられるくらいはあると覚悟していました。でも、生卵よりも、大好きなゆで卵の方がいいと、またバカな冗談を言っていましたが(笑)。
中川:
「少年たちの記憶」とか「私の八月十五日」といった画集が出ていますが、これがもともとのきっかけですか。
森田:
順を追ってお話ししますね。「中国引揚げ漫画家の会」が結成されたのが1995年です。そのときに、ぼくたちは満州で体験したことを絵と文字で綴った「ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験」という本を出版しました。先ほど、会長がおっしゃった「ぼくの満洲」の上下巻は、ぼくが描いた漫画で、また別のものです。ややこしくてすいません。
この本を読んでくださった老婦人が、「この本の表紙に描かれていたちばてつやさんの絵が、満洲で死んだ息子にそっくりだ」という連絡をくれました。当時、中国残留孤児の日本国籍取得を支援していた千野誠治氏が、この話を聞いて、「ちば氏の絵をもとに、満州で死んだ子どもたちのためにお地蔵様を建てたい」と言ってきましてね。最初、そのお地蔵様は西多摩霊園に建てられましたが、その後、もっと多くの人が訪れるところに建てたいということで、浅草寺にお願いしました。浅草寺には、毎年100件以上の建立願いが出されるようですが、私たちの願いを快く引き受けてくれて、母子地蔵尊が建てられました。「まんしゅう母子像」と呼ばれています。
ぼくらの呼び掛けで、漫画家だけでなく、作家や俳優、タレントなど、たくさんの人が資金集めに協力してくれました。
このまんしゅう母子像にはいろいろな方がお参りしてくれますが、日本に帰国した残留孤児の人たちも、中国の養父母を思いながら手を合わせてくれていると聞きました。中国の人たちは、自分たちはコーリャンを食べて、孤児たちには白いご飯を食べさせて育ててくれたという話も聞いた事があります。ありがたいことですよね。
ぼくも、ひとつ間違えば、孤児になっていたわけですから、他人ごとではありません。 そこで、ぼくたちは、中国に残された子どもたちと養父母のために、1999年に、柳条湖跡地にある「九・一八記念館(満洲事変記念館)」に「中国養父母に感謝の碑」というのを建立しました。
中川:
そうやって中国とのつながりも出てきたわけですね。
森田:
2001年に「少年たちの記憶」が出版されました。中国引揚げ体験者だけでなく、ほかの後に漫画家になった人たちは昭和20年8月15日をどう過ごしていたのだろうと思って、お地蔵様を建立するときに協力してくれた方々に声をかけて、それぞれの体験を一枚の漫画にして展覧会を開こうということになったわけです。
それが、「わたしの八月十五日の会」なんです。2004年には、「私の八月十五日」という画集も出まして、作家の石川好さんが尽力してくださって、その画集が中国語で出版されました。さらに、中国で展覧会をやろうじゃないかということになり、どうせやるなら、「南京大虐殺記念館」でどうだろうという企画に発展していきました。日本軍の残虐の行為を展示した施設ですよ。そこに、日本人も辛い思いをしたんだという体験を持ち込もうというわけですから、大胆というか、無謀というか…(笑)。
中川:
生卵もゆで卵も飛んでこなかったんですよね(笑)
森田:
予想は大外れ。驚きましたよ。初日だけで2万人もの人が来てくださいまして。3ヶ月の予定が11カ月に延長されて、その期間中に来て下さった方の数は、何と約500万人ですよ。
日本のアニメが中国ではすごく浸透しているということもあったでしょうが、皆さん、非常に冷静に受け止めてくれました。あの展覧会で、日本で空襲があったことを初めて知った方も多かったと思います。中国ではそんなことは教えられていませんから。
うれしかったのは、中国の学生が「この日本人は南京に来た日本兵とは違う人間だ」と涙を流しながら話してくれたことです。
すごく緊張して行ったのですが、やっているのがギャグ漫画の一行ですから、笑いもいっぱいありましたけどね(笑)

(後略)

(2011年2月15日 神奈川県横浜市の森田さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

田沼 靖一(たぬま せいいち)さん

1952 年山梨県生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。米国国立衛生研究所(NIH)研究員等をへて、現在、東京理科大学薬学部教 授。細胞の生と死を決定する分子メカニズムをアポトーシスの視点から 研究している。主な著書に、「ヒトはどうして死ぬのか」(幻冬舎新書)「ヒ トはどうして老いるのか―老化・寿命の科学」(ちくま新書)「遺伝子の夢 ―死の意味を問う生物学」(NHK ブックス)などがある。

『細胞の死があるから個体は生きられ、個体の死があるから種は繁栄する』

がんやアルツハイマー病は、細胞の死と深くかかわっている

中川:
先生の書かれた「ヒトはどうして死ぬのか」という本を、とても興味深く拝読させていただきました。遺伝子というレベルから死を語るというのは、とても新鮮に感じました。本を読みながら、どこかでこの話を聞いたことがあるなと、気になっていたんですね。しばらく記憶を探っていまして、そう言えば爆笑問題がやっているNHKの番組で、先生が死の話をしていたぞと思い出したんですよ。
2年くらい前ですかね。それで、もっとお話をお聞きしたいなと思っておうかがいしました。今日はよろしくお願いします。
田沼:
こちらこそ、よろしくお願いします。会長が見られたのは、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組ですね。「ヒトはなぜ死ぬのか」というテーマで、2007年の6月に放送されました。会長が読んでくださった本は、去年、出たものです。
中川:
本は「どうして」で、テレビは「なぜ」だったんですね。
田沼:
「どうして」には、「どのようにして」と「なぜ」の両方の意味があると思うんですね。どのようにして死んでいくのかとか、どのようにして老化していくのかというのは、サイエンスになりますね。しかし、なぜ死ぬのかとか、なぜ年をとるのかということになると、人それぞれ考え方が違いますから、多分に哲学的な問題になってきます。
中川:
なるほど。サイエンスだという意味を込めて、ご著書は、「どうして」とされたんですね。でも、死というのは、なかなか科学では扱ってこなかったテーマじゃないでしょうかね。扱いにくいということもあるでしょうしね。
田沼:
死が生命科学で取り上げられるようになったのは、ここ20年ほどじゃないでしょうかね。それまでは、死というのは科学ではとらえられてきませんでした。どうしても、死というと宗教が扱う領域でしたから。
でも、がんとかアルツハイマー病とか、社会問題にもなるような病気が増えてきて、そこに細胞の死が関係しているということがわかって、死が科学的にとらえられるようになってきました。
がんというのは、細胞が死なないから怖いんですね。肝臓の細胞は1年くらいすると疲れてきて新しい細胞にリニューアルされます。しかし、がん細胞はいつまでも増え続けます。死を忘れた細胞ですね。
アルツハイマー病は、その逆で、神経細胞が死んでいくスピードが非常に速まってしまったために起こる病気です。
中川:
がんもアルツハイマー病も、現代人がもっとも恐れる病気ですよね。それが細胞の死と関係があるというのは面白いですね。片方は死を忘れ、片方は死に急ぐという正反対の動きですが。
でも、先生は、どうして死のことを研究しようと思われたのですか。
田沼:
私の専門は、生化学・分子生物学という分野です。研究はもっぱら、「生物の細胞がどのように増殖・分化するか」ということです。つまり、細胞がどのようにして生きているかを解明するための研究でした。
私はまた、遺伝子が傷ついたときに、どのように修復するのかということも研究していました。がんは、細胞内の遺伝子DNAが活性酸素などで傷ついて、それが十分に修復されずに変化してしまい、細胞が無秩序に増殖していくことで発生します。修復能力が高まれば、がんを防ぐことができるわけですね。DNAが修復されるというのは、どういうメカニズムで行われているのか、それが知りたくて研究をしていました。
中川:
つまり、生きるという方向での研究ですね。それが、どう死の研究につながっていったのでしょうか。
田沼:
修復のメカニズムを調べるには、遺伝子を傷つけないといけませんね。放射線や紫外線を当てて、遺伝子に実験的に傷をつけ、どういう酵素が働いて修復されるのかを見ていくわけです。
その実験の過程で、ときには放射線を当て過ぎて、細胞が死んでしまうことがあります。そんなときは、放射線を強くかけすぎた、失敗しちゃった、今度はもう少し弱くしようと、そう考えるのですが、あるとき、ふと思ったことがあったんです。細胞というのは、修復できるとか、修復できないから死んでしまうという判断をどうやってするんだろうと疑問になりました。
修復の限界点というのを細胞は決めているのではないだろうかと思いました。それは、今までのように、生きる方向からの研究ではわからないだろう、それなら死の方向から研究をしようと、そんなことを思ったんです。

(後略)

(2011年1月31日 東京理科大学野田キャンパスにて 構成 小原田泰久)

天外 伺朗(てんげ しろう)さん

東京工業大学電子工学科卒業。工学博士(東北大学)、元ソニー上席常務。ソニーでは、CD、ワークステーションNEWS,犬型ロボットAIBOなどの開発を主導。現在、ホロトロピック・ネットワーク代表。医療、教育、企業経営の改革に取り組んでいる。主な著書に、「運力―あなたの人生はこれで決まる」(祥伝社黄金文庫)「経営者の運力」(講談社)「いのちと気」(共著 ビジネス社)「教育の完全自由化宣言!」(飛鳥新社)など。

『病気は死と直面し意識を変容できる大きなチャンス』

目に見える世界と見えない世界は一体になっている

中川:
今日はとても楽しみにしていました。天外さんと言えば、見えない世界についてたくさんの本を書かれていますし、非常に興味深いネットワークを作られていて、どんなお話がお聞ききできるのかわくわくしながらおうかがいしました。
天外さんは、長年、エンジニアとしてお仕事をされてこられたわけですね。実は、私も氣の世界に入る前には、電機メーカーで技術屋として働いてきました。
私など、父が気功をやっていたにもかかわらず、氣のような見えない世界にはあまり興味を持ちませんでした。その点、天外さんは、お父様が特殊な能力をお持ちで、見えない世界は、ある程度、当たり前のこととして受け止めておられたとお聞きしていますが。
天外:
2006年まで現役で、エンジニアリングとエンジニアリングマネージメントの仕事をやっていました。父は、今で言うサイキックな力がありましたから、私としては、子どものころから、見えない世界があることは刷り込まれていました。ですから、サイキックな現象については、殊更不思議に思うことはありませんでした。そういうことをあまりベラベラとしゃべると人から変な目で見られるということを、後から学んだくらいです。
中川:
見えない世界が別段不思議ではないという状態で、その一方で技術者として、CDやAIBOの開発をされていて、物理的な世界と見えない世界というのは、別々に考えておられたんでしょうか。
天外:
デヴィット・ボームという物理学者がいましたが、彼はホログラフィ宇宙モデルというのを考え出した人で、ノーベル賞こそもらっていませんが、それに匹敵する学者だったと思います。ボームは、目に見える物質世界を明在系、目に見えない世界を暗在系と呼びました。それが別個に存在しているのではなく、一体になって動いているというのが彼の説です。
私は、彼の明在系、暗在系という言葉を、この世とあの世という言い方にしました。つまり、この世の中にあの世があり、あの世の中にこの世があるということになります。ですから、物理の世界と見えない世界は別個に考えるものではないということですね。私は、ずっとそういう感覚でいましたね。
中川:
死んだからあの世へ行くということではなくて、生きているときからあの世にもいるということですね。
天外:
哲学の世界では昔から言われていることです。死んでどこへ行くかと言うと、永遠の時間の中に溶け込んでいくといった言い方がされています。永遠の時間というのは、時間のない世界のことです。時間がないということは、向こう側から見れば死は見えません。こちらから見ると見える。だから、死んだら行くという考え方はおかしいわけです。
中川:
よく、死後の世界はこうだって話が本には出ていますが。実際に行って見てきたという話もあったりしますし。
天外:
向こう側には時間も空間もありません。でも、時間も空間もない世界というのは、私たちには想像もつかないわけです。ですから、こちら側の常識で向こう側も色付けしています。もともと、言語というのは、この世のことを記述するためにあるもので、あちら側のことは言語では説明できません。宗教は、あちら側のことを説きたいのだけれども、言葉で説明できないので、まわりをうろうろしているわけです。
中川:
天外さんは、もともと目に見えない世界になじんでおられたわけですが、改めて勉強したり体験したり、さらにたくさんの本を書かれるようになったきっかけというのはあるんですか。
天外:
私は、ソニーの創業者の井深大という人と非常に近いところで仕事をしていました。彼は、いろいろなことに興味をもつ人で、1984年に、筑波大学で開かれた「科学技術と精神世界」というイベントにも参加したんですね。このイベントはフランス国営テレビと筑波大のジョイントのイベントで、世界中から、科学者、哲学者、心理学者、宗教家を呼んで、非常に盛大に行われました。新体道という武道の青木宏之さんが氣の演武をやって、外国の人たちを驚かせたようですが、その青木さんと井深が親しくなって、青木さんがときどき、ソニーへも来られていました。
そのイベントの内容を、主催者の一人である湯浅泰雄さんという哲学者が5冊の本にまとめました。それを私は井深から、読むようにと渡されまして、読んでみたら、すごく面白くてですね。学者がまとめたものなので、きちんと参考文献も出ていましたから、その文献を片っ端から取り寄せて読みました。ボームのことも、そのときに勉強しました。
中川:
目に見えない世界のことが科学的に説明されるような内容だったんですか。
天外:
いや、科学でもないし、科学的な仮説までもいっていませんね。ボームの言っていることも、私が書いていることも、私は科学的ロマンと呼んでいます。仮説とするには、まだ詰め切らないといけないところがたくさんありますから。

(後略)

(2011年1月18日  東京都渋谷区のホロトロピック・ネットワーク事務局にて 構成 小原田泰久)

三上 丈晴(みかみ たけはる)さん

1968年青森県生まれ。筑波大学自然学類卒。1991年、(株)学習研究者に入社。歴史群像編集部を経て、ムー編集部に配属。2005年より、月刊ムー編集部に就任。現在に至る。本誌「ムー」が扱うテーマは哲学であると考えている。

『超能力、心霊、UFO、古代文明。 不思議世界を30年以上伝え続ける雑誌』

中高生から70 代、80 代ま で読んでいる不思議な雑誌

中川:
はじめまして。三上さんが編集長をやっておられる「ムー」という雑誌は、不思議な世界をずっとテーマにしていますが、ずいぶんと歴史がありますよね。
三上:
一昨年30周年を迎えました。こちらの真氣光のことも、ずいぶんと前から聞いていますが、どれくらいになるんですか。
中川:
父が始めて、今年で25周年になります。氣というと、あるような、ないようなわからないものですから、信用していただけないことも多いのですが。私は、もともと物理を専門にしていましたので、父が氣のことを盛んに言い出したときも、正直、信じられませんでしたね(笑)。だから、信じない人の気持ちもよくわかります。
「ムー」でよく出ているのは、心霊とかUFOとか、やっぱり怪しい世界で(笑)、なかなか信じてもらえないんじゃないですか。
三上:
両極端ですね。信じている人は信じ切っていますけど、頭から否定する人も多いですから。
中川:
三上さんご自身は、どうだったんですか。不思議な世界がお好きで、「ムー」という雑誌に入ったわけですか。
三上:
子どものころ、テレビでUFOの特番を見ていましたし、ユリ・ゲラーが来日して、スプーンを曲げたりしたのもよくテレビで見ていて、興味は持ちましたよね。
中川:
そうそう、ユリ・ゲラーは大変な話題になりましたね。テレビを見て、スプーン曲げができるようになったという人も出たりしました。超能力はあるとかないとか、論争が起こったのを、よく覚えていますよ。あのころは、年齢に関係なく、ユリ・ゲラーのことを話していましたが、「ムー」の読者というのも年齢はあまり関係ないですか。
三上:
中学コースとか高校コースという雑誌をご存知ないですか。中一コースから高三コースまでありました。学年が上がっていくと、勉強のことばかりではなくて、芸能とかスポーツといったネタが入ってくるんですね。夏場に、ミステリーゾーンとか予言の特集をすると、これがすごい人気で、必ずランキングのトップになるわけです。それで、そういうネタで雑誌を作ろうということで始まったのが「ムー」なんですね。ですから、最初は中高生向けの内容でした。でも、高校を卒業しても、ずっと読み続けてくれる人もたくさんいて、内容も、中高生向けばかりではなく、もっとマニアックなものも入れていかないとということで、幅は広がっていきましたね。今では、中高生はもちろんですが、70代、80代でも読んでくださっています。親子二代にわたって熱心な読者になってくださっている方もいますね。
誌面は、超能力、心霊、UFO、古代文明、都市伝説、それに最近ではやっぱりスピリチュアル系と呼ばれる占いやヒーリングですね。
中川:
氣については、けっこう昔から取り上げておられるんですか。
三上:
実用ページで氣の活用法なんかをよくやりますよ。いわゆる特異効能と言われる超能力のような氣についても、昔は、中国の氣功師が編集部を訪ねてきたりしましたよ。
その中で、すごいと思ったのは、厳新という人でした。ある子どもの背中にバレーボール大のこぶがありまして、そこへ彼が氣を送ると、そのこぶがみるみる小さくなるとか、そんな伝説が数えきれないほどある人です。テレポートはよく起こっていたみたいだし、体に電流を流しても平気だったとか、彼に関する伝説はいくらでもありますね。電気を通すことでエネルギーを充電するって言っていました。
中川:
電気を流すというのは、感電しているということですね。それで平気なんですか。
三上:
中国の仙人や氣功師たちは、雷に打たれる修行をする人がいるらしいんですよ。雷のエネルギーを取り込んで、氣のレベルを高めるんでしょうね。
中国には、そういう能力者がいっぱいいて、政治家が彼らを囲っているみたいですね。ヒーリングを受けるだけでなくて、外交のときにも、彼らの能力を利用するのだそうです。外国の要人が中国を訪問すると、たくさんの人が出迎えますね。その中には必ず超能力者がいて、要人の体を透視して、その人が健康かどうかをチェックするわけです。もし、重篤な病気があったり、寿命が長くないようだと、その人のことはあまり相手にしないとか、そんな判断の材料にしているようですよ。
それは、中国ばかりではなく、アメリカでも日本でも、優秀な超能力者を囲っているのは、政治家でも財界の人でも、一種のステイタスになっています。政治家が重要な政治的判断を下すときには、超能力者に相談していると言われていますしね。
中川:
そうですか。だとすると、今の日本には、あまり優秀な超能力者がいないということですかね。政治も社会も混乱していますから(笑)。

(後略)

(2010年12月28日 東京池袋の(株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

樋口 恵子(ひぐち けいこ)さん

1932年東京都生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。時事通信社、学研、キャノンをへて、評論活動に入る。東京家政大学名誉教授。NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長。著書に「祖母力」(新水社)「チャレンジ」(グラフ社)「生き上手は老い上手」「女、一生の働き方―貧乏ばあさん(BB)から働くハッピーばあさん(HB)へ」(以上、海竜社)など多数。

『もっとお年寄りに元気になってもらって高齢社会を乗り切る』

働くばあさん、ハッピーばあさん、未来を拓く花咲かばあさん

中川:
ユニークなタイトルの本を出されましたね。「女、一生の働き方」というのがメインタイトルで、これはわかるんですが、サブタイトルの「BBからHBへ」というのが鉛筆みたいで面白いですね(笑)。
樋口:
そうでしょ。BBというのは貧乏ばあさん、HBというのは働くばあさん、ハッピーばあさん、未来をひらく花咲ばあさんという意味なんですよ。
中川:
そうですか。先生がお作りになった言葉ですね。
樋口:
そうです。貧乏ばあさんというと、不快に思う方もおられると思います。しかし、貧乏というのは恥ではなし、日本の女性が年をとってから経済的な困難に直面するのは、その多くが日本社会の構造的な問題です。
私は、貧乏を恐れずに見つめ、貧乏にめげずにきちんと考える力と行動する勇気をもち、みんなの力を集めることで、貧乏をつくり出す構造は乗り越えられると考えています。ばあさんにしても、私は「祖母力」という本を書いたことがありますが、長く女性を生きてきたことにより蓄積された資源があるはずです。料理とか子育てとかね。それを上手に生かしてハッピーになってもらって、花を咲かせてもらいたいという思いを込めて、そう呼んだわけです。昔話だと、「あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」というところから始まるじゃないですか。おじいさんやおばあさんというのは、物語の主役であり、進行係なんですね。
中川:
なるほど。貧乏にしても、ばあさんにしても、決してネガティブな意味で使っているわけではないということですね。社会をもっと良くしていくことは大切だけれども、そのためには、自分自身が、ハッピーで花を咲かせるような存在でないといけないということでしょうね。
樋口:
そうですね。ところで、会長さん、うちの猫がずっと会長さんの椅子の下にいるんですが、この子はすごく恥ずかしがり屋で、お客さんが来ても、すぐに奥へ引っ込んでしまうのですよ。こんなにリラックスしているの初めて見ますよ。これはびっくり、ずいぶんとゆったりと寝転んでしまって。
中川:
いや、すいません、私の尻の下で(笑)。でも、動物は、氣を感じやすいですから…。
樋口:
それでですか。会長さんの氣で気持ちいいんでしょうかね。こんなこと初めてですよ。このままここにいさせてよろしいのでしょうか。
中川:
どうぞ、どうぞ。尻の下で申し訳ないですが(笑)。
樋口:
で、何の話をしていましたっけ(笑)。そうそう、貧乏ばあさんですね。世の中には、元気で働く志のある高齢者はたくさんいます。そういう例を参考にして、働いて端はたを楽らくにし、ハッピーで花を咲かせるばあさんになってもらいたいと思いましてね。これは女性ばかりの問題ではないので、男性も含めて、ハッピーな高齢者になってもらいたいということで書いた本です。
中川:
先生は、高齢社会をよくする女性の会というNPOの理事長をやっておられますが、これはどういう団体なんですか。
樋口:
1982年ですから、ずいぶんと前の話になります。私も50歳くらいで、私たちの世代の女性は、舅、姑の介護に直面していました。当時は、嫁が仕事をやめて介護するのが当たり前でしたし、亭主の方は、口は出すけど手は出さないという状態でしょ。ものすごい辛さの中にいました。そういう女性の声を集めようと集会をやったんですね。そしたら、大変な反響でした。私は、第1回目をやったら、次からは不定期にやればいいと思っていたのですが、まわりがそれを許さなくて、結局、決まった会を作るべきだという話になって、「高齢社会をよくする女性の会」というのを設立しました。以来、毎年、集会をやっていますから、今年が集会は29回目、会の設立から28年ということになります。今年の集会は、大分の別府で開かれ、2400人もの方が集まってくださいましてね。会の設立の最初は、企業団体の支援に頼っていましたが、会員も増えまして、今では、自前で会の運営ができるようになりました。
中川:
この会が設立されて、その流れで、2000年の介護保険が作られたわけですね。
樋口:
法律ができる一つの推進役にはなれたと思います。私も、介護保険の産みの親の一人だと言われるのは、とても光栄です。
あのころは、ずいぶんと感情的な反発もありました。嫁が世話をするのが伝統だ、当たり前だという考え方が主流でしたから。嫁が介護しないのは許せないという感情が出てくるんですね。
ですから、私は言いましたよ。ここは感情よりも勘定だって(笑)。
感情を無視して統計数値で物を言っても説得できないこは重々承知しています。これまでそうやってきたからこれからもという気持ちもわかります。しかし昔は子どもが7人も8人もいたけれども、今は2人しかいないという現実を見る必要はあるわけです。変化を直視しないところに適切な対応はありません。
それに、昔は人生50年でしたから、50歳~ 60歳の舅、姑に、嫁は40歳になっていませんでした。それが、寿命が延びて、80歳を超えた舅、姑に60歳の嫁ということになるわけです。姑を背負おうにも、嫁の方が体調を悪くしていたりするんですね。そういう変化を認めた上で対策を考えていかないと。それを、私は感情より勘定と言ったんです。

(後略)

(2010年10月26日 東京都杉並区の樋口さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

大橋 照枝(おおはし てるえ)さん

1963年京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業。㈱大広マーケティングディレクター、國學院大學栃木短期大學助教授をへて、現在、麗澤大学経済学部教授。主な著書に、『幸福立国ブータン』(白水社)『未婚化の社会学』(NHK出版)『「満足社会」をデザインする第3のものさし』(ダイヤモンド社)『ヨーロッパ環境都市のヒューマンウェア』(学芸出版社)などがある。

『お金があるからと言って幸せではない。ブータンから学ぶ幸福な社会』

戦争があっても環境破壊があっても、お金が使われればGDPは上がる

中川:
子どもが放置されて死んでしまったり、虐待があったり、お年寄りがどこへ行ったかわからなかったり…。今年も、嫌になるような事件がたくさんありました。そんなニュースを見るたびに、日本は、経済的には非常に発展して、それなりに豊かな生活をしているのに、決して幸せな国ではないなと思えてきます。そんなことを考えていたときに、ブータンのことを聞きました。ブータンでは、幸福度をベースにした国づくりが行われていて、今、世界中から注目されているということですが、その実態はどういうものかを教えていただきたいと思いまして、「幸福立国ブータン」という本を書かれている先生に対談をお願いしたわけです。ブータンのことを知ることで、幸せって何なのかが見えてくるんじゃないかと思いましてね。私たち日本人は、どう生きればいいのかということについても、何かいいヒントがあるのかなと思うんですね。
大橋:
国の豊かさの尺度としてGDP(国民総生産のことです。)というのがありますね。40年も前から疑問が上がっていましてね。私も、とても疑問に感じていたんですよ。と言うのも、戦争があっても環境破壊があっても、そこでお金が使われれば、GDPはプラスに計算されますから。交通事故があれば、救急車が来て、けが人は病院へ運ばれて治療を受けます。そこではお金が動きますから、GDPはプラスになるわけです。一方でわれわれの福祉にとって欠くことのできない家事・育児・介護(主として家庭内で女性が担っている)には、金銭的支払いがないということでGDPには一切加算されません。それが豊かさを示す指標になるでしょうか。それで、私は10年前から経済だけでなく、社会や環境を織り込んだ新しい指標を作ろうとしてきました。それが、人間満足度尺度(HMS)と名付けている指標です。民主主義も入れて現在バージョン6を開発しました。18カ国で算出していますが、その数値を見ると、日本は18カ国中最下位になっています。トップがスウェーデンで、日本はベトナムや中国よりも、満足度が低いという結果になっています。
中川:
確かにGDPは経済だけを対象にしていますからね。経済が発展すれば幸せになるわけではないというのは、日本を含めた先進国が証明してくれていますよね。その点、そこに環境や社会という要素が入ってくれば、かなりその国の幸せ度が反映されますね。
大橋:
そうなんですね。そんな指標作りに取り組んでいたとき、2007年1月1日付の東京新聞ですが、そこにブータンが大きく紹介されていました。フォブジカ谷というところがありまして。そこには、中国のチベットからオグロヅルという絶滅が心配されるツルが飛来するのだそうです。山裾には3000人くらいが生活している村があります。だけど、そこには送電線がきてないので、電気が使えません。なぜ送電線がないのかというと、オグロヅルが飛来するのに邪魔になるから、村全体が電化を拒絶したということらしいのです。オグロヅルの邪魔にならないように、太陽光発電で得られる少ない電力で、彼らは生活しているという話でした。ツルのために電気のある便利な生活を我慢するというのに、私はびっくりしたわけです。それに、ブータンという国は、世論調査をすると、国民の97%が幸せだと答えるというんですね。研究室で幸福度の指標作りをするのも大事だけど、まずは、何が幸福か、ブータンへ見に行こうと思って、その年の8月下旬から9月にブータンへ出かけて行きました。後日談ですが、2009年にオーストリア政府の一部援助によって、フォブジカ谷の村では送電線の地下埋設工事が行われて、電化が実現したということです。
中川:
ツルのために便利な生活を我慢したというのはすごいですね。日本だったら、間違いなく便利な生活を選択しますね。先生のご著書によると、国王がずいぶんと立派な方のようですね。
大橋:
今の王様は5代目です。そのお父様である第4代の王様が立派な方でした。ロンドンへ留学しているときに、その前の王様が亡くなって、1972年に16歳で国王に即位しました。そのころから、国王は、ブータンはGNP(国民総生産)よりGNH(国民総幸福)でいくべきだと考えていたようで、ブータンのビジョンとして打ち出していました。GNHというのは、グロス・ナショナル・ハピネス、日本語にすれば国民総幸福という国民の幸福度を示す指標です。1976年暮れに、第5回非同盟国諸国会議という国際会議がコロンボで開かれました。その会議が終わった後の記者会見で、国王はGNHがGNPよりも大切だと発言したのです。そのころは、経済的な発展の指標は、現在のGDP(国内総生産)ではなくGNP(国民総生産)という指標を基準にしていました。GNPもGDPと同様、環境破壊があっても、お金が動けば数値が高くなるというもので、60年代、70年代には、世界の有識者たちが、激しくGNPを批判していました。
中川:
それにしても思い切ったことをされましたね。世界中が経済的な豊かさを求めているときに、本当に幸せというのは何かということを考えておられたのですね。
大橋:
1972年に即位された年に国連に加盟して以来、UNDP (国連開発計画)、世界銀行などへ次ぎ次ぎと国際的な機関に加盟し、ブータンを閉ざされた国からオープンな国にしていきました。GNHをスローガンとして掲げている国として、世界中から注目されました。GNHは世界のどこの国からも異論の出ないスローガンですから、非常に好感をもたれて、多くの国際援助を獲得しました。日本も、1964年からJICA(国際協力機構)はブータンに入り、農業支援や道路、橋、学校の建設をODAで支援してきました。だから、王様がGNHと言い出してから、国が年々良くなっていくわけです。橋ができたし、道ができたし、学校ができたという具合に、まわりが改善されていきますから、国王を信頼します。GNHのスローガンをかかげ、実現していくという統治の仕方がすごく上手だったと言えますね。
中川:
ブータンは仏教という宗教的な基盤があるということも大きいでしょうね。
大橋:
その通りですね。この国は、チベット仏教の信仰が厚いところです。チベット仏教の教えが、お年寄りから子どもにまで浸透しています。もっとも大切なものが互助互恵。助け合い、恵み合うということです。それに知足少欲。足るを知って欲を少なくという精神です。だから、オグロツルのために電気を我慢できるんですね。
中川:
日本は、戦後、経済が常に優先されてきましたから、お金にならないことはあまりやらないという風潮になりましたからね。自分のことばかり考えるようになって、隣で何が起こっているかも関心がないというような社会になってきていますよね。
大橋:
ブータンへ行ったとき、道端で犬がたくさん寝そべっています。そばを通っても、悠然と寝転んだままなんです。この犬は野良犬ですかって聞いたら、野良犬じゃない、みんなの犬でみんなで世話していますとの答えが返ってきました。そんな社会なんです。犬も幸せですよね。世界銀行の基準は、一日1・25ドル未満で暮らす人を貧困としています。そういう人が世界には14億人いるとされています。私は、もっといるのではと思っていますが。ブータンは、世界銀行の基準で言っているのかどうかはわかりませんが、国民の23・2%が貧困だと言われています。若者の失業率も5%と高いんですね。でも、世論調査をすると、国民の97%が幸せだと答えているんです。実際、町を歩いていても、物乞いや路上生活者が一人もいないんですね。きっと、今日はうちで泊まりなさいとか、食事をしていきなさいと言って、誰かが助けているんでしょうね。助け合いとか恵み合いというのは、GDPではカウントされません。だから、GDPが低くても、満足度は高くなるのは不思議でも何でもありません。もちろん、GDPも大事なんですよ。雇用がなくなったりしたら大変ですから。でも、GDPを上げることばかりを考えて、福祉や環境を犠牲にするのはおかしいのではと思いますね。
中川:
だけど、ブータンはGNHという幸せ度の指数を上げるのに、条件がそろっていたという見方もできますね。今、先生がおっしゃったチベット仏教の精神が行き渡っているということもあるし、それに小さな国であるということですね。ですから、そのまま日本に当てはめることもできないですよね。
大橋:
ブータンは、人口が67万人ほどです。日本で言うと、鳥取県とか島根県という人口の一番小さな県と同じ規模ですね。だから、王様もがんばれたということもあるかもしれません。日本では、東京の荒川区が、ブータンを参考にして、グロス・アラカワ・ハピネスといってGAHというのを区長が考えましてね。研究所を作って、ブータンへの視察に行きましたが、ブータンのGNHをそのまま使うわけにはいかないことがわかりました。ブータンのGNHの場合、国民に調査をして足りていないことは何かと聞くと、ブータン式の弓ですが、伝統的スポーツであるダツェとか、瞑想というものが足りていないことのトップに出てきます。そういうことが幸福度を計る上で重視されています。それはそのまま荒川区では使えません。だから、荒川区は、区と区民が、荒川区民にとっての幸福とは何なのかを、自分たちで考える必要があります。日本が、ブータンから学ぶとしたら、小さな自治体の単位で、市民と行政とが自分たちの幸福とは何なのかを考え、それを目標として達成しようとする。そういう動きを作ることじゃないでしょうか。かつて、岐阜県が、夢おこし県政というのを行いました。県民の夢を集めて夢を形にしようというものでした。まずがやがや会議と言って、言いっぱなし、聞きっぱなしの会議をして、県民から夢を集めて、集まった夢に投票して、それから実現すべき夢を決めて具体化していきました。たとえば、お母さんが、小さい子を連れていける図書館がほしいという夢を語り、それに賛成票が多かったので、岐阜県は岐阜県図書館を作るときに、児童コーナーを作ったり、託児サービスを行ったりするわけです。そういうふうに自治体ごとにやっていくことで、幸福度は高まっていくのではないでしょうかね。
中川:
本来、生活していく上で、幸せを感じるというのはとても大切ですよね。お金があっても不幸せじゃ困りますからね。
大橋:
幸せを感じるための大切な要素として家族がありますね。ブータンは、とても家族の絆が強いんです。家族だけでなく、学校や職場でも、人と人との絆を大切にしています。ブータンは大家族主義で、3世代同居が当たり前になっています。ですから、お年寄りが社会の淵に追いやられることはありません。家族を大切にすることが、社会のセイフティネットになっているんですね。ブータンの首都のティンプーであなたにとって一番幸福なのはどんなときですか? と聞くと、「家族と一緒のとき」という答えが返ってきました。
中川:
日本にも昔はあったんでしょうがね。日本は核家族という大家族とは逆の方に進んでしまいました。
大橋:
ブータンでは、毎年、11月末から1月初めの間に、家族が全員集まるチョクという行事があります。家族と言っても、少なくとも20人くらいは集まりますから。この期間に、1年間の家族が無事だったことに感謝して、来年の平安を祈るんです。いくら福祉制度を充実させても、形だけですと、必ず問題が起こってきます。制度よりも大事なのは絆ですからすね。

<後略>

(2010年10月5日 東京浅草ビューホテルにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『幸福立国ブータン』(白水社)

新城 卓(しんじょう たく)さん

1944年沖縄生まれ。映画監督。今村昌平、浦山桐郎らの助監督をへて、1983年に沖縄人としての葛藤を描いた「オキナワの少年」で監督デビュー。その後、八重山諸島を舞台にした「秘祭」、知覧の特攻隊員を描いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」などの監督を務める。1974年に制作された「氷雪の門」では助監督を務め、1998年に「氷雪の門」上映委員会を立ち上げる。

『36年たって上映が実現。隠された史実を知らないと、本当の平和は語れない。』

8月15日に終戦を迎えていたのに樺太では悲惨な出来事が

中川:
はじめまして。私どもの会員さんが、こんな映画が話題になっていると、新聞記事を送ってくれました。それが「氷雪の門」で、私もさっそく拝見したのですが、36年前に封切られるはずだったのに、それが今になってやっと日の目を見たということで、とても興味深く見させていただきました。新城監督は、この映画を上映にこぎつけるために、中心になって動かれたそうですが、樺太のことについては、前々から興味がおありだったのでしょうか。
新城:
観ていただいてありがとうございました。私は、36年前に、そのころの出来事を映画にすることになった際、助監督としてこれに関わることとなり、台本をもらってから史実を調べてみたのです。樺太に関する資料はあまりなくて、北海道へ引き上げた人に取材をしたり、六本木にある樺太連盟で話を聞いて、こんなことがあったんだと唖然としましたね。
中川:
戦前、樺太は南半分が日本の領土だったんですよね。実は、私の母方の祖父が、熊本から樺太に渡りまして、あの映画のころは、母は6歳だったと思いますが、樺太で暮らしていて、命からがら逃げ帰ってきたという体験をしています。戦争が終わったのにソ連が攻めてきたと、幼心にも恐怖があったのでしょう、よく話してくれました。それまで比較的平和に暮らしていた樺太の人たちが、日本が降参した後で、ソ連の攻撃で大変な目にあうわけですね。そんな中に、電話の交換手をしていた若い女性たちがいて、彼女たちが、家族や恋人のことを思いつつも、自分たちの仕事がとても大切だということで、ソ連軍が攻め込んできても仕事を放棄せず、最後には自ら命を絶つという悲劇を、映画では描いていました。私も、北海道出身で、稚内へも行ったことがあって、そこに氷雪の門というモニュメントがあったので、樺太であった悲しい出来事のことは知っていましたが、映画を拝見して、その現実をリアルに知ることができました。平和のこと、戦争のこと、家族のこと、生きるということ、いろいろなことを考えさせられました。それにしても、私たちは8月15日に戦争は終わったと教えられていますが、樺太ではその後も戦争は続いていたわけですからね。それも、一方的に攻撃されて、一般人がバタバタと亡くなっていたというのは、映画を見ていて胸が締め付けられる思いがしました。電話交換手の女性たちが自決したのが8月20日ですからね。
新城:
あの映画は、間違いのない史実を描いたものです。そんな話は、教科書にも出ていないし、先生も教えてくれません。広島、長崎に原爆が投下されて、日本がひん死の状態のときにソ連は参戦してきて、満州や樺太に攻め込んできました。樺太には、囚人部隊を送ってきています。だから、半端ではないですよ。逃げ惑う婦女子に投降を呼びかけもせず、後ろから撃っているわけですよ。そんな事実が公にされればソ連も困りますよね。だから、映画上映には横やりが入ったんですね。
中川:
だけど、大変な大作で、相当なお金をかけていると思うのですが。
新城:
おっしゃる通り、超大作ですね。当時で、映画にかける製作費というのは普通は3億円くらいでしたが、この映画は5億円かけていますから。戦車が出てきますが、もちろんあれは本物です。自衛隊の全面協力を得て、あの戦車が使えたわけです。自衛隊が映画に協力するなんてことはありませんから。前代未聞のことです。戦車は、アメリカ軍が日本に上陸するときのために作ったもので、それが御殿場に15台あったので修理して使わせてもらいました。砲撃するシーンがあるでしょ。あれは実弾です。実弾だと10万円、空砲だとその半分くらいでいいと言うので、実際に撃ってもらったら、迫力が全然違うんですね。それで、実弾でやりたいと言ったら、お金は大丈夫ですねって聞かれて、「えーっと」と考えていたら、ドーンドーンと撃ち始めました。だけど、その費用の請求もなかったし、後日、自衛隊に聞いたら、映画に協力した記録はないと言われました。ここでも、何か裏の力が働いていたんでしょうね。

<後略>

(2010年9月22日 東京日比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

DVDの紹介

樺太1945年夏 氷雪の門
最新の公開劇場予定については、下記へお問い合わせください。
ホームページ:http://www.hyosetsu.com
太秦株式会社:TEL:03-5367-6073
【DVDのお申し込み先】
(株)新城卓事務所 TEL:03-5453-7037
E-mail: taku@shinjo-office.com

陽 捷行(みなみ かつゆき)さん

1943年山口県生まれ。71年東北大学大学院農学研究科博士課程修了。77年米国アイオワ州立大学客員教授、2000年農林水産省農業環境技術研究所所長、01年独立行政法人農業環境技術研究所理事長をへて、05年より北里大学教授。現在、北里大学副学長。日経地球環境技術賞など受賞歴も多数。著書に「土壌圏と大気圏」(朝倉書店)「農と環境と健康」(アサヒビール)などがある。

『分離の病から脱却し、連携の科学を大切にする方向へ』

生き物はすべて土から生まれて土に帰っていく

中川:
なるほど。私はそんなことは考えたこともありませんでしたが、私どものやっている真氣光の「氣」という文字は、昔ながらの中が米になっている字です。先代が、この字は、私たちの命の素でもある米から出ているエネルギーを表しているんだということで、この文字を使っています。一般的に使われている「気」と比べると、「氣」の方がはるかにエネルギーが高いように、私も感じています。漢字は、神様と交信するために作られたとおっしゃいましたが、その話をお聞きして、私どもも、氣という文字を通して、神様と交信しているのかなと思いましたね。
陽:
その通りでしょうね。だから、名前は大事なんですよ。親が思いを込めてつけてくれた名前です。それを、選挙に出るときには、ひらがなにしてしまったりするのはおろかしいことですよ。氣という文字を使われるのは、すごくいいと思いますよ。
中川:
私の名前の「雅仁」というのも、父がある高名な神道家の方からつけていただいた名前を引き継いだものです。会社や組織を任されたというより、真氣光というエネルギーを引き継ぐという意味合いが強かったものですから。ところで、先生は農学がご専門で、今は北里大学で農医連携というテーマを進めておられますが、そのあたりの経緯について、お話いただけますか。
陽:
漢字の話を聞きに来られたわけではなかったですね(笑)。そろそろ本題に入りますか。私の専門は「土壌学」です。川にいるドジョウじゃないですよ(笑)。「土壌学」というのは、土壌がどのように生成され、分布し、分類されるかという研究のほか、食料を大量に生産するにはどうしたらいいかとか、生態学や物質循環とのかかわりでの研究が行われたり、さらには民族の文化や文明、健康に深くかかわったものとしての学問でもあったりと、非常に幅広く研究されています。いろいろな研究があるわけですが、土壌を語る上で、一番大切なことは、土壌は生命の源だと言うことですね。明治時代の小説家の徳とくとみ冨蘆ろ花かは、「みみずのたはごと」という作品で、次のように書いています。《土の上に生まれ、土の生むものを食うて生き、而して死んで土になる。我等は畢ひっきょう竟土の化物である。土の化物に一番適當した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もっともよくものを撰み得た者は農である》孔子も、あまり自然を語らなかった人ですが、土については非常に含蓄のある言葉を残しています。《人の下なるもの、其はなお土か! これ種えれば、すなわち五穀を生じ、禽きん獣じゅう育ち、生ける人は立ち、死せる人は入り、その功多くて言い切れない》いいことを言っていますよね。生き物は、すべて土から生まれて土に戻っていくことになっているんす。「星の王子さま」のサン=テグジュペリも、いろいろなところを旅している人ですが、その土地土地で土が語りかけてくるんだと言っています。私も、高校生のときに、人間は土から生まれたのだから、土壌のことを勉強しなければと思いました。何がそう思わせたのかはわかりませんが。

<後略>

(2010年8月3日 北里大学相模原キャンパスにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「人びとの健康と地球環境保全のために―農医連携」(エムオーエー商事)

阿部 宣男(あべ のりお)さん

1955年東京都板橋区生まれ。1980年板橋区役所入所。板橋区立「淡水魚水族館」「こども動物園」をへて、「温室植物園」の担当となり、無農薬生態園を作ることに成功。1989年よりホタルの飼育を開始し、1992年には「ホタル飼育施設」の担当となる。独学で研究を続け、難しいと言われるホタルの完全飼育に成功。クロマルハナバチの繁殖にも成功し、ハウス栽培の受粉を全国展開中。

『ホタルから学んだ自然環境の大切さや命の尊さを後世に伝えていきたい』

「ホタルはご先祖様の魂だ」と言われて、ホタルが怖くなった

(2010年7月13日 東京都板橋区ホタル飼育施設にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「ホタルがすきになった日」
都会にホタルを取りもどした阿部宣男
(佼成出版社)

早乙女 勝元(さおとめ かつもと)さん

1932年生まれ。12歳で東京大空襲を体験。1952年、「下町の故郷」が直木賞候補に推される。1991年、映画「戦争と青春」の原作・脚本で日本アカデミー賞特別賞。現在、東京大空襲・戦災資料センター(江東区北砂)館長。著書「東京が燃えた日」(岩波ジュニア新書)「空襲被災者の一分」(本の泉社)「下町っ子戦争物語~ずっと心に残る19話」(東京新聞)など多数。

『平和な未来のために東京大空襲の悲惨さを伝える』

原爆と同じくらいの被害があった東京大空襲

(2010年6月23日 東京大空襲・戦災資料センターにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「下町っ子戦争物語~ずっと心に残る19話」(東京新聞)

樫尾 直樹(かしお なおき)さん

1963年富山県生まれ。慶応義塾大学文学部准教授。専門は宗教学。日本、フランス、韓国、コートディボワール、カリブ海などをフィールドとして「スピリチュアリティ」をキーワードに、現代人のこれからの絆のあり方と宗教文化のかかわりを研究している。著書に、「スピリチュアリティ革命」(春秋社)「スピリチュアル・ライフのすすめ」(文藝春秋)などがある。

『ブームに踊らされず、真のスピリチュアリティを求める生き方へ』

キリスト教に興味をもって神父になろうと真剣に考えたことも

(2010年5月13日 慶応義塾大学三田キャンパスにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「スピリチュアル・ライフのすすめ」(文藝春秋)

越川 禮子(こしかわ れいこ)さん

1926年(昭和元年)東京都生まれ。86年にアメリカの老人問題をルポした「グレイパンサー」で潮賞ノンフィクション部門優秀賞を受賞。口伝により語り継がれてきた商人しぐさ、繁盛しぐさを、最後の江戸講の講師・芝三光氏から聞き書きを行い、現在、江戸しぐさの語り部として、講演・執筆活動を行っている。NPO法人江戸しぐさ理事長。著書「江戸の繁盛しぐさ」(日本経済新聞出版社)「暮らしうるおう江戸しぐさ」(朝日新聞出版社)など多数。

『江戸しぐさで気持ち良く生きられる世の中を作る』

江戸しぐさと同じことがハイゲンキに書かれていた

(2010年4月22日 東京日比谷松本楼にて  構成 小原田泰久)

長所の紹介

「暮らしうるおう江戸しぐさ」(朝日新聞出版社)

水谷 孝次(みずたに こうじ)さん

アートディレクター・グラフィックデザイナー。1951年名古屋市生まれ。
数々の賞を獲得し、トップデザイナーとして活躍する。99年より「笑顔は世
界共通のコミュニケーション」を合言葉に「メリー・プロジェクト」を始める。
愛知万博、北京オリンピックなどで、笑顔のすばらしさを世界に発信してき
た。これまで撮影してきた30,000人以上のメリーな笑顔はウェブサイトで
見られる。著書「デザインが奇跡を起こす」(PHP研究所)。

『笑顔とやさしい言葉を与えればあなたにも笑顔とやさしい言葉が帰ってくる』

心を込めて歌ったら、万雷の拍手をもらった体験が原点に

中川:
はじめまして。水谷さんの書かれた「デザインが奇跡を起こす」(PHP研究所)という本を拝読させていただきました。最初は、デザインというのは私にはあまり関係ない世界だと思っていたのですが、読ませていただいているうちに、水谷さんのデザインは、私たちのもっているデザインのイメージと全然違って、ポスターを作るとか雑誌を作るといったことを超えた、人生のデザインみたいな、そんな感じがしたんですね。今日は、いろいろな話をお聞きしたいなと思っておうかがいしました。よろしくお願いします。
水谷:
こちらこそよろしくお願いします。中川会長がやられているのは氣ですよね。ぼくは、これがとても大事だと、ずっと思ってきました。もっとも、ぼくの場合は、医学的とかスピリチュアルということではなくて、デザインという仕事をやる上での気合いとか気迫ですね。その大切さは身をもって感じてきましたね。
中川:
私も、今でこそ氣について語っていますが、もともとは電機会社のエンジニアでしたから、医学的なこともスピリチュアルなことも全然興味ありませんでした。しかし、体調を悪くして、父がやっていた氣の研修に参加してから価値観ががらりと変わってしまいました。それで父の仕事を手伝うようになったら、父が急死して跡を継ぐことになってしまったという経緯があります。
水谷:
ぼくがデザイナーというのを意識したのは就職を考える時期ですかね。子どものころは、いろいろと習いごとはやりましたが、どれも長続きしなかったですね。塾も行ったし、英語も習いました。ひとつだけ続いたのがお習字でした。これは小学校1年生から6年間でやりました。字を書くという感覚が好きで、それがデザイナーになろうと思ったベースにあるかもしれません。今も、たとえば請求書を書くときでも、習字の基本ですが、左手を紙の手前にきちんと置いて書きますから(笑)。それと、もう一つが音楽かな。
中川:
音楽ですか。
水谷:
高校生から大学生のころは、フォークソングに夢中になっていて、「音楽で世界を変えよう」「フォークソングでメッセージを」と、自分で歌を作って、歌っていました。名古屋だったのですが、地元のラジオ局から出演依頼が来たり、学園祭の時期には女子大からオファーが来たりと、けっこう活発に活動していましたね。ちょうど60年安保と70年安保の間で、63年にJ・F・ケネディが、68年にはR・ケネディが暗殺されるなどして、若者を中心に反戦運動が盛んになっていたころです。ぼくも、ケネディ一家は好きだったので、彼らが暗殺されたのはすごいショックでした。ロバート・ケネディが暗殺された日も、女子大でコンサートがあって、ぼくは自作の「ロバート・ケネディの歌」を歌いました。連日のコンサートで声は枯れ、ギターの弦も途中で切れてしまって最悪でした。でも、心は無に近い状態になって、自分の気持ちを込めて歌ったものですから、1000人くらいの人がシーンとして聞いてくれたし、終わった後には万雷の拍手がきまして、自分が心を込めて歌えば、みんなが喜んでくれるんだということを実感して、すごく感動しました。それまでは、たった数人の観客でも、自分のステージに気持ちをひきつけることができませんでしたから。上手に歌おうとか格好良く見せようとか、そんな邪心があるとダメですね。この「ロバート・ケネディの歌」のときの感動が、東京へ出ようという自信にもつながりましたね。
中川:
氣が通じたんでしょうね。テクニックを超えた世界だと思います。それと、お父さんの影響もあったと書かれていましたね。
水谷:
父親は戦争で耳を負傷して、片方の耳が聞こえなくなってしまって、耳も変形していました。何度も入退院を繰り返し、通院もしていました。もともとは明るい父だったのに、戦争によって耳が聞こえなくなって、怒りっぽかったし、いつもイライラしていましたから、家の中も暗い感じでした。そんな父を見ていて、戦争が悪いんだ、世の中が悪いんだ、ぼくが大人になったら世の中を変えてやろうと思っていましたよ。3歳のときですから、ずいぶんと早熟だったかもしれませんが(笑)。父は絵が得意で、飼っていた鳥や庭の植物を一緒に描いた記憶があります。絵を描いているときだけは、父はとても穏やかでした。ぼくは、勉強もスポーツも取り立てて得意ではありませんでしたが、絵を描くことだけは大好きでしたね。それもデザイナーになるベースとしてあったでしょうね。
中川:
その後、東京へ出て、デザイナーとして大変な成功を収めたわけですが、いろいろとご苦労もあったと思いますが。
水谷:
苦労と言われれば苦労かもしれませんが、夢中でやってきましたからね。やっぱり氣ですよ。気合いとか気迫とか。気合いや気迫があれば、流れを呼び込むことができるんですね。たとえば、東京へ出て、桑沢デザイン研究所という学校へ入ろうとしたんですが、とても難しいところで、ぼくの実力ではとても入れません。案の定、一年目は不合格。どうしたらいいかわからないので、2年目はひたすら自分の手のデッサンばかりやっていました。そしたら、その年の試験問題が「手の動きを描きなさい」でしたから。これしか合格できないというような問題が出るなんて奇跡的ですよ。その後も、有名な先生のところで働いたりしましたが、すべて気合いと気迫。金曜日に面接があって不合格になったのに、月曜日にはその事務所へ出かけて行って仕事をしていたこともあります。そのまま雇ってくれて、給料もくれましたから(笑)。

<後略>

(2010年3月11日 東京都港区にある水谷事務所にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『デザインが奇跡を起こす』(PHP研究所)
mizutani studio
http://www.mizutanistudio.com
メリー・プロジェクト
http://www.merryproject.com

清水 博(しみず ひろし)さん

1932年愛知県生まれ。東京大学医学部薬学科卒業。九州大学理学部教授、東京大学薬学部教授をへて、現在、NPO 場の研究所理事長(研究所長)。著書に、「生命を捉えなおす」(中公新書)「生命知としての場の論理」(中公新書)「場の思想」(東京大学出版会)など。

『場の文化によって現代の行き詰まりを打破する』

私たちは命の居場所で生きているのであって、一人で生きているのではない

中川:
はじめまして。今日は、先生の場の理論をお聞きしたくておうかがいしました。私どもは、生命エネルギーである氣という側面から生き方とか考え方を見直していこうという活動をしていますが、なかなか論理的に説明するのが難しいんですね。先生のように科学的な立場から、漢字についてちょっとお話させてください。漢字というのは、王様が神様と交信するために36世紀前に作られたという話です。陽という字のこざと偏は、梯子を意味しているんですね。そこから神様が降りてくる。そして、つくりのは、まが玉が台の上で光っている様子です。だから、陽というのは、神様が降りて来られて、そこで式典をするという意味です。土偏にで、「場」ですね。これは、式典をする場所のこと。偏にの「揚」は、人が神様を呼んでいる様子。木偏にの「楊」は木に旗を立てて神様を呼んでいる。さんずいにで「湯」ですが、これは川の側で式典をすることです。こうやって覚えると、漢字はとても面白いものです。「口」という字は、人間の口の形が元になっていると聞いたことがありませんか。でも、そんなのおかしいでしょう。四角い口なんかありませんよ。もうお亡くなりになりましたが、有名な漢字学者の白川静先生が、「サイ」という言い方で、口は祝詞を収める箱の形だと解釈されています。だから、古いという字は、十字の剣で祝詞や呪いを抑えていることを示しています。兄というのは、その家の中でももっとも大切な祝詞箱をもっている人を表しています。

<後略>

(2010年1月13日 東京都中央区にあるNPO法人 場の研究所にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『場の思想』 (東京大学出版会)
NPO法人 場の研究所 ホームページ http://www.banokenkyujo.org/

龍村 修(たつむら おさむ)さん

1948 年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。求道ヨガの沖正弘導師に入門、内弟子として国内外で活躍。1985 年導師没後、沖ヨガ道場長に就任。1994 年独立して龍村ヨガ研究所を創設。NPO 法人国際総合ヨガ協会理事長。著書に、「生き方としてのヨガ」(人文書院)「深い呼吸で体を癒す」(PHP研究所)「深い呼吸で心が変わる」(草思社)等がある。

『【真氣光研修講座20周年特別企画】 今は全国各地で開催! エネルギーの変化に応じて、講座の形も変わってきた 』

不思議なご縁から、下田で研修講座が始まることに

中川:
今回はちょっと趣を変えた形で対談を進めていきたいと思います。2010年3月で真氣光研修講座が20年を迎えます。そこで、今回のゲストには研修講座でおなじみの龍村修先生をお迎えしました。そして、下田や生駒のころには講師もやってくださっていた小原田さんに司会をお願いします。小原田さんは、何回目くらいから研修講座を見ておられますか? 体験を話していただいた後、進行もお願いできますか。
小原田:
3回目くらいから下田へ行っています。ずっと先代の随行取材をしていましたので、1時間半ほど先代の活動についてのお話を受講生の前でして、1泊か2泊して帰りました。それでも、見るもの、聞くもの、驚きばかりでした。特に、霊的な現象が当たり前のように起こっていたのは、慣れるまではいつも鳥肌ものでした。そのころは氣功師養成ということをうたっていました。私は、先代について歩いているうちに氣を出せるようになっていましたので、受講する必要はないと思っていたのですが、19回目に初めて受講してみたら、とにかく、毎日が新鮮で、自分が内側から変わっていくのがわかりましたね。画期的な講座でしたが、それがどうして下田で行われたか、不思議な縁がありました。龍村先生は、そのいきさつを詳しくご存じですので、お話いただけますか。
龍村:
20年もたちましたか。早いですね。先代は、セルソさんというブラジル人の医師に連れられて道場へやって来られました。セルソさんは、長年沖ヨガを学び、リオで自然医療のクリニックを開業していました。セルソさんは、先代がブラジルで行なったセミナーに参加して、ずいぶんと感銘を受けたみたいで、沖ヨガ道場を紹介したようです。先代は、氣功師を養成する講座をやりたいのだということをおっしゃっていました。アメリカツアーに一緒に行ったお弟子さんたちはみなさん手から氣が出るようになったそうです。しかし、しばらくするとできなくなってしまうので、合宿制の講座を計画しているのだけれども、研修所を貸してくれないかとおっしゃいました。ゆっくりとお話をうかがい、先代の人柄も医療氣功師を養成するという趣旨も、私にはすごく理解できることだったので、協力させていただきますということになりました。
中川:
それが89年の暮れですかね。そして、始まったのが翌年の3月。確か、沖ヨガさんのプログラムを使わせてもらったということでしたね。
龍村:
私たちも、いくつものプログラムがあって、そのうちの1週間のプログラムをもとに、1日に4回の真氣光を受ける時間と先代やゲストの先生方の講義などを入れたりしながら、研修講座のプログラムを作り上げていきました。
小原田:
読経があって、ジョギングがあって、それから朝ご飯、そのあとは講義や氣を受けたりヨガで体を動かしたりする時間があって、非常にバラエティに富んでいましたね。合宿後半には爪木崎という下田の名勝でご来光を拝んだりして、あっと言う間に一週間が過ぎてしまいました。
中川:
私は16回の講座に参加しましたが、さまざまな問題の原因は、外にあるのではなくて自分の中にあるのだと気づけたのは、自分の人生にとって大きな出来事でした。とても充実した1週間でしたね。朝、ジョギングから帰ってくると、みそ汁だけの朝ご飯、昼は玄米菜食、夜は麺類、量はいつも食べる半分以下でした。それでも、そんなに空腹感は感じなかったですね。先代は、「氣を取り入れているからお腹がすかないんだ」って言っていましたけどね。氣を生活の中に取り入れると、意識がどんどんと変わっていくのには驚きました。

<後略>

(2010年1月21日 つくばみらい市スターツ総合研修センターにて 構成 小原田泰久)

ゲスト・司会/小原田 泰久 (おはらだ・やすひさ) さん

1956年三重県生まれ。名古屋工業大学卒。1988年中国で先代と会って、氣の世界の取材を始める。先代のイルカとの意識交流にも同行。それをきっかけに、野生のイルカと交流するイルカの学校を始める。著書に「イルカが人を癒す」(KKベストセラーズ)「イルカみたいに生きてみよう」(大和書房)「犬と話ができる!」「植物と話ができる!」(広済堂出版)など。

久郷 ポンナレット(くごう ぽんなれっと)さん

1964年カンボジアのプノンペンに生まれる。ポル・ポトの暴政によって、両親と兄弟4人を失い、自らも強制労働下でマラリアにかかり死線をさまよう。80年に来日。88年日本人男性と結婚。2児をもうける。2005年母や姉妹が亡くなった場所で慰霊の儀式を行う。2006年には慰霊塔を建立。著書「色のない空」「虹色の空」(ともに春秋社刊)

『憎しみを鎮めるには、憎しみをもたないこと』

辛い思いをして亡くなった人たちのことを忘れていいのか

中川:
久郷さんの「虹色の空」を読ませていただきました。大変な体験をされてきましたね。大きな山を乗り越えられたという気がします。でも、こうやってお会いしたら、とても明るい方で、安心しました。
久郷:
ありがとうございます。明るさだけが取り柄なものですから(笑)。
中川:
久郷さんは、カンボジアのお生まれで、10歳のときに、ポル・ポト政権となって、いわゆる暗黒時代が始まるわけですね。家族9人が強制退去させられて、お父さんは強制退去の途中で連行され、お姉さんは病気で亡くなり、お兄さんも行方不明になった。そして、残った6人も、強制労働に従事させられて、お母さん、お姉さん、妹さんは殺されてしまった。2人のお兄さんとやっとのことで日本に来られて、命は助かったけれども、どんなにか辛かったか、想像するだけでも、胸が痛くなります。当時のカンボジアの状況を知らない人も多いと思います。辛い体験をこうやって本にされたことは、とても有意義だと思いますよ。体験しないとわからないことですから。
久郷:
ポル・ポトは、農民中心の社会を作ろうとしていました。だから、都市に住む知識階級と言われる人たちをことごとく弾圧したんです。私の父は国立図書館の館長だったし、母は女学校の教師だったので、彼らにとっては排除すべき存在だったんですね。まさか、あのときの辛い体験を、こうやって発表することになるとは想像もできませんでした。と言うのも、だれもが封印しておきたいと思うようなことですから。日本へ一緒に来た兄たちも、よく本にしたなと、感心していました。
中川:
本にまとめるという過程の中で、次々と辛かったことがよみがえってくるでしょうからね。時間が癒してくれると言うけれども、口で言うほど生易しいことではないと思いますね。
久郷:
両親や兄弟を含めて、亡くなった人たちのことを忘れていいのかと思いましたね。あれだけの人が犠牲になったのに、それでも相変わらず戦争は続いていますよね。私たちの死は何だったのと言っているような気がするんですね。全然、死が報いられていないじゃないかってね。でも、同時に、逆に、そんな恥ずかしいことをいまさら書かなくていいと言われるのではという不安もありました。葛藤でした。悩みましたよ。
中川:
お母さんが夢に出てこられて、それが大きな転機になったようですね。
久郷:
日本で子育てが一段落して、通信制の高校も卒業というときでした。2004年でした。ちょうど、時間ができたころで、ずいぶんとタイミング良く出てきたものだと思いましたね(笑)。2000年という区切りに、私も人生を変えないといけないと思っていました。家族も、私がどんな体験をしたかということを詳しくは知りませんでしたから、それをきちんと知らせておきたいという気持ちもあって、「色のない空」という本を書いたんですね。主人も息子も、何度も読んでくれましたね。息子は、「お母さんって生命力があるんだね」と感心していました(笑)。

