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6月「岩本 光弘」さん

岩本光弘

岩本 光弘(岩本 光弘)さん

1966年熊本県生まれ。生まれつき弱視だったが、16歳で全盲になる。教員になるために筑波大学理療科教員養成施設に進学し、在学中アメリカ・サンフランシスコ州立大学に留学。筑波大学附属盲学校鍼灸手技療法科で14年間教員として勤務。2006年サンディエゴ州に移住。2013年ヨットにて太平洋横断に挑戦するもトラブルが発生し断念。2019年再チャレンジで見事に成功する。

『絶望を希望に変えた盲目のヨットマン。太平洋横断に成功!』

目が見えなくなったのも意味があるという伯父さんのメッセージ

中川:
 岩本さんは生まれつきの弱視で、13歳のころから視力を失い始め、16歳で全盲になったということですが、徐々に見えなくなるというのは、私には想像ができないのですが、とてもつらいことでしょうね。
岩本:
 自転車に乗っていても、だんだんと視力が落ちてくると、木や車にぶつかってしまいます。自分は目が見えなくなるんだと思うと、恐怖と不安でおしつぶされそうになりました。
 全盲になったのは16歳のときでした。落ち込んでしまって、ほとんど外に出かけることができなくなりました。あるとき、歯磨き粉を歯ブラシではなく手につけてしまいました。こういうことすら人のお世話にならないといけないのかと絶望してしまって、死んだ方がいいと思い詰めました。
 母に「なんで産んだんだ!」と怒鳴ったこともありました。
中川:
 絶望の中にいた岩本さんが、2013年にはヨットでの太平洋横断にチャレンジします。このときは途中で断念しましたが、2019年には再チャレンジして、見事に成功しました。
 普通に考えれば無謀とも思えることを成し遂げた岩本さんのストーリーは、何かで迷っている人、悩んでいる人、落ち込んでいる人には、すごく参考になると思います。
 全盲になった16歳のとき、人生を決めるような大きな出来事があったそうですね。
岩本:
 全盲になったころは、お気に入りの海が見渡せる橋から飛び込んで自殺しようと真剣に考えていました。実際に、その橋まで行きましたが、どうしても飛び降りることができず、近くの公園に行ってベンチに座っていたら、いつの間にか眠ってしまいました。
 そのときに、5年前に50歳で亡くなった伯父さんが夢に出てきて、私に語りかけてきたのです。伯父さんは、私を自分の子どものようにかわいがってくれました。人のことを第一に考える伯父さんで、人望もあって、私はとても尊敬していました。伯父さんは私にこんなことを言いました。今でもしっかりと記憶の中に焼き付いています。
《お前の目が見えなくなったのには意味がある。お前がポジティブに生きる姿を見せることで、見えていても何のために生きているのかわからなくなっている人たちに、勇気と希望を与えるんだ。
 きっと彼らはお前から、目が見えない人から、何か希望を見る。だから自分の命を断とうとするな。逃げるな。
 目が見えないことにも意味があるんだ。まわりの人々を励ますために、勇気を与えるために》
 というものでした。天から、宇宙からのメッセージだったのでしょうか。
 そのときは意味がわからず、歯ブラシに歯磨き粉もつけられないぼくが、目の見えている人に勇気や希望を与えるなんてあり得ないと思っていました。でも、死んじゃいけないんだなということだけはわかりました。
中川:
 きっと伯父さんが岩本さんのことを心配して、あちらの世界からメッセージを送ってくれたのではないでしょうか。その意味が、時間がたつにつれて、少しずつわかってきて、その後、とても行動的な生き方ができるようになったのだと思います。
 高校時代にはアマチュア無線を勉強し、海外の人と英語で話したいと英会話学校に通い、盲学校を卒業した後は専門学校の鍼灸科へ進み、さらに鍼灸の技術を視覚障がい者に教えたいと筑波大学に進学します。絶望の中にいた岩本さんとは別人のようにダイナミックですよね。
岩本:
 徐々にですが、できないと思っていたことができるようになってきました。歯磨き粉もつけられるようになったし、みそ汁をこぼすこともなくなると、気持ちも前向きになってきましたね。
 伯父さんの言った言葉の本当の意味がわかったのは、23、4歳だったか、大学の友人と富士山に登頂したときのことでした。まわりの人たちが、『目が見えないのにすごいですね』と声をかけてくれるんですね。『勇気づけられます』と言ってくれた方もたくさんいました。こういうことなんだと、伯父さんの言ったことが理解できました。それがきっかけで、いろいろなことに挑戦しようと思えるようになりました。

<後略>

2021年4月6日 エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「見えないからこそ見えた光 絶望を希望に変える生き方」 岩本光弘(著) ユサブル

           

5月「二木 謙一」さん

二木 謙一

二木 謙一(ふたき·けんいち)さん

1940年東京生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。『中世武家儀礼の研究』でサントリー学芸賞を受賞。文学博士。國學院大學教授·文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長·理事長を歴任。現在は、國學院大學名誉教授。NHK大河ドラマの風俗·時代考証は14作品を担当。著書は『関ヶ原合戦』『大坂の陣』(中公新書)『徳川家康』(ちくま新書)など多数。

