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12月 「岡村 幸宣」さん

岡村 幸宣(おかむら ゆきのり)さん

1974年生まれ。東京造形大学造形学部比較造形専攻卒業。同研究科修了。2001年より、原爆の図丸木美術館に学芸員として勤務。2016年第22回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞を受賞。著書に「《原爆の図》のある美術館」「非核芸術案内——核はどう描かれてきたか」 (岩波ブックレット)「《原爆の図》全国巡回——占領下、100万人が観た!」( 新宿書房)など。

『核の危機が迫る今だからこそ見てほしい原爆の図』

原爆の図には人間のもつ深い悲しみがあふれている

中川:
森の中にあって、近くを川が流れていてとても静かで、何か異空間に紛れ込んだような感じがしてしまいます。この丸木美術館に展示されているのが原爆の図ですけれども、見ているとぐっと胸に迫ってくるものがあります。原爆の悲惨さを描いた作品ですが、それだけではなくて、人間のもっている奥深い悲しみがあふれていて、言葉を失ってしまいました。
岡村:
ありがとうございます。原爆の図は、広島出身の水墨画家・丸木位里(いり)と妻で油彩画家の俊(とし)が1950年に発表したのが第1作で、その後30年にわたって全15作の連作として描き上げたものです。
単なる虐殺の記録ではなく、かけがえのない一つひとつの命に寄り添っている作品だからこそ、たくさんの人が感動してくれるのではないでしょうか。この絵に自分の思いを重ねながら、「自分も何かをしなければ」と思ってくださるのだと思います。
中川:
広島に投下された原爆でたくさんの方が亡くなりましたが、亡くなった方にはそれぞれ家族もあり、生活もありました。その一人ひとりに思いを寄せながら描かれているのが伝わってきました。
ところで、岡村さんは丸木美術館の学芸員をやっておられるわけですが、学芸員というのはどういうお仕事をされるのですか?
岡村:
作品の管理はもちろんですが、企画展をやって美術館と人をつなぎ、多くの人に来てもらうように働きかけたり、美術館の歴史性や性格を生かした展示をしたりします。来館される人に絵の説明をするような教育普及の仕事や、なぜこの作品が生まれてきたのか、それがどう受容されてきたのかを掘り起こして、今の時代の人に伝え、未来にも残していく研究調査の仕事もやっています。
中川:
大事なお仕事ですよね。特に、原爆の図はメッセージ性のとても高い作品ですからね。いつごろから丸木美術館の学芸員をやっておられるのですか?
岡村:
2001年から学芸員として働いていますのでもう17年になります。この美術館のことを知ったのは美大の学生だったころです。1996年でした。当時はまだバブル景気の影響が残っていて、授業の内容も最新の美術館や現代美術の話がほとんどでした。私は流行とは対極にある美術館の実情を知りたいと考えて、この美術館で実習をしました。
中川:
そうですか。学生時代ですか。そのころから原爆のこととか興味があったり、核に対する問題意識をお持ちだったんですね。
岡村:
いえいえ。恵まれた中で育った世代なので、平和も当たり前だったし、社会の矛盾についてもほとんど考えたことがありませんでした。
確かにここはよくある美術館とは違って、とても人間臭くて新鮮だったのですが、卒業したらうちに就職しないかと言われたときには、『いいです』とすぐに断りました (笑)。
中川:
そうでしたか。一度断ったのに、どうしてこちらの学芸員になったのですか?
岡村:
その後、半年ほど自転車でヨーロッパを旅しました。ヨーロッパの美術館を回っていると、丸木美術館よりもお金がなくてやっている美術館はいっぱいありました。小さな美術館は決して背伸びせずに自分たちがやれる範囲で、大切に文化を守り伝えていました。そのときに、文化はこういうところから生まれてきて、その上澄みを大きな美術館はもらっているだけだということがわかって、よそでやっていないような根源的な価値を自分たちで作り出す美術館で働きたいと思うようになりました。
丸木美術館は原爆の図のために建てられ、この絵を大切だと思う人たちが集まってきて、絵や思いを守り、伝え、つなぎ続けてきた場所です。ここでしか伝えられないし、守れないものがあるんだと、丸木美術館を見る目ががらりと変わって、ここで働くことを決めました。
中川:
大きな美術館ではなかなかできませんからね。
岡村:
大企業に依存していると不況に弱いんですよ。私が学生のころは、都内のデパートがいくつ美術館をもっていました。ああいう立派な美術館がなくなるなんて予測できなかったですよ。丸木美術館は、多くの人の小さな力に支えらえている美術館だから、景気に左右されずに、細々とですがこうやって残っていられるんでしょうね。

<後略>

(2017年10月24日 埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

《原爆の図》のある美術館――丸木位里、丸木俊の世界を伝える
岡村 幸宣(著) (岩波ブックレット)

           

11月 「里見 喜久夫」さん

里見 喜久夫(さとみ きくお)さん

1948年大阪生れ。1991年に「株式会社ランドマーク」を設立。商品プランニング、デザインなどの業務に携わる。2012年「株式会社はたらくよろこびデザイン室」を設立。障害者の経済的自立をテーマにした季刊誌『コトノネ』の発行に関わり、編集長を務める。2008年にドイツW杯を記念して、選手のいない写真集『‘06 GERMANY』を出版。『ボクは、なんにもならない』(2008年、美術出版社)、『ボクも、川になって』(2010年、ダイヤモンド社)、『もんばんアリと、月』(2012年、長崎出版)などの絵本の著作もある。

