ハイゲンキ - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光 - Page 6

「氣」の無料体験

最寄りのセンターやご自宅から
オンラインでもご参加可能です

ご予約はこちら
電話 「氣」無料体験のご予約はこちら

10月「Satoko」さん

Satoko

Satoko(さとこ)さん

大阪府堺市生まれ。フリーランスの作曲家として活躍していたときに、子宮頸がん、慢性骨髄性白血病であることが判明。闘病中に生まれた『宮古の風』でシンガーソングライターとしてデビュー。全国各地で行うコンサートのほか、がん患者さんや難病の子どもたちに笑顔と元気を届ける活動に励んでいる(コロナで休止中)。

『大きな力に動かされての音楽活動。 私の「神様の仕事」』

音楽には 瞬時に場のエネルギーを変える力があります

中川:
シンガーソングライターのSatokoさんのご自宅兼仕事場におうかがいしました。お部屋にはどーんとグランドピアノ。ギターやキーボードもありますね。壁には変わった楽器がかけられていますが、どこかの国の民族楽器ですか。
Satoko:
暑い中、わざわざお越しいただきありがとうございます。
壁にかかった楽器は、ブラジルとかメキシコのものです。タンバリンみたいなのがパンデイロといって、サンバやボサノヴァで使われるブラジルの楽器ですね。
民族や文化によって、楽器も違うし、奏でるリズムも違うのが面白くて集めています。
日本人は農耕民族のリズムです。沈む感じですね。お相撲さんが四股を踏むじゃないですか。ああいう重厚なリズムかな。
ブラジルだと浮き上がるようなリズムです。陽気で軽やか。まったく逆のリズム感をもっているんです。
たとえば、踏切の警報音、どんなふうに聞こえますか?
中川:
カーンカーンカーンですか。
Satoko:
そうですよね。日本人にはそう聞こえるのですが、ブラジル人は違うみたいなんです。
中川:
どう違うんでしょう。
Satoko:
ンーカンーカンーカって、日本人とは逆の聞こえ方みたいなんですね。それが音楽にも影響を与えているのではないかと思います。
中川:
へえー。初めて聞きました。確かに、カーンカーンカーンは沈むようだし、ンーカンーカンーカになると、浮き上がるような感じがしますね。
Satoko:
音楽には場の雰囲気を変える力があります。空気がどよーんと淀んでいるときには、サンバとかボサノヴァを流してみるといいですよ。さっきまで落ち込んでいたのに、音楽がかかった途端に踊り出したくなってしまいますから(笑)。
今は新型コロナウイルスでみなさん沈みがちです。でも、陽気な音楽を聴くと体が勝手に反応して、音楽を聴いているときくらいは、重い気持ちから解放されるじゃないですか。
中川:
なるほど。演歌とボサノヴァでは場の雰囲気がまったく違いますよね。クラシックにはクラシックの雰囲気があるし。それが音楽の力ですね。
Satoko:
私は、障がいがあったり、難病で体が動かせない人と一緒に音楽をやることがよくあります。彼らは海外旅行に行けないけれども、思考が豊かなので、音楽を聴きながら、意識の中で世界を旅するのです。ボサノヴァやサンバを聴くと、彼らはブラジルのあの陽気な人たちと踊っている気持ちになれるみたいなのです。
中川:
音楽で世界旅行ですか。なかなかない発想ですね。
Satoko:
会長はさっき、音楽の力とおっしゃいましたが、音楽にはある種のエネルギーがあると思うんですね。そのエネルギーに聴く人の意識が反応して、想像の中で世界を旅することができるのではないでしょうか。
特に民族楽器は、もともとは祈りのために作られたもので、エネルギーが強いように思います。
中川:
祈りですか。
Satoko:
多くの場合、雨乞いですね。水不足は命の危機に直結しますから、必死で祈ります。その願いを天に届ける手段のひとつが楽器だったのではないでしょうか。
多くの人が一斉に太鼓をたたくと、雨雲が広がって猛烈な雷雨になるのを体験したことがあります
中川:
雨乞いというのは、単なる迷信や気休めではなく、何か目に見えないエネルギーが作用して雨をもたらせることもあるのだと思います。
私はその目に見えないエネルギーを氣と呼んでいます。想いや意識が現実を作ると言いますが、私もそうだと思います。雨を降らせてほしいという強い願いが氣となって広がり、宇宙のエネルギーと共振して、現実に雨を降らせることもあると思います。
Satoko:
わあ、うれしいことを言ってくださって感動です。
このグランドピアノ、大屋根を開けてみますね。弦が並んでいるでしょ。こうやって見るとピアノが弦楽器だってわかるんですね。
会長、弦に向かって大きな声で「あー」と言ってみてくれますか。
中川:
あー!
Satoko:
どうですか?
中川:
声が響きますね。
Satoko:
そうでしょ。会長の声と同じ周波数の弦が共振現象を起こしているんですね。面白いでしょ。さっき会長が宇宙のエネルギーと共振するっておっしゃったじゃないですか。今は会長の声とピアノの弦との共振でしたが、雨が降ってほしいという想いが会長の声で、宇宙のエネルギーというのがピアノの弦じゃないでしょうか。
自分が強く発した想いは波動となって宇宙に広がって、同じ波長のエネルギーを響かせるのだと思うんですね。
実は、私は個人レッスンもやっていますが、こんな実験のようなことをして、意識や想いは大切ですよという話もしています。

<後略>

2020年8月24日 東京都西東京市のSatokoさんのご自宅にて 構成/小原田泰久

メディアの紹介

SatokoさんのCD「Flower of Life」、「宮古の風」、「みどりの風」

           

9月「関野 幸生」さん

関野幸生

関野 幸生(せきの・ゆきお)さん

1971年埼玉県生まれ。30歳で家業である農業を継ぐ。4年目から無農薬・無肥料による自然栽培を始める。1町歩の畑で野菜を栽培しつつ、各地で自然栽培の指導や講習・講演を行っている。著書に『固定種野菜の種と育て方』(野口勲氏との共著・創森社)『とっておきの野菜づくり』(渋谷正和氏との共著・成美堂出版)がある。