<後略>

(2009年12月14日 久郷ポンナレットさんのご自宅で 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「虹色の空―“カンボジア虐殺”を越えて1975‐2009」(春秋社刊)

西舘 好子(にしだて よしこ)さん

東京・浅草生まれ。1980年代から劇団の主宰や演劇のプロデュースで活躍。30年間に及ぶ演劇活動、著作活動をへて、2000年に日本子守唄協会を設立。子どもたちへの文化の継承に力を入れている。著書は、「うたってよ子守唄」(小学館文庫)ほか多数。

『子守唄は親と子の命のコミュニケーションの始まりです』

子守唄は母親から子へ命を伝えていく貴重な宝物

中川:
はじめまして。西舘さんと子守唄協会のことはホリスティック医学の帯津良一先生からお聞きし、今の時代にとても重要なことをやっておられると思いまして、お話をおうかがいしたいということでお邪魔しました。今日は、よろしくお願い致します。
西舘:
そうでしたか。帯津先生のおっしゃっていらっしゃる「からだとこころといのち」をまるごと見る医学の根本は、私どもの考えと同じだと思います。この協会も10年を迎えて、その記念のイベントで帯津先生にお話をいただいたばかりなんですよ。
中川:
そうでしたか。この活動をやられて10年ですか。それはおめでとうございます。こういう活動を行うようになったのは、子守唄がなくなっているので、保存しようということからですか?
西舘:
なくなっているというよりも、忘れられているということでしょうかね。動物学者の先生もおっしゃっていますが、知恵を伝えられるのは人間だけだそうです。文明も文化も、進化しながら伝えられていきますよね。でも、伝えなければならないものが伝わりにくくなっているのが現代だと思うのです。10年くらい前でしょうか。幼い命が失われたり、子どもが残虐な事件に巻き込まれたりすることが目立ってきたころです。今では、その哀しい現象は日常化してしまっています。これはどうしたことか。つまり、命の根源というか、その命の大切さが伝えられなくなったことで、こんな嫌な世の中になってしまったのではと思うに至りました。それを突き詰めていったら、子守唄に行き着いたということなのです。
中川:
なるほど。世の中が物質的にとても豊かになって、心というものがどこかに置き去りにされて、いろいろな問題が起こっているということですね。子守唄と言えば、私も母によく唄ってもらったのを覚えています。子守唄が、母から子へと心を伝えていく手段になっているということでしょうか。
西舘:
会長は「氣」のことをなさっておられますね。私は、子守唄こそ「氣」だと思っているのです。アワアワアワと言って赤ちゃんをあやしますね。あれもお母さんが赤ちゃんに氣を送っているので昔からの知恵のたまものです。それを赤ちゃんが受けて、そこから生命力や生きるリズムをもらっているのではないでしょうか。
中川:
氣のお話が出てきて、うれしいですね。私もそう思いますね。お母さんが、赤ちゃんに「よしよし」ってするじゃないですか。あれも氣を送っているんだと私は思っています。そして、赤ちゃんは、かわいい笑顔で氣を送り返してきます。子守唄というのは、親と子の氣のやり取りですね。
西舘:
そうです。子守唄は、ダサいとか暗いとか悲しいとか古いと言われます。そんなものは捨ててしまっていいんじゃないかと思われる方もたくさんいるかもしれません。でも、命の根源から伝わってきているものというのはなかなかなくなるものではありません。子守唄というのは、母親から命と生きる力を伝えられる貴重なものだと思いますよ。決して、古いからいいということではなくて、古いものはそのエキスに貴重なものを温存しているのでどんな時代になっても形を変えて今に伝えられているのではないでしょうか。

<後略>

(2009年11月12日 東京都台東区の日本民族音楽協会にて 構成 小原田泰久)

DVDの紹介

子ども虐待防止のためのDVD『子守唄という処方箋-STOPザ虐待
カラー・ステレオ約24分、12Pカラーブックレットつき 1,500円(税込)
お問合せ・お申込みはインターネット(http://www.komoriuta.jp/
または、NPO法人「日本子守唄協会」事務局
まで 電話(03-3861-9417)またはFAX(03-3861-9418)

昇 幹夫(のぼり みきお)さん

1947年鹿児島生まれ。九州大学医学部卒業。高校の同期会で8人が 死亡(うち4人が医師)していることにショックを受け、働きすぎを改める ことに。現在、大阪で産婦人科の診療をしながら、「日本笑い学会」副 会長として、笑いの医学的効用を研究。著書に「泣いて生まれて笑って死 のう」(春陽堂 CD付き)「笑って長生き」(大月書店)などがある。

『笑うこと、泣くこと、人に話を聞いてもらうことで免疫は高まる』

笑顔教室で、笑顔や笑いの医学的な効用を話してほしいと言われた

中川:
昇先生は、笑いの効用をテーマに、全国で講演をされたり、本もたくさん出されていますが、お医者さんとしても医療現場で治療をしておられるんですよね。
昇:
しゃべってばかりいるように思われているみたいですが(笑)、私は麻酔科医であり、産科医です。きちんと仕事をしていますよ。医者になって38年、立ちあったお産は5000例以上、その間には、3万リットルを超える輸血をした体験もあるし、いろいろな修羅場を体験してきました。でも、赤ちゃんからは、たくさんのエネルギーをもらいましたね。
中川:
失礼しました。大変な数の講演をこなしているとお聞きしていたので、本職の方はどうしているのかなと思いまして(笑)。先生が、笑いをテーマにされたのは、どういうきっかけだったのでしょうか?
昇:
私は鹿児島生まれなので、人に笑われるなと言われて18歳まできました。そのあとは、福岡ですから、やっぱり笑われるなという風潮がありましたね。九州というのはそういう風土なんです。でも、大阪へ来たらまったく違うわけです。笑ってもらってなんぼじゃというところですから。ここで笑いの快感というのを知ったわけです。「受けた!」という快感ですね。あれは麻薬ですね(笑)。昭和61年でしたが、新聞に「笑顔教室ができて1年」という記事が出ていました。榎本健一(エノケン)という有名なコメディアンがいましたが、その人の弟子で近藤友二さんという方が始めたものでした。彼は営業マンをやっていて、仕事では笑顔が出るのだけれども、家へ帰ると「ふろ」「めし」「寝る」しか言わない生活で、奥さんともほとんど話をしなかったらしいんですね。これじゃいかんというので、笑顔の効用を説こうと教室を開いたんです。そこへ顔を出したのが、笑いにかかわるきっかけでした。
中川:
笑顔の効用ですか。でも、そのころはまだ笑顔とか笑いと医学というのは結びついていないですよね。そういうところに目をつけたというのは、先生の先見性ですね。
昇:
看護師さんなんか、すごく忙しくて、難しい顔をして仕事をしているわけですよ。それでは患者さんもうれしくないし、職場の雰囲気も悪くなるしね。笑顔はいいなと思ったんですね。笑顔教室に出てしばらくしたら、近藤さんから電話がありまして。笑顔がいいことはわかったけれども、どうしていいのか医学的にわかるだろうかと聞かれたんですね。3カ月後に医学的考察を話してくれないかと頼まれたんですが、医学的に笑顔とか笑いを語れと言われても、私たちは病気のことはさんざん勉強してきたけど、健康増進といったことはあまり知らないわけです。でも、頼まれたらやらないとね。

<後略>

(2009年10月23日 大阪 市中央区にあるマイドーム おおさかにて  構成 小原田泰久)

野上 ふさ子(のがみ ふさこ)さん

1949年新潟県生まれ。立命館大学文学部哲学科中退。1984年エコロジー社設立。エコロジー総合誌「生命宇宙」を創刊。1986年動物実験の廃止を求める活動。1996年、包括的な環境・動物保護団体「地球生物会議」を設立し『ALIVE』ほかを発行。著書に「動物実験を考える」「新・動物実験を考える」(ともに三一書房)などがある。

『命から宇宙まで。広い視野で動物保護を考え、行動する』

1本の残酷なビデオを見て、活動の方向性が決まった

中川:
はじめまして。野上先生は動物の保護を長年やっておられるということですが、私も人間はいつの間にか、生き物の頂点に立つものとしておごり高ぶるようになって、ほかの生き物たちを傷つけてしまっていると思っていました。そういう意味で、今日は先生のお話をお聞きするのが楽しみです。まずは、先生がどうして動物たちの保護を始めたのか、そのきっかけからお話をおうかがいできますでしょうか。
野上:
もともとは環境保護活動を長年やってきまして、1986年にはエコロジー社という出版社を始めました。海外では、西ドイツで緑の党ができるなど、暮らしと政治と環境問題を結びつけようという動きが盛んになってきたころでした。今では、日本でもエコロジーという言葉は浸透してきました。しかし、二酸化炭素とか廃棄物とか、物質的な意味合いでの環境問題が主流ですね。私は、環境の問題は、物質的なものを超えて、生命というものを中心的に考えないと、本当の解決の道はないと思っています。当時も、環境問題というのは、命から宇宙にいたるまで、広い視野で見ていく必要があると考えていたので、雑誌の名前を、エコロジー総合誌「生命宇宙」と名付けました。まだ、エコロジーという言葉が知られていない時代で早すぎたせいか、残念ながら、4号で廃刊になってしまいました。動物保護も新しく起こりつつあった活動のひとつで、1970年代から、動物の権利や保護の運動が世界的に広がっていました。そんなときに、イギリス人の大学の先生から1本のビデオをいただきました。その内容がとてもショッキングで、私のその後の方向性がそれによって決まったと言ってもいいかもしれません。
中川:
どんなビデオだったのですか?
野上:
もともとは環境保護活動を長年やってきまして、1986年にはエコロジー社という出版社を始めました。海外では、西ドイツで緑の党ができるなど、暮らしと政治と環境問題を結びつけようという動きが盛んになってきたころでした。今では、日本でもエコロジーという言葉は浸透してきました。しかし、二酸化炭素とか廃棄物とか、物質的な意味合いでの環境問題が主流ですね。私は、環境の問題は、物質的なものを超えて、生命というものを中心的に考えないと、本当の解決の道はないと思っています。当時も、環境問題というのは、命から宇宙にいたるまで、広い視野で見ていく必要があると考えていたので、雑誌の名前を、エコロジー総合誌「生命宇宙」と名付けました。まだ、エコロジーという言葉が知られていない時代で早すぎたせいか、残念ながら、4号で廃刊になってしまいました。動物保護も新しく起こりつつあった活動のひとつで、1970年代から、動物の権利や保護の運動が世界的に広がっていました。そんなときに、イギリス人の大学の先生から1本のビデオをいただきました。その内容がとてもショッキングで、私のその後の方向性がそれによって決まったと言ってもいいかもしれません。
中川:
どんなビデオだったのですか?
野上:
動物実験のビデオでした。閉ざされた研究室で、猿を使って、脳がどれだけの衝撃に耐えられるかという実験をしていました。ハンマーみたいな道具で、猿の頭を何度も何度もたたくんです。猿が脳挫傷で死んでいくまでの過程を記録したビデオで、研究者が自分たちの資料として撮影したものでした。それが外に出て、アメリカではテレビでも放送され、大騒ぎになっていました。動物実験に対する反対運動が盛んになるきっかけとなるビデオでした。
中川:
それはひどいですね。動物にも感情や心があることを忘れていますよね。
野上:
第二次世界大戦のときは、ナチスがユダヤ人を生体実験し、日本でも731部隊が捕虜を人体実験するなど、人間が人間に対して、とても残虐なことをやってきました。今では、そんなことは許されません。でも、よく考えてみると、戦後になって、かつて人間が人間にやってきたことを、今は動物に置き換えただけではないかという気がしてならないんですね。動物実験というのは、人間の利益のためなら、動物に何をしてもいいという考え方の極致だと思います。ビデオには、研究者たちが笑いながら猿を痛めつける映像が出ていました。良心の呵責などひとかけらもない様子でした。あれは、まさに人間が動物や自然に対して行っている暴力行為の象徴だと思いました。

<後略>

(2009年9月18日 東京都文京区にある「地球生物会議」事務局にて  構成 小原田泰久)

木村 秋則(きむら あきのり)さん

1949年青森県生まれ。78年ごろから無農薬、無肥料によるりんご栽培を模索し始める。約10年もの収穫ゼロという苦難の道をへて、ついに完全無農薬・無肥料のりんご栽培に成功する。その過程は、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介されて、大きな反響を呼ぶ。著書に、「自然栽培ひとすじ」(創森社)「りんごが教えてくれたこと」(日本経済新聞社)「すべては宇宙の采配」(東邦出版)がある。

『無農薬でのりんご栽培もUFO やあの世の体験も、私には同じように真実なのです』

大事なものは、目に見えないところにあると思う

中川:
お久しぶりです。この前に対談でお会いしたのは10年くらい前でしょうか(98年11月号)。あのときの写真を見ると、前歯はありませんでしたが、笑い顔には歯が映っていました。今はもう1本もないとお聞きしていますが(笑)。
木村:
きれいになくなりました(笑)。医者で胃の検査をしたら、胃壁が分厚くなっていると言われてな。かまずに飲み込んでいますから(笑)。
中川:
NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」に出られたのはおととしくらいですか?
木村:
2007年の12月かな。撮影は3ヶ月くらいかかってな。雨が降っても晴れても毎日来るからさあ。朝の5時半くらいには来ているわけ。毎日来られると少し疲れるな(笑)。
木村:
あれから日本中が木村さんに注目するようになって、本が出て、すっかり時の人になりましたね。絶対に不可能だと言われていた無農薬・無肥料でのりんご栽培に挑戦して、最初の畑を無農薬にしてから11年間、大変な苦労をされたというお話は、心打たれるものがあります。私も、あの番組を見て感動しました。その経緯は、「奇跡のりんご」(幻冬舎)という本に詳しく出ていますが、今度、「すべては宇宙の采配」(東邦出版)という本を書かれましたね。宇宙人のこととか、幽霊のこととか、龍のこととか、一般的にはかなり怪しいと考えられていることを書かれていて、思い切ったことをしたなと思いましたが、抵抗はなかったですか?
中川:
賛否両論だな。イメージが壊れるとか、なぜあんな本を出したとか言う人もいたし、逆に、よくぞ書いてくれたって喜んでくれる人もいたり。反応は見事に別れたな。だけどさあ、私は見えない世界が大事になっていると思うのな。スピーチを頼まれるとよく言うんだけど、みなさん、私はあなたを愛しているというとき、5kg愛していますとか、10kg愛していますという会話をしますかって言うのな。愛ははかりでは計れないんですよ。りんごの木でも米でも、土の中は見えないのな。今は、見える部分だけで話しているような気がするのな。大事なものは、目に見えないところにあると思うな。
木村:
そのことは前回もおっしゃっていました。りんごの木も根が大切なんだと言われていたのがとても印象に残っています。私の父も、見えない世界の大切さを、氣という見えないエネルギーを通して訴えようとしていました。私も、その跡を継いで、目に見えない世界の大切さを伝えていきたいと思っているわけです。
中川:
思いは大きなパワーだって思うのな。人間って、窮地に陥ったときに、思いのパワーが最大限に出ると思うな。火事場の馬鹿力みたいなな。生活費を稼ぐため長距離トラックの運転手をしていたときな。10トン車で仏壇を運んでて、きちんとした国道を通れば良かったのによお、近道をしようと山越えをしたのな。兵庫県の加古川に向かっていたときな。場所は岐阜県の神岡鉱山だったな。下り坂で、ブレーキのホースが破れてブレーキがきかなくなったのな。最初はサイドブレーキで坂を下ったけど、サイドブレーキも焼き切れて、急坂を必死で運転したのな。赤信号でも止まれなかったし、急カーブもあったし、一瞬でも間違えばもう死んでしまうという状況な。そのときは、トラックに「頼む」って念じたな。何とか縁石に乗り上げて止まったけどな
木村:
テクニックではなくて思いの力で助かったわけですね。まだ、りんごもできていないし、そんなところで死ぬわけにはいかないですからね。
中川:
止まった場所が、偶然にも、修理工場の前だったわけ。午前1時ごろだったけど、修理工場にまだ残っている人がいて、すぐに修理してもらえてな。あのまま崖から転落して死んでいたらりんごも作れないわけさ。何か、目に見えない力が、私を導いてくれたとしか思えないのな。

<後略>

(2009年8月18日 青森県弘前市の木村さんの自宅近くの喫茶店にて  構成 小原田泰久)

一柳 廣孝(いちやなぎひろたか(いちやなぎ ひろたか)さん

1959年生まれ。名古屋大学大学院博士課程満期退学。横浜国立大学教育人間科学部教授。近代日本における霊や無意識の受け止め方を、文化・文学という側面から研究している。著書に、「霊を読む」(共編蒼丘書林)、「『学校の怪談』はささやく」(編著青弓社)などがある。

『夏目漱石や芥川龍之介も霊的なことに興味があった』

子どもは怪談が好き。学校の怪談の本が600万部も売れた。

中川:
先生のことは、1年以上前ですが、読売新聞の「スピリチュアリティの探求者」という連載で拝見しまして、とても興味をもちました。「霊を読む」という本も拝見しまして、こういう学問もあるんだと、驚かされ、ぜひお話をおうかがいしたいと思った次第です。文学研究で、霊をテーマにしようというのはあまりないことだと思いますが、どうして霊を研究対象にされたのか、すごく興味があります。まずは、そこからお聞かせください。
一柳:
もともとは、普通の文学研究をしていたんですよ(笑)。でも、夏目漱石とか芥川龍之介を読んでいますとね、彼らの作品には、霊的なことがチラチラと出てくるんですね。従来の文学研究では、そんなのはノイズ扱いで、研究の対象にはなりません。しかし、あれだけの文豪がどうして霊的なことに興味をもったのか、そこに、私の興味がつながっていきまして。それが、きっかけといえばきっかけですね。
中川:
そうですか。夏目漱石や芥川龍之介の作品に、霊的なことが出てくるんですか。
一柳:
たとえば、漱石の短編「琴のそら音」には、出征した夫の鏡の中に、妻が現れます。妻は夫の留守中にインフルエンザで亡くなってしまったので、お別れに来たというわけです。ほかの作品でも、テレパシーのことが出てきたりしています。芥川龍之介にも、「近頃の幽霊」という随筆があります。彼らも、けっこうこういう世界が好きだったんじゃないかなと思いますね。
中川:
霊的なものへの興味は、時代を超えてあるのだと思いますね。今も、スピリチュアルブームと言われていますし。
一柳:
怪談というのは、だれもが好きですね。江戸時代には、百物語というのがありましてね。一種のイベントですよ。怖い話を100話するわけです。ろうそくを100本灯しておいて、1話終わるごとに消していくわけです。99話が終わると、ろうそくはあと1本。そして、100話目が終わると、ろうそくが全部消えて真っ暗になり、そのときに何か不思議現象が起きるというものです。これは、明治時代になっても行われていました。現代では、実話怪談ブームというのがありまして、実際にあった怖い話をまとめた本がずいぶんと売れました。これも、百物語のひとつかと思います。話も100話にせず、99にとどめてあったりします。不思議現象が起こると困りますから(笑)。90年代の半ばには、学校の怪談ブームというのがありました。いくつかの出版社から出されましたが、全部を合わせると、600万部が出ました。半端な数ではないですね。
中川:
600万部ですか。子どもたちは、怪談を読んで育ってきたわけですね。子どもは怖い話が好きですからね。
一柳:
子どもたちは、そういう本やそれが映画化されたりアニメ化されたものを見て、この世は目に見える部分ばかりではなくて、目に見えない部分と重なり合っているんだということを学習しているところもあると思います。
中川:
でも、成長するにつれて、目に見える部分の比重が大きくなってくるのでしょうかね。先生が教えておられる学生さんなんかどうですか?
一柳:
かつては、大人になると、見えない部分は押さえ込まれることがあったと思いましたが、今は、科学的なものは大事だけれども、そうじゃないものも認めていいのではという重層構造になっているのではないでしょうか。明治以降、科学的合理主義を上から押し付けられて、江戸時代とは枠組みがまったく変わってしまいました。しかし、みんながそれに納得していたかというと、そんなことはなくて、心の奥底には古代から続いている霊魂観や神霊観が残っていて、時代時代によって、それが、形を変えて出てくるということを話すと、学生たちは納得して話を聞きます。霊的なものがあるとかないではなくて、私たちの思いとか感覚を作っている文化として考えると、学生たちもそうだし、学問としても受け入れられやすくなりますね。学問の俎上に乗っけるときは、霊があるかないかという立て方はしません。人が霊的なものがあると信じる背景にはどういう力学が働いていて、それがどうつながって、ブームになっているのかということを考えていきます。たとえば、宮沢賢治に霊能力があったかどうかという話は、文学研究としては意味をもちませんが、彼が特殊な感性で感じ取ったものをどうやって文学として表現したかということになれば、それは立派な学問となるわけです。

<後略>

(2009年7月23日 横浜国立大学教育人間科学部研究室にて 構成 小原田泰久)

野上 照代(のがみ てるよ)さん

1927年東京生まれ。1950年、『羅生門』の撮影のために太秦にやって来た黒澤明監督に、スクリプターとしてつくことになり、以来、『白痴』以外のすべての黒澤作品にかかわる。1984年「父へのレクイエム」で第5回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞の優秀賞を受賞。同作を原作として制作された映画『母べえ』が2008 年1月に公開される。著書に『天気待ち 監督・黒澤明とともに』『蜥蜴の尻っぽ』がある。

『母べえは、がまん強くて、愚痴も言わずによく働いた』

女性ヒューマンドキュメンタリー大賞を受賞

中川:
今日は、氣という得体の知れない話にお付き合いいただきますが、どうぞ、よろしくお願いします。
野上:
確かに得体が知れないかもしれません(笑)。私には別世界でわからないことだったから、この対談も、一度、お断りしたんですね。失礼しました。送っていただいたバックナンバーを拝見したら、佐藤愛子先生も出てらして。愛子先生は、私にとっては恩人なんですよ。
中川:
ハイゲンキという氣を中継する機械がありましてね。普通は機械から氣が出ると言っても信じてもらえないんですが、佐藤先生はそういうこともあるかもしれないと、すぐに理解してくれました。
野上:
(ハイゲンキの写真を見て)これね。何だか、録音機械みたいね(笑)。これから氣が出るの?私は即物的な人間だから何だか信じられないわね(笑)。でも、愛子先生が、あんなにすばらしい小説をお書きになるのは、氣の力が応援しているからかしら。
中川:
私どもがやっている真氣光を創設したのは私の父なんですが、父は、夢でいろんなことを教えられたと言っていました。それも氣の応援かもしれません。当初は皮膚を集合針で刺激する治療器を売っていたのですが、それだと皮膚を傷つけて血が出たりしますから、エイズや肝炎がうつるのではという懸念があって、どうしたらいいだろうと思っていたら、86年に夢を見て皮膚に傷がつかない構造のハイゲンキを作りました。次に、88年ですが、今度は夢で、ハイゲンキが効き過ぎて弾圧されるから、明日から手から氣を出してみろと言われたみたいで。白いひげの老人が出てくるって言うんですね。 そしたら、本当に氣が出せるようになり、その後、ハイゲンキが薬事法違反ということになりましてね。最初は、効かないものを効くと言って売っているということで詐欺罪と言われたらしいんです。ところが、買った人はみんな元気になって喜んでいましたから、詐欺罪は適用にならなかったんです。私も、機械から氣が出るなんて信じられなかったし、わが親父ながら変なことやってと思っていましたよ(笑)。野上さんは、佐藤先生が恩人だと、さっきおっしゃいましたが。
野上:
そうそう。会長は、『母べえ』を読んでくださったんですね。あれは、1984年の第五回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞で、優秀賞をいただいた作品です。そのときの選者に愛子先生がいらしてね。先生が選んでくださったおかげで、賞金の500万円をいただきました(笑)。応募資格が女性だけなので、それだけで半分は得でしょ。それに、賞金1000万円に目がくらんでね(笑)。ちょうど、『影武者』という映画が終わったところで、次の仕事がないころだったから、ありがたかったですよ。悔しいのは、優秀賞に柴田亮子さんの「かんころもちの島で」と私の作品が選ばれたので、賞金も半分になったこと。500万円でいいじゃないかとみんな言うけど、違いますよね(笑)。5人くらい選者がいて、反対した人もいたけど、私はあなたのが一番いいと思ったのよって、パーティのときに愛子先生から言っていただきました。主催者が狙っていたテレビドラマの原作という面では、私の作品は地味でしたから、愛子先生が押してくださったおかげで受賞できたのだと思っています。
中川:
確か、もともとの題名は「父へのレクイエム」で、お父さんが拘留されたときの家族との往復書簡がもとになっているんでしたよね。
野上:
思想上の理由で、何度も検挙され、1940年には拘置所に入れられました。保釈されるまでの8ヶ月くらいの間、家族と手紙のやり取りをしていて、それを大切に保存してあったんですね。戦後、父はそれを整理して大学ノートに書き写していました。父の書斎には、赤字で「非常持ち出し」と書かれた汚い紙袋が10袋くらい置いてありました。その中の一つにその大学ノートがありました。前から読んでいて、貴重なものだから残しておきたいと思っていたので、それをもとに急いで書いた作品なんです。
中川:
言論の自由がない時代だったじゃないですか。お父さんの活動を見ていると、そういう制約のある時代に一生懸命にやっていますよね。私たちは、今のような自由な時代に何も発信しないのはどうなんだろうと思ってしまいます。自由に発言できる時代になったのも、お父さんのような人たちがいたからこそだということを知れば、意識が変わっていくはずですよ。

<後略>

(2009年5月18日  東宝スタジオにて  構成 小原田泰久)

佐藤 初女(さとう はつめ)さん

1921年青森県生まれ。小学校教員、染色工房主宰をへて、83年に 自宅を開放して『弘前イスキア』を開設。92年に岩木山麓に『森の イスキア』を開く。95年に公開された『地球交響曲第二番』で活動 が紹介され、全国の人の共感を呼んだ。『森のイスキア』主宰。著 書に『おむすびの祈り』『初女さんのお料理』などがある。

『毎日の食事を正しくしていれば、苦しいことも乗り越えることができる』

若い人たちは迷っている。相談できる大人がいない

中川:
ごぶさたしています。前に先生と対談させていただいたのは、12年も前のことになります。あのときは、森のイスキアへおうかがいして、おいしいお食事をいただいて。ありがとうございました。
佐藤:
そうですか。12年にもなりますか。確か、あのときはすごい雷があって、停電したのを覚えていますね。
中川:
そうでした。だから、余計に印象に残っています。先生がろうそくをもって来られて、雷のおかげで、忘れられない対談になりました。
先生もお元気そうで、お会いできてとてもうれしいですよ。
あれから、森のイスキアも変わりましたか。
佐藤:
建物の裏に杉林があったのを覚えてらっしゃるでしょうかね。あそこをね、間伐して、散策したり瞑想のできる場所にしました。バーベキューもできます。小さな森と名づけましてね。
会長さんが来られたときには、大きな石はありましたでしょうか。25トンの石です。たぶん、まだなかったと思いますから、12年でずいぶんと変化したんじゃないでしょうか。
中川:
そうですね。そんな大きな石は見ていませんね。
佐藤:
対談の後、東京で会員の皆様にお話をさせていただいたし、生駒も行きましたね。おむすびを作りました。
中川:
会員の皆様も、とても喜んでいました。その後、イスキアツアーを組んで、みんなでおうかがいしました。
佐藤:
会長のご自宅へもお招きいただきまして、本当に懐かしいですね。会長も、貫禄がつきましたね。お元気そうで。
中川:
いやいや、みなさんに助けられながらやっています。
今回は、1週間ほど東京に滞在されているということで、またお会いできる時間を作っていただいて、ありがとうございます。いくつか講演が入っているのですか。
佐藤:
昨日は、聖心女子大での講演がありました。あと、川越と和光ですね。
中川:
全国どころか、海外からも講演の依頼があると聞いています。各地でいろいろな方にお話していて、何か、先生が気になるとか、感じることはありますか。
佐藤:
そうですね。若い人たちが多くなってきましたね。
今は、講演会のとき80%が若い人です。年齢が下がっていますね。20代の方も増えてきています。
私には、若い人には希望があると思えます。迷っているのだけれども、ただ迷っているのではなくて、自分の進む道を見極めたいということで迷っているからです。ただいたずらな迷いではないですね。
今やっていることがいいのか、それとも別の道があるのか、話してその答えをもらいたいと思って、講演に足を運んでくれるんですね。
若い人たちは、なかなか答えを出してくれる大人に出会えないと言っていますね。はっきりと方向を示してくれれば考える。そういう感じですかね。
私は、今というこのときを大事にするようにとお話しています。
中学生であっても高校生であっても大学生であっても同じ悩みをもっているように思います。

<後略>

(2009年5月14日  小さな森 東京(吉田俊雄様宅)にて 構成 小原田泰久)

原田 真二(はらだ しんじ)さん

1977年「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。3ヶ月連続でシングルを発売し、その全てがベストテン入りする。翌年発売されたファースト・アルバム「Feel Happy」はオリコン初の初登場1位を獲得。他アーティストへの楽曲提供、プロデュース、CFソング、ミュージカル、NHK教育テレビのエンディングテーマ制作、小学校の校歌制作、心の環境整備をうたったチャリティー「鎮守の杜コンサート」を開催するなど幅広く活動を展開。国連本部をはじめ欧米・フィリピンでの活動も行い、「愛と平和」の大切さを音楽を通じ地球上に届ける活動を展開している。

『やさしい気持ちや平和への思いを音楽を通して復活させたい』

音楽も氣。歌い手の思いがエネルギーとして伝わる

中川:
はじめまして。と言っても、私の方はよくテレビで拝見していましたので、初対面の気がしないんですが(笑)。私のイメージだと、原田さんは、ニューミュージック系であり、アイドルという存在ですね。
原田:
テレビを使って出たので、アイドルとしてのイメージが先行したような気がします。おかげさまで、華々しいデビューでした。3曲を1ヶ月おきに出して、デビューアルバムも、いきなりチャート1位でした。初めてのことだったらしいですね。でも、ぼくはそれを望んでいたわけではなくて、デビュー当時から、生まれ故郷の広島のことをメッセージとして発信したいと思っていました。
中川:
広島というと、原爆のこととか、平和のことですね。
原田:
ぼくは、原爆ドームの川をはさんだ向かい側の小学校へ通っていました。広島では、ほとんどの小学校で原爆のことを習っています。だから、中学生になって音楽を始めたときも、原爆のことをメッセージとして発信するのは、ぼくにとっては、当たり前のことだったんです。
中川:
でも、デビューして、一気に売れたわけですから、なかなか自分のやりたいことをやるというわけにはいかなかったんじゃないですか。
原田:
全然できませんね。曲を作る時間もないし、このままではダメだと思いました。それで、コンサート中心の活動をしたいと思って、思い切って独立しました。それからが、イバラの道でしたが(笑)。でも、大変な道を選んで良かったと今では思っています。痛みとか苦しみといったものも知ることができましたし。
中川:
自分の音楽を追求できるようになったわけですからね。
原田:
活動内容はそんなに変わってないのですが、見られ方が違ってきましたね。ぼくは、ずっとやさしい気持ちや平和の思いを音楽で復活させたいという望みがありましたから、それがやっとできるようになったかなという段階ですね。
中川:
私は、父が始めたことですが、氣という生命の根本になっているエネルギーを前面に出して仕事をしてきました。みんなが氣をもっていて、氣は心の持ち方によって変化するんだということを父はずっと言っていました。だから、心の持ち方は大事なんだよというメッセージを、父の代から20年以上、発信しています。私は、音楽も氣だと思っています。詞や曲に乗せられた見えないエネルギーが、音楽を聴く人の心に届けられて、そこで心が変化していき、氣も変化していくのではないかと考えているんですね。氣というと特殊なもののように思われてしまって、敬遠されることもありますが、音楽だったら、だれもが受け入れられます。だから、音楽を通して氣を発信するというのは、私はすごくいいことだなと思っているんですね。
原田:
ぼくも、音楽を波動とかエネルギーとしてとらえています。歌詞がどうかということよりも、作った方や歌い手がどういう思いでそれを伝えようとしているかが、音楽のエネルギーになるのだろうと思うんですね。だから、音楽というのは、人の意識にエネルギーを届けるためのすばらしいツールという感じでしょうか。好きなアーティストの曲を聴いて元気になったり、悩みが吹き飛んだりすることは、よくありますからね。民族や宗教や政治を超えて、直接人の心に飛び込む力をもっているものだと思っています。

<後略>

(2009年4月1日 東京日比谷 松本楼にて 構成 小原田泰久)

多田 千尋(ただ ちひろ)さん

芸術教育研究所所長。東京おもちゃ美術館館長。1961年東京都生まれ。明治大学法学部卒業後、モスクワ大学系属プーシキン大学に留学し、幼児教育、児童文化、おもちゃなどを学ぶ。20年にわたり、乳幼児から高齢者までの遊び文化・芸術文化および世代間交流の研究と実践に取り組んでいる。『遊びが育てる世代間交流』(黎明書房)など著書多数。早稲田大学講師。

『おもちゃはコミュニケーションを豊かにする生活道具』

人間が初めて出あう芸術はおもちゃだ

中川:
はじめまして。ここはもともと小学校だったんですね。かつての小学校に木のおもちゃという組み合わせはとてもフィットしていますよ。すごく温かみがあって。ほっとする空間ですね。それにしても、ずいぶんとたくさんの人が来られていましたね。
多田:
ありがとうございます。ここへ移ってきて約1年ですが、来館者は約8万人です。一番多い層が0歳から8歳の子どもさんを連れたファミリーです。ファミリーの人に来ていただいて、いろいろと感じて帰っていただきたいと思っていましたので、今のところ目論見どおりです。中川会長は、氣という私にはあまりなじみのない世界で活躍されているようですが、具体的にはどのようなことをやっておられるのですか?
中川:
もともとは父が始めたことです。夢を見て氣が出るようになりまして。よく氣は心と言いますが、私たちが生きる上で、心のもち方はとても大切で、心のもち方が変わればだれでも氣を出せるようになると、1週間の講座を始めました。講座では、この世は物質だけでできているわけではなくて、実は見えない世界のエネルギーこそ本質なんだということを伝えていました。氣を受けると、体が動いたり、病気が回復したりと、不思議な現象が起こります。その体験によって、多くの人が氣の存在を認めるようになります。そして、氣のことを深く理解して心を豊かにすれば、氣も出るようになるということで氣功師を養成していました。実際、その講座でたくさんの氣功師が誕生しています。父は95年に亡くなりました。今は、私が跡を継いで、氣の研修講座を開催したり、氣のグッズを開発したりしています。
多田:
そうでしたか。実は、東京おもちゃ美術館も、私の父が始めたものです。父は、美術教育の専門家で、小学校や中学校の図工や美術の先生を指導するという仕事をしていました。あるとき、ヨーロッパへ行きまして、向こうのおもちゃを見て感動して帰ってきたんです。何気なく出窓やピアノの上に置いてあるおもちゃや赤ちゃんのガラガラのデザインがすばらしいというわけです。人間が生まれて初めて出あうアートはおもちゃだと、興奮して帰ってきたみたいですよ。それがきっかけで、おもちゃ集めが始まって、おもちゃ美術館が作られるということになりました。もっと大きくしていくんだと張り切っていましたが、13年ほど前に64歳で亡くなりました。会長と同じように、私が跡を継ぐことになりました。本当は継ぎたくなかったんですが(笑)。
中川:
私も継ぐつもりなんかなかったんですけど(笑)。もともと電機会社の技術者でしたから。ストレスで体調を壊したことで父のやっている講座を受けたら驚くほどの効果があったし、言っていることも心に響きましたし、これはすごいかもしれないと父の手伝いをするようになりました。氣のことなど、大して理解していないうちに、父が亡くなって、訳もわからず会長になって、右往左往の日々でしたよ。
多田:
私も、8年くらいしか父と一緒に仕事をしていませんでしたし、自覚もなく代表にさせられてしまいました。何だか、境遇が似ていますよね(笑)。

<後略>

(2009年3月24日 『東京おもちゃ美術館』にて 構成 小原田泰久)

小出 裕章(こいで ひろあき)さん

1949年東京都生まれ。東北大学工学部原子核工学科卒業。同大学院修了。京都大学原子炉実験所助教。原子力の専門家という立場で、原子力の危険性を訴え続けている。著書に「放射能汚染の現実を超えて」(北斗出版)「原子力と共存できるか」(かもがわ出版・共著)などがある。

『原子力をやめさせるために自分の知識を使いたい』

原子力は本当に未来を支えるエネルギー?

中川:
私どもは、「氣」という生命の根源と言われているエネルギーを扱っています。氣というと実体がなくて、怪しげなものととらえられていますが、氣に代表されるような何か目に見えないエネルギーがあることを前提に生きていくと、生き方そのものがとても豊かになってきます。しかし、それは霞を食べて生きていくということではなくて、現実生活をいかに正しく見て、適切な行動がとれるかということがとても大切だと思っています。そういう意味で、月刊ハイゲンキでも、原子力の問題は何度も取り上げています。本当に原子力は安全なの?必要なの?ということを、みんなで考えていくことがとても大切なのではと、問題提起をしているわけです。私は、原子力は、とても危険なものだと感じています。しかし、危険を感覚としてとらえるのも大事だけれども、私はもともとは技術者ですので、きちんと科学的な裏づけのもとで危険を語りたいと思っています。そのために、今日は、先生にレクチャーを受けに来た次第です。よろしくお願いします。
小出:
わざわざお越しくださってありがとうございます。私は、氣については門外漢ですが、原子力の危険性について興味をもってくださっている方は、大歓迎です。何でもお聞きください。
中川:
ありがとうございます。原子力の専門家というと、どうしても原子力発電所を推進する立場にあると思ってしまうのですが、先生が原子力の危険性を語るようになったのは何かきっかけがあったのでしょうか。
小出:
私は、進学先として、東北大学工学部原子核工学科というところを選んだのですが、その動機は原子力をやりたかったからです。1968年に入学しましたが、このころというのは、原子力こそ未来の人類を支えるエネルギーともてはやされていた時代です。私も、原子力に夢をもって入学し、少なくとも最初の1年間は、1時間も休まず授業に出て、勉強にまい進しました。そのころ、東北電力が原子力発電所を作ろうとしていました。女川という世界三大漁場と言われる三陸の豊かな海のあるところに建てるという計画でした。しかし、日本中、原子力には賛成だというムードの中、女川では反対運動が起こったんですね。私はどうしてだろう?と疑問に思いました。いろいろと調べてみると、彼らは、発電所をどうして電気の消費地である仙台ではなくて、100キロも離れた女川へ作るんだと指摘していました。私もその答えを探し求めました。そしてわかったのが、今から思えば当たり前なのですが、危険だから過疎地に押し付けるということだったんですね。
中川:
国や電力会社は、盛んに安全性を強調していますけど、それなら東京とか大阪とか、大都会の真ん中に原子力発電所を作ればいいと思いますよね。
小出:
当時は、大学闘争で、大学とは何か、学問とは何かが問われていましたが、私は女川の件で、その答えを見出しました。自分のやっている原子力工学というのがいわれのない犠牲、しわ寄せの上に成り立っていることに気づいたんです。それを支えているのが学問だった。それに気がついたときに、私としてはとるべき道はひとつしかなくて原子力をやってはいけない、これをやめさせるために、自分のもっている知識を使いたい。そう決意したんです。

<後略>

池川 明(いけが わあきら)さん

1954年東京生まれ。帝京大学医学部大学院卒。医学博士。上尾中央総合病院産婦人科部長を経て、1989年に池川クリニックを開設。胎内記憶の研究の第一人者。著書に「胎内記憶」(角川SSC新書)「ママ、さよなら。ありがとう」(リヨン社)「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社)などがある。

『胎児にも意識や記憶がある。もっと魂を見る出産を』

胎児の心臓の部分は温かく感じる

中川:
先生には、2003年に「出産と氣」という特集で月刊ハイゲンキに登場いただいています。お母さんのお腹の中の赤ちゃんにも意識や記憶があるという話、興味深く読ませていただきました。先生は、産婦人科のお医者さんですが、氣のことにも深い理解があって、ハイゲンキをクリニックに置いてくださっているそうですね。私は、赤ちゃんというのは、とてもすばらしい氣をもっていて、お父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに、いろんなことを教えてくれているんだと思うんですね。そういう意味で、先生のやっておられることにすごく関心をもっています。今日、こうやってお話をうかがえるのをとても楽しみにしていました。
池川:
ありがとうございます。わざわざ遠くまでお越しくださって恐縮しています。会長のことは、月刊ハイゲンキを読ませていただいていて、こうやってお会いできるのがうそみたいです(笑)。ハイゲンキは、分娩室と外来に置いてあります。妊婦さんにはどういうものかは話していませんが、知らないうちに氣を受けてくださればと思っています。心強い味方ですよ。
中川:
置いてあるだけでまわりの人たちは心も体もリラックスできて、すごい思い込みやこだわりがある人でも、氣を受けているうちにどんどんと変わっていくんです。もちろん、お腹の中の胎児や生まれたばかりの赤ちゃんも感じ取っているはずですよ。胎児の記憶とか意識とか、そういうことに興味をもたれたのは、どういうきっかけがあったのですか?
池川:
氣に興味をもったのと同じくらいの時期でした。1999年くらいですから、もう10年になります。¥r¥nある友人の医師から、『氣のことわかりますか?』と質問されて、いろいろと話をしているうちに、『先生、氣が出ていますよ』と言われたのがきっかけで、氣に関心をもちました。手がしびれませんかって聞かれましてね。それまで太極拳をやっていて、手がしびれるような感覚は体験していました。ああ、あれが氣なんだという感じですね。そんなときに、鍼灸師さんや氣とかかわっている人たちから、赤ちゃんには記憶があるとか、赤ちゃんはたくさんの氣をもっているといった話を聞くわけです。大学ではそんなことは習いませんから(笑)、本当かなと思いながら、氣のことや赤ちゃんの記憶についてどんどんと興味が出てきて、ハイゲンキの話を聞いたときも、すぐに欲しいと思って、池袋のセンターへ買いに行ったわけです(笑)。
中川:
私も、お腹の中の赤ちゃんは、氣でお母さんやまわりの人たちに何かを伝えていると思うのですが、何か実感されたことはありますか。
池川:
最初、真似事で妊婦さんのお腹に手をかざしてみました。数センチ離れたところに手を置くんですね。そしたら、妊婦さんが温かい感じがするって言うんですね。それで気を良くして何度もやっているうち、ある部分で温かさを感じるようになりました。エコーで調べてみると、そこは心臓だったんです。温かくて私の手をはじき返すようなエネルギーを感じたときには赤ちゃんはとても元気です。一度だけ冷たく吸い込まれるような感じがしたことがありました。夜中にお腹が痛くて来られた方でした。ストレスがあるような気がしたので、聞いてみると、さっき夫婦喧嘩をしたって言うんですね(笑)。夫婦喧嘩をするとお腹が冷えて、赤ちゃんは小さく縮こまってしまうようですね。お腹の中で寒い思いをしているんじゃないでしょうか。
中川:
きっと、敏感にお母さんのストレスを感じ取っているんだと思いますね。お母さんの氣が赤ちゃんにも伝わるんでしょうね。氣を知る前も、ストレスとお腹の中の赤ちゃんの関係なんかを感じたこともありましたか。
池川:
いや、まったくそんなことは考えませんでした(笑)。そもそも、産科が面白いと思ったのは、すごく理詰めでお産が説明できるからでした。たとえば、骨盤の大きさや格好によって、どんなお産になるか説明できるわけです。科学的に説明できるから、気持ちがすっきりするんですね。でも、開業して、助産婦さんにもいろいろと話を聞くようになって、お産はそんなに浅いものではないということがわかってきました。人によって違うんです。中には、途中で引っ込んで行く赤ちゃんもいるんです。子宮の出口も閉じてしまって、一休みというのがあります。普通はそこで帝王切開してしまうわけです。助産師さんに聞くと、これは待っていれば生まれるから大丈夫と言われる。大丈夫かなと思っていると、ちゃんと生まれる。そんな場面を見せられると、経験と勘というのはすごいなと思いますね。
中川:
現場で場数を踏んでわかったことがいっぱいあったわけですね。でも、一休みするというのも、何か意味があってのことなんでしょうね。その意味を考えずに、手術で取り出してしまうというのは、赤ちゃんにとっては不本意なことになりますよね。
池川:
生まれてこないのは、生まれる時期じゃないから休んでいるんだよねと思うんですよ。そう考えれば、今は赤ちゃんが休んでいるから、お母さんも少し寝たらどうと言えるわけですよ。そしたら、しばらくして陣痛がらね。帝王切開しなくても、スムーズに生まれますよね。私の思い込みかもしれませんが、少なくとも、私がかかわった妊婦さんには、赤ちゃんには意識があるし、目に見えない力が応援してくれていると思ってもらえればと思います。そうすれば、元気いっぱいで生きられるんじゃないかな。
中川:
まったくその通りだと思います。でも、胎児に意識があるなんてことは、ほとんどの人が考えないし、怪しい話をしていると思うわけでしょ。よくそういう世界に足を踏み入れて、それを実際の現場で実践してこられたと思いますよ。真氣光でも、先代がだれでも氣が出せるんだと一週間の研修を始めましたが、これもだれも言っていないし、もちろんやっていないことでしたから、ずいぶんと風当たりが強かったようです。どんなことでも、前例のないことを言ったりやったりするのは生半可な気持ちではできません。先生の勇気には感服しますね。大変だっただろうと思いますよ。

<後略>

(2009年1月14日 横浜市金沢区 池川クリニックにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

池川先生の著書「ママ、さよなら。ありがとう」(左)と「胎内記憶」(右)

坂本 小百合(さかもと さゆり)さん

横浜市出身。横浜雙葉学園高校卒業後、明石リタの芸名で、ファッションモデルとしてデビュー。モデル引退後、動物プロダクションを経営。平成8年、私設の動物園「市原ぞうの国」をオープン。著書に「ちび象ランディと星になった少年」(文藝春秋)「ゾウが泣いた日」(祥伝社)ほか。

『息子の遺志と自分の夢。ぞうの楽園計画が着々と進行中!』

20年という短さだったけど中身は濃かった

中川:
すごい竹林ですね。こんなところに建物があるとは思いませんでした。道路からはまったく見えませんでしたから。動物園まで行ってしまいました。でも、静かでいいところですね。坂本さんの隠れ家ですか。
坂本:
昨年、引っ越すから買ってもらいたいと言われて買ったんです。どうしようもない竹やぶだと思っていたけど、こうやって手を入れるといろいろ使えそうになってきました。この間、この部屋で息子の17回忌をしました(部屋の奥に祭壇があって、そこに大きく伸ばした哲夢さんの写真がある)
中川:
この方が哲夢さんなんですね。もう17年になるんですか。映画(「星になった少年」)を拝見しました。うちのスタッフもみんな見ていて、すごくいい映画だったと言っていました。ゾウと人との交流はとても心が温まりました。悲しい結末が待っていましたけど、それで終わりではなくて、哲夢さんの思いはずっと引き継がれていくという余韻を感じました。私たちは、氣と呼ばれている生命の根源にあるエネルギーをテーマにしています。氣は心というように、心の持ち方がとても大切だよということを、いろんな方法で伝えていきたいと思っています。あの映画を見て、ゾウと哲夢さんの交流は、まさに氣のつながりだなと感じました。だから、ゾウの気持ちがわかるし、自分の思いをゾウに伝えられたのだろうと思います。
坂本:
子どもが先に亡くなってしまうという体験をするのは、世の中の5%くらいじゃないかと思うんですね。息子の場合は事故でしたから、心の準備も何もなくて。死が突然やってくるのは、経験した人じゃないとわからないひどい苦しみです。いくら問いかけても言葉は返ってこない。どうやってあの子とコンタクトをとればいいかと考えたら、やっぱり心なんですね。私は、宝石が好きで、いつもキラキラさせていたのですが、宝石をつけているとコンタクトできないとわかったので、全部はずしました。そしたら、息子と気持ちの中で遊ぶことができるようになりました。
中川:
確か、哲夢さんが亡くなったとき、ゾウさんたちが一斉に鳴いたということでしたね。
坂本:
鳴くというより叫び声だったようです。『パオーンパオーン』ってリーダーのミッキーとミニスター、ランディ、ようこという4頭のゾウが、同じ方向を向いて、今までに聞いたことのない声を上げて、涙を流していたそうです。私は、社員たちの慰安旅行でグアム島へ行っていました。だから、事故のことを知ったのは、半日後のことでした。
中川:
哲夢さんは、ゾウつかいになると決めると、お母さんが高校くらい行きなさいというのを聞かずにタイへ修行に行きましたよね。何か、生き急いでいたような気がしますね。
坂本:
そうなんですね。20年という短い人生でしたが、中身はすごく濃かったんじゃないかって、みなさんに言われます。
中川:
自分の最期がわかっていたんじゃないかって、感じるんですよね。
坂本:
そうかもしれません。亡くなる1週間くらい前に外勤があって、スタジオに社員と一緒に行ったんですけど、車の中で、死んだら人間ってどこへ行くんだろうと言ったらしいんですね。亡くなったのがうぐいすラインというところなんですね。その手前に大きな交差点があって、うぐいすラインがまだきれいになっていないころで、亡くなる1年ほど前だったかな。そこを車で通りかかったときに、哲が『こっちへ行くとママどこへ行くの』って聞くから、『よくわからないけど、千葉の方へ行くみたいよって高速ができるまで近道でみんな抜けていくみたいよ』って言っちゃったんですね。その後、自分で開拓して近道を発見したらしいんですよ。それでそっちを通って事故にあって亡くなったんですよ。今でもその交差点を通るときには、『ママ、こっち行くとどこへ行くの』という声がわっと出てきますね。

<後略>

(2008年11月28日 『市原ぞうの国』近くの宿泊施設にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

坂本小百合さんの著書 「ゾウが泣いた日」(祥伝社)

市原ぞうの国
〒290-0521 千葉県市原市山小川937
TEL.0436-88-3001
ホームページ : http://www.zounokuni.com/

中垣 哲也(なかがき てつや)さん

1961年札幌市生まれ。風景写真家、オーロラ写真家。小さいときから星が大好き。ニュージーランドでオーロラに魅了され、その後、カナダ、アラスカへ何度も足を運んでは、それを写真に収めている。「Aurora Dance」(小学館)という写真集が出ている。札幌市在住。

『オーロラを通して、地球がすばらしい星であることを伝えたい』

地球で見られる自然現象でもっとも美しい

中川:
実は、中垣さんのことは、ロスにお住まいの会員さんからご紹介いただきました。すばらしいオーロラの写真を見せてもらったととても感動していました。私も、テレビや写真集でオーロラは見たことがありますが、彼女に言わせると今まで見たのとは比べ物にならないくらい美しかったそうで、今日は、どんなものかと楽しみしてきました。
中垣:
それは光栄です。せっかくですから、映像を見ながらお話しましょうか(パソコンを準備する)。
中川:
ロスでは、オーロラ日本語奨学基金という非営利団体の10周年記念のイベントでお話されたそうですね。オーロラつながりというわけですね。
中垣:
アメリカで英語教育に携わる教師や学生を支援する団体らしいですね。その会の創立10周年記念で、「眉山(びざん)」という映画の上映と、私のスライドショーが行われました。この映画の原作は、さだまさしさんの小説ですが、さださんはこの会の名誉会長だということでした。
中川:
アメリカでは何度かやられているんですか。
中垣:
初めてです。普通、1時間くらいやるんですが、スケジュールの都合で30分に短縮しました。もっとゆっくりと見ていただきたかったのですが、それでもみなさんとても喜んでくださいました。また、来年もやりましょうということになっています。
中川:
(パソコンの画面を見ながら)スライドショーだけど、動画を見ているみたいですね。今、スライドショーがじわじわと流行ってきていますね。デジカメならではだと思います。すごいな。色がすごくきれいに出ていますね。
中垣:
ビデオではこの色は出ないですね。超感度CCDカメラでも無理です。いくらきれいでも一枚の写真では臨場感が出ませんから、こうやってスライドショーで動きを出しています。大画面で見るとすごくいいですよ。生演奏なんかもつけましてね。とてもいい雰囲気が出て、小さな子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで、年齢に関係なく喜んでくださいます。仕事に疲れたOLの方は、癒されるって言ってくれます。おじいちゃん、おばあちゃんの中には、「死ぬまでに一度見たかった。これで死んでもいい」って感動してくれる方もいます(笑)。
中川:
死ぬまでに一度見てみたいという気持ち、何かわかるような気がします。オーロラというと、美しくて幻想的なもので、いつかその下に行ってみたいと思うんでしょうね。憧れですよね。
中垣:
オーロラは、地球上で見られる自然現象のうちでもっとも美しいと言われています。実際、目の前にオーロラが現れると言葉にならないくらいきれいです。これを写真で再現できたらどんなにかすばらしいだろうと思うわけです。日本では、ツアーが組まれるとたくさんの人が参加されます。それくらい人気があるのですが、ヨーロッパや北米の人たちは、真っ赤なオーロラが出ることがあって、それが山火事や戦争を連想させるのか、悪い知らせのように感じています。彼らの遺伝子には、オーロラのいいイメージがインプットされていないのかもしれません。先住民の人たちは、オーロラが出たら絶対に見ようとしませんね。確かに、オーロラの爆発と言って、一瞬にして空いっぱいにオーロラが広がることがありますが、まるで神様が怒っているような恐怖を感じますよ。

<後略>

(2008年11月12日 札幌市中央区の中垣氏の自宅にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

中垣さんの写真集 「AURORA DANCE」
<発行所>オーロラダンス出版

倉持 仁志(くらもち ひとし)さん

1954年栃木県生まれ。宇都宮大学農学部農芸化学科卒。三井石油化学工業株式会社(現三井化学株式会社)で新規除草剤の開発を担当。92年に退社し、宇都宮大学に。97年からイワダレソウの品種改良に取り組む。現在、宇都宮大学雑草科学センター講師。

『驚きと希望。名もない雑草が砂漠を緑化する切り札に!』

野生の馬に導かれてイワダレソウと出あった

中川:
はじめまして。先生のことを紹介した「夢の扉~NEXT DOOR」というテレビ番組の録画を見せていただきました。イワダレソウという雑草を品種改良されて、砂漠の緑化に取り組んでおられるということでしたが、イワダレソウというのはすごい草ですね。驚きました。
倉持:
ありがとうございます。あの番組は2年くらい前に放映されたものです。
イワダレソウとは13年ほどの付き合いですが、やっと多くの人に、その可能性を感じていただけるようになってきました。
中川:
そもそもイワダレソウは、どういう草なんですか。
倉持:
これがイワダレソウです(机の上の鉢にイワダレソウが植えつけられている)。見てお分かりになるように、あまり上に立ち上がらず、横にびっしりと伸びていきます。(鉢をひっくり返して鉢から取り出し、土の部分を見せながら)こういうふうに、びっしりと根が広がっています。根が土をしっかりとつかんでいますよね。この根は、生育環境が良ければ、1.5メートルの深さまで伸びます。この根があるから、土壌の流出を防ぐことができるし、砂漠でも深いところから水分や栄養を吸収できるんですね。
学問的な分類としては、クマツヅラ科に属します。世界中の熱帯、亜熱帯地方に育っていて、日本では、沖縄で多く見られますね。海岸にあることが多い植物です。
中川:
(イワダレソウを触って)これがそうですか。ひんやりして柔らかくて気持ちいいですね。
こんな小さな葉っぱなのに、1.5メートルも根が伸びるというのはすごいですね。これで、砂漠を緑化しようというわけですね。
イワダレソウと先生のご縁というのは、何がきっかけだったのですか。
倉持:
与那国島から、海岸沿いの芝地が雑草だらけになっているので何とかしてくれないかという依頼がありました。私はずっと除草剤を研究してきましたから、それが本来の仕事でした。
除草の仕事が終わってひと息ついていたときでした。
芝地に野生の与那国馬がいるのに気がついたんですね。小さくてかわいい馬でした。
私も動物が好きなものですから、一頭の馬に近づいて行って、なでようと手を出したんですね。そしたら、その馬がさっと逃げて行きました。そして、少し離れたところから、こっちを見ている。
私は、またその馬に近づいて行きました。今度は逃げませんでした。そのときに、何気なく馬の足もとを見たら、そこに見慣れない草があったんです。
びしっと土をつかむように生えている。
それがイワダレソウだったんです。
茎は太いし、引っ張ってみても簡単に抜けません。これは使えるかもしれないと直感的に思ったんですね。それで、宇都宮へ持ち帰りました。
中川:
馬が逃げなかったら出あわなかったかもしれませんね。導かれたようなご縁ですね。
そこからイワダレソウの研究が始まったんですね。
倉持:
関東にはない草だったし、元気そうだったので興味をもったんですね。上に伸びずに横に広がっていく草なので、これは芝の代わりになるんじゃないかと思いました。
中川:
そのときから、先生は環境のことには関心をもっておられたんですか。
倉持:
いえいえ。そのときは、雑草を使うなんて考え方はまるっきりありませんでした。
雑草は、作物の害になるなら、全部殺してしまえという考えでしたから(笑)。
ゴルフ場に生える草は除草し、水田の草も殺してしまう。そればっかりやっていましたから、雑草が役に立つなんてことは、思ってもみませんでした。
そうじゃないよって、馬が教えてくれたんでしょうかね(笑)。
中川:
イワダレソウに出あってから、雑草に対する見方が変わったんですね。
倉持:
そうですね。でも、除草の仕事をやめたわけではありません。管理という面では、ときには除草をする必要もあります。
除草するときと生かすときと、使い道がとても大切だと思っています。
中川:
イワダレソウを宇都宮へ持ち帰って、それからいろいろとご苦労もあったかと思いますが。
倉持:
最初は温室で育てました。これなら芝の代替に使えるという感触を得ました。根っこがすごく伸びるから、土壌流出の防止にもいいなと思った。1年くらい、のめりこんで研究しましたね。
でも、温室の中で見ていても仕方ありません。外で育たないと意味がないわけですから。それで、外の畑に植え付けてみたんです。

(後略)

(2008年10月8日 宇都宮大学雑草科学センターにて)

西本 真司(にしもと しんじ)さん

1961年和歌山県生まれ。近畿大学医学部卒業。熊本大学医学部麻酔科、熊本赤十字病院麻酔科、山鹿市立病院を経て、96年に西本第2クリニックを開業。真氣光によって潰瘍性大腸炎が改善した体験をもとに、2006年7月、父の他界で2つのクリニックを統合した西本クリニックにてホリスティックな医療を展開している。著書に、「潰瘍性大腸炎が治る本」(マキノ出版)(2004)、「潰瘍性大腸炎―医師も患者もこうして治した」(マキノ出版)(2007)がある。

『自らの難病がハイゲンキで快癒し、その効果を医学的に検証した』

患者さんにチラシを見せられ、※移動クリニックに(※現在の気功体験会)

中川:
お久しぶりです。西本先生は、真氣光とは私以上に長い付き合いですよね。下田や生駒でも楽しい講座をもっていただいたりしました。私たちにとっては、真氣光を理解してくださる、とてもありがたいお医者さんです。先生は、ハイゲンキに関して、いろいろな医学的データをとってくださっていましたよね。あのデータが、これからとても重要な役割を果たすような気がしましてね。それで、今日は、おうかがいしたわけです。先生がハイゲンキをもたれたのは、いつごろのことですか。
西本:
もうずいぶんと前になりますね。熊本県の山鹿市立病院の麻酔科に勤務していたころですから1991年かな。その年に、過労とストレスで、難病に指定されている潰瘍性大腸炎という病気になりまして。今、ものすごく増えている病気です。現代医学では、決定的な治療法がありません。それで、中国気功の本を読んで自己流でやったりしていたんです。そんなときに、入院患者さんから、真氣光の移動クリニックのチラシを見せられました。どんなものだろうと思って、行ってみてびっくりでしたよ。
中川:
潰瘍性大腸炎で大変な思いをしたのは、講座の中でもお聞きしました。ずっとトイレにこもっていたという話、先生は笑いながらお話されていましたが、きっと大変だったのだろうと思ってお聞きしていたのを覚えていますよ。中国気功をやっておられたということは、気功には抵抗がなかったと思うんですが、真氣光は中国気功とはちょっと違いますから、きっと驚くことも多かったと思います。
西本:
いやあ、びっくりですよ。ビデオから氣が出るなんて、考えもしなかったですよ(笑)。まさかと思いながら、目をつむって氣を受けたんですよ。そしたら、突然、腕がぐるぐると回り出して。
中川:
当時、ビデオから氣が出るなんて言っている人はいませんでしたから。言うだけではだれも信じませんよね。でも、体験すると、確かに氣を感じますからね。
西本:
これは一体、何なのだろうと、会場にあった本を全部買ってきました(笑)。ハイゲンキにもとても興味をもちました。手やビデオから出る氣というのは、どこかあいまいなイメージがありますよね。しかし、機械だと、説明しやすいというか、データもとりやすいだろうと、そんなことを思いました。それで、ハイゲンキを購入して、自分の体で試してみたんです。そのころ、下痢や腹痛、血便を抑えるために、サラゾピリンという薬を毎日、8錠飲んでいました。ハイゲンキを毎日使いながら、飲む量を1錠ずつ減らしていったんですね。そしたら、ついに2週間目に薬を飲まなくても下痢も腹痛も血便もなくなってしまったんです。これは、大変なことです。国が指定した難病の症状が薬を飲まなくても治ってしまったのですから。そんなことがあって、92年の3月、伊豆・下田で行われていた『医療氣功師養成講座』に参加して、氣功師の認定もいただいたわけです。
中川:
西洋医学にしか目が向いていなければ、とてもそんな劇的な体験はできなかったでしょうね。きっと、病気を通して、導かれたということもあるのだろうと思います。その後、山鹿市立病院でもハイゲンキを購入してくれましたよね。公立病院で、ハイゲンキを買うというのは、画期的なことです。
西本:
段階があって、最初は自分の機械を使って、希望する患者さんに無料でやってあげていいですかというところから始めました。私の経過がすごく良かったので、院長や上司の先生も理解してくださって、ハイゲンキと氣流測定器の予算を組んでくれました。公立病院にハイゲンキが入ったというのは、それまでもなかったし、あれ以降もないんじゃないですか。患者さんも、いっぱい来てくださったし、とても喜んでくれました。
中川:
西本先生の熱意が通じたんだと思いますよ。現場での治療に加えて、データをしっかりととって、学会でも発表されましたけれど、当時はまだ氣のことはあまり知られてなかったし、けっこう反発もあったんじゃないですか。
西本:
ありましたね。でも、いろんな意見があっていいいし、どんな意見も次への参考になりますから。反発は想定していましたし、それをプラスに生かすことを考えていました。
中川:
まさに、それこそ真氣光の精神だと思いますよ。マイナスのエネルギーがやってきたときこそ、チャンスですからね。実は、西本先生のように、霊的な世界を理解している方だから言えますが、真氣光をやっていると、宇宙からさまざまなメッセージが届きます。最近、ハイゲンキに関するメッセージがとても多くなっているんですね。今、地球の人々は宇宙意識に目覚めないといけないそうです。そのためには、高い次元のエネルギーが必要です。ハイゲンキは、そのエネルギーを注入する役割を与えられているんですね。ハイゲンキによってエネルギーを魂に入れることで、意識が変わっていきます。自分のことばかりを考えるのではなく、他人のこと、動物や植物のこと、地球全体のことを考えられる意識になっていきます。そういう意識をもつ人が一人でも増えてほしいわけです。だから、何とかしてハイゲンキを使ってほしいと、そんなメッセージがくるんですね。ただ、宇宙からのメッセージとか宇宙意識という言い方だと、抵抗があったり、理解できない人がたくさんいます。魂の世界が分かる人ばかりでなく、目に見えるものしか信じない人にも、少しでもハイゲンキの良さを知ってもらうには、西本先生がとったデータがとても重要な役割を果たすようになるんですね。

