2016年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「坂本 光司」さん

坂本 光司(さかもと こうじ)さん

法政大学大学院政策創造研究科教授。人を大切にする経営学会会長。ほかに、経済産業省やJICAなど、国や自治体、団体の委員を務める。専門は、中小企業経営論、地域経済論、障がい者雇用論。著書は「日本で一番大切にしたい会社」シリーズ1~5(あさ出版)、「経営者の手帳」(あさ出版)、「さらば価格競争」(商業界)など多数。

『企業は社会のもの。最大の使命は、人を幸せにすること』

良くない会社は、社内の空気がギスギスしている

中川:
坂本先生の書かれた「日本でいちばん大切にしたい会社」という本はたくさんの人に読まれていて、今年は、パート5が出版されました。私も、この本を読ませていただきましたが、こんな会社があるんだとびっくりしましたし、会社のあり方に対する考え方が変わってきましたね。
会社の良し悪しというのは、数字で判断されがちですが、そうじゃないということがよくわかりました。
坂本:
ありがとうございます。私は、これまでに7500社以上の会社を、自分の足と目を使って調査してきました。いい会社か悪い会社かは、その会社へ行って、社内の空気を吸ってみればわかります。それは、小さな子どもでも感じられます。
すべての答えは現場にあると、私はいつも言っています。
中川:
会社の空気ですか。ギスギスしているところもあれば、和やかなところもあるでしょうからね。それは、大事なことだと思いますね。
坂本:
いくら取り繕っても、社員の顔つきや目つきや言葉遣いでわかりますね。長年、やっていますから。良くない会社は、だいたい、空気がギスギスしていますね。
学生たちでもわかります。この間、一緒にある会社を訪問したら、学生が、「この会社は空気が違う。娑婆の空気ではなく、天国の空気だ」と言っていました。
中川:
天国みたいな空気の会社だと、社員の人たちも、伸び伸びと働いているんでしょうね。先生の会社を評価する基準は、従来のものとはまったく違うわけですが、どうして先生は、会社のあり方について興味をもたれるようになったのですか?
坂本:
私の最初の仕事は、中小企業を回って、景況調査をする仕事でしたが、あちこちの会社を回っているうちに、中小企業がとても厳しい現実にさらされていることを知りました。
たとえば、「親会社からコストダウンを迫られて困っている」とか「今までやってきた仕事のラインを中国に移すと言われて、仕事がなくなってしまった」といったことに、経営者は頭を悩ませていました。いろいろと経営者の相談に乗ったり、相談に乗る限りは知識も必要ですから、専門家に話を聞いたり、業績のいい中小企業を訪ねて話を聞いたり、本を読んだりと、勉強をしているうちに、中小企業が抱える本質的な問題が見えてきて、会社にとって何が大切なのかということを考えるようになりました。
当時、普通の調査員はだいたい2社くらいしか回っていませんでしたが、私は、6〜8社くらいは訪問していましたね。それで、ずいぶんと煙たがられましたけどね。
中川:
企業というのは、業績を上げたり、ライバル企業を打ち負かしてシェアを大きくしようとすることが目的となりがちですが、先生はそうじゃないとおっしゃっていますね。
坂本:
企業はだれのものかと問われたら、私は、迷うことなく、社会みんなのものと言います。企業は、社会のシステムの中で機能しているし、社会の空気を吸っているし、ゴミを捨てれば処理をしてくれるし、仕入れ先もあるし、銀行はお金を貸してくれるし、お客さんもいる。社会とは切り離せません。ですから、社会のために役に立つのは当然じゃないですか。社会のために生きるのが企業です。
私の経営学から言えば、業績を上げるとかライバル企業に勝つというのは、結果としての現象でしかなくて、企業経営の最大、最高の使命は、人を幸せにすることですよ。人を幸せにするために、どういう手を打つか、それを考えるのが経営者の仕事です。
中川:
そう言われてみると、当たり前のことのように聞こえますが、実際には、企業の活動が人の幸せにつながっていないのが現状なのでしょうね。
坂本:
教え子が、日本で一番大きな会社について本を書くというので、コメントを求めてきました。「あの会社は、ホワイト企業ですか、ブラック企業ですか?」という質問を彼がしてきましたので、私はすぐに、「今やっていることを見ると、ブラックとしか言えない」と答えました。その会社は、好況だろうが不況だろうが、年に2回のコストダウンをしています。下請けを泣かせているわけです。幸せになりたい人を無視した経営をしているから、ブラックだと答えたのです。
自分の利益ばかりを考えた経営をしていると、大手企業を取り巻く環境は厳しくなってくると思いますよ。下請けが一斉に反旗を翻したときどうしますか。
現実、すでに、反旗を翻しているじゃないですか。廃業している中小企業が多発しています。そうすると、部品を作るところがなくなってしまいます。大企業が自分のところでやると言っても、なかなかできないことだし、できたとしても、従業員の賃金は高いですから、部品の原価もそれだけ上がってしまって国際競争ができなくなってしまいます。
だから、私は、仕入れ先を大切にしなさいと言っているんです。

<後略>

(2016年9月30日 東京・新宿区の法政大学にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「日本で一番大切にしたい会社」 坂本 光司 著 (あさ出版)

           

11月「辰巳 玲子」さん

辰巳 玲子(たつみ れいこ)さん

1957年神戸生まれ。1988年映画『ホピの予言』と宮田雪監督に出会って、アメリカでの日本山妙法寺による平和行進や、祈りの大陸横断ランニング、日本縦断ランニングに参加。その後宮田監督とともに、ランド・アンド・ライフの活動に関わる。95年から宮田監督の看病と介護に専心するも、ニューヨークテロとイラク戦争開戦を機に、『ホピの予言2004年版』を制作し活動を再開する。現在、群馬県をベースに、平和や環境問題などに関するさまざまな活動を行っている。

