07月「 鈴木 哲司」さん
鈴木 哲司(すずき・てつじ)さん
1973年新潟県生まれ。千葉県長南町にある八幡神社の宮司を務める。1991年國學院大學文学部神道学科卒業。2004年帝京大学医学部附属病院救命救急センターに勤務。2008年帝京平成大学大学院健
康情報科学研究科博士後期課程修了。神職としてだけでなく救急救命士としても命を見つめ続けてきた。著書『命が消えたらどこへゆくのか』(二見書房)
『神職と救急救命士という 2つの視点で命と向き合う』
子どものころに海で 伝説のライフセーバーと出会う
- 中川:
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鈴木さんの『命が消えたらどこへゆくのか』(二見書房)という本を読ませていただきました。神職であり救急救命士という死者の霊を弔う仕事と人の命を救う仕事をやってこられて、命とか死後の世界とか神様といった目に見えない世界をどうとらえておられるのかを、今日はじっくりとお聞きしたいと思っています。
まずはどんな経歴なのか、お話いただけますか。 - 鈴木:
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ありがとうございます。私は1973年(昭和48年)に新潟県村上市で生まれました。岩船という山形県に近い港町です。子どものころの夏の遊びというと海でした。
海に遊びに行っているときに、小柄なおじさんと知り合いました。見つけた魚や貝をもっていくと、そのおじさんは「これは〇〇っていうんだよ」とやさしい笑顔で教えてくれました。それがうれしくて、私はおじさんのそばに一日中いました。
そのおじさんは有名なライフセーバーの本間錦一さんでした。88歳まで「世界最高齢の現役ライフセーバー」として活躍されていました。ニュースでもよく取り上げられ、「越後のかっぱ」と「海の守り神」「怪人」とも呼ばれていました。私にとっては生涯の師でした。
本間さんに出会ってしばらくしたころ、10歳くらいのときだったでしょうか、海で遊んでいたら、人がおぼれたと大騒ぎになりました。ちょうど海から引き上げられるところを目撃しましたが、真っ白なろうそくのような体が上がってきました。心肺停止状態だったと思います。大人が囲んで心肺蘇生をしていました。「戻ったぞ!」という声がしました。見ると、真っ白だった体に赤みが差してきました。命が蘇る瞬間に立ち会ったわけです。10歳の子どもには大変な衝撃でした。死人を生き返らせるこんな魔法のようなものがあるんだと感動しました。
本間さんの影響もあったと思いますが、このときに水難救助という仕事がしたいと心の底から思いましたね。 - 中川:
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確か、本間さんが監視員を務めた海水浴場では何十年も水死者が出なかったそうですね。子どものときにそんな伝説的なライフセーバーに出会って、さらには実際におぼれた人が息を吹き返す現場も目撃したわけですね。
鈴木さんを救急救命士という道に進ませる力が働いていた気がしますね。 - 鈴木:
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今振り返ると、そんな気がします。実は本間さんというのは霊感の強い人でした。何人もの水死体を上げていると、上げた人が必ずお礼に来るって言うんですね。気味が悪いですから本間さんは漁師だったおじいちゃんから教えられたおまじないを唱えることにしました。「人麻呂や まことの明石の浦ならば 我にも告げよ 人麻呂の塚」これを西に向かって三度唱えると水死者の霊は出てこないと言うのです。実際にその通りにすると、ぴたりと霊は出なくなりました。しかし、本間さんはこれでいいのだろうかと思うようになりました。
霊がきたとき、自分が勝手に怖がっていただけで、出てきた霊たちは「ありがとう」とお礼を言い、笑顔で手を振っていました。怖がる必要などないと思い直し、おまじないを唱えるのをやめて、霊との会話を楽しむようになったと笑っていました。
その話を聞いて、私も霊的なことに興味をもちました。 - 中川:
- 神職の道へ進んだのも本間さんの影響があったわけですね。
- 鈴木:
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そういう意味では大きな出会いでしたね。
