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3月「髙信 幸男」さん

髙信幸男

髙信 幸男(たかのぶ・ゆきお)さん

1956年茨城県大子町生まれ。水戸、札幌、さいたま、甲府、東京、横浜の法務局に勤務し、2017年(平成29年)に退官する。高校時代から名字の研究をし、名字の由来やエピソードを本に書いたり、講演会等で発表している。多くのテレビやラジオの番組にも出演している。主な著書『難読稀姓辞典』『名字歳時記』(日本加除出版)『トク盛り「名字」丼』(柏書房)など。

『すべての名字に ご先祖様の思いがのっている』

四月一日と書いて 「わたぬき」さん。 小鳥遊で「たかなし」さん

中川:
茨城にお住いの私どもの会員さんが、髙信先生の講演をお聞きしてとてもいいお話だったので対談してみてはいかがですかとすすめてくださいました。さっそく先生の書かれた『トク盛り「名字」丼』(柏書房)を読ませていただきました。面白かったですね。名字がこれほど奥深いものとは思いませんでした。
髙信:
ありがとうございます。私は16歳のときに名字に興味をもちましてね。以来、半世紀近く名字を研究しています。珍しい名字は限りなくあって、珍名を探すのは昆虫や植物の新種を追いかけるのと同じですよ。この名字のルーツは何だろうとか、興味は広がっていくし、終わりのない研究ですね(笑)。
中川:
16歳のときに名字に興味をもたれたのですか。髙信さんはもともと法務局に勤める国家公務員で、今は司法書士をしておられるので、その関係で名字研究を始めたのだと思っていましたよ。
髙信:
法務局は戸籍や不動産登記に関する業務を行っていますから仕事絡みで名字に興味をもったと思われますが、そうじゃないんですね。仕事と名字研究とはたまたまの縁でしかありません。
中川:
16歳というと高校生ですが、どんなきっかけで名字に興味をもたれたのですか。
髙信:
私が生まれたのは茨城県北部の大だい子ご 町という福島県や栃木県と接する小さな町です。かつては人口4 万2 0 0 0 人くらいの町だったのですが、今は1万5000人ほどに減りました。
日本三大名瀑の一つである袋田の滝が有名ですが、私の生家は滝の上、源流にありました。とんでもないところでしょ(笑)。
中川:
滝の上ですか?
髙信:
そうですよ。観光客は下から滝を見上げていますが、断崖絶壁の上に家があるなんてだれも想像しないと思います(笑)。ここで生まれなければ名字の研究などやってなかったでしょうね。
中学校のとき、生徒が360人くらいいましたが、名字は30くらいしかありませんでした。みんなが同じ名字で下の名前で呼び合っていました。そのころは、名字の数はそんなにないと思っていました。
高校に入ってびっくりしました。50人のクラスで45の名字があったんですね。みんな名字がバラバラ。こんなに名字ってあるの? と思って、電話帳で町の名字を調べ始めました。意外に多くて数百種類はあったかな。小さな田舎町でこんなにあるなら日本全国ではどれくらいあるだろうと興味が湧いてきて、電話帳を丹念に見るようになりました。
中川:
それで珍名さんに出あうんですね。
髙信:
あるとき電話帳で「四月一日」という名字を見つけました。最初は、どうしてこんなところに日付があるのだろうと不思議に思いました。でもよく見ると名字らしい。それも渡辺さんが並んでいるあとにポツンとあるんですね。なんて読むのだろう?
俄然、興味が湧いてきました。疑問に思うとすぐに解明したくなるたちで、すぐにそこに出ている電話番号に電話をしてみました。そしたら「わたぬきです」と電話に出られたんです。四月一日と書いて「わたぬき」と読むんだ。私にしてみればとんでもない発見をした気分でした。すぐにどうしてそんな読み方をするのですかと質問しました。先方は迷惑がらずにていねいに答えてくれました。
中川:
確かに四月一日という名字があるとは思わないし、だれも「わたぬき」なんて読めないですよね。
髙信:
由来を聞いて、こんなふうに名字がつけられることがあるんだとまたまたびっくりしました。4月になると綿入れから綿を抜いたからというのが理由の、トンチのきいた名字なんですね。それでますます興味が出てきたというわけです。
中川:
名字をつけるにも遊び心があったんですね。「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませる名字もあるそうですね。
髙信:
1872年(明治5年)に全国的な戸籍制度(壬申戸籍)ができ、1875年(明治8年)には全国民が戸籍に名字を登録しなければならなくなりました。そのときに、先祖から伝わった名字をそのまま役所に届けを出すのではつまらないと考えた人がいたようです。
「たかなし」さんもその1人で、もともとは「高梨」と書いていましたが、高梨を「鷹無」と書き換え、さらに鷹がいなければ小鳥が自由に遊べるということで「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませたようです。こんなユニークな発想で名字をつけるのは日本人くらいです。
中川:
世界でも日本の名字の数は特に多いそうですね。
髙信:
お隣の中国は人口が14億人もいるのに名字の数は4000種類程度、韓国は約5000万人の人口に対して名字の数が500くらいです。日本は約13万種類もの名字があるんですね。佐藤、鈴木、高橋がベストスリーで、ベスト10だけで日本の人口の1割を占めますが、たった1軒だけだとか数軒しかない名字がたくさんあります。

<攻略>

2020年1月 22日 茨城県水戸市の髙信幸男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

日本全国歩いた! 調べた! トク盛り「名字」丼 髙信幸男 緒 (柏書房)

10月「大野 聰克」さん

大野聰克(おおの・としかつ)さん

1945年長野県下伊那郡生まれ。飯田工業高校卒業後、民間企業を経て、1980年に埼玉県川越市に電気機器関連の会社を設立。1991年帯津三敬病院で直腸がんの手術を受ける。それを機に生活が一変。1999年帯津三敬病院の職員となり患者さんと太極拳をやったり、ビワ葉温灸の施術をする。著書に「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)がある。

