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11月「石井 美恵子」さん

ハイゲンキ

石井 美恵子(いしい・みえこ)さん

北里大学大学院看護学研究科修士課程修了、富山大学医学薬学教育部博士課程修了。現在、国際医療福祉大学大学院教授。1995年アメリカでの災害対応に関する研修を受けたことがきっかけで災害医療の活動に入る。イラン大地震、スマトラ沖地震・津波災害、ジャワ島中部地震、四川大地震、東日本大震災などで支援活動。日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2012」大賞受賞。

『運命の導きか。 災害支援がライフワークに』

アメリカの研修に参加したことが大きな転機になった

中川:
石井先生の書かれた「幸せをつくる、ナースの私にできること」(廣済堂出版)という本を読ませていただきました。今、とても災害が頻繁に起こっていて、この間も千葉で大変な台風被害がありました。どこでどんな災害が起こっても不思議ではないと思います。自分が被災することをいつも頭に入れて生活する必要がありますよね。
石井先生は、災害医療にかかわってきた体験を通して、どうしたらより良い災害支援ができるかということを提言されていますが、もともとは看護師さんだったんですよね。
石井:
実は、看護師になりたくてなったわけではないんですね(笑)。父はとても封建的な人で、彼が理想とする女性像は、女子高にいって、近くでお勤めして結婚して、孫を連れてときどき訪ねてくるというものでした。女が学問をしたらろくなものではないとずっと言われていましたから。
私の実家は新潟ですが、父が一番にお風呂へ入るのが当然みたいな中で育ってきました。長男ばかりが大事にされるわけです。私は小さいころから、その考え方には納得できませんでした。男だから、女だからではなく、その人の能力によって評価されるべきだと思ってきました。
高校を卒業してからの進路も、息苦しい家を何とか出たくて、どうしたら父を説得できるだろうと考え、父が女の子らしい職業と思える仕事につけばいいだろうと思って看護学校へ行くことにしました。
それでも半径60キロ以内じゃないとダメだとか、いろいろ制約がありました。
中川:
家を出たくて選んだ職業が看護師だったんですね。
石井:
でも、実際に看護学校へ入ると、父と母の関係と同じ構図が医師と看護師の間にあって、いくら看護師が勉強してもなかなか認められない現実を見せられました。もうやめようと思いましたが、恩師から「今はそんな時代かもしれないけれども、いずれ看護が自立した時代がくる。作りなさい」と言われ、続けよう、やるからには本気でやろうと気持ちを切り替えました。
中川:
若いころから意識が高かったんですね。
石井:
不条理なことには人一倍敏感に反応してきましたね(笑)。女だからとか看護師だからという理由で意思決定権がないのはおかしいと思っていました。
新人ナースのときから、医師に指示されて動くような働き方は、私のプライドが許しませんでした。医師が治癒は難しいと診断していた肺気腫の患者さんがいたのですが、私は自分で勉強して、こんな呼吸ケア(治療を看護師が実施することは医師法に抵触しますので)をしていいかと医師に相談して、その方が自転車で通院できるまでに回復させたことがありました。
このとき、医師だとか看護師だとか関係なく、本気でやればできるんだということを体得しましたね。
その後、新潟から東京へ出て、救急医療の現場で働くことにしました。どんなことがあっても慌てず、的確な判断と行動ができる自分になりたかったんですね。そのためには救急医療がもっとも適していると思ったからです。
中川:
そこから災害医療につながっていくわけですね。
石井:
そのころは災害にはあまり興味はありませんでした。アメリカへ留学してもっと救急医療の勉強をしようと思っていたのですが、ひょんなことでイラン人の男性と知り合って結婚することになりました。1991年でした。2年ほど、イランで専業主婦をしながら働くことを模索していましたが、息子が生まれて、イランには兵役があったのでそれが嫌で日本へ帰ってきました。このときはイランで暮らしたことが後から大きな意味をもってくるなんて想像もつきませんでした。
そしたら1995年に阪神淡路大震災があったんですね。さらに地下鉄サリン事件もあって、日本でも災害医療が大切だということになり、私もアメリカの研修プログラムに派遣されることになりました。1ヵ月ほどの研修でした。
中川:
アメリカは災害医療が進んでいるんですね。
石井:
当時は大統領直属だったFEMA(連邦緊急事態管理庁)という組織がありました。専門家集団で、平時から災害があったときにはどう動けばいいか、災害に備えてどんな準備をすればいいかをサポートしています。もちろん、災害があったときにはとても重要な働きをする組織です。
日本には災害の専門家がいるわけではなく、災害が起こったときには何をしていいかわからず、右往左往するしかないのが現状でした。アメリカの研修で、私は災害医療に興味をもつようになりました。

<後略>

2019年9月10日 東京都港区・国際医療福祉大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「幸せをつくる、ナースの私にできること」(石井 美恵子 著)廣済堂出版

           

10月「大野 聰克」さん

大野聰克(おおの・としかつ)さん

1945年長野県下伊那郡生まれ。飯田工業高校卒業後、民間企業を経て、1980年に埼玉県川越市に電気機器関連の会社を設立。1991年帯津三敬病院で直腸がんの手術を受ける。それを機に生活が一変。1999年帯津三敬病院の職員となり患者さんと太極拳をやったり、ビワ葉温灸の施術をする。著書に「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)がある。

