05月「本多 敏行」「豊永 ひとみ」さん
本多敏行 ・豊永ひとみ(ほんだ としゆき・とよなが ひとみ)さん
本多敏行( ほんだ・としゆき )
1950年群馬県生まれ。1969年Aプロダクション(現シンエイ動画)に入社。1979年『ドラえもん のび太の恐竜』で作画監督。1982年仲間7人と独立して「あにまる屋」を設立。2007年豊永氏が(株)エクラアニマルの社長になったあと、自主製作、社会貢献活動にも力を入れる。
豊永ひとみ( とよなが・ひとみ )
2007年、前身会社の「あにまる屋」を引き継ぎ、株式会社エクラアニマルを設立。代表取締役となる。「子どもたちに本当に見せたいアニメを手作りで、心をこめて作りたい」という目標に向けて、日々、奮闘している。同社は、2019年、良心的な漫画等の芸術的活動に贈られる「やなせたかし文化賞」を受賞している。
『果たしてアニメは世の中の役に立っているのだろうか?』
仲間とお酒ばかり飲んでいた若いころ 。筋骨隆々で
- 中川:
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今回はお二人のゲストにお話をうかがいます。西東京市にあるアニメの制作会社「エクラアニマル」の社長・豊永ひとみさんとアニメーターの本多敏行さんです。「それいけ!アンパンマン」とか「ハクション大魔王2020」といったテレビ番組を作ってきたそうです。
私がこのお二人に興味をもったのは、株式会社ですから商業的な活動をするのは当たり前ですが、それ以上にこの会社は、アニメによって少しでもいい世の中を作ろうという思いで活動しているとお聞きしたからです。
会社ができたのが1982年。そのころはまだ豊永さんはかかわっていなくて、本多さんと仲間の方たちで立ち上げられたそうですね。まずは本多さんからお話をお聞きしたいのですが、本多さんは精悍なお顔立ちをしていて、立派な白髭で、私がイメージしていたアニメーターとはまるで違っています(笑)。
アニメーターの草分け的な存在だとお聞きしていますが。 - 本多:
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もう60年近くもやっていますから。スタジオジブリの宮崎駿さんは先輩で一緒に仕事をしたこともあります。当時からすごい方でした。
東京に来る前は群馬県の農業高校生でした。やっていたのは林業ですね。山へ入って、下刈り作業や木の伐採、測量とか、そんなことをやっていました。
山登りが好きだったので卒業後は公務員になって国有林の管理でもやろうと思っていたのですが、見事に採用試験に落ちてぶらぶらしていました。 - 中川:
- 当時から絵を描くのは好きだったのですか。
- 本多:
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嫌いではなかったですね。当時、グループサウンズが流行っていて、女の子に人気タレントの似顔絵を描いてあげると喜ばれるのがうれしくて描いていました。あとは、人が亡くなったとき、まだ写真を伸ばす技術がなかったのか、小さな写真を見ながら遺影を描いてほしいと頼まれたこともありました。大人たちがお小遣いをくれるので喜んでいました。
そんな程度だったのですが、高校の先生があいつは絵が好きそうだと言って、ご子息の知人で東京でアニメ制作をしている方に紹介してもらい、上京することになりました。テレビで『巨人の星』が大人気だったころですよ。 - 中川:
- どうでしたか。アニメを制作するというお仕事は。
- 本多:
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びっくりですよ。みんな、すごく絵が上手で、やっていけるのかと不安になりましたね。先輩がいろいろ教えてくれて徐々に仕事もできるようになるのですが、東京の生活は楽しくて、とにかくお酒を飲むのが好きでしたから、飲み歩いてすぐに給料がなくなってしまうんですね。
アニメの仕事をさぼって日雇いの土方のバイトをして飲み代を稼いでいた時期もありましたね(笑)。いい時代でした。林業をやっていましたから、力仕事はお手のものです。120キロもあるガスボンベを一人でかついで運んだら、給料を倍出すからこないかとスカウトされたこともありました(笑)。 - 中川:
- 見た目どおりの豪傑ですね。
- 本多:
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そのころはアニメの仕事と言ってもだれも知らないですよ。何をしていますかと聞かれて「アニメーターです」と答えたとき、「東京ガスに勤めているの」と言われたこともあります。ガスのメーターと関係あると思ったんでしょうね(笑)。
でも正直、楽な仕事だなと思いました。林業だと炎天下で汗だくになって働かないといけませんから。それが、仕事場はクーラーが効いているし、疲れたら内緒で一杯飲んで(笑) - 豊永:
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ちょっと補足しますね。今の話だけだと、ただの飲んだくれに聞こえますが、いい仕事もしているんですよ。
本多さんは、1980年に公開されたドラえもんの第一作映画『ドラえもん のび太の恐竜』の作画監督を務めました。 - 本多:
- そんなこともありましたね(笑)
- 中川:
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本多さんはあまり自慢話をしたがらない方なんでしょうね。何しろ今のアニメの隆盛の基礎を作られた人ですから、自慢できることはいっぱいあるのに。
独立されたのは1982年でしたね。 - 本多:
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仲間7人で「あにまる屋」という会社を作りました。
みんな個性的で、また酒の話になりますが、しょっちゅう飲んでいましたね。大みそか、7人で一晩中飲んだときには一升瓶が14本空になりました。旅行に行ったら、旅館のお酒がなくなったこともあります。
お酒だけじゃないですよ。仲間になるには40キロのバーベルを上げないといけません。みんな筋肉隆々ですよ。それで、「あにまる屋」という社名にしました。 - 豊永:
- アニメの会社で「あにまる屋」となると、かわいい動物たちが仕事をしているというようなイメージがあるじゃないですか。ウサギとかリスとか。でも、あの7人だと野獣でしたね(笑)
- 本多:
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実際、台湾の新聞に紹介されたときは「野獣屋」でした(笑) - 豊永:
- その7人の中には京都アニメーションの取締役になった木上益治さんもいました。彼は京アニ放火事件で亡くなってしまって、本当にショックでした。
- 本多:
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大阪に住んでいる母親の面倒を見たいと関西に帰ったんですね。彼は天才アニメーターでした。今回、彼が残してくれた原作をアニメ化することもできました(『小さなジャムとゴブリンのオップ』)。
初代の社長を務めたのが真田芳房という先輩で、一人だけインテリでした。いつも本を読んでいました。山本周五郎とか山頭火とか宮沢賢治が好きでした。それにピアノまで弾けましたからね。彼も酒好きでしたから肝硬変で亡くなりましたが、とても残念でした。
私の目標は一生の間に小学校のプール2杯分のお酒を飲むことでした。しかし、1杯分くらいでクモ膜下出血で倒れました。奇跡的に復活して後遺症もなくて今も絵を描くことができますが、まあ飲み過ぎは良くないですよ(笑)。
会社も2007年に危なくなりました。私が二代目の社長をやっていたので仕方ないですね(笑)。一番年上だからというだけの理由でやらされて。
それを救ってくれたのが豊永さんだったわけです - 中川:
- ここで豊永さんが登場するんですね。
- 豊永:
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救ったわけじゃないですよ。成り行きでしたから(笑)。
だいたい、私はパートのおばさんだったんですよ。会議があって、次の社長はどうしようということになって、だれも発言しないし、そんなときにだれかが「豊永さんがいいよね、とりあえずいろんなことわかっているから」って言い出して、みんなが「そうだ、そうだ」って顔で私を見るんですね。
「えっ、私ですか」って思わぬ展開にびっくりしたのを覚えています。でも、だれかがやらないといけないし、会社も前へ進まないといけないので、やれるかどうかはわかりませんでしたが、とにかくやるしかないという思いで引き受けました。
いろいろな人に助けられて、何とか20年ほど続いています。 - 本多:
- 言い訳になりますが、アニメーターが経営をしてもうまくいかないんです。絵を描くことばかりに夢中になって、お金のことなんか考えませんから。
- 中川:
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豊永さんはどうしてアニメの会社に入られたんですか。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
西東京市のエクラアニマルにて 構成/小原田泰久
そうなんですよ。太極氣功18式のビデオのカバーに使いたいので書くように言われて、何枚か書いたうちの1枚を先代が選んで、いつの間にか、看板に使われるようになったのでびっくりでした(笑)。
貴恵は私とは10歳違います。赤ん坊のときには、私がおしめを取り換えたこともあります(笑)。
2011年の大震災のあと、老人ホームへ行くことが多くなり、母が通っていたデイサービスの施設でも歌っていました。
今日はよろしくお願いします。スティーブさん、ナコタさんにご縁ができたのは、昨年の6月、会長がトロントへ来られましたが、その3週間ほどあとでした。あのとき、会長からたくさんの氣をいただいて、それ以来、すてきな方とお会いする機会がとても増えました。ありがとうございました。
宮田雪(きよし)さんという映画監督が仲立ちしてくれました。宮田監督は、ホピ族の置かれた状況やメッセージを『ホピの予言』という映画にして世に伝えようとしていました。先代も、宮田監督の活動に賛同して、応援していたようです。ホピ族の村の周辺の地下には、たくさん埋まっていて、ホピ族の人やナバホ族の人たちが、その採掘に従事して、たくさんの人が被曝しました。そのウランが、日本に落とされた原爆の原料となりました。そのことはホピの予言でも言われていたそうです。
<後略> 
