2011年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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11月 「アーサー ビナード」さん

アーサー ビナード(あーさー ぴなーど)さん

1967年米国ミシガン州生まれ。コルゲート大学英文学部卒業。1990年に来日。日本語での詩作を始める。詩集「釣り上げては」(思潮社)で中原中也賞、「日本語ぽこりぽこり」(小学館)で講談社エッセイ賞、「ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸」(集英社)で日本絵本賞、「左右の安全」(集英社)で山本健吉文学賞を受賞。青森放送「サタデー夢ラジオ」、文化放送「吉田照美ソコダイジナトコ」でパーソナリティをつとめる。

『レンズを変えて観察すれば世の中の嘘が見えてくる』

英語眼鏡と日本語眼鏡を使って大きな嘘を見抜く

中川:
ビナードさんが書かれた『ここが家だ』という絵本を1年ほど前に拝見しました。第五福竜丸の事件について書かれていましたが、第五福竜丸の乗組員だった大石又七さんとも対談をしたことがありましたので、非常に興味深く読ませていただきました。その後、『亜米利加ニモ負ケズ』というエッセイ集も読ませていただきました。
ビナード:
ありがとうございます。大石さんとは、この間、震災の直前でしたが、丸木美術館で対談をしました。そのとき、大石さんが、原発事故を予言するようなお話をされましてね。あの話を聞いていた人は、現実に事故が起こって、驚いたと思いますね。
中川:
原発は、半年以上たってもまだ終息しないわけで、放射能の汚染がじわじわと広がっていて、多くの人が不安を抱えています。私どもは、父の代から、原子力の危険性についてずっと取り上げてきました。前の号では、『二重被爆』という映画を作られた稲塚監督にお話をうかがいました。66年前の原爆も、まだまだ深い傷跡を残したままになっていますよね。
ビナード:
これはちょっとした奇遇ですね。実はその映画の主人公、山口彊つとむさんが『二重被爆』という本を残しているのですが、その英訳を頼まれているんですよ。
中川:
そうですか。何かご縁を感じますね。イギリスのBBCは、山口さんの体験を茶化すような番組を放送したみたいですが、そんな興味本位の見方ではなく、世界の人たちに、核兵器の本当の意味での悲惨さを知っていただきたいですね。あの本をビナードさんが英訳されるというのはうれしい話ですね。
それにしても、ビナードさんは日本語がお上手で、話すばかりでなく、すばらしい文章を書かれていて、本当にすごいなと感心させられます。日本語は、どういったことで習おうと思ったのですか?
ビナード:
大学では英米文学を学んでいたのですが、5ヶ月ほどインドのマドラスへ行って、タミール語を集中的に勉強したことがありました。そのとき、初めてアルファベット以外の文字に触れて、すごく興味をもちました。アメリカへ帰ってから卒業論文に取り掛かったのですが、そのとき偶然に、漢字のことについて書かれている論文に出あいました。一字一字意味を孕はらんでいる文字ですから、使えるようになれば自分の思考も大きく変わるかもしれないと思い、中国へ行こうか、日本へ行こうか、と迷い始めたんです。
中川:
そうですか。それで、中国ではなく日本を選ばれたのはどうしてですか?
ビナード:
日本語は、異質なものがいろいろと交じり合ってひとつの言語になって、そこがおもしろそうだなと思い、大学卒業と同時に日本へ来ました。早く日本へ行ってみたくて、卒業式は出ませんでした。卒業証書は、あとから送ってもらいましたよ(笑)。来日して21 年になります。あと1年で、人生の半分は日本ということになります。
中川:
ビナードさんのエッセイに、嘘発見器というのがありましたね。「英語眼鏡」で見たり、「日本語眼鏡」で見たりしていると、嘘が見えてくるという話でした。米軍がイラクに侵攻したときも、アメリカの英語ではイラク人をinsurgency(反乱の暴徒)と呼び、日本では「武装勢力」と呼んでいて、英語の方が、イラクを強く否定しようという意図が感じられると書かれていました。日本でも、「侵略」を「進出」、「戦争」を「事変」と言うなど、自分たちを正当化するために、意図的な言い換えが行われていました。違う言語で見ると、それがおかしいということがよくわかるわけですね。
ビナード:
英語眼鏡と日本語眼鏡をもっていると、そのちょっとした違いから出発して、深く掘り下げていくと、大きな嘘の発見につながることがあります。
多言語だけでなく、絵を描く人は絵画的な思考があるし、音楽をやる人には音楽的思考回路があります。それを、一般の言語と対比して考えてもいいかもしれません。違うものを通して世界を見つめるというのは、嘘を見抜く有効な方法のひとつですね。