『がんはその人を生かすため、 助けるためにできる』

5年生存率3割。 1万人中3000人と考えれば元気が出る

中川:
大野さんが書かれた『ガンは悪者なんかではない』(風雲舎)という本を読ませていただきました。30年前に4期の直腸がんになって、それを独特の考え方で克服されました。大野さんならではのとてもユニークな話が展開されていて、なるほどと思うことがいっぱいありました。
大野:
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
もう自分は死んでしまうんだと思うと夜も眠れませんでした。睡眠薬を飲んで寝るんですが、夜中の2時ごろには目が覚めて、それから夜が明けるまでの時間の長いこと。
中川:
手術を受けて、人工肛門になりますよね。
大野:
人工肛門はがんになったこと以上にショックでしたね(笑)。そんなことになるなんて、想像もしていませんでしたから。
中川:
しかし、考え方を変えて、徐々に恐怖や不安から脱却しますよね。
大野:
自分の命がかかっていますから、がんについていろいろ勉強しました。でも、本を読めば読むほど絶望してしまいます。これじゃいけないと、本を読むのをやめて、自分で考えることにしました。
中川:
5年生存率が3割だと言われたら、多くの人が絶望するのに、大野さんは違う考え方をしましたね。
大野:
私のような状態だと5年後も生きている確率は3割くらいだろうと思いました。3割というと10人のうちの3人に入らないといけません。けっこうハードルが高いですよね。そのとき私が考えたのは、10人のうちの3人と考えるからきついわけで、もし1000人だったらどうだろうということでした。300人ですよね。300人でも厳しいと思えるなら、1万人ならどうだろう。3000人ですよ。
たとえば、マラソンでも、10 人走って3人の中に入るのは自信がありませんが、1万人のうちの3000番までなら入れるかもしれないと思えるじゃないですか。そう思うことですごく心が軽くなりました。
中川:
そのとおりですよね。ちょっと考え方を変えると、気持ちも変化していくし、希望も出てきますね。
大野:
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
当時45歳でしたが、昔なら、50歳くらいで亡くなる人がたくさんいたわけで、自分もそこそこ長生きしたのではないかと思えるようになりました。100歳まで生きても、早いか遅いかの違いで、死ぬときには不安や恐怖があるのではないでしょうか。死に対して少しは腹がくくれたかなと思います。
そのときから、残された時間が少ないなら、その時間を大切にしようと考え始めました。思い出をいっぱい残したい。楽しいことをいっぱいしたい。この世に私という人間がいたことを少しでもたくさんの人に覚えておいてもらいたい。そう思って、一瞬一瞬を大切に生きられるようになりました。
中川:
がんと診断されると、すぐに死を連想してしまいます。それで多くの人が落ち込んでしまうんでしょうね。気持ちが落ち込めば免疫力も低下しますから、病気も進行してしまいます。
大野:
がんと診断されても、その時点では死んでいないわけです。もっと体力が落ちると死ということになりますが、今は死んでないのだから、今よりも少しでも体力や生命力を上げれば死から遠ざかることができます。だから、私は少しでも体力をつけようと
考えました。手術を受けてすぐに廊下を歩き回って貧血を起こしたこともありました。病院の階段を上ったり下りたりもしました。
中川:
がんになったころ、大野さんは電気関係のお仕事をされていたということでしたね。
大野:
下請けでしたが、小さな工場を経営していました。
中川:
お忙しかったでしょう。
大野:
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
でも、確実に体を酷使していました。徹夜なんてざらだし、食事も食べられるときに何でもいいので腹に入れていました。工場にこもりっきりだったので運動不足です。冷たいコンクリートの上で何時間も働いていますから、体が冷えます。
それにいつも納期に追われていて、常にストレスを抱えていました。
仕事仕事の毎日で、家へは寝に帰るだけ。今思い返せば、病気に向かってまっしぐらの生活でした。女房は「いつか体を壊すのではないか」と心配していたようです。

<後略>

2019年8月28日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「ガンは悪者なんかではない」(大野聰克 著)風雲舎

           

9月「G.G.佐藤」さん

G.G.佐藤(ジージー・さとう)さん

1978年千葉県生まれ。大学卒業後、単身渡米しマイナーリーグと契約。3年間プレーする。2003年のドラフト会議で西武から7位で指名される。オールスターにも出場するなど第一線で活躍。北京オリンピックでは日本代表に選ばれる。2011年西武から戦力外通告。イタリアに渡る。その後、千葉ロッテに入団。2014年に現役引退。現在は株式会社トラバースで営業の仕事に従事。著書『妄想のすすめ~夢をつかみとるための法則48』(ミライカナイブックス)。

『どんな失敗も挫折もとらえ方ひとつで大きな学びとなる』

願い続ければ夢は必ずかなう。 かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ

中川:
元プロ野球選手のG.G.佐藤さん。G G(ジージー)さんとお呼びしていいでしょうか。埼玉西武ライオンズとか千葉ロッテマリーンズで活躍されました。
プロのスポーツ選手とお会いするのは初めてですが、背が高いですね。何センチくらいあるのですか?
GG:
どうぞGGと呼んでください。会社でもみんなそう呼んでいますから。身長は184センチです。体重はずいぶんと絞りましたが、大学を出たころは110キロく
らいありましたね。
中川:
今はスリムでモデルさんになれるような体型ですね(笑)。GG佐藤というユニークな名前の由来は何なのですか?
GG:
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
オーナーにはよく怒られました。ぼくは猫背だったので、「ちゃんと背筋を伸ばせ。ただでさえ顔がジジくさいんだから」といつも言われました。顔がジジくさいには参りました(笑)。毎日のようにそう言われているものですから、いつしかチームメイトが私を「ジジイ」と呼ぶようになりました。「GG」はそこからきているんです。だから、名付け親は沙知代さんです(笑)。
中川:
プロの選手になるくらいですから、野球のエリートだと思っていたのですが、そうではなかったみたいですね。
GG:
中学時代から挫折だらけですよ。港東ムースでも、まわりは私よりもはるかに上手な子ばかりです。いつも辞めたいと思っていました。高校は甲子園の常連校に進みましたが、私の代は地区予選敗退でした。法政大学へ入ってもずっと補欠でした。
私のような経歴のプロ野球選手はいないんじゃないでしょうかね。
中川:
挫折の連続というのは意外でした。中学生のころ、野村克也さんから心に残る言葉をもらったそうですね。
GG:
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
「願い続ければ夢は必ずかなう。かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ」
体が熱くなりました。プロ野球選手になりたければ願い続ければいい。そう思うと希望がわいてきました。とにかくこれからもずっと願い続けようと決心しました。野村さんからは「念ずれば花開く」と書かれた色紙をいただきました。私の宝物です。苦しくなるとこの言葉が頭に浮かびます。
中川:
挫折すると、やっぱり自分はダメだとか、自分には無理だとか、夢なんかかなうはずがないとあきらめてしまいますからね。
大学時代もレギュラーになれなくて腐りそうになったそうですね。
GG:
同期には、その後、プロ野球で活躍した連中が何人もいました。とても太刀打ちできません。3年生になると、もう完全に心が折れて、練習をさぼるようになりました。プロの夢も消えてしまい、取りあえず卒業だけするかという情けない状態でした。
このままじゃいけないと思って、「どうしたらやる気が出るだろう」と自問自答しました。行き詰ったときには自問自答するのが私の癖ですね。自分に聞くことで次に何をすればいいかぱっとひらめくことがよくあります。
このときも、人が望む姿ではなくて、自分はどうなりたいのかを考えることが大切だというような答えが返ってきました。そうか、監督やコーチから、お前はこうなったらいいんじゃないのと言われたとおりの選手になろうとするのではなくて、好きな自分、なりたい自分に向かっていくのがいいんじゃないかと思ったんですね。
中川:
ほお。好きな自分、なりたい自分ですか。
GG:
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
あのころはウエートトレーニングをする選手はあまりいませんでしたが、そんなこと関係ありません。ホームランを打つにはパワーが必要です。プロテインを飲んでウエートをやって、筋肉もりもりの体を作りました。
そしたら、どんどん飛距離が伸びて、練習をやっていても楽しくてたまりません。公式戦に出ることもできました。それで自信も取り戻しました。もっとも、この時点ではプロから声がかかるほどではなかったですけどね。

