2018年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「田辺 鶴瑛」さん

田辺 鶴瑛(たなべ かくえい )さん

昭和30年11月22日、北海道函館市生まれ。札幌藤女子短期大学別科卒業。18歳のとき母が倒れて介護をすることに。結婚、出産、子育てのあと、義母が倒れ3年間の介護。平成2年に漫談師・田辺一鶴に弟子入り。平成15年真打昇進。平成17年認知症の義父を在宅介護。平成23年に在宅で看取る。

『暗く深刻にならない。つらい介護を笑いに変える』

まじめに介護をしていると心身ともにクタクタになる

中川:
『田辺鶴瑛の介護講談』という映画を拝見しました。介護というのは、とても深刻な問題で、介護で疲弊してしまっている人も多いかと思います。でも、鶴瑛さんのお話をうかがっていると、こういう介護もあるんだと元気がもらえますね。
この映画を作られた荻久保則夫監督には、この雑誌の対談(2015年3月号)にも出ていただきました。もともとお知り合いだったのですか?
田辺:
いえいえ。娘の銀冶(ぎんや・講談師の田辺銀冶)が、荻久保監督が作られた『かみさまとのやくそく』という映画のファンで、監督にお会いしたときに、母が「介護講談」をやっているとお話ししたら、とても興味をもってくださいました。それがきっかけです。
中川:
介護講談では、実際のご自分の介護体験を語っておられるわけですね。
田辺:
そうですね。18歳から3年間、脳動脈瘤で入院した実母を。31歳から3年半は義母の介護。そして、2011年末までの6年間は、このお話の主役でもある義理の父親。じいちゃんと呼んでいますが。
中川:
3人ものご家族を介護したというのは珍しいのではないですか。
田辺:
講談を聞きに来てくださった人の中には4人とか5人の介護をしたという方もおられましたよ。
そういう人はだいたいやさしい人で、要領のいい人は介護からすっと逃げてしまいます。逃げ足の遅い人が、介護をする羽目になってしまいます(笑)。
まじめに深刻に介護に取り組むと疲れてしまいますね。私も実母と義母のときはまじめにやりました。もうクタクタになってしまいました。
なんで自分がこんな思いをしないといけないのだろうとか、だれも手伝ってくれないとか、愚痴や不平、不満だらけで、感謝のかの字もなかったですよ。
中川:
大変だったと思います。自分を犠牲にしながらやらないといけないのが介護ですからね。
田辺:
がんばりすぎていましたね。ばあちゃんを元気にしてあげようと玄米を食べさせたりね。ばあちゃんは「おいしくない。食べたくない」と困った顔をしていました。柔らかなうどんが大好きな人でしたから。
うどんを作るにしても、細くて柔らかいものだったら満足してくれるのに、あれこれと工夫してね。本人がやってちょうだいと言ってないのに、余計なことをしてしまうんですね。
世間がよくがんばっていると思ってくれることをしようとするわけです。いい嫁だと思われたいし、感謝もされたい。でも、うまくいかない。拒絶されたりする。そうなると、こんなにがんばっているのにとイライラしてしまう。
中川:
完全に悪循環ですよね。
田辺:
ヒステリーを起こして仕事から帰った夫の頭にソースをぶっかけたこともありました(笑)。夫はきょとんとしていました。私は猛反省ですよ。自己嫌悪になって、仮病を使って布団にもぐりこみましたよ。
中川:
それがお義父(とう)さんの介護のときはがらりと変わったわけですね。お義父(とう)さんは、ずいぶんと好き勝手をして生きてきた人だったようですね。
田辺:
仕事人間で休みの日はゴルフと麻雀。それに(小指を立てて)これですね。だから、ばあちゃんとは長年、口もきかなかった。でも、夫が「親父が一番苦労をかけたんだ。罪滅ぼしをしたら」と言ったら、じいちゃんは反省したのか、病院の送り迎え、背中のマッサージを毎日しましたね。
ばあちゃんは、最初は反発しましたが、最期は「ありがとう」とじいちゃんにお礼を言って亡くなりました。それを見て、「ああ、いろいろなことがあったけど、ばあちゃんはじいちゃんのこと愛していたんだ」と、心がほっこりとしました。罪滅ぼしをすると、氷がとけるように、怒りも消えていくんですね。
じいちゃんとは、ばあちゃんが亡くなった3年後まで同居していました。だけど、静かに老後を過ごすような人ではなくて、高齢者のお見合いの会で知り合った女性と同居するために家を出ていきました。
そして14年後、認知症になってわが家へ帰ってきたんです。

<後略>

(2018年10月26日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

           

11月 「三田 一郎」さん

三田 一郎(さんだ いちろう)さん

1944年生まれ。1965年6月イリノイ大学工学部物理学科卒業。1969年6月プリンストン大学大学院博士課程修了。コロンビア大学研究員、フェルミ国立加速器研究所研究員、ロックフェラー大学準教授などを経て、1992年より名古屋大学理学部教授、2006年4月より名古屋大学名誉教授、2006年〜2014年 神奈川大学工学部教授。著書「科学者はなぜ神を信じるか」(講談社)など。

