12月 「山本 博文」さん
山本 博文(やまもと ひろふみ)さん
1957年岡山県生まれ。東京大学史料編纂所教授。日本近世史を専門として、武家社会や武士道精神など、江戸時代に関する研究で知られる。NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」シリーズの時代考証など、多くのメディアで活躍。92年、「江戸お留守居役の日記」で第40回日本エッセイイスト・クラブ賞受賞。著書「武士はなぜ腹を切るのか」(幻冬舎)「武士道の名著 日本人の精神史」(中公新書)ほか多数。
『武士の生き方、死に方。先人の思いを感じながら歴史を学ぶ』
江戸時代は切腹が 一番多かった。腹を切って責任を取るのが武士の生き方
- 中川:
-
私は、中学や高校のとき、あまり歴史は好きではありませんでした。でも、氣の世界とかかわるようになって、昔の人たちの思いが、今の人たちに大きな影響を与えているのではと思うようになり、歴史に興味を持ち始めました。
ですから、歴史の専門家である山本先生にお会いできるのは、とても楽しみにしていました。学校で習う歴史は、何年にどんなことがあったというような話ばかりで、あれだと、本当の歴史の面白さというのはわからないと思うのですが。 - 山本:
- 年号と事項を覚えていって、それを順番に並べるというのは、つまらないですよね。歴史の中で起こったさまざまな出来事を、ひとつのドラマとか物語としてとらえていけば、もっとみなさん、歴史に興味をもってくれると思うのですが。細かく専門的に研究していくとなると、事件の関係性や展開を見たり、情報の流れを知るために、いつその事件が起こったかということがわからないといけませんから、年号も重要になってきます。でも、最初に年号から入ると嫌になる人も多いでしょうね。
- 中川:
- 歴史を楽しく学べるようにということで、先生が監修されているまんがが出ていますよね。あれはいいなと思います。
- 山本:
-
ビリギャルって、話題になっていますよね。「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」という長いタイトルの本が評判になって、映画にもなりました。この本に、勉強ができない子は、まんがで勉強すればできるようになると書いてある影響で、学習まんがが爆発的に売れています。カドカワから出た学習シリーズ『日本の歴史』の監修を頼まれて、担当することになったということなんですよ。 - 中川:
- そうでしたか。テレビにも出演されたり、大活躍の先生ですが、今、日本人がどこか自信をなくしてしまったり、日本という国の先行きがとても不透明だったりする中で、歴史を学んでいくということは大切だなと思います。
- 山本:
- その通りですね。日本人と中国人、あるいは韓国人、アメリカ人とは、価値観や考え方が違うわけですね。なぜ、違うのか。長い歴史の中で形成されてきたものがあるからですね。どうして日本人はこういう考え方をするようになったか。それは、歴史を紐解かないとわからないですよ。
- 中川:
-
私は、先生の書かれた「武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった」という本を興味深く読ませていただきました。
日本人には、腹を切る文化があった。つまり、死んで責任を取るということですよね。切腹というのは、日本独自のもので、武士として生きる上では、常に腹を切る覚悟をして生きてきたわけです。とても強烈な生き方で、今の日本人にも影響を与えているのではと、思えてならないんですね。
先生のご専門は江戸時代ということですが、江戸時代にも切腹はあったんですね。 - 山本:
- 江戸時代が、一番、腹を切った時代ですね。それ以前の中世は、戦いに負けたときに、最後に腹を切るというものでした。江戸時代になって、戦いがなくなって、制度が確立して、武士はいろいろな役割を担うことになります。役人としての仕事が多くなり、役割がうまくいかなかったときには、腹を切らないといけないこともありました。今なら辞職して責任を取るわけですが、当時の武士は腹を切ることで責任を取りました。
- 中川:
- そうでしたか。戦いで負けたり、犯罪を犯したときだけ腹を切るのかと思っていました。当時の武士は、命がけで仕事をしていたわけですね。失敗が許されないということですね。
- 山本:
-
そうでしたか。戦いで負けたり、犯罪を犯したときだけ腹を切るのかと思っていました。当時の武士は、命がけで仕事をしていたわけですね。失敗が許されないということですね。けないということです。しかし、その弊害として、失敗を次に生かすということができないんですね。それは、近代になっても続いていて、旧日本軍でも、戦いに敗れると、そのまま指揮官がピストル自殺をしてしまいます。そうやって責任を取ります。それは潔いことではありますが、失敗から学ぶことはたくさんあるはずです。なぜ失敗したかを究明して次に生かすのが大切なのに、死んでしまったら、それができないですね。
