2021年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月「あじろ ふみこ」さん

あじろ ふみこ(あじろ ふみこ)さん

新潟県立高田北城高校卒後、国立清水海員学校・専修科(現・国立清水海上短期大学校)卒。東京港で150人乗り海上バスの船長兼機関長を務める。2000年会社員の夫と結婚、長男・長女二人の発達障害児を育てる。現在、東京都公立学校特別支援教室専門員。著書『母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年』(中央公論新社)

『右往左往の子育て体験。息子も娘も発達障害だった』

すごい勢いで移動して障子をバリバリと破り始めた

中川:
知り合いからあじろさんが書かれた『母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年』(中央公論新社)という本をすすめられました。 2人のお子さんが発達障害ということで、悪戦苦闘の子育てをされた様子が詳しく書かれていてとても興味深かったです。 発達障害のことはあまり知識がありませんでしたが、世間の理解もまだまだだし、悩んでいるお母さん方も多いのではないでしょうか。あじろさんの体験は、こうやればいいのか、こう考えればいいのかと、参考になるかと思います。
あじろ:
ありがとうございます。 これまでは、学校は毎日行かないといけないし、いろいろな方とかかわるのがいいことだとされてきました。それが適応力があるということだったんですね。 ところが、今はコロナ禍で、学校が休みになったり、人とかかわってはいけませんという風潮になっているじゃないですか。真逆ですよね。 適応力があるとされてきた子は戸惑っていると思いますよ。親御さんもそうです。遊ばせる場所がない、学校へ行かなくて大丈夫だろうかと、心配になってしまいます。 だけど、発達障害の子は、家の中でゆっくりできて、友だちと緊張状態の中で付き合う必要がないというのはとても快適です。コロナ禍の社会に適応しているんですね(笑)。 そういうものの見方もあるということを知るのもとても大事かなと思ったりしています。
中川:
確かにそうですね。状況に応じて、プラスがマイナスになったりマイナスがプラスになったりしますね。 息子さんが普通の子とは違うなと感じたのはいつごろですか?
あじろ:
生まれたときから「なんか変」と感じていました。とにかく寝ないで泣きまくるんです。抱っこしているといいのですが、床におろしたとたんにギャーと泣くんです。絶対に寝ない。 家で抱っこしていても泣くようになって、夜風に当たりながら外で抱っこしていたこともありました。 公民館で7 ヵ月から1 歳2ヵ月までの子どもを対象とした子育てサークルに参加しました。 ほとんどの子どもたちはお母さんの膝に乗って絵本を読んでもらったり、おもちゃで遊んでいるのに、うちの息子は絵本やおもちゃには見向きもしませんでした。 すたすたと障子のもとへ向かい、障子を次々と破いていったのです。ものすごいパワーです。 つかまえると大声で泣き、離すと一目散に障子に向かっていって、また破き始める。障子の下の方のマスは全滅でした(笑)。
中川:
それは大変だ。
あじろ:
買い物に連れて行っても大変です。息子がスーパーへ入ったとたんに突進していく場所はお菓子コーナーではなくて鮮魚売り場。ケースの中に入った鮮魚をつかんで大騒ぎするんです。 水たっぷりの樽にドジョウを入れて売っていたことがありました。おもむろに樽に両手を突っ込み水をばしゃばしゃかき混ぜながらドジョウとたわむれ始めました。床は水浸し。ドジョウだって飛び出したりしますよ。必死で止めようとしましたが、全身全霊で号泣ですよ。もう収拾がつきません。ほんの数分が永遠と思うほどの長い時間に思えました(笑)。
中川:
すごいですね。そんな状態だと出かけられなくなりますよね。
あじろ:
息子のように何をするかわからない子どもを育てていると、家に引きこもっていたほうが、他人の目を気にする必要もないし、他人に迷惑をかける心配もないので安心かもしれません。 でもそれって、「しつけもまともにできないダメな親」と非難されるのがいやだというのが本心だと思うんですね。人は体験を積むことで成長する、と私は信じているので、息子をあちこち連れて行きました。
中川:
まわりからいろいろ心ないことも言われたんじゃないですか。
あじろ:
事情を知らない人たちが、目の前で起こった出来事だけで非難を口にするのには参りましたね。上から目線で「私が正してあげる」というある種の正義というんでしょうか、もっと相手の立場に立って、非難ではない別の伝え方があるのではと思いました。 理不尽な非難を受けて、最初は悲しんでいましたが、何度もそういう体験をするうちに、私は「言うのは相手の自由。聞かなかったことにするのは私の自由」と割り切ることができるようになりました。 とにかく何が大切なのかと考えました。私が非難されないのが大切ではなく、息子にいろいろな経験をさせてあげることを優先しよう。そのためには、私が防波堤になる、と覚悟を決めましたね。


<後略>

東京・池袋のSAS東京センターにて 構成/小原田泰久

母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年

あじろ ふみこ (著)
‎ 中央公論新社

           

11月「立川あゆみ」さん

立川あゆみ(たちかわあゆみ)さん

千葉県八千代市の農家の長女として生まれ、畑を遊び場として育つ。アパレル会社勤務、お笑い芸人、専業主婦、飲食店勤務など、さまざまな職をへて、パクチーの栽培を始める。その間、夫が他界するなどつらいことも体験した。今はパクチーの6次産業化を進め、新聞やテレビ、ネットなどで紹介されるようになった。

