今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2004年11月 「諸橋 楽陽」さん

諸橋 楽陽(もろはし らくよう)さん

1923年新潟県生まれ。25年間印刷会社経営の後、1975年に突如画家として第二の人生をスタートさせ、以来30年間、主に錦鯉の絵を描き続ける。75年から都民展、二科展、イタリア賞展、スペイン美術賞展などに出品し、受賞5回。5年間の公募展活動の後、無所属となり個展主義に徹する。東京銀座をはじめ、札幌から沖縄、台湾などの各デパートにて個展開催70回を数える。78年に結成した親睦団体「ノータリークラブ」の会長。

『人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと…』

81 歳の人生、縁に守られ助けられてきた

諸橋:
「月刊ハイゲンキ」、読んでいますよ。みんながいい氣の中で幸せに生きていくことを願って仕事をなさっているそうで、いいことをなさっておいでですね。
中川:
有り難うございます。諸橋さんも親睦会「ノータリークラブ」の会長さんを長年務められているということですが、どういう会なのでしょう。
諸橋:
「人との出会いを大切にして、ユーモアを忘れずに、少しでも楽しい意義ある人生を送りましょう」、ということを目標にしている会です。似たような名前のクラブもありますが、あちらは何ですか会費も高くてお金持ちの人たちが多いようですから、こちらは対抗して庶民的な会を目指して、年会費も5000円です。
中川:
何か、そういうものを創りたい、と思われたきっかけがあったのですか。
諸橋:
絵描きの道に入り、また印刷会社を経営していたので、絵描きさんや書家の方が自分の展覧会の案内状を頼みに見えるんですよ。でも、皆さん「1000枚も刷ったって、配るところに困る」と言うんです。案外、交流範囲が狭いんですね。1000枚で、配るところが無いなんて、寂しいじゃありませんか。私なんて最初から5000枚の案内状を配りました。絵描きが他の絵描きに案内を配ったって、買ってくれる人はありませんし、付き合いは広がりません。全く違ったいろいろな職業の人たちの交流をはかることが、自分の見聞を広めるのに大事であって、楽しいことだと思ったのが原点にありますね。
中川:
今は、異種業間の交流会なども盛んになってきましたが、25年も前から、そういうことに気がついておられたのですね。
諸橋:
そうね、思いついたら、すぐに行動するのが僕のやり方です。もう、「こういうのってイイじゃないの!」と思ったら、やりたくて仕方がなくなってしまいます。「人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと、少しでも楽しい人生を、そして少しでも世のため、人のため、お互いのためになることをしてみよう」ということを趣旨に、みんなに呼びかけて会を立ち上げてしまいました。
中川:
「人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと…」ですか、それはいいですね。
諸橋:
それで、どんどん会員が増えて大いに盛り上がってたのですよ。私が経営する印刷会社が参議院会館の中にあったので、代議士の先生や高裁の判事さんとかも入会してくれました。「ノータリー」って、英語にあるんですよ。「公証人」っていう意味で。それで、「それなら私もノータリーですから」と、公証人の方も入会してくれました。この方は亡くなられましたね、とてもいい方だったけれど。
中川:
印刷会社を議員会館の中でなさっていたのですか。
諸橋:
その前から印刷関係をしていたのですが、終戦後まもなく、私が結核を患って療養していたときに、知人から国会の中で奉仕部というのがあって、そこで名刺を印刷する仕事をしないか、と打診されまして。それが、運のつきはじめです。療養している間に、天から降ってくるように仕事が入ってしまうのですから。人間、一生懸命に生きていると必ず実りますねえ。
中川:
結核をなさったのですか、大変でしたね。
諸橋:
私は40歳までに4回結核で療養しています。はじめは軍隊に入る前の若いときです。軍隊には、結核と伝染病の一番重症患者を扱っていた病院に、衛生兵として配属になったんです。間もなく我々も外地に行かされることになったのですが、小隊長だった士官が、私を真っ暗な営庭に呼んで、「これから言うことは決して口外してはならんぞ」と言うんですよ。
そして、「お前らは死に赴くのだ。だが、こんな優秀なヤツを死なせるわけにはいかん」と言って、既往症のある私を招集解除にして病院に入れてくれたんですよ。召集された者たちは、3ヶ月後に東シナ海で撃沈されて、みんな死にました。人生何があるか分かりません。私もあのときに既往症がなかったら22歳で命を終えていたかもしれません。あぁ、これが運のつきはじめかな。
終戦直後は、桜田門から九段下まで歩き回って官庁の印刷の仕事を取ってきては、ひたすらこなしていました。あんまり働きすぎて、また結核を再発させてしまって療養生活していたのですが、あるとき仕事の話で有馬参議院議員に呼ばれて事務所に行ったら、そこで偶然、命の恩人の士官に再会しました。そして、その方が北大の医学部卒で有馬議員の教え子の由、戦後、東京都の医務課長をしていて、中野療養所の転院を勧めてくれたんですよ。
中川:
それは、ご縁ですねえ。
諸橋:
そうね、今年81歳になりましたが、我が人生振り返ってみて、本当に人の出会いによって、助けられてきたと思いますよ。強運なんだねえ。私は天が与えてくれた仕事に対し、常に誠心誠意、一生懸命に積極的にやってきたので、報われたと思っています。

<後略>

(2004年9月6日  東京・中野の諸橋さんのアトリエにて  構成 須田玲子)

この対談の続きは会員専用の月刊誌『月刊ハイゲンキ』でご覧いただけます。
月刊誌会員登録はこちら
この対談の続きは会員専用の月刊誌『月刊ハイゲンキ』でご覧いただけます。
月刊誌会員登録はこちら