『無農薬・無肥料・自家採種で生命力のある野菜を作る』

肥料をやり過ぎると病気にもなりやすくなり虫が集まってくる

中川:
関野さんが書かれた『とっておきの野菜づくり』(成美堂出版)という本を読ませていただきました。写真がたくさんあって、私のように農業には不案内な者でも、ダイコンやニンジンはこうやって作るんだとイメージすることができます。どんな虫がつくかも書かれていて、農業をやろうという人にはすごく参考になりますね。
関野:
ありがとうございます。渋谷正和さんという長く有機栽培をしている方と一緒にまとめたものです。編集者の方も農業をやっていたので、とても力を入れて作ってくれました。でも、絶版になると連絡がありまして、とても残念です。
中川:
絶版ですか。残念ですね。これを一冊もっていると農業はやりやすいと思います。私は、これからは農業がとても大切になってくると思います。特に、関野さんがやっておられる自然栽培は、健康の問題、環境の問題にもかかわるということで、ますます注目されるのではないでしょうか。
関野:
農薬も肥料も使わない自然栽培を始めて16年になりますが、始めたころはなかなか理解してもらえませんでした。みなさん、肥料なしで野菜ができるはずがないという先入観があって、有機栽培ならわかるけれども、自然栽培は無理だろうと言われました。
ところが何年か続けているうちに興味をもってくれる人が出てきて、インターネットで仲間ができたり、扱ってくれるお店や飲食店が増えてきました。奇跡のリンゴの木村秋則さんが本や映画で話題になったのも追い風でしたね。
中川:
野菜を作ればそれだけ土地の養分が減ると考えますよね。減った分、肥料で補わないといけないというのが普通の考え方なのでしょうね。関野さんの家はもともと農家だったのですか。
関野:
私が4代目です。地主ではなく小作でたくさんの畑があったわけではありませんでした。父も、それほど一生懸命に農業をやっていた人ではなかったですし。
私は、車の整備士をやっていて、30歳になったのをきっかけに農業を継ぎました。祖父が種のまき方、収穫の方法、出荷の仕方など、基本的なことを教えてくれました。祖父が教えてくれたのは、農薬も化学肥料も使う普通の農業です。私は、農薬は使いたくないと思っていたので、2年目から無農薬にして、肥料は試行錯誤しながら使っていましたが、4年目からは農薬も肥料も使わない自然栽培を始め、16年がたちました。
中川:
今、どれくらいの広さの畑をやっておられるのですか。
関野:
最近3反ほど借りて、1町になりました(1反は約1 0 0 0 ㎡。一町は約1 万㎡)。40種類ほどの作物を、基本的には妻と2人で作っています。たまに研修という形でお手伝いに来てくれる方もいます。
中川:
自然栽培については、木村秋則さんや川口由一さんら大御所にもお話をお聞きしたことがあって、ずっと興味をもっていましたが、彼らもとても苦労をしてやり遂げています。関野さんもご苦労はあったのではないでしょうか。
関野:
農薬をやめたとき、私の畑は住宅街にあったので、虫なんかこないだろうと思っていました。ところが、どこからともなくやってくるんですね。そして、葉っぱを食べてしまいました。虫食いの野菜は出荷なんかできないですよ。
そのときに、農薬を使わずに栽培するには知識も経験も必要だと痛感し、本を買って独学で無農薬栽培のやり方を模索しました。『野菜づくりと施肥』(農文協)という本がすごく参考になりました。そこには肥料をやり過ぎると良くないと書かれていました。ネットを見ると、肥料を使わずに野菜を作る方法があると知り、半信半疑でしたが始めてみました。
試行錯誤の連続で、何となく行けると思ったのが7年目。8年目からは、だいたいの作物が無肥料でも育つようになりました。ピーマンなんかはいまだに苦戦していますけどね。
中川:
肥料をやり過ぎるのは良くないんですね。
関野:
人間でも朝昼晩とお腹いっぱいご飯を食べると体調を崩すじゃないですか。食べ過ぎて病気になっている人はたくさんいます。どんな生き物も食べ過ぎは良くないのではないでしょうか。
中川:
肥料をたくさんあげれば大きくて立派な野菜ができるように思ってしまいますけどね。
関野:
肥料をたくさん入れれば野菜は大きくなりますが、言ってみれば、メタボの野菜です。ダイコンをおろすと水ばっかりじゃないですか。水膨れなんですよ。自然栽培のダイコンは、おろしても綿みたいにフワッとしています。キュウリもそうですが、肥料で大きくなっても、水を食べているようなものです。
中川:
肥料をあげると病害虫も多くなるんですね。
関野:
植物には細胞膜の外に細胞壁があります。肥料をあげると、細胞壁が薄くなってしまうことがわかっています。それに細胞同士の結びつきも弱くなります。そのために病気にかかりやすくなります。不健康な野菜だと、虫も集まってきます。

<後略>

著書の紹介

「とっておきの野菜づくり」 関野 幸生、渋谷正和(共著) 成美堂出版

           

8月「川嶋 朗」さん

川嶋朗

川嶋 朗(かわしま・あきら)さん

1957年東京都生まれ。東京有明医療大学保健医療学部鍼灸学科教授・医学博士。北海道大学医学部卒業後、東京女子医科大学入局。ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院、東京女子医科大学附属青山自然医療研究所クリニック所長などを経て2014年から現職。『医者が教える 人が死ぬときに後悔する34のリスト』(角川SSC新書)『代替療法で難病に挑む』(ペガサス)『難病に挑むエネルギー療法』(幻冬舎)など著書多数。

