2021年6月「岩本 光弘」さん
- 岩本 光弘(岩本 光弘)さん
1966年熊本県生まれ。生まれつき弱視だったが、16歳で全盲になる。教員になるために筑波大学理療科教員養成施設に進学し、在学中アメリカ・サンフランシスコ州立大学に留学。筑波大学附属盲学校鍼灸手技療法科で14年間教員として勤務。2006年サンディエゴ州に移住。2013年ヨットにて太平洋横断に挑戦するもトラブルが発生し断念。2019年再チャレンジで見事に成功する。
『絶望を希望に変えた盲目のヨットマン。太平洋横断に成功!』
目が見えなくなったのも意味があるという伯父さんのメッセージ
- 中川:
- 岩本さんは生まれつきの弱視で、13歳のころから視力を失い始め、16歳で全盲になったということですが、徐々に見えなくなるというのは、私には想像ができないのですが、とてもつらいことでしょうね。
- 岩本:
- 自転車に乗っていても、だんだんと視力が落ちてくると、木や車にぶつかってしまいます。自分は目が見えなくなるんだと思うと、恐怖と不安でおしつぶされそうになりました。
全盲になったのは16歳のときでした。落ち込んでしまって、ほとんど外に出かけることができなくなりました。あるとき、歯磨き粉を歯ブラシではなく手につけてしまいました。こういうことすら人のお世話にならないといけないのかと絶望してしまって、死んだ方がいいと思い詰めました。
母に「なんで産んだんだ!」と怒鳴ったこともありました。 - 中川:
- 絶望の中にいた岩本さんが、2013年にはヨットでの太平洋横断にチャレンジします。このときは途中で断念しましたが、2019年には再チャレンジして、見事に成功しました。
普通に考えれば無謀とも思えることを成し遂げた岩本さんのストーリーは、何かで迷っている人、悩んでいる人、落ち込んでいる人には、すごく参考になると思います。
全盲になった16歳のとき、人生を決めるような大きな出来事があったそうですね。 - 岩本:
- 全盲になったころは、お気に入りの海が見渡せる橋から飛び込んで自殺しようと真剣に考えていました。実際に、その橋まで行きましたが、どうしても飛び降りることができず、近くの公園に行ってベンチに座っていたら、いつの間にか眠ってしまいました。
そのときに、5年前に50歳で亡くなった伯父さんが夢に出てきて、私に語りかけてきたのです。伯父さんは、私を自分の子どものようにかわいがってくれました。人のことを第一に考える伯父さんで、人望もあって、私はとても尊敬していました。伯父さんは私にこんなことを言いました。今でもしっかりと記憶の中に焼き付いています。
《お前の目が見えなくなったのには意味がある。お前がポジティブに生きる姿を見せることで、見えていても何のために生きているのかわからなくなっている人たちに、勇気と希望を与えるんだ。
きっと彼らはお前から、目が見えない人から、何か希望を見る。だから自分の命を断とうとするな。逃げるな。
目が見えないことにも意味があるんだ。まわりの人々を励ますために、勇気を与えるために》
というものでした。天から、宇宙からのメッセージだったのでしょうか。
そのときは意味がわからず、歯ブラシに歯磨き粉もつけられないぼくが、目の見えている人に勇気や希望を与えるなんてあり得ないと思っていました。でも、死んじゃいけないんだなということだけはわかりました。 - 中川:
- きっと伯父さんが岩本さんのことを心配して、あちらの世界からメッセージを送ってくれたのではないでしょうか。その意味が、時間がたつにつれて、少しずつわかってきて、その後、とても行動的な生き方ができるようになったのだと思います。
高校時代にはアマチュア無線を勉強し、海外の人と英語で話したいと英会話学校に通い、盲学校を卒業した後は専門学校の鍼灸科へ進み、さらに鍼灸の技術を視覚障がい者に教えたいと筑波大学に進学します。絶望の中にいた岩本さんとは別人のようにダイナミックですよね。 - 岩本:
- 徐々にですが、できないと思っていたことができるようになってきました。歯磨き粉もつけられるようになったし、みそ汁をこぼすこともなくなると、気持ちも前向きになってきましたね。
伯父さんの言った言葉の本当の意味がわかったのは、23、4歳だったか、大学の友人と富士山に登頂したときのことでした。まわりの人たちが、『目が見えないのにすごいですね』と声をかけてくれるんですね。『勇気づけられます』と言ってくれた方もたくさんいました。こういうことなんだと、伯父さんの言ったことが理解できました。それがきっかけで、いろいろなことに挑戦しようと思えるようになりました。
<後略>
2021年4月6日 エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久
- 著書の紹介
「見えないからこそ見えた光 絶望を希望に変える生き方」 岩本光弘(著) ユサブル