日本人には、今でも、そういう傾向はありますね。
<後略>
(2015年10月21日 東京都文京区の東京大学史料編纂所にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介
「武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった」 山本博文 著 (幻冬舎)
当時、私は大学病院に勤務していまして、1週間の休みというのはなかなかとれなかったんですね。しかし、その年だったか、冬休みにスキーに行きたい医局員の希望を聞いてくれて、2週間の夏休みを2回にわけてとれるようになったのです。私は夏休みを1週間だけにして、2月の合宿に合わせて1週間の休みをとる計画をしていたので、思い切って参加してみました。
自分でも氣が出せるとなると、うれしくて感動しましてね。家へ帰ったら、まずは家内や子どもで試しました。でも、本当にやりたいのは医療現場での治療ですから、そういうチャンスをうかがっていました。最初は、アルバイト先の病院に運ばれてきた手と足を痛めた主婦でした。息子さんに突き飛ばされたらしいのですが、レントゲンを撮っても骨には異常がありませんでした。でも、痛くてたまらない。普通は、痛み止めの注射と湿布で終わりですが、ふと氣功をやってみようと思って、患者さんの足に手をかざしました。患者さんには氣功のことは何も言いませんでした。5分くらいしたでしょうか。「痛みがとれてきた」って言うですね。それでうれしくなって、手にも氣功をやったら、こちらも痛みが軽くなりました。やったーと思いましたよ(笑)
2010年に神戸で公共放送が抱える問題を考える集会がありました。私は、もともとNHKにいたということで、スピーカーとして登壇しましたが、そのあとで、井上邦子さんという方が私のところへお越しになって、興味深いお話をしてくださいました。これまで語られてきた奄美の本土復帰運動と、実際に運動にかかわった人たちとの実感の間には、ずれがあるので、もし、興味があったら、一緒に調べてみませんかということでした。
軍政下におかれて、奄美では人の行き来も、物の流れも制限されていました。人や物をつなぐ命綱が船だったんですね。私がやってきたテレビの仕事は、人と人とを映像で結ぶコミュニケーションの道具じゃないですか。もっと物理的に人と人とを結ぶのが船ですよね。奄美にも、船によって教科書とか本も運ばれていましたから、船がメディアの役割を果たしていたんだなと、改めて自分と金十丸の役割の共通点が浮かび上がってきたりもしました。
今の学校教育というのは、トーク&チョーク方式と呼んでいますが、先生が黒板に板書して、それをノートに写させて、しっかりと覚えておけよという方法です。先生が教えてくれたことをどれだけ正確に覚えるか、それが学力を計る物差しとなります。そういうやり方にうまく対応できる人間をどんどんと作っていけば、社会がうまく流れて行くという考え方ですね。
私のような団塊の世代も、同じような教育を受けてきました。しかし、私たちが子どものころは、野原や河原、道端で、いろいろと遊びを工夫していました。学校では型にはまった教育を受けましたが、遊びの中から知恵が生み出されました。今は、生活の中で工夫をする余地もありません。何でも与えられて、それ以外はダメということになり、その枠にきちんとはまる子がいい子だと評価されます。
37歳のときに、お金がない、人脈がない、ノウハウがないという中で、「ブリキのおもちゃ博物館」をオープンさせて、そのあともいろいろとありましたが、本当にいい人生を送れていると感謝しています。開設当初、妻とスタッフと3人で、いつかだれもが一度は足を運んでくれる「横浜の名所」にしようと、夢を語り合っていたのを、よく覚えていますよ。熱意、情熱、夢があれば、何とかなるということを学びましたね。
そんな中学時代ですから、高校なんて行けないと思っていました。でも、父親が高校くらい行っておけと言うので、考え直して、何とか高校に滑り込むことができました。ここで、すばらしい先生に出会いました。担任でラグビー部の顧問をしていた沢辺利夫という先生です。僕がテストで60点をとったら、自分のことのように喜んでくださって、「北原、お前はやればできるじゃないか、すごいな!」と褒めてくれました。それがうれしくて、先生に褒められたい一心でがんばりました。そしたら、ビリで入学した僕が、トップで卒業しましたからね。先生に言われた「やればできる」という言葉は、今でも僕の生き方の根底にしっかりと根付いていますよ。