『新型コロナウイルスを教訓に、医者も患者ももっと賢くなろう』

死ぬということに限れば、新型コロナウイルスは怖がらなくていい

中川:
ご無沙汰しています。新型コロナウイルス(以下コロナ)で世界中が大騒ぎになっていますので、お忙しいとは思いましたが、先生はこの騒ぎをどう考えておられるのかお聞きしたくてうかがいました。
川嶋:
うちもそうですけど、どこの医療機関も今は暇ですよ(笑)。みなさん外へ出るのを怖がっているんでしょうね。医者へ行くのは不要不急だってことですよね(笑)。最初は、今までにないルスだったのでどうしていいかわからず右往左往していた感がありましたが、時間がたってかなりのことがわかってきました。
まずわかったのは、コロナに感染したら死んでしまうという恐怖はあまりもたなくていいということです。毎年流行するインフルエンザですが、去年も一昨年も、1月2月の2ヶ月間で2000人ほどが亡くなりました。インフルエンザ関連で亡くなった人は、年間では1万人はいますよ。それと比較してコロナによる死者は1000人弱です。
中川:
新型ということで、不安ばかりが広がった感じがしますね。テレビでも不安をあおるような報道が多いですしね。
川嶋:
死ぬということに限って言えば日本では怖がらなくていいと思います。今年はインフルエンザがすごく少ないと思いませんか。去年も一昨年もワクチンや薬があって、先ほど申し上げたようにたくさんの死者が出ています。今年はインフルエンザによる死者が減っています。コロナに感染したくなくて、みなさんが予防したからインフルエンザも少なくてすんでいるのではないでしょうか。
手洗い、うがいをきちんとして、濃厚接触を避ければインフルエンザもコロナもかなり予防ができるということがわかりましたよね。マスコミにはそのことをもっと言ってほしいです。
中川:
そういう報道があれば、みなさん安心しますよね。
川嶋:
社会は安全ではなく安心を求めますからね。インフルエンザはワクチンや薬があるからたくさん亡くなっていても安心していられます。コロナは死者数は少なくても治療法がないから安心ができない。だから大騒ぎするんでしょうね。
中川:
安心できないと不安が募って冷静に考えられなくなるんでしょうね。
川嶋:
熱が出たからと大慌てで来院した患者さんがいました。PCR検査を受けたいって言うんですね。だけど、コロナの場合、指定感染症になっていますから、もし陽性という結果が出たら少なくとも2週間は隔離されます。それでもいいんですか? と聞きますと、やっぱりやめると言って帰って行かれました。コロナを指定感染症にしてしまったから、まったく症状がなくてもPCR検査で陽性になると隔離になります。軽症患者で病院のベッドがふさがると、重症患者を入れられなくなってしまいます。
私には、WHOがなぜこんなにも大騒ぎしたのかわかりません。死亡者の数からしてもがんや心臓病や脳血管障害の方が圧倒的に多いじゃないですか。それに、8割は重症化せず治っているんですよ。何をこんなに大騒ぎしたんでしょうね。
亡くなった方も骨になるまで帰れないじゃないですか。亡くなって、棺桶の中であれば、接触感染も飛沫感染もないと思うんですけど。よくわからないですね。
中川:
用心するに越したことはありませんが、亡くなった方とお別れできないほどの警戒をしないといけないのか、そこは冷静にリードしてほしいと思いますね。
川嶋:
万が一コロナに一人でも感染すると問題になるからでしょうか。責任逃れの極みです。もう一度言いますが、日本では死ぬということに限って言えばコロナを怖がる必要はありません。
お風呂でおぼれ死ぬ人が年間4~5000人います。コロナで亡くなる人の4~5倍です。コロナが怖いと言う人に聞いてみたくなります。毎日、溺れる心配をしながらお風呂へ入りますかって。そんな人いないでしょ。コロナで死ぬのは、お風呂で溺れるよりも低い確率ですから、お風呂で溺れるなんてありえないと思っている方は、コロナで死ぬことはもっとありえないことになります。
予防すれば感染も非常に少ないこともわかっているわけですから、密集を避け、手洗いをしっかりとやっていればいいと思います。

<後略>

2020年6月5日 東京都渋谷区・東洋医学研究所附属クリニックにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「難病に挑むエネルギー療法」 川嶋 朗(著) 幻冬舎

           

7月「西本 真司」さん

西本真司

西本 真司(にしもと・しんじ)さん

1961 年和歌山県生まれ。近畿大学医学部卒業。熊本大学医学部附属病院 麻酔科などを経て、1996 年西本第 2 クリニックを開業。2006年に西本クリニックと西本第 2 クリニックを統合し、西本クリニックの院長に。自らの闘病体験を生かしたホリスティックな医療を実践している。著書に『潰瘍性大腸炎が治る本』「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」(マキノ出版)な どがある。

『統合医療、ホリスティック医療でコロナウイルスを乗り切る』

コロナウイルスで亡くなる人は家族に看取られずに旅立つ

中川:
新型コロナウイルスの関係で外出を自粛しないといけないので、会社の会議や真氣光研修講座、セッションもオンラインでやっています。 今日の対談もオンラインということでよろしくお願いしま す。前回、先生が対談に出てくださったのは2015年6月号でした。ちょうど5年前です。
西本:
5年前はわざわざクリニックまで来ていただき、ありがとうございました。患者さんたちも会長から氣の話を
中川:
新型コロナウイルス、和歌山はいかがですか。
西本:
和歌山では2月の半ばにクラスターが発生しましたが、感染症の専門医や県が早急に情報を集め、適切な対応をしたことで、感染の広がりを防ぐことができました。今はとても安定しています。
中川:
世界中で大騒ぎになっていますが、日本は比較的成績がいいと思うのですが。
西本:
いいと思いますよ。亡くなった人は本当にお気の毒ですが、統計から見れば、人口100万人当たりの死亡率は金メダル級じゃないでしょうか。もうちょっと胸を張ってもいいのではと思います。
中川:
新型コロナウイルスは未知のウイルスということで警戒が必要だとは思うのですが、私たちのまわりには常にウイルスはいるわけですよね。
西本:
ウイルスや細菌は約38憶年も前から地球にいます。人類の祖先が地球に出現したのは500万年とか600万年前のことです。
中川:
そんなに昔からいたのですか。大先輩なのだから、一方的に悪者扱いするのは良くないですね。
西本:
共存することが大切だと思います。
私は1990 年、麻酔科医になって2年目の暮れ、潰瘍性大腸炎を発症し、大腸全体に炎症が起こる「全大腸炎型」と診断されました。99・999パーセント治らないと言われ、落ち込みました。当時は、一日に40回以上の下痢に悩まされていましたね。生死の境をさまよったこともありました。
7年間、良くなったと思ったら悪化するといった状態を繰り返しました。そのときに真氣光を知って、真氣光研修講座、当時は氣功師養成講座という名前でしたが、そこにも参加しました。
潰瘍性大腸炎になったことで、腸内の環境についてずいぶんと勉強し、人間が健康に生きるためには腸内細菌はなくてはならない存在だということもわかりました。細菌を悪者だと決めつけて体内から排除すると人間は健康ではいられなくなります。きちんと共存できているからこそ、人間も細菌も生きていけます。ウイルスも同じで、お互いに助け合う関係にあるはずです。上手に折り合いをつけながら付き合っていくことが大切です。
中川:
西洋医学的な考えだと、どうしてもウイルスや細菌を殺してしまうという発想になりますからね。もちろん、ウイルスがあまりにも広がり過ぎれば、そういう処置が必要なこともあるのでしょうが、根本は自分自身の免疫力
を高めることだと思います。
西本:
西洋医学を否定するわけではありませんが、こういうときこそ、東洋医学とか代替療法、統合医療、ホリスティック医療にも目を向ける必要があると思います。
私は、病気の治療というのは「Body(体)」「Mind(心)」「Spirit(魂)」のすべてにアプローチしないといけないと考えています。西洋医学は基本的にはBodyを対象にします。Mindは、ほんの少し、Spiritには手が回りません。
コロナウイルスのことで言えば、看取りのときに家族は何もできません。ずっとお世話になったおじいちゃんやおばあちゃんに別れも言えず、骨になってから家に帰ってくるというのはどうでしょう。亡くなった方も遺族の方もつらいだろうと思いますよ。MindやSpiritの部分でのケアが必要な場合もあります。
中川:
新型コロナウイルスで亡くなった芸能人の方が、お葬式もできず、骨になって自宅へ帰ってきたというニュースを見ました。ご家族のことを思うと胸が痛みました。
西本:
感染症は危険度によって5段階に分類されています。エボラ出血熱やペストなどが1類、ポリオや結核、SARSなどは2類。新型コロナウイルスも2類です。1類と2類は危険度の高い感染症ということで、隔離が必要です。ですから、1類2類の感染症で入院すると、だれもお見舞いに行けないし、亡くなれば家族に会えるのは骨になってからという悲しいことになってしまいます。新型コロナウイルスが、3類以下になればきちんとお別れができます。そうなるといいのですが。
新型コロナウイルスがどれくらい危険かを、さらに検証して、看取りというところでも、悲しみを減らす方向に進んでくれるといいと思います。
私は、ご家族が亡くなったときのご遺族の心のあり様とか、亡くなった人の魂はどうなのかといったことまで考える医療が大事だと思っています。

