9月「小澤 隆秋」さん
小澤 隆秋(おざわ たかあき)さん
1938年(昭和13年)山梨県生まれ。15歳から和菓子職人の道に。10年の修行の後、大手企業の和菓子工場で責任者として和菓子を製造しつつ後進の指導に当たる。15年前から無添加の和菓子作りを始める。山梨県内各地で和菓子教室を開くと、たちまち、50人~100人が集まる人気の教室になった。現在、山梨県甲州市にあるアグリヒーリングヤギーずビレッジで商品販売。
『和菓子作り一筋67年。無添加でおいしい和菓子を広げる』
相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれる
- 中川:
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先ほど、小澤さんがお作りになった大福と水ようかんをご馳走になりました。とてもおいしかったです。私は和菓子には目がなくて、特にあんこと餅が大好きなので、うれしかったですね。
小澤さんは長年、和菓子職人として働いてきて、82歳の今も現役で和菓子教室を開いているそうですが、そもそも和菓子職人になったきっかけは何だったのですか? - 小澤:
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中学を卒業後、母親が勤めていた和菓子屋さんで、住み込みで働くことになりました。母親がまじめな人だったので、その息子なら安心だろうと、私を雇ってくれました。
私は高校へ行って勉強をしたかったのですが、母親が『職人になったら定年もなく、いくつになっても働けるから』と言うので、仕方なく決めた道でした。
2回脱走しましたね(笑)。高校へ行きたいという気持ちが捨てられませんでしたから。 - 中川:
- 2回もですか。
- 小澤:
- 母親に連れ戻されて、『手に職をもつといいから』とこんこんと説得されて、やっと『よし、まじめにやろう』と決めました。あれから67年もたちました。早いですね。
- 中川:
- 修行は大変だったんでしょうね。
- 小澤:
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いつも言われたのは『人に負けないようにやれ』ということでした。しかし、技術を身につけようとしても先輩は教えてくれませんから、技術は見て盗まないといけません。
それに上下関係は厳しかったですね。先輩にはぜったいに逆らえないし、仕事が終わるとお湯とタオルを用意して差し出すなど、仕事以外のことで気を使うことがいっぱいありました。
人のお世話をするのは嫌いではありませんでしたが、先輩だからと言って威張るのはおかしいと思いました。
自分が上になったらぜったいにこういう真似はしたくなかったですね。このときに、人を大切にしようと心に決めました。
給料は2年間、一銭も出ませんでした。これもつらかったですね。
でも、そのおかげで我慢することを覚えました。今考えると、すべてのことがプラスになっているように思いますね。 - 中川:
- そうですね。どんなことも気づきのチャンスですよね。それにしても15歳で人を大切にしようと決心したのはすごいですね。
- 小澤:
- 経営者は従業員を、先輩は後輩を大切にしないと会社は成長しませんね。上の人が威張っている会社はダメになりますね。
- 中川:
- そのお店ではどれくらい働いたのですか?
- 小澤:
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10年間修業をしました。このお店で働いて良かったのは、5年間は工場で和菓子作りをやり、あとの5年間は営業の仕事ができたことです。
特に、営業で外へ出ていろいろな人とかかわったのは後々、とても役に立ちました。
人と接することで、人を見る目が養われました。和菓子を作ってばかりだと、技術は上達しても、人間的に成長できなかったのではと思います。 - 中川:
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営業では、お客さんが何を望んでいるかをキャッチする能力が必要ですよね。相手の氣を感じる力だと、私は思っています。
人と接することで、相手の気持ちがわかったり、どうしたら自分の気持ちを伝えることができるかと、あれこれ考えますからね。 - 小澤:
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ちょっとした気づかいで営業の成績を上げることができます。私は、個人のお宅を回って和菓子を売っていましたが、困った人を見ると助けたくなる性格がプラスに働いたことはよくあります。
道で荷物をもっているおばあちゃんに会うと、ついつい『もってあげましょうか』と声をかけたくなるんです。そのおばあちゃんがお得意様になってくれたこともあります。
先ほど、人を大切にするという話をしましたが、相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれますね。 - 中川:
- 氣が伝わるんでしょうね。こちらがいい氣を発すると、相手からもいい氣が届けられますね。
- 小澤:
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私には氣の話はよくわかりませんが、目に見えない何かが伝わるという感覚はわかります。
父親は大の動物好きで、わが家には馬や牛、ヤギ、ヒツジ、ニワトリ、ミツバチなど、たくさんの生き物がいました。
動物の世話をするのは子どもたちの役割です。子どもですから、ときどき餌やりを忘れたりしました。父は怒りましたね。ご飯抜きで蔵に放り込まれました。餌をもらえない動物たちの気持ちを、身をもって知りなさいというわけです。そんなこともあって、動物たちとは家族のように接するようになり、動物たちの気持ちもわかるようになってきました。
彼らは言葉もよくわかっていて、しゃべれませんが、私たちが言っていることは、全部わかっていると思いますよ。やさしく接すれば、彼らはとても喜びます。 - 中川:
- 人を大切にしようと思ったのは、子どものころのそういう体験があったからかもしれませんね。
- 小澤:
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そう思います。ミツバチもたくさん飼っていましたが、一度も刺されたことがありません。ハチはこちらが何もしなければ絶対に刺しません。ミツバチだけでなくて、アシナガバチやスズメバチも同じです。
<後略>
300名近い人が当日に最高の演奏ができるように準備をするわけですからね。すごいなと思いました。
どんどん接近していきますね。監督はコンサートに行ったときに、楽屋で出演を申し込んだそうですね。そのときが初めての直接の出会いだったのですね。
病弱な子ども時代から始まって、20代後半にはうつになり、ITの仕事でしたから、一日中パソコンの前に座っていたせいで、電磁波の影響を受けて、体がどんどん悪くなっていきました。
確かに、苦しい体験は今に生きていますね。あのころは苦しいだけの毎日でしたが。
自転車に乗っていても、だんだんと視力が落ちてくると、木や車にぶつかってしまいます。自分は目が見えなくなるんだと思うと、恐怖と不安でおしつぶされそうになりました。
きっと伯父さんが岩本さんのことを心配して、あちらの世界からメッセージを送ってくれたのではないでしょうか。その意味が、時間がたつにつれて、少しずつわかってきて、その後、とても行動的な生き方ができるようになったのだと思います。
大河ドラマでは14作品で時代風俗考証を担当しました。毎週の定例会議での台本検討のほか、國學院大學は渋谷にあってNHKには近いので儀式などのリハーサルにもよく呼び出されましたよ(笑)。
戦国時代は現代社会に通じるものがあって、お手本となることが多いと思います。まずは実力社会だったということです。戦国時代より前は、身分が定められていました。下級武士の子は、どんなにがんばっても有能であっても、下級武士のままです。
若いころから宗教書は読み漁っていましたから、興味があったと言えばあったと思います。でも、知識レベルの興味でしかありませんでした。
先生は植物に対してとても親近感をもっておられるようですが。 
この対談には新井さんも親しくしている自然栽培パーティの佐伯康人さんや銀座ミツバチプロジェクトの高安和夫さんにも出ていただきました。障がい者が農業に携わって収入を増やしたり生きがいを見出すという農福連携の活動には、私もとても関心をもっています。これからの時代、ますます大切になってくるのではないでしょうか。
農業というのは人が生きていく上で必要不可欠な食料を作るわけですから仕事がなくなるはずがないと考えました。また、農業にはいろいろな作業があって、どんな障がいがあっても、何らかの作業ができるはずです。先ほど見ていただいたように、ひたすら種を蒔くということでもいいし、草むしりならできるという人もいるし、作物を袋詰めするのが好きだという人もいます。
大学卒業後は通産省外郭財団法人である余暇開発センターというところへ就職しました。そこでは暇と遊びの研究をしていました(笑)。
矢内社長は、いくら売れる商品でも商品寿命は30年だと考えていて、「ぴあ」はちょうど10年目でしたから、10年後20年後に売れる新しい商品を開発してほしいと言われました。私は13ほどのアイデアを出しました。その中で矢内社長が「これだ!」と言ったのがオンラインでチケットを販売する仕組みでした。
中学生のときはチューバをやっていて、音楽の先生がとてもすてきな女性だったので、彼女の後輩になりたくて大阪音楽大学を目指すことを決めました。下心ありありです(笑)。高校生になって先生からピアノを習うことになり、先生が弾くピアノにものすごく感動して、チューバはやめてピアノ科に行くと決めました。そのことを先生に言うと、「今、ピアノを始めたばかりで、受験まで3年もないのに絶対に無理」と一刀両断でした。ドの音がどこにあるかを知ったばかりの超初心者が3年で音大のピアノ科に合格できるとはだれも思わないでしょうからね。
そうなんですよ。そのときはびびっていましたけどね(笑)。
ありがとうございます。もともとはそういう意図で書き始めたわけではなかったのですが、書いているうちにコロナの騒ぎが広がって、こういう内容になってしまったんですね。
痛みだけに心が奪われますが、まずは自分が置かれている状況を受け入れて、そこから先を考えるということでしょうか。 