しんきこう - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光 - Page 2

「氣」の無料体験

最寄りのセンターやご自宅から
オンラインでもご参加可能です

ご予約はこちら
電話 「氣」無料体験のご予約はこちら

3月「 大門 正幸」さん

大門 正幸(おおかど・まさゆき)さん

中部大学大学院教授、米国バージニア大学医学部客員教授。1963年三重県伊勢市生まれ。もともとは唯物論だったが、長女の誕生、親友の死、次女が語る過去生記憶などの体験から肉体はなくなっても魂は存在し、自分たちを守ってくれていることを実感し、専門である言語研究に携わる一方で、生まれ変わりを科学的に検証し始める。著書『なぜ人は生まれ、そして死ぬのか』(宝島社)『生まれ変わりを科学する』(桜の花出版)など。

『人間の本質は意識や魂であると知ると人生が輝き出す』

過去生の記憶を語り出す子どもたちが増えている

中川:
ご無沙汰しています。先生とは2015年2月号で対談させていただきました。ちょうど10年前です。 この間はテレビでも拝見しましたが、先生の研究されている「生まれ変わり」についての見方もずいぶんと変わってきたように思います。
大門:
私が過去生の記憶をもつお子さんに初めてインタビューしたのは2010年でした。トモ君という当時10歳の男の子です。日本に生れる前はイギリスで料理屋さんをやっている人の子どもだったという記憶をもっていました。イギリスでの両親のことや自分がイギリスで体験したいろいろな出来事を話すので、お母さまは心配して病院へ連れて行ったりしました。しかし、病院では過去生を扱ってませんから(笑)、お母さんの不安や心配は解消されませんでした。
中川:
過去生のことは親御さんもわからないでしょうから戸惑いますよね。
大門:
会長も見てくださった「クレイジージャーニー」というテレビ番組は怪しげなものとしてではなくまじめに過去生を扱ってくださいました。ユウ君という過去生の記憶をもつ10歳の男の子を取り上げた番組でした。あの番組を見たトモ君のお母さんは、自分にもユウ君の母親の心配する気持ちはよくわかるし、最後にユウ君と一緒に過去生の人物の家族に会えて本当に良かった、いいお仕事をされましたね、といった内容のうれしいメールをくださいました。
中川:
ユウ君は3歳くらいから過去生のことを話すようになって、その内容から2011年9月11日の同時多発テロで亡くなった男性の生まれ変わりではないかと考えられ、先生と一緒にユウ君の過去生はだれだったのか探るという内容でしたね。最後には、ユウ君の過去生である可能性が非常に高いという方のご家族と面会するという感動的なお話でした。ユウ君と過去生の人物だと思われる方の間にはいろいろな共通点があって、びっくりしました。 面会のときにユウ君のそばにいたお母さんもほっとした表情でした。 たぶん、トモ君やユウ君のような子どもはほかにもたくさんいると思います。親は病気なんじゃないだろうかと不安になるでしょうが、ああいう番組があると、いきなり病院へ行くのではなく、先生に相談すると考えたりもするでしょうね。
大門:
今ではコンスタントにお話を聞くくらいはあちこちから連絡をいただきます。
中川:
生まれ変わりの研究はバージニア大学が世界的な拠点になっているわけですね。何人くらいの研究者がいるのですか。
大門:
現在は12人です。生まれ変わりだけでなくて臨死体験を中心にやっている人もいるし、霊媒現象を研究している人とか、脳の仕組みも含めて幅広くやっている人とか、いろんな方がいますね。 心とか意識というのは人間の体とは独立しているのではないか。それを追求するのが研究の目的のひとつです。そう考えざるを得ない事例がたくさんあるので、証拠固めをして、法則性を突き止め、独立しているなら心や意識とはどういうものか、そこまでいきたいと考えて研究が進んでいます。
中川:
心や意識は体から独立した存在ではないか。これは重要なポイントだと思います。
大門:
そうですね。会長がやっておられる氣を考える上でもそこはポイントになるんでしょうね。氣は機械で測定できるようになりましたか。
中川:
できないですね。どれくらい科学が進めばできるようになるでしょうか。今は、体験から知るしかありません。でも、体がすべてではなくて、心や意識は独立して存在し、生まれ変わりや氣の世界が本当にあるとわかれば、救われる人も多いと思うのですが。
大門:
多くの人の一番の恐怖は死ですからね。死に対する考え方が大切です。生き方も変わるはずです。今は南海トラフ地震がくると言われていて、みなさんいろいろ備えをしていると思いますが、100パーセント起こるとは限りません。その点、死は100パーセントですから、南海トラフ地震以上に備えをしておく必要があるのではないでしょうか。
中川:
日ごろから、死について、死後の世界や生まれ変わりの有無を含めて考えることが大事ですね。
大門:
死んでも次があると思うのと、死んだら終わりと思うのとでは、生活の仕方も違ってくるでしょうからね。
中川:
学生さんは先生の出ているテレビを見たり、本を読んだりして、どんな反応でしょうか。
大門:
授業で生まれ変わりを教えているわけではないので、限られた人数の学生とのやり取りから受ける印象でしかないのですが、ずいぶんと受け入れてくれているような気がしますね。データとしては、1950年と2000年のしっかりしたものがあります。2000名くらいインタビューしていて、年代もわけています。1950年の20代、死んでも意識が残ると考えている人が2割くらい。70代は4割くらいです。50年後、死んでも残ると考えているのが70代で3割くらい。20代は5割を超えています。男性と女性とを分けると、20代女性は8割くらいが死んでも終わりではないと答えています。
中川:
このデータはどう解釈すればいいでしょうか。死後の世界だけではなく、生まれ変わりも信じる若い人が確実に増えているようですね。特に女性は顕著です。
大門:
昔は、死んでもおじいちゃんやおばあちゃんがそこらへんで見ているという感覚の人がたくさんいました。戦前は「七しょう報こく」という言葉もありました。七回生まれ変わって国に報じるということです。
生まれ変わりをどこまで信じていたかはともかく、気持ちとしては、今回命がなくなったとしても、もう一度生まれ変わってきて国に報じる、家族を守るという人が多かったんですね。精神性も高かった。戦後、GHQは、こんなことを考えている人が多いと日本を統治できない、と危機感をもち、死んだら終わりなんだと植え付けたのではないでしょうか。戦後80年になりますから、そんな洗脳も溶けてきて本来の日本人に戻ってきたように思います。若い人たちは何度も転生して魂の力を磨いてきたように感じますが、どうでしょうかね。
中川:
死んだら終わりだと思っていると、どうしても自分のことしか考えなくなりがちです。今、地球の環境や世界の平和を考える若者が増えてきているようにも思いますね。魂的に成長しているのかもしれません。ところで生まれ変わりの研究ですが、日本の事例がきっかけになっているということですが。
大門:
生まれ変わりの問題について、世界で最初に系統立てて論じ、過去生の記憶を語る子どもに着目したのはバージニア大学の精神医学者、イアン・スティーブンソン博士でした。彼は論文の中で過去生の記憶を語る子どもの事例を7例紹介しました。その筆頭が今から200年も前、多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に生まれた、当時8歳の勝五郎だったのです。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

 愛知県春日井市の中部大学にて 構成/小原田泰久

1月「 菊地 英豊」さん

菊地 英豊(きくち・ひでとよ)さん

昭和23年(1948年)東京都生まれ。中央大学商学部を卒業後、建築業を営む父親の跡を継ごうと工学院大学に入り直し、建築学を学ぶ。現場でさまざまな建築技術をマスターしながら、あるときから人が健康で幸せになれるオーガニック住宅作りを目指す。現在、ファミリア建設株式会社代表取締役。https://t-eizen.com ファミリア建設株式会社 〒189-0002 東京都東村山市青葉町1-1-35

