今月の対談「いい人いい話いい氣づき」

2004年3月 「小口 基實」さん

小口 基實(おぐち もとみ)さん

日本庭園史研究家、造園家。1947年長野県岡谷市に生まれる。東京農業大学卒。1966年より庭の勉強を始める。東京・京都で庭師の修行をし、1974年頃より作庭活動を始める。造った庭は、坪庭から公園まで約350庭。近年は建築・インテリア・町並み造りテレビ番組を手がけ、また年間20、30回の日本文化について講演活動を。ウィーン・シェーンブルン宮殿内に作庭。日本庭園協会賞受賞。長野県景観アドバイザー。NHK『課外授業ようこそ先輩』に出演。近年、京都より古い茶室を自宅に移築。著書に『津軽の庭』『琉球・薩摩の庭園』『庭づくり百科』『庭の文化とその心』など18冊。現在『日本庭園の造り方』英語版を執筆中

『何も無い中に究極の美を表現する日本庭園』

盆栽や庭いじりが好きだった祖父の影響

中川:
お忙しい中、長野からお出でいただきまして有り難うございます。
小口さんをお迎えするのには、私どもの会社内よりも戸外の日本庭園の方がいいかと思い、ここ文京区の「小石川後楽園」にしましたが、晴れて良かったです。
この後楽園は自宅から近くて、私も以前に本誌『月刊ハイゲンキ』の「デジカメ見聞録」で紹介したこともあります。池を巡りながらゆっくりと散策すると、気持ちが落ち着きます。
小口:
そうですね。池を中心にした「廻遊式築山泉水庭園」というのですが、私にとっても小石川後楽園は思い出の庭園です。東京農大の学生のときに、先輩に初めて連れて行ってもらい見せられた日本庭園が、ここなのです。
中川:
そうなんですか。それはご縁がありますね。浜離宮や六義園とか、東京には名庭が幾つもありますから、どこにしようかと思ったのですが。
小口:
私のいわばスタート地点の後楽園で対談できるのは嬉しいことです。「後楽園」という名前がまた、いいんですよ。江戸時代初期に徳川頼房がその中屋敷として造って、二代藩主の光圀の代に完成したのですが、中国の范仲はんちゅう淹えん「岳陽楼記」の一節から取って名付けられたんです。「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」というところです。「天下の楽しみに後れて楽しむ」…いいでしょう。
この名前の由来もそうですが、円月橋、西湖堤など中国の風物を多く取り入れていましてね、中国趣味豊かな庭園となっています。この庭園に限らず、日本人は、外からいいものを持ってきて上手に取り入れて融合させ、元を超えるような日本独自のものに造り上げてしまう、素晴らしい感性を持っているんですね。
中川:
小口さんは、いつ頃から日本庭園に興味を持たれたのですか。
小口:
私がこの道に入ったのは、祖父の影響が大きいといえるでしょうね。ウチは長野の農家なんですが、祖父が農業をする傍ら、庭いじりや盆栽、写真を趣味にしていましてね、私も側についていてその姿を見て、いろいろな話を聞いているうちに、庭やカメラが大好きになっていったようです。私は祖父母に可愛がられまして、母屋に続いている離れで祖父母と川の字になって寝ていたんですよ。
中学生になると、父が作った白菜などの野菜やリンゴをリヤカーに積んで市場に運んでから学校に行きました。そのときに祖父が「これもついでに持って行け」とサツキなどの盆栽の鉢を一つ二つ、リヤカーの上に乗せましてね。
それで、学校の帰りに市場に寄ると、驚きですよ。リヤカーに山積みの野菜の売上より一つ二つの盆栽の値段の方が高いんですから。「よし、将来は野菜より植木や盆栽を育てよう」と決心しました(笑)。
中川:
ハハハ、ついでに運んだお祖父さんの盆栽がね、そうですか。幼い頃から大好きなお祖父さんと過ごした生活の中で、庭や盆栽、植物や自然、日本文化などについての知識や感性が知らず知らず身体に沁み込んで、小口さんの中で育っていったのでしょうね。
小口:
それはありますね。昔の農家は大所帯で隠居所や離れには玄関がありません。ぐるっと庭を廻って、「よぉ、居るかい」と近所のお年寄りたちが声を掛けて、縁側に腰掛けてお茶を飲みながら四方山話をしていくんですよ。その中で教えられることはたくさんありましたね。数限りなく聞いたという感じです。
そもそも縁先で話が進むのを、縁談というでしょう。縁先の話が、「日本文化」の一端を担ってきたのだし。縁は異なもの、味なもの…正に庭用語なんですね。縁は、かかわりあいをいいます。外と内とのかかわりあい、人間と人間とのかかわりあいが「縁」でしょう。

<後略>

(2003年12月18日 東京「小石川後楽園」にて 構成 須田玲子)

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