『科学者たちは科学と神の関係をどう考えてきたか』

科学の話の中で神を持ち出すのは卑怯なことか

中川:
書店で先生の書かれた「科学者はなぜ神を信じるのか」(講談社)が目に止まって、手に取って何ページか目を通しました。そしたら引き込まれてしまって、最近の書店には椅子が置いてあるので、そこに座って最後まで夢中になって読んでしまいました。難しい科学の話をわかりやすく書いてくださっていて、それに科学という視点から神を見るというのはとても新鮮で、科学者というのはこういうふうに神を感じるのだなと、興味深く読ませていただきました。
先生は、若いころにアメリカに渡り、長年、理論物理学者として素粒子を研究されていて、紫綬褒章をはじめさまざまな賞を授賞されています。2008年に「小林・細川理論」がノーベル物理学賞に輝きましたが、その理論の実証にも貢献されるなど、科学者として輝かしい経歴をおもちです。その上、最近はカトリック教会の助祭という立場で神様とかかわっておられます。科学と神を語るにはぴったりの方だと思いますが、キリスト教とのかかわりは長いのですか。
三田:
母がカトリックの信者でした。カトリックの場合は幼児洗礼と言って、赤ちゃんのときに洗礼を受けますから子どものときから教会には行っています。
ただ、物理をやっていたときには、時間がなくて教会にはどっぷりとつかれませんでした。親からもらった信仰だから子どもに伝えないといけないと思っていて、子どもは教会に連れて行っていました。それくらいのかかわり方でしたね。
中川:
今では、教会でミサを執り行ったり、講座を開いたり、科学者と神様の本も出されて、ずいぶんと神様とのかかわりが深くなっていますね。
三田:
研究者としていろいろなことを学んだとき、宇宙にしても自然にしても素粒子にしても、物理的にものすごくきれいに感じるようになりました。どうしてこんなものができたのかと単純に思いました。
宇宙や地球が偶然できたと言われたら否定はできません。しかし、そうだとしても、この宇宙には科学法則があるのは間違いありません。この法則によって惑星は楕円軌道を描き、電磁気力は距離の2乗に反比例します。科学法則は「もの」ではないので偶然にはできません。宇宙が創造される前には、必然的に科学法則が存在していたはずです。では、その科学法則はだれが作ったのだろうと、疑問は広がっていったわけです。
私自身は、科学法則の創造者を「神」と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在することだと考えるようになりました。
中川:
なるほど。この世のすべては法則に基づいて動いていますからね。その法則はだれが作ったのだろうと考えると、神様としか言いようがないということですね。
先生が講演をしているとき、ある学生さんが「先生は科学者なのに、科学の話の中で神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と質問してきたそうですね。
三田:
科学というのは神の力を借りずに宇宙や物質のはじまりを説明するものだと、彼は思い込んでいるようでした。一般の方は科学と神についてこのように考えているのだなと、このときに気づきました。
それ以来、ぼくにとってはぼくが科学者であることと、神を信じていることが矛盾しているわけではないことを、どのように説明すればよいかが一つのテーマになりました。
中川:
それでこの本を書かれたわけですね。歴史に残るような有名な科学者たちも、どこかで神を意識していたようにも思います。特に、欧米人はキリスト教を信じている人が多いので、神様は身近にあったでしょうから。
三田:
実はこの本もとても不思議な縁でできたものです。ぼくは、科学と神というテーマで本を書きたくて準備をしていました。でも、ぼくが書くと教科書みたいに硬くて難しいものになってしまいます。こんなのを出してくれるところはないだろうと思いながら一応、5年くらいかけて300ページ分くらい書き上げたわけです。
あるとき、結婚式を挙げたいというカップルが訪ねてきました。新郎新婦と証人2人だけでの結婚式をしたいと言うのですね。それもいいね、だれもいないから思い切ったことをやろうよ、アメリカだったら2人が抱きついてキスをするからそれをやろうよ。そんな話で盛り上がりました。
そのときの新郎が講談社の編集副部長で、ぼくが書いたものにとても興味をもってくれて、本にしてくれたんですよね。それこそ、神様に後押ししてもらったような気分でしたよ。

<後略>

(2018年9月10日 東京都港区・国際文化会館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「科学者はなぜ神を信じるか」三田一郎 著 (講談社)

           

10月 「佐伯 康人」さん

佐伯 康人(さえき やすと)さん

1967年北九州市生まれ。小学校のとき愛媛県松山市に転居。若いころよりバンド活動をし、1992年にメジャーデビュー。しかし、芸能界の風習になじめず音楽活動を休止して松山に帰る。2000年三つ子が誕生。3人とも運動機能に障がいをもって生まれた。2003年居宅介護施設「パーソナルアシスタント青空」を設立。2016年「一般社団法人 農福連携自然栽培パーティ全国協議会」を立ち上げる。