『幸せになる住宅作り。人を喜ばせる仕事がしたい』

父親に連れて行かれた建築現場が遊び場だった

中川:
菊地さんは東村山市で建設会社を経営されていますが、家を作るに際して、場のエネルギーをとても大切にしているとお聞きしました。それに、77歳という年齢でまだまだ現役でがんばっておられる。 今日は、お会いできるのを楽しみにしてきました。
菊地:
ありがとうございます。せっかくこの時代に地球という惑星に生れてきたのですから、少しでも人の役に立てて、自分も楽しめるような仕事ができればと思ってやってきました。
中川:
今はシックハウス症候群で苦しんでいる方も多いかと思います。どんな家に住むかはとても重要ですね。
菊地:
シックハウス症候群、多いですね。私のところへ相談に来られる方もたくさんおられます。 最近では、私どもが行った補修工事でシックハウス症候群が出なくなった方がいました。私は、いいと思ったものは積極的に活用するようにしていますが、とても気に入っている抗酸化作用のある溶液を、その方の家の中の壁に塗りました。そしたら、空気ががらりと変わりました。私も作業をしていて、急に呼吸が深くなるのを感じました。その部屋を出ると、また浅くなりました。スタッフにも試させたところ、同じように呼吸の深さが変わると不思議がっていました。
中川:
空気の質が変わったんですかね。
菊地:
そういう気がしますね。私たちが呼吸で取り込んだり出したりする空気の量は、食べ物や飲み物とは比べ物にならないくらい大量です。どんな空気の中にいるかは健康にも大きな影響があるはずです。
中川:
空気も氣ですからね。菊地さんの施工によって家の中の氣が高まったように思います。 氣をしっかり受けることでシックハウス症候群が出なくなった方もいますから、シックハウス症候群も氣と関係があるのではないでしょうか。 ところで、氣のような目に見えない世界のことにもご興味があるとお聞きしています。何かきっかけはあるのですか。
菊地:
振り返ってみると、子どものころから「何のために地球に生れてきたのだろう」と考えていました。 いくら考えても答えが出るはずもありません。それで15歳のときに居直りました。現実をしっかりと見ようと思ったのです。 現実を見ないで、夢の中で何だろうどうしてだろうと探してみても何も見つからないのではないか、と考えられるようになりました。今、自分は地球の上で生きているという現実からのスタートです。 つらいこと、理不尽なことがあっても、現実をしっかりと見つめて、自分で道を切り拓いていかないといけないことに気づきました。
中川:
15歳でそんなことに気づいたのですか。すごいですね。それから建築に向かったわけですか。
菊地:
建築のことは小学校の2、3年のころからやっていました。
中川:
えっ、小学校2、3年ですか。
菊地:
父親が左官業をやっていまして、よく父親のオートバイの後ろに乗せられて現場へ行っていました。 好奇心が旺盛な子どもだったのだと思います。職人さんの仕事を見て、いろいろ教えてもらうのが好きでした。現場が私の一番の遊び場でしたね(笑)。
中川:
小さいころからお父さんや職人さんたちのお手伝いをしてこられたわけですね。
菊地:
大工さんやブリキ屋さんたちが面白がってあれもこれもとやらせてくれました。釘の打ち方やブリキの切り方を覚えて、小学生のうちから建築の基礎をマスターしていました(笑)。しっくいも自分で作れたし、竹を組んで壁に塗るのも一人前にできましたから。
中川:
小学生のうちに建築の基礎をマスターですか。もう天職としか言いようがないですね。
菊地:
でも、すっと建築の仕事に入ったわけではないんです。大学は商学部に入って、会計事務所への就職も決まっていました。 卒業を前に考えました。ちょうど父親が60歳になっていました。いつまで仕事ができるかわかりません。けっこう大きくやっていましたので、自分が跡を継いだ方がいいのではと思い始めたのです。 それで、会計事務所への就職を断って、大学の建築科へ入り直して、建築士の資格をとって、父親の会社で働くことになりました。 遠回りをしたように思われますが、会社を経営するようになって、商学部で学んだことが生きてきました。世の中、無駄なことはないなと思いましたね。
中川:
それはありますね。私も30年前に父が亡くなり、父の会社を継ぎましたが、その前の10年ほどは電機会社でエンジニアをやっていました。扱っているものはまるで違いましたが、エンジニアとして働いていたときの技術や知識が、新しい商品を開発するのにけっこう役に立ちましたからね。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

 東村山市・ファミリア建設 株式会社にて 構成/小原田泰久

11月「 八木澤 高明」さん

八木澤 高明(やぎさわ・たかあき)さん

1972年横浜市生まれ。ノンフィクション作家。世間が目を向けない人間を対象に日本国内、世界各地を取材。『マオキッズ 毛沢東の子どもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア』『日本殺人巡礼』(集英社文庫)『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)などがある。

