今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2009年6月 「原田 真二」さん

原田 真二(はらだ しんじ)さん

1977年「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。3ヶ月連続でシングルを発売し、その全てがベストテン入りする。翌年発売されたファースト・アルバム「Feel Happy」はオリコン初の初登場1位を獲得。他アーティストへの楽曲提供、プロデュース、CFソング、ミュージカル、NHK教育テレビのエンディングテーマ制作、小学校の校歌制作、心の環境整備をうたったチャリティー「鎮守の杜コンサート」を開催するなど幅広く活動を展開。国連本部をはじめ欧米・フィリピンでの活動も行い、「愛と平和」の大切さを音楽を通じ地球上に届ける活動を展開している。

『やさしい気持ちや平和への思いを音楽を通して復活させたい』

音楽も氣。歌い手の思いがエネルギーとして伝わる

中川:
はじめまして。と言っても、私の方はよくテレビで拝見していましたので、初対面の気がしないんですが(笑)。私のイメージだと、原田さんは、ニューミュージック系であり、アイドルという存在ですね。
原田:
テレビを使って出たので、アイドルとしてのイメージが先行したような気がします。おかげさまで、華々しいデビューでした。3曲を1ヶ月おきに出して、デビューアルバムも、いきなりチャート1位でした。初めてのことだったらしいですね。でも、ぼくはそれを望んでいたわけではなくて、デビュー当時から、生まれ故郷の広島のことをメッセージとして発信したいと思っていました。
中川:
広島というと、原爆のこととか、平和のことですね。
原田:
ぼくは、原爆ドームの川をはさんだ向かい側の小学校へ通っていました。広島では、ほとんどの小学校で原爆のことを習っています。だから、中学生になって音楽を始めたときも、原爆のことをメッセージとして発信するのは、ぼくにとっては、当たり前のことだったんです。
中川:
でも、デビューして、一気に売れたわけですから、なかなか自分のやりたいことをやるというわけにはいかなかったんじゃないですか。
原田:
全然できませんね。曲を作る時間もないし、このままではダメだと思いました。それで、コンサート中心の活動をしたいと思って、思い切って独立しました。それからが、イバラの道でしたが(笑)。でも、大変な道を選んで良かったと今では思っています。痛みとか苦しみといったものも知ることができましたし。
中川:
自分の音楽を追求できるようになったわけですからね。
原田:
活動内容はそんなに変わってないのですが、見られ方が違ってきましたね。ぼくは、ずっとやさしい気持ちや平和の思いを音楽で復活させたいという望みがありましたから、それがやっとできるようになったかなという段階ですね。
中川:
私は、父が始めたことですが、氣という生命の根本になっているエネルギーを前面に出して仕事をしてきました。みんなが氣をもっていて、氣は心の持ち方によって変化するんだということを父はずっと言っていました。だから、心の持ち方は大事なんだよというメッセージを、父の代から20年以上、発信しています。私は、音楽も氣だと思っています。詞や曲に乗せられた見えないエネルギーが、音楽を聴く人の心に届けられて、そこで心が変化していき、氣も変化していくのではないかと考えているんですね。氣というと特殊なもののように思われてしまって、敬遠されることもありますが、音楽だったら、だれもが受け入れられます。だから、音楽を通して氣を発信するというのは、私はすごくいいことだなと思っているんですね。
原田:
ぼくも、音楽を波動とかエネルギーとしてとらえています。歌詞がどうかということよりも、作った方や歌い手がどういう思いでそれを伝えようとしているかが、音楽のエネルギーになるのだろうと思うんですね。だから、音楽というのは、人の意識にエネルギーを届けるためのすばらしいツールという感じでしょうか。好きなアーティストの曲を聴いて元気になったり、悩みが吹き飛んだりすることは、よくありますからね。民族や宗教や政治を超えて、直接人の心に飛び込む力をもっているものだと思っています。

<後略>

(2009年4月1日 東京日比谷 松本楼にて 構成 小原田泰久)

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