『がんはその人を生かすため、 助けるためにできる』

5年生存率3割。 1万人中3000人と考えれば元気が出る

中川:
大野さんが書かれた『ガンは悪者なんかではない』(風雲舎)という本を読ませていただきました。30年前に4期の直腸がんになって、それを独特の考え方で克服されました。大野さんならではのとてもユニークな話が展開されていて、なるほどと思うことがいっぱいありました。
大野:
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
もう自分は死んでしまうんだと思うと夜も眠れませんでした。睡眠薬を飲んで寝るんですが、夜中の2時ごろには目が覚めて、それから夜が明けるまでの時間の長いこと。
中川:
手術を受けて、人工肛門になりますよね。
大野:
人工肛門はがんになったこと以上にショックでしたね(笑)。そんなことになるなんて、想像もしていませんでしたから。
中川:
しかし、考え方を変えて、徐々に恐怖や不安から脱却しますよね。
大野:
自分の命がかかっていますから、がんについていろいろ勉強しました。でも、本を読めば読むほど絶望してしまいます。これじゃいけないと、本を読むのをやめて、自分で考えることにしました。
中川:
5年生存率が3割だと言われたら、多くの人が絶望するのに、大野さんは違う考え方をしましたね。
大野:
私のような状態だと5年後も生きている確率は3割くらいだろうと思いました。3割というと10人のうちの3人に入らないといけません。けっこうハードルが高いですよね。そのとき私が考えたのは、10人のうちの3人と考えるからきついわけで、もし1000人だったらどうだろうということでした。300人ですよね。300人でも厳しいと思えるなら、1万人ならどうだろう。3000人ですよ。
たとえば、マラソンでも、10 人走って3人の中に入るのは自信がありませんが、1万人のうちの3000番までなら入れるかもしれないと思えるじゃないですか。そう思うことですごく心が軽くなりました。
中川:
そのとおりですよね。ちょっと考え方を変えると、気持ちも変化していくし、希望も出てきますね。
大野:
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
当時45歳でしたが、昔なら、50歳くらいで亡くなる人がたくさんいたわけで、自分もそこそこ長生きしたのではないかと思えるようになりました。100歳まで生きても、早いか遅いかの違いで、死ぬときには不安や恐怖があるのではないでしょうか。死に対して少しは腹がくくれたかなと思います。
そのときから、残された時間が少ないなら、その時間を大切にしようと考え始めました。思い出をいっぱい残したい。楽しいことをいっぱいしたい。この世に私という人間がいたことを少しでもたくさんの人に覚えておいてもらいたい。そう思って、一瞬一瞬を大切に生きられるようになりました。
中川:
がんと診断されると、すぐに死を連想してしまいます。それで多くの人が落ち込んでしまうんでしょうね。気持ちが落ち込めば免疫力も低下しますから、病気も進行してしまいます。
大野:
がんと診断されても、その時点では死んでいないわけです。もっと体力が落ちると死ということになりますが、今は死んでないのだから、今よりも少しでも体力や生命力を上げれば死から遠ざかることができます。だから、私は少しでも体力をつけようと
考えました。手術を受けてすぐに廊下を歩き回って貧血を起こしたこともありました。病院の階段を上ったり下りたりもしました。
中川:
がんになったころ、大野さんは電気関係のお仕事をされていたということでしたね。
大野:
下請けでしたが、小さな工場を経営していました。
中川:
お忙しかったでしょう。
大野:
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
でも、確実に体を酷使していました。徹夜なんてざらだし、食事も食べられるときに何でもいいので腹に入れていました。工場にこもりっきりだったので運動不足です。冷たいコンクリートの上で何時間も働いていますから、体が冷えます。
それにいつも納期に追われていて、常にストレスを抱えていました。
仕事仕事の毎日で、家へは寝に帰るだけ。今思い返せば、病気に向かってまっしぐらの生活でした。女房は「いつか体を壊すのではないか」と心配していたようです。

<後略>

2019年8月28日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「ガンは悪者なんかではない」(大野聰克 著)風雲舎

9月「G.G.佐藤」さん

G.G.佐藤(ジージー・さとう)さん

1978年千葉県生まれ。大学卒業後、単身渡米しマイナーリーグと契約。3年間プレーする。2003年のドラフト会議で西武から7位で指名される。オールスターにも出場するなど第一線で活躍。北京オリンピックでは日本代表に選ばれる。2011年西武から戦力外通告。イタリアに渡る。その後、千葉ロッテに入団。2014年に現役引退。現在は株式会社トラバースで営業の仕事に従事。著書『妄想のすすめ~夢をつかみとるための法則48』(ミライカナイブックス)。

『どんな失敗も挫折もとらえ方ひとつで大きな学びとなる』

願い続ければ夢は必ずかなう。 かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ

中川:
元プロ野球選手のG.G.佐藤さん。G G(ジージー)さんとお呼びしていいでしょうか。埼玉西武ライオンズとか千葉ロッテマリーンズで活躍されました。
プロのスポーツ選手とお会いするのは初めてですが、背が高いですね。何センチくらいあるのですか?
GG:
どうぞGGと呼んでください。会社でもみんなそう呼んでいますから。身長は184センチです。体重はずいぶんと絞りましたが、大学を出たころは110キロく
らいありましたね。
中川:
今はスリムでモデルさんになれるような体型ですね(笑)。GG佐藤というユニークな名前の由来は何なのですか?
GG:
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
オーナーにはよく怒られました。ぼくは猫背だったので、「ちゃんと背筋を伸ばせ。ただでさえ顔がジジくさいんだから」といつも言われました。顔がジジくさいには参りました(笑)。毎日のようにそう言われているものですから、いつしかチームメイトが私を「ジジイ」と呼ぶようになりました。「GG」はそこからきているんです。だから、名付け親は沙知代さんです(笑)。
中川:
プロの選手になるくらいですから、野球のエリートだと思っていたのですが、そうではなかったみたいですね。
GG:
中学時代から挫折だらけですよ。港東ムースでも、まわりは私よりもはるかに上手な子ばかりです。いつも辞めたいと思っていました。高校は甲子園の常連校に進みましたが、私の代は地区予選敗退でした。法政大学へ入ってもずっと補欠でした。
私のような経歴のプロ野球選手はいないんじゃないでしょうかね。
中川:
挫折の連続というのは意外でした。中学生のころ、野村克也さんから心に残る言葉をもらったそうですね。
GG:
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
「願い続ければ夢は必ずかなう。かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ」
体が熱くなりました。プロ野球選手になりたければ願い続ければいい。そう思うと希望がわいてきました。とにかくこれからもずっと願い続けようと決心しました。野村さんからは「念ずれば花開く」と書かれた色紙をいただきました。私の宝物です。苦しくなるとこの言葉が頭に浮かびます。
中川:
挫折すると、やっぱり自分はダメだとか、自分には無理だとか、夢なんかかなうはずがないとあきらめてしまいますからね。
大学時代もレギュラーになれなくて腐りそうになったそうですね。
GG:
同期には、その後、プロ野球で活躍した連中が何人もいました。とても太刀打ちできません。3年生になると、もう完全に心が折れて、練習をさぼるようになりました。プロの夢も消えてしまい、取りあえず卒業だけするかという情けない状態でした。
このままじゃいけないと思って、「どうしたらやる気が出るだろう」と自問自答しました。行き詰ったときには自問自答するのが私の癖ですね。自分に聞くことで次に何をすればいいかぱっとひらめくことがよくあります。
このときも、人が望む姿ではなくて、自分はどうなりたいのかを考えることが大切だというような答えが返ってきました。そうか、監督やコーチから、お前はこうなったらいいんじゃないのと言われたとおりの選手になろうとするのではなくて、好きな自分、なりたい自分に向かっていくのがいいんじゃないかと思ったんですね。
中川:
ほお。好きな自分、なりたい自分ですか。
GG:
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
あのころはウエートトレーニングをする選手はあまりいませんでしたが、そんなこと関係ありません。ホームランを打つにはパワーが必要です。プロテインを飲んでウエートをやって、筋肉もりもりの体を作りました。
そしたら、どんどん飛距離が伸びて、練習をやっていても楽しくてたまりません。公式戦に出ることもできました。それで自信も取り戻しました。もっとも、この時点ではプロから声がかかるほどではなかったですけどね。

