今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2013年2月 「草場 一壽」さん

草場 一壽(くさば かずひさ)さん

1960年佐賀県佐賀市生まれ。1987年、焼き物の里・有田に入り、新しい表現「陶彩画」の模索と研究を始める。以後、全国各地で展覧会を開催。2004年には、初の絵本『いのちのまつり ヌチヌグスージ』(サンマーク出版)を刊行。小学校3 年生の「道徳」の副読本にも掲載される。その後、『いのちのまつりつながっている』『いのちのまつり おかげさま』も刊行され、幅広い世代に愛されている。 http://manai.co.jp/

『私たちはご先祖様のいのちとつながって生きている』

「いのち」や「愛」は言葉だ けでは伝わっていかない

中川:
はじめまして。2005年でしたが、沖縄へ行ったときに、草場さんの書かれた「いのちのまつり」という本を見つけました。とてもいい本だったので、会員さんにもご紹介しました。今日は、草場さんにお会いできるのを楽しみにしていました。
草場:
ありがとうございます。私も、氣のことにとても興味があるし、うちのスタッフも氣が大好きな者ばかりなので、中川会長が来られるのを心待ちにしていました。
「いのちのまつり」を読んでくださったそうですが、おかげさまでたくさんの方に読んでいただき、道徳の副読本としても採用されています。沖縄の皆さんは、沖縄の文化を広げてくれたと、とても喜んでくださっていて、バスガイドさんが、観光客のために、バスの中で、この本の読み聞かせをしてくれています。空港にも本を並べてくださっています。
中川:
すごいですね。この絵本は、何ページか読み進めると、面白い仕掛けがあって、だれもがはっとしますよね。私も、びっくりするやら、感心するやら。すごいインパクトでしたよ。
草場:
いのちのつながりをテーマにして、ご先祖様がたくさんいることを伝えたかったのですが、「たくさん」と言葉で言っても、子どもたちは、自分の体験をもとに考えますから、10人でたくさんだと思う子もいれば、100人の子もいます。それなら、視覚に訴えた方がいいというので、まさに「たくさん」のご先祖様の顔を描きました。あれを見れば、理屈抜きにたくさんのご先祖様がいることがわかると思いますね。
この絵本、もともとは自費出版でした。お絵描き教室をしていた保育園のクラスの子どもと卒園する子どもにプレゼントするのに31冊を作ったのが始まりです。
中川:
それが瞬く間に広がって、30万部を超えるベストセラーになったそうですね。
こういう絵本を作ろうと思ったのは、何がきっかけだったのですか。
草場:
私の本業は、陶彩画という焼き物の画家です。故郷は、佐賀県の武雄市というところで、隣の有田ともども、有田焼で有名な地域です。私は絵が大好きだったものですから、有田焼の技法を基本にして、絵が描けないだろうかと思いました。まわりの人に相談すると、ほとんどの人から「そんなのは無理だ」と言われ続けましたが、中には、理解してくださる人もいて、試行錯誤、暗中模索の末、陶彩画というのを作ることができました。まったくのオリジナルですから、陶彩画家というのは、世界で私一人です。
今は、武雄と東京にギャラリーを設け、多くの人に作品を観ていただけるようになりましたが、最初はずっと失敗の連続で、食べていくのに四苦八苦しているような状態でした。そんなときに、地元の保育園の園長先生から、「うちの保育園でお絵描き教室をしてみませんか」というありがたいお誘いを受けたのです。それから10年間、私は保育園で、どもたちにお絵描きを教えましたが、そのときの体験が、この絵本の原点にあるのかなと、思っています。
中川:
子どもと接すると、いろいろなことに気づかされますからね。貴重な体験をされましたね。
草場:
大人目線で何かを伝えようとしても、何も伝わっていかないことがわかりました。特に、私は、「いのち」とか「愛」を子どもたちに伝えたかったのですが、言葉でいくら力説しても伝わっていきません。
私が、「いのち」とか「愛」にこだわったのは、保育園でお絵描き教室をしているころ、いのちを粗末にするような悲惨な事件が頻発したからです。1997年の神戸の連続児童殺傷事件を皮切りに、私の住む佐賀近辺でも、西鉄バスジャック事件とか、長崎で男の子が駐車場の屋上から突きとされた駿ちゃん事件、佐世保でも女の子が殺傷されました。私は、いのちって何だろうと、考え込んでしまいました。なぜいのちは大切なのだろう、それに答えられる先生も親もいません。私自身も、いのちがなぜ大切かと言われて答えられない。
そんなときに、父が心臓の手術で脳死状態になり、1年3ヶ月、意識がないまま生きて、2001年に亡くなりました。大好きで尊敬していた父でした。手術の前の夜、お前は手術が終わってから来なさいというものですから、私は手術室へ向かう父を見送ることができませんでした。あのとき、朝から病院へ付き添っていけば良かったと、今でも悔いが残っています。そんなことがあって、いのちに対する自問自答が始まりました。
中川:
そうですか。私の父が亡くなったのは1995年でした。脳出血で、2度倒れて、2度目のときは、意識も戻らず、そのまま旅立っていきました。真氣光というのは、父が始めたものですが、最初は、私も信じていませんでした。電機メーカーの技術者でしたから、自分には氣なんて関係ないと思っていました。でも、仕事のストレスから体調を崩し、それが氣で良くなったことで氣に興味をもつようになり、父の会社に入って、氣のことを勉強し始めた矢先に、亡くなってしまいました。右も左もわからない状態で、真氣光を引き継ぐことになって、戸惑うことばかりでしたが、今考えると、私にとても大事なテーマを残して旅立って行ったような気がします。
草場さんのお父さんも、草場さんに「いのち」のことをもっと考えて、多くの人に伝えていけと、テーマを与えてくれたのかもしれないですね。
草場:
そうですね。父が亡くなって、私は大泣きしました。そして、これからは自分が父に代わって家族を守っていかないといけないんだという気持ちになりました。このときに、私も自立できたのかなと思います。そのあと、すぐに沖縄へ行く機会が巡ってきました。

(後略)

(2012年12月17日 東京都品川区の池田山公園ギャラ リーにて 構成 小原田泰久)

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