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11月「石井 美恵子」さん

ハイゲンキ

石井 美恵子(いしい・みえこ)さん

北里大学大学院看護学研究科修士課程修了、富山大学医学薬学教育部博士課程修了。現在、国際医療福祉大学大学院教授。1995年アメリカでの災害対応に関する研修を受けたことがきっかけで災害医療の活動に入る。イラン大地震、スマトラ沖地震・津波災害、ジャワ島中部地震、四川大地震、東日本大震災などで支援活動。日経WOMAN「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2012」大賞受賞。

『運命の導きか。 災害支援がライフワークに』

アメリカの研修に参加したことが大きな転機になった

中川:
石井先生の書かれた「幸せをつくる、ナースの私にできること」(廣済堂出版)という本を読ませていただきました。今、とても災害が頻繁に起こっていて、この間も千葉で大変な台風被害がありました。どこでどんな災害が起こっても不思議ではないと思います。自分が被災することをいつも頭に入れて生活する必要がありますよね。
石井先生は、災害医療にかかわってきた体験を通して、どうしたらより良い災害支援ができるかということを提言されていますが、もともとは看護師さんだったんですよね。
石井:
実は、看護師になりたくてなったわけではないんですね(笑)。父はとても封建的な人で、彼が理想とする女性像は、女子高にいって、近くでお勤めして結婚して、孫を連れてときどき訪ねてくるというものでした。女が学問をしたらろくなものではないとずっと言われていましたから。
私の実家は新潟ですが、父が一番にお風呂へ入るのが当然みたいな中で育ってきました。長男ばかりが大事にされるわけです。私は小さいころから、その考え方には納得できませんでした。男だから、女だからではなく、その人の能力によって評価されるべきだと思ってきました。
高校を卒業してからの進路も、息苦しい家を何とか出たくて、どうしたら父を説得できるだろうと考え、父が女の子らしい職業と思える仕事につけばいいだろうと思って看護学校へ行くことにしました。
それでも半径60キロ以内じゃないとダメだとか、いろいろ制約がありました。
中川:
家を出たくて選んだ職業が看護師だったんですね。
石井:
でも、実際に看護学校へ入ると、父と母の関係と同じ構図が医師と看護師の間にあって、いくら看護師が勉強してもなかなか認められない現実を見せられました。もうやめようと思いましたが、恩師から「今はそんな時代かもしれないけれども、いずれ看護が自立した時代がくる。作りなさい」と言われ、続けよう、やるからには本気でやろうと気持ちを切り替えました。
中川:
若いころから意識が高かったんですね。
石井:
不条理なことには人一倍敏感に反応してきましたね(笑)。女だからとか看護師だからという理由で意思決定権がないのはおかしいと思っていました。
新人ナースのときから、医師に指示されて動くような働き方は、私のプライドが許しませんでした。医師が治癒は難しいと診断していた肺気腫の患者さんがいたのですが、私は自分で勉強して、こんな呼吸ケア(治療を看護師が実施することは医師法に抵触しますので)をしていいかと医師に相談して、その方が自転車で通院できるまでに回復させたことがありました。
このとき、医師だとか看護師だとか関係なく、本気でやればできるんだということを体得しましたね。
その後、新潟から東京へ出て、救急医療の現場で働くことにしました。どんなことがあっても慌てず、的確な判断と行動ができる自分になりたかったんですね。そのためには救急医療がもっとも適していると思ったからです。
中川:
そこから災害医療につながっていくわけですね。
石井:
そのころは災害にはあまり興味はありませんでした。アメリカへ留学してもっと救急医療の勉強をしようと思っていたのですが、ひょんなことでイラン人の男性と知り合って結婚することになりました。1991年でした。2年ほど、イランで専業主婦をしながら働くことを模索していましたが、息子が生まれて、イランには兵役があったのでそれが嫌で日本へ帰ってきました。このときはイランで暮らしたことが後から大きな意味をもってくるなんて想像もつきませんでした。
そしたら1995年に阪神淡路大震災があったんですね。さらに地下鉄サリン事件もあって、日本でも災害医療が大切だということになり、私もアメリカの研修プログラムに派遣されることになりました。1ヵ月ほどの研修でした。
中川:
アメリカは災害医療が進んでいるんですね。
石井:
当時は大統領直属だったFEMA(連邦緊急事態管理庁)という組織がありました。専門家集団で、平時から災害があったときにはどう動けばいいか、災害に備えてどんな準備をすればいいかをサポートしています。もちろん、災害があったときにはとても重要な働きをする組織です。
日本には災害の専門家がいるわけではなく、災害が起こったときには何をしていいかわからず、右往左往するしかないのが現状でした。アメリカの研修で、私は災害医療に興味をもつようになりました。

<後略>

2019年9月10日 東京都港区・国際医療福祉大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「幸せをつくる、ナースの私にできること」(石井 美恵子 著)廣済堂出版

           

