真氣光 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光 - Page 8

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3月「桃崎 有一郎」さん

桃崎 有一郎(ももさき ゆういちろう)さん

1978年東京生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。史学博士。高千穂大学教授。専門は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)「武士の起源を解きあかす」(ちくま書房)など。

『武士の起源とは? 都と地方のハイブリッドだった』

年賀状はなぜ出すのか? 初詣はいつ始まった?

中川:
先生の書かれた『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)を読ませていただきました。だれにもご先祖様がいます。そのおかげでこうやって生きているのだから、ときにはご先祖様にも思いを馳せた方がいいと、私はお話ししています。
ご先祖様のことを知るには、歴史も勉強しないといけません。歴史に関する本を読んだり、専門家のお話を聞いたりして勉強しているのですが、武士の起源がわかってないというのが意外でした。わかっているものと思って武士のことを聞いたり、語ったりしていましたから。
先生は、武士がご専門ではないけれども、その起源がわかってないと知って、ご自分で調べられたということでしたね。
桃崎:
私は平安時代の終わり頃から室町時代という中世が大好きです。中世は決まった枠組みがない時代でした。古代なら律令国家があるし、近世なら幕藩体制があって、近代以降なら大日本帝国という枠組みがありました。しかし中世は枠組そのものが壊れて存在しません。ダイナミックで生々しい政治が行われていました。
そんな中世の中でも、「儀礼」にとても興味がありました。儀礼というのは、今で言うなら、結婚式や葬式、法事といったものです。人はなぜ、形骸的な儀礼をしたがるのか。儀礼はなぜその形で行われるのか。そういった研究をしています。
中川:
儀礼ですか。
桃崎:
儀礼の研究というとピンとこないだろうと思いますが、けっこう面白いものですよ(笑)。身近な話をすれば、年賀状をなぜ出すのかわかりますか? 新年になると「明けましておめでとう」と言いますが、何がおめでたいのでしょうか? 初詣にはなぜ行くのでしょうか? 私たちがお正月に当たり前にやっている儀礼も、どうしてかと聞かれると困りますよね。
中川:
わからないですね。考えたこともないですよ(笑)。
桃崎:
だれに聞いても答えが出ないですね(笑)。それでも年賀状を出さないと悪いと思っている人は多いですよね。
もともと年賀状というのは元日にあいさつに行けなかったおわびとして出すものだったようです。確かに、昔の記録を見ても年賀状のことは書かれていません。
明治になって近代郵便制度ができて年賀郵便を扱うようになり、あいさつを年賀状ですませるようになったということです。
年が明けて何がおめでたいのかですが、昔は数え年で年齢を数えていました。つまり、元日に一斉に年を取るわけです。今は年を取るのはネガティブにとらえられますが、長生きできない時代では、年を取るのはうれしいことでした。だから、「おめでとう」と言い合ったわけです。人々が、世界そのものが、無事に+1年延命できたということです。
中川:
なるほど、そういうことですか。初詣はどうでしょう?
桃崎:
関東に住んでいると、よくテレビで、初詣は川崎大師へとか、成田山新勝寺へといったコマーシャルが流れます。どうして神社でもない川崎大師と成田山新勝寺なのだろうと疑問に思っていました。
そうしたら『初詣の社会史』(平山昇著、東京大学出版会)という本に出あいました。その本によると、明治の初めに新橋と横浜の間に鉄道が開通したので、鉄道に乗って川崎大師に来てもらおうとしたみたいなのです。乗客を増やすための戦略だったんですね。成田山新勝寺も同じような理由で、盛んに宣伝されて、それが現代まで続いているということでした。
中川:
それでは観光ビジネスの影響ですね(笑)。
桃崎:
そのとおりです。年賀状も初詣も、日本の古い伝統だと思っていた人は多いのではないでしょうか。よく調べてみれば明治時代から始まったことですから、伝統文化とは言えません。
日本の伝統文化を守りたいと言う人がいますが、何を守ろうとしているのか、勘違いしていることがたくさんあるのではないでしょうか。何が本当の伝統文化で、何を守ればいいかをはっきりさせないといけません。
日本人は裁判沙汰を嫌うというけれども、中世では今のアメリカみたいに次から次へと裁判をしています。実は日本人は裁判が大好きだったのです。
儀礼の研究をしていくと、昔の日本人が何を大切にしていたのかが見えてきます。
私は、儀礼は過去からのメッセージではないかと思っています。まだ読み解かれていないメッセージが、儀礼を研究すると見えてくるんですね。

<後略>

2019年1月18日 東京・高千穂大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「武士の起源を解きあかす」桃崎 有一郎 著(ちくま書房)

