今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2005年10月 「相田 一人」さん

相田 一人(あいだ かずひと)さん

1955年栃木県足利市生まれ。相田みつをの長男。出版社勤務を経て㈱而今社を設立。平成8年東京銀座に「相田みつを美術館」を開館。平成15年東京国際フォーラムに美術館移転。現在「相田みつを美術館」館長。『いちずに一本道 いちずに一ッ事』『雨の日には…』『しあわせはいつも』『生きていてよかった』などの編集、監修に携わる。著書に『書 相田みつを』(文化出版局)『父 相田みつを』(角川文庫)などがある。

『感動を持って生きる「一生勉強一生青春」』

突然脳出血で父逝去、30代で後を…の共通点が

中川:
先日、この相田さんの美術館内でダライ・ラマ法王生誕70年を祝し、平和を記念して砂曼荼羅が制作されたのですね。その様子を、本誌専属ライターの須田が取材させていただきました(と、本誌9月号をお渡しする)。
相田:
昨年、国際フォーラムで龍村仁監督の映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』が上映されまして、その折に監督が『相田みつを美術館』を訪れてくださって、お目にかかりご縁ができました。
中川:
龍村仁監督には、本誌のこの対談の欄に何度もご登場いただいています。弟さんの龍村修先生には、私共の真氣光研修講座の専任講師として開講当初から大変お世話になっております。
相田:
そうでしたか。龍村監督から砂曼荼羅のお話がありまして、私共は個人美術館なので、そういう企画は初めての試みだったのですが。大勢の方々にご来場いただきまして、本当に良かったです。
中川:
美術館は、以前は銀座にありましたよね。
相田:
はい。父は自分の作品のための施設のようなものは建てなくても良いと言っておりました。「世の中に必要なものだったら、残っていくのだし、どんなに残そうと思っても、必要とされていないものだったら消えてしまうのだから」と。それで、私もはじめは考えていなかったのです。
でも、父の亡くなった後に、全国で遺作展をしましたら、見にいらしてくださった方々が皆さん、「常設の場所はどこですか」「どこに行けば、作品を見られるのですか」と訊ねられるのです。それで、そういう場所が必要かなと思うようになりまして。
郷里が栃木県足利市ですので、本来はそこがいいのでしょうが運営上のことを考えますと、やはり地の利を得ないと無理だろうと。谷間から発信しても高いところにぶつかってうまく伝わりません。それで、東京という高い所から情報を発信していこうと思ったわけです。銀座には画廊がたくさんありますから、私も幼い頃からよく父に連れられて銀座を訪れていました。そういうこともあり、銀座がいいかなと思いまして。開館したのは9年前です。
お蔭様で、たくさんの方にいらしていただいて、そこは300坪ほどでしたが、そのうちに手狭になりまして、どうしようかと考えていたのです。ちょうどそのときに、こちら(東京国際フォーラム)のお話があり一昨年に移転しました。ここは700坪ほどあります。
中川:
お父様は、いつ亡くなられたのですか?
相田:
91年12月です。ある日突然、脳内出血を起こしまして、67歳でした。書家は70代からとも言いますから、父はこれからというときに、しかも新しいアトリエの完成を目の前にして亡くなってしまいました。ですから、父の作品に「一生勉強 一生青春」とありますが、その通りの人生だったと言えるでしょう。私はこんなに早く父の死に遭うなどとは夢にも思いませんでした。私が36歳のときでした。
中川:
そうだったのですか。私の父も95年12月に脳の血管が切れて亡くなりました。同じ年の3月にも倒れたのですが奇蹟的に復帰して、それまでもずっと氣の普及に努めていましたが、復帰してからの半年間は特に、「起こることには、すべて意味があるのだ」ということをしきりに言うようになりました。
今振り返ると、深い潜在意識でというのでしょうか、父は自分の死を知っていたのでは、とも思えるのです。そして、いい氣を取り入れながら意識を高めていくことの大切さを伝えて、59歳で逝ってしまいました。私は翌月に35歳になるときでしたから…何だか相田さんと似ていますね。

(後略)

(2005年8月18日 「相田みつを美術館」にて 構成 須田玲子)

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