6月「樋口 英明」さん

樋口 英明(ひぐち ひであき)さん

1952年三重県生まれ。京都大学法学部卒。全国各地の裁判所の判事を務め、2017年に定年退官。2014年、関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じる判決を下した。2015年、福井県と近畿地方の住民ら9人が関西電力高浜原発3・4号機の再稼働差し止めを求めた仮処分申請に対し、住民側の申し立てを認める決定を出した。

『原発は極めて危険!原発を止めた元裁判長の責任感』

原発の建っているところには大きな地震がこないということが前提の基準

中川:
先代の会長である私の父は、当時のソ連へ出向いて行って、チェルノブイリ原発事故の被ばく者に氣の治療をしました。アメリカインディアンのホピ族の居留地にも行き、ウラン採掘で被ばくした人の治療をしたり、核の問題を長老と語り合ってきました。
そういう経緯があって、原子力発電所については、氣の観点から言っても良くないし、ひとたび事故があったら大変なことになるのは福島第一原発事故で明らかですから、やめたほうがいいという考え方でいます。
樋口さんは、2014年に福井地裁の裁判長として、関西電力の大飯原発の運転差し止めを命じる判決を出されました。
私は、こういう裁判官もいるのだと感心してあのニュースを見ていました。裁判で原発を止めたというのはあまり聞きませんからね。
樋口:
この間、数えてみたのですが、福島の事故以降、原発差し止め訴訟、あるいは仮処分で、地震を理由として差し止めるという決定をしたのは、裁判長の数で言うと2人ですね。それに対して止めなかった裁判長は17人になるかと思います。
中川:
2対17ですか。福島の事故のあとですよね。危ないことはわかり切っていても止めないという判決がほとんどなのはどうしてですか。
樋口:
原発の怖さを知っているかどうかじゃないでしょうか。私は、大飯(おおい)原発の裁判が始まったとき、「私は、原発が危険かどうかで決めます」と明言しました。
中川:
危険かどうかで判断するのは当たり前のことじゃないですか? ほかに何か基準があるのですか?
樋口:
危険かどうかがもっとも大切なことですよね。普通に考えればわかることです。私が出した判決は高裁で破られたわけですが、その判決の内容を見ると「新規制基準に従っているから心配ない」というものでした。でもその基準があやふやなのですから心配ですよね。
簡単に言うと、規制基準というのは震度7の地震は原発の建っているところにはこないということが前提に作られています。
中川:
えっ。原発のあるところには大きな地震はこないのですか?
樋口:
そんなことはあり得ませんよね。でも、それが前提になっているのです。
中川:
地震学というのもありますから、大きな地震が起こるかどうか、計算ができるのでしょうかね。でも、地震が起こるのを正確に予測したという話は聞いたことがないですね。地震がないとされているところに立て続けに大きな地震がきたりしていますから、その前提はあまり信じられないように思いますが。
樋口:
地震学は三重苦の学問だと言われています。地下深いところで起こることだから観察ができません。実験もできないですよね。それに資料が不足しています。
そもそも地震学はまだ歴史の浅い学問です。気象学だったら明治時代から観測をしていて、そのデータが蓄積されています。しかし、日本で本格的に地震の観測が始まったのは阪神淡路大震災以降です。それまでは地震計の設置個所が少なくて、データは非常に乏しいのです。
原発の耐震基準として「ガル」という単位が使われます。これは観測地点での地震の強さのことです。最近の地震では、北海道胆振(いぶり)地震が1796ガル、熊本地震が1740ガルです。中越地震が2515ガル、東日本大震災が2933ガル。日本でもっとも強かったのが2008年にあった岩手宮城内陸地震で4022ガルです。
それに対して、私が止めた大飯原発は、3・11当時の耐震基準が405ガルです。2018年3月時点で856ガルまで上げていると言っていますが、それでも2000年以降、1000ガルを超える地震が16回もありました。とても安心していられる状況ではありません。ほかの原発も同じです。これでは、「原発は安全です」とはとても言えません。
中川:
そういう地震は原発の建っているところにはこないという前提なわけですね。いいんでしょうかね。
樋口:
よくないですよ。多くの人が、原発はものすごく丈夫に作られている。どんな地震だって耐えられると思っているのではないでしょうか。でも、そんなことはありません。
住宅メーカーでは、今は3000ガル、4000ガル、5000ガルの地震に耐えられるような家を作っています。
住宅よりも地震に弱い原発が、こんなにも地震の多い日本にあっていいのかということですよ。それも、原発のあるところには大きな地震はこないということが、この基準で大丈夫という根拠ですから。少なくとも5回は耐震基準を超えた地震が原発を襲っています。その根拠もいい加減なものです。
そういう状況を「危険」と思わない感覚がおかしいと、私は思います。

<後略>

2019年4月5日 日比 谷松本楼にて 構成/小原田泰久

           