<後略>

2019年7月24日 千葉県市川市・株式会社トラバー スにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「妄想のすすめ 夢をつかみとるための法則48」G.G.佐藤 (著) ミライカナイ

7月「金菱 清」さん

金菱 清(かねびし きよし)さん

1975年大阪生まれ。関西学院大学社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学博士。現在、東北学院大学教養学部地域構想学科教授。専攻は環境社会学・災害社会学。
著書に『生きられた法の社会学』(新曜社)『呼び覚まされる霊性の震災学』(編著 新曜社)『私の夢まで、会いに来てくれた』(編著 朝日新聞出版)『3・11霊性に抱かれて』(編著 新曜社)など多数。

『東日本大震災から8年。 死者とともに生きるご遺族たち』

また幽霊らしき人が手をあげたら乗せると答えるタクシー運転手

中川:
『3.11霊性に抱かれて‒魂といのちの生かされ方』(新曜社)を読ませていただきました。この本は、先生のゼミの学生さんたちが東日本大震災の被災地を回って取材してまとめたものですよね。それも、幽霊を乗せたタクシー運転手とか、死をしっかりと受け止めている猟師町の話、生者と死者とのつなぎ役になろうとする宗教者の葛藤、手紙や電話を介して死者と対話をすることで癒されていくご遺族の心情など、この世的なことばかりではなく、あの世のことも視野に入れた調査ということで、私もとても興味深く読ませていただきました。
先生のご専門はどう説明すればいいのでしょうか?
金菱:
環境社会学、災害社会学が専門で、大学では地域構想学科の教授をやっております。
地域構想学科と言ってもよくわからないかと思いますが、「人と自然」「健康と福祉」「社会と産業」といった視点で、地域の問題、その解決策について考えていく学科です。設置されて15年くらいになります。
私のゼミでは、全員がフィールドワークに出て、地域の人たちの生の声を聞いて、資料を読むだけではわからないことを感じ取って、それをまとめて論文にしています。それを一般の人が見られる本の形にしているんです。
中川:
本を読んでいると、非常に生々しいし、迫力あるし、学生さんたちは本当にがんばったんだなということが伝わってきます。
金菱:
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
中川:
テーマが「霊性」じゃないですか。2016年に出された『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)には、タクシードライバーが遭遇した幽霊の話がありますが、そういう話はなかなか聞き出せなかったのではないかと思いますが。
金菱:
最初は、運転手さんにいきなり『幽霊を乗せたことありますか?』とゼミ生が聞くわけです。運転手さんも面食らうし、中には怒り出す人もいました。この調査をしたのは女子学生でしたが、失敗を何度も繰り返し、『もう辞めたい』とべそをかきながら、それでも何とか聞き出せないかと工夫していました。
彼女はタクシーが止まっている駅のロータリーでギターの弾き語りをしたり、一緒に釣りに行ったりすることで運転手さんと仲良くなって、彼らが誰にも話したことのない幽霊の話を聞き出すことができました。たとえ誰かに話してもバカにされるだけで、自分の中に封印していた話でした。
中川:
真夏なのに厚着をした人を乗せたというのが共通していましたよね。ある女性が津波で大きな被害を受けたところに行ってほしいと言うので、「あそこはさら地になっていますけど」と言うと、「私は死んだのですか?」と震えた声で答えて、運転手さんが「えっ」と思ってルームミラー越しに後ろを見ると姿が消えてしまったといった話がいくつも出てきます。
金菱:
運転手さんも最初は幽霊だと思わないで乗せるわけです。だから、料金メーターを実車にして出発します。だれかを乗せて走ったという記録は残っているわけです。
でも途中でいなくなってしまう。だれが料金を支払うの?ということになります。全部、運転手さんが負担しているんですね。運転手さんも幽霊を乗せたなんて言えませんから(笑)。どの運転手さんもすごく冷静に対処していて、夢や妄想だとは考えられません。そう考えると、すごくリアルな話じゃないですか。
中川:
それに運転手さんは、最初はぞっとするんだけど、また幽霊らしき人が手をあげたとしたら乗せるって言っていますよね。
金菱:
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
ホワイトスワン(白い白鳥)を見つけても、「そりゃそうだね」で終わってしまいますが、黒い白鳥を一羽でも見つければ、白鳥は白いものだという固定概念が変わります。
被災地で幽霊が出ると知ったある有名な宗教学者は、不成仏霊だから供養して彼岸へ送らないといけないとコメントしていました。これは当たり前の考え方、つまりはホワイトスワンです。
でも、学生たちが現地でタクシー運転手に話を聞くと、次にそういうことがあっても乗せるという証言が出てくるわけです。「怖い」とか「不気味」といったこれまでの幽霊に対する見方とは違いますよね。それこそブラックスワンであって、生きている人と幽霊との新しい関係性が見えてきます。話を聞いていて温かみを感じるじゃないですか。
学者だと、既存の考え方に当てはめてしまうので、こういう証言を引き出すことはできないと思います。学生だからこそ、運転手さんの素直な感想を聞き出せたのではないでしょうか。
フィールドワークにはそういうアプローチが大切だと、私は考えています。