『障害者の働く姿を通して、生きるよろこびを伝えたい』

東日本大震災がきっかけで知った障害者福祉

中川:
里見さんは「コトノネ」という雑誌の編集長をされていますが、障害者をテーマにしている雑誌というのはあまり聞いたことがありません。最新号を拝見しましたが、とても興味深い記事が掲載されていて、どんな方が作っているのだろうと、対談をお願いしたわけです。
どういう経緯から、こういう雑誌を作ろうとされたんですか。
里見:
興味をもっていただいてありがとうございます。経緯はよく聞かれますが、いつも「成り行きです」と答えています(笑)。
うちは、デザインの会社で、お酒やスポーツ用品のメーカー、通信関係の会社などの仕事を主にしていて、福祉とはまったく関係ありません。私も福祉のことは何も知らないし、関心もありませんでした。
すべては、東日本大震災でした。何かしなければ、との思いで、とりあえず、絵本を集めて被災地へもって行こうという活動をしました。福島県の相馬市立図書館へ1500冊の絵本を運んだときに、相馬市内で障害者施設をやっている方と出会いました。その方が、障害者の置かれている状況をいろいろと話してくれました。たとえば、福祉施設ではたらく障害者の工賃は1万円ちょとだとか、施設の中にはいいものを作っているところがあるからもっと知ってもらったら障害者の工賃も上がるのにといった話が出るわけですそんなこと、私はぜんぜん知らないし、考えたこともありませんでした。ちょっとした驚きでした。
うちの会社だったら、編集者もデザイナーもいて、障害者のこと、施設のことを知らせる雑誌を作るにはちょうどええんやないかと言われたりして、そうかもしれんと思って動き始めました。
中川:
だけど、こういう雑誌は売れると言っても限られているでしょうし、採算を考えれば、必要だとわかっていてもなかなか踏み切れないのではと思うのですが。
里見:
そら考えますよ。私も経営者ですから。ビジネスということを考えたら二の足を踏みますよ。
でも、福島から帰っても「何かやらなあかん!」という気持ちがずっとあって、その次は、今回は当事者にならなあかんという気持ちになってきましてね。やるやるて言うてるだけで、3ヶ月たっても4ヶ月たっても何も進んでなくて。このままやらへんかったら、忘れてしまうやろなあ。これは、とりあえずやると決めた方がいい。そんなふうに思ったのかな。
中川:
ほお、当事者ですか。
里見:
これまで、家庭でも社会でも、当事者として生きてきたことはあったやろか。ないなあ。また口だけで、忙しさにかまけてやらずに終わるんと違うやろか。そんなふうに、どんどんと追い込まれていくわけですね。やる言うてたのに何やったんやと責められるような感じがしましてね。もう、降参ですわ。やりますわと言いました。
中川:
それで2012年1月に創刊号が出るわけですね。
里見:
2011年8月から予備取材を始めましたが、とにかく障害者のことはまるっきり知りませんから、戸惑うことだらけでしたよ。あるケアハウスへ行ったとき、よだれを垂らしてはる人がいました。部屋を案内してもらいました。そのとき、よだれいっぱいの手で物を渡されたんですわ。よだれのついたところつかみたくないやないですか。受け取るのを躊躇してしまうわけですね。差別しているつもりはないけど、意図せず傷つけているなあと思ってね。ものすごい孤独感でしたよ。自分はこういう仕事、向いてないなあと、自己嫌悪に陥りました。こんなんやっててええのかなあと悩みました。
中川:
障害は個性だと言いますけど、頭ではわかっていても、いざそういう人と接することになると、どうしても戸惑ってしまいますよね。どうかかわっていけばいいのか分かりませんからね。
でも、そういう気持ちがあるのをごまかして彼らと接するよりも、自分の戸惑いや孤独感というのをきちんと見つめられる人の方が、私はより親密な付き合いができるようになるのではと思います。

<後略>

(2017年9月26日 東京・ ㈱ランドマークにて 構成/小原田泰久)

           

10月 「早坂 隆」さん

早坂 隆(はやさか たかし)さん

1973年生まれ。愛知県出身。ノンフィクション作家。著書に『永田鉄山昭和陸軍「運命の男」』『松井石根と南京事件の真実』(以上文春新書)、『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』(PHP研究所)、『昭和十七年の夏 幻の甲子園 戦時下の球児たち』(文春文庫)、『鎮魂の旅 大東亜戦争秘録』(中央公論新社)、『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争』(中公文庫)など

『戦争でつらい体験をした人たちの思いに心を寄せる』

数千人のユダヤ難民の命を救った「オトポール事件」

中川:
早坂さんの書かれた『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)という本を興味深く拝読しました。私どもは毎月、全国各地で真氣光研修講座という3泊4日の合宿を行っています。7月には小樽の朝里で開催しましたが、そのときに、ある参加者の話から、ここにはたしか、戦争中にユダヤの難民にビザを発給した樋口季一郎が住んでいたという話を思い出したのです。
樋口季一郎については、私も詳しいことは知りませんでしたので、気になっていろいろと調べてみることにしました。そしたら、早坂さんの本に出会い、読ませていただいて、こんなにもすばらしい人がいたのだといたく感動しました。それで、ぜひお話をうかがえればと思って、この対談をお願いした次第です。
早坂:
ありがとうございます。樋口季一郎という人は、最近になって少しずつ知られるようになってきましたが、私が本を書いた2010年当時は一般的には知名度はとても低かったですね。
日本人によるユダヤ人の救済と言うと、リトアニア駐在の外交官だった杉原千畝が有名です。1940年(昭和15年)、杉原はリトアニアに逃げてきた約6000人のユダヤ人難民に特別にビザを発給し、その命を救ったということで、多くの人に知られています。
実は、樋口はその2年前、昭和13年にナチスに迫害されてソ連と満州の国境の地まで逃げてきたユダヤ難民に対して、特別なビザを発給して、彼らの命を救っています。当時、樋口はハルビン特務機関のトップでした。
この出来事は、その舞台と
なった地名から「オトポール事件」と呼ばれています。まだまだ知らない人が多いですけね。
中川:
私も杉原千畝のことは知っていましたが、樋口という人については、ぼんやりとしか知りませんでした。
早坂さんは、どういうことから樋口季一郎のことを知られたのですか。
早坂:
私は20代のころ、海外の紛争地に興味をもちました。ルーマニアに2年ほど滞在して、首都ブカレストのストリーチルドレンの取材をしたこともあったし、ほかにも、パレスチナやイラク、旧ユーゴスラビアなどを取材して回っていました。
海外を回っているうち、自分の国の戦争はどうだったのだろうと、調べてみる気になりました。当時、日中戦争を体験している祖父が存命だったので、その話を聞くことから始め、それがきっかけで埋もれている昭和史を取材するようになって、その流れの中で、樋口のことを知りました。
中川:
ユダヤの難民は、満州国を通って上海へ行き、そこからアメリカやオーストラリアへ渡ろうとしていたんですよね。でも、満州国は入国ビザの発給を拒否しました。当時、日本はドイツととても親しい関係でしたから、日本の属国だった満州としては、拒否するのは当然のことだったでしょうね。そんな中で、樋口がビザ発給という大英断を下すわけですよね。大変なことだったと思います。
彼の決断で数千人のユダヤ人が救われました。2年後に同じことをした杉原千畝が映画やドラマにもなって多くの人に知られているのに、樋口のことは、なぜ知られてなかったのでしょうね。まさに埋もれていたわけですが。
早坂:
杉原は外交官で樋口は陸軍軍人だったということも関係していると思います。どうしても、戦後の風潮として、軍人のポジティブな話は美化と言われて、批難されることも多かったですからね。
中川:
軍人イコール悪だと思っている人が多いでしょうか。
早坂:
ひとつのタブーになっていましたね。私としては、史実は史実として掘り起こす必要があると思ったから取材して記録として活字にしたかったのです。決して美化しようとしたものではありません。
ユダヤ人へのビザ発給は、樋口の独断でできたわけではありません。当時満鉄の総裁だった松岡洋右や関東軍の参謀長だった東条英機も協力的に動いていました。
樋口の行動には、当然のことながら、ドイツから抗議がきました。軍の司令部でも問題になって、樋口に出頭命令が出ます。樋口は東条に会ってこう言い放ちました。
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか」東条は樋口の言葉に耳を傾け、彼の決断に理解を示しました。それがきっかけになって軍司令部内での樋口への批判は下火になり、ドイツからの抗議も不問に付されました。

