2015年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「山本 博文」さん

山本 博文(やまもと ひろふみ)さん

1957年岡山県生まれ。東京大学史料編纂所教授。日本近世史を専門として、武家社会や武士道精神など、江戸時代に関する研究で知られる。NHK総合テレビ「タイムスクープハンター」シリーズの時代考証など、多くのメディアで活躍。92年、「江戸お留守居役の日記」で第40回日本エッセイイスト・クラブ賞受賞。著書「武士はなぜ腹を切るのか」(幻冬舎)「武士道の名著 日本人の精神史」(中公新書)ほか多数。

『武士の生き方、死に方。先人の思いを感じながら歴史を学ぶ』

江戸時代は切腹が 一番多かった。腹を切って責任を取るのが武士の生き方

中川:
私は、中学や高校のとき、あまり歴史は好きではありませんでした。でも、氣の世界とかかわるようになって、昔の人たちの思いが、今の人たちに大きな影響を与えているのではと思うようになり、歴史に興味を持ち始めました。
ですから、歴史の専門家である山本先生にお会いできるのは、とても楽しみにしていました。学校で習う歴史は、何年にどんなことがあったというような話ばかりで、あれだと、本当の歴史の面白さというのはわからないと思うのですが。
山本:
年号と事項を覚えていって、それを順番に並べるというのは、つまらないですよね。歴史の中で起こったさまざまな出来事を、ひとつのドラマとか物語としてとらえていけば、もっとみなさん、歴史に興味をもってくれると思うのですが。細かく専門的に研究していくとなると、事件の関係性や展開を見たり、情報の流れを知るために、いつその事件が起こったかということがわからないといけませんから、年号も重要になってきます。でも、最初に年号から入ると嫌になる人も多いでしょうね。
中川:
歴史を楽しく学べるようにということで、先生が監修されているまんがが出ていますよね。あれはいいなと思います。
山本:
ビリギャルって、話題になっていますよね。「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」という長いタイトルの本が評判になって、映画にもなりました。この本に、勉強ができない子は、まんがで勉強すればできるようになると書いてある影響で、学習まんがが爆発的に売れています。カドカワから出た学習シリーズ『日本の歴史』の監修を頼まれて、担当することになったということなんですよ。
中川:
そうでしたか。テレビにも出演されたり、大活躍の先生ですが、今、日本人がどこか自信をなくしてしまったり、日本という国の先行きがとても不透明だったりする中で、歴史を学んでいくということは大切だなと思います。
山本:
その通りですね。日本人と中国人、あるいは韓国人、アメリカ人とは、価値観や考え方が違うわけですね。なぜ、違うのか。長い歴史の中で形成されてきたものがあるからですね。どうして日本人はこういう考え方をするようになったか。それは、歴史を紐解かないとわからないですよ。
中川:
私は、先生の書かれた「武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった」という本を興味深く読ませていただきました。
日本人には、腹を切る文化があった。つまり、死んで責任を取るということですよね。切腹というのは、日本独自のもので、武士として生きる上では、常に腹を切る覚悟をして生きてきたわけです。とても強烈な生き方で、今の日本人にも影響を与えているのではと、思えてならないんですね。
先生のご専門は江戸時代ということですが、江戸時代にも切腹はあったんですね。
山本:
江戸時代が、一番、腹を切った時代ですね。それ以前の中世は、戦いに負けたときに、最後に腹を切るというものでした。江戸時代になって、戦いがなくなって、制度が確立して、武士はいろいろな役割を担うことになります。役人としての仕事が多くなり、役割がうまくいかなかったときには、腹を切らないといけないこともありました。今なら辞職して責任を取るわけですが、当時の武士は腹を切ることで責任を取りました。
中川:
そうでしたか。戦いで負けたり、犯罪を犯したときだけ腹を切るのかと思っていました。当時の武士は、命がけで仕事をしていたわけですね。失敗が許されないということですね。
山本:
そうでしたか。戦いで負けたり、犯罪を犯したときだけ腹を切るのかと思っていました。当時の武士は、命がけで仕事をしていたわけですね。失敗が許されないということですね。けないということです。しかし、その弊害として、失敗を次に生かすということができないんですね。それは、近代になっても続いていて、旧日本軍でも、戦いに敗れると、そのまま指揮官がピストル自殺をしてしまいます。そうやって責任を取ります。それは潔いことではありますが、失敗から学ぶことはたくさんあるはずです。なぜ失敗したかを究明して次に生かすのが大切なのに、死んでしまったら、それができないですね。
日本人には、今でも、そういう傾向はありますね。

<後略>

(2015年10月21日 東京都文京区の東京大学史料編纂所にて 構成/小原田泰久)

著書の紹介

「武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった」 山本博文 著 (幻冬舎)

           

11月 「山田 義帰」さん

山田 義帰(やまだ よしき)さん

1954年生まれ兵庫県出身。奈良県立医科大学卒業。1991年真氣光研修講座を受講。1994年に大和郡山市で 慈恵クリニックを開設、2003年にJR関西線・大和小泉駅前に移転し、ホリスティックな医療に取り組む。ホリスティックスピリチュアル医学研究会代表理事、日本ホリスティック医学協会理事。著書「ガンと共に生きる!~ホリスティック医療のすべて~」(文芸社)ほか多数。
<a href="http://www.jikei-clinic.com/index.html" target="_blank">http://www.jikei-clinic.com/index.html</a>

