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3月「髙信 幸男」さん

髙信幸男

髙信 幸男(たかのぶ・ゆきお)さん

1956年茨城県大子町生まれ。水戸、札幌、さいたま、甲府、東京、横浜の法務局に勤務し、2017年(平成29年)に退官する。高校時代から名字の研究をし、名字の由来やエピソードを本に書いたり、講演会等で発表している。多くのテレビやラジオの番組にも出演している。主な著書『難読稀姓辞典』『名字歳時記』(日本加除出版)『トク盛り「名字」丼』(柏書房)など。

『すべての名字に ご先祖様の思いがのっている』

四月一日と書いて 「わたぬき」さん。 小鳥遊で「たかなし」さん

中川:
茨城にお住いの私どもの会員さんが、髙信先生の講演をお聞きしてとてもいいお話だったので対談してみてはいかがですかとすすめてくださいました。さっそく先生の書かれた『トク盛り「名字」丼』(柏書房)を読ませていただきました。面白かったですね。名字がこれほど奥深いものとは思いませんでした。
髙信:
ありがとうございます。私は16歳のときに名字に興味をもちましてね。以来、半世紀近く名字を研究しています。珍しい名字は限りなくあって、珍名を探すのは昆虫や植物の新種を追いかけるのと同じですよ。この名字のルーツは何だろうとか、興味は広がっていくし、終わりのない研究ですね(笑)。
中川:
16歳のときに名字に興味をもたれたのですか。髙信さんはもともと法務局に勤める国家公務員で、今は司法書士をしておられるので、その関係で名字研究を始めたのだと思っていましたよ。
髙信:
法務局は戸籍や不動産登記に関する業務を行っていますから仕事絡みで名字に興味をもったと思われますが、そうじゃないんですね。仕事と名字研究とはたまたまの縁でしかありません。
中川:
16歳というと高校生ですが、どんなきっかけで名字に興味をもたれたのですか。
髙信:
私が生まれたのは茨城県北部の大だい子ご 町という福島県や栃木県と接する小さな町です。かつては人口4 万2 0 0 0 人くらいの町だったのですが、今は1万5000人ほどに減りました。
日本三大名瀑の一つである袋田の滝が有名ですが、私の生家は滝の上、源流にありました。とんでもないところでしょ(笑)。
中川:
滝の上ですか?
髙信:
そうですよ。観光客は下から滝を見上げていますが、断崖絶壁の上に家があるなんてだれも想像しないと思います(笑)。ここで生まれなければ名字の研究などやってなかったでしょうね。
中学校のとき、生徒が360人くらいいましたが、名字は30くらいしかありませんでした。みんなが同じ名字で下の名前で呼び合っていました。そのころは、名字の数はそんなにないと思っていました。
高校に入ってびっくりしました。50人のクラスで45の名字があったんですね。みんな名字がバラバラ。こんなに名字ってあるの? と思って、電話帳で町の名字を調べ始めました。意外に多くて数百種類はあったかな。小さな田舎町でこんなにあるなら日本全国ではどれくらいあるだろうと興味が湧いてきて、電話帳を丹念に見るようになりました。
中川:
それで珍名さんに出あうんですね。
髙信:
あるとき電話帳で「四月一日」という名字を見つけました。最初は、どうしてこんなところに日付があるのだろうと不思議に思いました。でもよく見ると名字らしい。それも渡辺さんが並んでいるあとにポツンとあるんですね。なんて読むのだろう?
俄然、興味が湧いてきました。疑問に思うとすぐに解明したくなるたちで、すぐにそこに出ている電話番号に電話をしてみました。そしたら「わたぬきです」と電話に出られたんです。四月一日と書いて「わたぬき」と読むんだ。私にしてみればとんでもない発見をした気分でした。すぐにどうしてそんな読み方をするのですかと質問しました。先方は迷惑がらずにていねいに答えてくれました。
中川:
確かに四月一日という名字があるとは思わないし、だれも「わたぬき」なんて読めないですよね。
髙信:
由来を聞いて、こんなふうに名字がつけられることがあるんだとまたまたびっくりしました。4月になると綿入れから綿を抜いたからというのが理由の、トンチのきいた名字なんですね。それでますます興味が出てきたというわけです。
中川:
名字をつけるにも遊び心があったんですね。「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませる名字もあるそうですね。
髙信:
1872年(明治5年)に全国的な戸籍制度(壬申戸籍)ができ、1875年(明治8年)には全国民が戸籍に名字を登録しなければならなくなりました。そのときに、先祖から伝わった名字をそのまま役所に届けを出すのではつまらないと考えた人がいたようです。
「たかなし」さんもその1人で、もともとは「高梨」と書いていましたが、高梨を「鷹無」と書き換え、さらに鷹がいなければ小鳥が自由に遊べるということで「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませたようです。こんなユニークな発想で名字をつけるのは日本人くらいです。
中川:
世界でも日本の名字の数は特に多いそうですね。
髙信:
お隣の中国は人口が14億人もいるのに名字の数は4000種類程度、韓国は約5000万人の人口に対して名字の数が500くらいです。日本は約13万種類もの名字があるんですね。佐藤、鈴木、高橋がベストスリーで、ベスト10だけで日本の人口の1割を占めますが、たった1軒だけだとか数軒しかない名字がたくさんあります。

<攻略>

2020年1月 22日 茨城県水戸市の髙信幸男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

日本全国歩いた! 調べた! トク盛り「名字」丼 髙信幸男 緒 (柏書房)

2月「青野 豪淑」さん

青野豪淑

青野 豪淑(あおの・たけよし)さん

1977年大阪府生まれ。高校を卒業後、食肉店に勤めるがBSEのあおりで転職。住宅や宝石販売などの営業をする。26歳で4000万円の借金を背負い自殺を考える。生き直そうと思い、ヤンキーや引きこもりなどの若者を救うために2006年にIT企業「株式会社フリースタイル」を設立。著書に「ヤンキーや引きこもりと創ったIT企業が年商7億」(朝日新聞出版)がある。