(後略)

(2011年9 22日 東京 日比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

『ここが家だ ー ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)

           

10月 「稲塚 秀孝」さん

稲塚 秀孝(いなづか ひでたか)さん

1950年北海道生まれ。中央大学卒業。1973年㈱テレビマンユニオンに入社し、「遠くへ行きたい」や「オーケストラがやってきた」を担当する。以後、数々のドキュメンタリーや情報番組を手がけた後、1985年に㈱タキオン、2001年には㈲タキシーズを設立。「ネイチャリング・スペシャル アマゾン紀行」で民間放送連盟優秀賞を、「ドキュメンタリー・スペシャル 人間の筏」で民間放送連盟優秀賞、ATPドキュメンタリー部門優秀賞を受賞。

『人間の世界に核はいらない。二重被爆者からのメッセージを伝える』

広島で被爆した後、長崎 へ帰って2度目の被爆

中川:
稲塚さんの作られた「二重被爆」という映画をDVDで拝見しました。1945年に広島と長崎に原爆が落とされましたが、あのときに、両方で被爆した方がいたんですね。その事実だけでも驚きですが、あの映画に出ておられる山口彊つとむさんが話された言葉一つひとつがとても衝撃的でした。
稲塚:
ありがとうございます。あの映画が2006年に上映されまして、山口さんが2010年に93歳で亡くなり、その1年後に「二重被爆~語り部山口彊の遺言」ができました。中川会長は、最初の作品の方を見てくださったんですね。
中川:
そうです。2作目もぜひ拝見させていただきます。ところで、「二重被爆」という言葉、あまり耳にしませんが、山口さんの例で少し説明してくださいますか。
稲塚:
1945年8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下されました。山口さんは、長崎の生まれで、三菱造船の技師として長崎で働いていました。その年の5月、山口さんは、広島造船所への出張を命じられました。当時、山口さんは29歳でした。
戦局はどんどんと悪化してきました。長崎にも空襲があったと聞き、奥さんとまだ生まれて間もない息子を長崎に残してきていた山口さんは、気が気じゃなかったと思います。
7月末になって、会社から山口さんに、長崎へ帰れとの命令が出ました。その帰任日は、何と8月7日でした。
中川:
8月7日ですか。原爆の翌日ですね。
稲塚:
もちろん、会社から長崎に帰れと命令があったときには、原爆のことなど、山口さんは考えてもいませんでしたが、今から思うと、運命的な感じがしますよね。
中川:
明日は家へ帰れるという日ですから、山口さんも、ウキウキした気持ちで朝を迎えたでしょうに。
稲塚:
そうでしょうね。そして、6日の朝8時15分、広島に原爆が投下されました。
山口さんは、ちょうど出勤の途中で、芋畑の中を歩いていたそうです。爆心地から約3キロほどのところでした。爆風に吹き飛ばされ、しばらく意識を失っていたようです。意識を取り戻すと、髪の毛はすべて燃え、顔も首筋もとろけていて、左腕も焦げていたそうです。その後、放射能の黒い雨にも当たっています。
中川:
すごいですね。そして、そんな状態で長崎へ帰ったわけですね。
稲塚:
原爆に焼かれた広島の街で、悲惨な光景を嫌というほど見せつけられたみたいですね。山口さんは20歳のときから短歌を詠んでいるんですが、そのときの様子を詠んだ句があります。“大広島燃え轟きし朝明けて川流れくる人間筏〟という句です。川面を埋めるように死体が流れている様子が、筏のように見えたんでしょうね。
中川:
映画の中でも、山口さんはその句を泣きながら読んでいましたね。その悲惨な光景が、60年以上たっても忘れられなかったんでしょうね。この句だけで、胸が詰まる思いがしますよ。
稲塚:
その後、山口さんは避難列車が出るということを聞かされました。それに乗れば長崎へ帰れます。それに乗らないと、最低、1ヶ月は帰れないと聞き、7日の朝、やけどでひどい状態だったと思いましたが、列車に乗り込みました。そして、8日の昼に長崎へ到着し、病院で治療を受けて、包帯だらけの姿で自宅に帰りました。仏壇にお参りしていると、母親が帰ってきて、「足はあるとね?」と聞いたそうです。幽霊かと思ったんでしょうね。
そして、翌9日です。熱でふらふらしていましたが、会社へ報告に行きました。責任感の強い人だったんですね。会社では、一発の爆弾で広島が壊滅したと言っても、だれも信用してくれなかったとおっしゃっていました。
ちょうど、山口さんが課長に報告しているころ、11時2分、広島で見た閃光を再び見たのです。その瞬間、山口さんは机の下へ潜り込んでいたそうです。
こうやって、わずか3日間で、2回も被爆するという大変な体験をしているんですね。上空のキノコ雲を見ながら、『まるであれに追いかけられているみたいだ』と思ったそうですよ。