『スピリチュアルをベースに医師とヒーラーが手を組む医療を』

医療現場で氣功を使いたくて、ハイゲンキを買って下田にも参加

中川:
山田先生のことは、西本真司先生(西本クリニック院長)から、よくお聞きしているのですが、お会いするのは初めてですね。もっと早くにごあいさつにくればよかったのですが、本当に失礼しました。
山田:
こちらこそ、お会いしたいと思いながら、なかなか実現しませんでした。先代にはとてもお世話になりました。私が知ったときは、中川氣功と言っていましたが、今は、真氣光と言っているんですね。ずいぶんと前の話になりますね。新しい会長は、どういう活動をされているのか、ずっと気にはなっていたのですが。
中川:
会社で調べたら、山田先生がハイゲンキを買われたのは1990年で、翌91年には下田で行われていた真氣光研修講座(当時の医療氣功師養成講座)に参加されていますね。
山田:
そうですね。ハイゲンキも東京へ学会に行った帰りに寄って、その場で購入しました。合宿は2月4日に研修所に入っていると思います。確か、うちの末っ子が生まれた日でしたから。家内に怒られるのを覚悟して合宿に参加しました。(笑)
中川:
お子さんが生まれた日ですか。
山田:
当時、私は大学病院に勤務していまして、1週間の休みというのはなかなかとれなかったんですね。しかし、その年だったか、冬休みにスキーに行きたい医局員の希望を聞いてくれて、2週間の夏休みを2回にわけてとれるようになったのです。私は夏休みを1週間だけにして、2月の合宿に合わせて1週間の休みをとる計画をしていたので、思い切って参加してみました。
中川:
そうでしたか。先生は外科医ですよね。それで、どうして氣功に興味をもたれたのですか?
山田:
西洋医学でのがんの治療というのは、手術で切除したり、放射線で焼いたり、抗がん剤でがん細胞を殺すというものです。しかし、そういう治療は、患者さんにけっこうダメージを与えるんですね。治療現場では、治療が進むに従って、どんどんと弱っていく患者さんを毎日のように見るわけですよ。何とかならないかと、ずっと思っていました。自然治癒力を高めてがんを治す方法はないのかと、そんなことばかり考えていましたね。
中川:
当時の下田の講座ではびっくりされたことがたくさんあったのではないですか?
山田:
いろいろな現象が起こっていましたからね。私も体が大きく揺れたりして驚きましたが、霊障って言うんですか、氣を受けると、体が動くばかりじゃなくて、唸り声や大声を上げたり、あちこち走り回ったりする人がいっぱいいてね。びっくりしました。でも、あれを見せてもらったのが、今の活動にもつながっているんじゃないかと思ってますね。
それに、一週間で氣が出せるとうたっているのに、氣の出し方をまったく教えてくれない(笑)。ホンマに氣が出るようになるのかと、心配になったのを覚えていますよ。
でも、5日目の夜だったかなあ。やっと氣を出すトレーニングがあって、そのとき、私が氣を送ると、相手の人がグラグラと揺れたので、自分にも氣が出せたと、とてもうれしかったですね。
中川:
そうでしたよね。真氣光の場合は、テクニックではないんですね。先代も、氣は心だとよく言っていました。心の持ち方が変わればいい氣が出るんだということで、見えない世界のことについて、いろいろな角度から話を聞いて、意識を変えていくことで、氣が出るようになるという講座でしたね。
先生は、氣が出るようになって、すぐに医療現場で試されたんですよね。
山田:
自分でも氣が出せるとなると、うれしくて感動しましてね。家へ帰ったら、まずは家内や子どもで試しました。でも、本当にやりたいのは医療現場での治療ですから、そういうチャンスをうかがっていました。最初は、アルバイト先の病院に運ばれてきた手と足を痛めた主婦でした。息子さんに突き飛ばされたらしいのですが、レントゲンを撮っても骨には異常がありませんでした。でも、痛くてたまらない。普通は、痛み止めの注射と湿布で終わりですが、ふと氣功をやってみようと思って、患者さんの足に手をかざしました。患者さんには氣功のことは何も言いませんでした。5分くらいしたでしょうか。「痛みがとれてきた」って言うですね。それでうれしくなって、手にも氣功をやったら、こちらも痛みが軽くなりました。やったーと思いましたよ(笑)

<後略>

(2015年9月17日 奈良 県大和郡山市の慈恵クリニックにて 構成 小原田泰久)

           

10月 「永田 浩三」さん

永田 浩三(ながた こうぞう)さん

1954年大阪生まれ。東北大学教育学部卒業。1977年NHKに入社。ドキュメンタリー、教養番組に携わり、ディレクター、プロデューサーとしてたくさんの番組を作ってきた。「芸術作品賞」「放送文化基金賞」「ギャラクシー賞」などを受賞し、「菊池寛賞」を共同受賞した。2009年にNHKを退社し、現在、武蔵大学社会学部教授。著書に「ベン・シャーンを追いかけて」(大月書店)「NHKと政治権力」(岩波現代文庫)「奄美の奇跡」(WAVE出版)などがある。

『非暴力、団結、若者たち。奄美の本土復帰運動から学ぶべきこと』

ある出会いから、奄美の本土復帰運動について調べることに

中川:
永田先生の書かれた「奄美の奇跡」という本を読ませていただきました。私どもは氣をテーマに活動をしていますが、会員さんの中には、奄美の方も多くいますし、スタッフにも奄美出身者がいます。私も、何度か奄美大島へは行っていまして、奄美には、とても興味をもっています。戦後、奄美はアメリカの支配下にあってとてもつらい思いをしていて、島民をあげての本土復帰の運動があったことは知っていましたが、先生のご著書を読ませていただいて、こんなドラマがあったんだと、改めて奄美への関心が深まりました。
永田:
それはありがとうございました。私も、ひょんなご縁から奄美のことを調べることになったのですが、何度も出かけて行って、たくさんの人にお会いして、とても大切なことを教えられました。
中川:
ひょんなご縁というのは、どういうものだったのでしょうか?
永田:
2010年に神戸で公共放送が抱える問題を考える集会がありました。私は、もともとNHKにいたということで、スピーカーとして登壇しましたが、そのあとで、井上邦子さんという方が私のところへお越しになって、興味深いお話をしてくださいました。これまで語られてきた奄美の本土復帰運動と、実際に運動にかかわった人たちとの実感の間には、ずれがあるので、もし、興味があったら、一緒に調べてみませんかということでした。
私は、奄美のことについてはあまり知らなかったので、勉強させてくださいとお話ししました。そしたら、井上さんは、たくさんの本や雑誌や新聞を送ってくださいました。それが、そもそもの始まりでした。
中川:
神戸ですか。神戸と奄美は関係が深いという話を聞いたことがありますが。
永田:
そうです。20年前の阪神大震災のとき、私は取材で、かなり長い間、神戸に滞在しました。被災された方に話を聞いて回ったのですが、神戸にはずいぶんと奄美出身の人が多いなと思ったのを覚えています。それで、いろいろと取材していくうち、被害のひどかった長田区に沖お きのえらぶ永良部島のコミュニティがあって、島の人たちが震災で大変な目にあいながらも、助け合っているというのを知りました。
第二次世界大戦後、奄美がアメリカの占領下にあった軍政時代の8年間、奄美の人たちは、密航で本土へやって来るわけですが、神戸は、密航の人たちの拠点だったということもわかってきました。当時、奄美の産業である、大島紬とか黒糖を現物でもってきて、神戸でお金に換えるという仕組みがあったんですね。井上さんとお話しして、そんなことを思い出しました。
中川:
こういう本を書かれるのは大変なエネルギーが必要だと思いますが、阪神大震災のときに奄美のコミュニティとの触れ合いがあったように、いろいろな偶然が重なって、導かれるように作品作りをするということがあるかと思います。
先生の本を読ませていただいて、冒頭に金かな十と丸まるという船のことが出てくるのですが、最後まで読んでびっくりしたのは、その船を作ったのが、何と先生のご実家だったということでした。ご実家は、造船所だったんですね。
奄美ととても縁の深い船が、先生ともとても縁が深かったわけで、何か私は因縁めいたものを感じてしまいます。
永田:
金十丸は、戦争中、奄美と本土を結ぶ船でした。たくさんの船が空襲とか機雷によって沈められたのに、金十丸だけは生き延びて、奄美と本土を結ぶ命綱になっていくんですよ。この船が、私の実家の藤永田造船所で作られたということがわかりました。そのことを知っていて奄美を調べたわけではなくて、後からわかったことでした。
金十丸は、奇跡の船とか海の貴婦人とか言われた船でした。奄美が本土に復帰した後は、沖縄とか台湾を結ぶ船として使われましたが、西表島で、台風をやりすごすために、港に入ろうとして座礁して、22年の短い生涯を終えてしまいました。その2年後に、うちの実家も三井造船という大会社に合併吸収されてなくなってしまいましたから、何ともシンボリックな船かなと思います。
中川:
意味ありげなエピソードですよ。先生が奄美に興味をもたれたのは、私がやっている氣の観点から言えば、何か目に見えないところで引き寄せられるものがあったのだと思いますね。
永田:
軍政下におかれて、奄美では人の行き来も、物の流れも制限されていました。人や物をつなぐ命綱が船だったんですね。私がやってきたテレビの仕事は、人と人とを映像で結ぶコミュニケーションの道具じゃないですか。もっと物理的に人と人とを結ぶのが船ですよね。奄美にも、船によって教科書とか本も運ばれていましたから、船がメディアの役割を果たしていたんだなと、改めて自分と金十丸の役割の共通点が浮かび上がってきたりもしました。