『どん底からの志。 ウルトラマンになって世の中を良くする』

26歳のとき、4000万円の借金を背負って死のうと思った

中川:
青野さんのことは青山学院大学名誉教授の石井光あきら先生から、面白い人がいるので対談してみてはどうだろうとご紹介いただきました。さっそく青野さんの書かれた『ヤンキーや引きこもりと創ったIT企業が年商七億』(朝日新聞出版)という本を読ませていただきました。本当に波乱万丈の人生ですよね。内観で人生が変わったといったことも書かれていました。
青野:
石井先生はすばらしい方です。偉い人なのに威張らないし、いつも静かで冷静で、尊敬しています。
中川:
青野さんの20代のころのジェットコースター人生、すさまじいですね。
青野:
クズの人生でしたね(笑)。小学校のときにお金があれば幸せになれるって信じていましたし、そのころからお金を稼ぎたくてたまりませんでした。
高校を出て肉屋に就職したのですが、早く仕事を覚えてたくさん稼ぎたかったので内定が決まってから毎日お店に行きました。その甲斐あって、入社後はだれよりも高い評価をもらって「肉屋のスーパースター」と呼ばれました(笑)。
ところが2001年にBSE(牛海綿状脳症)が流行って、肉が売れなくなりました。自分が店長になる辞令も出ていたのに、その話も立ち消えになり、一気にやる気をなくしてしまいました。
肉屋は3年で辞めました。もっと稼ごうと住宅販売の会社を皮切りに、羽毛布団、浄水器、宝石と、会社を転々としながら営業の腕を上げていきました。とにかく片っ端から販売して月に200~300万円を稼いでいましたから大成功ですよ。
当時は調子に乗っていました。まわりを見下していましたから。年上の人に対してよく噛みついているような奴でした。まあ、最低のクズですよ。
中川:
そんな青野さんが多額の借金を背負って自殺しようとまで思いつめたわけですよね。
青野:
もっと成長したかったんです。成長するには勉強をしないといけないと思い、高い教材を惜しげもなく買いました。大阪から東京まで高額のセミナーを受けに通ったり、自腹を切って東京から講師を呼んだりもしました。気がついたら稼いだお金はすっからかん。どんどん借金がかさみました。
自分はいつでも稼げるという思い上がりがありましたから、そんなもんすぐに返したると、さらに借金を重ねてしまうわけです。ところが、いざ営業の仕事につくと、これまでと違ってまったく成績が伸びない。売ろう売ろうと利益だけ考えるから売れないんですね。
いつの間にやら借金は4000万円。26歳のときでした。
電気もガスも止まってしまったので水風呂に入っていました。出勤するとまわりから臭いと言われる。そんなこと気にしなくていいのに、落ち込んでいるときはいろんなことが気になってしまって、今でも言われた事を覚えているぐらいです。
玄関にはいつも借金取りがいました。借金を毎月返しながら生活しようと思うと、毎月200万くらい稼がないといけませんでしたが、そんな状態でやる気を出せと言ってもでないんですよ、当時3階に住んでいましたが、3階の窓からパイプを伝って出勤していました。
気が沈んで沈んで沈みまくって、その先に行くとどうなると思いますか。死のうと思うと、心が浮かれてくるんです。死ねば借金取りから逃げられると思うとちょっとルンルン気分になるんです。早く生まれ変わって次は王子様に生まれたいなみたいなね(笑)。
これは自殺の体験をした人しかわからないと思います。でも、ほとんどの人は亡くなっていますので、そのことを話せるのはぼくくらいですかね(笑)。
中川:
借金取りが玄関で待ち構えているわけですね。
青野:
顔を合わせると胸倉をつかまれて脅されるわけです。最初は自信過剰だったから、「すぐ返したるわ」とタンカを切っていましたが、だんだん自信もなくなってきて、3階から出るような情けない状態になってしまいました。
自殺を考えるころになると、友だちや姉から弁護士に支払いをせんとあかんからとウソをついてお金を借りたりしていました。
母や姉が料理を作って持って来てくれたことがありました。そんなときも、なんでお金をもってきてくれへんのや、と思っていました。そう思う自分が嫌で自己嫌悪に陥ったりと、完全に悪循環でしたね。
中川:
どんどん暗闇に引っ張られていくって感じだったんでしょうね。
青野:
こんなクズはおらんほうがええ、と心底から思いましたよ。

<後略>

2019年12月3日 東京・日比谷松本楼にて 構成 /小原田泰久

著書の紹介

「ヤンキーや引きこもりと創ったIT企業が年商7億」 青野 豪淑(著) 朝日新聞出版

1月「木下 勇」さん

木下勇

木下 勇(きのした・いさみ)さん

千葉大学大学院園芸学研究科教授。工学博士。1954年静岡県生まれ。東京工業大学工学部建築学科卒業。同大学大学院社会開発工学専攻の博士課程を修了。子どもをはじめとする住民参加の街づくり、持続可能な都市開発などを推進している。主な著書に『遊びと街のエコロジー』(丸善)『ワークショップ 住民主体のまちづくりへの方法論』(学芸出版社)がある。

