今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2006年4月 「舘野 泉」さん

舘野 泉(たての いずみ)さん

1936年東京生まれ。60年東京藝術大学ピアノ科を首席で卒業。64年よりヘルシンキ在住。68年メシアン・コンクール第2位。同年よりフィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミーの教授を務める。81年以降、フィンランド政府の終身芸術家給与を受けて演奏生活に専念し今日に至る。国内外で3000回を超えるコンサートを開催。100以上のCDをリリース。2002年脳溢血で右半身不随に。2003年に左手による演奏会で復帰。活動再開のドキュメンタリー番組がNHK放映され大きな反響をよぶ。左手によるCDに『風のしるし』、『タピオラ幻景』。エッセイ集『ひまわりの海』(求龍堂刊)。福島県南相馬市市民文化会館名誉館長。オウルンサロ(フィンランド)音楽祭音楽監督。日本シベリウス協会会長、日本セヴラック協会顧問など。

『聴衆に発信し交流… それが私の“音楽すること”』

仲の良い家族、身辺に溢れていた音楽

中川:
ピアニストの舘野さんが脳溢血で右半身不随になられたあとに、左手だけで見事に復帰されたとお聞きして、私も大変感動しました。まず、その前に、どうして音楽の道に進まれたのか、その辺のことからおうかがいしたいのですが。
舘野:
私の両親は共に音楽家でしたから、身辺にいつも音楽が溢れていました。戦後の物資が窮乏していた時代ですが、家にはアップライトピアノが2台とチェロ、ヴァイオリンなどいろいろな楽器がありました。兄弟は4人ですが、みんな音楽家になりました。両親が自宅で100人くらいのお弟子さんに教え、兄弟がそれぞれの楽器の練習をしていました。小さい家でしたのに、「音がうるさくて勉強できない」とか、「自分の練習ができない」とか言ってケンカしたことは一度もないのですよ。どうやっていたのかなと、今でも不思議ですが。眉を吊り上げての英才教育などというのには縁がありませんでしたね。誰かがピアノを弾いている横で、学校の宿題をしていたり、絵を描いたり、時にはうとうとと昼寝をしたり、そうかと思うとぱっとセミやトンボを採りに飛び出して行ったりして、子供らしい自然なリズムが流れていたのですね。とても楽しかったです。
中川:
ご家族が皆さん、仲が良かったのですね。そのエピソードだけでも、温かいものが伝わってきます。それで、芸大に進学なさり、卒業後はフィンランドにいらしたそうですが、なぜ北欧に?
舘野:
中学生の頃に、スエーデンの女流作家セルマ・ラーゲルレフの『沼の家の娘』とか『地主の家の物語』などを読んだのがきっかけで、北欧文学にのめりこみました。ノルウェーのハムスン、フィンランドのシッランパー…3人ともノーベル文学賞を受賞していますが、あと、デンマークのヤコブセンやブリクセンも大好きでよく読みました。そして、中学、高校と慶応だったのですが、学校で海外文通を仲介していたので、私も北欧4ヶ国に手紙を書いて出したのです。そしたら、フィンランドの学生だけが返事をくれ(笑)、文通するようになりました。
中川:
その辺から細い糸が繋がって、北欧とご縁ができたのですね。
舘野:
私は、大学卒業後は誰に師事したこともありません。演奏活動をしたり教えたりすることが武者修業のようなものだと思っていました。その頃はフィンランドと言っても、多くの日本の人はシベリウスくらいしか知らなかったと思いますよ。シベリウスは、もちろん「フィンランディア」などを創った、フィンランドの有名な作曲家ですが。
そういう日本人にはなじみのない国でしたから、周りの人にも不思議がられました。若くて才能もあり、発表のいいチャンスも得ていて、順調にキャリアを積んでいける道が拓けているのに、なぜ恵まれた環境を捨てて、そんな田舎に行くの?という感じがありました。
私は音楽ばかりでなく、文学、絵画、演劇などにも興味がありました。両親が宇野重吉さんたちとも交流があり、演劇をなさる方々もよく我家にお見えになっていました。私は、幅広く伝統や文化に触れ、また自分自身を見つめたいと思っていたのです。音楽も、この曲はこうですから、こう弾きなさい、と解釈や演奏方法を押し付けられるのはいやでした。日本やフランス、ドイツなどのヨーロッパの国々を、適当な距離を置いて観たいとも思いました。
北欧は氷点下30度、40度になる冬が半年も続きます。森や湖は手付かずに残されています。そういうところに生活している人たちの人情に触れてみたかった。厳しい自然の中で、少ないものを大切にしながら素朴に生きている…そういうところに惹かれました。
中川:
それにしても40年も前に、日本から遠く離れて、生活環境の全く違う国によくいらっしゃいましたね。
舘野:
そうですね、まだ外貨も持ち出し制限されていて、自由に外国にいける時代ではありませんでしたから。でもね、私は北欧に限らず、世界のどこに行っても、前から知っているような感じがあって、スッと受け入れられて、違和感がないのです。
幸いなことにフィンランドに行った直後から演奏活動の場が与えられ、それがどんどん広がって、各国を旅して周り、日本にもたびたび帰国していました。日本に居ても、ヨーロッパ、或いはロシア、アジア諸国、中近東、オーストラリアに居ても、私は異国にいるというストレスを感じないのです。
妻はフィンランドの歌手で、唯一の国立音楽大学であるシベリウス・アカデミーで教えています。私も一時期そこの教授でしたが、演奏生活と教えることは両立できないと思い、もう20年ほど前に一切教職からは離れました。息子はヴァイオリニストです。シカゴに4年間留学していましたが、帰国して1年間の兵役義務を終え、今はヨーロッパ、アメリカ、日本で広く演奏活動をしています。いま日本に来ていますが、実は今日、1月25日が彼の31歳の誕生日なんですよ。
中川:
それはおめでとうございます。舘野さんのご家庭も舘野さんが育った環境と同じように、ご家族の仲が良くて、また音楽が溢れているのですね。
舘野:
そうですね。そして、娘のパートナーはギリシャ人で、彼らの息子、私たちにとっては初孫なんですが、その彼が1歳4ヶ月になるのです。ロメオというのですが、ミドルネームはイズミって…そう私の名前なんです(微笑)。
中川:
それは可愛いでしょうね。それにしても、日本、フィンランド、ギリシャと、ご家族が世界に広がっている感じですね。
ところで、ピアニストとして世界的に活躍されていた舘野さんが、倒れられたのが…。
舘野:
2002年1月9日でした。

<後略>

(2006年1月25日 東京・「ジャパン・アーツ」にて 構成 須田玲子)

音楽CDの紹介

『風のしるし 左手のためのピアノ作品集』(avex)

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