<後略>

2019年7月24日 千葉県市川市・株式会社トラバー スにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「妄想のすすめ 夢をつかみとるための法則48」G.G.佐藤 (著) ミライカナイ

           

8月「氷月 葵」さん

氷月 葵(ひづき あおい)さん

1958年東京都生まれ。出版社勤務などを経てフリーライターに。秋月菜央の筆名で『虐待された子供たち』(二見書房)など、福知怜の筆名で『タイタニック号99の謎』(二見書房)などを執筆。小説では、第四回「北区内田康夫ミステリー文学賞』において大賞を受賞(筆名・井水怜)。その後、時代小説『公事宿裏始末シリーズ』『婿殿は山同心シリーズ』『御庭番の二代目シリーズ』を執筆。

『歴史とスピリチュアルには密接な関係がある』

霊感の鋭い人に会うと、自分も霊的な能力に目覚めます

中川:
氷月さんがお書きになった時代小説『御庭番の二代目』(二見時代小説文庫)シリーズを楽しく拝読しました。
時代小説以外にも『邪心~飛鳥の霊視ファイル~』というスピリチュアルな内容の小説も書かれているので、こちらも読ませていただきました。
『邪心』は、まさしく氣の世界の話でした。氷月さんが氣とか霊についてよく理解されている方だとわかって安心しました。今日は小説家というお立場で歴史をどうとられておられるのかお聞きしようと思っていましたが、まずは氣とか霊の話からお聞きできればと思います。
氷月:
ありがとうございます。御庭番のシリーズでも、主人公が中国医学を学ぶようになるので、これからは氣の話がたくさん出てくる予定です。
昔は精神世界と言われる分野の本をたくさん出している出版社にいたこともあります。氣とか霊という世界にとても興味があって、その出版社に入りました。テレビによく出ていた有名な霊能者の担当編集者もやっていて、その霊能者と一緒に心霊スポットへ行って心霊写真を撮ってきたこともありましたね。
ライターとして独立してからも、スピリチュアルな内容の本を書いていました。先代の会長にも取材をしているんですよ。当時は、伊豆の下田で合宿をやっていたじゃないですか。あそこへお邪魔して、合宿の様子を拝見したり、お話をうかがったりしました。たくさんの人がいてびっくりしました。氣を受けていろいろな反応をする人もいましたし。
中川:
そうでしたか。それはご縁がありますね。下田で研修講座をやっていたのが1990年から94年です。25年以上前ですね。
すごかったでしょ(笑)。先代は「お化け」という言い方をしていましたが、その人についているマイナスの氣が出てきて、大声を上げたり、転げまわったりしていましたから。私も最初に行ったときには、あれほどとは思っていませんでしたので、びっくりしました。
その後、94年の5月に奈良県の生駒山に場所を移して、その翌年の12月に先代は亡くなりました。
当時は1週間とか、長いときには9日間の講座でしたが、今は2泊3日で、特定の場所でやるのではなく、全国あちこちで開催しています。
この『邪心』という本では、主人公の霊感のある女の子が人や物の氣を読んで、殺人事件を解決していくわけですが、氷月さんは霊的な感覚がよくおわかりになっているんだなと感心しました。
氷月:
これまでたくさんの霊能者や超能力者にお会いしてきたことが生きましたね。それに、霊的な感覚の鋭い人たちと会っていると、自分自身もそういう能力に目覚めるんですね。氣を感じやすくなります。
中川:
そうでしょうね。私どもがやっている真氣光研修講座に参加される方でも、氣を集中的に受けることで、霊的な感覚が鋭くなる人がいます。
氷月:
そうだろうと思います。手かざしで浄霊する宗教があるじゃないですか。下田であったような現象が浄霊でも起きますよね。先代は、そういう宗教とも関係がある人なのかなと思ったのですが。
中川:
まったく関係ありません。あるとき夢を見たのがきっかけで始めたことです。宗教は勉強してなかったので、氣や霊のことも、体験して理解していったのだと思います。
真氣光が宗教と違うのは、ハイゲンキという氣を中継する機械があることです。先代は、夢で教えられてハイゲンキを作りました。最初の頃、一度だけ先端からボーッと光が出ているのが見えたと言っていました。体の調子の悪い人に当ててみると、劇的な効果が次々と出てきて、本人がびっくりしたみたいです。
そのハイゲンキを、いろいろな人に当てて治療をしていたら、本人もたくさんの氣を受けたのでしょう。2年後にまた夢を見て、手から氣が出ると教えられて、気功家になりました。そうやって、ハイゲンキと手からの氣の二本柱ができました。
そのあたりから、霊的な世界も無視できないという流れになってきました。
ところで、スピリチュアルな世界に詳しい氷月さんが、なぜ時代小説を書くようになったのですか。
氷月:
古くから一緒に仕事をしていた編集者にすすめられたのが直接のきっかけですが、基本的に歴史は好きでしたね。中学校のときには日本史部の部長をやっていましたし、それと並行して友だちと超心理研究会を作ってテレパシーの実験なんかをやっていました(笑)。
あのころから、歴史とスピリチュアルが私の両輪でした。今は、歴史とスピリチュアルは深い関係があるなと思っています。