5月「中川 由香子さん・中川 貴恵さん」

中川 由香子・中川 貴恵(なかがわ ゆかこ・なかがわ たかえ)さん

中川 由香子 さん 1962年札幌生まれ。1984年からハワイやマイアミを拠点に海外に真氣光を広げる活動をする。2000年帰国後、真氣光研修講座の食事ボランティアをする。2007年東京移住。2016年認知症カフェを立ち上げる。2018年、8月SAS東京センターで『しんきこうカフェ』を始める。

中川 貴恵 さん 1970年札幌生まれ。東京音楽大学付属高校、同大学声楽専攻卒業。日本オペラ振興会研究生終了。イタリアのミラノ、ローマでイタリアオペラの勉強をする。1994年より真氣光研修講座の音感行法を担当。今年4月より東京センターにて「音だまスイッチ」という呼吸と声講座を開催。

『真氣光に新しい風。すそ野を広げて、 よりたくさんの人に光を』

3人が得意な分野でセッション、カフェ、 ワークショップ

小原田:
今月は、私が司会進行を務め、中川会長、中川由香子さん、中川貴恵さんにお話をうかがいます。会長から由香子さん、貴恵さんをご紹介いただけますか。
中川:
由香子は私の2つ違いの妹です。この雑誌に出るのは初めてだったかな。あまり会員さんの前には出ていませんが、真氣光歴は私よりもずっと古くて、1984年に先代が北海道から東京へ出てきたときからいろいろと手伝っています。2000年から、生駒での真氣光研修講座での食事ボランティアをやっていました。
真氣光の「氣」のロゴ、みなさんご存知だと思いますが、あれを書いたのも由香子だったよね。
由香子:
そうなんですよ。太極氣功18式のビデオのカバーに使いたいので書くように言われて、何枚か書いたうちの1枚を先代が選んで、いつの間にか、看板に使われるようになったのでびっくりでした(笑)。
中川:
東京へ出てきたと思ったら、すぐにハワイに住むことになって、あのころは激動の時期だったよね。
由香子:
ハワイのセミナーを手伝ってくれって言われたので喜んでついていったら、そのまま置いていかれて(笑)。
セミナーで知り合ったご夫妻が大きな家に住んでいたので、そこに居候させてもらって、そのご夫妻や近所の人たちの治療をしたりしていました。そうこうするうちに、もう仕送りはしないので、そちらで会社を作って自分で稼げと、とんでもないことを命じられました(笑)。
言われたとおりに会社を作って、先代が定期的にセミナーに来てくれたので、その会場を準備したり、人を集めたりといった仕事をしました。あとは、ハイゲンキを購入してくださった人のアフターケアですね。次から次へとひらめいたことを形にしていく人でしたね。鍛えられました(笑)。
中川:
貴恵は私とは10歳違います。赤ん坊のときには、私がおしめを取り換えたこともあります(笑)。
小さいときから音楽をやっていて、音楽大学でオペラを学んだあと、イタリアにもしばらく留学して、真氣光研修講座では、生駒で行われるようになった1994年5月から音感行法をやってくれているよね。
貴恵:
先代から、講義だけだと受講生も退屈するから音楽会をやってくれないかと言われて、音感行法が始まりました。私はクラシックが専門なのですが、先代からは「クラシックではわからんから演歌をやれ」と無茶な注文が入りました(笑)。でも、演歌ばかりでもまたおかしいでしょ。童謡を入れたり、いろいろ試行錯誤しました。
中川:
それは大変だった(笑)。でも、真氣光研修講座でも音楽が入ると、みなさんほっとしているし、いい雰囲気になるよね。
貴恵:
参加している方によって雰囲気が違いますから、その場にあった歌を歌うようにしています。
基本は、こちらが楽しく幸せな気持ちで歌うことですね。そうじゃないと、いい氣が伝わらないですからね。
中川:
それは大事なことだと思いますよ。参加者の中には、「あの歌、思い出の歌なんです」と涙を流す人もいるからね。歌に癒され、歌で気づくことがたくさんあるみたいだね。
今は、ほかにもあちこちでボランティアで歌ったりしているけど。
貴恵:
2011年の大震災のあと、老人ホームへ行くことが多くなり、母が通っていたデイサービスの施設でも歌っていました。
豊島区でも「歌って健康講座」と言うのをボランティアでやっています。
小原田:
由香子さんは昨年の8月から「しんきこうカフェ」を、貴恵さんは4月から東京センターで「音だまスイッチ」というワークショップを始めました。このお話はあとから詳しくお聞きします。
三本の矢とか三位一体とかよく言いますが、こうやって会長と妹さん2人が、それぞれの得意な分野で真氣光を広げていくというのは、先代が仕組んでいることではないかと思ったりもします。ひとつの節目を真氣光も迎えているのではと思えてなりません。どんな展開が起こってくるのか、すごく楽しみです。

<後略>

2019年3月28日 エス・エー・エス 東京センターにて 構成/小原田泰久

           

