今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2010年2月 「久郷 ポンナレット」さん

久郷 ポンナレット(くごう ぽんなれっと)さん

1964年カンボジアのプノンペンに生まれる。ポル・ポトの暴政によって、両親と兄弟4人を失い、自らも強制労働下でマラリアにかかり死線をさまよう。80年に来日。88年日本人男性と結婚。2児をもうける。2005年母や姉妹が亡くなった場所で慰霊の儀式を行う。2006年には慰霊塔を建立。著書「色のない空」「虹色の空」(ともに春秋社刊)

『憎しみを鎮めるには、憎しみをもたないこと』

辛い思いをして亡くなった人たちのことを忘れていいのか

中川:
久郷さんの「虹色の空」を読ませていただきました。大変な体験をされてきましたね。大きな山を乗り越えられたという気がします。でも、こうやってお会いしたら、とても明るい方で、安心しました。
久郷:
ありがとうございます。明るさだけが取り柄なものですから(笑)。
中川:
久郷さんは、カンボジアのお生まれで、10歳のときに、ポル・ポト政権となって、いわゆる暗黒時代が始まるわけですね。家族9人が強制退去させられて、お父さんは強制退去の途中で連行され、お姉さんは病気で亡くなり、お兄さんも行方不明になった。そして、残った6人も、強制労働に従事させられて、お母さん、お姉さん、妹さんは殺されてしまった。2人のお兄さんとやっとのことで日本に来られて、命は助かったけれども、どんなにか辛かったか、想像するだけでも、胸が痛くなります。当時のカンボジアの状況を知らない人も多いと思います。辛い体験をこうやって本にされたことは、とても有意義だと思いますよ。体験しないとわからないことですから。
久郷:
ポル・ポトは、農民中心の社会を作ろうとしていました。だから、都市に住む知識階級と言われる人たちをことごとく弾圧したんです。私の父は国立図書館の館長だったし、母は女学校の教師だったので、彼らにとっては排除すべき存在だったんですね。まさか、あのときの辛い体験を、こうやって発表することになるとは想像もできませんでした。と言うのも、だれもが封印しておきたいと思うようなことですから。日本へ一緒に来た兄たちも、よく本にしたなと、感心していました。
中川:
本にまとめるという過程の中で、次々と辛かったことがよみがえってくるでしょうからね。時間が癒してくれると言うけれども、口で言うほど生易しいことではないと思いますね。
久郷:
両親や兄弟を含めて、亡くなった人たちのことを忘れていいのかと思いましたね。あれだけの人が犠牲になったのに、それでも相変わらず戦争は続いていますよね。私たちの死は何だったのと言っているような気がするんですね。全然、死が報いられていないじゃないかってね。でも、同時に、逆に、そんな恥ずかしいことをいまさら書かなくていいと言われるのではという不安もありました。葛藤でした。悩みましたよ。
中川:
お母さんが夢に出てこられて、それが大きな転機になったようですね。
久郷:
日本で子育てが一段落して、通信制の高校も卒業というときでした。2004年でした。ちょうど、時間ができたころで、ずいぶんとタイミング良く出てきたものだと思いましたね(笑)。2000年という区切りに、私も人生を変えないといけないと思っていました。家族も、私がどんな体験をしたかということを詳しくは知りませんでしたから、それをきちんと知らせておきたいという気持ちもあって、「色のない空」という本を書いたんですね。主人も息子も、何度も読んでくれましたね。息子は、「お母さんって生命力があるんだね」と感心していました(笑)。

<後略>

(2009年12月14日 久郷ポンナレットさんのご自宅で 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「虹色の空―“カンボジア虐殺”を越えて1975‐2009」(春秋社刊)

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