50歳くらいになったとき、このままではお金と人の心配ばかりで一生が終わってしまうかもしれないと思いましてね。それで、会社を辞めようと決心しました。でも、当時、一人で子ども2人を育てていましたので、自分のできることで稼がないといけません。それで、ビジネスコンサルタントをしたり、マーケティングや女性の仕事についての本を書いていました。あのころは、女性で事業をしているという人は珍しかったので、あちこちから声がかかり、おかげさまで、子どもたちはアメリカの大学へ行き、無事に卒業することができました。
詩集を出したあと、いろいろとお手紙をいただきました。いただいた手紙を読んだとき、これが私の中の一番いいものかもしれないと思いました。
ありがとうございます。長くかかりましたが、私がやっていることも、やっと受け入れられつつあるかなと感じています。でもまだまだやることはたくさんありますよ。治療実績を上げながら、理論的な裏付けもとっていかないといけなくて、治療ばかりではなく、データをとって、論文を出すこともとても大事な仕事だと思っています。
何なんでしょうね(笑)。組織に所属して働くことは自分にはできないと思っていましたが、それ以外は、生きるためにいろいろなことをやってきました。ずっと志してきたのは作曲家です。ステージに立って演奏するよりも、メロディを作って作品を残すことに生き甲斐を感じています。若いころ、大手のレコード会社からデビューする寸前までいきました。会社も、日本を代表する作曲家に育てようと力を入れてくれたのですが、いろいろと行き違いがあって、チャンスをつぶしてしまいました。
いえ、川崎にいました。地震の報を聞いて、家がどうなっているか心配で、飛んで行きたかったのですが、道路は寸断されていましたし、近所の人に電話をしようとしてもつながりません。本当にやきもきしましたよ。
思い入れも、思い出もいっぱいですよ(笑)。もう25年ですか。20周年のときにもお話ししたかもしれませんが、先代が下田の沖ヨガ研修所を訪ねて来てくださったときのことはよく覚えています。真っ白な髪の毛、白い髭。あの風貌は、一度見たら忘れられません。何か、すごい力をもっておられる方だと、そのとき感じましたね。最初にお会いしたのは1989年の年末で、翌年の1月にも道場にお越しになりました。最初のときに、沖ヨガの創始者である沖正弘先生の本をお渡ししたのですが、それを全部、読んでくださって、何か感じるところもあったようで、この研修所で医療氣功師を養成する講座を開きたいというお話をされました。2000人の医療氣功師を養成するのが急務なのだとおっしゃっていました。
そうですね。ゼミで、「人間とは何か」に迫るテーマを探してくるよう、学生たちに課題を出したら、一人の学生が「真氣光」を選んできました。合宿があるので先生もぜひ行ってみてくださいと言うので、素直に「はい」と言って、受講しました。私は、学生時代から坐禅をやり、長く内観の指導もしていますので、氣とか心のことについてはとても興味がありました。でも、坐禅にしろ、内観にしろ、静かに自分を見つめるものですから、下田での合宿のあのすごい状態にはびっくりしましたね。
音大の1年生のときでした。先代から、精神修養だから来いって言われまして…。氣は、実験台として、よく受けさせられていました(笑)。氣を受けるといろいろと反応もありましたが、それが精神的なものともかかわっているとは、あのころは思っていませんでした。精神的に強くなれるなら行こうと思って、参加しました。
違いますね。ドラマの照明は、主役を際立たせるのが大切ですが、ドキュメンタリーの照明になると、出演者の方があまり緊張しないようにしないといけませんし、普段の状態がうまく出せるようにすることも重要です。見ている人にも、照明を当てて撮っているとわからないようにしたいというのもありますね。なるべく、自然な姿が撮れるようにというのがドキュメンタリーの照明の役割です。ときには、照明を当てない方がいいと思うときもあって、そんなときは、照明を使わないことを監督にすすめます。
白鳥監督からは、テレビのような公共の電波では取り扱えないけれども、とても大事なテーマだということで、祈りについての映画を作りたいとオファーをいただきました。というのも、監督自身が脳腫瘍におかされて、死を覚悟していた時期がありました。映画に出た子どもたちが祈ってくれたことで、監督は難病を克服することができました。打ち合わせのときに声も出せなくて筆談で話していた監督が、祈りによって回復していくのを、そばで見ていましたから、そういう不思議な力があるということは、私もよくわかっています。アメリカロケでも、がん患者さんのまわりを何人もの方で囲んで祈っている場面にでくわしました。見えないけれども、そこには何かすごい力が宿っているなというのを実感しました。