<後略>

(2015年8月21日 東京都練馬区の武蔵大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

奄美の奇跡「祖国復帰」若者たちの無血革命  永田 浩三 著  (WAVE出版)

           

9月 「汐見 稔幸」さん

汐見 稔幸(しおみ としゆき)さん

1947年大阪府生まれ。東京大学教育学部卒。同大学院博士課程修了。現在、白梅学園大学学長、東京大学名誉教授。専門は教育学、育児学。育児や保育を総合的な人間学と位置づけ、その総合化=学問化を自らの使命と考えている。主な著書に、「はじめて出会う育児の百科(共著、小学館)「小学生 学力を伸ばす 生きる力を育てる」(主婦の友社)「本当は怖い小学一年生」(ポプラ新書)などがある。

『目に見えない世界を感じる力を磨いていくことこそ教育の本質』

答えのわかっていない問題を解決する力が求められている

中川:
この対談では、さまざまな分野の方にお話をうかがっていますが、あまり教育関係の方をお迎えする機会はありませんでした。今回は、教育の専門家である汐見先生ということで、とても楽しみにしていました。
汐見:
ありがとうございます。この「月刊ハイゲンキ」を拝見していたら、沖ヨガの龍村修先生が記事を書いておられるので、びっくりしました。私も、ヨガと言いますか、ヨガもどきをやっていまして(笑)、私が指導を受けている先生と龍村先生とは、沖ヨガの弟子仲間ということで、龍村先生ともその縁で親しくさせていただいています。
中川:
そうですか。それは驚きです。龍村先生は、私の父の時代から、お世話になっていて、今でも毎月行っている真氣光研修講座の講師をしていただいています。
龍村先生とのご縁は知らなかったのですが、私は、汐見先生のお書きになった「本当は怖い小学一年生」という本を読ませていただいて、教育の世界も、いろいろな問題を抱えているんだなと、改めて思いました。それで、教育のことに興味をもって、お話をうかがえればと思いうかがったという次第です。
汐見:
私は、学校にもヨガを取り入れたらいいんじゃないかと、真剣に考えているくらいです。今は、大きな過渡期にあって、学習指導要領も、国が変えようとしているところです。
中川:
過渡期ですか。
汐見:
今の学校教育というのは、トーク&チョーク方式と呼んでいますが、先生が黒板に板書して、それをノートに写させて、しっかりと覚えておけよという方法です。先生が教えてくれたことをどれだけ正確に覚えるか、それが学力を計る物差しとなります。そういうやり方にうまく対応できる人間をどんどんと作っていけば、社会がうまく流れて行くという考え方ですね。
たとえば企業なら、作るものが決まっていて、いかに早く作るか、いかにたくさん売るかというのが大事なテーマだという時代では、そういう教育をやって、とにかくがんばる人材を作れば結果は出ます。外国が7時間働くなら、こちらは9時間、10時間働くぞということで、競争に勝てるわけです。受験勉強というのは、そのためのトレーニングです。四当五落でがんばった子どもが、人生の勝ち組となります。
「蛍の光」という歌がありますね。あれは、貧しい環境でがんばる人間こそ立派だと思わせるための歌です。
中川:
二宮金次郎の像も、そういう意味ですよね。薪を背負い働きながら勉強をしている。とにかく、がんばって欧米に追い付くんだということでしょうね。
汐見:
とにかく、がんばることが大事だと教え込もうとしてきました。でも、仏教では、がんばるというのは、「我を張る」ということで、してはいけないという意味だったそうです。我執にこだわる、無理をする。自分の体が求めてないことをするという意味です。
中川:
とにかく、我慢してがんばるのが偉いという教育で、そのトレーニングの場が学校だったんですね。でも、それがあったからこそ、日本は大きく発展してきたという面もありますよね。
汐見:
確かに、そういうやり方が良かった時代があります。ところが、今の日本は、成熟社会になって、がんばれ、がんばれでは立ち行かなくなっています。
人々は何をほしがっているのか、地球の環境はどうなのかまで考えていかないといけないようになってきました。産業も、新しいアイデアを柔軟に生み出す知性がないと、世界に太刀打ちできなくなっています。学校時代に、これを覚えておけばいいんだというような教育ばかりを受けていたのでは、指示された通りにやることはできても、果たして、新しいものや関係を美しく生み出す力がつくのだろうかということですね。
中川:
過去の経験だけでは解決できないことがいっぱいありますからね。ゼロから何かを作り出すかというような発想力が必要ですね。
汐見:
私のような団塊の世代も、同じような教育を受けてきました。しかし、私たちが子どものころは、野原や河原、道端で、いろいろと遊びを工夫していました。学校では型にはまった教育を受けましたが、遊びの中から知恵が生み出されました。今は、生活の中で工夫をする余地もありません。何でも与えられて、それ以外はダメということになり、その枠にきちんとはまる子がいい子だと評価されます。
このままだと、地球環境は悪くなるし、人口は増えるし、貧困も大変だという世の中になっていきます。だれも答えをもっていない問題に立ち向かっていかないといけないわけです。今までの教育の中で、いいと評価されてきた中身では、とても手に負えないのではないでしょうか。私は、「大人たちは地球資源を無駄使いして許せない。俺たちはこうやって世の中を良くしてやる!」と言うくらいの気概のある若者が出てきてほしいと思っていますよ。

<後略>

(2015年7月7日 東京都 小平市・白梅学園大学にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「本当は怖い小学一年生」 汐見稔幸 著(ポプラ新書)

           

8月 「北原 照久」さん

北原 照久(きたはら てるひさ)さん

1948年東京生まれ。1986年「多くの人に見て楽しんでもらいたい」という思いで、横浜山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館。ブリキのおもちゃのコレクターとして世界的に知られている。株式会社トーイズ代表取締役、横浜ブリキのおもちゃ博物館館長、箱根北原おもちゃミュージアム館長、河口湖北原ミュージアム館長。テレビ東京「開運! なんでも鑑定団」に鑑定士としてレギュラー出演。著書は「横浜ゴールドラッシュ」「夢はかなう きっとかなう」(一季出版)「珠玉の日本語・辞世の句」(PHP研究所)「facebook100の言葉」(たちばな出版)「出会い 夢 感謝 北原照久の人生コレクション」(マネジメント社)ほか多数。