<後略>

(2008年9月19日 西本第二クリニックにて 構成 小原田泰久)

迫田 時雄(さこだ ときお)さん

1937年鹿児島生まれ。広島音楽高等学校、武蔵野音楽大学卒。1965 年より3 年間、ウイーン国立音楽大学に留学。1999 年には映画「故郷」で使われたチェロ曲を作曲した(出演もした)。2001年日本障害者ピアノ指導者研究会を設立。2005 年1月「第一回ピアノパラリンピックin Japan」を開催。2005 年、定年により武蔵野音楽大学ピアノ科助教授を退職。第二回ピアノパラリンピック開催へ向けて各国へ働きかけている。

『障害者のすばらしい演奏に聴く人が変わっていく』

カーネギーホールでのコンサートに緊張

中川:
はじめまして。先生のされているピアノパラリンピックについては、以前にこの雑誌(月刊ハイゲンキ誌)で紹介させていただきました。とても反響が大きかったので、私も関心をもっていましたら、この間も、テレビで紹介されていましたね。確かうちの雑誌に出てたなと、改めて思っていたところへ、こうした対談の機会をいただきました。今日は楽しみにしています。よろしくお願いします。
迫田:
こちらこそ、貴重な誌面をいただきまして、ありがとうございました。¥r¥nあの記事を載せていただいたのが3年前ですかね。第一回目のピアノパラリンピックを横浜で開催した後だったかと思います。おかげさまで、来年の9月27日から10月4日には、カナダのバンクーバーで第二回目の大会を開催することになりました。
中川:
それはおめでとうございます。今までになかったことを始められて、それを継続してやっていくのは大変だろうと思います。あと1年ほどですが、準備の方はいかがですか。
迫田:
これがなかなか大変でして。前例が、横浜でやった第一回目の大会だけですから、バンクーバーの方もどう動いていいかわからない部分も多いですね。でも、第一回目が予想以上の出来だったので、協力してくれる方も増えてきました。マスコミでも報道してくれていますし、いい感じではないかなと思います。去年の12月3日には、ニューヨークの国連ハマーショルドホール、5日にはカーネギーホールでのデモンストレーションコンサートを行いました。演奏者が世界8カ国から集まってくれまして、大盛況のコンサートでした。日本でも、NHKがそのときの様子を紹介してくれたりしまして、私たちにとっては、とても有意義なイベントでした。ちょうど、12月3日が国際障害者デーで、日本が障害者条約サインをしたんですね。そんな中で、行事のひとつとして、コンサートを開くことができました。
中川:
あの有名なカーネギーホールですか。よく借りることができましたね。
迫田:
たまたまキャンセルがあったのでしょうか、空いていましてね。みんな緊張していましたよ。私が一番緊張したかな(笑い)。
中川:
先生がピアノパラリンピックをやろうとされたのは、手の不自由なお子さんにピアノを教えたことがきっかけだったですよね。
迫田:
中学生の子だったですね。お母さんからピアノを教えてあげてほしいと依頼を受けまして。私はピアノの教師ですから、中学生にピアノを指導するのは専門です。気楽にどうぞと引き受けたのですが、会ってびっくりです。その子は、左手の指が先天的になかったんです。どうしようかと思ったのですが、片手で弾くというトレーニング法もありましたので、とにかく試行錯誤で指導しました。それからしばらくして、音楽サークルに招待されたときに、とてもピアノの上手な女性に会いました。彼女の左手も指が一本もありませんでした。彼女は、左手の手首を器用に左右に動かして、親指と小指の付け根を使って鍵盤を叩いていました。まったく両手がある人の演奏と違和感がない。違和感がないどころか、彼女の音楽性はすばらしくて、ハートが伝わってきます。10本の指がそろっている人よりもはるかにすばらしい演奏をしてくれました。これだけの才能があるのに、音楽大学は障害があるという理由で、彼女を受け入れませんでした。おかしな話です。障害のある人にもピアノを楽しんでもらいたい。そして、才能があるなら、それを伸ばしてあげたいと思うようになりました。

<後略>

(2008年8月11日 東京都練馬 迫田時雄さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

NPO日本障害者ピアノ指導者研究会

http://www.ipd-piano.org/index.html

石田 秀輝(いしだ ひでき)さん

東北大学大学院環境科学研究科教授。工学博士。専門は地質・鉱物学をベースとした材料科学。78年に伊奈製陶株式会社(現・INAX)に入社。同社空間デザイン研究所所長、取締役研究開発センター長を歴任し、2004年9月より現職。「人と地球を考えた新しいものづくり」を提唱。

『自然から学ぼう!  循環型社会を創り出す粋なテクノロジー』

自然界から学ぶネイチャーテクノロジー

中川:
はじめまして。先生のご研究を、新聞記事やホームページで拝見してとても興味をもちました。ひとことで言うと、自然から学ぶもの作りかと思いますが、私ももともとは技術者で、ゾウリムシやミジンコの動きを参考にしてマイクロマシンという小さな機械を開発するという仕事をしていました。
自然というのは、いかに合理的で精密にできているかというのを痛感したのを思い出します。
先生はINAXにおられたそうですが、どうして大学で研究することになったのですか。
石田:
INAXには25年勤めました。50歳を機に会社を辞めて、ここへ来たわけです。
もともとは鉱物をやっていまして、コテコテの技術屋でしたが、90年ごろに、地球の循環が大切だということに気づきました。省資源や省エネルギーも大事だけど、もっと地球の循環に視点を置いて、セラミックを作ったらどうだろうと思うようになったのです。それで、焼かないセラミックというのを考案しました。土は優れた断熱性をもち、土がもつ数ナノメーターの小さな孔は、湿度を自動調整してくれます。この土の構造を維持したまま固めて、壁や天井、床に張ると、エアコンが必要なくなります。
自然の中にヒントになるものはいくらでもあります。会社で自然探検隊というのを作って、たとえば、かたつむりや卵の殻は、汚れがつきにくいことを発見すると、それを参考に汚れない外壁材を作ろうと考えたりしました。
自然の中には学ぶべきことがいっぱいあります。でも、それに気づくには、鳥瞰(ちょうかん)的に広く見る目がなければなりません。今は、問題が起こってそれに対処する教育ばかりが行われていますから、本質を見る目が養われていません。本質を見る目を養う教育、それに研究、そして普及というのを考えて、会社を辞めて大学で勤務することにしました。
中川:
土がエアコン代わりになるというのはすごいですね。かたつむりや卵の殻は確かに汚れがつかないですし。ほかにはどんな技術があるのですか。
石田:
ハスの葉は水をはじきます。葉の表面に微小なでこぼこがたくさんあり、そのすき間に空気が入ることで水が付着しないようになっています。この構造を利用して濡れない布が開発されました。カイコやヤママユガなどの天然のまゆは、紫外線をカットし抗菌性をもっています。この性質は、繊維だとか美容液として使えます。
こうした自然界がもっている高い機能を模した技術をネイチャーテクノロジーと名づけました。高機能というだけでなく、エネルギーや資源を使わないという意味で、循環型社会を作るにはとても役立つ技術です。
中川:
ネイチャーテクノロジーですか。いいネーミングですね。今まで、自然を支配し、搾取して文明を築いていたのに対して、自然から学ぶという姿勢で新しい文化なり文明を作っていくということですね。
石田:
その通りですね。今の文明は、地球上のあらゆる生物に配慮することなく、人間の発展と繁栄を第一目標にしてきました。自然が奴隷のように使えると思っていました。ベーコンやデカルトがそれをとことん突き詰め、彼らの思想が引き金になって産業革命が起こりました。私は、それを地下資源文明と呼んでいるけど、その結果が、高エネルギー消費であり、地球への負荷もどんどんと大きくなってきています。地下資源文明はもう完全に行き詰っています。
これを打破するには、自然から学ぶ姿勢が大切です。それを、私は生命文明と呼んでいます。人間も自然の一部と考え、人間と自然の共生・融合を図るというものです。
中川:
地球温暖化やさまざまな災害によって、何とかしなければという意識は出てきていますからね。物質文明は行き詰っているという実感は出てきているでしょうね。
石田:
意識は高まっているけれども、具体的に何をすればいいかがわかっていません。ゴミを分別するとか、節電するとか、何か夢のない行動しか示されていません。もっと、ワクワクドキドキするものがあってもいいと思うんです。それを提示するのが、テクノロジーの役割だと思います。そこを私はやってみたいと思っているわけです。

<後略>

(2008年7月7日 東北大学大学院環境科学研究科 石田研究室にて 構成 小原田泰久)

宮崎 ますみ(みやざき ますみ)さん

女優。1968年愛知県生まれ。84年にクラリオンガールに選ばれ、映画、ドラマなどで活躍。94年に結婚し、渡米。2児の母となり2005年に帰国。映画「奇妙なサーカス」に主演。乳がんであることを公表し、現在、女優のほかにも、講演活動やセラピストとしても活躍中。

『すべては完璧なタイミングで起こっている』

副作用の不眠が氣功で改善した

中川:
はじめまして。今日は、わざわざありがとうございます。真氣光については、あまりご存知ないかと思いますが。
宮崎:
雑誌を拝見しましたし、さっき、ハイゲンキという機械の体験をさせていただきました。とても気持ち良かったです。
中川:
そうでしたか。もともとは、私の父が始めたもので、氣功のひとつだと思っていただければいいと思います。ただ、機械から氣が出るとか、一週間で氣が出せるとか、従来の氣功のから言えば、ちょっと常識はずれと言われることがあります。¥r¥n私も、わが父のやっていることでしたが、信じていませんでした(笑い)。でも、仕事で体調が悪くなりまして。ストレスですよね。精神的にも肉体的にもバランスが崩れてしまったんですね。それで、当時は伊豆の下田でやっていた研修に参加しました。そしたら、体調は良くなったし、それに心の持ち方が現実を変えるという考え方が、私のようなサラリーマンにも必要なんじゃないかと感じまオて、それで氣の世界にとても興味をもったということが始まりなんです。
宮崎:
お父様は、ずっと氣功をやっておられたんですか。
中川:
そうなんですよ。まず機械でしたね。この機械があったから、真氣光はとてもいい形で広がったし、先代が亡くなった後、右も左もわからなかった私をずいぶんと助けてくれました。この機械があって、さらに先代のもとで真氣光を学んできた方々が支えになってくれたからこそ、私もやってこれたんだなと感謝しています。
宮崎:
私も氣功には縁が深いんですよ。2年半前に乳がんになって、手術と放射線の後、ホルモン治療を受けたんですね。そしたら、すごく副作用が強くて、夜も眠れないし、つらい毎日を過ごしていました。¥r¥nそんなときに、氣功を習おうと思って、インターネットで調べて、自宅から簡単に通える氣功教室へ行くことにしました。そしたら、氣が体中に充満して、パンパンになった感じなんですね。氣の流し方なんか知らず、ただひたすら氣を入れることばかりやっていましたから。その夜、体が痛いと叫んでいる感じがしました。でも、嫌な感じではなかったですね。それで、とりあえずは寝るかとベッドに入ったら、ぐっすり眠れまして。翌朝は、霧が晴れたようなさわやかな気持ちでした。
中川:
れないというのは辛かったでしょうね。でも、すぐに氣功を習おうと、よく思われましたね。
宮崎:
もともとスピリチュアルなことには興味がありました。15歳で芸能界の仕事を始めて26歳で結婚するまで仕事を続けて、スピリチュアルなことに目覚めれば目覚めるほど、潜在意識が表に出てくれば出てくるほど、当時の私は社会とのバランスがとれなくなっているのを感じていました。これ以上仕事を続けたら自分は死んでしまうのではと追い込まれた状態でしたね。休憩したいなと思ったときに、アメリカに住んでいる日本人と出会って結婚したんです。ロスに住んだのですが、仕事から解放されて、自分を見つめるような時間をたっぷりととれました。自分の癒し作業でしたね。子どもができて、子育てしながら自分を磨く作業をしてくる中で、ヨガやインド哲学を勉強する機会もありましたから、氣功も決してなじみがなかったわけではなかったんです。
中川:
氣功をされて、眠れるようになったことのほかに、何か気づきとか変化はありましたか
宮崎:
ぐっすりと眠れた翌朝ですが、いきなりインスピレーションで「こんなことをしている場合ではない」と感じたんです。こんなことってどんなことだろうと考えたら、それはホルモン治療のことだって思いました。再発を予防するための治療だけど、こんなにも副作用が出ているのは体のバランスを崩しているに違いないから、もうやめようと思いました。お医者さんにも相談しまして、思い切って、ホルモン療法をやめることにしました。これは私にとって大きな選択、決断だったと思っています。
中川:
不安もあっただろうと思いますが、よく決断されましたね。お医者さんは、この治療をすると何%改善されるとか、数字を出してきたんじゃないですか。
宮崎:
その通りですね。10年後に再発しない確率は、何も治療を受けない場合は60%で、5年間ホルモン治療をすると70%に上がると言われました。私は、えーっと思いました。こんなにもつらい思いをしてたったの10%という気持ちでした。人によっては、10%も上がると感じる人もいるんでしょうが。それで、私はホルモン治療をやめて、60%にかけることにしたんです。

<後略>

(2008年6月26日 東京池袋の (株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒。東京大学第三外科、共立蒲原病院、都立駒込病院を経て、1982年に埼玉県川越市に帯津三敬病院を開院。2004年東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。現在、帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会会長、日本ホメオパシー医学会理事長など。『大養生』(太陽企画出版)『あるがままに生き死を見つめる7つの教え』(講談社)『健康問答』(共著・平凡社)など多数の著書がある。

『倒れるまでまい進する。ゆっくりするのは死んでから。』

先代とは20年前に上海で初めて会った

中川:
ご無沙汰しています。ハイゲンキ誌への原稿、いつもありがとうございます。相変わらず、お忙しそうですね。
帯津:
こちらこそ、ご無沙汰です。なかなか時間がとれずにすいませんでした。今日も、横浜で講演があって、その帰りに寄らせていただきました。会長と、お会いするのは何年ぶりでしたかね。
中川:
もう、ずいぶん、お会いしていませんね。川越の病院へおうかがいして、先生のお部屋でお話をうかがったのを覚えていますが。
帯津:
そうだ、そうだ。確か、漢方薬のことでお見えになりましたね。
中川:
えーっと、あれはまだ先代が亡くなる前のことだったと思います(笑い)。
帯津:
そんな前になりますか(笑い)。いずれにせよ、久しぶりですね。先代が亡くなって13年でしたね。会長も、貫禄が出てきて、ずいぶんと板についてきたじゃないですか。
中川:
いや、まだまだ戸惑うことばかりですが、周りの方に助けられて何とかやっております。¥r¥n先生には、先代のころからお世話になっていますが、先代とお会いになったのは、いつごろのことですか。
帯津:
1988年に、上海で第二回国際気功検討会というのがありまして、私も日本気功協会の山本理事長に誘われて参加したんですね。がん患者を集めて氣功をやっているというのが少しずつ知られるようになった時期で、ぜひ上海でしゃべってほしいと言われましてね。でも、開業医ですから、なかなか病院を空けられません。最初は断っていたんですが、どうしてもと言われるので、しぶしぶ参加しました。そしたら、そこにはなかなか個性的な方が集まっていましてね。中川さんでしょ、それに大阪の吉見猪之助さん、名古屋の林茂美さん、京都の山内直美さん、それに湯浅泰雄先生がいましたね。小原田さんとも、そこではじめて会いました。
中川:
20年前のことですね。先生が病院を開業されたのが1982年でしたよね。それから6年くらいたっていますから、氣功もかなり認知されてきたころでしょうか。
帯津:
そうですね。認知されるまではいかなくても、開業したころとは大分、事情が変わってきていました。
中川:
先生は、中国で氣功のことを知って、がん治療に氣功を取り入れるられたわけですけど、そのへんの経緯を教えていただけますか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
私は、若いころ、柔道や空手、柔術をやっていました。柔術が強くなるため呼吸法を習いました。氣功というのは、『調身』『調息』『調心』という三つの要素が必要です。逆に言えば、この三つの要素があれば氣功と言ってもいいわけですね。そう考えると、呼吸法はもちろんですが、柔道も空手も柔術も氣功と相通じるものがあるだろうと思ったんです。姿勢を正して、息を整え、心を落ち着かせるということですね。これは、生きるための基本でもあります。それが医療として行われていることにとても魅力を感じました。

<後略>

(2008年4月30日 東京池袋の (株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

野口 勲(のぐち いさお)さん

1944年(昭和19年)青梅に生まれる。すぐに飯能に移住。1965年成城大学を中退し、虫プロ出版部に入社、手塚治虫担当となる。1967年虫プロを退社し、種屋をやりつつ編集の仕事に携わる。1974年から野口種苗研究所の仕事に専念。伝統野菜消滅の危機を感じ、固定種の販売をするとともに、その大切さを啓蒙している。

『地球上の生命よ、もっと賢く。小さな種を通して火の鳥の願いを伝えたい』

大学を中退してあこがれの手塚治虫担当に

中川:
はじめまして。今日は、よろしくお願いします。飯能にははじめておうかがいしました。駅前にプリンスホテルがあったり、西武とはゆかりの深いところなんですね。
野口:
ゆかりも何も、もともと、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道の本社は飯能にあって、飯能・池袋間というのは大正時代から走っています。最初は、巣鴨まで行く予定だったらしいのですが。
中川:
そうでしたか。存じ上げませんで、失礼しました。野口さんは、飯能でお生まれになって、確か、おじいさんの代から種屋さんをやっておられるとか。
野口:
そうです。ぼくは3代目で、ずっとこの商店街で店を出していたのですが、私どものような零細な種屋は経営も大変だし、インターネットでの商売も増えてきたので、もっと山の方へ引っ越すことが決まっています。今、新しいお店を作っていて、完成次第、引っ越します。
中川:
野口さんは、有名な漫画家の手塚治虫さんのところでお仕事をされていたそうですね。手塚さんとのかかわりからお話をうかがってみたいのですが、子どものころから漫画はお好きだったのですか。
野口:
大好きでした。特に、手塚漫画が好きでした。小学校のときから、夢中になって読んでいました。いろいろな漫画がありましたが、もう一度読むのに耐えられるのは手塚治虫だけでした。何回読んでもあきない。読むたびに新しい発見がある。今でも、ああこんなことだったんだと思うことがありますね。小学生のころは、手塚先生のアシスタントになるのが夢でした。でも、高校生くらいになると、自分に漫画を描く能力がないことがわかってきました。それで、アシスタントではなくて、漫画誌の編集者になって、手塚先生の担当をしようと、方向転換をしたわけです。
中川:
大学は文学部へ行かれて、中退して虫プロへ入社されますよね。夢がかなったわけですけど、種屋さんの跡を継ぐことも期待されていたと思うんですね。二代目のお父さんは反対されたんじゃないですか。
野口:
親父は、農業大学を出て、種屋の跡を継げと言っていましから、がっかりしたでしょうね。大学2年のときに、虫プロの社員募集があったのでとりあえず応募して話を聞いたら、ぼくが望む出版の仕事ではなくて、そのときはお断りしたんです。しばらくしてから出版部の募集があったので、それに応募して採用されました。希望通りに手塚先生の担当をさせてもらったのですが、初日から徹夜でした。鉄腕アトムのアニメがテレビで放映されていたころで、とにかくハードな毎日でした。手塚先生というのは、間違いなく天才でしたね。そばにいても、驚かされることばかりです。それに、子どもみたいに無邪気なところがあって。ああいう人のそばにいられたというのは、ぼくにとっては、大変な財産になりましたね。

<後略>

(2008年3月19日 東京都大田区の 大石さんのご自宅にて 構成 小田原泰久)

大石 又七(おおいし またしち)さん

1934年静岡県生まれ。53年から第五福竜丸に乗り込む。54年ビキニ環礁でおこなわれたアメリカの水爆実験で被爆。元第五福竜丸乗組員。第五福竜丸平和協会評議員。

『伝えよう核の恐怖。ビキニ事件を忘れてはいけない。』

みんな口をつぐんでしまって話す人がいない

中川:
はじめまして。先ほど、夢の島にある第五福竜丸展示館へ行ってきました。ああ、この船が赤道まで航海し、死の灰をかぶって帰ってきたんだと、木造の福竜丸を感慨深く拝見しました。当事者の方にとっては、私たちの想像を絶するくらいのつらい体験だっただろうと思いますが、福竜丸と大石さんたち乗組員たちは、世の中に核の怖さを知らしめるきっかけになったし、これからも実感をもって伝えていく生き証人なんだと思います。大石さんは、あの展示館で、よくお話をされているんですよね。
大石:
私も、したくてした体験ではありません。たまたまあの日、あの場所にいて被爆したということです。でも、あの事件によって、人生はすっかり変わってしまいました。今は、ビキニ事件のことは、みんな口をつぐんでしまって、話す人がいないんです。私も東京へ隠れるために出てきて、実際、隠れていたのですが、なぜか表へ引っ張り出されるような形になってしまいました。東京だから来やすいのでしょう、マスコミの人たちが一斉に来るようになりました。本心から言えば迷惑なんです(笑い)。知られたくないことだから。自分にも家族にも負担だし。でも、事件そのものに大きな内容があるわけでしょ。年をとってくると大事なことだということがわかってきましてね。言わなきゃいけないなと思うようになってきて、みなさんの前で話をしたり、本を書いたりするようになってきました。
中川:
『ビキニ事件の表と裏』という一番新しい本を読ませていただきましたが、巻末に講話をされたところが紹介されていて、そこを見ると、学校でお話されていることが多いようですね。子どもたちの反応はいかがですか。
大石:
学校は、かなり回っていますね。核のこととか平和のことに関心のある先生方の間で情報が行き来しているみたいですね。でも、ほとんどの人が忘れていることです。もう50年も前のことですから。事件のことを知らない先生ばかりです。まして、子どもたちが知るはずもありません。だから、ビデオなんかで事前学習をしてもらうんです。そうしないとわかってもらえません。子どものときに伝えないと。大人は利害関係を知ってしまうから、危ないと思っても、なかなか反対できません。だから、学校へ行って話すんです。子どもたちは真剣に聞いてくれます。たくさんの感想文ももらっています。中学2年生の女の子が新聞で私のことを知って学校へ呼んでくれました。その子が大人になって、その学校の先生になり、また講演に呼んでくれるという、うれしいつながりも出ています。
中川:
確かに、忘れられているという現実があると思いますね。私も、そんなことがあったなくらいの認識しかありませんでした。でも、大石さんの本を読んだり、展示館でいろいろと見てみると、忘れてはいけないこと、ずっと伝えていかなければならないことがたくさんあることに気づきました。多くの人に知っていただきたいと思って、今回、こうやって対談をお願いしたわけですが、ビキニ事件について、簡単に説明していただけますか。
大石:
1954年(昭和29年)3月1日の夜明け前のことでした。私たちは第五福竜丸という漁船で焼津港を出航し、グアムやサイパンの東側にあるマーシャル諸島でマグロを捕っていました。23人の乗組員がいたのですが、延縄(はえなわ)を海に入れ終えて仮眠をとっていましたら、水平線にすごい閃光が見えたんですね。海底爆発じゃないか、隕石かと大騒ぎになりました。しばらくすると、大音響が海底から突き上げてきました。何か大変なことが起こっているという予感に不安が募りました。2時間ほどたつと、白いものが空からパラパラと降ってきました。雪でも降ってきたかと思いましたが、ここは赤道近くです。雪が降るはずもありません。目や鼻、口、耳、下着の中に入り、チクチクと刺さるような感じがしてイライラしました。目も真っ赤になりました。唇についた粉をなめてみると、ジャリジャリして固くて、味もない。何だろうと思っていました。何も知らないというのは怖ろしいことだと思いますね。その日の夕方から、目まい、頭痛、吐き気、下痢といった体調の異常が起こってきました。二日目ごろから灰が当たったところがプツプツとふくらみ、中に水がたまりはじめました。それは放射線のヤケドでした。一週間くらいたつと髪の毛が抜け始めました。焼津へ帰ってから、あの光と大音響は、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験だと知りました。広島に落とされた原爆の1000倍もの威力の爆弾です。白いものはそのときに吹き飛ばされたサンゴの粉だとわかりました。放射能を含んだ粉でした。
中川:
アメリカは、秘密裏に実験しようということだったのだけど、たまたま福竜丸が被爆したことで、それが公になってしまったんですよね。¥r¥nそれから大変な騒ぎが起こりますね。
大石:
大気圏に上がった死の灰が、雨や雪に混じって日本中に降っていることがわかりました。野菜類も放射能に汚染されているし、マグロも大量に捨てられました。福竜丸が被爆しなければ、みんな何も知らずに雨に当たり、野菜やマグロを食べていただろうと思います。アメリカの学者も、福竜丸が戻らなければ、世界中が惰眠をむさぼっていただろうと言っていますから。ただ、そんな騒ぎになっても、『今の程度のものでは、かなりの大きさの池に赤インキを何滴か落としたものだ』と新聞に寄稿する学者もいて、日本中が混乱していました。

<後略>

(2008年3月19日東京都大田区の大石さんのご自宅にて 構成 小田原泰久)

堀添 勝身(ほりぞえ かつみ)さん

1939年宮崎県生まれ。鹿児島ラサール高校をへて慶応大学経済学部卒。1963年「伸び行く青年の会セイユース」創設。朝飯会もスタートさせる。1980年、NGO活動としてモルジブに救援米800俵を送る。2000年JICAよりベトナムに派遣され、日本センターの初代所長を務める。同国政府より教育功労賞を授賞。現在、財団法人ユースワーカー能力開発協会理事長。著書に『ベトナムで生きてみた』(万葉舎)『天風先生の「心の学校」』(中経出版)がある。

『元気があれば国が栄える。今の日本に一番必要なもの。』

元気があれば国が栄える。日本にも元気が必要

中川:
はじめまして。実は、2007年12月号の対談に登場いただいた鶴亀彰さんから、すばらしい活動をしておられる方がいるのでぜひ会ってくださいとご紹介いただきまして。お会いできるのを楽しみにしていました。
堀添:
鶴亀さんは、高校の一年後輩かな。とてもいい本を書かれましたね。中川会長の出されているハイゲンキも読ませていただきました。私は、今、一番必要とされているのは元気だと思っています。それに、会長は元気のというのは元の氣でとても大切なんだと言われていますが、私も合気道をやっていますからまったく同じ考えです。私の方こそ、今日は氣と元気のお話が聞ければと楽しみにしてきました。
中川:
私どものやっている真氣光というのは父が始めました。氣は心なんだ、見えないものを大切にしようよと、そんなことをずっと言っていました。私も、それを引き継いで、もう13年になりますが、氣や心のことを勉強する4日間の講座など見えない世界のことを少しでも知っていただければと、いろんなことをやっているわけです。
堀添:
氣とか元気は、今、とても大切にしなければならないものだと思いますよ。私はベトナムへ43度も行っていますが、あるとき『元気の詩』というのを見つけたんです。これはすばらしいメッセージだと思います。ちょっと紹介しますね。賢材は国家の元気なり元気盛んなれば則ち国勢強を以って隆く、元気飢えれば則ち国勢弱をもって汚る是を以って聖帝明王、材を育て土を取り元気を培植するを以って先の務めと為さざる者なしと言います。 元気があれば国は栄えるんだと、改めて元気の大切さを教えられました。今の日本に一番、必要なことなんじゃないかと思いました。ベトナムで合気道を教えていますが、その合言葉が『元気・勇気・合気』で、道場にも書いて張ってあります。
中川:
元気・勇気・合気ですか。とてもリズムも良くて、唱えるだけで元気が出ますね。でも、どういうことでベトナムへ、そんなに何度も行かれることになったのですか?
堀添:
初めてベトナムへ行ったのが1991年ですが、そのころから毎年、インドネシア、シンガポールなどASEAN5カ国と中国、ネパールといったアジア諸国の青年たちを日本に招待していました。日本をもっと理解してもらいたいというのが目的です。日本の青年たちと合宿をしたり、ホームステイしてもらったりといったことで、交流を図っていたんです。でも、ベトナムの青年だけは招待してなかった。当時のベトナムは、アメリカから経済制裁を受けていたこともあって、このままアジアで孤立させていいのか、同じアジアの人間じゃないかと思ってベトナムを訪問しました。それがきっかけでベトナムと縁ができて、交流が深まるにつれて、彼らがとても家族的で、それこそ元気がいっぱいだとわかったんですね。それですっかり気に入って、何度も足を運ぶことになったわけです。

<後略>

(2008年2月12日 東京・日比谷公園 「松本楼」にて 構成 小原田泰)

細江 英公(ほそえ えいこう)さん

1933年山形県生まれ。『薔薇刑』『鎌鼬』『抱擁』『ガウディの宇宙』『ルナ・ロッサ』『胡蝶の夢』など国際的評価の高い写真集のほか、写詩集『おかあさんのばか』や自伝三部作『なんでもやってみよう―私の写真史』『ざっくばらんに話そう―私の写真観』『球体写真二元論―私の写真哲学』(いずれも窓社)などの著書がある。2003年、日本の写真家としてただ一人、英国王立写真協会創立150周年記念特別勲章を受章。2006年、アメリカ・サン・ディエゴ写真美術館(MoPA)より、Century Award for Life Time Achievement、およびルーシー賞先見的業績部門賞(Lucie Award Visionary)を受賞した。2007年、旭日小綬賞を叙勲。2008年には毎日芸術賞を受賞。現在、清里フォトミュージアム館長。

『核兵器は人間が作ったもの。現代人にやめようという意思があればなくすことができる。』

同じ被写体でも写真家の意識で違う作品になる

中川:
はじめまして。事務所まで押しかけまして申し訳ありません。ここに、先生の写真集が何冊も並んでいますが、『人間写真集』というのがありますね。今日は、先生の『死の灰』という写真集のことをお聞きしようと思っておうかがいしたのですが、人間写真という言葉、気になって仕方ありません。人間写真とはどういうものか、そこからお話をお聞かせいただいていいでしょうか。
細江:
狭いところへ来てくださいましてありがとうございます。人間写真ですが、風景写真とか動物写真というジャンルがありますよね。それと同じ意味で、人間を撮るということですね。人間と言っても、人間をとりまくいろいろなものを削り取って、純粋な形で人間を見て撮りたいということで、そう呼ぶようになりました。4年前に、これからやる写真集や展覧会は、『人間写真集』『人間写真展』と呼ぶことにすると宣言しましてね。宣言した限りはやらなければならない(笑)。
中川:
なるほど。まずは宣言してしまって、逃げられないようにするわけですね。純粋な形で人間を見るとはどういうことですか。深い内面的なものに目を向けるということですか。
細江:
内面的なものの前に、肉体に対する興味がありました。舞踏やモダンダンスを見ると、肉体はすごい表現力をもっているということがわかります。舞踏家の土方巽さんや大野一雄さんと出会って、彼らの踊りにものすごく感動しました。それで、彼らの肉体を撮ることで人間を表現できないものだろうかという思いをもちました。そんな中で気づいたのは、写真は対象があるけれども、対象に対してどんな考え方をもつか、表現者の表現意識が非常に重要だということです。被写体は重要だけど、それを上回る、表現者の思想があるんだなということでした。
中川:
同じ被写体にカメラを向けていても、写真家の意識によって違った作品ができるということですね。まさに、これは氣の世界かもしれません。どんな意識をもって写真を撮るかで、写真に込められる氣の種類はぜんぜん違ってきて、見る人に与える印象や影響はまったく別のものになりますから。

<後略>

(2008年1月21日 東京・新宿区の細江英公写真芸術研究所にて 構成 小原田泰久)

神渡 良平(かみわたり りょうへい)さん

昭和23年(1948年)鹿児島県生まれ。作家。九州大学医学部を中退後、さまざまな職業を経て、38歳のときに脳梗塞で倒れたのがきっかけで、「人生は一回しかない」ことを実感。以後、先人たちがつかんだ生き方、考え方などをたくさんの著書にまとめたり、講演を行っている。「安岡正篤の世界」(同文社)「主題のある人生」(PHP研究所)「天翔ける日本武尊(上下)」(致知出版社)など多数の著書がある。

『何が起きたとしてもそれをよしとしていくことがすべてのはじまり』

内観の研修で両親との関係を修復

中川:
真氣光というのは、私の父が始めたものです。氣功のひとつの流派だと考えていただければいいと思います。95年に突然、亡くなったものですから、私が跡を継ぎました。右も左もわからない状態でしたが、先代に縁のあった方に助けられましてここまでやってくることができました。先代のころに、だれでも一週間で氣功師になれるという研修が始まりまして、それが今でも続いています。最初は伊豆の下田で行われていました。次に、奈良の生駒山で94年から06年までやっていて、去年からつくばみらい市で毎月やっています。先生の本を読ませていただくと、内観のことがずいぶんと出てきますが、私どもの研修でも内観を取り入れていて、青山学院大学の石井光(あきら)先生に講義をお願いしています。
神渡:
石井先生のことはよく存じ上げています。ヨーロッパ内観ツアーでご一緒したこともあります。ヨーロッパに内観が広がったのは、石井先生の功績です。本当にすばらしい活動をされていますね。
中川:
そうでしたか。でも、先生はどうして内観をやられたのですか?
神渡:
内観では、その人にしてもらったこと、それに対してお返ししたこと、迷惑をかけたことに焦点をしぼって父や母との関係を思い出していくのですが、忘れていたことが、ありありと浮かんでくるんです。印象的なものだと、幼いころ、父と母がけんかをし、父が母を殴ったんです。母は、『私はもうついていけません』と言って、家を出て行こうとしました。幼い私と妹は、母の袖にしがみついて、『出ていかんでくれ』と大泣きしました。そうしたら、母が私たちを抱きしめ、オイオイ泣いて、『かわいいお前たちを残してどうして出て行けようか。母ちゃんはいつもお前たちと一緒だよ。ここでがんばるからね。もう泣かないでいい……』と言ったんです。それを思い出し、ああ、こんなに愛されていたんだと、涙がこぼれ落ちました。愛されているという実感があると、少々のことには負けない強靭なバネが育つものです。
中川:
自分を見つめてみると、両親はもとより、いろいろな人にお世話になって今があるということに気づきます。それに気づくと生き方も変わってきますね。
神渡:
それまでは、自分の力だけで生きてきたと思っていました。大学を中退して、四苦八苦して食べてきましたから、余計に自分の力でやってきたという意識が強かったのです。でも、実際には、それは妄想で、父や母が背後からまともな道を歩んでほしいと祈っていてくれたから、乗り越えてこられたのだなと気づかされました。

<後略>

(2007年11月6日 千葉県佐倉市の神渡先生のご自宅にて 構成 小原田泰久)

大内 博(おおうち ひろし)さん

玉川大学文学部教授、飢餓を終わらせることにコミットしているNPOハンガープロジェクト協会理事長、上智大学外国語学部英語学科卒業後、アメリカ政府の東西文化交流センター留学生としてアメリカに留学。数々の翻訳を手がけ、訳書に「プレアデス+かく語りき」「ゆるすということ」「ヴァーチューズ・プロジェクト52の美徳教育プログラム」他がある。2004年、カナダで研修を修了してヴァーチューズ・プロジェクト・ファシリテーターになる。2005年にマスター・ファシリテーターに任命される。

『美徳はだれもがもっているダイヤモンドの原石。磨いて輝かそう。』

プレアデスからのメッセージを伝えた本を翻訳

中川:
はじめまして。私どもは、氣という、いわゆる癒しのエネルギーをテーマに活動をしています。氣は心とよく言いますが、心の持ち方を変えると氣も変わっていきます。自分を高めていくと、氣も高まってくるんですね。そんなことを学び、体感するという合宿を、つくばみらい市で行っています。先生は、英語の先生でいらっしゃいますが、精神世界の分野の本をたくさん翻訳されていて、同じような領域での活動かなと思い、いろいろとお話をお聞かせ願いたくておうかがいしました。今日は、よろしくお願いします。
大内:
こちらこそ、わざわざお越しいただいてありがとうございます。私の専門は社会言語学と英語教育です。大学で英語を教えるほか、翻訳の仕事などをやっているわけですが、1994年に『プレアデス+かく語りき』という本を翻訳してから精神世界関係の本の仕事が多くなりました。プレアデスは、私の原点とも言える本です。プレアデスというのはおうし座の一角にある星団で、日本語ではすばると言っています。ここからは高次元のメッセージが地球に届けられていて、それをキャッチできる方が本にして発表してくれたのです。この本には、高次元の存在とともに仕事をしないと、人間の次元が上がっていかないというようなことが書かれています。環境破壊にしても、科学が地球の自浄できる限界を超えて発展してしまったために起こったことです。温暖化がその最たる問題ですが、そこから立ち上がるためには、人間の力だけではなくて、プレアデスのような高次元の存在と、共同創造主という立場でやっていかなければならないという内容なんです。こうした話は、なかなか大学ではできないし、一般的な場で語るというのも難しいんですけど、中川会長は氣をやっておられるわけですから、ご理解いただけると思うんですが。
中川:
ええ、よくわかります。真氣光というのは、父親が創設したのですが、父は夢に出てくる白ひげの老人にいろいろなことを教えられていました。それが、神様なのか先祖様なのか、わかりませんが、何か高次元の意識によって教えられたものだと思います。たぶん、人間は自分の脳の中だけで物事を考えたり発想したりするばかりではなく、高次元からのメッセージを受けて、行動しているんじゃないでしょうか。真氣光というのも、宇宙に充満する癒しのエネルギーを中継するという考え方です。決して、自分が努力して出すわけではありません。これも、プレアデスからのメッセージと同じような考え方だと思います。人類も、そういう高次元のメッセージに耳を傾ける必要があると思います。
大内:
うれしいですね。こういうお話ができる方が増えてくると、世の中も変化していくと思いますね。
中川:
ところで、先生がこうした宇宙とか精神世界というのに興味をもったのはどういったことがきっかけだったのですか。
大内:
そうですね。そもそものきっかけは、今から40年も前のことになります。当時のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディさんが、東西文化交流センターをハワイに作ってくれて、アジア、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの大学院生が一緒に学び、研究する場ができたのです。私もさいわいなことに東西文化交流センターの奨学生として2年間留学することになったんです。その留学中に、大変な本に出合いまして。それが、私の人生の方向性を決めてくれたのかな。
中川:
それはどういう本だったのですか。
大内:
コナン・ドイルという作家はご存知ですよね。シャーロック・ホームズを書いた人です。彼は、有名な推理小説家でありましたが、心霊学にとても傾倒していて、スピリチュアリズムの方にエネルギーを注ぎたいと思っていた人です。彼は、ガイドさんというか指導霊というか、そういう存在から、これから大きな戦争が起こって、たくさんの若者が亡くなるから、その家族のためにも、あの世とこの世の仕組みを伝えるように言われていました。ドイルは、奥さんと、どちらか先にあの世へ行った方が、あの世のことを伝えようと約束しました。そして、1930年、彼が先にあの世へ旅立っていったんです。
中川:
それはすごい話ですね。それで、ドイルはあの世のことを伝えてきたんでしょうか。
大内:
そうなんですね。降霊会という、霊を降ろす儀式があるんですが、そこにドイルが現れて、いろいろなことを語ったわけです。それが一冊の本になっていまして、私はそれを読んで愕然としたわけです。この世の中というのは目に見えるものだけではないんだと、はっと目が覚める思いがしました。アメリカへ言語学を習いに行ったのだけれども、こっちの方が重要でしたね(笑)。その後、2人の子どもを亡くすという体験をしたりして、この本の内容が、心にどんどんと染みていったわけです。
中川:
そうだったんですか。すべての出来事が、先生を今の方向へ導くように働いているでしょうね。¥r¥nプレアデスの本を翻訳されたのが94年ですね。これは頼まれて翻訳されたものなんですか。
大内:
日本に戻ってからこの本に出合ったのですが、これは自分が翻訳するものだとすぐに決めました。ハートですよ。聖なる心の中に創造主の聖なるものがすべてあるのだけれども、それが眠っている。それを目覚めさせることができる本だと感じました。冗談でよく言うんですが、私は目覚まし時計なんだって(笑)。みなさんが、本当の使命に目覚めるのをお手伝いするのが、私の今生の役割だと思っています。この本を読むと、ほとんどの人が眠くなるって言うんですね。私も翻訳しながら眠くなってきて、少し眠っては書くということを繰り返していました。どうも、この本の中には仕掛けがあって、眠りながら深いメッセージを受け取るみたいなんですね。だから、車を運転するときには読まない方がいい(笑)。

<後略>

(2007年10月12日 玉川大学にて 構成 小原田泰久)

鶴亀 彰(つるかめ あきら)さん

1941年鹿児島生まれ。鹿児島ラ・サール高校をへて、京都外国語大学卒業。1966年、旅行会社のアメリカ駐在員となる。以来、41年間アメリカで暮らす。現在、日本からアメリカやメキシコに進出する企業の現地における支援や、アメリカのハイテク・ベンチャー企業の日本市場進出を手伝う。現在はインターネットテレビ局を立ち上げ中。

『戦死した父親に導かれた奇跡の出会い。 第二次世界大戦の傷を癒す』

奇跡的、感動的な出会いが連続して起こる

中川:
とても感動的な本がありますよ、と紹介されたのが鶴亀さんの『日英蘭奇跡の出会い』(学研)でした。鶴亀さんのお父さんは、第二次世界大戦中、潜水艦の機関長をやっておられたんですよね。
終戦の一年前に、東南アジアで戦死されたわけですが、その父親がどう生きて、どんな亡くなり方をしたのか、その足跡を探す旅をして、そこで題名どおりの奇跡の出会いがあるという話ですね。
とてもすばらしい出会いの連続に感動しながら、一気に読んでしまいました。
鶴亀:
ありがとうございます。中川会長がおっしゃるように、父の足跡を追ううち驚くような出会いが次々と起こりました。こんなことってあるのだろうかと、自分で体験しておきながら信じられないことの連続でした。
実は、今回、こうやって会長とお会いしているのも、私はすごく奇跡的なご縁だと思っているんです。と言いますのは、対談のご依頼を受けたときに、ハイゲンキマガジンを2冊送っていただきましたよね。そこに、会長とカルロス春日さんとの対談が出ていました。
実は、驚くなかれ、カルロス春日さんのお父さんとはずいぶんと昔からの知り合いなんです。
中川:
えっ、本当ですか。驚いたなあ(笑)。鶴亀さんは長年、ロスにお住まいに
なっていて、カルロス春日さん親子はメキシコだし、いったい、どういう縁でのお知り合いなんですか?
鶴亀:
私は、25歳のときに仕事でアメリカに渡りまして、2年ほどの予定だったのですが、どういうわけか41年もいることになってしまいました。
1979年に、一年間仕事を休みまして、中南米からヨーロッパ、東南アジアと旅行をしたことがありました。そのときに、メキシコにアパートを借りて一ヶ月滞在しました。そのときに、春日さんのお父さんと出会いました。
カルロス春日シニアは、アメリカ大陸に住む日系人の横のネットワークを作りたいと活動されていました。すばらしい方で、心から尊敬しています。だから、あの中川会長とカルロス春日ジュニアとの対談はとても懐かしい気持ちで読ませていただきました。
中川:
そうでしたか。何のご縁かはわかりませんが、意味があって、こうやって今日、お話をさせていただいているんでしょうね。
ロスでは、どういうお仕事をされているんですか?
鶴亀:
小さな会社ですが、『YUGOBI(融合美)』という会社を経営しています。日本とアメリカの融合、人間と自然の融合、作る人と買う人の融合とか、融合をテーマにした会社です。具体的には、日本の中小企業で作られたすぐれた商品とか地方の伝統工芸品をインターネットテレビを使ってマーケティングしていこうというものです。
中川:
融合という言葉はいいですね。われわれも見える世界と見えない世界、物質世界と精神世界を融合しようとしているんだなと、融合という言葉を聞いて、ふっと心に落ちるものがありました。

さて、鶴亀さんのお父さんのお話、奇跡の出会いのお話をお聞きかせください。
どういうことがきっかけで、お父さんのことを調べようとなさったのですか。まだ、最近のことですよね。
鶴亀:
2003年からですね。私は還暦を過ぎ、ワイフは50代後半に差し掛かっていました。まだ仕事はしていましたが、これからの2人の老後のことを考えるためにしばらく仕事を休んで旅に出ようかということになりました。
それなら世界一周をしようかと話が盛り上がり、3月9日にロスを出発しました。3月10日が私の62回目の誕生日。ハワイでお祝いしようという計画を立てての出発でした。
ハワイでささやかなお祝いをした後、ミクロネシアのボナペへ行きました。地上最後の楽園と呼ばれている島です。その次に行ったのがトラック島でした。ここで、不思議なことが起こったんです。
断っておきますが、私はこのときには父を追い求めようなどと思っていたわけではありませんでしたし、手相や血液型、占いというものには興味ない、非常に現実的な左脳型の人間でしたから、不思議現象など信じる方ではありませんでした。
中川:
私も同じでした。ご安心ください(笑)。
鶴亀:
スコールがやんで、やし林の中の散歩に出かけた私は、少し立ち止まって海をながめていました。そしたら、急に一陣の風が私を包み、その瞬間、『60年以上も前に、この地に父も立ったことがある』という強い感覚に襲われました。視覚のようでもあり、聴覚のようでもあり、触覚のようでもあったけど、そうでもないという不思議な感覚です。魂に伝わる感覚でした。ほんの一瞬のことです。1秒の何分の1かの時間だと思います。
中川:
うーん、なるほど。何かメッセージのようなものかもしれませんね。実際に、お父さんはトラック島へ来られていたんですか?
鶴亀:
後からいろいろと調べたのですが、父がトラック島へ来たという確かな証拠はまだみつかっていません。
でも、トラック島というのは、日本海軍の本拠地だったし、父が機関長をつとめていた伊百六十六という潜水艦が近くの海域まで来ているという記録があることから、父がトラック島へ立ち寄った可能性は高いと思います。

(後略)

(2007年9月26日 新宿ワシントンホテルにて 構成 小原田泰久)

外崎 肇一(とのさきけいいち(とのさき けいいち)さん

理学博士。1945年栃木県生まれ。東京教育大学理学部生物学科動物学卒。同大学院博士課程修了。朝日大学歯学部教授、岐阜大学農学部獣医学科教授、岐阜大学大学控教授などを経て、2002年から明海大学教授。嗅覚と味覚の生理学が専門。著書に「がんはにおいでわかる」(光文社)「においと香りの正体」(青春出版社)などがある。

『夢はにおいのわかるロボットを作ること』

においなんか研究するのは頭の悪い証拠

中川:
はじめまして。においのことを研究されている先生がおられるというので、ぜひお会いしてお話をうかがってみたいと、そう思っておうかがいしました。
今日は、よろしくお願いします。
外崎:
こちらこそ、興味をもっていただきましてありがとうございます。台風の中、大変だったでしょう。私も氣功について、いろいろとうかがえればと思います。7〜8年ほど前ですが、私が岐阜大学にいたころ、私の講座の講師がガンになりました。そしたら、女子学生が氣功で治すんだと講習会に行っていました。ひょっとして会長のところへ習いに行ったんじゃないかなあ。残念ながら、その講師は亡くなってしまいましたが。会長は、もともとは工学部だったそうですね。どんな分野を専門にされていたんですか。
中川:
私は、電機メーカーで、マイクロマシンの研究をしていました。
外崎:
最先端じゃないですか。それがなんで氣功をやられるようになったんですか?
中川:
私どもの氣功は真氣光と言って、私の父が始めたものです。私は、また変なことをはじめたと、最初は冷かな目で見ていました(笑)。技術者ですから、氣のような目に見えないものは信じなかったんですね。でも、ストレスで胃を壊して、父がやっている氣功を受けましたら、胃が良くなったんですね。それで、氣功に興味をもって、父の手伝いをするようになりました。1995年に父が急に亡くなって、まだ氣のこともよくわからないうちに跡を継ぐことになりました。それからもう12年ですか。氣のことはいまだによくわからないですけど(笑)。先生は、においの研究をどうして始められたんですか?
外崎:
高校時代、理論物理をやりたいと思っていました。でも、あの学問をやるのは頭のいい人ばっかりなので(笑)、実験物理にしようと決めていたんですね。そのころ、『2001年宇宙の旅』という映画があって、そこでハルというスーパーコンピューターが出てきます。この映画に、きれいなバラの花が出てきたけれど、ハルがそのバラの花のにおいを感じている様子はまったくなかった。そう言えば、鉄腕アトムという漫画でも、アトムがお茶の水博士に、自分も涙を流せるようになりたいと言う場面はあっても、においを感じるようになりたいとは言わなかったなと思ったわけです。どうしてにおいを感じるようにしてほしいとアトムは言わなかったのだろうというのが疑問になって、それならにおいのわかるロボットを作りたい、ロボットに鼻をつけてやろうと、そんなことを決心したわけです。いろいろ調べると、東京教育大学ににおいを研究している先生がいることがわかりました。それで、東京教育大学を第一志望にしました。それがにおいを研究するきっかけですね。
中川:
においを感じるロボットですか。人間には五感というのがありますよね。視覚とか聴覚とか。嗅覚というのは、あまり研究が進んでいないし、研究者も少ないと聞いていますが、そういう分野を専門にするのはけっこう大変なことじゃないですか。
外崎:
アメリカに留学していたとき、偉い先生に言われました。においなんか研究するのは頭の悪い証拠だって(笑)。視覚とか聴覚というのは、そのもととなる光や音の物理化学的性質はよくわかっているわけです。でも、においや味については、ぜんぜんわかっていない。そんなわけのわからない分野を研究するのは生理学研究者としては賢い選択ではないということだったと思います。本当にその通りで、今でもにおいの本質についてはまったくわかっていません。
中川:
氣というのは、あるかどうかわからない。だから、科学の対象にならないとされてきたと思います。でも、においというのは、間違いなくあるものですよね。それでも、科学的に検証されていないわけですね。わかりにくいからという理由で、そんなものを研究するのは頭が悪いというのも、わからないものを明らかにするのが科学の醍醐味だと思うのですが、変な話ですよね。

<後略>

(2007年9月6日 埼玉県坂戸市、明海大学にて 構成 小原田泰久)

浅川 嘉富(あさかわ よしとみ)さん

1941年山梨県小淵沢に生まれる。1965年東京理科大学・理学部を卒業後、日本火災海上保険株式会社(現、日本興亜損害保険株式会社)に入社。1999年専務取締役在任中に退任。退任後、ペルー、エジプト、メキシコなどの古代遺跡や、南極、北極などの辺境の地を探索。また、およそ40年前にペルーで発見された謎の石「カブレラストーン」の研究に取り組む。取材でアンデスを訪れたことがきっかけでジャングルに学校を建設する活動にも取り組み、既に5校を寄贈。

『石に描かれた絵は、 超古代人が残したメッセージ』

私たちの理解できないことが世の中では起こっている

中川:
はじめまして。浅川さんのご本を拝見しまして、ひとつは超古代文明の話、そして死後の世界の話ですが、ある種、怪しげと思われる話を、とても説得力をもって書かれています。裏づけをとりつつ発表していくという姿勢に、すばらしいなと感じました。
浅川:
ありがとうございます。確か、会長も理科系ですよね。私も理系出身なものですから、論理的に納得できないとがまんできないわけですよ。理系出身の会長が、氣をやっているというのも興味ありますね。どういう経緯があったんですか?
中川:
私どもの真氣光というのは、12年ほど前に亡くなった父が始めたものです。氣功師を養成するという一週間の講座をやっていて、氣功ブームのせいもあったと思うのですが、毎月200人近い人が集まるような盛況ぶりでした。私は、そのころ電機メーカーの技術者でした。父のやっていることについては、父は父、自分は自分の道を生きていけばいいと、まったく無関心でした。ところが、仕事のストレスで胃を悪くしたことがきっかけでしたが、その一週間の講座に出たら、私のそれまでの目に見えるものだけがすべてだという価値観はガラガラと音を立てて崩れてしまいました。その後、父が亡くなったものですから、私があとを継いだわけですが、10数年前の自分から見れば、考えられないようなことをやっているわけです。
浅川:
でも、会長の技術者時代のことは、今に役立っていると思いますよ。私は、長年、金融機関にいましたが、会社員時代の肩書きが、今のバックボーンになっていると感じています。大阪で講演があったとき、ある人が、最初はみんなあまり真剣に聞いていなかったけど浅川さんが経歴を話されたら、急にきちんと聞くようになりましたと教えてくれて、そんなものなんだなと気づきました。
中川:
そうですよね。大手金融機関の専務まで勤められたわけですから。でも、専務という社会的に信用のある職を辞してまで、どうしてこうした今の不思議世界に足を踏み入れたのですか?よほどのことがあったと思うのですが。
浅川:
よく聞かれますね。でも、中学生のころですから、50年も前から、UFOが大好きでした。そのころは空飛ぶ円盤と呼んでいましたが、その研究団体があって、そこの最年少のメンバーでした。そのうち、宇宙人もいるし、地球人もいて、どちらも必ず死ぬはずだけど、死んだら別々の世界に行くのだろうか、それとも一緒になるのだろうかということに興味をもって死後の世界の研究を始めたのです。さらに人間の文明は5000年前に始まったというけど、もっと前にも文明はあったのではということが気になって、UFO、霊的世界、先史文明が、私の三大テーマになったわけです。
中川:
50年前からとはずいぶんと年季が入っていますね。そういったベースがあって、今日につながっているのでしょうが、現役中に霊的世界の本を書かれたのには何か理由があったのでしょうか?
浅川:
15年ほど前でしたね。家内がガンになったんです。彼女は、死後の世界など信じていませんでしたから、ガンを告知されて、相当取り乱しました。私は、死んだらどうなるのかということを、彼女に毎日のように話してあげました。最初は耳を貸さなかった家内でしたが、徐々に耳を傾けるようになり、話の内容も理解するようになってきました。その後二年ほどして亡くなりましたが、本当に安らかな亡くなり方で、きれいな死に顔をしていました。それは荼毘に伏すのがもったいないような顔でした。結婚してはじめて『きれいな人だ』と思いましたね(笑)。
中川:
そういうことがあって、霊的なことを多くの人に知らせたいという気持ちになったわけですね。
浅川:
そうです。人が安らかに亡くなるのに、私の研究してきたことが役に立つならと思いました。それ以上、上の地位に上がってしまうとしばらくは辞められませんから、ここらが潮時だろうと、会社を早めに卒業することにしたわけです。『そろそろ本来の仕事をする時が来たわよ』と、家内が後押ししてくれたような気がしますね。

<後略>

(山梨県北杜市小淵沢町の浅川さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

松谷 みよ子(まつたに みよこ)さん

1926年(大正15年)東京生まれ。1951年「貝になった子供」で児童文学者協会新人賞を受賞。「龍の子太郎」で国際アンデルセン賞優良賞など受賞。「ちいさいモモちゃん」では、第二回野間児童文芸賞を、「モモちゃんとアカネちゃん」では、赤い鳥文学賞を受賞。ほかにも、「私のアンネ・フランク」「ふたりのイーダ」「わたしのいもうと」など200冊を超える著書がある。

『生きてきた中でいろいろなものに 出あえたことが作品になった。』

本を読みなさいと、母が本をそろえてくれた

中川:
「はじめまして。今日は、お忙しい中、お時間を作っていただきましてありがとうございます。先生のお書きになられた『ちいさいモモちゃん』、楽しく読ませていただきました」
松谷 :
「ありがとうございます。あの本が出て40年になりますね。モモちゃんシリーズは6冊書きましたが、30年かかっています。おかげさまで、たくさんの人が読んでくださっています。親子2代、あるいはこの本は大人の方も読んでくださっているので、おばあちゃんも含めた3代にわたって読者だったという方もいらしてね」
中川:
「どこの家にも先生の本があるんじゃないでしょうか。先生と対談するんだって話したら、私の知り合いが、お子さんが小さいころに、『いないいないばあ』という本を読んであげたことがあると、けっこう読み込んで、ところどころ破けた本をもってきてくれました。お子さんにせがまれて、何度も何度も読んだのではないかと、ほのぼのとした氣が感じられました」
松谷 :
「赤ちゃんの本を作れって言われたときはどうしうと思いましたけどね。赤ちゃんの本だと、赤とか黄色とか派手な色を使うことが多いんですが、ちょっと違うのを作りたかった。出版社も、本気で作るという姿勢だったし、それも驚きました。40年ほど前の本だけど、今でも読まれています。そんなこと、想像もしませんでした。でも、私の師匠の坪田譲治先生が、『この本は日本中の赤ちゃんが喜びますよ』と言ってくださいました。うれしいことに、本当にそうなりましたね」
中川:
「そもそも、先生が本を書こうとしたきっかけというのは何だったのですか?」
松谷 :
「小さいときから本にはなじんでいました。母が、とにかく本を読みなさいと、たくさんの本をそろえてくれました。日本児童文庫76冊、小学生全集88冊をそろえてくれました。本を読みなさい、家のことはしなくていいからって。家のことは、嫁に行けばできるようになるって言ってね。変な母親でしょ(笑い)」
中川:
「知的な環境にあったんですね。でも、家のことをしなくていいというお母さんは珍しいですね。嫁に行ったら何でもできるようになるからやらなくていいって、昭和の初めですよね、すごいお母さんでしたね」
松谷 :
「自分では家のことをきちんとしている人だったんですよ。とても美人でした。私は似なかったんだけど(笑い)。父と母は金沢の人でした。昔話はしてくれなかったですね。その代わり、母方の縁続きで手伝いに来てくれていた若いお姉さんが、お風呂で髪を洗いながら『しっぺい太郎』の昔話をしてくれましてね。私はその話が蜊Dきで、よく 近所の子どもたちと『しっぺい太郎ごっこ』をして遊びました」
中川:
「そうですか。しっぺい太郎って、どういうお話なんですか?」
松谷 :
「旅のお坊さんが山の中のお堂で一夜を明かすんですが、そのときに、人身御供の娘をさらっていく怪物を見かけるんです。その怪物は『あのこと このこと 聞かせるな 信州信濃の山奥の しっぺい太郎に 聞かせるな』って歌うんです。お坊さんは、その歌を頼りに信州を歩いてしっぺい太郎を探し当てます。しっぺい太郎は犬だったんですね。お坊さんは、その犬を連れて村へ帰り、怪物と退治するという話なんです。7歳か8歳のころですね。6つくらいのときには、自分のノートを作って、ページの片側に文章、別の方に絵を描いて絵本を作っていました。小さいころから書くことが好きだったんですね。そのノートも、戦争で焼けてしまいましたが」

<後略>

(練馬区大泉学園の 松谷みよ子先生のご自宅にて 構成 小原田泰久)

カルロス 春日(かるろす かすが)さん

1965年メキシコ生まれ。1991年ラサール大学医学部卒業。1992年真氣光研修講座(下田)に参加。1993年と1995年に「第3回・第4回皇乃子真圧心療道国際大会」でハイゲンキ治療の成果について講演。カルロス春日クリニック院長。