<後略>

5月14日 エスエーエス本社と西本クリニックをZOOMでつないでの対談 構成/小原田泰久

著書の紹介

小林正観さんの「奇跡のセイカン」 (生まれてきた本当の意味がわかる本) 西本真司(著) マキノ出版

           

5月「辻 信一」さん

辻信一

辻 信一(つじ・しんいち)さん

1952年生まれ。文化人類学者。明治学院大学国際学部元教授。ナマケモノ倶楽部世話人。環境=文化運動家として「キャンドルナイト」、「スローライフ」、「GNH」「しあわせの経済」などのキャンペーンを展開してきた。著書に『弱虫でいいんだよ』(ちくまプリマ―新書)『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)『よきことはカタツムリのように』(春秋社)『アジアの叡智(DVDブックシリーズ)』(SOKEI)など。

『スロー、スモール、シンプルで危機を乗り越える』

もう一度、われわれの文化を見直すことが大切

中川:
先生の書かれた『よきことはカタツムリのように』(春秋社)という本を読ませていただきました。先生は20年以上も前から、スローな生活にシフトチェンジしたほうがいいと唱えておられます。
速いこと、強いこと、大きいことがいいとされる中で、スローライフと言ってもなかなか受け入れてもらえなかったと思います。2011年に東日本大震災、福島第一原発の事故があって、人の意識も少しは変わったと思いますが、今、新型コロナウイルスが世界中にパニックを引き起こしている中で、改めて先生のおっしゃっていることはとても大切だと感じました。
何がスローライフを提唱するきっかけになったのでしょうか。
辻:
スローライフという考え方のベースは自然生態系と調和した生き方ですが、そこに導かれていったのはやはり環境問題にぶつかったからです。ぼくは1977年から10数年間、カナダやアメリカで暮らしました。大自然の中でよくキャンプをしたこともありますが、インディアンと呼ばれる先住民族の人々に出会ったこと、また日系カナダ人の生物学者、デヴィッド・スズキとの出会いも大きかったですね。
彼は、ただ研究室にこもって遺伝学を研究するだけではなく、積極的に外へ出て、生態や環境が破壊されている現状を自分の目で見て、それをメディアを通して世界に発信してきた人です。カナダの公共放送CBCテレビの自然番組「ネイチャー・オブ・シングス」シリーズは、1979年に始まり、もう40年以上も続く人気長寿番組ですが、その中心人物がデヴィッドです。彼との出会いがきっかけになって、ぼくも環境運動に取り組むことになったのだと思います。
中川:
先生のご専門は文化人類学ですよね。
辻:
文化人類学の中でも、文化と自然、文化と環境問題の関係をテーマにしてきました。文化と環境とを別々のものだと考えないことが重要だと思っています。
中川:
今、環境破壊が世界中で問題になっていますが、文化と切り離しては考えられないということでしょうか。
辻:
文化というのは、人間が特定の生態系の中で生きてゆく上で、その生き方を律する土台、枠組みとしてあるはずなんですね。何百年、何千年もの試行錯誤の末に出来上がったその枠組みの中で、していいことやいけないことを学びながら生活してきたわけです。
でも現代は、どうでしょう。文化的な制約を取り払ってしまって、もう制御がきかなくなっていませんか。自分たちが生存の基盤である地球とその生態系が壊されつつあるというのに、ま、お金のためだから、経済のためだから仕方がないと言っている。科学技術を動員して、人間が自然界を徹底的にいじくりまわし、改造し、痛めつけてきたせいで、自然界は疲弊し、混乱している。その結果さまざまな問題が発生している。
文化という枠組みがなくなり、人々は限りなく自己の利益を最大化する自由を得た、その結果が環境破壊です。環境問題を何とかするには、もう一度、文化的な存在としての自分を思い出すことじゃないか。自分にとって幸せとは何か、生きがいは何か、本当に大切なことは何か、人生の意味は何か・・・。これらはどれも文化的な問いです。
歴史を振り返ったり、伝統から学ぶことも大切ですし、まだ世界のあちこちに、伝統的な価値観や世界観を今に伝えている先住民族の文化から学ぶこともできます。
中川:
これまでの人類の歴史を振り返っても、こんな時代はなかったのではないでしょうか。現代は科学技術が発達して、生活がとても便利になっていますが、科学技術だけでは環境問題は解決できそうにありませんね。
辻:
ぼくたちは画期的な時代に生きているのだと思いますよ(笑)。
有名なアインシュタインはこんなことを言っています。
「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセットのままで、その問題を解決することはできない」
マインドセットというのは人の行動や思考を左右する心の習慣のことです。科学技術というマインドセットによってここまで環境が破壊されてきたわけですから、それと同じ考え方でこの問題は解決できないのです。

<後略>

著書の紹介

「よきことはカタツムリのように」辻 信一(緒)春秋社

           

4月「星 亮一」さん

星亮一

星 亮一(ほし・りょういち)さん

1935年仙台生まれ。東北大学文学部国史学科卒業。日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長等を経て現在、歴史作家。著書に『幕末の会津藩』『斗南藩―「朝敵」会津藩士の苦難と再起』(以上、中公新書)『呪われた明治維新』(さくら舎)『偽りの明治維新』(だいわ文庫)などがある。

