3月「髙信 幸男」さん
髙信 幸男(たかのぶ・ゆきお)さん
1956年茨城県大子町生まれ。水戸、札幌、さいたま、甲府、東京、横浜の法務局に勤務し、2017年(平成29年)に退官する。高校時代から名字の研究をし、名字の由来やエピソードを本に書いたり、講演会等で発表している。多くのテレビやラジオの番組にも出演している。主な著書『難読稀姓辞典』『名字歳時記』(日本加除出版)『トク盛り「名字」丼』(柏書房)など。
『すべての名字に ご先祖様の思いがのっている』
四月一日と書いて 「わたぬき」さん。 小鳥遊で「たかなし」さん
- 中川:
- 茨城にお住いの私どもの会員さんが、髙信先生の講演をお聞きしてとてもいいお話だったので対談してみてはいかがですかとすすめてくださいました。さっそく先生の書かれた『トク盛り「名字」丼』(柏書房)を読ませていただきました。面白かったですね。名字がこれほど奥深いものとは思いませんでした。
- 髙信:
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ありがとうございます。私は16歳のときに名字に興味をもちましてね。以来、半世紀近く名字を研究しています。珍しい名字は限りなくあって、珍名を探すのは昆虫や植物の新種を追いかけるのと同じですよ。この名字のルーツは何だろうとか、興味は広がっていくし、終わりのない研究ですね(笑)。 - 中川:
- 16歳のときに名字に興味をもたれたのですか。髙信さんはもともと法務局に勤める国家公務員で、今は司法書士をしておられるので、その関係で名字研究を始めたのだと思っていましたよ。
- 髙信:
- 法務局は戸籍や不動産登記に関する業務を行っていますから仕事絡みで名字に興味をもったと思われますが、そうじゃないんですね。仕事と名字研究とはたまたまの縁でしかありません。
- 中川:
- 16歳というと高校生ですが、どんなきっかけで名字に興味をもたれたのですか。
- 髙信:
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私が生まれたのは茨城県北部の大だい子ご 町という福島県や栃木県と接する小さな町です。かつては人口4 万2 0 0 0 人くらいの町だったのですが、今は1万5000人ほどに減りました。
日本三大名瀑の一つである袋田の滝が有名ですが、私の生家は滝の上、源流にありました。とんでもないところでしょ(笑)。 - 中川:
- 滝の上ですか?
- 髙信:
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そうですよ。観光客は下から滝を見上げていますが、断崖絶壁の上に家があるなんてだれも想像しないと思います(笑)。ここで生まれなければ名字の研究などやってなかったでしょうね。
中学校のとき、生徒が360人くらいいましたが、名字は30くらいしかありませんでした。みんなが同じ名字で下の名前で呼び合っていました。そのころは、名字の数はそんなにないと思っていました。
高校に入ってびっくりしました。50人のクラスで45の名字があったんですね。みんな名字がバラバラ。こんなに名字ってあるの? と思って、電話帳で町の名字を調べ始めました。意外に多くて数百種類はあったかな。小さな田舎町でこんなにあるなら日本全国ではどれくらいあるだろうと興味が湧いてきて、電話帳を丹念に見るようになりました。 - 中川:
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それで珍名さんに出あうんですね。 - 髙信:
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あるとき電話帳で「四月一日」という名字を見つけました。最初は、どうしてこんなところに日付があるのだろうと不思議に思いました。でもよく見ると名字らしい。それも渡辺さんが並んでいるあとにポツンとあるんですね。なんて読むのだろう?