『メキシコで真氣光を 広め続ける日系三世医師』

真氣光専門クリニックにはたくさんのイルカのグッズが

中川:
お久し振りです。私が前回メキシコを訪れたときにお目に掛かった以来ですから、もう10年以上になりますか。
カルロス:
そうですね。お会いできて、本当に嬉しいです。ようこそ、いらっしゃいました。
中川:
素敵なクリニックですね。明るくて、ゆったりとしていて、とても気持ちが良いですね。あぁ(壁に掛かっている額を見つけて)、これは伊豆の下田で真氣光の研修講座を開催していたときに受講された修了書…。
カルロス:
はい。1992年6月に受講しました。
中川:
私は同じ年の5月の受講ですから、ほぼ同じ時期ですね。カルロスさんは、受講後しばらく池袋の東京センターで研修されていたんでしたね。
カルロス:
2ヶ月くらい滞在して、実際にクリニック(現在の東京センター)にいらした方にハイゲンキを当てるなどの実践を通して、氣の医療を学びました。その頃、私は医学部を卒業しインターンをしていましたから、新しい医療の世界と出合って視野が広がり、ちょうどいい時期でした。
中川:
その後メキシコに帰られてクリニックを開業し、以来ずっと今まで真氣光を取り入れた治療をなさっているのですね。
カルロス:
取り入れた治療、というより、真氣光だけの治療です。まず、身体の症状を訴えてこられる患者さんにいろいろお訊きし、その方の生活の仕方や考え方、心のあり方を診ていき、その方の自らの氣づきを促す、そういうような問診をします。それからツボセンサーで照射点を探してハイゲンキを当てて、会長のビデオテープで氣を中継しています。1人に1時間ですから、平日は昼の3時から夜の10時まで、だいたい1日に8人です。土曜日は朝8時から2時か3時くらいですね。
中川:
西洋医学のお医者さんでしたら普通は、1日に何十人も診るから1人当たりの診療時間は短時間ですが、カルロスさんは8人で8時間になってしまいますね
カルロス:
普通は8人の患者さんでは、生活は出来ませんが、父の会社でマネージャーなどの仕事をしているものですから。毎日、朝ミーティングがあります。
中川:
二つのお仕事をされているのですね。患者さんは丁寧にゆっくり診ていただいて喜んでおられるでしょう。
カルロス:
はい。喜んでくれていますよ。身体も心もとても楽になる、と。この大きなイルカの絵は、肺癌の方が良くなられたお礼にと描いてくれたのです。1年くらい通ってこられていたと思いますが、結果としては癌がすっかり消えてお元気になりました。こちらのイルカの絵も、別の方ですが、やはり癌が治ったと喜んで描いてプレゼントしてくれました。
中川:
患者さんの喜びが伝わってくるような、躍動感がある明るい絵ですね。他にも、イルカの絵や置物がいっぱいですね。イルカがお好きなのですか。
カルロス:
そうなんですよ。私は小さい頃からなぜかイルカが大好きなんです。それを知って、患者さんが持ってきてくれるんです。受付のデスクや診察室の棚、私のデスクの上に飾ってある物は、みんな患者さんのプレゼントです。可愛いでしょう。いつの間にか、こんなに増えました(笑)。¥r¥n真氣光に出合ったとき、先代がオーストラリアでイルカと氣の交流をなさったと知って、真氣光は私の大好きなイルカと縁が深いのだとびっくりしました。会長ご夫妻もバハマの海でイルカと泳がれているし、小原田さんもイルカの本を書いていらっしゃるし。不思議ですね。
中川:
小原田泰久さんは、オーストラリア、バハマと同行取材し、その体験をベースに『イルカが人を癒す』『イルカが教えてくれたこと』などの本を著されていますが、最近も本誌に「ジャーナリストが見た真氣光」と題して、そのときのことを書いてくれていました。¥r¥n私も、今回メキシコを訪れる前に、バハマでクルージングでのセミナーをしたのですが、合間に受講生はイルカと交流して楽しかったようですよ。
カルロス:
イルカに囲まれていると、心が和み応援をしてくれている感じがします。

<後略>

(2007年6月4日 メキシコにて  構成 須田玲子)

窪島 誠一郎(くぼしま せいいちろう)さん

「信濃デッサン館」「無言館」館主。作家。1941年東京生まれ。1979年長野県上田市に夭折画家の作品を展示する「信濃デッサン館」を、1997年には「無言館」を設立する。主な著作として『父への手紙』『「明大前」物語』『「信濃デッサン館」「無言館」遠景』『「無言館」の青春』『雁と雁の子-父・水上勉との日々』など多数。2005年、「無言館」の活動で第53回菊池寛賞を受賞。

『「無言館」に満ちる出征 画学生のひたむきな自己表現』

画学生のご遺族の家を北海道から種子島まで訪ね歩く

中川:
初めまして。私どもの会社は、見えないもの、つまり心や魂といったものを含めて“氣”といっているのですが、その“氣”の大切さをお伝えして皆がより幸せに暮らしていきましょうということを広めています。本誌の読者の方から、「無言館」のことを聞きまして、是非、館主の窪島さんにお話をうかがいたいと思った次第です。まず、「無言館」設立の経緯からお話しいただけますか。
窪島:
初めまして。私どもの会社は、見えないもの、つまり心や魂といったものを含めて“氣”といっているのですが、その“氣”の大切さをお伝えして皆がより幸せに暮らしていきましょうということを広めています。本誌の読者の方から、「無言館」のことを聞きまして、是非、館主の窪島さんにお話をうかがいたいと思った次第です。まず、「無言館」設立の経緯からお話しいただけますか。
中川:
亡くなった方が出征前に描いた貴重な作品とはいえ、ご両親が亡くなり更に代が替わっていけば、散逸してしまいますね。
窪島:
今まで自分が正視しないで、蔑ろにしてきた何かを突きつけられて、逃げ出したい感じがありました。僕は戦争が始まった年の生まれだけれど、全く戦争というものから目をそらせて生きてきました。絵描きになりたかったけれど高校中退して水商売をはじめて、高度成長期に金儲けにあくせくして、絵を買い集め34歳で若くして美術館の館主になって。敗戦のリバウンドですからね、あの高度成長期は。その甘い汁だけを吸って上昇志向で生きてきた男ですから。ご遺族と共有できる思いなんてそんなにないんです。いつも自分に自信が無くて、いつも空っぽの自分をそうではないように見せるのに一生懸命で。何かを偽って生きてきた感じ。でも、60を過ぎて所詮、空っぽは空っぽなのだと気づいた。そういう男が、ご遺族の方から「感謝しています」なんて言われる。そして、奇特なことをしている、いいことをしているようにメディアに取り上げられる… そういうのって、いたたまれない気持ちになるんです。もっと適当な人が居るのではという気持ちになりました。
中川:
そうですか。でも、実際にこうして窪島さんが美術館を建ててくださって多くの人がその方々の絵を見ることができるのですから。皆さんの絵は、家族を描いたものが多いですね。身近な一番大事な存在を出征前の短い時間に思いを籠(こ)めて描かれたのでしょう。
窪島:
そう、学生結婚していた妻や、恋人、妹、父母… 自分を愛して支えてくれた、そういう人々への深い感謝、思いやりを描いた。そこには、濃密な凝縮された時間がある。私たちが戦後何十年かで失ってしまった濃密な時間です。何もかも忘れてひたすら絵に打ち込む時間。明日か明後日には死に向かって発つときに凛として背筋を伸ばして、オレは絵を描くんだ、と。それはすごいですよ。それを実際に美術館に来て見て感じてもらいたいんです。たしかに、その“時間”は“氣”そのものですよ。今はインターネットだ、ケータイだとバタバタして落ち着かず、うわべだけのことに振り回されながらみんな死んでいく。そういう我々は、彼らの絵の前で立ちすくまざるを得ない。我々が失ったものの大きさ、それに気づくのですね。ところが、年間10万人も人が来てくれる美術館になってくると、ウワサだけで物事を判断する人たちが、インターネットかなんかで手軽に検索して取材に来る。実際に足を運んで彼らの絵を見て自分で何かを感じる… そういうことをしないままに、分かったつもりになってね。メディアに映像が流れたって、それは単なる情報です。情報は本物とは全く違うんです。もっと本物を見つめる時間を大事にしてもらいたい。世の中全体が空っぽの時代でね、これは自分を含めてですが、どうしようもないな、という気がします。
中川:
「無言館」で二十歳になった人たちの成人式をしておられるということですが、きっかけは今おっしゃったようなお気持ちからですか。
窪島:
みどりの日に成人式を始めて、今年で5回目になります。「無言館」は、ある意味では青春美術館なのです。きっかけといいますか、僕は彼らの絵が戦争回顧の道具になったら可哀想だと思ったんです。こう言っては何ですが、肝心の絵を見ないで、絵にお尻を向けて、涙、涙の反戦平和演説をされてもねえ。確かに彼らは戦争の中で死んでいったのですから、理不尽なあの時代が二度と来ないようにと願うのは当然です。しかし、だからといって彼らは平和運動のため、戦争を語るだけのために絵を描いたのではないんですよ。ひたすら故郷の青い空、愛しい家族を描くことで、自己表現、つまり自分がここに生きている喜びを表現したのです。
中川:
その画学生たちと同じ年頃の若い人たちが成人式に来て、そういう絵を見た感想は如何ですか。
窪島:
多くの人は押し黙ったまま帰りますよ。強烈なインパクトを受けるんでしょうね。中には「自分はまだまだ甘いと感じた」とか「一日一日を大事にしたい」とか言う。言葉は平凡ですが、雲の上の画学生はとても喜んでいるでしょうね。式には、ゲストに映画監督や作家の方をお呼びしてスピーチしていただくのですが、その方達も「自分自身が成人式を迎えたみたいな気がした」と、おっしゃるんです。若いから学ぶのではなく、人は死ぬまで自分を見つめるんですね。ゲストも若者も学ぶ、お互いに。そして、その主役は画学生なんです。ゲストの挨拶もいいですが、亡き画学生の無言の挨拶は大きいです。

<後略>

(2007年4月25日 「信濃デッサン館」にて 構成 須田玲子)

朝日 俊彦(あさひ としひこ)さん

1946年香川県高松市生まれ。1972年岡山大学医学部卒業。1979年岡山大学医学部講師を経て、1982年香川県立中央病院泌尿器科部長、2007年3月退職。現在、日本ホスピス在宅ケア研究会副代表、日本尊厳死協会理事、香川ターミナルケア研究会世話人、かがわ尊厳死を考える会会長。医学博士。著書に『笑って大往生』(洋泉社)『あなたは笑って大往生できますか』(慧文社)など。

『誰もが必ず迎える死… いい死に方をサポートしたい』

「死は受験」。慌てずに早い時期から準備を

中川:
先生のご著書『あなたは笑って大往生できますか』を拝読しまして、これは是非お会いしてお話をうかがいたいと思いました。また、知人がテレビで先生のお話を聞いて、いいお話だったと教えてくれました。
朝日:
NHKですね。今年初めに出させていただいたのですよ。その前に去年の9月に2晩にわたってNHKラジオ深夜便「こころの時代」でお話したのですが、このときは『あなたは笑って…』を読んでくださった方からの推薦によるものでした。
中川:
私どもは、「見えない氣というものがあり、これは光でありエネルギーであり、魂、心といったものと密接に関係している。そして、心を豊かにしていくと光が増して、周りの人をも楽にして差し上げられる」というようなことをお伝えしているのですが、先生のおっしゃることとオーバーラップしている部分も多く、共感しました。はじめは、お坊さんが書かれた本かなと思いましたら、現職のお医者さんだと(笑)。
朝日:
今の日本では、医者は治すのが仕事で、死を扱うのはお坊さん、ということですからね。でも、実際には現在、病院で亡くなる方が8割以上です。癌の患者さんの場合でしたら93%です。毎年亡くなる方が100万人ですから80万人が病院で亡くなっているわけです。病院は、そういう意味では、死ぬ場所なんですね。
よく、病院のランキングがあるでしょう。この病院に行けば良い手術をしてくれるとか、設備の整った病院や、最新技術を取り入れているのはここ、というようなランキングです。でも、ここに行けば安らかな温かい看取りができる、というようなランキングはありませんよね。
中川:
お医者さんは死については話さないし、患者さんも触れたがりませんから。
朝日:
でも、人は誰でも間違いなく死ぬのですから、治すだけが医療か?と思うんですよ。全部の方が治るかといったら、それは無理なのですから、辛い治療を受けて苦しんで悩んでというより、言葉は悪いかもしれませんが、気持ち良く死んでいただくことが重要でしょう。そして、医者はいい死に方をサポートすることも大事だと思うのです。
中川:
病院のお医者さんとしての長いお仕事から、そういう思いに至られたのでしょうね。
朝日:
そうです。35年間医者をしていますが、もちろん興味があったのは“治すこと”でした。治らなければ、達成感がないじゃないですか。死は医療の敗北だと言われていました。でも、それでしたら80万人が亡くなるそのときは、いつだって敗北でしょう。私は割合に早い時期の昭和58年から、ガン告知を始めました。まだ日本では少数派でしたから、英文の論文を読んだりしながら、試行錯誤して始めたのですが、「告知」から「死」を見つめることになり、それからいろいろと勉強して、実践して、その繰り返しで学びを深めてきました。
遺族の方々に集まっていただき茶話会をもって、話を聞かせてもらいました。今、家族を入院させている家族の方は、いわば病院に「人質」をとられているようなものだから(笑)、医者にはなかなか本音は言いづらいでしょう。でも、遺族はもう人質がいないのですから言える。そういう先輩の方々の意見を聞くことも、勉強になりました。
長い人生を共に過ごしたご夫婦は、いつも春風が気持ち良く吹いているときばかりではなかったでしょう。でも、死の間際にご主人が万感の思いを込めて「カアチャン、有り難う」と言ってくれたという方は、遺された後も心が安定しているんですね。一方、無念の死、未完の死を迎えてしまった場合は、ああしてあげれば良かったという後悔があり、それがトラウマになり、キズになっているのですね。だから、ご本人に死を告知してご夫婦で、いい時間を持てるように配慮することが必要じゃないかと思うのです。
中川:
感謝の気持ちは、いいエネルギーですから、そういういい氣の交流はお互いの心を癒しますね。
朝日:
私は看護学生に「死は受験」だと言っています。英語、国語、数学、理科、社会の受験勉強を3日でやれ、と言ったらパニックになってしまいますよね。死だって、急に言われたら慌てますよ。早い時期から少しずつ死の準備をしていくことが大事でしょう。
中川:
そしてまた、今、生きている時間をより良くするために死を考える、そういうことでもありますね。

<後略>

(2007年3月3日 日本尊厳死協会 四国支部にて 構成 須田玲子)

星野 直子(ほしの なおこ)さん

1969年埼玉県生まれ。女子聖学院短期大学国文科卒業後、書店勤務を経て、1993年に写真家・星野道夫氏と結婚。同年6月にアラスカ・フェアバンクスに移住。1994年長男・翔馬君を出産。1996年ロシア取材中の事故で道夫氏が死去。その後「星野道夫事務所」を設立し作品の管理などを行っている。2005年「星野道夫と見た風景」(新潮社)を刊行。

『自然を愛した写真家、 星野道夫さんとともに』

人々の感動を呼ぶ写真展

中川:
今日は宜しくお願いします。星野直子さんは写真家・星野道夫さんの奥様でいらっしゃるのですが、実は以前、家内が星野道夫さんの写真展を見せていただいたことがありまして、それが大変に素晴らしく、とても感激しておりました。
星野:
有難うございます。
中川:
今度は横浜でも写真展が開催されるそうですね。
星野:
はい、4月18日から横浜の高島屋で。
中川:
これは全国を回る形で開催されているのですか。
星野:
去年の8月に東京の銀座で始まりまして、その後、大阪、福島、札幌と回って、今度が横浜です。
中川:
私が星野道夫さんのことを初めて聞いたのは映画監督の龍村仁さんからなのですが、映画『地球交響曲第三番』に星野道夫さんの出演が決まっていて、その直前に事故で亡くなられたということでした。当時、龍村監督から「今度の映画は亡くなった方を主役に撮るんだ」という話を、興味深く聞かせていただきました。
星野:
はい、そうでしたね。
中川:
我々は目に見えない心のエネルギーのようなものを氣と呼んでいるんですが、この氣は特別な所にあるものではなく、誰もが持っていて、絵画や音楽など芸術的なものにも宿ることがあるのです。その氣が人の心に届いて、暗い気持ち、悲しい気持ち、苦しい気持ちのときにも作品から光をもらえる…、そういうものが世の中にはたくさんあるわけです。星野道夫さんの写真からも多くの人がエネルギーを受け取って、見た人を変えていくのかなと思います。今日はそれでいろいろお話を聞きたくて、お伺いした次第です。まずはご結婚された経緯からお聞きしたいのですが…。
星野:
私は両親ともにクリスチャンでしたので、ずっと家族で教会に通っていたのですが、その教会の牧師夫人が夫の姉だったのです。それで私の家族と、義姉の家族は親しくしていたのですが、まだ夫には会ったことがありませんでした。それがある日、義姉のほうから「会ってみませんか」と(笑)。それで夫と義姉の家族とが私の実家に遊びに来て、それがお見合いでした。ただ、そんな堅苦しいものではなく、みんなで夫のアラスカの話を聞いたりしていました。
中川:
その時の印象はどんな感じでしたか。
星野:
年が17歳離れていると聞いていたんですが、会ってみると本当に若くって、少年のように一生懸命話をしてくれたのが、すごく印象的でした。
中川:
それで、ご結婚されたわけですが、ご主人が撮影で家を空けられることも多かったのではないですか。
星野:
最初の年はできる限り一緒に行こうと言ってくれて、93年の5月に日本で結婚して、6月にアラスカに行って、もうその年はほとんど、家には少し準備をしに帰るぐらいで、北極圏やアリューシャン列島など、いろんな所に行きました。
中川:
それまでに旅行などはされていたのですか。
星野:
キャンプなどに興味はありましたが、自分一人でザックかついで行くようなことはありませんでした。それで初めてテント、寝袋というのを経験して、それがもう楽しくて(笑)。テントの張り方や、コンロの火のつけ方など、全部一から教えてもらいました。
中川:
その時に撮影された写真もずいぶんとあるのですか。
星野:
はい、写真集の中に「これ一緒に行った時のだな」と思い出すようなものがいくつかあります。

<後略》

(2007年3月6日 星野道夫事務所にて 構成 樋渡正太朗)

寺山 心一翁(てらやま しんいちろう)さん

1936年東京生まれ。1960年早稲田大学第一理工学部卒業。東芝で半導体素子の開発にたずさわった後、1980年寺山コサルタンツオフィスを設立。1984年にがんとなったことがきっかけでホリスティック医学、統合医療の分野で活躍するようになった。現在、ホリスティック経営コンサルタント、フィンドホーン財団評議員などを歴任。

『腫瘍に向かって、毎日 『ごめんなさい』 『愛している』 と声をかけた』

超多忙だった日々が続き、突然の発病

中川:
はじめまして。先生のお名前はあちこちでお聞きするのですが、こうやってお会いするのははじめてです。今日は、よろしくお願いします。
寺山:
こちらこそよろしくお願いします。やっとお会いできたという思いです。感激しています。
中川:
先代の会長とは、何度か会っておられるとお聞きしていますが。
寺山:
そうなんですよ。だから、ぜひ、今の会長にもお会いしたかった。
お父様は、すごい方でしたね。当時、あんなことできる人、いませんでしたから。両手を広げて氣を送っておられましたが、私は驚きましたよ。
生駒へぜひお越しくださいとお誘いを受けていたのに、なかなか行けないうちにお亡くなりになってしまって。ホントに残念でした。
中川:
父のことはどこでお知りになったんですか。
寺山:
湯川れい子さんにご紹介いただいたいんです。すごい人がいるからと言うんで、池袋の事務所へ連れて行かれて、一緒にお食事をしました。脂の乗ったお肉をおいしそうに食べておられました。その後、ホリスティック医学協会のシンポジウムにお誘いしたり、何度もお会いするチャンスがありました。
中川:
食べることは大好きでしたね。肉食はあまりしない方がいいと言われてもいたようですが、好きなものを食べるという姿勢は変わりませんでした。寺山先生は22年前にがんになられて、そのときは経営コンサルタントをやっておられたとお聞きしましたが。
寺山:
コンピュータ・システムの導入を企業に指導するという仕事をしていました。コンピュータというのが時代の花形になりつつある時代だったので、超多忙な毎日でした。睡眠時間を少しずつ減らしていって、家へ帰らずに仕事をする日がどんどんと増えていきました。¥r¥n当時の私の生活は、タバコは吸わなかったですが、コーヒーが大好きで、一日に10杯から20杯くらい飲み、食事は、肉やうなぎを常食していました。ひどいものでした。事務所が神楽坂にあったので、おいしい店がまわりにたくさんありましたから。便秘がひどくて、痔にも悩まされていました。
中川:
きっと、ストレスも多かったんでしょうね。私も、サラリーマン時代、かなり無理をして、体調を壊しましたから。
寺山:
そういう人ばかりですよ。あのころ、運動不足になるといけないと思ってヨガ教室へ通っていました。そしたら、ヨガの先生が『あなたのオーラがあまりよくありません。チャクラも閉じています』って言うんですね。今ならわかりますが、当時は、変なことを言う人だと思いました。
中川:
そりゃそうでしょうね。オーラやチャクラと言われても、ぴんときませんからね。そして、がんが発病したわけですね。
寺山:
高熱が出て、血便が出て、検査をしたら、すぐに手術だと言われました。でも、仕事がいっぱいありましたから、取りあえずは帰宅して、それから二ヶ月間、死に物狂いで仕事をこなし、新しい仕事は請け負わないようにしました。そして1984年の11月、家内に付き添われて、病院へ行ったわけです。精密検査を受けて、『右の腎臓に腫瘍ができています。手術で摘出しちゃいましょう』と言われました。そのころ、私は医学に関しては無知でしたから、それががんだとは思ってもみませんでした。

<後略>

(2007年2月19日 東京・「超越意識研究所」にて 構成 小原田泰久)

奥田 和子(おくだ かずこ)さん

1937年福岡県生まれ。広島大学教育学部卒。大阪大学発酵工学科研究員、イギリス・ジョーンモアーズ大学食物・栄養学科客員研究員などを経て、現在甲南女子大学人間科学部人間環境学科教授。学術博士。専門は現代食文化論、食生活デザイン論、調理科学。著書に『現代食生活論―21世紀へ向けての食生活づくり』『震災下の食―神戸からの提言』『なぜ食べるのか聖書と食』『食べること生きること』など。

『「食べること」から 「生きること」を考えてみよう』

命に、食事に携わってくれた人に感謝して戴く

中川:
初めまして。『栄養と料理』という雑誌に、先生の「食べる意味を問い直す」というお話が掲載されているのを目にして、素晴らしいことをおっしゃっている、これは是非お目にかかって、もっとお話をうかがいたいと思いました。
奥田:
あぁ、「宗教に学ぶ『食べ方の英知』」と題した記事ですね。インタビューに来られた方が、私の言いたいことを過不足無く、内容を良くまとめて書いてくださいました。ところで、おたくの雑誌を読んだだけでは、まだよく分からなくて、氣の株式会社?ちょっと大丈夫かな、と思ったんですよ(笑)。
中川:
まあ特殊といえば特殊で、他には無いような会社ですから、皆さんに、すぐには分かっていただけないことも多くて(笑)。ちょうど昨日まで合宿制の研修講座をしていたんですよ。
奥田:
研修講座?氣の出し方などを教えるのですか。
中川:
ハウツー的なことではなく、心の持ち方の勉強ですね。
奥田:
心、ですか。
中川:
そうです。例えば講座では、食事も栄養摂取の「行法」なんです。食べ物は、命を持った生き物で、その命を戴く。私たちは、見えないものを“氣”と言っていて、命も氣なんですね。そして更に、その命が私たちの食事となるには、いろいろな方たちの手を経て届けられます。魚を捕る人、卵を得るために鶏を育てる人、野菜を育てる人、運ぶ人、売買する人、調理する人、盛りつけや配膳をする人…そういう方々の氣もプラスされて、私たちはそれを戴くのですね。
奥田:
分かりやすいですね。私も「食事は命を戴いていることだ」と言っているのですが、その命は氣であって、さらに作ってくださる人たちの氣も加わって価値の高い食物に仕上がっていく、というわけですね。なるほど、それはスゴイじゃないか、と思います。
中川:
一口ご飯やおかずを口に入れたら、お箸を置いて目を瞑って、良く噛んで食事となった食材の命に、そして携わってくれた人たちにも感謝をしながら戴く…ということもしています。厳格な玄米菜食ではないのですが、なるべく野菜中心のものを、食べ過ぎないように適量を戴くということ。そして、大切なのはどんなものでも“感謝”の気持ちで戴くことだと思うのです。
奥田:
今は「金がどれだけかかったか」を、行動するときの心の拠り所にしています。これはコンビニの100 円のおにぎりだから食べ残して捨てても別にかまわない、などとね。“氣”の考え方を導入して、行動指針を決めていく、それは良いことですねえ。

<後略>

(2007年1月17日 甲南女子大学にて 構成 須田玲子)

古崎 新太郎(ふるさき しんたろう)さん

1938年東京生まれ。工学博士。1960年東京大学工学部卒。64年マサチューセッツ工科大学大学院修士課程修了。東洋高圧工業(現三井化学)を経て、東京大学大学院教授、98年九州大学大学院教授、2001年より崇城大学教授。96年度化学工学会会長。2003年、04年度日本膜学会会長。2000年より3年間日本学術会議会員を務め、研究連絡委員会委員長。化学兵器禁止機関(在オランダ)科学諮問委員。主な著書に『工学のためのバイオテクノロジー』『移動速度論』『バイオ生産物の分離工学』など。化学工学会学会賞、池田亀三郎記念賞受賞。現在崇城大学教授、東京大学名誉教授、日本学術会議連携会員。

『ミカルエンジニアからの提唱 「環境保全への提言と次世代に託す明るい将来」』

循環型社会を包括しエコバランスのとれた「エコトピア」

中川:
インターネットで「環境対策」について検索していましたら、古崎先生の「生態系に配慮した理想郷『エコトピア社会』の構築をめざして」という記事が目に留まりました。エコトピアとは初めて聞く言葉でしたが、「エコ」はエコロジー、つまり生物と生活環境との関連を研究する生態学のことですね。それと理想郷のユートピアと繋げた語だそうで、これは面白そうだと興味が湧きました。でも、資料を拝見すると随分難しそうですし、東大名誉教授でいらっしゃる先生にお話をうかがって、私どもが理解できるのかと、ちょっと躊躇していました(笑)。ご了承いただきまして、有り難うございます。今日は、先生の求めておられる方向性やお考えについてお話をうかがいたいと思います。
古崎:
話が専門的になってしまうかもしれませんが、何かお役に立つことがあればとお引き受けしました。東大を定年まで勤め上げましたので、名誉教授というわけですが、定年後九州大学教授を経て、今は熊本の崇城(そうじょう)大学の生物生命学部応用生命科学科で教えております。
中川:
私どものセンターが熊本と福岡にあるので、移動するときによくJRを利用するのですが、電車の中から見えますね。以前は確か、熊本工業大学といったように思いますが。
古崎:
2年程前に総合大学になり、創立者で前学長の名前の1字「崇」を取り、それから熊本城のすぐ側ですから「城」をと、そういうようなことで大学名が決まったと聞いています。また、「崇」には「高める」という意味も込められているようです。
中川さんがインターネットでご覧になったのは、3年前に発表した日本学術会前の1字「崇」を取り、議の化学工学研究連絡委員会の報告書でしょう。地球環境問題の解決や循環型社会構築のあり方について、化学工学の立場から社会に対する提言をまとめました。化学工学はもともと化学装置の設計から始まった学問ですが、その後種々のシステムを対象とするようになって、いまや解析の対象を問わないといっても過言ではありません。トータルでものを見ることができるという点が化学工学の強みで、循環型社会はそうした学問には最適のテーマといえます。エコトピアというのは、1981年にアメリカのアーネスト・カレンバックという方の命名です。
中川:
エコトピアは、地球環境問題を解決しながら、循環型社会を目指すということでしょうか。
古崎:
循環型社会は「資源・エネルギーの供給の限界を克服する持続型社会」といえますが、エコトピア社会とは、それと同時にまた「良好な環境を維持して自然と共存する社会」ということができます。エコトピアという言葉には、そうした生態系に悪影響を及ぼさないユートピア(理想郷)、環境に配慮した持続型社会という意味が込められています。いずれにしても、循環型社会を包括する、もっと大きなエコバランスの実現をめざすのが、我々の提言の趣旨です。
20世紀は、大量生産、大量消費、大量廃棄の時代でした。こういうスタイルを続けていれば、食糧が無くなり、環境破壊が進み、ローマクラブの「成長の限界」でも主張されたように、人類社会はあと100年位で破局を迎えると警鐘を鳴らす人もいるほどです。ESH…つまり環境と安全と健康ですが、それらが保たれた美しい社会に安心して住める、それにはどうしたらよいかということで、委員会で提案したのはシンクタンクではなく、ドゥタンクです。
中川:
なるほど、「ドゥタンク」ですか。「シンクタンク」というのは、各分野の学者からなる総合的研究組織のことですね。そのシンクタンクではないということは、「Think考える」だけではなく、「Do」つまり「実践」を備えたということですか。行動することが重要だと。
古崎:
うです。学術会議が内閣府の下にありますから、実行につながるビジョンを持ち、具体的政策の立案を行うということですね。先程も言いましたように、エコトピアは循環型社会と同じかというと、それだけでは不十分で、これは難しい問題なのです。例えば、車は部品の95%以上がリサイクルできますが、リサイクル率を極端に上げようとすると多量のエネルギーを使います。物を循環させるために、エネルギーを消費し、環境を汚染してしまうことになり、あちら立てればこちらが立たずということになります。
塩ビにしても塩素を含むからすべてダメだとは私は考えていません。鉄なら微生物が分解して土に戻るから自然に優しいといっても、それは錆びて劣化してしまうということですから、地中に埋設するなら鉄管より耐久性に優れた塩ビ管の方がいいのです。塩ビは非常に有効性の高いものですから、適材適所で使えばいいと思います。
中川:
要は、バランスの問題なのでしょうか。
古崎:
そうですね。例えば、家電リサイクル法では、リサイクル率95%といった目標を定めていますが、極端にリサイクル率を競うことにどんな意味があるのか疑問に思います。無理なリサイクルを進めることで無駄なエネルギーを消費したり、経済性が無視されてしまう場合もあるからです。
科学技術だけでなく社会科学までも含むトータルな視点で計画を立案して社会を指導していく機関が必要です。そして、やはり、最終的にはライフスタイルの変革がエコトピア社会の鍵となると思います。バランスの取れたリサイクルに加えてリスタイルの実現ですね。子供たちの将来を考えて、無駄なエネルギーを使わない、無駄な買い物をしない、そういった生活への転換が是非とも必要です。

<後略>

(2006年10月13日  熊本市崇城大学にて 構成 須田玲子)

雲(りん うん)さん

チベット密宗最古の宗派ボン教黒派の法王。両親は台湾の人で16歳のときに台湾に帰る。台湾大学で法律を文化大学で市政を学ぶと同時に、仏教以前から伝わる密宗ボン教を解読、気学・風水・易経など多岐にわたって研究し、従来のものに独自の解釈を加え、「林雲学」を打ち立てる。新しい風水と気についての講演を大学のセミナーをはじめ世界各地で行っている。また、世界有数の建築物や多くの大きなビルなどに対して設計段階でアドバイスを行っている。在米30数年で、サンフランシスコ大学、スタンフォード大学の客員教授を務め、国連やハーバード大学でも毎年講演を行う。カリフォルニアなどに五つの雲林禅寺を創立。現在ニューヨーク在住。著書に「Master Lin Yun's Feng Design」など。

『『チベット密宗ボン教の法王が説かれる、「風水は氣」』

「目の見えない人が大きな象を触ったら」の話

中川:
今日は、皆さんお忙しい中を有難うございます。今は夜の9時を回ろうとしていますが、8時まで大阪で龍村修先生主催の林雲先生の講演会があったそうですね。私もちょうど大阪で「真氣光セッション」をしておりましたので、こうしてお会い出来て、幸運でした。
龍村先生は、「真氣光研修講座」開催当初からずっと専任講師をしてくださっていますが、龍村先生のお姉さんの龍村和子さんから、先生のご紹介をいただきました。和子さんは、もう10年以上、毎年アメリカでの「真氣光&沖ヨガ セミナー」を主催していただいています。
龍村和子:
渡米して45年になります。ニューヨークで真氣光やヨガの教室を持っていて、またハイゲンキを取り入れた治療もしています。林先生は数年前に私の所にいらして、それ以来、ずっと親しくさせていただいています。先生は多岐にわたってご活躍なさっておられますが、ハイゲンキを当てると疲れないと喜んでおられるんですよ。私は3年前から、林先生の「風水」を学んでいますが、とても楽しくて勉強になります。
龍村 修:
今回、林先生が高野山大学での国際密教学術大会のために来日されると和子姉から聞き、めったにない機会ですので、是非、私が大阪で行っているヨガのクラスの方達や一般の方々にもお話をしていただきたいと思い、お願いしたのですが、その講演会が今日だったのです。
そしてまた、一昨年ニューヨークで中川会長と一緒に林先生とお目にかかったときはゆっくりお話しできる時間がなかったので、今回は是非、中川会長に会っていただきたかったのです。
林:
そうですか。中川さんは、随分お若いんですね(笑)。
中川:
ボン教の大変に偉い方でいらっしゃるそうですが、ちょっとご紹介いただけますか。
龍村和子:
ボン教というのは、仏教が入ってくる以前のチベット密教で、経典も割合に整理されている白派がありますが、先生はもっとも古い黒派の流れを受け継いでいます。そして、チベット仏教第四段階の教えであり、世俗を持って道場としているんですね。つまり、日常生活における学業、職業、健康など、人や家族の向上を図る、生活即修行とする教えをもって、氣の風水原理と宗教の実践を融合して、真義を分かりやすく教えてくださるのです。
龍村 修:
林先生は、幼い頃からお父様から四書五経などをはじめ国学の基礎を習い、6歳のときに大徳法師に認められてからは密教の手印・呪語・禮仏など色々と学ばれ、16歳で台湾に帰り、その後、大学で法律系や市政系を学び、仏教を学修しました――そういうことが、もうすぐ発行される「『気』と風水」という本に書かれています。
この本は、林雲先生について日本語で書かれたものとしては最初のものです。著者は、林先生のお弟子さんで花園大学や高野山大学で学ばれた鄭貴霞さんという方です。その本によると、林先生に大きな影響を与えた師は別に3人いらして、その一人からは密宗ボン教の「気学」「風水」「密医密術」と「発命改運」の密法を、もう一人からはボン教の密法・「易経」・金石・書法・詩詞を、さらにもう一人の師からは四書五経・詩詞を学ばれたということです。そして、先生は独自の解釈で「林雲学」というものを作り上げて、お伝えしているのです。
林:
「氣」は何であるか、人間が動くのはどうしてでしょう。科学者は説明が出来ます。「骨、神経、筋肉に脳からメッセージが伝えられて動くのだ」というように。もちろん、科学や医学のお蔭でいろいろなことが分かってきました。でも、世の中は日々刻々と変化しています。科学の分野でも違う解釈もあるし、とても早いスピードで変化もしています。
例えば、「目の見えない人が大きな象を触ったら」という話をご存じですか。触った部分が、耳だったら、鼻、足、背中…だったら、そのような各部分を全体だと思ってしまうこともあるかもしれないでしょう。そのように、主張は各人違っていて科学者がある説を唱えても、それが正しいとは限らないのです。
人間が動くのは、氣があるからですが、氣は生まれるときに出て、死んだときに無くなるのではないのです。亡くなるときには、氣は宇宙に還るのであって無くなりはしません。氣のコンディションがいろいろありますが、そのバランスをとるのが大事で、私のお伝えする風水がそれの手助けになるでしょう。
龍村 修:
日本の「北枕は良くない」ということなども、風水という範疇にあるのですか。
林:
日本に伝わっているのは、東西南北の方角を重視するコンパス派といわれている中国の風水ですが、方角は考えなくても良いのです。「風水」は、その昔、大変土地の澄んだ美しく氣の流れの良い土地で生まれました。でも、今はたくさんの遮蔽物が建てられ、人の数はものすごく増え、全く環境そのものが変化してしまっています。ですから、その土地、その家、その部屋によって、全部違っていて、一概に「北枕」はどうのということは意味がありません。重要なのは入り口です。そこから氣が入ってきてどのように巡るかということですね。
ベッドに寝るときにお腹の上に天井の梁があると圧迫感があって良くないとか、ベッドに寝たときの頭と壁を隔てて便器があるというのも良くない、そういうことはあります。部屋を開けたときに、デスクやベッドなどの重要なものはみんなすぐに見える場所に置かれているのがいいですね。土地、家、部屋の形に意味があります。
中川:
氣がいつも滞ることなく、巡っていることが大事ですね。
林:
そうです、それが私の言う風水なのです。建物もそうですが、人も同じです。全体に氣が巡っていて、ちゃんと頭にも氣が行っている人は、知恵があります。また、人それぞれの氣があります。氣の性格が人に出るともいえます。
例えば、「ハリネズミの氣」の人は、何を言われても批判的にとらえます。その人が上司であったらどうでしょう。部下が10分遅刻したら、「何で遅れた!」と怒ります。次の日、部下が10分早く来たら、「何で、そんなに早く来る必要があるのか」と、やはり怒ります。シャープな針で何でも周りをつっつく、そんな氣ですね。
「竹筒の氣」の人は、「はい」と返事はいいですが、何も聞いていない。まるで耳が無いかのように聞いていない、そういう人です。また、人の助けをしたいという気持ちがあるのだけど、ちっとも頭に氣が入っていない人は、何か言いたそうだけど言えない、やりたそうだけどやれない、というタイプですね。言えないから、急に頭の方にウワァと血が行ってしまう。
そういうことの解決策を探していくのが人生の風水です。お金が欲しい、地位が欲しい、自分の好きなこともしたい…という人は、いろんな方向にポンポンとエネルギーが外に出て行ってしまって、氣が保てない。そういう人は、氣を一つにまとめるために、呼吸法とか瞑想とかが必要です。
中川:
そうすると、林先生の風水は、心の問題が重要だと教えておられるということでしょうか。
林:
心はとても大事です。考え方を前向きにすること、自分の気持ちをいい方向に変えていくこと、それはとても大切なことです。
様々な環境で人々が幸せに生きていくために、風水を取り入れると大きな助けになるのですが、そのときに、自分の祈りを頭の中で映像化することが大切です。問題のある子供に困っているとき、部屋に植物を置いて、明るい顔でニコニコ笑って機嫌のいい子供の姿をリアルに思い描くのです。ご主人が外で遊んでいてなかなか帰って来てくれないときも、目で見るように、元気で帰って来てくれたのね、嬉しいわ!という映像を思い描くと、ご主人は遊んでいてもサッサと遊びを切り上げて何だか帰りたくなってしまうのです(笑)。
龍村和子:
林先生のこういうお話をうかがっていて、中川会長のおっしゃることと似ているな、同じことじゃないのと思ったのです(笑)。日本で一般的に風水といわれているものは、方角が重要だとされていますが、林先生は、方角にとらわれずに精神的なものを重要視され、目に見えない世界が関係しているとおっしゃるのです。そして、その解決法を教えてくださるのです。
林:
方角が悪いから、引越しなさいとか、家を壊してしまいなさいということではなく、入るものを清めて、いい氣を取り入れ、邪気を取り除くことが大事です。色と光で整えたりします。キラキラ輝いているクリスタルや、水のキラキラしている中で金魚が泳いでいるガラス鉢、澄んだ音色の空気を振動させる風鈴などを置くこともいいでしょう。部屋の植物や庭の木は、枯れてしまったものは片付けて、気持ちの良い環境を作る、そういう方法はたくさんあります。
中川:
自分の内部の氣、そして、環境、つまり外部の氣を整えて、常に循環させていくということの大切さですね。

<後略>

(2006年9月9日 大阪にて 構成 須田玲子)

河崎 義祐(かわさき よしすけ)さん

1936年福井市で生まれる。1960年慶應義塾大学経済学部を卒業し東宝株式会社入社。宣伝部、助監督を経て、1975年「青い山脈」(第14回大阪市民映画祭新人監督賞受賞)で監督デビュー。主な劇場用映画作品に「挽歌」「あいつと私」「若い人」「残照」「青春グラフィティ スニーカー・ぶるーす」など。他にテレビ映画、ビデオ作品、シナリオ作品、戯曲なども多数。主な著書は『母の大罪』『死と共に生きる』(共にエイジ出版)、『映画の創造』(講談社)、『父よあなたは強かったか』(PHP研究所)『映画・出前します』(毎日新聞社)など。1986年ボランティア団体「銀の会」設立。1997年映画の出前サービスを始める。2005年「銀の会」がNPO法人として認可され「シネマネットジャパン」と改称、理事長に。2005年度文化庁映画功労賞受賞。

『感謝と笑いを載せて 映画の出前いたします』

激動の昭和の時代を生き抜いてくれた高齢者の方々に

中川:
遠いところ恐縮です。お待ちしていました。
河崎:
初めまして。千葉茂樹監督(本誌190号巻頭対談ゲスト)からご紹介いただきました。今日はよろしくお願いいたします。
中川:
千葉監督には、十数年来懇意にしていただいています。中川さんの編集部の方から何冊か「月刊ハイゲンキ」を送っていただきましたが、今年の8月号(195号)の渡邊槙夫さんの対談記事を拝見して、胸打たれました。実は私も慶應の経済の出でしてね、渡邊さんは大先輩でいらっしゃるんですよ。また、取材に渡邊さんを訪問されたのが5月22日で、その2日後に中川さんが学徒出陣の記念碑を実際に訪れておられる。「出陣学徒壮行の地」と彫られた碑の前に立たれている中川さんの写真を見て、誠実な方だなぁと感銘し、是非お会いしたくなりました。
河崎:
ええ、還暦を迎えたときにふと思いついたのですよ。寝たきりのお年寄りのために、昔懐かしい映画を出前したら、きっと喜んでいただけるのじゃないかな、と。昭和の時代は激動の時代でした。家も仕事も食糧も何もかも無い大変な時代を生き抜いて、私たちを必死で育ててくれたのが今の高齢者の方々ですから、それこそ先程中川さんがおっしゃったように、その方々に対する感謝を私たちは忘れてはいけない、そう思ってですね。
また、昭和の時代は映画が娯楽の王様と呼ばれていました。それはたくさんの映画ファンの方々がいてくれたからこそですが、その方々に何か恩返しがしたいと思っていたことも「映画の出前」の発想につながりました。公民館や学校での巡回上映はあっても、たった一人の映画ファンのお年寄りのために映画を宅配するというサービスは誰もやっていませんでした。
中川:
それはユニークな活動ですね。映画監督として長年ご活躍され映画のことを熟知していらした河崎さんならではの発想だと思います。
河崎:
10年も自宅で寝たきりだという方のお宅に映画を上映しに行ったときのことですが、途中で隣家の方がお花を持ってお悔やみにいらしたのですよ。朝から見慣れないワゴン車が停まっていて、バタバタと雨戸が閉まりシ〜ンとして物音一つしない。これはきっと亡くなられたのだと誤解されたのですね。そのときは笑い話になりましたが、間もなく本当に亡くなられ、あのときの映画が「人生最後の映画」になってしまったのです。あぁ、もう待ったなしの状況なのだとつくづく思いました。
ホスピスにうかがったとき、あのときは「サウンドオブ ミュージック」でしたが、ご覧になっている方が汗ビッショリになって…。映画を観るというのは、思いのほか体力の要ることなのですね。生命の最後を振り絞って観てくださっているんだ、いいかげんにやってはいけない、とあらためて思い、上映会ごとに気合いを入れました。
中川:
映画を宅配するには、いろいろ機材も必要ですし、要望に応じてアチコチに出掛けて大変でしょう。
河崎:
個人宅ではフィルムの映写機では大きすぎますから、ビデオ上映です。スクリーンやスピーカーのアンプ、ビデオ映写機など、なるべくコンパクトなものを出来る範囲でそろえました。今はDVDに移行してきていますね。私が60歳になり年金が出るようになったので、それを活動資金に当てました。
はじめは全て無料で、お茶菓子も私が持っていっていましたが、あるとき「それでは来ていただいている私たちは、どうお礼の気持ちを表したらいいのですか」と戸惑ったように訊かれて。良かれと思っても押しつけの親切は、相手の方に気持ちの負担をお掛けしてしまうことに気づきました。それで、出前の交通費はいただくことにし、土産のお饅頭もやめて(笑)、上映前後に簡単にその映画に関するエピソードなどをお話することにしました。
中川:
それは良かったですね。皆さん、さぞ喜ばれたことでしょう。ビデオを観るだけならご自分でテレビに映してみることも出来るでしょうけれど、河崎さんならではのお話が聴けるなんて素晴らしいことです。
河崎:
監督の生い立ちや俳優の素顔など、できるだけ人間くさい部分や、私が実際に体験したちょっと面白い話などを紹介したのですが、これが皆さんに喜んでいただけましてね。何年も病気で苦しんでいた方がアハハと笑ってくれたりすると、私も嬉しくなりまして。あぁ、続けていて良かったなと思いますよ。他人の喜びが自分の喜びになる、それがボランティアなのでしょうね。それにしても、笑うということは人を元気にさせますね。
中川:
それは有り難うございます(笑)。
河崎:
“笑い”って、すごい力がありますよね。イギリスなんて、ユーモアやジョークがとても大事にされているじゃありませんか。「ピンチな場面ほどウイットの効いた一言を」というのは、政治家だってそうでしょう。ところが、日本では冗談や笑うことが低く見られてきて、「ふざけんじゃない」なんて叱られたりしてね。これはお殿様に忠義を尽くさなければいけない頃の名残じゃないですか。映画も喜劇映画は、小馬鹿にされてきました。
でもね、日本だって捨てたものじゃありません。私は寄席を“大学院”と呼んでいるんですよ。寄席に行くと実に勉強になります。落語は話術一つで人の心をキュッと掴んでしまって、笑わせてしまうでしょう。笑えるのって知的活動の一つだと思うんですよ。私も“生涯現役”、ここはひとつ、笑いを徹底解剖して研究し、笑いの復権を目指そうと思っているのですよ。

<後略>

(2006年10月18日 長野県安曇野市穂高有明にて構成 須田玲子)

長倉 洋海(ながくら ひろみ)さん

1952年北海道釧路市に生まれる。1977年同志社大学法学部卒業後、時事通信社カメラマンを経て、80年よりフリーランスのフォト・ジャーナリストとして活動を始める。アフリカ、中東、中南米、東南アジアなど世界各地の紛争地に生きる人々やアマゾンなどの辺境に暮らす人々の取材を重ねて現在に至る。写真集『獅子よ瞑れ アフガン1980~2002』(河出書房新社)『サルバドル 救世主の国』(宝島社)、著書『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』(徳間書店)『ヘスースとフランシスコーエルサルバトル内戦を生き抜いて』(福音館)『フォト・ジャーナリストの眼』(岩波新書)など多数。1983年の「日本写真協会新人賞」をはじめ「第12回土門拳賞」「産経児童出版文化賞」を受賞。最新刊に「アフガニスタン 山の学校の子どもたち」(偕成社)。

『世界の紛争地で生きる人々の 笑顔、涙…を撮り続けて』

大学では探検部、写真を褒められて報道写真家として

中川:
インターネットの富士フイルムのサイトで長倉さんのフォト作品に出合って、人々の表情の豊かさに見入ってしまいました。それで、すぐに写真集『きみが微笑む時』『へスースとフランシスコ』を購入し拝見しました。特に、紛争地に暮らしているのにもかかわらず子供たちの笑顔が実に良くて感動してしまい、長倉さんに是非お会いしたくなったのです。たくさんお聞きしたいことがあるのですが、まず、どうしてこの道に進まれたのでしょうか。大学は法学部ですよね。
長倉:
はい。何となくというか、ツブシがきくということで法学部に行きました。でも、クラブ活動に探検部を選んでしまってからは、結局休学したりで6年間在籍し道が変ってしまったというか…(笑)。
中川:
探検部ですか。それが報道ジャーナリストの道にと繋がっていったのは分かるような気がします。
長倉:
それまでの高校生活というのは、家と学校の往復でしょう。親元を離れて大学に入って初めて、新しい世界に触れたことが大きいと思います。さらに広がりを求めて日本の川をいかだで下ったり、太平洋の孤島でも生活しました。1975年のとき、大学3年生でしたが1年間休学してアフガニスタンに滞在しました。ただ、その感動を自分の中だけで終えるのではなく、他の人にも伝えていきたい、と卒業時には考えるようになりました。
中川:
写真には興味がおありだったのですか。
長倉:
私がアフガニスタンで撮った写真を、取材に来た記者が「いい写真だねえ」と褒めてくれて、嬉しくて天にも昇る気持ちになりました。とりたてて得意なものは何もありませんでしたから、自分は写真に才能があると思い込むようにして(笑)。その後、運良く通信社のカメラマンになれました。褒められるのって、大切なことですよね。そうやって背中を押してもらったお蔭で、今の道を歩き始められたのですから。通信社には79年まで約3年間いました。
そのうちにデスクに言われた仕事をこなすより、自分で世界を見つめたくなり、退社してフリーランスになり世界のあちこちの紛争現場を回って戦場のレポートをしました。初めのうちは報道カメラマンとして世界中に注目されている現場でスクープを決めてアッと言わせたいという思いでした。でも、一つの国に長く滞在するうちに、そこに生活している人は、人間として何を感じながら日々真剣に生き抜こうとしているのかな、と思うようになって、長い時間をかけて彼らを見ていきたいという思いが募ってきました。以前は世界中からジャーナリストがやって来て報道合戦をしていたのに、次に訪れた時には、もうそういう人は誰もいなくなって、でもそこではまだ戦争は続いていて、瓦礫の中でも彼らは私たちと同じように毎日を笑ったり泣いたりして生きているという当たり前のことに気づき、それを何とか写真で伝えたいと。マスコミが取り上げるのは、戦争の表面を伝えているだけではないか、という疑問もありましたから。自分自身の眼でじっくりと物事や人間を見なければ、時代のマスコミの流れに右往左往するだけだ、と感じたのです。
中川:
自分自身の視点を獲得するというのは、大変なことでしょうね。
長倉:
人に出会い、取材をし、さらに発表した写真を大勢の人に見てもらう…そうしていくうちに、自分のスタイルや自分の眼が出来てくるのだと思います。
私はマスードという私と同い年のアフガニスタンの戦士に会いに何度も厳しい旅をして、生活を共にしながら、17年にわたって撮り続けました。彼との生活の中でも自分が随分変わりました。
中川:
ずいぶん長い間、しかもアフガニスタンの戦士を…。あの紛争はいろいろと複雑で分かりにくいのですが、ちょっと説明していただけますか。
長倉:
78年にアフガニスタンにソ連軍が侵攻し、マスードたちはそれに抵抗し、ついにソ連を撤退に追い込んで、一度はイスラム政権ができたのですが、その後はパキスタンの強力な支援を受けるイスラム原理主義のタリバンが力を増しました。しかし、タリバンは女性の権利を剥奪したり、偶像崇拝を排し世界遺産の仏像を破壊したり、近代社会の方針とは逆行する極端な政策をとるなどし、マスードもアフガニスタン人による自主独立を願い、北部同盟を結成しタリバンに抵抗しました。しかし、2001年9月9日、ジャーナリストを装ったテロリストに暗殺されました。アメリカの9・11事件の起こる2日前のことでした。
中川:
よく、そういう戦士の同行取材ができましたね。
長倉:
大国ソ連と、一見無謀とも思える戦いをどうして続けるのか、同年齢の若者が何を思いながら闘っているのかを知れば、分かりにくいこの戦争が見えてくるのではないかと思いました。そういうレポートはあまりありませんでしたから。83年春、さんざん苦労して彼のもとにたどり着き、多少ペルシャ語ができましたので一生懸命に頼み込んで、許可を得ました。行ってみたら、戦士たちは銃を持って戦っていても家族を愛し、鳥のさえずりに耳を傾け、バラの花を口にくわえて詩を口ずさんだり、一見“平和”の中に生きているはずの自分より、よっぽど豊かで人間的だと感じられて、惹かれました。どうして戦いが起きたのかということはそれぞれ違う、その中で人々はどう感じたのかを知っていかないと、次の戦争を止める力になりません。紛争の中に身を置きながら、平和を望み家族と共に過ごしたいと思っている彼らがどうして戦いを続けるのかと取材を続けてきました。
中川:
共感を持ってカメラを向けておられるから、写真を見る人も温かいものを感じるのでしょう。長倉さんは人間がお好きなんだ、という感じがします。
長倉:
戦争の表層よりもその中に生きる人間にだんだん惹かれるようになっていきました。もちろん、初めは文化、習慣、言葉の違いに戸惑い、フラストレーションが溜まり、二度と来るものか、などと思ったりもしましたよ。でも、時間をかけることで、また何度も訪れることで、紛争地に生きる人々が多面的に見えてきたのです。
中川:
人の顔を撮るのは難しいですよね。相手があることですから。カメラを構えると普通なら、戦士ばかりでなく一般の人たちにも警戒されるでしょう。よほど信頼を得られないと許してもらえないでしょう。
長倉:
今はデジタルですから撮ったものはすぐに見せられますが、当時はフィルムでしたからすぐには見せられません。撮られた写真をどう使われるのか不安でしょうし、相手にはメリットは無いわけですよ。それを撮らせてもらう。どうしたら自分の気持ちを証明できるのだろうか。結局、笑みを浮かべる他ありませんでした。でも、それは写真を撮らせてもらいたいという野心ミエミエの笑顔だっただろうと思いますよ(笑)。そんなぎこちない笑顔でも、言葉が通じなくても、笑顔を浮かべて「いいよ」と言ってくれたことに救われました。笑顔というのは凄いんだと思いました。万国共通のパスポートなんですね。私は撮った写真は次に訪れたときに、写っている本人にできるだけ渡すようにしています。写真を受け取ると、大喜びしてくれて…。少年は若者になり、少女は母親になっていたりします。

<後略>

(2006年8月29日 東京・日比谷公園「松本楼」にて構成 須田玲子)

著書の紹介

「涙 ― 誰かに会いたくて」
長倉 洋海 (著)
(PHPエディターズグループ)

廣澤 英雄(ひろさわ ひでお)さん

1937年茨城県に生まれる。1958年に合気道「龍ヶ崎道場」に入門。1961年から68年までの約7年間、開祖植芝盛平師の弟子(その間、内弟子2年)。1994年に7段を取得。2006年イタリアに招待され合気道の模範演技を披露し指導。現在、茨城県合気道連盟理事、(財)合気会茨城支部道場指導部師範。他に大学や道場、カルチャースクール、クラブなどで合気道を指導。

『競い合わず、宇宙のリズムと 同調している合気道』

タクシーの運転手さんとお客さんとの氣の交流が

中川:
お忙しいところ朝からお越しいただきまして、ありがとうございます。また、大変暑い中、遠方よりいらしていただき恐縮です。
廣澤:
いえいえ、私もお目にかかれるのを楽しみにして来ました。
中川:
私どもの会社は、氣の重要性をお伝えし、日常的に氣を上手に取り入れて心を磨き、より幸せな生活を送りましょうということを提唱している、ちょっと珍しい株式会社(笑)なのです。
先日、うちの会員の山田秀明さんから、廣澤さんをご紹介いただきました。やはり会員の森田さん、樋渡さんと一緒に廣澤さんの道場をお訪ねして、いろいろとお話をうかがい大変感銘を受けたそうで、是非、私にも会ってほしいと連絡をくれたのです。山田さんから話を聞いていて、どうも、廣澤さんのおっしゃっていることが、私どもがお伝えしていることと、とても共通していると感じまして、これは直接お会いしてお話をうかがいたいと思った次第です。
ところで、山田さんとお会いしたのは、何とも面白い偶然だったそうで…(笑)。
廣澤:
そうなんですよ。私は以前からずっとタクシーの運転手をしています。この職業は、深夜も車を走らせて、その翌日は「空け」で休みなんですよ。それで、合気道の練習に通う時間が取れて都合が良かったものですから、長年タクシーの運転手をしていました。今はいくつかの道場で指導もしていて忙しいし、来年で70を迎えますから週に2日だけ運転しています。
タクシーの運転手も「合気」なんですよ。お客さんが乗ってまだ行く先を告げないうちに、もうどこに行くか分かってしまうことがあります。「どこどこですね」などと言うと、ビクッとして「前に、乗りましたか?」と。また、乗り込んだ途端に「銀座の○○のママさんですね」と言って、驚かせてしまったこともあります。スッと心を結ぶと、何か自分にメッセージが届いてそれをキャッチするとでもいいましょうか、そんな感じで分かってしまうのです。
山田さんとお会いしたのは8年程前のことです。突然降ってきた大雨で、山田さんが私の車を停めて乗ってきました。そして、何かのきっかけで私が「痛みや身体の不具合を治すことが出来るけれど、それは宇宙からの氣を中継するだけで私が治しているわけではない」というような話になりまして。降りるときに、お互いに何か感じたのでしょう、名刺を交換したんですよ。それから1年に1度か2度、私が何か氣づくと山田さんに電話し30分ほど話をして…という繋がりでした。そうしたら1ヶ月ほど前にお友達と一緒に道場に会いに来てくれて、話が弾み、こうして中川会長とお会いすることになったというわけです。
中川:
そうでしたか、それもまたご縁ですね。私もタクシーに乗ったときに運転手さんがイライラした感じのときなどには、そっと後ろの座席から氣をお送りしています。そうすると、だんだんと刺々しい雰囲気が和らいで穏やかになって、あぁ氣が届いたなとこちらも嬉しくなったりして。廣澤さんは、反対に運転手さんの立場からお客さんと氣の交流をしていらっしゃるわけですね。
廣澤:
ずいぶん調べられましたね。そうです、開祖を私どもは大先生とお呼びしていますが、大先生より前の武道は、究極的には相手を殺すまでいってしまう剣術、闘技である武術でありました。大先生も戦争中は国の命令で海軍の兵学校などの教師をさせられていましたが、それを嫌っていました。大先生の確立された合気道は「和の武道」です。戦わず、競い合わない。ですから試合はありません。試合は、敵を作ります。試合は「死合い」に通じます。命、今日は取られたけれど、明日は命ある…そんなことはないでしょう。合気道は、敵を作らず勝ち負けはないのです。試合を無くしたということは、無我の境地を確立したということです。
大自然に同化し一体化した動きであり、そこには対立相剋の世界もなく、相手もなく、ただ自己の気が宇宙の気に合いして動くというものです。宇宙のリズムに同調させる。大先生は最後の頃、「宇宙は腹の中にあり」とおっしゃっていました。「武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛練することである」と書き残されてもいます。
中川:
先代も、争う気持ちはマイナスの波動を生み出してしまう、とよく言っていました。オリンピックなど国を挙げて勝つことだけにこだわり、メダルの数だけを競い合っていてはいいことがないと。
廣澤:
形は違っても、それでは国同士のケンカです。合気道はスポーツでもケンカでもありません。昔、私が若い頃ですが、山の中で大きな木を相手に木刀で打ち込んでいたら背後から声が聞こえたんですよ。「周りの木々すべてが敵なら、どうするんだ」と。どうすることもできませんよね、そうか、闘わないのが一番いいんだ、って分かりました。そうでしょう。私は山に入って自然と一体となることに努めていました。合気道は、畳の上だけの鍛錬ではダメですね。それでは勝った、負けたで終わりです。
中川:
廣澤さんが合気道を始められたきっかけは、何だったのですか。
廣澤:
私の先祖、曽祖父ですが関口流柔術をしておりまして、兄弟は柔道の道を進みましたが、私は合気道の方に行ったのです。もともと武道の家系だったということもありますし、合気道は百姓をしながら練習するのに最高だったのです。
大先生の内弟子になったのは、21歳の頃でした。掃除からご飯炊きまで、大先生の身の回りのことを何から何までやり、教えをいただきました。
中川:
内弟子になられたのですか。外から通ってくる外弟子と、寝食を共にして学ぶ内弟子はだいぶ違いますよね。
廣澤:
そうですね。大先生は37年前に亡くなりましたが、私はその直前まで一緒でしたから。大先生は弟子に肩をもませて、ダメな奴にはすぐに「もういい!」と。こう言われたら、役に立たないということなんです。肩をもむときに息を止めて押すと、相手も息を止めてしまって痛い。押そうとすると、抵抗が出来ます。息を吸って押せば、相手も息を吸い、心と心が結ばれる。心を許すと受けとめられる。呼吸なんですよ、呼吸を合わせれば例え棒で押されても大丈夫です。大先生の背中には幾つもタコができていました。心と心の交流を一番大事にされていたのです。
大先生も若い頃は構えていました。でも構えるということは相手にスキを与えてしまうことになります。だから、若い頃の大先生に教わった人と、晩年に教わった人とは違うのです。構えず、迎えに行く。さぁどうぞいらっしゃい、と。そして投げるのではなく導くのです。掴(つか)まれたら、解こうとするのではなく、スウ〜ッと息を吸えばいい、そしてフゥ〜と吐く。
中川:
掴まれたら息を吸って、吐く…ちょっと聞くと簡単そうですね(笑)。
廣澤:
そう、簡単です。でも、そこまで来るのは大変ですが(笑)。押さえよう、勝とう、投げよう、そういう気持ちは合気道にはありません。合気道は競い合わないのです。今年、イタリアに招かれてクロアチア、ブルガリア、南アフリカなど11ヶ国から集まった200人ほどの方々の前で、合気道の実技を見せ指導しました。
肉体を意識していれば投げられると痛い。そして、このヤロウ!という気持ちになる。心を呼吸で結べば、そういう気持ちはパッと消えます。「合気」は「愛」に通じるものであり、人類を仲良く一つ家族にする道です。呼吸している宇宙、その中で人間は生かされています。言葉で説明していても分かりにくいかもしれませんが、ようは心が先なのです。
中川:
何でもそうですね。まず心で、身体は後からついてきます。ですから、その心の部分をどのような状態にもっていくかが大事で、私も「洗心」を心がけることの大切さをお伝えしています。
廣澤:
そうですね。真白い心で立つと周囲の黒い心を浄化できます。泉が湧き出るように浄化できる。中心に立つ者が汚れた心だと、周囲はドロドロになってしまいます。
ところで、頭に思ったことを形に表すこと… で思い出しましたが、私は40年程前に「世界びっくりアワー」というテレビ番組に出演したんです(笑)。頭の中に鶴が羽ばたくイメージが湧き、それを忠実に形に再現しました。紙と針金を使って本物そっくりに鶴が羽ばたくのです。大先生がそれを見て、「それも合気だよ」とおっしゃいました。
頭で思ったことを形に表すことが合気で、合気道は宇宙を神と崇めて、宗教を飛び越えて一つ家族になる、そういうことを身体で表しています。そういうことをイタリアで話しましたら、拍手が起きました。