『「ありがとう」と「やればできる」を胸に夢を叶えてきた』

最低の状態のときに、母親の言葉で生き方が大きく変わった

中川:
今日は、お忙しいところ、お時間を作っていただきましてありがとうございます。テレビでちょくちょく拝見しているので、初めてお会いするような気がしません(笑)。テレビの「開運! なんでも鑑定団」は、もう20年を超えるそうですね。
北原:
鑑定団は、もう22年になりますね。皆勤賞は、僕だけですよ。テレビは、地元の番組を含めて、今4本かな。それにラジオがあって、講演は年に150回。毎日、講演しているって感じですね。一日に3回講演をしたこともあります。今67歳ですが、人生で一番忙しくて、充実していますよ。
42歳の厄年のときに、10年後、20年後、今が一番いいという人生を送りたいと言った覚えがありますが、まさにその通りになっていますね。
中川:
常に今が一番ですか。それは間違いなく充実の人生ですね。
北原:
37歳のときに、お金がない、人脈がない、ノウハウがないという中で、「ブリキのおもちゃ博物館」をオープンさせて、そのあともいろいろとありましたが、本当にいい人生を送れていると感謝しています。開設当初、妻とスタッフと3人で、いつかだれもが一度は足を運んでくれる「横浜の名所」にしようと、夢を語り合っていたのを、よく覚えていますよ。熱意、情熱、夢があれば、何とかなるということを学びましたね。
中川:
人生の転機もいろいろとあったでしょうね。
北原:
ありました、ありました。波乱万丈と言ってもいいかもしれませんね。だけど、いつもまわりに助けられて、ピンチをチャンスにすることができました。
特に、まわりの人たちがかけてくれた言葉には本当に救われました。実は、僕は言葉のコレクターでもあります。言葉にはすごいエネルギーがありますね。僕は、それを実感してきたから、いい言葉を集めて、それをフェイスブックや本で発信しています。
中川:
言霊と言いますからね。言葉によって人は大きく変わりますね。何か、言葉のエネルギーを感じたきっかけというのはあるのですか?
北原:
中学生のとき、反抗期がひどくて、ほとんど学校へ行きませんでした。学校をさぼって、映画館や遊園地をブラブラしていました。喧嘩もしたし、結局、退学になってしまいました。越境入学をした中学校だったので、本来の校区にある学校へ戻れというわけですよね。さすがに落ち込みました。そのときに、母親に言われた言葉が胸に響きましたね。僕は、てっきり怒られるものだと思い込んでいましたから。
母は、こう言ったんですね。
「すんだことはしょうがな
い。お前はこれからの人生の方が、これまでよりも何倍も長いんだよ。めげることはないよ」
さらに、こんなことも言ってくれました。
「人生はやり直しはできないが、出直しはいつでもできる。それに、お前はタバコを吸わないじゃない。いいとこあるよ」
心にすーっと染みましたね。確かに、僕はタバコには一度も手を出していませんでした。悪さばかりやっている息子なのに、きちんと見ていてくれていたんですね。
そしてもうひとつ。
「お前は本当はやさしい子なんだよ。だって、お前は花を踏まなかったじゃないか」
幼稚園のころ、初めて新品のゴム長靴を買ってもらって、うれしくて水たまりではしゃいでいたとき、傍らにあった花をよけて踏まなかったことを褒めてくれたんですよ。うれしかったですね。
中川:
すてきなお母さんですね。普通なら、カンカンになって怒るんでしょうけどね。人は、褒められるとエネルギーが湧き上がってきますね。特に、母親から褒められるのはうれしいものですよ。
北原:
そんな中学時代ですから、高校なんて行けないと思っていました。でも、父親が高校くらい行っておけと言うので、考え直して、何とか高校に滑り込むことができました。ここで、すばらしい先生に出会いました。担任でラグビー部の顧問をしていた沢辺利夫という先生です。僕がテストで60点をとったら、自分のことのように喜んでくださって、「北原、お前はやればできるじゃないか、すごいな!」と褒めてくれました。それがうれしくて、先生に褒められたい一心でがんばりました。そしたら、ビリで入学した僕が、トップで卒業しましたからね。先生に言われた「やればできる」という言葉は、今でも僕の生き方の根底にしっかりと根付いていますよ。

<後略>

(2015年6月26日 横浜ブリキのおもちゃ博物館にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「出会い 夢 感謝 北原照久の人生コレクション」 北原 照久 著 (マネジメント社)

           

7月 「堤 江実」さん

堤 江実(つつみ えみ)さん

詩人、エッセイスト。文化放送アナウンサーを経て、現在、詩、翻訳、絵本、講演など幅広いジャンルで活躍中。世界一周クルーズ「飛鳥Ⅱ」では詩の朗読教室を、また自作の詩の朗読コンサート&ワークショップ、日本語の研修などを通して詩と言葉の魅力を伝えている。著書に「日本語の美しい音の使い方」(三五館)「何兆分の一の奇跡」(YES)「つたえたいことがあります」(三五館)ほか多数。<a href="http://homepage3nifty.com/emitsutsumi/" target="_blank">http://homepage3nifty.com/emitsutsumi/</a>