『子どもたちが外で遊べる街づくり。 住民主体の地域開発を!』

仮想空間で遊ぶ子どもたち。 生の人間関係を学べずに成長する

中川:
木下先生の書かれた『遊びと街のエコロジー』(丸善)という本を読ませていただきました。先生は街づくりをご専門とされていて、子どもたちが外で遊ばなくなったことに警鐘を鳴らされています。20年以上前の本ですが、そのころから子どもが外で遊ばなくなっていたんですね。
木下:
ずっと調査を続けていますが、子どもが外で遊ばない傾向はますます顕著になっています。都市部で8割、地方都市で7割、農村で6割の子どもが外では遊ばないという結果が出ています。中には「どうして外で遊ばないといけないの?」と質問してくる子もいます。とても危機的な状況だと思いますね。
中川:
家で遊ぶことしか知らなくて、外で遊ぶなんて考えてもみないのでしょうか。私が子どものころ、昭和40年代50年代は、学校が終わると暗くなるまで外で遊んでいましたからね。
木下:
子どもの成長にとって遊びは大事だということをずっと提言しているのですが、アカデミックな世界ではエビデンス(科学的根拠)が必要で、なかなか受け入れてもらえません。動物を使った実験はあっても、人間で調べたデータはないんですね。
海外では、心理学や公衆衛生の分野で研究が行われていて、やる気だとか主体性、何かに挑戦する意欲といった「非認知能力」は遊びによって培われるといったことは言われているのですが、日本ではそういう研究があまりありません。
成長に遊びが大切だということは、学術的なデータがなくても、わかる人には感覚的にわかるんですけどね。
中川:
子どもを取り巻く環境も変わってきましたしね。都会だと外に遊び場があまりありませんし、外で遊ぶよりも家でゲームをしているほうが楽しいわけですから。
それに、親も外で遊んでいると事故や犯罪に巻き込まれるという不安があるんでしょうね。
木下:
共稼ぎの家庭のための学童保育のみならず、親が子どもを自由に遊ばせることに犯罪や事故の心配以外に何もしないことに不安で習い事に預けるわけです。その傾向は低年齢化しています。子どもは与えられた環境の中で過ごすことになります。学校が終わったら自由に遊ぶということはなくなりました。
親もゲームで遊ぶ時代に育っています。子どもたちは、小さいころからスマホを見ています。楽しく遊べる電子機器は生まれたときからそばにありましたから、ゲームばかりの毎日に何の抵抗もないでしょうね。
ゲームメーカーも興味をそそるものを作ります。子どもたちの遊び場は架空の空間なんですね。たとえば、バーチャルな世界で秘密基地も作れるわけです。仮想の空間の中で一緒に基地を作る仲間を集めます。実際には会ったことのない仲間です。
すると、ほかのグループが、秘密基地を乗っ取ろうと、外から攻撃を仕掛けてきます。そこで戦いが始まります。会ったこともない仲間が力を合わせて、会ったことのない敵と戦います。
実生活上の遊び友だちはいないけれども、オンライン上で遊ぶ友だちはたくさんいるというのが、現代っ子たちの当たり前の生活になってきているんですね。
人間社会の進んだものは子どもが先取りします。昔、炭鉱に入るときにはカナリアを一緒に連れて行きました。有毒ガスが発生すると、カナリアは人間よりも早く影響を受けるので、カナリアが苦しみ出したら危険だと判断して引き返せばいいのです。
子どもは常にカナリアのように環境の変化の影響を受けて、場合によっては犠牲になってしまいます。
中川:
みんながゲームに夢中になる世の中がどうなっていくかは、子どもを観察していればわかるということですね。でも、そうなってからは遅すぎますよね。
木下:
その通りですね。小さいころに喧嘩をするとか、困ったことがあったら助けを求めるとか、そういう体験があって人間関係を学んでいきます。でも、外遊びをしなくなって、人とどうかかわっていいかを学ぶ機会が少なくなっているのだと思います。
そのせいか、すぐに心が折れてしまう若者が多いですね。大学の研究室でも、学生の指導には気を使いますよ(笑)。
私たちのころは、教授からしょっちゅう雷を落とされていて、叱られるたびになにくそと思ってがんばりましたが、今の学生はきつく叱ると学校へ来なくなってしまうこともあります。アカデミックハラスメントなんかが問題になることもあって、叱り方が難しくなっていますね。
よその研究室では、学長にクレームを言う学生がいたり、親まで出てくることもありました。中には指導教官からのひどいアカハラもありますから学生だけの責任ではないかもしれませんが、それにしても、ストレスに弱くなっているのは間違いないですね。
子どものときに失敗したりけんかをしたりけがをすることで不屈の精神が養われるのだと、私は思っています。

<後略>

2019年 11月6日 千葉県松戸市の千葉大学園芸学部の木下教授の研究室にて 構 成/小原田泰久

著書の紹介

「ワークショップ住民主体のまちづくりへの方法論」 木下勇(著) 学芸出版社

12月「柳沢 三千代」さん

中川雅仁

柳沢 三千代(やなぎさわ・みちよ)さん

大阪府出身。青二プロダクション所属。日本大学芸術学部演劇学科卒。在学中に如月小春主宰の劇団「NOISE」に旗揚げより参加、卒業後声優の道へ。【アニメ】『それいけ!アンパンマン』カレーパンマン役、『機動戦士ガンダムSEED』エリカ・シモンズ役、上田トシコ原作『フイチンさん』フイチン役、ちばてつや原作『風のように』語り...他。【TV】フジテレビ『ライブニュースイット』特報ナレーション..他。演劇ユニット「WAKU」プロデュース、朗読ユニット「はんなりラヂオ」で、舞台の活動も続けている。