『最果ての地に追いやられ苦難の日々を送った会津人』

幕末、戊辰戦争で薩長を相手に勇猛果敢に戦った会津藩

中川:
みなさん、明治維新のことは学校の歴史で習ったと思います。日本が大きく動いた出来事でした。維新を成し遂げた人たちは、後世、ヒーローとしてもてはやされています。日本にとっては近代化の重要な節目ではありましたし、多くの人の輝かしい活躍もありました。しかし、実際には国内を二分する戦争だったわけで、勝者の栄光のドラマだけでなく、その陰ではたくさんの方たちがつらくて悲しい思いをしたはずです。そこになかなか意識が向かないのも現実です。
歴史は勝者の立場から見て語られます。負けた方の歴史は表に出てきません。
星さんは維新で敗者の側に立たされた会津藩の視点から何冊もの本を書かれています。『斗南藩~「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(中公新書)というご著書を読ませていただきました。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」(2013年)を見て、戊辰戦争での会津藩の悲惨な歴史には興味をもっていたのですが、星さんの本にはテレビでは描かれなかった会津の人たちの大変な苦労が書かれています。衝撃を受けました。
星:
斗南(となみ)藩というのは、戊辰戦争のあと、会津藩の人たちが朝敵の汚名を着せられて青森県の下北半島に流罪になり、そこで作った藩です。
とにかく人並の暮らしとは程遠い生活を強いられ、老人や子どもたちは飢えと病でばたばたと亡くなっていきました。それでも歯を食いしばって生きてきた会津の人たちに光を当てたい、と思って書いたものです。
中川:
星さんはもともとは仙台の生まれですが、どうして会津藩のことを書こうと思われたのですか。
星:
先祖代々仙台です。若いころに江戸へ行って12年間も砲術の勉強をし、仙台に帰って藩の砲術師範を務めた先祖もいます。自慢の先祖です。戊辰戦争では仙台藩は会津を支援、私の一族はこぞって参戦、白河で戦いました。敗因は武器の差でした。先祖は新式銃の導入を強く訴えたのですが、なかなか取り上げてもらえなかった。さぞかし無念だったでしょう。
父親の実家に行くと、土蔵の中に大筒とか火縄銃、洋式銃、鎧、兜、槍とかありました。火事になってみんな焼けてしまいましたけどね。
そんなことで、戊辰戦争とは無縁ではないのですが、本格的に会津藩と明治維新のことにかかわるようになったのは大学を出て福島民報社に入ってからです。地元の新聞社ですから、会津藩のこととか白虎隊のことを記事にする。調べたり勉強したりしているうちに会津藩のことに詳しくなって、興味も出てきて、いつの間にかライフワークになってしまいました。
中川:
相当調べないとこれだけの本は書けないと思いますね。
星:
斗南へもたびたび足を運びましたが、あまりにもひどい歴史なので触れないようにしてきたということもあって、最初はなかなか話してくれませんでした。会津藩は賊軍だから、ときの政権を批判するようなことを言うのは好ましくないという風潮もあったでしょう。でも、私は新聞記者ですから、たくさんの会津人の末裔の方に会って話を聞き、資料を調べたりするうち、いろいろなことがわかってきました。中には、最初は口が重くてなかなか話してくれなくても、少しずつ話すうちに「かわいそうだ、かわいそうだ」といって突然、泣き伏す人もいました。地べたに手をついてオンオン泣くのです。いかに無念であったかという事でしょう。胸が締め付けられました。
中川:
そうでしたか。戊辰戦争は会津にとっては屈辱の歴史ですからね。
星:
戊辰戦争というのは慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いから、上野戦争、越後戦争、会津戊辰戦争と続き、明治2年(1869年)の箱はこ館だて戦争で終了する内戦です。会津藩は鳥羽伏見の戦いから長州や薩摩と敵対し、会津戊辰戦争で敗れるまで勇猛果敢に戦い続けました。
幕末、会津藩主の松平容かた保もりは幕府に頼まれて京都守護職になりました。そのときの将軍は15代慶よし喜のぶです。慶喜は鳥羽伏見の戦いでは敵前逃亡をしたりして、あまり評判は良くありません。会津藩に藩祖保ほし科な 正まさ之ゆきは徳川家康の孫、三代将軍家光に実弟ですから幕府そのものでした。それで会津藩は幕府に忠義を尽くすわけです。
容保はとても真面目な人でしたから孝明天皇からも信頼されていました。元治元年(1864年)に長州軍が御所に攻め込みました。いわゆる「禁門の変」です。「蛤はまぐり御ご 門もんの変」とも呼ばれています。
このとき会津藩は薩摩藩とともに長州藩を撃退しました。このときに孝明天皇から宸しん翰かんと呼ばれる天皇直筆の文書を受け取りました。つまり、このときの朝敵は長州藩です。しかし、孝明天皇が謎の死を遂げ、長州と薩摩が手を結び、いつの間にやら会津藩は朝敵にされてしまいました。西郷隆盛とか大久保利通らは戦いに長けていましたから、会津藩ではとても太刀打ちできません。武器の差もあり、会津藩は会津戊辰戦争で玉砕しました。以来ずっと朝敵、逆賊の汚名を着せられてきました。生真面目、一本気な会津人にとっては、それが耐えられない苦しみだったと思います。
中川:
最初のうちは奥羽諸藩や越後が味方してくれましたが、やがては孤立無援の状態になってしまいましたよね。どこかで和解ができなかったのでしょうか。
星:
薩長にとって和解という選択はありませんでした。徹底的に叩こうとしました。そうしないと革命は成立しません。その標的に会津がなったわけです。
仙台藩は東北の雄藩です。京都できな臭いことが起こっているときに動くべきだったと思いますよ。もし、あの時代に伊達政宗がいたら1000人くらいの兵を率いて京に上って、会津と薩長の間に割って入りましたよ。そうすれば、あんなひどい結末にはならなかったでしょう。政宗のようなスーパースターがいなかったのは残念ですね。

<後略>

2020年2月7日 福島県郡山市のホテルロビーにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起  星 亮一(著)  (中公新書)

           

3月「髙信 幸男」さん

髙信幸男

髙信 幸男(たかのぶ・ゆきお)さん

1956年茨城県大子町生まれ。水戸、札幌、さいたま、甲府、東京、横浜の法務局に勤務し、2017年(平成29年)に退官する。高校時代から名字の研究をし、名字の由来やエピソードを本に書いたり、講演会等で発表している。多くのテレビやラジオの番組にも出演している。主な著書『難読稀姓辞典』『名字歳時記』(日本加除出版)『トク盛り「名字」丼』(柏書房)など。