<後略>

(2006年8月21日エス・エー・エス東京本社にて 構成 須田玲子)

三木 健(みき たけし)さん

1940年沖縄県石垣島生まれ。八重山高等学校、明治大学政経学部卒業。1965年琉球新報社に入社。93年から98年まで編集局長。06年6月まで琉球新報社取締役副社長。ラジオ沖縄取締役会長、石垣市史編集委員、竹富町史編集委員。沖縄県シーカヤッククラブ顧問。著書に『八重山近代民衆史』、『沖縄・西表炭坑史』、『宮良長包-沖縄音楽の先駆-』、『戦場の「ベビー!」タッちゃんとオカァの沖縄戦』など多数。

『埋もれた先人に光を当てて 平和の心を育んでいこう』

「密林に消えた歴史」を掘り起こし西表(いりおもて)島炭坑史を

三木:
遠いところ、ようこそ、三木です。どうして、私の話を?と、少々戸惑っているんですよ。
中川:
初めまして、中川です。実は私どもは「氣」というものを体験し、いい氣を取り入れながら、幸せな生活を送りましょう、ということを学ぶ合宿制のセミナーをしているのですが、その受講生から三木さんのことをうかがったのです。
その方は天野輝代さんといって、70歳位でしょうか。天野さんのお母さんが9歳のときに熊本の自宅から誘拐され、西表島の小さな孤島の内離(うちばなり)島に連れて行かれて、炭鉱で働かせられていた人たちの子供の子守りをさせられていた、というのです。天野さんのお祖父さんが必死で探し、17歳になって一児の母になっていた、天野さんのお母さんを救出したそうです。初めて聞く話で驚いてしまいましたが、「このことは、三木健先生が本に書かれている」、とおっしゃるのですね。それで、早速、インターネットで三木さんの『沖縄・西表炭坑史』を取り寄せて拝読させていただきました。そして、これは是非とも直にお目にかかって、お話をうかがいたいと思った次第です。
三木:
あぁ、そうだったのですか。明治時代から第二次世界大戦の終わり頃まで、本土、九州や台湾から多くの人々をだまして連れて来て、監禁状態で炭坑で働かせた、大変悲惨な事実があるのですよ。ほとんどの人は、故郷に戻れないままに重労働の末に体を壊し、或いはマラリアに罹って亡くなりました。
中川:
三木さんが、この西表炭坑史を書こうと思われたのはどうしてですか。
三木:
私は石垣島で生まれ育ったのですが、高校生のときにクラブの旅行で西表島を訪れたときに、白浜という部落の山の後ろから幽霊が出る、という話を聞いたのです。どうして?と訊くと、炭坑で苦しめられた霊が成仏できずにいるから、というのですね。怖い話だなと思ったものの、そのときはそのままになってしまいました。
それが東京で新聞記者として働いているとき、郷土の歴史を調べる機会があって、そういえば、あの話は何だったんだろう?と思い出しました。東京にいる炭坑関係者が見つかり、話を聞いたのですが、聞けば聞くほど凄(すさ)まじくて…。私もまるで坑道に引きずり込まれるようにして、20数人の方々を訪ね歩き、「生き残り証言」を書くことになったのです。
中川:
その頃は、証言をしてくれる当事者がご存命だったのですね。
三木:
そうです。今から30年前のことでしたから、あのときが直接話を聞ける最後のチャンスでしたね。皆さん、「バナナも米も豊富で食べ物には困らない、賃金ももちろん貰える、などの甘言で連れて来られたら、事実は大違いだった」と。
行くときの運賃や食べ物代が負債となって、島に到着時には既に借金を背負っている。返済のために働き、賃金は炭坑の売店でしか使えない金券ですから、逃走して島外に出たらただの紙切れです。会社が倒産したら、蓄えた金券は使えません。台湾の人はモルヒネを打たれて中毒になり、モルヒネ欲しさに連れて来られたケースも多いのです
中川:
逃亡するにも、島ですから難しかったでしょうね。
三木:
私は「緑の牢獄」と呼んでいます。明治時代は、囚人を使って掘らせていたけれどマラリアで死んでしまい人手が足りなくなって、こういう荒っぽい方法で連れて来るようになったようです。
網屋頭という、炭坑夫の動向の見張り役がいて、逃亡を企てたものは連れ戻され、木に吊るされメッタ打ちにされ、一晩中、蚊にくわれて…。でも、中にごくまれに脱出に成功する者もいて、その圧制の実態が白日の下にさらされることになりました。大正時代の新聞には、その様子が記事にされてたくさん掲載されていますよ。でも、警察と通じていた経営者側は、いつも罪を免れて無傷だったのです。
中川:
私が生まれ育った北海道には炭鉱が多く、戦前戦中には朝鮮や中国から強制連行され著しい人権侵害によって、終戦までにたくさんの人が亡くなったと聞きます。炭鉱には、そんな悲しい歴史が多いようですね…。
三木:
北海道のご出身ですか。私も夕張炭鉱を見に行きましたよ。炭鉱は廃鉱になって忘れられていき、西表島もいまや地元の人たちだって、「炭鉱があったらしいよ」という程度です。西表島の炭鉱は炭層が薄いので、「狸掘り」という方法を採っていました。本坑道はトロッコが入る位の広さはあったのですが、そこから幾本にも枝葉のような狭い坑道が伸びていて、炭坑夫はこの中を横になって寝ながら窮屈な姿勢で掘り進んでいったのです。そして、戦後米軍が接収して民間に再度払い下げられましたが、数年で閉鎖になりました。こうして悲惨極まりない実態があったことは、全く忘れ去られてしまったのです。
私は、この「密林に消えた歴史」を掘り起こして、犠牲になった多くの方々の慰霊を何とか少しでもしなければと思いました。どうやって人々に知ってもらおうかと考えて、今までに、証言集、資料集、写真集、ノンフィクションに纏(まと)めてきました。
中川:
高校生のときに聞いた「幽霊話」が発端で、ライフワークにまで発展していったのですね。
三木:
私もこんなに炭坑史に関わるなんて思ってもいなかったのですが、それこそ霊が呼んだのかもしれませんね。
中川:
負の歴史は重いですが、事実をまず知ることがとても大事だと思います。次世代に伝えていかないと。三木さんがお書きになったことで、亡くなった方々は気持ちが報いられたと喜んでおられると思います。
三木:
こういうものを書いてきたことで、炭坑関係者の遺族の方から「本を読んで、炭坑の全体像が分かりました」とか「お父さんがどこで、どんな生活をしていたか分かりました」という声が寄せられています。台湾の方からもお手紙を戴きました。私は立派な「石の慰霊塔」は創りませんでしたが、書くことで「紙の慰霊碑」を後世に残せたかなと。
中川:
本当にそうですね。書物をお書きになったことで、また多くの方が読んでくださることで、亡くなった方々に光が届きます。

(後略)

(2006年5月30日 沖縄「琉球新報」本社にて 構成 須田玲子)

著書の紹介

「場の「ベビー!」― タッちゃんとオカアの沖縄戦」
三木 健(著)
ニライ社

渡邊 槇夫(わたなべ まきお)さん

1923年満州撫順生まれ。1943年慶応大学在学中に学徒出陣、陸軍に入営、志願して第3期特別操縦見習士官となり南方に派遣。ジャワ、スマトラ、ジョホールなど各地を移動し、46年に復員、復学。49年朝日新聞社に入社、記者として新聞、テレビ報道に従事。93年学徒出陣50周年記念碑建立事業に参加。また勤労動員に駆り出された元女学生と元出陣学徒を集めて「戦争と学徒の青春を考える会」を主宰した。

『次世代を担う人々に伝えたい 「学徒出陣」のこと』

男性は学徒出陣、女学生は勤労動員…学校は空っぽに

中川:
国立競技場のマラソン門の脇に学徒出陣の記念碑があり、その建立に渡邊さんがご尽力されたと知り、今日は「学徒出陣」のことについてうかがいたいと思っておじゃまさせていただきました。60年前の太平洋戦争の際には、ペンを捨て戦地に赴いた若い方々が大勢いらした、そういうことを私たちは忘れてはいけないと思うのです。
渡邊:
テレビの戦争に関する番組などで、雨の中を大勢の学生が行進しているフィルムを今までに何度も放映しているので、ご覧になっていらっしゃると思いますが、あれが1943年10月21日に東京の明治神宮外苑競技場…現在の国立競技場ですが、そこで行われた、学徒出陣の壮行会です。
壮行会は全国各地で挙行されましたが、特にこの日の壮行会は、東京、神奈川、埼玉、千葉から77校の学生が集まり分列行進し、それを女学生や後輩男子学生、家族たちが観客席を埋め尽くして見送った大規模なものでした。行進した学生数は伏せられていましたが、約3万5千人といわれています。
あの出陣学徒の総数は何人だったのか、実は政府機関には記録がないので、はっきりとは分かっていないのですが、陸軍8万、海軍2万人のあわせて10万人というのが標準的な概数とされています。戦死者の数はさらに不明で、概数さえ示されていません。実数は敗戦時に、書類と共に焼却されたからだといわれています。
中川:
不明というのは、胸が痛みますね。1943年というと、開戦が1941年12月ですから、学徒出陣は開戦の2年後ですね。
渡邊:
そうです。私はちょうど徴兵適齢の満20歳でしたが、それまでは、大学、予科、専門学校などに在学中の学生は卒業するまで徴集を延期されていたのです。戦局は厳しさを増し、ガダルカナル島からの撤退、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島をはじめ太平洋の島々での玉砕が続いていました。
そんな中で兵役に服さずにいる男子学生の姿は、目障りに感じていた人たちもいたようです。国民の間にも、特に生産力である男子を軍にとられている農、山、漁村では学生に対する不平等感と不満が暗い影となって広がって風当たりが強まっていったように思います。そして、1943年6月25日に戦力増強のための学徒総動員が閣議で本決まりになりました。
女性に対しては、9月には14歳から25歳未満の未婚女性で勤労挺身隊を編成することになりました。男を軍の下に入れて、空いたところを女で埋める、そういうことです。そして、男子学生に対する兵役法上の徴集延期の特典が10月2日についに文科系に対してだけ停止されました。そのわずか2ヵ月後の12月に学生たちは一斉に入隊させられたのです。
中川:
渡邊さんは、そのお一人だったのですね。
渡邊:
そうです。私は慶應義塾大学の経済学部1年でした。2年前の開戦の日、登校したとき、教室は灰色に見えました。私は米国と戦えば負けると思っていたので、これで「死」に向かって行かなくてはならなくなるのだと覚悟をしました。自分の「死」を考えるのは初めてのことです。「死」への階段を一段上がったわけです。
そして、43年9月の学徒の一斉入営が発表されました。この時「いよいよ自由を奪われるのだ」「死に直面することになるのだ」と悟りました。「死」への階段2段目に立ちました。ですからこの後の事態の激化には、心の動揺はそう起きなかったと思っています。
塾長の小泉信三先生は慶應義塾の壮行会で「国のため、しっかり戦ってきてくれ。そして、またここに帰って来い」と言ってくれました。他の大学でも同じで、「帰って来い」「また会おう」という、このなんでもない言葉が出陣学徒には心の大きな支えになったのです。
中川:
「また、ここに帰って来い」…送り出す先生方もどんなお気持ちだったことか。
渡邊:
12月24日には、徴兵適齢が1年引き下げられて19歳となりました。満州事変勃発以来すでに10年。男子の最後の集団である学生が学徒出陣でいなくなってしまった後に残ったのは、子供と女性、男は年を取った人ばかりです。それまでも、一般工場で働いたり、畑を耕したりして生産を支えてきた女性たちは、男たちが担当していた部署の穴埋めに総動員されました。女学生も中学生も、行学一体の標語のもとに勤労動員に駆り出されて武器や弾薬の製造など軍事産業に従事し、学校で勉学どころではなくなりました。
まもなく理科系の学生も軍需工場に動員され、翌年の44年10月には兵役は17歳からとなり、それ以下でも志願すれば軍務につけるようになりました。こうして、学校は空っぽになりました。
太平洋戦争に入る前から、飛行機や武器を作るからと、お寺の鐘、銅像、繊維関係工場の機械などから、底の抜けたヤカンや鉄の火鉢、錆びた針金や釘にいたるまで、徹底的に各家庭から金属が集められました。そのように材料が何もかもない状況で、まともな飛行機など製造できますか。軍需用燃料もなくなり、松の根から航空燃料油を採るということで、農民、それに学徒兵たちも松の根掘りに動員されました。

<後略>

(2006年5月22日 埼玉県の渡邊槇夫氏のご自宅にて 構成 須田玲子)

星川 淳(ほしかわ じゅん)さん

1952年東京生まれ。作家・翻訳家。九州芸術工科大学、米国ワールドカレッジ・ ウェスト大学中退。インド、アメリカ滞在後、1982年より屋久島在住。“半農半 著”のかたわら、環境問題にも積極的に関与。98年から8年間、屋久町環境審議 会会長。著訳書のテーマは精神世界、環境思想、先住民文化、平和など多岐にわ たる。著書に『魂の民主主義』、『屋久島水讃歌』、『地球生活』、共著に坂本龍一 監修『非戦』、訳書『暴走する文明』、『アメリカ建国とイロコイ民主制』、『一万 年の旅路』など60冊以上。04年、TUP(平和をめざす翻訳者たち)監修『世界は 変えられる』(七つ森書館)に対し日本ジャーナリスト会議より市民メディア賞 受賞。05年12月よりグリーンピース・ジャパン事務局長

『屋久島の半農半著生活から 「グリーンピース・ジャパン事務局長」に』

前回の対談は9年前、映画『地球交響曲』との繋がり

星川:
お久し振りです。
中川:
以前、お話をうかがったのはいつかなと思いましたら、97年なんですよ。97年の12月号で対談させていただきました。
星川:
9年も経ちますか。早いですね。
中川:
そのときの記事のタイトルは、「我々は先祖の大きな祈りの渦の中にいます」でしたが、インディアンの方たちは、重要なことは7代後の子孫のことを考えて決めるとか、5万年くらいの幅の視野が必要だ、などのお話をうかがい感銘を覚えました。
また、龍村仁監督が『地球交響曲 第3番』を撮ろうと着手したときに、星川さんのご著書に出合ったことなどもうかがい、ご縁を感じました。
星川:
そうですね。あの『精霊の橋』は『ベーリンジアの記憶』と改題し文庫本になりましたが、残念ながら今は絶版です。あのとき、監督にハワイ先住民族のナイノア・トンプソンをご紹介し、彼、『地球交響曲 第3番』に登場しているでしょう。いろいろ繋がって広がっていきました。
中川:
星川さんは、『星の航海師―ナイノア・トンプソンの肖像』という本もお書きになっていますね。彼は、タヒチからハワイまでかつて祖先たちが渡ってきた外洋双胴カヌーの航海を今に蘇らせた方ですね。
星川:
ハワイやポリネシアの人々が、自分たちの伝統文化に自信をもち、活性化させていく中で、ナイノアがもう一度道を開いた星や波など自然情報だけを使う長距離航海はその象徴となっているんです。監督も第3番を、「私たちの心の奥に眠っている5000年以上前の記憶を呼び覚まし、地球の心、命の不思議に遠く思いを馳せる 魂のロードムービー」とおっしゃっていました。
中川:
今回は、星川さんが「グリーンピース・ジャパン」の事務局長になられたとうかがい、そのお話もお聞きしたいと思いまして。
星川:
まだ去年の12月に就任したばかりなので、十分なお話が出来るかどうか(微笑)。
中川:
それまでは、ずっと屋久島にお住まいで、 「半農半著」の生活を送っておられたのですね。今は東京ですか。
星川:
20年あまり自然の中の屋久島に住んでいましたから大都会の環境に馴染めず、海に近い湘南に家を借りましたが、事務所がある新宿までの通勤がまた大変で…(苦笑)。屋久島には年に2度、クリスマスから正月にかけてと、夏の休暇しか帰れそうにありません。屋久島の家は果樹園の中にあり、放っておくとあっという間に草に覆われてしまいます。27歳の息子が漁師をしながら最低限の管理はしてくれていますが、休暇で帰ったらまず掃除や草刈がひと仕事でしょう。
中川:
そういう屋久島を出て、グリーンピースのお仕事を引き受けられたのはどうしてですか。
星川:
グリーンピースの初期のメンバーである、カナダ人と日本人の若いカップルが日本で活動をしていらして、70年代半ばに知り合ったのです。私は個人として作家として環境と平和の問題を最大のテーマとしてきました。20代前半にインドのラジニーシの元で学び、その後アメリカに渡って、大学で応用生態学を学んだあと、山の中で電気も水道もガスもない生活を送りました。
そこで感じたのは、人類は自然を支配し、開発し、搾取する技術を追求してきたけれど、あまりの行き過ぎに、現代は人間自身を含めた地球全体が変調をきたしているということでした。そこで、生態系との調和の取れた技術のあり方、文明のあり方を問い直すライフスタイルを身につけたいと思ったのです。アメリカから帰国後に、自然と身近に接する暮らしを続けたいと、屋久島へ移り住みました。
そんなわけでグリーンピースの活動には早くから賛同し、1989年にグリーンピース・ジャパンが出来た当初からサポーター会員となって陰ながら応援してきました。また、屋久島の原生林保護や、隣接する種子島の使用済み核燃料中間貯蔵施設の立地阻止などに際しては、他のNGOと並んでグリーンピース・ジャパンからも有形無形の支援を受けました。

<後略>

(2006月5月16日東京・西新宿「グリーンピース・ジャパン事務局」にて構成 須田玲子)

五十嵐 薫(いがらし かおる)さん

1953年山形県鶴岡市に生まれる。電気通信大学物理工学科卒業。ミネベア(株)に勤務し、電子設計部門を担当。'82年内省セミナーのインストラクターを務める一方、自宅で家庭内暴力、不登校の青少年を育てる。'85年マザー・テレサのもとで奉仕の精神を学ぶ『インド心の旅』を始める。'99年特定非営利活動法人「レインボー国際協会」を創設、理事長。インドのコルカタに、親のない子ども達の家レインボー・ホームと無料クリニックを運営している。東京都府中市在住。

『マザー・テレサが伝えてくれた二つの言葉』

「アイ サースト!」と叫ぶイエスを見た

中川:
はじめまして。3月号で対談させていただいた千葉茂樹監督から五十嵐さんをご紹介いただきました。
五十嵐:
千葉監督とは、もうかれこれ20年以上のお付き合いになります。私が、自宅で家庭内暴力や登校拒否の子ども達を常時10人ほど預かって生活していたときに、千葉監督が「あなたが預かっている子ども達を、インドに連れて行って、マザー・テレサの施設でボランティアを体験させたらどうかな。日本は望めば誰もがいつでも学校に行ける。インドには貧しくて生きるのが精一杯で、学校に行きたくても行けない子ども達がたくさんいるよ。あなたのところの子ども達も、彼らと接すると、価値観が変わるかもしれない」とおっしゃってくれました。
それで、1985年に少年達を連れてインドに行き、マザー・テレサのところでボランティアをさせていただいたのです。マザーは快く受け入れてくださいました。マザーは1979年に来日したときに、「インドには経済的に恵まれず貧困にあえいでいる人がたくさんいます。でも、日本にも貧しい人は大勢います。あなたの周りに、家庭に、学校に、職場にも。それは、自分なんてこの世に必要がない、と思っている人たちのことです」と、日本人に向けてメッセージを残していきました。
中川:
マザー・テレサに初めてお会いしたときの印象は、いかがでしたか。
五十嵐:
たいへん驚きました。小柄な方なのに、持っている雰囲気がものすごく大きくて温かくて、思わずボロボロと涙があふれ出て、泣いてしまいました。マザーは、「(ドントクライ).(泣かないで)」と言って、自室から小さいメダイ(マリア様が刻まれたペンダント)を持って来られ、それに接吻して私に下さいました。「苦しいとき、このメダイに祈りなさい。あなたの祈りは必ずかなえられる、これは『奇跡のメダイ』です」と言って。それ以来、私はこのメダイを肌身離さず持っています。こうして始まった『インド心の旅』だったのですが、当初は年に1回だったのが、参加者のリクエストに応えているうちに、年に2度、そして3度になり、今は年に6回以上行くようになりました。
中川:
インドで貴重な体験をしてきた子ども達は、その後どんなふうに変わりましたか。
五十嵐:
彼らはものすごく心を揺さぶられて帰国するのですが、残念ながら親や学校の先生は変わっていません。元のままの環境に戻って子ども達は、だんだんとまた以前と同じような生活、思い方に戻っていってしまうんですね。もちろん、大きく変化していく子もいますが…。
マザー・テレサのところでボランティアすることを学ぶ必要があるのは、子ども達よりもむしろ大人の方だと私は思いました。そして講演会に呼ばれるたびに、PTAや学校の先生、看護士さんなど医療関係の方々、福祉に携わる方々にマザー・テレサの精神を訴えていったのです。
中川:
私どもも合宿制の研修講座を毎月開催しています。そこでいい氣をたくさん受けながら、心の持ち方などを学び、感謝の生活の中で幸せに生きていきましょう、というものなのです。最近では、心の不安定な若い人たちも多く参加されるのですが、研修後に帰るとまた以前と同じようになってしまうということも多々あります。親御さんの理解がとっても大事だと言うことを痛感しています。そういうこともあって、親子一緒の受講をお勧めしているのです。
五十嵐:
私は若いとき、様々な問題を抱えた子ども達を預かって、同じ屋根の下で24時間一緒に生きてきました。ある時、「五十嵐さんに預けたうちの子が逃げ帰って来て、家で暴れているので引き取りに来てほしい」、とその子の母親から夜中の2時頃に電話がありました。「連れ帰ってくれって言ったって、自分の子供じゃないか」と思いましたが、とにかく車で駆けつけ、話を聞き、気持ちが落ち着いたところで、「さあ、帰ろう」と手をさしのべました。彼は突然、「イヤだ!」と叫び、持っていた安全剃刀(かみそり)をふりあげました。私の顔の傷はその時に切られたものです。27針縫いました。
彼は、「親は僕を問題児扱いにして、他人の家に預け、自分たちは知らん顔で相変わらずの生き方をしている。そんなことってないじゃないか」と叫んでいたのです。私は病院のベッドの中で考えました。親と子どもはこの世に出てくる前に、大きな約束をし合って出てくる。血みどろになって闘いながらも、そこから学ばなければいけないものがあるはずであり、私が何か良いことをやっているような気持ちで、安易に親子の宿題を奪ってはならないのではないかと。そんな思いに至って、預かっていた子どもを返すことにしたのです。その子が親に対して「I THIRST(アイ サースト).」(私は渇いている)と訴えていたことを私に教えてくれたのがマザー・テレサでした。
中川:
アイ サーストですか。喉が渇いている、何かを懸命に求めている、ということですか。
五十嵐:
そうです。1946年8月、イスラムとヒンズーの激しい争いがコルカタ(旧カルカッタ)で起こりました。ロレット女子修道会の、寮で生活する貧しい子ども達を守るために、マザー・テレサは食糧を求め、コルカタの街を東奔西走しました。過労がたたり持病の気管支炎が再発し、当時の管区長に静養を命じられてダージリンにある観想修道院に向かいました。その途中の列車の中で、突然マザーの目の前に現れ、語りかけてきた人がいたのです。それは十字架で息を引き取る直前のイエス・キリストでした。マザー・テレサに「I THIRST.」(私は渇いている)と語りかけたのです。
あの世に帰る時期が近いと思ったのでしょうか、マザー・テレサは1993年3月25日に遺書と呼んでもおかしくない一通の手紙を、ベナレスから「神の愛の宣教者会」のシスターの方に送りました。マザーが他界したあとに、私は偶然その遺書のコピーを見てしまったのですが、読んでいきながらハンマーで殴られたように愕然としました。自分はそれまで10年以上マザーのもとに通っていながら、何もわかっていなかったと、ベナレスからの手紙を読みながら泣きました。その手紙には、イエス・キリストのことを「Real living person(リアルリビング パーソン)」と書いてありました。1946年9月10日、マザーの目の前に現れたのは、単に聖書に出てくる想像上でのイエスではなく、本当に生きて実在しているイエス・キリストだったのです。こんなことを言っても信じていただけるかわかりませんが、マザー・テレサにとってイエスや聖母マリアは、目に見える、語ることができる、触れることができる、実在の人だったのです。その実在の語りかけに導かれて、生きたマザーはどんなに幸せだったことか…。ここまで確信が持てたら人生に何の不安もありませんよね。
中川:
そうだったのですか。啓示のような声が聞こえたり、見えたりすること、それはあると思います。
五十嵐:
手紙の中でマザー・テレサは「Shy(シャイ)」と言う言葉を使って、「私にイエスやマリアが見えて、話ができることは恥ずかしいことだ」とおっしゃっています。そうでした、マザー・テレサは最期までこのことを人に語らず、あの世に帰っていきました。
中川:
マザーの生涯にわたる、強い信念を持った活動の原点ともいえる出来事だったのですね。
五十嵐:
この時のメッセージが「貧しい人々の中の最も貧しい人に心から仕えること」として、「神の愛の宣教者会」の四つ目の誓願に加えられました。ベナレスの手紙に遺されております。『神の愛の宣教者会』は「I THIRST.」(私は渇いている)という、イエス・キリストの渇きを満たす為、その目的の為だけに聖母マリアが作られた修道会だと。

<後略>

(2006年4月12日 府中市NPOボランティア活動センターにて 構成 須田玲子)

鎌仲 ひとみ(かまなか ひとみ)さん

映像作家、東京工科大学メディア学部助教授。91年、カナダ国立映画制作所へわたり、その後ニューヨークで活動。95年に帰国。映画「ヒバクシャ―世界の終わりに」は、国内外の300ヶ所で上映会が行われた。地球環境映像祭アース・ビジョン大賞などを受賞。今年、新作映画『六ヶ所村ラプソディー』が完成。

『毎日食べるお米が放射能に汚染されても、電気が必要ですか』

ヒバクには、「被爆」と「被曝」の2種類がある

中川:
以前、2003年9月号で鎌仲監督の撮られた『ヒバクシャ』というドキュメンタリー映画をご紹介させていただきました。その後も、核や原子力のことについては、あちこちで耳にする機会があって、今の時代の大変な問題で、だれもが真剣に考えなければならないことだなと感じるようになってきたところです。監督にお会いできるというので楽しみにしていました。
本誌でも原子力のことを連載するようになって、読者の方も関心をもって読んでくださると思います。
ぜひ、一人でも多くの人に、原子力について関心をもってもらいたいと思っています。今、日本でも原子力については、大きな転機に立たされているということを痛感しますから。
鎌仲:
その節はお世話になりました。おかげさまで、『ヒバクシャ』はたくさんの人が見てくださいました。
今回、『六ヶ所村ラプソディー』という映画を撮ったわけですが、『ヒバクシャ』はイラクという遠い国の出来事だったけれども、いよいよ私たち日本人の足もとでも、ヒバクシャが生まれてくる瀬戸際に立たされているわけです。
その情報があまりにもなさすぎます。一方的に原子力に反対するということではありませんが、今何が起こっているのか、事実を知って、それによって原発が必要かどうかを選択する必要があるという思いで、今回の映画は作りました。
中川:
ヒバクというと、二種類あるのだそうですね。『被爆』と『被曝』。原爆なんかで、外から放射線を受けるのが被爆で、放射性の物質を食べ物や空気と一緒にとってしまうことで、体内から放射線にさらされるのが被曝ですね。
チェルノブイリの原発事故でも、被爆よりも被曝による被害の方がずっと大きかった。それは当然で、放射能が四方八方に広がって、それによって被曝した人は世界中にいると言ってもいいでしょうから。
両方を合わせて、ヒバクシャとカタカナで表記しているということでいいですよね。
鎌仲:
そのとおりです。今回の映画の舞台になった六ヶ所村というのは、青森県の下北半島にある人口1万2000人ほどの小さな村です。ここが、日本がエネルギー政策として行おうとしている原子燃料サイクルの中心地になっています。
原子力発電に使うウランを濃縮する工場、原子力発電所から出る高レベルの放射性廃棄物を貯蔵したり、低レベルの放射性廃棄物を埋設したりする施設があって、それに加えて、原子炉で燃やした使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを取り出す再処理工場も稼動しようとしています。そして、このプルトニウムを燃料にして、新型の原発を動かそうという動きがあります。
もちろん、ここで大事故が起きれば大変なことですが、そうでなくても、再処理工場が動き出せば、空気中と海に放射性物質がかなりの量、ばらまかれることになります。
青森県でとれる農作物や海産物の放射能レベルが上がると県も原燃を認めています。
私たちにとって、電気は必要不可欠ですが、安全な作物や海産物と引き換えにしてもいいのかということを考える必要があると思います。
中川:
ヒバクシャというと、一般的には、広島、長崎の原爆のヒバクシャしか浮かびませんが、現代でもヒバクの危険性はあるということですね。
でも、まだ被害者が出たわけでもないし、危険だと言っても実感がありませんよね。
鎌仲:
そうなんですね。今回の映画でも、そこが歯切れの悪さとして残っています。
ただ、アメリカならハンフォードの再処理工場でどんなことが起こったかを見ればわかるし、イギリスならセラフィールドの再処理工場ですね。
『ヒバクシャ』を作るときにハンフォードを取材し、今回はセラフィールドを取材しました。
イギリスのセラフィールド再処理工場は、アイリッシュ海という海に面して建てられています。44年間稼動した結果、アイリッシュ海沿岸は、ほかの海と比べて、放射能濃度が70倍にもなっていることがわかりました。
そのことがわかって、イギリスでは、食品の放射能汚染の基準レベルを上げ、さらには『魚介類は食べなければいい』という選択をしたわけです。
日本だとそんなわけにはいきません。
少なくとも、私はコンブやワカメが大好きですから、それが放射能に汚染されてしまうということは耐えられませんね。
中川:
前回の『ヒバクシャ』と今回の『六ヶ所村ラプソディー』と、原子力関係の映画を続けて撮られているわけですが、どういう経緯から、原子力問題に興味をもたれたのですか。
鎌仲:
私は大学を卒業してからずっとフリーで映画を作る仕事にかかわってきました。
アメリカやカナダに5年ほどいて、95年に日本へ帰ってきて、NHKの番組を作るようになりました。
テレビだと、お金の心配もしなくていいし、黙っていても100万人くらいの人が見てくれます。映画だとお金集めからはじまり、上映をどうするかといったことまで手配する必要がありますので、テレビの仕事は天国のように感じました。
その当時は、医療関係のドキュメンタリーをとっていて、この雑誌で連載されている帯津先生も取材させていただいたことがありました。
98年ですが、イラクに薬を運んでいる人と出会いました。その人は、イラクでは子どもたちのがんが増えていて、薬もないので、ばたばたと亡くなっているんだと、私に話してくれました。
これは、自分の目で見て、世に知らせていかなければならないと思いました。
中川:
その原因が劣化ウラン弾にあったわけですね。
鎌仲:
そのときには、私には劣化ウラン弾の知識などまったくありませんでしたから、ただどういうことが起こっているのか見てみたいということだけでイラクへ行きました。
そしたら、がんになっているのに、病院で何の治療もされずに放っておかれている子どもがたくさんいました。治療されずに死んでいくのはとても非人道的だと思いました。
このことを訴えようと思って、NHKで『戦禍にみまわれた子供たち』という番組を作りました。
中川:
かわいそうな子どもたちがいて、そのことを知らせようとしたことから始まったのですね。徐々にその背後に劣化ウラン弾があることがわかってきてと、鎌仲さんの歩んできた道も、非常にドラマチックに展開していますね。
鎌仲:
本当にそのとおりです。
日本へ帰って来てから、いつもイラクの子どもたちのことが気になっていて、私が普通に生活している間に、子どもたちはどんどんと死んでいっているという思いが、いつも頭の中にありました。
それで、『ヒバクシャ』にも登場願った広島の医師の肥田舜太郎先生に相談したら、『それはヒバクシャだ』って言われたんですね。
ヒバクシャと言われて、私も広島、長崎の原爆ヒバクシャをイメージしました。そのときに、肥田先生からいろいろとお話をうかがって、先ほど言われた二種類のヒバクのことを知ったわけです。
中川:
劣化ウラン弾というのは、確か、ウランを原発の燃料にするために濃縮する際に出てくる燃えないウランでしたよね。
鎌仲:
ウランは、大きくわけるとウラン235とウラン238があって、235の方は核分裂が起こるので原発を燃やす原料になります。この比率を上げるのが濃縮という過程で、そのときに不要になった238が劣化ウラン弾の原料になっています。
原発の燃料にはならないけど、立派な放射性物質ですから、これが武器として使われ、放置されれば、土地や空気が汚染されて、ヒバクシャがいくらでも生まれます。

(後略)

(2006年2月15日 東京・「グループ現代」にて 構成 小原田泰久)

舘野 泉(たての いずみ)さん

1936年東京生まれ。60年東京藝術大学ピアノ科を首席で卒業。64年よりヘルシンキ在住。68年メシアン・コンクール第2位。同年よりフィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミーの教授を務める。81年以降、フィンランド政府の終身芸術家給与を受けて演奏生活に専念し今日に至る。国内外で3000回を超えるコンサートを開催。100以上のCDをリリース。2002年脳溢血で右半身不随に。2003年に左手による演奏会で復帰。活動再開のドキュメンタリー番組がNHK放映され大きな反響をよぶ。左手によるCDに『風のしるし』、『タピオラ幻景』。エッセイ集『ひまわりの海』(求龍堂刊)。福島県南相馬市市民文化会館名誉館長。オウルンサロ(フィンランド)音楽祭音楽監督。日本シベリウス協会会長、日本セヴラック協会顧問など。

『聴衆に発信し交流… それが私の“音楽すること”』

仲の良い家族、身辺に溢れていた音楽

中川:
ピアニストの舘野さんが脳溢血で右半身不随になられたあとに、左手だけで見事に復帰されたとお聞きして、私も大変感動しました。まず、その前に、どうして音楽の道に進まれたのか、その辺のことからおうかがいしたいのですが。
舘野:
私の両親は共に音楽家でしたから、身辺にいつも音楽が溢れていました。戦後の物資が窮乏していた時代ですが、家にはアップライトピアノが2台とチェロ、ヴァイオリンなどいろいろな楽器がありました。兄弟は4人ですが、みんな音楽家になりました。両親が自宅で100人くらいのお弟子さんに教え、兄弟がそれぞれの楽器の練習をしていました。小さい家でしたのに、「音がうるさくて勉強できない」とか、「自分の練習ができない」とか言ってケンカしたことは一度もないのですよ。どうやっていたのかなと、今でも不思議ですが。眉を吊り上げての英才教育などというのには縁がありませんでしたね。誰かがピアノを弾いている横で、学校の宿題をしていたり、絵を描いたり、時にはうとうとと昼寝をしたり、そうかと思うとぱっとセミやトンボを採りに飛び出して行ったりして、子供らしい自然なリズムが流れていたのですね。とても楽しかったです。
中川:
ご家族が皆さん、仲が良かったのですね。そのエピソードだけでも、温かいものが伝わってきます。それで、芸大に進学なさり、卒業後はフィンランドにいらしたそうですが、なぜ北欧に?
舘野:
中学生の頃に、スエーデンの女流作家セルマ・ラーゲルレフの『沼の家の娘』とか『地主の家の物語』などを読んだのがきっかけで、北欧文学にのめりこみました。ノルウェーのハムスン、フィンランドのシッランパー…3人ともノーベル文学賞を受賞していますが、あと、デンマークのヤコブセンやブリクセンも大好きでよく読みました。そして、中学、高校と慶応だったのですが、学校で海外文通を仲介していたので、私も北欧4ヶ国に手紙を書いて出したのです。そしたら、フィンランドの学生だけが返事をくれ(笑)、文通するようになりました。
中川:
その辺から細い糸が繋がって、北欧とご縁ができたのですね。
舘野:
私は、大学卒業後は誰に師事したこともありません。演奏活動をしたり教えたりすることが武者修業のようなものだと思っていました。その頃はフィンランドと言っても、多くの日本の人はシベリウスくらいしか知らなかったと思いますよ。シベリウスは、もちろん「フィンランディア」などを創った、フィンランドの有名な作曲家ですが。
そういう日本人にはなじみのない国でしたから、周りの人にも不思議がられました。若くて才能もあり、発表のいいチャンスも得ていて、順調にキャリアを積んでいける道が拓けているのに、なぜ恵まれた環境を捨てて、そんな田舎に行くの?という感じがありました。
私は音楽ばかりでなく、文学、絵画、演劇などにも興味がありました。両親が宇野重吉さんたちとも交流があり、演劇をなさる方々もよく我家にお見えになっていました。私は、幅広く伝統や文化に触れ、また自分自身を見つめたいと思っていたのです。音楽も、この曲はこうですから、こう弾きなさい、と解釈や演奏方法を押し付けられるのはいやでした。日本やフランス、ドイツなどのヨーロッパの国々を、適当な距離を置いて観たいとも思いました。
北欧は氷点下30度、40度になる冬が半年も続きます。森や湖は手付かずに残されています。そういうところに生活している人たちの人情に触れてみたかった。厳しい自然の中で、少ないものを大切にしながら素朴に生きている…そういうところに惹かれました。
中川:
それにしても40年も前に、日本から遠く離れて、生活環境の全く違う国によくいらっしゃいましたね。
舘野:
そうですね、まだ外貨も持ち出し制限されていて、自由に外国にいける時代ではありませんでしたから。でもね、私は北欧に限らず、世界のどこに行っても、前から知っているような感じがあって、スッと受け入れられて、違和感がないのです。
幸いなことにフィンランドに行った直後から演奏活動の場が与えられ、それがどんどん広がって、各国を旅して周り、日本にもたびたび帰国していました。日本に居ても、ヨーロッパ、或いはロシア、アジア諸国、中近東、オーストラリアに居ても、私は異国にいるというストレスを感じないのです。
妻はフィンランドの歌手で、唯一の国立音楽大学であるシベリウス・アカデミーで教えています。私も一時期そこの教授でしたが、演奏生活と教えることは両立できないと思い、もう20年ほど前に一切教職からは離れました。息子はヴァイオリニストです。シカゴに4年間留学していましたが、帰国して1年間の兵役義務を終え、今はヨーロッパ、アメリカ、日本で広く演奏活動をしています。いま日本に来ていますが、実は今日、1月25日が彼の31歳の誕生日なんですよ。
中川:
それはおめでとうございます。舘野さんのご家庭も舘野さんが育った環境と同じように、ご家族の仲が良くて、また音楽が溢れているのですね。
舘野:
そうですね。そして、娘のパートナーはギリシャ人で、彼らの息子、私たちにとっては初孫なんですが、その彼が1歳4ヶ月になるのです。ロメオというのですが、ミドルネームはイズミって…そう私の名前なんです(微笑)。
中川:
それは可愛いでしょうね。それにしても、日本、フィンランド、ギリシャと、ご家族が世界に広がっている感じですね。
ところで、ピアニストとして世界的に活躍されていた舘野さんが、倒れられたのが…。
舘野:
2002年1月9日でした。

<後略>

(2006年1月25日 東京・「ジャパン・アーツ」にて 構成 須田玲子)

音楽CDの紹介

『風のしるし 左手のためのピアノ作品集』(avex)

千葉 茂樹(ちば しげき)さん

1933年福島県生まれ。福島大学経済学部を経て、日本大学芸術学部映画学科卒業。新人シナリオ作家コンクールに入選後、新藤兼人に師事し1957年「一粒の麦」で脚本家デビュー。1974年「愛の養子たち」(文部省特選)で監督デビュー。1978年「マザー・テレサとその世界」で内外8つの映画賞を受賞。他に「アウシュビッツ・愛の奇蹟」、「豪日に架ける=愛の鉄道」、テレビアニメ番組「赤毛のアン」「ゼノ・限りなき愛を」など多数の作品を手がける。日本シナリオ作家協会会員。近代映画協会会員。SIGNS・JAPAN(日本カトリック・メディア協議会)会長。著書に「映画で地球を愛したい」など。

『映画を通して発信する「憎しみを愛に代えよう!」』

黒澤明監督「生きる」が決めた我が人生

中川:
千葉監督は、マザー・テレサのドキュメンタリーなど数々の映画を撮られていますが、どうして映画の道に進まれたのですか。
千葉:
はじめは郷里の大学で経済を勉強していたんです。卒業したら市役所の職員になり安定した人生を歩むつもりでした。私は9人兄弟で、男は兄が一人です。実は、その兄が小児麻痺だったんですよ。
大学2年のある日、黒澤明の『生きる』を観て、強い衝撃を受けました。心奪われたまま、1時間ほど歩いて帰ってきて、ハッとしました。自転車を映画館前に置いてきたままだったのです。それほど興奮していました。そして、映画を勉強しようと決心したんです。父は30歳までやってダメなら戻ってきて兄の面倒を見てくれと言って、許してくれました。
中川:
一本の映画が人生を決めたのですね。
千葉:
千葉 まさに、そうです。それで日大芸術学部に編入し2年間学び卒業し、21歳で「新人シナリオコンクール」に応募したのです。
中川:
シナリオですか。
千葉:
福島弁は「そうだべえ」なんて言うでしょう。そういう方言を笑われましてね。シナリオを書いていれば、からかわれないからと(笑)。その応募作は思いがけず佳作に残りました。そして、審査員の新藤兼人監督が、「君はまだ甘い。でも、次の作品を期待しているよ」と言ってくれたのです。
この言葉に勇気を得て、セッセと書いては新藤監督に送りました。その度に監督は短いコメントを返してくれるのです。そして3年後、「今までの中で一番面白い」と電報をくださり、吉村公三郎監督に話を通してくれたのです。これが『一粒の麦』というタイトルで映画化されました。郷里でロケが行われ、私も方言指導を担当しました。24歳の時です。
中川:
30歳までというお父様の条件をクリアできたわけで、それは良かったですね。どういう映画だったのですか。
千葉:
当時の集団就職を扱ったものです。金の卵として送り出された子供たちが、一旦都会に出ると辛い環境で働いているんですねえ。引率する郷里の先生は苦しい思いをしているのですよ。それをシナリオに書き、映画化されました。
その後は、「産休補助教員制度」の代用教員がテーマの『こころの山脈』です。代用教員は、お産で休んでいる先生の代わりで、子守役的な扱いを受けていました。そういうことでは、子供たちの教育はできないと思ったわけです。当時からずっとですが、私は人間の教育の問題に興味を持っています。人間をどう育てるか。映画を、教育にどう生かせるかです。

こうして15年ほどドラマのシナリオを書いているうちに、ベルギーで衝撃的なことに出合いました。人口900万のベルギーは全世帯数の4%がインド、韓国、中東、アフリカなどから養子受け入れとかかわっていました。実子が2人いる30代のある夫婦は、6人の国際養子たちを抱えて子育ての最中でした。
中川:
ご自分のお子さんもいて、養子さんも育てている…。
千葉:
そうです。「なぜ?」と訊ねると、「特別な理由はありません。もし、小さな子供がお腹を空かせて道端で泣いていたら、誰でも食べ物を用意するでしょう。それと同じです」と。さらに私が「もし、実子と養子が川でおぼれていたらどちらを先に助けますか」と訊ねると、「変な質問ですね。手の届く方から先に助けますよ」と。私は、もう恥ずかしくなりましたよ。
それで、そうだ、このドキュメンタリーを撮ろうと。ドキュメンタリーは作られたドラマにはない「現実の重み」がありますから。これが1974年に制作した『愛の養子たち』です。それから、マザー・テレサに繋がっていきました。養子の一人が、マザーの所から来ていたのです。でも、その頃の私は「マザー・テレサ、誰?」という感じでした。
中川:
ノーベル平和賞をもらっておられますね。
千葉:
ええ、でも受賞の前でしたから、日本で知っている人なんかほとんどいなかったんですよ。それで、ロンドンの書店で彼女の本と写真集を買ったら、すごく苛酷な所で働いているんですね。ホント?とびっくりしました。とにかくお会いしたいとインドに飛びました。
マザーは、小柄なのに、何というか、とても大きなオーラのようなものを発していて、迫力がありました。目がキラキラして、これはホンモノだと確信し、是非、ドキュメンタリーを撮りたいと思いました。それに、何となく、前にどこかで会ったような、懐かしい感じを覚えました。
中川:
それは、よほどご縁のおありになる方だったのだと思いますよ。
千葉:
この『マザー・テレサとその世界』を完成させるまでに、3年の歳月を費やしました。当時は「カトリックの尼さんが主人公?無理だね」と、どこもスポンサーになってくれませんでした。途方に暮れていたらバッタリと知り合いのシスター白井に会いまして、「それならウチが」と女子パウロ会が援助してくれることになりました。この出会いに始まって、実に多くの驚くような偶然に助けられました。インドでいつ下りるか分からない撮影許可を待っているときも、駐印新聞記者の奥さんが偶然、私の姉の同級生で、資金の乏しい私達をご自宅に泊めてくれました。
中川:
「偶然」というところに、見えない世界からの応援を感じますね。
千葉:
まさにそうです。現役時代のマザー・テレサを記録した映画は、世界に3本しかありません。英国BBCと米国のNGO、そして我々のだけです。世界中から撮影許可願いのペーパーが山ほど来ていましたが。
毎回、門前払いの待ちぼうけという困難な中、私達はインドに滞在し2ヶ月間しがみついて交渉を重ねてきました。そして、ようやくインド政府の取材許可が取れて、大喜びで明日から撮影、という段取りになったら、思いがけない非常事態になりました。飛行機がニューデリーで降ろすべきだった荷物をそのままにして飛び立ってしまって、2週間経たないと戻らないというのですね。カメラもフィルムもなく、どうして撮影ができるの、と呆然としてしまいましたよ。
マザーは言いました、「では、一緒に祈りましょう」と。カメラマンは、「祈ると、カメラ出てくるのかよ…」と、すっかり意気消沈していましたよ。でも、他になすすべがないのですから、私達はマザーと並んで御聖堂で祈りました。祈って祈っているうちに、私はふと気づいたんです。マザー・テレサを撮りたいというのは分かるけれど、その対象となる路上で悲惨な生活を送っている貧困や病いに苦しんでいる人たちの痛み、辛さ、悲しみを私達は忘れていたんじゃないか。その方たちに許可も得ていなければ、お詫びもしていなかった。これはちょっと間違っていたなって思ったんです。
それまで「早く、早くカメラやフィルムを戻してください」とお祈りしていたのですが、止めました。「神様、もし本当にあなたが望まれているのなら、そして私達に資格があるのなら、撮影をお許しください。しかし、もしお望みでないのなら仕方ありません。私達は帰国します」と。
中川:
素晴らしい気づきですね。
千葉:
そうしたらですよ、2日後に荷物がボンベイ(現在のムンバイ)で見つかって戻ってきたのです。
中川:
えっ、そうですか!
千葉:
その日は終生誓願式でした。若い女性たちが、修道女として終生、神に仕えますという誓いをする式です。そこでマザーは、こう言って彼女たちを励ましました。「あなた方は単なるソウシャルワーカーという職業に就いたのではありません。あなた方自身が選んだ生き方そのものなのです。喜びを持って実践しましょう」と。私は自分に言われたように、ハッとしました。自分の選んだ道は使命があって、その使命を喜んでちゃんと生きる、それが大事なのですね。

(後略)

(2006年1月12日 川崎市「日本映画学校」にて 構成 須田玲子)

DVDの紹介

豪日に架ける-愛の鉄道」  ¥5,000(税込)  発売元:映画「愛の鉄道」制作委員会  TEL.0742-45-7861

ブラック 嶋田(ぶらっく しまだ)さん

富山県出身。日本テレビ「お笑いスター誕生」金・銀・銅賞を受賞し、芸能界入りする。国立演芸場にて奇術界史上二人目の金賞を受賞。1995年、日本奇術協会主催の世界大会国内予選にてグランプリを獲得し日本代表となる。2000年7月ポルトガルで開催された世界大会コミック部門で第4位。2000年度ベストマジシャンに。2001年パラオ大統領就任式及び独立記念日に大統領官邸でマジックを披露、大好評を博す。「笑点」「世界の怪人」「史上最強!花の芸能界」「ぴったんこカンカン」など数々のテレビ番組に出演。マジック演出家として複数の専門誌にエッセイなどを連載中。

『「奇術」は自分の全てが出る。常に感謝が大事』

パラオ大統領の就任式と独立記念晩餐会に呼ばれて

中川:
はじめまして、中川と申します。
嶋田:
ブラック嶋田です。今日も二つの舞台を掛け持ちしており、本番前に打ち合わせやリハーサルがあり、タクシーで行ったり来たり走り回っています。ちょうど二つとも池袋付近だったので、合い間を縫って、こうしてお目にかかれて良かったです。
中川:
ご活躍ですね!大変お忙しいところ、対談取材を快くお引き受けくださり、ありがとうございます。
嶋田:
普段もテレビ出演や公演、ホテルのディナーショーや結婚式、パーティーなどのゲストとしてマジックを披露しているのですが、今の時期は特にイベントが多くて、忙しいのです。でも、人と人とのご縁、出会いを大事にしていますのでお会いしよう、と。
中川:
この対談では、各界でご活躍の皆さんにお話をうかがってきました。もう15年ほども続いていて、毎月、映画監督、画家、作曲家、学者…と様々な方にお目にかかりましたが、「マジシャン」の方は初めてで、どういうお話になるのか楽しみです。
嶋田:
私も、おたくの「月刊ハイゲンキ」は何冊か読んでいますが、いい本ですねえ。あのカラーページの「巻頭対談」に私も仲間入りかと、喜んでいますよ(笑)。
ところで、10月には、パラオに行ってきたんですよ。2001年にレメンゲサウ大統領が就任し、その就任式及び独立記念日に呼ばれて行ったのが最初です。そのときに、大統領官邸の晩餐会でマジックを披露したら、これがまぁ大好評でした。大統領はじめ、皆さん大喜びで、ヤンヤの喝采(かっさい)!それで、翌年から毎年呼ばれるようになり、今年で4回目になりました。
中川:
大統領官邸でですか、それは素晴らしいですね。パラオ…南太平洋ミクロネシア諸島ですよね。どうしてまた遠いパラオにご縁ができたのですか。
嶋田:
私たちはいつも成田からチャーター便で行くのですが4時間くらいです。そのくらいで行ける島なんですよ。海がキレイでね、人々は親日的で、年間通して28度くらいの常夏の国です。
パラオは昔、スペイン、そしてドイツの植民地だったけれど、第一次世界大戦以降、日本の統治領になったんですね。第二次世界大戦時は、日本海軍の重要な基地となりました。そのために、アメリカ軍の攻撃対象となって、1944年には「ペリリューの戦い」と呼ばれる激しい戦闘も行われて、日米両軍、そして現地人に多くの戦死者を出しました。
その方々の慰霊をずっと続けている日本人がいらっしゃるんです。パラオに関する資料によれば、ペリリュー島には、戦死者一万人余りが天照大神と共に合祀されている「ペリリュー神社」、日本名は「南興神社」というそうですが、そういう神社が幾つかあるそうです。また、日本からの遺骨収集団もたびたびパラオを訪れています。そういう関係で、私もご縁ができたのです。
日本統治時代は、日本語による学校教育が行われていたし、今でもパラオにある唯一の公立高校では選択科目として日本語を取り入れているし、アンガウル州では公用語のひとつとして日本語が採用されているそうですよ。
だからでしょうね、皆さん日本語が流暢でね、特に60代以上の人は全く日本語の会話に困りません。日本語がそのままパラオ語として使われているものもたくさんあるんですよ。例えば、ヤクソク、アブナイ、オイシイ、ベントウ、ベンジョなんかですね。
中川:
そうですか。恥ずかしながら歴史に疎いものですから、知りませんでした。
嶋田:
レメンゲサウ大統領の前は、クニオ・ナカムラという日本の名前の大統領ですから。前大統領のお父さんは三重県出身だそうですよ。パラオを訪れた日本の歌手がタクシーに乗って、「南国土佐をあとにして…」と歌ったら、運転手がボロボロ泣いた、という話も聞きました。
中川:
パラオは、ずいぶん日本と関係が深い国なのですね。
嶋田:
元プロレスラーのアントニオ猪木が島のひとつを持っていて、パラオで一番有名な日本人は彼なんですが、私は二番目ですね(笑)。10月1日の独立記念日にはオープンカーに乗って街中をパレードし、車を降りれば、子供たちが僕の後ろをゾロゾロとついて歩いて。自分で言うのもなんだけど、大変な人気なんですよ(笑)。
4年連続で訪れていますから、パラオでは私の顔は知れ渡っている感じです。まあ、一度見たら忘れない風貌だといえるかもしれませんけどね。浜辺で、トランプを使ってマジックを見せたら、子供だけでなく大人も皆集って来て、目を丸くしてビックリ!大喜びしてました。
パラオだけでなく、ロシア、ヨーロッパ、韓国、アメリカ…と世界中でマジックを披露してきたけれど、どの国でも大ウケでしたね。マジシャンは万国共通で、どこでも喜ばれます。英語が話せなければ通じないという世界ではないでしょう。言葉が要りませんから、そういう意味では、ミュージシャンと同じですね。
中川:
マジシャンもいろいろいらっしゃるでしょうけれども、ブラックさんは数々の賞も受賞されるなど、大変人気が高いですね。それは、もちろん技術もそうですが、観客の方々はブラックさんが持つ独特の「氣」を感じるのでしょう。
嶋田:
オーラのようなものかな、それはあるでしょうね。以前は外すことも何回かに一回かはあったけれど、今はそういうこともなくなりました。
中川:
「外す」?どういうことですか。
嶋田:
奇術は、観客も一体となって場の雰囲気を作り上げるのですよ。私だけが一生懸命にやっていても、観客がノッてこなくては気が抜けちゃう。そういうのは、やっぱり失敗です。そういう失敗だなという感じを「外す」と言ったんです。
中川:
お客さんも一生懸命に真剣に観ていて、その場の雰囲気に張り詰めた感じがあって、そういう中に、続いて驚くような意外なことが展開して、ウワァ、と盛り上がって喜んで楽しんで、その手応えを、演じているブラックさんも感じて、「当たった」と嬉しく思う。
嶋田:
そう、そう。
中川:
そうすると、「奇術」は「氣術」と言ってもいいかもしれません(笑)。

<後略>

(2005年12月15日 東京・目白の「椿山荘」にて 構成 須田玲子)

原 荘介(はら そうすけ)さん

1940年秋田県大館に生まれる。1963年小樽商科大学卒業、東海汽船勤務後、1967年にギタリストとして独立。現在国内はもとよりベルギー・ブリュッセルを中心に海外でも活発に音楽活動を行っている。ライフワークとして海外日本人学校巡りと、35年にわたって研究している子守唄の調査収集、発表を。全音楽譜出版よりギターの弾き語り曲集、教本36冊を著し、他に日本コロンビアより「コンドルは飛んでいく」「百万本のバラ」などギターソロアルバム、歌のアルバムを多数発表。またCD全8巻「日本の子守唄」(日本教育通信連盟)の監修。

『誰もが心の引き出しに子守唄を持っている』

たくさんのステキな人との大切な出会い

中川:
去年の2月頃、新聞に原さんの紹介記事が掲載されていて、加藤登紀子さんと熊本の石牟礼道子さんを訪ねたということがちょっと触れられていました。
その頃、私どもの「月刊ハイゲンキ」でも、石牟礼さんの「新薪能 不知火」のことを掲載させていただいたこともあり、目にとまり、記事を読んでいましたら、原さんが日本の子守唄を調査収集し発表なさっていると知り、いつかお会いしたいと思っていました。
子守唄って、何だか懐かしいですよね。心の奥底から湧いてくるような温かさを思い出す…そんな感じがします。
原:
おトキさん(加藤登紀子さん)とは、もう30年以上も前にギターと弾き語りをお教えした縁で家族ぐるみのお付き合いです。何度も一緒にコンサートをしています。おトキさんの次女が「Yae」として歌手デビューしましたが、僕の膝の中で子守唄を聞いていた、あの赤ちゃんが…と思うと、何とも言えず嬉しいですよ。
僕は、人が大好きなんですよ。おトキさんや他のたくさんのステキな人との出会いを書いて「風来旅日誌」(武内印刷株式会社出版部)として、まとめました。これですが、差し上げますので良かったらどうぞお読みください。
中川:
ありがとうございます。
原:
そしてね、あのときの熊本行きの旅で「藤原書店」の藤原良雄社長さんと知り合ったんですが、彼は僕の子守唄の話に感じ入ってくれて、5月に彼のところの季刊雑誌『環』別冊に「子守唄よ、甦れ」という特集を組んでくれたんですよ。私もその一章を担当しました(と「環」を手渡す)。
中川:
北村薫さん、三好京三さん、西舘好子さん、ペマ・ギャルポさん…ずいぶんたくさんの方が、「子守唄」について書かれていますね。松永伍一さんという方のタイトルは「子守唄の光と影」ですか、面白そうですね。
原:
ええ、30人位の方の話がまとめられています。松永先生は、詩人であり、評論家であり、画家でもあるんです。私は、子守唄研究のスタート時点で先生の著書『日本の子守唄』を読み、とても感動しました。
そして、縁あって1986年に岡山県井原市で、第一回目の「日本の子守唄フェスティバル」が催されたときに先生が基調講演をなさり、私もパネラーとして出席したのです。そのあと、先生と私で「子守唄ブラザーズ」を結成し、先生はお話を、私は唄を担当し、いろいろな催しをしました。
中川:
そもそも原さんが子守唄を研究なさろうとしたきっかけは何だったのですか。
原:
40年近く前に倉本聰先生と一緒に呑んでいたときのことです。先生は当時NHKの大河ドラマ「勝海舟」や「文吾捕物帖」などの脚本を書いていた、超売れっ子でした。その先生が、私が書いたギター弾き語りの本の中に「島原の子守唄」が載っているのをたまたま見て、「こんな歌詞を知っているかい?」と言って、紙に歌詞を書いてくれました。
「姉しゃんなどけんいったろかい  姉しゃんなどけんいったろかい 
青いエントツのバッタンフル 唐はどこんねけ唐はどこんねけ 海の涯てばよ しょんがいな 泣くもんな鐘がむおろろんばい 
飴型買うてひっぱらしょ」。
私は全く知りませんでしたが、「唐(から)ゆきさん」という言葉が思い浮かび、お姉さんが今の中国に売られていく話だな、何だか残酷な詞だなと感じたのです。
倉本先生は「バッタンフルって、蒸気船のことだよ。子守唄には残酷な言葉が多いんだよね。二人で一生かけて子守唄の研究をしてみないか」とおっしゃったんです。先生のこの言葉がきっかけとなりました。
中川:
私も母に子守唄を歌ってもらって寝かされた遠い記憶があるのですが、とても温かくて懐かしい思い出として残っています。子守唄に残酷な言葉が多いというのは、ちょっと意外でした。どういうことでしょう。
原:
子守唄を歌ってもらった覚えがあるのは幸せですね。今は、歌ってもらったことも歌ったこともない人が増えていますから。子守唄には二つあるんですよ。母の歌う子守唄と、子守奉公に出された幼い女の子が歌っていたものです。

<後略>

(2005年11月18日 東京・武蔵野市のララバイ カルチャーセンターにて 構成 須田玲子)

大野 勝彦(おおの かつひこ)さん

1944年、熊本県生まれ。高校卒業後、農家を営む。1988年、農機具洗浄中に巻き込まれ両手を切断。入院3日目より“湧き出る生”への想いを詩に託す。さらに2ヶ月目には、その喜びを水墨画に表現。退院後、全国各地で講演会、詩画の個展を開催。第9回熊本現代詩新人賞、熊本日日新聞社「豊かさ作文コンクール」グランプリ受賞など。詩画集は『そばにいた青い鳥―失って見えてきたもの』『やっぱ いっしょが ええなあ』など多数。2003年、阿蘇長陽村に「風の丘 阿蘇大野勝彦美術館」開館。2004年、3000回記念講演会「ありがとうがいつか笑顔になった」を米国ロサンゼルスで開催。2005年9月大分県飯田高原に「風の丘 大野勝彦美術館」をオープン。