(後略)

(2011年8月25日 東京日 比谷松本楼にて 構成 小原田泰久)

映画・DVDの紹介

上・「二重被爆」映画ポスター  下・「二重被爆」DVD 監督: 青木亮 販売元: アルドゥール DVD発売日: 2011/07/22 時間: 60 分
二重被爆の上映予定については、 ホームページ◎<a href="http://www.hibaku2.com/" target="_blank">http://www.hibaku2.com/</a> 自主上映については、 「二重被爆」(59 分) 「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」(70 分)と もに1回5万円。稲塚監督の講演は講師料5 万円(交通費別)。自主上映希望者は、タキシー ズまでご連絡ください。 FAX◎03-3485-2597

           

9月「チャールズ マクジルトン」さん

チャールズ マクジルトン(ちゃーるず まくじるとん)さん

1943年アメリカ・ミネソタ州生まれ。高校卒業後、アメリカ海軍に入隊し、横須賀基地に配属となる。1991年に上智大学に留学、山谷で生活する。その後、フードバンク運動にかかわり、2002年にセカンドハーベストジャパンを設立する。現在、理事長。Tシャツに作業ズボン姿で、あるときは運転手、あるときは営業マン、あるときは経営者という、さまざまな顔で活躍中。

『捨てられ死んでいく食品に命を吹き込むフードバンクという活動』

廃棄される食品を引き取 り、それを必要としてい る人に配る

中川:
セカンドハーベスト・ジャパン(以下2HJ)のことを本で読ませていただきました。フードバンクというのだそうですが、とてもユニークなシステムですね。
チャールズ:
ユニークですか。アメリカでは、フードバンクは40年の歴史があります。日本では、私が2HJを立ち上げたのが2002年で、最初のフードバンクでした。今は、10 団体くらいありますね。
中川:
食品メーカーや卸し、小売店、食品輸入業者、レストランなどで廃棄される食品を引き取り、それを児童養護施設や女性シェルター、福祉施設など、食品を必要としているところに配布するというシステムですよね。
チャールズ:
そうですね。廃棄される食品と言っても、賞味期限、消費期限が切れたようなものではなく、安全に食べられるにもかかわらず、捨てらてしまうものを引き取ります。
中川:
たとえばどんなものがあるんですか?
チャールズ:
いろいろありますね。コンビニやスーパーでは、賞味期限、消費期限が近づくと、買ったお客さんがすぐ食べないといけないのでという理由で捨ててしまいます。また、メーカーから出荷するときの検査で、ラベルの印刷が薄かったりすると、それも廃棄されます。運送中に外箱がへこんだり少し破れたりするだけでも、もう商品にはなりません。
どれも、品質には何も問題がありません。しかし、外見上の問題で、廃棄されてしまうのです。
中川:
食べられる食品の3分の1が捨てられているそうですね。全然知りませんでした。本当にもったいないことですね。
チャールズ:
その一方で、私たちの調査によると、貧困層と言われる人たちの中で、約65万人の方が十分な食料を確保できていません。母子家庭とか高齢者、ホームレスの方々ですね。そういう人たちに、食べられるのに捨てられている食品を届けようというのが私たちの仕事です。
中川:
大きな矛盾ですよね。世界一の食料の輸入国なのに、捨てる量も半端ではなく、その一方で、食料がなくて困っている人もたくさんいるわけですから。
チャールズ:
食品企業にとっても、食品を廃棄するのにはコストがかかります。私たちが引き取って、それを必要としているところへ配れば、企業としてもコストもかからないし、捨てる罪悪感ももたなくていいですから、とても大きなメリットだと思いますよ。
中川:
3月に震災があって、何か変化はありましたか。
チャールズ:
すごい変化ですね。まず、寄付金がびっくりするくらい集まりました。ホームページを見ていただければわかりますが、今は一時寄付をストップしてもらっています。去年は年間で集まった寄付金が6500万円でした。それが、災があってから3ヶ月で9000万円ほど寄付がありました。
1年半分の金額だし、それを被災地のために使うとなると、しっかりと予算を組む必要があります。まだ、予算が組まれていませんので、どう使っていいかわからない状態で、これ以上集まるとまずいということでストップしました。
中川:
普通はたくさん集まれば喜んで受け取ると思いますが、ストップしたのですか。
チャールズ:
おかしいんじゃないのと言われました(笑)。でも、私たちはビジネスセンスをもって2HJを運営していきたいので、きちんと予算が立ってから寄付をお願いすると、寄付を申し出てくださる企業にも伝えました。
そしたら、逆にとても信頼されましたね。必要なときはいつでも言ってほしい、応援するからと言われました。
中川:
それはとても大切なことですね。非営利な組織だと、どうしてもビジネス面が弱くなりますからね。
チャールズ:
それはとても大切なことですね。非営利な組織だと、どうしてもビジネス面が弱くなりますからね。
配った量も、震災後5月末までに400トンです。去年は1年で813トンでしたから、1ヶ月半で半年分働いたことになります。スタッフもボランティアもがんばってくれました。