2月「阿部 一男」さん

阿部 一男(あべ かずお)さん

元宮城県警警視正。昭和8年(1933年)宮城県生まれ。高校中退後、鉱山で
の勤務をへて20歳のときに宮城県警に採用。昭和53年(1978年)警部に
昇進し、気仙沼署の刑事課長に。そのころから異様な「声」を聞くようにな
る。平成20年(2008年)瑞宝双光章を受章。著書に「霊感刑事の告白」(幻
冬舎)がある。

『犯人や被害者の声が聞こえる。霊感で事件を解決する刑事!』

45歳のときに突然、異様な声が頭に飛び込んできた

中川:
阿部さんが書かれた「霊感刑事(デカ)の告白」(幻冬舎)を読ませていただきました。私がやっている真氣光は霊的な世界ともとても深くかかわっていて、阿部さんが書かれていることには、共感する部分がたくさんありました。
氣を受けた方から、その人とは違う人格の何者かが出てくることがあります。「つらい」とか「苦しい」と訴えてくるのですが、氣を受けるうちに、「光がきた」「楽になった」とどんどんと変化していきます。たぶん、肉体を失った魂さんが出てくるのだと思います。
長年、そういう現象を目にしていますので、私は、人間には魂があることを確信しています。
阿部:
私は85歳になりましたが、霊的な体験をした者としては、人間だけでなく、動物も植物も、生きているものにはすべて魂があることを伝えないといけないと思っています。
われわれが肉体をもって地球上で体験していることは単に入口にしか過ぎなくて、死後の世界が本番になると考えています。
中川:
体をもって生きているのは一時期のことですよね。
阿部:
いくら科学が発展しても、人類の知識で宇宙のすべてがわかるわけではありません。なのに、すべてをわかったように思うのは、愚かなことじゃないでしょうか。死後の世界とか魂のことも、今の科学ではわからないことだと思います。
霊的な感覚も同じで、科学ではなかなか証明できないものです。証明できないからないものと考えるというのは、浅はかなことではないでしょうか。
中川:
阿部さんは刑事さんだったそうですね。霊感刑事というのがすごいですね。刑事さんが霊感を使って犯人を捜すというと、何をバカなことを言っているんだということになるでしょうね。
阿部:
犯罪現場での捜査活動は、合理的な根拠をもとに行われます。ですから、「何となくピンときた」というような、直感とか第六感と言われるようなものは排除されます。
自分が刑事として働いてきた経験を振り返ると、ずいぶんと霊感に助けられてきたことがあったと思います。霊感とまではいかなくても、ひらめきのようなもので犯人の手掛かりをつかめたという体験はだれもがもっているはずです。でも、そんなことを言う人はいないし、言っても軽視されてしまいます。
この本を出しても、警察関係からは電話一本かかってきませんよ。読んだ人がいたとしても、いい加減なことを書いていると思っているんでしょうね。
中川:
45歳のとき警部に昇進されて、気仙沼署の刑事課長のときに、突然異様な声が聞こえたということでしたよね。それが最初の霊的な体験ですか。
阿部:
自分では狂ったと思いましたよ。最初の聞こえ方は、いわゆる耳で聞く音ではなくて、音が頭に飛び込んでくるという感じだったように思います。刑事仲間たちの声が、スイッチが切ってあるラジオやテレビから聞こえてきました。部下たちの心の声が頭に飛び込んできたこともよくありました。
一番おかしいと思ったのは、朝起きて、カラスが鳴いていて、その鳴き声に人の声が混ざってくるんです。早朝だったので、私は心の中で「うるさい!」と怒鳴りつけました。そしたら、カラスがカァカァと鳴くのをやめました。そして、「うるさいと言っているぞ」という声が聞こえてきました。びっくりして眠気が吹っ飛んでしまいました。カラスとはずいぶんと話をしましたよ(笑)。
中川:
カラスとですか。霊的な部分ではつながっているでしょうから、そういうこともあるんでしょうね。
それ以前でも、兆候のようなものはあったのではないですか。
阿部:
兆候はありましたね。気仙沼へ行く前のことです。仙台市内を流れる川の橋の上から5歳の男の子が見知らぬ男に投げ落とされるという事件がありました。幸い、男の子はけがもなく無事に救出されましたが、悪
質な事件ですので、殺人未遂事件として捜査が始まりました。しかし、捜査は難航して、有力な手掛かりがないまま1ヶ月がたちました。
私は現場に行って「どうしたらいいだろう」と考えていました。そのときに強いひらめきがありました。そのひらめきがきっかけになって犯人が徐々にしぼれてきて、10ヶ月後についに犯人逮捕となりました。
あのときは、単なるひらめきだと軽く考えていましたが、今はあれは霊界から教えられたのだと確信しています。真剣に考えたり、取り組んでいると、霊界に応援してもらえるのではないでしょうかね。

<後略>

2018年11月23日 仙台市の阿部一男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「霊感刑事の告白」阿部一男 著(幻冬舎)