『忘れ去られた人たち。現場を歩くとそのかなしみが伝わってくる』

無名の人たちの味わったかなしみにスポットを当てる

中川:
八木澤さんのご著書『忘れられた日本史の現場を歩く』を興味深く拝読しました。 拝み屋さんの話から始まって、からゆきさん、蝦えみ夷しの英雄、潜伏キリシタン、平家の落人、飢饉で全滅した村など、さまざまな時代の、日本各地の学校では習わない歴史が紹介されています。 私は氣の世界に足を踏み入れて30年になりますが、氣を通していろいろな体験をするうちに、苦しい中、がんばって生きてきた、名もなきご先祖様たちに思いを向ける大切さを感じるようになりました。 無名の人たちの味わったかなしみにスポットを当てるという、八木澤さんの活動には共鳴できる部分が多く、お会いできるのを楽しみにしていました。
八木澤:
ありがとうございます。 私は小学校2年生のときに、源義経の伝記を読んで歴史に興味をもちました。その後、私が生まれ育った横浜は源氏とのかかわりが深く、義経を祀った神社もあって、親族はそこの氏子だとわかりました。はるか遠い昔の出来事だと思っていたことが、いつも見慣れた景色の中にあると知ったのは大きな衝撃でした。 大学は歴史学科に入りました。しかし、古文書とか統計といったアカデミックなアプローチに興味がもてず、現場を歩きたいという思いが高じて、大学を中退してネパールへ行きました。ネパールには何度も足を運び、反政府闘争をしているゲリラや児童労働など、日本では報道されていない現実を見て、記録に残ることが少ない出来事に関心をもつようになり、世界各地、日本国内の、歴史上あまり陽の当たらない場所や人を訪ねて歩いてきました。 ところで、さきほど会長は氣と歴史が関係あるようなお話しされましたが、それはどういうことなのでしょうか。
中川:
実は、氣を受けるといろいろな反応が出る人がいます。体が温かくなるとか揺れるといったのはよくあることで、ほかにも、感情が湧き上がってきて泣き出したり、怒り出したりする人もいます。 中には恨みとか憎しみをしゃべり出す人がいます。それも氣を受けている人自身の思いではなくて、すでに亡くなっている人だとしか考えられないようなこともたくさんあります。 たとえば、山に埋められて苦しかったとか、戦場で殺された、自分が死んだのはあいつのせいだといった話をするのです。今もつらい思いをしているのを知ってほしい、と訴えてきたりします。 そういうエネルギーを、私はマイナスの氣と呼んでいますが、マイナスの氣の影響を受けると、生きている人が病気になったり、人間関係で苦しんだりすることがあるのです。 氣を受けると、マイナスの氣も苦しみが軽くなるのでしょう。「ああ、楽になってきた」と喜びます。 そして、十分に氣を受けると、光になって行くべき場所に行くので、生きている人も苦しみから解放されたりするのです。 そうしたマイナスの氣は、つらい亡くなり方をしたご先祖様の場合が多く、まさに忘れられた存在です。歴史を知っていれば、マイナスの氣の話す恨み言から、どういう状況だったのかが想像できます。 マイナスの氣がどんなつらさを抱えていたかをわかった上で氣を受ければ、よりたくさんの氣を届けることができるようなのです。
八木澤:
マイナスの氣を追い出してしまうのではなく、彼らの苦しみを理解してあげるということですね。
中川:
マイナスの氣にはマイナスの氣になってしまった理由があります。 たとえば、貧しくて食べる物がなくて苦しんだご先祖様もいたでしょう。八木澤さんの本にも書かれていたような飢饉があったかもしれません。極度の空腹の中で心身ともに衰弱し、子どもたちを殺さなければならなかったり、年老いた親を山に捨てにいったり、まわりの人たちがバタバタ死んでいく。希望をもてと言われても難しいでしょう。「いい人生だった」とニコニコ笑いながら死んでいける人はほとんどいないのではないでしょうか。 しかし、そういう苦しい中でもがんばって生き抜いたご先祖様がいたからこそ、自分がいるわけです。マイナスの氣だからと追い出すのではなく、本当は感謝すべき存在です。そして、ご先祖様の苦労を知ることで、自分がいかにいい環境で生きているかもわかります。 マイナスの氣になったご先祖様の状況を知り、大変だったなと思えるようになると、不平不満ばかりを言っていた人が、そうじゃない、自分は恵まれているのだと気づくこともできます。不平不満が少なくなり、感謝の気持ちを言葉にすることが多くなります。 そうした気づきが、自分自身の氣を高め、ご先祖様にもたくさんの氣を届けることができて、自分もご先祖様も幸せに近づけるようになるのではないでしょうか。
八木澤:
実はネパールで不思議な体験をしました。 お医者さんもいない村で、1ヵ月ぐらい咳が止まらなくなって寝込んだことがあったんです。村の人からは『魔女に呪いをかけられているからだ』とか言われました。 ある日、祈祷師みたいな人が来て、刀を振り回してまじないをかけるんです。最後に刀の刃の先からしずくが出て、それを飲んだら、咳が止まりました。
中川:
それは良かったです(笑)。氣と関係があると思いますね。 氣のことは理屈ではなかなか説明できませんから、体験させられる人がけっこういます。私も30年前は氣のことを信じていませんでしたが、体調を悪くしたことで氣を受けることになり、すぐに元気になって氣に興味をもちました。 あの体験がなければ、こうやって氣に深くかかわることはなかったと思います。 八木澤さんの本を読んでいると、見えない力の応援があるように感じます。 取材のきっかけもそうだし、現場に行くと奇跡とも思えるような出会いがたくさんあるじゃないですか。
八木澤:
そうなんですよ。「適当に話を作って書いているんじゃないの」と言われることもあります(笑)。そんなに都合のいい出会いって嘘くさいって思うんでしょうね。でも、編集者も一緒にいたりするわけですから、捏造ならすぐにばれてしまいます。
中川:
インドに売られていった山口県岩国市のからゆきさんのお話がありましたよね。たまたま門司で読んだ郷土史の資料で情報を得て、そこに書かれていた集落を訪ねたら、最初に入った雑貨屋のご主人が「その人なら、この先の家に住んでいましたよ」とあっさりと教えてくれたってあるじゃないですか。そんなことなかなかないでしょう(笑)。まして、そのからゆきさんは明治時代の方ですからね。すぐに住んでいた家がわかるなんて奇跡ですよ。
八木澤:
実家が商店街の肉屋をやっていましたから、商店には人も情報も集まることを、感覚として知っています。 だから、取材で知らない場所を訪ねたときには、まずは米屋、床屋、クリーニング屋、酒屋といったお店に入って情報収集することにしています。 それにしても、一軒目で「知っていますよ」と言われたときはびっくりしました(笑)。 その女性は、23歳のときに岡山県の紡績工場で働いていて、ある人から清国の紡績工場で働けば日本の3倍は稼げると言われて船に乗るわけです。そしたら、香港に連れて行かれて、現地の女郎屋に売り飛ばされて、シンガポールをへて、インドのボンベイにたどり着きました。ボンベイで救助されて3年ぶりに岩国の故郷に帰ることになりました。 その間、ボンベイで現地の客との間に子どもができて出産しましたが、子どもはどこかへ売り飛ばされました。 20代で故郷へ帰ったのですが、ずっと未婚だったそうです。きっと、まわりから後ろ指さされたりして、つらい思いをしたことと思います。 貧しい村で生まれ育って、少しでもたくさん稼ごうと清国の話に乗ったばかりに、とんでもない苦難の人生になってしまったわけです。切ないですよね。
中川:
その方のお墓も探したそうですね。
八木澤:
村はずれの墓地へ行って、その方の名前を探しましたが見つかりませんでした。 海外に取材に行くときには、日本人墓地を訪ねるようにしています。インドネシアのメダンという町に行ったときに、大きな日本人の墓地があるというので出かけました。300基くらいがからゆきさんのお墓でした。みなさん、だいたい20代の若さで亡くなっています。 かつて、横浜に一大売春宿があって、タイやコロンビア、ベネズエラなど外国人の娼婦がたくさん働いていました。エイズで亡くなった人もいます。そこで働く娼婦たちを取材して『黄金町のマリア』という本にまとめたことがありましたので、海外に売られていって、故郷のことを思いながら若くして亡くなる日本人女性の話を聞くと、どうしてもお墓に手を合わせたくなるんですね。
中川:
そういう気持ちで取材されているからこそ、導かれるような出会いがあるんでしょうね。 まさに忘れ去られた人たちで、光を欲しがっていると、私は思います。そういう方々のことを本にして知らせるというのは、とても大切なお仕事です。八木澤さんもさらに氣を高めていただけると、八木澤さんが興味をもたれている方々のもとに、これまで以上にたくさんの光が行くはずです。 真氣光は、氣を高めるためのひとつの手段なので、今日は氣を受けてお帰りください。(続きはハイゲンキマガジンで・・)

東京・池袋 キープレース にて 構成/小原田泰久

9月「 池川 明」さん

池川 明(いけがわ・あきら)さん

1954年生まれ。1989年に横浜市に産婦人科池川クリニックを開設し、2016年までの28年間で約2700件の出産を扱った。現在は出産の扱いをやめ、研究論文・書籍の執筆、講演、新聞・映画などメディアへの出演など、胎内記憶を世界に広める活動に専念している。胎内記憶に関する著書は多数。映画「かみさまとのやくそく」にも出演。