『すべての名字に ご先祖様の思いがのっている』

四月一日と書いて 「わたぬき」さん。 小鳥遊で「たかなし」さん

中川:
茨城にお住いの私どもの会員さんが、髙信先生の講演をお聞きしてとてもいいお話だったので対談してみてはいかがですかとすすめてくださいました。さっそく先生の書かれた『トク盛り「名字」丼』(柏書房)を読ませていただきました。面白かったですね。名字がこれほど奥深いものとは思いませんでした。
髙信:
ありがとうございます。私は16歳のときに名字に興味をもちましてね。以来、半世紀近く名字を研究しています。珍しい名字は限りなくあって、珍名を探すのは昆虫や植物の新種を追いかけるのと同じですよ。この名字のルーツは何だろうとか、興味は広がっていくし、終わりのない研究ですね(笑)。
中川:
16歳のときに名字に興味をもたれたのですか。髙信さんはもともと法務局に勤める国家公務員で、今は司法書士をしておられるので、その関係で名字研究を始めたのだと思っていましたよ。
髙信:
法務局は戸籍や不動産登記に関する業務を行っていますから仕事絡みで名字に興味をもったと思われますが、そうじゃないんですね。仕事と名字研究とはたまたまの縁でしかありません。
中川:
16歳というと高校生ですが、どんなきっかけで名字に興味をもたれたのですか。
髙信:
私が生まれたのは茨城県北部の大だい子ご 町という福島県や栃木県と接する小さな町です。かつては人口4 万2 0 0 0 人くらいの町だったのですが、今は1万5000人ほどに減りました。
日本三大名瀑の一つである袋田の滝が有名ですが、私の生家は滝の上、源流にありました。とんでもないところでしょ(笑)。
中川:
滝の上ですか?
髙信:
そうですよ。観光客は下から滝を見上げていますが、断崖絶壁の上に家があるなんてだれも想像しないと思います(笑)。ここで生まれなければ名字の研究などやってなかったでしょうね。
中学校のとき、生徒が360人くらいいましたが、名字は30くらいしかありませんでした。みんなが同じ名字で下の名前で呼び合っていました。そのころは、名字の数はそんなにないと思っていました。
高校に入ってびっくりしました。50人のクラスで45の名字があったんですね。みんな名字がバラバラ。こんなに名字ってあるの? と思って、電話帳で町の名字を調べ始めました。意外に多くて数百種類はあったかな。小さな田舎町でこんなにあるなら日本全国ではどれくらいあるだろうと興味が湧いてきて、電話帳を丹念に見るようになりました。
中川:
それで珍名さんに出あうんですね。
髙信:
あるとき電話帳で「四月一日」という名字を見つけました。最初は、どうしてこんなところに日付があるのだろうと不思議に思いました。でもよく見ると名字らしい。それも渡辺さんが並んでいるあとにポツンとあるんですね。なんて読むのだろう?
俄然、興味が湧いてきました。疑問に思うとすぐに解明したくなるたちで、すぐにそこに出ている電話番号に電話をしてみました。そしたら「わたぬきです」と電話に出られたんです。四月一日と書いて「わたぬき」と読むんだ。私にしてみればとんでもない発見をした気分でした。すぐにどうしてそんな読み方をするのですかと質問しました。先方は迷惑がらずにていねいに答えてくれました。
中川:
確かに四月一日という名字があるとは思わないし、だれも「わたぬき」なんて読めないですよね。
髙信:
由来を聞いて、こんなふうに名字がつけられることがあるんだとまたまたびっくりしました。4月になると綿入れから綿を抜いたからというのが理由の、トンチのきいた名字なんですね。それでますます興味が出てきたというわけです。
中川:
名字をつけるにも遊び心があったんですね。「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませる名字もあるそうですね。
髙信:
1872年(明治5年)に全国的な戸籍制度(壬申戸籍)ができ、1875年(明治8年)には全国民が戸籍に名字を登録しなければならなくなりました。そのときに、先祖から伝わった名字をそのまま役所に届けを出すのではつまらないと考えた人がいたようです。
「たかなし」さんもその1人で、もともとは「高梨」と書いていましたが、高梨を「鷹無」と書き換え、さらに鷹がいなければ小鳥が自由に遊べるということで「小鳥遊」と書いて「たかなし」と読ませたようです。こんなユニークな発想で名字をつけるのは日本人くらいです。
中川:
世界でも日本の名字の数は特に多いそうですね。
髙信:
お隣の中国は人口が14億人もいるのに名字の数は4000種類程度、韓国は約5000万人の人口に対して名字の数が500くらいです。日本は約13万種類もの名字があるんですね。佐藤、鈴木、高橋がベストスリーで、ベスト10だけで日本の人口の1割を占めますが、たった1軒だけだとか数軒しかない名字がたくさんあります。

<攻略>

2020年1月 22日 茨城県水戸市の髙信幸男さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

日本全国歩いた! 調べた! トク盛り「名字」丼 髙信幸男 緒 (柏書房)

           

10月「大野 聰克」さん

大野聰克(おおの・としかつ)さん

1945年長野県下伊那郡生まれ。飯田工業高校卒業後、民間企業を経て、1980年に埼玉県川越市に電気機器関連の会社を設立。1991年帯津三敬病院で直腸がんの手術を受ける。それを機に生活が一変。1999年帯津三敬病院の職員となり患者さんと太極拳をやったり、ビワ葉温灸の施術をする。著書に「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)がある。