『戦国武将から生き方の 知恵·極意を学ぶ』

戦国時代は実力社会。現代にも通じるものが多い

中川:
 二木先生は國學院大學の教授を長く務めておられました。日本の歴史がご専門で、「有職故実」をテーマにされていたとお聞きしましたが、有職故実というのはどういうものなのでしょう。
二木:
 朝廷・公家や武家の制度・先例などの研究ですが、わかりやすく言えば、衣食住や儀式などのいわゆる時代考証ですね。つまり、その時代の服装、鎧や兜といった戦で使う道具の形、しきたりや生活作法、武家や庶民がどういう暮らしをしていたかなど風俗を研究する仕事をしていました。
中川:
 それでNHKの大河ドラマでも時代考証を担当されていたんですね。
 私は歴史が大好きで、大河ドラマを楽しみにしていますが、時代考証というのはとても大切な役割かと思います。大河ドラマで印象に残っているエピソードなどありましたら、聞かせていただけますか。
二木:
 大河ドラマでは14作品で時代風俗考証を担当しました。毎週の定例会議での台本検討のほか、國學院大學は渋谷にあってNHKには近いので儀式などのリハーサルにもよく呼び出されましたよ(笑)。
 翌年の作品と2作同時に進んでいることもあって、けっこう忙しかったですね。
 それぞれの時代にふさわしい場面を作っていかなければならんし、しかも現代人にも理解できるようにしないといけないので、いろいろ苦労しました。
 衣装も数がないので、公家の装束などは場面によってはたらい回しをすることもありました。
 時代によって武器や兜も違います。戦国時代に平安時代の武具を使うのは、古いのを使っていた可能性もあるのでいいのですが、逆はできません。鎌倉時代に戦国時代の武具は使えませんから。
 戦国時代、男はあぐらをかいていました。でも、若い俳優さんの中には子どものころから椅子で暮らしているのであぐらをかけない人もいて、これには驚きましたね。
 当時の武士は正座をしていたと思っている方が多いのですが、正座をするようになったのは畳を敷き詰めるようになった江戸時代の中期からです。
 女性は立てひざでした。絵巻物にはそう描かれています。でも、立てひざだと鉄火場の女みたいだと評判が悪くてやりませんでした。昨年の『麒麟がくる』では思い切って立てひざ姿を取り入れていました。今後はどうしていくのでしょう。
中川:
 私がとても印象的だったのは、2012年に放送された「平清盛」でした。先生が時代考証をされていたと思います。清盛がボロボロの状態から這い上がってくる姿に感動したのですが、平氏はもっと豊かだったという話も聞いたりするのですが。
二木:
 あれは東日本大震災の影響がありました。地震と津波と原発事故で東北を中心に日本中が大混乱になった年の収録でした。節電で町も暗くなっているし、NHKでの打ち合わせも薄暗い中でやっていました。
 みなさん不安で、どこに希望を見出せばいいかわかりません。そういう環境にあって、当時の野球界と同じように、ドラマを作るスタッフたちにも、「見せようドラマの底力」といった雰囲気がありました。
 それで廃墟の中からたくましく立ち上がっていく清盛になったのです。
 宋と貿易をしていて平氏は金持ちでした。だけど、つらさを乗り越えたという話の方が世の中のためになるのではということでああいうストーリーになったようです。
 ドラマ作りと学問とは違いますね。
中川:
 そういうことだったんですね。あのドラマで元気づけられた人も多かったと思います。
先生は清盛よりももっと後の戦国時代の研究に力を入れておられますが、戦国時代の魅力というのはどういうところにあるのでしょうか。
二木:
 戦国時代は現代社会に通じるものがあって、お手本となることが多いと思います。まずは実力社会だったということです。戦国時代より前は、身分が定められていました。下級武士の子は、どんなにがんばっても有能であっても、下級武士のままです。
 しかし、戦国時代は違いました。だれもがよく知っているように、豊臣秀吉は貧しい農家の出身です。それが生まれに関係なく実力次第でどんどん上へ登っていくことができました。現代人も同じように実力社会です。常に生と死との極限状態にあった戦国武将の生き方はお手本になるのではないでしょうか。
中川:
 英雄もたくさん登場しますしね。
二木:
 全国にすごい武将がたくさんいました。上洛戦は甲子園の地区代表のようなもので、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、駿河・遠江の今川義元、尾張の織田信長らそうそうたる面々が全国制覇に向けて戦い、織田信長が上洛に成功して優勝したみたいな、そんな図式が描けます。

<後略>

2021年2月5日 東京都練馬区の二木先生のご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「戦国武将に学ぶ究極のマネジメント」 二木 謙一 (著) 中央公論新社

           

4月「板野 肯三」さん

板野肯三

板野 肯三(いたの・こうぞう)さん

1948年岡山県生まれ。東京大学理学部物理学科卒。専門はコンピュータ工学。筑波大学システム情報工学研究科長、学術情報メディアセンター長、評議員、学長特別補佐等を歴任。現在、筑波大学名誉教授。著書に「地球人のための超植物入門」(アセンド・ラピス)など。

『霊性に目覚める人が増えれば地球が癒され問題は解決する』

山にも川にも地球にも 魂が宿っている

中川:
 板野先生の書かれた『コロナから世界を観る』を読ませていただきました。先生は東京大学理学部物理学科を卒業後、筑波大学でシステム情報工学研究科の教授として科学の最前線でご活躍されていたわけですが、この本にはスピリチュアルなことがたくさん書かれていてびっくりしました。
 お持ちいただいた『地球人のための超植物入門』という本も「森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界」というサブタイトルがついています。パラパラと拝見したら、植物の精霊とお話するといった話が書かれていました。とてもコンピュータがご専門の方が書かれるような内容ではないように思いますが(笑)、もともとスピリチュアルなことにも関心があったのでしょうか。
板野:
 若いころから宗教書は読み漁っていましたから、興味があったと言えばあったと思います。でも、知識レベルの興味でしかありませんでした。
 初めて霊的な体験をしたのは結婚して間もないころでした。その何年か前には家内が幽体離脱のような体験をしたこともあって、布団の上に寝転がって、魂というのは本当にあるのだろうかととりとめもなく考えていました。
 すると、突然、体や頭が内部から発熱するように熱くなって、心の中からだれかが語りかけているように感じました。耳から聴こえる声ではありません。男性のようでした。「あなたを見守っていた」とか「あなたが女性の科学者として世に出るためには、それしかなかった」とか「再会できてとてもうれしい」とか、そんな言葉を感じ取りました。でも私は男性です。何のことだろうと思っていると、「これは過去世のことだ」とピンときました。過去世の自分は女性の科学者で夫と死別していて、そのときの夫が出てきたのだ、と記憶がよみがえったような気がしました。懐かしさ、うれしさが込み上げてきて、涙が流れてきました。
 理屈抜きに、魂はあるのだと実感しました。そういうことがあってから、見えないエネルギーを感じるようになりました。
中川:
 奥様が幽体離脱をされたとおっしゃいましたが、奥様もスピリチュアルな方なんですか。
板野:
 幽体離脱なんて初めてのことだし、当時はスピリチュアルなことは話さなかったと思います。だけど、最近になって、理論的な説明は私の方が得意ですが、スピリチュアルな感覚は家内の方が鋭いのではと思うことはよくありますね(笑)。
 よく「この部屋は磁場がいい」と言います。磁場というのも独特の言葉ですよね。物理学で言う磁場ならよくわかるのですが、霊的な意味での磁場はまた違うんですね。その空間とかその人が漂わせている霊的エネルギーの個性を磁場と表現することが多いみたいですね。家内は、霊的な磁場を感じるのが私よりもはるかに敏感です。家や土地を買うときとか、そういう感覚は役に立つかもしれませんね。
中川:
 その土地特有のエネルギーがありますからね。パワースポットもある種のエネルギーをもった土地のことを言うと思います。引っ越しをしたことで、急に運が良くなったり、逆に体調が悪くなったりする人もいますしね。土地のエネルギーが関係していると、私は思います。
板野:
 宗教的な本を読むと「自然霊」のことがよく書かれています。山とか川とか岩、樹木などに宿っている霊があるということですが、山とか川は体に当たるんでしょうね。富士山は体でそこに霊とか魂が宿っているという考え方ですが、私もそう思っています。
中川:
 地球にも魂が宿っているわけですね。
板野:
 地球も一つの生命体だと言ったのはジェームス・ラブロック博士です。1960年代のことで、ガイア仮説とかガイア理論と呼んでいます。エビデンスがあるわけではないので科学者には受けが良くありませんでしたが、エコロジストには受けたようです。
 もっとも、科学はまだ生命そのものをとらえることができていないわけで、地球が生命体かどうかを議論するというのはどだい無理なことです。
中川:
 科学がもっと進歩しないことには生命のことはわからないんでしょうね。先生のような科学者がもっと増えるといいのですが。
板野:
 物理学は科学の中ではもっとも宗教的な学問です。宇宙全体のことを追求するのですから。今の物理学でも量子のような物質レベルを超えた現象が見えてきています。
 物理学には、この世界がどういう仕組みになっているか、その基本が詰まっているように、私は思っています。
中川:
 先生は植物に対してとても親近感をもっておられるようですが。
板野:
 コンピュータをやっていたのですが、生き物にアプローチしないと、この世の仕組みの本質に近づけないのではと思っていたころ、野澤重雄さんという方に出会いました。野澤さんはハイポニカという水耕栽培法で1本のトマトの木から1万7000個のトマトを収穫したことで有名になりました。水耕栽培というのは、水に肥料を溶け込ませて、これを根に循環させる方法です。水耕栽培を成功させるには、肥料の組成とか光の量とか炭酸ガスの温度とか、管理がとても大変です。
 でも、私にはとても魅かれるものがあって、野澤さんにお話をお聞きしました。