思い入れも、思い出もいっぱいですよ(笑)。もう25年ですか。20周年のときにもお話ししたかもしれませんが、先代が下田の沖ヨガ研修所を訪ねて来てくださったときのことはよく覚えています。真っ白な髪の毛、白い髭。あの風貌は、一度見たら忘れられません。何か、すごい力をもっておられる方だと、そのとき感じましたね。最初にお会いしたのは1989年の年末で、翌年の1月にも道場にお越しになりました。最初のときに、沖ヨガの創始者である沖正弘先生の本をお渡ししたのですが、それを全部、読んでくださって、何か感じるところもあったようで、この研修所で医療氣功師を養成する講座を開きたいというお話をされました。2000人の医療氣功師を養成するのが急務なのだとおっしゃっていました。
そうですね。ゼミで、「人間とは何か」に迫るテーマを探してくるよう、学生たちに課題を出したら、一人の学生が「真氣光」を選んできました。合宿があるので先生もぜひ行ってみてくださいと言うので、素直に「はい」と言って、受講しました。私は、学生時代から坐禅をやり、長く内観の指導もしていますので、氣とか心のことについてはとても興味がありました。でも、坐禅にしろ、内観にしろ、静かに自分を見つめるものですから、下田での合宿のあのすごい状態にはびっくりしましたね。
音大の1年生のときでした。先代から、精神修養だから来いって言われまして…。氣は、実験台として、よく受けさせられていました(笑)。氣を受けるといろいろと反応もありましたが、それが精神的なものともかかわっているとは、あのころは思っていませんでした。精神的に強くなれるなら行こうと思って、参加しました。
20年もたちましたか。早いですね。先代は、セルソさんというブラジル人の医師に連れられて道場へやって来られました。セルソさんは、長年沖ヨガを学び、リオで自然医療のクリニックを開業していました。セルソさんは、先代がブラジルで行なったセミナーに参加して、ずいぶんと感銘を受けたみたいで、沖ヨガ道場を紹介したようです。先代は、氣功師を養成する講座をやりたいのだということをおっしゃっていました。アメリカツアーに一緒に行ったお弟子さんたちはみなさん手から氣が出るようになったそうです。しかし、しばらくするとできなくなってしまうので、合宿制の講座を計画しているのだけれども、研修所を貸してくれないかとおっしゃいました。ゆっくりとお話をうかがい、先代の人柄も医療氣功師を養成するという趣旨も、私にはすごく理解できることだったので、協力させていただきますということになりました。
私は16回の講座に参加しましたが、さまざまな問題の原因は、外にあるのではなくて自分の中にあるのだと気づけたのは、自分の人生にとって大きな出来事でした。とても充実した1週間でしたね。朝、ジョギングから帰ってくると、みそ汁だけの朝ご飯、昼は玄米菜食、夜は麺類、量はいつも食べる半分以下でした。それでも、そんなに空腹感は感じなかったですね。先代は、「氣を取り入れているからお腹がすかないんだ」って言っていましたけどね。氣を生活の中に取り入れると、意識がどんどんと変わっていくのには驚きました。
渡米して45年になります。ニューヨークで真氣光やヨガの教室を持っていて、またハイゲンキを取り入れた治療もしています。林先生は数年前に私の所にいらして、それ以来、ずっと親しくさせていただいています。先生は多岐にわたってご活躍なさっておられますが、ハイゲンキを当てると疲れないと喜んでおられるんですよ。私は3年前から、林先生の「風水」を学んでいますが、とても楽しくて勉強になります。
「氣」は何であるか、人間が動くのはどうしてでしょう。科学者は説明が出来ます。「骨、神経、筋肉に脳からメッセージが伝えられて動くのだ」というように。もちろん、科学や医学のお蔭でいろいろなことが分かってきました。でも、世の中は日々刻々と変化しています。科学の分野でも違う解釈もあるし、とても早いスピードで変化もしています。
心はとても大事です。考え方を前向きにすること、自分の気持ちをいい方向に変えていくこと、それはとても大切なことです。
ありがとうございます。今日は、教室を見ていただいた上、楽しくお話ができそうで心がウキウキしています。
私も、このような対談の場だとは知らずにおうかがいしたのですが、ここで平野さんの知り合いに出会えるとは驚きです。
昨日、今日(2月3日、4日)とセミナーを開催して大盛況でしたが(編集部注・セミナー開催の記事は本誌62頁に掲載)、その後、こうして座談会の時間をいただき大変嬉しく思っています。
こちらはロバートさん、シズさん御夫婦です。ロバートさんは85歳。4年前に糖尿病の影響で足の動脈のバイパス手術をしなくてはならなくなり、うちの氣のクラスに参加するようになりました。今は、太極氣功十八式などを教えて、クラスをリードしてくれています。手術はしなかったけれど、元気、元気。
私が病院に駆けつけたら、意識不明でしょ。それが2日目には意識が回復して、3日目にはもう車椅子に座っているの。2ヶ月で退院して、翌日から、ここにまた毎日、ボランティアに来てくれるようになりました。ね、お化けでしょ(笑)。下田も生駒も受講しています。次は佐久間さん、ハワイの3世です。
1937年生まれです。沖縄で結婚しましたが、夫が75年に亡くなって、8歳と6歳だった子供を連れて、夫の郷里のハワイに来ました。先代の会長さんがホテルで体験会を開いたときに行きました。人がいっぱいで、氣を受けて、泣いたりダンスしたり。スモークみたいなものが漂っていて電気を点けているのに暗いのです。そのときは全然信じられませんでした。