『つらさを乗り越え、パクチー栽培でワクワクする毎日』

お笑い芸人、結婚、夫の急死と波乱万丈の20代30代

中川:
Yahooニュースを見ていたら、《元芸人が農業に転身、話題のパクチー自販機で活路「最愛の夫の他界が転機に」》という立川さんに関する記事があって、すぐに読ませていただきました。私はパクチーが大好きです。それでこの記事が目に止まったのだと思います。「元芸人が農業」とか「最愛の夫の他界」というタイトルを見て、きっと波乱万丈の人生を送った方だろうと興味をもちました。パクチーの自販機という発想も面白いなと思いました。
立川:
ありがとうございます。私も氣とか波動には興味があります。会長は氣の専門家ということですが、会長のところへはどんな方が来られるんですか?
中川:
体調が良くない方とか、迷い、悩みがある人が多いですね。氣は生命エネルギーですから、不足したり流れが悪いと体調も悪くなりがちだし、運気も高まりにくいと思います。だから、氣をしっかりと受けていただいて、氣を充電し、流れを良くすることで、いろいろな変化が起こってきます。氣を受けていると、生き方や考え方が変わってきて、つらいことがあっても、押しつぶされるのではなく、それをバネにして一歩二歩と前進できるようになる方も多いですね。立川さんもつらいことがいっぱいあったと思いますが、それを乗り越えて、今は充実した毎日を過ごしておられるのは、氣がしっかりと充電されているからじゃないかと思います。若いころはお笑い芸人を目指していたんですね。
立川:
小さいころから芸能界に興味があって、お笑い芸人になりたいと思っていました。テレビの『オレたちひょうきん族』なんかが流行っていたころです。大阪のNSC(NewStar Creation 吉本総合芸能学院)に受かりました。ダウンタウンさんは、ここの一期生です。千原兄弟さんとかナインティナインさんといったお笑い界で大活躍している人たちが卒業しているところです。でも、両親に反対されて、服飾の専門学校へ進みました。ファッションにも興味がありましたから、卒業後はアパレル関係の会社でデザイナーの仕事をしました。しばらくして吉本興業が東京に進出して銀座七丁目劇場ができました。オーディションがあると知って、お笑い芸人になりたいという気持ちがよみがえり、オーディションを受けました。そしたら受かっちゃったんです。何年かはアパレル会社に勤めながら、舞台に立ってお笑いをしていました。
中川:
それから結婚されたんですね。
立川:
結婚して専業主婦になりました。今は26歳の娘と23歳の息子がいます。
中川:
ご主人は亡くなったとニュースには出ていましたが。
立川:
結婚して12年目。私が33歳のときでした。主人は13歳上の46歳でした。死因は心筋梗塞でした。
中川:
突然だったんですね。
立川:
春分の日に、みんなで息子の野球チームの応援に行きました。そしたら、胸が苦しいからと言って、主人は先に家へ帰りました。心配だったので、しばらくしてから電話をしましたが出ません。メールの返事もありません。おかしいなと思ってあわてて帰ったら、ベッドで亡くなっていたんです。玄関を開けたとき、いつもと違った雰囲気がありました。ああいうときって、119番に連絡するんですよね。でも、慌てていたので110番に通報してしまい、救急に回してもらいました。救急車が来るまで心肺蘇生をしましたが、結局戻ってきませんでした。

中川:
大変だったんですね。お子さんも小学生ですしね。
立川:
3年くらいは突然涙が出てきたりして、精神的に不安定でしたね。いいこと嫌なこと、いろいろあったけれども、いつもそばにいた人がいなくなる喪失感は想像以上でした。たくさんの人に助けてもらったり支えてもらったりしましたが、それでもさみしさはどうしようもなかったですね。子どもたちのケアもしないといけないですしね。子どもたちは、お父さんが突然いなくなった寂しさもあるけれども、親って、お父さんが怒ったらお母さんが慰めるみたいなバランスがあるじゃないですか。それが崩れちゃって、私一人で怒っては慰めるということをやらないといけないので、接し方が難しかったですね。戸惑いばっかりでした。
中川:
お子さんたちもお母さんのことを気遣ってくれたりしたんじゃないですか。
立川:
母と子どもの絆という面では強くなったと思います。ずっと仲のいい親子ですねと言われますから。3人で支え合って生きていこうという意識が自然に芽生えたのだと思います。ただ、子どもたちも精神的に不安定な部分はありました。下の子が4年生のときだったかな。行動が変なので病院へ連れて行ったことがありました。今は、私の仕事を手伝ってくれたりしてとても助かっています。

<後略>

千葉県八千代市のPAKUCISISTERSにて 構成/小原田泰久

           

10月「濁川孝志」さん

濁川孝志(にごりかわ たかし)さん

1954年新潟県生まれ。立教大学で30年以上にわたって教鞭をとり、学生たちに霊性(スピリチュアリティ)について真摯に語りかけている。「霊性の喪失が現代社会のさまざまな問題を生み出している」という確信から、数々のシンポジウムやイベント、講演会を通して霊性の重要性を訴えている。著書に『星野道夫 永遠の祈り』『ガイアの伝言 龍村仁の軌跡』『大学教授が語る霊性の真実』などがある。

『若者たちに“霊性”の大切さをわかりやすく伝えたい』

日本人には、見えないものを敬い畏れるという気持ちがある

中川:
 先生の書かれた『大学教授が語る 霊性の真実』(でくのぼう出版)を読ませていただきました。 霊性とかスピリチュアリティといった話は、どうしても非科学的だということで、なかなか学問の対象にはならないと思います。にもかかわらず、20年以上も霊性をテーマに研究をされてきた大学教授というのはどういう方なのか、お会いできるのをとても楽しみにしていました(笑)。
濁川:
 ありがとうございます。私も、氣功にはとても興味があって、論文を書いたこともあります。氣を受ける前と後とでは体や心の状態が変わるという内容です。たとえばせっかちな人が氣を受けることでゆったりと生きるようになったりするのです。 私の方こそ、会長からどんなお話が聞けるのか楽しみにして来ました。
中川:
さっそくですが、先生はなぜ霊性に興味をもたれたのかお聞かせいただけますか。
濁川:
私はもともとの専門は運動生理学でした。運動や山登りが大好きでしたから、人間の体の研究というのはとても面白かったですね。 健康科学という講座をもつことになって、健康は体だけでないだろうと思い始めました。心の健康も大切だし、霊性というのもあるじゃないかと少しずつ膨らんでいきました。気づいたら霊性が中心になっていました。それが40歳くらいでしょうか。 振り返ってみると、子どものころ「自分は何のために生きるのか」とよく考えた記憶があります。自宅の部屋で一人ぼんやりと過ごしていて、なぜかものすごい孤独感に襲われるわけです。そんなとき、人は死んだらどうなるのだろう、なぜ生きないといけないのだろう、宇宙の果てには何があるのだろう、と思ったりしていました。 かなり変わった子どもだったかもしれません(笑)。 20年ほど前、あることで大きなストレスに襲われました。悩みに悩みました。自分は何のために生まれてきたのだろうと毎日、自分に問いかけていました。 そんなときに、同僚が当時福島大学の教授だった飯田史彦先生の『生きがいの創造』(PHP出版)という本を紹介してくれました。「死後の生」や「生まれ変わり」「ソウルメイト」といったスピリチュアルな世界から生きがいについて論じたとても奥深い本でした。この本を読んで私は「これでいいんだ」と思えて、悩みから脱することができました。それがきっかけで、本気で霊性について研究をするようになりました。
中川:
 なるほど。WHOの健康の定義でも霊性を入れようという提案があったということで話題になりました。もう20年以上も前になりますかね。残念ながら、提案だけで終わっているようですが。 私の父である先代の会長が「氣によって霊性を高め、地球の環境を浄化する」とよく言っていたので、私には霊性という言葉に抵抗はないのですが、一般の人にはまだまだすんなりとは受け容れられませんね。 先生は霊性についての講義をしているそうですが、学生さんの受け止め方はどうでしょう。
濁川:
 いきなり生まれ変わりの事例とか臨死体験、幽体離脱といった話をすると、学生は目を白黒させています。そんな話、大学の講義で聴くとは思ってもないでしょうから。 いきなりスピリチュアルな話をするのではなく、講義をする前に、あなたは神社やお寺へ行ったことがありますか?と聞きます。だいたい「ハイ」と答えます。次に「神社やお寺では手を合わせますか?」と聞くと、「ハイ」という返事が返ってきます。「お墓参りをしますか?」「何のためにお墓参りをしますか?」と質問を続けていきます。そんなこと深く考えてない学生がほとんどなので、何のための質問なのかときょとんとしています。
中川:
 習慣だからとか何となくという人がほとんどでしょうね。
濁川:
 日本人の根底には、見えないものを敬い畏れるという気持ちがあるから、神社やお寺で手を合わせたり、お墓参りをするのだと思います。
中川:
 最初に日本人の心というものにアクセスしてから講義に入っていくのですね。
濁川:
 そうですね。3〜4週間講義をしてから、神社やお寺に行って手を合わせたり、お墓参りをする意味を問い直してみます。 半数くらいは、習慣でやっていたことにもこういう意味があったのだと、私が言っているスピリチュアルな内容を受け容れてくれます。残りの半数は理屈としてはわかるけれども理解しがたいとか、にわかには信じられないという反応です。

