03月「 旭丘 光志」さん
旭丘 光志(あさおか・こうじ)さん
1938年1月2日樺太豊原市(現ユジノサハリンスク市)生まれ。ADデザイナー、劇画化、シナリオライターをへて、1977年より小説、評論、ノンフィクションを執筆。ノンフィクションは主として、教育分野と医療分野をテーマとしてきた。劇画『ある惑星の悲劇』劇画『レッツゴーJF・ケネディ』TV『特別機動捜査隊』小説『中川一郎怪死事件』『アイヌモシリ独立戦争シャクシャイン』ノンフィクション『山村留学』『つらい痛みが3分で消えた』など著書多数。
『真氣光の始まりを目撃し、 貴重な記録として残してきた』
先代のいつも笑顔で 威張ることのない姿にひかれた
- 中川:
-
旭丘先生、ごぶさたしています。
実は、今年は先代が生きていれば90歳になる年です。氣の中継器のハイゲンキが生まれて40年になります。
旭丘先生はハイゲンキが誕生するあたりから先代を取材してくださっていて、初期の真氣光のことをご存知の貴重な方です。『つらい痛みが消えた』『医療気功の衝撃』『霊象の真実』といった真氣光に関する本も書いてくださいました。
当時のこと、いろいろお聞かせいただければと思い、お訪ねしました。 - 旭丘:
-
私は今年の1月2日に88歳になりました。足腰が弱ってしまって、昔みたいに動き回ることができなくなりました。寂しいですが、こうやって懐かしい方が訪ねて来てくださるのはうれしいですよ。
でも、記憶力も低下してきていますので、40年も前のこと思い出せるかな(笑)。 - 中川:
-
私は1月1日生まれです。お正月だと、どこもかしこも「おめでとう」だらけで、改めて誕生日のお祝いはやらないですよね。誕生会をやってもらった記憶はないですよ(笑)。 - 旭丘:
- 同じですね。ははは…。
- 中川:
- 先生は樺太(サハリン)で生まれて、終戦後に札幌に引き揚げられたそうですね。うちの母方も樺太からの引揚者です。
- 旭丘:
- そうでしたか。私は豊原市というところで生まれました。今のユジノサハリンスク、サハリン州の州都ですね。
- 中川:
- ソ連は終戦になってから攻めてきたんですね。
- 旭丘:
-
私は小学校3年生でした。近所の人がたくさん殺されましたよ。私のところはキツネの牧場をやっていました。牧場は何十町歩もあって、中には川が流れているような広いところでした。キツネも300頭以上いたんじゃないかな。
引き揚げの一年ほど前、親父はソ連の人たちにキツネの飼い方を教えていました。そうでないと接収後、困るので。それで殺されなかったんですね。
「宗谷」という船で引き揚げてきました。最後の引き揚げでした。「宗谷」は戦後、南極観測船として活躍しますが、戦時中は帝国海軍の船として物資の輸送や測量船として活躍していました。魚雷が命中したけれども、それが不発弾だったり、米軍の大編隊から銃撃されても生き残るなど、すごい強運の船だったようですね。
あのとき、ぼくはひどいやんちゃ坊主で、みんなが港で船を待っているのに、一人で小学校の屋上で寝ていて、置いて行かれるところでした(笑)。みんなが必死に探してくれて、ギリギリのところで帰ることができました。すごく怒られたのを覚えています。 - 中川:
- 先生はもともとは劇画を描かれていたんですよね。
- 旭丘:
- いろいろやりました。最初は広告デザイナーでした。その後、劇画は少年マガジンとかにも連載しましたし、小説もノンフィクションもテレビのシナリオも書きました。出版もテレビも元気な時代でしたから仕事は面白かったですね。自宅の近くに仕事場を建てて、アシスタントも4人くらい使って、忙しかったですよ。
- 中川:
- そんな中で、1980年代だと思いますが、先代との出会いがあったわけですね。どんな経緯で出会ったのか、覚えておられますか。
- 旭丘:
-
どこでだったかな。定かではありませんが、当時、いろいろな集まりをやっていて、その流れで、同郷ということもあって、中川先生を紹介されたのかもしれないですね。
氣のことはまだオカルトとしてしか見られていなかった時代でしたが、何かピピッと感じるものがあったのではと思います。 - 中川:
- ハイゲンキはもうできていたんでしょうかね。
- 旭丘:
-
まだでしたね。あのころはハイゲンキとよく似た形の治療器でしたが、10数本の針の束をバイブレーターで動かせて、ツボを刺激するものでした。その治療器を販売する仕事をされていました。
ただ、中川先生は単に売るだけでなく、効果的な治療方法についての研究会を作られて、医師や治療家とも協力しながら研究を重ねていました。
普通のハリ治療では考えられないような劇的な治療効果もありました。しかし、面白いことに、同じ治療器を使っても、中川先生がやるのと、ほかの人とでは効果が違ったりしたのです。
このあたりから中川先生は「氣」のことを意識するようになられたのではないでしょうか。よく言われましたよ。「旭丘さん、見えない世界を信じないとダメだよ」って。
ちょうどそのころ、アメリカではエイズの蔓延が社会問題になっていて、ハリ治療は敬遠されるようになりまた。日本でもエイズの患者が出始めましたからね。集合ハリの治療器も売りにくくなっていたと思います。 - 中川:
- なるほど。そういう背景があって、夢に白髭の老人が出てきて、ハイゲンキの誕生につながったんですね。
- 旭丘:
-
ハイゲンキはヘッドの先端部にプラスティックでできた小さなピラミッドが並んでいる構造でしたから、だれもが安心して治療が受けられるし、構造上は考えられないような高い効果が出ましたしね。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
埼玉県・旭丘先生のご自宅にて 構成/小原田泰久
01月「 龍村 修」さん
龍村 修(たつむら・おさむ)さん
1948年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。1973年求道ヨガの沖正弘導師に入門。国内外のヨガ指導に従事。1990年から真氣
光研修講座講師。1994年独立して龍村ヨガ研究所を設立。龍村ヨガ研究所所長、NPO 法人国際総合ヨガ協会理事長などを務める。著書は『龍村式ヨガ健康法 眼ヨガ』『龍村式 ゆがみ解消法』(青春出版社)など多数。
『真氣光40周年。創始者の先代・中川雅仁はこんな人だった 』
先代のいつも笑顔で 威張ることのない姿にひかれた
- 中川:
-
龍村先生には研修講座400回を記念して7・8月号で対談をしていただきました 。今回は2026年が真氣光の40周年ということで、長く真氣光とかかわってくださっている先生に再びお話をうかがいたいと思います 。
先代が会社を作ったのが1985年で、氣の中継器であるハイゲンキを開発したのが1986年です。会社を作ったのが1985年で、気の中継器であるハイゲンキを開発したのが1986年です。1990年に1週間で氣を出せる講座(現在の真氣光研修講座)が始まって、龍村先生は第1回目から講師を務めてくださっています。先代とは出会いはその前の年の夏ごろだったのではないでしょうか。先代のことをご存じない会員さんも多いので、今日は先代のことを龍村先生とお話できればと思います。
- 龍村:
- ハイゲンキができて40年ですか。400回記念といいおめでたいこと続きですね。まずはおめでとうございます。会長がおっしゃるように、先代とは下田での講座が始まる前の年にお会いしています。下田の沖ヨガ道場へお越しになりました。道場を貸してほしいと言われて、社員研修のような形でならいいですよという返事をした覚えがあります。
- 中川:
-
沖ヨガの創設者でヨガの草分け的な存在だった沖正弘先生はすでに亡くなられており、龍村先生は当時、道場長をやっておられたんですね。 - 龍村:
- そうです。沖先生は1985年に亡くなりました。
- 中川:
- 1985年ですか。先代が会社を作った年ですね。これも奇遇なご縁に感じます。先代は沖先生と面識はありませんでしたが、ツボは動くんだというようないわゆる常識とは違う考え方が同じだったり、長い修業が必要とされてきたヨガや氣功をだれでもできる身近なものとして普及させました。先代はロスで沖先生の手書きのノートのコピーをもらったり、ブラジルへ行ったときには沖ヨガを習った方に出会ったりして、道場をお訪ねしたときには沖先生のことを意識していたと思うんですね。龍村先生を通して、沖ヨガと真氣光がつながったというのは必然のような気がしてなりません 。
- 龍村:
- 最初は私もこんなに長くかかわるとは思っていませんでした(笑)
- 中川:
- 研修講座をご覧になってどう思われましたか。
- 龍村:
-
氣を受けると大声を出したり、動き出したりする人がいたじゃないですか。私たちが知っていたのは氣を受けて体が動くというのではなく、自分でゆらゆら動かしながら体をほぐしていくというものでしたから、私を含めてみんな驚いていました。