<後略>

2019年4月16日 東北学院大学泉キャンパスにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:3.11霊性に抱かれて: 魂といのちの生かされ方
金菱 清 (編集) 新曜社
右:私の夢まで、会いに来てくれた — 3.11 亡き人とのそれから
金菱清(ゼミナール) (編集) 朝日新聞出版

5月「中川 由香子さん・中川 貴恵さん」

中川 由香子・中川 貴恵(なかがわ ゆかこ・なかがわ たかえ)さん

中川 由香子 さん 1962年札幌生まれ。1984年からハワイやマイアミを拠点に海外に真氣光を広げる活動をする。2000年帰国後、真氣光研修講座の食事ボランティアをする。2007年東京移住。2016年認知症カフェを立ち上げる。2018年、8月SAS東京センターで『しんきこうカフェ』を始める。

中川 貴恵 さん 1970年札幌生まれ。東京音楽大学付属高校、同大学声楽専攻卒業。日本オペラ振興会研究生終了。イタリアのミラノ、ローマでイタリアオペラの勉強をする。1994年より真氣光研修講座の音感行法を担当。今年4月より東京センターにて「音だまスイッチ」という呼吸と声講座を開催。

『真氣光に新しい風。すそ野を広げて、 よりたくさんの人に光を』

3人が得意な分野でセッション、カフェ、 ワークショップ

小原田:
今月は、私が司会進行を務め、中川会長、中川由香子さん、中川貴恵さんにお話をうかがいます。会長から由香子さん、貴恵さんをご紹介いただけますか。
中川:
由香子は私の2つ違いの妹です。この雑誌に出るのは初めてだったかな。あまり会員さんの前には出ていませんが、真氣光歴は私よりもずっと古くて、1984年に先代が北海道から東京へ出てきたときからいろいろと手伝っています。2000年から、生駒での真氣光研修講座での食事ボランティアをやっていました。
真氣光の「氣」のロゴ、みなさんご存知だと思いますが、あれを書いたのも由香子だったよね。
由香子:
そうなんですよ。太極氣功18式のビデオのカバーに使いたいので書くように言われて、何枚か書いたうちの1枚を先代が選んで、いつの間にか、看板に使われるようになったのでびっくりでした(笑)。
中川:
東京へ出てきたと思ったら、すぐにハワイに住むことになって、あのころは激動の時期だったよね。
由香子:
ハワイのセミナーを手伝ってくれって言われたので喜んでついていったら、そのまま置いていかれて(笑)。
セミナーで知り合ったご夫妻が大きな家に住んでいたので、そこに居候させてもらって、そのご夫妻や近所の人たちの治療をしたりしていました。そうこうするうちに、もう仕送りはしないので、そちらで会社を作って自分で稼げと、とんでもないことを命じられました(笑)。
言われたとおりに会社を作って、先代が定期的にセミナーに来てくれたので、その会場を準備したり、人を集めたりといった仕事をしました。あとは、ハイゲンキを購入してくださった人のアフターケアですね。次から次へとひらめいたことを形にしていく人でしたね。鍛えられました(笑)。
中川:
貴恵は私とは10歳違います。赤ん坊のときには、私がおしめを取り換えたこともあります(笑)。
小さいときから音楽をやっていて、音楽大学でオペラを学んだあと、イタリアにもしばらく留学して、真氣光研修講座では、生駒で行われるようになった1994年5月から音感行法をやってくれているよね。
貴恵:
先代から、講義だけだと受講生も退屈するから音楽会をやってくれないかと言われて、音感行法が始まりました。私はクラシックが専門なのですが、先代からは「クラシックではわからんから演歌をやれ」と無茶な注文が入りました(笑)。でも、演歌ばかりでもまたおかしいでしょ。童謡を入れたり、いろいろ試行錯誤しました。
中川:
それは大変だった(笑)。でも、真氣光研修講座でも音楽が入ると、みなさんほっとしているし、いい雰囲気になるよね。
貴恵:
参加している方によって雰囲気が違いますから、その場にあった歌を歌うようにしています。
基本は、こちらが楽しく幸せな気持ちで歌うことですね。そうじゃないと、いい氣が伝わらないですからね。
中川:
それは大事なことだと思いますよ。参加者の中には、「あの歌、思い出の歌なんです」と涙を流す人もいるからね。歌に癒され、歌で気づくことがたくさんあるみたいだね。
今は、ほかにもあちこちでボランティアで歌ったりしているけど。
貴恵:
2011年の大震災のあと、老人ホームへ行くことが多くなり、母が通っていたデイサービスの施設でも歌っていました。
豊島区でも「歌って健康講座」と言うのをボランティアでやっています。
小原田:
由香子さんは昨年の8月から「しんきこうカフェ」を、貴恵さんは4月から東京センターで「音だまスイッチ」というワークショップを始めました。このお話はあとから詳しくお聞きします。
三本の矢とか三位一体とかよく言いますが、こうやって会長と妹さん2人が、それぞれの得意な分野で真氣光を広げていくというのは、先代が仕組んでいることではないかと思ったりもします。ひとつの節目を真氣光も迎えているのではと思えてなりません。どんな展開が起こってくるのか、すごく楽しみです。

<後略>

2019年3月28日 エス・エー・エス 東京センターにて 構成/小原田泰久

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長を経て、82年埼玉県川越市に帯津三敬病院、2005年に東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。人間まるごとのホリスティックな医療を実践している。帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会名誉会長。著書は、「粋な生き方」(幻冬舎ルネッサンス)「ドクター帯津の健康暦365+1」(海竜社)「健康問答」(平凡社・五木寛之との共著)など多数。