『お母さんを満面の笑みにする。それが赤ちゃんのミッション』

科学的に証明されてなくても、胎内記憶を語る子がいる

中川:
ご無沙汰しています。池川先生が対談に登場していただくのは2度目ですが、前回は<a href="https://shinkiko.com/iv/200903/">2009年3月号</a>ですから、15年も前のことです。先生が研究されている胎内記憶が話題になっているころだったと思います。
 胎内記憶というのは、お母さんのお腹にいたころの記憶のことで、先生はたくさんの子どもたちにインタビューして、3人に1人が胎内記憶をもっていると発表されました。
 生まれる前のことなど覚えているはずがないというのが常識ですから、疑いの目で見られることも多かったかと思います。
 あれから15年たちましたが、かなり理解されるようになったのではないでしょうか。
池川:
私は「生まれる前の記憶」について調べて、本に書いたり講演をしたりしています。生まれる前の記憶というのは、大きく4種類に分けることができます。
 まず会長がおっしゃった「胎内記憶」。次が「誕生記憶」。分娩時の記憶です。「過去世の記憶」。いわゆる前世の記憶です。そして、輪廻転生の中で、ある人生から次の人生に生れ変わるまでの「中間世の記憶」ですね。つまり、お母さんのお腹に宿る前の世界ですね。
 いずれもこれまでの常識では「ない」とされてきたことで、私も子どもたちから話を聞いて驚きました。しかし、研究を続けていくうち、命のこと、人生のことを考える上で、彼らが語ってくれることがとても大切だと感じたので、いろいろ言われながらもあちこちで発表しているわけです。今日は、4つの不思議な記憶のことをひっくるめてお話しさせていただきます。
 おかげさまで日本では、興味をもってくださる人が増えてきています。しかし、私は世界の人口の3割、24億人に知ってもらいたいと思っています。まだまだですね。
中川:
科学的に証明されないと真実ではないと思っている人も多いですからね。氣もそうですが、科学がまだそこまで行き着いていないわけで、科学的に証明されないからと言って、ないと決めつけるのはどうかと思いますね。私は、まずは体験してみて、そのあとで自分の頭で考えてくださいとお話ししています。
池川:
科学は正しいけれども、小さい子が胎内記憶をしゃべるというのも事実です。お父さん、お母さんを喜ばせるためにウソを言っているのではと言う人もいますが、けっこうお母さんが嫌がることも言うんですよ。お母さん、あんなことやってダメだったよね、みたいなお母さんが聞きたくないことも言います。
 生れる前の記憶がある、と仮定しないと成立しないこともたくさんあります。科学が証明できてないだけかもしれないと考えてほしいんですね。 私たちが子供を育てるのに科学はあまり必要でないかもしれません。普通は今日何カロリー食べたとか科学的に考えて育ててないじゃないですか。それでいいんですよ。ほとんどの日常生活に科学はあまり関係ない、と私は思いますね。
中川:
胎内記憶の研究は海外でも行われているのですか。
池川:
アメリカに「APPPAH(アパ)=出生前・周産期心理学協会」という団体があります。『胎児は見ている』(祥伝社 1982年)という本の著者である精神科医で元ハーバード大学教授のトマス・バーニー博士が40年ほど前に設立しました。学者たちの集まりですが、メンバーの半分くらいが胎内記憶の持ち主です。ですから、そこでは胎内記憶があるかないかという議論はなされません。あるのが当たり前。ただ、社会的にもっと受け入れられるようにと、科学的なアプローチをしようと活動しています。 私も2003年にひょんなことから入ることになりました。現役の産婦人科医ということでずいぶんと歓迎されました。
 また、アメリカのエリザベス・カルバンさんという方は、世界25ヵ国で胎内記憶をもっている人を調査し、『COSMIC BABY』という本を出しています。
 でも、まだ世間一般では信じない人が多いですね。
中川:
これからどんどん広がって行くような気がしますね。
池川:
胎内記憶のことを知っているのと知らないのとでは、子育てがまったく違ってきます。
 私は、立ち合い出産とかカンガルーケアとか、いい出産をすれば、その家族は幸せになると思っていました。しかし、お産のときはすごく感動し、感謝していた方でも、その後、産後うつになったり、育児放棄をしたり、夫婦仲が悪くなって離婚したりする人がけっこういるんですね。だから、お産の瞬間だけ幸せでもダメらしいです。
 じゃあ、何が大事なのかというと、赤ちゃんがお腹にいるときからの長い時間の関係性が大切なのだと気づいたわけです。
中川:
胎内記憶があることを知っていれば、お腹の中の赤ちゃんに話しかけたりしますからね。
池川:
そうなんですよ。たとえば、お腹の中にいるときから話しかけているお父さんだと、生まれたあと赤ちゃんがなつくんです。話かけてないお父さんだと、抱っこしたら泣くんですね。 出生時の記憶がある20代の女性が、初めてお父さんに抱っこされたときのことを話してくれました。そのときの写真があって、彼女は大泣きしています。
 お父さんは、お腹にいた自分に話しかけることもしなかったので、彼女にしてみればまったく未知の存在でした。知らないおじさんに抱っこされたようなもので、不安で仕方なかったんでしょうね。早くお母さんに戻せと泣いて抗議するわけです。
 そうなると、お父さんも自分は嫌われているのかなと困ってしまいますよ。 興味深いことですが、お腹の中にいるときから話かけているお父さんだと抱っこされても泣かないですね。いわゆる無駄泣きがないんですよ。泣くときはどうして泣いているのか、きちんと意思表示をします。 話しかけてない赤ちゃんはギャン泣きします。お父さんになつきませんから、お母さんは負担ですよ。それが産後うつや育児放棄につながることもあります。そして、お父さんは抱っこすれば泣かれるわけですから、何となくかやの外に置かれた感じで、家庭内がぎくしゃくして、離婚にまでなってしまったりします。
 そういうこともあって、胎内記憶のことを、特にお産を控えるお父さん、お母さんに知ってもらいたいと思っているんですね。
中川:
お父さん、お母さんがお腹の赤ちゃんに話しかけている光景というのは、とても微笑ましいし、温かな気持ちになりますよね。
 いい氣が充満していますよ。 先生が調査したところによると、胎内記憶をもつ子どもたちは、3割くらいいるということですよね。
池川:
3分の1の子どもが語ってくれましたね。6歳までの子が多いですね。3歳くらいがピークで6割くらい、5歳になると5割くらい、6歳で2割から3割かな。
 中学生1000人で調べたら、2・5パーセントの子に胎内記憶がありました。高校生から大人で1パーセントくらいです。
 記憶をもっていても、親に話すと頭から否定されるじゃないですか。特に、20年くらい前だと、母親から人様に言うなと言われて封印してしまうんですね。 でも、本人としては、昨日のことを覚えているみたいにとてもリアルなわけです。それで悩んで精神科を受診したら、統合失調症と診断され薬を処方されている人もいます。
 胎内記憶をもっていると精神病にされてしまうんです。それってまずいですよね。
中川:
先生のように子どもたちから根気よく話を聞いて、それを真剣に受け止めて、データにしていくという姿勢はとても大切だと思います。
 ただ、世間は、生まれる前は脳が完全にできてないのだから、記憶がないと思い込んでしまっています。
池川:
科学の世界では脳がすべてを司っていると考えられていますからね。だから、脳が完成していない胎児に記憶があるはずがないと決めつけています。
 でも、子どもたちに話を聞くと、お腹の中から外を見ていたと言うんですね。それもカラーですよ。 新生児は白黒でしか見えていないと言われています。フルカラーで見ていると言うと、それは子どもたちの幻想だと否定されます。
 でも、もし子どもたちが言っていることが本当だとすると、科学が間違っていることになります。脳がすべてを司っているという考え方が間違っているとしたら、今の科学が根底からくつがえってしまいます。
中川:
量子力学も出てきて、科学も目に見えない世界に少しずつ近づいていますが、氣とか魂といったところに踏み込むのはハードルが高いみたいですね。私も科学的な世界で生きてきたので、科学の発展には大いに期待しているのですが。
池川:
出産・子育ては科学が証明するのを待っていられないですよ。30年後に胎内記憶があると証明されたとして、30年間、そんなものないと信じて出産・子育てをしてきた人はどうなりますか(笑)。
 私が胎内記憶のことを妊婦さんやご家族の方に伝え始めて20年以上になります。お腹の中にいるときにお父さん、お母さんに話かけられて生まれてきた子が、成人しているわけです。話を聞くと、みなさん笑顔でやりたいことをやっている子に育っています。お父さん、お母さんもとても幸せで、だれも不幸になっていません。お腹の中の赤ちゃんに話しかけていると20年後に幸せになっているんですよ。最高じゃないですか(笑)。
 長くやってきたからこそ、現実の中で答えが出てきて、自信にもつながりました。科学的にどうのということは置いといて、お産を控えている方、ご家族は、お腹の赤ちゃんに話しかけてもらいたいと思っています。
中川:
帝王切開とか中絶とか、赤ちゃんにとっては大変ストレスになると思うのですが、それに関してはどうですか。
池川:
帝王切開の後で自然に生まれたかったと怒る子どももいますが、あのままだったら大変だった。助けてくれてありがとうと言うお子さんも多く存在します。
 中絶も、母親は自分を責めますが、胎内に宿れて喜んでいる子ばかりです。ですから一概に悪いとは言えません。
 大事なのは、胎児たちとしっかりとコミュニケーションをとることです。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
YouTubeライブでもご覧になれます。<a href="https://youtube.com/live/5ZIbR4nCmbE">こちら</a>から

東京・池袋 キープレース にて 構成/小原田泰久

7月「山本 伊佐夫」さん

山本 伊佐夫(やまもと・いさお)さん

1960年神奈川県生まれ。86年神奈川歯科大学卒業後、歯科医院勤務、日本医科大学医学部法医学教室。92年医学博士、同大学非常勤講師。現在、神奈川歯科大学法医学講座講師。歯科医院非常勤勤務、公益社団法人日本厚生協会理事長。下田33回、38回氣功師養成講座及び、生駒第19回、47回、76回真氣光研修講座を受講。