でも、先代は威張ることもないし、いつもニコニコとうれしそうにしている屈託なさというか人懐っこさというか、だんだんその人柄にひかれていきましたね。 - 中川:
-
研修講座は400回を超えて、先生は最初のころの1回を除いてすべてに参加してくださっていますからね。
その1回は海外出張の予定がすでに入っていて出られなかったそうですが、「いないと困る」と言われたそうですね。 - 龍村:
- 以来、研修講座のスケジュールを常に優先してきました(笑)ありがたいことです。
- 中川:
- 先代も頼りにしていたと思いますよ。本当に深いご縁ですね。
- 龍村:
-
真氣光とのご縁の深まりということで言えば、1994年に研修講座が生駒に移ったときが大きな節目だったかもしれません。その年、ちょうど独立して龍村ヨガ研究所を立ち上げました。あのころはオウムの事件でヨガの教室は閑古鳥が鳴いていました。そんなときの独立ですから先行きにはとても不安がありました。
生駒へ移る前、下田の道場の近くに先代が真氣の社という施設を建てたじゃないですか。足立育郎先生の設計で、氣のバランスを整える装置も設置されていました。これからはそこにいるだけ元気になれる場所が必要になるから、全国に同じような建物を作るという壮大な計画をおもちでした。
下田の真氣の社には見晴らしのいい場所に氣の満ちた露天風呂がありました。そこに先代と二人で入って、独立することをお話ししました。そのとき、独立するなら、生駒へ来て講師をやってほしいと言われました。真氣光にも興味をもち始めていましたし、経済的にも助かるのでとてもうれしい話でした。先代との距離がぐっと近づいた気がしました。
だれに対してでも、新しいことをやろうとしたり、困ったことがあれば手を差し伸べて応援してあげたいという精神をお持ちの方でしたね。 - 中川:
-
私も先代が亡くなって右も左もわからない中で跡を継いだわけですから不安はありました。でも、やらないわけにはいきません。きっと龍村先生が独立したときと同じような心境だったのではないでしょうか。
そんな中で、龍村先生がいてくださったことはとても心強かったです。先代はハイゲンキという氣の中継器だけでなく、龍村先生をはじめたくさんの真氣光を支えてくださる方たちも残してくださいました。そのおかげでここまで続けられました。
生駒の研修所と言えば、氣の環境という面でいろいろ工夫をしていました。建物は借りているものでしたからあまりいじることができません。そこで、床下にびっしりと水晶を埋めました。真氣光のエネルギーで研修所全体を包み込もうとしたんでしょうね。下田では受講した方たち氣を受けたときの反応がすごかったじゃないですか。大きな声をあげたり、体を激しく動かしたり、訳のわからないことを話し出したりする人がけっこういましたよね。霊的な現象だったと思います。先代は“お化け”のせいだと言っていました。そんな人も、氣をたっぷり受けて静かになると、体調も良くなったりしました。
生駒での第1回目の研修講座は拍子抜けでした(笑)。下田とは打って変わってみなさん、静かに氣を受けていました。
研修所にいるだけでじわじわと氣が浸透していって、いわゆる先代の言う“お化け”、私が言う“マイナスの氣”が早く抜けていくようになったのではないでしょうか。先代は場のエネルギーの大切さを確信したと思います。 - 龍村:
-
それで場のエネルギーを最高に高めた真氣の杜を全国に作ろうと考えたのですね。志半ばで亡くなってしまいましたが。 - 中川:
- 真氣の杜は、下田のほかに兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市山崎町)というところにも、足立先生の設計で建てられました。大きなピラミッドハウスがある施設でした。ピラミッドハウスの中でセミナーをやったりしていましたね。下田から生駒に移るとき、全国を回っていい場所はないか探していましたが、山崎もひとつの候補にあがっていました。研修講座は生駒でやることになりましたが、山崎も捨てがたく、真氣の杜として使うことになったのです。
- 龍村:
- そういういきさつがあったのですね。
- 中川:
- 山崎の真氣の杜は先代が亡くなったあと、研修講座でも講師をしてくださった小林正観さんが引き継いでくださいました。正観さんもお亡くなりになって、今はさとうみつろうさんという作家がオーナーをされているようです。スピリチュアルな世界に造詣の深い方で、大きなイベントを開催したりして、ずいぶんとにぎわっていると聞きました。そうやって先代が作った施設が有効に活用されているというのはありがたいことです。
- 龍村:
-
真氣光は、下田での研修講座が始まったころは中川氣功と呼ばれていました。中川先生が始めた氣功ですから中川気功でいいのですが、本人としてはしっくりこなかったのかもしれませんね。中川先生の持ち物みたいになって広がらないと思ったのか、確か会員さんの提案があったと聞いていますが、真氣光という名前に変えました。風貌も考え方もとても個性があって黙っていても目立つ人でしたが、自分を前面に出すのは好まなかったのかもしれないし、氣は宇宙からきているわけですから、自分の名前をつけると小さくなってしまうという思いがあったのかもしれません。そういう意味で真氣の杜も自分とは直接の関係のないところで活用されているというのは、先代の考え方に合っているのではないで
しょうかね。 - 中川:
- そうかもしれませんね。自分の名前を残すためにやっていたわけではなかったと思います。
- 龍村:
- それと、スピリチュアルな雑誌で『アネモネ』ってあるじゃないですか。あの雑誌も先代が始めたものです。真氣の杜と同じで、先代が作ったことをご存知なのはわずかだと思います。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東京・池袋 KÌPLACEにて 構成/小原田泰久
11月「 古見 きゅう」さん
古見 きゅう(ふるみ・きゅう)さん
1978年生。東京都出身。本州最南端の和歌山県串本町にて、ダイビングガイドとして活動したのち写真家として独立。独特な視点から海の美しい風景だけでなく、海の生き物たちの暮らしや繋がり、海の環境問題など、水中のありのままのドキュメンタリーを作品とし、様々な媒体で発表する。近著に『海の聲をきく』(小学館)など多数。 2024年より漫画誌ビッグコミックにて連載コラム『海の聲をきく』を毎号掲載中。
『魚たちの豊かな表情から 海の世界のありようが見えてくる』
熱帯魚のお店で出合った きれいな魚がきっかけ
- 中川:
- 昨年出された超大型写真集『Longing 憧』のことお聞きしました 。びっくりしました 。写真集を開くと、右端から左端までで140センチもあるそうですね 。タテが47センチほどですか 。240ページの厚さで重さが何と13キロ 。そんな写真集、見たことないですよ 。 真氣光の会員さんの尾崎靖さんが編集担当ということでご縁ができて、今回お話をお聞きすることになりました 。うちのスタッフも出版記念の写真展にうかがって、とても感銘を受けました 。 今日はよろしくお願いします 。
- 古見:
- ありがとうございます 。水中写真家になって20周年を記念して作ったものです 。限定30部です 。2004年に写真家として独立して、世界中を旅しながら写真を撮影してきました 。全部で100万点以上ありましたが、4年かけて掲載する作品を選びました 。版元が大きい本を作りたいということで限界に挑戦してくださいました 。一冊一冊手作りです 。表紙も強度を出すために木で布をくるむという工夫がしてあります 。 人にお見せするとき一人ではめくれないですよ(笑) 。
- 中川:
-
展覧会で展示されている写真と同じサイズですよね 。私は、古見さんがこの夏に出された『海の聲をきく』という写真集を拝見しました 。魚たちに語りかけられているような気分になりました 。ほんわかした温かな氣を感じましたね 。 もともと魚が好きで水中写真家になられたのですか 。 - 古見:
- 高校生のころに魚を飼い始めました 。ある日、高田馬場にある熱帯魚のお店に入りました 。多くの方がご存じのグッピーとかネオンテトラという淡水魚はあまりきれいとは思いませんでした 。人工的な色で怖いと感じるくらいでした 。 それに対して海の魚は原色が輝いて見えました 。すごい!と感じて虜になってしまいました 。
- 中川:
- 一目ぼれですね 。
- 古見:
- それで、あんなにきれいな魚に合うにはどうすればいいかと考えました 。ダイビングを仕事にすれば毎日、あのきれいな魚を見て暮らせるとひらめき、高校を卒業したあと、ダイビングの専門学校に入り、和歌山の串本というところでダイビングガイドになり、ダイビングガイドになってから水中写真を撮り始めました 。
- 中川:
- 高田馬場で出合った熱帯魚で人生の方向が決まったのですね 。
- 古見:
- 運命的な出合いでした(笑) 。
- 中川:
- 魚で人生が決まったというのはあまり聞いたことありません 。熱帯魚が輝いて見えたというのはすてきな感性ですね 。だいたい、魚というと食べるものという感覚で見ている人が多いと思います 。でも、彼らも生き物で人間にいろいろなことを教えてくれている存在だと思います 。我々が気づかないだけで、魚も動物も植物も、大切なことを教えてくれているはずです 。 それに海は陸よりも大きくて、陸以上に未知のものがたくさんあって、それも古見さんのような方には魅力だったのかもしれませんね 。
- 古見:
- 最初は魚がきれいに撮れるだけで満足していました 。でも、少しずつ興味の方向性が変わってきて、魚の表情を見るようになりました 。そして、図鑑で長い名前の魚を見つけたりすると会いたくなるのです 。
- 中川:
- 最初の写真がジンベエザメですよね 。13mですか 。潜っている人間の姿も写っていますが、対比するといかに大きいかがわかります 。次のページに斜め前から撮っている写真があって、まさに話しかけてきているような表情ですね 。だけど、こんな巨大な生き物がそばにいて怖くなかったですか 。
- 古見:
- これまでもジンベエザメとは遭遇していましたが、多くは体長5mほどでした 。ジンベエザメは温厚で攻撃性はありません 。襲われないとはわかっていましたが、正直、これだけ大きいとちょっと怖かったですね 。
- 中川:
- 普通、そんな大きな生き物と会うことはないですからね 。
- 古見:
-
こんな巨大な生き物と並んで泳いでいるなんて信じがたいことでした 。尾びれだけで3mはありました 。必死で泳がないと置いていかれます 。頭部に接近すると、掌くらいの目がぼくを見つめるんです 。一瞬たじろぎましたが、その瞳はやさしくて慈しみに満ちていました 。そのあと、ジンベイザメのお腹の方に下がっていくと、下腹部が大きく膨れ上がっていました 。そうか妊娠しているのか、とまたまた感動しました 。今でも彼女のことはときどき思い出します 。まさに一期一会 。またどこかで合うことができたらどんな気持ちになるでしょうね 。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東京都渋谷区代々木上原 citylightbookにて 構成/小原田泰久
9月「 山内 明子」さん
山内 明子(やまうち・あきこ)さん
AKO HOLISTIC VET CARE院長。獣医師、獣医鍼灸師。東京都生まれ。
日本大学農獣医学部獣医学科卒。都内の動物病院に勤務の後、休職して東洋医学の勉強を始める。2016年国際的な中獣医学の教育機関であるCHI INSTITUTE(本部アメリカ)のオーストラリア校で学び、獣医鍼灸師の資格を取る。2019年鍼灸や漢方薬治療を行うAKO HOLISTIC VET CAREを開業。著書に『うちの猫と25年いっしょに暮らせる本』(さくら舎)があります。
『肉体だけでなく 動物たちの心も魂も診る獣医師 動物から教えてもらうことが いっぱいあります』
動物から教えてもらうことがいっぱいあります
- 中川:
- 私どもの会員さんが先生のところで愛猫を診てもらっていて、東洋医学を勉強した先生で、氣のこともよく分かっておられるので、ぜひ対談にと推薦してくれました。先生が書かれた『うちの猫と25年いっしょに暮らせる本』(さくら舎)も興味深く読ませていただきました。獣医師さんで東洋医学というのは珍しいですよね。
- 山内:
- ありがとうございます。最近は獣医師向けに東洋医学を教えてくれるセミナーも増えてきましたが、実際に臨床で東洋医学を主にしている病院は珍しいですね。
- 中川:
-
先生ももともとは普通の獣医師さんだったわけですね。 - 山内:
- 小学生のころから動物が好きで、将来は獣医師になりたいと思っていました。当時は犬を飼っていたし、動物にかかわる仕事というと獣医師くらいしか思いつきませんでした。それで、大学の獣医学科に入り、普通の獣医師をやっていました。忙しいときには体の調子が悪くなることもよくあって、すぐ抗生物質や解熱剤を飲みながら無理して仕事する状態でした。それが当たり前でした。無理がたたって甲状腺の病気になったとき、このままでいいのだろうかと考えました。結婚することになって、将来、子どもをもつならもっと体を大事にしないとと思い、そのときに西洋医学だけでいいのかという疑問が出てきて、東洋医学に興味をもちました。
- 中川:
- ご自身が病気になったのがきっかけで東洋医学の勉強を始められたんですね。
- 山内:
- そうですね。結婚を機に常勤からパートになって時間ができたので東洋医学のセミナーに出たり本を読んだりしました。そのころは動物ではなくて人間の東洋医学ですけどね。東洋医学では臓器ごとに診るのではなくて、臓腑同士の関係性や季節や地域なども考えに入れて診療します。理にかなっているなと思いました。 その後、子どもを授かりましたが、流産の危険もあったりして、仕事が一切できなくなりました。そのときに、妊娠・出産の神秘とか命の大切さを感じて、私の獣医師としての代わりはいても、この子を産んで育てるのは私にしかできないと、しばらくは完全に仕事を離れました。 普通の主婦だったときの体験も貴重でした。まわりには私が獣医師とは知らずに付き合ってくれている方もいましたから、一般の人の目線でペットのことを見ることができました。
- 中川:
- たくさんの気づきがあったのですね。
- 山内:
- 家族の一員として動物たちをかわいがっている様子が伝わってきたり、いろいろな思い、葛藤、悩みをもってワンちゃんやネコちゃんを飼っているんだなって、まわりの人たちのお話からよくわかりました。親の介護や子育てをしている飼い主さんもいますからね。みなさんのお話から、飼い主さんのメンタルが動物たちに大きな影響を与えていることを知れたのも大きかったです。動物たちの病気を治すのが獣医師の仕事ですが、動物だけを診るのではなくて、飼い主さんはどういう気持ちなのかなと考える大切さも感じましたね。血液検査の結果だけでは答えが出ないことがよくわかりました。
- 中川:
- 飼い主さんの氣が動物さんに影響を与えることはよくあると思います。飼い主さんの体調が悪いと、動物さんにも同じような症状が出るという話もよく聞きます。
- 山内:
- 彼らの繊細さと能力はすごいと思います。動物たちから教えてもらうことがいっぱいあります。
- 中川:
- 動物たちは人間以上に氣を感じるのではないでしょうか。
- 山内:
- そう思います。人間はまわりの人と合わせないといけないとか考えるじゃないですか。そうしないと社会生活を営めなくなりますから。感じることよりも考えることを重視してしまうので、 氣に鈍感になってしまうのかもしれません。 動物は本来自由なのですが、飼われている動物は飼い主さんの顔色を見ることが多いですね。自分が気持ちよくても飼い主さんが浮かない顔をしていると大丈夫かなと心配します。もっとここにいたいと思っても、行くよと言われると行かないといけません。 ペットたちは、人間あるいは場が出している氣を敏感に感じながら行動を決めています。ですから飼い主さんの自我が強すぎると、ワンちゃんやネコちゃんも苦悩したりします。
- 中川:
- 飼い主さんがマイナスの氣の影響を受けていると、それを引き受けてくれる動物さんもいるみたいです。
- 山内:
-
そういう面で、動物の具合が悪いときには、動物だけを診るのではなくて、飼い主さんの体調やご自宅の様子などもお聞きするようにしています。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東京・世田谷区 AKO HOLISTIC VET CAREにて 構成/小原田泰久
7月「 永峰 英太郎」さん
永峰 英太郎(ながみね・えいたろう)さん
1969年東京生まれ。明治大学政治経済学部卒。業界紙記者、出版社勤務を経てフリーに。企業ルポ、人物ルポを得意とする。著書『日本の職人技』『「農業」という生き方』(アスキー新書) 『70歳をすぎた親が元気なうちに読んでおく本』(二見書房)『家系図をつくる。』(自由国民社)など 。
『家系のヒストリーを探るのは 最高のエンターテインメント』
偉い人だったと聞いていた曾祖父のことを知りたくなった
- 中川:
-
永峰さんが書かれた「家系図をつくる。」(自由国民社)という本を知り合いからすすめられて拝読しました 。具体的にどうやって調べればいいかが、永峰さん自身の家系を追った体験をもとに書かれていますので、とてもわかりやすくて参考になります 。ご先祖様を知ることは真氣光でもとても大切にしています 。じっくりとお話をお聞かせください 。
- 永峰:
- ありがとうございます。私も氣には興味がありますのでお話をうかがえるのが楽しみです 。
- 中川:
-
家系図の本を書かれていますが、永峰さんは家系図の専門家ではないですよね 。 - 永峰:
- 基本的にはルポライターですから、いろいろな人や企業、出来事を取材して文章にするのが仕事です 。2014年に、母親が末期がん、父親が認知症になって、母親は亡くなり、父は施設に入りました 。親をがんで亡くすのも認知症の親を介護するのも経験がないわけで、何をすればいいのかわからず困りました。たぶん、世の中の多くの人が困惑することで、私の体験は役に立つのではないかと思って、「70歳をすぎた親が元気なうちに読んでおく本」(アスペクト)にまとめました 。それがきっかけで自分自身をルポするようになりました 。
- 中川:
- 私も両親を亡くしていますが、経験のないことなので戸惑います 。
- 永峰:
- たとえば、母が意識を失ったときに、親のお金を銀行で下せないという事態になって、なんで下せないのと慌てました。銀行に掛け合ってもけんもほろろだし、どうして家族なのにダメなんだと憤慨しました。親を介護するのも経験がないわけで、何をすればいいのかわからず困りました。たぶん、世の中の多くの人が困惑することで、私の体験は役に立つのではないかと思って、『70歳をすぎた親が元気なうちに読んでおく本』(アスペクト)にまとめました。それがきっかけで自分自身をルポするようになりました。危篤状態の母親に「暗証番号は?」と聞いたけれども、ほとんど意識がないわけですから答えてくれるはずもありません。本当は静かに見送ってあげるべきときに、銀行の暗証番号を聞く自分というのも嫌だなと思いました。暗証番号を元気なときに聞いておけば介護に専念できたわけです。母は父親の認知症を隠していました。自分で何とかしようと思っていたのではないでしょうか。そのストレスでがんになったのかもしれません。自分自身がノータッチだったのが悔やまれます。
- 中川:
- お住まいは離れていたのですか 。
- 永峰:
- それも悔やまれることです。今鎌倉に住んでいるのですが、その前は両親の住む所沢にいました。母親が末期がんになる2年くらい前に鎌倉に越しているんです。親が年を取っていくのにあえて遠いところ行くのは・・・。親が認知症になるなんてありえないと思っていたし、母親も病気ひとつしなかった人でしたから、がんになるなんてまったく考えなかったですよ 。すべて結果論ですが、反省というか後悔というか、少しでも読者の参考になればいいと思って、自分自身の苦い体験をまとめた本です 。
- 中川:
- 家系図もいろいろ動いて調べておられます。専門家に作ってもらう人も多いようですが、ご自分で作ることでご先祖様のことがよりわかったようです 。そもそも家系図を作ろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか 。
- 永峰:
- 私は失敗ばかりしている子どもでした。失敗するたびに、「あなたはちゃんとできるよ。あなたのひいおじいちゃんは偉い人だったんだよ」と母親が言ってくれたのをよく覚えていました。だから、ひいおじいちゃんがどんな人だったのか、興味はもっていました。2018年に父が亡くなったとき、相続手続きのために戸籍謄本を取りました。そしたら、父の婚姻時の本籍が、「東京都台東区浅草橋」だとわかりました。僕が生まれてすぐに幕張に引っ越して、そこで幼稚園時代まで過ごして、その後はずっと所沢でした。僕が生まれた病院は葛飾区の立石に住んでいたのだろうなとは思っていましたが、浅草橋だということでびっくりです。「父親のこと、何も知らかった」と愕然として、父親やひいおじいさん、もっと前のご先祖様がどんな人生を送ったのだろうと、いろいろ調べ始めました。
- 中川:
- 親が亡くなったときくらいしか戸籍謄本は見ないですからね。戸籍もいろいろあってややこしいです。
- 永峰:
-
戸籍には全員が記載されている「謄本」と特定の一人が記載されている「抄本」があります。家系を調査するときには謄本を使用します。戸籍謄本は、記載されている人が、死亡、離婚、婚姻、転籍すると、その戸籍から抜けることになります。それを「除籍」と言います。除籍によってだれもいなくなった戸籍は除籍簿に入れられ、この戸籍を「除籍謄本」と言います。また、戸籍法が改正されるたびに、書式が変わります。
改正前の戸籍を「改正原戸籍謄本」と言います。家系を調べるときには、これも手に入れると、より詳しい情報がわかります。
- 中川:
- 戸籍謄本、除籍謄本、改正原戸籍謄本を手に入れるということですね。
- 永峰:
-
どれも市役所や区役所へ行けばとれます。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東京池袋・KÌPLACE(キープレイス)にて 構成/小原田泰久
5月「 坂本 敬子」さん
坂本 敬子(さかもと・けいこ)さん
1961年茨城県生まれ 。86年に月の井酒造店6代目蔵元坂本和彦さんと結婚 。87年長男・直彦さん、92年次男・貴彦さん、94年長女・有沙さん誕生 。2004年2月、和彦さん死去により株式会社月の井酒造店の代表取締役となり、和彦さんの思いを引き継いで有機のお酒「和の月」を完成させる 。著書『さいごの約束一夫に捧げた有機の酒「和の月」』(文芸春秋)
『がんで倒れた夫。 彼の生きた証として造った有機のお酒 』
ご主人の病気によって人生が激変。7代目の蔵元に
- 中川:
- 茨城県の大洗。地名は聞いたことがありますが、初めてうかがいしました。東京から車で2時間ほどですかね。 今回のゲストの坂本敬子さんは、大洗にある「月の井酒造店」の代表取締役 。慶応元年(1865年)創業ということですから、160年の歴史をお持ちの由緒ある酒蔵です 。20年以上前に志半ばで亡くなられたご主人の跡を継ぎ、7代目の蔵元として有機にこだわったお酒を造られています 。坂本さんが2005年に書かれた「さいごの約束」(文芸春秋刊)を読ませていただきましたが、40代のご主人が末期の食道がんと診断されて、何とか元気になってほしいと懸命にがんばる姿には感銘を受けました 。
- 坂本:
- わざわざ大洗までお越しいただきありがとうございます。 来年の2月で主人の23回忌になります 。主人ががんになったとき、すぐに余命を宣告されて、あのときは治したい!少しでも役に立ちたい!という一心で細かく記録を残しました 。別の病院で診てもらうときも、前の病院ではどんな治療をしたかというデータがとても大切だと痛感したものですから 。そのとき闘病記録を書きながら日々のことをメモしていたので、それをもとにまとめた本です。読んでいただきありがとうございます 。
- 中川:
-
会社を継ぐことになり、本が出版され、その後テレビドラマにもなりました。ご主人の病気によって、人生ががらりと変化しましたね 。 - 坂本:
- 私は主人が病気になるまでお気楽な専業主婦でした。手帳を開けるといつも友だちとのランチの予定ばかりが書かれていましたから(笑) 。主人の病気、そして亡くなってしまったことによって確かに日々の生活は大きく変わりました 。主人が亡くなったあと、社長になりましたが、私はレジ打ちと酒蔵見学の案内をするくらいしか仕事を手伝っていなかったので、どうやって日本酒を売ればいいか?さっぱりわからなかったのです 。主人のために必死に造った大切な有機の酒なので、東京の有名な酒屋さんにもって行ったら、有機だからと言って何がいいの?値段が高いだけで意味がないと言われ途方にくれたこともあります 。そんなとき、残間恵理子さんというメディアプロデューサーが知り合いだったので、どうすればいいかと相談したら、有機のお酒は珍しいから新聞に投稿してみたらとアドバイスしてもらったんです 。朝日新聞に投稿したところ、社会面に大きく紹介されました 。テレビ欄をぱっとめくると「遺志刻む 妻の酒」というタイトルで、私がそのお酒をもっている写真が載っていて、本当にびっくりしました 。その新聞記事を読んだたくさんの出版社から、本を出しませんか と話がきました 。本を出す気はなかったのですが、文芸春秋の編集者さんと時間をかけて色々な話をしているうちに、この方なら信用できるかなと思ってお引き受けしました 。本が出版されると新聞や電車の中吊り広告にまで紹介記事が出たり、大きな書店で平棚に積まれたりして、またまた驚きました 。本の反響もすごくて混乱していると、各TV局が「ドラマにしませんか」と声をかけてくださいました 。
- 中川:
- すごい展開ですね。
- 坂本:
- 制作会社の方が最初にもってきた台本では、主人の役も私の役も、あまりにも有名な俳優さんだったので、またまたここでも驚きました。何しろ大スターのアイドルと超大物俳優さんだったので恐れ多すぎてちょっとお受けできないとお断りしました。それでも、制作会社の人があきらめずに、次にもってこられたのが、舘ひろしさんと安田成美さんのキャスティングだったのです。安田さんには私と同じようにお子さんが3人いらっしゃり、ご主人はとんねるずの木梨憲武さんです。安田さんと最初にお顔合わせしたとき、「憲ちゃんがもし具合が悪くなって、突然、自分が敬子さんと同じような立場になったらどうするんだろうと、自分のことに置き換えて考えさせられた。子育てで遠のいていたお仕事だけど、女優復帰作としてやってみたい」と、おっしゃって下さったそうです。その言葉で、なんとなく親近感が湧いてお任せすることにしました。