1月 「野村 進」さん

野村 進(のむら すすむ)さん

1956年東京生まれ。ノンフィクション作家。拓殖大学国際学部教授。在日コリアンの世界を描いた『コリアン世界の旅』で大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞。『アジア 新しい物語』でアジア・太平洋賞受賞。ほかにも、『千年、働いてきました』『解放老人』『どこにでも神様』など多数の著書がある。

『神様に手を合わせるのは気持ちいいこと、幸せなこと』

出雲の山奥まで若い女性が。一過性ではない神社ブーム

中川:
野村先生の書かれた『どこにでも神様』(新潮社)という本を読ませていただきました。とても興味深く読ませていただきました。ちょうど、新年号なので、神様の話はいいかなと思ってお願いした次第です。
これはどれくらいの期間、取材をされたものなのですか。
野村:
大学での講義やほかの取材も続けながらですが、7年くらいかけました。
中川:
3人の若い女性と一緒に出雲の神社を回っておられますが、あれはいつごろのことなのですか。
野村:
2016年の4月から5月にかけてですね。
中川:
若い女の子たちの反応がとても新鮮に感じられました。最近は神社巡りが好きな若い女性が増えているようですね。
野村:
この本とは別に、月刊「文藝春秋」に「女子はなぜ神社を目指すのか」という記事を書きました。出雲だけではなくて、東京でも若い女性の間で“神社ブーム”が起きています。
千代田区に東京大神宮という神社があります。最寄駅の飯田橋から女性たちの波ができていますよ。行列が延々と続いていて、正月だと2、3時間待ちだそうです。30年くらい前は、正月でも境内で凧揚げができたと宮司さんはおっしゃっていました。ここ20年くらいの現象だそうです。平日の9時くらいでも、けっこう若い女性たちがいます。会社へ行く前にお参りしていくようですね。
中川:
神社というと、お年寄りが集まる場所のようなイメージがありますけどね。
野村:
マスコミは、「神社ガール」とか「御朱印ガール」とか「神かみ女じょ」とか、ちょっとからかうように書いています。若い女性の神社ブームなど一過性のものと軽く見ているんでしょうね。実は、私もそう思っていましたが、出雲の山奥にまで若い女性たちが来ているのを見ると、これは一過性じゃないなと、考えを改めざるをえませんでした。
これまで、神社について、若い女性たちの声をきちんと聞いたレポートは、ほとんどありませんでした。それで、神社ガールたちと実際に出雲の代表的な神社を巡ってみて、彼女たちが感じたことや考えたことをその場で尋ねて、記録しようと思い立ったわけです。
中川:
出雲に興味をもったきっかけはスーパーマーケットでの福引で出雲旅行が当たったことだったそうですね。
野村:
そうなんですよね。10年以上も前の話ですが、当時小学校5年生だった娘がスーパーの福引で金賞を当てまして、それが「松江・出雲大社・足立美術館二泊三日ペア」というものだったんです。それを娘からありがたく頂戴しまして(笑)、夫婦で出かけていったのがきっかけでした。
妻は、初めての松江にとても興奮していました。彼女の、いまは亡き明治生まれの祖母が幼少期に過ごした借家というのが、「小泉八雲」と改姓する前のラフカディオ・ハーンが暮らし、現在は小泉八雲記念館と隣り合っている日本家屋だったのです。
いま考えれば、“ご縁”の強い力があったのかもしれないと思いますね。何しろ、福引で金賞を射止めたというのは、わが家にとってはあとにも先にもこのときだけですから(笑)。
中川:
出雲の神様のことをもっと世に知らせたいというご先祖様の力が働いているのかもしれませんね。
私どもは、目に見えないものを氣と呼んでいます。霊とか魂とか神様も氣のひとつとして考えています。科学では測定できないし説明もつきませんが、日々の生活の中で、そういう理屈では説明できないことというのはいくらでもありますからね。
野村:
私の場合、50歳を過ぎたころから、「シンクロニシティー」というんでしょうか、「えっ!」と思う偶然によく出くわすようになりました。
中川:
どんなことあったのですか。
野村:
東京西部の山間地で林業を営む田中さんという方に取材でお会いしたら、「うちの親父も『野村進』なんです」と言われてびっくりしたことがあります。田中さんのお父さんは田中家に婿養子に入った人で、旧姓は「野村」、名前が「進」だったというんですね。それまで同姓同名の人には、一度も会ったことがありませんでした。こんな形で同姓同名の人に巡り合うというのは、どれくらいの確率で起こることなんでしょうかね。
もうひとつは、取材で山形県の重度認知症の病棟に取材でうかがったときのことです。ナースステーションに入ったら、デスクの上にカルテが重ねておいてあるのが目に入りました。何気なく一番上のカルテを見てびっくりしたのです。そのカルテの女性患者の生年月日が、私の母親とまったく同じで、そのころ母も認知症を患って都内の施設に入っていましたから。
つまり、この病棟には、母と同じ年の同じ日に生まれ、しかも同じ病気にかかっている女性がいて、その人のカルテが私の目に止まるようなところに、これ見よがしに置かれていた。いったいどういうことなのだろうと、私は考え込んでしまいました。

