2012年2月「高橋 淳」さん
- 高橋 淳(たかはし じゅん)さん
1922年(大正11年)東京生まれ。海軍予科練に入隊し、海軍飛行隊として戦線に赴く。昭和28年、日本飛行連盟発足に参加。以来、小型軽飛行機のプロパイロットとして活躍。パイロット養成のほか、赤十字飛行隊隊長として、災害時にはボランティアで救護活動を行う。これらの活動に対して、厚生労働大臣、国際航空連盟から表彰状が送られる。現在、日本飛行連盟名誉会長。
『日本最高齢のプロ・パイロット。ヒコーキこそ永遠の恋人』
小学生のときから飛行機 に乗りたくて、予科練に 入った
- 中川:
- 家内が「徹子の部屋」で高橋さんを拝見しましてね。すばらしい人がいるからというので、ぜひ、お話をうかがいたいと思って、こうやって押しかけました。今日はよろしくお願いします。
- 高橋:
- いやあ、恐縮です。知り合いの奥さんが広告会社に勤めていまして、その方が、こんなのがいるよと、テレビ局の人に私のことを話したみたいですね。
いい体験をしましたよ。さすがに人気のある番組ですね。ベンツの560で送り迎えをしてもらいましたよ。そして、局へ着いたら特別応接室ってところへ案内されまして、すごい部屋でしたね。そこへ徹子さんがあいさつにこられて、少しお話をして、それから、リハーサルもなしに本番ですよ。スタジオも立派なものでしたよ。 - 中川:
- 反響がすごかったんじゃないですか?
- 高橋:
- 電話やFAXが次々に入ってきました。やっと落ち着きましたけどね。昔の飛行機仲間とか、操縦を教えた人たちからですね。
- 中川:
- 高橋さんは、最高齢のパイロットでいらっしゃるわけですね。89歳ということですが、かくしゃくとされていて、とても若々しいですよね。その赤いジャンパーもお似合いですよ。
- 高橋:
- 徹子の部屋でも、これを着てほしいと言われました。特注なんですよ。背中の刺繍、見てくださいよ。
- 中川:
- すごいですね。やっぱり柄は飛行機ですね。世界にひとつしかないジャンパーですよね。こういうおしゃれな洋服を着ようという気持ちがあるから、いつまでも現役で飛行機が操縦できるんでしょうね。
- 高橋:
- ぼくはおしゃれが好きですし。それに、年を取ったからって、地味な格好をすることはないと思っています。うちは、息子の嫁が、いろいろとアドバイスしてくれるんですよ。徹子の部屋のときも、嫁のアドバイスでGパンを1本買いましたよ。たくさんもっているのに、それじゃダメだって言われましてね(笑)。
- 中川:
- いいですね。それで、高橋さんは、いつごろから飛行機に乗ろうって思っていたのですか?
- 高橋:
- もう昔々の話ですよ(笑)。小学生のころから飛行機に乗りたいと思っていましたね。当時の中学校は5年生までありましたが、3年のときからグライダーに乗って、もう空の虜になってしまいました。
- 中川:
- 戦前の話ですよね。まだ飛行機もあまりなかったんじゃないですか。
- 高橋:
- そうね。でも、将来は飛行機乗り以外には考えられなかったですね。それで、飛行兵を養成する予科練という制度があるのを知って、すぐに応募しました。昭和16年10月ですから、太平洋戦争が始まるちょっと前ですね。ぼくは、18歳でした。
- 中川:
- 夢はかなったわけですが、すぐに戦争になってしまったわけですよね。
- 高橋:
- 2ヶ月後には真珠湾攻撃があって、太平洋戦争が始まってしまって、訓練もそこそこに戦地へ行かされました。最初は、地上部隊で訓練を受けて、それから実践部隊として飛びました。
ぼくが乗った飛行機は、大型の双発機でした。大型の飛行機なので消耗が激しくてね。スピードも遅いし、あれに乗っていた人で、生きているのは少ないんじゃないかな。
南方にいたぼくの部隊でも、最初は40機くらいいたけど、終戦の前の年にはほんの2~3機でしたからね。
それから内地へ帰ってきて教官を少しやって、米軍が沖縄へ上陸しましたから、鹿児島の出水(いずみ)というところにある飛行場から沖縄攻撃へ飛んで行ったりね。
終戦間際では、このタイプの飛行機だと、残っていたのはぼくのだけだったですよ。それから、北海道へ移れということになって、北に向かって移動しているときに、終戦になりました。23歳のときでしたね。 - 中川:
- よく生きて帰れましたね。危ないこともあったでしょう。
- 高橋:
- 雨のように弾が飛んできましたよ。それをかいくぐって、敵艦に向けて、魚雷を発射するんですからね。
- 中川:
- かいくぐるって言われますけど、そんなことできるんですか。雨のように弾が飛んでくるのに。
- 高橋:
- 敵は、飛行機の前方を狙って撃ってくるでしょ。飛行機は前へ飛んでいるからね。だから、そのまま飛んでいれば当たってしまいます。だから、飛行機を横滑りさせるという技術を使うんですね。自動車で、急カーブを切ると、横滑りするじゃないですか。あの要領ですよ。それで何とかかわしてきました。
それから、敵艦に向かうときも、甲板の下を飛んで弾に当たらないようにして、魚雷を落とします。魚雷攻撃は、2、3回行ったら帰って来なかったですよ。10機行けば、帰ってくるのは半分くらいだったな。
(後略)
(2011年12月6日 東京都調布飛行場内にて 構成 小原田泰久)