4月「シーラ・クリフ」さん

シーラ・クリフ(しーら くりふ)さん

1961年イギリス生まれ。リーズ大学大学院博士課程修了。1985年来日。埼玉大学、立教大学の非常勤講師をへて、十文字学園女子大学教授。大学では、英語と着物文化を教えるかたわら、国内外で着物展覧会やファッションショーを企画・プロデュースしている。著書に「日本のことを英語で話そう」(中経出版)「シーラの着物スタイル」(東海教育研究所)などがある。

『着物は日本人が誇るべき伝統。もっと気軽に着ればいい』

着物を初めて見て、絹の光沢、しなやかさ、色、柄に心を奪われた

中川:
私はFM西東京で「今日も一日、い氣い氣ラジオ」という番組をもっているのですが、そのラジオ局で社長を務められていた有賀達郎さんから、すてきな方がいるとご紹介されました。シーラ先生は、十文字学園女子大学の教授ということですが、何を教えられているのですか?
クリフ:
英語と着物文化ですね。講義以外に、ワークショップとして、着物の着付けやファッションショーなどもやっています。
中川:
今日もすてきな着物姿ですが、いつも着物を着ておられるのですか。
クリフ:
いつも着物ですね。洋服は、近くのお店に買い物に行くときとか、庭仕事をするときくらいかな(笑)。
中川:
イギリスのご出身で、学生時代に日本へ遊びに来たときに着物と出合い、すっかり魅せられたということですが。
クリフ:
24歳のときに友人に誘われて日本へ来て、陶器に興味があったので骨董市に連れて行ってもらいました。そしたら、あるお店にきれいな着物が飾られているのが目に入り、それがきっかけで着物のことが大好きになりました。そのときに買ったのが赤い長襦袢。友人に「それは着物じゃなくて下着だよ」と言われて、こんなにきれいなものを中に着るんだとびっくりしました。
あれからもう30年以上になりますが、ずっと日本で着物を着て暮らしています(笑)。
中川:
もともとファッションには興味があったようですね。
クリフ:
私は双子だったので、小さいころ、いつも妹と同じ洋服を着せられていました。私は金髪、妹は茶色の髪の毛で、顔も違っているのに、同じ洋服を着ているので、よく名前を間違われました。それが嫌で、妹とは違う洋服を着るようになりました。
誕生日もいつも2人一緒で、ケーキも2人でひとつ。そういう扱いがとても不満でしたから、自分は自分だというメッセージを、ファッションをとおして出していきたいと思ったのかもしれません。
中川:
日本で最初に着物を買ったとき、予算をオーバーしてしまって、もやしをずっと食べていたとお聞きしましたが。
クリフ:
そうそう。新宿の大きなデパートで買ったのですが、私は値札に書かれている金額でいいと思っていました。ところが、あれは生地だけの値段で、そこに仕立て代、八掛、長襦袢なんかが加わって倍以上の金額になってしまいました。まだ日本へ来たばかりで、どうやって断ればいいかわからなくて、代金を支払うためには食事を節約しないといけないので、毎日、もやしばかりを食べていました(笑)。
中川:
倍以上ですか。普通、すぐに着られる状態で売っていると思いますからね。シーラ先生は着物のどこにそれほど魅かれたのですか?
クリフ:
初めて着物を目にしたとき、絹の光沢、しなやかさ、それに伝統的な技法を駆使したデザイン性豊かな模様や柄。一瞬のうちに心を奪われてしまいました。
着物には、たくさんの色や柄があって、季節に合ったものが着られるじゃないですか。
正月には南天柄の着物、雪の柄もあるし、梅が咲くときには梅の柄、桜の季節だからピンクにしようかとか、どんな色や柄の着物にするか選ぶのが楽しいですよ。
今は洋服に色と柄がなくなりました。世界中がそうなってしまいました。大学の教室を見ても、グレーか紺かベージュかグリーンの無地が多いですよ。柄があっても、チェックか縞、それが2~3人いるくらいです。
今は洋服を大量に作って安く販売しますから、どうしてもそうなってしまうんでしょうね。それに、世界的に民族衣装がなくなり、その分、色や柄も少なくなってしまいました。
中川:
着物を着る人も少なくなっているんでしょうね。
クリフ:
いえ、増えていると思いますよ。私がこの大学で働き始めたころは、卒業式は全員がスーツ姿でした。今は99%が袴です。成人式でも着物が圧倒的に多いでしょ。
中川:
今はレンタルできますからね。
クリフ:
レンタルが多いですね。私はもっぱら古着屋さんで買います。私の講座を受けてくれている学生でベトナムから来ている子がいます。彼女にとってはレンタルでも高いんですね。だから、古着屋さんへ連れて行って、安い着物を見つけました。安いけれども、物はすごくいいんですよ。袴も探して、彼女はそれを着て卒業式に出ます。
卒業したら、その着物をもってベトナムに帰れば、いいお土産になります。日本の文化もあちらの人に知ってもらえますし。

<後略>

2019年2月8日 埼玉県新座市の十文字学園女子大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

SHEILA KIMONO STYLE「シーラの着物スタイル」
シーラ・クリフ 著 (東海教育研究所)

           

3月「桃崎 有一郎」さん

桃崎 有一郎(ももさき ゆういちろう)さん

1978年東京生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。史学博士。高千穂大学教授。専門は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史。著書に「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)「武士の起源を解きあかす」(ちくま書房)など。

『武士の起源とは? 都と地方のハイブリッドだった』

年賀状はなぜ出すのか? 初詣はいつ始まった?