(後略)

(2011年7月21日 東京都 台東区のセカンドハーベスト・ ジャパンにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

フードバンクという挑戦 岩波書店

           

8月「北山 耕平」さん

北山 耕平(きたやま こうへい)さん

1949年神奈川県に生まれ、東京で育つ。立教大学卒業。雑誌「宝島」の編集に携わり、その後、アメリカに渡って取材活動を続け、「ポパイ」や「ホットドッグ・エクスプレス」といった雑誌に、アメリカの若者文化についての記事を書く。1979年ローリングサンダーとの運命的な出会いがあり、以来、インディアンたちの中に自分のルーツを探す旅を続けている。著書・訳書に「ネイティブ・マインド」「虹の戦士」「自然のレッスン」「地球のレッスン」「ジャンピング・マウス」などがある。

『インディアンに学び、本質を見る目を養っていく』

皆既日食を砂漠へ見に 行って、ローリングサン ダーと出会う

中川:
はじめまして。北山さんは、翻訳家であり作家で、アメリカ・インディアンのメッセージを伝えておられることでよく知られています。今日は、インディアンの生き方や考え方についていろいろとお聞きしたいと思っています。インディアンというとアメリカの先住民のことですが、近頃はネイティブ・アメリカンとよく呼んでいるようです。インディアンなのか、ネイティブ・アメリカンなのか、ほかにもっと適切なものがあるのか、どういう呼び名がいいのでしょうか。
北山:
たくさんの呼び名があります。「インディアン」や「ネイティブ・アメリカン」だけではなくて、「アメリカ・インディアン」「ネイティブ」「ネイティブ・ピープル」…などいくらでもあります。私は、そのときどきの気分や文脈で使い分けています。
それぞれ、歴史も意味もありますが、臨機応変に使い分ければいいと思います。ただ、彼ら先住民は、自分たちのことを「インディアン」とか「インディアン・ピープル」「ネイティブ」という言葉で呼んでいるようです。自分たちを「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶインディアンには会ったことがないですね。彼らは、チェロキーとかショショーニといった自分の部族の名前で呼ぶのが一番自然なようです。
インディアンは差別語ではないかという気を回す人たちもいますが、決して差別語ではありませんから、安心して、そう呼んでいただいていいと思います。
中川:
そうですか。では、聞き慣れているし、言い慣れていますので、インディアンと呼ばせていただくことにします。
北山さんは、若い頃には編集の仕事をしておられて、アメリカで仕事をしているときにインディアンに会って、その生き方、考え方に魅せられていったとお聞きしていますが。
北山:
1970年代ですね。宝島の前身であるワンダーランドという雑誌の編集の仕事を始めました。新しい雑誌文化を作ろうという機運が盛り上がっていたころです。ポパイという雑誌の創刊を手伝いまして、アメリカの若者文化を伝えるため、特派員としてロスに行きました。自由にアメリカへ行けるようになったころの話です。
2年間は真面目に働いていました(笑)。アメリカの全部の州を、ジェットコースターに乗って回って、どれが一番怖いかといったような記事を書いていましたね。
中川:
日本人がアメリカ文化をあこがれの目で見ていたころですかね。編集者としても最先端を走っていたわけですね。それが、どうしてインディアンに向かっていったのか、興味深いですね。
北山:
私は、アメリカへ行ったときに、あまりカルチャーショックを受けませんでした。日本と変わらないような感覚で生活を始めましたから。でも、インディアンに初めて会ったときには、大きなカルチャーショックでした。
インディアンに会う前に、私の場合は、砂漠に魅せられたという段階があります。あるとき、アリゾナに取材に行く機会がありました。そこで砂漠を見ました。砂漠は湿気がないから霞んでいません。晴れていればずーっと先まで見えるんです。何十キロ四方、だれもいなくて、聞こえるのは風の音だけということもあります。それに、砂漠には地球ができたそのままがあります。そんな砂漠を見て、何とも言えないものを感じ、自分は砂漠が好きかもしれないって思いました。そして、2年間、毎月、どこかの砂漠へ行っていました。2年間砂漠に通いつめて、私はそこに人が住んでいるってことに気づいたんです。それまで、砂漠に住んでいる人がいるってことに考えが及びませんでした。私はこんな場所に住める人のすごさを感じ、彼らに関心をもつようになりました。それがインディアンへの関心の始まりです。