『両腕を失って気づいた、優しさ、温もり…』

阿蘇に美術館、2年間で5万人の来館者が

中川:
知人から大野さんの詩画集を見せてもらったのですが、そのいきいきとした生命力溢れる絵と詩に感銘しました。それで、是非お目にかかりたいと思ったのです。私共の熊本センターが辛島町にあるのですが、そこから車で1時間半ほどでした。
大野:
稚拙な絵ですが、その中の「ニコニコ」と「ありがとう」を感じとってもらえれば嬉しいと思っています。ここ(美術館の玄関前)の正面は何も遮るものがなく、ほら、どこまでも見渡せるでしょう。阿蘇の外輪山がここだけ切れているのですよ。この地から下の熊本市の方に水が流れて行っています。
ずっと向こうにポールがあり青い旗の下に黄色い三角の旗が見えますか。あの旗が揚がっているときは、私が在館しているという合図です。そのときは、ここにいらした方に無料で20分ほどの講演をしているんです。もう、500回以上喋りましたよ。
中川:
ずいぶんたくさんの方が来館されているのですね。駐車場も広くて、先程も観光バスが止まっていました。素晴らしい眺めですね。広々として、花がとても綺麗で、いやぁ、本当に気持ちがいいです。これだけ広いのに、館内も外周りも良く手入れがされていて、感心しました。
大野:
美術館を建てたのは2年前ですが、今までにお蔭さまで5万人を超える方がいらしてくれました。敷地は約12000坪あります。この美術館を建てたいと言ったときには、知人友人など周りの人たちは皆、「止めた方がいい」と反対でした。建物を創るのもひと仕事ですが、運営していく事、これは並大抵のものではありませんから、皆さんはそれを心配して言ってくれたのです。
中川:
ここに美術館を建てようと決心されたのは、どういういきさつだったのですか。
大野:
これから追々お話しますが、私は45歳のとき事故で両腕を失ってしまったのです。群馬に星野富弘さんという方がいらっしゃるでしょう、入院中、あの方の著書『風の旅』に出合って、溢れる優しさに慟哭しました。そこから私の『風の丘 大野勝彦美術館』が生まれた気がします。
中川:
星野さんの詩画集は、私も何冊か見たことがあります。体育の先生をされていて、授業中にマット運動の模範演技を生徒さんたちに見せているときに、誤って頭から落ちて頚椎を損傷され、首から下の全身麻痺になった方ですね。その後、口に絵筆をくわえて詩画を描かれるようになって、地元に美術館も建てらたのですね。
大野:
そうです。それで、私は星野さんに是非お逢いしたいと思ったのですが、妻が「今のあなたでは逢ってくれませんよ。向こうから断られますよ」と言うのです。それならば、何とか星野さんに逢ってもらえるような人になろう、と一生懸命に生きてきました。
そうしたら、4年後に星野さんが熊本にお出でになり、逢ってくださったのです。そのときに、「あなたの夢は何ですか」と訊かれて、「阿蘇に美術館を建てることです」と答えてしまった。それが美術館建設のきっかけです。
中川:
そうですか。そのとき「断られるだろう」という状況だったのをバネにして、今の大野さんがあるのですね。いっけんマイナスのことをプラスに転換させられたということですね…素晴らしいです。
大野:
2年前に美術館をいよいよ建築しますと発表したら、全国の仲間達が猛反対しましてね。そこで、私は2月3日が誕生日なのですが、その日に私の葬儀をしました。お坊さんにお経もあげてもらって。その葬式の最後に挨拶に立って「今日は生前葬ですが、いつか本物のこの日が必ず来ます。その時、後悔したくありません。お香典はお返しします。どうか、お心だけはお寄せください」と、美術館をどうしても建てたいのだということを参列してくださった皆さんにお伝えし、応援をお願いしたのです。
私の決意を受け止めて、実に多くの方が「大野に美術館を建てさせてやりたい」と思ってくださり、本当に不思議なことがいっぱい起こって、実現したのです。自分は理屈っぽいけれど、その現象は自分の解釈では追いつかんのですよ。
中川:
思いはエネルギーですから。いろいろな方の思いの応援があったのでしょうね。美術館の建設は、ご家族の方もさぞ喜ばれたことでしょう。
大野:
ええ、とても喜んでくれました。でも、残念ながら父は完成を見ずに亡くなってしまいましたが。父は、あの事故のとき、私の切れた腕をタオルで結び、救急車に裸足で乗り込んで…。父は、心労で数日の間に7キロも痩せてしまったんです。もともと50㎏くらいしかなかったのに。どんな思いだったかと考えると、たまらんです。後で親孝行をしよう、後でありがとうを言おう、そう思っていたのですが、今日がその最終日…そうじゃないですか。

(後略)

(2005年8月30日 『風の丘』阿蘇大野勝彦美術館にて 構成 須田玲子)

白石 康次郎(しらいし こうじろう)さん

1967年東京生まれ。海洋冒険家。26歳で単独無寄港世界一周を最年少で成し遂げる。2002年には高校時代からの夢でもあった世界一周ヨットレース「アラウンドアローン」に出場。第4位という好成績を上げる。現在、2006年の世界一周を目指して準備を進める一方で、子どもたちに自然の楽しさや冒険の喜びを伝えるという活動も行っている。「僕たちに夢と勇気を…冒険者」(宝島社)、「アラウンドアローン」「七つの海を越えて」(以上文藝春秋社)などの著書がある。

『夢は、できるできないで決めるものではなく、やりたいかやりたくないかということが基準だと思います。』

高校時代にヨットで世界一周をするという夢を抱く

中川:
白石さんは、冒険家としてヨットで世界一周をされていますが、たった一人でヨットを走らせるというのは、私には想像もできないことですね。
いろいろと危険なことも多いでしょうが、どうしてまたヨットを始めようと思われたのでしょうか。
白石:
小さいころから海や船が大好きで、船で世界一周をしたいと思っていました。父が、横須賀港へ連れていってくれて、そのときに『陸の上でちまちま仕事をするよりも、海や空、こういう広い世界で仕事をするようになれよ』と言った言葉が忘れられないですね。どうせなら世界一周をしようと、そのとき思ったのを覚えています。
その思いが高じて、水産高校へ進学しました。そこで、船や海のことを勉強したかったのです。ヨットに乗る機会もあって、なんて素晴らしいんだと感動しました。
そのあたりから、ヨットにのめりこんでいきました。
中川:
素晴らしい師匠との出会いもありましたよね。
白石:
高校2年のときに、第一回目の世界一周ヨットレースが開催されました。『アラウンドアローン』という単独で世界一周を走るヨットレースです。4年に一度行われるレースで、車で言えば、パリ・ダカのような非常に過酷なレースでいす。約5万キロ、8ヶ月にもわたるレースですから、何が起こるかわかりません。
このレースで、日本人の多田雄幸さんが優勝しました。それを知って、『俺もやってやろう』と奮起したわけです。
でも、どうすればいいのかわからないから、多田さんにいきなり電話をして弟子入りを志願しました。
高校を卒業すると、目標は世界一周ヨットレースですから、就職もせず、多田さんのレースにクルーとして参加したりして、ヨットの腕を磨いてきました。
中川:
高校生のときから人生の目標が定まるというのはすごいことですね。そして、いい師匠にも出会えた。ここまでは順風満帆ですが、ここからいくつもの挫折を味わうことになるんですよね。
白石:
そうなんですよ。第3回のアラウンドアローンのとき、レース中に多田さんが亡くなってしまいました。寒い寒い南氷洋で何度も船がひっくり返ったり、無線が通じなくなったりといったトラブル続きで、第二の停泊地であるシドニーに着いたときにはすっかり意気消沈していました。結局、シドニーから出発することができず、棄権してしまいました。僕は、『日本に帰りたくない』という師匠を残して帰国しました。その後、しばらくして、師匠が自殺したという知らせが届いたのです。
ショックだったですが、僕には世界一周という夢がありましたから、師匠のヨットを修理し、そのヨットで、自分がアラウンドアローンにのぞもうと決めました。
中川:
それで、いよいよ世界一周に挑戦するわけですね。最年少で単独無寄港世界一周とか、念願のアラウンドアローンにも出場して4位に入りましたよね。紆余曲折はありましたが、とてもいい感じで進んできていますよね。
白石:
そんなことないですよ。冷や汗をかくような大変なことの連続でした。師匠の船を修理して世界一周に挑戦したはいいけど、二度も失敗したわけです。みんなに見送られて港を出たのに、のこのこと帰っていくみじめさ。
自分がみじめというより、造船所の親方はじめ、協力してくれたみなさんに申し訳なくて。僕があやまってすむ問題ではないですよ。あれこれ言われるのは親方ですから。
中川:
それはそうですね。白石さんの責任の範囲を大きく超えてしまっているわけですね。それこそ、ヨットを続けていけるかどうかというピンチだったわけですね。
その後のご活躍を聞くと、みじめだったことが見えなくなってしまいますが、そういうピンチというのは、後から考えると、飛躍のきっかけになったりすることがよくあります。白石さんの場合はいかがでしたか。
白石:
確かに、失敗から学ぶことの方が多いですね。成功からはあまり学ばない。成功して何を学んだかといわれても、ただ『よかったね』だけですよ。
失敗から学ぶには、まず失敗は自分の責任だと思うことです。そうじゃないと、何度も繰り返してしまいます。
失敗したのは、何かいけないことがあったからですよ。客観的に見て何がいけなかったのか、分析しなければいけないですね。

(後略)

(2005年7月19日 白石さんが所属する東京・銀座にある㈱スポーツビズにて 構成 小原田泰久)

相田 一人(あいだ かずひと)さん

1955年栃木県足利市生まれ。相田みつをの長男。出版社勤務を経て㈱而今社を設立。平成8年東京銀座に「相田みつを美術館」を開館。平成15年東京国際フォーラムに美術館移転。現在「相田みつを美術館」館長。『いちずに一本道 いちずに一ッ事』『雨の日には…』『しあわせはいつも』『生きていてよかった』などの編集、監修に携わる。著書に『書 相田みつを』(文化出版局)『父 相田みつを』(角川文庫)などがある。

『感動を持って生きる「一生勉強一生青春」』

突然脳出血で父逝去、30代で後を…の共通点が

中川:
先日、この相田さんの美術館内でダライ・ラマ法王生誕70年を祝し、平和を記念して砂曼荼羅が制作されたのですね。その様子を、本誌専属ライターの須田が取材させていただきました(と、本誌9月号をお渡しする)。
相田:
昨年、国際フォーラムで龍村仁監督の映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』が上映されまして、その折に監督が『相田みつを美術館』を訪れてくださって、お目にかかりご縁ができました。
中川:
龍村仁監督には、本誌のこの対談の欄に何度もご登場いただいています。弟さんの龍村修先生には、私共の真氣光研修講座の専任講師として開講当初から大変お世話になっております。
相田:
そうでしたか。龍村監督から砂曼荼羅のお話がありまして、私共は個人美術館なので、そういう企画は初めての試みだったのですが。大勢の方々にご来場いただきまして、本当に良かったです。
中川:
美術館は、以前は銀座にありましたよね。
相田:
はい。父は自分の作品のための施設のようなものは建てなくても良いと言っておりました。「世の中に必要なものだったら、残っていくのだし、どんなに残そうと思っても、必要とされていないものだったら消えてしまうのだから」と。それで、私もはじめは考えていなかったのです。
でも、父の亡くなった後に、全国で遺作展をしましたら、見にいらしてくださった方々が皆さん、「常設の場所はどこですか」「どこに行けば、作品を見られるのですか」と訊ねられるのです。それで、そういう場所が必要かなと思うようになりまして。
郷里が栃木県足利市ですので、本来はそこがいいのでしょうが運営上のことを考えますと、やはり地の利を得ないと無理だろうと。谷間から発信しても高いところにぶつかってうまく伝わりません。それで、東京という高い所から情報を発信していこうと思ったわけです。銀座には画廊がたくさんありますから、私も幼い頃からよく父に連れられて銀座を訪れていました。そういうこともあり、銀座がいいかなと思いまして。開館したのは9年前です。
お蔭様で、たくさんの方にいらしていただいて、そこは300坪ほどでしたが、そのうちに手狭になりまして、どうしようかと考えていたのです。ちょうどそのときに、こちら(東京国際フォーラム)のお話があり一昨年に移転しました。ここは700坪ほどあります。
中川:
お父様は、いつ亡くなられたのですか?
相田:
91年12月です。ある日突然、脳内出血を起こしまして、67歳でした。書家は70代からとも言いますから、父はこれからというときに、しかも新しいアトリエの完成を目の前にして亡くなってしまいました。ですから、父の作品に「一生勉強 一生青春」とありますが、その通りの人生だったと言えるでしょう。私はこんなに早く父の死に遭うなどとは夢にも思いませんでした。私が36歳のときでした。
中川:
そうだったのですか。私の父も95年12月に脳の血管が切れて亡くなりました。同じ年の3月にも倒れたのですが奇蹟的に復帰して、それまでもずっと氣の普及に努めていましたが、復帰してからの半年間は特に、「起こることには、すべて意味があるのだ」ということをしきりに言うようになりました。
今振り返ると、深い潜在意識でというのでしょうか、父は自分の死を知っていたのでは、とも思えるのです。そして、いい氣を取り入れながら意識を高めていくことの大切さを伝えて、59歳で逝ってしまいました。私は翌月に35歳になるときでしたから…何だか相田さんと似ていますね。

(後略)

(2005年8月18日 「相田みつを美術館」にて 構成 須田玲子)

池間 哲郎( いけま てつろう)さん

1954年沖縄生まれ。NGO沖縄アジアチャイルドサポート代表理事。主に、アジア(ベトナム、タイ、フィリピン、カンボジア、モンゴルなど)のゴミ捨て場やスラムなどの貧困地域へ足を運び、そこで見た貧しい人々の過酷な現状や今日を必死で生きる子どもたちの姿に心を動かされる。私たちの「少しだけやさしい心」で、いかに多くの人の命が救われるか、講演、写真、ビデオを通して伝えている

『一番大事なボランティアは、自分自身が一生懸命に生きることです。』

必死に生きる子どもたちの姿に涙が止まらなかった

中川:
池間さんの『あなたの夢はなんですか? 私の夢は大人になるまで生きることです』という本を読ませていただきましたが、最後の方は涙が出て止まりませんでした。本当に大変な思いをしている子どもたちがいるんだなあと、心にずきんときましたね。
この本も池間さんの活動も、多くの人に知っていただきたいと思って、ぜひ対談をとお願いした次第です。いろいろとお話を聞かせてください。
池間:
ありがとうございます。
私は氣のことに関しては素人ですが、氣は間違いなく存在していると思っています。人間は、生きている以上、氣を発するし、氣を受けているはずです。やさしさというのは氣なんじゃないかと思いますね。
今日は、氣のことをいろいろお聞きできると思って、私も楽しみにしています。
中川:
そう言っていただけると光栄です。
私は、心や魂から氣が出ていると考えています。自分が楽しくなれば相手も楽しくなるし、相手が楽しくなれば自分も楽しくなります。これは、氣の影響だと思います。氣は持ちつ持たれつ、与えるばかりでなくもらうこともあって、氣の交流が起こり、お互いに成長していけますね。
ところで、池間さんはもともとビデオ制作の会社の社長さんだそうですが、何がきっかけで海外の子どもたちを撮るようになったのでしょうか?
池間:
話せば長くなるのですが(笑)、私自身のおいたちとも関係があるんですね。
私は沖縄の生まれですが、沖縄の人たちは、本土の人たちにはわからないような体験をしています。貧困があって、戦争では局地戦があり、目の前で家族や友人が殺されていくのを見ています。
そして、何よりも差別がありましたから。アメリカ人からの差別を体で感じていました。
そんなこともあって、差別に対する疑問とか憤りというのは、人並み以上にありました。発展途上国と呼ばれている国々には今も差別があります。そうした国々の差別に対する問題意識は持っていました。
それが大きく膨らんだのは、台湾へ行ったときのことです。売春問題を取材することがあったのですが、そのときに、売春婦の中に10歳にもならない子どもがいるのを知って、これは大変なショックでしたね。
いろいろと調べていくと、彼女たちは山岳民族だとわかりました。差別されている人たちだったのです。それを知って、かつての自分たちの姿とダブりましたね。
でも、そのときは、ここまでのめりこむとは思ってもいませんでしたが(笑)。
中川:
人生というのは、何がきっかけになって大きな変化が起こるかわかりませんね。
池間さんが、今の活動をやっていくことを決断した決定的なことって何だったのか、すごく興味ありますね。
池間:
私のおやじは警察官なんですが、私はおやじに2回捕まるほど、若いころは無茶をやっていました。へたに空手をやっていたものだから、いつも血だらけ。
暴れるばかりで、何をするにもいつも中途半端で、人生を大切にしてなかった。
そんなときに、フィリピンのゴミ捨て場へ行ったわけです。そしたら、3歳、4歳の子どもたちが朝から晩までゴミを拾っていた。もともと映像屋だから、その姿が目に焼きついてしまった。ツメがはがれているとか膿が出ているとか。血だらけ、傷だらけ…。
ふと、こんな小さな子どもがここまでして必死に生きているのかと、胸がいっぱいになってきました。ゴミの中で泣いていましたね。
自分が恥ずかしくなった。一生懸命に生きないと、この子たちに失礼だ。大切なのは真剣に生きることだと気づいた。
そう思ったら、その子たちの命がとても大切になってきた。自分が生きると決めたとたん、その子たちの命が大切に見えてきたんですね。
中川:
そこで出会った少女に、『あなたの夢は何ですか?』って聞いたら、『私の夢は大人になるまで生きることです』っていう答えが返ってきたと本には書かれていましたね。
世界中で、一日で4万人くらいの人が、貧しさのために亡くなっているそうですね。それもほとんど子どもでしょ。
大人になるまで生きるっていうのは、当然のことのように思ってしまうけど、ゴミの山で暮らしている子どもたちにとっては、大人になることが夢なんですね。
日本で暮らしていると想像もできないすさまじい世界ですよね。

<後略>

(2005年7月5日 SAS東京本社にて 構成 小原田泰久)

興梠 義孝(こおろぎ よしたか)さん

1935年宮崎県生まれ。1960年佐賀大学教育学部美術科卒業。高等学校の美術教諭を経て1970年渡米。1972年ミネソタ州ガステバス大学客員教授。1975年東ロサンゼルス大学講師。その後ハワイに移住しハワイ大学講師、ハワイアートアカデミー教授、ハワイ美術院展副理事長、ハワイ日本文化芸能連合会理事・事務長などを歴任し、現在日米交流芸術協会理事長。染色画・アクラス画で日展、光風会展、ハワイ州美術展、日仏現代美術展などに数多く入選・入賞。染色家・画家。

『美術作品を通し日米交流を続けて35年』

美術作品を通し日米交流を続けて35年

中川:
はじめまして。「興梠」の二字で「こおろぎ」さんとお読みするのですか。珍しいお名前ですねえ。
興梠:
ええ。皆さん首を傾げて「ヨロ、キョウロ、オキロ…あれぇ?何と読むのですか?」、と訊ねられます。「コオロギです」と答えるでしょう、そうすると「ご冗談でしょう」と笑って、「本当の読み方を教えてくださいよ」と(笑)。
小学生の頃だって、よくからかわれました。音楽の時間に唱歌『虫の声』で「あれ、コオロギが泣き出した」のところになると、悪ガキたちが力を込めて大合唱するんです。興梠は泣きたくても泣けなかったのです。
中川:
ハハハ、それはお気の毒でした。ご出身は宮崎だそうですが、郷里には多いお名前なのですか。
興梠:
私の出身は、宮崎県でも熊本のすぐ近くの五ヶ瀬町というところです。「興梠」姓は、宮崎県の高千穂地方に500世帯、県外、国外を合わせても550世帯くらいだそうです。猿田彦命の道案内で高千穂に着いた渡来人を迎えた土地の豪族が、興梠一族だったようです。梅原猛さんの著書『天皇家のふるさと日向をゆく』には、「興梠の里」「興梠山」「興梠の 内裏」と、「興梠」がたくさん出てきます。
中川:
それは、高貴なお名前なのですね。興梠さんは、歴史もお詳しいようですね。
興梠:
歴史は大好きです。何故だろうと不思議に思うことをいろいろと調べるでしょう。そうすると、知らなかった史実が次々と分かって興味は尽きません。今は絵を描いていますが、もっと年をとったら、郷里の歴史や今まで訪ね歩いたアメリカやハワイ、メキシコ、フランスなどの歴史の話を書いてみたいな、と思っています。でも、文章力が無いのが残念です。
中川:
いえ、いえ、興梠さんがお書きになったエッセイをいくつか読ませていただきましたが、とても面白かったです。ところで、興梠さんは、随分前にアメリカに渡り、今はハワイに住んでおられるそうですが、最初はどういうきっかけだったのですか?
興梠:
JALがシアトルに飛んだのが1968年なんです。そのときの記念飛行に文化使節として11人が搭乗し、シアトルやロサンゼルスで展覧会を開きました。私もその中の一人だったのです、アクラス画家、染色家としてですね。翌年の夏休みにも渡米して展覧会を開催し、そのまた翌夏に行こうと思ったら、県から「国内ならいいけれど、毎年、海外に研修に行くのは認めない」と言われましてね。当時、県立高校で美術教員をしていましたか
中川:
アクラス画というのは初めて聞きましたけれど、どういうものなのですか。
興梠:
ガラスは割れますから大きな絵は描けません。それで細かいガラスをつなげてステンドグラスが発達しました。アクリル板なら割れないから大きな作品も可能です。それで、アクリルとガラスをつなげて「アクラス画」と呼んでいるのです。完成する絵の裏返しの絵をアクリル板の裏側に描いていくので、ちょっと特殊なんです。でも、展示した絵は汚れませんし、色も褪せません。表面を拭くことだって出来ます。こういう技法で描いているのは、日本に3人くらいしか居ないのではないでしょうか。
中川:
今ほど航空事情も便利ではない35年以上前に、地球の裏側までいらしたのは一大決心だったことでしょう。しかも、県立高校教諭という安定した職を辞していかれたのですから。
興梠:
渡米するときは送別会が開かれて宮崎県知事も出席してくださり、まるで水杯を交わす感じでした。渡米してからは、サンフランシスコやロサンゼルス、ミネソタ、シカゴ、ニュージャージーなどで展覧会を開いたり、大学の客員教授や講師として絵を教えるかたわら、メキシコなどにも足を伸ばして、アチコチ放浪しました。
中川:
いろいろな珍しい経験もなさったことでしょうね。
興梠:
ええ、行く先々で興味深い体験をしました。例えば、メキシコ市からバスで6時間ほど北上した標高4千メートルのガナハトという街の外れの教会には何体ものミイラが展示されていました。ミイラというと、骨、皮、筋だけになった怖い様相のもののように思われがちですが、そこのはそうではありませんでした。
帽子を被ったり服を着たり靴を履いた者もあり、壁に寄りかかったり座っていたり、老若男女さまざまで、ふっくらとして人間そのままでした。今でも教会の墓地の永代供養代が払えない人は、亡くなった後もミイラになって観光客からお金を稼いでいるそうですよ。
メキシコには、350年前に支倉常長に連れて来られて彼の地で死んだ人たちの墓もありました。彼らは、伊達政宗の命令でローマに行き途中メキシコに寄ったときに亡くなったのですね。彼らの墓はみんな日本の方に向いて建っていました。望郷の念を抱きつつ異国の地で亡くなった同胞の御霊を慰めるためなのでしょうね。伊達政宗は、東北の金銀だけではなくて、メキシコの金銀とスペインをバックにして徳川倒幕を考えていたのではという説があるのですが、これらの墓は、それを裏付ける一つの資料といってもいいでしょう。また、メキシコの南部のアオハカというところの古いカトリック教会の壁画には、長崎で処刑された二十六聖人の像が描かれているんですよ。歴史を調べると、いろいろなつながりがあることが分かり驚きます。
中南米の人たちは人懐っこくて、酒を呑み交わして肩を抱き合い歌い踊って…。中には、当時私の住んでいたロサンゼルスのアパートに、ある日突然「お前とまた呑みたくなった」と、5日もかけて車で訪ねて来た人さえいました(笑)。

<後略>

(2005年6月1日 SAS東京本社にて 構成 須田玲子)

川嶋 朗(かわしま あきら)さん

1957年東京都生まれ。北海道大学医学部卒業後、東京女子医大へ。93年~95年、ハーバード大学へ留学。2003年より、東京女子医大附属青山女性・自然医療研究所自然医療部門責任者。東京女子医大助教授。

『足の腫瘍が統合医療へ、難聴が真氣光へ導いてくれたと思っています』

床屋さんの白衣を見ても泣き出す子だった

中川:
ご無沙汰しています。先生には、ハイゲンキマガジンにも、『ホンネTalk』というコーナーで連載していただいていましたが、会員さんにはとても好評でした。
今、統合医療とか代替療法ということで、医療の世界も大きく変わっていますが、先生はその旗手として雑誌のインタビューなどでよくお見受けします。
真氣光のことを理解していただいているドクターが、医療の最前線で活躍されているのを拝見すると、とても頼もしいし、心強いし、嬉しくなってきます。
川嶋:
ありがとうございます。私にとっても、真氣光は自然医療をやっていくきっかけになってくれた存在ですから、とても大切に思っています。
大学病院勤めですので、いろいろとしがらみもありまして。連載も、もっと続けたかったのですが…。
中川:
このクリニックは間もなく1年ですよね。クリニックというより、すてきなサロンで、照明も間接照明でとても落ち着いていますし、このフカフカのソファ。ここに座って患者さんは先生とお話するのですか。快適すぎて、眠ってしまいそうだなあ(笑)。
川嶋:
いろいろと凝りましたよ。デザイナーに相談したり、家具も一流のものを探したり。これまでの病院とは違ったイメージにしたかったですから。
中川:
病院というのは、ある決まったイメージがありますよね。消毒液の臭いがして、お医者さんや看護師さんが、忙しそうに走り回っている。
急患の人もいるだろうし、容態が急に悪くなる人もいるでしょうから、ゆったりもしていられないのでしょうが、ここに座っていると、どこへ来ているんだろうと戸惑ってしまいます。
それに、先生はいつもこの格好で診療されているのですか。白衣は着られないのですね。
川嶋:
白衣が苦手なんですよ(笑)。子どものころからそうでした。
床屋さんの白衣を見ても泣き出すような白衣嫌いの子でした。どうしてだかわかりませんが、嫌いでしたね。
だから、自分も着ないですね。
いかにもお医者さんと患者さんという関係ではなく、今日、会長が座ってくださっている感じで、気楽にやりましょうという付き合いがしたいんですね。
患者さんも本音を言い、僕も本音が語れたら、お互いがより深くわかり合えるようになりますよね。そしたら、みんながもっと健康でいられるのではないかと思うんですね。
中川:
そうですよね。氣の通い合いがないといい診療はできないと思います。お医者さんに遠慮していたり、緊張していたりすると、氣の流れが滞ってしまいますね。
ここでこうやってリラックスして、先生の笑顔を見ながら、お話をしているだけで、氣が通うのだと思います。
だから、特別な治療をしなくても、お話をしているだけで良くなっていく人もたくさんいるんじゃないですか。
川嶋:
その通りですよ。初診で1時間、再診の方で30分ほどお話しますが、お話だけで良くなっていく方も多いですよ。
これも氣の治療だなと思っています。
中川:
最高の氣の治療ですよ。このクリニック全体にもとてもいい氣が流れているし、ここへ来て、先生とお話するだけで元気になれますね。

<後略>

(2005年4月26日 東京女子医科大学付属 青山自然医療研究所クリニックにて 構成 小原田泰久)

石井 光((いしいあきら)さん

東京生まれ。東京大学大学院法学研究科博士課程を修了。現在、青山学院大学法学部教授。犯罪学、犯罪処遇、少年非行の教鞭をとる傍ら、国際内観学会実行委員、日本内観学会副会長、「自己発見の会」常任理事として、オーストリア、アメリカ、カナダなどでも内観研修会を催し、日本で生まれた内観を世界各国に広める。著書に『一週間で自己変革、「内観法」の驚異』(講談社)、『子どもが優しくなる秘けつ』(教育出版)など多数。

『石井光先生の「内観」と光を学べる研修講座は最高です』

子どもが優しくなるのには、まず先生が

中川:
石井先生の最新のご著書『子どもが優しくなる秘けつ ―3つの質問(内観)で心を育む』を拝読させていただきました。「子どもが優しくなるにはまず先生が優しくなる必要があるのではないだろうか」と書かれてあって、あぁ、いいなと、とても共感しました。
石井:
この本は、かなり気合いを入れて書いたのですよ(笑)。というのは、一人の先生がこの本を読んで内観を学び、教室で実践してくだされば、何十人、何百人の子どもたち、学生たちの人生が変わっていくからです。
中川:
そうですね。氣も同じことがいえます。学校の先生がプラスの氣である真氣光をたくさん受けて変わっていくと、子どもたちにその氣が伝わって良くなっていきます。家庭でも、親御さんが氣を充電していただくと、お子さんが変わっていきます。石井先生のお書きになっていらっしゃることに、あぁ、一緒だな、いいお話だな、と嬉しく思いました。「かなり気合いを入れて」、ということですから、いっぱい氣が入っていて、読者の皆さんに内容と共に氣も伝わっていくでしょう。素晴らしいことです。
石井:
ありがとうございます。学校の先生が子どもの心を理解せずに自分の価値観をおしつけ、思い通りに相手が動かないと感情的に怒っていたのでは、子どもが優しくなるのは難しいですね。そこをわかっていただきたいと思いまして。
中川:
今は教育現場で多くの問題や事件が起きていますので、出版社の中で、学校教育に内観が必要だと思われた方がいらして、石井先生にこういう本を書いていただけませんかというお話があったのでしょうか。
石井:
そうなのです。編集者が企画を立てて私のところに訪ねて来てくれたのですが、その人はかつて私の授業に出て、記録内観も経験しているんですよ。教育の中に内観を取り入れたらという提案をして、多くの先生方の目に触れるようにしたいという願いが彼の中にありまして、私もそれは素晴らしいと思いましてね。
中川:
石井先生には、生駒の真氣光研修講座で毎回、内観を中心のご講義をしていただいていますが、読者の皆さんに、ちょっと内観についてご説明いただけますか。
石井:
内観というのは、自分の身近な人に対して3つの簡単な質問の答えを探すことによって、自分を見つめる、つまり「内を観る」方法です。1つ目は「していただいたこと」、2つ目は「してさしあげたこと」、そして3つ目が「迷惑をかけたこと」です。この3つを、相手を特定して、小学校に上がるまで、小学生のとき、中学生のとき…というように、年代を区切って観ていくのです。
集中内観というのは、1週間というまとまった時間をとり、朝起きてから夜寝るまで、集中して、この3つの質問に取り組んでいく方法で、内観の基本的なかたちです。内観を行っている間は、ときどき訪れる面接者に自分の気がついたことを報告していくだけで、内観者同士では会話をしません。
内観で思い出したことを他の人に口頭で報告するのではなく、ノートや日記帳に記録していくのが、記録内観です。他には、1日内観、週末内観、集団内観、電話内観などがあり、この頃はパソコン内観なども行われるようになりました。このように、いろいろな方法がありますが、いずれの場合にも、質問は先ほどの3つです。

<後略>

(2005年4月8日 奈良県生駒市・真氣光研修所にて 構成 須田玲子)

龍村 修(たつむら おさむ)さん

1948年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。1973年求道ヨガの世界的権威、沖正弘導師に入門。内弟子幹部として世界中で活躍。85年導師没後、沖ヨガ修道場長を経て、94年龍村ヨガ研究所を創立。現在、龍村ヨガ研究所所長、国際総合生活ヨガ研修会主宰。著書に『深い呼吸でからだが変わる』(草思社刊)『生き方としてのヨガ』(人文書院刊)。

『真のヨガと真氣光を学べる研修講座は最高です』

精神的なものを重視する龍村先生のヨガを

中川:
龍村先生には、真氣光研修講座が伊豆の下田でスタートした当初からご縁をいただいていますから、もう15年以上になります。随分長い年月になりました。いつも有り難うございます。
先生のご著書もたくさんの方に読まれていて、また最近は新聞や雑誌などの取材も多いようですね。『日経ヘルス』には何回も連載されていますし、先日、家内が『家庭画報』の冊子を見ていたらカラーページに先生が写真入りで大きく紹介されていて、「あら、龍村先生!」と驚いていました(笑)。
龍村:
ええ、お蔭様で、月刊『ハイゲンキ』に連載させていただいたものをベースにしてまとめた『生き方としてのヨガ』も2001年に発刊されてコンスタントに読まれていますし、相次いで同じ年に草思社から出版された『深い呼吸でからだが変わる』は4年間で10刷されて売上は32000冊と、随分好評をいただいています。これがひとつの機となって、取材依頼が毎月のように寄せられるようになりました。
『日経ヘルス』からは、去年の夏に釈由美子さんが私のヨガの指導を受けるという形での取材があり、その後、1年の連載が決まって、今年の4月号で6回連載したところです。イラストレーターや、編集の人、カメラマン、ライターと、いつも3、4人で取材にみえて、お金を払って一生徒として私の講座を受講されています。「腹式呼吸をすると腸が動きますよ」と言ったら、「ホントですか?」と大学の研究所に行って、バリウムを呑んで、その動きの科学的データをとったりしているんですよ。大学の教授が「腹式呼吸って、こんなに効果があるの!」と、びっくりしていたりね(笑)。
中川:
最近は、ヨガがブームで、スポーツジムやカルチャースクールなどでも、たくさんヨガ教室が開かれているようですね。身体の健康法として。でも、いろいろとヨガと呼ばれるものがある中で、先生のなさっておられる沖ヨガは、身体を通して心の持ち方を学ぶというところで、真氣光と方向が同じでマッチしていますね。
龍村:
今、世の中は「アンチエイジ」が求められています。老化を遅らせて、肉体的に年より若くいたいという欲求です。それで、美しくなるためのヨガ、痩せるためのヨガ、などと銘打った、エクササイズとしてのヨガがはやっています。でも、ヨガは3千年も4千年も昔からあるのです。そんな頃に、痩せたい、なんていう需要はあったでしょうか(笑)。
ヨガは体操のように見えることをするものだから、多くの人はそのことに目を奪われて、身体のために行っていると思ってしまうようです。「私は身体が硬いからヨガはちょっと…」などと、「私はヒジを痛めているので、ちょっとテニスはできない」というのと同じように使っています。
ヨガの本来の意味は、「神と結ぶ」ということなのです。自分と神を結ぶ行為なのですから、宇宙と一体になるというような感覚が出てくるのです。ポーズはあくまでも、ひとつの手段なのです。自然法則、宇宙法則に気づく、そのための手段ですね。
日本には奈良時代からヨガは伽(ユガ)として入ってきていますが、今流行のヨガはインドから伝えられたものです。地域によって発達の仕方が違っていました。大雑把に言うと、北部は昔からの伝統的な行を通してですが、南部の系統はシステマティックなポーズの修得法が特徴です。A、B、C… というように段階がはっきりしていたために、欧米人に受け入れられやすかったようです。
中川:
身体も使って健康に良さそうですし、ヨガのポーズが、欧米の方たちに東洋的で神秘的に感じられたのでしょう。
龍村:
そうですね。それまで日本には北部系のヨガしか入ってきていませんでしたが、1980年に私の師匠である沖正弘導師が、東京、大阪、名古屋で「ヨガ世界大会」を開催し、北部と南部の両方を紹介指導されました。この南部系のヨガが欧米社会の中心に広まっていって、精神性や瞑想よりはエアロビックのような要素が強くなっていったのが、この頃、女優さんも取り入れているということで人気になっているパワーヨガです。
南部系を基本としたものは、1から10までポーズが決まっていて、連続して行うと2時間もかかります。それを全部通して行ってから、はじめて身体を休めるポーズに入るのですが、これは一般の方にはとてもできません。それでヨガ指導者たちは独自に、幾つかのポーズを組み合わせてバリエーションを決めて教えているようです。
私の指導するヨガの基本は、一つのポーズを行った後は身体を休め、鎮める。動と静ですね、動きの後には緩める。本来は身体を動かしていても、それは「冥想」なのです。呼吸と身体と心、意識を一体化していく。そうしていって徐々に冥想の準備をしていくわけです。呼吸と動作は切り離せません。一緒に行います。パワーヨガも指導させてもらっていますが、修正法を入れた独自の内容で行っています。

<後略>

(2005年3月17日 奈良県生駒市の真氣光研修所にて 構成 須田玲子)

荒 了寛(あら りょうかん)さん

1928年、福島県生まれ。大正大学大学院博士課程で天台学専攻。仙台市仙岳院法嗣となり、仙台市の清浄光院、福島市の大福寺、上野寛永寺住職を経て、1973年、天台宗ハワイ開教総長としてハワイに渡る。布教活動の傍ら、ハワイ美術院、ハワイ学院日本語学校などを設立、日本文化の紹介、普及に努める。独自の画法による仏画を描き、米国や日本で毎年、個展を開催。主な著書に、『慈しみと悲しみ』『人生の要領の悪い人へ』『画文集・羅漢さんの絵説法―般若心経』『ハワイ日系米兵 私たちは何と戦ったのか』『シルクロードの仏を描く』など多数。

『ハワイで日系米兵の書を著し仏画を描いて辻説法』

新興宗教扱いの天台宗、檀家はたった2軒

中川:
対談をお願いしましたら、ちょうど日本にいらしていて東京で個展を開催中、とうかがい、こうしてすぐにお目にかかれることができました。ありがとうございます。
荒:
私もお会いできて、ありがたいなと。ご縁ですね。人との出会いは、みなご縁です。この「ありがたい」というのは、「有ることが難しい」と書き、「不思議だなあ」ということで、「不思議」とは、思うことも語ることもできない、深い縁があるということですね。
中川:
そうですね。「ご縁」は大切ですね。ところで、ハワイに渡られて30年以上とうかがいましたが、どういういきさつでいらしたのですか。
荒:
私は福島県郡山市に生まれ、10歳で親元を離れ天台宗のお寺に入りました。18歳のときに仙台の寺の養子になり、僧侶として本格的修行に入り、大学、大学院で学び、師父が上野寛永寺の住職でしたので、一時、寛永寺にもおりました。
1970年頃ですか、「天台宗も国際的な役割を果たさなくてはいけないのではないか」、と進歩的な考えをもたれた大僧正がいましてね、それをサポートするために天台宗海外伝導事業団が旗揚げされました。理事長が今東光大僧正でした。私は、しょっぱなから拝み倒されたといいましょうか(笑)、聞いているうちにやらざるを得ない、という気持ちになって、ハワイに赴いたのです。1973年、私が45歳のときのことでした。
ハワイは移民の地でしょう。日本からの移民は既に1885年に第一陣が渡っています。その後、広島、山口、熊本、福島、新潟… と何万人もまとまって移住を続けていました。広島県出身者が一番多かったですね。皆さん仏教徒で、「安芸門徒」と言われて先祖代々の浄土真宗檀家で、ハワイに渡っても真宗の寺を建て先祖供養を心のよりどころとしていました。曹洞宗の檀家の多かった福島県の移民は曹洞宗の寺を建て、たくさんの立派なお寺がありました。その発展振りを見て、天台宗も当然そうなるだろうと、私が送り込まれたわけですが(笑)、それが、3年経っても5年経っても檀家ができません。
中川:
もう、すっかり他の宗派が根付いてしまった状態で。
荒:
そうです。そこに100年も遅れてノコノコ行ったんですね(笑)。入り込む余地もありません。日本で一番古い天台宗が、ハワイでは「また、新興宗教が来た」扱いでした。天台宗というのは大地主の教団で、農村にはあまり寺も無く、天台宗の檀家が移民になることもなかったようです。未だに、先祖から天台宗だったという檀家は2軒しかありません。とにかく、檀家がなければ葬式も法事もありませんし、墓だって、ハワイでは共同墓地ですから、墓地を売ることもできません。だから、寺の収入が全くない。私は子どもの学校の給食費も払えないような状態でした。
さて、どうしようかと考えたとき、とにかく寺に人が出入りをしてくれることだと思い、寺で日本画、油絵、華道、茶道、染物、書道などの日本文化を教える教室を開きました。そのうち、檀家や信者を獲得するのにやっきになるより、日本仏教の思想や文化を、宗派を超えて伝え、現地の人の生活に生かすようにすることが大事だと思うようになりました。それで、「ハワイ一隅会」という社会奉仕団体を作りました。
1年経ったとき、教室の皆さんの作品展をアラモアナ・ショッピングセンターにある、白木屋で開きました。白木屋さんは快くスペースを貸してくれたのですが、それが大変広くて生徒の作品を並べても、まだ壁が寂しく空いている。何とか壁を埋めなくてはと思って、私も急遽描くことにしました。
とにかく大きなものをバン! と飾らないと格好がつかないでしょう。ベニヤ板3枚をつなぎ合わせて和紙を貼り、そこにスプレーでウワァと龍を描いて、最後に筆に墨を含ませてサッサッとカタチを整えて。いくらなんでも、人間や花などをそんなに大きくは描けないけれど、龍ならいくら大きくたっていいでしょう、迫力あって(笑)。その龍に観音様をお乗せしました。一晩で描きあげました。
中川:
素晴らしい発想と行動力ですね(笑)。でも、普通は描こうと思ったってできません。絵は、以前から描いておられたのですか。
荒:
子どもの頃から絵は好きでしたし、山歩きも好きで、いつもスケッチブックを持ち歩いては山を描いたり、お地蔵さんや観音様を墨絵風に描いたりしていました。でも、人様にお見せしたり、ましてや売ろうなんてことは、ちびっとも思っていませんでした。
でも、そのときはそんなことは言ってはおられません。壁を埋めなければいけませんから。一晩で描いたその絵は、思いがけないことに好評でして、「来年から、荒さんの作品だけでお願いします」とデパートのマネージャーから言われました。それから10数年、店長が替わられるまで、白木屋で毎年お正月の催事物として、私の個展が続きました。これをきっかけに、サンフランシスコ、ニューヨーク、ボストンでも個展が開かれるようになりました。
中川:
荒さんがお描きになった絵からは、いい氣が出ていて、それを観る方が感じられて、いつも自分の身近に置いておきたいと思って求められるのでしょう。絵も映画も音楽も工芸作品からも、みな創り手の氣が込められ、それが周りに伝わっていくのですね。
荒:
仏様を描いていれば布教にもなり、これも重要な仕事だと思って続けてきました。仏様から応援していただいているような気持ちがして、ありがたいことだと…。
中川:
そうですね、そういうことはあると思います。仏様のお顔が何とも言えない温かみがありますね。
荒:
以前、井上靖さんが『敦煌』をお書きになった頃、深田久弥さんが仙台に来て敦煌の話をしてくれました。それ以来、いつか私も敦煌に行きたいと思っておりましたが、ハワイに行ったおかげで縁あって敦煌行きが実現しました。そのときからガラッと画風が変わり、今のような画風になりました。日本画と油絵と染織を混ぜたような、その方法は企業秘密ですが(笑)、それで描くと全く独特な作風になるのです。仏画を通して人の心の癒しができるのなら、これも辻説法かなと。
中川:
ほのぼのとした墨絵の作品もユーモラスで、これはまた作風が全く違いますね。般若心経を一句ずつ、荒さん自身のやさしい言葉で解説しながら仏画で表し、英文もつけておられて、般若心経がぐっと身近に感じられます。
荒:
こういう説法図を描くようになったのは、割合最近なんですよ。カレンダーにしたり、「羅漢さんの絵説法」と名付けた画集にして、皆さんに親しんでもらおうと。墨絵は直しがききませんから、一枚描くのに、ポタッと墨を垂らしてしまったり、線が細かったり太かったりで失敗作が10枚くらいできちゃう。簡単そうに見えても、なかなか大変です。このような墨絵も含めた仏画の展覧会を日本各地でも開くようになりまして、今はハワイと日本を行ったり来たりしています。

<後略>

(2005年1月31日 荒了寛さんの東京連絡所にて 構成 須田玲子)

三橋 國民(みつはし くにたみ)さん

大正9年、東京・町田市生まれ。造形美術家。昭和16年に応召し、昭和21年西部ニューギニアで重傷を負いながらも、分隊員40人中ただ二人の生き残り兵として生還。その体験記『鳥の詩』(日本放送出版協会刊)はドラマ化されベストセラーとなる。戦後、東京学芸大学教授・海野建夫氏に師事、工芸美術、彫金、鋳造、石造などを学ぶ。現在、社団法人・光風会名誉会員、社団法人・日展参与などを務める。これまでに日展内閣総理大臣賞、菊花賞、光風会辻永記念賞などを受賞。美術作品集に『南溟の友に』『忘れじのニューギニア』など。近作モニュメントは大阪府忠岡町「平和の鐘」、新幹線福山駅壁画「燦」、津市役所中庭「鳥の詩」、町田市「自由民権の像」、永平寺「道元禅師稚髪像・梵鐘・開山堂」など多数。

『美術、文芸作品を通じ戦争の語り部として僚友の鎮魂60年』

ニューギニアでの体験がドラマに本にと

中川:
ちょうど10年前に三橋さんのご著書『鳥の詩』が刊行され、私共の『月刊ハイゲンキ』に、ライターの須田が紹介させていただきました(編集部注・本誌67号参照)。戦争でニューギニアに2年余り、奇跡的な生還を果たされた壮絶な体験を本当に見事に書かれていて、私も引き込まれるように読ませていただきました。
三橋:
あれは、はじめは自分史のコンクール応募作品だったのです。書き溜めておいた30編の短編を作家の大江健三郎さんが、自分史を超えている文芸作品だと大変ほめてくださった。それがNHKドラマ企画部の人の耳に入りまして、ラジオドラマ化になり五夜連続で放送されました。予想外のすごい反響でした。
その後、一冊の本にまとめて7千部刷ったのですが、発売5日間でなくなってしまいました。出版社が慌てて再版を決め、結局2万部が完売となりました。素人の本でしょう、何で売れているんだ、と出版関係者は驚いていましたが、私は、これはニューギニアの僚友たちがバックアップしてくれているんだと思いました。
中川:
そうですね。帰って来たかった大勢の皆さんの応援が届いているのでしょう。分隊員40名いらした中で、三橋さんともうお一人だけが生還されたそうですね。
三橋:
そうです。全ニューギニアでは16万の日本兵が送り込まれて15万人が亡くなっています。赤道直下でね、中国大陸から遥々やってきた軍馬たちは、異常な南海の高温にやられて次々に倒れ、目的地ニューギニアには一頭も上陸できませんでした。
中川:
三橋さんは、その中で生き抜かれた。
三橋:
三橋さんは、その中で生き抜かれた。
中川:
あるとき、「敵機飛来!」の甲高い声が響きました。マラリアで39度の高熱を出し、ニッパ小屋に寝ていた私は、反射的に飛び起き20メートルほど離れた高射砲台座に向かって突っ走ったのですが、大きな木の切り株にけっつまずいて倒れこんでしまいました。
そこに、ものすごい炸裂音と爆風。私は2メートルほど上空に飛ばされました。その姿を、別の自分が見ているんです。飛ばされている自分の二つの目がまるで、正月に食う“くわい”のように飛び出している。目玉を後ろ側から見たのなんか、初めてですよ。
その瞬間、羽子板絵のように母の顔がパッと浮かび上がってきて、一瞬静止しサァーッと砂が落ちるように掻き消えて、次々と父、兄、姉が現れては消えていきました。これを含めて、4度ばかり死んでいますが、いつでもその瞬間に見えるのは、まず母の顔ですね。
どのくらい経ったか、寒さに身震いして気がつきました。冷たい雨の粒が角膜に絶え間なくぶつかってくる。左胸が激しく痛んでいる。右手で確かめると、マラリアのために着込んでいた分厚い軍服がスパッと裂けていました。「ああ、やられた! オレはこれで死ぬ」と思った、あの絶望感は何とも言い難いですね。震える手をその裂け口から入れて傷を探ると、掌にベットリと血糊が溜まった… はずでした。ところが、濡れていない。探った指先が冷たい金属のような物を捉えている。何だこれは! ぐいっと取り出すと、鉛筆より少し長めで幅2センチほどの金属片でした。25Lロ爆弾が揺れずに定位置に落下するように、爆弾の頭にプロペラがついているんです。
三橋:
あ、そのプロペラの破片だったんですか! 信じられないほど、まさに危機一髪でしたね。守られましたね。
中川:
そう、肌着は全く破れてはいなかった。懐に滑り込むように飛び込んできて、痛みは衝撃の打撲痛だったのです。夕闇の中に金属片を透かして見ると、「U・S AIR FORCE No.…」と刻印されていました。数年前に、ある人に言われたことがありました、「三橋さん、あなたは幸運ではないけれど、強運の人です」って。こういう戦地の体験を振り返ると、全く、我ながら“強運”だと思いますよ。
敵機が行ってしまった後に切り株の反対の側を覗いてみると、さっきまで寝ていたニッパ小屋は跡形もなく吹き飛んでいて、すぐ側に十数メートル径のすり鉢状の大穴があいていて、切り株の肌には鋭い金属片が無数に突き刺さっていました。
数分経つと、敵の偵察機ダグラスA20Aが、先程の戦闘の成果を確認しに来ました。咄嗟に浅井戸に飛び込み、側に吹き飛ばされてあったお盆で頭上に蓋をして、隙間から見上げると、白いマフラーをはためかせて大きなゴーグルをして舐めるように見回しているパイロットが見えるんですよ。そして、私をちゃんと見つけていたんですね。急降下しつつ、7メートルほどの至近距離に25キロ爆弾を落としていきました。グァーン、バリーン! 浅井戸が押し潰されたような衝撃を受けました。私みたいな兵隊一人を殺すのに、こんなにカネかけて浪費することないじゃないですかね。
山の方に逃げた、僚友が「みつはしぃー!」と探しに来て、「あぁ、あいつもとうとうお陀仏か。かわいそうに…」と、しょんぼり佇たたずんでいました(笑)。「勝手に殺すなよ」、と井戸から出てきて、二人でボロボロの天幕を被って辛うじて雨を防ぎ、そのまま丸まって眠ってしまいました。マラリアだし、食べるものもなく極度の空腹と疲労で…。ふと目が覚めたら、潮が満ちて腰まで海に浸かっていました。なぁんにもない海の中で僚友とただ二人…。
何年か前に講演会で、こういう話をしたら、40代くらいのご婦人が、「先生は、フルーツはお嫌いでしたの」と訊くんですよ。「お腹が空いているんだったら嫌いでも食べれば餓えなかったのに」、と。何を考えてんだか。フルーツがたわわに実る南国の島、それは、グアムやハワイの話なの。ニューギニアはそんなものはなかった。木の皮まで剥いで食べてましたよ。嫌いもクソもありますか。
三橋:
今や60歳以下の人はみんな、戦争を知りません。講演会に出向いて聴きに来られるのは関心があるからでしょう。“知る”ということはとても大事なことです。戦争の実態を伝えてくださる三橋さんのお役目は大きいと思います。
中川:
皆さん、現在の自分たちの置かれている状況から考えてモノを言ってしまうんですね。大学生で、「えっ、アメリカと戦争していたことがあるんですか」なんて、ビックリしているのがいて、こっちの方がビックリしてしまいましたよ。
私は大学に行きたかったのですが、中学を卒業したときに兄がちょうど徴兵されていましたから、私は、身体を壊していた父に代わって家業をしていたんです。兄が帰ってきたので猛勉強をして立教と一橋大学を受験しました。立教の合格通知が来た直後、赤紙も来てニューギニアに送られました。その2日後に一橋の合格通知が届いて、母が、「あんなに勉強して一橋に入学したがっていたのに、あの子は、ニューギニアに入学してしまったよ」と言ったそうです。
大学に行きたくても赤紙が来てはね。だから、私は学歴はないのです… それを話したときは、孫のような若い女性が、「そんなこと、私だったら許せない。抗議すればよかったのに」と。抗議するって、アナタ! あの当時、そんなことできるはずもなかったのですよ。
でも、大学に入らなかったから、こうして生き延びているといってもよいかもしれません。大学生になった同期のヤツはみな飛行機乗りになって死んでしまいました。1920年生まれは、人口グラフにすると一番くびれている年なのですよ。一番兵隊に持っていかれたんですね、私たち大正9年生まれは。生き延びた私は、命ある限り彼らの「想い」を伝えてやりたいと思っているんです。
戦後2回、慰霊にニューギニアに行ってきましたが、私たちの布陣していた高射砲陣地には、辿り着けませんでした。ジャングルは50年経ってしまったら、全く様相が変わってしまいます。珊瑚礁ですから根がしっかり張れないで、30メートルもある大木が突然ドタンと倒れて、あの頃、行軍をしていてそれを乗り越えると、もうどちらから来たか、方角が全く判らなくなってしまったものです。
現地の人は今でも、高射砲陣地のあった周辺には近寄りません。高射砲を操作するカタカタという音が聞こえる、幽霊も出ると言って気味悪がって。軍服姿の写真を見せたら、部落のお嬢さんが、「これと同じ服を着ている、痩せた男の人だった」と怖がるんです。
交歓パーティーでパプア族のラジャー… 酋長のことですがね、その人が言ったんですよ。「日本人は、供養をしてあげないから、霊が未ださ迷っているんです。キリスト教、イスラム教、ジャイナ教、仏教… 宗教なんて何でもいい。手を合わせて心を込めて亡くなった人の冥福を祈ってあげてください」と。そして、「日本人は勘違いしている。慰霊と戦争を正当化することとは全く違う。亡くなった人に手を合わせることを忘れてはダメです。当時の若者たちは国の為とだけを信じて戦い、殉じていったのですから…」と。
戦後、占領軍の方針で『戦争史観』というものが失われてしまいました。それでは浮かばれませんよ。日本人だけでも3百万人以上も亡くなっているんです、この戦争で。亡霊となって50年60年もの間さ迷い出現してくる兵士も大変です。
三橋:
まさに、それは魂さんの気持ちだと思います。出てこなければいけない状況で、ずっと待ち続けている。何とか光あるところに帰りたい、と思いながら、いつまでも戦争のさなかに居るんですね。亡くなって、肉体は消えてしまっても、魂は残りますから。戦時中のことが空白になっていて、そのときの兵隊さんの辛い気持ちを感じられないと、祈りも通じません。まず、私たちが知らなければ。

<後略>

(2005年1月19日 東京・町田市の三橋國民さんのご自宅にて 構成 須田玲子)

小泉 凡(こいずみ ぼん)さん

1961年東京生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。専攻は民俗学。1987年に松江赴任。現在、島根女子短期大学助教授、小泉八雲記念館顧問、山陰日本アイルランド協会事務局長などを務める。主な著書に『民俗学者・小泉八雲』(恒文社)、『八雲の五十四年―松江市からみた人と文学』(共著・松江今井書店)、『文学アルバム小泉八雲』(共著・恒文社)など。他にハーンや民俗学に関する多くの論文がある。小泉八雲のひ孫にあたる。

『民俗学者のひ孫が語る 小泉八雲の目に見えぬ世界』

大学院時代に八雲の作品に触れ、目から鱗

中川:
初めまして中川です。今年はラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)の没後100年ということで、文化人切手にもなり随分注目されています。ハーンは、小泉先生のひいお祖父さまにあたられるのですね。
小泉:
そうなんです。父方の曾祖父です。
中川:
ハーンは出雲に住んで居たこともあるそうで、松江には「小泉八雲記念館」もあって島根は縁の深い土地のようですが、先生もずっとこちら(松江)にお住まいなのですか。
小泉:
いえ、東京の世田谷で生まれ育ちました。ご縁があってこちらに職を得まして、松江に住むようになったのは17年前からですね。実は、八雲に興味を持ったのは大学院修士課程のときなのですよ。
中川:
そうだったんですか。民俗学がご専攻、とうかがっていますが。
小泉:
はい。私は小さい頃から乗り物が好きで、それが旅好きになり、旅といいますか、フィールドワークができる学部は何かというと、当時は民俗学か人類学だったんですね。成城大学には柳田国男の蔵書が全部そろっている民俗学研究所があったので、そちらに進みました。大学院に入った頃、たまたま友人が、アメリカの民俗学の機関誌にアメリカ民俗学者としてのハーンの論文があったからと言って、コピーして持ってきてくれたんです。辞書を引きながら一生懸命読んだら、目から鱗という感じでした。自分が今までやってきたようなことをハーンもやっていたのだということを、初めて知ったのです。
中川:
それまでハーンという人には、どのような印象をお持ちだったんですか。
小泉:
先祖に作家でかなり有名な人がいたんだということは、私が8、9歳頃に、子供向けの伝記シリーズをつくるからと、出版社の方が取材に来られましてね、ちょうど良いから遺品を持ってモデルになってと言われて、そのときに意識しました。その後、高校時代のサイドリーダーで『怪談』を読んだのがハーンの作品に触れた最初です。どうも身内の者が、先祖の研究をするのは恥ずかしいし、おこがましいし、余り良いことと思わなかったということもあって、敢えて避けていたということもありました。
それが、先ほど言いましたように大学院のときにご縁が出来て、面白そうだと興味が湧き、ゼミの先生方にも、君の所にはまだ知られていないハーンの資料もあるだろうし、修士論文はこちらの方で書いたらどうかと勧められまして、ハーンをテーマにしたのです。
中川:
私は民俗学に詳しくないのですが、どういったところにご興味を持たれたのですか。
小泉:
動機は旅ができるということだったけど、初対面の人に会って全然違う価値観とか世界観とかをうかがったり、こちらの生き方のヒントや知恵を頂いたり、楽しいですね。例えば、隠岐の知夫里島などでは、「墓」を「ふぁか」と発音するなど、ハヒフヘホがH音に変わる前のF音が残っているんです。沖縄にはさらに前のP音もまだ残っていますし。
今は「神在月(かみありづき)」がちょうど終わったところですが、松江の郊外にある古い佐太神社では神送りの儀式がありまして、短大の学生を連れて行きました。夜の10時頃、真っ暗闇の山に登って行き、山頂で宮司さんが「オーオーオー」と発声し、神を諸国に送り返すのです。旧暦の11月を一般には「神無月」というのですが、これは諸国の神様が出雲に行ってしまわれて留守になるからなのですね、そして、ここでは神様が集まってこられるので「神在月」、というわけです。
中川:
学生さんも貴重な体験をして感動したことでしょう。
小泉:
そうですね。学生を島根の山間部に連れて行き、午前中は農業体験、午後はお年寄りのライフヒストリーを聞き、夕方は郷土料理の講習会、といったこともしています。
中川:
ハーンは出雲に住んで居たこともあるそうで、松江には「小泉八雲記念館」もあって島根は縁の深い土地のようですが、先生もずっとこちら(松江)にお住まいなのですか。
小泉:
いえ、東京の世田谷で生まれ育ちました。ご縁があってこちらに職を得まして、松江に住むようになったのは17年前からですね。実は、八雲に興味を持ったのは大学院修士課程のときなのですよ。
中川:
そうだったんですか。民俗学がご専攻、とうかがっていますが。
小泉:
はい。私は小さい頃から乗り物が好きで、それが旅好きになり、旅といいますか、フィールドワークができる学部は何かというと、当時は民俗学か人類学だったんですね。成城大学には柳田国男の蔵書が全部そろっている民俗学研究所があったので、そちらに進みました。大学院に入った頃、たまたま友人が、アメリカの民俗学の機関誌にアメリカ民俗学者としてのハーンの論文があったからと言って、コピーして持ってきてくれたんです。辞書を引きながら一生懸命読んだら、目から鱗という感じでした。自分が今までやってきたようなことをハーンもやっていたのだということを、初めて知ったのです。
中川:
それまでハーンという人には、どのような印象をお持ちだったんですか。
小泉:
先祖に作家でかなり有名な人がいたんだということは、私が8、9歳頃に、子供向けの伝記シリーズをつくるからと、出版社の方が取材に来られましてね、ちょうど良いから遺品を持ってモデルになってと言われて、そのときに意識しました。その後、高校時代のサイドリーダーで『怪談』を読んだのがハーンの作品に触れた最初です。どうも身内の者が、先祖の研究をするのは恥ずかしいし、おこがましいし、余り良いことと思わなかったということもあって、敢えて避けていたということもありました。
それが、先ほど言いましたように大学院のときにご縁が出来て、面白そうだと興味が湧き、ゼミの先生方にも、君の所にはまだ知られていないハーンの資料もあるだろうし、修士論文はこちらの方で書いたらどうかと勧められまして、ハーンをテーマにしたのです。
中川:
私は民俗学に詳しくないのですが、どういったところにご興味を持たれたのですか。
小泉:
動機は旅ができるということだったけど、初対面の人に会って全然違う価値観とか世界観とかをうかがったり、こちらの生き方のヒントや知恵を頂いたり、楽しいですね。例えば、隠岐の知夫里島などでは、「墓」を「ふぁか」と発音するなど、ハヒフヘホがH音に変わる前のF音が残っているんです。沖縄にはさらに前のP音もまだ残っていますし。
今は「神在月(かみありづき)」がちょうど終わったところですが、松江の郊外にある古い佐太神社では神送りの儀式がありまして、短大の学生を連れて行きました。夜の10時頃、真っ暗闇の山に登って行き、山頂で宮司さんが「オーオーオー」と発声し、神を諸国に送り返すのです。旧暦の11月を一般には「神無月」というのですが、これは諸国の神様が出雲に行ってしまわれて留守になるからなのですね、そして、ここでは神様が集まってこられるので「神在月」、というわけです。

<後略>

(2004年12月6日  島根女子短期大学 小泉凡先生研究室にて  構成 須田玲子)

著書の紹介

「文学アルバム 小泉八雲」
小泉時・小泉凡 (共編)
恒文社刊

クリストファーW. A. スピルマン(くりすとふぁー すぴるまん)さん

1951年5月ポーランド・ワルシャワ生まれ。80年英・ロンドン大学日本学科卒業、85年米・エール大学大学院修了。86年から89年東京大学法科政治学科外国人研究生。現在、九州大学、北九州市立大学、九州産業大学非常勤講師。専門分野は日本近代政治思想史。論文も多数発表。福岡在住。