中川:
先生の書かれた『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)を読ませていただきました。だれにもご先祖様がいます。そのおかげでこうやって生きているのだから、ときにはご先祖様にも思いを馳せた方がいいと、私はお話ししています。
ご先祖様のことを知るには、歴史も勉強しないといけません。歴史に関する本を読んだり、専門家のお話を聞いたりして勉強しているのですが、武士の起源がわかってないというのが意外でした。わかっているものと思って武士のことを聞いたり、語ったりしていましたから。
先生は、武士がご専門ではないけれども、その起源がわかってないと知って、ご自分で調べられたということでしたね。
桃崎:
私は平安時代の終わり頃から室町時代という中世が大好きです。中世は決まった枠組みがない時代でした。古代なら律令国家があるし、近世なら幕藩体制があって、近代以降なら大日本帝国という枠組みがありました。しかし中世は枠組そのものが壊れて存在しません。ダイナミックで生々しい政治が行われていました。
そんな中世の中でも、「儀礼」にとても興味がありました。儀礼というのは、今で言うなら、結婚式や葬式、法事といったものです。人はなぜ、形骸的な儀礼をしたがるのか。儀礼はなぜその形で行われるのか。そういった研究をしています。
中川:
儀礼ですか。
桃崎:
儀礼の研究というとピンとこないだろうと思いますが、けっこう面白いものですよ(笑)。身近な話をすれば、年賀状をなぜ出すのかわかりますか? 新年になると「明けましておめでとう」と言いますが、何がおめでたいのでしょうか? 初詣にはなぜ行くのでしょうか? 私たちがお正月に当たり前にやっている儀礼も、どうしてかと聞かれると困りますよね。
中川:
わからないですね。考えたこともないですよ(笑)。
桃崎:
だれに聞いても答えが出ないですね(笑)。それでも年賀状を出さないと悪いと思っている人は多いですよね。
もともと年賀状というのは元日にあいさつに行けなかったおわびとして出すものだったようです。確かに、昔の記録を見ても年賀状のことは書かれていません。
明治になって近代郵便制度ができて年賀郵便を扱うようになり、あいさつを年賀状ですませるようになったということです。
年が明けて何がおめでたいのかですが、昔は数え年で年齢を数えていました。つまり、元日に一斉に年を取るわけです。今は年を取るのはネガティブにとらえられますが、長生きできない時代では、年を取るのはうれしいことでした。だから、「おめでとう」と言い合ったわけです。人々が、世界そのものが、無事に+1年延命できたということです。
中川:
なるほど、そういうことですか。初詣はどうでしょう?
桃崎:
関東に住んでいると、よくテレビで、初詣は川崎大師へとか、成田山新勝寺へといったコマーシャルが流れます。どうして神社でもない川崎大師と成田山新勝寺なのだろうと疑問に思っていました。
そうしたら『初詣の社会史』(平山昇著、東京大学出版会)という本に出あいました。その本によると、明治の初めに新橋と横浜の間に鉄道が開通したので、鉄道に乗って川崎大師に来てもらおうとしたみたいなのです。乗客を増やすための戦略だったんですね。成田山新勝寺も同じような理由で、盛んに宣伝されて、それが現代まで続いているということでした。
中川:
それでは観光ビジネスの影響ですね(笑)。
桃崎:
そのとおりです。年賀状も初詣も、日本の古い伝統だと思っていた人は多いのではないでしょうか。よく調べてみれば明治時代から始まったことですから、伝統文化とは言えません。
日本の伝統文化を守りたいと言う人がいますが、何を守ろうとしているのか、勘違いしていることがたくさんあるのではないでしょうか。何が本当の伝統文化で、何を守ればいいかをはっきりさせないといけません。
日本人は裁判沙汰を嫌うというけれども、中世では今のアメリカみたいに次から次へと裁判をしています。実は日本人は裁判が大好きだったのです。
儀礼の研究をしていくと、昔の日本人が何を大切にしていたのかが見えてきます。
私は、儀礼は過去からのメッセージではないかと思っています。まだ読み解かれていないメッセージが、儀礼を研究すると見えてくるんですね。

<後略>

2019年1月18日 東京・高千穂大学にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「武士の起源を解きあかす」桃崎 有一郎 著(ちくま書房)

           

2月「阿部 一男」さん

阿部 一男(あべ かずお)さん

元宮城県警警視正。昭和8年(1933年)宮城県生まれ。高校中退後、鉱山で
の勤務をへて20歳のときに宮城県警に採用。昭和53年(1978年)警部に
昇進し、気仙沼署の刑事課長に。そのころから異様な「声」を聞くようにな
る。平成20年(2008年)瑞宝双光章を受章。著書に「霊感刑事の告白」(幻
冬舎)がある。