<後略>

(11月22日 東京・拓殖大学 八王子国際キャンパスにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「どこにでも神様:知られざる出雲世界をあるく」野村 進 著(新潮社)

6月 「楊 名時」さん

10月 「迫田 時雄」さん

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長を経て、82年埼玉県川越市に帯津三敬病院、2005年に東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。人間まるごとのホリスティックな医療を実践している。帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会名誉会長。著書は、「粋な生き方」(幻冬舎ルネッサンス)「ドクター帯津の健康暦365+1」(海竜社)「健康問答」(平凡社・五木寛之との共著)など多数。

『潔く、はりがあって、色っぽい。そんな粋な生き方で養生を極める』

先代とは上海で初めて会って、 被曝したインディアンの治療にも行った

中川:
先生、お久しぶりです。私が「氣―こころ、からだ、魂を満たす光のエネルギー」という本を出したときに、対談をお願いして以来ですから、7年ぶりくらいでしょうか。
帯津:
そんなになりますか。会長は、いくつになられました?
中川:
55歳です。先生は、うちの父親と同じで1936年生まれですから、80歳になられたんですよね。お元気ですね。
帯津:
そうそう、先代の中川先生とは1ヵ月くらい、私のほうが早く生まれているんです。いくつでしたか、お亡くなりになったのは。
中川:
59歳の12月でした。あと3ヶ月くらいで60歳だったのですが。
帯津:
じゃあ、20年以上もたつんですね。楽しい人でしたね
中川:
先生が最初に先代に会われたのは、中国だったですよね。
帯津:
1988年でしたね。上海で「国際氣功シンポジウム」というのが行われたんですね。第二回目で、日本からもたくさんの方が参加されていました。もう亡くなられましたが、ユング心理学の研究で有名だった湯浅泰雄先生とか、氣功とカイロをやっていたひげの吉見猪之助さん、山内式気功体操の山内直美さん、日本気功科学研究所の仲里誠穀さん、日本気功協会の山本政則さんとか、その後の日本の氣の世界をリードしていく面々がそろっていました。いずれも、個性豊かな人でしたね。
そんな中に混じっても、中川先生は目立っていました。何しろ、髪の毛が真っ白、白い顎ひげでしょ。氣が出る機械・ハイゲンキもインパクトありましたよ。
中川:
怪しさプンプンですよね(笑)
帯津:
いやあ、あれくらいがいいんですよ。これから氣を広めていかなければならないときですから、ああいう目立つ人を、神様は送り込んだんじゃないですか(笑)。
上海から帰って来て、中川先生から電話があって、一緒に飲もうということになりましてね。そのときに、夢に白髭の老人が出てきて、明日から氣を出せと言われたという話を聞きました。
下田の一週間の合宿も見学に行かせていただきました。
中川:
そうでしたね。それから、アメリカインディアンのホピ族が住む村へ同行してくださいましたよね。
帯津:
1994年の8月でしたね。一緒に行ってくれないかと言われて、ちょっと難しいかなと思ったのですが、当時から場のエネルギーにとても興味があって、インディアンが聖地だと崇めている場所はどんなエネルギーなのだろうと思って、スケジュールを調整して行きました。
飛行機の中では隣同士だったのでゆっくりと話ができました。機内食を、「おいしい、おいしい」と言って、本当に嬉しそうに食べている中川先生の姿に感心しました。ああ、この人は素直な人なんだなと、ますます好きになりましたね。
中川:
食べるのが好きな人でしたから。ホピの村へは、ウランの採掘で被曝した人たちの治療に行ったんですよね。
帯津:
そうなんですね。「ホピの予言」という映画を作った宮田雪きよし監督が案内してくれました。最初は、ホピ族やナバホ族の被曝者が入院している病院へ行ったのですが、治療の許可が出ませんでした。それで、個人の家を訪ねたり、コミュニティセンターのようなところで治療会をやったりしました。
コミュニティセンターのときは、最初は数人だったのですが、その人たちが家へ帰ってからまわりの人に話すものだから、次々と人が集まってきました。トラックの荷台に人がびっしりと乗ってやってきたのにはびっくりしました。
中川先生だけでは追いつかないので、私まで氣功治療をすることになりまして。それにしても、すごい人でした。
中川:
ホピの予言の岩絵も見られたんですよね。
帯津:
見てきました。ホピの大地のエネルギーはすごかったですね。あるところでは、写真を撮ろうとしたらシャッターが切れませんでした。私のカメラだけじゃなかったので、何かエネルギーの影響があったのかなと思います。
長老のマーティンさんの家も訪ねました。生のニンジンが出てきたので、それをかじりながら話を聞いたわけです。
なかなかできない体験をさせていただきました。
帰りの飛行機は、ビジネスクラスが予約してあったのですが、何かの都合で、ファーストクラスに乗せてもらいました。ホピの神様からのプレゼントだと、中川先生と楽しく話したのを覚えています。