ミッション系の高校に入り、マザーテレサの生き方、活動に感銘を受けました。本間さんやマザーテレサの影響で、私は災害、紛争、事故などで亡くなって苦しむ「みたま」を救う宗教者になろうと決めました。
宗教者と言っても僧侶、神主、牧師などあって、どの道に進むかと迷いましたが、最初に合格通知が届いた國學院大學の神道学科に入学しました。 - 中川:
- 救急救命士にはいつごろなろうと思ったのですか。
- 鈴木:
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ちょうど高校2年次時の平成3年に救急救命士という制度ができました。救急車の中では医療がなかったので、それでは助かる命も助からないということで、救急車の中で医療行為が行えるという制度ができました。
それを知って、目に見えない命ばかりを追っていても命の実態はつかめない、実際に生と死のはざまである救急医療の現場にいって、命を体感しようと考えました。
神道というのは教祖も教典も教義もありません。だから、感性の宗教と言われています。理屈ではなく、体感することが大切だとされています。
命を体感するためには救急医療の現場を知るのが一番だと思ったのです。
そのあと、大学の教員をやって、今は神社の神職をしているという流れでしょうか。 - 中川:
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知識も必要ですが、私も体験して体感するのはとても重要なことだと思います。私のやっている氣も、頭で考えているだけではよくわかりません。でも、体験するとわかる人にはわかります。
だから、まずは体験してからいろいろ考えてくださいとお話しています。
鈴木さんは感覚がとても鋭いようにお見受けしますが、霊的な体験もいろいろされているんでしょうね。 - 鈴木:
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救急救命士として命を救う最前線に身を置くことで、凄惨な死を遂げた人たちをたくさん見てきました。もともと霊的な世界については興味があって神道学科に入ったわけですが、学校で習うことと生死を分けるような現場で見て感じることはまるで違っていました。
学問は文献主義です。本や資料を読んだり講義を聞いたりするばかりですから、狭いかごから出られません。命とか死後の世界とか神様とか、概念としてわかるだけです。私は、現場で人の生き死にを見せられて、「この世」と「あの世」のことをもっと知りたいと強烈に思いましたね。興味という範疇をはるかに超えた感覚ですね。 - 中川:
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実は私はもともと技術者で、父が始めた真氣光についてもまったく関心ありませんでした。しかし、仕事のストレスで体調が悪くなりました。それで父がやっていた一週間の氣の講座に参加しました。そこで父や講師の先生方の話を聞き、氣を受けました。一緒に受講していた人たちの病気が改善していったり、気持ちが明るくなっていくのも目の当たりにしました。
そうこうしているうちに、自分自身の考え方も変化していって、体調が良くなっていきました。こんなことがあるんだと驚きました。自分も氣が出せるようになって父の会社へ入り、父が亡くなってから会長という立場で、たくさんの人に氣を送るようになりました。
そしたら、氣を受けている最中に、いろいろなことを話し始める人が出てきました。話の内容からすると、どうも本人の言葉ではなくて、その人に影響を与えている霊的な存在が苦しさ、つらさを訴えてきているようなのです。
30年もやっていますから、たくさんの人の話を聞きました。それで、霊的な世界はこんなふうになっているんだと徐々にわかってきました。
私は計算とか理論で生きてきましたから、ああいう経験をしないと、霊的な世界のことはわからなかったですね。 - 鈴木:
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私も経験からたくさんのことを教えられました。
人型というのは神道のお清めに使われる大事な神具です。学校ではそういうものだと教えられますが、なかなか実感できません。
人型の力を実感したのは長女が生まれたときでした。娘は低出生体重児として生まれ、しばらくの間、保育器に入っていました。保育器は亡くなった子、丈夫でない子が入ります。その中は消毒もされて清潔なのですが、赤ん坊の生きたいという思いとか、近親者が生きてほしいと願う重い氣が充満しています。私の目には保育器の中はぼんやりと曇っているように見えました。
