6月「吉田 明生」さん
吉田 明生(よしだ・あきお)さん
一般社団法人災害防止研究所代表理事。1977 年防衛大学卒業。元陸上 自衛隊第11旅団長、元ゆうちょ銀行社長特命担当顧問。2020年3月に退 職 。 一 般 社 団 法 人 災 害 防 止 研 究 所 を 設 立 。 著 書「 ま ぁ る い 日 本 ~ リ ー ダ ー シップの時代【人を動かす】』『まぁるい日本究極の戦い究極守り』『しなやかで まぁるい心のつくり方』など。<a href="http://saibouken.or.jp">法人災害防止研究所</a>
『災害によって培われてきた日本人のメンタリティを大切にする』
防災グッズは日常的に防災を考えるためのツールになる
- 中川:
- 東日本大震災から 年がたちますが、相変わらず地震は多いし、この間はトルコ・シリア大地震がありました。豪雨の被害も毎年出ています。多くの人が災害に対してとても敏感になっています。 吉田さんが代表理事をやられている災害防止研究所の災害へのアプローチの仕方はとてもユニークだと思います。たとえば、防災グッズ展というのを開催されて、防災グッズ大賞を選ぶなど、防災を身近に感じられるように工夫されているような気がします。
- 吉田:
- ありがとうございます。防災グッズ展は防災意識を普及するにはどうしたらいいか、みんなで考えて出てきたアイデアです。 防災の重要性はだれもがわかっていると思います。しかし、教訓ばかりでは聞く方もあきてしまうのではないでしょうか。多くの人が興味をもってくれて、楽しみもあって、長く続くものはないかということで防災グッズに目をつけました。
- 中川:
-
災害はないに越したことはありませんが、起こることを前提に準備した方がいいと思います。どんな防災グッズがあるかを調べて、これは使えると思うものをそろえておくといいですね。
- 吉田:
-
防災グッズは日常では体験することのない酷な環境で使うもので、これまでの災害を踏まえた上での創意工夫がなされています。そういう意味で、災害の教訓が集約されているのが防災グッズだと思うんですね。
防災グッズを手に取ったときには、どうやって使うのかイメージするわけです。あるいは、どういう状況なのか想像すると思うのです。防災防災と言わなくても、地震があるとこんなことに注意しないといけないと、意識が防災に向くと思います。
日常的に防災意識を普及するためのツールとして防災グッズという切り口は面白いのでは? というのが、防災グッズ展、防災グッズ大賞を始めた理由です。 - 中川:
-
今年も4月1日からエントリーが始まっているようですね。企業や個人からたくさん集まってくるそうですが、吉田さんたちも探したりするのですか。
- 吉田:
- 最初の年は、モノマガジン社さんが協力してくれました。防災グッズを取り扱った日本で最初の雑誌ですね。モノマガジンにさまざまな防災グッズが掲載されているので、10数年のバックナンバーからリストを作って、それをベースにして選びました。今は、ネットに出ていますので、応募してくださる企業や個人の方々の商品にプラスして、面白い防災グッズがないか探しています。防災グッズはまだマーケットが小さくて、大きな会社で開発していても、一セクションでやっている程度です。特徴のあるのは小さなメーカーが作っているものが多いですが、営業力が無かったりして、すぐれた防災グッズが世間に知られないまま埋もれていたりします。災害があったときには防災グッズは欠かせません。それがあったことで命が助かる方もいるでしょう。防災グッズ展や防災グッズ大賞を通して、防災グッズがもっと注目されればと願っています。
- 中川:
-
吉田さんはもともと陸上自衛隊に勤務されていたそうですね。どうして災害防止研究所を立ち上げようと思われたのですか。
- 吉田:
- 東日本大震災があったときに、友だちが「自衛隊が終わったら防災の仕事をしたらどうだ」と言ってくれました。 防災の大切さはわかっていましたが、そのときには自分で取り組もうとは思いませんでした。その後、ゆうちょ銀行に勤め、6~7年たったころにふと浮かんだのが、先ほどの友だちの言葉で、防災のことをあれこれ考え始めました。 防災のことはたくさんの人がやっているので、私の出る幕などないように思っていましたが、災害というのは自然災害ばかりではなく、戦争やテロといった人為的なものも入りますし、事件や事故も災害ですし、最近は地球温暖化が大きな問題になっています。 そう考えると、これからはもっと災害が増える時代がやってくるのではないかと思いました。防災というのを幅広くとらえて、さらにメンタルな面まで踏み込んで災害を防止するということなら、長く自衛隊で働いていた自分にも経験を活かせるかもしれないと思って、この団体を立ち上げました。
- 中川:
-