『ホピに導かれ「浄化の日」のメッセージを伝える』

再生のための浄化でなければいけないのに破壊の恐れも

中川:
辰巳さんとお会いするのは20年ぶりくらいになりますかね。確か、ご主人の宮田雪きよし監督が、帯津先生の病院に入院していたころだから。
辰巳:
そうですね。もう20年になりますね。宮田が倒れたのが1995年3月3日、50歳の誕生日でした。アメリカのカリフォルニアで新しい映画の編集をしていたときでした。
中川:
宮田監督は、「ホピの予言」というすばらしい映画を残されていて、下田で行われていた真氣光研修講座でも、毎回、お話をしてくださっていました。月刊ハイゲンキでも「ホピの予言」のこと、連載してくださっていました。
それに、帯津先生や先代と一緒にホピの村へ行ったこともありましたよね。
辰巳:
本当にいろいろとお世話になりました。宮田も先代の会長も亡くなってしまいましたが、こうやって声をかけてくださって、ありがとうございます。
中川:
「ホピの予言」は、以前にも拝見しましたが、改めてDVDで見せてもらって、30年も前に、よくぞこういう映画を作ってくださったと感心しました。
宮田監督が亡くなられたあとも上映会を続けておられる辰巳さんの活動もすばらしいと思います。
ホピというのは、アメリカインディアンの部族のひとつで、そこには、ずっと昔から、とても重要なメッセージが言い伝えられていて、それが、今の時代にはとても重要な意味をもつという内容の映画でした。
真氣光では、先代の時代から、意識を変えて生きないと、これから大変なことになるよと言ってきましたが、まさに、意識や生き方を変えることの大切さを、あの映画では訴えていますね。
DVDでは、2004年に辰巳さんが長老のマーティン・ゲスリスウマ氏にインタビューした映像がプラスされていますね。
辰巳:
「浄化の時代を迎えて」というタイトルで、25分ほどのインタビューを、「ホピの予言」に追加してDVD化しました。ちょうど、2001年にニューヨークでテロがあって、2003年にイラク戦争が始まって、こは第三次世界大戦の引き金になるのではという危機感をもちました。
第三次世界大戦が始まれば、必ず核兵器が使われます。そうなると、いよいよ地球は大変なことになります。
ホピの予言では「浄化の日」と言われていていますが、浄化はあくまでも再生のための過程でないといけません。しかし、核戦争になってしまったら、再生ではなくて、破壊になってしまいます。
私たちは、再生のための浄化を潜り抜けないといけないのに、このままだと破壊になってしまうと危惧して、マーティンさんにインタビューをしました。
中川:
創造主は、人間たちに、「こういうふうに生きなさい」という道を示してくれたのだけれども、あるときから物質を神様とする道を人が歩き始めて、そのことによって、さまざまな歪みが生まれ、それが戦争とか天災という形で表面に出てきているというお話でしたよね。
そして、今の時代は、物質を神様とする道から、創造主が示してくれた本来の道に戻ろうとする人が増えてきているということで、意識を変えていける人が増えてくれば、大きな犠牲を払うことなく、浄化の日を潜り抜けられるわけですよね。
今は、私たちの将来を決めるような大切な時期だと、私は映画を見て感じました。
辰巳:
そうですね。まだまだ経済が優先される危険な時代であることには変わりませんが、若い人たちの中には、これまでとは違うライフスタイルで生きている人が増えてきました。
伝統的な技術に興味をもって、それを学んで自分でもやってみようという人も出てきています。経済や物質だけを追いかけないで、心とか自然を大切にする磨かれた魂が出てきているのかなと、私は感じています。
中川:
私もそう思います。確実に、新しいライフスタイルを求めている人が増えてきています。これまでの価値観にとらわれないで、もっと広い視野で行動しようという動きが出てきているのを感じます。
多くの人が、何かに気づき始めているという気がしますね。そういう動きを加速させるためにも、目に見えない世界のことを、もっと多くの人に学んでいただきたいと、私はそう思って活動をしています。

<後略>

(2016年9月28日 群馬県高崎市のオーガニックファーマーズファクトリーBIOSKにて 構成/小原田泰久)

           

10月 「鶴田 能史」さん

鶴田 能史(つるた たかふみ)さん

1981年千葉県君津市生まれ。文化服装学院デザイン専攻を卒業。㈱ヒロココシノに入社。コシノヒロコに師事する。2015年1月テンボデザイン事務所を設立。3月には、東京コレクションに初参加。障がい者のモデルを起用する。10月の東京コレクションでは、平和へのメッセージを発表し、国内外で注目された。

『すべての人が分け隔てなくおしゃれを楽しめる世の中に』

平和をテーマに思い切った演出で話題になった2015年のショー

中川:
今回は、ファッションという、この対談では、これまであまりご縁がなかった業界の、鶴田能史さんにお話をうかがいます。ファッションデザイナーというお仕事をされているわけですが、ただのおしゃれではなくて、社会性の高い活動をされていることにとても興味を持ちました。
今は、10月19日に行われる大きなファッションショーの準備でお忙しい中、時間をとっていただきました。よろしくお願いします。
鶴田:
こちらこそ、よろしくお願いします。私のやっていることは、人と違い過ぎるので、「なぜ、ファッションデザイナーがそんなことをするの?」という反応が多いのですが、会長には興味をもっていただけて、とても光栄です。
中川:
10月に参加される「東京コレクション」は、ファッションに興味のある人ならだれでも知っているような大きなショーだそうですね。
鶴田:
ファッションショーは、パリコレクション(パリコレ)、ロンドンコレクション、ミラノコレクション、ニューヨークコレクションを、世界4大コレクションと言いますが、東京はそれに次ぐ位置づけです。東京コレクションで注目されて、世界に羽ばたいていったブランドはたくさんあります。
それだけに、実績のあるブランドしか参加できませんが、うちは「テンボ」というブランドを立ち上げて1年も立たないうちに、東京コレクションデビューを果たしました。
中川:
2015年は、世界に衝撃を与えるようなショーだったとお聞きしていますが。
鶴田:
「世の中全ての人へ」というのがうちのコンセプトで、障がいの有無や年齢、国籍を問わずに、ありとあらゆる人に、ファッションを届けていきたいと考えています。平和や人権についても、踏み込んだメッセージを出していますので、自ずと、ほかのブランドとは内容が違ってきます。
プロのファッションモデルだけでなくて、一般の人もモデルとして使っていますし、車椅子の人、重度障がいの人、目の不自由な人にも、おしゃれをしてもらって、ショーに出てもらっています。
中川:
去年は、「平和」をテーマに、思い切った演出をされたそうですね。
鶴田:
去年は戦後70年という区切りでしたから、ファッションショーを通して、恒久平和を願う思いを伝えたいと思いました。
オープニングでは、原爆投下の映像をバックに、アメリカをイメージできる服を着た2人の男性が登場しました。小柄な人と太った男性。広島に落とされた原爆はリトルボーイ、長崎に落とされた原爆はファットマンと呼ばれていたので、そんな組み合わせにしました。
そのあと、プロのモデル、一般の人、障がいのある人、重病の人・・・いろいろな人が着飾ってランウェイと呼ばれている舞台を歩きました。そして、最後に、1万羽の折鶴で作ったドレスを着た黒人の女性が登場しました。原爆の子の像に捧げられた折鶴をいただいて作ったものです。そこには、原発の問題も含めて、核のない平和な世界への願い、そして、人種差別をなくしたいという思いを込めています。
中川:
きっと、ファッションショーとしては前代未聞だったのではないでしょうか。反響はいかがでしたか?
鶴田:
うちのショーは、観客席の一番前に、車椅子が並びます。そんなファッションショーはないですよ。健常とか障がいとか関係なく、みなさん、感動してくださって、涙を流しながら見てくださっていた方もいます。
マスコミでは、いくつもの新聞が大きく取り上げてくれました。日刊スポーツという新聞では、全面を使って紹介してくれました。自分としては当たり前のことをやっているのですが、だれもやる人がいなかったので、すごい話題になりましたね。障がい者にスポットを当てるデザイナーが一流の舞台に現れたと、海外でも高く評価されました。

