1月「木下 勇」さん
木下 勇(きのした・いさみ)さん
千葉大学大学院園芸学研究科教授。工学博士。1954年静岡県生まれ。東京工業大学工学部建築学科卒業。同大学大学院社会開発工学専攻の博士課程を修了。子どもをはじめとする住民参加の街づくり、持続可能な都市開発などを推進している。主な著書に『遊びと街のエコロジー』(丸善)『ワークショップ 住民主体のまちづくりへの方法論』(学芸出版社)がある。
『子どもたちが外で遊べる街づくり。 住民主体の地域開発を!』
仮想空間で遊ぶ子どもたち。 生の人間関係を学べずに成長する
- 中川:
- 木下先生の書かれた『遊びと街のエコロジー』(丸善)という本を読ませていただきました。先生は街づくりをご専門とされていて、子どもたちが外で遊ばなくなったことに警鐘を鳴らされています。20年以上前の本ですが、そのころから子どもが外で遊ばなくなっていたんですね。
- 木下:
- ずっと調査を続けていますが、子どもが外で遊ばない傾向はますます顕著になっています。都市部で8割、地方都市で7割、農村で6割の子どもが外では遊ばないという結果が出ています。中には「どうして外で遊ばないといけないの?」と質問してくる子もいます。とても危機的な状況だと思いますね。
- 中川:
- 家で遊ぶことしか知らなくて、外で遊ぶなんて考えてもみないのでしょうか。私が子どものころ、昭和40年代50年代は、学校が終わると暗くなるまで外で遊んでいましたからね。
- 木下:
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子どもの成長にとって遊びは大事だということをずっと提言しているのですが、アカデミックな世界ではエビデンス(科学的根拠)が必要で、なかなか受け入れてもらえません。動物を使った実験はあっても、人間で調べたデータはないんですね。
海外では、心理学や公衆衛生の分野で研究が行われていて、やる気だとか主体性、何かに挑戦する意欲といった「非認知能力」は遊びによって培われるといったことは言われているのですが、日本ではそういう研究があまりありません。
成長に遊びが大切だということは、学術的なデータがなくても、わかる人には感覚的にわかるんですけどね。 - 中川:
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子どもを取り巻く環境も変わってきましたしね。都会だと外に遊び場があまりありませんし、外で遊ぶよりも家でゲームをしているほうが楽しいわけですから。
それに、親も外で遊んでいると事故や犯罪に巻き込まれるという不安があるんでしょうね。 - 木下:
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共稼ぎの家庭のための学童保育のみならず、親が子どもを自由に遊ばせることに犯罪や事故の心配以外に何もしないことに不安で習い事に預けるわけです。その傾向は低年齢化しています。子どもは与えられた環境の中で過ごすことになります。学校が終わったら自由に遊ぶということはなくなりました。
親もゲームで遊ぶ時代に育っています。子どもたちは、小さいころからスマホを見ています。楽しく遊べる電子機器は生まれたときからそばにありましたから、ゲームばかりの毎日に何の抵抗もないでしょうね。
ゲームメーカーも興味をそそるものを作ります。子どもたちの遊び場は架空の空間なんですね。たとえば、バーチャルな世界で秘密基地も作れるわけです。仮想の空間の中で一緒に基地を作る仲間を集めます。実際には会ったことのない仲間です。
すると、ほかのグループが、秘密基地を乗っ取ろうと、外から攻撃を仕掛けてきます。そこで戦いが始まります。会ったこともない仲間が力を合わせて、会ったことのない敵と戦います。
実生活上の遊び友だちはいないけれども、オンライン上で遊ぶ友だちはたくさんいるというのが、現代っ子たちの当たり前の生活になってきているんですね。
人間社会の進んだものは子どもが先取りします。昔、炭鉱に入るときにはカナリアを一緒に連れて行きました。有毒ガスが発生すると、カナリアは人間よりも早く影響を受けるので、カナリアが苦しみ出したら危険だと判断して引き返せばいいのです。
子どもは常にカナリアのように環境の変化の影響を受けて、場合によっては犠牲になってしまいます。 - 中川:
- みんながゲームに夢中になる世の中がどうなっていくかは、子どもを観察していればわかるということですね。でも、そうなってからは遅すぎますよね。
- 木下:
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その通りですね。小さいころに喧嘩をするとか、困ったことがあったら助けを求めるとか、そういう体験があって人間関係を学んでいきます。でも、外遊びをしなくなって、人とどうかかわっていいかを学ぶ機会が少なくなっているのだと思います。