『アニメや舞台からみんなを元気にする氣を届ける』

夢は小学校の先生‥ ひとつひとつの ご縁が繋がって声優に

中川:
これまであまりご縁のなかったお仕事の方をゲストにお迎えしました。声優さんの柳沢三千代さんです。
『それいけ!アンパンマン』という子どもたちに大人気のアニメがありますが、柳沢さんはカレーパンマンの声をずっと演じておられるんですよね。
柳沢:
『それいけ!アンパンマン』は1988年10月3日に放送が始まりました。カレーパンマンは第2話からの登場で、それ以来の付き合いになります。おかげさまで、この10月から32年目に突入しました。長く続く番組にレギュラーで出演出来る事に感謝しています。
中川:
30年以上も続くアニメってそんなにはないと思うのですが。『サザエさん』とかは長いんでしょうけどね。
柳沢:
『サザエさん』が50年、『ドラえもん』が40年、それに続くのが『アンパンマン』、そして『ちびまる子ちゃん』も30周年です。
中川:
長く続くにはきっと愛される理由があるんでしょうね。最初からこんなにも続くと思っておられましたか。
柳沢:
いえ当初は、先輩方もワンクールと思っていらしたようです。新人の私は只々必死で、先の事を考える余裕は全くありませんでしたが(笑)。ワンクールというのはだいたい3か月です。原作者のやなせたかし先生もびっくりされていました。
中川:
ほのぼのとした内容で、ストーリーもすごくわかりやすいですからね。愛すべきキャラクターもたくさん出て来るし。子どもたちはこういうアニメが好きなんでしょうね。
柳沢:
親御さんたちが、ディズニーのアニメを見せたいと思っても、なぜか子どもたちは、アンパンマンを見たがるようなんです。いったい何がそうさせるのか、ちっちゃな頭の中をのぞいてみたいですね(笑)。
中川:
カレーパンマンというのはどういうキャラクターなんですか。
柳沢:
頭がカレーパンで出来ていて、空腹の人がいると、カレーを振る舞うんです。性格的にはけっこうおっちょこちょいで、短気でけんかっ早い。でも、とても人情家で正義感が強くて、困った人を見ると放っておけません。
中川:
憎めないキャラクターですね。
柳沢:
物語の中では、アンパンマンとしょくぱんまんとカレーパンマンが、正義の味方トリオです。
中川:
重要な役ですよね。そもそも柳沢さんが声優になったきっかけというのはどういうことだったのですか。いつ頃から声優さんになろうと思われたのでしょう。
柳沢:
子どもの頃の将来の夢は、小学校の先生だったんですよ。小学校の担任の先生がとても素晴らしい方で、その影響を強く受けて、先生になりたいと思っていました。
中川:
小学校の先生ですか。柳沢さんはやさしそうだから向いているかもしれませんね。憧れていた小学校の担任の先生というのは、どんな方だったのですか。
柳沢:
男の先生でしたが、ユーモアたっぷりで、遊びを上手に取り入れながら授業をしてくださいました。社会で地名を覚える時も、暗記をさせられるのではなく、地図帳を広げてみんなでどこにあるかを見つける競争をします。一番に見つけようと必死になって探すわけです。そんなことをしているうちに、自然と地理を覚えました。
他にも、ときどき教室を暗くして、「お化けの話」と称して、先生が怖い話をしてくださいました。推理小説がメインでしたが、あまりに怖すぎて泣いちゃったことも(笑)。松本清張さんの「砂の器」のような大作を、何日もかけて語ってくださったこともあります。
中川:
一方的に押し付けるような授業じゃなかったんですね。公式や英単語や西暦を覚えるのは退屈ですからね。私も暗記は大嫌いでした(笑)。
小学校の先生になるなら、教育学部を目指すのが普通ですが、柳沢さんは演劇学科に進まれましたよね。
柳沢:
高校の時に、教育学部の大学生が教育実習にみえたのですが、とても堅苦しい印象で、どこかで教員養成のための大学へ行って教員になるということに抵抗が生まれたのかもしれません。もちろん、たまたまその時受けた印象がそうだっただけで、教育学部が全てそうだということではありません。でも、私の心に残っていた小学校の担任の先生とはあまりにも違っていて、もし自分が小学生なら、大学でやりたい事を学んだ先生がいいなと。
中川:
それで演劇学科を専攻されたんですね。高校で演劇をやっておられたのですか。
柳沢:
いえ、運動部でした。高2の文化祭で、クラスで「王様と私」をやったのですが、その時に演出と王妃の1人の役をしたのが、唯一の演劇の体験でした。その時に、演劇の面白さとみんなで造る喜びを知りました。その作品の背景を描いていた親友が、美術を学びたいと、東京の大学を目指していたのですが、彼女と話しているうちに、大学にも演劇科がある事がわかり、日大芸術学部の演劇学科を受験することにしました。

<後略>

2019年10月17日 エス・エー・エス東京センターにて  構成/小原田泰久

11月「石井 美恵子」さん

ハイゲンキ

石井 美恵子(いしい・みえこ)さん

北里大学大学院看護学研究科修士課程修了、富山大学医学薬学教育部博士課程修了。現在、国際医療福祉大学大学院教授。1995年アメリカでの災害対応に関する研修を受けたことがきっかけで災害医療の活動に入る。イラン大地震、スマトラ沖地震・津波災害、ジャワ島中部地震、四川大地震、東日本大震災などで支援活動。日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2012」大賞受賞。

『運命の導きか。 災害支援がライフワークに』

アメリカの研修に参加したことが大きな転機になった

中川:
石井先生の書かれた「幸せをつくる、ナースの私にできること」(廣済堂出版)という本を読ませていただきました。今、とても災害が頻繁に起こっていて、この間も千葉で大変な台風被害がありました。どこでどんな災害が起こっても不思議ではないと思います。自分が被災することをいつも頭に入れて生活する必要がありますよね。
石井先生は、災害医療にかかわってきた体験を通して、どうしたらより良い災害支援ができるかということを提言されていますが、もともとは看護師さんだったんですよね。
石井:
実は、看護師になりたくてなったわけではないんですね(笑)。父はとても封建的な人で、彼が理想とする女性像は、女子高にいって、近くでお勤めして結婚して、孫を連れてときどき訪ねてくるというものでした。女が学問をしたらろくなものではないとずっと言われていましたから。
私の実家は新潟ですが、父が一番にお風呂へ入るのが当然みたいな中で育ってきました。長男ばかりが大事にされるわけです。私は小さいころから、その考え方には納得できませんでした。男だから、女だからではなく、その人の能力によって評価されるべきだと思ってきました。
高校を卒業してからの進路も、息苦しい家を何とか出たくて、どうしたら父を説得できるだろうと考え、父が女の子らしい職業と思える仕事につけばいいだろうと思って看護学校へ行くことにしました。
それでも半径60キロ以内じゃないとダメだとか、いろいろ制約がありました。
中川:
家を出たくて選んだ職業が看護師だったんですね。
石井:
でも、実際に看護学校へ入ると、父と母の関係と同じ構図が医師と看護師の間にあって、いくら看護師が勉強してもなかなか認められない現実を見せられました。もうやめようと思いましたが、恩師から「今はそんな時代かもしれないけれども、いずれ看護が自立した時代がくる。作りなさい」と言われ、続けよう、やるからには本気でやろうと気持ちを切り替えました。
中川:
若いころから意識が高かったんですね。
石井:
不条理なことには人一倍敏感に反応してきましたね(笑)。女だからとか看護師だからという理由で意思決定権がないのはおかしいと思っていました。
新人ナースのときから、医師に指示されて動くような働き方は、私のプライドが許しませんでした。医師が治癒は難しいと診断していた肺気腫の患者さんがいたのですが、私は自分で勉強して、こんな呼吸ケア(治療を看護師が実施することは医師法に抵触しますので)をしていいかと医師に相談して、その方が自転車で通院できるまでに回復させたことがありました。
このとき、医師だとか看護師だとか関係なく、本気でやればできるんだということを体得しましたね。
その後、新潟から東京へ出て、救急医療の現場で働くことにしました。どんなことがあっても慌てず、的確な判断と行動ができる自分になりたかったんですね。そのためには救急医療がもっとも適していると思ったからです。
中川:
そこから災害医療につながっていくわけですね。
石井:
そのころは災害にはあまり興味はありませんでした。アメリカへ留学してもっと救急医療の勉強をしようと思っていたのですが、ひょんなことでイラン人の男性と知り合って結婚することになりました。1991年でした。2年ほど、イランで専業主婦をしながら働くことを模索していましたが、息子が生まれて、イランには兵役があったのでそれが嫌で日本へ帰ってきました。このときはイランで暮らしたことが後から大きな意味をもってくるなんて想像もつきませんでした。
そしたら1995年に阪神淡路大震災があったんですね。さらに地下鉄サリン事件もあって、日本でも災害医療が大切だということになり、私もアメリカの研修プログラムに派遣されることになりました。1ヵ月ほどの研修でした。
中川:
アメリカは災害医療が進んでいるんですね。
石井:
当時は大統領直属だったFEMA(連邦緊急事態管理庁)という組織がありました。専門家集団で、平時から災害があったときにはどう動けばいいか、災害に備えてどんな準備をすればいいかをサポートしています。もちろん、災害があったときにはとても重要な働きをする組織です。
日本には災害の専門家がいるわけではなく、災害が起こったときには何をしていいかわからず、右往左往するしかないのが現状でした。アメリカの研修で、私は災害医療に興味をもつようになりました。