<後略>

2021年1月27日 株式会社エス・エー・エス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

地球人のための超植物入門ー森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界
板野肯三(著) アセンド・ラピス

           

3月「新井 利昌」さん

新井利昌

新井 利昌(あらい・としまさ)さん

埼玉福興(株)代表取締役。NPO法人Agri Firm Japan理事長。1974年埼玉県生まれ。1996年に父親とともに埼玉福興(株)を設立する。同社を農業法人化して、障がい者とともに野菜の水耕栽培、露地栽培、オリーブの栽培・加工などを手掛け、ソーシャルファームという新しい概念で社会的就労困窮者の働く場を創出している。著書に『農福一体のソーシャルファーム~埼玉福興の取り組みから』(創森社)がある。

『農業と福祉が一体になって、人の役に立てる場を作る』

障がい者の行く場所、働く場所がないことに気づいた

中川:
 農園を見学させていただきましたが、オリーブ畑もあれば、白菜の畑もあるし、ネギの苗を育てていたり、水耕栽培もありました。たくさんやっておられてびっくりしました。障がい者のみなさんが、生き生きと働いていますね。
新井:
 ここでは健常者に頼らない生産体制というのをめざしています。水耕栽培を取り入れたのも、重度の障がい者も作業ができるという理由からです。毎日同じ仕事があるし、単純作業の繰り返しができます。また、水耕栽培は一人だけでできる作業もありますから、人と接するのが苦手だという人も働けます。
中川:
 種をプラスティックの容器にまいている女性がいましたね。いろいろ説明していただきましたが、彼女も人と接するのが苦手な方なんでしょうかね。
新井:
 そうです。みんなと一緒にいるとパニックを起こす子でした。だから一人でできる仕事をしてもらっています。でも、おしゃべりも好きなんですね(笑)。だから、見学のお客さんがくると一生懸命に説明してくれます。それはそれで、とても役に立ってくれています。
中川:
 この対談には新井さんも親しくしている自然栽培パーティの佐伯康人さんや銀座ミツバチプロジェクトの高安和夫さんにも出ていただきました。障がい者が農業に携わって収入を増やしたり生きがいを見出すという農福連携の活動には、私もとても関心をもっています。これからの時代、ますます大切になってくるのではないでしょうか。
 新井さんが代表を務めている埼玉福興(株)も農福連携をやっておられるわけですが、どういうことをやっておられるのか、簡単に説明していただいてもいいでしょうか。
新井:
 大まかに言うと、埼玉福興グループとして動いていて、農業生産法人が農業を、NPOが中心になってグループホームや就労支援といった福祉事業をやっています。
 障がい者が寮やグループホームなどで生活をともにしながら、農業という分野で仕事を覚えたり、仕事を得て働くことを支援している団体だと言えばわかりやすいでしょうか。
 障がい者の人たちは、寮やグループホームから農園に通って農業をやります。その中で企業で働けると判断できる障がい者は、埼玉福興(株)で雇用したり、ほかの企業でお世話になったりしています。
中川:
 もともとは新井さんとご両親の3人で始めたことだそうですね。
新井:
 父は小さな縫製の会社をやっていました。縫製業も斜陽産業だったので次をどうしようかと考えていたとき、父が知り合いのすすめで障がい者の生活寮を始めることを決めました。
 1993年、私は19歳でした。自宅の2階を改装して、4人の障がい者を受け入れました。そこから始まって、1996年に父が社長、私が専務の埼玉福興(株)を立ち上げ、障がい者と暮らすうちに、障がい者の行く場所、働く場所がないことを知りました。居住場所を確保して生活をケアするだけでは不十分なんですね。もっと社会とのかかわりをもつにはどうしたらいいか。そこがとても大切なことだと気づいたのです。
中川:
 障がい者も働ける場所が必要だということですね。
新井:
 そうですね。最初は縫製業の下請け作業を障がい者の方にやってもらいました。でも縫製業は下火でしたから、だんだんと仕事が減っていきました。それで、血圧計の腕帯を作ったり、ボールペンの組み立ての仕事を請け負いました。しかし、受注量は安定しないし、作業に慣れたころに仕様が変更になったりしますから、障がい者は戸惑ってしまいます。
 さらに、うちが請け負うような単純作業は海外に移したり機械化する企業が増えてきて、受注量はどんどん減っていきました。
中川:
 大変なピンチですよね。そんなときに農業に参入しようと決めたわけですね。
新井:
 農業というのは人が生きていく上で必要不可欠な食料を作るわけですから仕事がなくなるはずがないと考えました。また、農業にはいろいろな作業があって、どんな障がいがあっても、何らかの作業ができるはずです。先ほど見ていただいたように、ひたすら種を蒔くということでもいいし、草むしりならできるという人もいるし、作物を袋詰めするのが好きだという人もいます。
 父が昔から農業をやりたいと思っていたこと、障がい者の生活をケアする者として、どんな事態になっても食べ物を提供しないといけないという責任感。理由はいろいろありますが、農業への参入は大きな転機でした。
 2003年から農業参入に取り組んだわけですが、当時は福祉と農業とはまったく畑違いで、障がい者が農業の担い手になるといったことも理解してもらえず、私たちが農業に参入するハードルは非常に高かったですね。