<後略>

2019年6月26日 東京・池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:「邪心―飛鳥の霊視ファイル」氷月 葵(著) コスミック出版
右;「将軍の跡継ぎ 御庭番の二代目1」氷月 葵(著) 二見書房

           

7月「金菱 清」さん

金菱 清(かねびし きよし)さん

1975年大阪生まれ。関西学院大学社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学博士。現在、東北学院大学教養学部地域構想学科教授。専攻は環境社会学・災害社会学。
著書に『生きられた法の社会学』(新曜社)『呼び覚まされる霊性の震災学』(編著 新曜社)『私の夢まで、会いに来てくれた』(編著 朝日新聞出版)『3・11霊性に抱かれて』(編著 新曜社)など多数。

『東日本大震災から8年。 死者とともに生きるご遺族たち』

また幽霊らしき人が手をあげたら乗せると答えるタクシー運転手

中川:
『3.11霊性に抱かれて‒魂といのちの生かされ方』(新曜社)を読ませていただきました。この本は、先生のゼミの学生さんたちが東日本大震災の被災地を回って取材してまとめたものですよね。それも、幽霊を乗せたタクシー運転手とか、死をしっかりと受け止めている猟師町の話、生者と死者とのつなぎ役になろうとする宗教者の葛藤、手紙や電話を介して死者と対話をすることで癒されていくご遺族の心情など、この世的なことばかりではなく、あの世のことも視野に入れた調査ということで、私もとても興味深く読ませていただきました。
先生のご専門はどう説明すればいいのでしょうか?
金菱:
環境社会学、災害社会学が専門で、大学では地域構想学科の教授をやっております。
地域構想学科と言ってもよくわからないかと思いますが、「人と自然」「健康と福祉」「社会と産業」といった視点で、地域の問題、その解決策について考えていく学科です。設置されて15年くらいになります。
私のゼミでは、全員がフィールドワークに出て、地域の人たちの生の声を聞いて、資料を読むだけではわからないことを感じ取って、それをまとめて論文にしています。それを一般の人が見られる本の形にしているんです。
中川:
本を読んでいると、非常に生々しいし、迫力あるし、学生さんたちは本当にがんばったんだなということが伝わってきます。
金菱:
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
中川:
テーマが「霊性」じゃないですか。2016年に出された『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)には、タクシードライバーが遭遇した幽霊の話がありますが、そういう話はなかなか聞き出せなかったのではないかと思いますが。
金菱:
最初は、運転手さんにいきなり『幽霊を乗せたことありますか?』とゼミ生が聞くわけです。運転手さんも面食らうし、中には怒り出す人もいました。この調査をしたのは女子学生でしたが、失敗を何度も繰り返し、『もう辞めたい』とべそをかきながら、それでも何とか聞き出せないかと工夫していました。
彼女はタクシーが止まっている駅のロータリーでギターの弾き語りをしたり、一緒に釣りに行ったりすることで運転手さんと仲良くなって、彼らが誰にも話したことのない幽霊の話を聞き出すことができました。たとえ誰かに話してもバカにされるだけで、自分の中に封印していた話でした。
中川:
真夏なのに厚着をした人を乗せたというのが共通していましたよね。ある女性が津波で大きな被害を受けたところに行ってほしいと言うので、「あそこはさら地になっていますけど」と言うと、「私は死んだのですか?」と震えた声で答えて、運転手さんが「えっ」と思ってルームミラー越しに後ろを見ると姿が消えてしまったといった話がいくつも出てきます。
金菱:
運転手さんも最初は幽霊だと思わないで乗せるわけです。だから、料金メーターを実車にして出発します。だれかを乗せて走ったという記録は残っているわけです。
でも途中でいなくなってしまう。だれが料金を支払うの?ということになります。全部、運転手さんが負担しているんですね。運転手さんも幽霊を乗せたなんて言えませんから(笑)。どの運転手さんもすごく冷静に対処していて、夢や妄想だとは考えられません。そう考えると、すごくリアルな話じゃないですか。
中川:
それに運転手さんは、最初はぞっとするんだけど、また幽霊らしき人が手をあげたとしたら乗せるって言っていますよね。
金菱:
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
ホワイトスワン(白い白鳥)を見つけても、「そりゃそうだね」で終わってしまいますが、黒い白鳥を一羽でも見つければ、白鳥は白いものだという固定概念が変わります。
被災地で幽霊が出ると知ったある有名な宗教学者は、不成仏霊だから供養して彼岸へ送らないといけないとコメントしていました。これは当たり前の考え方、つまりはホワイトスワンです。
でも、学生たちが現地でタクシー運転手に話を聞くと、次にそういうことがあっても乗せるという証言が出てくるわけです。「怖い」とか「不気味」といったこれまでの幽霊に対する見方とは違いますよね。それこそブラックスワンであって、生きている人と幽霊との新しい関係性が見えてきます。話を聞いていて温かみを感じるじゃないですか。
学者だと、既存の考え方に当てはめてしまうので、こういう証言を引き出すことはできないと思います。学生だからこそ、運転手さんの素直な感想を聞き出せたのではないでしょうか。
フィールドワークにはそういうアプローチが大切だと、私は考えています。

<後略>

2019年4月16日 東北学院大学泉キャンパスにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:3.11霊性に抱かれて: 魂といのちの生かされ方
金菱 清 (編集) 新曜社
右:私の夢まで、会いに来てくれた — 3.11 亡き人とのそれから
金菱清(ゼミナール) (編集) 朝日新聞出版

           