<後略>

(2017年8月22日 東京日比谷松本楼にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「指揮官の決断―満州とアッツの将軍 樋口季一郎」 早坂隆(著) <文春新書>

           

9月 「齋藤 文吉」さん

齋藤 文吉(さいとう ふみよし)さん

通称ぶんちゃん。1953年生まれ。幼少のころより、里山百姓一筋の父親の背中を見て育ってきた。農薬、化学肥料を使わないオーガニック農業を45年続けている。混沌とした現代こそ、自給自足の叡智、知恵・知識を、必然の出会いのあった方々に伝授すべく感性を磨く日々を送っている。オリーブパーク東京グランドプロデューサー。

『都心の近くで農業を体験。自然から学びと気づきを得る』

江戸時代からの農家の10代目。オーガニック農業も45年に

中川:
私は、FM西東京で番組をもたせてもらっているのですが(毎週日曜日朝9時25分~40分『中川雅仁の今日も一日い氣い氣ラジオ』)、FM西東京の前社長の有賀達郎さんから、東村山に都市型の農業をやっていて、氣のことも興味がある方がいるとお聞きして、ぜひお話をうかがいたいと思って、お邪魔しました。
東村山は初めて来ますが、私どもの本社のある池袋から40分くらいで着くんですね。東京の都心に近いところで、どんな農業をやっておられるのか、今日は、いろいろとお話をお聞かせください。
齋藤:
ありがとうございます。有賀さんから連絡を受けて、雑誌を送ってもらって、巻頭ページに、カラーで写真まで出るということで、私はビジュアルには自信がないので、最初はお断りしようと思いました。
でも、ずいぶんと前ですが、私は先代の会長のお話もお聞きしたことがあるし、池袋のクリニックへもうかがったことがあるんですよ。これは何かのご縁だろうと思ってお引き受けすることにしました。
中川:
そうでしたか。そうすると、20年以上前のことになりますね。
齋藤:
高次元科学の関英男先生や足立育郎先生のお話もうかがったりして、今回、こういうご縁をいただいて、あれが自分の原点だったかなと、そんなことを思いました。会長にお会いするのもとても楽しみにしていました。
でも、私の話すことは、普通に聞けば非常識で、受け入れていただけるかどうかわからないのですが(笑)。
中川:
いえいえ。だいたい氣の世界は非常識なことばかりです(笑)。ご存知のように、先代はハイゲンキという機械を作って、それで宇宙の氣を中継しようとしました。氣をやっている人たちからも非常識だと言われましたから(笑)。
世の中を変えるのは、非常識からじゃないかと、私は思っています。齋藤さんの非常識な話こそ、私はお聞きしたいと思います。
でも、まずは常識的なところからお話を始めたいと思いますが、齋藤さんは農家として10代目で、45年前から、農薬や化学肥料を使わないオーガニック農業をやっておられるそうですね。
齋藤:
江戸中期からここで農業をやっています。今は3000坪の農地があります。
父は、牛や豚やヤギを飼っていました。私もずっとそのお手伝いをしていて、馬もいましたから、馬を乗り回していました。
私の代になってからは、有機ゲルマニウムに興味をもちまして、それを含む霊芝(サルノコシカケ)とか明日葉などの栽培をしました。当時から変わったところがあったみたいで、人が作らない作物を作ろうと思いましてね(笑)。私は農業が得意ではないので、人と比べられたくなかったんですね。
明日葉は大手のスーパーがたくさん買ってくれました。さまざまな体験を重ねて、生産をして売るだけの農業ではなく、都会に住む人たちが農業体験をしたり、農業を学ぶ農業塾ができないかと思って、去年、本格的に「オリーブパーク東京」というのを立ち上げました。
中川:
オリーブパークというくらいですから、オリーブを栽培されているんですよね。オリーブというと、地中海とか瀬戸内というイメージがあるんですが。
齋藤:
オリーブは聖なる木だと言われています。それにおしゃれでしょ。私は、オリーブパークを始めるに当たって、「楽しい」「おしゃれ」「おいしい」の3点セットでアピールしようと考えました。そういう意味で、オリーブはぴったりなんですね。
面白い話があるんですよ。今、建売住宅を売っている人たちの間で、庭にオリーブの木を植えると売れやすいという話が広まっているようなんですね。苗木屋さんに、オリーブの苗木はどういう人が買いますかって聞いてみると、建売屋さんという返事が返ってきますから。
中川:
そうですか。それは知らなかったですね。それにイタリア野菜にも力を入れておられるようですね。
齋藤:
おしゃれだからですよ(笑)。東村山の駅からここまでお越しになる途中に私の畑がありますが、道路際にスイスチャードが大きくなっています。サラダとか炒め物にするととてもおいしい野菜です。あとから見ていただきたいと思いますが、あんなに込み合って育つことはないんですよね。常識ではね(笑)。でも、ビシッと隙間がない状態で育っているんですね。
それに、その横にバジルがありますが、とても大きいですよ。あれもこの間の台風でぺしゃんこになったのですが、すぐに復活してきました。ものすごく生命力のある野菜たちです。
私が作りたいのは、おしゃれでおいしくて食べた人が元気になれる野菜たちなんですよ。そういう野菜を使って料理を作るのは楽しいものです。
都会の人に、そんな体験をしてもらいたいんですね。