そのせいか、すぐに心が折れてしまう若者が多いですね。大学の研究室でも、学生の指導には気を使いますよ(笑)。
私たちのころは、教授からしょっちゅう雷を落とされていて、叱られるたびになにくそと思ってがんばりましたが、今の学生はきつく叱ると学校へ来なくなってしまうこともあります。アカデミックハラスメントなんかが問題になることもあって、叱り方が難しくなっていますね。
よその研究室では、学長にクレームを言う学生がいたり、親まで出てくることもありました。中には指導教官からのひどいアカハラもありますから学生だけの責任ではないかもしれませんが、それにしても、ストレスに弱くなっているのは間違いないですね。
子どものときに失敗したりけんかをしたりけがをすることで不屈の精神が養われるのだと、私は思っています。
<後略>
2019年 11月6日 千葉県松戸市の千葉大学園芸学部の木下教授の研究室にて 構 成/小原田泰久

著書の紹介
「ワークショップ住民主体のまちづくりへの方法論」 木下勇(著) 学芸出版社
いえ当初は、先輩方もワンクールと思っていらしたようです。新人の私は只々必死で、先の事を考える余裕は全くありませんでしたが(笑)。ワンクールというのはだいたい3か月です。原作者のやなせたかし先生もびっくりされていました。
子どもの頃の将来の夢は、小学校の先生だったんですよ。小学校の担任の先生がとても素晴らしい方で、その影響を強く受けて、先生になりたいと思っていました。
それで演劇学科を専攻されたんですね。高校で演劇をやっておられたのですか。
実は、看護師になりたくてなったわけではないんですね(笑)。父はとても封建的な人で、彼が理想とする女性像は、女子高にいって、近くでお勤めして結婚して、孫を連れてときどき訪ねてくるというものでした。女が学問をしたらろくなものではないとずっと言われていましたから。
不条理なことには人一倍敏感に反応してきましたね(笑)。女だからとか看護師だからという理由で意思決定権がないのはおかしいと思っていました。
当時は大統領直属だったFEMA(連邦緊急事態管理庁)という組織がありました。専門家集団で、平時から災害があったときにはどう動けばいいか、災害に備えてどんな準備をすればいいかをサポートしています。もちろん、災害があったときにはとても重要な働きをする組織です。
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
ありがとうございます。御庭番のシリーズでも、主人公が中国医学を学ぶようになるので、これからは氣の話がたくさん出てくる予定です。
そうでしょうね。私どもがやっている真氣光研修講座に参加される方でも、氣を集中的に受けることで、霊的な感覚が鋭くなる人がいます。
古くから一緒に仕事をしていた編集者にすすめられたのが直接のきっかけですが、基本的に歴史は好きでしたね。中学校のときには日本史部の部長をやっていましたし、それと並行して友だちと超心理研究会を作ってテレパシーの実験なんかをやっていました(笑)。
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
原発の怖さを知っているかどうかじゃないでしょうか。私は、大飯(おおい)原発の裁判が始まったとき、「私は、原発が危険かどうかで決めます」と明言しました。
よくないですよ。多くの人が、原発はものすごく丈夫に作られている。どんな地震だって耐えられると思っているのではないでしょうか。でも、そんなことはありません。
そうなんですよ。太極氣功18式のビデオのカバーに使いたいので書くように言われて、何枚か書いたうちの1枚を先代が選んで、いつの間にか、看板に使われるようになったのでびっくりでした(笑)。
貴恵は私とは10歳違います。赤ん坊のときには、私がおしめを取り換えたこともあります(笑)。
2011年の大震災のあと、老人ホームへ行くことが多くなり、母が通っていたデイサービスの施設でも歌っていました。
24歳のときに友人に誘われて日本へ来て、陶器に興味があったので骨董市に連れて行ってもらいました。そしたら、あるお店にきれいな着物が飾られているのが目に入り、それがきっかけで着物のことが大好きになりました。そのときに買ったのが赤い長襦袢。友人に「それは着物じゃなくて下着だよ」と言われて、こんなにきれいなものを中に着るんだとびっくりしました。
レンタルが多いですね。私はもっぱら古着屋さんで買います。私の講座を受けてくれている学生でベトナムから来ている子がいます。彼女にとってはレンタルでも高いんですね。だから、古着屋さんへ連れて行って、安い着物を見つけました。安いけれども、物はすごくいいんですよ。袴も探して、彼女はそれを着て卒業式に出ます。