6月「樋口 英明」さん

樋口 英明(ひぐち ひであき)さん

1952年三重県生まれ。京都大学法学部卒。全国各地の裁判所の判事を務め、2017年に定年退官。2014年、関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じる判決を下した。2015年、福井県と近畿地方の住民ら9人が関西電力高浜原発3・4号機の再稼働差し止めを求めた仮処分申請に対し、住民側の申し立てを認める決定を出した。

『原発は極めて危険!原発を止めた元裁判長の責任感』

原発の建っているところには大きな地震がこないということが前提の基準

中川:
先代の会長である私の父は、当時のソ連へ出向いて行って、チェルノブイリ原発事故の被ばく者に氣の治療をしました。アメリカインディアンのホピ族の居留地にも行き、ウラン採掘で被ばくした人の治療をしたり、核の問題を長老と語り合ってきました。
そういう経緯があって、原子力発電所については、氣の観点から言っても良くないし、ひとたび事故があったら大変なことになるのは福島第一原発事故で明らかですから、やめたほうがいいという考え方でいます。
樋口さんは、2014年に福井地裁の裁判長として、関西電力の大飯原発の運転差し止めを命じる判決を出されました。
私は、こういう裁判官もいるのだと感心してあのニュースを見ていました。裁判で原発を止めたというのはあまり聞きませんからね。
樋口:
この間、数えてみたのですが、福島の事故以降、原発差し止め訴訟、あるいは仮処分で、地震を理由として差し止めるという決定をしたのは、裁判長の数で言うと2人ですね。それに対して止めなかった裁判長は17人になるかと思います。
中川:
2対17ですか。福島の事故のあとですよね。危ないことはわかり切っていても止めないという判決がほとんどなのはどうしてですか。
樋口:
原発の怖さを知っているかどうかじゃないでしょうか。私は、大飯(おおい)原発の裁判が始まったとき、「私は、原発が危険かどうかで決めます」と明言しました。
中川:
危険かどうかで判断するのは当たり前のことじゃないですか? ほかに何か基準があるのですか?
樋口:
危険かどうかがもっとも大切なことですよね。普通に考えればわかることです。私が出した判決は高裁で破られたわけですが、その判決の内容を見ると「新規制基準に従っているから心配ない」というものでした。でもその基準があやふやなのですから心配ですよね。
簡単に言うと、規制基準というのは震度7の地震は原発の建っているところにはこないということが前提に作られています。
中川:
えっ。原発のあるところには大きな地震はこないのですか?
樋口:
そんなことはあり得ませんよね。でも、それが前提になっているのです。
中川:
地震学というのもありますから、大きな地震が起こるかどうか、計算ができるのでしょうかね。でも、地震が起こるのを正確に予測したという話は聞いたことがないですね。地震がないとされているところに立て続けに大きな地震がきたりしていますから、その前提はあまり信じられないように思いますが。
樋口:
地震学は三重苦の学問だと言われています。地下深いところで起こることだから観察ができません。実験もできないですよね。それに資料が不足しています。
そもそも地震学はまだ歴史の浅い学問です。気象学だったら明治時代から観測をしていて、そのデータが蓄積されています。しかし、日本で本格的に地震の観測が始まったのは阪神淡路大震災以降です。それまでは地震計の設置個所が少なくて、データは非常に乏しいのです。
原発の耐震基準として「ガル」という単位が使われます。これは観測地点での地震の強さのことです。最近の地震では、北海道胆振(いぶり)地震が1796ガル、熊本地震が1740ガルです。中越地震が2515ガル、東日本大震災が2933ガル。日本でもっとも強かったのが2008年にあった岩手宮城内陸地震で4022ガルです。
それに対して、私が止めた大飯原発は、3・11当時の耐震基準が405ガルです。2018年3月時点で856ガルまで上げていると言っていますが、それでも2000年以降、1000ガルを超える地震が16回もありました。とても安心していられる状況ではありません。ほかの原発も同じです。これでは、「原発は安全です」とはとても言えません。
中川:
そういう地震は原発の建っているところにはこないという前提なわけですね。いいんでしょうかね。
樋口:
よくないですよ。多くの人が、原発はものすごく丈夫に作られている。どんな地震だって耐えられると思っているのではないでしょうか。でも、そんなことはありません。
住宅メーカーでは、今は3000ガル、4000ガル、5000ガルの地震に耐えられるような家を作っています。
住宅よりも地震に弱い原発が、こんなにも地震の多い日本にあっていいのかということですよ。それも、原発のあるところには大きな地震はこないということが、この基準で大丈夫という根拠ですから。少なくとも5回は耐震基準を超えた地震が原発を襲っています。その根拠もいい加減なものです。
そういう状況を「危険」と思わない感覚がおかしいと、私は思います。

<後略>

2019年4月5日 日比 谷松本楼にて 構成/小原田泰久

           

5月「中川 由香子さん・中川 貴恵さん」

中川 由香子・中川 貴恵(なかがわ ゆかこ・なかがわ たかえ)さん

中川 由香子 さん 1962年札幌生まれ。1984年からハワイやマイアミを拠点に海外に真氣光を広げる活動をする。2000年帰国後、真氣光研修講座の食事ボランティアをする。2007年東京移住。2016年認知症カフェを立ち上げる。2018年、8月SAS東京センターで『しんきこうカフェ』を始める。

中川 貴恵 さん 1970年札幌生まれ。東京音楽大学付属高校、同大学声楽専攻卒業。日本オペラ振興会研究生終了。イタリアのミラノ、ローマでイタリアオペラの勉強をする。1994年より真氣光研修講座の音感行法を担当。今年4月より東京センターにて「音だまスイッチ」という呼吸と声講座を開催。