<後略>

(2016年8月23日 東京・武蔵野市のテンボデザイン事務所にて 構成/小原田泰久)

           

9月 「李 久惟」さん

李 久惟(りー じょ)さん

1975年台湾高雄生まれ。2000年東京外語大卒。卒業後台湾新幹線プロジェクトに従事。専門は語学教育、歴史、比較文化、国際関係論、異文化コミュニケーション。拓殖大学客員教授。日本李登輝友の会理事。主な著書に『本当は語学が得意な日本人』(フォレスト出版、2013年)、『日本人に隠された《真実の台湾史》』(ヒカルランド、2015年)がある。

『本人の利他の心が世界を救うと信じています』

台湾と日本。地震が交互に起こり、お互いに助け合ってきた

中川:
はじめまして。李さんは、まわりからはジョーさんと呼ばれているそうなので、私もジョーさんと呼ばせていただきます。
ジョーさんが書かれた「日本人に隠された《真実の台湾史》」(ヒカルランド)という本を読ませていただいて、日本と台湾とがとても深い絆で結ばれていることがよくわかりました。特に、台湾の方々が、日本をとても大切にしてくれているのを知って、胸が熱くなりました。
2011年の東日本大震災でも、台湾は、世界からの義捐金の約3分の1に当たる200億円を寄付してくださいました。今年4月の熊本の震災でも、2月には台湾で地震があったばかりなのに、すぐに3億円もの義捐金を集めて、届けてくださいました。ありがたいことです。
今日は、ジョーさんに、台湾と日本の、あまり知られてないすばらしい関係についてお話ししていただこうと思います。ジョーさんは、15言語以上を自由に話せるマルチリンガルです。日本語もとてもお上手です。
李:
今日は、このような場を設けていただいてありがとうございます。
熊本の地震から何ヶ月もたっていますが、余震があったり、大雨があったりして、なかなか復旧が進んでいません。現地の方は、とてもつらい思いをしていると思います。心より、お見舞い申し上げたいと思います。私も、5月の終わりに、ボランティア活動で、友人と一緒に被災地をお訪ねしました。
地震の話をすると、台湾では1999年9月21日に、2000人以上が亡くなる大地震がありました。このとき、日本の救援隊が真っ先に駆け付けてくれましたし、義捐金もたくさん届けてくれました。台湾の人たちは、そのことにとても感謝しています。
ですから、2011年の東日本大震災でお返しをするのは当たり前のことでした。日本の人たちは、そのことにとても感謝してくださいました。
今年の2月には台湾南部で大地震がありました。このときには、日本が台湾を助けてくれました。そして、そのあとの熊本です。
私たち台湾人は、助け合いの精神をとても大切にしています。そして、それを教えてくれたのが日本人です。
中川:
地震でたくさんの方が被災して、悲しいこともいっぱいあったけれども、そこでさまざまな感動的なドラマも生まれました。ジョーさんのおっしゃるように、台湾と日本で交互に大地震が起こって、そのたびにお互いが助け合ったというのも、すばらしい話ですよね。ジョーさんからお聞きして、改めて、台湾と日本はいい関係なのだなと思いました。
李:
日本人には、伝統的に利他の精神があります。その精神が、かつてはアジア一の貧しい地域だった台湾を豊かにしてくれました。台湾の歴史の中で、それは奇跡的なことだったと思います。
そういう過去の事実を見直す中で、私は日本人の利他の心が世界を救うと考えるようになってきました。
中川:
そう言っていただけるのは、日本人としてとてもうれしいことです。でも、ジョーさんは、どういうことから、そう考えるようになったのでしょうか。歴史的な事実というのは、どういったことだったのでしょうか。
李:
大航海時代、スペインやオランダに統治されるまで、台湾には、先住民たちが30以上の部族に分かれて暮らしていました。部族同士は、言葉も違っていましたので、あまり交流もありませんでした。
ヨーロッパ人は、先住民を銃で脅してプランテーションを始めました。そのために、大陸南部から数千人の漢民族を連れてきました。先住民との混血が起こりました。八百万の神を信じる先住民にキリスト教を布教し、考え方にも変化が起こりました。このときを境に、台湾は大きく変わっていきました。
その後、清に支配され、中華的な台湾が作られていきます。清は、先住民の部族同士を戦わせるという分割統治というのをやりました。そのせいで、部族間の関係がとても悪くなりました。そして、1895年から50年間、日本が治めることになります。
私の曽祖父は、日本が統治する前と後をよく知っています。その違いを、私の祖父や父親に話して聞かせたそうです。祖父や祖母が若いころは、日本時代でした。日本が去った、戦後の台湾も知っています。
祖父は、こんなことをよく言っていました。「日本時代は、台湾にとって光が9割以上、闇が1割以下。比較して、オランダ時代、清国の時代、初期の国民党時代は、闇が9割、光がわずか1割だった」
私たちの世代は、学校で反日教育を受けました。しかし、祖父母が話してくれることと大きく違っているのです。どちらが本当だろうと混乱しました。
でも、日本時代がいかにすばらしかったかを語る祖父母の真剣な姿の方を、私は信じることができました。そして、冷静に当時の状況を考えたり、歴史の資料を調べていくうち、祖父母の言っていたことが本当だと確信するようになりました。