『 体の不自由な三つ子から学んだこと。障がい者はイノベーターだ!』

三つ子が授かったが、出産時のトラブルで脳に障がいを受けた

中川:
佐伯さんとお会いするのは二度目です。以前、愛媛県の砥部町にある坂村真民記念館の館長さんと対談しました。佐伯さんも本拠地が砥部町で、記念館へ行く途中に佐伯さんが経営する「あおぞらベジィ」というカフェに寄って、少しだけお話ができました。あのカフェは、店長さんがダウン症の若者で、彼が顔を出すだけで店内が和んで、障がい者の持ち味をうまく引きだそうとしている佐伯さんの思いが感じられました。
佐伯さんは、障がい者の就労支援やデイサービスといった事業をされていますが、その活動がかなりユニークだということで注目されています。
その話は追々お聞きするとして、もともと佐伯さんはミュージシャンだったということですね。
佐伯:
若いころはロックをやっていました。東京へ出てデビューもしましたが、ああいう世界は自分にはあまり合ってなかったですよね。プロになっても、音楽活動は遊びの延長でしたので、まわりとずれが出てきて、自分でも面白くなくなってきてやめてしまいました。ずいぶんと迷惑をかけましたよ(笑)。
中川:
それで愛媛へ帰って、そこから大きなドラマが始まったんですよね。お子さんが生まれました。それも三つ子でした。
佐伯:
2000年のことです。7ヶ月半の早産でした。生まれたときは小さくてびっくりしました。長男が890グラム、長女が1200グラム、次男が1300グラムで、手のひらに乗るくらいの大きさでしたから。
しばらくして先生に呼ばれました。先生からは子どもたちの脳のCT画像を見せられ、「脳室周囲白質軟化症」という病名を告げられました。3人とも脳室の周囲に問題があって運動機能に障がいが出るだろうとのことでした。次男は自分で呼吸をしてなくて、生きられるかどうか保証ができないとも言われました。
中川:
それはショックだったでしょう。
佐伯:
言われた瞬間はショックがあったと思います。でも、そのショックは1秒も続かなかったという感じです。すぐに気持ちが切り換えられて、妻やこの子たちを守っていくのが自分の使命だと思えました。そのためにも、まずはこの子たちの命を救うことだ。そして、できるだけ元気な姿で母親に会わせてあげたい。そういう思いで胸がいっぱいになりました。不安や心配にひれ伏している間もなく、不思議なファイトが湧いてきたのを覚えています。
中川:
そこはすごいと思います。お子さんが障がいをもって生まれてくるというのは、だれもがネガティブにとらえてしまいます。実際、お子さんを育てていく上でもさまざまな苦労を伴うでしょうし。それも3人ですからね。絶望するような状況なのに、よくそんなふうに気持ちを切り替えることができたと感心します。
佐伯:
面白いのですが、彼らが生まれるときにぼくの母親と待合室にいたら、テレビからベートーベンの交響曲第九番第四楽章「歓喜の歌」が流れてきました。歓喜の歌というと年末というイメージがあるじゃないですか。それが6月18日のテレビで流れていました。彼らの誕生が祝福されているような、そんな気がしました。
中川:
佐伯さんは、意識の深いところで障がいのある子どもを3人も授かるということに、大事な意味を感じていたのかもしれませんね。それを知らせるために歓喜の歌が流れたということもあり得ると思います。
自発呼吸をしていなかったお子さんはどうなりましたか。
佐伯:
先生は早く名前をつけてほしいと言いました。きっと死亡届に名前を記入する必要があるからということを、先生は言いたかったのだと思います。長男は宇宙(コスモ)、長女は素晴(スバル)と名付けましたが、なかなか次男の名前は決まりませんでした。
ぼくは、保育器の中にいる次男の手に小指を当てて、「生きろ! 生きろ!」と声をかけました。お前の人生の主人公はお前しかない! という気持ちを送り続けました。そのとき、この子の名前がぱっと浮かびました。「主人公」と書いてヒーローと読ませよう。そう決めました。たくましく生きていけるヒーローになってほしいという願いを込めての命名でした。
3人の名前が決まったので、姉に頼んで市役所へ出生届を出しに行ってもらいました。ぼくは、子どもたちのそばに付きっきりだったので、動けませんでしたから。
しばらくして、姉から無事に出生届を出したよと電話がありました。そしたら、何とその直後に主人公(ヒーロー)が自発呼吸を始めました。彼は生きることを選んでくれたんですね。うれしかったですね。

<後略>

(2018年7月27日 東京日比谷の松本楼にて 構成/小原田泰久)

           

9月 「池田 清彦」さん

池田 清彦(いけだ きよひこ)さん

1947年東京生まれ。生物学者。早稲田大学名誉教授。東京教育大学理学部卒業。東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。科学論・社会評論の執筆からテレビ番組出演まで幅広く活躍している。趣味は昆虫採集。著書は「なぜ生物に寿命はあるのか」(PHP文庫)「この世はウソでできている」(新潮文庫)「ほどほどのすすめ」(さくら舎)など多数。

『何事もほどほどにしておいた方がうまくいく』

虫にも人にも個性がある。 自分のキャパの範囲でがんばる

中川:
池田先生のことは、テレビ(「ホンマでっか!?TV」)でよく拝見していて、ユニークなものの見方をされる先生だと感心しています。今日は、その先生にお目にかかれて、直接お話が聞けるというので楽しみにしていました。
最近、先生が書かれた「ほどほどのすすめ」(さくら舎)という本を読ませていただきました。先生の歯に衣を着せないお話は、読んでいてすかっとしたり、ほっとしたり、とても楽しくためになる本でした。
池田:
ありがとうございます。もうこの年ですから、何を言っても許されるかと思いましてね(笑)。言いたいことを言っています。
中川:
先生のご専門は生物学で山梨大学や早稲田大学で教鞭をとられていたんですよね。
池田:
山梨大学が25年、そのあと早稲田大学に14年ですね。
中川:
先生は虫がお好きだということでも有名ですね。今日は、先生が名誉館長をされている「TAKAO 599MUSEUM」にうかがっているのですが、高尾山に生息する動物や昆虫、植物が展示されていて、なかなか見ごたえがありますね。昆虫の標本をこんなにじっくりと見たのは初めてですが、よく見ると、虫ってすごくうまくできていますよね。子どもが昆虫採集に夢中になるのもわかる気がします。
池田:
そうでしょ。どれだけ科学技術が発展しても、あれだけのものを作り出すことはできませんよ。そんなすごいものが、ちょっと野山へ入ると、たくさんいます。興奮しませんか(笑)。
解剖学者の養老孟司さんも虫が好きでしょ。10月28日には養老さんをお呼びして、ここでトークショーをします。6月4日の虫の日には、養老さんに呼ばれて鎌倉の建長寺へ行ってきました。養老さんは、建築家の隈研吾さんに頼んで建長寺の一画に「虫塚」という建物を建てて、そこで毎年6月4日に虫供養をしているんですね。虫をずいぶんと殺してしまっていますから、供養をしないといけないというわけですよ。養老さんは医学部だし、ぼくも生物学なので、年に一度、実験動物の動物慰霊祭というのをやっていました。その虫版かな。
月曜日の1時だったにもかかわらず、トークショーはすぐに満員になりました。そのあと、虫供養ということでお焼香をして、建長寺のお坊さんが13人で読経をしてくれましてね。
中川:
それはずいぶんと大がかりですね。ところで、今年の夏は異常に暑いですが、虫たちにも影響があるのではないですか。
池田:
暑いと虫は減りますね。虫取りをするなら朝の9時か10時まででしょう。でも、暑いのが好きな虫もいますけどね。虫にも個性があります。
虫の世界もいろいろと変化がありまして、高尾山にはルリボシカミキリというきれいな虫がいますが、昔は1500メートルくらいの高い山にしかいなかったのが、だんだんと下がってき599メートルの高尾山でも見られるようになりました。ナガサキアゲハみたいに昔は九州しかいなかったのに、今は関東にもいます。
中川:
虫にも個性があるとおっしゃいましたが、先生の本を読んでいると、人にもそれぞれ個性があって、こうでなければならないと決めつける必要などないのだと思えてきますね。今は、ひとつの価値観にがんじがらめになっている人が多いですからね。
池田:
ほどほどって悪いみたいに思われているじゃないですか。「いい加減」とか「適当に」と似ていますよね。でも、多過ぎず少な過ぎずいい加減なんだから一番いいんですよ。何事もいい加減にやったほうがいいと、ぼくは言っているんですね。いい加減を過ぎると疲れちゃうし、いい加減に達しないのもまた困りますよ。適当がいいし、ほどほどにやることがちょうどいいんです。
中川:
とにかくがんばれば皆同じようにできるみたいな教育だし、自分にとってのほどほどがわからなくなっている人も多いと思います。
池田:
学校は横並びですから。教え方も同じでしょ。同じように教えると、わかる人はあきるし、できない人は付いていけないし。親も、隣の子と比較して、どうしてうちの子はできないのかと悩んでしまう。キャパが違うのだから仕方がないんですよ。
おとなになっても、職場で隣のやつはちっとも仕事ができない、何をさぼっているのかとイライラしてみたりするけれども、その人はその人なりに目いっぱいやっていたりするわけです。目いっぱいやってできないのだから仕方ないじゃないですか。
自分のキャパを知って、その範囲でがんばることですよ。仕事のできる人を見て、自分もがんばればあれくらいできるようになると思ったりすることもあるでしょ。でも、いくらがんばってもキャパが違うとなかなかできないんですよ。それでもまだがんばろうとする。あまりがんばると切れてしまいます。