『口腔内は宇宙とつながっている。』

脳歯科は氣の医学真氣光研修講座に参加してO-リングテストを知った

中川:
ずいぶんとご無沙汰しています。山本先生は歯科医ですが、口腔内だけでなく全身的な、さらには氣のレベルでの健康を大切にされておられるとうかがっています。真氣光の研修講座にも参加してくださっていますし、普通の歯医者さんとはやっていることが違うようですね。
 今日は、先生が週に何日か診療されている横浜の歯科クリニックをお訪ねしました。面白いのは、椅子が倒れる歯科治療用の診療台の後ろに、患者さんが横になる治療ベッドがあることです。けっこうこの治療ベッドを使うことが多いと聞いていますが。
山本:
今日はわざわざご足労いただき、ありがとうございます。
 私の場合、歯以外の頭痛、肩こり、腰痛、不眠やアレルギーなどさまざまな症状の方がたくさんお越しになります。悪影響を与えている歯があれば、わずかに削りますが、全身のバランス、身体の動作などを診ますので、診療台は使わないことが多いですね(笑)。治療ベッドに横なって、足を上げてもらったり、立ったままでエネルギーが調和しているかどうかをチェックしています。
中川:
悪影響を与えている歯ですか。
山本:
会長にも後程体験してもらいたいと思いますが、Oーリングテストや筋反射テストを使って、原因となっている歯を見つけ出して、処置をします。
 Oーリングテストというのは、患者さんが右手の指で輪(Oーリング)を作って、左手で、たとえばある薬をもったときに、輪を作る力が強くなったか弱くなったかで、その薬が合うかどうかをチェックするものです。強くなれば合うということです。
 問題のある歯にさわると、Oーリングに力が入りにくくなります。 筋反射テストというのは、それを腕とか足を使って行うものです。
 氣の世界ではよく使われていて、真氣光でも氣グッズをもつとOーリングが強くなるとか、体が柔らかくなったり、体に力が入るという実験をしていましたよね。
中川:
不思議ですけれども、氣グッズをもつと、指で作った輪が離れなくなったりしましたね。立っている人を押しても倒れにくくなったりね。
山本:
そうなんです。私はOーリングテストを習い始めのころは、真氣光グッズのテレホンカードをもつと開かない(+)、普通のテレホンカードだと開く(-)ということで練習していました。
中川:
山本先生は、どういうきっかけで氣の世界に興味をもたれたのですか。
山本:
下田でやっていた真氣光研修講座ですよ。最初に参加したのは、1993年の8月、第33回でした。あのころは、医療氣功師養成講座と言っていましたね。
 9日間の講座でしたが、仕事を辞めて参加しましたよ。
中川:
当時、基本は一週間でした。難病の方の参加がどんどん増え、一週間では足りなくなって、9日間になったころですね。
 先生は、仕事を辞めて参加されたということですが、なぜそこまで興味をもたれたのですか。
山本:
1986年に歯医者になって、すごく気になったのが、子どもたちに元気がないことと、アトピーなど私が子どものころにはなかった病気が多くなっていたことでした。
 どうしたんだろう? とネットのない時代だったので、本を読み漁り、同じ疑問を感じている歯医者仲間と勉強会をしたりしました。
 戦後、食事の内容が大きく変わったのが原因ではないかと、食事に着目して自分でも玄米菜食をしたりもしました。 ところが、あるがんの患者さんとかかわったとき、食事の指導をしたり、食事療法を取り入れている病院を紹介して、いったんは良くなりましたが、そのあとすぐに悪化して亡くなってしまいました。 それで、食事だけではダメなのではないかという疑問が出てきました。
 そんなとき、伊豆の方にすごいパワーをもった氣功師がいるらしいと聞いたんです。先代のことです。 先代が書かれた『医者に見放されたヒフ病が氣で治った』『一週間で氣が出せた』という本を読みました。 正直、信じられませんでした。でも、著者である先代を写真で拝見すると、とてもいい顔をされている。 それで行ってみようと決めました。
中川:
実際に下田へ行かれてどうでしたか。
山本:
実は、Oーリングテストは下田で初めて知ったんです。
 一日の終わりに作文を書くじゃないですか。なかなか作文が進まなくて、受講生が夜、何人か集まって、雑談をしたり、いろいろ情報交換をするんですよ。そのとき、こんな面白いものがあるよ、とある人が実際にやって見せてくれたのがOーリングテストでした。
 Oーリングテストは霊感がなくてもできます。特別な能力もいりません。これをマスターして歯の治療に使えればいいなと思って、自分でも勉強するようになりました。
中川:
真氣光研修講座では、講義とか実習ばかりではなく、休み時間の受講生同士の交流の中から、ある人の話にすごく共鳴したと言って人生観が変わる人もいます。
 氣が充満していますから、気づきのきっかけがあふれているんでしょうね。 山本先生も30年以上も前の下田での作文の時間が大きな転機になったわけですね(笑)。
山本:
その後、Oーリングテストを本格的に学ぼうと思って神戸の藤井佳朗先生(新神戸歯科医院名誉院長)と出会い、脳歯科という領域に足を踏み入れることになるわけです。Oーリングテストには何かぴぴっとくるものがありましたね。貴重な作文の時間でした(笑)。

横浜市の歯科医院 にて 構成/小原田泰久

5月「山元 加津子」さん

山元 加津子(やまもと・かつこ )さん

映画監督。石川県金沢市生まれ。富山大学理学部卒業。小松市在住。長く特別支援学校の教諭に勤務し、並行して、養護学校の子供達の理解を広く社会に知らせる活動を行ってきた。モナ森出版を立ち上げる。著書『たんぽぽの仲間たち』『宇宙の約束―私は、あなただったかも』『リト』『銀河鉄道の夜 イーハトーブの賢治さんへ』など多数。映画作品『銀河の雫』『しあわせの森』。