<後略>

大学教授が語る霊性の真実 ─魂の次元上昇を求めて

濁川孝志 (著)
でくのぼう出版

           

9月「小澤 隆秋」さん

小澤隆秋

小澤 隆秋(おざわ たかあき)さん

1938年(昭和13年)山梨県生まれ。15歳から和菓子職人の道に。10年の修行の後、大手企業の和菓子工場で責任者として和菓子を製造しつつ後進の指導に当たる。15年前から無添加の和菓子作りを始める。山梨県内各地で和菓子教室を開くと、たちまち、50人~100人が集まる人気の教室になった。現在、山梨県甲州市にあるアグリヒーリングヤギーずビレッジで商品販売。

『和菓子作り一筋67年。無添加でおいしい和菓子を広げる』

相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれる

中川:
 先ほど、小澤さんがお作りになった大福と水ようかんをご馳走になりました。とてもおいしかったです。私は和菓子には目がなくて、特にあんこと餅が大好きなので、うれしかったですね。
 小澤さんは長年、和菓子職人として働いてきて、82歳の今も現役で和菓子教室を開いているそうですが、そもそも和菓子職人になったきっかけは何だったのですか?
小澤:
 中学を卒業後、母親が勤めていた和菓子屋さんで、住み込みで働くことになりました。母親がまじめな人だったので、その息子なら安心だろうと、私を雇ってくれました。
 私は高校へ行って勉強をしたかったのですが、母親が『職人になったら定年もなく、いくつになっても働けるから』と言うので、仕方なく決めた道でした。
 2回脱走しましたね(笑)。高校へ行きたいという気持ちが捨てられませんでしたから。
中川:
 2回もですか。
小澤:
 母親に連れ戻されて、『手に職をもつといいから』とこんこんと説得されて、やっと『よし、まじめにやろう』と決めました。あれから67年もたちました。早いですね。
中川:
 修行は大変だったんでしょうね。
小澤:
 いつも言われたのは『人に負けないようにやれ』ということでした。しかし、技術を身につけようとしても先輩は教えてくれませんから、技術は見て盗まないといけません。
 それに上下関係は厳しかったですね。先輩にはぜったいに逆らえないし、仕事が終わるとお湯とタオルを用意して差し出すなど、仕事以外のことで気を使うことがいっぱいありました。
 人のお世話をするのは嫌いではありませんでしたが、先輩だからと言って威張るのはおかしいと思いました。
 自分が上になったらぜったいにこういう真似はしたくなかったですね。このときに、人を大切にしようと心に決めました。
 給料は2年間、一銭も出ませんでした。これもつらかったですね。
 でも、そのおかげで我慢することを覚えました。今考えると、すべてのことがプラスになっているように思いますね。
中川:
 そうですね。どんなことも気づきのチャンスですよね。それにしても15歳で人を大切にしようと決心したのはすごいですね。
小澤:
 経営者は従業員を、先輩は後輩を大切にしないと会社は成長しませんね。上の人が威張っている会社はダメになりますね。
中川:
 そのお店ではどれくらい働いたのですか?
小澤:
 10年間修業をしました。このお店で働いて良かったのは、5年間は工場で和菓子作りをやり、あとの5年間は営業の仕事ができたことです。
 特に、営業で外へ出ていろいろな人とかかわったのは後々、とても役に立ちました。
 人と接することで、人を見る目が養われました。和菓子を作ってばかりだと、技術は上達しても、人間的に成長できなかったのではと思います。
中川:
 営業では、お客さんが何を望んでいるかをキャッチする能力が必要ですよね。相手の氣を感じる力だと、私は思っています。
 人と接することで、相手の気持ちがわかったり、どうしたら自分の気持ちを伝えることができるかと、あれこれ考えますからね。
小澤:
 ちょっとした気づかいで営業の成績を上げることができます。私は、個人のお宅を回って和菓子を売っていましたが、困った人を見ると助けたくなる性格がプラスに働いたことはよくあります。
 道で荷物をもっているおばあちゃんに会うと、ついつい『もってあげましょうか』と声をかけたくなるんです。そのおばあちゃんがお得意様になってくれたこともあります。
 先ほど、人を大切にするという話をしましたが、相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれますね。
中川:
 氣が伝わるんでしょうね。こちらがいい氣を発すると、相手からもいい氣が届けられますね。
小澤:
 私には氣の話はよくわかりませんが、目に見えない何かが伝わるという感覚はわかります。
 父親は大の動物好きで、わが家には馬や牛、ヤギ、ヒツジ、ニワトリ、ミツバチなど、たくさんの生き物がいました。
 動物の世話をするのは子どもたちの役割です。子どもですから、ときどき餌やりを忘れたりしました。父は怒りましたね。ご飯抜きで蔵に放り込まれました。餌をもらえない動物たちの気持ちを、身をもって知りなさいというわけです。そんなこともあって、動物たちとは家族のように接するようになり、動物たちの気持ちもわかるようになってきました。
 彼らは言葉もよくわかっていて、しゃべれませんが、私たちが言っていることは、全部わかっていると思いますよ。やさしく接すれば、彼らはとても喜びます。
中川:
 人を大切にしようと思ったのは、子どものころのそういう体験があったからかもしれませんね。
小澤:
 そう思います。ミツバチもたくさん飼っていましたが、一度も刺されたことがありません。ハチはこちらが何もしなければ絶対に刺しません。ミツバチだけでなくて、アシナガバチやスズメバチも同じです。