『真氣光に新しい風。すそ野を広げて、 よりたくさんの人に光を』

3人が得意な分野でセッション、カフェ、 ワークショップ

小原田:
今月は、私が司会進行を務め、中川会長、中川由香子さん、中川貴恵さんにお話をうかがいます。会長から由香子さん、貴恵さんをご紹介いただけますか。
中川:
由香子は私の2つ違いの妹です。この雑誌に出るのは初めてだったかな。あまり会員さんの前には出ていませんが、真氣光歴は私よりもずっと古くて、1984年に先代が北海道から東京へ出てきたときからいろいろと手伝っています。2000年から、生駒での真氣光研修講座での食事ボランティアをやっていました。
真氣光の「氣」のロゴ、みなさんご存知だと思いますが、あれを書いたのも由香子だったよね。
由香子:
そうなんですよ。太極氣功18式のビデオのカバーに使いたいので書くように言われて、何枚か書いたうちの1枚を先代が選んで、いつの間にか、看板に使われるようになったのでびっくりでした(笑)。
中川:
東京へ出てきたと思ったら、すぐにハワイに住むことになって、あのころは激動の時期だったよね。
由香子:
ハワイのセミナーを手伝ってくれって言われたので喜んでついていったら、そのまま置いていかれて(笑)。
セミナーで知り合ったご夫妻が大きな家に住んでいたので、そこに居候させてもらって、そのご夫妻や近所の人たちの治療をしたりしていました。そうこうするうちに、もう仕送りはしないので、そちらで会社を作って自分で稼げと、とんでもないことを命じられました(笑)。
言われたとおりに会社を作って、先代が定期的にセミナーに来てくれたので、その会場を準備したり、人を集めたりといった仕事をしました。あとは、ハイゲンキを購入してくださった人のアフターケアですね。次から次へとひらめいたことを形にしていく人でしたね。鍛えられました(笑)。
中川:
貴恵は私とは10歳違います。赤ん坊のときには、私がおしめを取り換えたこともあります(笑)。
小さいときから音楽をやっていて、音楽大学でオペラを学んだあと、イタリアにもしばらく留学して、真氣光研修講座では、生駒で行われるようになった1994年5月から音感行法をやってくれているよね。
貴恵:
先代から、講義だけだと受講生も退屈するから音楽会をやってくれないかと言われて、音感行法が始まりました。私はクラシックが専門なのですが、先代からは「クラシックではわからんから演歌をやれ」と無茶な注文が入りました(笑)。でも、演歌ばかりでもまたおかしいでしょ。童謡を入れたり、いろいろ試行錯誤しました。
中川:
それは大変だった(笑)。でも、真氣光研修講座でも音楽が入ると、みなさんほっとしているし、いい雰囲気になるよね。
貴恵:
参加している方によって雰囲気が違いますから、その場にあった歌を歌うようにしています。
基本は、こちらが楽しく幸せな気持ちで歌うことですね。そうじゃないと、いい氣が伝わらないですからね。
中川:
それは大事なことだと思いますよ。参加者の中には、「あの歌、思い出の歌なんです」と涙を流す人もいるからね。歌に癒され、歌で気づくことがたくさんあるみたいだね。
今は、ほかにもあちこちでボランティアで歌ったりしているけど。
貴恵:
2011年の大震災のあと、老人ホームへ行くことが多くなり、母が通っていたデイサービスの施設でも歌っていました。
豊島区でも「歌って健康講座」と言うのをボランティアでやっています。
小原田:
由香子さんは昨年の8月から「しんきこうカフェ」を、貴恵さんは4月から東京センターで「音だまスイッチ」というワークショップを始めました。このお話はあとから詳しくお聞きします。
三本の矢とか三位一体とかよく言いますが、こうやって会長と妹さん2人が、それぞれの得意な分野で真氣光を広げていくというのは、先代が仕組んでいることではないかと思ったりもします。ひとつの節目を真氣光も迎えているのではと思えてなりません。どんな展開が起こってくるのか、すごく楽しみです。

<後略>

2019年3月28日 エス・エー・エス 東京センターにて 構成/小原田泰久

           

4月「シーラ・クリフ」さん

シーラ・クリフ(しーら くりふ)さん

1961年イギリス生まれ。リーズ大学大学院博士課程修了。1985年来日。埼玉大学、立教大学の非常勤講師をへて、十文字学園女子大学教授。大学では、英語と着物文化を教えるかたわら、国内外で着物展覧会やファッションショーを企画・プロデュースしている。著書に「日本のことを英語で話そう」(中経出版)「シーラの着物スタイル」(東海教育研究所)などがある。

