今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2009年8月 「野上 照代」さん

野上 照代(のがみ てるよ)さん

1927年東京生まれ。1950年、『羅生門』の撮影のために太秦にやって来た黒澤明監督に、スクリプターとしてつくことになり、以来、『白痴』以外のすべての黒澤作品にかかわる。1984年「父へのレクイエム」で第5回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞の優秀賞を受賞。同作を原作として制作された映画『母べえ』が2008 年1月に公開される。著書に『天気待ち 監督・黒澤明とともに』『蜥蜴の尻っぽ』がある。

『母べえは、がまん強くて、愚痴も言わずによく働いた』

女性ヒューマンドキュメンタリー大賞を受賞

中川:
今日は、氣という得体の知れない話にお付き合いいただきますが、どうぞ、よろしくお願いします。
野上:
確かに得体が知れないかもしれません(笑)。私には別世界でわからないことだったから、この対談も、一度、お断りしたんですね。失礼しました。送っていただいたバックナンバーを拝見したら、佐藤愛子先生も出てらして。愛子先生は、私にとっては恩人なんですよ。
中川:
ハイゲンキという氣を中継する機械がありましてね。普通は機械から氣が出ると言っても信じてもらえないんですが、佐藤先生はそういうこともあるかもしれないと、すぐに理解してくれました。
野上:
(ハイゲンキの写真を見て)これね。何だか、録音機械みたいね(笑)。これから氣が出るの?私は即物的な人間だから何だか信じられないわね(笑)。でも、愛子先生が、あんなにすばらしい小説をお書きになるのは、氣の力が応援しているからかしら。
中川:
私どもがやっている真氣光を創設したのは私の父なんですが、父は、夢でいろんなことを教えられたと言っていました。それも氣の応援かもしれません。当初は皮膚を集合針で刺激する治療器を売っていたのですが、それだと皮膚を傷つけて血が出たりしますから、エイズや肝炎がうつるのではという懸念があって、どうしたらいいだろうと思っていたら、86年に夢を見て皮膚に傷がつかない構造のハイゲンキを作りました。次に、88年ですが、今度は夢で、ハイゲンキが効き過ぎて弾圧されるから、明日から手から氣を出してみろと言われたみたいで。白いひげの老人が出てくるって言うんですね。 そしたら、本当に氣が出せるようになり、その後、ハイゲンキが薬事法違反ということになりましてね。最初は、効かないものを効くと言って売っているということで詐欺罪と言われたらしいんです。ところが、買った人はみんな元気になって喜んでいましたから、詐欺罪は適用にならなかったんです。私も、機械から氣が出るなんて信じられなかったし、わが親父ながら変なことやってと思っていましたよ(笑)。野上さんは、佐藤先生が恩人だと、さっきおっしゃいましたが。
野上:
そうそう。会長は、『母べえ』を読んでくださったんですね。あれは、1984年の第五回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞で、優秀賞をいただいた作品です。そのときの選者に愛子先生がいらしてね。先生が選んでくださったおかげで、賞金の500万円をいただきました(笑)。応募資格が女性だけなので、それだけで半分は得でしょ。それに、賞金1000万円に目がくらんでね(笑)。ちょうど、『影武者』という映画が終わったところで、次の仕事がないころだったから、ありがたかったですよ。悔しいのは、優秀賞に柴田亮子さんの「かんころもちの島で」と私の作品が選ばれたので、賞金も半分になったこと。500万円でいいじゃないかとみんな言うけど、違いますよね(笑)。5人くらい選者がいて、反対した人もいたけど、私はあなたのが一番いいと思ったのよって、パーティのときに愛子先生から言っていただきました。主催者が狙っていたテレビドラマの原作という面では、私の作品は地味でしたから、愛子先生が押してくださったおかげで受賞できたのだと思っています。
中川:
確か、もともとの題名は「父へのレクイエム」で、お父さんが拘留されたときの家族との往復書簡がもとになっているんでしたよね。
野上:
思想上の理由で、何度も検挙され、1940年には拘置所に入れられました。保釈されるまでの8ヶ月くらいの間、家族と手紙のやり取りをしていて、それを大切に保存してあったんですね。戦後、父はそれを整理して大学ノートに書き写していました。父の書斎には、赤字で「非常持ち出し」と書かれた汚い紙袋が10袋くらい置いてありました。その中の一つにその大学ノートがありました。前から読んでいて、貴重なものだから残しておきたいと思っていたので、それをもとに急いで書いた作品なんです。
中川:
言論の自由がない時代だったじゃないですか。お父さんの活動を見ていると、そういう制約のある時代に一生懸命にやっていますよね。私たちは、今のような自由な時代に何も発信しないのはどうなんだろうと思ってしまいます。自由に発言できる時代になったのも、お父さんのような人たちがいたからこそだということを知れば、意識が変わっていくはずですよ。

<後略>

(2009年5月18日  東宝スタジオにて  構成 小原田泰久)

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