<後略>

(2016年7月26日 東京・日比谷公園の松本楼にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

台湾《日本語世代》がどうしても今に伝え遺したい 日本人に隠された《真実の台湾史》 韓国は「嫌日」なのに台湾はなぜここまで「親日」なのか? (Knock‐the‐Knowing)
李久惟(ジョー・リー)(著) 出版社:ヒカルランド

           

8月 「川嶋 朗」さん

川嶋 朗(かわしま あきら)さん

1957年東京都生まれ。北海道大学医学部卒業後、東京女子医大へ。93年〜95年、ハーバード大学へ留学。2003年より、東京女子医大附属青山女性・自然医療研究所自然医療部門責任者。2014年より、東京有明医療大学保健医療学部鍼灸学会教授、一般財団法人東京医学研究所附属クリニック自然医療部門担当。著書「医者が教える行ってはいけない病院、間違いだらけの健康法」(洋泉社)「病気で死なない生き方33 普通の医師には教えられない」(講談社)ほか多数。

『幸せを感じながら亡くなっていける医療を実現したい』

真氣光研修講座に参加し、氣功師になってすぐに治療に使った

中川:
ごぶさたしています。先生とお会いするのは何年ぶりでしょうかね。相変わらず、若々しいですね。そうそう、いつだったか、飛行機でばったりお会いしましたね。鹿児島からの帰りだったかな。通路を挟んで隣が先生で、びっくりしましたよ。
川嶋:
そうでした。ホント、びっくりでしたよ。ご縁を感じました。会長は、大学の後輩だし。会長が入学されたとき、私は医学部の5年生だったかな。大学ではお会いすることはなかったですけどね。私も、来年は還暦ですよ。
中川:
還暦ですか。先輩に対して失礼ですが、先生には青年のイメージがずっとありますよね(笑)。還暦というと、ひとつの区切りですけど、先生の人生も波乱万丈ですね。
川嶋:
いろいろありましたね。前回の対談のときは、東京女子医大の青山自然医療クリニックでお会いしたかと思いますが、あそこも、何と言っていいか、突然、閉鎖すると言われてしまいましてね。
中川:
そうですか。自然医療とか統合医療というのは、大学病院ではなかなか理解されないでしょうからね。まして、先生は、その先頭を走っておられるわけですから、風当たりも強いでしょう。今は、東京有明医療大学の教授でいらっしゃいますよね。
川嶋:
鍼灸学科の教授をやっていますが、メインは、この東洋医学研究所附属クリニックの自然医療部門での診療ですね。
中川:
やはり、患者さんは難病の方が多いんでしょうね。
川嶋:
がんの患者さんが一番多いですね。それに精神的な疾患の方、アトピーやリウマチの方などですね。治療法のアドバイスもしますが、それよりも、患者さんには、なぜ病気になったのかということを考えてもらうようにしています。
中川:
病気になるのは理由がありますからね。生活面もそうだし、精神的なことも影響していますよね。そこに気づかないと、本当の解決にならないですね。
先生が真氣光研修講座に参加されたのは1995年でしたよね。先生は、大学時代に東洋医学を勉強するサークルを作られたわけですから、氣というものも身近に感じておられたとは思いますが、ハーバード大学に留学されて、西洋医学どっぷりの研究生活を送っていて、帰国してすぐに参加されたでしょ。
川嶋:
帰国してしばらくしたら、急に右の耳が聴こえなくなりました。突発性難聴ですね。耳鼻科の教授に、一生治りませんと言われて、なんて言い方がきついんだろうと思いました。それがきっかけで、医者へ行かなくてもできる治療法はないかと考えていたら、氣功があるじゃないかと思って、いろいろと調べてみました。でも、氣功とひと言で言っても、数え切れないほどたくさんの種類があって唖然としていました。
そしたら一人のナースが、腎センター所長の阿岸(鉄三)先生が氣功をやっていると教えてくれました。「うそだろ」と思ったのですが、見に行ったら、本当に患者さんに氣を送っているわけです。「教えてくださいよ」って頼んだら、「あなたにはわからないよ」と、あっさり言われてしまったので、「ぼくは、北大に東洋医学研究会を作ったんですよ」と言い返したら、それならここに連絡すればいいと言って、真氣光を紹介してくれたんです。
中川:
そうでしたか。それで、1995年7月に生駒で受講されたんですね。先代が、復帰したのが6月でしたから、いいタイミングでしたよね。
川嶋:
申し込んだのが3月ですから、お会いできないかもしれないなと思っていましたからね。
最初は、とんでもないところへ来たと思いましたよ(笑)。ちょうど、地下鉄サリン事件のすぐあとでしたから、オウムと同じなんじゃないかって、あせりましたよ。でも、工学博士の関英男先生の講義など、いいお話をたくさん聞けましたし、自分でも氣を感じることができて、身も心もきれいになっていく感じがして、とても気持ち良かったですね。氣を受けているうちに、歩けなかった人が歩き出したり、目が見えない人が見え出したり、奇跡的なことが目の前で起こって、あのときは9日間でしたが、驚きの連続でした。
おまけに、氣功師にも認定されましたしね。ただ、講義で氣の出し方なんて、全然、教えてもらってないのに、氣功師になってしまって、どうなっているのかと、きつねにつままれた感じでした(笑)。

<後略>

(2016年5月27日 東京・渋谷の一般財団法人東洋医学研究所附属クリニックにて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「見えない力」で健康になる
川嶋 朗 (著) 出版社: サンマーク出版

           

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒業。東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長を経て、82年埼玉県川越市に帯津三敬病院、2005年に東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。人間まるごとのホリスティックな医療を実践している。帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会名誉会長。著書は、「粋な生き方」(幻冬舎ルネッサンス)「ドクター帯津の健康暦365+1」(海竜社)「健康問答」(平凡社・五木寛之との共著)など多数。