『詩を通して、日本語の美しさ、素晴らしさを伝えていきたい』

急に詩が書きたくなり、天から言葉が落ちてくるように書き出した

中川:
目に見えないエネルギーをテーマにしてきましたが、言葉というのも、一種の氣だと思っています。日本には言霊という言い方もありますしね。堤さんの詩からは、やさしいけれどもとても芯の強いエネルギーを感じますし、堤さんが書かれた日本語に関する本を読ませていただくと、言葉をこうやってとらえておられるのかと、はっとすることがたくさんありました。今日は、どんなお話をお聞きできるのか、とても楽しみにしてきました。
堤:
ありがとうございます。対談相手に選んでいただいてとても光栄です。私も、氣にはとても関心がありますので、中川会長とお会いできるのを楽しみに参りました。
中川:
堤さんは、今は詩人ということで活動されていますが、もともとはアナウンサーだったそうですね。
堤:
大学を出て最初の仕事がラジオのアナウンサーでした。大学に入学したとき、演劇部に入ろうと思っていたのですが、やたら派手で(笑)、これは合わないと思ったので、放送研究会に入りました。アナウンサーになりたいとは思っていませんでしたが、卒業するときに、全員がアナウンサーの採用試験を受けたので、私もつられるように受けたら受かったというわけです。決して、主体性があってのことではありませんでした。
アナウンサーをやったのは5年だけです。そのあと、ビジネスを立ち上げて、24年間、社長をやりました。
中川:
ビジネスをやっておられたのですか。そのあとですか、詩をお書きになるのは。
堤:
50歳くらいになったとき、このままではお金と人の心配ばかりで一生が終わってしまうかもしれないと思いましてね。それで、会社を辞めようと決心しました。でも、当時、一人で子ども2人を育てていましたので、自分のできることで稼がないといけません。それで、ビジネスコンサルタントをしたり、マーケティングや女性の仕事についての本を書いていました。あのころは、女性で事業をしているという人は珍しかったので、あちこちから声がかかり、おかげさまで、子どもたちはアメリカの大学へ行き、無事に卒業することができました。
中川:
詩は、それからなんですね。
堤:
詩は、書こうとか、書きたいと思って始めたことではないんですよ。流れに乗せられたという感じで始めました。
子どもたちが大学へ行っているとき、彼らが大学を卒業したら、3人そろって何かをするということはできなくなると思って、夏休みに、みんなでヨーロッパの友人を訪ねようという計画を立てました。私だけ先に行って、ドイツの友人宅にお世話になっていましたが、その友人がスピリチュアル系のコンベンションがあるので、2泊3日で出かけることになりました。私も、同行することにしましたが、友人と、その友人の知り合いとの車での旅で、道中、彼らはドイツ語で会話しているので、私には何を話しているかさっぱりわかりませんでした。暇を持て余していると、急に詩が書きたくなってきて、紙とペンを出して車の後ろの席で書き始めました。天から落ちてくるようにスラスラと言葉が出てきました。結局、車の中で、23篇の詩が出来上がりました。
中川:
急に、詩を書いてみようという気持ちになったんですね。そして、落ちてくるように詩が浮かんだ。何か、大きな力が、堤さんに詩を書かせたのでしょうかね。
堤:
そんな気がします。帰国してからも、とても面白い流れが起こるんですね。ある翻訳の企画を出版社に預けてあって、帰国したあと、その打ち合わせをしました。そのときに、編集者が、短い詩の本をつくりたいと言い出しました。私は、ドイツで作った詩をコピーしてもっていたので、すぐにそれを見せました。すると、詩を読んだ編集者が、実は天使の絵を描く人がいて、その絵とこの詩で一冊本を作りたいと、その場で話が決まりました。
それをきっかけに、その本を含めて、とんとん拍子に、3冊の詩集が世に出ることになるんですね。
中川:
それは、何か導かれているような感じがしますね。自分が本当にやるべきことと出あうと、びっくりするほどスムーズに事が運んでいきますからね。
堤:
詩集を出したあと、いろいろとお手紙をいただきました。いただいた手紙を読んだとき、これが私の中の一番いいものかもしれないと思いました。
私が書いたみたいとか、私が思っていたことを言ってくれているというようなお手紙がほとんどでした。だれにでも書けるって言われているのかなと、最初はむっとしましたが(笑)、ユングの集合無意識みたいなもので、みんなの思いが私のところからひょっと出ただけのことなのだと思い直したら、そこで、自分がどう詩と向き合っていけばいいか、スタンスが決まりましたね。

<後略>

(2015年5月12日 東京都新宿区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「日本語の美しい音の使い方」 堤 江実 著 (三五館)
「つたえたいことがあります」 堤 江実 著 (三五館)

           

6月 「西本 真司」さん

西本 真司(にしもと しんじ)さん

1961年和歌山県生まれ。近畿大学医学部卒業。熊本大学医学部附属病院麻酔科、熊本赤十字病院麻酔科、山鹿市立病院をへて、1996年、西本第二クリニックを開業。2006年、西本クリニックと西本第二クリニックを統合し、西本クリニック院長に就任。潰瘍性大腸炎を克服した体験をいかしたホリスティックな医療を実践している。著書に「潰瘍性大腸炎が治る本」「潰瘍性大腸炎 医師も患者もこうして直した」「奇跡のセイカン」「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」(マキノ出版)などがある。

『難病を体験したからこそ、理想の医療に近づける』

さまざまな治療法を組み合わせた統合医療によって難病にアプローチ

中川:
西本先生、お久しぶりです。今日は、呼んでいただいてありがとうございます。
西本:
こちらこそ、お忙しいのにお越しいただいてありがとうございます。ずっと、会長には、和歌山で患者さんたちに氣の話をしていただきたいと思っていました。やっと実現できました。
中川:
先生がクリニックを開業されて何年になりますか?
西本:
父親が1980年から西本クリニックを開業していまして、私は、父親と連携を取りながら治療に当たろうと、1996年に西本第二クリニックを作りました。2006年に父親が亡くなったので、2つのクリニックを西本クリニックとして統合することになりました。西本第二クリニックから数えれば、来年で20年、2つを統合してからも10年になります。
中川:
先生は、潰瘍性大腸炎という難病を患われて、当時下田で行われていた研修講座に参加され、それ以降、講師として研修講座で、病気で苦しんだときのお話、どういうふうに治癒にいたったかなど、先生ならではの笑いがいっぱいの講義をしてくださっていましたよね。
西本:
ジョークばかりで申し訳ありませんでした(笑)。私が最初に下田での研修講座を受講したのは1992年3月でした。会長は、すぐその後に受講されましたよね。あのころは、160人くらいの方が参加されていましたね。がん、リウマチといった難病や、モヤモヤ病のような大変な病気の方が、1週間でずいぶんと良くなってお帰りになったりしていましたから、私も自分の体調が良くなったのも嬉しかったですが、医師としてさまざまな症例を見ることができたことも、大きな財産になりました。
中川:
霊的な現象もたくさんあって、私も受講したときはエンジニアでしたので、正直、何が起こっているんだろうと、戸惑うことばかりでしたよ。
西本:
いろんなことが起こっていましたよね。その研修講座も25年というのですから、感慨深いものがあります。もうすぐ300回だそうですね。これだけ長く続いている講座も珍しいのではないでしょうか。それに、氣の中継器のハイゲンキも、先代が開発したものを会長のアイデアでバージョンアップしたり、新型が登場したりして、たくさんの方が使っておられて、本当に嬉しいですね。あの機械を熊本の病院で使い出したときのことを思い出しますよ。
今回も、ハイゲンキを使っている方が、どうしても会長にお会いしたいと言うものですから、思い切ってお願いして、来ていただいたわけです。その方は、網膜色素変性症という難病で、失明は免れないと病院では言われていたのですが、ハイゲンキと氣功、それに私の専門の星状神経節ブロックという方法を使って、もう10数年、症状が進んでいません。その方は、今は、マッサージと鍼灸の治療院を開いていますが、患者さんの中に、やはり網膜色素変性症の一歩手前の方がいて、その方は私のクリニックまで治療に来てくださって、氣功とハイゲンキでずいぶんと経過がいいんですね。自分で気が出せるところまで行っていたのですが、奥さんの母が他界してから少しアンバランスとなり往診でハイゲンキ治療に行ってあげたところ、同じ器械を購入したいという流れになりました。ハイゲンキ3型を購入したところです。でも、まだ真氣光を十分に理解できるところまでいっていないので、気持ちが揺れ動いたりして、症状も不安定だったりします。ほかにも、真氣光を治療に取り入れたら、もっと良くなるだろうと思える患者さんもいますので、こうやって会長にお話が聞けるのは、ありがたいことです。
中川:
西本先生は、さまざまな方法を使って難病を治療されていますよね。死後の世界のこと、魂のことも考えに入れておられる、とても珍しいお医者さんです。貴重な存在だと思いますね。
西本:
ありがとうございます。長くかかりましたが、私がやっていることも、やっと受け入れられつつあるかなと感じています。でもまだまだやることはたくさんありますよ。治療実績を上げながら、理論的な裏付けもとっていかないといけなくて、治療ばかりではなく、データをとって、論文を出すこともとても大事な仕事だと思っています。
治療実績で言えば、私自身が体験した潰瘍性大腸炎の方ですが、100人以上、薬なしで回復できるようサポートできました。これは、「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」(マキノ出版)という本にまとめたので、潰瘍性大腸炎という難病であっても、治る可能性はあるし、治療法は薬だけではないということが、少しはわかってもらえたかなと思っています。
すい臓がんや乳がんや肝臓がんの方でも、さまざまな治療法を使った統合医療的なアプローチをすることで改善している人も何人かいます。これからは、何かひとつの方法だけで治療するということではなく、いいと思える治療法をうまく組み合わせて使っていく必要があると思います。氣は、その一つとして、私はとても有効な治療法だと考えています。
私は難病がどうやって治っていくのか、そのメカニズムの謎を解きたいと、ずっと思ってきました。これからも、その謎解きに挑戦していくつもりです。自分が難病を患って回復したという体験があるから、そう思うのでしょうね。

