12月 「岡村 幸宣」さん
岡村 幸宣(おかむら ゆきのり)さん
1974年生まれ。東京造形大学造形学部比較造形専攻卒業。同研究科修了。2001年より、原爆の図丸木美術館に学芸員として勤務。2016年第22回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受賞。著書に「《原爆の図》のある美術館」「非核芸術案内——核はどう描かれてきたか」 (岩波ブックレット)「《原爆の図》全国巡回——占領下、100万人が観た!」( 新宿書房)など。
『核の危機が迫る今だからこそ見てほしい原爆の図』
原爆の図には人間のもつ深い悲しみがあふれている
- 中川:
- 森の中にあって、近くを川が流れていてとても静かで、何か異空間に紛れ込んだような感じがしてしまいます。この丸木美術館に展示されているのが原爆の図ですけれども、見ているとぐっと胸に迫ってくるものがあります。原爆の悲惨さを描いた作品ですが、それだけではなくて、人間のもっている奥深い悲しみがあふれていて、言葉を失ってしまいました。
- 岡村:
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ありがとうございます。原爆の図は、広島出身の水墨画家・丸木位里(いり)と妻で油彩画家の俊(とし)が1950年に発表したのが第1作で、その後30年にわたって全15作の連作として描き上げたものです。
単なる虐殺の記録ではなく、かけがえのない一つひとつの命に寄り添っている作品だからこそ、たくさんの人が感動してくれるのではないでしょうか。この絵に自分の思いを重ねながら、「自分も何かをしなければ」と思ってくださるのだと思います。 - 中川:
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広島に投下された原爆でたくさんの方が亡くなりましたが、亡くなった方にはそれぞれ家族もあり、生活もありました。その一人ひとりに思いを寄せながら描かれているのが伝わってきました。
ところで、岡村さんは丸木美術館の学芸員をやっておられるわけですが、学芸員というのはどういうお仕事をされるのですか? - 岡村:
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作品の管理はもちろんですが、企画展をやって美術館と人をつなぎ、多くの人に来てもらうように働きかけたり、美術館の歴史性や性格を生かした展示をしたりします。来館される人に絵の説明をするような教育普及の仕事や、なぜこの作品が生まれてきたのか、それがどう受容されてきたのかを掘り起こして、今の時代の人に伝え、未来にも残していく研究調査の仕事もやっています。 - 中川:
- 大事なお仕事ですよね。特に、原爆の図はメッセージ性のとても高い作品ですからね。いつごろから丸木美術館の学芸員をやっておられるのですか?
- 岡村:
- 2001年から学芸員として働いていますのでもう17年になります。この美術館のことを知ったのは美大の学生だったころです。1996年でした。当時はまだバブル景気の影響が残っていて、授業の内容も最新の美術館や現代美術の話がほとんどでした。私は流行とは対極にある美術館の実情を知りたいと考えて、この美術館で実習をしました。
- 中川:
- そうですか。学生時代ですか。そのころから原爆のこととか興味があったり、核に対する問題意識をお持ちだったんですね。
- 岡村:
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いえいえ。恵まれた中で育った世代なので、平和も当たり前だったし、社会の矛盾についてもほとんど考えたことがありませんでした。
確かにここはよくある美術館とは違って、とても人間臭くて新鮮だったのですが、卒業したらうちに就職しないかと言われたときには、『いいです』とすぐに断りました (笑)。 - 中川:
- そうでしたか。一度断ったのに、どうしてこちらの学芸員になったのですか?