『着物は日本人が誇るべき伝統。もっと気軽に着ればいい』

着物を初めて見て、絹の光沢、しなやかさ、色、柄に心を奪われた

中川:
私はFM西東京で「今日も一日、い氣い氣ラジオ」という番組をもっているのですが、そのラジオ局で社長を務められていた有賀達郎さんから、すてきな方がいるとご紹介されました。シーラ先生は、十文字学園女子大学の教授ということですが、何を教えられているのですか?
クリフ:
英語と着物文化ですね。講義以外に、ワークショップとして、着物の着付けやファッションショーなどもやっています。
中川:
今日もすてきな着物姿ですが、いつも着物を着ておられるのですか。
クリフ:
いつも着物ですね。洋服は、近くのお店に買い物に行くときとか、庭仕事をするときくらいかな(笑)。
中川:
イギリスのご出身で、学生時代に日本へ遊びに来たときに着物と出合い、すっかり魅せられたということですが。
クリフ:
24歳のときに友人に誘われて日本へ来て、陶器に興味があったので骨董市に連れて行ってもらいました。そしたら、あるお店にきれいな着物が飾られているのが目に入り、それがきっかけで着物のことが大好きになりました。そのときに買ったのが赤い長襦袢。友人に「それは着物じゃなくて下着だよ」と言われて、こんなにきれいなものを中に着るんだとびっくりしました。
あれからもう30年以上になりますが、ずっと日本で着物を着て暮らしています(笑)。
中川:
もともとファッションには興味があったようですね。
クリフ:
私は双子だったので、小さいころ、いつも妹と同じ洋服を着せられていました。私は金髪、妹は茶色の髪の毛で、顔も違っているのに、同じ洋服を着ているので、よく名前を間違われました。それが嫌で、妹とは違う洋服を着るようになりました。
誕生日もいつも2人一緒で、ケーキも2人でひとつ。そういう扱いがとても不満でしたから、自分は自分だというメッセージを、ファッションをとおして出していきたいと思ったのかもしれません。
中川:
日本で最初に着物を買ったとき、予算をオーバーしてしまって、もやしをずっと食べていたとお聞きしましたが。
クリフ:
そうそう。新宿の大きなデパートで買ったのですが、私は値札に書かれている金額でいいと思っていました。ところが、あれは生地だけの値段で、そこに仕立て代、八掛、長襦袢なんかが加わって倍以上の金額になってしまいました。まだ日本へ来たばかりで、どうやって断ればいいかわからなくて、代金を支払うためには食事を節約しないといけないので、毎日、もやしばかりを食べていました(笑)。
中川:
倍以上ですか。普通、すぐに着られる状態で売っていると思いますからね。シーラ先生は着物のどこにそれほど魅かれたのですか?
クリフ:
初めて着物を目にしたとき、絹の光沢、しなやかさ、それに伝統的な技法を駆使したデザイン性豊かな模様や柄。一瞬のうちに心を奪われてしまいました。
着物には、たくさんの色や柄があって、季節に合ったものが着られるじゃないですか。
正月には南天柄の着物、雪の柄もあるし、梅が咲くときには梅の柄、桜の季節だからピンクにしようかとか、どんな色や柄の着物にするか選ぶのが楽しいですよ。
今は洋服に色と柄がなくなりました。世界中がそうなってしまいました。大学の教室を見ても、グレーか紺かベージュかグリーンの無地が多いですよ。柄があっても、チェックか縞、それが2~3人いるくらいです。
今は洋服を大量に作って安く販売しますから、どうしてもそうなってしまうんでしょうね。それに、世界的に民族衣装がなくなり、その分、色や柄も少なくなってしまいました。
中川:
着物を着る人も少なくなっているんでしょうね。
クリフ:
いえ、増えていると思いますよ。私がこの大学で働き始めたころは、卒業式は全員がスーツ姿でした。今は99%が袴です。成人式でも着物が圧倒的に多いでしょ。
中川:
今はレンタルできますからね。
クリフ:
レンタルが多いですね。私はもっぱら古着屋さんで買います。私の講座を受けてくれている学生でベトナムから来ている子がいます。彼女にとってはレンタルでも高いんですね。だから、古着屋さんへ連れて行って、安い着物を見つけました。安いけれども、物はすごくいいんですよ。袴も探して、彼女はそれを着て卒業式に出ます。
卒業したら、その着物をもってベトナムに帰れば、いいお土産になります。日本の文化もあちらの人に知ってもらえますし。

<後略>

2019年2月8日 埼玉県新座市の十文字学園女子大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

SHEILA KIMONO STYLE「シーラの着物スタイル」
シーラ・クリフ 著 (東海教育研究所)

           

3月「桃崎 有一郎」さん

桃崎 有一郎(ももさき ゆういちろう)さん

1978年東京生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。史学博士。高千穂大学教授。専門は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)「武士の起源を解きあかす」(ちくま書房)など。

『武士の起源とは? 都と地方のハイブリッドだった』

年賀状はなぜ出すのか? 初詣はいつ始まった?

中川:
先生の書かれた『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)を読ませていただきました。だれにもご先祖様がいます。そのおかげでこうやって生きているのだから、ときにはご先祖様にも思いを馳せた方がいいと、私はお話ししています。
ご先祖様のことを知るには、歴史も勉強しないといけません。歴史に関する本を読んだり、専門家のお話を聞いたりして勉強しているのですが、武士の起源がわかってないというのが意外でした。わかっているものと思って武士のことを聞いたり、語ったりしていましたから。
先生は、武士がご専門ではないけれども、その起源がわかってないと知って、ご自分で調べられたということでしたね。
桃崎:
私は平安時代の終わり頃から室町時代という中世が大好きです。中世は決まった枠組みがない時代でした。古代なら律令国家があるし、近世なら幕藩体制があって、近代以降なら大日本帝国という枠組みがありました。しかし中世は枠組そのものが壊れて存在しません。ダイナミックで生々しい政治が行われていました。
そんな中世の中でも、「儀礼」にとても興味がありました。儀礼というのは、今で言うなら、結婚式や葬式、法事といったものです。人はなぜ、形骸的な儀礼をしたがるのか。儀礼はなぜその形で行われるのか。そういった研究をしています。
中川:
儀礼ですか。
桃崎:
儀礼の研究というとピンとこないだろうと思いますが、けっこう面白いものですよ(笑)。身近な話をすれば、年賀状をなぜ出すのかわかりますか? 新年になると「明けましておめでとう」と言いますが、何がおめでたいのでしょうか? 初詣にはなぜ行くのでしょうか? 私たちがお正月に当たり前にやっている儀礼も、どうしてかと聞かれると困りますよね。
中川:
わからないですね。考えたこともないですよ(笑)。
桃崎:
だれに聞いても答えが出ないですね(笑)。それでも年賀状を出さないと悪いと思っている人は多いですよね。
もともと年賀状というのは元日にあいさつに行けなかったおわびとして出すものだったようです。確かに、昔の記録を見ても年賀状のことは書かれていません。
明治になって近代郵便制度ができて年賀郵便を扱うようになり、あいさつを年賀状ですませるようになったということです。
年が明けて何がおめでたいのかですが、昔は数え年で年齢を数えていました。つまり、元日に一斉に年を取るわけです。今は年を取るのはネガティブにとらえられますが、長生きできない時代では、年を取るのはうれしいことでした。だから、「おめでとう」と言い合ったわけです。人々が、世界そのものが、無事に+1年延命できたということです。
中川:
なるほど、そういうことですか。初詣はどうでしょう?
桃崎:
関東に住んでいると、よくテレビで、初詣は川崎大師へとか、成田山新勝寺へといったコマーシャルが流れます。どうして神社でもない川崎大師と成田山新勝寺なのだろうと疑問に思っていました。
そうしたら『初詣の社会史』(平山昇著、東京大学出版会)という本に出あいました。その本によると、明治の初めに新橋と横浜の間に鉄道が開通したので、鉄道に乗って川崎大師に来てもらおうとしたみたいなのです。乗客を増やすための戦略だったんですね。成田山新勝寺も同じような理由で、盛んに宣伝されて、それが現代まで続いているということでした。
中川:
それでは観光ビジネスの影響ですね(笑)。
桃崎:
そのとおりです。年賀状も初詣も、日本の古い伝統だと思っていた人は多いのではないでしょうか。よく調べてみれば明治時代から始まったことですから、伝統文化とは言えません。
日本の伝統文化を守りたいと言う人がいますが、何を守ろうとしているのか、勘違いしていることがたくさんあるのではないでしょうか。何が本当の伝統文化で、何を守ればいいかをはっきりさせないといけません。
日本人は裁判沙汰を嫌うというけれども、中世では今のアメリカみたいに次から次へと裁判をしています。実は日本人は裁判が大好きだったのです。
儀礼の研究をしていくと、昔の日本人が何を大切にしていたのかが見えてきます。
私は、儀礼は過去からのメッセージではないかと思っています。まだ読み解かれていないメッセージが、儀礼を研究すると見えてくるんですね。