<後略>

(2015年4月15日 和歌山市の西本クリニックにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「潰瘍性大腸炎は自分で治せる」西本真司 著(マキノ出版)

           

5月 「たくき よしみつ」さん

たくき よしみつ(たくき よしみつ)さん

作家・作曲家。1955年福島市生まれ。1991年、原子力の問題をテーマにした「マリアの父親」で第四回小説すばる新人賞を受賞。2004年の中越地震で新潟県の家を失い、川内村に移住。3・11で被災して、その年の11月に日光市に移り住む。著書は、「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」(講談社)「3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ」(岩波ジュニア新書)ほか多数。

『3・11福島での体験。そして、今、思っていること』

山あり谷ありの人生。中越地震で家が壊れ、福島でも被災することに

中川:
鹿沼市に来たのは初めてです。さっき、見学させていただいた彫刻屋台は、本当に立派なものでしたね。祇園祭の山鉾のように、あの彫刻屋台が、お祭りにときには町を巡行するわけですね。
たくき:
こちらへお越しになる方には、「これを見ないで帰る手はないよ」と言って、必ずご案内しています。すごいでしょ。江戸時代には、こんなすばらしい技術があったんですよね。この屋台もお祭りも、あまり知られていなくて残念です。もっとPRすべきだと思って、自分でも彫刻屋台を紹介するサイトを作ったりしています。(http://nikko.us/yatai/)
中川:
意外と身近にあるものは、その価値がわからなかったりしますからね。たくきさんは、ここからそう遠くない日光市にお住まいですが、こちらへ引っ越して来られてどれくらいですか?
たくき:
2011年の11 月11日に引っ越してきました。1並びで覚えやすいということで(笑)。その前は、福島県の川内村にいまして、そこで、あの3・11を迎えました。
中川:
そうでしたね。川内村というのは、福島第一原発から30キロ圏内の村ですよね。地震と原発事故という、未曽有の災害を体験されて、『裸のフクシマ 原発30キロ圏内で暮らす』(講談社)とか『3・11後を生きるきみたちへ 福島からのメッセージ』(岩波ジュニア新書)を書かれていますが、たくきさんのことは、どうご紹介すればいいでしょうか。小説家ということでいいのでしょうか。
たくき:
何なんでしょうね(笑)。組織に所属して働くことは自分にはできないと思っていましたが、それ以外は、生きるためにいろいろなことをやってきました。ずっと志してきたのは作曲家です。ステージに立って演奏するよりも、メロディを作って作品を残すことに生き甲斐を感じています。若いころ、大手のレコード会社からデビューする寸前までいきました。会社も、日本を代表する作曲家に育てようと力を入れてくれたのですが、いろいろと行き違いがあって、チャンスをつぶしてしまいました。
並行して小説家デビューも狙っていて、新人文学賞への応募も続けていました。小説は中学生のころから書いていました。長い文章を書くのは少しも苦にならないんです。「群像」という文芸誌の新人賞では、最終選考まで残りました。ただ、そのとき受賞したのが村上春樹さんだったから、ちょっと相手が悪かったかな(笑)。
1991年に、『マリアの父親』という作品で、第四回小説すばる新人賞を受賞しました。奇しくも、この作品を書くきっかけというのが、当時、活発に行われていた原発論争だったのです。あのときに、原子力についてはずいぶんと勉強しましたが、20年たった今、事実は小説よりも……の世界になってしまいましたね。
中川:
それからは、主に小説を書かれてきたのですか?
たくき:
新人賞をとっても、出版社の事情に振り回されたりして、なかなか作品を発表するチャンスに恵まれませんでした。『マリアの父親』を読んで、『たくきは、反原発の危険人物だ』と言っている人もいたみたいです。でも、思えば、今よりはずっと自由で活気のある世の中でしたね。チャンスをつぶしたのはやはり自分の責任でしょう。
結局、生きるために再びいろいろやらなければならなくなり、その後は小説だけでなく、デジタル文化論とか芸術としての狛犬とか、多岐に渡るテーマで書いてきましたし、チャンスがあれば音楽関係の仕事もしてきました。肩書は「作家・作曲家」としていることが多いですかね。
中川:
山あり谷ありということでは、2004年の中越地震でも被災されているということですね。
たくき:
今、お話ししたのは、ほんの表面的な話で、とにかく話せばキリがないほど、いろいろなことがあって、都会での生活に息苦しくなってきたんですね。音楽で大成功して、里山ひとつくらい買って、そこに一軒家を建てて、豪華なスタジオを作って、優雅に音楽三昧なんて考えていたのですが、そうはいかなかった。このままじり貧になって一生を終えることの恐怖にかられました。それで、幸せの価値観をシフトしないといけないと思い、田舎暮らしを考えました。でも、当時はまだネットの時代じゃないし、やっとファックスが出始めたころですから、首都圏に仕事場をもちながら、田舎にも家をもつという形でしたね。そういう生活をするために選んだのが新潟でした。古い家を買って、夏だけそこで仕事をし、仕事の合間に、家の修理をしたりして、十数年かけて、自分が気に入るような家にした矢先に中越地震で全部失いました。
中川:
そのときは、新潟におられたのですか?
たくき:
いえ、川崎にいました。地震の報を聞いて、家がどうなっているか心配で、飛んで行きたかったのですが、道路は寸断されていましたし、近所の人に電話をしようとしてもつながりません。本当にやきもきしましたよ。
一週間ほどして、隣のおばさんから電話があって、『残念だけど、もうダメだねえ。斜めになっているし』なんて言われ、がくっときましたねえ、あのときは。集落は、『この土地には二度と家を建ててはいけない、住んではいけない』という条件をのんで、集団移転を決めてしまいました。仕方なく、次に住む家をあちこち探し回り、川内村の阿武隈の山奥にあった売り家を見つけ、2004年の末に引っ越しました。