吉田さんのご著書を読ませていただきましたが、メンタルな面に力を入れている印象がありました。 メンタルは大事だと思います。いきなり災害に見舞われれば、だれもがパニックになってしまいます。そのために被害が大きくなったりします。日ごろから冷静に頭の中で考える訓練をしておくことも大切ですね。
- 吉田:
- 自衛隊というのは危機管理が主な仕事です。最悪の事態を想定して、危機にどう対処するのかを常に考えてきました。そうした経験や知識が少しは役に立つのではないかと思いました。<後略>
東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

人と話すのは苦手だけどけっこう目立ちたがり屋なんです(笑)。 実際やってみると、見ず知らずの人に声をかけるのは怖かったし、戸惑いました。それでも、珍しさや懐かしさから、商店街のおじさんやおばさんが「がんばっているね」とほめてくれたり、みなさんニコニコしながらお豆腐やお惣菜を買ってくれてうれしかったです。 このころは、どうやったら売れるだろうと一生懸命に考えていて、まだ20代でしたから、かわいい仕草をするとおじさんたちが買ってくれたりしました(笑)。 でも、「かわいそうだから買ってあげるよ」とよく言われることがあって、それには反発を感じましたね。
打算的な付き合いから、心と心のかかわりができるようになったんでしょうね。自分が変わるとまわりが変わるとよく言いますからね。 お客さんはうれしいから「ありがとう」と言うし、あこさんも「ありがとう」と言われてうれしい。相互に「ありがとう」のやり取りがある。いい氣が行ったり来たりしていますね。いい関係ですよ。
私が音楽療法を研究し始めたのが、1980年代後半です。その当時、日本では音楽を聴くと免疫力が上がると言っても、変人扱いですよ(笑)。「音楽で病気が治るはずがないよ」というのがほとんどの人の反応でしたね。 けれど、学会ではデータに基づくエビデンスを示して発表しているわけです。協力してくれた看護師や学生が証人としていますから、文句を言われることはありません。それでやっと着目されるようになりました。
健康保険制度が破綻し、年金も当てにできない。病気になってなんかいられませんよ。音楽は身近で安価で副作用がないじゃないですか。感動もあって継続が可能。それで免疫力が上がるわけです。最高のツールです。<後略> 
最初の出あいは小学校5年生のときです。夏休みの宿題で近くの動物園でお手伝いをすることになり、私がシロクマの担当になりました。シロクマのエサを作ったりしてお世話をしたのですが、このとき大人になったら野生のシロクマを見に行くぞと思いました。
英語もできないし、外国は怖いところだと思っていましたので、海外へ旅行に行こうと思ったことはありませんでした。でも、ペンギンにあえるのですから、そんなこと言っていられません。 
私もいろいろなお客さんを乗せました。タクシーの運転手は、人間観察もできたし、合気道のいいトレーニングにもなりました。呼吸によって相手の意識と自分の意識を結びます。そうすると、お客さんがどんな人かがよくわかるし、私と一体化しますから、イライラしていた人もご機嫌になります。行先を聞く前にどこへ行くかがわかるようなこともあります。私の車に乗ると気分が良くなると、銀座のママさんがファンになってくれて、たくさんのお客さんを紹介してくれたこともあります。
あちらの世界から開祖が教えてくれているんでしょうね。やっとわかったかとおっしゃっているのではないでしょうか。
先日、『原発をとめた裁判長そして原発をとめる農家たち』という映画を見ました。映画の中に、原発事故で一度は農業をあきらめた福島の農家の人たちが、ソーラーシェアリングという太陽光発電で電力を自分たちで作るという場面があって、こういうシステムがあるんだと驚きました。長島先生はソーラーシェアリングの開発者で、映画でもコメントされていました。今日は、ソーラーシェアリングについてお聞きしたいと思っています
ソーラーシェアリングというのは、田んぼや畑に3メートルほどの支柱を立て、その上に適度な間隔でソーラーパネルを並べて発電をするという方法です。発電をするという方法です。 従来の太陽光発電だと、山を削ったり、田畑を使えなくしてしまうので、自然エネルギーと言っても、どこか自然破壊をしているようなイメージがありました。だけど、ソーラーシェアリングだと、下は農地として使えますから、耕作放棄地を発電と農地の両方に活用できるということですよね。