『犯人や被害者の声が聞こえる。霊感で事件を解決する刑事!』

45歳のときに突然、異様な声が頭に飛び込んできた

中川:
阿部さんが書かれた「霊感刑事(デカ)の告白」(幻冬舎)を読ませていただきました。私がやっている真氣光は霊的な世界ともとても深くかかわっていて、阿部さんが書かれていることには、共感する部分がたくさんありました。
氣を受けた方から、その人とは違う人格の何者かが出てくることがあります。「つらい」とか「苦しい」と訴えてくるのですが、氣を受けるうちに、「光がきた」「楽になった」とどんどんと変化していきます。たぶん、肉体を失った魂さんが出てくるのだと思います。
長年、そういう現象を目にしていますので、私は、人間には魂があることを確信しています。
阿部:
私は85歳になりましたが、霊的な体験をした者としては、人間だけでなく、動物も植物も、生きているものにはすべて魂があることを伝えないといけないと思っています。
われわれが肉体をもって地球上で体験していることは単に入口にしか過ぎなくて、死後の世界が本番になると考えています。
中川:
体をもって生きているのは一時期のことですよね。
阿部:
いくら科学が発展しても、人類の知識で宇宙のすべてがわかるわけではありません。なのに、すべてをわかったように思うのは、愚かなことじゃないでしょうか。死後の世界とか魂のことも、今の科学ではわからないことだと思います。
霊的な感覚も同じで、科学ではなかなか証明できないものです。証明できないからないものと考えるというのは、浅はかなことではないでしょうか。
中川:
阿部さんは刑事さんだったそうですね。霊感刑事というのがすごいですね。刑事さんが霊感を使って犯人を捜すというと、何をバカなことを言っているんだということになるでしょうね。
阿部:
犯罪現場での捜査活動は、合理的な根拠をもとに行われます。ですから、「何となくピンときた」というような、直感とか第六感と言われるようなものは排除されます。
自分が刑事として働いてきた経験を振り返ると、ずいぶんと霊感に助けられてきたことがあったと思います。霊感とまではいかなくても、ひらめきのようなもので犯人の手掛かりをつかめたという体験はだれもがもっているはずです。でも、そんなことを言う人はいないし、言っても軽視されてしまいます。
この本を出しても、警察関係からは電話一本かかってきませんよ。読んだ人がいたとしても、いい加減なことを書いていると思っているんでしょうね。
中川:
45歳のとき警部に昇進されて、気仙沼署の刑事課長のときに、突然異様な声が聞こえたということでしたよね。それが最初の霊的な体験ですか。
阿部:
自分では狂ったと思いましたよ。最初の聞こえ方は、いわゆる耳で聞く音ではなくて、音が頭に飛び込んでくるという感じだったように思います。刑事仲間たちの声が、スイッチが切ってあるラジオやテレビから聞こえてきました。部下たちの心の声が頭に飛び込んできたこともよくありました。
一番おかしいと思ったのは、朝起きて、カラスが鳴いていて、その鳴き声に人の声が混ざってくるんです。早朝だったので、私は心の中で「うるさい!」と怒鳴りつけました。そしたら、カラスがカァカァと鳴くのをやめました。そして、「うるさいと言っているぞ」という声が聞こえてきました。びっくりして眠気が吹っ飛んでしまいました。カラスとはずいぶんと話をしましたよ(笑)。
中川:
カラスとですか。霊的な部分ではつながっているでしょうから、そういうこともあるんでしょうね。
それ以前でも、兆候のようなものはあったのではないですか。
阿部:
兆候はありましたね。気仙沼へ行く前のことです。仙台市内を流れる川の橋の上から5歳の男の子が見知らぬ男に投げ落とされるという事件がありました。幸い、男の子はけがもなく無事に救出されましたが、悪
質な事件ですので、殺人未遂事件として捜査が始まりました。しかし、捜査は難航して、有力な手掛かりがないまま1ヶ月がたちました。
私は現場に行って「どうしたらいいだろう」と考えていました。そのときに強いひらめきがありました。そのひらめきがきっかけになって犯人が徐々にしぼれてきて、10ヶ月後についに犯人逮捕となりました。
あのときは、単なるひらめきだと軽く考えていましたが、今はあれは霊界から教えられたのだと確信しています。真剣に考えたり、取り組んでいると、霊界に応援してもらえるのではないでしょうかね。

<後略>

2018年11月23日 仙台市の阿部一男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「霊感刑事の告白」阿部一男 著(幻冬舎)

           

1月 「野村 進」さん

野村 進(のむら すすむ)さん

1956年東京生まれ。ノンフィクション作家。拓殖大学国際学部教授。在日コリアンの世界を描いた『コリアン世界の旅』で大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞。『アジア 新しい物語』でアジア・太平洋賞受賞。ほかにも、『千年、働いてきました』『解放老人』『どこにでも神様』など多数の著書がある。