<後略>

(2016年4月26日 埼玉県川越市の帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

粋な生き方 病気も不安も逃げていく「こだわらない」日々の心得
帯津 良一 著 
(幻冬舎ルネッサンス)

4月 「田沼 靖一」さん

田沼 靖一(たぬま せいいち)さん

1952 年山梨県生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。米国国立衛生研究所(NIH)研究員等をへて、現在、東京理科大学薬学部教 授。細胞の生と死を決定する分子メカニズムをアポトーシスの視点から 研究している。主な著書に、「ヒトはどうして死ぬのか」(幻冬舎新書)「ヒ トはどうして老いるのか―老化・寿命の科学」(ちくま新書)「遺伝子の夢 ―死の意味を問う生物学」(NHK ブックス)などがある。

『細胞の死があるから個体は生きられ、個体の死があるから種は繁栄する』

がんやアルツハイマー病は、細胞の死と深くかかわっている

中川:
先生の書かれた「ヒトはどうして死ぬのか」という本を、とても興味深く拝読させていただきました。遺伝子というレベルから死を語るというのは、とても新鮮に感じました。本を読みながら、どこかでこの話を聞いたことがあるなと、気になっていたんですね。しばらく記憶を探っていまして、そう言えば爆笑問題がやっているNHKの番組で、先生が死の話をしていたぞと思い出したんですよ。
2年くらい前ですかね。それで、もっとお話をお聞きしたいなと思っておうかがいしました。今日はよろしくお願いします。
田沼:
こちらこそ、よろしくお願いします。会長が見られたのは、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組ですね。「ヒトはなぜ死ぬのか」というテーマで、2007年の6月に放送されました。会長が読んでくださった本は、去年、出たものです。
中川:
本は「どうして」で、テレビは「なぜ」だったんですね。
田沼:
「どうして」には、「どのようにして」と「なぜ」の両方の意味があると思うんですね。どのようにして死んでいくのかとか、どのようにして老化していくのかというのは、サイエンスになりますね。しかし、なぜ死ぬのかとか、なぜ年をとるのかということになると、人それぞれ考え方が違いますから、多分に哲学的な問題になってきます。
中川:
なるほど。サイエンスだという意味を込めて、ご著書は、「どうして」とされたんですね。でも、死というのは、なかなか科学では扱ってこなかったテーマじゃないでしょうかね。扱いにくいということもあるでしょうしね。
田沼:
死が生命科学で取り上げられるようになったのは、ここ20年ほどじゃないでしょうかね。それまでは、死というのは科学ではとらえられてきませんでした。どうしても、死というと宗教が扱う領域でしたから。
でも、がんとかアルツハイマー病とか、社会問題にもなるような病気が増えてきて、そこに細胞の死が関係しているということがわかって、死が科学的にとらえられるようになってきました。
がんというのは、細胞が死なないから怖いんですね。肝臓の細胞は1年くらいすると疲れてきて新しい細胞にリニューアルされます。しかし、がん細胞はいつまでも増え続けます。死を忘れた細胞ですね。
アルツハイマー病は、その逆で、神経細胞が死んでいくスピードが非常に速まってしまったために起こる病気です。
中川:
がんもアルツハイマー病も、現代人がもっとも恐れる病気ですよね。それが細胞の死と関係があるというのは面白いですね。片方は死を忘れ、片方は死に急ぐという正反対の動きですが。
でも、先生は、どうして死のことを研究しようと思われたのですか。
田沼:
私の専門は、生化学・分子生物学という分野です。研究はもっぱら、「生物の細胞がどのように増殖・分化するか」ということです。つまり、細胞がどのようにして生きているかを解明するための研究でした。
私はまた、遺伝子が傷ついたときに、どのように修復するのかということも研究していました。がんは、細胞内の遺伝子DNAが活性酸素などで傷ついて、それが十分に修復されずに変化してしまい、細胞が無秩序に増殖していくことで発生します。修復能力が高まれば、がんを防ぐことができるわけですね。DNAが修復されるというのは、どういうメカニズムで行われているのか、それが知りたくて研究をしていました。
中川:
つまり、生きるという方向での研究ですね。それが、どう死の研究につながっていったのでしょうか。
田沼:
修復のメカニズムを調べるには、遺伝子を傷つけないといけませんね。放射線や紫外線を当てて、遺伝子に実験的に傷をつけ、どういう酵素が働いて修復されるのかを見ていくわけです。
その実験の過程で、ときには放射線を当て過ぎて、細胞が死んでしまうことがあります。そんなときは、放射線を強くかけすぎた、失敗しちゃった、今度はもう少し弱くしようと、そう考えるのですが、あるとき、ふと思ったことがあったんです。細胞というのは、修復できるとか、修復できないから死んでしまうという判断をどうやってするんだろうと疑問になりました。
修復の限界点というのを細胞は決めているのではないだろうかと思いました。それは、今までのように、生きる方向からの研究ではわからないだろう、それなら死の方向から研究をしようと、そんなことを思ったんです。