『潔く、はりがあって、色っぽい。そんな粋な生き方で養生を極める』

先代とは上海で初めて会って、 被曝したインディアンの治療にも行った

中川:
先生、お久しぶりです。私が「氣―こころ、からだ、魂を満たす光のエネルギー」という本を出したときに、対談をお願いして以来ですから、7年ぶりくらいでしょうか。
帯津:
そんなになりますか。会長は、いくつになられました?
中川:
55歳です。先生は、うちの父親と同じで1936年生まれですから、80歳になられたんですよね。お元気ですね。
帯津:
そうそう、先代の中川先生とは1ヵ月くらい、私のほうが早く生まれているんです。いくつでしたか、お亡くなりになったのは。
中川:
59歳の12月でした。あと3ヶ月くらいで60歳だったのですが。
帯津:
じゃあ、20年以上もたつんですね。楽しい人でしたね
中川:
先生が最初に先代に会われたのは、中国だったですよね。
帯津:
1988年でしたね。上海で「国際氣功シンポジウム」というのが行われたんですね。第二回目で、日本からもたくさんの方が参加されていました。もう亡くなられましたが、ユング心理学の研究で有名だった湯浅泰雄先生とか、氣功とカイロをやっていたひげの吉見猪之助さん、山内式気功体操の山内直美さん、日本気功科学研究所の仲里誠穀さん、日本気功協会の山本政則さんとか、その後の日本の氣の世界をリードしていく面々がそろっていました。いずれも、個性豊かな人でしたね。
そんな中に混じっても、中川先生は目立っていました。何しろ、髪の毛が真っ白、白い顎ひげでしょ。氣が出る機械・ハイゲンキもインパクトありましたよ。
中川:
怪しさプンプンですよね(笑)
帯津:
いやあ、あれくらいがいいんですよ。これから氣を広めていかなければならないときですから、ああいう目立つ人を、神様は送り込んだんじゃないですか(笑)。
上海から帰って来て、中川先生から電話があって、一緒に飲もうということになりましてね。そのときに、夢に白髭の老人が出てきて、明日から氣を出せと言われたという話を聞きました。
下田の一週間の合宿も見学に行かせていただきました。
中川:
そうでしたね。それから、アメリカインディアンのホピ族が住む村へ同行してくださいましたよね。
帯津:
1994年の8月でしたね。一緒に行ってくれないかと言われて、ちょっと難しいかなと思ったのですが、当時から場のエネルギーにとても興味があって、インディアンが聖地だと崇めている場所はどんなエネルギーなのだろうと思って、スケジュールを調整して行きました。
飛行機の中では隣同士だったのでゆっくりと話ができました。機内食を、「おいしい、おいしい」と言って、本当に嬉しそうに食べている中川先生の姿に感心しました。ああ、この人は素直な人なんだなと、ますます好きになりましたね。
中川:
食べるのが好きな人でしたから。ホピの村へは、ウランの採掘で被曝した人たちの治療に行ったんですよね。
帯津:
そうなんですね。「ホピの予言」という映画を作った宮田雪きよし監督が案内してくれました。最初は、ホピ族やナバホ族の被曝者が入院している病院へ行ったのですが、治療の許可が出ませんでした。それで、個人の家を訪ねたり、コミュニティセンターのようなところで治療会をやったりしました。
コミュニティセンターのときは、最初は数人だったのですが、その人たちが家へ帰ってからまわりの人に話すものだから、次々と人が集まってきました。トラックの荷台に人がびっしりと乗ってやってきたのにはびっくりしました。
中川先生だけでは追いつかないので、私まで氣功治療をすることになりまして。それにしても、すごい人でした。
中川:
ホピの予言の岩絵も見られたんですよね。
帯津:
見てきました。ホピの大地のエネルギーはすごかったですね。あるところでは、写真を撮ろうとしたらシャッターが切れませんでした。私のカメラだけじゃなかったので、何かエネルギーの影響があったのかなと思います。
長老のマーティンさんの家も訪ねました。生のニンジンが出てきたので、それをかじりながら話を聞いたわけです。
なかなかできない体験をさせていただきました。
帰りの飛行機は、ビジネスクラスが予約してあったのですが、何かの都合で、ファーストクラスに乗せてもらいました。ホピの神様からのプレゼントだと、中川先生と楽しく話したのを覚えています。

<後略>

(2016年4月26日 埼玉県川越市の帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

粋な生き方 病気も不安も逃げていく「こだわらない」日々の心得
帯津 良一 著 
(幻冬舎ルネッサンス)

4月 「田沼 靖一」さん

田沼 靖一(たぬま せいいち)さん

1952 年山梨県生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。米国国立衛生研究所(NIH)研究員等をへて、現在、東京理科大学薬学部教 授。細胞の生と死を決定する分子メカニズムをアポトーシスの視点から 研究している。主な著書に、「ヒトはどうして死ぬのか」(幻冬舎新書)「ヒ トはどうして老いるのか―老化・寿命の科学」(ちくま新書)「遺伝子の夢 ―死の意味を問う生物学」(NHK ブックス)などがある。