『すべてはいいことのために。サムシング・グレートの思い』

地震で被災しても みなさんやさしくて強くて感動した

中川:
山元加津子さんというよりも「かっこちゃん」という愛称で呼ばれていることが多いようなので、かっこちゃんで進めさせていただきますね。
 調べてみたら、前回、かっこちゃんと対談したのは1999年でした。25年も前の話です。あのときは、石川県の小松市にあるかっこちゃんのご自宅にうかがってお話をお聞きしました。特別支援学校の先生をされていました。
 読み直してみると、小さいころは魔女になりたかったとか、やくざの方と仲良くなった話とか、方向音痴ですぐに迷子になってしまうとか、障がいのあるお子さんたちからたくさんのことを学んだとか、ユニークですてきなお話をたくさんしていただきました。
 その後、特別支援学校をお辞めになって、本を書いたり講演をしたりといった活動をなさっています。映画も作られています。多岐にわたる活動なので、何からお聞きすればいいか迷っているのですが、やっぱり地震のお話は聞きたいですね。元旦から大変だったですね。小松でもかなり揺れましたか。
かっこ:
がつんという音がしたと思ったらすごく揺れてびっくりしました。5年くらい前に、仲間たちが集まる場所として、小松の森の中にある築180年の古民家をリノベーションして「モナの森」という施設を作りました。私はそこにいました。
 近所の家は壁にひびが張ったりして大変でしたが、モナの森は、太い梁があったりして、造りがしっかりしていたのか、何ともなかったし、本棚の本も一冊も落ちませんでした。
中川:
地震と言えば、東日本大震災のとき、私は仙台でセミナーをやっていました。あのときの激しい揺れは忘れられません。
 新幹線も止まって東京へ帰れなくなったので、会場で一晩を過ごしましたが、まわりの人たちが、ご本人たちも大変なのに、おむすびや毛布を用意してくれたりして、本当に助けられました。
 災害はない方がいいし、被災者の方は大変だったと思いますが、ああいうことがあって人の温かみを感じることもありますね。
かっこ:
みなさん、やさしくて強くて、私は感動しました。
 ある財団の方から、能登の障がい者施設に寄附をしたいとのご連絡がありました。知り合いの施設に連絡をとったら、そこも被災しているのに、もっとひどいところがあるから、うちよりもそっちに寄附をしてあげてとおっしゃるんです。
 あるドラッグストアでは、商品が棚から落ちたりして店内が大変な状態だったのに、お店を閉めないで、お金はあとでいいということで、販売を続けました。お店がないと困るだろうという心づかいだと思います。
 お客さんも、みなさん、きちんと順番を守りますし、買い占めもしません。あんたのところは子どもがいっぱいいるからもっともっていっていいよとか、自分のことよりもほかの人を思いやっている姿はすてきでした。
 金沢弁で「ありがとう」は「気の毒な」って言うんですね。野菜をお持ちすると「気の毒なね」って言われるんですよ。
 それは、かわいそうという意味ではなくて、あなたがうれしいと私もうれしい、あなたが悲しいと私も悲しいという感じなんです。 とってもいい言葉だなと思っています。
中川:
人は一人では生きられないし、みんなで助け合わないと幸せにはなれません。相手の気持ちをわかろうとすることで、氣の交流が生まれて、お互いにエネルギーが高まっていくのではないでしょうか。 新しく作られた映画『しあわせの森』を拝見しました。人と人、人と自然とのつながりが大切だということがとてもよくわかりました。
 宇宙には幸せになるプログラムがあって、動物も植物もみんなが幸せになれるはずだという、すてきなテーマですね。その根底には、筑波大学の教授をされていた村上和雄先生のおっしゃるサムシング・グレートの働きがあるということで、村上先生もとても重要な登場人物でした。
 村上先生は、2021年4月にお亡くなりになりましたが、この対談にも2度出ていただきましたし、私どもの会社のホールで、スタッフや会員のみなさまに講演してくださったこともありました。 村上先生は、かっこちゃんなりのやり方、言葉でサムシング・グレートのことを伝えてほしいと言い残されたそうですね。
かっこ:
私が特別支援学校の教員として子どもたちと一緒にいるとき感じたことと、先生がおっしゃっていることと、共通点がたくさんあって、自然に親しくお話をさせていただくことになり、たくさんのことを教えていただきました。
中川:
村上先生は遺伝子工学の世界的な権威でした。人は遺伝子を読み解くことができたけれども、いったいだれが遺伝子を書いたのだろうという疑問をもち、そこでサムシング・グレート、人知の及ばない偉大な力というのを考えないと説明がつかないと言われていました。
 言われれば、確かにその通りです。遺伝子を読み解くことには一生懸命になっても、なかなかだれが書いたのだろうという疑問はもたないですよね。

2024年2月 26 日 東京・池袋 エスエーエス にて 構成/小原田泰久

山元加津子さんの著書『リト』
かっこちゃんの書籍、映画に関するお問い合わせ
モナ森出版
〒923-0816 石川県小松市大杉町ス1-1
TEL:080-3741-1341
Eメール:kakkoy@icloud.com

3月「佐々木 厳」さん

佐々木 厳(ささき・げん)さん

1984年埼玉県川口市生まれ。大学卒業後、花火の道を志し、山梨県内の煙火製造会社に6年勤務。その後、日本の伝統花火「和火」にひかれて独立。和火を専門に研究、和火の魅力や日本の精神文化を広める活動を行っている。山梨県富士川町の自然環境の豊かな場所で花火作りを行っている。魂を癒す花火。

『慰霊・鎮魂・祈りのエネルギーを乗せて』

夜空へ江戸時代の花火はワビサビを感じる和火ばかりだった

中川:
今日は、東京から甲府まで特急で来て、身延線に乗り換え、市川大門という駅で下りました。駅からは佐々木さんの車に乗せてもらって花火工場までうかがったわけですが、ずいぶんと山の中なので驚いています。 ひと通り工場を案内していただきましたが、花火の工場なので、コンクリートで丈夫に作られた建屋がいくつか並んでいて、小さな要塞みたいな感じです。この時期、寒いと思いますが、火気厳禁ですから、暖房も使えない。今日も冷えます。 毎日ここに来られているんですね。
佐々木:
そうです。毎日、ここで花火を作っています。寒いときはしっかりと着込んで働いています。それでも寒いですね(笑)。
中川:
前号で炭焼き職人の原伸介さんにお話をうかがったのですが、その中に和わ火び師しの方とコラボしたという話があって、和火師って何だろうと調べていて佐々木さんに行き着きました。和火というのはあまり聞いたことがないのですが。
佐々木:
原さんとは彼の講演会でお会いして、すっかり意気投合し、私の花火に原さんの炭を使わせていただくことになりました。 和火ですが、日本の伝統的な花火のことを言います。江戸時代までは和火ばかりでした。明治に入って、西洋から、今私たちが見ているような派手な花火が入ってきて、それが主流になりました。西洋の花火を洋火と言っています。
中川:
先ほど、作業場を拝見しましたが、和火の材料は3種類だけなのですね。
佐々木:
そうですね。塩えん硝しょう、硫い黄おう、木炭という3種類の自然原料です。
中川:
塩硝というのは?
佐々木:
硝しょう石せきのことで火薬の原料になります。塩硝と硫黄、木炭を混ぜることで黒色火薬になります。戦国時代には火縄銃を撃つのになくてはならない火薬でした。
中川:
火縄銃に使われていた技術だったんですね。
佐々木:
江戸時代になって戦争がなくなり平和になったので、火縄銃も必要なくなりました。それで、火薬の技術が花火に使われるようになったようです。 洋火は化学薬品が使われていますので、あんなにも華やかに開きます。 和火は暖かみのある赤褐色の灯りと、幽ゆう玄げんな美しさをもつ炭火の火の粉が特徴です。
中川:
今の花火がカラフルで派手なのは、化学物質が燃焼しているからですか。和火は、木炭の粉が燃えるから、オレンジ色の暖かな色になるわけだ。 私も夏には花火を見に行ったりします。きれいはきれいなのですが、上がったあと空に白煙が広がって見えにくくなります。あれは化学薬品のせいなんですね。 長く見ていると、飽きてきたり疲れてきたりします。和火は見たことないのですが、和火と洋火ではエネルギーが違うのかもしれません。
佐々木:
どこの花火会社でも和火は作っています。ただ、花火大会では洋火と洋火の間の休憩の意味合いで上げています。私は、和火だけで十分に楽しんでもらえる自信がありますけど。
中川:
3種類の自然の原料だけでも変化は出せるのですか。
佐々木:
塩硝と炭の配分によって燃焼のスピードが変えられます。炭の原料が松であるかクヌギであるか、ほかのものであるかによって色味が違ってきます。炭の粉の大きさで火の粉が残る時間が違います。細かい粉だとすぐに消えてしまいます。 そういったことを考えながら設計していきます。3種類の原料をいろいろ変化させながら作る花火なので、私は洋火よりも奥行きが表現できると思っています。
中川:
日本の伝統であるワビサビの世界ですね。渋さがあるんでしょうね。
佐々木:
おっしゃる通り、和火にはワビサビだったり幽玄だったり、日本の精神文化が入っています。原さんはそのあたりのことをよくご存じなので、彼の炭を使った和火は本当に気持ちいいですよ。作り手の思いが乗るのだと思います。
中川:
作り手の思いは大切ですね。料理でも、相手のことを思って作るのと、面倒くさいなと思って作るのとでは、エネルギーが全然違います。 ところで、花火はいつごろからあるものなのでしょう。
佐々木:
原型は中国の狼の ろし煙で、狼煙が発展して花火になったと言われています。 狼煙というのは字を見てわかるように、もともとは狼の糞ふんを使っていたそうです。狼の糞を燃やすと、風に流されることなく、まっすぐに上がるのだそうです。それに時間の経過によって色が変わるらしく、何種類かの色の煙を上げることができたとも聞いています。