<後略>

           

8月「龍村 ゆかり」さん

龍村ゆかり

龍村 ゆかり(たつむら・ゆかり)さん

ドキュメンタリー映画「地球交響曲」プロデューサー イメージメディエーター NVC認定トレーナー候補生。86年よりテレビ番組のディレクターとして数々のドキュメンタリーや情報番組を手がける。91年、のちの夫となる龍村仁と出会い、以降テレビ番組、映画を共に製作。03年映画プロデュース修士修得。チベット砂曼荼羅展などのイベントやCD、ワークショップ等のプロデュースも手がける。この30年は地球交響曲を世に出すことに専念。いのちへの好奇心から脳と心の不思議な仕組みを学び、修復的対話トーキングサークルや共感的コミュニケーションなども伝え始めている。一男一女の母 共著:「地球の祈り」(角川学芸出版)

『何かに導かれるようにして地球交響曲最終章が完成』

小林研一郎指揮の「第九」。地球交響曲の最終章を飾る

中川:
 ついに完成しましたね、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第九番』。先日、拝見しました。とてもいい作品で感動しました。1992年に一番が上映されて約30年になるんですね。
 龍村仁監督には、この対談に何度か登場願っています。今回も第九番が完成したということで、監督にお越しいただこうと思ったら、体調が芳しくないということでお断りの返事があってがっかりしていました。
 龍村ゆかりさんは、監督の奥様であり、この映画には一番からかかわってこられ、九番については、監督の体調不良もあって、上映までこぎつけるのにとても重要な役割を果たしてこられました。大変だったと思います。
 今日は、ゆかりさんに第九番についてお話をお聞きしたいと思います。 
 まず、監督の体調ですが、かなり難しい病気だそうですね。
龍村:
 前頭葉と側頭葉の機能が低下していく病気です。体は元気なのですが、言語を司る部分の機能がダメになっていくということで、うまくコミュニケーションができません。
 2019年2月に骨折で動けなくなったときに検査を受けてわかりました。今思えば、その前から兆候はありましたけどね。
中川:
 第九番のメインの出演者は指揮者の小林研一郎さん。コバケンさんと呼ばれていますが、ベートーヴェンの第九の指揮では世界でも右に出る人はいないと言われています。
 2019年12月25日にサントリーホールで行なわれた第九のコンサート。もちろん、指揮はコバケンさんですが、映画ではコバケンさんはじめ、関係者が大変な準備の末に、コンサートを成功させた様子が描かれています。
 私は12月25日のコンサートにもうかがいましたが、映画を見てこれほどの練習をしたのかとびっくりしたし、それだけ準備をしたからこそ、すばらしい演奏会になったのだと思いました。
 オーケストラと合唱団。総勢何人くらいのコンサートだったのですか?
龍村:
 合唱団だけで200名、オーケストラが80名くらいです。
中川:
 300名近い人が当日に最高の演奏ができるように準備をするわけですからね。すごいなと思いました。
龍村:
 会長はオンラインで映画を見てくださったのですか?
中川:
 そうです。オンラインでやってもらって良かったですよ。仙台から新幹線に乗ったらちょうど始まりました。東京に着くまでじっくりと見させていただきました。
 コバケンさんもベートーヴェンにはすごく思い入れがあると感じましたね。
龍村:
 コバケンさんは今の福島県いわき市のお生まれですが、10歳のときにラジオから流れてきた第九を聴いて、心が震えて涙が止まらなかったとおっしゃっていました。以来、ベートーヴェンに心酔し、第九の世界を追求してきたようです。
中川:
 監督とは同い年で、生まれた月も一緒だそうですね。
 もともとお知り合いだったのですか?
龍村:
 最初のご縁は1974年でした。コバケンさんはブダペスト国際指揮者コンクールで優勝し、一躍ハンガリー中で注目される指揮者になりました。
 そのころ、監督は『地球は音楽だ!』というテレビ番組を作っていました。取材でハンガリーへ行ったときに、監督が言うには、畳二畳ほどの大きさのコバケンさんのポスターが飾ってあって、びっくりしたそうです。そのときに「小林研一郎」という名前がインプットされたみたいですね。
中川:
 50年近く前の話ですね。そのあとも何か接点がありましたか。
龍村:
 第五番でアーヴィン・ラズロ博士を取材しました。ラズロ博士は世界賢人会議「ブダペストクラブ」の創設者です。
 ブダペストクラブを訪ねたとき、壁に飾ってある写真を見ていたら、そこにコバケンさんがいたのです。「また小林研一郎」だと、ただならぬ縁を感じたのではないでしょうか。
 実は第五番にその写真が出ています。
 さらにご縁は深まって、コバケンさんの奥様の櫻子(ようこ)さんが「地球交響曲」をずっと見ていてくださっていたのです。コバケンさんの写真が映画に出ているのにも気がついて、それがきっかけでコンサートにご招待してくださるようになりました。
中川:
 どんどん接近していきますね。監督はコンサートに行ったときに、楽屋で出演を申し込んだそうですね。そのときが初めての直接の出会いだったのですね。
龍村:
 監督としては、出会うべき人に出会ったという感じだったのではなかったでしょうか。櫻子さんのお口添えもあったと思いますが(笑)、コバケンさんは監督の作品をとてもリスペクトしてくださっていて、龍村さんの作る映画であればと承諾してくれました。
 でも、せっかく話が決まったのに監督が骨折してしまって、2年くらいストップしてしまいました。

<後略>

2021年6月3日 東京・エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

           