<後略>

2020年1月20日 埼玉県熊谷市の埼玉復興(株)にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

農福一体のソーシャルファーム 〜埼玉福興の取り組みから〜 新井利昌(著) 創森社

           

2月「今井 仁」さん

今井仁

今井 仁(いまい・じん)さん

1949年埼玉県与野市(現さいたま市)生まれ。立教大学社会学部観光学科卒業。通産省外郭財団法人余暇開発センター、ぴあ株式会社を経て2000年50歳で独立。1994年取材活動を開始、2014年から本格的に作家の道に。2020年いまじん出版を創業。著書「全図解インターネットビジネス儲けのヒント」(あさ出版)「空海の秘密」(セルバ出版)「バリの桜 三浦襄の愛情物語」(双葉社)「伝活のすすめ」(いまじん出版)アマゾンでベストセラー1位

『子孫のために自分のことを書き残しておく「伝活のすすめ」』

暇と遊びの研究が最初の仕事。世界中のリゾートを回った

中川:
 今井さんの『伝活のすすめ』という本を読ませていただきました。「伝活」というのは今井さんの造語だそうですね。自分の人生を語り、伝え残す活動で「伝活」とはうまく表現したなと思います。「終活」ではウキウキしませんが、「伝活」ならやってみようという気持ちになれる気がします。
今井:
 ありがとうございます。伝活というのは、いわゆる自叙伝を書きませんかということです。しかし、文章を書いて本にするとなると、自分には無理だと尻込みしてしまう方がほとんどだろうと思います。私はこれまでたくさんの本を書いてきました。その経験をもとに、自叙伝作製のノウハウを紹介すれば、だれもが手軽に本が書けるのではと思って出版しました。財産を残すのも大切ですが、もっと大切なのは自分の生きた証を残すことではないでしょうか。そのひとつとして自分の人生を書き残してもいいと思います。
中川:
 祖父母がどんな人だったかなら、本人に記憶があったり、親に聞いて知ることができます。でも曽祖父よりも上の世代となるとわからなくなります。もし自叙伝が残っていたら、子孫もうれしいですよ。
 自叙伝を残しておけば、亡くなったあとも子孫が読んで、あれこれ話題にしてくれますよ。
私は子孫が思い出してくれることでご先祖様に光が届くと考えています。自叙伝によって、思い出してもらえるチャンスも多くなるし、その分、たくさんの光が届くと思います。
 今井さんの経歴を拝見していると、これまでいろいろなことをやっておられますよね。最初は通産省関係のお仕事ですか。
今井:
 大学卒業後は通産省外郭財団法人である余暇開発センターというところへ就職しました。そこでは暇と遊びの研究をしていました(笑)。
 「世界のリゾートで遊んでこい!」というのが最初の仕事でした。世界水準の遊びを体験し海洋性リゾートのエキスパートになれ!というわけです。
 1972年本土復帰した沖縄で、'95海洋博を行うことにし、それを起爆剤として沖縄を海洋性観光立県として産業構造変換させるという通産省の仕事です。世界中で遊んだ経験が生きましたね(笑)。
 その後、国民健康体力作り運動にもかかわり、日本体育協会、日本リクリエーション協会、日本医師会、日本商工会議所などと組んでトリム運動とかフィジカルフィットネスを普及するという仕事もやりました。
 当時の余暇開発センターの理事長は佐橋滋さんと言って、事務次官として日本の経済成長の旗振り役をやった方でした。豪快な人で、『官僚たちの夏』という城山三郎さんの小説のモデルにもなりました。NHKやTBSでもドラマになりました。佐橋さんには本当にお世話になりました。
中川:
 そのあと情報誌を出しているぴあ株式会社に転職するわけですね。
今井:
 余暇情報センターを作れということになって、徐々にITの関係に引き寄せられていったわけですが、ちょうど「ぴあ」が売り上げを伸ばしているときでした。
 「ぴあ」というのは映画・演劇・音楽・美術の情報だけが並んでいる雑誌で、余暇情報センターもそういうことをやりたいと思っていたときですから、この雑誌を手に取ったときには衝撃を受けました。それで、矢内廣社長に会いに行ったら、彼も余暇情報センターに興味をもっていて、1年くらいやり取りしていたら、「うちに来ませんか!」とスカウトされたんです。
 私も迷いました。それで佐橋理事長に相談しに行ったところ、理事長は、「いい話じゃないか。人に請われることは長い人生、そんなにあるものじゃない。チャンスだから行って来い」と、私の背中を押してくれました。32歳のときでした。
中川:
 そのころは終身雇用が当たり前で転職というのはあまりなかったかもしれませんね。ぴあ株式会社ではどういうお仕事をやられたのですか。
今井:
 矢内社長は、いくら売れる商品でも商品寿命は30年だと考えていて、「ぴあ」はちょうど10年目でしたから、10年後20年後に売れる新しい商品を開発してほしいと言われました。私は13ほどのアイデアを出しました。その中で矢内社長が「これだ!」と言ったのがオンラインでチケットを販売する仕組みでした。
 そこがスタートとなって出来上がったのが「チケットぴあ」です。このネーミングも私がつけました。社長にご縁つなぎをさせて頂いた佐橋理事長のお声掛けで、サントリーの佐治敬三さん、三井不動産の江戸秀雄さん、伊藤忠の瀬島龍三さん、日本精工・経済同友会の今里廣紀さんらそうそうたる方々が応援団としてバックアップしてくれました。
 ちょうどそのころ、劇団四季の浅利慶太さんがミュージカル「キャッツ」の興行権をブロードウエイから買ってきて、「ロングラン形式で日本にミュージカル文化を根付かせよう」と動いていました。その志に共鳴して、劇団四季のチケット販売を全面的に引き受けました。

<後略>

2020年12月17日 東京・八王子の今井さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

           

1月「西川 悟平」さん

西川悟平

西川 悟平(にしかわ・ごへい)さん

1974年大阪府堺市生まれ。15歳からピアノを始め、1999年に故デイヴィッド・ブラッドショー氏とコズモ・ブオーノ氏に認められ、ニューヨークに招待される。2000年、リンカーンセンター・アリスタリーホールにてニューヨークデビュー。2001年に両手の指が動かなくなり再起不能と診断される。リハビリによって機能を取り戻し、7本の指での演奏活動を始め、世界の超一流のホールでコンサートを行う。著書に「7本指のピアニスト」(朝日新聞出版)がある。PanasonicのCMや映画「栞」の主題歌に起用され、2019年にはベストドレッサー賞を受賞する。