<後略>

(2015年3月17日 栃木県鹿沼市内の喫茶店にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす」たくき よしみつ 著 (講談社)

           

4月 「研修講座 講師」さん

研修講座 講師(けんしゅうこうざ こうし)さん

龍村 修 さん 1948年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。94年龍村ヨガ研究所を創設し、国内外でヨガの指導に従事。龍村ヨガ研究所所長、国際総合生活ヨガ研修会主宰、NPO法人沖ヨガ協会理事長、NPO法人日本YOGA連盟副理事長。主な著書に「眼ヨガ」「龍村式 耳ヨガ健康法」(以上、日貿出版社)「深い呼吸でからだが変わる」(草思社)など。

石井 光 さん 東京生まれ。東京大学大学院法学研究科博士課程を修了。青山学院大学法学部教授。犯罪学、犯罪者処遇、少年非行の教鞭をとる傍ら、オーストリア、ドイツなどヨーロッパ各地、カナダ、中国などで内観の指導を行っている。著書に「一週間で自己変革、『内観法』の驚異」(講談社)「子どもが優しくなる秘けつ」(教育出版)など。

中川 貴恵 さん 東京音楽大学声楽専攻卒業。日本オペラ振興会オペラ歌手育成部研究生修了。ミラノ、ローマ、ヴィテルボでオペラ唱法を学ぶ。イタリアで勉強中、日本の歌の素晴らしさを実感する。現在、「歌は祈り」という思いで、聴き手に親しみやすい叙情歌や唱歌を中心に活動中。老人ホームなど福祉施設でのコンサート依頼も多い。

『真氣光研修講座25周年特別企画 感動、感激、感謝、気づきの講座!会長と3人の講師が振り返る25年』

1990年3月、下田の沖ヨガ道場で合宿制の講座が始まった

中川:
今年の3月で真氣光研修講座が丸25年となりました。本当に早いものです。先代が亡くなったのが1995年ですから、それから数えても20年になります。
今回は、真氣光研修講座の講師を務めてくださっている3人の方をゲストにお迎えして、25年を振り返ってみたいと思います。25年前の第1回目からヨガを教えてくださっている龍村修先生、1994年から内観を講義してくださっている石井光先生、それに音感行法の中川貴恵の3人にお話をうかがいました。ちなみに、中川貴恵は私の妹です。
龍村先生、研修講座が始まって、もう25年になりますね。第1回目から、すべての回に、講師を務めてくださっていただき、本当にありがとうございます。先生も、きっと研修講座には、思い入れをもってかかわってくださっていると思いますが。
龍村:
思い入れも、思い出もいっぱいですよ(笑)。もう25年ですか。20周年のときにもお話ししたかもしれませんが、先代が下田の沖ヨガ研修所を訪ねて来てくださったときのことはよく覚えています。真っ白な髪の毛、白い髭。あの風貌は、一度見たら忘れられません。何か、すごい力をもっておられる方だと、そのとき感じましたね。最初にお会いしたのは1989年の年末で、翌年の1月にも道場にお越しになりました。最初のときに、沖ヨガの創始者である沖正弘先生の本をお渡ししたのですが、それを全部、読んでくださって、何か感じるところもあったようで、この研修所で医療氣功師を養成する講座を開きたいというお話をされました。2000人の医療氣功師を養成するのが急務なのだとおっしゃっていました。
沖先生も、現代医療には大きな問題があると言っていました。目に見えないエネルギーのこととか、毎日の生活のあり方には、現代医療はまったく目を向けていませんでしたから。そういう意味で、先代の話にはとても共感するところがありました。
中川:
沖先生はすでに亡くなっておられましたが、沖先生の精神性というか生き方、考え方に、先代も共鳴するものがあったのだと思いますね。
龍村:
ヨガというのは、本来は神と結ぶという意味です。神とつながるというのは、宇宙の神聖なエネルギーを中継することです。そのアンテナが曲がっていては、いいエネルギーは取り入れられませんから、体を動かしたり、呼吸を整えたりするわけです。ヨガというと、体操のように思ってしまっている方もいますが、それは大きな勘違いで、宇宙のエネルギーを生かしていくためのものなのです。そのあたりに、先代は自分の考えとの共通項を見出したのではないでしょうか。
中川:
1990年3月の第1回目の参加者は40人ほどでしたが、どんどんと増えていきましたね。
龍村:
私どもでも、企業の新入社員研修などで大人数の研修を引き受けることもありましたが、せいぜい、1年に1度とか2度で、毎月、あれだけの人が集まってきたのには、びっくりしましたね。
中川:
石井先生は下田のときに受講されて、生駒で研修をするようになってから、講師としてお越しくださっていますよね。
石井:
そうですね。ゼミで、「人間とは何か」に迫るテーマを探してくるよう、学生たちに課題を出したら、一人の学生が「真氣光」を選んできました。合宿があるので先生もぜひ行ってみてくださいと言うので、素直に「はい」と言って、受講しました。私は、学生時代から坐禅をやり、長く内観の指導もしていますので、氣とか心のことについてはとても興味がありました。でも、坐禅にしろ、内観にしろ、静かに自分を見つめるものですから、下田での合宿のあのすごい状態にはびっくりしましたね。
中川:
そうですよね。氣の時間になると、転げ回ったり大きな声を上げる人がたくさんいましたからね。
先生は、青山学院大学で教鞭をとっておられて、それ以外にも、世界を回って内観を指導されていて、本当に忙しいのに、当時1週間の講座に、よく来られましたね。
石井:
春休みでしたが、私が参加したときは1週間ではなくて8泊9日でしたね。本当に貴重な体験で、魂のことについて興味を持って本を読んだりしていたころでした。目の前でさまざまな現象を見せられて、とても感動しました。
真氣光研修講座も内観も、「いいとわかっていても忙しくて行けないんです」と、なかなか参加できない人がいるとは思いますが、これから何十年か生きるうちの3泊4日とか1週間ですからね。それで人生が変わると思えば、思い切ってもいいのかなと、私は自分の体験から思いますね。
私は、学生時代からお寺にこもって坐禅を組んだり、内観も何度も参加していますから、それを全部合わせると、3年くらいは世の中から隔絶された状態にいたことになります。でも、それで得たことは、本当に大きかったと思っています。
石井:
これまでは、夏休みとか春休みしか、ヨーロッパや中国に、内観の指導に行けませんでしたが、これからはいつでも堂々と行くことができます(笑)。向こうでも、手ぐすね引いて待っていてくれています。ありがたいことです。
中川:
ところで、貴恵も下田の講座に参加しているんだよね。
中川貴恵:
音大の1年生のときでした。先代から、精神修養だから来いって言われまして…。氣は、実験台として、よく受けさせられていました(笑)。氣を受けるといろいろと反応もありましたが、それが精神的なものともかかわっているとは、あのころは思っていませんでした。精神的に強くなれるなら行こうと思って、参加しました。
とにかく、人数が多いし、休み時間も短くて、気を張って受けていましたね。それでも、終わったら、身も心も軽くなっているのにびっくりしました。今までの自分は、鎧を着ていたみたいだって思いましたね。
中川:
貴恵は、両親と同居していたから、よく実験台になっていたので、氣のことについては、私より信じていたみたいで(笑)。あのころの私は、今、こんなことをやっているのが自分でも信じられないくらい、見えない世界には関心がなかったですね。体調が悪くなって、研修講座を受けて、人生がびっくりするくらい変わりました。
中川貴恵:
私は、霊的な現象もよく話で聞かされていたし、自分も、氣を受けると、ゴホゴホと咳き込むような反応が出ていたし、霊的な現象についても、そういうのもあるかなというくらいには思っていました。
研修講座を受けて、本当に前向きになりました。それまでは、いつも、こんなことをやるとつらいことがあるに違いないとか、悪いことばかりを先に考えていましたが、下田から帰ったら、自然の流れに身を任せられるようになりました。
中川:
下田での講座は、1994年4月までで、5月から奈良県の生駒山で行うようになりました。名前も、「医療氣功師養成講座」から「真氣光研修講座」に変わりました。内容も変化して、石井先生の内観や音感行法が入ってきたんですよね。