<後略>

(2017年7月28日 東京都東村山市にて 構成/小原田泰久)

           

8月 「高安 和夫」さん

高安 和夫(たかやす かずお)さん

1965年千葉県生まれ。国学院大学卒業。2004年「銀座食学塾」を設立。代表世話人として2ヶ月に1度のシンポジウム、交流会を開催。2005年4月「銀座食学塾米作り隊」を結成。2006年3月28日に「銀座ミツバチプロジェクト」を立ち上げる。2008年「銀座農業塾」を開講。2010年には、銀座ミツバチプロジェクトが環境大臣表彰受賞。現在、一般社団法人トウヨウミツバチ協会代表理事。著書「銀座ミツバチ奮闘記」(清水弘文堂書房)。

『ミツバチが共に生きることの大切さを教えてくれる』

銀座を活性化させようと考えていたときにミツバチと出あう

中川:
月刊ハイゲンキ3月号の「行動派たちの新世紀」で取り上げさせていただいた「銀座ミツバチプロジェクト」、とても興味深く読みました。ミツバチに不思議な魅力を感じまして、もっとミツバチのこと、ミツバチから広がっている波紋についてお聞きしたくて今日はおうかがいしました。
さっき、銀座の松屋通りにある紙パルプ会館というビルの屋上を拝見しました。ミツバチの巣箱があって、たくさんのミツバチがぶんぶんと飛んでいました。
ハチというと刺されるというイメージがあったのですが、別に私たちがいることなど気にせず飛んでいましたね。
高安:
今日はありがとうございます。みなさん、ミツバチというと、最初は刺されるのではと警戒されますね。でも、きちんとミツバチの性格を知って、ルールを守っていれば刺されることはありません。ミツバチは、人を刺せば自分も死んでしまいますから、よほどのことがない限り人を刺したりはしません。こちら側が危害を与えようとすれば刺すこともありますけどね。
私たちは、銀座の真ん中にあるビルの屋上で養蜂をやって12年になりますが、街の皆さんが刺されたというのはほんの数回です。それも、刺されるには理由があって、何もしないのにハチが襲ってくることはありません。
ミツバチは高さ50メートルくらいのところから更に上昇したあと、蜜源である花に向かって飛んでいきます。人が行き交うところを飛び回ったりしませんので安心してください。
私たちに養蜂を教えてくれた先生は、「ミツバチは蜜を集めるのに一生懸命で、人のことなどかまっていられないよ」と笑っていました(笑)。
中川:
12年間、都会の中の都会とも言える銀座でミツバチを飼っていて問題が起きてないというのは説得力がありますね。銀座とミツバチというのは意外な組み合わせですよね。養蜂というと、農村とか山の中というイメージがありますからね。高安さんは、どんなことがきっかけで銀座で養蜂を始めたのですか。
高安:
私はもともと、茨城にある有機農法で米や野菜を生産して販売する会社に勤めていました。そのときに、都会のみなさんに、農業のことを理解してもらいたいと、銀座に営業所を作って、食や農の勉強会を紙パルプ会館の会議室を借りて開いていました。
勉強会にこられたみなさんに茨城へ来ていただいて農業体験をするということもやっていました。しかし、茨城まで米作りに連れていくのはとてもハードルが高いので、銀座で農業ができないだろうかと考えました。もちろん、銀座には田んぼも畑もありませんから、使うならビルの屋上だと思い、紙パルプ会館取締役の田中淳夫さんに、農産物を作るのに屋上を貸してくれないかとお願いしました。
そしたら、「街が活性化するなら貸してあげよう」ということで、先の見通しがあったわけではありませんでしたから、なにか銀座に合う農産物はないか必死で探しました。
中川:
最初は屋上で農業をやろうと思われたんですね。
高安:
イチゴがいいとか、メロンだとかマンゴーだとか、あれこれアイデアは出ました。でも、素人がやるわけですから、銀座の高級なお店で扱ってもらえるような高いクオリティは期待できません。いきなり壁にぶち当たりました。
さてどうしたものかと、あちこちにアンテナを伸ばしていたとき、皇居の近くにあるビルの屋上で養蜂をやっている藤原誠太さんという方に出会いました。話を聞くと銀座で養蜂というのはなかなか面白そうだし、実際にその方もたくさんのハチミツをとっていましたので、これはいけると思いました。最初は、藤原さんに屋上をお貸しして、養蜂をやってもらおうという腹づもりでした。しかし、スペース的に狭くて商売にならないというわけで、結局、私たちがやらなければならなくなってしまったという次第です(笑)。
最初は戸惑いましたが、ミツバチは何とも魅力的で、まわりの人に話しても、とても反応が良かったので、2006年に銀座ミツバチプロジェクトをスタートさせ、本格的に取り組むことにしました。
中川:
今考えると運命的な出会いですよね。それに、高安さんもよくやろうと決心しましたよね。感心します。ところで、銀座のミツバチはどこから蜜を集めてくるんですか。
高安:
ミツバチの行動範囲は2キロくらいです。銀座に巣箱を置くと、日比谷公園、皇居、浜離宮庭園まで飛んでいって、蜜を集めてきます。なかなか質のいい蜜を集めてきてくれて、初年度は3ヶ月くらいしかやりませんでしたが、巣箱3箱で160キロくらいとれました。これはすごくいい成績です。