<後略>

2019年9月10日 東京都港区・国際医療福祉大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「幸せをつくる、ナースの私にできること」(石井 美恵子 著)廣済堂出版

10月「大野 聰克」さん

大野聰克(おおの・としかつ)さん

1945年長野県下伊那郡生まれ。飯田工業高校卒業後、民間企業を経て、1980年に埼玉県川越市に電気機器関連の会社を設立。1991年帯津三敬病院で直腸がんの手術を受ける。それを機に生活が一変。1999年帯津三敬病院の職員となり患者さんと太極拳をやったり、ビワ葉温灸の施術をする。著書に「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)がある。

『がんはその人を生かすため、 助けるためにできる』

5年生存率3割。 1万人中3000人と考えれば元気が出る

中川:
大野さんが書かれた『ガンは悪者なんかではない』(風雲舎)という本を読ませていただきました。30年前に4期の直腸がんになって、それを独特の考え方で克服されました。大野さんならではのとてもユニークな話が展開されていて、なるほどと思うことがいっぱいありました。
大野:
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
もう自分は死んでしまうんだと思うと夜も眠れませんでした。睡眠薬を飲んで寝るんですが、夜中の2時ごろには目が覚めて、それから夜が明けるまでの時間の長いこと。
中川:
手術を受けて、人工肛門になりますよね。
大野:
人工肛門はがんになったこと以上にショックでしたね(笑)。そんなことになるなんて、想像もしていませんでしたから。
中川:
しかし、考え方を変えて、徐々に恐怖や不安から脱却しますよね。
大野:
自分の命がかかっていますから、がんについていろいろ勉強しました。でも、本を読めば読むほど絶望してしまいます。これじゃいけないと、本を読むのをやめて、自分で考えることにしました。
中川:
5年生存率が3割だと言われたら、多くの人が絶望するのに、大野さんは違う考え方をしましたね。
大野:
私のような状態だと5年後も生きている確率は3割くらいだろうと思いました。3割というと10人のうちの3人に入らないといけません。けっこうハードルが高いですよね。そのとき私が考えたのは、10人のうちの3人と考えるからきついわけで、もし1000人だったらどうだろうということでした。300人ですよね。300人でも厳しいと思えるなら、1万人ならどうだろう。3000人ですよ。
たとえば、マラソンでも、10 人走って3人の中に入るのは自信がありませんが、1万人のうちの3000番までなら入れるかもしれないと思えるじゃないですか。そう思うことですごく心が軽くなりました。
中川:
そのとおりですよね。ちょっと考え方を変えると、気持ちも変化していくし、希望も出てきますね。
大野:
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
当時45歳でしたが、昔なら、50歳くらいで亡くなる人がたくさんいたわけで、自分もそこそこ長生きしたのではないかと思えるようになりました。100歳まで生きても、早いか遅いかの違いで、死ぬときには不安や恐怖があるのではないでしょうか。死に対して少しは腹がくくれたかなと思います。
そのときから、残された時間が少ないなら、その時間を大切にしようと考え始めました。思い出をいっぱい残したい。楽しいことをいっぱいしたい。この世に私という人間がいたことを少しでもたくさんの人に覚えておいてもらいたい。そう思って、一瞬一瞬を大切に生きられるようになりました。
中川:
がんと診断されると、すぐに死を連想してしまいます。それで多くの人が落ち込んでしまうんでしょうね。気持ちが落ち込めば免疫力も低下しますから、病気も進行してしまいます。
大野:
がんと診断されても、その時点では死んでいないわけです。もっと体力が落ちると死ということになりますが、今は死んでないのだから、今よりも少しでも体力や生命力を上げれば死から遠ざかることができます。だから、私は少しでも体力をつけようと
考えました。手術を受けてすぐに廊下を歩き回って貧血を起こしたこともありました。病院の階段を上ったり下りたりもしました。
中川:
がんになったころ、大野さんは電気関係のお仕事をされていたということでしたね。
大野:
下請けでしたが、小さな工場を経営していました。
中川:
お忙しかったでしょう。
大野:
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
でも、確実に体を酷使していました。徹夜なんてざらだし、食事も食べられるときに何でもいいので腹に入れていました。工場にこもりっきりだったので運動不足です。冷たいコンクリートの上で何時間も働いていますから、体が冷えます。
それにいつも納期に追われていて、常にストレスを抱えていました。
仕事仕事の毎日で、家へは寝に帰るだけ。今思い返せば、病気に向かってまっしぐらの生活でした。女房は「いつか体を壊すのではないか」と心配していたようです。

<後略>

2019年8月28日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「ガンは悪者なんかではない」(大野聰克 著)風雲舎

9月「G.G.佐藤」さん

G.G.佐藤(ジージー・さとう)さん

1978年千葉県生まれ。大学卒業後、単身渡米しマイナーリーグと契約。3年間プレーする。2003年のドラフト会議で西武から7位で指名される。オールスターにも出場するなど第一線で活躍。北京オリンピックでは日本代表に選ばれる。2011年西武から戦力外通告。イタリアに渡る。その後、千葉ロッテに入団。2014年に現役引退。現在は株式会社トラバースで営業の仕事に従事。著書『妄想のすすめ~夢をつかみとるための法則48』(ミライカナイブックス)。