『戦場のピアニスト』を父に持つ 日本近現代史の専門家』

ショパンのノクターンを演奏し 救われた父

スピルマン:
遠いところ、ようこそいらっしゃいました。取材依頼のお手紙や資料が大学の方に届いておりまして、私はいつも大学に居るわけではありませんので、つい最近受け取ったんですよ。日付を見ると、1ヶ月も前のご依頼だったものですから、あ、失礼したなと急いでご連絡したのです。
中川:
そうだったのですか。こうして、お目にかかれて、嬉しく思います。お忙しい中を本当に有り難うございます。実は、母や知人が、スピルマンさんのお父様のことを描いた映画『戦場のピアニスト』を観まして、大変感銘を受けたと話してくれました。そして、朝のラジオ番組でスピルマンさんを紹介しているのを耳にした知人が、日本近代史の専門家で、日本語も堪能、日本にお住まいだと教えてくれました。シュピルマンさんの息子さんが日本にいらして、そんなにも深く日本と関わっていらっしゃるとは…思いがけないことでビックリしました。そしてまた、スピルマンさんが『シュピルマンの時計』というご著書を小学館から出されていることを知り、早速インターネットで注文し読ませていただきました。そして、是非お目にかかってお話をうかがいたいと思ったしだいです。
スピルマン:
2003年の9月に、アメリカ史の研究者である家内と共にアメリカに渡り研究生活を送っておりまして、その帰りにポーランドを回って、1年後の9月12日まで滞在していたのですよ。
中川:
それでは、日本に戻られたばかりなのですね。その前でしたら、お会いできなかった。ちょうど良いときにご依頼したというわけで、ご縁をいただけて良かったです。ところで、お父様は「シュピルマン」さん、息子さんは「スピルマン」さんと表記が違うのですね。
スピルマン:
ええ、そうなんです。「SZPILMAN」と書くのですが、私が日本に来た20年程前は、日本の方は「シュ」という発音にあまり馴染みがなく、「スピルマン」の方が言いやすいようでしたので、いちいち訂正するのもね、それで、そのままになりました(笑)。
中川:
「戦場のピアニスト」は、カンヌ映画祭で受賞し、大変な評判になりましたね。
スピルマン:
はい。アカデミー賞も頂きました。この映画は、父が1946年に書いた『ある都市の死』という回想記が原作です。はじめ私は、この映画がこんなに評判になるとは思わず、妻に「東京の小さな映画館で上映されるくらいだろうね。私たちが住んでいる福岡での上映は無理だろう」と話していました。私がこの映画を最初に観たのは2002年9月、ワルシャワでのプレミエ(初演)でしたが、大統領や政府の要人や、現在のポーランドの文化人が一堂に会したといってもいいほどで、国家的行事扱いでした。街のいたるところに大きな父の顔写真が貼られていて、マスコミにも大々的に報道されていました。次に観たのは、その2ヵ月後、東京・渋谷で行われた「東京国際映画祭」でした。
中川:
映画をまだ観ていない読者のために、お父様のことと映画のことについて、少しご紹介いただけますか。
スピルマン:
そうですね。父シュピルマンは、1911年ポーランドで生まれました。ワルシャワのショパン音楽院でピアノを学び、31年にはドイツ・ベルリンの音楽アカデミーに留学し、帰国後35年にはワルシャワで国営ラジオ局(ポーランド放送)の職を得ました。この頃、父は既に多くの曲を作曲し、レコードも数多く発表し、ポーランドでは人気のピアニストとして名を知られていました。そして、映画のストーリーはこのあたりから始まるのです。39年9月1日に始まった第二次世界大戦で、ワルシャワはドイツ軍の標的となり、壊滅的な爆撃を受けました。9月23日、ポーランド放送のスタジオが爆撃されたとき、父はショパンの『夜想曲(ノクターン嬰ハ短調)』を演奏中でした。父たちは、高い塀に囲まれた狭いユダヤ人居住区に強制的に隔離され苦難と困窮の時期を過ごした後、収容所に送られるのですが、その間際に、父だけ奇跡的に救い出され逃がされるのです。家族は、父の両親、弟妹…と父以外全員がナチスに殺されます。父は2年間、ポーランドの友人たちに助けられながら、隠れ場所を転々とし生き延びます。そして、もうすぐドイツ軍が撤退するかと思われたその直前に、廃墟の中でドイツ国防軍の将校と出くわしてしまうのです。父がピアニストだと知ったその将校は、隠れ家にあった古いピアノを示して「弾いてみろ」と促します。父が弾いたのは、ポーランドの大作曲家であるショパンが作曲した、あの『ノクターン嬰ハ短調』でした。演奏を聴き終えた将校は、寒さと餓えに震える父に自分のコートや食べ物を与え、命を救うのです。これが、『戦場のピアニスト』のクライマックスですね。この将校は、ユダヤ人である父に対してドイツ語の敬語で話し掛けているのです。このことからも、このドイツ人将校がどれだけ人道主義者なのかということが分かります。日本語の字幕ではそのニュアンスが消えてしまっていて残念でした。

<後略>

(2004年11月12日 福岡のスピルマンさんのご自宅にて 構成 須田玲子)

DVDの紹介

「戦場のピアニスト」
監督: ロマン・ポランスキー
出演: エイドリアン・ブロディ, トーマス・クレッチマン, フランク・フィンレイ
販売元: アミューズソフトエンタテインメント
時間: 149 分

尹 基(ゆん き)さん

1942年、韓国木浦市で生まれる。1968年、木浦共生園園長に就任。以来、木浦・ソウル・済州島と堺・大阪・神戸などの地域に14の施設をつくる国際ソーシャルワーカーとして活躍中。韓国青少年問題研究所所長、韓国社会福祉士協会会長、ソウル特別市低所得者対策委員などを歴任。日本では「在日韓国老人ホームを作る会」を提唱し、福祉の国際化・文化化・大衆化を推進。現在、「こころの家族」理事長。著書『愛の黙示録(原題・母よ、そして我が子らへ)』(汐文社刊)。『風のとおる道』(中央法規刊)など。

『相互交流し理解することで心の壁を越えられる』

見えないものを大切にし そこから学ぶ

中川:
はじめまして、中川です。今日は快くお引き受けくださいまして有り難うございます。
尹:
送っていただいた会報誌を拝見しました。目に見えないものを大切にしておられる。社会福祉にも関係が深いと思いました。
中川:
“氣”は目に見えませんが、確かに存在していて、人の心もそうですね。心の持ち方をプラスに変えていくことで、いい氣も出るのですよ、ということをお伝えするセミナーなども開催しています。実は今日もその4泊5日のセミナーを終えて、こちらにうかがったのですが。
尹:
そういう施設があるのですか。
中川:
奈良の生駒に研修所があります。また北海道から沖縄まで8ヶ所にセンターがあります。こちらから一番近いのは、谷町4丁目にある「大阪センター」ですね。
尹:
韓国語には、「知恵」を意味する「(スルキ)」、「特技・得手」を意味¥r¥nする「(チャンキ)」、そして「根気」を意味する「(クンキ)」などがあります。日本にも、「気力、気分、気持ち」など、たくさん「気」のつく言葉がありますね。これは余談ですが、私の名前は「ユン・キ」です。「基」と書きますが、発音は同じ“き”ですね。「ユンキ」にも、潤いやゆとりの意味があります。中川さんとお会いするのも何かのご縁かなと、スタッフとも話していたのです。
中川:
私も、よく「ご縁ですね」、と言います。セミナーを受講される方にも、ここに一緒に集まったということは、ご縁があったからだと。尹さんとも、こうしてお目にかかれたご縁を有り難く思います。
尹:
以前に中川さんの会報誌に、私の著書『愛の黙示録』を紹介していただいたのも読みましてね、これはお会いしなければと思いました(編集部注・本誌2002年4月号No・143に掲載)。
中川:
私も『愛の黙示録』を読ませていただきましたが、後に映画化されたそうですね。日韓合同映画で韓国による日本の大衆文化解禁第1号となった作品と聞いています。韓国と日本は以前大変不幸な関係がありました。韓国や朝鮮の人々は、辛く苦しい思いをされた方々が大勢いらっしゃる。そういう歴史をふまえて、お互いに理解し合っていくことがとても大切だと思っています。
お母様が、当時日本が統治していた韓国でキリスト教伝道師のお父様と結婚されて、生涯に3000人の孤児を育てられたそうですね。
尹:
そうです。私の父は韓国人、母は日本人です。私は韓国人だと思っていましたが、日本人なんです。母が一人娘だったので、父が母の戸籍に入ったからです。母の生涯を描いた映画『愛の黙示録』が両国の大衆文化開放のきっかけになりました。民衆レベルで交流し、お互いに理解し合うことが大切だと思っています。
中川:
ご両親のことを少しお話しいただけますか。
尹:
母は高知県に生まれました。祖父は朝鮮総督府木浦府に勤めていました。木浦は朝鮮半島の最南端にある港町です。母も7歳から木浦で暮らすようになり、当時は多くの日本人が住んでいて、母は日本人の学校に通いました。父は「木浦共生園」を設立し、街中の孤児を自分の子供のように思って世話する中で、子供たちに笑顔がないから、どなたか音楽を教えてくれるボランティアはいないかと探していました。
音楽教師だった母が子供たちに音楽を教えるようになったのは1936年です。母は父の生き方に感動し、父と結婚しました。ところが日本は戦争に負け、木浦に住んでいた日本人は皆ひきあげる。その後1950年の朝鮮戦争の時、父は孤児たちの食料を調達に出かけたまま行方不明になったのです。
中川:
長い日本の支配から解放されて、反日感情がすごかった韓国で、お父様がいらっしゃらなくなって、日本人のお母様が大変でしたね。
尹:
ひどい貧困の中で、母はただただ孤児のために一生懸命に生きてきました。母は1968年に56歳で亡くなりました。初の木浦市民葬が営まれ、3万人の市民がお葬式に参列しました。この時、木浦市民から『国籍よりも人間を優先する市民精神』を学びました。

<後略>

(2004年10月13日  大阪府堺市の「故郷の家」にて 構成 須田玲子)

諸橋 楽陽(もろはし らくよう)さん

1923年新潟県生まれ。25年間印刷会社経営の後、1975年に突如画家として第二の人生をスタートさせ、以来30年間、主に錦鯉の絵を描き続ける。75年から都民展、二科展、イタリア賞展、スペイン美術賞展などに出品し、受賞5回。5年間の公募展活動の後、無所属となり個展主義に徹する。東京銀座をはじめ、札幌から沖縄、台湾などの各デパートにて個展開催70回を数える。78年に結成した親睦団体「ノータリークラブ」の会長。

『人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと…』

81 歳の人生、縁に守られ助けられてきた

諸橋:
「月刊ハイゲンキ」、読んでいますよ。みんながいい氣の中で幸せに生きていくことを願って仕事をなさっているそうで、いいことをなさっておいでですね。
中川:
有り難うございます。諸橋さんも親睦会「ノータリークラブ」の会長さんを長年務められているということですが、どういう会なのでしょう。
諸橋:
「人との出会いを大切にして、ユーモアを忘れずに、少しでも楽しい意義ある人生を送りましょう」、ということを目標にしている会です。似たような名前のクラブもありますが、あちらは何ですか会費も高くてお金持ちの人たちが多いようですから、こちらは対抗して庶民的な会を目指して、年会費も5000円です。
中川:
何か、そういうものを創りたい、と思われたきっかけがあったのですか。
諸橋:
絵描きの道に入り、また印刷会社を経営していたので、絵描きさんや書家の方が自分の展覧会の案内状を頼みに見えるんですよ。でも、皆さん「1000枚も刷ったって、配るところに困る」と言うんです。案外、交流範囲が狭いんですね。1000枚で、配るところが無いなんて、寂しいじゃありませんか。私なんて最初から5000枚の案内状を配りました。絵描きが他の絵描きに案内を配ったって、買ってくれる人はありませんし、付き合いは広がりません。全く違ったいろいろな職業の人たちの交流をはかることが、自分の見聞を広めるのに大事であって、楽しいことだと思ったのが原点にありますね。
中川:
今は、異種業間の交流会なども盛んになってきましたが、25年も前から、そういうことに気がついておられたのですね。
諸橋:
そうね、思いついたら、すぐに行動するのが僕のやり方です。もう、「こういうのってイイじゃないの!」と思ったら、やりたくて仕方がなくなってしまいます。「人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと、少しでも楽しい人生を、そして少しでも世のため、人のため、お互いのためになることをしてみよう」ということを趣旨に、みんなに呼びかけて会を立ち上げてしまいました。
中川:
「人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと…」ですか、それはいいですね。
諸橋:
それで、どんどん会員が増えて大いに盛り上がってたのですよ。私が経営する印刷会社が参議院会館の中にあったので、代議士の先生や高裁の判事さんとかも入会してくれました。「ノータリー」って、英語にあるんですよ。「公証人」っていう意味で。それで、「それなら私もノータリーですから」と、公証人の方も入会してくれました。この方は亡くなられましたね、とてもいい方だったけれど。
中川:
印刷会社を議員会館の中でなさっていたのですか。
諸橋:
その前から印刷関係をしていたのですが、終戦後まもなく、私が結核を患って療養していたときに、知人から国会の中で奉仕部というのがあって、そこで名刺を印刷する仕事をしないか、と打診されまして。それが、運のつきはじめです。療養している間に、天から降ってくるように仕事が入ってしまうのですから。人間、一生懸命に生きていると必ず実りますねえ。
中川:
結核をなさったのですか、大変でしたね。
諸橋:
私は40歳までに4回結核で療養しています。はじめは軍隊に入る前の若いときです。軍隊には、結核と伝染病の一番重症患者を扱っていた病院に、衛生兵として配属になったんです。間もなく我々も外地に行かされることになったのですが、小隊長だった士官が、私を真っ暗な営庭に呼んで、「これから言うことは決して口外してはならんぞ」と言うんですよ。
そして、「お前らは死に赴くのだ。だが、こんな優秀なヤツを死なせるわけにはいかん」と言って、既往症のある私を招集解除にして病院に入れてくれたんですよ。召集された者たちは、3ヶ月後に東シナ海で撃沈されて、みんな死にました。人生何があるか分かりません。私もあのときに既往症がなかったら22歳で命を終えていたかもしれません。あぁ、これが運のつきはじめかな。
終戦直後は、桜田門から九段下まで歩き回って官庁の印刷の仕事を取ってきては、ひたすらこなしていました。あんまり働きすぎて、また結核を再発させてしまって療養生活していたのですが、あるとき仕事の話で有馬参議院議員に呼ばれて事務所に行ったら、そこで偶然、命の恩人の士官に再会しました。そして、その方が北大の医学部卒で有馬議員の教え子の由、戦後、東京都の医務課長をしていて、中野療養所の転院を勧めてくれたんですよ。
中川:
それは、ご縁ですねえ。
諸橋:
そうね、今年81歳になりましたが、我が人生振り返ってみて、本当に人の出会いによって、助けられてきたと思いますよ。強運なんだねえ。私は天が与えてくれた仕事に対し、常に誠心誠意、一生懸命に積極的にやってきたので、報われたと思っています。

<後略>

(2004年9月6日  東京・中野の諸橋さんのアトリエにて  構成 須田玲子)

坂田 道信(さかた みちのぶ)さん

昭和15年2月20日生まれ(旧名成美。)向原高校卒。昭和42年結婚。昭和46年8月森信三先生、徳永康起先生に出会い、「複写ハガキ」を教えられる。農業の合間に種々の日雇い職を経験。大工の名人に出会い、30才よりその見習いとなる。昭和50年10月一男二女を遺して 妻と死別。昭和57年夏「複写ハガキを書くことは道である」と開眼、「ハガキ道」を創始する。昭和60年桜井のぶ子さんと結婚。(のぶ子さんは後に宜穂と改名)平成5年道信と改名する。

『はがきを通じて氣を伝える。 いつの間にか驚くようなネットワークが出来上がった』

はがきを書いていると 不景気も過疎も関係ない

中川:
坂田先生は、はがきを書くことをはがき道という道にしてしまったということで、あちこちから講演依頼が殺到しているそうですが。
坂田:
いやいや、はがきを書くなんて当たり前のことで、すっかり忙しくなりました。29歳のときに書き始めまして、もう35年以上になります。出会った人、お世話になった人には必ずはがきを書いています。
中川:
はがきというと、確かにどこにでもありますが、でも年賀状か暑中見舞いくらいしか書きませんね。最近は、パソコンのメールがあるから、年賀状もそれですませてしまったりしていますが。
坂田:
私は、年賀状は1万6000通以上書きますし、来ますね。5月くらいから年賀状貯金を始めます。100万円以上、はがき代、切手代がいりますから。
宛名を書くだけで3ヶ月、来たはがきを読むだけでも3ヶ月。毎年、よくやっていますよ。でも、おかげさまで知り合いは多くなりましたね。新幹線に乗って、席を探して歩いていると、必ず知っている人に出会います。これは財産ですね。
中川:
お住まいは、広島県で、過疎の村だとお聞きしていますが。
坂田:
住んでいる人の数から言えば過疎ですね。でも、うちへはいつもたくさんの人がみえますから、そういう意味では過疎ではありません。
人が訪ねてくるような状況を作り上げれば、日本に過疎はなくなります。だれも来ないような村にしてしまうから過疎なんです。
タクシーの運転手さんがよく言いますよ。お宅はどんな宗教やっているんですかって。それくらい人が集まってきます。
中川:
それはすごいですね。みんなはがきのご縁ですか。
坂田:
はがきがすごいネットワークの基礎になります。毎日はがきを書くことは、ネットワークをコツコツと作っていくことになります。ネットワークができれば、景気、不景気が関係なくなります。だって、自分の不得手なことは、だれかがやってくれますから。
私は氣のことがわからないけど、中川会長にお聞きすれば、すべて解決しますよね。自分がすべてを知る必要はありません。
だれかが助けてくれる。だから、不景気も関係ありません。
中川:
先生は、はがきははがきでも、複写はがきということですね。どういうものなんですか。
坂田:
これはすごいですよ。同じはがきを書くのでも、普通に書くのと複写にするのとでは、1000倍は効果が違うと思います。
どこが1000倍かというと、これはやった人だけに教えています。だって、やりもしないのに、そんなこと聞いても仕方ないし、やらない人ほど、あれこれ質問するものですから、まずはやった人にだけ、そのすごさはわかるし、もっとわかってもらえるよう、いろいろとお教えしています。
複写は、はがきの上にカーボン紙を置いて、その上に置いた紙の上から文章を書くという形です。だから、必ず手元に元の文章が残ります。これが大切なことです。
今は、女房が、便利な複写ノートを作ってくれまして、重宝しています。いつも持ち歩いて、新幹線の中でもはがきを書いています。複写しておくと、それが日記になります。心の歴史になります。自分の生きた証になるんですね。
中川:
出しっぱなしではなくて記録が残るわけですね。最初に、相手の名前を書いて、日付を書いています。それが、こうやってノートとして残るわけだ。すごい発明ですね。奥さんが考えられたのですか。
坂田:
そうなのですよ。なかなかのアイデアマンで、すごくおいしいみそを作ったりして、彼女のアイデアは評判いいですよ。
中川:
じゃあ、はがきは毎日、書かれているわけですね。
坂田:
一日30枚が目標です。なんで30枚かと言うと、新興宗教の教祖が教団を安定させるためには30枚くらいはがきを書くといいという話を聞いたことがあるからです。
30人というとけっこうな人数ですが、こうやって毎日動いていれば、書く相手には困りません。
東京へ来たときには、立川にあるベジタリアンのラーメン屋へ行くのを楽しみにしています。ここがとてもおいしい。
すぐにはがきを書きますよ。おいしかったよと書いて出すんです。受け取った方は喜んでくださいますよ。
初めて行ったときもはがきを出しました。そしたら、次に行ったとき覚えてくれていてね。はがきのおかげですぐにいい関係ができてしまいます。
中川:
確かに、はがきを書くという行為は特殊なことでもないし、能力がなければできないというものでもないけど、これを続けるのは大変でしょうね。慣れればいいのかもしれないけど、最初は簡単にはいかないような気がしますね。
坂田:
さすがに、いいところに目をつけてくださいます。その通りですね。すぐに書けると思うけど、なかなか書けんですよ。
上手に書こうと意識すると、もう書けなくなってしまいますね。下手に書こうと言っています。歩くとき、上手とか下手とか考えないですよね。あれと同じにならんといかんですね。
500枚から1000枚書くと、はがきを書く筋肉ができます。上手とか下手とか関係なく歩くように書けます。
運動会は、一着になってもビリでも大したことないじゃないですか。一着になったから将来成功するとは限りません。それと同じで、はがきも上手に書けば、それはそれで役に立つけど、へたな文章でも役立つものです。上手下手は関係ありません。

<後略>

(2004年9月6日 SAS東京本社にて 構成 小原田泰久)

千野 真沙美(ちの まさみ)さん

1969年東京生まれ。3歳より母親の主宰する「谷口バレエ研究所・えぽっく」でバレエを始める。11歳で「くるみ割り人形」のクララ役で初舞台。15歳でオーストリア、ハンガリー公演「ピエールとシベール」「女面」で主役。玉川学園高等部在学中にソ連に短期留学、卒業後「モスクワアカデミー舞踊学校(ボリショイ・バレエ学校)」に国費留学し、主席卒業。1989年「ロシア国立モスクワ音楽劇場ダンチェンコ・バレエ団」にソリストとして入団。1990年「ロシア国立バレエ団」に移籍、現在ソリストとして活躍中。「日本バレエ協会新人賞」「全ロシアバレエコンクール銀賞」など国内外で数々の賞を受賞。モスクワ大学物理数学助教授の夫と5歳の長男との三人家族。

『舞台上で気持ち良く軽く楽しく踊れること それが最高!』

ロシア国立バレエ団の 日本初公演で来日

中川:
先日、千野皓司監督と対談をさせていただきました(本誌167号に対談記事掲載)。その際に、監督のお嬢さんがロシアでバレエのソリストとしてご活躍で、6月に日本公演で来日されるということをちょっとうかがったものですから、それは是非お目にかかってお話をお聞きしたいと思いまして。
千野:
あ、父が?そうなんですか。知らなかった(笑)。父は父で、映画という自分の世界に脇目もふらず突き進んでいるし、母も私もバレエという世界に没頭していて、姉は画家で…というように、ウチはみんなそれぞれ自分のやりたい世界を持っていて、それ一筋という感じなんですね(笑)。ロシア国立バレエ団が日本公演を行ったのは、今回が初めてで、6月19日から東京、埼玉、千葉、神奈川の6ヶ所で舞台があり、スケジュールがいっぱい。私も両親たちとゆっくり会う暇もないのです。
中川:
芸術家ご一家ですね。数日後には、もうロシアにお帰りだとか。大変お忙しいところを、時間をいただいて有り難うございます。私も6月24日の舞台を拝見させていただきました。実は、私はバレエというものを観たのは初めてなのですよ。踊りといえば、盆踊りくらいで(笑)。随分華やかで美しく、また非常にハードなものなのですね。今こうしてお目にかかると、とても華奢きゃしゃな方なのに、どこにあれだけのエネルギーがあるのかと驚きます。
千野:
私は、今回は「盲目の少女」という、目の見えない少女が恋をするという小作品を踊ったのですが、この作品はもう91年からですから1000回くらいは踊っています。
中川:
そんなに!登場人物も二人だけで舞台装置は何もなく、衣裳も非常にシンプルで、暗闇の中にそこだけスポットライトが当たっていて二人の動きを追っている…それだけなのに、非常に何か雰囲気が感じられ、心惹かれる踊りでした。これも、まさに“氣”でしょう。
千野:
氣…ですか、私はよく知らないのですが、何でしょうか。
中川:
私どもは、見えないもの全てを氣と言っています。物にも人にも氣はあって、絶えず周りのものと氣の交流をしながら生きているわけです。例えば、この花からも(と卓上の紫陽花あじさいを指差して)私たちは氣をもらっています。あぁ、綺麗だなぁ、と思うと心が和みますが、これも氣が関係しているのです。
物や人間、植物、動物ばかりでなく、言葉にも氣があります。いいエネルギーを持っている言葉もあれば、良くないものもあります。「ありがとう」というのは、とてもいい氣の言葉です。いい氣を取り入れて、幸せに生きていこうということなんです…今日は、バレエを知らない人と、氣をご存じない方との対談ですね(笑)。
千野:
ハハハ、それって面白いかも(笑)。
中川:
真沙美さんの日本公演を見た知人が、舞台に真沙美さんが登場するとパッと舞台が明るくなるような、小柄なのに手や足の先の方までオーラーが広がって大きく感じる、というようなことを言っていました。これは、真沙美さん自身が持っていらっしゃる氣を、観客の方が感じるのです。
千野:
そうなんですか、それは嬉しいですね。ロシア人は身体が大きいし手足が長いし、私がその中に入ると、私って小さいなと思って、ちょっとコンプレックスを感じたりしたこともあったのですが。

<後略>

(2004年7月1日 東京・町田市「谷口バレエ研究所」にて 構成 須田玲子)

池辺 晋一郎(いけべ しんいちろう)さん

1943年茨城県水戸市生まれ。東京芸術大学音楽学部作曲科を経て、71年同大学院研究科修了。大学在学中の66年「クレパ7章」で音楽之友社室内作曲コンクール第1位、「管弦楽のための2楽章 構成」で第35同音楽コンクール作曲部門第1位、68年「交響曲第1番」で音楽之友社作曲賞を受賞し、早くから脚光を浴びる。テレビ、ラジオ、演劇、映画とも頻繁な関わりを持ち、コンサートの企画プロデュースも数多く手がけている。現在、東京オペラシティ音楽監督企画委員等、東京音楽大学教授、日本作曲家協議会会長等々、多くの役職を務める。尾高賞2回、日本アカデミー賞音楽賞8回、放送文化賞等を受賞。2004年4月紫綬褒章受賞。

『作曲は意思を持った「音」と散歩する感覚』

同時進行の作曲16本でもストレスレス!

中川:
初めまして、中川です。
池辺:
先日は、お宅のマガジンを送っていただきまして、千野皓司監督との対談を拝読しました。監督の映画『血の絆』の音楽を担当したのですけれど、映画完成に13年かかって、監督も大変なお仕事をなさいました。
中川:
池辺先生の音楽が素晴らしかったと、千野監督も喜んでおられました。また、この度は紫綬褒章を受賞されて、おめでとうございます。
池辺:
ありがとうございます。
中川:
大変お忙しくされている中で、お時間をいただいて恐縮です。
池辺:
先程ちょっと数えてみましたら、現時点で並行している純音楽の仕事が16本あるんですよ。純音楽というのはイヤな言い方ですが、純粋に自分の曲を作るという意味で。その他に映画音楽や舞台音楽も作曲していますから。映画ならそのフィルムを見なければなりませんし、演劇なら稽古に立ち会うでしょう。そういう時間も必要です。
中川:
そんなに多くですか。締め切りに間に合わないとか、焦りはありませんか。
中川:
夜寝るときになると、焦りますね。心配になって眠れないけど、そのうち眠ってしまいます(笑)。朝になると、もう心配は消えてしまっていて、どれも大丈夫なような気がする。よく「ストレス」というでしょう、僕は切羽詰ったり、スランプを経験したことはありますが、いわゆるストレスを感じたことはなくて、ストレス自体がどんなものなのかよく分からないんですよ。ストレスレスだな。
池辺:
それは素晴らしいことです。ポジティブで、プラス思考でいらっしゃる。
中川:
楽観的なのでしょう。同時進行で作らなければいけない曲をたくさん抱えていますから、Aが書けなければ、Bを書いて、またAに戻ってみると、出来ちゃう(笑)。僕はこの仕事を40年近くも続けていますが、体調不良で仕事に穴を開けたことは一度もありません。
池辺:
それはすごい。ずっとお丈夫でいらしたのですね。
中川:
いえ、風邪を引いたり、たまには腹痛や熱を出したりすることもあるんですよ。それで友人との飲み会をキャンセルしたことは何度かあるけれども、仕事に差し支えがあったり間に合わなかったことは、今まで一度もないんですよ。ずっと健康だったというわけでなくて、子どもの頃はあまりにも体が弱く病気ばかりしていて、小学校入学が1年遅れたほどです。
池辺:
それは辛かったでしょう。引け目に感じたり、同い年の友だちと一緒に学校に行きたかったという寂しいような気持ちもあったのではないでしょうか。
中川:
いや、それはなかったですねえ。子どもの頃に病気をいっぱいしたから、そのときの貯金があって、そのお蔭で大人になってからは、その利子で元気でいられるんじゃないかと思うんですよ。でも、もうそろそろ貯金が底をついて、無利子になっているかな(笑)。
小学1年生のときからいつも同級生より一つ年上ですから、自然とクラスのまとめ役になっていました。それがずっと続いていて、どうも僕自身の体質になってしまったようで、今は日本作曲家協議会の会長をしていたり、東京オペラシティや紀尾井ホールなどいくつもの音楽ホールでの企画の総まとめ役などをしています。

<後略>

(2004年5月12 日 東京・渋谷にて 構成 須田玲子)

淀川 英司(よどがわ えいじ)さん

1939年秋田市に生まれる。1970年東北大大学院博士課程修了。同年日本電信電話公社(現NTT)電気通信研究所入所。1986年から1993まで㈱ATR視聴覚機構研究所代表取締役社長。NTT基礎研究所主席研究員を経て現在、工学院大学情報工学科・大学院情報学専攻教授。人間の視覚情報処理、認知科学、知能情報処理の研究に従事。工学博士。

『氣の解明は「心・精神・生命」の理解へのかぎ』

自分の手からの氣を見て健康チェック

中川:
初めまして、中川です。ご多忙の中、ありがとうございます。
淀川:
大学の役員などもしておりますので、何だかすごく忙しくなりまして(笑)。でも、中川さんには以前からお目にかかりたいと思っていました。私は、ずっと氣など見えないものに興味を惹かれておりましたから。
これは、学会誌の「私の意見」というコラムに掲載された、「『気』へのアプローチ」と題した私の小文ですが…95年の3月号ですから、もう10年近く前ですね。
中川:
えっ、「電子情報通信学会誌」ではないですか。私も以前、この学会に入っていましたので、読んでいましたよ。大学を卒業してから、電機会社の研究室に勤めていたものですから。これは、いろいろな情報産業、コンピューターや家電、弱電関係の専門誌ですね。こういう学会誌に、10年も前に氣についてお書きになっていたとは、驚きました。普通は、ないと思いますよ。
私は、仕事のストレスから胃の具合を悪くしまして13年前にその研究所を退職し、父である先代が始めた今の会社に入ったので、この学会誌から縁遠くなってしまって、先生の論文が掲載されたのは知りませんでした。
淀川:
お父様、亡くなられたのですね。お元気なうちに、お会いしたかった。お父さんのご著書も拝読しています。先程も言いましたが、私は見えないものに関心がありましたものですから。
「見えないものに」と言いましたが、私は幼い頃からちょっと、見えていた(笑)。小学校の頃に、先生が教壇に立たれますとね、先生の背後に光が…オーラというのでしょうか、そういうものがはっきりと見えたものです。仏像の後光のように。そういうことは普通のことで、皆も私と同じように見えているものと思っていました。でも、だんだんと、どうもそうじゃないらしいと気がつきまして、そのうちに忘れてしまいました。
中川:
今はいかがですか。
淀川:
それがまた、そういえば…という感じで思い出したのが、10数年前頃ですね。気をつけて見てみたら、子供の頃の方がはっきりはしていましたが、それでもちゃんと見えました。私はそれまで、音声などでコミュニケーションができる秘書ロボットなどの開発のための基礎研究をしてきました。人間の代わりをするような最先端のコンピューターを作るために、手本である人間の脳の機能、特に視覚と聴覚のメカニズムの研究をしてきたのです。
中川:
私も前の会社では、極小ロボットの研究をしていました。
淀川:
そうだったのですか。それで、私は研究すればするほど、コンピューターには真似のできない人間の脳の優秀さを感じましたよ。コンピューターが解析できるのはデジタル情報ですが、人間にはそれ以外の情報である「雰囲気」や「氣」を感じとる能力が備わっているんですね。コンピューターは全体の様子を捉えることが苦手です。例えば、病気の人の血液成分の解析は出来ますが、顔色やしぐさから体調を推し量ることは出来ません。それは何なのかと、本屋に行って氣に関する本を随分買って読みました。
もう亡くなりましたが、日本医科大学の品川嘉也先生が、氣の研究に脳波測定を用いたことなどは、非常に興味深かったです。気功師が一般人に向けて氣を放射している状態で、気功師と氣の受け手の脳波を同時に測定するというものでしたが、双方の脳波に強い同調性が認められたのですね。このことから双方に何らかの情報が伝わっている可能性があるとしているのですが、これは氣の解明への有力な手掛かりとなると思いました。
そして本や論文などを読むだけでなく、自分でも呼吸法を取り入れて朝晩15分ずつ練習するようになりました。わずかな時間ですが続けていくうちに、人間特有の感覚が強化されていくのですね。
朝起きたときに自分の手をかざして見てみると、モヤモヤとした光のようなものが出ているのが分かります。氣なのでしょうね。体調が良いと、その勢いがいいのです。呼吸法を実践するようになってから、まあ概して体調はいいのですが、時折、疲れていたりすると手の周りに見える氣が弱々しいのです。こういうことができると、自分の体調を自分でチェックでき、健康管理するのにいいです。こういうことからも、氣の存在は確信できます。体験は大きいですね。

<後略>

(2004年3月25日 東京・新宿の工学院大学にて 構成 須田玲子)

楊 名時(よう めいじ)さん

1924年中国山西省生まれ。1948年京都大学法学部政治学科を卒業後、東京中華学校校長をへて、現在大東文化大学名誉教授。楊名時太極拳は、40年余りの間に、世界中に愛好者が広がっている。楊名時八段錦・太極拳師家。朝日カルチャーセンター、NHK文化センターなどの講師を務める。日本空手協会の師範で、空手も7段の腕前。著書に「太極 この道を行く」(海竜社)「幸せを呼ぶ 楊名時八段錦・太極拳」(海竜社)ほか。

『美しい心は、健康を生み、幸福を実感する源になります。』

死は怖くないけど、 生きられるものなら生きたい

中川:
先ほど、先生が指導されている太極拳の教室を拝見しましたが、若い方から年配の方まで、たくさんの方がお稽古されていましたね。みなさん、真剣な顔つきでしたが、とても楽しんでいる雰囲気があって気持ちよく拝見できました。
楊先生は、1924年生まれですから、80歳でいらっしゃいますね。太極拳をする姿は、かくしゃくとされていて、見とれてしまいました。
楊:
ありがとうございます。今日は、教室を見ていただいた上、楽しくお話ができそうで心がウキウキしています。
帯津先生のご紹介ということで、とても楽しみにしています。
中川:
帯津先生には、私どもも先代のころからお世話になっています。
楊先生は、帯津先生の太極拳の師匠でいらっしゃいますよね。
楊:
いえいえ、たまたま私のところで習われたということで、私にとって帯津先生は、かけがえのない友人で主治医で、尊敬する先生です。
今日も、夕方、お会いします。月に二度くらい食事をするのですが、それが楽しみでしてね。もう、恋人に会うような気持ちで、ウキウキしています(笑)。
中川:
それはいいですね。心がウキウキするような友だちがいるというのは、すてきなことだと思います。
帯津先生の本にも書かれていましたが、楊先生は、帯津先生の病院に入院されたことがあるそうですね。腸が破れて大変な状況だったとお聞きしていますが、そのときに『ふたつの希望があります。まず何でもいいから、ゆっくりやってください。今日やらないでいいことは明日に回してください。ふたつ目は、ここで治療がうまくいかないで死んだとしても私は別に何とも思いません。もともと、死ぬときはこの病院でと決めていたのですから。すべて先生にお任せします』と、おっしゃったそうで、帯津先生はその言葉にいたく感動したと本に書かれていました。
死んでもかまいません、お任せしますと言う人はたまにはいても、どんな状態になってもその気持ちを持続できるような人は楊先生以外にはいないとおっしゃっていますね。
楊:
私は帯津先生とは医者と患者という関係を超えて、生きることに対する考え方で波長が合います。
死ぬときは、帯津先生の病院で死のう。そう決めています。あのときも、そんな気持ちでした。
死は必ずやってきます。だから、死ぬことは怖くありません。だからと言って、死にたいわけではありません。生きられるものなら生きたい、治せる病気ならば治していただきたい。
でも、いくら先生が治したい、私も治りたいと思っても、そうはいかない場合もあります。治していただければ感謝しますし、そこで死んだとしても、やはり感謝の気持ちです。
病気をすることで、健康の本当の大切さというのもわかるし、体を病んでいる患者さんの苦労というものもわかります。私も、病気をしたおかげで、その大変さや苦しさが実感としてわかるようになりました。
中川:
すばらしいですね。病気も決して悪者ではない。いろいろな気づきのチャンスですよね。そんなお気持ちで生きておられるから、とてもすばらしい氣を発しておられるのだろうと思います。
楊:
先生にご紹介しておきます。金澤弘和先生です。空手の先生で、私の友だちです。すごい達人で、日本一にもなりました。今は、国際松濤館空手道連盟の会長をしておられます。
中川:
はじめまして。空手ですか。私ども真氣光の仲間にも平野先生という空手で日本一になった方がいます。今は、ハワイにいますけど。
金澤:
平野さんなら私もよく存じていますよ。彼がハワイで活動を始めたころから親しくしています。氣功を始めたと聞いていましたが、そうですか、そちらの氣功ですか。
楊:
これは奇遇ですね。帯津先生のご紹介でお会いしたら、また違うところでの縁があったとは。面白い話しですね。
中川:
近々、ハワイへ行くので、お会いしてくることになっています。
こうした偶然というのは、楽しいですね。自分ではない何かが、こんな縁を作ってくれているような気がしますね。
金澤:
私も、このような対談の場だとは知らずにおうかがいしたのですが、ここで平野さんの知り合いに出会えるとは驚きです。
中川:
神様は本当に楽しい演出をしてくれますよね。私の父がやっていたころは、内氣功と外氣功、武術氣功と医療氣功といった枠があって、その間の壁がずいぶんと厚かったような気がします。でも、平野先生が空手と氣功をやっているように、氣ということでは同じことですから、氣でつながった仲間同士の出会いということで、ワクワクしてしまいます。
楊:
方法は違っても、本質は同じですよ。要は心ですから。

<後略>

(2004年3月24日 朝日カルチャーセンターにて 構成 小原田泰久)

宗像 恒次(むなかたつねつぐ(むなかた つねつぐ)さん

1948年大阪府豊中市生まれ。東京大学大学院修了。保健学博士、社会学修士。筑波大学大学院教授人間総合科学研究科、ヘルスカウンセリング学会会長。『ストレス解消学』(小学館ライブラリー)『本当の自分をみつける本ーイイコ症候群からの脱却』(PHP研究所)『子供達は成長したがっているー小・中・高教師のためのカウンセリング対話法』(広英社)『男をやめる-人生をもっと豊かに生きるために』(ワニブックス)など、著書多数。毎日新聞に「リレーエッセー 夫の言い分」(毎週金曜日掲載)連載中。

『“want”で生きる 愛の氣が満ちてきます』

気づきがないと本当の解決にはならない

中川:
はじめまして。帯津先生や村上和男先生と一緒に、心と体の関係を研究されているユニークな先生がおられるとお聞きして、ぜひお話をお聞きしたくてお邪魔しました。
宗像:
ありがとうございます。ユニークかどうかはお話をしてみてご判断ください(笑)。中川先生は、氣功の方がご専門とか。
中川:
私の父が始めたことなのですが、5日間の氣の合宿をやっていまして、いろいろと気づきを得ることで、生き方が変わっていって、その結果として幸せになるということをお伝えしています。ですから、いわゆるよく言われている
氣功とは違うかもしれませんが。
宗像:
気づきですか。それなら私のテーマと同じだ。私は、氣功という話をお聞きしていたので、昨日も中国氣功の本を出してきて、勉強をしてきました(笑)。でも、気づきなんてことはどこにも書いてありません。そうですか、気づきですね。それは楽しみになってきました。
中川:
中国の氣功ですか。私の父は、いろいろと鍛錬をしなければならない中国の氣功を見て、自分にはあんな気の長い修行はできないと、独自の氣功を作り上げました。だれでも氣が出せると言い出して、氣の合宿を始めた人です。ですから、せっかく勉強していただいたのですが、あまり役に立たないかもしれません(笑)。私は、氣というのは、決して特別なものではなくて、日常生活の中で、自分が生き方や人間関係を見直していくことから意識しないと、本当のところはわからないんじゃないかと、そんな気がするんですね。氣功というと、難病が治るということで注目されましたが、それは結果であって、それ以前に、生き方というものがあるのではないでしょうか。そんな気持ちでやっています。
宗像:
氣功で、気づきについてお話をされる方は珍しいですね。
氣功の教室に参加したり、スポーツをする人の中には、感情認知困難の強い方がけっこういます。自分の感情を認識することに困難性があって、感情がわからないために気づきが起こってきません。
たとえば、親の仲が悪くて、強いストレスを感じているとき、そのストレスをそのまま脳に伝えると、脳は混乱を起こします。そこで、その防衛手段として、より強い刺激を与えます。その刺激が、氣功だったり、スポーツだったり、マッサージだったりするわけです。自動車を運転しているときには、ほとんど前を見ることに集中しますね。脳に入る情報を制限するわけです。ですから、多くの氣功やスポーツ、マッサージは、ある意味、ストレスをごまかす手段になっていて、一時的にはごまかせますので、気分が良くなったような気持ちになるわけです。
でも、そこには気づきがないから、本当に解決にはなりません。
中川:
父のころから、うるさいほど、気づきの大切さを言ってきました。私は、脳の科学的なメカニズムは知りませんが、気づきこそ、本当の解決につながるというのは科学的にも言えることなのですね。
宗像:
専門用語では、ゲートコントロールと呼んでいます。メントールキャンディーをなめると、嫌なことも一時的に忘れることができますよね。現代人は、メントールキャンディーとか激辛とか映画とか運動とかアロマセラピーとか、刺激を送り込んで、嫌な刺激をブロックしています。メントールキャンディは、ストレスがあるときにはすーっとして気持ちいいけど、ストレスのない時になめると、おいしいと感じないですよ。最近は、少々の刺激ではごまかせないので、抜毛とか、リストカットをしたりする人が増えてきています。だんだんと刺激もエスカレートしてきますね。
中川:
世の中、経済的には豊かになったのに、聞くに耐えないような凄惨な事件や事故が増えていますね。これも、刺激が足りないからですか。
宗像:
たとえば、50歳以上の人は、食うのがやっとだったから、お父さん、お母さんの愛情関係まで問うことはなかった。自分が生きるのに精一杯だったからです。しかし、食べることのできた30歳代より若い人たちは、両親が本当に愛し合っているかどうかをとても重視しています。心の中で、父親と母親の関係を問いかけ続けています。
彼らは、自分が存在している意味を常に考えています。両親が愛し合ってなければ、自分は生まれてくる意味がないとか、望まれていなかったのではないかなどの気持ちがいつも心の中にあって、元気がなかったり、生きる力がない、自分が好きではないという自己否定感の強い子どもがものすごく多くなっています。自分はだめだ。生まれる意味がない。自信がない。自分で自分を痛めつけている人もたくさんいます。
食べ物を食べても、生きる力はつきません。ベースは、お父さん、お母さんが愛し合って、本当に自分の誕生を歓迎してくれていること。生まれてきても、自分の生き方で生きることを認めてくれて、ああしろこうしろとは言われない環境なら生きる力はつきます。
また、何かあっても助けてくれないと、本当に私は望まれて生まれてきているのだろうかと、力がなくなっていきます。そんな子は、体がかちかちですね。不登校を起こしているような子もそうですが、体が硬くて、肩こりがあるという場合がほとんどです。あまりひどいからそのことすら気がつかない。

<後略>

(2004年3月3日 筑波大学大学院東京キャンパスにて 構成 小原田泰久)

千野 皓司(ちの こうじ)さん

1930年東京生まれ。1954年早稲田大学文学部演劇科卒業。1955年同大学大学院文学研究科中退し、日活撮影所に助監督として入社。67年「東京の田舎っぺ」で監督デビュー。69年「極道ペテン師」(野坂昭如原作)で注目される。72年日活を去りフリーに。テレビ界で活躍し、作品は「密約―外務省機密漏洩事件」(日本テレビ大賞優秀賞・日本映画復興会議奨励賞)、「滋賀銀行九億円横領事件―女の決算」(放送批評懇談会ギャラクシー賞)、「海よ眠れ」(日本ジャーナリスト会議奨励賞、日本テレビ大賞優秀賞他)など多数。日本映画監督協会前専務理事、日本映像職能連合前幹事長

『ミャンマーと日本の深い縁 トウエイ 映画「THWAY―血の絆」完成!』

企画から13年、34年振りの劇場用映画

中川:
初めまして、中川です。知人が監督の「血の絆」の試写会を見て、ミャンマーの風景が素晴らしかったと感激し、映画のパンフレットを買って来てくれました。目を通してみましたら、監督が13年の歳月をかけて完成させたと知り、驚きました。
千野:
そうなんですよ、企画から13年。しかも、実に34年振りの劇場用映画で、昔の仲間たちも仰天していますよ(笑)。
中川:
34年振りといいますと?
千野:
25歳で日活撮影所に助監督として入って、13年目に監督になりました。4作目の「極道ペテン師」で注目され、裕次郎が作った石原プロから「ある兵士の賭け」という映画の監督を依頼されたんです。ベトナム戦争を扱った映画で、一人のアメリカ軍人を追っていったものですが、そうすると、どうしても反戦になります。それをプロデューサーがダメだと言うのでケンカして、おろされてしまった。当時は俳優を貸さない借りないという映画界の五社協定というのがありましたが、石原プロはそれを破棄してマスコミの注目を浴びて破竹の勢いだったんです。その石原プロを敵に回したのだから、映画界から閉め出されてしまいました。
その上、日活がロマンポルノ路線を行く方針を打ち出してきまして、私は子供も持っていますし、映画信念としてやりたくなかった。結局、最後まで抵抗したのは私一人でしたね。
それで、テレビの仕事に移ったんです。石立鉄男のライトコメディ路線、岡田可愛・宮本信子共演の「おひかえあそばせ」、榊原ルミ共演の「気になる嫁さん」、そして杉田かおるが子役で出演した「パパと呼ばないで」、これは随分高い視聴率を取ったものです。
中川:
「パパと呼ばないで」ですか、私も見ていましたよ。ほのぼのとしたホームドラマで、人気番組でしたね。
千野:
これはこれで良かったのかもしれませんが、私は映画が撮りたくて仕方がなかったんです。テレビは16ミリフィルムを使いますが、映画は35ミリでね。35ミリは豊かな映像が撮れるんですよ。
そうこうするうちに、あるプロダクションに誘われて、ノンフィクションドラマを撮ろうということになって、「真相」シリーズとして「吉展ちゃん事件」など4本の企画を出しました。まさか企画として通るとは思わなかったけれど、沢地久枝さんの原作「密約―外務省機密漏洩事件」も出したんです。沖縄返還協定を巡って新聞記者と外務省の女性が情を通じて、という有名な事件です。そうしたらOKになって、これを35ミリで撮らせてもらった。これは後にモスクワ国際映画祭招待作品となって劇場公開になりましたが、政治ドラマですからね、日本では一回の放映で再放映されることはありませんでした。これを話すと一冊の本になるほどのことがありますが、テレビは認可事業ですから、政府が認可を取り消しちゃったらおしまいなんですね。結局テレビ界から2年間干されましたよ。暗黙の制裁ですね。
中川:
映画界を去り、テレビ界で活躍しておられたけれど、今度はテレビ界から閉め出されたわけですか。波瀾万丈ですね。
千野:
ええ。全く仕事がこなくなってしまいました。2年経って痺れを切らし、テレビ朝日に出向いて、「もういいかげんにしろ」と(笑)。それで、いくつかのノンフィクションドラマやサスペンスドラマが撮れるようになり、いずれも視聴率が良かったので、テレビ朝日開局25周年記念番組八時間ドラマ、沢地久枝さん原作の「海よ眠れ」を撮ることになりまして。一人の監督がこれだけの長時間ドラマを撮ったのは、後にも先にも私しか居ません。2年間かかりました。
これが終わった後、テレビの仕事は十分やった、これ以上の作品はできない、やはりもう一度劇場用映画を撮りたい、と思いましてね。テレビ用映画でたくさんの賞をいただき高く評価されたんですが、劇場用映画の監督起用に結びつかないので、自分で創るしかないと思っていたときに、ある会社が、ミャンマーでベストセラーになっている「トウエイTHWAY」という本の映画化を依頼して来ました。
中川:
それは良かったですね。本をお読みになって、ピンときたんですか? いよいよ、待ち望んでいた劇場用映画撮影開始ですね。
千野:
「血の絆」という題で日本語訳が出ていましたが、それを読んだときには、私はあまり感じるものがなかったのですよ。題材に惹かれたのではなく、スポンサーがついていて、とにもかくにも映画が撮れる!ということでスタートしたのです。でも、これが大変なことになるスタートでした(笑)。

<後略>

(2004年1月26日 東京・京橋「㈲血の絆製作委員会」にて 構成 須田玲子)

小口 基實(おぐち もとみ)さん

日本庭園史研究家、造園家。1947年長野県岡谷市に生まれる。東京農業大学卒。1966年より庭の勉強を始める。東京・京都で庭師の修行をし、1974年頃より作庭活動を始める。造った庭は、坪庭から公園まで約350庭。近年は建築・インテリア・町並み造りテレビ番組を手がけ、また年間20、30回の日本文化について講演活動を。ウィーン・シェーンブルン宮殿内に作庭。日本庭園協会賞受賞。長野県景観アドバイザー。NHK『課外授業ようこそ先輩』に出演。近年、京都より古い茶室を自宅に移築。著書に『津軽の庭』『琉球・薩摩の庭園』『庭づくり百科』『庭の文化とその心』など18冊。現在『日本庭園の造り方』英語版を執筆中

『何も無い中に究極の美を表現する日本庭園』

盆栽や庭いじりが好きだった祖父の影響

中川:
お忙しい中、長野からお出でいただきまして有り難うございます。
小口さんをお迎えするのには、私どもの会社内よりも戸外の日本庭園の方がいいかと思い、ここ文京区の「小石川後楽園」にしましたが、晴れて良かったです。
この後楽園は自宅から近くて、私も以前に本誌『月刊ハイゲンキ』の「デジカメ見聞録」で紹介したこともあります。池を巡りながらゆっくりと散策すると、気持ちが落ち着きます。
小口:
そうですね。池を中心にした「廻遊式築山泉水庭園」というのですが、私にとっても小石川後楽園は思い出の庭園です。東京農大の学生のときに、先輩に初めて連れて行ってもらい見せられた日本庭園が、ここなのです。
中川:
そうなんですか。それはご縁がありますね。浜離宮や六義園とか、東京には名庭が幾つもありますから、どこにしようかと思ったのですが。
小口:
私のいわばスタート地点の後楽園で対談できるのは嬉しいことです。「後楽園」という名前がまた、いいんですよ。江戸時代初期に徳川頼房がその中屋敷として造って、二代藩主の光圀の代に完成したのですが、中国の范仲はんちゅう淹えん「岳陽楼記」の一節から取って名付けられたんです。「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」というところです。「天下の楽しみに後れて楽しむ」…いいでしょう。
この名前の由来もそうですが、円月橋、西湖堤など中国の風物を多く取り入れていましてね、中国趣味豊かな庭園となっています。この庭園に限らず、日本人は、外からいいものを持ってきて上手に取り入れて融合させ、元を超えるような日本独自のものに造り上げてしまう、素晴らしい感性を持っているんですね。
中川:
小口さんは、いつ頃から日本庭園に興味を持たれたのですか。
小口:
私がこの道に入ったのは、祖父の影響が大きいといえるでしょうね。ウチは長野の農家なんですが、祖父が農業をする傍ら、庭いじりや盆栽、写真を趣味にしていましてね、私も側についていてその姿を見て、いろいろな話を聞いているうちに、庭やカメラが大好きになっていったようです。私は祖父母に可愛がられまして、母屋に続いている離れで祖父母と川の字になって寝ていたんですよ。
中学生になると、父が作った白菜などの野菜やリンゴをリヤカーに積んで市場に運んでから学校に行きました。そのときに祖父が「これもついでに持って行け」とサツキなどの盆栽の鉢を一つ二つ、リヤカーの上に乗せましてね。
それで、学校の帰りに市場に寄ると、驚きですよ。リヤカーに山積みの野菜の売上より一つ二つの盆栽の値段の方が高いんですから。「よし、将来は野菜より植木や盆栽を育てよう」と決心しました(笑)。
中川:
ハハハ、ついでに運んだお祖父さんの盆栽がね、そうですか。幼い頃から大好きなお祖父さんと過ごした生活の中で、庭や盆栽、植物や自然、日本文化などについての知識や感性が知らず知らず身体に沁み込んで、小口さんの中で育っていったのでしょうね。
小口:
それはありますね。昔の農家は大所帯で隠居所や離れには玄関がありません。ぐるっと庭を廻って、「よぉ、居るかい」と近所のお年寄りたちが声を掛けて、縁側に腰掛けてお茶を飲みながら四方山話をしていくんですよ。その中で教えられることはたくさんありましたね。数限りなく聞いたという感じです。
そもそも縁先で話が進むのを、縁談というでしょう。縁先の話が、「日本文化」の一端を担ってきたのだし。縁は異なもの、味なもの…正に庭用語なんですね。縁は、かかわりあいをいいます。外と内とのかかわりあい、人間と人間とのかかわりあいが「縁」でしょう。

<後略>

(2003年12月18日 東京「小石川後楽園」にて 構成 須田玲子)

岩崎 元郎(いわさき もとお)さん

1945年東京生まれ。東京理科大中退。1963年昭和山岳会に入会。1970年「蒼山会」を設立。1981年ネパールヒマラヤ・ニルギリ南峰登山隊として参加。同年「無名山塾」設立。1995年NHK『中高年のための登山学』講師を務める。現在、山に関わる企画事務所「撰(さん)」代表。日本登山インストラクターズ協会理事長。編著書に「日本登山体系」「日本百名谷」「沢登りの本」「雪山入門とガイド」等多数

『「山は哲」… 山が僕に教えてくれたこと』

無我になって氣が流れ込んでくる登山

中川:
はじめまして。
岩崎さんは、NHKの『中高年のための登山学』という番組で講師を務められるなど、とくに中高年や女性の登山者育成に努めておられるとうかがっています。
私どもの会は、「いい氣を取り入れ、ストレスを解消して、豊かな人生を送っていきましょう」ということなんですが、やはり山に関心のある中高年や女性の会員さんも多いように思います。今日は、興味深いお話を聞かせていただけるのじゃないかと、お会いするのを楽しみにしていました。
岩崎:
有り難うございます。私の事務所は大塚ですから、池袋の隣で、お話をいただいたときに、なんだ、近いじゃないの!と。
中川:
ご縁がありますね。ところで、岩崎さんが山登りを始められたのは、いつ頃、どんなきっかけからですか。
岩崎:
世界に8千メートル峰が14ありますが、1956年にその一つのマナスルの初登頂に日本の登山隊が成功したんです。僕が小学校5年生のときです。終戦から11年目、日本を元気づけてくれたビッグニュースでした。記念切手にもなり、記録映画も作られました。それを僕ら小学生も学校の先生に引率されて観に行ったんです。同じ年に、作家の井上靖さんが『氷壁』を朝日新聞に連載して、その相乗効果で日本は空前の登山ブームになりました。
高校生のとき、電車にドドッと乗り込んできた登山者の人たちが履いていたキャラバンシューズを見て、僕もああいう靴を履いて山に行ってみたい、と思ったのが最初でしょうか。そして、翌年の1961年から登り始めました。運動靴ではすぐにダメになるし、登山靴は重くてやってられない。軽登山靴のキャラバンシューズは、登山ブームと平行して大ブレークしました。本格的登山は、正規の革の登山靴ですが、その一歩手前は誰でも彼でもキャラバンシューズ、という時代があったんですよ。
大学に入って、社会人山岳会に所属しました。活動の場も人間関係も山にあるわけで…大学に行く必然性がなくなっていきました。それで中退して、その後はずっと山一筋です。
中川:
今までに随分いろいろな山に登られたことでしょう。
岩崎:
はい。海外にも遠征し、年がら年中、登っているという感じです。月の半分は山に行っているでしょうか。山に登り始めてみたら、何と言いますか、とっても苦しいんです。行く度に、こんなに苦しいものなら、もう止めよう、どうして来てしまったのだろう、と思うほどなんですよ。でも、帰って1週間も経たないうちに、また無性に行きたくなるのです。
中川:
今までに随分いろいろな山に登られたことでしょう。
岩崎:
はい。海外にも遠征し、年がら年中、登っているという感じです。月の半分は山に行っているでしょうか。山に登り始めてみたら、何と言いますか、とっても苦しいんです。行く度に、こんなに苦しいものなら、もう止めよう、どうして来てしまったのだろう、と思うほどなんですよ。でも、帰って1週間も経たないうちに、また無性に行きたくなるのです。
中川:
山登りをされている人は、よくそうおっしゃる方がいますね。
岩崎:
僕もどうしてなのかと、うまく言葉で説明できないでいたのですが、ずっと後になって、ある瞑想道場を主宰なさっている方がおっしゃったんですよ。
「人間は自我が働くと、生命エネルギーが消耗してしまう。生命エネルギーが枯渇してしまっては生きていけないから、補充しないといけない。どういうときに補充されるかというと、それは無我のときである。それで、一番無我になれるときはというと、熟睡しているときだけれど、現代社会においてはそんなに質の良い熟睡はしづらくなっている。そこで瞑想がある。でも、瞑想と言っても、そうそう簡単にできるものではない。そういう中で、登山というのは知らず知らずに無我の状態を作ってくれて、生命エネルギーを補充することができるのだ」と。
だから山から帰ってきて、筋肉がパンパンになって通勤通学の駅の階段を手摺りを使わないと上り下りできないようなときでも、気持ちはスッキリしているわけなんですね。なるほど!と思いました。生命エネルギーは、氣と言っていいのではないかと思います。山には良い氣が満ちているのでしょう。
中川:
山は自然そのもので、木々の緑、植物、水、空気、大地…といいエネルギーを持つものがたくさんありますね。森林浴でいい氣をいただこうということもいわれています。
岩崎:
僕は、西洋医学が嫌いで病院に行かないんですよ。歯医者には行きますけれど(笑)。山に行くと元気になるという感じがしますね。医学の祖といわれるギリシャのヒポクラテスは、「歩くと頭が軽くなる」と看破しています。「頭が軽くなる」というのは、血液循環が良くなった結果でしょう。
人間は本来、地上を歩き回って生活する動物です。それが歩かなくなったらどうなるでしょう。高度に発達した現代社会は、歩かなくてもすむ生活の便利さをもたらしましたが、その副産物として血液循環不足による高血圧症だとか心臓病とか不定愁訴なんていういわゆる成人病を生み出したんじゃないかなと、僕は医者ではないですが思うわけですよ。
歩くことが健康に良いということはよく知られてきていますが、同じ歩くなら健康器具の上や街の中よりも、山の方が楽しいに決まっているじゃないですか。空気がうまい、水がうまい、緑がきれい…。大きな木などあると、僕は般若心経が好きなものですから、木肌に手をついて、最初の「摩訶般若波羅蜜多心経…」と唱えたりするんですが、何かその木の氣がこちらにズズッ?と伝わってくるような気がします。
中川:
山は木もそうですし、いいエネルギーがいっぱいですから、そういうものを感じて元気になっていくということはありますね。人間はもともと、そういう中で生きていたのですから。今は、コンクリートジャングルの中で生きていくようになってしまっていますけれど。
岩崎:
そうですね。何かを一生懸命にやっていると、例えば「ランニング ハイ」のような状態になることがあります。この「ハイ」状態が無我の境地なのじゃないかと思うのですが、そういう状況にあるときの環境が、山は最高でしょう。マラソンは、都会で行いますが、登山は本当に大自然の中です。その環境で無我の状況になっているのですから、これはもう自然の氣がどんどん注ぎ込んでくるのじゃないでしょうか。

<後略>

(2003年12月17日 SAS東京本社にて構成 須田玲子)

佐藤 愛子(さとう あいこ)さん

人気少年小説家の佐藤紅緑を父、女優の三笠万里子を母として大阪に生まれ育つ。昭和18年に結婚するが、25年に離婚。同年「文芸首都」の同人となり、27年に北杜夫、田端麦彦らと同人誌「半世界」を創刊。31年に田端と再婚するが、のち離婚。38年に「ソクラテスの妻」が芥川賞候補になり、44年に夫の会社倒産による借金の経験を基にした「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞。平成12年に佐藤家の一族を書いた「血脈」で菊池寛賞を受賞。その他、著書、受賞作多数。

『波動を上げよ!切なる願いで著した『私の遺言』』

魂が活性化する手助けになるハイゲンキ

中川:
初めまして、中川です。先日、『月刊ハイゲンキ』をお送りさせていただきましたが。
佐藤:
はい、拝見しました。
中川:
私どもは“氣〟というものを扱っていまして、ストレスの多い人が結構いらっしゃいますので、緊張を少し楽にして… ということで、プラスのエネルギーである氣を上手に取り入れていただきたいということで行っているのです。
佐藤:
今、そういうことに関心のある方が増えてきましたですねえ。氣というのは非常に大事だということを、私も漠然と思っております。
中川:
実は、私どもの真氣光というのですが、これは私の父が始めたのです。
佐藤:
あ、そうなんですか。いつ頃ですか。
中川:
1986年に、父が夢を見て、白髭のお爺さんに教わって作った、氣を中継する機械がありまして、それを「ハイゲンキ」と名付けたのです。
佐藤:
機械が、ですか。それは珍しいですね。氣って、ようするにオーラみたいなものですか。
中川:
そうですね。人にも物にも、どんなものにも氣というものがありまして、人間ですとオーラみたいなものですね。
佐藤:
氣というものは、人間から出るものと思っていましたから、物から出るって… 物にも氣があるわけですね。
中川:
例えば、昔から神社でいただくお札やお守りなど、ああいうものからも氣は出ていたと思うんですよ。
佐藤:
でも、あれは人が氣を篭めているわけでしょう。篭めなければ、無いのではありませんの。
中川:
篭める、と言いますか… 父は、「宇宙から集まってくる、ようは非常に強いプラスの氣を篭めている」と考えていたようで、ハイゲンキも同じなんです。ハイゲンキが宇宙にある真氣光という氣を集めてそれを照射する。それで氣の中継器と言ったのです。父は自分で作ったものの、よく分からなかったのですが、どうも何か出ているということはいろいろな体験を経て確信したんですね。
佐藤:
機械がねえ…。素人考えでつまらないことを言うかもしれませんが、お許しいただきたいのですが(笑)。
中川:
ああ、それなら分かります。
佐藤:
その後、またまた夢を見まして(笑)、こういうことは皆ができるのだからと言われて、合宿制の研修講座を始めたのが1990年です。
中川:
氣を受ける側の人にも、その人の持っている氣がありますわね。その氣と、先生の出す氣とうまい具合に波長が合うと良いのでしょうが、合わない場合もあるんじゃないでしょうか。基本的に求める心がなければ、いくらこの機械があっても入ってこないということはないんでしょうか。
佐藤:
そうですね。すぐそこまで来ていても吸収しないんですね。一般的に氣というのは、そういうことがあるようです。ただ、真氣光というのは、どうも魂に直接入って、オーラというのか、光が増えていく方向にいくんですね。どんな人でも、もともと温かい心を持っています。そこに光が入っていって増幅することによって、より一層心が豊かになっていく手助けになり、マイナス的なこともプラスに変わっていく、魂が活性化していくようなのですね。
こういうことは、だんだんと分かってきたことなのです。というのは、サラリーマン生活でストレスが溜まって体調を崩して、どうにもならなくなり92年に父の行っている研修講座に行ってみたのです。そうしましたら、具合の悪い方たちや、自分も他の人に氣を中継して差し上げられるようになりたい、という方々がたくさん参加されていました。そういう方は、求める心がありますので、より真氣光を自分の中に吸収できるのですね。
その合宿は、いろんな霊的な現象が起こっていて、その人達の話を聞いて分析していくうちに分かってきたのですが、真氣光をたっぷりと受けていくうちに、自分の心というものが変化してくる。それによって、ますます光が増えていき、魂が元気になって病気が良くなっていく人もいれば、より運勢的に好転していく人もいる。
どうも、ハイゲンキという機械が、それを助けているみたいなんですね。ハイゲンキから光が出ていて、その光が魂に入ってくるというんですよね。
中川:
それは、すごい発見ですね。
佐藤:
それで、電機会社の研究所を辞めて父の会社に移ったのが93年、ちょうど10年前です。そして、95年12月に父が亡くなりましたので、その後を引き継ぎ今に至っているのです。