『神様に手を合わせるのは気持ちいいこと、幸せなこと』

出雲の山奥まで若い女性が。一過性ではない神社ブーム

中川:
野村先生の書かれた『どこにでも神様』(新潮社)という本を読ませていただきました。とても興味深く読ませていただきました。ちょうど、新年号なので、神様の話はいいかなと思ってお願いした次第です。
これはどれくらいの期間、取材をされたものなのですか。
野村:
大学での講義やほかの取材も続けながらですが、7年くらいかけました。
中川:
3人の若い女性と一緒に出雲の神社を回っておられますが、あれはいつごろのことなのですか。
野村:
2016年の4月から5月にかけてですね。
中川:
若い女の子たちの反応がとても新鮮に感じられました。最近は神社巡りが好きな若い女性が増えているようですね。
野村:
この本とは別に、月刊「文藝春秋」に「女子はなぜ神社を目指すのか」という記事を書きました。出雲だけではなくて、東京でも若い女性の間で“神社ブーム”が起きています。
千代田区に東京大神宮という神社があります。最寄駅の飯田橋から女性たちの波ができていますよ。行列が延々と続いていて、正月だと2、3時間待ちだそうです。30年くらい前は、正月でも境内で凧揚げができたと宮司さんはおっしゃっていました。ここ20年くらいの現象だそうです。平日の9時くらいでも、けっこう若い女性たちがいます。会社へ行く前にお参りしていくようですね。
中川:
神社というと、お年寄りが集まる場所のようなイメージがありますけどね。
野村:
マスコミは、「神社ガール」とか「御朱印ガール」とか「神かみ女じょ」とか、ちょっとからかうように書いています。若い女性の神社ブームなど一過性のものと軽く見ているんでしょうね。実は、私もそう思っていましたが、出雲の山奥にまで若い女性たちが来ているのを見ると、これは一過性じゃないなと、考えを改めざるをえませんでした。
これまで、神社について、若い女性たちの声をきちんと聞いたレポートは、ほとんどありませんでした。それで、神社ガールたちと実際に出雲の代表的な神社を巡ってみて、彼女たちが感じたことや考えたことをその場で尋ねて、記録しようと思い立ったわけです。
中川:
出雲に興味をもったきっかけはスーパーマーケットでの福引で出雲旅行が当たったことだったそうですね。
野村:
そうなんですよね。10年以上も前の話ですが、当時小学校5年生だった娘がスーパーの福引で金賞を当てまして、それが「松江・出雲大社・足立美術館二泊三日ペア」というものだったんです。それを娘からありがたく頂戴しまして(笑)、夫婦で出かけていったのがきっかけでした。
妻は、初めての松江にとても興奮していました。彼女の、いまは亡き明治生まれの祖母が幼少期に過ごした借家というのが、「小泉八雲」と改姓する前のラフカディオ・ハーンが暮らし、現在は小泉八雲記念館と隣り合っている日本家屋だったのです。
いま考えれば、“ご縁”の強い力があったのかもしれないと思いますね。何しろ、福引で金賞を射止めたというのは、わが家にとってはあとにも先にもこのときだけですから(笑)。
中川:
出雲の神様のことをもっと世に知らせたいというご先祖様の力が働いているのかもしれませんね。
私どもは、目に見えないものを氣と呼んでいます。霊とか魂とか神様も氣のひとつとして考えています。科学では測定できないし説明もつきませんが、日々の生活の中で、そういう理屈では説明できないことというのはいくらでもありますからね。
野村:
私の場合、50歳を過ぎたころから、「シンクロニシティー」というんでしょうか、「えっ!」と思う偶然によく出くわすようになりました。
中川:
どんなことあったのですか。
野村:
東京西部の山間地で林業を営む田中さんという方に取材でお会いしたら、「うちの親父も『野村進』なんです」と言われてびっくりしたことがあります。田中さんのお父さんは田中家に婿養子に入った人で、旧姓は「野村」、名前が「進」だったというんですね。それまで同姓同名の人には、一度も会ったことがありませんでした。こんな形で同姓同名の人に巡り合うというのは、どれくらいの確率で起こることなんでしょうかね。
もうひとつは、取材で山形県の重度認知症の病棟に取材でうかがったときのことです。ナースステーションに入ったら、デスクの上にカルテが重ねておいてあるのが目に入りました。何気なく一番上のカルテを見てびっくりしたのです。そのカルテの女性患者の生年月日が、私の母親とまったく同じで、そのころ母も認知症を患って都内の施設に入っていましたから。
つまり、この病棟には、母と同じ年の同じ日に生まれ、しかも同じ病気にかかっている女性がいて、その人のカルテが私の目に止まるようなところに、これ見よがしに置かれていた。いったいどういうことなのだろうと、私は考え込んでしまいました。

<後略>

(11月22日 東京・拓殖大学 八王子国際キャンパスにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「どこにでも神様:知られざる出雲世界をあるく」野村 進 著(新潮社)

           