俄然、興味が湧いてきました。疑問に思うとすぐに解明したくなるたちで、すぐにそこに出ている電話番号に電話をしてみました。そしたら「わたぬきです」と電話に出られたんです。四月一日と書いて「わたぬき」と読むんだ。私にしてみればとんでもない発見をした気分でした。すぐにどうしてそんな読み方をするのですかと質問しました。先方は迷惑がらずにていねいに答えてくれました。 - 中川:
- 確かに四月一日という名字があるとは思わないし、だれも「わたぬき」なんて読めないですよね。
- 髙信:
- 由来を聞いて、こんなふうに名字がつけられることがあるんだとまたまたびっくりしました。4月になると綿入れから綿を抜いたからというのが理由の、トンチのきいた名字なんですね。それでますます興味が出てきたというわけです。
- 中川:
- 名字をつけるにも遊び心があったんですね。「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませる名字もあるそうですね。
- 髙信:
-
1872年(明治5年)に全国的な戸籍制度(壬申戸籍)ができ、1875年(明治8年)には全国民が戸籍に名字を登録しなければならなくなりました。そのときに、先祖から伝わった名字をそのまま役所に届けを出すのではつまらないと考えた人がいたようです。
「たかなし」さんもその1人で、もともとは「高梨」と書いていましたが、高梨を「鷹無」と書き換え、さらに鷹がいなければ小鳥が自由に遊べるということで「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませたようです。こんなユニークな発想で名字をつけるのは日本人くらいです。 - 中川:
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世界でも日本の名字の数は特に多いそうですね。 - 髙信:
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お隣の中国は人口が14億人もいるのに名字の数は4000種類程度、韓国は約5000万人の人口に対して名字の数が500くらいです。日本は約13万種類もの名字があるんですね。佐藤、鈴木、高橋がベストスリーで、ベスト10だけで日本の人口の1割を占めますが、たった1軒だけだとか数軒しかない名字がたくさんあります。
<攻略>
2020年1月 22日 茨城県水戸市の髙信幸男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介
日本全国歩いた! 調べた! トク盛り「名字」丼 髙信幸男 緒 (柏書房)
クズの人生でしたね(笑)。小学校のときにお金があれば幸せになれるって信じていましたし、そのころからお金を稼ぎたくてたまりませんでした。
顔を合わせると胸倉をつかまれて脅されるわけです。最初は自信過剰だったから、「すぐ返したるわ」とタンカを切っていましたが、だんだん自信もなくなってきて、3階から出るような情けない状態になってしまいました。
子どもの成長にとって遊びは大事だということをずっと提言しているのですが、アカデミックな世界ではエビデンス(科学的根拠)が必要で、なかなか受け入れてもらえません。動物を使った実験はあっても、人間で調べたデータはないんですね。
共稼ぎの家庭のための学童保育のみならず、親が子どもを自由に遊ばせることに犯罪や事故の心配以外に何もしないことに不安で習い事に預けるわけです。その傾向は低年齢化しています。子どもは与えられた環境の中で過ごすことになります。学校が終わったら自由に遊ぶということはなくなりました。
その通りですね。小さいころに喧嘩をするとか、困ったことがあったら助けを求めるとか、そういう体験があって人間関係を学んでいきます。でも、外遊びをしなくなって、人とどうかかわっていいかを学ぶ機会が少なくなっているのだと思います。
いえ当初は、先輩方もワンクールと思っていらしたようです。新人の私は只々必死で、先の事を考える余裕は全くありませんでしたが(笑)。ワンクールというのはだいたい3か月です。原作者のやなせたかし先生もびっくりされていました。
子どもの頃の将来の夢は、小学校の先生だったんですよ。小学校の担任の先生がとても素晴らしい方で、その影響を強く受けて、先生になりたいと思っていました。
それで演劇学科を専攻されたんですね。高校で演劇をやっておられたのですか。
実は、看護師になりたくてなったわけではないんですね(笑)。父はとても封建的な人で、彼が理想とする女性像は、女子高にいって、近くでお勤めして結婚して、孫を連れてときどき訪ねてくるというものでした。女が学問をしたらろくなものではないとずっと言われていましたから。
不条理なことには人一倍敏感に反応してきましたね(笑)。女だからとか看護師だからという理由で意思決定権がないのはおかしいと思っていました。
当時は大統領直属だったFEMA(連邦緊急事態管理庁)という組織がありました。専門家集団で、平時から災害があったときにはどう動けばいいか、災害に備えてどんな準備をすればいいかをサポートしています。もちろん、災害があったときにはとても重要な働きをする組織です。
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
ありがとうございます。御庭番のシリーズでも、主人公が中国医学を学ぶようになるので、これからは氣の話がたくさん出てくる予定です。
そうでしょうね。私どもがやっている真氣光研修講座に参加される方でも、氣を集中的に受けることで、霊的な感覚が鋭くなる人がいます。
古くから一緒に仕事をしていた編集者にすすめられたのが直接のきっかけですが、基本的に歴史は好きでしたね。中学校のときには日本史部の部長をやっていましたし、それと並行して友だちと超心理研究会を作ってテレパシーの実験なんかをやっていました(笑)。
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
原発の怖さを知っているかどうかじゃないでしょうか。私は、大飯(おおい)原発の裁判が始まったとき、「私は、原発が危険かどうかで決めます」と明言しました。
よくないですよ。多くの人が、原発はものすごく丈夫に作られている。どんな地震だって耐えられると思っているのではないでしょうか。でも、そんなことはありません。