『細胞の死があるから個体は生きられ、個体の死があるから種は繁栄する』

がんやアルツハイマー病は、細胞の死と深くかかわっている

中川:
先生の書かれた「ヒトはどうして死ぬのか」という本を、とても興味深く拝読させていただきました。遺伝子というレベルから死を語るというのは、とても新鮮に感じました。本を読みながら、どこかでこの話を聞いたことがあるなと、気になっていたんですね。しばらく記憶を探っていまして、そう言えば爆笑問題がやっているNHKの番組で、先生が死の話をしていたぞと思い出したんですよ。
2年くらい前ですかね。それで、もっとお話をお聞きしたいなと思っておうかがいしました。今日はよろしくお願いします。
田沼:
こちらこそ、よろしくお願いします。会長が見られたのは、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組ですね。「ヒトはなぜ死ぬのか」というテーマで、2007年の6月に放送されました。会長が読んでくださった本は、去年、出たものです。
中川:
本は「どうして」で、テレビは「なぜ」だったんですね。
田沼:
「どうして」には、「どのようにして」と「なぜ」の両方の意味があると思うんですね。どのようにして死んでいくのかとか、どのようにして老化していくのかというのは、サイエンスになりますね。しかし、なぜ死ぬのかとか、なぜ年をとるのかということになると、人それぞれ考え方が違いますから、多分に哲学的な問題になってきます。
中川:
なるほど。サイエンスだという意味を込めて、ご著書は、「どうして」とされたんですね。でも、死というのは、なかなか科学では扱ってこなかったテーマじゃないでしょうかね。扱いにくいということもあるでしょうしね。
田沼:
死が生命科学で取り上げられるようになったのは、ここ20年ほどじゃないでしょうかね。それまでは、死というのは科学ではとらえられてきませんでした。どうしても、死というと宗教が扱う領域でしたから。
でも、がんとかアルツハイマー病とか、社会問題にもなるような病気が増えてきて、そこに細胞の死が関係しているということがわかって、死が科学的にとらえられるようになってきました。
がんというのは、細胞が死なないから怖いんですね。肝臓の細胞は1年くらいすると疲れてきて新しい細胞にリニューアルされます。しかし、がん細胞はいつまでも増え続けます。死を忘れた細胞ですね。
アルツハイマー病は、その逆で、神経細胞が死んでいくスピードが非常に速まってしまったために起こる病気です。
中川:
がんもアルツハイマー病も、現代人がもっとも恐れる病気ですよね。それが細胞の死と関係があるというのは面白いですね。片方は死を忘れ、片方は死に急ぐという正反対の動きですが。
でも、先生は、どうして死のことを研究しようと思われたのですか。
田沼:
私の専門は、生化学・分子生物学という分野です。研究はもっぱら、「生物の細胞がどのように増殖・分化するか」ということです。つまり、細胞がどのようにして生きているかを解明するための研究でした。
私はまた、遺伝子が傷ついたときに、どのように修復するのかということも研究していました。がんは、細胞内の遺伝子DNAが活性酸素などで傷ついて、それが十分に修復されずに変化してしまい、細胞が無秩序に増殖していくことで発生します。修復能力が高まれば、がんを防ぐことができるわけですね。DNAが修復されるというのは、どういうメカニズムで行われているのか、それが知りたくて研究をしていました。
中川:
つまり、生きるという方向での研究ですね。それが、どう死の研究につながっていったのでしょうか。
田沼:
修復のメカニズムを調べるには、遺伝子を傷つけないといけませんね。放射線や紫外線を当てて、遺伝子に実験的に傷をつけ、どういう酵素が働いて修復されるのかを見ていくわけです。
その実験の過程で、ときには放射線を当て過ぎて、細胞が死んでしまうことがあります。そんなときは、放射線を強くかけすぎた、失敗しちゃった、今度はもう少し弱くしようと、そう考えるのですが、あるとき、ふと思ったことがあったんです。細胞というのは、修復できるとか、修復できないから死んでしまうという判断をどうやってするんだろうと疑問になりました。
修復の限界点というのを細胞は決めているのではないだろうかと思いました。それは、今までのように、生きる方向からの研究ではわからないだろう、それなら死の方向から研究をしようと、そんなことを思ったんです。

(後略)

(2011年1月31日 東京理科大学野田キャンパスにて 構成 小原田泰久)

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒。東京大学第三外科、共立蒲原病院、都立駒込病院を経て、1982年に埼玉県川越市に帯津三敬病院を開院。2004年東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。現在、帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会会長、日本ホメオパシー医学会理事長など。『大養生』(太陽企画出版)『あるがままに生き死を見つめる7つの教え』(講談社)『健康問答』(共著・平凡社)など多数の著書がある。

『倒れるまでまい進する。ゆっくりするのは死んでから。』

先代とは20年前に上海で初めて会った

中川:
ご無沙汰しています。ハイゲンキ誌への原稿、いつもありがとうございます。相変わらず、お忙しそうですね。
帯津:
こちらこそ、ご無沙汰です。なかなか時間がとれずにすいませんでした。今日も、横浜で講演があって、その帰りに寄らせていただきました。会長と、お会いするのは何年ぶりでしたかね。
中川:
もう、ずいぶん、お会いしていませんね。川越の病院へおうかがいして、先生のお部屋でお話をうかがったのを覚えていますが。
帯津:
そうだ、そうだ。確か、漢方薬のことでお見えになりましたね。
中川:
えーっと、あれはまだ先代が亡くなる前のことだったと思います(笑い)。
帯津:
そんな前になりますか(笑い)。いずれにせよ、久しぶりですね。先代が亡くなって13年でしたね。会長も、貫禄が出てきて、ずいぶんと板についてきたじゃないですか。
中川:
いや、まだまだ戸惑うことばかりですが、周りの方に助けられて何とかやっております。¥r¥n先生には、先代のころからお世話になっていますが、先代とお会いになったのは、いつごろのことですか。
帯津:
1988年に、上海で第二回国際気功検討会というのがありまして、私も日本気功協会の山本理事長に誘われて参加したんですね。がん患者を集めて氣功をやっているというのが少しずつ知られるようになった時期で、ぜひ上海でしゃべってほしいと言われましてね。でも、開業医ですから、なかなか病院を空けられません。最初は断っていたんですが、どうしてもと言われるので、しぶしぶ参加しました。そしたら、そこにはなかなか個性的な方が集まっていましてね。中川さんでしょ、それに大阪の吉見猪之助さん、名古屋の林茂美さん、京都の山内直美さん、それに湯浅泰雄先生がいましたね。小原田さんとも、そこではじめて会いました。
中川:
20年前のことですね。先生が病院を開業されたのが1982年でしたよね。それから6年くらいたっていますから、氣功もかなり認知されてきたころでしょうか。
帯津:
そうですね。認知されるまではいかなくても、開業したころとは大分、事情が変わってきていました。
中川:
先生は、中国で氣功のことを知って、がん治療に氣功を取り入れるられたわけですけど、そのへんの経緯を教えていただけますか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
私は、若いころ、柔道や空手、柔術をやっていました。柔術が強くなるため呼吸法を習いました。氣功というのは、『調身』『調息』『調心』という三つの要素が必要です。逆に言えば、この三つの要素があれば氣功と言ってもいいわけですね。そう考えると、呼吸法はもちろんですが、柔道も空手も柔術も氣功と相通じるものがあるだろうと思ったんです。姿勢を正して、息を整え、心を落ち着かせるということですね。これは、生きるための基本でもあります。それが医療として行われていることにとても魅力を感じました。

<後略>

(2008年4月30日 東京池袋の (株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

2月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学第三外科、静岡県共立蒲原総合病院外科医長、都立駒込病院外科医長を経て、1982年、帯津三敬病院を設立。日本ホリスティック医学協会会長、調和道協会会長、北京中医薬大学客員教授などを歴任。主な著書に『ガンを治す大辞典』(二見書房)、『現代養生訓』『<いのち>の場と医療』(以上、春秋社)、『ガンになったとき真っ先に読む本』(草思社)など多数。