7月「笹原 六氣」さん

笹原六氣

笹原 六氣(ささはら・りっきー)さん

1960年東京生まれ。幼少時から病弱で各地の大学病院や湯治場に通う。20代からパソコンにのめり込み、電磁波の影響で目が見えなくなり、右手も動かなくなる。有機農法の師匠と出会い、農業を始める。山梨に移住しアーモンド作りを開始。2021年4月13日に「令和2年度未来につながる持続可能な農業推進コンクール」で関東農政局長賞を受賞。

『苦難の日々を糧にして、今は心を込めてアーモンドを育てている!』

パソコンにのめり込んで体がボロボロになった若いころ

中川:
 山梨県甲斐市にある「リッキーランド」という農園にうかがいました。こちらでは、アーモンドを無農薬で栽培されています。前例のないことなのでさぞかしご苦労もあったかと思いますが、私が気になったのは、農園主の笹原さんのお名前です。
 六氣と書いて「リッキー」さんと読むんですね。
笹原:
 会長のやっておられる真氣光と同じ氣ですよね。私もとても親しみを感じます(笑)。
中川:
 六つの氣というのはどういう意味が込められているのですか。
笹原:
 私は子どものころから病弱でした。あちこちの病院へ行っては新薬を出されて、その影響で体がボロボロになって、内臓の機能がものすごく低下していました。小学校4年のときには腎臓が悪くなって、人工透析を受けるほどでした。
 見かねた親が姓名判断を受けたところ、画数が悪いと言われたことから何度か名前を変えることになりました。
 六氣を名乗るようになったのは30代になってからです。悲惨な人生が続いていましたので、精神世界とか宗教とか哲学とか、心のあり方についてずいぶんと勉強しました。そんな中で五行思想が好きになりました。古代中国の思想で、万物は木・火・土・金・水の5つの元素からなるという説です。私は、それに空を加えて、6つの元素、エネルギーということで六氣としました。
 それからも苦難は続きましたから、改名に即効性があったわけではありませんでしたが、私はこの名前がとても気に入っています。
 会長も、リッキーと呼んでください。
中川:
 そうでしたか。リッキーさんは61歳ですよね。苦難の人生をへて、アーモンドにたどり着いたわけですね。
笹原:
 病弱な子ども時代から始まって、20代後半にはうつになり、ITの仕事でしたから、一日中パソコンの前に座っていたせいで、電磁波の影響を受けて、体がどんどん悪くなっていきました。
 何のために生まれてきたのか、いっそのこと生まれてこなければ良かったのではと、自問自答の繰り返しでした。
 小学校のときから薬には苦しめられてきたので、どんなに苦しくても抗うつ剤や睡眠薬には頼らず、その代わり、新興宗教、伝統宗教、霊能者、超能力者、いろんなところを回りました。オウム真理教にも行きました。まだサリン事件を起こす前でしたが、幸いなことに、相手にされずに追い返されました。
とにかく、なんでこんな思いをしないといけないのか、答えを知りたくて探し回り、40代後半まで模索の旅は続きました。20年間ですね。その間、何度も自殺を試みました。でも、なぜか死ねませんでしたね。
中川:
 20年間とはすごいですね。IT関連の仕事をされていたのですか。
笹原:
 パソコンに救われている感じでしたね。ネットを通してでしたが、社会に参画しているという安心感があったのではないでしょうか。顔も名前も知らない関係でありながら、心の深いところまで話せる友が見つかったりするわけです。自分にとってはありがたいツールだったですね。
 だからこそのめり込んでいきました。毎日16時間、パソコンの前に座っていたこともあります。トイレとお風呂と寝るとき以外はパソコンの前です。こんな異常な生活をしていて何ともないはずがありません。
 体が悲鳴を上げました。目が見えなくなってきたんですね。手術をしましたが、これで一年以内に視力が落ちてきたら失明する、と主治医に言われました。
 私の場合、術後すぐに視力が低下し始めました。ちょうど自動車の免許の更新がありました。視力が悪いので更新ができませんでした。それで、車を売り払って、白い自転車を買いました。
 白い杖をつくのは抵抗があったので、白い自転車を押して歩いていました。
 絶望的な気持ちになりました。徐々に視力が落ちていくというのはものすごい恐怖でした。生きながらにして人生のどん底を味わったという感じです。
 さらに右手が痛くて箸も持てません。手首も曲がらず肩も上がりません。パソコンもできないし、もう何をやっていいかわかりませんでした。このときに何度目かの自殺を試みました。でも、なぜか死なせてもらえませんでした。
中川:
 やるべきことがあって、なかなか死なせてもらえない人もいるかと思います。今のリッキーさんを見ていると、だれもやったことのないアーモンドの無農薬栽培を成功させているのですから、そういう役割があったのかもしれませんね。
笹原:
 確かに、苦しい体験は今に生きていますね。あのころは苦しいだけの毎日でしたが。
 ひとつ発見がありました。視力という一つの感覚が衰えると、別の機能が敏感になるんですね。目が見えなくなって、人の心がわかるようになってきました。
 言っていることと考えていることが違う人がいるじゃないですか。手に取るように、その人が何を思っているかがわかってしまうようになったんです。

<後略>

(2021年5月20日 山梨県甲斐市のリッキーランドにて 構成/小原田泰久)

           

6月「岩本 光弘」さん

岩本光弘

岩本 光弘(岩本 光弘)さん

1966年熊本県生まれ。生まれつき弱視だったが、16歳で全盲になる。教員になるために筑波大学理療科教員養成施設に進学し、在学中アメリカ・サンフランシスコ州立大学に留学。筑波大学附属盲学校鍼灸手技療法科で14年間教員として勤務。2006年サンディエゴ州に移住。2013年ヨットにて太平洋横断に挑戦するもトラブルが発生し断念。2019年再チャレンジで見事に成功する。