『あきらめたらアカン! 指が動かなくてもピアノは弾ける』

大ピアニストの前座をやったことがきっかけでニューヨークへ

中川:
 西川さんの『7本指のピアニスト』(朝日新聞出版社)を読ませていただきました。絶頂期から一気にどん底に突き落とされ、そこからまた這い上がってくる。まさにジェットコースターのような人生ですね。だれもがいろいろな困難にぶち当たって苦しんだり悩んだりしますが、そんなときにこそ、考え方や生き方を変えることがとても重要だと改めて思いました。今日は、そのあたりのことをお聞きしたいと思います。
西川:
 ありがとうございます。私は今、全国でコンサートをしていますが、ぼくは絶対に無理だと思っても頭の中にクリアに想像できれば実現できるということを、7本指でピアノを弾く姿や実体験から感じ取っていただきたいと思っています。ですから、トークもけっこう重視していて、「トーク&ピアノコンサート」という形で行なっています。
中川:
 いろいろなエピソードをお持ちですからね。だいたい、15歳からピアノを始めて、プロのピアニストになる人もいないでしょう。
西川:
 中学生のときはチューバをやっていて、音楽の先生がとてもすてきな女性だったので、彼女の後輩になりたくて大阪音楽大学を目指すことを決めました。下心ありありです(笑)。高校生になって先生からピアノを習うことになり、先生が弾くピアノにものすごく感動して、チューバはやめてピアノ科に行くと決めました。そのことを先生に言うと、「今、ピアノを始めたばかりで、受験まで3年もないのに絶対に無理」と一刀両断でした。ドの音がどこにあるかを知ったばかりの超初心者が3年で音大のピアノ科に合格できるとはだれも思わないでしょうからね。
中川:
 常識的には100パーセント無理だと思います(笑)。
西川:
 でも、ぼくは無理だとは思わなかったんですね。毎日何時間も、課題曲をCDで聴きながら自分が見事に弾きこなしている姿をイメージしました。学校も行かずに一心不乱に練習をして、同時に理想の演奏を頭の中にクリアに描き出すことを続けると、いつかそれが合致するときがきます。ぼくの場合、受験の前に合致して推薦で憧れの先生の後輩になれました。
中川:
 すごいですね。どんなことでも「無理だ」「できない」と思ったら、もう前へ進めませんからね。無理だと思わないから、どうしたらできるようになるか、工夫が生まれてくるんでしょうね。まず一つのハードルを超えたわけですが、卒業してからも、いろいろなことがあったようですね。
西川:
卒業後、デパートに就職し和菓子の部門に配属されました。あるとき、調律師の方からニューヨークのジュリアード音楽院を卒業して世界中で演奏活動をしている大物ピアニストが大阪でコンサートを開くので前座で弾いてみないかと言われました。ジュリアード音楽院と言えば、ぼくにとっては夢のまた夢の音楽院です。そこを出て世界的に活躍しているピアニストの前座。そんなの、ぼくにできるはずがないと思ってしまうじゃないですか。「忙しくて時間がないので」とぼくは断りました。
 そしたら、調律師の方はぼくの目を見てこう言いました。
「どこの世界に音大まで出て、まんじゅうを売るのが忙しいからとコンサートを断るバカがいるんや。時間がないんやなくて、自信がないだけやろ」
 図星でした。ここまで言われたら後には引けません。「やります」と答えました。
中川:
 この決断が人生を大きく変えることになったわけですね。
西川:
 そうなんですよ。そのときはびびっていましたけどね(笑)。
コンサート当日、ぼくを出迎えてくれたのは、デイビッド・ブラッドショー先生とコズモ・ブオーノ先生という2人の大物でした。心臓が口から出るかと思うほど緊張しながら、それでもこんなチャンスはないと、あれこれ質問したのを覚えています。本番では清水の舞台から飛び降りるような気持ちで弾きました。演奏時間は約10分。緊張し過ぎて5~6回はつっかえてしまって、失敗したとうなだれて楽屋へ戻りました。そしたら、ブラッドショー先生はこんなアドバイスをくれました。
「表現したいことがいっぱいあるんだね。それはわかるけれども、技術が追いついていない。鍵盤をもっとコントロールすることを覚えれば、やりたいことが表現できる。やりたいという思いはきちんと伝わってきたよ」
 がっかりされると思っていましたから、この言葉には感動しました。がっかりどころか、この演奏がきっかけで、ぼくはニューヨークへ行って先生たちからピアノを教えてもらえることになったのです。
 デパートで和菓子を売っていた男がいきなりニューヨークですから、信じられないような展開です。

<後略>

(2020年11月20日 東京・江東区のシンフォニーサロンにて 構成/小原田泰久)

メディアの紹介

CD『西川悟平 20th Anniversary』

           

12月「平井 正修」さん

平井正修

平井 正修(ひらい しょうしゅう)さん

臨済宗国泰寺派全生庵住職。学習院大学法学部政治学科卒業。2002年より、中曽根元首相、安倍前首相らが参禅する全生庵の第七世住職に就任。2016年より日本大学危機管理学部客員教授。全生庵にて坐禅会、写経会を開催。『心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ』(幻冬舎)『老いて自由になる』(幻冬舎)など、多数の著書がある。

