2014年1月 「水谷 もりひと」さん
- 水谷 もりひと(みずたに もりひと)さん
1959年宮崎県生まれ。明治学院大学文学部卒。学生時代に「国際文化新聞」を創刊。卒業後、宮崎に戻り、宮崎中央新聞に入社。94年に編集長となり、表記を「みやざき中央新聞」と変え、内容も一新する。また、ラジオのパーソナリティとしても活躍し、講演会や読者会で全国を回る多忙な日々を送っている。著書「日本一心を揺るがす新聞の社説」(ごま書房新社)はベストセラーとなり、第二弾、第三弾も発売中。最新著書「この本読んで元気にならん人はおらんやろ」(ごま書房新社)
『宮崎から世界に向け、新聞を通してプラスの氣を発信する』
新聞社を譲り受け、プラスの情報を発信する新聞を作り始める
- 中川:
- はじめまして。水谷さんが編集長を務めておられる「みやざき中央新聞」を拝見しました。名前を見て、宮崎県のことが書かれている新聞かと思ったのですが、ぜんぜんそんなことはなくて、編集長のエッセイのような社説から始まり、いろいろな方の講演の内容が紹介されていたりして、とても興味深く読ませていただきました。
産婦人科医の池川明先生とかヨットの白石康二郎さんといった、月刊ハイゲンキにも登場していただいた方の講演も紹介されていて、すごく親しみを感じます。どういったことで、こういう新聞を作ろうと思われたのですか。 - 水谷:
- 今日はこういう機会を作っていただいてありがとうございます。
私、学生時代を東京で過ごしたのですが、留学生との交流がきっかけで、国際交流に目覚めまして、その後、国際交流を体験した仲間たちで国際感覚や国際性を啓発しようと、「インターナショナル・カルチャー・プレス(国際文化新聞)」というフリーペーパーを発行したんです。広告を企業から募りまして、東京都内の大学で無料で配っていました。スタッフもいろいろな大学から集まっていて、かなりエネルギーを注ぎました。おかげで2年留年しましたね(笑)。
30歳で結婚して、子どもの出産と同時に宮崎へUターンしました。最初は仕事もなく、フリーターみたいなことをしていたのですが、2人目の子どもができてからは真面目に仕事せなあかんと思いまして、ハローワークに行き、そこで「新聞記者募集」という求人票を見つけたんです。これはいいなと思って応募し、採用されたわけです。
この新聞は県庁の広報課からもらった情報をそのまま流すといった面白味のないものでした。心の中で「もし自分に編集を任せてもらえたらおもしろい新聞を作れるのに」と思いながら、生活のために働いていたのですが、1年くらいして、社長に呼び出され、「自分はもう引退する。あんた、引き継いでやらないか?」と言われて、「やります」と即答しました。 - 中川:
- 面白いですね。もらっちゃたんですね。それがいつごろの話ですか。
- 水谷:
- 23年前です。もらったのはいいんですけど、「台所」は火の車で、一人分の給料も出る状況ではなかったので、2人いた社員には辞めてもらって、新たにぼくの妻を入れて2人で再スタートとなったわけです。というのは、事情を相談したとき、妻が「私が営業をするから、あなたがいい新聞を作って」と言ってくれまして、それから彼女が飛び込み営業から始めて、今日の新しい読者の基盤を作っていきました。
当時の情報源は行政がメインでしたから、行政が行うイベントに取材に行くんですけど、時々、記念講演があるんですね。ほかの新聞記者は式典が終わったら帰ってしまって、翌日の紙面に「こんな大会が開催されました」という簡単な記事しか載せません。でも、私は、記念講演まで聞いていて、どんな話が語られたかを書いていたんです。それが面白いと評判になって、それなら、それを専門にしようと、講演会の中身を紹介するようになりました。今は、宮崎県内だけでなく、全国を回って、感動した講演、為になった講演、面白かった講演を紹介しています。 - 中川:
- この新聞を読ませていただくと、たくさんの勇気や元気をいただけますね。普通、新聞というと、凄惨な事件とか事故、紛争、災害、病気、いろいろな不祥事など、不安をあおるような記事が多いですよね。読んでいるだけで気が重くなってきます。新聞だけでなく、テレビでも雑誌でも、ネガティブな報道が多くて、私どもの言い方だと、マイナスの氣がどんどんと送り込まれています。そんな中で、こういうプラスの氣を送ってくれる新聞は貴重ですよ。
- 水谷:
- 実は、対談するに当たって、中川会長のラジオ番組を拝聴しました。その中に運気を上げる14の方法があって、そのひとつに「情報をあまり取り過ぎない」というのがありましたよね。私も大賛成です。
- 中川:
- 真氣光は私の父が始めたものですが、父は新聞やテレビのニュースからは悪い波動を受けるから、あまり読んだり見たりしない方がいいと言っていましたね。
そういう意味では、こういう新聞なら多くの人に読んでもらいたいなと思いますね。でも、最初のころは、広げるのに苦労されたんじゃないですか。 - 水谷:
- 最初の10年間は、購読者が少し増えたと思ったら減ってということの繰り返しでした。私は、取材が楽しかったので、毎日ワクワクして飛び回っていましたが、営業をやっていた妻は大変だったと思います。彼女は飛び込み営業を始めるにあたって、自分でルールを決めました。それは「1軒も飛ばさないで飛び込む」。だからやくざの事務所であろうと、風俗のお店であろうと、銀行であろうと、1軒も飛ばすことなく回っていました。だいたい100軒回れば3軒くらい話を聞いてくれて見本紙を受け取ってくれ、1か月後に返事を聞きにいくと、3軒のうちに1軒は有料購読をしてくれるという割合でしたね。
(後略)
(2013年10月25日 東京都豊島区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)
- 著書の紹介
「日本一心を揺るがす新聞の社説」 水谷もりひと 著 (ごま書房新社)