そもそも大きな発電所を作ってみんなに配るという考え方を変える必要があります。もともと発電所は大きく作る方が発電の効率が上がりコストが下がります。だから、ずっと電力会社の仕事として評価されてきました。 今は太陽光発電を使えば、だれでも電力会社と同じように効率よく電気が作れます。まさにエネルギーの民主化と言えるでしょう。電力料金の中に原子力維持や超高圧の送電網の負担金も均一に分担される仕組みになっていますが、これは、お酒が飲めないのに宴会の飲み放題の参加費を払っているようなものだったのです。これからは、必要なときに必要な分だけ自分で作ることができる時代が到来するでしょう。北海道で地震による大規模停電がありました。大きな発電所に依存していたから、発電所に異常が起こったことで、あんな大事に至ったのです。各家庭で電気を作っていれば、あれほどの大騒ぎにはならなかったのではないでしょうか。<後略>
25年くらい前ですね。その当時、私は子育てをしながら、東洋医学の資格を取得して、体の治療とカウンセリングをしていました。7年間、毎週通ってくれている女性がいました。その方は、40歳になっていましたが独身で、自宅で編集の仕事をしていました。人との付き合いもほとんどなく、自分はこの先どうなるのだろうと心配していました。私は意識教育研究所でやっていた内観のセミナーに彼女を送り込みました。そしたら、一週間でがらっと変わって帰ってきました。今までずっと会ってなかった親に20年ぶりに会いに行けたり、兄弟とも行き来するようになりました。結婚もして子どももできました。あのままだったら、天涯孤独だったのに、想像もできないような明るい人生が開けてきたのです。その後もクライアントを研修に送り、みなさんとても元気になられました。私は、もちろん内観のことは知っていましたが、自分は特に問題を抱えているわけでもないし、年を取ってから受ければいいやと思っていました。
心と体は連動しているんでしょうね。真氣光でも氣を受けていろいろな気づきがあると、体調も良くなっていくという人がいます。真氣光研修講座では、石井先生に内観の講義をしていただいていますが、親をはじめまわりの人にどれだけお世話になり、迷惑をかけたか気づけたという受講生の方はたくさんいますね。新型コロナウイルスの影響もあるかと思いますが、人間関係が非常に希薄になって、自分さえ良ければいいと思ったり、自分のことを顧みずに人を責めたりする人が多くなっているような気がします。私は、マイナスの氣の影響を受けてそうなっているように感じています。氣を受けてマイナスの氣がとれていくと、まわりへの感謝の気持ちが出てきます。感謝の気持ちが大きくなれば、光が増えますから、マイナスの氣は減っていって、プラスの氣が増え、ますます感謝の気持ちが出てくるんですね。そういう人は幸せになれます。いくら物質的に恵まれていても、感謝の気持ちがないと幸せは遠ざかっていきます。真氣光は氣を通して、たくさんの人が幸せになるためのお手伝いをするのが役割だと思っています。
先生は下田の真氣光研修講座に参加されたのですが、その前の話ですか。 
ここ3年は、新型コロナウイルスの影響で桑原先生とはオンラインでしかお会いできません。先代の時代から先生はボストンでセミナーを開いてくださっていて、私も毎年ボストンへうかがっていました。
3年前に会長がボストンに来られたとき、すばらしいものを作っていただきました。私は真氣光ぺろぺろキャンディと呼んでいるのですが、氣グッズであるディスクヘッドに鍼灸で使うてい鍼という鍼をくっつけてもらったんですね。てい鍼というのは先端が丸くなっていて、刺さない鍼灸治療に使います。これがいいんですよ。
てい鍼の頭の部分にネジを切っただけです。ディスクヘッドの枠にあるネジ穴とサイズがぴったりでした。これには驚きました。使っていただいているんですね。 
商品に合わせて声が決まるんですね。
いやいや、私はあまり得意じゃなかったですから(笑)。 
原発問題には興味をもっている方たちが読んでくださっています。原発の危険性は多くの人がわかっていると思います。でも、原発を止めてしまって電力は大丈夫なのだろうかという心配もあるわけです。この映画は、みなさんが原発のことを知り、これからどうしたらいいかを考える上で、とても参考になると思います。樋口さんのお話でびっくりしたのは、原発の耐震性が普通の住宅より低いということです。確かに、原発の建屋は頑丈に作られているかもしれませんが、揺れで配管が壊れたら大事故につながる危険があるわけです。なのに、原発の建っているところには大きな地震はこないという、エッと驚くような前提で原発が作られてきたわけですよね。そういうことを知ることから始めないといけないと、映画を見ながら感じました。
脱原発しないといけないと思っている人の数が、ぼくの感覚でいうと2017年くらいから伸びていないような気がするんですね。福島第一原発での事故の記憶が薄れている人もいるし、まあ大丈夫なんじゃないかという気持ちになった人もあると思うんですね。だから、原発の問題点ばかりをテーマにしても、これまでそういう映画を見たことのある人しか見てくれないのではと思いました。だから、すぐに「やりましょう」と言えなかったんです。