『不安なときは静かに坐って自分の内側に意識を向ける』

悩みやつらさを抱えつつ落ち着くことが求められる

中川:
 ご住職の書かれた『老いて自由になる。』(幻冬舎)という本を読ませていただきました。新型コロナウイルスで多くの人が不安を抱えている中で、どうすれば心が安らぐか、とても参考になりました
平井:
 ありがとうございます。もともとはそういう意図で書き始めたわけではなかったのですが、書いているうちにコロナの騒ぎが広がって、こういう内容になってしまったんですね。
 私は53歳になるのですが、50歳を過ぎると体力的にも社会的にも「あれっ」と感じることが多くなりました。疲れやすくなったり筋力が落ちたり、日々の生活の中で、若いころはこんなことがなかったのにと思うことも多々あります。
 大学時代の友人と会うと、若いころの勢いがなくなっていてびっくりすることがあります。出世コースから外れて出向させられた友だちもいます。こんなはずではなかったと思うのも50代なのだろうと思いますね。
 コロナ以前は、人生100年時代と声高に言われていました。50歳というとちょうど折り返し地点です。先はまだまだ長いのに、どうすればいいのかと途方に暮れているのが、私たちの年代だと思いました。
「あなたは100歳まで生きなければいけない」
「そのためには貯金がこれだけ必要だ」
「それまでに認知症になるかもしれない」
 そうやってさんざん脅されて、ますます不安になってしまいます。
 そんな矢先のコロナです。体力の衰えを感じ先が見えてきて、あれこれ迷っているときに、病気や死の不安にも襲われてしまっているのが現状なのではないでしょうか。こういうときこそ、「老い」とか「死」について考えないといけない。そう思って書いた本です。
中川:
 緊急事態宣言が出されるという物々しい状況でしたからね。感染すると死んでしまうのではないかという恐怖をもった人も多かったと思います。
平井:
 新型コロナウイルスを見くびってはいけないし、対策を十分に講じる必要はありますが、この何ヵ月かを見ていますと、肉体的なダメージよりも、精神的に痛めつけられている部分の方が大きいのではないかと思えます。コロナという「心の病」に冒されているような気がしてならないんですね。
中川:
 私も帯津良一先生はじめ、何人かのドクターにお話をうかがいましたが、みなさん、大騒ぎしすぎではないかという意見でした。いたずらに怖がるのではなく、免疫力を高めることを心掛ければ、感染を防ぐこともできるし、感染しても軽症ですむということだと思います。免疫力は気持ちの持ち方と密接に関係しているそうです。恐怖や不安に振り回されず、状況を冷静に見て、適切な判断をすることが大切なのだろうと思います。
平井:
 その通りですね。これだけコロナのことがテレビや新聞で騒がれれば気にするなと言われても無理なことです。不安や恐怖を持つのは当たり前です。人間というのは、不安は感じやすいのに、安心はキャッチできないようにできていますから。
 よく「落ち着く」と言いますが、一般的にはさまざまな問題が解決して安心できることを落ち着くと考えます。しかし、禅では、怒っていても、悲しくても、悩んでいても、その状態の中で落ち着くことが求められます。怒りや悲しみ、悩みといったネガティブな感情をなくそうとすると余計に落ち着かなくなります。最初から、「人はネガティブなものだ」と構えていれば大抵のことは容認できるものです。
 坐禅をすると、最初のころは足が痛くてつらいんです。とにかく痛い。朝晩で5時間くらい坐りますから。接心という1週間の坐禅の強化期間が年に6回から8回あります。そのときは1日10時間くらい坐っています。
 痛くて痛くてたまらないとき、師匠が「痛いか。足があったということじゃ。その痛いところに落ち着くのじゃ」と言うんですね。
 「五体満足という言葉があるじゃろ。禅では、片手片足がなくても五体満足、風邪をひいていても五体満足、明日死ぬという状態でも五体満足じゃ。そういうところが落ち着くということじゃ」
 そうは言われても、痛いものは痛いですから(笑)。なかなか師匠の言うような心持ちにはなれないですよ。
 私は、さんざん足の痛みを体験したことで、どんなつらい状況であっても、苦しみを消そうとするのではなく、今できることを探して、やってみることが大切だと気づくことができました。コロナでも、あれができなくなった、これができなくなったと嘆くのではなく、今何ができるかと考え、それをやってみることで、不安も少なくなるのではないでしょうか。
中川:
 痛みだけに心が奪われますが、まずは自分が置かれている状況を受け入れて、そこから先を考えるということでしょうか。
平井:
 受け入れるということは大切です。個人でも企業でも、自分の立脚しているところが見えないと先に進めないですから。
中川 足が痛いのも良しですかね(笑)。
平井 3年くらいすると慣れてきてそれほど痛くなくなります。そうなると坐っているときに余計なことを考えたり、眠くなったりします。痛くてたまらないときにはほかのことを考える余裕がないから無心でいられたのにですよ。何がいいか、わかりません(笑)。

<後略>

2020年10月8日 東京都台東区の全生庵にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

老いて、自由になる。 智慧と安らぎを生む「禅」のある生活 平井正修(著) 幻冬舎

           

11月「のぶみ」さん

のぶみ

のぶみ(のぶみ)さん

1978年東京生まれ。保育の専門学校に進み、そこで知り合った女性が絵本好きだったことから絵本作家になる。NHK eテレみいつけた!『おててえほん』担当。eテレアニメ『うちのウッチョパス』『ぼく、仮面ライダーになる』「しんかんくん』『うまれるまえにきーめた!』『ママがおばけになっちゃった!』など約200冊の絵本作品を発表している。

『ママも子どももいろいろなことを学べる絵本を作りたい』

悪いことが起こったときこそ、今運を貯めてると思う

中川:
 のぶみさんの『ママがおばけになっちゃった!』(講談社)という絵本を読ませていただきました。ママが交通事故で亡くなっておばけになるというお話ですが、死をテーマにした絵本ってあまりないですよね。
 私は、親と子が死について話し合うことはとても大切だと思ってきました。でも、あまり深刻になっても良くないし、絵本というのはいい手段だなと感心しながら読ませていただきました。死んだらすべてが無になると考えている人もいますが、私は魂と呼ばれるものが存在していて、亡くなったママが子どものことを思って会いにくるというのは十分にあり得ることだと考えています。あの絵本を読む限り、のぶみさんも魂はあると考えておられるようですね。
のぶみ:
 読んでいただいてありがとうございます。私はいろいろな体験から、魂はあると思っています。両親は牧師で、小さいころは礼拝所の上に住んでいました。礼拝所ではお葬式があって、私はよく見学をしていました。
 お葬式のとき、棺桶の横に人が立っているのがぼやーっと見えました。何度もありました。そのことが記憶にあったので、大人になってから、きっと人は死んだら自分のお葬式に出るのではないかなと思うようになったんです。もし自分が死んだら、きっと自分の葬式に出て、こいつも来てくれたんだ、あいつはどうしたって、きょろきょろするんじゃないかと思うんですね(笑)。
 絵本を描くようになって、長男がけっこうやんちゃで、妻が『私が死んじゃったらこの子、どうなっちゃうんだろう』とつぶやくのを聞いたとき、はっとひらめくものがありました。
 母親だったら、子どもが小さければ、絶対に子どものところへ行くんじゃないか。行くはずだ。そう思ってできたのが『ママがおばけになっちゃった』なんです。
中川:
 このお話では、おばけになったママは子どものことが心配でなかなかあの世へ行けないですよね。子どももたとえおばけでもママと一緒にいたいと思って、おばけになったママに甘える。
 亡くなった魂さんは、残された人のことが心配なんだと思います。残された人たちがいつまでも悲しんでいると、魂さんは後ろ髪を引かれるようでなかなか光の世界へ旅立っていけないんだと、私は思っています。
のぶみ:
 中川会長はおばけが見えるんですか?
中川:
 いえいえ、見えません(笑)。私はみなさんに氣をお送りするのですが、氣を受けた方の中には、思ってもみなことをしゃべり出す人がいるんですね。苦しみを訴えたり、恨み言を言ったりするわけですが、現在のことではなさそうで、どうも氣を受けている本人ではなくて、その人に影響を与えている魂さんが言っているようなのです。
 もう25年もそういうことをやっていますから、たくさんの人から出てくる不思議な話を総合すると、おばけは見えなくても、魂さんたちはどんなところにいて、どんなことを思い、何をしようとしているのか想像がつくわけです。
 残した子どものことが心配でたまらなくて苦しんでいる魂さんが出てくることもあります。亡くなったママがいつまでも子どものそばにいたい気持ちはわかりますが、それでは自分も子どもも幸せになれません。光の世界へ行くことで、もっと強い力で子どもを守り、応援できるんですね。そういう意味で、この物語はすばらしい結末だと思います。
のぶみ:
 中川会長の本を読ませていただきましたが、光の世界へ行けない魂さんがマイナスの氣であり、先代の会長がおっしゃっていたおばけなんですね。
中川:
 ご先祖様がマイナスの氣として子孫に影響を与えることがよくあります。だれにもたくさんのご先祖様がいて、中には悲しみとか恨みとか、ネガティブな感情をもって亡くなった魂さんもいるはずですから、だれもがマイナスの氣の影響を受けている、と私は考えています。
 マイナスの氣の影響を受ければ次々とマイナスの出来事が起こりますが、そんな中でどう生きるのかということが大切です。落ち込んでしまえば、まわりからさらにたくさんのマイナスの氣を集めてしまいますし、つらいことをバネにしてがんばれば、自分も成長するし、ご先祖様にも光が届いて、苦しんでいるご先祖様も楽になれます。
のぶみ:
 なるほど。コロナ騒ぎでも大変だ大変だと思っている人が多いと、マイナスの氣が増えてくるんですね。
中川:
 一時的には増えると思います。しかし、コロナは自分が変わるチャンスだとか、地球の環境が良くなったとか、プラスに考えられる人も増えているじゃないですか。そういう人が増えれば、形勢が逆転して、良くない波動は少なくなっていくと思いますよ。
のぶみ:
 実は、よくサウナへ行くのですが、この間、財布を忘れましてね。よく財布を忘れますが、これまでは必ず出てきました。でも、今度は見つからないんですね。免許証やクレジットカード、それに現金も8万円入っていました。
 それにインスタグラムが一時停止の制限がかけられ、一週間止まりますと言われ、踏んだり蹴ったりでした。
 一瞬落ち込みましたが、気持ちを切り替えることにしました。間もなく新しい絵本が2冊出ます。このマイナスに思える出来事は、2冊の絵本がヒットする予兆じゃないかと思うようにしました。
 何か良くないことがあっても「何だよ」って言わないようにしています。悪いことが起こったときこそ、今運を貯めてるなと思うようにしています。会長の考え方だと、これは大正解ですよね。