『潔く、はりがあって、色っぽい。そんな粋な生き方で養生を極める』

先代とは上海で初めて会って、 被曝したインディアンの治療にも行った

中川:
先生、お久しぶりです。私が「氣―こころ、からだ、魂を満たす光のエネルギー」という本を出したときに、対談をお願いして以来ですから、7年ぶりくらいでしょうか。
帯津:
そんなになりますか。会長は、いくつになられました?
中川:
55歳です。先生は、うちの父親と同じで1936年生まれですから、80歳になられたんですよね。お元気ですね。
帯津:
そうそう、先代の中川先生とは1ヵ月くらい、私のほうが早く生まれているんです。いくつでしたか、お亡くなりになったのは。
中川:
59歳の12月でした。あと3ヶ月くらいで60歳だったのですが。
帯津:
じゃあ、20年以上もたつんですね。楽しい人でしたね
中川:
先生が最初に先代に会われたのは、中国だったですよね。
帯津:
1988年でしたね。上海で「国際氣功シンポジウム」というのが行われたんですね。第二回目で、日本からもたくさんの方が参加されていました。もう亡くなられましたが、ユング心理学の研究で有名だった湯浅泰雄先生とか、氣功とカイロをやっていたひげの吉見猪之助さん、山内式気功体操の山内直美さん、日本気功科学研究所の仲里誠穀さん、日本気功協会の山本政則さんとか、その後の日本の氣の世界をリードしていく面々がそろっていました。いずれも、個性豊かな人でしたね。
そんな中に混じっても、中川先生は目立っていました。何しろ、髪の毛が真っ白、白い顎ひげでしょ。氣が出る機械・ハイゲンキもインパクトありましたよ。
中川:
怪しさプンプンですよね(笑)
帯津:
いやあ、あれくらいがいいんですよ。これから氣を広めていかなければならないときですから、ああいう目立つ人を、神様は送り込んだんじゃないですか(笑)。
上海から帰って来て、中川先生から電話があって、一緒に飲もうということになりましてね。そのときに、夢に白髭の老人が出てきて、明日から氣を出せと言われたという話を聞きました。
下田の一週間の合宿も見学に行かせていただきました。
中川:
そうでしたね。それから、アメリカインディアンのホピ族が住む村へ同行してくださいましたよね。
帯津:
1994年の8月でしたね。一緒に行ってくれないかと言われて、ちょっと難しいかなと思ったのですが、当時から場のエネルギーにとても興味があって、インディアンが聖地だと崇めている場所はどんなエネルギーなのだろうと思って、スケジュールを調整して行きました。
飛行機の中では隣同士だったのでゆっくりと話ができました。機内食を、「おいしい、おいしい」と言って、本当に嬉しそうに食べている中川先生の姿に感心しました。ああ、この人は素直な人なんだなと、ますます好きになりましたね。
中川:
食べるのが好きな人でしたから。ホピの村へは、ウランの採掘で被曝した人たちの治療に行ったんですよね。
帯津:
そうなんですね。「ホピの予言」という映画を作った宮田雪きよし監督が案内してくれました。最初は、ホピ族やナバホ族の被曝者が入院している病院へ行ったのですが、治療の許可が出ませんでした。それで、個人の家を訪ねたり、コミュニティセンターのようなところで治療会をやったりしました。
コミュニティセンターのときは、最初は数人だったのですが、その人たちが家へ帰ってからまわりの人に話すものだから、次々と人が集まってきました。トラックの荷台に人がびっしりと乗ってやってきたのにはびっくりしました。
中川先生だけでは追いつかないので、私まで氣功治療をすることになりまして。それにしても、すごい人でした。
中川:
ホピの予言の岩絵も見られたんですよね。
帯津:
見てきました。ホピの大地のエネルギーはすごかったですね。あるところでは、写真を撮ろうとしたらシャッターが切れませんでした。私のカメラだけじゃなかったので、何かエネルギーの影響があったのかなと思います。
長老のマーティンさんの家も訪ねました。生のニンジンが出てきたので、それをかじりながら話を聞いたわけです。
なかなかできない体験をさせていただきました。
帰りの飛行機は、ビジネスクラスが予約してあったのですが、何かの都合で、ファーストクラスに乗せてもらいました。ホピの神様からのプレゼントだと、中川先生と楽しく話したのを覚えています。

<後略>

(2016年4月26日 埼玉県川越市の帯津三敬病院にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

粋な生き方 病気も不安も逃げていく「こだわらない」日々の心得
帯津 良一 著 
(幻冬舎ルネッサンス)

           

6月 「エバレット ブラウン」さん

エバレット ブラウン(えばれっと ぶらうん)さん

アメリカ生まれ。88年から日本に永住。日本芸術文化国際センター芸術顧問、文化庁長官表彰(文化発信部門)被表彰者。epa通信社日本支局長を経て、2012年より日本文化を海外に紹介する企画に携わる。国内の媒体を始め、「ナショナル・ジオグラフィック」「GEO」「家庭画報INTERNATIONAL」などに広く作品を寄せる。著書に『俺たちのニッポン』、『日本力』(松岡正剛氏との共著)ほか多数。