『明日はもう少し良くなっているという期待をもって眠る。そんなささやかな希望をサポートする医療を実現する。』

先代とのホピの村への旅は本当に楽しかった

中川:
すっかりごぶさたしてしまいまして。先生とお会いするのは、7年ぶりくらいですかね。
帯津:
それくらいになりますか。ロンドンのスピリチュアルヒーリングの研修ツアーに一緒に行って、天河神社のドクター・ヒーラーネットワークでお会いして、それ以来かなと思います。だから、そんなものですか。
中川:
先生には、先代の時代からいろいろとお世話になってきました。つい先日(12月11日)が、先代の命日でした。まる7年になります。早いものです。
帯津:
そうですか。もうそんなになりますか。懐かしいですね。
先代とは、あちこちの氣功の集まりでお会いして、面白いお話をたくさん聞かせていただきました。
ホピの村へは一緒に行きましたし。あれは、楽しい旅でしたよ。
中川:
この間、アメリカへ行ってきまして、ホピの村の近くまで足を伸ばしました。先代が帯津先生と一緒に来た場所だと、何となく感慨深く景色を見てきました。
帯津:
モーテルでカレーを作って食べたり、ああいう旅をするチャンスはなかなかありませんね。そうそう、帰りの飛行機では、ビジネスクラスだったのが、ファーストクラスへ移ってくれと言われて。儲かっちゃったなとうれしくなりました(笑い)。
中川先生のそばにいると、こちらまでウキウキしてくるようなところがありました。機内食でも、『こりゃうまい、うまい』って、本当においしそうに食べていましたから。
中川:
食べることが好きな父でしたから。
帯津:
会長は、先代が亡くなってその跡を継がれたわけですが、まったくの別世界から入ってこられて、すんなりとなじめましたか。
中川:
いやー、なかなか大変でしたよ(笑い)。もともとはエンジニアですから。一応、父の会社で働いて、亡くなる前は、あちこちついて歩いて、勉強のようなことをしましたが、それでもそばで見ているのと、実際に自分でやるのとは大違いですね。毎日が発見でしたし、いろいろな人に教えていただいて、何とかやってこれたかなと思います。
帯津:
7年と言えば、かなり経験も積まれて、たくましくなられたと思います。この雑誌(ハイゲンキ・マガジン)をいつも送っていただくので、楽しく拝見しています。雑誌を見ていても、勢いが出てきたなと感じます。
中川:
ありがとうございます。先生もずいぶんとお忙しいでしょう。
帯津:
忙しいことは忙しいですね。病院の仕事のほかに、講演があったり、水曜日は休みになっているのですが、埼玉県立大学に頼まれて、毎週一時間目に講義をもっているものですから、休んでもいられません。
横浜に神奈川看護大学というのがあるのですが、そこも毎年呼ばれています。とにかくその場所に体をもっていかなければならないことが多いので、時間のやりくりは大変ですね。
中川:
看護大学というと看護婦さんの卵ですね。これから医療に携わる人ですから、先生の話を楽しみにしている方が多いんでしょうね。
帯津:
すごく熱心ですよ。看護大学にはガン看護課程というのがあって、半年間でガン患者を介護するプロフェッショナルを養成しようという講義や実習があります。私は、ガンの東洋医学的な疼痛対策というテーマに呼ばれるのですが、東洋医学の話もするけど、ほとんどホリスティックな話に終始しますね。死の問題とか患者さんとの付き合い方を話すのですが、みなさん、喜んでくださいます。講義が終わると、控え室まで来てくれて、感想を述べてくれたりします。すごくうれしいですね。
埼玉県立大学でも、理学療法士科や社会福祉学科という医療関係に進む人たちに講義をしますが、彼らも熱心ですね。試験をやっても、力のこもったレポートを書いてきてくれます。やりがいはありますね。
中川:
ホリスティックな話ということですけど、どんなお話をされるのですか。
帯津:
死のことはもちろんですね。患者さんとは一方通行の関係ではいけないといった話もしますね。パワーをもって接する必要がある。だけど、パワーだけではいけない。ときには、一瞬にして弱々しくなれて、患者さんと痛みを分かち合えるようにもならなければならないといった話ですが、みんな一生懸命に聞いてくれます。
彼らには、自分たちが医療者として、日本の医療に貢献していきたいという志があるように思います。

<後略>

(2002年12 月13日 帯津三敬病院にて 構成 小原田泰久)

2000.09「江本 勝」さん

江本 勝(えもと・まさる)さん

1943年生まれ。横浜市立大学卒。(株) 地産、中部読売新聞社などを経て、 1986年に(株) I.H.M.を設立。1992年10月に「オープン・インターナショナル・ユニバーシィティ」より、代替医療学博士の認定を受けライセンスを交付される。米国で共鳴磁場分析器やマイクロクラスター水に出会い、水の特性や波動の研究に取り組み、水のもつ本来の姿が結晶から判明することに気づき、ユニークな実験を続けている。現在、I.H.M.総合研究所所長、(株)I.H.M.代表取締役、(株)I.H.M.国際波動友の会代表。著書「波動時代への序幕」(サンロード出版刊)、「水からの伝言」(編著、波動教育社刊) 「水は語る」(成星出版)他、多数。