<後略>

2020年9月8日 東京都練馬区ののぶみさんのアトリエにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

左上:「ママがおばけになっちゃった!」 のぶみ(著) 講談社
右上:「さよなら ママがおばけになっちゃった!」 のぶみ(著) 講談社
下: 「暴走族、絵本作家になる」 のぶみ(著) ワニブックス

           

10月「Satoko」さん

Satoko

Satoko(さとこ)さん

大阪府堺市生まれ。フリーランスの作曲家として活躍していたときに、子宮頸がん、慢性骨髄性白血病であることが判明。闘病中に生まれた『宮古の風』でシンガーソングライターとしてデビュー。全国各地で行うコンサートのほか、がん患者さんや難病の子どもたちに笑顔と元気を届ける活動に励んでいる(コロナで休止中)。

『大きな力に動かされての音楽活動。 私の「神様の仕事」』

音楽には 瞬時に場のエネルギーを変える力があります

中川:
シンガーソングライターのSatokoさんのご自宅兼仕事場におうかがいしました。お部屋にはどーんとグランドピアノ。ギターやキーボードもありますね。壁には変わった楽器がかけられていますが、どこかの国の民族楽器ですか。
Satoko:
暑い中、わざわざお越しいただきありがとうございます。
壁にかかった楽器は、ブラジルとかメキシコのものです。タンバリンみたいなのがパンデイロといって、サンバやボサノヴァで使われるブラジルの楽器ですね。
民族や文化によって、楽器も違うし、奏でるリズムも違うのが面白くて集めています。
日本人は農耕民族のリズムです。沈む感じですね。お相撲さんが四股を踏むじゃないですか。ああいう重厚なリズムかな。
ブラジルだと浮き上がるようなリズムです。陽気で軽やか。まったく逆のリズム感をもっているんです。
たとえば、踏切の警報音、どんなふうに聞こえますか?
中川:
カーンカーンカーンですか。
Satoko:
そうですよね。日本人にはそう聞こえるのですが、ブラジル人は違うみたいなんです。
中川:
どう違うんでしょう。
Satoko:
ンーカンーカンーカって、日本人とは逆の聞こえ方みたいなんですね。それが音楽にも影響を与えているのではないかと思います。
中川:
へえー。初めて聞きました。確かに、カーンカーンカーンは沈むようだし、ンーカンーカンーカになると、浮き上がるような感じがしますね。
Satoko:
音楽には場の雰囲気を変える力があります。空気がどよーんと淀んでいるときには、サンバとかボサノヴァを流してみるといいですよ。さっきまで落ち込んでいたのに、音楽がかかった途端に踊り出したくなってしまいますから(笑)。
今は新型コロナウイルスでみなさん沈みがちです。でも、陽気な音楽を聴くと体が勝手に反応して、音楽を聴いているときくらいは、重い気持ちから解放されるじゃないですか。
中川:
なるほど。演歌とボサノヴァでは場の雰囲気がまったく違いますよね。クラシックにはクラシックの雰囲気があるし。それが音楽の力ですね。
Satoko:
私は、障がいがあったり、難病で体が動かせない人と一緒に音楽をやることがよくあります。彼らは海外旅行に行けないけれども、思考が豊かなので、音楽を聴きながら、意識の中で世界を旅するのです。ボサノヴァやサンバを聴くと、彼らはブラジルのあの陽気な人たちと踊っている気持ちになれるみたいなのです。
中川:
音楽で世界旅行ですか。なかなかない発想ですね。
Satoko:
会長はさっき、音楽の力とおっしゃいましたが、音楽にはある種のエネルギーがあると思うんですね。そのエネルギーに聴く人の意識が反応して、想像の中で世界を旅することができるのではないでしょうか。
特に民族楽器は、もともとは祈りのために作られたもので、エネルギーが強いように思います。
中川:
祈りですか。
Satoko:
多くの場合、雨乞いですね。水不足は命の危機に直結しますから、必死で祈ります。その願いを天に届ける手段のひとつが楽器だったのではないでしょうか。
多くの人が一斉に太鼓をたたくと、雨雲が広がって猛烈な雷雨になるのを体験したことがあります
中川:
雨乞いというのは、単なる迷信や気休めではなく、何か目に見えないエネルギーが作用して雨をもたらせることもあるのだと思います。
私はその目に見えないエネルギーを氣と呼んでいます。想いや意識が現実を作ると言いますが、私もそうだと思います。雨を降らせてほしいという強い願いが氣となって広がり、宇宙のエネルギーと共振して、現実に雨を降らせることもあると思います。
Satoko:
わあ、うれしいことを言ってくださって感動です。
このグランドピアノ、大屋根を開けてみますね。弦が並んでいるでしょ。こうやって見るとピアノが弦楽器だってわかるんですね。
会長、弦に向かって大きな声で「あー」と言ってみてくれますか。
中川:
あー!
Satoko:
どうですか?
中川:
声が響きますね。
Satoko:
そうでしょ。会長の声と同じ周波数の弦が共振現象を起こしているんですね。面白いでしょ。さっき会長が宇宙のエネルギーと共振するっておっしゃったじゃないですか。今は会長の声とピアノの弦との共振でしたが、雨が降ってほしいという想いが会長の声で、宇宙のエネルギーというのがピアノの弦じゃないでしょうか。
自分が強く発した想いは波動となって宇宙に広がって、同じ波長のエネルギーを響かせるのだと思うんですね。
実は、私は個人レッスンもやっていますが、こんな実験のようなことをして、意識や想いは大切ですよという話もしています。