<後略>

(2017年6月20日 東京都中央区立環境情報センターにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「銀座ミツバチ奮闘記―都市と地域の絆づくり」 高安和夫 (著) 清水弘文堂書房

           

7月 「高橋 恵」さん

高橋 恵(たかはし めぐみ)さん

1942年生まれ。一般社団法人おせっかい協会会長。短大卒業後、広告代理店に勤務。結婚退職後、2人の娘の子育てをしながらさまざまな商品の営業に従事し、トップセールスを記録。40歳で離婚。42歳のときに当時高校生だった長女とともに自宅のワンルームマンションで株式会社サニーサイドアップを創業。70歳になっておせっかい協会を設立。著書に「幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ」(PHP)「笑う人には福来たる」(文響社)などがある。

『おせっかいの輪を広げて、笑顔があふれる社会に』

おせっかいは悪いことではない。とても大切なこと

中川:
高橋さんのお書きになった「笑う人には福来たる」(文響社)を読ませていただきました。私どものやっている氣のことと共通する点がたくさんあったので、ぜひお話をうかがいたいと思いました。
高橋:
わざわざお越しいただきましてありがとうございます。
中川:
ここはマンションの19階ということでずいぶんと見晴らしがいいですね。東京スカイツリーも見えますし、きっと富士山も見えるんでしょうね。
高橋:
晴れているときれいに見えます。今日はちょっと曇っていますが、少し見えますね。あちらの方向です。
中川:
本当ですね。うっすらと見えます。
高橋:
ここは私の自宅兼事務所です。いつも人が集まってにぎやかですよ。パワースポットだと言って、しょっちゅうお越しになっている方もいます。
中川:
たくさんの方が集まるんですか?
高橋:
ランチ会をやったりすると、20人とか30人くらい集まりますね。30人入ると、このスペースではちょっと狭いかもしれませんが。
中川:
それはすごいですね。事務所とおっしゃいましたが、一般社団法人おせっかい協会の事務所ですか?
高橋:
そうです。協会と言っても会員登録があるわけでもないし、会費があるわけでもないし、賛同してくれた人が集まってワイワイとやっているんです。
悩みがある人や何かアドバイスをもらいたいと思っている人、人脈を作りたい人、どこも行くところがなくて寂しい人、いろいろな人が集まってきますよ。そういう人が、食事をしたりお茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら交流するのですが、人が集まってお話をしていると、大抵のことは解決してしまいますよね。こうやって自宅を開放しているのも、私のおせっかいです。
会の活動としては、毎週土曜日に地域の掃除をしています。おそろいのオレンジ色のオリジナルTシャツを着てね。わざわざ遠くから来てくださる方もいるし、私たちが掃除をしているのを見て、どういう集まりだろうと興味をもって、わが家へやって来られる方もいます。
本当はこういうのが日本のあちこちにできるといいんですけどね。
中川:
おせっかいと言うと、どこか余計なお世話を焼くという良くないイメージがあるのですが、高橋さんはおせっかいが大事なんだとおっしゃっていますね。
高橋:
よく娘たちに「ママは本当におせっかいね!」と叱られます。確かに、私は人の世話を焼くことはよくします。出しゃばることは好きではありませんが、やる人がいなければ、イベントの感じでも何でも、率先してやってしまいます。だから、まわりからは出しゃばりだと思われているかもしれませんね(笑)。
でも、私が子どものころは、まわりにおせっかいな人がたくさんいて、そういう人に随分と助けられたものです。今の時代は、あまりにも「こんなことは迷惑じゃないか」と、人との距離を必要以上にとったり、人とあまりかかわらないようにしている人が多すぎるのではないでしょうか。「無縁社会」とか「孤独死」とか問題になりますが、その背景にはおせっかいは悪いものだという考え方があるのではないでしょうか。
大学でお話しすることもあるのですが、アンケートをとると、ずっとおせっかいは悪いことだと思っていたけれど、話を聞いてとても大事なことだと思ったと書いてくれる学生がたくさんいます。そのアンケートを見て、私はおせっかいの大切さを伝えていかないといけないなと思いました。
中川:
昔は、どこにでもおせっかいなおばさんがいて、年頃の若者を見ると、頼んでもいないのに結婚相手を探してくれたりしましたよね。
高橋:
実は、本の打ち合わせをしているとき、担当者がポツリと「彼女がいないんです」とこぼしたんですね。別に彼女を紹介してほしいと頼まれたわけではないのですが、私のおせっかいの虫が騒ぎ出しまして、彼に合うような人を紹介しました。そしたら、いいご縁だったんですね。2人は結婚することになりました。

<後略>

(2017年4月18日 東京中野区 一般社団法人おせっかい協会にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

左:「笑う人には福来たる」高橋恵 (著)(文響社)
右:「幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ」高橋恵 (著)(PHP研究所)

           

6月 「宇井 眞紀子」さん

宇井 眞紀子(うい まきこ )さん

1960年千葉県生まれ。1992年、子どもを連れてアイヌ民族の取材を始める。2009年、全国のアイヌ民族100組を撮影するプロジェクトを開始。2017年5月「アイヌ、100人のいま」を刊行。日本写真芸術専門学校講師、武蔵野美術大学非常勤講師。
写真集に「アイヌときどき日本人」(社会評論社)「アイヌ、風の肖像」(新泉社)などがある。