- 中川:
- 本が出てドラマにもなって、まわりの反応はいかがだったですか。
- 坂本:
- 今の私だったら、本をこともドラマのことも、上手に宣伝に使えるかなと思います(笑)。でも、あのときはまわりが気になって逆に話題にしたくなかったですね。
- 中川:
- いろいろ言われたりしましたか。
- 坂本:
- あわれな未亡人を演じてお酒を売りたいのかと心無い言葉を言われたりして、それがすごくつらかったですね。主人の同級生とか応援してくださる方もたくさんいましたが、私からはメディアに売り込んでいないし、流れに身を任せていただけなのに、なんでそんなことを言われなければならないのかと涙が出ました。
- 中川:
-
どんなにがんばっていても、いいことをやっていても、その姿を見ないで足を引っ張ろうとする人はいますよね。マイナスの方ばかりに目が向く人です。自分が坂本さんと同じ立場になったら、応援されてどれほどうれしいか想像できるはずです。もう少しだけ想像力を働かせれば、心無いことは言えないはずです。
- 坂本:
-
本当に悲しかったですね。そのあともいろいろありました。やっと会社が軌道に乗ってきたと思ったら、3・11があってまたどん底です。そこからがんばって這い上がってきたら新型コロナ。7代目だからラッキーセブンだと思っていたのですが、とんでもなかったですね(笑)。でも、もともと楽天家ですから、なるようになるかなと思って乗り切ってきました。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
茨城県東茨城郡大洗町の月の井酒造店にて 構成/小原田泰久
3月「 大門 正幸」さん
大門 正幸(おおかど・まさゆき)さん
中部大学大学院教授、米国バージニア大学医学部客員教授。1963年三重県伊勢市生まれ。もともとは唯物論だったが、長女の誕生、親友の死、次女が語る過去生記憶などの体験から肉体はなくなっても魂は存在し、自分たちを守ってくれていることを実感し、専門である言語研究に携わる一方で、生まれ変わりを科学的に検証し始める。著書『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社)『生まれ変わりを科学する』(桜の花出版)など。
『人間の本質は意識や魂であると知ると人生が輝き出す』
過去生の記憶を語り出す子どもたちが増えている
- 中川:
- ご無沙汰しています。先生とは2015年2月号で対談させていただきました。ちょうど10年前です。 この間はテレビでも拝見しましたが、先生の研究されている「生まれ変わり」についての見方もずいぶんと変わってきたように思います。
- 大門:
-
私が過去生の記憶をもつお子さんに初めてインタビューしたのは2010年でした。トモ君という当時10歳の男の子です。日本に生れる前はイギリスで料理屋さんをやっている人の子どもだったという記憶をもっていました。イギリスでの両親のことや自分がイギリスで体験したいろいろな出来事を話すので、お母さまは心配して病院へ連れて行ったりしました。しかし、病院では過去生を扱ってませんから(笑)、お母さんの不安や心配は解消されませんでした。
- 中川:
-
過去生のことは親御さんもわからないでしょうから戸惑いますよね。 - 大門:
- 会長も見てくださった「クレイジージャーニー」というテレビ番組は怪しげなものとしてではなくまじめに過去生を扱ってくださいました。ユウ君という過去生の記憶をもつ10歳の男の子を取り上げた番組でした。あの番組を見たトモ君のお母さんは、自分にもユウ君の母親の心配する気持ちはよくわかるし、最後にユウ君と一緒に過去生の人物の家族に会えて本当に良かった、いいお仕事をされましたね、といった内容のうれしいメールをくださいました。
- 中川:
- ユウ君は3歳くらいから過去生のことを話すようになって、その内容から2011年9月11日の同時多発テロで亡くなった男性の生まれ変わりではないかと考えられ、先生と一緒にユウ君の過去生はだれだったのか探るという内容でしたね。最後には、ユウ君の過去生である可能性が非常に高いという方のご家族と面会するという感動的なお話でした。ユウ君と過去生の人物だと思われる方の間にはいろいろな共通点があって、びっくりしました。 面会のときにユウ君のそばにいたお母さんもほっとした表情でした。 たぶん、トモ君やユウ君のような子どもはほかにもたくさんいると思います。親は病気なんじゃないだろうかと不安になるでしょうが、ああいう番組があると、いきなり病院へ行くのではなく、先生に相談すると考えたりもするでしょうね。
- 大門:
- 今ではコンスタントにお話を聞くくらいはあちこちから連絡をいただきます。
- 中川:
- 生まれ変わりの研究はバージニア大学が世界的な拠点になっているわけですね。何人くらいの研究者がいるのですか。
- 大門:
-
現在は12人です。生まれ変わりだけでなくて臨死体験を中心にやっている人もいるし、霊媒現象を研究している人とか、脳の仕組みも含めて幅広くやっている人とか、いろんな方がいますね。 心とか意識というのは人間の体とは独立しているのではないか。それを追求するのが研究の目的のひとつです。そう考えざるを得ない事例がたくさんあるので、証拠固めをして、法則性を突き止め、独立しているなら心や意識とはどういうものか、そこまでいきたいと考えて研究が進んでいます。
- 中川:
- 心や意識は体から独立した存在ではないか。これは重要なポイントだと思います。
- 大門:
- そうですね。会長がやっておられる氣を考える上でもそこはポイントになるんでしょうね。氣は機械で測定できるようになりましたか。
- 中川:
- できないですね。どれくらい科学が進めばできるようになるでしょうか。今は、体験から知るしかありません。でも、体がすべてではなくて、心や意識は独立して存在し、生まれ変わりや氣の世界が本当にあるとわかれば、救われる人も多いと思うのですが。
- 大門:
- 多くの人の一番の恐怖は死ですからね。死に対する考え方が大切です。生き方も変わるはずです。今は南海トラフ地震がくると言われていて、みなさんいろいろ備えをしていると思いますが、100パーセント起こるとは限りません。その点、死は100パーセントですから、南海トラフ地震以上に備えをしておく必要があるのではないでしょうか。
- 中川:
- 日ごろから、死について、死後の世界や生まれ変わりの有無を含めて考えることが大事ですね。
- 大門:
- 死んでも次があると思うのと、死んだら終わりと思うのとでは、生活の仕方も違ってくるでしょうからね。
- 中川:
- 学生さんは先生の出ているテレビを見たり、本を読んだりして、どんな反応でしょうか。
- 大門:
- 授業で生まれ変わりを教えているわけではないので、限られた人数の学生とのやり取りから受ける印象でしかないのですが、ずいぶんと受け入れてくれているような気がしますね。データとしては、1950年と2000年のしっかりしたものがあります。2000名くらいインタビューしていて、年代もわけています。1950年の20代、死んでも意識が残ると考えている人が2割くらい。70代は4割くらいです。50年後、死んでも残ると考えているのが70代で3割くらい。20代は5割を超えています。男性と女性とを分けると、20代女性は8割くらいが死んでも終わりではないと答えています。
- 中川:
- このデータはどう解釈すればいいでしょうか。死後の世界だけではなく、生まれ変わりも信じる若い人が確実に増えているようですね。特に女性は顕著です。
- 大門:
-
昔は、死んでもおじいちゃんやおばあちゃんがそこらへんで見ているという感覚の人がたくさんいました。戦前は「七しょう報こく」という言葉もありました。七回生まれ変わって国に報じるということです。
生まれ変わりをどこまで信じていたかはともかく、気持ちとしては、今回命がなくなったとしても、もう一度生まれ変わってきて国に報じる、家族を守るという人が多かったんですね。精神性も高かった。戦後、GHQは、こんなことを考えている人が多いと日本を統治できない、と危機感をもち、死んだら終わりなんだと植え付けたのではないでしょうか。戦後80年になりますから、そんな洗脳も溶けてきて本来の日本人に戻ってきたように思います。若い人たちは何度も転生して魂の力を磨いてきたように感じますが、どうでしょうかね。 - 中川:
- 死んだら終わりだと思っていると、どうしても自分のことしか考えなくなりがちです。今、地球の環境や世界の平和を考える若者が増えてきているようにも思いますね。魂的に成長しているのかもしれません。ところで生まれ変わりの研究ですが、日本の事例がきっかけになっているということですが。
- 大門:
-