(後略)

(2011年1月31日 東京理科大学野田キャンパスにて 構成 小原田泰久)

3月「天外 伺朗」さん

天外 伺朗(てんげ しろう)さん

東京工業大学電子工学科卒業。工学博士(東北大学)、元ソニー上席常務。ソニーでは、CD、ワークステーションNEWS,犬型ロボットAIBOなどの開発を主導。現在、ホロトロピック・ネットワーク代表。医療、教育、企業経営の改革に取り組んでいる。主な著書に、「運力―あなたの人生はこれで決まる」(祥伝社黄金文庫)「経営者の運力」(講談社)「いのちと気」(共著 ビジネス社)「教育の完全自由化宣言!」(飛鳥新社)など。

『病気は死と直面し意識を変容できる大きなチャンス』

目に見える世界と見えない世界は一体になっている

中川:
今日はとても楽しみにしていました。天外さんと言えば、見えない世界についてたくさんの本を書かれていますし、非常に興味深いネットワークを作られていて、どんなお話がお聞ききできるのかわくわくしながらおうかがいしました。
天外さんは、長年、エンジニアとしてお仕事をされてこられたわけですね。実は、私も氣の世界に入る前には、電機メーカーで技術屋として働いてきました。
私など、父が気功をやっていたにもかかわらず、氣のような見えない世界にはあまり興味を持ちませんでした。その点、天外さんは、お父様が特殊な能力をお持ちで、見えない世界は、ある程度、当たり前のこととして受け止めておられたとお聞きしていますが。
天外:
2006年まで現役で、エンジニアリングとエンジニアリングマネージメントの仕事をやっていました。父は、今で言うサイキックな力がありましたから、私としては、子どものころから、見えない世界があることは刷り込まれていました。ですから、サイキックな現象については、殊更不思議に思うことはありませんでした。そういうことをあまりベラベラとしゃべると人から変な目で見られるということを、後から学んだくらいです。
中川:
見えない世界が別段不思議ではないという状態で、その一方で技術者として、CDやAIBOの開発をされていて、物理的な世界と見えない世界というのは、別々に考えておられたんでしょうか。
天外:
デヴィット・ボームという物理学者がいましたが、彼はホログラフィ宇宙モデルというのを考え出した人で、ノーベル賞こそもらっていませんが、それに匹敵する学者だったと思います。ボームは、目に見える物質世界を明在系、目に見えない世界を暗在系と呼びました。それが別個に存在しているのではなく、一体になって動いているというのが彼の説です。
私は、彼の明在系、暗在系という言葉を、この世とあの世という言い方にしました。つまり、この世の中にあの世があり、あの世の中にこの世があるということになります。ですから、物理の世界と見えない世界は別個に考えるものではないということですね。私は、ずっとそういう感覚でいましたね。
中川:
死んだからあの世へ行くということではなくて、生きているときからあの世にもいるということですね。
天外:
哲学の世界では昔から言われていることです。死んでどこへ行くかと言うと、永遠の時間の中に溶け込んでいくといった言い方がされています。永遠の時間というのは、時間のない世界のことです。時間がないということは、向こう側から見れば死は見えません。こちらから見ると見える。だから、死んだら行くという考え方はおかしいわけです。
中川:
よく、死後の世界はこうだって話が本には出ていますが。実際に行って見てきたという話もあったりしますし。
天外:
向こう側には時間も空間もありません。でも、時間も空間もない世界というのは、私たちには想像もつかないわけです。ですから、こちら側の常識で向こう側も色付けしています。もともと、言語というのは、この世のことを記述するためにあるもので、あちら側のことは言語では説明できません。宗教は、あちら側のことを説きたいのだけれども、言葉で説明できないので、まわりをうろうろしているわけです。
中川:
天外さんは、もともと目に見えない世界になじんでおられたわけですが、改めて勉強したり体験したり、さらにたくさんの本を書かれるようになったきっかけというのはあるんですか。
天外:
私は、ソニーの創業者の井深大という人と非常に近いところで仕事をしていました。彼は、いろいろなことに興味をもつ人で、1984年に、筑波大学で開かれた「科学技術と精神世界」というイベントにも参加したんですね。このイベントはフランス国営テレビと筑波大のジョイントのイベントで、世界中から、科学者、哲学者、心理学者、宗教家を呼んで、非常に盛大に行われました。新体道という武道の青木宏之さんが氣の演武をやって、外国の人たちを驚かせたようですが、その青木さんと井深が親しくなって、青木さんがときどき、ソニーへも来られていました。
そのイベントの内容を、主催者の一人である湯浅泰雄さんという哲学者が5冊の本にまとめました。それを私は井深から、読むようにと渡されまして、読んでみたら、すごく面白くてですね。学者がまとめたものなので、きちんと参考文献も出ていましたから、その文献を片っ端から取り寄せて読みました。ボームのことも、そのときに勉強しました。
中川:
目に見えない世界のことが科学的に説明されるような内容だったんですか。
天外:
いや、科学でもないし、科学的な仮説までもいっていませんね。ボームの言っていることも、私が書いていることも、私は科学的ロマンと呼んでいます。仮説とするには、まだ詰め切らないといけないところがたくさんありますから。