<後略>

(2018年7月20日 東京都八王子市のTAKAO 599 MUSEUMにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「ほどほどのすすめ ― 強すぎ・大きすぎは滅びへの道」 池田 清彦(著)(さくら舎)

           

8月 「新井 勝紘」さん

新井 勝紘(あらい かつひろ)さん

1944年東京都生まれ。東京経済大学経済学部卒業。東京都町田市史編さん室、町田市立自由民権資料館主査、国立歴史民俗博物館助教授などをへて、専修大学文学部教授を務める。現在、認定NPO法人・高麗博物館館長、成田空港 空と大地の歴史館名誉館長。著書に『民衆憲法の創造』(共著 評論社)『戦いと民衆』(共著 東洋書林)『五日市憲法』(岩波新書)などがある。

『開かずの蔵から解き放たれた五日市憲法と千葉卓三郎』

五日市の山の中の古い土蔵を調査したら思わぬ貴重な資料が

中川:
新井先生の書かれた「五日市憲法」(岩波新書)を読ませていただきましたが、たくさんの驚きがありました。東京の西のはずれ、JR五日市線の終点「武蔵五日市」駅から山道を1時間ほど歩いたところにある“開かずの蔵”で、学生だった先生が、ゼミの指導教授や仲間たちと一緒に土蔵を調査するところから話が始まります。今から50年も前のことです。そこで先生は大変なものを見つけたわけですね。
新井:
今年は明治150年ですが、あの年は明治100年でした。首相が佐藤栄作で、政府も地方も明治100年の一大キャンペーンを張って大いに盛り上がっていました。
その騒ぎを横目に見ながら、私の恩師である色川(いろかわ)大吉先生は、そんなにめでたい100年じゃないと、私たちに言いました。冷静に日本近代史を見直せば、明治以降、日本は半分くらい戦争をしてきたわけです。今の時代の人たちがお手本にするような100年ではなかったし、アジアの国々に誇れるような100年ではない。君たちも近代日本史を学ぶゼミに入ったのだから、そのあたりのことを真剣に考えろと言われました。
それがきっかけでした。日本全体を見るかではなくて自分の足もとの歴史を振り返ってみて、地域にとって100年はどうだったかを見るといいということで始まったのが土蔵の調査でした。
中川:
それで五日市の土蔵に入られたわけですね。
新井:
前々から先生が交渉されていた蔵だったのですが、ここで改めてお願いしてもらったところ、『ガラクタしかありませんから』と、断られてしまったのです。それでも、なければないでいいし、何もないとわかればそれでいいんですと、再度交渉をしていただき、夏休みならご当主も立ち合えるので調査の許可が出ました。1968年(昭和43年)8月27日、開けたことのない土蔵が開けられました。
中川:
当時の土蔵の写真をおもちいただきましたが、かなり古いものですね。
新井:
かつては深沢家という豪農の屋敷がそこにはありました。母屋は町の方に引っ越していたので、残っていたのはこの土蔵とお墓くらいでした。土蔵の屋根は樹木の皮でふいてあって、そこにはところどころに夏草が生えていました。土壁も中身が見えるほど崩れていて、失礼ながら朽ち果てているという表現がぴったりでした。
中川:
でも、こんな山の中にある古い土蔵に重要な資料があるかもしれないと、どうして思われたのでしょうか。
新井:
『利光鶴松翁手記』という小田急電鉄の創業者・利光鶴松さんの伝記があります。そこに、若いころ、五日市にいていろいろな刺激を受けたということが書かれてありました。この土蔵の主である深沢さんにも、彼はずいぶんとお世話になったみたいです。当時、深沢家では、東京で出版された書籍はことごとく購入して、だれにでも自由に見せてくれていたようです。利光さんも、深沢家にある本をむさぼるように読んで、さまざまなことを学び、考えました。伝記には、自分の原点は五日市にあるとまで書かれていますから、彼としては目を開かれたような数年間だったのだと思います。深沢家の土蔵を調査すれば、利光さんたちが一生懸命に読んだ本があるかもしれないという期待はありました。
中川:
そうですか。何か貴重な資料があるだろうという期待はあったわけですね。それでも、大日本帝国憲法の草案まで出てくるとは思ってもいなかったでしょうね。
新井:
土蔵は2階建てになっていて、1階にはお盆とかお皿とかとっくりとか、人寄せのときに使う道具がありました。2階に上がってみると、長持ちとか箪笥とかが並んでいました。箪笥を開けたら、本とか文書が押し込まれていました。いよいよ調査が始まると、緊張感が走ったのを覚えています。
自然の流れの中で、私は2階の左奥のあたりを調査することになりました。そこに弁当箱くらいの大きさの竹で編んだ箱がありました。ふたをあけたら風呂敷包みが出てきました。その中には一群の資料が入っていました。その風呂敷包みの中にもっとも重要な資料が集中して納めてあったんですね。
私が手にした資料群の一番下に、筆で書いた条文みたいな文書がありました。表紙に「日本帝国憲法」と書いてありました。私は、大日本帝国憲法の大が虫に食われたか消えたか、書き忘れたかと思いました。大日本帝国憲法が発布され、彼らがそれを書き写したのだろうというのが第一印象でした。