- 岡村:
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その後、半年ほど自転車でヨーロッパを旅しました。ヨーロッパの美術館を回っていると、丸木美術館よりもお金がなくてやっている美術館はいっぱいありました。小さな美術館は決して背伸びせずに自分たちがやれる範囲で、大切に文化を守り伝えていました。そのときに、文化はこういうところから生まれてきて、その上澄みを大きな美術館はもらっているだけだということがわかって、よそでやっていないような根源的な価値を自分たちで作り出す美術館で働きたいと思うようになりました。
丸木美術館は原爆の図のために建てられ、この絵を大切だと思う人たちが集まってきて、絵や思いを守り、伝え、つなぎ続けてきた場所です。ここでしか伝えられないし、守れないものがあるんだと、丸木美術館を見る目ががらりと変わって、ここで働くことを決めました。 - 中川:
- 大きな美術館ではなかなかできませんからね。
- 岡村:
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大企業に依存していると不況に弱いんですよ。私が学生のころは、都内のデパートがいくつ美術館をもっていました。ああいう立派な美術館がなくなるなんて予測できなかったですよ。丸木美術館は、多くの人の小さな力に支えらえている美術館だから、景気に左右されずに、細々とですがこうやって残っていられるんでしょうね。
<後略>
(2017年10月24日 埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介
《原爆の図》のある美術館――丸木位里、丸木俊の世界を伝える
岡村 幸宣(著) (岩波ブックレット)
興味をもっていただいてありがとうございます。経緯はよく聞かれますが、いつも「成り行きです」と答えています(笑)。
そら考えますよ。私も経営者ですから。ビジネスということを考えたら二の足を踏みますよ。
障害は個性だと言いますけど、頭ではわかっていても、いざそういう人と接することになると、どうしても戸惑ってしまいますよね。どうかかわっていけばいいのか分かりませんからね。
ありがとうございます。樋口季一郎という人は、最近になって少しずつ知られるようになってきましたが、私が本を書いた2010年当時は一般的には知名度はとても低かったですね。
ひとつのタブーになっていましたね。私としては、史実は史実として掘り起こす必要があると思ったから取材して記録として活字にしたかったのです。決して美化しようとしたものではありません。
おしゃれだからですよ(笑)。東村山の駅からここまでお越しになる途中に私の畑がありますが、道路際にスイスチャードが大きくなっています。サラダとか炒め物にするととてもおいしい野菜です。あとから見ていただきたいと思いますが、あんなに込み合って育つことはないんですよね。常識ではね(笑)。でも、ビシッと隙間がない状態で育っているんですね。
私はもともと、茨城にある有機農法で米や野菜を生産して販売する会社に勤めていました。そのときに、都会のみなさんに、農業のことを理解してもらいたいと、銀座に営業所を作って、食や農の勉強会を紙パルプ会館の会議室を借りて開いていました。
今考えると運命的な出会いですよね。それに、高安さんもよくやろうと決心しましたよね。感心します。ところで、銀座のミツバチはどこから蜜を集めてくるんですか。
そうです。協会と言っても会員登録があるわけでもないし、会費があるわけでもないし、賛同してくれた人が集まってワイワイとやっているんです。
昔は、どこにでもおせっかいなおばさんがいて、年頃の若者を見ると、頼んでもいないのに結婚相手を探してくれたりしましたよね。 
何か印象的なことがあったはずなのですが、覚えてなくて。アイヌに関する最初の記憶がこれなんです。
私は、ご縁というのは不思議なものだと思っていますが、私が撮った写真が掲載された雑誌が送られてきて、それを見ていたら、アシリレラさんというアイヌの女性の書かれた文章が載っていました。
本当にそうでした。私が通っていた高校は、勉強ができる子たちとできない子たちの差が激しく、高校2年のときに学力別に分類されるのですがわたしは通称「バカクラス」のビリでした。
あの本は、先生が出版しようと思って書いたものじゃないんです。
そう言われればそういう気もします。今日、会長がご先祖様のお話をしてくださいましたが、私は、もともとはあまりご先祖様のことは考えていませんでした。ナシルという名前で活動を始めたのが10年ほど前になりますが、そのあたりから、ご先祖様がいるからこそ、自分がここにいて、さらに先につながっていくというのを、感じるようになりました。もっとも、私は結婚していないので、先はないかもしれませんが(笑)、甥っ子や姪っ子がいるので、そちらから未来につながっていくなと思うと、何とも言えない不思議さというか、感動というか、神秘なものを感じています。
沖縄から東京へ出てくる人のほとんどは、どこかに沖縄の人がいないか、一生懸命に探すんですね。私も、やっぱり沖縄の人が恋しくてたまりませんでした。
そうなんですよ。大地は、亡くなることでも、そして亡くなったあとも、私たちにいろいろなことを教えてくれているように感じてなりません。