生まれ変わりの問題について、世界で最初に系統立てて論じ、過去生の記憶を語る子どもに着目したのはバージニア大学の精神医学者、イアン・スティーブンソン博士でした。彼は論文の中で過去生の記憶を語る子どもの事例を7例紹介しました。その筆頭が今から200年も前、多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に生まれた、当時8歳の勝五郎だったのです。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
愛知県春日井市の中部大学にて 構成/小原田泰久
1月「 菊地 英豊」さん
菊地 英豊(きくち・ひでとよ)さん
昭和23年(1948年)東京都生まれ。中央大学商学部を卒業後、建築業を営む父親の跡を継ごうと工学院大学に入り直し、建築学を学ぶ。現場でさまざまな建築技術をマスターしながら、あるときから人が健康で幸せになれるオーガニック住宅作りを目指す。現在、ファミリア建設株式会社代表取締役。https://t-eizen.com ファミリア建設株式会社 〒189-0002 東京都東村山市青葉町1-1-35
『幸せになる住宅作り。人を喜ばせる仕事がしたい』
父親に連れて行かれた建築現場が遊び場だった
- 中川:
-
菊地さんは東村山市で建設会社を経営されていますが、家を作るに際して、場のエネルギーをとても大切にしているとお聞きしました。それに、77歳という年齢でまだまだ現役でがんばっておられる。 今日は、お会いできるのを楽しみにしてきました。
- 菊地:
-
ありがとうございます。せっかくこの時代に地球という惑星に生れてきたのですから、少しでも人の役に立てて、自分も楽しめるような仕事ができればと思ってやってきました。
- 中川:
-
今はシックハウス症候群で苦しんでいる方も多いかと思います。どんな家に住むかはとても重要ですね。
- 菊地:
- シックハウス症候群、多いですね。私のところへ相談に来られる方もたくさんおられます。 最近では、私どもが行った補修工事でシックハウス症候群が出なくなった方がいました。私は、いいと思ったものは積極的に活用するようにしていますが、とても気に入っている抗酸化作用のある溶液を、その方の家の中の壁に塗りました。そしたら、空気ががらりと変わりました。私も作業をしていて、急に呼吸が深くなるのを感じました。その部屋を出ると、また浅くなりました。スタッフにも試させたところ、同じように呼吸の深さが変わると不思議がっていました。
- 中川:
-
空気の質が変わったんですかね。
- 菊地:
- そういう気がしますね。私たちが呼吸で取り込んだり出したりする空気の量は、食べ物や飲み物とは比べ物にならないくらい大量です。どんな空気の中にいるかは健康にも大きな影響があるはずです。
- 中川:
- 空気も氣ですからね。菊地さんの施工によって家の中の氣が高まったように思います。 氣をしっかり受けることでシックハウス症候群が出なくなった方もいますから、シックハウス症候群も氣と関係があるのではないでしょうか。 ところで、氣のような目に見えない世界のことにもご興味があるとお聞きしています。何かきっかけはあるのですか。
- 菊地:
-
振り返ってみると、子どものころから「何のために地球に生れてきたのだろう」と考えていました。 いくら考えても答えが出るはずもありません。それで15歳のときに居直りました。現実をしっかりと見ようと思ったのです。 現実を見ないで、夢の中で何だろうどうしてだろうと探してみても何も見つからないのではないか、と考えられるようになりました。今、自分は地球の上で生きているという現実からのスタートです。 つらいこと、理不尽なことがあっても、現実をしっかりと見つめて、自分で道を切り拓いていかないといけないことに気づきました。
- 中川:
- 15歳でそんなことに気づいたのですか。すごいですね。それから建築に向かったわけですか。
- 菊地:
-
建築のことは小学校の2、3年のころからやっていました。
- 中川:
- えっ、小学校2、3年ですか。
- 菊地:
-
父親が左官業をやっていまして、よく父親のオートバイの後ろに乗せられて現場へ行っていました。 好奇心が旺盛な子どもだったのだと思います。職人さんの仕事を見て、いろいろ教えてもらうのが好きでした。現場が私の一番の遊び場でしたね(笑)。
- 中川:
- 小さいころからお父さんや職人さんたちのお手伝いをしてこられたわけですね。
- 菊地:
-
大工さんやブリキ屋さんたちが面白がってあれもこれもとやらせてくれました。釘の打ち方やブリキの切り方を覚えて、小学生のうちから建築の基礎をマスターしていました(笑)。しっくいも自分で作れたし、竹を組んで壁に塗るのも一人前にできましたから。
- 中川:
- 小学生のうちに建築の基礎をマスターですか。もう天職としか言いようがないですね。
- 菊地:
- でも、すっと建築の仕事に入ったわけではないんです。大学は商学部に入って、会計事務所への就職も決まっていました。 卒業を前に考えました。ちょうど父親が60歳になっていました。いつまで仕事ができるかわかりません。けっこう大きくやっていましたので、自分が跡を継いだ方がいいのではと思い始めたのです。 それで、会計事務所への就職を断って、大学の建築科へ入り直して、建築士の資格をとって、父親の会社で働くことになりました。 遠回りをしたように思われますが、会社を経営するようになって、商学部で学んだことが生きてきました。世の中、無駄なことはないなと思いましたね。
- 中川:
- それはありますね。私も30年前に父が亡くなり、父の会社を継ぎましたが、その前の10年ほどは電機会社でエンジニアをやっていました。扱っているものはまるで違いましたが、エンジニアとして働いていたときの技術や知識が、新しい商品を開発するのにけっこう役に立ちましたからね。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東村山市・ファミリア建設 株式会社にて 構成/小原田泰久
11月「 八木澤 高明」さん
八木澤 高明(やぎさわ・たかあき)さん
1972年横浜市生まれ。ノンフィクション作家。世間が目を向けない人間を対象に日本国内、世界各地を取材。『マオキッズ 毛沢東の子どもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア』『日本殺人巡礼』(集英社文庫)『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)などがある。
『忘れ去られた人たち。現場を歩くとそのかなしみが伝わってくる』
無名の人たちの味わったかなしみにスポットを当てる
- 中川:
- 八木澤さんのご著書『忘れられた日本史の現場を歩く』を興味深く拝読しました。 拝み屋さんの話から始まって、からゆきさん、蝦えみ夷しの英雄、潜伏キリシタン、平家の落人、飢饉で全滅した村など、さまざまな時代の、日本各地の学校では習わない歴史が紹介されています。 私は氣の世界に足を踏み入れて30年になりますが、氣を通していろいろな体験をするうちに、苦しい中、がんばって生きてきた、名もなきご先祖様たちに思いを向ける大切さを感じるようになりました。 無名の人たちの味わったかなしみにスポットを当てるという、八木澤さんの活動には共鳴できる部分が多く、お会いできるのを楽しみにしていました。
- 八木澤:
- ありがとうございます。 私は小学校2年生のときに、源義経の伝記を読んで歴史に興味をもちました。その後、私が生まれ育った横浜は源氏とのかかわりが深く、義経を祀った神社もあって、親族はそこの氏子だとわかりました。はるか遠い昔の出来事だと思っていたことが、いつも見慣れた景色の中にあると知ったのは大きな衝撃でした。 大学は歴史学科に入りました。しかし、古文書とか統計といったアカデミックなアプローチに興味がもてず、現場を歩きたいという思いが高じて、大学を中退してネパールへ行きました。ネパールには何度も足を運び、反政府闘争をしているゲリラや児童労働など、日本では報道されていない現実を見て、記録に残ることが少ない出来事に関心をもつようになり、世界各地、日本国内の、歴史上あまり陽の当たらない場所や人を訪ねて歩いてきました。 ところで、さきほど会長は氣と歴史が関係あるようなお話しされましたが、それはどういうことなのでしょうか。
- 中川:
-
実は、氣を受けるといろいろな反応が出る人がいます。体が温かくなるとか揺れるといったのはよくあることで、ほかにも、感情が湧き上がってきて泣き出したり、怒り出したりする人もいます。 中には恨みとか憎しみをしゃべり出す人がいます。それも氣を受けている人自身の思いではなくて、すでに亡くなっている人だとしか考えられないようなこともたくさんあります。 たとえば、山に埋められて苦しかったとか、戦場で殺された、自分が死んだのはあいつのせいだといった話をするのです。今もつらい思いをしているのを知ってほしい、と訴えてきたりします。 そういうエネルギーを、私はマイナスの氣と呼んでいますが、マイナスの氣の影響を受けると、生きている人が病気になったり、人間関係で苦しんだりすることがあるのです。 氣を受けると、マイナスの氣も苦しみが軽くなるのでしょう。「ああ、楽になってきた」と喜びます。 そして、十分に氣を受けると、光になって行くべき場所に行くので、生きている人も苦しみから解放されたりするのです。 そうしたマイナスの氣は、つらい亡くなり方をしたご先祖様の場合が多く、まさに忘れられた存在です。歴史を知っていれば、マイナスの氣の話す恨み言から、どういう状況だったのかが想像できます。 マイナスの氣がどんなつらさを抱えていたかをわかった上で氣を受ければ、よりたくさんの氣を届けることができるようなのです。 - 八木澤:
-
マイナスの氣を追い出してしまうのではなく、彼らの苦しみを理解してあげるということですね。
- 中川:
- マイナスの氣にはマイナスの氣になってしまった理由があります。 たとえば、貧しくて食べる物がなくて苦しんだご先祖様もいたでしょう。八木澤さんの本にも書かれていたような飢饉があったかもしれません。極度の空腹の中で心身ともに衰弱し、子どもたちを殺さなければならなかったり、年老いた親を山に捨てにいったり、まわりの人たちがバタバタ死んでいく。希望をもてと言われても難しいでしょう。「いい人生だった」とニコニコ笑いながら死んでいける人はほとんどいないのではないでしょうか。 しかし、そういう苦しい中でもがんばって生き抜いたご先祖様がいたからこそ、自分がいるわけです。マイナスの氣だからと追い出すのではなく、本当は感謝すべき存在です。そして、ご先祖様の苦労を知ることで、自分がいかにいい環境で生きているかもわかります。 マイナスの氣になったご先祖様の状況を知り、大変だったなと思えるようになると、不平不満ばかりを言っていた人が、そうじゃない、自分は恵まれているのだと気づくこともできます。不平不満が少なくなり、感謝の気持ちを言葉にすることが多くなります。 そうした気づきが、自分自身の氣を高め、ご先祖様にもたくさんの氣を届けることができて、自分もご先祖様も幸せに近づけるようになるのではないでしょうか。
- 八木澤:
- 実はネパールで不思議な体験をしました。 お医者さんもいない村で、1ヵ月ぐらい咳が止まらなくなって寝込んだことがあったんです。村の人からは『魔女に呪いをかけられているからだ』とか言われました。 ある日、祈祷師みたいな人が来て、刀を振り回してまじないをかけるんです。最後に刀の刃の先からしずくが出て、それを飲んだら、咳が止まりました。
- 中川:
- それは良かったです(笑)。氣と関係があると思いますね。 氣のことは理屈ではなかなか説明できませんから、体験させられる人がけっこういます。私も30年前は氣のことを信じていませんでしたが、体調を悪くしたことで氣を受けることになり、すぐに元気になって氣に興味をもちました。 あの体験がなければ、こうやって氣に深くかかわることはなかったと思います。 八木澤さんの本を読んでいると、見えない力の応援があるように感じます。 取材のきっかけもそうだし、現場に行くと奇跡とも思えるような出会いがたくさんあるじゃないですか。
- 八木澤:
- そうなんですよ。「適当に話を作って書いているんじゃないの」と言われることもあります(笑)。そんなに都合のいい出会いって嘘くさいって思うんでしょうね。でも、編集者も一緒にいたりするわけですから、捏造ならすぐにばれてしまいます。
- 中川:
- インドに売られていった山口県岩国市のからゆきさんのお話がありましたよね。たまたま門司で読んだ郷土史の資料で情報を得て、そこに書かれていた集落を訪ねたら、最初に入った雑貨屋のご主人が「その人なら、この先の家に住んでいましたよ」とあっさりと教えてくれたってあるじゃないですか。そんなことなかなかないでしょう(笑)。まして、そのからゆきさんは明治時代の方ですからね。すぐに住んでいた家がわかるなんて奇跡ですよ。
- 八木澤:
- 実家が商店街の肉屋をやっていましたから、商店には人も情報も集まることを、感覚として知っています。 だから、取材で知らない場所を訪ねたときには、まずは米屋、床屋、クリーニング屋、酒屋といったお店に入って情報収集することにしています。 それにしても、一軒目で「知っていますよ」と言われたときはびっくりしました(笑)。 その女性は、23歳のときに岡山県の紡績工場で働いていて、ある人から清国の紡績工場で働けば日本の3倍は稼げると言われて船に乗るわけです。そしたら、香港に連れて行かれて、現地の女郎屋に売り飛ばされて、シンガポールをへて、インドのボンベイにたどり着きました。ボンベイで救助されて3年ぶりに岩国の故郷に帰ることになりました。 その間、ボンベイで現地の客との間に子どもができて出産しましたが、子どもはどこかへ売り飛ばされました。 20代で故郷へ帰ったのですが、ずっと未婚だったそうです。きっと、まわりから後ろ指さされたりして、つらい思いをしたことと思います。 貧しい村で生まれ育って、少しでもたくさん稼ごうと清国の話に乗ったばかりに、とんでもない苦難の人生になってしまったわけです。切ないですよね。
- 中川:
-
その方のお墓も探したそうですね。
- 八木澤:
- 村はずれの墓地へ行って、その方の名前を探しましたが見つかりませんでした。 海外に取材に行くときには、日本人墓地を訪ねるようにしています。インドネシアのメダンという町に行ったときに、大きな日本人の墓地があるというので出かけました。300基くらいがからゆきさんのお墓でした。みなさん、だいたい20代の若さで亡くなっています。 かつて、横浜に一大売春宿があって、タイやコロンビア、ベネズエラなど外国人の娼婦がたくさん働いていました。エイズで亡くなった人もいます。そこで働く娼婦たちを取材して『黄金町のマリア』という本にまとめたことがありましたので、海外に売られていって、故郷のことを思いながら若くして亡くなる日本人女性の話を聞くと、どうしてもお墓に手を合わせたくなるんですね。
- 中川:
- そういう気持ちで取材されているからこそ、導かれるような出会いがあるんでしょうね。 まさに忘れ去られた人たちで、光を欲しがっていると、私は思います。そういう方々のことを本にして知らせるというのは、とても大切なお仕事です。八木澤さんもさらに氣を高めていただけると、八木澤さんが興味をもたれている方々のもとに、これまで以上にたくさんの光が行くはずです。 真氣光は、氣を高めるためのひとつの手段なので、今日は氣を受けてお帰りください。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東京・池袋 キープレース にて 構成/小原田泰久
9月「 池川 明」さん
池川 明(いけがわ・あきら)さん
1954年生まれ。1989年に横浜市に産婦人科池川クリニックを開設し、2016年までの28年間で約2700件の出産を扱った。現在は出産の扱いをやめ、研究論文・書籍の執筆、講演、新聞・映画などメディアへの出演など、胎内記憶を世界に広める活動に専念している。胎内記憶に関する著書は多数。映画「かみさまとのやくそく」にも出演。
『お母さんを満面の笑みにする。それが赤ちゃんのミッション』
科学的に証明されてなくても、胎内記憶を語る子がいる
- 中川:
-
ご無沙汰しています。池川先生が対談に登場していただくのは2度目ですが、前回は<a href="https://shinkiko.com/iv/200903/">2009年3月号</a>ですから、15年も前のことです。先生が研究されている胎内記憶が話題になっているころだったと思います。
胎内記憶というのは、お母さんのお腹にいたころの記憶のことで、先生はたくさんの子どもたちにインタビューして、3人に1人が胎内記憶をもっていると発表されました。
生まれる前のことなど覚えているはずがないというのが常識ですから、疑いの目で見られることも多かったかと思います。
あれから15年たちましたが、かなり理解されるようになったのではないでしょうか。 - 池川:
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私は「生まれる前の記憶」について調べて、本に書いたり講演をしたりしています。生まれる前の記憶というのは、大きく4種類に分けることができます。
まず会長がおっしゃった「胎内記憶」。次が「誕生記憶」。分娩時の記憶です。「過去世の記憶」。いわゆる前世の記憶です。そして、輪廻転生の中で、ある人生から次の人生に生れ変わるまでの「中間世の記憶」ですね。つまり、お母さんのお腹に宿る前の世界ですね。
いずれもこれまでの常識では「ない」とされてきたことで、私も子どもたちから話を聞いて驚きました。しかし、研究を続けていくうち、命のこと、人生のことを考える上で、彼らが語ってくれることがとても大切だと感じたので、いろいろ言われながらもあちこちで発表しているわけです。今日は、4つの不思議な記憶のことをひっくるめてお話しさせていただきます。