『どんな失敗も挫折もとらえ方ひとつで大きな学びとなる』

願い続ければ夢は必ずかなう。 かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ

中川:
元プロ野球選手のG.G.佐藤さん。G G(ジージー)さんとお呼びしていいでしょうか。埼玉西武ライオンズとか千葉ロッテマリーンズで活躍されました。
プロのスポーツ選手とお会いするのは初めてですが、背が高いですね。何センチくらいあるのですか?
GG:
どうぞGGと呼んでください。会社でもみんなそう呼んでいますから。身長は184センチです。体重はずいぶんと絞りましたが、大学を出たころは110キロく
らいありましたね。
中川:
今はスリムでモデルさんになれるような体型ですね(笑)。GG佐藤というユニークな名前の由来は何なのですか?
GG:
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
オーナーにはよく怒られました。ぼくは猫背だったので、「ちゃんと背筋を伸ばせ。ただでさえ顔がジジくさいんだから」といつも言われました。顔がジジくさいには参りました(笑)。毎日のようにそう言われているものですから、いつしかチームメイトが私を「ジジイ」と呼ぶようになりました。「GG」はそこからきているんです。だから、名付け親は沙知代さんです(笑)。
中川:
プロの選手になるくらいですから、野球のエリートだと思っていたのですが、そうではなかったみたいですね。
GG:
中学時代から挫折だらけですよ。港東ムースでも、まわりは私よりもはるかに上手な子ばかりです。いつも辞めたいと思っていました。高校は甲子園の常連校に進みましたが、私の代は地区予選敗退でした。法政大学へ入ってもずっと補欠でした。
私のような経歴のプロ野球選手はいないんじゃないでしょうかね。
中川:
挫折の連続というのは意外でした。中学生のころ、野村克也さんから心に残る言葉をもらったそうですね。
GG:
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
「願い続ければ夢は必ずかなう。かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ」
体が熱くなりました。プロ野球選手になりたければ願い続ければいい。そう思うと希望がわいてきました。とにかくこれからもずっと願い続けようと決心しました。野村さんからは「念ずれば花開く」と書かれた色紙をいただきました。私の宝物です。苦しくなるとこの言葉が頭に浮かびます。
中川:
挫折すると、やっぱり自分はダメだとか、自分には無理だとか、夢なんかかなうはずがないとあきらめてしまいますからね。
大学時代もレギュラーになれなくて腐りそうになったそうですね。
GG:
同期には、その後、プロ野球で活躍した連中が何人もいました。とても太刀打ちできません。3年生になると、もう完全に心が折れて、練習をさぼるようになりました。プロの夢も消えてしまい、取りあえず卒業だけするかという情けない状態でした。
このままじゃいけないと思って、「どうしたらやる気が出るだろう」と自問自答しました。行き詰ったときには自問自答するのが私の癖ですね。自分に聞くことで次に何をすればいいかぱっとひらめくことがよくあります。
このときも、人が望む姿ではなくて、自分はどうなりたいのかを考えることが大切だというような答えが返ってきました。そうか、監督やコーチから、お前はこうなったらいいんじゃないのと言われたとおりの選手になろうとするのではなくて、好きな自分、なりたい自分に向かっていくのがいいんじゃないかと思ったんですね。
中川:
ほお。好きな自分、なりたい自分ですか。
GG:
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
あのころはウエートトレーニングをする選手はあまりいませんでしたが、そんなこと関係ありません。ホームランを打つにはパワーが必要です。プロテインを飲んでウエートをやって、筋肉もりもりの体を作りました。
そしたら、どんどん飛距離が伸びて、練習をやっていても楽しくてたまりません。公式戦に出ることもできました。それで自信も取り戻しました。もっとも、この時点ではプロから声がかかるほどではなかったですけどね。

<後略>

2019年7月24日 千葉県市川市・株式会社トラバー スにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「妄想のすすめ 夢をつかみとるための法則48」G.G.佐藤 (著) ミライカナイ

8月「氷月 葵」さん

氷月 葵(ひづき あおい)さん

1958年東京都生まれ。出版社勤務などを経てフリーライターに。秋月菜央の筆名で『虐待された子供たち』(二見書房)など、福知怜の筆名で『タイタニック号99の謎』(二見書房)などを執筆。小説では、第四回「北区内田康夫ミステリー文学賞』において大賞を受賞(筆名・井水怜)。その後、時代小説『公事宿裏始末シリーズ』『婿殿は山同心シリーズ』『御庭番の二代目シリーズ』を執筆。