<後略>

2020年8月24日 東京都西東京市のSatokoさんのご自宅にて 構成/小原田泰久

メディアの紹介

SatokoさんのCD「Flower of Life」、「宮古の風」、「みどりの風」

           

9月「関野 幸生」さん

関野幸生

関野 幸生(せきの・ゆきお)さん

1971年埼玉県生まれ。30歳で家業である農業を継ぐ。4年目から無農薬・無肥料による自然栽培を始める。1町歩の畑で野菜を栽培しつつ、各地で自然栽培の指導や講習・講演を行っている。著書に『固定種野菜の種と育て方』(野口勲氏との共著・創森社)『とっておきの野菜づくり』(渋谷正和氏との共著・成美堂出版)がある。

『無農薬・無肥料・自家採種で生命力のある野菜を作る』

肥料をやり過ぎると病気にもなりやすくなり虫が集まってくる

中川:
関野さんが書かれた『とっておきの野菜づくり』(成美堂出版)という本を読ませていただきました。写真がたくさんあって、私のように農業には不案内な者でも、ダイコンやニンジンはこうやって作るんだとイメージすることができます。どんな虫がつくかも書かれていて、農業をやろうという人にはすごく参考になりますね。
関野:
ありがとうございます。渋谷正和さんという長く有機栽培をしている方と一緒にまとめたものです。編集者の方も農業をやっていたので、とても力を入れて作ってくれました。でも、絶版になると連絡がありまして、とても残念です。
中川:
絶版ですか。残念ですね。これを一冊もっていると農業はやりやすいと思います。私は、これからは農業がとても大切になってくると思います。特に、関野さんがやっておられる自然栽培は、健康の問題、環境の問題にもかかわるということで、ますます注目されるのではないでしょうか。
関野:
農薬も肥料も使わない自然栽培を始めて16年になりますが、始めたころはなかなか理解してもらえませんでした。みなさん、肥料なしで野菜ができるはずがないという先入観があって、有機栽培ならわかるけれども、自然栽培は無理だろうと言われました。
ところが何年か続けているうちに興味をもってくれる人が出てきて、インターネットで仲間ができたり、扱ってくれるお店や飲食店が増えてきました。奇跡のリンゴの木村秋則さんが本や映画で話題になったのも追い風でしたね。
中川:
野菜を作ればそれだけ土地の養分が減ると考えますよね。減った分、肥料で補わないといけないというのが普通の考え方なのでしょうね。関野さんの家はもともと農家だったのですか。
関野:
私が4代目です。地主ではなく小作でたくさんの畑があったわけではありませんでした。父も、それほど一生懸命に農業をやっていた人ではなかったですし。
私は、車の整備士をやっていて、30歳になったのをきっかけに農業を継ぎました。祖父が種のまき方、収穫の方法、出荷の仕方など、基本的なことを教えてくれました。祖父が教えてくれたのは、農薬も化学肥料も使う普通の農業です。私は、農薬は使いたくないと思っていたので、2年目から無農薬にして、肥料は試行錯誤しながら使っていましたが、4年目からは農薬も肥料も使わない自然栽培を始め、16年がたちました。
中川:
今、どれくらいの広さの畑をやっておられるのですか。
関野:
最近3反ほど借りて、1町になりました(1反は約1 0 0 0 ㎡。一町は約1 万㎡)。40種類ほどの作物を、基本的には妻と2人で作っています。たまに研修という形でお手伝いに来てくれる方もいます。
中川:
自然栽培については、木村秋則さんや川口由一さんら大御所にもお話をお聞きしたことがあって、ずっと興味をもっていましたが、彼らもとても苦労をしてやり遂げています。関野さんもご苦労はあったのではないでしょうか。
関野:
農薬をやめたとき、私の畑は住宅街にあったので、虫なんかこないだろうと思っていました。ところが、どこからともなくやってくるんですね。そして、葉っぱを食べてしまいました。虫食いの野菜は出荷なんかできないですよ。
そのときに、農薬を使わずに栽培するには知識も経験も必要だと痛感し、本を買って独学で無農薬栽培のやり方を模索しました。『野菜づくりと施肥』(農文協)という本がすごく参考になりました。そこには肥料をやり過ぎると良くないと書かれていました。ネットを見ると、肥料を使わずに野菜を作る方法があると知り、半信半疑でしたが始めてみました。
試行錯誤の連続で、何となく行けると思ったのが7年目。8年目からは、だいたいの作物が無肥料でも育つようになりました。ピーマンなんかはいまだに苦戦していますけどね。
中川:
肥料をやり過ぎるのは良くないんですね。
関野:
人間でも朝昼晩とお腹いっぱいご飯を食べると体調を崩すじゃないですか。食べ過ぎて病気になっている人はたくさんいます。どんな生き物も食べ過ぎは良くないのではないでしょうか。
中川:
肥料をたくさんあげれば大きくて立派な野菜ができるように思ってしまいますけどね。
関野:
肥料をたくさん入れれば野菜は大きくなりますが、言ってみれば、メタボの野菜です。ダイコンをおろすと水ばっかりじゃないですか。水膨れなんですよ。自然栽培のダイコンは、おろしても綿みたいにフワッとしています。キュウリもそうですが、肥料で大きくなっても、水を食べているようなものです。
中川:
肥料をあげると病害虫も多くなるんですね。
関野:
植物には細胞膜の外に細胞壁があります。肥料をあげると、細胞壁が薄くなってしまうことがわかっています。それに細胞同士の結びつきも弱くなります。そのために病気にかかりやすくなります。不健康な野菜だと、虫も集まってきます。

<後略>

著書の紹介

「とっておきの野菜づくり」 関野 幸生、渋谷正和(共著) 成美堂出版

           

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