そこで私は、人型を使って保育器をぬぐいました。その場にいた看護師さんから奇異な目で見られましたが、大切な娘のためです。まわりの目など気にしていられません。何枚もの人型を使い、「これでよし」と思った瞬間、光が差したように保育器の中がぱっと明るくなりました。
出産後、家内も入院していました。病院のベッドというのは苦しみやつらさ、不安といったさまざまなネガティブな氣を吸っています。ここでも人型の出番です。私は、何度もベッドをぬぐいました。そうすると、重い氣がとれて氣がぱっと変わりました。 - 中川:
- 人の生死を扱う場所はいろいろなエネルギーが交錯しています。そういう意味では救急救命士というのは大変なエネルギーの中で仕事をしているわけですね。
- 鈴木:
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敏感な人は大変ですよ。でも、仕事をしているうちに鈍感になってきて何も感じなくなっている人も多いですね。
実際にはいろいろ影響を受けているんでしょうけど感じないんです。 - 中川:
- 救急車の中は医学的に清潔にはしてあるでしょうが、氣を浄化するという発想はありませんからね。
- 鈴木:
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救急車の中に置くというと笑われるでしょうが。バリバリの医療科学の世界ですから。戦前は、信仰の中心として学校や大臣の執務室にも神棚が置いてありました。
神社でも、さまざまな儀式を形式的にやっているだけのところが多くなってきました。神道は祓いにはじまり祓いに終わります。穢れというのは氣が枯れることです。本当に祓える人でないと、ちゃんとした氣に戻すことができません。
私たちの日常でも、氣が乱れたり不足しているところはいっぱいあるじゃないですか。例えばホテルはいろいろな人が泊まるので、氣は混とんとして濁っていますよ。もちろん、きれいに掃除はしてありますが、部屋の
中にはすごい邪気がたまっている危険性だってあります。私は拍手祓いというのをおすすめしています。手をたたくだけでエネルギーが変わります。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
K Ì PLACE にて 構成/小原田泰久
05月「本多 敏行」「豊永 ひとみ」さん
本多敏行 ・豊永ひとみ(ほんだ としゆき・とよなが ひとみ)さん
本多敏行( ほんだ・としゆき )
1950年群馬県生まれ。1969年Aプロダクション(現シンエイ動画)に入社。1979年『ドラえもん のび太の恐竜』で作画監督。1982年仲間7人と独立して「あにまる屋」を設立。2007年豊永氏が(株)エクラアニマルの社長になったあと、自主製作、社会貢献活動にも力を入れる。
豊永ひとみ( とよなが・ひとみ )
2007年、前身会社の「あにまる屋」を引き継ぎ、株式会社エクラアニマルを設立。代表取締役となる。「子どもたちに本当に見せたいアニメを手作りで、心をこめて作りたい」という目標に向けて、日々、奮闘している。同社は、2019年、良心的な漫画等の芸術的活動に贈られる「やなせたかし文化賞」を受賞している。
『果たしてアニメは世の中の役に立っているのだろうか?』
仲間とお酒ばかり飲んでいた若いころ 。筋骨隆々で
- 中川:
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今回はお二人のゲストにお話をうかがいます。西東京市にあるアニメの制作会社「エクラアニマル」の社長・豊永ひとみさんとアニメーターの本多敏行さんです。「それいけ!アンパンマン」とか「ハクション大魔王2020」といったテレビ番組を作ってきたそうです。
私がこのお二人に興味をもったのは、株式会社ですから商業的な活動をするのは当たり前ですが、それ以上にこの会社は、アニメによって少しでもいい世の中を作ろうという思いで活動しているとお聞きしたからです。
会社ができたのが1982年。そのころはまだ豊永さんはかかわっていなくて、本多さんと仲間の方たちで立ち上げられたそうですね。まずは本多さんからお話をお聞きしたいのですが、本多さんは精悍なお顔立ちをしていて、立派な白髭で、私がイメージしていたアニメーターとはまるで違っています(笑)。
アニメーターの草分け的な存在だとお聞きしていますが。 - 本多:
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もう60年近くもやっていますから。スタジオジブリの宮崎駿さんは先輩で一緒に仕事をしたこともあります。当時からすごい方でした。
東京に来る前は群馬県の農業高校生でした。やっていたのは林業ですね。山へ入って、下刈り作業や木の伐採、測量とか、そんなことをやっていました。
山登りが好きだったので卒業後は公務員になって国有林の管理でもやろうと思っていたのですが、見事に採用試験に落ちてぶらぶらしていました。 - 中川:
- 当時から絵を描くのは好きだったのですか。
- 本多:
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嫌いではなかったですね。当時、グループサウンズが流行っていて、女の子に人気タレントの似顔絵を描いてあげると喜ばれるのがうれしくて描いていました。あとは、人が亡くなったとき、まだ写真を伸ばす技術がなかったのか、小さな写真を見ながら遺影を描いてほしいと頼まれたこともありました。大人たちがお小遣いをくれるので喜んでいました。
そんな程度だったのですが、高校の先生があいつは絵が好きそうだと言って、ご子息の知人で東京でアニメ制作をしている方に紹介してもらい、上京することになりました。テレビで『巨人の星』が大人気だったころですよ。 - 中川:
- どうでしたか。アニメを制作するというお仕事は。
- 本多:
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びっくりですよ。みんな、すごく絵が上手で、やっていけるのかと不安になりましたね。先輩がいろいろ教えてくれて徐々に仕事もできるようになるのですが、東京の生活は楽しくて、とにかくお酒を飲むのが好きでしたから、飲み歩いてすぐに給料がなくなってしまうんですね。
アニメの仕事をさぼって日雇いの土方のバイトをして飲み代を稼いでいた時期もありましたね(笑)。いい時代でした。林業をやっていましたから、力仕事はお手のものです。120キロもあるガスボンベを一人でかついで運んだら、給料を倍出すからこないかとスカウトされたこともありました(笑)。 - 中川:
- 見た目どおりの豪傑ですね。
- 本多:
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そのころはアニメの仕事と言ってもだれも知らないですよ。何をしていますかと聞かれて「アニメーターです」と答えたとき、「東京ガスに勤めているの」と言われたこともあります。ガスのメーターと関係あると思ったんでしょうね(笑)。
でも正直、楽な仕事だなと思いました。林業だと炎天下で汗だくになって働かないといけませんから。それが、仕事場はクーラーが効いているし、疲れたら内緒で一杯飲んで(笑) - 豊永:
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ちょっと補足しますね。今の話だけだと、ただの飲んだくれに聞こえますが、いい仕事もしているんですよ。
本多さんは、1980年に公開されたドラえもんの第一作映画『ドラえもん のび太の恐竜』の作画監督を務めました。 - 本多:
- そんなこともありましたね(笑)
- 中川:
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本多さんはあまり自慢話をしたがらない方なんでしょうね。何しろ今のアニメの隆盛の基礎を作られた人ですから、自慢できることはいっぱいあるのに。
独立されたのは1982年でしたね。 - 本多:
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仲間7人で「あにまる屋」という会社を作りました。
みんな個性的で、また酒の話になりますが、しょっちゅう飲んでいましたね。大みそか、7人で一晩中飲んだときには一升瓶が14本空になりました。旅行に行ったら、旅館のお酒がなくなったこともあります。
お酒だけじゃないですよ。仲間になるには40キロのバーベルを上げないといけません。みんな筋肉隆々ですよ。それで、「あにまる屋」という社名にしました。 - 豊永:
- アニメの会社で「あにまる屋」となると、かわいい動物たちが仕事をしているというようなイメージがあるじゃないですか。ウサギとかリスとか。でも、あの7人だと野獣でしたね(笑)
- 本多:
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実際、台湾の新聞に紹介されたときは「野獣屋」でした(笑) - 豊永:
- その7人の中には京都アニメーションの取締役になった木上益治さんもいました。彼は京アニ放火事件で亡くなってしまって、本当にショックでした。
- 本多:
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大阪に住んでいる母親の面倒を見たいと関西に帰ったんですね。彼は天才アニメーターでした。今回、彼が残してくれた原作をアニメ化することもできました(『小さなジャムとゴブリンのオップ』)。
初代の社長を務めたのが真田芳房という先輩で、一人だけインテリでした。いつも本を読んでいました。山本周五郎とか山頭火とか宮沢賢治が好きでした。それにピアノまで弾けましたからね。彼も酒好きでしたから肝硬変で亡くなりましたが、とても残念でした。
私の目標は一生の間に小学校のプール2杯分のお酒を飲むことでした。しかし、1杯分くらいでクモ膜下出血で倒れました。奇跡的に復活して後遺症もなくて今も絵を描くことができますが、まあ飲み過ぎは良くないですよ(笑)。
会社も2007年に危なくなりました。私が二代目の社長をやっていたので仕方ないですね(笑)。一番年上だからというだけの理由でやらされて。
それを救ってくれたのが豊永さんだったわけです - 中川:
- ここで豊永さんが登場するんですね。
- 豊永:
-
救ったわけじゃないですよ。成り行きでしたから(笑)。
だいたい、私はパートのおばさんだったんですよ。会議があって、次の社長はどうしようということになって、だれも発言しないし、そんなときにだれかが「豊永さんがいいよね、とりあえずいろんなことわかっているから」って言い出して、みんなが「そうだ、そうだ」って顔で私を見るんですね。
「えっ、私ですか」って思わぬ展開にびっくりしたのを覚えています。でも、だれかがやらないといけないし、会社も前へ進まないといけないので、やれるかどうかはわかりませんでしたが、とにかくやるしかないという思いで引き受けました。
いろいろな人に助けられて、何とか20年ほど続いています。 - 本多:
- 言い訳になりますが、アニメーターが経営をしてもうまくいかないんです。絵を描くことばかりに夢中になって、お金のことなんか考えませんから。
- 中川:
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豊永さんはどうしてアニメの会社に入られたんですか。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
西東京市のエクラアニマルにて 構成/小原田泰久
03月「 旭丘 光志」さん
旭丘 光志(あさおか・こうじ)さん
1938年1月2日樺太豊原市(現ユジノサハリンスク市)生まれ。ADデザイナー、劇画化、シナリオライターをへて、1977年より小説、評論、ノンフィクションを執筆。ノンフィクションは主として、教育分野と医療分野をテーマとしてきた。劇画『ある惑星の悲劇』劇画『レッツゴーJF・ケネディ』TV『特別機動捜査隊』小説『中川一郎怪死事件』『アイヌモシリ独立戦争シャクシャイン』ノンフィクション『山村留学』『つらい痛みが3分で消えた』など著書多数。
『真氣光の始まりを目撃し、 貴重な記録として残してきた』
先代のいつも笑顔で 威張ることのない姿にひかれた
- 中川:
-
旭丘先生、ごぶさたしています。
実は、今年は先代が生きていれば90歳になる年です。氣の中継器のハイゲンキが生まれて40年になります。
旭丘先生はハイゲンキが誕生するあたりから先代を取材してくださっていて、初期の真氣光のことをご存知の貴重な方です。『つらい痛みが消えた』『医療気功の衝撃』『霊象の真実』といった真氣光に関する本も書いてくださいました。
当時のこと、いろいろお聞かせいただければと思い、お訪ねしました。 - 旭丘:
-
私は今年の1月2日に88歳になりました。足腰が弱ってしまって、昔みたいに動き回ることができなくなりました。寂しいですが、こうやって懐かしい方が訪ねて来てくださるのはうれしいですよ。
でも、記憶力も低下してきていますので、40年も前のこと思い出せるかな(笑)。 - 中川:
-
私は1月1日生まれです。お正月だと、どこもかしこも「おめでとう」だらけで、改めて誕生日のお祝いはやらないですよね。誕生会をやってもらった記憶はないですよ(笑)。 - 旭丘:
- 同じですね。ははは…。
- 中川:
- 先生は樺太(サハリン)で生まれて、終戦後に札幌に引き揚げられたそうですね。うちの母方も樺太からの引揚者です。
- 旭丘:
- そうでしたか。私は豊原市というところで生まれました。今のユジノサハリンスク、サハリン州の州都ですね。
- 中川:
- ソ連は終戦になってから攻めてきたんですね。
- 旭丘:
-
私は小学校3年生でした。近所の人がたくさん殺されましたよ。私のところはキツネの牧場をやっていました。牧場は何十町歩もあって、中には川が流れているような広いところでした。キツネも300頭以上いたんじゃないかな。
引き揚げの一年ほど前、親父はソ連の人たちにキツネの飼い方を教えていました。そうでないと接収後、困るので。それで殺されなかったんですね。
「宗谷」という船で引き揚げてきました。最後の引き揚げでした。「宗谷」は戦後、南極観測船として活躍しますが、戦時中は帝国海軍の船として物資の輸送や測量船として活躍していました。魚雷が命中したけれども、それが不発弾だったり、米軍の大編隊から銃撃されても生き残るなど、すごい強運の船だったようですね。
あのとき、ぼくはひどいやんちゃ坊主で、みんなが港で船を待っているのに、一人で小学校の屋上で寝ていて、置いて行かれるところでした(笑)。みんなが必死に探してくれて、ギリギリのところで帰ることができました。すごく怒られたのを覚えています。 - 中川:
- 先生はもともとは劇画を描かれていたんですよね。
- 旭丘:
- いろいろやりました。最初は広告デザイナーでした。その後、劇画は少年マガジンとかにも連載しましたし、小説もノンフィクションもテレビのシナリオも書きました。出版もテレビも元気な時代でしたから仕事は面白かったですね。自宅の近くに仕事場を建てて、アシスタントも4人くらい使って、忙しかったですよ。
- 中川:
- そんな中で、1980年代だと思いますが、先代との出会いがあったわけですね。どんな経緯で出会ったのか、覚えておられますか。
- 旭丘:
-
どこでだったかな。定かではありませんが、当時、いろいろな集まりをやっていて、その流れで、同郷ということもあって、中川先生を紹介されたのかもしれないですね。
氣のことはまだオカルトとしてしか見られていなかった時代でしたが、何かピピッと感じるものがあったのではと思います。 - 中川:
- ハイゲンキはもうできていたんでしょうかね。
- 旭丘:
-
まだでしたね。あのころはハイゲンキとよく似た形の治療器でしたが、10数本の針の束をバイブレーターで動かせて、ツボを刺激するものでした。その治療器を販売する仕事をされていました。
ただ、中川先生は単に売るだけでなく、効果的な治療方法についての研究会を作られて、医師や治療家とも協力しながら研究を重ねていました。
普通のハリ治療では考えられないような劇的な治療効果もありました。しかし、面白いことに、同じ治療器を使っても、中川先生がやるのと、ほかの人とでは効果が違ったりしたのです。
このあたりから中川先生は「氣」のことを意識するようになられたのではないでしょうか。よく言われましたよ。「旭丘さん、見えない世界を信じないとダメだよ」って。
ちょうどそのころ、アメリカではエイズの蔓延が社会問題になっていて、ハリ治療は敬遠されるようになりまた。日本でもエイズの患者が出始めましたからね。集合ハリの治療器も売りにくくなっていたと思います。 - 中川:
- なるほど。そういう背景があって、夢に白髭の老人が出てきて、ハイゲンキの誕生につながったんですね。
- 旭丘:
-
ハイゲンキはヘッドの先端部にプラスティックでできた小さなピラミッドが並んでいる構造でしたから、だれもが安心して治療が受けられるし、構造上は考えられないような高い効果が出ましたしね。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
埼玉県・旭丘先生のご自宅にて 構成/小原田泰久
01月「 龍村 修」さん
龍村 修(たつむら・おさむ)さん
1948年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。1973年求道ヨガの沖正弘導師に入門。国内外のヨガ指導に従事。1990年から真氣
光研修講座講師。1994年独立して龍村ヨガ研究所を設立。龍村ヨガ研究所所長、NPO 法人国際総合ヨガ協会理事長などを務める。著書は『龍村式ヨガ健康法 眼ヨガ』『龍村式 ゆがみ解消法』(青春出版社)など多数。