2024年1月 17日 山梨県南巨摩郡富士川町 にて 構成/小原田泰久

1月「原 伸介」さん

原 伸介(はら・しんすけ)さん

1972年横浜市生まれ、横須賀育ち。14歳のときに遊び場だった里山がつぶされ、「将来は山に恩返しをする」と決心。信州大学農学部森林科学科を卒業。1995年に大正生まれの炭焼き職人に出会い、伝統的炭焼き技術を学ぶ。炭焼き歴29年目の現在も、伐採から搬出、炭焼きまでの全てを一貫して行う傍ら、日本の伝統技術や文化・ 人生の素晴らしさを伝える活動に命を燃やしている。主な著書「山の神さまに喚ばれて」《修行編》《独立編》(フーガブックス)「生き方は山が教えてくれました」(かんき出版)など。

『努力は好きに勝てない。好きを武器に炭焼きを極める』

遊び場の山が崩され、山に恩返しをすると決心

中川:
炭焼き職人さんということで、どんな方だろうと、こちらも勝手にイメージをしていましたが、着物姿とは驚きました(笑)。普段から着物を着られているのですか。
原:
着物は普段着です。炭焼きは作業服に地下足袋ですが。
中川:
山の男というイメージをもっていましたから、着物とは想像もしませんでした(笑)。
原:
父が落語好きで、幼いころから子守歌代わりに落語を聞かされていました。 覚えたのを話すと受けるのでうれしくなって落語が好きになりました。初めて高座に上がったのが3歳のとき。惜しまれて5歳で引退しました(笑)。 落語に親しむことで、話芸だけでなく江戸の価値観が自分の中に入ったような気がします。昭和47年生まれですが、自分だけ元禄生まれみたいな感じで(笑)、まわりとのギャップは大きかったですね。 先生の言っていることもよくわからないし、「勉強していい学校へ行けばいい人生が送れる」みたいなことを言われると、「先生、それはちょいと野暮ってもんじゃねぇですか」なんて思ったりしていました(笑)。 落語には職人が出てきますが、その気風のよさに憧れたりしてましたね。炭焼き職人になったのも、父の落語好きが遠因の一つかもしれません。 とにかく、日本文化が大好きで、着物はぼくにとってはなくてはならないものです。まわりの人にも日本の伝統に少しでも関心をもってもらいたくていつも着物姿でウロウロしています(笑)。
中川:
職人さんというと無口で笑わないようなイメージですが、原 さんはあちこちで講演をされたり、話す機会が多いみたいですね。まだ少ししかお話ししていませんが、とてもお話しのテンポが良くて、こちらも楽しくなってきます。わずか3歳で高座に上がった成果が出ていますね(笑)。
原:
おかげさまでけっこう受けていますね(笑)。
中川:
落語以外にも炭焼きに興味をもった理由はあると思いますが。
原:
出身が神奈川県横須賀市なのですが、小さいころはぎりぎり自然が残っていて、野山を駆け回って遊んでいました。 ところが、ぼくたちはベビーブームの生まれだったので、小学校も中学校も教室が足りないのです。それで、ぼくの大好きだった野山が潰されて、中学校が建てられることになりました。ぼくにとって、人生最大のショック。ものすごい喪失感がありました。 中学3年生の4月から自分の遊び場だった山を崩してできた学校に通い始めることになりましたが、楽しかった野山の変わり果てた姿を見るのがつらくて、いつか山に恩返しをしようと決めたのです。 それが炭焼きをやることになった原 点だと思います。
中川:
それで信州大学に行って、森林科学を勉強することにしたんですね。
原:
その前に高校なんですが、入学して間もなく進路調査用紙が配られて、希望大学・希望職業を書くように言われたことがありました。高校へ入っても山に恩返しをしたいという気持ちがずっとあったので、山の職業を書きたいわけです。でも、横須賀には林業をやるような立派な山もないし、山の職業が思いつかないんですね。山の仕事をしている人なんて見たこともなかったですから。 「山にいる人ってだれだろう」と考えたときに頭に浮かんだのが「仙人」でした。それで、希望職業欄に「仙人」と書きました(笑)。 すぐに先生から呼び出しを受けました「ふざけるな」「ふざけてません」とどちらも引きません。結局、「希望職業・仙人」を3年まで変えませんでした。
中川:
希望職種が「仙人」ですか。先生も面食らったでしょう。
原:
仙人になるにはどこへ行けばいいかと考えたとき、さすがに神奈川には仙人はいないだろう、と。もっと山深いところ、自分の中で一番山のイメージが強かったのが長野県でした。いろいろ調べたら、信州大学農学部に「森林科学科」があることがわかりました。信州→森林→仙人という連想が働いて、ものすごくときめきました。 それで信州大学農学部森林科学科に進路を決めました。
中川:
なるほど。現実的な進路が見つかったわけですね。
原:
でも、入ったはいいけれども、同級生に仙人を目指している者もいないし(笑)、そばに山があるのに実習がないんですよ。板書をノートにとるだけの授業です。こんなことをやりに来たのではない、とすぐに学校へ行かなくなりました。
中川:
期待した内容とはまるで違ったんですね。卒業は?
原:
卒業はしました。親との約束でしたから。 ほかの学科で単位をとってもいいことがわかって、いかに学校へ行かなくても単位が取れるか頭を働かせました。レポートだけで単位がとれるものがけっこうあったので、その授業ばかりを選んで、3年が終了したころには卒業の単位はとれていました。ほとんど大学へ行かずに卒業できました(笑)。

長野県松本市の伊太利亜炭 火焼きレストラン「ドマノマ」にて 構成/小原田泰久

山の神様に喚ばれて

11月「竹本 良」さん

竹本 良(たけもと・りょう)さん

1957年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。UFO研究家。科学問題研究家。聖パウロ国際大学サイキックパワー開発研究科主任教授。年末恒例の『ビートたけしの超常現象Xファイル』(テレビ朝日系)ではコメンテーターを務める。著書に『宇宙人革命』(青林堂)、『テロとUFOー世界貿易センタービル「あの瞬間」に現れた謎のUFO』(徳間書店)などがある。