<後略>

(2018年6月19日 東京都新宿区の高麗博物館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

新井勝紘 著「五日市憲法」(岩波新書)

           

7月 「山田 幸子」さん

山田 幸子(やまだ さちこ)さん

1936年東京生まれ。横浜市立高等看護学院を卒業後、横浜市立大学病院外科病棟、都立豊島病院脳神経外科、都立駒込病院ICU外科病棟、都立北療育園に勤務。その後、帯津良一先生とともに帯津三敬病院の立ち上げにかかわり、会員後は総師長として勤務。帯津三敬塾クリニック勤務をへて2015年9月に退職。著書に「つなぐ看護 生きる力」(佼成出版社)がある。

『看護師生活52年。ホリスティック医学を支えた名脇役』

駅前の安い居酒屋で総師長になってほしい誘われた

中川:
山田さんとは、ずいぶんとお会いしてなくて、20年ぶりくらいになりますかね。ごぶさたしてしまっていますが、お元気そうですね。
山田:
こちらこそごぶさたしています。それくらいになりますかね。ゆっくりとお話をしたことはありませんでしたが、会長のことはよく覚えています。もっとも、私はこの雑誌(月刊ハイゲンキ)を毎月読ませてもらっていて、会長の姿を写真で拝見しているので、久しぶりにお会いするという感じがあまりなくて(笑)。
中川:
ありがとうございます。今は病院も辞められているんですよね。
山田:
川越の帯津三敬病院と池袋の帯津三敬塾クリニックで35年間、看護師長を務めさせていただきました。その前の都立病院での勤務も入れると、看護師として52年間働きましたよ。長いですね(笑)。
クリニックを退職したのは2015年5月です。私は帯津先生と同い年ですから、先生がバリバリと働いているのに自分が退職するのは本意ではありませんでしたが、左足が痛くて思うように動けなくなったので、ここらが引き時かと決心しました。
今は、先生の運転手兼スタイリストですね(笑)。先生の出張のときは東京駅や成田空港、羽田空港まで車で送っていきます。講演のときの服装も、ほとんど私が選んでいますね。そうやって先生とつながっていられることは、私にとってはありがたいことです。
中川:
『つなぐ看護 生きる力』(佼成出版社)という本を出されたのが今年の1月ですよね。読ませていただきましたが、とてもわかりやすくていい本でした。
山田:
ありがとうございます。看護師としての私の生き方、考え方が少しでも医療の発展に役立てばと思って出しました。お手紙で感想を送ってくださる方がけっこういて、とてもうれしいですよ。
中川:
帯津先生とのご縁は面白いというか劇的というか。勤務先の都立駒込病院の廊下ですれ違ったときに声をかけられたということでしたね。
山田:
先生に初めてお会いしたのは、私が駒込病院のICU(集中治療室)に勤務していたときでした。先生は食道がんの手術を専門にやっておられました。手術後の患者さんは必ずICUへ入るものですから、先生とはそこでよく顔を合わせました。 
先生に声をかけられたのはICUから外科病棟へ移ってしばらくしたころでした。病院の廊下を歩いていたら先生とすれ違いました。そのときに「今日、話があるんだけど一杯飲まないか」と誘われました。先生が連れて行ってくれたのは駅の近くの安い居酒屋でした。汚いところでしたよ(笑)。
そこで、自分が開業したら総師長として来てもらえないだろうかと言われました。
中川:
そうですか。汚い居酒屋で運命が決まったんですね(笑)。本によると、先生には三人の看護師長候補がいて、最初に声をかけたのが山田さんだったとか。
山田:
そうなんですよ。開業してから5年くらいして、あとの2人の名前を教えてもらいました。「ああ、あの2人なら、私で良かったですよ」と言った覚えがあります(笑)。
中川:
その場で「お世話になります」と答えたそうですね。即決できたことが素晴らしい。
山田:
あのころはちょうど看護師長の試験を受けないといけない時期でした。仕事をしながらの試験勉強ですから、ほとんど寝る時間がないほどでした。
試験には合格しましたが、当時は師長になると別の都立病院に異動しなければならないという決まりがありました。実際私は他の都立病院の小児科に異動が決まりました。
これまで脳神経外科、腹部外科、救急、外科のICUと外科一筋だったし、外科の仕事が大好きだったので、今までのキャリアを生かせる場で仕事をしたいと思っていました。ですから、帯津先生からのお誘いは本当にありがたかったですよ。

<後略>

2018年5月25日 埼玉県川越市・帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久

著書の紹介

「つなぐ看護 生きる力」山田幸子(著)  佼成出版社

           

6月 「西澤 孝一」さん

西澤 孝一(にしざわ こういち)さん

昭和23年愛媛県生まれ。16歳のときに坂村真民と出会う。18歳で真民の詩に感銘を受け愛読書となる。大学を卒業後、愛媛県庁に就職し定年まで勤める。その間、真民の三女・真美子と結婚。真民の晩年を共に過ごし、最期を看取る。平成24年より坂村真民記念館館長。著書「かなしみをあたためあってあるいてゆこう」(致知出版社)