『絶望を希望に変えた盲目のヨットマン。太平洋横断に成功!』

目が見えなくなったのも意味があるという伯父さんのメッセージ

中川:
 岩本さんは生まれつきの弱視で、13歳のころから視力を失い始め、16歳で全盲になったということですが、徐々に見えなくなるというのは、私には想像ができないのですが、とてもつらいことでしょうね。
岩本:
 自転車に乗っていても、だんだんと視力が落ちてくると、木や車にぶつかってしまいます。自分は目が見えなくなるんだと思うと、恐怖と不安でおしつぶされそうになりました。
 全盲になったのは16歳のときでした。落ち込んでしまって、ほとんど外に出かけることができなくなりました。あるとき、歯磨き粉を歯ブラシではなく手につけてしまいました。こういうことすら人のお世話にならないといけないのかと絶望してしまって、死んだ方がいいと思い詰めました。
 母に「なんで産んだんだ!」と怒鳴ったこともありました。
中川:
 絶望の中にいた岩本さんが、2013年にはヨットでの太平洋横断にチャレンジします。このときは途中で断念しましたが、2019年には再チャレンジして、見事に成功しました。
 普通に考えれば無謀とも思えることを成し遂げた岩本さんのストーリーは、何かで迷っている人、悩んでいる人、落ち込んでいる人には、すごく参考になると思います。
 全盲になった16歳のとき、人生を決めるような大きな出来事があったそうですね。
岩本:
 全盲になったころは、お気に入りの海が見渡せる橋から飛び込んで自殺しようと真剣に考えていました。実際に、その橋まで行きましたが、どうしても飛び降りることができず、近くの公園に行ってベンチに座っていたら、いつの間にか眠ってしまいました。
 そのときに、5年前に50歳で亡くなった伯父さんが夢に出てきて、私に語りかけてきたのです。伯父さんは、私を自分の子どものようにかわいがってくれました。人のことを第一に考える伯父さんで、人望もあって、私はとても尊敬していました。伯父さんは私にこんなことを言いました。今でもしっかりと記憶の中に焼き付いています。
《お前の目が見えなくなったのには意味がある。お前がポジティブに生きる姿を見せることで、見えていても何のために生きているのかわからなくなっている人たちに、勇気と希望を与えるんだ。
 きっと彼らはお前から、目が見えない人から、何か希望を見る。だから自分の命を断とうとするな。逃げるな。
 目が見えないことにも意味があるんだ。まわりの人々を励ますために、勇気を与えるために》
 というものでした。天から、宇宙からのメッセージだったのでしょうか。
 そのときは意味がわからず、歯ブラシに歯磨き粉もつけられないぼくが、目の見えている人に勇気や希望を与えるなんてあり得ないと思っていました。でも、死んじゃいけないんだなということだけはわかりました。
中川:
 きっと伯父さんが岩本さんのことを心配して、あちらの世界からメッセージを送ってくれたのではないでしょうか。その意味が、時間がたつにつれて、少しずつわかってきて、その後、とても行動的な生き方ができるようになったのだと思います。
 高校時代にはアマチュア無線を勉強し、海外の人と英語で話したいと英会話学校に通い、盲学校を卒業した後は専門学校の鍼灸科へ進み、さらに鍼灸の技術を視覚障がい者に教えたいと筑波大学に進学します。絶望の中にいた岩本さんとは別人のようにダイナミックですよね。
岩本:
 徐々にですが、できないと思っていたことができるようになってきました。歯磨き粉もつけられるようになったし、みそ汁をこぼすこともなくなると、気持ちも前向きになってきましたね。
 伯父さんの言った言葉の本当の意味がわかったのは、23、4歳だったか、大学の友人と富士山に登頂したときのことでした。まわりの人たちが、『目が見えないのにすごいですね』と声をかけてくれるんですね。『勇気づけられます』と言ってくれた方もたくさんいました。こういうことなんだと、伯父さんの言ったことが理解できました。それがきっかけで、いろいろなことに挑戦しようと思えるようになりました。

<後略>

2021年4月6日 エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「見えないからこそ見えた光 絶望を希望に変える生き方」 岩本光弘(著) ユサブル

           

5月「二木 謙一」さん

二木 謙一

二木 謙一(ふたき·けんいち)さん

1940年東京生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。『中世武家儀礼の研究』でサントリー学芸賞を受賞。文学博士。國學院大學教授·文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長·理事長を歴任。現在は、國學院大學名誉教授。NHK大河ドラマの風俗·時代考証は14作品を担当。著書は『関ヶ原合戦』『大坂の陣』(中公新書)『徳川家康』(ちくま新書)など多数。

『戦国武将から生き方の 知恵·極意を学ぶ』

戦国時代は実力社会。現代にも通じるものが多い

中川:
 二木先生は國學院大學の教授を長く務めておられました。日本の歴史がご専門で、「有職故実」をテーマにされていたとお聞きしましたが、有職故実というのはどういうものなのでしょう。
二木:
 朝廷・公家や武家の制度・先例などの研究ですが、わかりやすく言えば、衣食住や儀式などのいわゆる時代考証ですね。つまり、その時代の服装、鎧や兜といった戦で使う道具の形、しきたりや生活作法、武家や庶民がどういう暮らしをしていたかなど風俗を研究する仕事をしていました。
中川:
 それでNHKの大河ドラマでも時代考証を担当されていたんですね。
 私は歴史が大好きで、大河ドラマを楽しみにしていますが、時代考証というのはとても大切な役割かと思います。大河ドラマで印象に残っているエピソードなどありましたら、聞かせていただけますか。
二木:
 大河ドラマでは14作品で時代風俗考証を担当しました。毎週の定例会議での台本検討のほか、國學院大學は渋谷にあってNHKには近いので儀式などのリハーサルにもよく呼び出されましたよ(笑)。
 翌年の作品と2作同時に進んでいることもあって、けっこう忙しかったですね。
 それぞれの時代にふさわしい場面を作っていかなければならんし、しかも現代人にも理解できるようにしないといけないので、いろいろ苦労しました。
 衣装も数がないので、公家の装束などは場面によってはたらい回しをすることもありました。
 時代によって武器や兜も違います。戦国時代に平安時代の武具を使うのは、古いのを使っていた可能性もあるのでいいのですが、逆はできません。鎌倉時代に戦国時代の武具は使えませんから。
 戦国時代、男はあぐらをかいていました。でも、若い俳優さんの中には子どものころから椅子で暮らしているのであぐらをかけない人もいて、これには驚きましたね。
 当時の武士は正座をしていたと思っている方が多いのですが、正座をするようになったのは畳を敷き詰めるようになった江戸時代の中期からです。
 女性は立てひざでした。絵巻物にはそう描かれています。でも、立てひざだと鉄火場の女みたいだと評判が悪くてやりませんでした。昨年の『麒麟がくる』では思い切って立てひざ姿を取り入れていました。今後はどうしていくのでしょう。
中川:
 私がとても印象的だったのは、2012年に放送された「平清盛」でした。先生が時代考証をされていたと思います。清盛がボロボロの状態から這い上がってくる姿に感動したのですが、平氏はもっと豊かだったという話も聞いたりするのですが。
二木:
 あれは東日本大震災の影響がありました。地震と津波と原発事故で東北を中心に日本中が大混乱になった年の収録でした。節電で町も暗くなっているし、NHKでの打ち合わせも薄暗い中でやっていました。
 みなさん不安で、どこに希望を見出せばいいかわかりません。そういう環境にあって、当時の野球界と同じように、ドラマを作るスタッフたちにも、「見せようドラマの底力」といった雰囲気がありました。
 それで廃墟の中からたくましく立ち上がっていく清盛になったのです。
 宋と貿易をしていて平氏は金持ちでした。だけど、つらさを乗り越えたという話の方が世の中のためになるのではということでああいうストーリーになったようです。
 ドラマ作りと学問とは違いますね。
中川:
 そういうことだったんですね。あのドラマで元気づけられた人も多かったと思います。
先生は清盛よりももっと後の戦国時代の研究に力を入れておられますが、戦国時代の魅力というのはどういうところにあるのでしょうか。
二木:
 戦国時代は現代社会に通じるものがあって、お手本となることが多いと思います。まずは実力社会だったということです。戦国時代より前は、身分が定められていました。下級武士の子は、どんなにがんばっても有能であっても、下級武士のままです。
 しかし、戦国時代は違いました。だれもがよく知っているように、豊臣秀吉は貧しい農家の出身です。それが生まれに関係なく実力次第でどんどん上へ登っていくことができました。現代人も同じように実力社会です。常に生と死との極限状態にあった戦国武将の生き方はお手本になるのではないでしょうか。
中川:
 英雄もたくさん登場しますしね。
二木:
 全国にすごい武将がたくさんいました。上洛戦は甲子園の地区代表のようなもので、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、駿河・遠江の今川義元、尾張の織田信長らそうそうたる面々が全国制覇に向けて戦い、織田信長が上洛に成功して優勝したみたいな、そんな図式が描けます。

