今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2005年8月 「興梠 義孝」さん

興梠 義孝(こおろぎ よしたか)さん

1935年宮崎県生まれ。1960年佐賀大学教育学部美術科卒業。高等学校の美術教諭を経て1970年渡米。1972年ミネソタ州ガステバス大学客員教授。1975年東ロサンゼルス大学講師。その後ハワイに移住しハワイ大学講師、ハワイアートアカデミー教授、ハワイ美術院展副理事長、ハワイ日本文化芸能連合会理事・事務長などを歴任し、現在日米交流芸術協会理事長。染色画・アクラス画で日展、光風会展、ハワイ州美術展、日仏現代美術展などに数多く入選・入賞。染色家・画家。

『美術作品を通し日米交流を続けて35年』

美術作品を通し日米交流を続けて35年

中川:
はじめまして。「興梠」の二字で「こおろぎ」さんとお読みするのですか。珍しいお名前ですねえ。
興梠:
ええ。皆さん首を傾げて「ヨロ、キョウロ、オキロ…あれぇ?何と読むのですか?」、と訊ねられます。「コオロギです」と答えるでしょう、そうすると「ご冗談でしょう」と笑って、「本当の読み方を教えてくださいよ」と(笑)。
小学生の頃だって、よくからかわれました。音楽の時間に唱歌『虫の声』で「あれ、コオロギが泣き出した」のところになると、悪ガキたちが力を込めて大合唱するんです。興梠は泣きたくても泣けなかったのです。
中川:
ハハハ、それはお気の毒でした。ご出身は宮崎だそうですが、郷里には多いお名前なのですか。
興梠:
私の出身は、宮崎県でも熊本のすぐ近くの五ヶ瀬町というところです。「興梠」姓は、宮崎県の高千穂地方に500世帯、県外、国外を合わせても550世帯くらいだそうです。猿田彦命の道案内で高千穂に着いた渡来人を迎えた土地の豪族が、興梠一族だったようです。梅原猛さんの著書『天皇家のふるさと日向をゆく』には、「興梠の里」「興梠山」「興梠の 内裏」と、「興梠」がたくさん出てきます。
中川:
それは、高貴なお名前なのですね。興梠さんは、歴史もお詳しいようですね。
興梠:
歴史は大好きです。何故だろうと不思議に思うことをいろいろと調べるでしょう。そうすると、知らなかった史実が次々と分かって興味は尽きません。今は絵を描いていますが、もっと年をとったら、郷里の歴史や今まで訪ね歩いたアメリカやハワイ、メキシコ、フランスなどの歴史の話を書いてみたいな、と思っています。でも、文章力が無いのが残念です。
中川:
いえ、いえ、興梠さんがお書きになったエッセイをいくつか読ませていただきましたが、とても面白かったです。ところで、興梠さんは、随分前にアメリカに渡り、今はハワイに住んでおられるそうですが、最初はどういうきっかけだったのですか?
興梠:
JALがシアトルに飛んだのが1968年なんです。そのときの記念飛行に文化使節として11人が搭乗し、シアトルやロサンゼルスで展覧会を開きました。私もその中の一人だったのです、アクラス画家、染色家としてですね。翌年の夏休みにも渡米して展覧会を開催し、そのまた翌夏に行こうと思ったら、県から「国内ならいいけれど、毎年、海外に研修に行くのは認めない」と言われましてね。当時、県立高校で美術教員をしていましたか
中川:
アクラス画というのは初めて聞きましたけれど、どういうものなのですか。
興梠:
ガラスは割れますから大きな絵は描けません。それで細かいガラスをつなげてステンドグラスが発達しました。アクリル板なら割れないから大きな作品も可能です。それで、アクリルとガラスをつなげて「アクラス画」と呼んでいるのです。完成する絵の裏返しの絵をアクリル板の裏側に描いていくので、ちょっと特殊なんです。でも、展示した絵は汚れませんし、色も褪せません。表面を拭くことだって出来ます。こういう技法で描いているのは、日本に3人くらいしか居ないのではないでしょうか。
中川:
今ほど航空事情も便利ではない35年以上前に、地球の裏側までいらしたのは一大決心だったことでしょう。しかも、県立高校教諭という安定した職を辞していかれたのですから。
興梠:
渡米するときは送別会が開かれて宮崎県知事も出席してくださり、まるで水杯を交わす感じでした。渡米してからは、サンフランシスコやロサンゼルス、ミネソタ、シカゴ、ニュージャージーなどで展覧会を開いたり、大学の客員教授や講師として絵を教えるかたわら、メキシコなどにも足を伸ばして、アチコチ放浪しました。
中川:
いろいろな珍しい経験もなさったことでしょうね。
興梠:
ええ、行く先々で興味深い体験をしました。例えば、メキシコ市からバスで6時間ほど北上した標高4千メートルのガナハトという街の外れの教会には何体ものミイラが展示されていました。ミイラというと、骨、皮、筋だけになった怖い様相のもののように思われがちですが、そこのはそうではありませんでした。
帽子を被ったり服を着たり靴を履いた者もあり、壁に寄りかかったり座っていたり、老若男女さまざまで、ふっくらとして人間そのままでした。今でも教会の墓地の永代供養代が払えない人は、亡くなった後もミイラになって観光客からお金を稼いでいるそうですよ。
メキシコには、350年前に支倉常長に連れて来られて彼の地で死んだ人たちの墓もありました。彼らは、伊達政宗の命令でローマに行き途中メキシコに寄ったときに亡くなったのですね。彼らの墓はみんな日本の方に向いて建っていました。望郷の念を抱きつつ異国の地で亡くなった同胞の御霊を慰めるためなのでしょうね。伊達政宗は、東北の金銀だけではなくて、メキシコの金銀とスペインをバックにして徳川倒幕を考えていたのではという説があるのですが、これらの墓は、それを裏付ける一つの資料といってもいいでしょう。また、メキシコの南部のアオハカというところの古いカトリック教会の壁画には、長崎で処刑された二十六聖人の像が描かれているんですよ。歴史を調べると、いろいろなつながりがあることが分かり驚きます。
中南米の人たちは人懐っこくて、酒を呑み交わして肩を抱き合い歌い踊って…。中には、当時私の住んでいたロサンゼルスのアパートに、ある日突然「お前とまた呑みたくなった」と、5日もかけて車で訪ねて来た人さえいました(笑)。

<後略>

(2005年6月1日 SAS東京本社にて 構成 須田玲子)

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