<後略>

(構成 小原田泰久)

           

3月 「荻久保 則男」さん

荻久保 則男(おぎくぼ のりお)さん

1966年長野県生まれ。15歳から、フィルムの8mmカメラで自主映画制作を始める。20歳から、フリーの映像スタッフ(照明、録音、撮影)として、たくさんのテレビのドキュメンタリー番組、劇映画に関わってきた。白鳥哲監督のドキュメンタリー映画「不食の時代~愛と慈悲の少食~」「祈り~サムシンググレートの対話~」の撮影を担当。「かみさまとのやくそく」が、初の劇場用映画監督作品。映画「かみさまとのやくそく」の自主上映、上映の情報に関しては、ホームページ <a href="http://norio-ogikubo.info/" target="_blank">http://norio-ogikubo.info/</a>でご確認ください。

『どこから来てどこへ行くのか。胎内記憶から見えてくる魂の旅路』

公共の電波では扱えないけれども大切だと思えるテーマに取り組みたい

中川:
荻久保監督の作られたドキュメンタリー映画「かみさまとのやくそく」を、先日、拝見しました。親子の関係、あるいは命に対する見方について考えさせられる、すばらしい映画でした。今日は、どんなお話が聞けるのか、楽しみにしてきました。よろしくお願いします。
荻久保:
ありがとうございます。私も、会長から氣のことをうかがおうと、楽しみにして来ました。
中川:
荻久保監督は、長年、照明とか音声とか、映画を陰で支えるような仕事をされていたそうですね。
荻久保:
映画が好きで、学生時代には映画研究会に入って、映画作りをしていました。その当時は、8ミリで撮っていて、今のビデオみたいに性能が良くありませんでしたから、照明の良し悪しが、映画の出来具合に大きな影響を与えました。いい映画を撮るには照明の技術を勉強しないといけなかったのです。それで、ピンク映画の照明の助手をすることになったのが始まりですね。
中川:
私たち映画を見る側にとっては、照明の仕事というのはほとんど意識しないわけですが、照明の仕事の難しさというのはどういうところですか。
荻久保:
光の当て具合で、映画の雰囲気ががらっと変わってしまいます。だから、映画の内容、ジャンルによって、照明はいろいろと工夫をしないといけないのです。私の場合、実際に映画制作の現場に入ってみて、自分にはドラマよりもドキュメンタリーの方が性に合っていると思いました。
中川:
ドラマとドキュメンタリーとでは違うんですね。
荻久保:
違いますね。ドラマの照明は、主役を際立たせるのが大切ですが、ドキュメンタリーの照明になると、出演者の方があまり緊張しないようにしないといけませんし、普段の状態がうまく出せるようにすることも重要です。見ている人にも、照明を当てて撮っているとわからないようにしたいというのもありますね。なるべく、自然な姿が撮れるようにというのがドキュメンタリーの照明の役割です。ときには、照明を当てない方がいいと思うときもあって、そんなときは、照明を使わないことを監督にすすめます。
中川:
なるほど。そういうお話をお聞きすると、ちょっと映画の見方が変わってきますね。
荻久保:
でも、今はビデオカメラの性能が良くなっていますので、あまり照明に神経を使うことはなくなりました。ドキュメンタリーだと、照明よりも音声ですね。極端なことを言えば、顔がピンボケでも、音声がきちんと録れていれば、ドキュメンタリー映画の場合、そのカットは成立します。
中川:
ところで、今回撮られた「かみさまとのやくそく」ですが、胎内記憶という、生まれる前の記憶をテーマにされています。以前には、白鳥哲監督の「祈り~サムシンググレートとの対話~」という映画の撮影を担当されていますが、一般的に言えば、非科学的とされるものを扱っていますよね。
荻久保:
白鳥監督からは、テレビのような公共の電波では取り扱えないけれども、とても大事なテーマだということで、祈りについての映画を作りたいとオファーをいただきました。というのも、監督自身が脳腫瘍におかされて、死を覚悟していた時期がありました。映画に出た子どもたちが祈ってくれたことで、監督は難病を克服することができました。打ち合わせのときに声も出せなくて筆談で話していた監督が、祈りによって回復していくのを、そばで見ていましたから、そういう不思議な力があるということは、私もよくわかっています。アメリカロケでも、がん患者さんのまわりを何人もの方で囲んで祈っている場面にでくわしました。見えないけれども、そこには何かすごい力が宿っているなというのを実感しました。
この映画は、震災で制作が一時ストップしましたが、被災地ロケから撮影が再開しました。それまでは、祈りというと宗教的なものと見られていましたが、震災があったことで、もっと日常的な行為なんだと多くの人が感じ、実際に祈る姿も報道などで目にする機会も増え、この映画も予想以上に受け入れてもらえました。
中川:
私たちは、目に見えないエネルギーを氣と呼んでいるのですが、祈りも氣だろうと思います。氣は、大きくプラスの氣とマイナスの氣に分けられます。祈りは、プラスの氣の代表的なものだと思います。

<後略>

(2014年12月22日 東京都渋谷区内の喫茶室にて 構成 小原田泰久)

劇場用映画の紹介

「かみさまとのやくそく」〜胎内記憶を語る子どもたち〜
制作・撮影・編集・監督:荻久保則男 2013年/日本映画/114分/カラー
上映情報は、ホームページ <a href="http://norio-ogikubo.info/" target="_blank">http://norio-ogikubo.info/</a> でご確認ください。

           

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