(後略)




(2011年1月18日  東京都渋谷区のホロトロピック・ネットワーク事務局にて 構成 小原田泰久)

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒。東京大学第三外科、共立蒲原病院、都立駒込病院を経て、1982年に埼玉県川越市に帯津三敬病院を開院。2004年東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。現在、帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会会長、日本ホメオパシー医学会理事長など。『大養生』(太陽企画出版)『あるがままに生き死を見つめる7つの教え』(講談社)『健康問答』(共著・平凡社)など多数の著書がある。

『倒れるまでまい進する。ゆっくりするのは死んでから。』

先代とは20年前に上海で初めて会った

中川:
ご無沙汰しています。ハイゲンキ誌への原稿、いつもありがとうございます。相変わらず、お忙しそうですね。
帯津:
こちらこそ、ご無沙汰です。なかなか時間がとれずにすいませんでした。今日も、横浜で講演があって、その帰りに寄らせていただきました。会長と、お会いするのは何年ぶりでしたかね。
中川:
もう、ずいぶん、お会いしていませんね。川越の病院へおうかがいして、先生のお部屋でお話をうかがったのを覚えていますが。
帯津:
そうだ、そうだ。確か、漢方薬のことでお見えになりましたね。
中川:
えーっと、あれはまだ先代が亡くなる前のことだったと思います(笑い)。
帯津:
そんな前になりますか(笑い)。いずれにせよ、久しぶりですね。先代が亡くなって13年でしたね。会長も、貫禄が出てきて、ずいぶんと板についてきたじゃないですか。
中川:
いや、まだまだ戸惑うことばかりですが、周りの方に助けられて何とかやっております。¥r¥n先生には、先代のころからお世話になっていますが、先代とお会いになったのは、いつごろのことですか。
帯津:
1988年に、上海で第二回国際気功検討会というのがありまして、私も日本気功協会の山本理事長に誘われて参加したんですね。がん患者を集めて氣功をやっているというのが少しずつ知られるようになった時期で、ぜひ上海でしゃべってほしいと言われましてね。でも、開業医ですから、なかなか病院を空けられません。最初は断っていたんですが、どうしてもと言われるので、しぶしぶ参加しました。そしたら、そこにはなかなか個性的な方が集まっていましてね。中川さんでしょ、それに大阪の吉見猪之助さん、名古屋の林茂美さん、京都の山内直美さん、それに湯浅泰雄先生がいましたね。小原田さんとも、そこではじめて会いました。
中川:
20年前のことですね。先生が病院を開業されたのが1982年でしたよね。それから6年くらいたっていますから、氣功もかなり認知されてきたころでしょうか。
帯津:
そうですね。認知されるまではいかなくても、開業したころとは大分、事情が変わってきていました。
中川:
先生は、中国で氣功のことを知って、がん治療に氣功を取り入れるられたわけですけど、そのへんの経緯を教えていただけますか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
私は、若いころ、柔道や空手、柔術をやっていました。柔術が強くなるため呼吸法を習いました。氣功というのは、『調身』『調息』『調心』という三つの要素が必要です。逆に言えば、この三つの要素があれば氣功と言ってもいいわけですね。そう考えると、呼吸法はもちろんですが、柔道も空手も柔術も氣功と相通じるものがあるだろうと思ったんです。姿勢を正して、息を整え、心を落ち着かせるということですね。これは、生きるための基本でもあります。それが医療として行われていることにとても魅力を感じました。