中川:
なるほど。
北山:
1979年2月26日ですが、ユタの砂漠で皆既日食が見られるというので出かけて行きました。20世紀最後の皆既日食と言われていました。途中、ネバダのカーリンというところのカフェで腹ごしらえをしました。そのとき、そこのおばさんから、「お前も、あの頭のおかしなインディアンに会いに来たのか」と聞かれました。近くに住んでいるインディアンが、天気を変えるとか言って、若い人たちを集めていると言うんですね。私は、これも縁かもしれないと思って、そのインディアンの家を教えてもらって訪ねて行きました。
そのインディアンが、ローリングサンダーと呼ばれている人だったのです。
私が訪ねて行くと、ローリングサンダーは留守で、奥さんが応対してくれました。奥さんは、私が皆既日食を見に来たと知ると、ローリングサンダーは皆既日食を見ない方がいいと言っていることを教えてくれました。そして、今日は遅くまで帰って来ないので、泊まっていけと毛布を貸してくれて、ゲストハウスへ案内してくれました。
ゲストハウスと言っても、お椀を伏せたような形をしたところで、土まんじゅうのようだと思いました。近くをフリーウエイが走っているのですが、そこからだと、家があるなんて、だれも思いません。生まれて初めてそんなところで寝たのですが、これまでの人生の中で、一番ぐっすりと眠れました。
中川:
寝心地が良かったんですね。そこは、何か特別な場所だったのですか。
北山:
お椀を伏せたような形ですから、家の中に角がないんですね。角がないというのは、プラネタリウムで寝ているようなもので、宇宙とつながっているという感覚になるんです。角というのは、直線と直線が交わってできますよね。それはインディアンの世界では時間を意味しているそうなんです。丸いところでは時間がないんですね。そういう場所だったからよく眠れたんでしょうね。
翌朝、4時半ごろだったか、ローリングサンダーが来ました。すごい存在感のある人でした。彼は、チェロキー族のメディスンマンでした。これから山で儀式があって、弓矢をもって頭には鳥の羽根をさして、いわゆるインディアンの正装をしていました。インディアンのメディスンマンに会うのも、そんな本格的な正装を見たのも初めてですから圧倒されました。
彼は、部族の仲間が皆既日食を見ないようにお祈りに行くのだと言っていました。皆既日食を見ると、脳にダメージを受けると言うのです。どんな動物も、皆既日食を見ないようにしているのに、人間だけは見たがると、彼は言っていました。皆既日食は、9時過ぎから11時頃に終わる予定でしたが、その時間、ずっと雪が降っていました。彼が、そうさせたのだと言うわけです。私にとっては、非常にショッキングな出会いでした。

(後略)

(2011年6月9日 東京 都立 小金井公園にて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

「古井戸に落ちたロバ」じゃこめてい出版

           

7月 「有賀 達郎」さん

有賀 達郎(ありが たつろう)さん

1950年(昭和25年)生まれ。東京都立大学卒業後、株式会社文化放送に就職。営業、制作、報道と現場を経験、16年間在籍。その後自営業を経て、1997年9月よりエフエム西東京開局準備に携わり、現在に至る。2007年6月に代表に就任。

FM西東京 84.2MHz <a href="http://842fm.west-tokyo.co.jp/" target="_blank">http://842fm.west-tokyo.co.jp/</a>
インターネットでも聴けます。サイマルラジオ<a href="http://www.simulradio.jp/#kantou" target="_blank">http://www.simulradio.jp/#kantou</a>