『がんはその人を生かすため、 助けるためにできる』

5年生存率3割。 1万人中3000人と考えれば元気が出る

中川:
大野さんが書かれた『ガンは悪者なんかではない』(風雲舎)という本を読ませていただきました。30年前に4期の直腸がんになって、それを独特の考え方で克服されました。大野さんならではのとてもユニークな話が展開されていて、なるほどと思うことがいっぱいありました。
大野:
ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
もう自分は死んでしまうんだと思うと夜も眠れませんでした。睡眠薬を飲んで寝るんですが、夜中の2時ごろには目が覚めて、それから夜が明けるまでの時間の長いこと。
中川:
手術を受けて、人工肛門になりますよね。
大野:
人工肛門はがんになったこと以上にショックでしたね(笑)。そんなことになるなんて、想像もしていませんでしたから。
中川:
しかし、考え方を変えて、徐々に恐怖や不安から脱却しますよね。
大野:
自分の命がかかっていますから、がんについていろいろ勉強しました。でも、本を読めば読むほど絶望してしまいます。これじゃいけないと、本を読むのをやめて、自分で考えることにしました。
中川:
5年生存率が3割だと言われたら、多くの人が絶望するのに、大野さんは違う考え方をしましたね。
大野:
私のような状態だと5年後も生きている確率は3割くらいだろうと思いました。3割というと10人のうちの3人に入らないといけません。けっこうハードルが高いですよね。そのとき私が考えたのは、10人のうちの3人と考えるからきついわけで、もし1000人だったらどうだろうということでした。300人ですよね。300人でも厳しいと思えるなら、1万人ならどうだろう。3000人ですよ。
たとえば、マラソンでも、10 人走って3人の中に入るのは自信がありませんが、1万人のうちの3000番までなら入れるかもしれないと思えるじゃないですか。そう思うことですごく心が軽くなりました。
中川:
そのとおりですよね。ちょっと考え方を変えると、気持ちも変化していくし、希望も出てきますね。
大野:
気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
当時45歳でしたが、昔なら、50歳くらいで亡くなる人がたくさんいたわけで、自分もそこそこ長生きしたのではないかと思えるようになりました。100歳まで生きても、早いか遅いかの違いで、死ぬときには不安や恐怖があるのではないでしょうか。死に対して少しは腹がくくれたかなと思います。
そのときから、残された時間が少ないなら、その時間を大切にしようと考え始めました。思い出をいっぱい残したい。楽しいことをいっぱいしたい。この世に私という人間がいたことを少しでもたくさんの人に覚えておいてもらいたい。そう思って、一瞬一瞬を大切に生きられるようになりました。
中川:
がんと診断されると、すぐに死を連想してしまいます。それで多くの人が落ち込んでしまうんでしょうね。気持ちが落ち込めば免疫力も低下しますから、病気も進行してしまいます。
大野:
がんと診断されても、その時点では死んでいないわけです。もっと体力が落ちると死ということになりますが、今は死んでないのだから、今よりも少しでも体力や生命力を上げれば死から遠ざかることができます。だから、私は少しでも体力をつけようと
考えました。手術を受けてすぐに廊下を歩き回って貧血を起こしたこともありました。病院の階段を上ったり下りたりもしました。
中川:
がんになったころ、大野さんは電気関係のお仕事をされていたということでしたね。
大野:
下請けでしたが、小さな工場を経営していました。
中川:
お忙しかったでしょう。
大野:
バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
でも、確実に体を酷使していました。徹夜なんてざらだし、食事も食べられるときに何でもいいので腹に入れていました。工場にこもりっきりだったので運動不足です。冷たいコンクリートの上で何時間も働いていますから、体が冷えます。
それにいつも納期に追われていて、常にストレスを抱えていました。
仕事仕事の毎日で、家へは寝に帰るだけ。今思い返せば、病気に向かってまっしぐらの生活でした。女房は「いつか体を壊すのではないか」と心配していたようです。

<後略>

2019年8月28日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「ガンは悪者なんかではない」(大野聰克 著)風雲舎

           

9月「G.G.佐藤」さん

G.G.佐藤(ジージー・さとう)さん

1978年千葉県生まれ。大学卒業後、単身渡米しマイナーリーグと契約。3年間プレーする。2003年のドラフト会議で西武から7位で指名される。オールスターにも出場するなど第一線で活躍。北京オリンピックでは日本代表に選ばれる。2011年西武から戦力外通告。イタリアに渡る。その後、千葉ロッテに入団。2014年に現役引退。現在は株式会社トラバースで営業の仕事に従事。著書『妄想のすすめ~夢をつかみとるための法則48』(ミライカナイブックス)。

『どんな失敗も挫折もとらえ方ひとつで大きな学びとなる』

願い続ければ夢は必ずかなう。 かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ

中川:
元プロ野球選手のG.G.佐藤さん。G G(ジージー)さんとお呼びしていいでしょうか。埼玉西武ライオンズとか千葉ロッテマリーンズで活躍されました。
プロのスポーツ選手とお会いするのは初めてですが、背が高いですね。何センチくらいあるのですか?
GG:
どうぞGGと呼んでください。会社でもみんなそう呼んでいますから。身長は184センチです。体重はずいぶんと絞りましたが、大学を出たころは110キロく
らいありましたね。
中川:
今はスリムでモデルさんになれるような体型ですね(笑)。GG佐藤というユニークな名前の由来は何なのですか?
GG:
小学生のころは4番でエース。将来はプロ野球選手になれると信じていました。中学生になったらもっと強いところでプレーしたかったので、東京にあった「港東ムース」というチームに入りました。このチームはヤクルトや阪神、楽天で監督を務めた野村克也さんの奥さんのサッチーこと沙知代さんがオーナーでした。全国制覇をしたことのある強豪です。
オーナーにはよく怒られました。ぼくは猫背だったので、「ちゃんと背筋を伸ばせ。ただでさえ顔がジジくさいんだから」といつも言われました。顔がジジくさいには参りました(笑)。毎日のようにそう言われているものですから、いつしかチームメイトが私を「ジジイ」と呼ぶようになりました。「GG」はそこからきているんです。だから、名付け親は沙知代さんです(笑)。
中川:
プロの選手になるくらいですから、野球のエリートだと思っていたのですが、そうではなかったみたいですね。
GG:
中学時代から挫折だらけですよ。港東ムースでも、まわりは私よりもはるかに上手な子ばかりです。いつも辞めたいと思っていました。高校は甲子園の常連校に進みましたが、私の代は地区予選敗退でした。法政大学へ入ってもずっと補欠でした。
私のような経歴のプロ野球選手はいないんじゃないでしょうかね。
中川:
挫折の連続というのは意外でした。中学生のころ、野村克也さんから心に残る言葉をもらったそうですね。
GG:
中学を卒業してチームを離れる卒団式のときでした。野村さんがこんな言葉を贈ってくれました。
「願い続ければ夢は必ずかなう。かなわかった人は願うことを途中でやめた人だ」
体が熱くなりました。プロ野球選手になりたければ願い続ければいい。そう思うと希望がわいてきました。とにかくこれからもずっと願い続けようと決心しました。野村さんからは「念ずれば花開く」と書かれた色紙をいただきました。私の宝物です。苦しくなるとこの言葉が頭に浮かびます。
中川:
挫折すると、やっぱり自分はダメだとか、自分には無理だとか、夢なんかかなうはずがないとあきらめてしまいますからね。
大学時代もレギュラーになれなくて腐りそうになったそうですね。
GG:
同期には、その後、プロ野球で活躍した連中が何人もいました。とても太刀打ちできません。3年生になると、もう完全に心が折れて、練習をさぼるようになりました。プロの夢も消えてしまい、取りあえず卒業だけするかという情けない状態でした。
このままじゃいけないと思って、「どうしたらやる気が出るだろう」と自問自答しました。行き詰ったときには自問自答するのが私の癖ですね。自分に聞くことで次に何をすればいいかぱっとひらめくことがよくあります。
このときも、人が望む姿ではなくて、自分はどうなりたいのかを考えることが大切だというような答えが返ってきました。そうか、監督やコーチから、お前はこうなったらいいんじゃないのと言われたとおりの選手になろうとするのではなくて、好きな自分、なりたい自分に向かっていくのがいいんじゃないかと思ったんですね。
中川:
ほお。好きな自分、なりたい自分ですか。
GG:
当時、体が細かったので、器用な二番バッタータイプの選手になるように言われていました。でも、私は小学校のときがんがんとホームランを打っていた自分が大好きでした。もうまわりの言うことなど聞かずに、ホームランバッターになろう! と決めました。そしたら俄然、やる気が出てきました。
あのころはウエートトレーニングをする選手はあまりいませんでしたが、そんなこと関係ありません。ホームランを打つにはパワーが必要です。プロテインを飲んでウエートをやって、筋肉もりもりの体を作りました。
そしたら、どんどん飛距離が伸びて、練習をやっていても楽しくてたまりません。公式戦に出ることもできました。それで自信も取り戻しました。もっとも、この時点ではプロから声がかかるほどではなかったですけどね。