『水の結晶が物語る「波動」の不思議』

水を通して「命」を知る

中川:
はじめまして。先生の「水からの伝言」を読ませていただきました。私どもの会員さんにもこの写真集を持っておられる方が多くて、全国各地でよく見せていただきました。
江本:
ありがとうございます。いろんな方が読んでくれていますので、嬉しく思っています。出版してからずっと部数が落ちないんですよ。コンスタントに売れているんです。それに、海外での出版も予定されています。
中川:
そうですか。おめでとうございます。これは、水を凍らせて、その結晶を写真に収めたものですよね。「凍らせてみよう」というユニークな発想は、どうして生まれたんですか?
江本:
ひらめきというか、やっぱりどこか上のほうから「やらされている」んでしょうね。
中川:
先生は、もともと水にお詳しかったんですか?
江本:
いや、私はもともと、健康にも宗教にも、全く興味はなかったのですよ。ただ、英語を学んだ経験から、外国と取引する仕事がしたくて、それでまず、アメリカの低周波治療器のライセンス社を作ったのです。治療器を扱い、アメリカの健康産業の人脈も増えてくる中で、水に関する新しい技術が出てきたのを知りました。それは「ロッドウォーター」という名称でしたが、ぜひこれを日本でも紹介したいと思ったのです。アメリカから専門家を招き、DMを送って無料の講演会を行ったところ、なんと550人が集まった。水に対する日本人の関心の高さに、こちらが驚きました。講演自体は難解で、聞いたことのない単語や専門用語ばかりが続くので不評でしたけど(笑)。でも、無料ですからね。
中川:
では、それがきっかけで、先生の水に対する探求が始まったんですね。
江本:
そうです。改めて調べてみると、水に関しては科学的に何も分かっていない。どうして 4℃のときに最も質量が重くなるのか、なぜ水だけが凝固して氷になると比重が軽くなるのか、何も分かっていないのです。後に私はMRAを知って、「これは水を調べるのにも使える」と思いました。調べる中でだんだん分かってきたのは、全ての「物の特性」というのは、結局「水の特性」だということです。もっといえば、「波動」という概念が全てを解き明かすのだと思っています。たとえば、物は目に見えますが、心は目に見えません。しかし、目に見える物を構成している原子は目に見えません。目に見える物も見えない物も、最小単位にすればどちらも目に見えないものなんです。それがいわば「波動」です。たとえば、「病は気から」と言いますが、なぜ「思い」が人を病気にするのかと言うと、その人の体験やストレス、DNA、輪廻の間の思いなどが血液や細胞に同調し、体に原子的な作用として広がっていくからなんです。
中川:
「輪廻」ですか。そういう単語が出ただけで、科学的ではないと言われることはありませんか。
江本:
私自身、見えない世界や宗教などに全く興味はありませんでしたし、十数年前まではただの文化系のおじさんだったんです(笑)。今でも私の基本的なスタンスは「科学的に」ということですし、「あっち系」の人ではありませんよ(笑)。しかし、21世紀は「魂」や「輪廻」といったことを語らずには済ませられない。避けて通れないことなのだと思います。水のルーツを調べてみると、地球に元々水はなかった。水がなければ生命は誕生しないわけです。しかし、地球に氷の彗星が降ってきて、それがいくつも降り注ぐことで、地球に充分な水が出来たんです。これは、証拠が見つかっている、科学的な事実です。その水の中の情報が「さはい」をして、最初の原始的な生命が誕生し、進化し、分化して、現在の私達人間が生まれたわけです。つまり、私達のルーツは地球ではない。宇宙のいずこからか、氷の中の情報として送り込まれてきたということになります。では、なぜ送り込まれたか、ということですが、これには二つ説があります。新しくできた地球という星のお守り役という説、もう一つは修行の場という説です。ここで語るまでは、地球の重力に囚われて、使命のある魂として留まるのです。でも、「もうこれでよし」ということになると、「昇華」といって、魂が質量を持たずに、まるで消えてなくなるように「ふるさと」に帰っていくんです。
中川:
使命があって留まる魂には、物質的な質量はあるのですか。
江本:
人間が亡くなる瞬間に、体重が約30グラム減ると言われています。それが一般的な魂の重さで、魂によって重かったり軽かったりします。悟りに近づいた魂ほど軽いわけです。魂は水でできていて、それが質量になるんだと思います。水でできているから、雨かんむりをつけて「霊」と書くでしょう? 水辺に幽霊が出ることが多いのは、やっぱり水と霊の組成が近いからだと思います。
中川:
私もよく魂の話をするのですが、たしかに重い魂、軽い魂というのがありますね。私は重い魂は暗く感じられることから「影」と呼び、それが明るく、軽くなっていくにしたがって光になっていくのだと思っています。
江本:
重い魂は、恨みや辛さを抱えていますから、いま地球上は、そういう魂で満員御礼なんですよ(笑)。満足して死んでいく魂が少ないですからね。
魂はなにも人間だけが持っているわけではない。動物にもあります。動物でも、自分の生を全うした動物は、満足して死んでいく。だから野生では動物の死骸が見つからないんです。銃殺されたとかいう不本意な死だと、思いが残ってしまうから、体もこの世に残ります。ネズミだって、街にはあんなにたくさんいるのに死骸を見ないのは、肉体ごとスッと消えてなくなるからです。
人間だって、チベットの修行僧なんかは、自分の死を予告して高地に登り、後でその洞窟やテントに弟子達が行ってみると、髪と爪と衣服しか残っていないそうです。
こういう話は非科学的に聞こえるかもしれませんが、実は肉体というのは、原子の結合でできています。それも水素結合が主です。その結合は、こうして生きている間にも、常にくっついたり離れたりすることを繰り返しているのです。この結合を一挙にほどいてしまえば、私達の肉体を構成しているすべての原子は、その極限においては目に見えないものですから、この空間(大自然)に返される。それが死して死骸を残さないことだと思っているんです。
中川:
反対に、重い魂は地球でもう少し使命が残っているわけですね。
江本:
たとえば現在、二年で十三億頭の牛が、食料として殺されていると言います。その彼らが満足して死んでいくとは到底思えない。その彼らが満足して死んでいくとは到底思えない。 一頭当たりの平均体重が五百キロくらいですから、その魂の重さはどれくらいなのでしょう。 仮にいくら軽くても、物質的な質量がある限りは留まる場所が必要です。 でも、外はもう満杯で行くところがない。 しょうがないから、そういう動物の魂が人の体に入り込んできているのです。 人の体は水が多いから入りやすい。 入られた状態が霊障です。 だから現代は、霊障が多くなっているのです。 私は、病気はことごとく霊障だと思っています。 この現象はあと一〜二年で臨界点に達し、未知のウイルスや細菌、悪玉菌などが繁殖していくのではないかと考えています。
中川:
牛さん一頭分が何人の口に入るか分かりませんが、多分数百人分になるでしょう。その人達が「ありがとう牛さん、ああおいしい」と思って食べてくれれば牛の魂にも光が届くのでしょうが、最近は「食べ物を粗末にしてはいけないよ」というような、昔からの大事な知恵が忘れられていますからね。

江本:
私はこの十数年、病気の方のベ一万数千人に波動水をお作りしてきました。喜んでいただけた方も多いですし、奇跡的な治癒の事例もありました。でも中には亡くなった方もあり、そういう命のやりとりを続ける中で、病気は霊障だと考えざるを得ないという結論に至ったのです。この十年は、数十年分にも値することを私に教えてくれました。この写真集『水からの伝言』は、はっきり言えば「霊の正体」と同等のものを撮影したものです。それを写真にして見せたことに価値があるのです。だから宗派にかかわらず、いろいろな宗教団体の方々がまとめて買っていかれます。写真は万国共通ですから分かりやすいし、取っつきやすいですからね。
中川:
そこまで明快に「霊」を語られる方も珍しいですね(笑)。「霊」の写真集ですか、そう考えるとすっきりして分かりやすいですね。(つづきはハイゲンキマガジン2000年9月号で・・・)

構成/小原田泰久

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