『えない世界を大切にするアイヌの人の伝統や魅力を伝える』

小学生のときに、アイヌの少女が主人公の物語を書いた

中川:
宇井さんというのは珍しい苗字ですよね。
宇井:
そうですね。小さいころは、宇井って苗字はうちだけだと思っていました。私は千葉の生まれですが、親戚以外まわりにはいませんでしたから。
中川:
宇井さんはカメラマンとしてアイヌの人たちを撮っておられるわけですが、千葉で生まれた方が、どういうことからアイヌに興味をもったのか、そのあたりからお聞かせいただけますか。
宇井:
小学生のときからなぜかアイヌに興味がありました。国語の時間に、物語を作りましょうという授業があって、そのときにアイヌの少女が主人公になる物語を書いた覚えがあるんですよ。
中川:
すでに小学生のときにアイヌのことを知っていたんですね。
宇井:
何か印象的なことがあったはずなのですが、覚えてなくて。アイヌに関する最初の記憶がこれなんです。
今のような質問をよくされるので、なぜ興味をもったのだったのだろうと、いろいろと考えたことがありました。
そしたら、私が小さいころ、父親が日本中央競馬会に勤めていて、競馬場の近くに住んでいたことと関係があるかもしれないということに思い当たりました。競馬場には、厩務員という馬をお世話する人がいて、そういう人たちの中に、アイヌの方がいたということを、あとから知りました。
そこで、何か出会いがあったかもしれませんが、決定的にアイヌのことを知りたくなったのは、元夫の話からです。彼は、北海道の静内というアイヌの人がたくさん住んでいるところで育ったので、彼から幼いころの思い出話を聞いているうちに、アイヌの話が出てきて、もともと気になっていたので、片隅にあったアイヌが前面に出てきたという流れでしょうかね。
中川:
もうそのころは写真を撮っておられたんですね。
宇井:
そうですね。私は、最初からフリーランスで仕事をしていました。雑誌の仕事が主で、対談の場面とかポートレートとかアイドルとか、依頼があったら何でも撮っていました。でも、依頼されたものを撮るだけでなく、自分の作品作りをしたいという思いもありましたので、最初はダンサー、そのあとは自分の子どもの写真を撮って、写真展を開いたりしていました。
中川:
もともと人を撮るのが好きなんですね。
宇井:
そうだと思います。娘の写真を撮って、写真展が終わったところ、次は何を撮ろうかと思っていたとき、アイヌの人たちのことが気になり出して、本を読んだり、講演を聞いたりするようになりました。
中川:
そこからすぐにアイヌの方とのご縁ができたのですか。
宇井:
私は、ご縁というのは不思議なものだと思っていますが、私が撮った写真が掲載された雑誌が送られてきて、それを見ていたら、アシリレラさんというアイヌの女性の書かれた文章が載っていました。
そこには、北海道の二に風ぶ谷だにというところにダムができる計画があって、ダムができるとアイヌの聖地が壊されてしまう。アイヌとして何とかしなければいけないと思っている。ダムができるというのは人間で言えば、血管を止めるようなもの。なぜダムをやめてほしいと思っているのか。そんなことが書かれていました。
私も、アイヌのことがずっと気になっていましたから、二風谷のダムのことには興味をもっていました。それで、アシリレラさんに会いたいと思い、私はアイヌに興味があって記事を読んで二風谷に行ってみたいと思いましたというような手紙を書きました。1992年だったですね。
そしたら、泊まるところもあるからすぐにおいでと、返事が来ました。それがきっかけですね。
中川:
そうでしたか。これも導かれるようなご縁ですね。たまたま仕事をした雑誌に記事が出ていたのですからね。
宇井:
あれから25年ですね。あの雑誌が私の運命を決めましたね。

<後略>

(2017年4月12日 株式会社エスエーエス 東京セン ターにて 構成/小原田泰久)

           

5月 「小林 さやか」さん

小林 さやか(こばやし さやか)さん

ミリオンセラー「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(坪田信貴著)、映画「ビリギャル」の主人公“ビリギャル”本人。慶応大学卒業後、ウエディングプランナーとなり、自身の結婚を機にフリーに転身。独自の子育て論を持つ母(通称ああちゃん)と「ダメ親と呼ばれても3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話」を共著で出版。現在、講演活動を中心に、全国を回っている。

『これぞビリギャル流!不可能を可能にする生き方、考え方』

「聖徳太子」を「せいとくたこ」と読むような学力だった

中川:
今回のゲストは小林さやかさんです。「ビリギャル」と言った方がわかるかと思います。
さやかさんのことを書いた『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴著 発行/株式会社KADOKAWA アスキーメディアワークス)という本が100万部以上売れていて、お母さんとの共著の『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』(発行/株式会社KADOKAWA アスキーメディアワークス)もベストセラーになっていますし、「映画ビリギャル」というタイトルで映画化もされていますから、さやかさんのことをご存知の方も多いと思います。
私も、2冊の本を読ませていただきました。全国模試で偏差値30程度だったさやかさんが、坪田先生という塾の先生と出会い、お母さんに応援されて、慶応大学に受かったという物語ですが、そこには、氣という観点から見ても、いろいろと学ぶべきことがありました。
小林:
ありがとうございます。本が売れて、映画にもなって、自分でもびっくりするような反響が起こっていますね。でも、坪田先生は、私だけでなくて、1300人を超える子どもたちを教えてきて、短期間で偏差値を上げて希望の大学に合格するというケースは少なくないです。先生にとっては、私のケースは特別なものじゃないんですね。
ただ、私がとんでもない落ちこぼれのギャルだったし、受かった大学が慶応だったから、とてもわかりやすくて、インパクトがあったんでしょうね(笑)。
中川:
本を読むと、高校2年生のときに坪田先生の塾へ行くわけだけど、そのときの学力が小学校4年生くらいだったと言うことでしたよね。
小林:
本当にそうでした。私が通っていた高校は、勉強ができる子たちとできない子たちの差が激しく、高校2年のときに学力別に分類されるのですがわたしは通称「バカクラス」のビリでした。
何しろ、坪田先生のところへ通うようになって、日本史の勉強を始めたとき、「聖徳太子」を「せいとくたこ」と読んで笑われるようなレベルでしたから。太子だから太った女の子なのかな、こんな名前をつけられてかわいそうだなと、本気で思っていました(笑)。
それに、「Hi, Mike!」って英文を、読んでみなさいと言われたとき、私は、これも本気で「ヒー、ミケ」と読みましたから(笑)。
中川:
「しょうとくたこ」に「ヒー、ミケ!」ですか。それはすごいや。
でも、先生は怒ったり、あきれたりしなかったんですね
小林:
そうなんですよ。逆に、「君はなんてユニークな発想をするんだ」とか「良かった。ローマ字は読めるんだ」というように、面白がってくれるわけです。それで、この人は、今まで出会った先生たちとはまったく違うタイプの人だと思って、「この先生だったら、もっと喋ってみたいな」と思い塾に通うようになりました。
中川:
それにしても、高校2年生の夏の段階で小学校4年生くらいの学力しかないのに、慶応大学を目指すというは、普通は考えられませんよね。
小林:
ほとんどの学生が、最初に「東大目指してみる?」ときかれると、「無理です。自分はこのくらいの大学に受かればいいです」と自分で自分のハードルを下げたり、絶対無理だと決めつけてしまいがちです。しかし私は、「東大は興味がない」と若干上目線で断りました。イケメンがいなさそう、という理由で。じゃあ慶応は?となったわけです。先生から、「君みたいな子が慶応とか行ったら、チョー面白くない?」と言われて、「おお、確かに! 超イケメンいそう! さやかが慶応とか、超ウケる!」というノリで志望校は決まりました(笑)。
中川:
そういう女の子が、1年半で慶応に受かってしまうわけですからね。いったい、どんなことがあったのだろうかと、興味津々で、本を読み進めましたよ。
小林:
あの本は、先生が出版しようと思って書いたものじゃないんです。
私が慶応を卒業した頃に、小学校の頃から不登校だった妹が上智大学に入学し、これまた落ちこぼれの弟が家庭をもつというおめでたいことが重なりました。それで、母が、家族ぐるみでお世話になっていた坪田先生に長いお礼のメールを送ったんですね。
坪田先生がおっしゃるには、そのメールの返答を考えていたら、私との思い出がよみがえってきたらしくて、それをワードにしたためて、母に送り、ネットにも載せたんですよ。
そしたら、次の日に、その投稿があちこちに拡散されて、一気に2万人くらいのアクセスがあったそうです。それで、次の日には、出版社からオファーがきたと言うことでした。
だれも、本とか映画にしようなどとは思ってなかったことです。だから、逆に受け入れられたのかもしれませんね。