<後略>

2021年2月5日 東京都練馬区の二木先生のご自宅にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「戦国武将に学ぶ究極のマネジメント」 二木 謙一 (著) 中央公論新社

           

4月「板野 肯三」さん

板野肯三

板野 肯三(いたの・こうぞう)さん

1948年岡山県生まれ。東京大学理学部物理学科卒。専門はコンピュータ工学。筑波大学システム情報工学研究科長、学術情報メディアセンター長、評議員、学長特別補佐等を歴任。現在、筑波大学名誉教授。著書に「地球人のための超植物入門」(アセンド・ラピス)など。

『霊性に目覚める人が増えれば地球が癒され問題は解決する』

山にも川にも地球にも 魂が宿っている

中川:
 板野先生の書かれた『コロナから世界を観る』を読ませていただきました。先生は東京大学理学部物理学科を卒業後、筑波大学でシステム情報工学研究科の教授として科学の最前線でご活躍されていたわけですが、この本にはスピリチュアルなことがたくさん書かれていてびっくりしました。
 お持ちいただいた『地球人のための超植物入門』という本も「森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界」というサブタイトルがついています。パラパラと拝見したら、植物の精霊とお話するといった話が書かれていました。とてもコンピュータがご専門の方が書かれるような内容ではないように思いますが(笑)、もともとスピリチュアルなことにも関心があったのでしょうか。
板野:
 若いころから宗教書は読み漁っていましたから、興味があったと言えばあったと思います。でも、知識レベルの興味でしかありませんでした。
 初めて霊的な体験をしたのは結婚して間もないころでした。その何年か前には家内が幽体離脱のような体験をしたこともあって、布団の上に寝転がって、魂というのは本当にあるのだろうかととりとめもなく考えていました。
 すると、突然、体や頭が内部から発熱するように熱くなって、心の中からだれかが語りかけているように感じました。耳から聴こえる声ではありません。男性のようでした。「あなたを見守っていた」とか「あなたが女性の科学者として世に出るためには、それしかなかった」とか「再会できてとてもうれしい」とか、そんな言葉を感じ取りました。でも私は男性です。何のことだろうと思っていると、「これは過去世のことだ」とピンときました。過去世の自分は女性の科学者で夫と死別していて、そのときの夫が出てきたのだ、と記憶がよみがえったような気がしました。懐かしさ、うれしさが込み上げてきて、涙が流れてきました。
 理屈抜きに、魂はあるのだと実感しました。そういうことがあってから、見えないエネルギーを感じるようになりました。
中川:
 奥様が幽体離脱をされたとおっしゃいましたが、奥様もスピリチュアルな方なんですか。
板野:
 幽体離脱なんて初めてのことだし、当時はスピリチュアルなことは話さなかったと思います。だけど、最近になって、理論的な説明は私の方が得意ですが、スピリチュアルな感覚は家内の方が鋭いのではと思うことはよくありますね(笑)。
 よく「この部屋は磁場がいい」と言います。磁場というのも独特の言葉ですよね。物理学で言う磁場ならよくわかるのですが、霊的な意味での磁場はまた違うんですね。その空間とかその人が漂わせている霊的エネルギーの個性を磁場と表現することが多いみたいですね。家内は、霊的な磁場を感じるのが私よりもはるかに敏感です。家や土地を買うときとか、そういう感覚は役に立つかもしれませんね。
中川:
 その土地特有のエネルギーがありますからね。パワースポットもある種のエネルギーをもった土地のことを言うと思います。引っ越しをしたことで、急に運が良くなったり、逆に体調が悪くなったりする人もいますしね。土地のエネルギーが関係していると、私は思います。
板野:
 宗教的な本を読むと「自然霊」のことがよく書かれています。山とか川とか岩、樹木などに宿っている霊があるということですが、山とか川は体に当たるんでしょうね。富士山は体でそこに霊とか魂が宿っているという考え方ですが、私もそう思っています。
中川:
 地球にも魂が宿っているわけですね。
板野:
 地球も一つの生命体だと言ったのはジェームス・ラブロック博士です。1960年代のことで、ガイア仮説とかガイア理論と呼んでいます。エビデンスがあるわけではないので科学者には受けが良くありませんでしたが、エコロジストには受けたようです。
 もっとも、科学はまだ生命そのものをとらえることができていないわけで、地球が生命体かどうかを議論するというのはどだい無理なことです。
中川:
 科学がもっと進歩しないことには生命のことはわからないんでしょうね。先生のような科学者がもっと増えるといいのですが。
板野:
 物理学は科学の中ではもっとも宗教的な学問です。宇宙全体のことを追求するのですから。今の物理学でも量子のような物質レベルを超えた現象が見えてきています。
 物理学には、この世界がどういう仕組みになっているか、その基本が詰まっているように、私は思っています。
中川:
 先生は植物に対してとても親近感をもっておられるようですが。
板野:
 コンピュータをやっていたのですが、生き物にアプローチしないと、この世の仕組みの本質に近づけないのではと思っていたころ、野澤重雄さんという方に出会いました。野澤さんはハイポニカという水耕栽培法で1本のトマトの木から1万7000個のトマトを収穫したことで有名になりました。水耕栽培というのは、水に肥料を溶け込ませて、これを根に循環させる方法です。水耕栽培を成功させるには、肥料の組成とか光の量とか炭酸ガスの温度とか、管理がとても大変です。
 でも、私にはとても魅かれるものがあって、野澤さんにお話をお聞きしました。

