2019年10月「大野 聰克」さん
- 大野聰克(おおの・としかつ)さん
1945年長野県下伊那郡生まれ。飯田工業高校卒業後、民間企業を経て、1980年に埼玉県川越市に電気機器関連の会社を設立。1991年帯津三敬病院で直腸がんの手術を受ける。それを機に生活が一変。1999年帯津三敬病院の職員となり患者さんと太極拳をやったり、ビワ葉温灸の施術をする。著書に「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)がある。
『がんはその人を生かすため、 助けるためにできる』
5年生存率3割。 1万人中3000人と考えれば元気が出る
- 中川:
- 大野さんが書かれた『ガンは悪者なんかではない』(風雲舎)という本を読ませていただきました。30年前に4期の直腸がんになって、それを独特の考え方で克服されました。大野さんならではのとてもユニークな話が展開されていて、なるほどと思うことがいっぱいありました。
- 大野:
- ありがとうございます。自分は健康だと信じ切っていましたから、がんと診断されたときにはショックを受けました。
もう自分は死んでしまうんだと思うと夜も眠れませんでした。睡眠薬を飲んで寝るんですが、夜中の2時ごろには目が覚めて、それから夜が明けるまでの時間の長いこと。 - 中川:
- 手術を受けて、人工肛門になりますよね。
- 大野:
- 人工肛門はがんになったこと以上にショックでしたね(笑)。そんなことになるなんて、想像もしていませんでしたから。
- 中川:
- しかし、考え方を変えて、徐々に恐怖や不安から脱却しますよね。
- 大野:
- 自分の命がかかっていますから、がんについていろいろ勉強しました。でも、本を読めば読むほど絶望してしまいます。これじゃいけないと、本を読むのをやめて、自分で考えることにしました。
- 中川:
- 5年生存率が3割だと言われたら、多くの人が絶望するのに、大野さんは違う考え方をしましたね。
- 大野:
- 私のような状態だと5年後も生きている確率は3割くらいだろうと思いました。3割というと10人のうちの3人に入らないといけません。けっこうハードルが高いですよね。そのとき私が考えたのは、10人のうちの3人と考えるからきついわけで、もし1000人だったらどうだろうということでした。300人ですよね。300人でも厳しいと思えるなら、1万人ならどうだろう。3000人ですよ。
たとえば、マラソンでも、10 人走って3人の中に入るのは自信がありませんが、1万人のうちの3000番までなら入れるかもしれないと思えるじゃないですか。そう思うことですごく心が軽くなりました。 - 中川:
- そのとおりですよね。ちょっと考え方を変えると、気持ちも変化していくし、希望も出てきますね。
- 大野:
- 気持ちが楽になると、考え方も前向きになってきます。
当時45歳でしたが、昔なら、50歳くらいで亡くなる人がたくさんいたわけで、自分もそこそこ長生きしたのではないかと思えるようになりました。100歳まで生きても、早いか遅いかの違いで、死ぬときには不安や恐怖があるのではないでしょうか。死に対して少しは腹がくくれたかなと思います。
そのときから、残された時間が少ないなら、その時間を大切にしようと考え始めました。思い出をいっぱい残したい。楽しいことをいっぱいしたい。この世に私という人間がいたことを少しでもたくさんの人に覚えておいてもらいたい。そう思って、一瞬一瞬を大切に生きられるようになりました。 - 中川:
- がんと診断されると、すぐに死を連想してしまいます。それで多くの人が落ち込んでしまうんでしょうね。気持ちが落ち込めば免疫力も低下しますから、病気も進行してしまいます。
- 大野:
- がんと診断されても、その時点では死んでいないわけです。もっと体力が落ちると死ということになりますが、今は死んでないのだから、今よりも少しでも体力や生命力を上げれば死から遠ざかることができます。だから、私は少しでも体力をつけようと
考えました。手術を受けてすぐに廊下を歩き回って貧血を起こしたこともありました。病院の階段を上ったり下りたりもしました。 - 中川:
- がんになったころ、大野さんは電気関係のお仕事をされていたということでしたね。
- 大野:
- 下請けでしたが、小さな工場を経営していました。
- 中川:
- お忙しかったでしょう。
- 大野:
- バブルの最盛期でしたから、いくらでも仕事がありました。好きな仕事だったので忙しかったけれども充実していました。
でも、確実に体を酷使していました。徹夜なんてざらだし、食事も食べられるときに何でもいいので腹に入れていました。工場にこもりっきりだったので運動不足です。冷たいコンクリートの上で何時間も働いていますから、体が冷えます。
それにいつも納期に追われていて、常にストレスを抱えていました。
仕事仕事の毎日で、家へは寝に帰るだけ。今思い返せば、病気に向かってまっしぐらの生活でした。女房は「いつか体を壊すのではないか」と心配していたようです。
<後略>
2019年8月28日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久
- 著書の紹介
「ガンは悪者なんかではない」(大野聰克 著)風雲舎