『U F O 、宇宙人を知ることで見えない世界の謎が解ける』

子どものころから数々の神秘体験。UFOは大学から

中川:
最近、ネットニュースでUFOや宇宙人に関する記事がよく流れてきます。NASAが本格的にUFOや宇宙人の研究をしているという話だったり、宇宙人からのメッセージが届く可能性があるとアメリカの大学が発表したとか、メキシコでは宇宙人の遺体が公開されたり。今まではオカルトだとまともには議論されなかったことですが、何か様子が変わってきた気がします。だれか専門家にお話を聞きたいと思っていたところ、そう言えば竹本さんがいるとひらめきました。竹本さんは、阿久津淳さんというペンネームで、ハイゲンキマガジンの創刊当初に連載をしてくださっていました。 今では、テレビのU F O番組にもよく出られていてUFOのことをお聞きするには最適な方だと思い、対談を依頼した次第です。
竹本:
ありがとうございます。ハイゲンキには、初代の編集長の木上さんとのご縁で原稿を書かせてもらっていました。30年近く前になりますかね。先代の会長が亡くなって、真氣光が新しい会長のもとでどう変わっていくのか、とても気になっていましたが、いい形で発展されていて、今回、会長にお会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
竹本さんが連載していたころ、私はまだ父の会社には入っていなくて、真氣光を懐疑的に見ていました(笑)。それでもハイゲンキマガジンは家にあったので毎号目を通していて、竹本さんの記事はとても興味をもって読ませていただきました。あのころは異能の科学者ということで、目に見えない世界を研究していた人たちを紹介してくださっていました。私もエンジニアでしたから、氣のような怪しげな世界に科学的にアプローチしている人たちがいたということに関心をもちました。 
竹本さんは、もともと目に見えない世界のことはお好きだったのですか。
竹本:
いろいろな神秘的な体験をしたのがきっかけだったですかね。 最初は小学生のときでした。江の島に遠足に行ったときのことです。小田急線の特急に乗っていて外を見たら、この場所知っていると思いました。初めて来たところなのにです。いわゆるデジャヴュですね。 変な夢もたくさん見ました。どうしてそんなことがあるのかと神秘の世界、無意識の世界に興味が出てきました。 中学校のときにはラップ音の現象があったり、子どものころからけっこう不思議な現象に囲まれていましたね。でも、学校ではそんなことは教えてくれません。余計に興味が膨らみましたね。 高校でグリークラブ(男性合唱団)に入りました。練習でハモったときに細胞がわななくという体験をしました。
中川:
細胞がわななくんですか。
竹本:
体がぼわーっとなるんですね。とても気持ちがいい。さらに、ミサ曲を歌っていたとき、先生が途中で止めました。その瞬間、頭のてっぺんから何かが突き抜けていくような感覚がありました。ハモったときには何倍もの快感でした。 これは何だろうと知りたくなりました。当時はヒッピーの町だった下北沢の古書店へ行ったら、神秘の世界の本がたくさん置いてあって、チャクラとかクンダリーニといったことも知るわけです。「これかもしれない」と思い、ずいぶんとその手の本を読んで勉強するようになりました。
中川:
U F Oのこともそのころからですか。
竹本:
U F Oは大学に入ってからですね。あるとき、友だちから「変な人が大学の構内を歩いている」という話を聞かされました。その人は卒業しているのによく大学へやって来るのだそうです。着流しに下駄という格好で歩いていて、学生たちに「U F O あるって知っている?」「宇宙人いるって知っている?」と話しかけているって言うんですね。気持ち悪いでしょう(笑)。でも、私は彼にとても興味をもって、友だちに会わせてほしいと頼みました。その先輩というのが、後に日本UFO党という政党を立ち上げた森脇十と九く男おさんでした。 森脇さんの部屋へ行ったときはびっくりしました。3畳間にUFOに関する本がびっしりとありました。全部、英語の本です。国連の資料なんかもありました。 私はUFOのことがアメリカではこんなにも研究されているのに、日本ではまったく翻訳もされていないことを知り、その情報はもっと世に知らせないといけないと思いました。
中川:
そこからUFOの研究が始まったわけですね。
竹本:
そのころ森脇さんは大手の会社を辞めてUFO研究に人生を捧げていました。そんな先輩がいるのに、のほほんとしていていいのかと勉強をし始めました。 森脇さんと一緒に、テレビ局や新聞社などいろいろなメディアに資料をもっていきました。けっこう真剣に聞いてくれたところもあって、NHKのニュースでは5分くらい流してくれたこともありました。動いていれば少しは成果が出るものです。

東京。目黒区の会議室で 構成/小原田泰久

9月「舘岡 康雄」さん

舘岡 康雄(たておか・やすを)さん

東京都生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業。日産自動車中央研究所材料研究所に入社し、研究開発部門、生産技術部門などをへて、人事部門で日産ウェイの確立と伝承を推進。その後、静岡大学大学院教授を務める。現在、一般社団法人SHIENアカデミー代表理事。1996年からSHIENに関するワークショップや講演活動を国内外で行っている。主な著書『利他性の経済学:支援が必要となる時代へ』(新曜社)『世界を変えるSHIEN学』(フィルムアート社)。博士(学術)。

『競争の時代は終わった。力を引き出し合うS H I E N の時代へ』

SHIEN学は人間の内側を解放する科学。意識の科学、間の科学

中川:
舘岡先生のお書きになった『世界を変えるSHIEN学』(フィルムアート社)を読ませていただきました。私ども真氣光で言っていることと共通する部分がたくさんあって、ぜひお会いしてお話をうかがいたいと思いました。今日はよろしくお願いします。
舘岡:
ありがとうございます。ずいぶんと前に対談のオファーをいただいていたのにお返事ができずに失礼しました。真氣光のこと、私なりに調べさせていただきました。SHIEN学と似たところがたくさんあって、私も中川会長にお会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
先生は大手自動車会社のN社に入社されて、研究開発、生産技術、購買、品質保証、人事といった部門で働いてこられました。N社が経営的に危機を迎え、回復していくという激動の中で、これからの時代は競争ではなく、お互いの力を引き出し合うことが大切だということにお気づきになり、それをSHIEN学ということで学問、科学として提唱されています。 私たちは今、大きなパラダイムシフトの中で、生きているわけですね。
舘岡:
これまでの社会は、お金や物といった目に見えるものが大事にされてきました。これからの時代は、見えないもの、お金に代わるものが大切になると、2006年に『利他性の経済学:支援が必然となる時代へ』(新曜社)という本に書きました。 今、あの本に書いたことに時代が追いついてきています。 これまでの学問は外側ばかりを対象にしてきました。私が提唱しているSHIEN学は人間の内側を見る科学です。意識の科学とか間の科学という言い方もしています。
中川:
間の科学ですか。
舘岡:
現代社会のベースとなってきた西洋科学は一個が最小単位で、一つの会社と別の会社が競争しているとか、一つの国と別の国が争っているというモデルです。 SHIEN学では「間」にこそ実体があると考えます。最小単位は一個一個ではなく「対」なんですね。お互いにしてあげたりしてもらったりするのが自然の姿です。会社でも、社長がいて管理職がいて従業員がいますが、それぞれが個として別々にあるのではなくて、その間に関係性、間があって、してもらったりしてあげたりしているわけです。 私は莫大な借金を抱えて倒産しそうになっているN社がダイナミックな改革によって奇跡的に復活するのを目の当たりにしました。その根底には、大きなパラダイムシフトがありました。その経験がSHIEN学のもとになっています。
中川:
「支援学」ではなく「S H IEN学」と表現しているのはどうしてでしょうか。
舘岡:
「支援」は「難民支援」や「被災地支援」のように、上位者が下位者に、力のあるものがないものに施すという概念です。「SHIEN」は、自分を犠牲にし、人を助ける一方的な「利他」とは異なり「寄り添い」を軸に重なり、互いに行動を起こすことを指します。 重なりのなかったところに重なりをつくり、「させる/させられる」ではなく「してもらう/してあげる」を、双方向に交換する行為のことで、新たな時代に必要される在り方だと考えていただければと思います。それがSHIENということです。
中川:
一方的に片方だけが助けるということはありませんからね。被災地で困っている人を助けるという形であっても、助ける人もいろいろ学んでいることがあったり、感謝されたり、さまざまな感動や喜びをもらったりするものです。支援は一方通行のようなイメージがありますが、SHIENは双方向ということですね。
舘岡:
おっしゃる通りです。私は、N社の復活劇の最中、大学院へ通って、ある研究をまとめていました。社会は「リザルトパラダイム」から「プロセスパラダイム」、「コーズパラダイム」へとシフトしていくというものです。それがSHIEN学の基礎になっています。パラダイムというのは、その時代に共通するものの見方や考え方のことです。 これまではN社を含めた企業社会というのは、常に競争でした。トップダウン方式の働き方で「やらせる/やらせられる」の一方向の考え方です。私は、それを「リザルトパラダイム」、略して「リザパラ」と名付けました。同期はライバルで、他部門も敵だと感じるような関係です。しかし、それでは会社はN社のように行き詰まってしまいます。 本当にいい関係というのは、お互いがお互いの力を必要とし、お互いを活かし合う働き方ができることです。仲間が自分を認め、自分も仲間の力を引き出す。会社が自分を大切にし、自分も納得して心から納得して会社に貢献できるような状態です。N社もそういうパラダイムシフトがあって奇跡的な回復を遂げました。

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

お問い合わせ

各種お問い合わせはこちらより承っております。
よくいただくご質問と、
その答えをよくあるご質問で紹介しています。
お問い合わせの前にご一読ください。

真氣光研修講座に関する
ご予約/お問い合わせ

まずは無料で氣を体験 最寄りのセンターやご自宅からオンラインでもご参加可能です 体験会のご予約はこちらから