<後略>

(2017年2月2日 東京・ 日比谷 松本楼にて 構成/ 小原田泰久)

著書の紹介

「ダメ親と呼ばれても3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話」 小林 さやか 共著 KADOKAWA

           

4月 「ナシル 」さん

ナシル(なしる)さん

本名は、名城奈々。沖縄県那覇市生まれ。青山学院大学卒。シンガーソングライター。2000年、妹と「737(ななみな)」というユニットを結成、都内でのライブを中心に活動を始める。2006年に活動を休止し、2007年からナシルとしてソロ活動を開始。三線を使ったライブを中心に、司会、ラジオ沖縄やFM世田谷、かわさきFMなどでのパーソナリティを精力的にこなしている。2016年BIGINの島袋優プロデュースによる「君という未来へ/うつぐみ」でメジャーデビュー。
<a href="http://sasakifarm.net/" target="_blank">http://nacil.net/</a>

『大好きな沖縄から世界へ!元気と笑顔を音楽で届ける。』

真氣光の施術をしてもらったらとても体が軽くなり大ファンに

中川:
ナシルさんは、シンガーソングライターとして活躍されていますが、最近、真氣光のことを知って、すごく気に入ってくださっているそうですね。
ナシル:
あるところで、こちらの会社のスタッフの方とお知り合いになって、とても疲れていたときでしたが、私にいろいろなものを使って氣の施術をしてくださったんですね。そしたら、気持ちが良くて、体も軽くなって、これはすごいものと出あったと、大ファンになってしまいました。今日も、会長のセッションを受けて、いろいろと不思議な体験をさせていただきました。これからも、もっと勉強させていただきます。とても興味深いです。
中川:
ありがとうございます。氣というのは目に見えないエネルギーなので、言葉で説明してもよくわからないんですね。まずは体験してもらうことですね。
ナシルさんは、氣に敏感な方だと思います。確か、沖縄出身ですよね。
ナシル:
そうなんです。高校まで沖縄の那覇市で育って、それから東京に出てきました。
中川:
沖縄は、ユタと呼ばれるシャーマンがいたり、御う嶽たきという神聖な場所があったり、とてもスピリチュアルな土地柄だと思います。そこで生まれて育った人や、沖縄に魅かれる人たちは、スピリチュアルな感性をもった人が多いですよね。きっと、ナシルさんもそういう方で、だからこそ、真氣光と縁があったし、体験してみてすぐに、もっと知りたいという気持ちになられたのだと思いますよ。
ナシル:
そう言われればそういう気もします。今日、会長がご先祖様のお話をしてくださいましたが、私は、もともとはあまりご先祖様のことは考えていませんでした。ナシルという名前で活動を始めたのが10年ほど前になりますが、そのあたりから、ご先祖様がいるからこそ、自分がここにいて、さらに先につながっていくというのを、感じるようになりました。もっとも、私は結婚していないので、先はないかもしれませんが(笑)、甥っ子や姪っ子がいるので、そちらから未来につながっていくなと思うと、何とも言えない不思議さというか、感動というか、神秘なものを感じています。
中川:
もちろん、血のつながりというのもありますが、魂のレベルで、先祖は子孫に影響を与えることがよくあります。結婚しなくても先につながっていきます(笑)。
恨みとか執着をもって死んでしまうと、後々、子孫にいい影響を及ぼさない存在になってしまうかもしれません。満足して感謝して亡くなると、子孫を応援する魂になることができると思います。
ナシル:
そうですか。結婚しなくてもつながるんですね。安心しました(笑)。でも、子孫に悪い影響を与える魂にならないように、気をつけないといけませんね。
会長に差し上げたCDの中にも入っている「那覇空港」という曲は、私が作詞作曲したものです。20年以上前に沖縄から東京に出るとき、家族が見送りに来てくれていたのですが、あの当時は、家族のありがたみとか、まったくわかっていませんでした。でも、7年ほど前に、自分の出発点は那覇空港で、その旅立ちに家族が立ち会ってくれていたのだと気づいて、何の感謝もなく出てきたことが悔やまれました。それで、この曲を作りました。
中川:
何か、ご先祖様からのメッセージがあったのかもしれませんね。そういう気持ちになられたのは、とても大切なことだと思います。ご先祖様にも光がいって、ナシルさんの活動を応援してくれる方も増えているのではないでしょうか。
ナシルさんは、高校を出てから東京の大学へ進学していますが、そのころからプロのミュージシャンになりたいと思っていたのですか?
ナシル:
それが、そんなことは思ってもみませんでした(笑)。大学を出たら、テレビのレポーターになって、世界中を回りたいというのが夢でした。「世界ふしぎ発見!」のミステリーハンターになれば、ただで世界が回れるじゃないですか(笑)。ただどころかギャラまでもらえちゃいますよね。東京の大学を出ればレポーターになれると信じて、東京へ出てきました。
中川:
それがどうしてまた、ミュージシャンの道に?
ナシル:
沖縄から東京へ出てくる人のほとんどは、どこかに沖縄の人がいないか、一生懸命に探すんですね。私も、やっぱり沖縄の人が恋しくてたまりませんでした。
一番手っ取り早く沖縄の人を見つける方法というのは、沖縄料理の店で働くことです。私も、沖縄料理店でアルバイトをすることにしました。沖縄出身の人とか、沖縄の好きな人が集まってきますから、話をしていても楽しいし、とても気持ちが落ち着きます。
そしたら、その店に、大手のレコード会社のプロデューサーが飲みに来ていました。その方が、「君は話が面白いから、音楽イベントの司会でもやったらどうだ」って、声をかけてくれました。