<後略>

(2008年4月30日 東京池袋の (株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

2月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。医学博士。東京大学第三外科、静岡県共立蒲原総合病院外科医長、都立駒込病院外科医長を経て、1982年、帯津三敬病院を設立。日本ホリスティック医学協会会長、調和道協会会長、北京中医薬大学客員教授などを歴任。主な著書に『ガンを治す大辞典』(二見書房)、『現代養生訓』『<いのち>の場と医療』(以上、春秋社)、『ガンになったとき真っ先に読む本』(草思社)など多数。

『明日はもう少し良くなっているという期待をもって眠る。そんなささやかな希望をサポートする医療を実現する。』

先代とのホピの村への旅は本当に楽しかった

中川:
すっかりごぶさたしてしまいまして。先生とお会いするのは、7年ぶりくらいですかね。
帯津:
それくらいになりますか。ロンドンのスピリチュアルヒーリングの研修ツアーに一緒に行って、天河神社のドクター・ヒーラーネットワークでお会いして、それ以来かなと思います。だから、そんなものですか。
中川:
先生には、先代の時代からいろいろとお世話になってきました。つい先日(12月11日)が、先代の命日でした。まる7年になります。早いものです。
帯津:
そうですか。もうそんなになりますか。懐かしいですね。
先代とは、あちこちの氣功の集まりでお会いして、面白いお話をたくさん聞かせていただきました。
ホピの村へは一緒に行きましたし。あれは、楽しい旅でしたよ。
中川:
この間、アメリカへ行ってきまして、ホピの村の近くまで足を伸ばしました。先代が帯津先生と一緒に来た場所だと、何となく感慨深く景色を見てきました。
帯津:
モーテルでカレーを作って食べたり、ああいう旅をするチャンスはなかなかありませんね。そうそう、帰りの飛行機では、ビジネスクラスだったのが、ファーストクラスへ移ってくれと言われて。儲かっちゃったなとうれしくなりました(笑い)。
中川先生のそばにいると、こちらまでウキウキしてくるようなところがありました。機内食でも、『こりゃうまい、うまい』って、本当においしそうに食べていましたから。
中川:
食べることが好きな父でしたから。
帯津:
会長は、先代が亡くなってその跡を継がれたわけですが、まったくの別世界から入ってこられて、すんなりとなじめましたか。
中川:
いやー、なかなか大変でしたよ(笑い)。もともとはエンジニアですから。一応、父の会社で働いて、亡くなる前は、あちこちついて歩いて、勉強のようなことをしましたが、それでもそばで見ているのと、実際に自分でやるのとは大違いですね。毎日が発見でしたし、いろいろな人に教えていただいて、何とかやってこれたかなと思います。
帯津:
7年と言えば、かなり経験も積まれて、たくましくなられたと思います。この雑誌(ハイゲンキ・マガジン)をいつも送っていただくので、楽しく拝見しています。雑誌を見ていても、勢いが出てきたなと感じます。
中川:
ありがとうございます。先生もずいぶんとお忙しいでしょう。
帯津:
忙しいことは忙しいですね。病院の仕事のほかに、講演があったり、水曜日は休みになっているのですが、埼玉県立大学に頼まれて、毎週一時間目に講義をもっているものですから、休んでもいられません。
横浜に神奈川看護大学というのがあるのですが、そこも毎年呼ばれています。とにかくその場所に体をもっていかなければならないことが多いので、時間のやりくりは大変ですね。
中川:
看護大学というと看護婦さんの卵ですね。これから医療に携わる人ですから、先生の話を楽しみにしている方が多いんでしょうね。
帯津:
すごく熱心ですよ。看護大学にはガン看護課程というのがあって、半年間でガン患者を介護するプロフェッショナルを養成しようという講義や実習があります。私は、ガンの東洋医学的な疼痛対策というテーマに呼ばれるのですが、東洋医学の話もするけど、ほとんどホリスティックな話に終始しますね。死の問題とか患者さんとの付き合い方を話すのですが、みなさん、喜んでくださいます。講義が終わると、控え室まで来てくれて、感想を述べてくれたりします。すごくうれしいですね。
埼玉県立大学でも、理学療法士科や社会福祉学科という医療関係に進む人たちに講義をしますが、彼らも熱心ですね。試験をやっても、力のこもったレポートを書いてきてくれます。やりがいはありますね。
中川:
ホリスティックな話ということですけど、どんなお話をされるのですか。
帯津:
死のことはもちろんですね。患者さんとは一方通行の関係ではいけないといった話もしますね。パワーをもって接する必要がある。だけど、パワーだけではいけない。ときには、一瞬にして弱々しくなれて、患者さんと痛みを分かち合えるようにもならなければならないといった話ですが、みんな一生懸命に聞いてくれます。
彼らには、自分たちが医療者として、日本の医療に貢献していきたいという志があるように思います。

<後略>

(2002年12 月13日 帯津三敬病院にて 構成 小原田泰久)

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