6月 「楊 名時」さん

()さん

『』

           

10月 「迫田 時雄」さん

()さん

『』

           

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長を経て、82年埼玉県川越市に帯津三敬病院、2005年に東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。人間まるごとのホリスティックな医療を実践している。帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会名誉会長。著書は、「粋な生き方」(幻冬舎ルネッサンス)「ドクター帯津の健康暦365+1」(海竜社)「健康問答」(平凡社・五木寛之との共著)など多数。

『潔く、はりがあって、色っぽい。そんな粋な生き方で養生を極める』

先代とは上海で初めて会って、 被曝したインディアンの治療にも行った

中川:
先生、お久しぶりです。私が「氣―こころ、からだ、魂を満たす光のエネルギー」という本を出したときに、対談をお願いして以来ですから、7年ぶりくらいでしょうか。
帯津:
そんなになりますか。会長は、いくつになられました?
中川:
55歳です。先生は、うちの父親と同じで1936年生まれですから、80歳になられたんですよね。お元気ですね。
帯津:
そうそう、先代の中川先生とは1ヵ月くらい、私のほうが早く生まれているんです。いくつでしたか、お亡くなりになったのは。
中川:
59歳の12月でした。あと3ヶ月くらいで60歳だったのですが。
帯津:
じゃあ、20年以上もたつんですね。楽しい人でしたね
中川:
先生が最初に先代に会われたのは、中国だったですよね。
帯津:
1988年でしたね。上海で「国際氣功シンポジウム」というのが行われたんですね。第二回目で、日本からもたくさんの方が参加されていました。もう亡くなられましたが、ユング心理学の研究で有名だった湯浅泰雄先生とか、氣功とカイロをやっていたひげの吉見猪之助さん、山内式気功体操の山内直美さん、日本気功科学研究所の仲里誠穀さん、日本気功協会の山本政則さんとか、その後の日本の氣の世界をリードしていく面々がそろっていました。いずれも、個性豊かな人でしたね。
そんな中に混じっても、中川先生は目立っていました。何しろ、髪の毛が真っ白、白い顎ひげでしょ。氣が出る機械・ハイゲンキもインパクトありましたよ。
中川:
怪しさプンプンですよね(笑)
帯津:
いやあ、あれくらいがいいんですよ。これから氣を広めていかなければならないときですから、ああいう目立つ人を、神様は送り込んだんじゃないですか(笑)。
上海から帰って来て、中川先生から電話があって、一緒に飲もうということになりましてね。そのときに、夢に白髭の老人が出てきて、明日から氣を出せと言われたという話を聞きました。
下田の一週間の合宿も見学に行かせていただきました。
中川:
そうでしたね。それから、アメリカインディアンのホピ族が住む村へ同行してくださいましたよね。
帯津:
1994年の8月でしたね。一緒に行ってくれないかと言われて、ちょっと難しいかなと思ったのですが、当時から場のエネルギーにとても興味があって、インディアンが聖地だと崇めている場所はどんなエネルギーなのだろうと思って、スケジュールを調整して行きました。
飛行機の中では隣同士だったのでゆっくりと話ができました。機内食を、「おいしい、おいしい」と言って、本当に嬉しそうに食べている中川先生の姿に感心しました。ああ、この人は素直な人なんだなと、ますます好きになりましたね。
中川:
食べるのが好きな人でしたから。ホピの村へは、ウランの採掘で被曝した人たちの治療に行ったんですよね。
帯津:
そうなんですね。「ホピの予言」という映画を作った宮田雪きよし監督が案内してくれました。最初は、ホピ族やナバホ族の被曝者が入院している病院へ行ったのですが、治療の許可が出ませんでした。それで、個人の家を訪ねたり、コミュニティセンターのようなところで治療会をやったりしました。
コミュニティセンターのときは、最初は数人だったのですが、その人たちが家へ帰ってからまわりの人に話すものだから、次々と人が集まってきました。トラックの荷台に人がびっしりと乗ってやってきたのにはびっくりしました。
中川先生だけでは追いつかないので、私まで氣功治療をすることになりまして。それにしても、すごい人でした。
中川:
ホピの予言の岩絵も見られたんですよね。
帯津:
見てきました。ホピの大地のエネルギーはすごかったですね。あるところでは、写真を撮ろうとしたらシャッターが切れませんでした。私のカメラだけじゃなかったので、何かエネルギーの影響があったのかなと思います。
長老のマーティンさんの家も訪ねました。生のニンジンが出てきたので、それをかじりながら話を聞いたわけです。
なかなかできない体験をさせていただきました。
帰りの飛行機は、ビジネスクラスが予約してあったのですが、何かの都合で、ファーストクラスに乗せてもらいました。ホピの神様からのプレゼントだと、中川先生と楽しく話したのを覚えています。

<後略>

(2016年4月26日 埼玉県川越市の帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

粋な生き方 病気も不安も逃げていく「こだわらない」日々の心得
帯津 良一 著 
(幻冬舎ルネッサンス)

           

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