『湿板(しっぱん)写真で日本の文化、日本人の感性を甦らせたい』

先代がマデレーネ島へ行ったときに写真を依頼されて同行した

中川:
エバレットさんは、先代と会っているんですよね。
ブラウン:
そうなんですよ。何度も。でも、会長ともお会いしていますよ。どこでだったかなあ。
中川:
あれ、そうでしたか。それは失礼しました。ひょっとして、先代を訪ねて来られたときに、ごあいさつしたのかな。
ブラウン:
そうだったかもしれません。いずれにせよ、ずいぶんと前の話です。先代の会長が亡くなられてから、20年くらいたちますか。楽しくてすてきな方でした。
中川:
亡くなったのが1995年の12月です。北極圏の小さな島で、先代と会ったということでしたが、偶然だったのですか?
ブラウン:
カナダのマデレーネ島というところでした。
会ったのは偶然じゃないですよ。グリーンピースのマイケル・ベイリーという人が、マデレーネ島を舞台に、環境保護のビデオを作るという企画を立てました。写真も必要だと言うので、ぼくが依頼を受けました。確か、静子さんという通訳の方が、ぼくをマイケルに紹介したのだと思います。静子さんとは、その前に何度かお会いしたことがありましたから。
中川:
撮影は氷の上でしたからね。
ブラウン:
あのころ、あざらしが漢方薬の原料として殺されていて、それを何とかしようとマイケルは考えたみたいです。氣功がもっと広がれば、病気を治療するために、動物たちの貴重な命を奪って漢方薬を作る必要はないということを、ビデオで訴えたかったみたいです。それで、先代にビデオへの出演を依頼したみたいです。
一週間くらい、その島に滞在しました。みんな防寒着を来て、大変な撮影でしたが、楽しい旅でした。先代から、氣の話をたくさんお聞きしました。とても面白かったですよ。すごく納得できました。
それに、あの島は、イセエビがたくさん取れるんです。ですから、イセエビが食べ放題。あれは、最高でした(笑)。
中川:
そうですか。きっと先代は喜んだでしょう。カニとかエビが大好きでしたから。
そう言えば、先代とあざらしの赤ちゃんの写真が、全日空の機内誌に載ったことがありましたが、あれを撮ってくれたのはエバレットさんだったんですね。
ブラウン:
そうです、そうです。ぼくが企画を持ち込んで掲載されることになりました。懐かしいですねえ。
今回、こうやって会長とお会いできたのは、『地球交響曲第八番』を見に行ったとき、ライターの小原田さんとばったりとお会いしたことがきっかけでした。
何か、導かれるような再会だと、とても感動しています。
中川:
私も、先代とご縁のあった方と、こうやってお会いできるのは、すごく縁を感じます。きっと、あちらの世界では、先代も喜んでいることと思います。
ところで、エバレットさんが撮っている写真を拝見したのですが、これ、なんて説明すればいいのでしょうか、深い味わいのある写真ですね。100年も前の写真のように見えるのですが。
ブラウン:
ありがとうございます。湿板写真と言います。1851年にイギリスで発明されて、日本にも数年後の享保年間に入ってきています。
幕末から明治に撮られたもので、よく目にする写真がありますよ。坂本龍馬です。あれは、湿板写真で撮られています。
中川:
わかります。確か、何十秒か動いてはいけないんですよね。
ブラウン:
そうです。20秒とか30秒とか、暗いところを撮るには15分くらいというのもあります。
中川:
湿板写真というのは、今はほとんど使われてないでしょうが、カメラがよくありましたね。
ブラウン:
レンズは、幕末から明治に使われていたものが手に入りました。カメラ本体は、どこにもなかったので、職人さんに頼んで作ってもらいました。
レンズは、もちろん性能は良くありませんが、逆に、性能が悪い分、ぼけ具合がすごくいいのです。ぼくたちが肉眼で物を見ているときというのは、これに近いんじゃないでしょうか。
中川:
意識して見ているところにだけピントが合って、その周辺部はぼけているというのが、私たちの物の見え方かもしれませんね。
ブラウン:
そうなんですよ。みなさん、ぼくの写真を見て、幻想的だと言いますが、実は、幻想的でも何でもなくて、ぼくたちがいつも見ている世界なんだということですね。
中川:
なるほど。今のカメラで撮った画像は、きれいすぎて、私たちが見ている景色じゃないんですね。
ブラウン:
そうです。あれが理想的な見え方なのかもしれませんが、何か、きれいすぎて違和感がありますよね。

<後略>

2016年4月5日 東京・有楽町 日本外国特派員協会 にて 構成/小原田泰久

           

5月 「スティーブ・ウィクバイヤ・ ラランス」さん

スティーブ・ウィクバイヤ・ ラランス(すてぃぶん うぃくばいや ららんす)さん

ゲスト/スティーブ・ウィクバイヤ・ラランスさん
1958年生まれ。ジュエリーアーティスト。トゥーファストーンという石で鋳型を作り、そこに銀を流し込んで作るトゥーファキャスト技法を用いて作品つくりをしている。フープダンスショーでは、太鼓と歌を担当している。

ゲスト/ナコタ・ロマソフ・ラランスさん
1989年生まれ。フープダンサー、ヒップホップダンサー。フープダンスの世界大会で8度のチャンピオンになる第一人者。シルク・ドゥ・ソレイユでは、2013年からプリンシパルダンサー(主役のダンサー)を務めている。26歳。

『ホピ族と真氣光。不思議な縁でつながり、再び出会うことに』

フープダンスの世界チャンピオン。日本にもこの踊りを広めたい

中川:
今回は、真氣光の会員さんで、カナダのトロントにお住いの神田陽子さんが、とてもすてきなゲストの方をご紹介くださいました。ネイティブアメリカンのホピ族の血を引くスティーブ・ウィクバイヤ・ラランスさんと、息子さんのナコタ・ロマソフ・ラランスさんです。
スティーブさんは、インディアンジュエリーのアーティストで、ナコタさんは、フープダンスの世界チャンピオンだそうです。
まずは、神田さんに、彼らとのご縁をお聞きしましょうか。神田さんには、通訳もやっていただきます。よろしくお願いします。
神田:
今日はよろしくお願いします。スティーブさん、ナコタさんにご縁ができたのは、昨年の6月、会長がトロントへ来られましたが、その3週間ほどあとでした。あのとき、会長からたくさんの氣をいただいて、それ以来、すてきな方とお会いする機会がとても増えました。ありがとうございました。
会長は、シルク・ドゥ・ソレイユってご存知ですか?
中川:
名前は聞いたことあるなあ。サーカスでしたっけ。
神田:
モントリオールでできたエンターテインメントの集団で、今は、世界的にもすっかり有名になりました。日本でも、2月から全国各地で公演していますよ。
昨年、会長が帰国されたあと、ナコタさんが、シルク・ドゥ・ソレイユの主役を務めるダンサーとして、トロントにお越しになりました。ちょうど、うちの14歳の娘もシルク・ドゥ・ソレイユで踊ることになって、私は、付き添いで行きました。そこで、スティーブさん、ナコタさんの2人に、初めてお会いしました。
そのときに、彼らが日本でもフープダンスを広げたいと言っていたので、私も20年以上、カナダに住んでいますが、日本人ですから、何か役に立てるのではと、応援することにしたという経緯です。
中川:
そういうことでしたか。それで今回、日本の何ヶ所かで公演をするわけですが、神田さんがコーディネイトしたということでしたね。
神田:
私と、今日、同席してくださっている近藤明子さんとで、どうなることやらと思いながらやりました。近藤さんとは、カナダで知り合ったのですが、がんばって日本の知り合いに当たってくださって、いい感じで進んでいます。
ホピの神様が応援してくれているに違いないって話しているんですよ。
ところで、今日は、どういう形で対談をしましょうか。と言うのは、ナコタさんが、ぜひ会長にフープダンスを見ていただきたいというので、これから準備に入ります。別の部屋で着替えて、ストレッチとか、準備運動をします。ここには同席できないので、スティーブさんとお話ししていただくということでよろしいでしょうか。
中川:
ダンスを見せていただけるんですね。それはうれしいな。じゃあ、お話しはお父さんのスティーブさんにお聞きして、あとでナコタさんのダンスを見せていただくことにしましょうか。
では、いろいろとお聞きしていきますが、スティーブさんは、ホピ族だということですね。
スティーブ:
母親がホピ族です。私の名前のウィクヴァイヤというのは、ホピ族の名前です。息子のロマソフというのもそうです。私の母がつけました。英語で言うと、ハンサムスターという意味です。その名前のおかげか、フープダンスでは、スターになることができました。いい名前をもらいましたね。
中川:
実は、25年ほど前ですかね。ホピ族の長老のマーティン・ガスウィスーマ氏が、私の父を訪ねて来られました。私どもは、真氣光と言いまして、氣、つまり生命エネルギーですが、それをもっと世の中に知ってもらおうと活動しているのですが、父はその創始者でもあるんですね。(月刊ハイゲンキを見せて)これが、そのときの記事です。写真も出ています。ガスウィスーマさんのこと、ご存知ですかね。
スティーブ:
わかります、わかります。お会いしたことはありませんが、名前は聞いたことがあります。たぶん、私の家内の姪っ子が彼の孫と結婚しているはずです。この記事の写真を撮ってもいいですか? 間違いないか、確認してみますね。確か、ホトヴィラ村に住んでいたと思うのですが。
中川:
確か、そういう名前の村でした。ご縁がありますね。
スティーブ:
でも、どうしてガスウィスーマさんは、会長のお父さんを訪ねたのですか。