『自分に厳しく、人にやさしく。詩人・坂村真民の生き方に学ぶ』

東日本大震災の一年後の3月11日に記念館はオープン

中川:
こちらは松山市の隣の砥部(とべ)町というところですが、とてものどかでいいところですね。坂村真民さんというと「念ずれば花ひらく」という詩が有名ですが、仏教詩人とか癒しの詩人と呼ばれて、真民さんの詩や随筆はたくさんの方に読まれています。2006年に98歳でお亡くなりになりましたが、今でも根強いファンがこの坂村真民記念館を訪ねてこられるようです。今回は坂村真民記念館の西澤孝一館長にお話をうかがいます。よろしくお願いします。
西澤:
ようこそ砥部町へ。砥部町で良く知られているものというと砥部焼でしょうね。ほかの陶磁器と比べると厚手で頑丈なのが特徴です。隣の香川県は讃岐うどんが有名ですが、讃岐うどんの器としてよく使われています。
中川:
初めてうかがいました。真民さんの詩は、私どものこの会報誌でも連載で紹介させていただいていました。1996年10月号から98年3月号まで18回です。何とすてきな詩を書かれるのだろうと、一度、お目にかかりたいと思っていました。残念ながらお会いできませんでしたが、こうやって記念館にうかがうことができたのも何かのご縁かと思います。
この記念館のオープンの日は3月11日だそうですね。東日本大震災の翌年の2012年ですね。
西澤:
この記念館の計画が進み、いつ開館するかを決めようとしていた矢先に東日本大震災が起りました。その後、東北の方は大変な思いをされているわけですが、被災された方々から、坂村真民の詩を読んで勇気や希望をもらったという声がたくさん寄せられるようになりました。それなら、3月11日をオープンの日にして、愛媛から東北にエールを送ろうと、翌年の震災の日に開館しました。
中川:
そうでしたか。真民さんは熊本のお生まれですよね。長くこの砥部町に住んでおられたので、それでこの場所に記念館が作られることになったわけですね。
西澤:
真民は、神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業後、生まれ故郷の熊本で教員になりました。その後、朝鮮に渡って師範学校の教師をし、終戦後、朝鮮から引き揚げて愛媛に移住し、高校の教員として国語を教えていました。58歳のときに砥部町に居を構え、亡くなるまでここに住みました。
この記念館は町営の施設ですが、前の町長が坂村真民の詩の大ファンで、真民が亡くなった後、記念館を作りたいという働きかけが家族にありました。
本人が生きていたら作らせてくれなかったでしょうね。そんなのは必要ないという考え方でしたから。でも、自分の詩を若い人とか後の時代の人たちに読んでもらいたいという思いは強くありましたから、記念館があれば真民の世界をもっと広く知ってもらえます。それなら許してくれるだろうと、家族が勝手に判断しました(笑)。
中川:
きっと喜んでおられますよ。さっき、特別展(「坂村真民という生き方~坂村真民の生涯を貫いた生き方とは~」6月17日まで)を拝見しましたが、すっかり見入ってしまいました。直筆の詩はもちろんですが、日記も公開されていて、真民さんがどう生きたのか、じわっと伝わってくる感じがしました。
西澤:
ありがとうございます。年に三回の企画展をしていますが、今回はその集大成といった意味合いで開いたものです。この記念館のスタッフはパートでお手伝いしてくださっている方ばかりなので、どういう展示をするかは私がすべて考え、展示品や資料も集めないといけません。けっこう大変なんですよ(笑)。
中川:
真民さんのことは西澤さんが一番ご存知だとお聞きしています。真民さんとはとても不思議な縁でつながっているわけですが、そのあたり、お話ししていただけますでしょうか。
西澤:
私が真民の詩を知ったのは高校を出て福岡の予備校へ行っているときでした。寮に入っていたのですが、富山から来ていた友だちから、お前は愛媛県出身だけどこの人を知っているか? と言われて『自選 坂村真民詩集』を紹介されました。その詩集を読んで、私はすごく感動しました。
そのあとですよ、驚いたのは。実は私の家内は真民の三女で真美子といいますが、高校時代に私は彼女とお付き合いをしていました。高校生のころ、彼女のお父さんとして真民とはお会いしていますが、詩人だったとは知りませんでした(笑)。
真美子は、確かにちょっと変わった女の子でした。ああいう詩を書く人の娘だからだったんだと納得した覚えがあります。

<後略>

(2018年4月4日 愛媛県伊予郡砥部町の坂村真民記念館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「かなしみをあたためあってあるいてゆこう」 西澤 孝一 著(致知出版社)

           

5月 「梶原 誠」さん

梶原 誠(かじわら まこと)さん

画家。絵本作家。アートディレクター。1967年大阪府生まれ。1988年から葦プロダクション(現プロダクションリード)のアニメーターとして活動。2016年「はじめてのしんかんせん」の挿絵を担当。日本で初めての細密画による絵本として話題になる。2017年から世界堂新宿本店絵画教室アートカルチャーで鉛筆画、色鉛筆画の講師を務めている。