<後略>

2021年1月27日 株式会社エス・エー・エス東京センターにて 構成/小原田泰久

著書の紹介

地球人のための超植物入門ー森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界
板野肯三(著) アセンド・ラピス

           

3月「新井 利昌」さん

新井利昌

新井 利昌(あらい・としまさ)さん

埼玉福興(株)代表取締役。NPO法人Agri Firm Japan理事長。1974年埼玉県生まれ。1996年に父親とともに埼玉福興(株)を設立する。同社を農業法人化して、障がい者とともに野菜の水耕栽培、露地栽培、オリーブの栽培・加工などを手掛け、ソーシャルファームという新しい概念で社会的就労困窮者の働く場を創出している。著書に『農福一体のソーシャルファーム~埼玉福興の取り組みから』(創森社)がある。

『農業と福祉が一体になって、人の役に立てる場を作る』

障がい者の行く場所、働く場所がないことに気づいた

中川:
 農園を見学させていただきましたが、オリーブ畑もあれば、白菜の畑もあるし、ネギの苗を育てていたり、水耕栽培もありました。たくさんやっておられてびっくりしました。障がい者のみなさんが、生き生きと働いていますね。
新井:
 ここでは健常者に頼らない生産体制というのをめざしています。水耕栽培を取り入れたのも、重度の障がい者も作業ができるという理由からです。毎日同じ仕事があるし、単純作業の繰り返しができます。また、水耕栽培は一人だけでできる作業もありますから、人と接するのが苦手だという人も働けます。
中川:
 種をプラスティックの容器にまいている女性がいましたね。いろいろ説明していただきましたが、彼女も人と接するのが苦手な方なんでしょうかね。
新井:
 そうです。みんなと一緒にいるとパニックを起こす子でした。だから一人でできる仕事をしてもらっています。でも、おしゃべりも好きなんですね(笑)。だから、見学のお客さんがくると一生懸命に説明してくれます。それはそれで、とても役に立ってくれています。
中川:
 この対談には新井さんも親しくしている自然栽培パーティの佐伯康人さんや銀座ミツバチプロジェクトの高安和夫さんにも出ていただきました。障がい者が農業に携わって収入を増やしたり生きがいを見出すという農福連携の活動には、私もとても関心をもっています。これからの時代、ますます大切になってくるのではないでしょうか。
 新井さんが代表を務めている埼玉福興(株)も農福連携をやっておられるわけですが、どういうことをやっておられるのか、簡単に説明していただいてもいいでしょうか。
新井:
 大まかに言うと、埼玉福興グループとして動いていて、農業生産法人が農業を、NPOが中心になってグループホームや就労支援といった福祉事業をやっています。
 障がい者が寮やグループホームなどで生活をともにしながら、農業という分野で仕事を覚えたり、仕事を得て働くことを支援している団体だと言えばわかりやすいでしょうか。
 障がい者の人たちは、寮やグループホームから農園に通って農業をやります。その中で企業で働けると判断できる障がい者は、埼玉福興(株)で雇用したり、ほかの企業でお世話になったりしています。
中川:
 もともとは新井さんとご両親の3人で始めたことだそうですね。
新井:
 父は小さな縫製の会社をやっていました。縫製業も斜陽産業だったので次をどうしようかと考えていたとき、父が知り合いのすすめで障がい者の生活寮を始めることを決めました。
 1993年、私は19歳でした。自宅の2階を改装して、4人の障がい者を受け入れました。そこから始まって、1996年に父が社長、私が専務の埼玉福興(株)を立ち上げ、障がい者と暮らすうちに、障がい者の行く場所、働く場所がないことを知りました。居住場所を確保して生活をケアするだけでは不十分なんですね。もっと社会とのかかわりをもつにはどうしたらいいか。そこがとても大切なことだと気づいたのです。
中川:
 障がい者も働ける場所が必要だということですね。
新井:
 そうですね。最初は縫製業の下請け作業を障がい者の方にやってもらいました。でも縫製業は下火でしたから、だんだんと仕事が減っていきました。それで、血圧計の腕帯を作ったり、ボールペンの組み立ての仕事を請け負いました。しかし、受注量は安定しないし、作業に慣れたころに仕様が変更になったりしますから、障がい者は戸惑ってしまいます。
 さらに、うちが請け負うような単純作業は海外に移したり機械化する企業が増えてきて、受注量はどんどん減っていきました。
中川:
 大変なピンチですよね。そんなときに農業に参入しようと決めたわけですね。
新井:
 農業というのは人が生きていく上で必要不可欠な食料を作るわけですから仕事がなくなるはずがないと考えました。また、農業にはいろいろな作業があって、どんな障がいがあっても、何らかの作業ができるはずです。先ほど見ていただいたように、ひたすら種を蒔くということでもいいし、草むしりならできるという人もいるし、作物を袋詰めするのが好きだという人もいます。
 父が昔から農業をやりたいと思っていたこと、障がい者の生活をケアする者として、どんな事態になっても食べ物を提供しないといけないという責任感。理由はいろいろありますが、農業への参入は大きな転機でした。
 2003年から農業参入に取り組んだわけですが、当時は福祉と農業とはまったく畑違いで、障がい者が農業の担い手になるといったことも理解してもらえず、私たちが農業に参入するハードルは非常に高かったですね。

<後略>

2020年1月20日 埼玉県熊谷市の埼玉復興(株)にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

農福一体のソーシャルファーム 〜埼玉福興の取り組みから〜 新井利昌(著) 創森社

           

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