中川:
宮田雪(きよし)さんという映画監督が仲立ちしてくれました。宮田監督は、ホピ族の置かれた状況やメッセージを『ホピの予言』という映画にして世に伝えようとしていました。先代も、宮田監督の活動に賛同して、応援していたようです。ホピ族の村の周辺の地下には、たくさん埋まっていて、ホピ族の人やナバホ族の人たちが、その採掘に従事して、たくさんの人が被曝しました。そのウランが、日本に落とされた原爆の原料となりました。そのことはホピの予言でも言われていたそうです。
ウラン採掘に従事した人は、ほとんど無防備の状態で仕事をしていたため、しばらくすると体調が悪くなり、その後もずっと後遺症で苦しんでいる人がたくさんいました。国からの保証もないので、病院にもかかれません。そういう人たちを氣で治せないかというのが、彼らの依頼のひとつでした。
1994年夏には、先代とがん治療ではとても有名な帯津良一先生(帯津三敬病院名誉院長)とが、ホピの村へ行って、被曝した人たちの治療に当たりました。
スティーブ:
そういうことがあったのですね。それは知りませんでした。

<後略>

(2016年3月29日 日比谷松本楼4階真珠の間にて 構成/小原田泰久)

           

4月 「山田 火砂子」さん

山田 火砂子(やまだ ひさこ)さん

東京生まれ。戦後、女性バンド「ウエスタン・ローズ」で活躍後、舞台女優をへて、映画プロデューサーに。実写版の「はだしのゲン」はじめ「春男の翔んだ空」「裸の大将放浪記」など数多くの映画を製作・公開してきた。監督としても、「石井のおとうさんありがとう」「筆子・その愛」で、児童福祉文化賞を受賞。最新作が「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」。三浦綾子原作の「母」の映画化を準備中。著書に「トマトが咲いた」がある。

『福祉と反戦の映画を通して、何が大切なのかを伝えていきたい』

孤児や障がい者のために一生を捧げた十次(じゅうじ)さんに筆子(ふでこ)さん

中川:
山田監督は、長年、映画作りにかかわってこらましたが、監督が撮られるのは、とても社会的なメッセージの強いものばかりです。今は、最新作の「山本慈昭(じしょう) 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」が、全国各地で上映されていて、さらには、「母 小林多喜二(たきじ)の母の物語」を準備されているそうですね。
両方とも、戦争をテーマにした作品ですが、もともとは福祉の関係の映画を撮られていましたよね。
山田:
もともとは夫の山田典吾(てんご)が監督をしていて、私は、プロデューサーをやれというので、お金集めから雑用から、いろいろなことをやってきました。
夫が亡くなってから、監督として映画を撮るようになりました。最初の作品が、「エンジェルがとんだ日」というアニメです。平成8年だから、もう20年も前の話になりますね。
長女が、知的な障がいをもって生まれましてね。今でこそ、障がい者への理解も深まっていますが、長女が生まれたのは昭和38年ですからね。当時は、あからさまな差別もあって、本当に大変でした。私も、娘に障がいがあると知ったときには、絶望して死のうと思いましたからね。
その娘が巻き起こしたいろいろな出来事なんかをアニメにしました。おかげさまで、とてもたくさんの方に見ていただけました。
それから、初めて撮った劇映画は、「石井のおとうさんありがとう 岡山孤児院石井十次の生涯」という作品です。平成16年ですね。
中川:
石井十次(じゅうじ)さんですか。どういう方なのですか?
山田:
まあ、すごい人ですよ。慶応元年(1865年)に、高鍋藩ですから、今の宮崎県で生まれ、日本で最初に孤児院を作った人で、「児童福祉の父」と呼ばれています。松平健さんが、石井十次役を引き受けてくださって、とてもいい映画になりました。
十次さんは、明治20年に、四国巡礼の帰り道の母親から男の子を預かることになって、それがきっかけで孤児救済を始めました。そのころは、社会福祉という制度はなかったですから、資金集めも容易じゃなかっただろうし、大変な苦労をします。
地震や洪水や凶作のたびに、親を亡くした子どもたちがあふれます。そういう子たちをできるだけ引き取って育てました。明治39年には、1200名もの孤児の面倒を見ていたようです。とても真似のできることではありません。尊敬しますよ。頭が下がりますね。
中川:
そういう方がいたんですね。世の中のために損得を考えずに動けるというのは、感動しますね。監督も、映画作りということでは、損得考えずに、社会が少しでも良くなるためのいい作品を作ろうと思っている点では同じじゃないですか。
山田:
いやいや、足もとにも及びませんよ。もっとも、お金で苦労しているという点では同じですけどね(笑)。
十次さんが「魂の孤児になることが一番の不幸」だと言い残しているんですね。まあ、お金はなくても、心豊かに生きないといけないですよ。今は、子育てを放棄したり、虐待をする親も多いじゃないですか。心が豊かじゃないねえ。魂の孤児になってしまっているんですねえ。
中川:
魂の孤児ですか。人と人とはつながり合って生きているのだけれども、そのつながりがなくなった状態の人たちですかねえ。世の中がギスギスしてきたのは、魂の孤児が増えたからかもしれません。
そのあと、石井筆子(ふでこ)さんという方の話を撮られていますね。
山田:
「筆子・その愛 天使のピアノ」という映画です。筆子さんは、文久元年(1861年)の生まれです。十次さんと同じ年代に生きた人ですね。
この方もすごいですね。滝乃川学園という、今でも国立市にありますが、知的障がい者の施設を創設した方です。
彼女のお父さんは男爵で、何不自由のない家に生まれました。頭も良くて美人で、将来有望な男性と結婚し、これほど恵まれた女性はいないというくらいの方でした。ところが、生まれた長女に知的な障がいがありました。さらには、次女が生後10ヶ月で亡くなり、三女は結核性脳膜炎になり、夫も亡くなるという苦難に次々と襲われ、どん底に突き落とされます。そんなときに出会ったのが、障がい児教育に人生をかけていた石井亮一という人でした。筆子さんは、周囲の反対にあいながらも、亮一さんと再婚し、2人で知的障がい者の施設を創設しました。
それからも、大変な思いをして、施設を切り盛りするのです。壮絶な一生ですね。この方にも頭が下がります。