『真氣光40周年。創始者の先代・中川雅仁はこんな人だった 』
先代のいつも笑顔で 威張ることのない姿にひかれた
- 中川:
-
龍村先生には研修講座400回を記念して7・8月号で対談をしていただきました 。今回は2026年が真氣光の40周年ということで、長く真氣光とかかわってくださっている先生に再びお話をうかがいたいと思います 。
先代が会社を作ったのが1985年で、氣の中継器であるハイゲンキを開発したのが1986年です。会社を作ったのが1985年で、気の中継器であるハイゲンキを開発したのが1986年です。1990年に1週間で氣を出せる講座(現在の真氣光研修講座)が始まって、龍村先生は第1回目から講師を務めてくださっています。先代とは出会いはその前の年の夏ごろだったのではないでしょうか。先代のことをご存じない会員さんも多いので、今日は先代のことを龍村先生とお話できればと思います。
- 龍村:
- ハイゲンキができて40年ですか。400回記念といいおめでたいこと続きですね。まずはおめでとうございます。会長がおっしゃるように、先代とは下田での講座が始まる前の年にお会いしています。下田の沖ヨガ道場へお越しになりました。道場を貸してほしいと言われて、社員研修のような形でならいいですよという返事をした覚えがあります。
- 中川:
-
沖ヨガの創設者でヨガの草分け的な存在だった沖正弘先生はすでに亡くなられており、龍村先生は当時、道場長をやっておられたんですね。 - 龍村:
- そうです。沖先生は1985年に亡くなりました。
- 中川:
- 1985年ですか。先代が会社を作った年ですね。これも奇遇なご縁に感じます。先代は沖先生と面識はありませんでしたが、ツボは動くんだというようないわゆる常識とは違う考え方が同じだったり、長い修業が必要とされてきたヨガや氣功をだれでもできる身近なものとして普及させました。先代はロスで沖先生の手書きのノートのコピーをもらったり、ブラジルへ行ったときには沖ヨガを習った方に出会ったりして、道場をお訪ねしたときには沖先生のことを意識していたと思うんですね。龍村先生を通して、沖ヨガと真氣光がつながったというのは必然のような気がしてなりません 。
- 龍村:
- 最初は私もこんなに長くかかわるとは思っていませんでした(笑)
- 中川:
- 研修講座をご覧になってどう思われましたか。
- 龍村:
-
氣を受けると大声を出したり、動き出したりする人がいたじゃないですか。私たちが知っていたのは氣を受けて体が動くというのではなく、自分でゆらゆら動かしながら体をほぐしていくというものでしたから、私を含めてみんな驚いていました。
でも、先代は威張ることもないし、いつもニコニコとうれしそうにしている屈託なさというか人懐っこさというか、だんだんその人柄にひかれていきましたね。 - 中川:
-
研修講座は400回を超えて、先生は最初のころの1回を除いてすべてに参加してくださっていますからね。
その1回は海外出張の予定がすでに入っていて出られなかったそうですが、「いないと困る」と言われたそうですね。 - 龍村:
- 以来、研修講座のスケジュールを常に優先してきました(笑)ありがたいことです。
- 中川:
- 先代も頼りにしていたと思いますよ。本当に深いご縁ですね。
- 龍村:
-
真氣光とのご縁の深まりということで言えば、1994年に研修講座が生駒に移ったときが大きな節目だったかもしれません。その年、ちょうど独立して龍村ヨガ研究所を立ち上げました。あのころはオウムの事件でヨガの教室は閑古鳥が鳴いていました。そんなときの独立ですから先行きにはとても不安がありました。
生駒へ移る前、下田の道場の近くに先代が真氣の社という施設を建てたじゃないですか。足立育郎先生の設計で、氣のバランスを整える装置も設置されていました。これからはそこにいるだけ元気になれる場所が必要になるから、全国に同じような建物を作るという壮大な計画をおもちでした。
下田の真氣の社には見晴らしのいい場所に氣の満ちた露天風呂がありました。そこに先代と二人で入って、独立することをお話ししました。そのとき、独立するなら、生駒へ来て講師をやってほしいと言われました。真氣光にも興味をもち始めていましたし、経済的にも助かるのでとてもうれしい話でした。先代との距離がぐっと近づいた気がしました。
だれに対してでも、新しいことをやろうとしたり、困ったことがあれば手を差し伸べて応援してあげたいという精神をお持ちの方でしたね。 - 中川:
-
私も先代が亡くなって右も左もわからない中で跡を継いだわけですから不安はありました。でも、やらないわけにはいきません。きっと龍村先生が独立したときと同じような心境だったのではないでしょうか。
そんな中で、龍村先生がいてくださったことはとても心強かったです。先代はハイゲンキという氣の中継器だけでなく、龍村先生をはじめたくさんの真氣光を支えてくださる方たちも残してくださいました。そのおかげでここまで続けられました。
生駒の研修所と言えば、氣の環境という面でいろいろ工夫をしていました。建物は借りているものでしたからあまりいじることができません。そこで、床下にびっしりと水晶を埋めました。真氣光のエネルギーで研修所全体を包み込もうとしたんでしょうね。下田では受講した方たち氣を受けたときの反応がすごかったじゃないですか。大きな声をあげたり、体を激しく動かしたり、訳のわからないことを話し出したりする人がけっこういましたよね。霊的な現象だったと思います。先代は“お化け”のせいだと言っていました。そんな人も、氣をたっぷり受けて静かになると、体調も良くなったりしました。
生駒での第1回目の研修講座は拍子抜けでした(笑)。下田とは打って変わってみなさん、静かに氣を受けていました。
研修所にいるだけでじわじわと氣が浸透していって、いわゆる先代の言う“お化け”、私が言う“マイナスの氣”が早く抜けていくようになったのではないでしょうか。先代は場のエネルギーの大切さを確信したと思います。 - 龍村:
-
それで場のエネルギーを最高に高めた真氣の杜を全国に作ろうと考えたのですね。志半ばで亡くなってしまいましたが。 - 中川:
- 真氣の杜は、下田のほかに兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市山崎町)というところにも、足立先生の設計で建てられました。大きなピラミッドハウスがある施設でした。ピラミッドハウスの中でセミナーをやったりしていましたね。下田から生駒に移るとき、全国を回っていい場所はないか探していましたが、山崎もひとつの候補にあがっていました。研修講座は生駒でやることになりましたが、山崎も捨てがたく、真氣の杜として使うことになったのです。
- 龍村:
- そういういきさつがあったのですね。
- 中川:
- 山崎の真氣の杜は先代が亡くなったあと、研修講座でも講師をしてくださった小林正観さんが引き継いでくださいました。正観さんもお亡くなりになって、今はさとうみつろうさんという作家がオーナーをされているようです。スピリチュアルな世界に造詣の深い方で、大きなイベントを開催したりして、ずいぶんとにぎわっていると聞きました。そうやって先代が作った施設が有効に活用されているというのはありがたいことです。
- 龍村:
-
真氣光は、下田での研修講座が始まったころは中川氣功と呼ばれていました。中川先生が始めた氣功ですから中川気功でいいのですが、本人としてはしっくりこなかったのかもしれませんね。中川先生の持ち物みたいになって広がらないと思ったのか、確か会員さんの提案があったと聞いていますが、真氣光という名前に変えました。風貌も考え方もとても個性があって黙っていても目立つ人でしたが、自分を前面に出すのは好まなかったのかもしれないし、氣は宇宙からきているわけですから、自分の名前をつけると小さくなってしまうという思いがあったのかもしれません。そういう意味で真氣の杜も自分とは直接の関係のないところで活用されているというのは、先代の考え方に合っているのではないで
しょうかね。 - 中川:
- そうかもしれませんね。自分の名前を残すためにやっていたわけではなかったと思います。
- 龍村:
- それと、スピリチュアルな雑誌で『アネモネ』ってあるじゃないですか。あの雑誌も先代が始めたものです。真氣の杜と同じで、先代が作ったことをご存知なのはわずかだと思います。(続きはハイゲンキマガジンで・・)
東京・池袋 KÌPLACEにて 構成/小原田泰久
お問い合わせ
各種お問い合わせはこちらより承っております。
よくいただくご質問と、
その答えをよくあるご質問で紹介しています。
お問い合わせの前にご一読ください。
真氣光研修講座に関する
ご予約/お問い合わせ
その他のお問い合わせ
受付時間 10:00?18:00
(各センターの休業日を除く)
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