『人物や風景。写真とは違ったリアルさを鉛筆や色鉛筆で描く』

絵にすると写真では出せないものが出せることがある

中川:
梶原さんは画家としてご活躍されていて、今、鉛筆を使ってリアルに表現する絵がとても注目されています。作品をホームページで拝見しました。鉛筆や色鉛筆でこのような写真みたいな絵が描けるんですね。驚きました。
梶原:
ありがとうございます。ああいう絵を鉛筆画とか色鉛筆画とか細密画と言います。鉛筆の方が消しゴムで消したり、ぼかしたりできるのでよりリアルに描けますね。
この「はじめてのしんかんせん」という絵本は私が挿絵を担当しました。子どもたちは、最初は写真だと思ってページをめくるのですが、よく見るうちに絵だとわかって目を丸くします。
中川:
本当ですね。ぱっと見ただけだと絵だとは思わないですよ。こんな絵本はなかなかないですね。
梶原:
一部にカラーが入ると全体が明るくなりますね。
私は鉛筆画も色鉛筆画も描きますが、鉛筆と色鉛筆とでは、それぞれ使い勝手のいい紙が違うので使い分けています。鉛筆画でリアルに描くにはつるつるのケント紙を使います。色鉛筆画ではざらざら感のある水彩紙などを使います。
この絵本の中に鉛筆と色鉛筆をほぼ半分ずつくらい使った絵があるのですが、これは難しかったですね。まずはどっちの紙を使うか迷いました。鉛筆で描く範囲の方が大きかったのでケント紙を使いましたが、鉛筆と色鉛筆が重なる部分には硬い鉛筆を使うなどいろいろと工夫をしました。
中川:
今日は何枚か作品をもってきていただきましたが、この女性を描いた鉛筆画は髪の毛にすごく張りがありますよね。でも、よく見ると、髪の毛の中に白い色が見えます。光が当たっているところなんですかね。これはどうしているのですか。
梶原:
消しゴムを使います。ペンのようになった細い消しゴムがありまして、それで線を入れます。そうすると光が当たっているように見えます。
中川:
写真みたいな絵ですが、写真よりも柔らかな感じがしますよね。何て言えばいいんだろう。表現が難しいですよね。
この女性は、髪の毛が顔に少しかかっているのですが、これも鉛筆でさっと線を引いて描かれたものですか。
梶原:
そうですね。すっと引いています。
中川:
ただの線では髪の毛らしさは出ないですよね。どうしてこんな線が引けるんだろうと思いますよ。こうした絵は写真を見て描かれるんですね。
梶原:
そうですね。今は写真の解像度がすごく良くなっていますので、写真を撮ってそれを絵にすることが多いですね。でも、写真と同じに描いてもつまらないですから、写真以上のものにしたいという気持ちはいつももっています。
中川:
リアルに描いているのですが、写真とは違った味がありますよね。
梶原:
絵は作者の感覚や感性、オリジナリティが出て、写真には出ないものが出るのではないかと思っています。ですから、同じ写真を見て描いた絵であっても、慣れてくればだれが描いたかわかります。写真にそっくりなリアルな絵を描いているのに、作者によってそこに何かわからないけれども微妙な違いが出ます。それが面白いところじゃないでしょうか。
中川:
個性が出るんでしょうね。この絵を描くのにどれくらい時間がかかるんですか。
梶原:
早くても10時間くらいですかね。30時間くらいかかる作品もあります。
中川:
そうでしょうね。絵には作者の氣が込められると思うんですね。そんなにも時間をかけて、集中して描いているわけですからね。だから、同じ写真を見て同じように描いても、どこか違いがあるのではないでしょうか。作者の描き方や癖もあるでしょうが、見ている人は絵が発している氣を感じているのかもしれませんね。
Youtubeで梶原さんが絵を描き上げるまでを早送りで撮っている動画が見られますが、完成に近づくにつれて紙の中から人が浮き上がってくるような感じがしますよね。まるで、命を吹き込んでいるみたいですよ。
梶原:
ぼくは、写生画と空想画との混合画法だと言っているのですが、写真のまま描くのではなく、背景を変えたりすることで、違った雰囲気を作ることができますね。写真と違って絵はいろいろとアレンジができます。肖像画を頼まれることありますが、写真の通りではなく、こうしてほしいという注文があれば、それに応じます。部屋の中で撮った写真だけども、それを森の中にいるような感じにするといったことも可能です。

<後略>

(2018年3月26日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

           

4月 「前野 茂雄」さん

前野 茂雄(まえの しげお)さん

1966年東京で生まれ、輸入雑貨や飲食業の事業を展開するが、1998年に大病を患ったことがきっかけで、営利目的の仕事ではなく社会に寄与する活動を始める。現在、特定非営利活動法人頭脳スポーツ財団理事長、一般財団法人日本認知症総合対策推進機構会長、一般財団法人地球環境振興財団理事長、一般社団法人社会貢献事業財団代表理事など、さまざまな役職を兼務しながら活動している。

『何度も大病を乗り越え、頭脳スポーツで社会に貢献する』

大人と子どもが対等の関係で楽しめるアナログゲーム

中川:
前野さんの『今を生きる』(八重洲出版)という本を読ませていただきました。波瀾万丈の人生の中で、今は「頭脳スポーツ」を普及させる活動をされているとのことですが、頭脳スポーツというのはあまり聞きなれない言葉ですよね。まずは、頭脳スポーツとはどういうものかご説明いただけますか。
前野:
要は、頭を使って行うゲームのことです。たとえば、将棋や囲碁、チェス、オセロ、人生ゲームといったボードゲーム、麻雀のようなテーブルゲームやパズル、トランプなどのカードゲーム、百人一首のような伝統的なゲームですね。世界には、数え切れないほどの頭脳スポーツがあります。この事務所の中だけでも約5000種類のゲームがあって、遊び方は8000種類くらい。倉庫にも保管してありますから、本当にどれくらいあるかわかりません。
中川:
今はデジタルゲームの時代ですから、一人で楽しんでいる人がたくさんいて、実際に人と人が向き合ってゲームを楽しむような場は少なくなりましたね。
前野:
そうなんですね。デジタルな世界が広がり過ぎて、子どもも大人も、人とのコミュニケーションが苦手になっています。直接顔を合わさなくてもメールで用が足りてしまったりしますから。子どもばかりではなくて、大人も初対面の人にあいさつができなくなっています。
学校では「知らない人と口をきいてはいけない」と教えているものですから、こちらから子どもたちにあいさつをしても返事が返ってきません。これっておかしいですよね。
頭脳スポーツはアナログの世界ですから、頭を鍛えながら心も育てることができます。ゲームを通して、あいさつや礼儀から始まり、楽しみながらさまざまなことを、学校の勉強とは違った視点で学べます。
中川:
今は少子化で一人っ子も多いじゃないですか。コミュニケーションの取り方がよくわからない子どもも増えているのではないでしょうか。
前野:
そうですよね。兄弟げんかはいい勉強の場なんですね。けんかをしたとき、どうしてけんかになったのか、どうやって仲直りするのかを学ぶことができます。他人だと、けんかをしたら口もきかなくなって疎遠になってしまうじゃないですか。兄弟だからこそ学べることがあります。
若い人たちがたくさんの子どもを産んで育ててくれればいいのですが、なかなかそうもいかなくて、少子化の流れは止まらないですよね。
そうなると、親が兄弟のような立場になることが必要になってきます。子どもと対等の立場で一緒に遊ぶことです。遊ぶと言っても、キャッチボールやサッカーは、小学生くらいなら親が子どもに教えるという上下関係があります。しかし、ゲームだと違ってきます。たとえば、カタンというゲームをご存知ですか。ドイツではとても人気のあるテーブルゲームですが、このゲームを親と子が一緒にやった場合、子どもの方が先に覚えて、強かったりするわけです。子どもが親に「こうやってやるんだよ」と教えてあげる。親もがんばって覚えて対決しても勝てなかったりする。悔しくて本気になる。そんな対等の関係がゲームだと作れるのです。
中川:
なるほど。対等の関係が大事だということですね。アナログゲームにはそういう良さがあるということですね。
前野:
デジタルゲームで一人で遊んでいては人と人との関係は学べません。
世の中は、何かを得たら何かを失うようになっています。昔は、100軒くらいの電話番号を覚えていたじゃないですか。でも、今は全部携帯が記憶してくれているから、覚えなくていいですよね。記憶する力を失っているかもしれません。カーナビが登場して、道も覚えなくていいですしね。でも、道に迷ったときに、こっちへ行けばいいという感覚が失われてしまいました。便利であまり体を使わなくなれば、健康を損ねることもありますしね。と言っても、デジタルを否定しているわけではなくて、アナログを見直そうよと言いたいのです。