<後略>

(2003年10月8日 東京・世田谷の佐藤愛子さんのご自宅にて 取材構成 須田玲子)

湯川 れい子(ゆかわ れいこ)さん

東京で生まれ、山形で育つ。鴎友学園女子高校を卒業。昭和35年ジャズ専門誌の読者論壇に投稿、これを機にジャズ評論家としてデビュー。ラジオのDJ、ポップスの評論・解説を手がけて現在に至る。『ランナウェイ』『六本木心中』『恋におちて』など作詞も多数。ディズニー・アニメ映画の日本語訳詞や、ミュージカルの日本語詞も。プロデュース作品、スーザン・オズボーンのCD『和美』はレコード大賞企画賞受賞。著書『幸福へのパラダイム』(海竜社)で日本文芸大賞ノンフィクション賞受賞。他に『オーロラ・光ふる夜』(PHP研究社)『今夜もひとりかい』(共同通信社)『幸福への共時性』『幸福への旅立ち』(海竜社)など多数。近年は環境問題を考えグローバルに活動する「レインボウ・ネットワーク」を組織、永久会員にはシャーリー・マクレーン、オノ・ヨーコ、オリビア・ニュートン・ジョンなど。http://www.rainbow-network.com

『力で奪い合わず、想像力と笑顔と歌うことで共存の道を』

皆が持っている力、皆が等しく恩恵にあずかれるもの

中川:
本欄で湯川さんと先代と対談していただいたことがありましたが、調べてみましたら92年5月号でした。もう、11年半も前のことなのですね。
湯川:
そう、あのときお父様は、「ハイゲンキは構造的には何もつながっていないけど、どうしてか効くんだよね。一番信じてないのが僕の家族なんだ」とおっしゃっていて、すごく正直な方でした(笑)。
中川:
そうでした(笑)。私はエンジニアでしたから、見えることばかり追っていて、氣なんか錯覚じゃないの?と思っていました。それが体調を崩し、父の開催している研修講座に参加して、魂とか氣とか大きな存在が分かりました。その対談記事を読み返してみたのですが、湯川さんと霊の話や自動書記の話まで、かなり深く触れていますね。
湯川:
あの頃は、私自身、まるでジェットコースターに乗っているようなときで、次から次に不思議で面白いことが起きていました。でもそのうちに、待てよ、こういう追いかけ方をしていると、非常に危険だ、と気がつきました。カルト的になってしまうのではないかと、その危険性に気づかされまして。自動書記にしても、必ずしも高い意識レベルではないことも分かりましたし。
不思議な力を見せてくれたり、病気治しをしてくれる人もいましたが、その人を教祖と勘違いして、教祖の力だと思ってしまうと危険ですよね。例えば、オーラを見せてくださる人がいて、その方は癌を治す前に1千万円、治ったら3千万円なんて言っていました。何で、この人にそんな力があるの?本当に人間として尊敬に値する方なの?と。
近頃は、そういう人は淘汰されてきていますよね。今は、こういう世界を非科学的だと頭から否定するのではなくて、特別な人ばかりではなく皆が持っている潜在的な力であって、皆が等しく恩恵にあずかれるもの、そして、それに気づいて使わせてもらえば、もっと人生は楽しく実りのあるものになりますよ、ということを真摯に教えて下さっている方の時代になってきたかな、と思います。
中川:
まさしくその通りですね。時代ということもあったのでしょう。氣についても知られていませんでしたから、こういうものもあるのだよ、と先代はまるでブルドーザのようにガァーッと走り抜けながら見せてくれた感じがします。その時代は、皆が先代を頼っていました。
湯川:
そうですね。その頃は自然界に溢れている、氣とか宇宙エネルギーとか言われているものを、集約して照射してくださる人は、そんなにいらっしゃらなかったですものね。
中川:
今は、ビックリさせたり霊的なことをおどろおどろしく言わなくても、先代のときに培ったそういう体験を基に、氣の存在を分かる人がずいぶん増えてきました。皆さん一人ひとりが相手に氣を中継することによって自分自身を癒しながら、相手を癒すようになっています。ハイゲンキという機械があったからこそ、真氣光が残っているのだとも思います。
湯川:
お父様は、チェルノブイリの被災者の治療によくロシアにいらしていましたよね。あるときバッタリ、成田空港でお会いしました。荷物が出てくる回転台の縁に腰を掛けていらしたけれど、とても疲れたご様子で驚きました。対談のときは、パチンパチンに元気でいらしたのに。それがお会いした最後でした。
中川:
1ヵ月に数日しか家に帰らず、身体が幾つあっても足りないくらいアチコチに飛び回っていましたから、やはり肉体的にくたびれていたと思います。95年の12月に2度目の脳出血を起こし亡くなりました。
私が下田で行われていた講座に参加したのが92年5月で、父の会社の社員になったのが93年10月でしたから、3年ほど父と行動を共にしていました。
湯川:
でも、ご存命のときにそういうお姿を間近に見ることが出来てお幸せでしたね。お父様はちょっと不思議な(笑)理想的なモデルでいらして、それをそう思わないときがあったけれど、そのスーパーさに気がついたとき、あっ、そうかと思えて、中川さんの今がおありになると思います。

<後略>

(2003年9月25日 「オフィス・レインボウ」にて 構成 須田玲子)

佐藤 憲雄(さとう けんゆう)さん

1938年新潟県生まれ。駒沢大学仏教学部仏教学科卒業、駒沢大学大学院人文科学研究科仏教学専攻修士課程修了。皆の宗・ニコニコ宗 双本山「永林寺」住職。笑文芸集団「有遊会・ニコニコ響輪国」有遊亭和笑。

『「笑道仏心」とはユーモアと笑いを大事に怒りを鎮め大らかに生きること』

遊び心がいっぱい。「遊び」は「明日美」です

佐藤:
遠いところから、ようこそ。お待ちしていました。
中川:
きょうは、ご住職のお話をうかがえるのを楽しみにして来ました。いただいたお名刺には裏表ビッシリ書かれていますが、この太字の「祈:一斗二升五合」はどういう意味でしょう。
佐藤:
言葉遊びですよ。「一斗」は「五升」の倍ですし、「五合」は「半升」ですから、「五升倍(ごしょうばい)、升升(ますます)半升(はんじょう)」で「ご商売益々繁盛をお祈りしていますよ」、ということです(笑)。
中川:
ハハハ、なるほど。「永林寺」は、「皆の宗・ニコニコ宗」とありますが、これは?
佐藤:
本来は曹洞宗ですが、訪れる皆さんが、「ここのお寺は、何宗ですか?」とお訊ねになられるので、皆ニコニコ楽しく生きていくのが仏の道ですから、宗派にとらわれず、「皆の宗です」とお答えしていたのです。それが、20年も言っていると、だんだん定着してきましてね、それではと、「皆の宗・ニコニコ宗」を名乗るのを申請したところ、7年前の5月3日、雨の日でしたがね、県知事がこちらにいらして認めてくださったんですよ。
ところで、2、3日前に青木匡光さんが寺においでになり、お宅の会社から送っていただいた「月刊ハイゲンキ」に目を留めて、「あれっ、これ、どうしたの?僕も中川会長とお話したんだよ」とおっしゃっていました。
中川:
ええ、そうなんですよ。「人間接着剤」の青木さんですね。出会いを楽しみ、人と人をくっつけるということをなさっている…(編集部注・本誌122号巻頭対談参照)。青木さんとお親しいのですか。
佐藤:
はい。青木さんは、ウチの寺の「友の会顧問」を務めてくださっていますから。それから、送っていただいた今年の8月号には演芸作家の神津友好さんが登場なさっていましたが、神津さんとも四半世紀のお付き合いです。
中川:
神津さんは、毎日の暮らしの中で笑いを大事にしておられて、「笑いの種は、自分の心の中にある」とおっしゃっていました。
佐藤:
そうですね。神津さんとは、「有遊会」でご一緒なんですよ。彼は、師匠をもじって「司笑」。私は、「有遊亭 和笑(おしょう)」です。面白い話を作って披露し合って遊んでいるんですが、例えば…「笑」の字の解釈を話に作ったときは、「子犬が笊ざるを被って山から走り下りて来たのだけれども、3本足だったので、神様が一本、足を下さった。子犬は神様から戴いたその足を大事にして、濡らさないようにオシッコをするときにその足をあげる」…これは、私の作です。
そうしましたら、演芸評論家の小島貞二さんが、3本足の子犬、というところは同じですが、「田んぼの案山子に足を貰ったから、案山子は一本足になった。子犬の名前はコロで、コロが子供を生んでココロ、ココロがまた子供を生んでマゴコロ」と、お作りになりました。小島さんは、この夏に亡くなってしまいましたがね。
こんな駄洒落ばかり言っているのですが、世の中には「バカバカしい」なんて怒って、いちゃもんつけてくる人もいますよ。そんなムキになって生きていたって、ツマンナイでしょう。遊びは大事ですよ。「遊び」は、「明日美(あすび)」ですから。この寺も、遊び心がいっぱいです。既成宗教は悪いと言うわけではないし、とっても教えられることは多いのだけれど、ムズカシイでしょう。坊さんは、「カキクケコ」だと皆さんに思われていますからね。
中川:
「カキクケコ」?
佐藤:
カタイ、キライ、クライ、ケムタイ、コワイです。でも、「アイウエオ」になると、皆さんが親しく感じてくれて、寺にも来やすくなるでしょう。「明るく、生き生き、美しく、笑顔で、おもしろおかしく」です。私は「笑道仏心」だと思っています。
中川:
ご住職が、楽しい方だからでしょうか、ずいぶん参詣の方で賑わっていますね。こちらに着いてタクシーから降りたら、お寺に人がたくさんいらしたので、何か会とか催し物でもあったのかなと思ったほどです。
佐藤:
便利のいいところではないのに、普段でも200人ほどでしょうか、いらっしゃいますね。この寺は、私が25代目で、もう開祖500年以上になります。実は、徳川家康の孫である松平忠直公、その子どもの光長公の位牌を安置してあり、葵の紋章を許された寺なのですよ。作州津山藩松平家より拝領の和幡荘厳具などの数々も残っておりますし、江戸彫りの名匠・石川雲蝶の作品が日本で一番多くあります。そういうことをご存じで参拝される方も多いのです。
中川:
そうですか、それは由緒ある寺ですね。石川雲蝶という人は、どういうお方なのでしょう
佐藤:
江戸彫り、まあ大工さんの気の利いた方ですが、3つの流派があって、石川というのは、そのひとつです。雲蝶は、22歳の若さで名字帯刀を許されたために、兄弟子のヤッカミを受けて迫害されました。そのときに当山の21代目がこの寺に住まわせたのですね。その
13年余りの滞在中に、百点以上の作品を残したのです。
本堂の欄間に、浮き彫り、両面彫り、浅彫りなど、人物花鳥山水が繚乱として刻まれていまして、日本よりヨーロッパで有名で、「日本のミケランジェロ」と言われているんですよ。日本で彫刻が有名な寺というと、皆さん、すぐに日光を思いますがね。雲蝶がヒスイの原石に彫った、寝ている姿の牛と蛙の作品が在るのですが、牛に触ってから蛙に触ると、皆さんがモウかってカエル。その反対に蛙に触って牛に触ると、皆さんが帰ってから寺が儲かることになっています(笑)。

<後略>

(2003年9月8日 永林寺にて 取材構成 須田玲子)

大倉 正之助(おおくら しょうのすけ)さん

能楽囃子大倉流大鼓、重要無形文化財総合認定保持者・日本能楽会会員。室町時代より650年続く能楽大・小鼓の大倉流宗家の長男として生まれる。9歳で小鼓方として初舞台。17歳で大鼓に転向。「大鼓独奏」「素手打ち」という独自のスタイルを確立し、至難の業といわれる「素手打ち」にこだわり続け世界各国で演奏活動を繰り広げている。2000年には、ローマ法皇より招聘され、バチカン宮殿内ホールでのクリスマスコンサートに出演する。世界の民族芸能、音楽を紹介する独創的なイベントも多数プロデュースしている。著書に「鼓動」(到知出版社)がある。

『伝統芸能とバイクが合体!鼓に氣を乗せ、鎮魂の旅を続ける』

バイクはただの乗り物ではない。意思がある

中川:
今日は、お忙しい中、事務所までご足労いただきましてありがとうございます。今、外にかっこいいバイクが置いてありますが、あれは大倉さんが乗ってこられたんですよね。
大倉:
そうです。さっきまで明治神宮でイベントの打ち合わせをしていまして、時間がぎりぎりになったので、電車でも車でも間に合わないかなと思いまして、いつも乗っているバイクで駆けつけたという次第です。
中川:
大倉さんは、伝統芸能である大鼓の奏者ですが、伝統芸能とバイクというと、何かミスマッチのようなイメージがありますよね。よく質問されると思いますが、なんでまた、能とバイクが結びついたのでしょう?
大倉:
よく聞かれますね。伝統芸能の家に生まれた者は、バイクのような危険なものに触れないようにするという不文律がありますし、なかなか能とバイクは結びつかないと思います。
でも、私にとっては、バイクは単なる乗り物、移動の手段ではありません。能と同じように、生きることの意味を教えてくれる大切な道具だと思っています。
たとえば、昔の旅には生死が付き物でした。今でも旅に危険はついて回りますが、命がけということはありません。新幹線や車、高速バス、飛行機で快適に移動するのが旅です。
バイクだと、まだ、昔の旅の感覚をもつことができます。途中の空気や風、においを感じることができます。人間の本能や野生を取り戻すことができます。直感や身体能力が必要な乗り物です。そこに能と共通するものを感じるのですが。
中川:
私はバイクには乗りませんが、きっと車とは違った感覚があるんでしょうね。馬で旅している感じなのかな。機械ではなく生き物としてバイクを感じているということでしょうか。
どんな感覚なのか、バイクに乗らない人にもわかりやいように、説明していただくことはできますか。
大倉:
そうですね、中学生のとき、はじめて50ccのバイクに乗りました。近くの広場で、バイクにまたがってエンジンをかけて、クラッチを離した瞬間、いきなりバイクが竿立ちになって後ろに振り落とされました。自転車に毛の生えたような50ccのバイクですから大したことないと馬鹿にしていたのですが、とんでもなかった。バイクは単なる機械ではない。意思をもっている。まさに、今言われたような馬のような存在だと、そのときに思ったわけです。
バイクに乗っていると、環境の変化をダイレクトに感じます。冷たい雨の中を乗っているときは、体がすっかり冷えて歯がかみあわなくなるような事もあります。また、カチカチになって止まったとき、足を伸ばしたつもりが、筋肉が硬直していて足が動かず、バイクを止めた途端にその場でコテンと転んでしまう格好の悪いこともあります。
気持ちのいいこともたくさんあります。しばらく走っているうち雨が上がってきて、太陽の光が差してくる。太陽の暖かさが冷え切った体をふわーっと暖めてくれる。このとき、体がふうーっと伸びていく感覚を味わうことができます。『種子が芽吹くときはこんな感じかもしれない』と自分が植物の種になったような感慨を味わうことができます。
普段の生活では、そうそう味わえるものではないですね。
中川:
なるほど、バイクにもなかなか奥深いところがあるわけですね。
能という伝統芸能とバイクに象徴されるように、大倉さんはこれまでの能の常識をくつがえして新しいことに次々と挑戦して、結果を出されておられますね。
新しいことをやるというのは、いろいろと反発もあって大変だと思います。特に、室町時代から続いている古典的な世界ですから、新しい価値観がそう簡単に受け入れられるものではないでしょう。ご苦労されたと思いますが。

<後略>

(2003年7月18日 エス・エー・エス東京センターにて 構成 小原田泰久)

安保 徹(あぼ とおる)さん

1947年青森県生まれ。東北大学医学部卒。現在、新潟大学大学院医歯学総合研究科教授。1996年、白血球の自律神経支配のメカニズムを初めて解明。ほかにも、免疫関連で世界中をうならせる発表を次々と行っている。免疫について対談形式で非常にわかりやすくまとめた「免疫学問答」(河出書房新社)はベストセラーに。ほかにも、「未来免疫学」(インターメディカル)「医療が病いをつくる-免疫からの警鐘」(岩波書店)「免疫革命」(講談社インターナショナル)など著書多数。

『自律神経が教えてくれる自然界のリズム。 現代人はもっとリラックスした方がいい。』

病気は自然の力でなり、自然の力で治るもの

中川:
免疫というとても難しいテーマを、先生は非常にわかりやすく説明されていて、ご著書を読ませていただきましたが、『ああ、なるほど』と納得することができました。
特に、心と免疫力はとても関係があって、病気になるのも健康になるのも心次第ということを、医学的にお話されているのが興味深かったですね。医学の話というよりも、人生論みたいな、奥深いものを感じました。
安保:
ありがとうございます。私はこう思っています。たぶん、2000年とか3000年前、鉄が使われるようになって、畑を作って定住するようになって、人間は富を獲得しました。以来、富を得ることに心が移ってしまって、自然とともに生きることを忘れてしまった。そんなところへキリストやお釈迦様が出てきて、心の問題をないがしろにしたら破綻をきたすよと教えてくれた。
今がまさに、そういう時代です。
科学が一見進歩して、立派な家も作れるし、新幹線も走るし、飛行機も飛ぶ。薬もいっぱいできてきた。いいことばかりのように思えるけど、実はそうじゃない。
逆に、問題ばかりが多くなっている。
そう思いませんか。
中川:
その通りですね。先生の専門である医学の分野も、進歩しているように見えて、実際には治せない病気がいっぱいあるわけですからね。
安保:
治せないし、逆に病気を作っていると言ってもいいかもしれない。このグラフを見てください。透析患者の数です。どんどんと増えているわけですよ。
ガンもアトピー性皮膚炎も潰瘍性大腸炎も膠原病も、爆発的に増えている病気の多いこと。
今は、病院へ行くと病気になってしまう。そんなおかしな時代になってしまいました。
中川:
すごいですね、このグラフ。私たちが奈良の生駒でやっている5日間の研修講座にも、たくさんの難病の方が見えますから、病院で治らない病気がどんどんと増えていることは実感と
してもっていましたが、こうしてグラフを見せられると、あらためて驚いてしまいますね。
安保:
病気というのは自然の力によってなり、自然の力によって治るものです。それを薬で治ると思ってしまったことに間違いの発端がある。人間様の力で治してやろうということになったからおかしくなった。
腎臓が悪くなって病院へ行くと、水をとらないようにという指導がなされ、むくまないように利尿剤が出されます。腎臓に負担をかけないようにという理由なのですが、水をとらずに利尿剤を飲めばどうなりますか。すぐに脱水症状を起こします。逆に腎臓の大きな負担になり、血液がドロドロになってしまう。
そんなことするから、数週間で透析になってしまうわけですよ。
ちょっと考えればだれでもわかることを、医者は平気でやっているんです。
アトピー性皮膚炎は、抗原を外へ出そうということで発しんができるわけです。抗原が全部外へ出れば治ってしまう。しかし、病院へ行くと、体の排泄反応をステロイドで止めてしまう。せっかく治ろうとしているのにストップをかけてしまうのです。
そうやって治る病気も治らないようにしてしまうのが、今の病院での病気治療の実態です。
中川:
私どもも、痛みとか発熱とかかゆみといった症状は病気が治るために起こっているのだということをお伝えしています。
体が苦痛に感じることを悪者として、何でも排除してしまおうという考え方が、かえってやっかいな結果を生み出していますね。
痛みを排除しようとせず、『これは体が治るためのものだ』と感謝の気持ちで受け入れると、病気そのものの回復も早くなっていくから不思議ですね。
安保:
それは不思議でも何でもない。理屈に合ったことです。
たとえば、しもやけは赤くはれ上がって、血液が集まってきて、熱っぽくなって治っていきますね。このときに、すごいかゆみがあるわけです。
どうしてそうなるのかと言うと、壊れた組織を修復するには血液が必要です。体は、しもやけになった部分に血液を集めて治そうと働くのです。だから、かゆくなってきたら、もうすぐ治るんだと喜ばなければならない。
でも、病院へ行ったらどうなりますか。
薬が出される。その薬というのは、血流を止める作用をもっている。血流を止めて、治ろうという力を弱くすればかゆみがなくなる。そんなことをやっているわけですから、何年たっても、しもやけは治らない。

<後略>

(2003年6月25日 新潟大学医学部にて 構成 小原田泰久)

神津 友好(こうづ ともよし)さん

大正14年8月長野県生まれ。昭和22年上智大学新聞学科卒業。昭和25年法政大学文学部英米文学科卒業。雑誌、業界紙記者を経て、昭和28年より演芸台本の専門作家となる。日本放送作家協会理事、文化庁芸術祭審査委員、芸術選奨選考委員、三越名人会企画委員などを歴任。NHK番組専属作家。花王名人劇場プロデューサー。著書に『笑伝・林家三平』『にっぽん芸人図鑑』『少年少女落語名作選』。平成13年文化庁長官表彰。

『毎日の暮らしの中で笑い発見!笑いの種は自分の心の中にある』

思わず笑ってしまう放送台本を書き続けて半世紀

中川:
神津先生は、放送演芸作家でいらっしゃるとうかがいましたが、具体的にはどういうお仕事なのでしょうか。
神津:
演芸には、古典芸能、落語、漫才、講談、漫談、浪曲など、いろいろなジャンルがあるのですが、私は思わず笑ってしまうような話を50年拾い続けてきました。¥r¥n笑いの芸能は、作が無いとできません。構成者や作者が必要なのです。その中で、私はラジオやテレビの演芸番組をずっと担当していましたから、NHKの方で「放送演芸作家」と呼び名を付けてくれたのですが、そういう職名があるのかどうか(笑)。
中川:
50年ですか。この世界の生き字引のようなご存在ですね。
神津:
日本テレビの昭和28年の開局番組に関わっていますから、ちょうど半世紀になりますね。放送台本をこれだけ長く書いていると、脚本家連盟登録作品だけでも、数百本の駄作の山…と言うと演者さんに悪いけれど(笑)。
最近、テレビ50周年ということで、NHKが持っている演芸番組より、笑芸、喜芸、すっとこ芸を集めて「昭和達人芸大全」をDVD6本に纏める仕事をしました。これがまあ、アッチコッチ、どこにあるのか探すところから始まって、当時はビデオ時代ではありませんから、フィルムでね、その編集でしょう、丸1年かかりました。
もうひとつ、「昭和名人芸大全」というのも同じようにDVD6本に纏めて。これは、珍芸、奇芸、びっくり芸などです。私は、「名人芸は、すごい芸で、達人芸は、みごとな芸の違いである」なんて、屁理屈を付けているんですがね。
まあ、それはさておき、この12本のDVDに収められている芸人さんの全員にお会いしているんですから、やっぱり私は古い人間だと改めて思いましたよ。
先程「生き字引」って、おっしゃっていただきましたが、そんなものではなく、古い人間の「廃物利用」ですよ(笑)。でも、何でこんなに長くやっていて、こんなにも儲からないのだろう。何で、こんなに無名なんでしょうね、ハハハ…。
中川:
貴重なお仕事をされましたね。どなたかがそうしなければ、埋もれたままになってしまいますから。
神津:
古いものに接して感じたのですが、昔は人の繋がりが乾いていなかったな、と思いますよ。今は、人間関係がいやにドライでしょう。ファミリーまで絡んだ付き合いなどあまりしなくなりましたね。
私は、落語家・林家三平さんの影作者などと呼ばれていましたが、その縁で師匠の亡き後もおかみさんやお子さんたちと家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっています。
私は好奇心が旺盛で、人間が好きなんでしょうね。いろいろなご縁でいろいろな会に所属しています。例えば、「有遊会」とか「ノータリークラブ」とか、みんな「たまにはお会いして、楽しく暮らしましょうよ」という主旨の会です。地元のボーイスカウトの副団委員長などを40年以上やっていますし。
中川:
「有遊会…遊びが有る会」ですか、楽しそうな名前ですね。どんなことをなさっているのですか。
神津:
これは25年続いていまして、主宰者は相撲評論家・演芸評論家の小島貞二さんです。都々逸や川柳、ナゾ掛けなどを作る宿題が出ましてね、隔月1度、浅草公会堂研修室に集まって、宿題を披露するのです。その出来にそれぞれが点を入れるのですが、プロが3点なのに、素人が30点取っちゃったりして、楽しいですよ。
例えば「新入生と掛けて、何と解く。その心は…」の宿題なら、「遠山の金さんと解く。心は桜が似合います」と。ま、月並みですがこれが見本です。皆さんも挑戦されたらいいですよ。
私は、その会の司笑。師匠をもじっているのですが、これは出席率が良くて、会に何かしらの功績が無いとなれないんですよ。
「ノータリー」は、鯉の絵を描かれている諸橋楽陽さんが代表者ですが、この会も発足して23年です。名門団体「ロータリー」に掛けたネーミングですが、気楽なざっくばらんな会です。
ああ、今日は対談でしたね。私はしゃべるのがへたで、特に対談は苦手なのです。ひとりでペラペラと勝手にしゃべったり、書いたりするのならいいのだけれども。以前、夜、眠れない人たちに人気のある番組、「NHK・ラジオ深夜便」から対談出演依頼があったのですが、その日から私も夜眠れない人になってしまいましたが。いいんでしょうか、ひとりでしゃべってしまって。
中川:
ハハハ。どうぞ、お気になさらず、この調子でお話しください。この欄は各界でご活躍の方たちに、その世界を教えていただくということですので。

<後略>

(2003年6月18日 東京都世田谷区の 神津友好さんのご自宅にて 構成 須田玲子)

奥 健夫(おく たけお)さん

1965年茨城県生まれ。1992年東北大学大学院工学研究科原子核工学専攻博士後期課程修了・工学博士。1992年京都大学工学部金属加工学教室・助手。1994年京都大学大学院工学研究科材料工学専攻・助手。1996年スウェーデン・ルンド大学化学センター第二無機化学科、国立高分解能電子顕微鏡センター・博士研究員。1997年より大阪大学産業科学研究所・助教授、現在に至る。

『現代科学において最大の謎は「人間の意識と生命エネルギー」』

それまでの物質科学の授業内容をすべて変えてしまった

中川:
はじめまして、中川です。本誌に「臨床レポート」を連載してくださっている、麻酔科医師・西本真司先生にご紹介いただきました。本日は大変お忙しい中をどうも有り難うございます。
奥:
西本先生とは国際生命情報科学会(ISLIS=International Society of Life Information Science)で、お会いしました。この学会の方々で、氣に関心をよせていらっしゃる先生は多いですね。¥r¥n今までもいろいろ議論してきたのですが、氣とは何か、氣の本質は科学的にどうなのかということは、結局分かっていないということは皆さん分かっている(笑)。いろいろな現象を追って証拠を積み重ねていって、間接的にでも証明しましょう、ということでやっています。
中川:
ISLISですか、以前ISLISの会長をなさっていた河野貴美子先生と対談をさせていただきましたが(編集部注・本誌1999年11月号に記事掲載)、工学系や医学系の研究者の方が多く、計測されたデータに基づいて論じるというスタンスで行っている学会だとうかがいました。¥r¥n直接的に証明することは難しいですが、体験というかたちで氣の存在を感じる方は多いようですね。西本先生は、ご自身の潰瘍性大腸炎快癒をきっかけに氣に関心を持たれて、私の父である先代が行っていた合宿制の研修講座に参加されました。その後、医学的見地から実験データを出していただいたりして、そういういろいろなお話を含めて、研修講座で講義をしていただきました。¥r¥n先日、西本先生も一部執筆なさった奥先生の本が刊行され、私も読ませていただきましたが、奥先生はその1年前にも、意識、魂の重要性にアプローチする本をお書きになっているそうですね。
奥:
はい、『知的生命情報概論 意識・生命エネルギーの原理と応用』という本を大学院の学生さん4人と書き、三恵社というところから出しました。
中川:
先生のご専門は工学部で、何か材料関係の研究をなさっているとうかがいましたが、工学部の大学院でそういう本を作られたというのは、どういうことなのでしょう。
奥:
知能機能創成工学専攻における授業の一環としてまとめたものなのです。3年前までは、物質科学を中心としながら、半年間で太陽電池、半導体デバイス、核融合エネルギー・高温超伝導、超微粒子・クラスター・フラーレン、原子配列、クオーク・量子宇宙、生命の起源・脳・心・コンピュータ、自己管理・研究論などの授業を行ってきました。
しかし、私がずっと興味を持って抱えていたテーマに思い切って迫ってみようと思い、2年前に今までの物質科学の授業内容をすべて変えてしまって、「人間の意識・生命エネルギーの原理解明及び応用」を授業目的としたのです。
それまでは20人ほど居たのですが、私の提案に興味を持った学生さんが4人残ってくれました。後期の授業だったのですが、学生さんは徹夜をしたり本当にハードでした。この時期は、目の前に就職を控えて大変なときですからね。
単位が取りやすくて、いい成績を付けてくれる先生に、学生さんの人気が集まるのですよ。それが、良い条件で就職する近道ですから。でも私は、授業はハードですし、成績を付けるのも厳しいという評判でしたから、本当に興味を持ってくれた学生さんだけが残ったのです。
中川:
就職するとさらに厳しい環境ですから、学生時代は、本当に学びたいことを自由にのびのびと研究してもらいたいものですね。でも、いい学校に進学して、いい会社に就職して、という教育が小さい頃からなされていますから、お父さん、お母さんの意識から変わることが必要でしょうね。(著書を手にしながら)400ページもあり、立派な本にまとまりましたね。学生さんたちもずいぶん喜ばれたことでしょう。
奥:
ええ、大学院の研究・演習で忙しい中での執筆で苦労しましたから、それだけに本が出来上がったときには大喜びで、「これからは、優雅な印税生活だ」なんて。もちろん、そんなことはありませんけれどね(笑)。
「意識」「生命エネルギー」をキーワードとして、人間というものを今一度見直すというテーマにそれぞれが全く異なる観点で取り組んできましたから、内容は統一されていませんが、あえてそのままで編集をしました。
多数の著書やインターネットによるホームページなど膨大なデータを使用させていただいていますが、昨年3月までISLISの会長を務めてくださっていた、放射線医学総合研究所生体放射研究室室長の山本先生に、いろいろとアドバイスをいただいたりお世話になりました。
中川:
ああ、山本幹男先生ですね。山本先生も、氣に関心を持たれて、もう10年も前になりますか、先代が千葉で行ったセミナーにいらっしゃり、その後に私どもの合宿制の研修講座も体験されておられ、交流がありました。
奥:
そうですか。いろいろなご縁で繋がりがありますね。

<後略>

(2003年5月6日 大阪大学産業科学研究所にて 構成 須田玲子)

三戸サツヱ(みと さつえ)さん

1914年広島生まれ。1948年から幸島でのサルの研究が始まると同時に、小学校の教師をしながら、京大の今西錦司教授らの研究のお手伝いをする。1970年からは京都大学霊長類研究所幸島野外観察施設の勤務となる。研究者とは違うユニークなサルの観察が「幸島のサル」という本になり、サイケイ児童文学賞受賞。ほかにも、吉川英治文化賞など数々の賞を受賞。1984年に霊長類研究所を退職し、1994年にフリースペース・幸島自然苑を設立。

『サルたちを母親の目で見つめてきて半世紀。彼らの行動からたくさんのことを学びました。』

研究者のお手伝いから サルと付き合うことに

中川:
宮崎からレンタカーで来たのですが、1時間半ほどかかりました。ここは、もう鹿児島との県境ですよね。
今日は、おサルのお話をたくさんお聞きしたいと思っておうかがいしました。三戸先生は、ここでサルとお付き合いされるようになって半世紀にもなるそうですね。
三戸:
昭和23年(1948年)くらいからですから、もう50年を超えていますね。いつの間にかそんなにたったんですね。
中川:
先生はおいくつでいらっしゃいますか。とてもお元気ではつらつとされていますが。
三戸:
1914年4月21日生まれですから。いくつになりますかね。もう90歳くらいかな。
中川:
ここにパソコンがあるんですが、先生がお使いになるんですか?
三戸:
この間買いました。今、勉強しているところです。だから、使うというところまではいかないんですけどね。
中川:
すごいですね。その意欲はまだまだお若い証拠ですね。新しいことにどんどんと挑戦される気持ちがあるのはすばらしいと思います。
でも、どんなきっかけで先生はサルの面倒を見るようになったのですか。サルがお好きだったんですか。
三戸:
いえいえ、サルのことなんか、全然興味なかったですね(笑い)。ちょうど、私がここへ越してきたとき、戦後、朝鮮半島から引き上げてきたんですが、京都大学の今西(錦司)先生と学生たちがサルの研究に来ましてね。彼らの情熱を見ていて、何かお手伝いしたいなという気持ちになったのがきっかけですね。
別にサルが好きで始めたわけではないのですが、やればやるほど面白くなってきましてね。いつの間にやら50年を超えました。
中川:
サルの研究ですか。今は100頭くらいいるということでしたが、そのころもそんなにサルはいたんですか。
三戸:
いえ、そんなにいません。それに、なかなかサルは顔を見せてくれなかった。というのも理由があります。終戦すぐのころは、サルは山奥にしか住んでいなかったのでめったに見られない珍しい動物でした。宮崎の山で猟師が子ザルをとって米軍の司令官にあげたら、すごく喜んで、とてもかわいがっていたんですが、あるときひもが首に絡まって死んでしまいました。司令官が、簡単な気持ちだったのでしょうが、もう1匹ほしいと言ったので、サル取りが始まり、幸島に白羽の矢が立ったんですね。天然記念物だけど、当時はアメリカさんの命令だと言って、ハンティングクラブ、猟師、警察、前村長らが、総出です。サルは、お母さんが子どもをしっかりガードしているので、子ザルをとるためにはお母さんを殺さなければなりません。そんなことで、やっと子ザルをとって帰ったのですが、サルにしてみれば、大変な災難ですよ。
その上、食べ物もない、薬もない戦後ですから、サルの黒焼きが妙薬と言われていたため、密漁が入って、サルたちはさんざんな目にあったわけです。
そんなことがあって、京大の先生が来たときは、サルは絶対に姿を現さなかった。山を一日歩いても、サルが摘んだ木の芽とふんを見つけるだけ。人間と顔を合わせるのに3年かかっています。ところが、村の人が行くと、木のまわりにいたりしました。そんな話を聞いたら、手紙で知らせました。
そのころ、確実にいたのが10匹くらいですね。何年かして、20匹見つかった。それから系図を書くようになりました。
中川:
そんなことがあったのですか。系図も細かく書かれていて、貴重な資料ですね。¥r¥n1頭1頭にコメントがつけられていますね。失踪とかありますが。
三戸:
いなくなるサルがときどきいるんです。後でわかったのですが、それはオスのサルで、オスは必ず一度は外へ出なければならない決まりになっているようなんですね。
だから、ときどき失踪するサルがいて、何年かすると帰ってきて、また群れに入るわけです。¥r¥n私は、それを武者修行と呼んでいます。
中川:
でも、そうやって細かく見ていると、いろいろなドラマがあるんでしょうね。きっと、先生はサルたちのドラマに魅せられてしまって、50年以上もサルとかかわっているのかなと思います。

<後略>

(2003年3月3日 幸島にて 構成 小原田泰久)

龍村 修(たつむら おさむ)さん

1948年、兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。龍村ヨガ研究所所長。国際総合生活ヨガ研修会主宰。73年、求道ヨガの世界的権威沖正弘導師に入門。以後、内弟子幹部として国内外で活躍。85年導師没後、沖ヨガ修道場長を経て、94年、独立して龍村ヨガ研修所を創設。またスペース・ガイアシンフォニーを開設し、ホリスティック・ヘルスの指導者を養成中。ヨガ・氣功など東洋の英知を活用し、生命の声、母なる地球の声が聞ける心身づくりを提唱している。著書に「生き方としてのヨガ」(人文書院)と「深い呼吸でからだが変わる」(草思社)がある。

『生駒「真氣光研修講座」を語る』

沖正弘導師と先代の考えは一致していた

中川:
龍村先生とは、真氣光の研修講座開催の一番はじめからご縁をいただいていますが、今までこういう形でじっくりとお話をうかがったことがありませんでした。¥r¥n生駒で開催されている真氣光研修講座を受講される方の中には、どうして内容が真氣光とヨガの二本立てなんだろう、と思われる方もいらっしゃるでしょう。今日は、先生に真氣光研修講座を生の声(笑)で語っていただこうと思いまして。
まず、研修講座は伊豆・下田にあった沖ヨガ道場からスタートしていますので、その辺りからお願いいたします。
龍村 :
1989年12月にブラジルのセルソーという医者が先代を連れて、沖ヨガ道場においでなったのが、先代にお会いした最初ですね。
私は、大学時代に沖ヨガと出合い、卒業後はずっと直接、沖先生に師事し、先生が85年に亡くなられた後も、三島や下田の道場で講習会を開き、先生の教えをお伝えしていたわけです。
中川:
その講習会開催の最中に、先代がおじゃましたのでしたね。
龍村 :
どうもそのときは既に、先代は「合宿」という形の研修講座を考えられていて、施設の下見に見えたようでした。でも、こちらはそういうことまで分かりませんから、館内を案内して、ちょっとお話しただけでした。
セルソー医師は、「ブラジルでお会いした気功の先生で、すごく面白い方なのです」、と先代を紹介されましたが、先代は白髪でニコニコしていて大変印象的な方でした。¥r¥n講習会の終わった、翌年の新年の3日か4日にまたおいでになり、そのときにゆっくりとお話をうかがいました。暮れに差し上げた沖先生の本を全部読んでおられて、「すごく自分の考えと一致している。実は以前、ロサンゼルスの飯島さんという方から、沖先生の講義ノートをいただいている」とおっしゃるじゃないですか、びっくりしました。
飯島さんはロス在住の日蓮宗のお坊さんで、沖先生はそこを拠点にして1960年代にロスの黒人街でヨガを広めたりされていたのです。
中川:
そのときに沖先生が飯島さんに差し上げたノートを、飯島さんはその後に出会った先代にくださったのですね。不思議なご縁ですね。
龍村 :
飯島さんは先代に、「これは、あなたが言っていることと同じようなことを言っていた人のノートです。自分には必要ないから、使ってください」とおっしゃったそうです。
先代は、「ツボは動く。死んだらツボは無くなる」とか言っておられたでしょ。それと同じようなことを、沖先生もそのノートの「ツボの関連部位」に書いているのですよ。それはいわゆる伝統的な経絡、経穴と異なるツボが書かれているノートです。他にもたくさん共通の考えがあったようですが。
先代の話は、とても興味深かったです。「自分と一緒にアメリカ旅行に行ったりすると、参加者はそれだけで氣が出るようになる。でも、帰ってくるとすぐにまたできなくなってしまう。何か修業したというような経験が無いからではないかと思う。だから、そういう場が欲しい」と。
中川:
先代が夢の中で白髭の老人に、「氣功師を作れ」と言われたんですね。どうすればいいんだろうと考えていると、また「お前と一緒に居ればなれるんだ」と言うから、そうか磁石みたいなものかと思って、何人かの人とアメリカに旅行したんです。
そのときの話ですね。どうしてまたできなくなっちゃうのかと考えていたら、また夢でその寿老人みたいな老人に、「遊んでいるだけじゃダメだ」と言われたのだそうです(笑)。
龍村 :
先代は医療に「氣」を取り入れることの重要性を話されましたが、私は、その話にとても賛同しました。また「うちの研修は、おたくの空いている期間でいい」と言われるので、こちらにとっては大変都合がいいでしょ(笑)。それで、最初は社員研修のような感覚でお引き受けしました。
それまでにも、ある会社が、その会社独自の社員の研修にヨガを入れてやって欲しい、というような形で研修講座を行うことがよくありましたから、そのパターンでやりましょう、ということになったのです。
中川:
朝の読経、マラソン、そして玄米菜食の食事、体操などの沖ヨガさんのプログラムを取り入れた研修講座ですね。先代も、マラソンをするんだからと言って張り切って、自分でトレーニングウエアやシューズを買ってきました。

<後略>

(2003年1月15日 奈良生駒「真氣光研修所」にて 構成 須田玲子)

ハワイ発 巻頭座談会(はわいはつ かんとうざだんかい)さん

2月の3日~4日にハワイにて中川会長の真氣光セミナーとセッションが開かれました。初めての方や以前からの会員さんなど約130名の方々が参加されました。中川会長から直接真氣光を受けられ、皆さんとてもリフレッシュされた様子でした。セミナー後、中川会長、平野師範と一緒に会員の皆さんとの座談会が開かれましたので、その様子をお届けしましょう。

『アロハ!フロムハワイ』

体験を通して分かることは多いですね

中川:
4月にハワイからたくさんの方が生駒に来られると聞き、それに先立ってちょうどいい機会なので、ハワイのみなさんにお話をうかがいたいと思って、集まっていただきました。
平野:
昨日、今日(2月3日、4日)とセミナーを開催して大盛況でしたが(編集部注・セミナー開催の記事は本誌62頁に掲載)、その後、こうして座談会の時間をいただき大変嬉しく思っています。
今日ここに集まっていただいた方は、うちの古い会員さんたちで、真氣光の下田や生駒のセミナーに参加された方も多いのです。
中川:
平野師範には、月刊ハイゲンキや先代の本にもご登場いただいていますが、元全日本空手チャンピオンで、このハワイでの真氣光普及に大きな力になってくれている方です。
最近、文化功労賞を受賞されたとうかがいましたが
平野:
長く続けていると評価されるものですね。昨年の10月にワシントンDCで加藤米国全権大使から拝受いたしました。
中川:
それは、おめでとうございます。その賞は、どういったものなのですか。
平野:
海外で文化活動に功労のあった人が受賞対象なのですが、38年以上継続していなくてはなりません。私が空手を始めたのは1951年からで、ハワイに渡って教え始めたのは1962年ですから、長いですよね。
中川:
私が生まれたのが、その前年の1961年ですから(笑)、そりゃあ長いですね。ところで、師範が真氣光に出合ったのは、心臓を悪くされたのがきっかけだったですよね。
平野:
そうです。1988年に突然心筋梗塞で倒れました。そのときに真氣光を教えてくれたのが、今日のセミナーを通訳してくれている福田ロバートさんなんですよ。お蔭さまで命拾いをしました。
そして1990年7月に、下田で行われていた真氣光のセミナーに参加して以来、たびたびハワイの方たちをセミナーに連れて行っていました。それが、ここしばらくご無沙汰していたところ、体調を崩して昨年から腎臓透析の身になってしまいまして…いろいろと気づくことがありました。病気は氣づきのメッセージとは、本当ですね。
中川:
月刊ハイゲンキ2月号にそのいきさつを師範が書いてくださいましたが(編集部注・No.153、55頁に掲載)、体験を通して分かることは多いですね。月刊ハイゲンキもやはり氣グッズですから、記事を読んだ会員さんたちが、「平野師範の魂がますます輝きますように」、という気持ちを持ちますと、それが師範のところにも届きます。氣の交流ですね。
平野:
そうですか、有り難いですね。ハワイ支部再スタートのことはじめに、こうして会長のセミナーを開催することが出来て、感謝しています。これからどんどんハワイは元気なりますよ!
中川:
それでは、皆さんの紹介をしていただきましょうか。
平野:
こちらはロバートさん、シズさん御夫婦です。ロバートさんは85歳。4年前に糖尿病の影響で足の動脈のバイパス手術をしなくてはならなくなり、うちの氣のクラスに参加するようになりました。今は、太極氣功十八式などを教えて、クラスをリードしてくれています。手術はしなかったけれど、元気、元気。
シズさんは、私が下田初受講から帰った4ヶ月後から、ここに通ってきています。だから、一番古い会員さんですね。お化けのような人です(笑)。あの世に一旦行ったんですが、まだ早いからって、追い返されたんですから。しずさん、自分で話してください。
シズ・フチセ:
はい。1990年に心臓発作を起こしました。トイレで倒れて顔面を強く打ちました。心臓バイパスの手術をしなければいけないと言われました。でも、氣を受けていたらこうして元気になりました。2年前の77歳のときに車にはねられました。車の屋根に放り上げられて地面に落とされ、9本骨を折りましたが治りました。氣をたくさん受けているおかげです。
平野:
私が病院に駆けつけたら、意識不明でしょ。それが2日目には意識が回復して、3日目にはもう車椅子に座っているの。2ヶ月で退院して、翌日から、ここにまた毎日、ボランティアに来てくれるようになりました。ね、お化けでしょ(笑)。下田も生駒も受講しています。次は佐久間さん、ハワイの3世です。
エミリー・佐久間:
お祖父さん、お祖母さんが熊本の人です。68歳です。下田の最終回に参加しました。食事良かったです。どこも捨てるところがないのね、あれはとても素晴らしい。生駒にも2回行きました。行くたびに何か習う。スタッフも受講生も皆いい人。桜がいっぱい、日本は美しい国。肩から背中、腰がとても痛くて手が上がらなかった。それが良くなりました。それから、指の関節炎も治りました。
中川房子:
1937年生まれです。沖縄で結婚しましたが、夫が75年に亡くなって、8歳と6歳だった子供を連れて、夫の郷里のハワイに来ました。先代の会長さんがホテルで体験会を開いたときに行きました。人がいっぱいで、氣を受けて、泣いたりダンスしたり。スモークみたいなものが漂っていて電気を点けているのに暗いのです。そのときは全然信じられませんでした。
でも、94年位から道場に通っていますが、肝臓が弱くて、手も上がらなかったのが、良くなりました。氣は素晴らしいです。97年と98年に生駒に行きました。生駒から山崎に行くバスの中で、とてもお腹が痛くなりましたが、今の会長さんが手をずっと当ててくれて治りました。熱く焼けた鉄鍋を間違えてつかんで指先をヤケドしたことがありますが、ハイゲンキとピラミッドのおかげで痛みも止まり、翌朝は水ぶくれにもならずにキレイになりました。
以前は辛いことがあると、「何で私ばかり」と苦しかったけれど、氣を知って、「ああ、勉強しなさい」ということなんだな、と思えるようになりました。昔は臆病で、カウアイ島の夫のお墓に行くときトンネルを通るのですが、とても怖かった。でも、スティックヘッドを持って「お願いします」と言い、犬と一緒に行くと怖くないのです。スティックヘッドは、とても強いプラスの氣を私にくれています。ずっと真氣光を信じて生きていきます。

<後略>

(2003年2月4日 SASハワイ支部にて 取材 須田玲子)

柿坂 神酒之祐(かきさか みきのすけ)さん

昭和12年奈良県吉野郡天川村生まれ。大峯本宮「天河大辨財天社」第65代目の宮司を勤める

『本人が本当に自覚できるような喜びを得られることが大切』

本人が本当に自覚できるような喜びを得られることが大切

柿坂:
中川先生にお目にかかれるのを楽しみにしていました。以前、先代にお会いしたときは、本当に光栄でした。仲執りをして下さった龍村先生に感謝しています。
先代の中川先生についてはいろいろ素晴らしさを聞かせていただいていたのです。生駒の研修所での出会いは強烈な印象でした。元伊勢神宮の小野祖教先生が「中川雅仁」先生のお名前を付けて下さったこともお聞きして、深い縁えにしを感じました。その後すぐに亡くなられたとうかがい…。
中川:
今回、宮司さんと対談させていただくことになって、改めて先代との対談記事を見ましたら、その日は平成7年11月11日で、亡くなるちょうど1ヶ月前だったのですね。あのとき、父は宮司さんにお会できたのをとても喜んでいました。
「今度は是非、天河神社にうかがいたい」と言っていましたが、かなわずに亡くなったわけです。もしかして今回、私がこうして天河におじゃまさせていただけたのも、そういうことがあるのかな、と思いました。先代が、「僕が行けなかったから、お前、行ってこい」とか、たぶんそんなことだったかな、と。
柿坂:
私も先代を偲び、また、どんなことをお話ししたのだったかと、昨日ハイゲンキ誌を読み返してみたところです。
こんな事を申し上げたら失礼かと思いますが、私は、先代のご子息である中川先生をお迎えして、まるで自分の子供に会えたような、そんな気持ちです。お会いできて、本当に嬉しいんですよ。
昨日は、「とんど祭」でした。午前5時に鎮魂殿近くの川原で、昨年の御神符、お守り、注連縄などに鎮まります神々様に感謝し、御昇神賜り、お焚き上げし1年間の無病息災を御祈念申し上げました。
そしてこれから「牛王宝印神符神事」ですので、マスコミ、取材関係はすべてお断りしているのですが、ハイゲンキさんには即答で、「お会いする」と申し上げました。それほど親しみを感じているのです。
それに、天河には真氣光の関係の人たちにお参りいただいていますが、その人たちの行動、神さま仏様にお仕えしている姿を拝見すると、素直で実直で明るくて、素晴らしい氣を持っておられると感じます。真氣光は、特に宗教的に教えている会社ではないのに、非常に心が開かれている。素晴らしいなと思っています。
中川:
それは、どうも有り難うございます。私も嬉しいですが、先代が聞いたらさぞ喜んだと思います。大事な神事の前の、お忙しいときにお伺いしてしまって申し訳ありませんでした。「牛王宝印神符神事」は、どういったものなのでしょう。
柿坂:
1300年続いている「牛王のお祭り」といわれる神事です。元日の若水、そして1月2日、3日…のお水で墨を擦っておきまして一年に一度、1月16日の深夜、牛王宝印神符の版木に墨を塗り、一枚一枚和紙に刷っていくのです。
そして、翌日の17日の「牛王宝印神符神事頒布祭」で、参列者にお渡ししたその牛王札に神人合一の古儀に則し、朱印を押します。ここ(天河大辧財天社)では300枚しか刷りません。
中川:
一人ひとり、印刷ではない本物を丁寧に受けるからより有り難いんですね。神さまから「氣」を頂いているのですね。以前、「天河」という写真と解説集で拝見しましたが、厳かな雰囲気が伝わってきました。
柿坂:
もうそろそろ、全国各地から御宗敬者の方々が次々とご到着される頃でしょう。私どもは、1年の始まりの非常に厳粛な神事ですので、今日の午後これからですが、禊みそぎを致します。
中川:
禊、ですか。今、こちらまで下市口駅からタクシーで参りましたが、新川合トンネルを抜けましたら、また一段と寒さが厳しくなった感じで、道端につららが下がり、道も所々凍っていました。雪も残っていますが、この中で水をかぶられるのですか。
柿坂:
禊殿の奥の川に滝がありまして、その中に入っていきます。心身を清めさせていただくのです。寒いことは寒いですが、水が温く感じる境地になりませんとね。
テレビなどで、エイオーなどと気合いを掛けて水に入るような場面を目にすることがありますが、あれは本来の氣の流れではありません。気合いを入れれば楽ですが、周りの人があまりいい気持ちになれません。
私は、まあ簡単に言ってしまえばストレッチのような調整はしますが、なるべくソフトにソフトにと。いい風呂に入っているという気持ちになれれば、本当の水の氣をいただくということでしょう。

<後略>

(2003年1月16日 「天河大辧財天社」にて 構成 須田玲子)

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学第三外科、静岡県共立蒲原総合病院外科医長、都立駒込病院外科医長を経て、1982年、帯津三敬病院を設立。日本ホリスティック医学協会会長、調和道協会会長、北京中医薬大学客員教授などを歴任。主な著書に『ガンを治す大辞典』(二見書房)、『現代養生訓』『<いのち>の場と医療』(以上、春秋社)、『ガンになったとき真っ先に読む本』(草思社)など多数。

『明日はもう少し良くなっているという期待をもって眠る。そんなささやかな希望をサポートする医療を実現する。』

先代とのホピの村への旅は本当に楽しかった

中川:
すっかりごぶさたしてしまいまして。先生とお会いするのは、7年ぶりくらいですかね。
帯津:
それくらいになりますか。ロンドンのスピリチュアルヒーリングの研修ツアーに一緒に行って、天河神社のドクター・ヒーラーネットワークでお会いして、それ以来かなと思います。だから、そんなものですか。
中川:
先生には、先代の時代からいろいろとお世話になってきました。つい先日(12月11日)が、先代の命日でした。まる7年になります。早いものです。
帯津:
そうですか。もうそんなになりますか。懐かしいですね。
先代とは、あちこちの氣功の集まりでお会いして、面白いお話をたくさん聞かせていただきました。
ホピの村へは一緒に行きましたし。あれは、楽しい旅でしたよ。
中川:
この間、アメリカへ行ってきまして、ホピの村の近くまで足を伸ばしました。先代が帯津先生と一緒に来た場所だと、何となく感慨深く景色を見てきました。
帯津:
モーテルでカレーを作って食べたり、ああいう旅をするチャンスはなかなかありませんね。そうそう、帰りの飛行機では、ビジネスクラスだったのが、ファーストクラスへ移ってくれと言われて。儲かっちゃったなとうれしくなりました(笑い)。
中川先生のそばにいると、こちらまでウキウキしてくるようなところがありました。機内食でも、『こりゃうまい、うまい』って、本当においしそうに食べていましたから。
中川:
食べることが好きな父でしたから。
帯津:
会長は、先代が亡くなってその跡を継がれたわけですが、まったくの別世界から入ってこられて、すんなりとなじめましたか。
中川:
いやー、なかなか大変でしたよ(笑い)。もともとはエンジニアですから。一応、父の会社で働いて、亡くなる前は、あちこちついて歩いて、勉強のようなことをしましたが、それでもそばで見ているのと、実際に自分でやるのとは大違いですね。毎日が発見でしたし、いろいろな人に教えていただいて、何とかやってこれたかなと思います。
帯津:
7年と言えば、かなり経験も積まれて、たくましくなられたと思います。この雑誌(ハイゲンキ・マガジン)をいつも送っていただくので、楽しく拝見しています。雑誌を見ていても、勢いが出てきたなと感じます。
中川:
ありがとうございます。先生もずいぶんとお忙しいでしょう。
帯津:
忙しいことは忙しいですね。病院の仕事のほかに、講演があったり、水曜日は休みになっているのですが、埼玉県立大学に頼まれて、毎週一時間目に講義をもっているものですから、休んでもいられません。
横浜に神奈川看護大学というのがあるのですが、そこも毎年呼ばれています。とにかくその場所に体をもっていかなければならないことが多いので、時間のやりくりは大変ですね。
中川:
看護大学というと看護婦さんの卵ですね。これから医療に携わる人ですから、先生の話を楽しみにしている方が多いんでしょうね。
帯津:
すごく熱心ですよ。看護大学にはガン看護課程というのがあって、半年間でガン患者を介護するプロフェッショナルを養成しようという講義や実習があります。私は、ガンの東洋医学的な疼痛対策というテーマに呼ばれるのですが、東洋医学の話もするけど、ほとんどホリスティックな話に終始しますね。死の問題とか患者さんとの付き合い方を話すのですが、みなさん、喜んでくださいます。講義が終わると、控え室まで来てくれて、感想を述べてくれたりします。すごくうれしいですね。
埼玉県立大学でも、理学療法士科や社会福祉学科という医療関係に進む人たちに講義をしますが、彼らも熱心ですね。試験をやっても、力のこもったレポートを書いてきてくれます。やりがいはありますね。
中川:
ホリスティックな話ということですけど、どんなお話をされるのですか。
帯津:
死のことはもちろんですね。患者さんとは一方通行の関係ではいけないといった話もしますね。パワーをもって接する必要がある。だけど、パワーだけではいけない。ときには、一瞬にして弱々しくなれて、患者さんと痛みを分かち合えるようにもならなければならないといった話ですが、みんな一生懸命に聞いてくれます。
彼らには、自分たちが医療者として、日本の医療に貢献していきたいという志があるように思います。

<後略>

(2002年12 月13日 帯津三敬病院にて 構成 小原田泰久)

藤田 紘一郎(ふじた こういちろう)さん

1939年旧満州生まれ。東京医科歯科大学医学部教授。東京医科歯科大学医学部卒業、東京大学大学院修了。東大・テキサス大学助手、順天堂助教授、金沢医科大学教授、長崎大学教授を経て、1998年より現職。日米医学会議のメンバーとして、マラリア、住血吸虫、成人T細胞白血病やエイズ関連の免疫研究の傍ら、寄生虫とヒトとのより良い共生をPRする。82年、日本寄生虫学会小泉賞を受賞。95年『笑うカイチュウ』で講談社出版文化賞を受賞。他に『清潔はビョーキだ』(朝日新聞社)『原始人健康学』(新潮選書)など著書多数。

『ヒトはバイ菌とのバランスを保った共生が大切です』

寄生虫がアレルギーを抑えている !?

中川:
はじめまして。先生のご著書、大変面白く読ませていただきました。こういう本をお書きになる先生はどんな方なのだろう、是非お話をお聞きしたいと思っていました。
藤田:
それは、ありがとうございます。私は、はじめは整形外科の医者をやっていたのですが、36年前、熱帯病の調査団の団長さんとたまたまトイレで会っちゃったのが、ウンのつきなんですよ(笑)。
奄美大島の南の波照間島に行く調査団の荷物持ちに頼まれましてね。私は柔道部出身ですので、体力を見込まれたんでしょう。行ってみて、ビックリしました。陰嚢が巨大に腫れ上がった患者がいっぱい居たんですよ。見たこともない奇病でした。
これが、フィラリア病だったんですね。西郷隆盛さんがなった病気で、蚊が吸血すると大金玉になっちゃう。そういう人はうつるからと、山に追いやられたんです。当時の鹿児島県民の5%、波照間島では何と10人に1人が罹患していました。
中川:
えっ、そんなに居たんですか。すごく高い率ですねえ。
藤田:
そうなんですよ。医者が全く足りないところですし、私が、「これは、誰かがやらなければいけませんねえ」と言ったんです。私がやりたいというんじゃなくて、単なるお世辞、言葉の弾みでね。¥r¥nそうしたら、団長さんが、「おお、君はこれが好きらしいから、やれ」と無理矢理、東大の伝染病研究所に入れられました(笑)。私の意志も弱かったのですけどね、こうして寄生虫学とかバイ菌と付き合いが始まったのです。
でも、研究しているうちに、日本はキレイな社会になっちゃって、バイ菌の専門家なんか、どこの大学も欲しくはないというわけですよ。
それで、三井物産木材部の嘱託医になりました。日本の企業が一斉に海外に進出し、ジャングルに入って木材を切り出していた時期です。そこで熱帯病になるでしょう、そういう人たちを診断し、治療をするという契約をしたんです。
インドネシアのカリマンタン島に赴任したんですが、行ってみて驚きました。現地の人は川でウンチをして、同じ川の水で口をすすぎ、顔を洗っているんですね。こんな生活はイヤだと、6ヶ月で辞表を叩きつけて帰国してしまいました。
ところが、東京に戻ったら、こんどは妙にそういう社会が懐かしくてね。非常に恋しくなりました。人々が、ものすごく優しいんです。アトピーも喘息もない。どうしてだろう…と、そこから始まりました。この30数年間、毎年インドネシアに行って1ヶ月滞在しています。若い頃は、1年の三分の二は海外生活でした。
発展途上国の70ヶ国ほど訪れました。現地の飲み水の検査をし、感染症の調査をしました。そして、その一方で、何故アレルギー疾患がないのかを調べたら、みんな寄生虫を持っていたんですね。そうか、寄生虫がアレルギーを抑えているんじゃないかなァ、って。
中川:
なるほど。現地調査で閃いたのですね。
藤田:
私は、高校まで三重県多気郡明星村というところで過ごしました。親父が国立の結核療養所の所長を70歳までしていましたから。結核は感染しますので、ド田舎に病院があるんです。
中川:
「多気郡」ですか。氣が多いところ…いい名前ですね。
藤田:
私はあまり氣のことは知らないのですが、感覚として氣は大事だと思っています。いいところでしたよ、私の故郷は。野山を駆け回って、杉鉄砲で遊んでいましたが、誰も花粉症なんかになりませんでした。その頃、みんな回虫を持っていたんですよ。その経験から、寄生虫だな、って思ったのです。
戦後日本人の回虫感染率は、70%を超えていました。しかし、進駐軍が日本政府に働きかけて、集団駆虫を徹底的に行いましたから感染率は急減し、60年代には20%になり、70年代には2%、80年代には0・2%ですよ。
それでです、このグラフを見てください。寄生虫の感染が低下するとともに、アレルギー疾患が増加していることを、見事に表しているでしょう。
中川:
本当ですね。ぴったり一致しています。
藤田:
回虫が珍しくなると、小学校の検便で回虫の感染が見つかった子は、イジメに遭うようになりました。不潔なヤツ、キタナイって言われて。社会が清潔志向になるにつれ、清潔でないものを排除するようになってくる。これは非常に問題です。
たとえば、浮浪者たちのことが、気になって仕方がなくなる。その人と結婚したり、友達になるということじゃないんだから、放っておけばよいのに、排除したくて叩いたりしちゃう。
少しでもみんなと違うものだとイジメてしまう。異質なものを排除する思想は、危険です。みんな、目立たないようにと、個性尊重なんて言いながら、全く逆な方向に行ってしまうのですね。同質化していくと、社会全体が非常に弱くなってしまいます。

<後略>

(2002年11月20日 東京医科歯科大学藤田教室にて  構成 須田玲子)

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