<後略>

(2016年2月15日 東京・新宿の山田火砂子監督の自宅にて 構成/小原田泰久)

映画の紹介

「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」 監督 山田火砂子

           

3月 「吉藤 オリィ」さん

吉藤 オリィ(よしふじ おりぃ)さん

本名・吉藤健太朗。奈良県葛城市出身。小学5年~中学3年まで不登校を経験。奈良県立王寺工業高校にて久保田憲司先生に師事、電動車椅子の新機構の発明により、国内最大の科学コンテストJSECにて文部科学大臣賞、ならびに世界最大の科学コンテストISEFにてgrandaward 3rd(銅賞)を受賞。高専にて人工知能を研究した後、早稲田大学にて2009年から孤独解消を目的とした分身ロボットの研究開発を独自のアプローチで取り組む。2012年、株式会社オリィ研究所を設立、代表取締役所長。<a href="http://www.orylab.com" target="_blank">http://www.orylab.com</a>

『OriHime(オリヒメ)は、人と人をつないで孤独を癒す分身ロボット』

遠くにいる人も、遠隔操作によって、その場にいるように感じられる

中川:
これがOriHime(オリヒメ)ですね。表情は無機的な感じですが、何か、ほんわかと温かみが伝わってきますね。よくテレビのUFO番組とかで見る宇宙人のような顔と言えばいいのかなあ。そこに、小鳥の羽根のような手がついていて、面白いロボットですねえ。
吉藤:
ありがとうございます。コミュニケーションロボットと言われていますが、たとえば、ずっと入院していなければならない人がいたとして、自宅の居間に、このロボットを置いておけば、ベッドの上にいながら、家族団らんが楽しめるわけです。
中川:
パソコンとかiPhone、iPadで遠隔操作ができるんですね。額の部分にカメラがあって、首が動くので、自分がその場にいるように、右を見たり、左を見たりできますね。マイクロフォンやスピーカーも内蔵されていて会話もできるわけだ。
これはすごいですね。
吉藤:
手も、バンザイをしたり、「やあ」と片手を上げたり、「しまった」と頭を抱えたり、「あっち」と指を差したり、バタバタとしたりできます。
操作している人とOriHimeがいる場所とは遠く離れているのだけれども、まるでそこに本人がいるように感じてしまうはずです。
今、OriHimeが会長の方を見上げるようにしていますが、見られているって感じしませんか。
中川:
しますねえ。ついつい、あいさつをしてしまいますよ(笑)。何でしょうね、この感覚は。
吉藤:
OriHimeの表情は、能面をモチーフにしていて、存在感はしっかりあるけれども、人格はもたさないというデザインにしてあります。だから、笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えます。
たとえば、電話で親しい人と話しているときって、相手の顔を想像しながら会話しているじゃないですか。人間には想像力という能力があるので、私は、それを壊しちゃいけないと思っています。
OriHimeそのものがキャラクターではなくて、抜け殻として存在していて、そこに、操る人の魂が入ってくるって感じですかね。
中川:
なるほど。抜け殻という言い方は面白いですね。OriHimeが、かわいい顔をしていたり、漫画のキャラクターだったら、イメージが固定してしまうかもしれませんね。
吉藤:
実は、最初のころのOriHimeはかわいい犬型でした。それをある会社の社長が使ってくれました。社員旅行の直前にアキレス腱を切って入院しなければならなくなったので、自分は行けないけれど、自分の分身としてOriHimeを社員に連れて行ってもらおうと思ったみたいです。
宴会のときには、社長の席に犬型のOriHimeが座って、乾杯の音頭も取ったと言っていました。社長は病院にいたのですが、まるでみんなと一緒に旅行に行ったような感じがしたと、とても喜んでくれました。
その社長が、私に言いました。「すごくいいんだけど、ひとつだけ問題がある。あれ以来、社員がぼくを犬扱いするんだ」というわけですよ(笑)。そのときに、そうか、かわいくしてしまうと、その人ではなくなってしまうと思って、露骨なかわいさをOriHimeにはもたさないようにしました。
特定の人とか動物をイメージしないようなデザインにした結果が、今のOriHimeです。
中川:
特定できない分、だれにでもなれるということですからね。きっと、OriHimeと一緒にいて話をしていると、この能面の表情が、遠くで操作している人の顔になってくるんでしょうね。
吉藤:
そうですね。私は、演劇とかパントマイムも学んできました。と言うのは、演劇や映画は現実ではないのに、見ている人をまるで現実のように思わせることだし、パントマイムは、何もないのに「ある」と思わせる技術じゃないですか。アニメーションもそうですよね。所詮は二次元の絵なのに、それが見る人の中では人格をもって、生き生きと動いているわけです。
そして、作り話なのに、そこに感情移入をして泣いたり笑ったり怒ったりするじゃないですか。
OriHimeも同じで、そこにはいない人なのに、まるでいるように思わせるようなロボットです。病院のベッドにいる人も、自分がまるで家の居間にいるように感じられるし、家族の人も、すぐそばにその人がいるような錯覚をもつわけです。両者が錯覚すれば、それはもう現実なんですね。
映画を見て、主人公がピンチの場面ではハラハラしたり、感動して泣いてしまっているのと同じです。

<後略>

(2016年1月19日 東京都三鷹市のオリィ研究所にて 構成/小原田泰久)

           

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