<後略>

(2018年2月23日 東京・台東区の頭脳スポーツ財団の事務所にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

今を生きる ~人生は三度やり直せる~前野茂雄(著) 八重洲出版

           

3月 「伊藤 千尋」さん

伊藤 千尋(いとう ちひろ)さん

1949年山口県生まれ。東京大学法学部卒。74年朝日新聞社に入社。東京本社外報部などを経て、84~87年サンパウロ支局長。88年『AERA』創刊編集部員を務めた後、91~93年バルセロナ支局長。2001~04年ロサンゼルス支局長。現在はフリーの国際ジャーナリスト。「コスタリカ平和の会」共同代表、「九条の会」世話人も務める。著書は「一人の声が世界を変えた!」(新日本出版)「キューバ 超大国を屈服させたラテンの魂!」(高文研)「凛とした小国」(新日本出版)ほか多数。

『小さな国の制度や価値観から日本はたくさんのことが学べる』

「幸せですか?」と聞くと、即座に「幸せです」と返ってくる国

中川:
伊藤さんが書かれた「凛とした小国」(新日本出版社)という本を読ませていただきました。アメリカやヨーロッパの国々、オーストラリア、中国といったところには興味があっても、あまり名前も聞かないような小さな国に関心をもつ人は少ないと思います。伊藤さんの本には、コスタリカ、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーが紹介されていましたが、国の名前こそ知っていてもどんな国かはほとんど知りませんでした。本を読ませていただいて、日本も大国の方ばかり見ずに、小さな国からもたくさん学ぶことがあるのではと思いました。
伊藤:
ありがとうございます。日本は経済大国だと言っているし、国民はみんな、そう思っているじゃないですか。でも、一人ひとりを見ると幸せだと思っている人は少ないのではないですか。コスタリカは貧しい国だけれども、それでも会う人会う人が幸せそうな顔をしています。「幸せですか?」と聞いてみると、言下に「幸せです」と答えるんですね。日本人で「幸せですか?」と聞かれて、すぐに幸せですと答えられる人は少ないだろうと思ますよ。
中川:
日本人で「幸せです」と胸を張って答えられる人は少ないでしょうね。伊藤さんは、学生時代にキューバに行かれてから小さな国に興味をもたれたようですね。
伊藤:
そう思ったのは20歳のときですね。あのころは、とにかく外国へ行きたくてたまらなかったですよ。と言うのは、日本の社会の息苦しさをすごく感じていましたから。中学と高校で生徒会長をやりました。生徒手帳を見ると、やたらと細かい規則が書いてあるじゃないですか。あれするな、これするなばかりで、これじゃあ人間が委縮すると疑問に思っていました。なんで日本はこうなのだろう? と思うわけですよ。外から日本を見ればわかるんじゃないか、日本の常識と世界の常識とは違うんじゃないか、とにかく出てみようと思ったんですよ。
中川:
それでキューバに行かれたのですか。だいたい、当時の若者のあこがれはアメリカじゃないですか。それに、あのころキューバに入国することはできたのですか?
伊藤:
会長のおっしゃる通り、海外へ行くとしたら、みなさんアメリカかヨーロッパでしたね。も、ぼくはみんなが行くところは行きたくありませんでした。大きなものとか権力のあるところに群がることが恥ずかしいと思っていましたから。だれも目を向けない知らないところへ行きたかったですね。そこで選んだのがキューバでした。社会主義でも小さな社会主義の国には、正しいとは限らないけれども、新しい価値観、面白いものがあるのではないかと思ったのです。
当時はキューバへは個人では行けませんでしたから団体で行きました。キューバの産業は砂糖だけでサトウキビを人力で刈っていましたが、革命が起こってから多くの人が亡命して人手が足りない状態でした。それで、アメリカの学生が、政府はキューバに対して経済制裁をしているから、若者がキューバを助けようと立ち上がり、何百人とキューバに渡ってサトウキビを刈るという労働奉仕をやっていました。日本からも行こうという団体ができて、それが新聞に載りました。このツアーに申し込んで、1971年にキューバに行き、半年間滞在しました。

<後略>

(2018年1月17日 東京都狛江市の 伊藤千尋さん の仕事場にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「凛とした小国」 伊藤千尋 著 (新日本出版)

           

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