<後略>

2019年1月18日 東京・高千穂大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「武士の起源を解きあかす」桃崎 有一郎 著(ちくま書房)

           

2月「阿部 一男」さん

阿部 一男(あべ かずお)さん

元宮城県警警視正。昭和8年(1933年)宮城県生まれ。高校中退後、鉱山で
の勤務をへて20歳のときに宮城県警に採用。昭和53年(1978年)警部に
昇進し、気仙沼署の刑事課長に。そのころから異様な「声」を聞くようにな
る。平成20年(2008年)瑞宝双光章を受章。著書に「霊感刑事の告白」(幻
冬舎)がある。

『犯人や被害者の声が聞こえる。霊感で事件を解決する刑事!』

45歳のときに突然、異様な声が頭に飛び込んできた

中川:
阿部さんが書かれた「霊感刑事(デカ)の告白」(幻冬舎)を読ませていただきました。私がやっている真氣光は霊的な世界ともとても深くかかわっていて、阿部さんが書かれていることには、共感する部分がたくさんありました。
氣を受けた方から、その人とは違う人格の何者かが出てくることがあります。「つらい」とか「苦しい」と訴えてくるのですが、氣を受けるうちに、「光がきた」「楽になった」とどんどんと変化していきます。たぶん、肉体を失った魂さんが出てくるのだと思います。
長年、そういう現象を目にしていますので、私は、人間には魂があることを確信しています。
阿部:
私は85歳になりましたが、霊的な体験をした者としては、人間だけでなく、動物も植物も、生きているものにはすべて魂があることを伝えないといけないと思っています。
われわれが肉体をもって地球上で体験していることは単に入口にしか過ぎなくて、死後の世界が本番になると考えています。
中川:
体をもって生きているのは一時期のことですよね。
阿部:
いくら科学が発展しても、人類の知識で宇宙のすべてがわかるわけではありません。なのに、すべてをわかったように思うのは、愚かなことじゃないでしょうか。死後の世界とか魂のことも、今の科学ではわからないことだと思います。
霊的な感覚も同じで、科学ではなかなか証明できないものです。証明できないからないものと考えるというのは、浅はかなことではないでしょうか。
中川:
阿部さんは刑事さんだったそうですね。霊感刑事というのがすごいですね。刑事さんが霊感を使って犯人を捜すというと、何をバカなことを言っているんだということになるでしょうね。
阿部:
犯罪現場での捜査活動は、合理的な根拠をもとに行われます。ですから、「何となくピンときた」というような、直感とか第六感と言われるようなものは排除されます。
自分が刑事として働いてきた経験を振り返ると、ずいぶんと霊感に助けられてきたことがあったと思います。霊感とまではいかなくても、ひらめきのようなもので犯人の手掛かりをつかめたという体験はだれもがもっているはずです。でも、そんなことを言う人はいないし、言っても軽視されてしまいます。
この本を出しても、警察関係からは電話一本かかってきませんよ。読んだ人がいたとしても、いい加減なことを書いていると思っているんでしょうね。
中川:
45歳のとき警部に昇進されて、気仙沼署の刑事課長のときに、突然異様な声が聞こえたということでしたよね。それが最初の霊的な体験ですか。
阿部:
自分では狂ったと思いましたよ。最初の聞こえ方は、いわゆる耳で聞く音ではなくて、音が頭に飛び込んでくるという感じだったように思います。刑事仲間たちの声が、スイッチが切ってあるラジオやテレビから聞こえてきました。部下たちの心の声が頭に飛び込んできたこともよくありました。
一番おかしいと思ったのは、朝起きて、カラスが鳴いていて、その鳴き声に人の声が混ざってくるんです。早朝だったので、私は心の中で「うるさい!」と怒鳴りつけました。そしたら、カラスがカァカァと鳴くのをやめました。そして、「うるさいと言っているぞ」という声が聞こえてきました。びっくりして眠気が吹っ飛んでしまいました。カラスとはずいぶんと話をしましたよ(笑)。
中川:
カラスとですか。霊的な部分ではつながっているでしょうから、そういうこともあるんでしょうね。
それ以前でも、兆候のようなものはあったのではないですか。
阿部:
兆候はありましたね。気仙沼へ行く前のことです。仙台市内を流れる川の橋の上から5歳の男の子が見知らぬ男に投げ落とされるという事件がありました。幸い、男の子はけがもなく無事に救出されましたが、悪
質な事件ですので、殺人未遂事件として捜査が始まりました。しかし、捜査は難航して、有力な手掛かりがないまま1ヶ月がたちました。
私は現場に行って「どうしたらいいだろう」と考えていました。そのときに強いひらめきがありました。そのひらめきがきっかけになって犯人が徐々にしぼれてきて、10ヶ月後についに犯人逮捕となりました。
あのときは、単なるひらめきだと軽く考えていましたが、今はあれは霊界から教えられたのだと確信しています。真剣に考えたり、取り組んでいると、霊界に応援してもらえるのではないでしょうかね。

<後略>

2018年11月23日 仙台市の阿部一男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「霊感刑事の告白」阿部一男 著(幻冬舎)

           

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