<後略>

           

3月 「村上 貴仁」さん

村上 貴仁(むらかみ たかひと)さん

1970年札幌市生まれ。97年より洞爺にて農業を始める。2005年11月10日、4歳の長男・大地君を突然亡くす体験をきっかけに命について真剣に考えるようになる。現在は、「佐々木ファーム」を運営しながら、「生きることは食べること、食べることは命をいただくこと」をコンセプトに、「一般社団法人大地が教えてくれたこと」で「ありがとう農法」の普及に取り組んでいる。著書に「大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡」がある。
佐々木ファーム <a href="http://sasakifarm.net/" target="_blank">http://sasakifarm.net/</a>
一般社団法人 大地が教えてくれたこと<a href="http://daichi-guide.com" target="_blank">http://daichi-guide.com</a>

『すべての命にありがとうと感謝する「ありがとう農法」の奇跡』

4歳の息子が突然旅立って行ったのをきっかけに大きな変化が

中川:
村上さんは、北海道の洞爺湖で佐々木ファームという農園を経営されていますが、もともとは札幌の出身だそうですね。実は、私も札幌生まれなんですよ。
村上:
そうですか。何歳くらいまで札幌におられたのですか。
中川:
大学を出てから就職で東京へ出て来ました。ちょうどそのころ、父も東京で仕事をするようになったので、結果的に、一家で東京へ来ることになりましたね。
私は、もともとエンジニアだったのですが、ひょんなことから父がやっていた氣の世界に入って、もう20年を超えました。こんな人生になるとは、東京へ来たころには想像もしていませんでしたが、村上さんは、私以上に思ってもみないような流れの中で、大変なご苦労をされながらも、すごい世界にたどり着いていると思います。村上さんが去年出された『大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡』(サンマーク出版)という本を読ませていただいて、自分の身に起こってくることは、すべて必然なのだということを、改めて感じることができました。
2005年に、4歳の息子さん、大地君が、突然亡くなりましたよね。お子さんを亡くすということは何よりも辛いことだと思います。でも、あとになって振り返ると、彼が亡くなったことで、大きな変化が起こってきましたよね。今、村上さんがやっておられる「ありがとう農法」ができたのも、大地君が亡くなったのがきっかけになっています。
大地君は亡くなることで、ご両親に、とても重大な使命があることを伝えてくれたように感じました。それが、彼の役割だったかもしれません。
本を読むと、大地君は、自分が亡くなることを、知っていたような行動をとっていますよね。
村上:
そうなんですよ。大地は、亡くなることでも、そして亡くなったあとも、私たちにいろいろなことを教えてくれているように感じてなりません。
彼が亡くなったのは、2005年の11 月10日でした。それまで、大地は健康優良児で、病気などしたことがありませんでした。でも、あの日は、保育園から帰ってくると、ちょっと疲れたから寝るねとベッドに入りました。2時間くらいしたら熱が出てきました。それで、頭を冷やしたりして看病をしていたのですが、その2時間後くらいには、心臓が止まっていました。
大地は、10月の上旬から、いつもと違うことをやり始めました。まずは、1日1個ずつ、壊れたおもちゃを私のところへ持ってきて、直してほしいと言うんですね。ちょうど、秋の農作業が忙しい時期で、それどころじゃなかったのですが、言い出したらきかない子だったので、仕方なく直してあげていました。それが毎日続きました。亡くなったあと、部屋を片付けに入ったら、直した順番に、おもちゃが並べてありましたね。
おもちゃのあとはDVDでした。機関車トーマスとか戦隊ものが大好きで、DVDがたくさんありました。そのDVDを、私と一緒に見たいと言うのです。一日一本、亡くなるまでに、持っているのを全部見ましたね。
おじいちゃん、おばあちゃんが、何か買ってあげるといっても、いらないって言うようになりました。それまでは、喜んで買ってもらっていたのに、どうしたのかなと思っていました。ランドセルを買ってあげるという話になったときも、欲しがらないのです。
中川:
自分が間もなく死んでしまうことがわかっていたんでしょうかね。
村上:
そうかもしれないと思います。ほかにも、自由帳を細かく切って、そこに数字の1を書いて横に0をたくさん並べて、お札を作っていましたね。まだ、字も書けないし、数字だってよくわかってなかったと思いますよ。
当時、うちは経営が厳しくて、借金もたくさんありました。もちろん、そんなことは大地には一言も言っていません。なのに、お札を一日に何枚か作って、何十枚かになると赤いテープで束ねて札束にして、それがいくつかできると、封筒を作って札束を入れて、妻に「これでうちはお金持ちだからね。ぼくがお金をいっぱい作ったからね。大丈夫だよ、お母ちゃん」って言って渡すんですよ。4歳ですから、お金のこともわからないし、札束なんて見たこともないのに。
何だったんでしょうね。今はお金がなくても絶対にうまくいくからというメッセージだったのでしょうかね。
今でも、その札束はとってあります。

<後略>

(2017年1月13日 東京・大森カンファレンスセンターにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡」 村上 貴仁 著 (サンマーク出版)

           

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