『歴史とスピリチュアルには密接な関係がある』

霊感の鋭い人に会うと、自分も霊的な能力に目覚めます

中川:
氷月さんがお書きになった時代小説『御庭番の二代目』(二見時代小説文庫)シリーズを楽しく拝読しました。
時代小説以外にも『邪心~飛鳥の霊視ファイル~』というスピリチュアルな内容の小説も書かれているので、こちらも読ませていただきました。
『邪心』は、まさしく氣の世界の話でした。氷月さんが氣とか霊についてよく理解されている方だとわかって安心しました。今日は小説家というお立場で歴史をどうとられておられるのかお聞きしようと思っていましたが、まずは氣とか霊の話からお聞きできればと思います。
氷月:
ありがとうございます。御庭番のシリーズでも、主人公が中国医学を学ぶようになるので、これからは氣の話がたくさん出てくる予定です。
昔は精神世界と言われる分野の本をたくさん出している出版社にいたこともあります。氣とか霊という世界にとても興味があって、その出版社に入りました。テレビによく出ていた有名な霊能者の担当編集者もやっていて、その霊能者と一緒に心霊スポットへ行って心霊写真を撮ってきたこともありましたね。
ライターとして独立してからも、スピリチュアルな内容の本を書いていました。先代の会長にも取材をしているんですよ。当時は、伊豆の下田で合宿をやっていたじゃないですか。あそこへお邪魔して、合宿の様子を拝見したり、お話をうかがったりしました。たくさんの人がいてびっくりしました。氣を受けていろいろな反応をする人もいましたし。
中川:
そうでしたか。それはご縁がありますね。下田で研修講座をやっていたのが1990年から94年です。25年以上前ですね。
すごかったでしょ(笑)。先代は「お化け」という言い方をしていましたが、その人についているマイナスの氣が出てきて、大声を上げたり、転げまわったりしていましたから。私も最初に行ったときには、あれほどとは思っていませんでしたので、びっくりしました。
その後、94年の5月に奈良県の生駒山に場所を移して、その翌年の12月に先代は亡くなりました。
当時は1週間とか、長いときには9日間の講座でしたが、今は2泊3日で、特定の場所でやるのではなく、全国あちこちで開催しています。
この『邪心』という本では、主人公の霊感のある女の子が人や物の氣を読んで、殺人事件を解決していくわけですが、氷月さんは霊的な感覚がよくおわかりになっているんだなと感心しました。
氷月:
これまでたくさんの霊能者や超能力者にお会いしてきたことが生きましたね。それに、霊的な感覚の鋭い人たちと会っていると、自分自身もそういう能力に目覚めるんですね。氣を感じやすくなります。
中川:
そうでしょうね。私どもがやっている真氣光研修講座に参加される方でも、氣を集中的に受けることで、霊的な感覚が鋭くなる人がいます。
氷月:
そうだろうと思います。手かざしで浄霊する宗教があるじゃないですか。下田であったような現象が浄霊でも起きますよね。先代は、そういう宗教とも関係がある人なのかなと思ったのですが。
中川:
まったく関係ありません。あるとき夢を見たのがきっかけで始めたことです。宗教は勉強してなかったので、氣や霊のことも、体験して理解していったのだと思います。
真氣光が宗教と違うのは、ハイゲンキという氣を中継する機械があることです。先代は、夢で教えられてハイゲンキを作りました。最初の頃、一度だけ先端からボーッと光が出ているのが見えたと言っていました。体の調子の悪い人に当ててみると、劇的な効果が次々と出てきて、本人がびっくりしたみたいです。
そのハイゲンキを、いろいろな人に当てて治療をしていたら、本人もたくさんの氣を受けたのでしょう。2年後にまた夢を見て、手から氣が出ると教えられて、気功家になりました。そうやって、ハイゲンキと手からの氣の二本柱ができました。
そのあたりから、霊的な世界も無視できないという流れになってきました。
ところで、スピリチュアルな世界に詳しい氷月さんが、なぜ時代小説を書くようになったのですか。
氷月:
古くから一緒に仕事をしていた編集者にすすめられたのが直接のきっかけですが、基本的に歴史は好きでしたね。中学校のときには日本史部の部長をやっていましたし、それと並行して友だちと超心理研究会を作ってテレパシーの実験なんかをやっていました(笑)。
あのころから、歴史とスピリチュアルが私の両輪でした。今は、歴史とスピリチュアルは深い関係があるなと思っています。

<後略>

2019年6月26日 東京・池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:「邪心―飛鳥の霊視ファイル」氷月 葵(著) コスミック出版
右;「将軍の跡継ぎ 御庭番の二代目1」氷月 葵(著) 二見書房

7月「金菱 清」さん

金菱 清(かねびし きよし)さん

1975年大阪生まれ。関西学院大学社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学博士。現在、東北学院大学教養学部地域構想学科教授。専攻は環境社会学・災害社会学。
著書に『生きられた法の社会学』(新曜社)『呼び覚まされる霊性の震災学』(編著 新曜社)『私の夢まで、会いに来てくれた』(編著 朝日新聞出版)『3・11霊性に抱かれて』(編著 新曜社)など多数。

『東日本大震災から8年。 死者とともに生きるご遺族たち』

また幽霊らしき人が手をあげたら乗せると答えるタクシー運転手

中川:
『3.11霊性に抱かれて‒魂といのちの生かされ方』(新曜社)を読ませていただきました。この本は、先生のゼミの学生さんたちが東日本大震災の被災地を回って取材してまとめたものですよね。それも、幽霊を乗せたタクシー運転手とか、死をしっかりと受け止めている猟師町の話、生者と死者とのつなぎ役になろうとする宗教者の葛藤、手紙や電話を介して死者と対話をすることで癒されていくご遺族の心情など、この世的なことばかりではなく、あの世のことも視野に入れた調査ということで、私もとても興味深く読ませていただきました。
先生のご専門はどう説明すればいいのでしょうか?
金菱:
環境社会学、災害社会学が専門で、大学では地域構想学科の教授をやっております。
地域構想学科と言ってもよくわからないかと思いますが、「人と自然」「健康と福祉」「社会と産業」といった視点で、地域の問題、その解決策について考えていく学科です。設置されて15年くらいになります。
私のゼミでは、全員がフィールドワークに出て、地域の人たちの生の声を聞いて、資料を読むだけではわからないことを感じ取って、それをまとめて論文にしています。それを一般の人が見られる本の形にしているんです。
中川:
本を読んでいると、非常に生々しいし、迫力あるし、学生さんたちは本当にがんばったんだなということが伝わってきます。
金菱:
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
中川:
テーマが「霊性」じゃないですか。2016年に出された『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)には、タクシードライバーが遭遇した幽霊の話がありますが、そういう話はなかなか聞き出せなかったのではないかと思いますが。
金菱:
最初は、運転手さんにいきなり『幽霊を乗せたことありますか?』とゼミ生が聞くわけです。運転手さんも面食らうし、中には怒り出す人もいました。この調査をしたのは女子学生でしたが、失敗を何度も繰り返し、『もう辞めたい』とべそをかきながら、それでも何とか聞き出せないかと工夫していました。
彼女はタクシーが止まっている駅のロータリーでギターの弾き語りをしたり、一緒に釣りに行ったりすることで運転手さんと仲良くなって、彼らが誰にも話したことのない幽霊の話を聞き出すことができました。たとえ誰かに話してもバカにされるだけで、自分の中に封印していた話でした。
中川:
真夏なのに厚着をした人を乗せたというのが共通していましたよね。ある女性が津波で大きな被害を受けたところに行ってほしいと言うので、「あそこはさら地になっていますけど」と言うと、「私は死んだのですか?」と震えた声で答えて、運転手さんが「えっ」と思ってルームミラー越しに後ろを見ると姿が消えてしまったといった話がいくつも出てきます。
金菱:
運転手さんも最初は幽霊だと思わないで乗せるわけです。だから、料金メーターを実車にして出発します。だれかを乗せて走ったという記録は残っているわけです。
でも途中でいなくなってしまう。だれが料金を支払うの?ということになります。全部、運転手さんが負担しているんですね。運転手さんも幽霊を乗せたなんて言えませんから(笑)。どの運転手さんもすごく冷静に対処していて、夢や妄想だとは考えられません。そう考えると、すごくリアルな話じゃないですか。
中川:
それに運転手さんは、最初はぞっとするんだけど、また幽霊らしき人が手をあげたとしたら乗せるって言っていますよね。
金菱:
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
ホワイトスワン(白い白鳥)を見つけても、「そりゃそうだね」で終わってしまいますが、黒い白鳥を一羽でも見つければ、白鳥は白いものだという固定概念が変わります。
被災地で幽霊が出ると知ったある有名な宗教学者は、不成仏霊だから供養して彼岸へ送らないといけないとコメントしていました。これは当たり前の考え方、つまりはホワイトスワンです。
でも、学生たちが現地でタクシー運転手に話を聞くと、次にそういうことがあっても乗せるという証言が出てくるわけです。「怖い」とか「不気味」といったこれまでの幽霊に対する見方とは違いますよね。それこそブラックスワンであって、生きている人と幽霊との新しい関係性が見えてきます。話を聞いていて温かみを感じるじゃないですか。
学者だと、既存の考え方に当てはめてしまうので、こういう証言を引き出すことはできないと思います。学生だからこそ、運転手さんの素直な感想を聞き出せたのではないでしょうか。
フィールドワークにはそういうアプローチが大切だと、私は考えています。