おかげさまで日本では、興味をもってくださる人が増えてきています。しかし、私は世界の人口の3割、24億人に知ってもらいたいと思っています。まだまだですね。 - 中川:
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科学的に証明されないと真実ではないと思っている人も多いですからね。氣もそうですが、科学がまだそこまで行き着いていないわけで、科学的に証明されないからと言って、ないと決めつけるのはどうかと思いますね。私は、まずは体験してみて、そのあとで自分の頭で考えてくださいとお話ししています。 - 池川:
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科学は正しいけれども、小さい子が胎内記憶をしゃべるというのも事実です。お父さん、お母さんを喜ばせるためにウソを言っているのではと言う人もいますが、けっこうお母さんが嫌がることも言うんですよ。お母さん、あんなことやってダメだったよね、みたいなお母さんが聞きたくないことも言います。
生れる前の記憶がある、と仮定しないと成立しないこともたくさんあります。科学が証明できてないだけかもしれないと考えてほしいんですね。 私たちが子供を育てるのに科学はあまり必要でないかもしれません。普通は今日何カロリー食べたとか科学的に考えて育ててないじゃないですか。それでいいんですよ。ほとんどの日常生活に科学はあまり関係ない、と私は思いますね。 - 中川:
- 胎内記憶の研究は海外でも行われているのですか。
- 池川:
-
アメリカに「APPPAH(アパ)=出生前・周産期心理学協会」という団体があります。『胎児は見ている』(祥伝社 1982年)という本の著者である精神科医で元ハーバード大学教授のトマス・バーニー博士が40年ほど前に設立しました。学者たちの集まりですが、メンバーの半分くらいが胎内記憶の持ち主です。ですから、そこでは胎内記憶があるかないかという議論はなされません。あるのが当たり前。ただ、社会的にもっと受け入れられるようにと、科学的なアプローチをしようと活動しています。 私も2003年にひょんなことから入ることになりました。現役の産婦人科医ということでずいぶんと歓迎されました。
また、アメリカのエリザベス・カルバンさんという方は、世界25ヵ国で胎内記憶をもっている人を調査し、『COSMIC BABY』という本を出しています。
でも、まだ世間一般では信じない人が多いですね。 - 中川:
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これからどんどん広がって行くような気がしますね。
- 池川:
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胎内記憶のことを知っているのと知らないのとでは、子育てがまったく違ってきます。
私は、立ち合い出産とかカンガルーケアとか、いい出産をすれば、その家族は幸せになると思っていました。しかし、お産のときはすごく感動し、感謝していた方でも、その後、産後うつになったり、育児放棄をしたり、夫婦仲が悪くなって離婚したりする人がけっこういるんですね。だから、お産の瞬間だけ幸せでもダメらしいです。
じゃあ、何が大事なのかというと、赤ちゃんがお腹にいるときからの長い時間の関係性が大切なのだと気づいたわけです。 - 中川:
- 胎内記憶があることを知っていれば、お腹の中の赤ちゃんに話しかけたりしますからね。
- 池川:
-
そうなんですよ。たとえば、お腹の中にいるときから話しかけているお父さんだと、生まれたあと赤ちゃんがなつくんです。話かけてないお父さんだと、抱っこしたら泣くんですね。 出生時の記憶がある20代の女性が、初めてお父さんに抱っこされたときのことを話してくれました。そのときの写真があって、彼女は大泣きしています。
お父さんは、お腹にいた自分に話しかけることもしなかったので、彼女にしてみればまったく未知の存在でした。知らないおじさんに抱っこされたようなもので、不安で仕方なかったんでしょうね。早くお母さんに戻せと泣いて抗議するわけです。
そうなると、お父さんも自分は嫌われているのかなと困ってしまいますよ。 興味深いことですが、お腹の中にいるときから話かけているお父さんだと抱っこされても泣かないですね。いわゆる無駄泣きがないんですよ。泣くときはどうして泣いているのか、きちんと意思表示をします。 話しかけてない赤ちゃんはギャン泣きします。お父さんになつきませんから、お母さんは負担ですよ。それが産後うつや育児放棄につながることもあります。そして、お父さんは抱っこすれば泣かれるわけですから、何となくかやの外に置かれた感じで、家庭内がぎくしゃくして、離婚にまでなってしまったりします。
そういうこともあって、胎内記憶のことを、特にお産を控えるお父さん、お母さんに知ってもらいたいと思っているんですね。 - 中川:
-
お父さん、お母さんがお腹の赤ちゃんに話しかけている光景というのは、とても微笑ましいし、温かな気持ちになりますよね。
いい氣が充満していますよ。 先生が調査したところによると、胎内記憶をもつ子どもたちは、3割くらいいるということですよね。 - 池川:
-
3分の1の子どもが語ってくれましたね。6歳までの子が多いですね。3歳くらいがピークで6割くらい、5歳になると5割くらい、6歳で2割から3割かな。
中学生1000人で調べたら、2・5パーセントの子に胎内記憶がありました。高校生から大人で1パーセントくらいです。
記憶をもっていても、親に話すと頭から否定されるじゃないですか。特に、20年くらい前だと、母親から人様に言うなと言われて封印してしまうんですね。 でも、本人としては、昨日のことを覚えているみたいにとてもリアルなわけです。それで悩んで精神科を受診したら、統合失調症と診断され薬を処方されている人もいます。
胎内記憶をもっていると精神病にされてしまうんです。それってまずいですよね。 - 中川:
-
先生のように子どもたちから根気よく話を聞いて、それを真剣に受け止めて、データにしていくという姿勢はとても大切だと思います。
ただ、世間は、生まれる前は脳が完全にできてないのだから、記憶がないと思い込んでしまっています。 - 池川:
-
科学の世界では脳がすべてを司っていると考えられていますからね。だから、脳が完成していない胎児に記憶があるはずがないと決めつけています。
でも、子どもたちに話を聞くと、お腹の中から外を見ていたと言うんですね。それもカラーですよ。 新生児は白黒でしか見えていないと言われています。フルカラーで見ていると言うと、それは子どもたちの幻想だと否定されます。
でも、もし子どもたちが言っていることが本当だとすると、科学が間違っていることになります。脳がすべてを司っているという考え方が間違っているとしたら、今の科学が根底からくつがえってしまいます。
- 中川:
- 量子力学も出てきて、科学も目に見えない世界に少しずつ近づいていますが、氣とか魂といったところに踏み込むのはハードルが高いみたいですね。私も科学的な世界で生きてきたので、科学の発展には大いに期待しているのですが。
- 池川:
-
出産・子育ては科学が証明するのを待っていられないですよ。30年後に胎内記憶があると証明されたとして、30年間、そんなものないと信じて出産・子育てをしてきた人はどうなりますか(笑)。
私が胎内記憶のことを妊婦さんやご家族の方に伝え始めて20年以上になります。お腹の中にいるときにお父さん、お母さんに話かけられて生まれてきた子が、成人しているわけです。話を聞くと、みなさん笑顔でやりたいことをやっている子に育っています。お父さん、お母さんもとても幸せで、だれも不幸になっていません。お腹の中の赤ちゃんに話しかけていると20年後に幸せになっているんですよ。最高じゃないですか(笑)。
長くやってきたからこそ、現実の中で答えが出てきて、自信にもつながりました。科学的にどうのということは置いといて、お産を控えている方、ご家族は、お腹の赤ちゃんに話しかけてもらいたいと思っています。
- 中川:
-
帝王切開とか中絶とか、赤ちゃんにとっては大変ストレスになると思うのですが、それに関してはどうですか。 - 池川:
-
帝王切開の後で自然に生まれたかったと怒る子どももいますが、あのままだったら大変だった。助けてくれてありがとうと言うお子さんも多く存在します。
中絶も、母親は自分を責めますが、胎内に宿れて喜んでいる子ばかりです。ですから一概に悪いとは言えません。
大事なのは、胎児たちとしっかりとコミュニケーションをとることです。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
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東京・池袋 キープレース にて 構成/小原田泰久
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