<後略>

2019年7月24日 千葉県市川市・株式会社トラバー スにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「妄想のすすめ 夢をつかみとるための法則48」G.G.佐藤 (著) ミライカナイ

           

7月「金菱 清」さん

金菱 清(かねびし きよし)さん

1975年大阪生まれ。関西学院大学社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学博士。現在、東北学院大学教養学部地域構想学科教授。専攻は環境社会学・災害社会学。
著書に『生きられた法の社会学』(新曜社)『呼び覚まされる霊性の震災学』(編著 新曜社)『私の夢まで、会いに来てくれた』(編著 朝日新聞出版)『3・11霊性に抱かれて』(編著 新曜社)など多数。

『東日本大震災から8年。 死者とともに生きるご遺族たち』

また幽霊らしき人が手をあげたら乗せると答えるタクシー運転手

中川:
『3.11霊性に抱かれて‒魂といのちの生かされ方』(新曜社)を読ませていただきました。この本は、先生のゼミの学生さんたちが東日本大震災の被災地を回って取材してまとめたものですよね。それも、幽霊を乗せたタクシー運転手とか、死をしっかりと受け止めている猟師町の話、生者と死者とのつなぎ役になろうとする宗教者の葛藤、手紙や電話を介して死者と対話をすることで癒されていくご遺族の心情など、この世的なことばかりではなく、あの世のことも視野に入れた調査ということで、私もとても興味深く読ませていただきました。
先生のご専門はどう説明すればいいのでしょうか?
金菱:
環境社会学、災害社会学が専門で、大学では地域構想学科の教授をやっております。
地域構想学科と言ってもよくわからないかと思いますが、「人と自然」「健康と福祉」「社会と産業」といった視点で、地域の問題、その解決策について考えていく学科です。設置されて15年くらいになります。
私のゼミでは、全員がフィールドワークに出て、地域の人たちの生の声を聞いて、資料を読むだけではわからないことを感じ取って、それをまとめて論文にしています。それを一般の人が見られる本の形にしているんです。
中川:
本を読んでいると、非常に生々しいし、迫力あるし、学生さんたちは本当にがんばったんだなということが伝わってきます。
金菱:
飛び込み営業をやるようなものですからね(笑)。みんな苦労していますよ。毎日『もう辞めたい』と暗い顔をしている子もいますが、自分なりに工夫して、いろいろと聞き出してきます。
中川:
テーマが「霊性」じゃないですか。2016年に出された『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)には、タクシードライバーが遭遇した幽霊の話がありますが、そういう話はなかなか聞き出せなかったのではないかと思いますが。
金菱:
最初は、運転手さんにいきなり『幽霊を乗せたことありますか?』とゼミ生が聞くわけです。運転手さんも面食らうし、中には怒り出す人もいました。この調査をしたのは女子学生でしたが、失敗を何度も繰り返し、『もう辞めたい』とべそをかきながら、それでも何とか聞き出せないかと工夫していました。
彼女はタクシーが止まっている駅のロータリーでギターの弾き語りをしたり、一緒に釣りに行ったりすることで運転手さんと仲良くなって、彼らが誰にも話したことのない幽霊の話を聞き出すことができました。たとえ誰かに話してもバカにされるだけで、自分の中に封印していた話でした。
中川:
真夏なのに厚着をした人を乗せたというのが共通していましたよね。ある女性が津波で大きな被害を受けたところに行ってほしいと言うので、「あそこはさら地になっていますけど」と言うと、「私は死んだのですか?」と震えた声で答えて、運転手さんが「えっ」と思ってルームミラー越しに後ろを見ると姿が消えてしまったといった話がいくつも出てきます。
金菱:
運転手さんも最初は幽霊だと思わないで乗せるわけです。だから、料金メーターを実車にして出発します。だれかを乗せて走ったという記録は残っているわけです。
でも途中でいなくなってしまう。だれが料金を支払うの?ということになります。全部、運転手さんが負担しているんですね。運転手さんも幽霊を乗せたなんて言えませんから(笑)。どの運転手さんもすごく冷静に対処していて、夢や妄想だとは考えられません。そう考えると、すごくリアルな話じゃないですか。
中川:
それに運転手さんは、最初はぞっとするんだけど、また幽霊らしき人が手をあげたとしたら乗せるって言っていますよね。
金菱:
そこが面白いところですよね。フィールドワークをする上でひとつだけ約束事があって、それは「ブラックスワン(黒い白鳥)を探そう」ということです。
ホワイトスワン(白い白鳥)を見つけても、「そりゃそうだね」で終わってしまいますが、黒い白鳥を一羽でも見つければ、白鳥は白いものだという固定概念が変わります。
被災地で幽霊が出ると知ったある有名な宗教学者は、不成仏霊だから供養して彼岸へ送らないといけないとコメントしていました。これは当たり前の考え方、つまりはホワイトスワンです。
でも、学生たちが現地でタクシー運転手に話を聞くと、次にそういうことがあっても乗せるという証言が出てくるわけです。「怖い」とか「不気味」といったこれまでの幽霊に対する見方とは違いますよね。それこそブラックスワンであって、生きている人と幽霊との新しい関係性が見えてきます。話を聞いていて温かみを感じるじゃないですか。
学者だと、既存の考え方に当てはめてしまうので、こういう証言を引き出すことはできないと思います。学生だからこそ、運転手さんの素直な感想を聞き出せたのではないでしょうか。
フィールドワークにはそういうアプローチが大切だと、私は考えています。

<後略>

2019年4月16日 東北学院大学泉キャンパスにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左:3.11霊性に抱かれて: 魂といのちの生かされ方
金菱 清 (編集) 新曜社
右:私の夢まで、会いに来てくれた — 3.11 亡き人とのそれから
金菱清(ゼミナール) (編集) 朝日新聞出版

           

お問い合わせ

各種お問い合わせはこちらより承っております。
よくいただくご質問と、
その答えをよくあるご質問で紹介しています。
お問い合わせの前にご一読ください。

真氣光研修講座に関する
ご予約/お問い合わせ

まずは無料で氣を体験 最寄りのセンターやご自宅からオンラインでもご参加可能です 体験会のご予約はこちらから