<後略>

2019年4月16日 東北学院大学泉キャンパスにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:3.11霊性に抱かれて: 魂といのちの生かされ方
金菱 清 (編集) 新曜社
右:私の夢まで、会いに来てくれた — 3.11 亡き人とのそれから
金菱清(ゼミナール) (編集) 朝日新聞出版

6月「樋口 英明」さん

樋口 英明(ひぐち ひであき)さん

1952年三重県生まれ。京都大学法学部卒。全国各地の裁判所の判事を務め、2017年に定年退官。2014年、関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じる判決を下した。2015年、福井県と近畿地方の住民ら9人が関西電力高浜原発3・4号機の再稼働差し止めを求めた仮処分申請に対し、住民側の申し立てを認める決定を出した。

『原発は極めて危険!原発を止めた元裁判長の責任感』

原発の建っているところには大きな地震がこないということが前提の基準

中川:
先代の会長である私の父は、当時のソ連へ出向いて行って、チェルノブイリ原発事故の被ばく者に氣の治療をしました。アメリカインディアンのホピ族の居留地にも行き、ウラン採掘で被ばくした人の治療をしたり、核の問題を長老と語り合ってきました。
そういう経緯があって、原子力発電所については、氣の観点から言っても良くないし、ひとたび事故があったら大変なことになるのは福島第一原発事故で明らかですから、やめたほうがいいという考え方でいます。
樋口さんは、2014年に福井地裁の裁判長として、関西電力の大飯原発の運転差し止めを命じる判決を出されました。
私は、こういう裁判官もいるのだと感心してあのニュースを見ていました。裁判で原発を止めたというのはあまり聞きませんからね。
樋口:
この間、数えてみたのですが、福島の事故以降、原発差し止め訴訟、あるいは仮処分で、地震を理由として差し止めるという決定をしたのは、裁判長の数で言うと2人ですね。それに対して止めなかった裁判長は17人になるかと思います。
中川:
2対17ですか。福島の事故のあとですよね。危ないことはわかり切っていても止めないという判決がほとんどなのはどうしてですか。
樋口:
原発の怖さを知っているかどうかじゃないでしょうか。私は、大飯(おおい)原発の裁判が始まったとき、「私は、原発が危険かどうかで決めます」と明言しました。
中川:
危険かどうかで判断するのは当たり前のことじゃないですか? ほかに何か基準があるのですか?
樋口:
危険かどうかがもっとも大切なことですよね。普通に考えればわかることです。私が出した判決は高裁で破られたわけですが、その判決の内容を見ると「新規制基準に従っているから心配ない」というものでした。でもその基準があやふやなのですから心配ですよね。
簡単に言うと、規制基準というのは震度7の地震は原発の建っているところにはこないということが前提に作られています。
中川:
えっ。原発のあるところには大きな地震はこないのですか?
樋口:
そんなことはあり得ませんよね。でも、それが前提になっているのです。
中川:
地震学というのもありますから、大きな地震が起こるかどうか、計算ができるのでしょうかね。でも、地震が起こるのを正確に予測したという話は聞いたことがないですね。地震がないとされているところに立て続けに大きな地震がきたりしていますから、その前提はあまり信じられないように思いますが。
樋口:
地震学は三重苦の学問だと言われています。地下深いところで起こることだから観察ができません。実験もできないですよね。それに資料が不足しています。
そもそも地震学はまだ歴史の浅い学問です。気象学だったら明治時代から観測をしていて、そのデータが蓄積されています。しかし、日本で本格的に地震の観測が始まったのは阪神淡路大震災以降です。それまでは地震計の設置個所が少なくて、データは非常に乏しいのです。
原発の耐震基準として「ガル」という単位が使われます。これは観測地点での地震の強さのことです。最近の地震では、北海道胆振(いぶり)地震が1796ガル、熊本地震が1740ガルです。中越地震が2515ガル、東日本大震災が2933ガル。日本でもっとも強かったのが2008年にあった岩手宮城内陸地震で4022ガルです。
それに対して、私が止めた大飯原発は、3・11当時の耐震基準が405ガルです。2018年3月時点で856ガルまで上げていると言っていますが、それでも2000年以降、1000ガルを超える地震が16回もありました。とても安心していられる状況ではありません。ほかの原発も同じです。これでは、「原発は安全です」とはとても言えません。
中川:
そういう地震は原発の建っているところにはこないという前提なわけですね。いいんでしょうかね。
樋口:
よくないですよ。多くの人が、原発はものすごく丈夫に作られている。どんな地震だって耐えられると思っているのではないでしょうか。でも、そんなことはありません。
住宅メーカーでは、今は3000ガル、4000ガル、5000ガルの地震に耐えられるような家を作っています。
住宅よりも地震に弱い原発が、こんなにも地震の多い日本にあっていいのかということですよ。それも、原発のあるところには大きな地震はこないということが、この基準で大丈夫という根拠ですから。少なくとも5回は耐震基準を超えた地震が原発を襲っています。その根拠もいい加減なものです。
そういう状況を「危険」と思わない感覚がおかしいと、私は思います。

<後略>

2019年4月5日 日比 谷松本楼にて 構成/小原田泰久

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