『地域を温かい氣で満たすのがコミュニティFMの役割』

震災があって、非常時の情報源として見直されたラジオ

中川:
はじめまして。これまでラジオの方とはあまりご縁がなかったので、お話をお聞きするのをとても楽しみにしていました。真氣光を始めた父は、ラジオ番組に出ていたことがあります。
有賀:
こちらこそ楽しみにしていました。氣については、前に勤めていた会社の先輩が退職してからやり始めましてね、腰が痛いときに治療をしてもらったりしました。すごく興味があるのですが、なかなかきちんと勉強する機会がなかったので、今日はいろいろとお聞きしたいなと思っています。
だけど、私は、いつも取材をする側なので、こういう対談形式というのは、ちょっと勝手が違って緊張しちゃいますね(笑)。それに、取材者という立場から見ると、この対談に出ておられる方々は、そうそうたる人たちばかりで、そんな中に、私が入っていいのかと、恐縮してしまいますね。
中川:
いえいえ、大歓迎ですよ。私たちは、氣づきの大切さをずっと言ってきましたが、さまざまな分野の方のお話をお聞きして、私自身もそうだし、読者の方も、何か氣づきのきっかけになればいいというのが、この対談の目的です。特にテーマを決めなくても、いろいろと話しているうちに、ハッと思えることがたくさんあると思いますので、気楽にお話してください。
ところで、有賀さんは、FM西東京の社長さんでいらっしゃいますが、FM西東京というのうは、西東京市が放送エリアなんですか。
有賀:
西東京市というのは、10年ほど前に田無市と保谷市が合併してできた市です。私どもは、合併の3年ほど前に設立しています。たまたま私たちの局名が市の名前になったわけですが、エリアは西東京市全域と、その周辺の小平市とか東久留米市あたりですかね。コミュニティラジオですから、エリアの限られた放送として許可をもらっています。
中川:
インターネットでは何処からも聴けるそうですね。
有賀:
有賀 去年からインターネットで聴けるようになりました。iPhoneなどでも聴けます。
でも、内容はあくまで地域のことということでやっています。全国区のものは大きなラジオ局に任せておいて、こちらは、西東京とその周辺に住んでおられる方や西東京出身でほかの地域に住んでいる方がアクセスしてくださるということを意識しています。
ありがたいことに、地域の人が、番組作りにも参加してくださったり、面白い人を紹介してくださったりしています。そういうつながりを大事にしながら、私たちにしかできない地域に根ざしたものが作れればと思っています。
中川:
ラジオは、この震災でもずいぶんと活躍しましたよね。被災地では、停電になってテレビが見られなくなりましたから、情報を得るのにラジオはなくてはならないものだと、多くの人が感じたんじゃないでしょうか。
有賀:
コミュニティ放送というのは、1992年に放送法の一部改正にともなって制度化されて、1995年の阪神淡路大震災の後から、防災という面でも地域のラジオ局が必要だと、設立が相次ぎました。非常時になってラジオというのは見直されるみたいですね。
うちは、1998年に84番目の局として立ち上がりました。今は、248の局が全国にあります。
東北地方の局の中には、今回の震災で放送が続けられなくなり、市役所などに間借りをして被災の情報を出し続けているところもあります。そうやってがんばっている姿を見たり聞いたりしていると、ラジオの使命を考えさせられるし、勇気ももらえますね。
中川:
実は、私も仙台で被災しましてね。ちょうど、セッションの最中にグラグラと揺れました。一旦は避難所へ行ったのですが、暗いし寒いし、スタッフ2人と一緒に、セッションを行なっていた会館へ戻りました。そこは、上が公団住宅になっていて、そこの住民の皆さんが会館に避難していまして、私たちも仲間に入れてもらいました。
暗くて寒い中、住民の人が持ってきたラジオは貴重な情報源になりました。携帯もワンセグになっていてテレビが見られるのですが、電池がすぐになくなってしまいます。その点、ラジオはいいですよ。ラジオに救われましたね。
有賀:
そう言っていただけるとうれしいですね。あんなちっぽけなものなんだけど、人と人をつなぐことができるんですね。
仙台には、東北放送(TBC)という大きな放送局があるのですが、震災の後は自家発電で放送していました。でも、燃料が限られているので、パワーを落として放送したそうです。いよいよ燃料が切れて、放送できなくなるという直前に燃料が届いたようです。

(後略)

(2011年5月24日 東京都西東京市のFM西東京にて 構成 小原田泰久)

           

6月 「森田 拳次」さん

森田 拳次(もりた けんじ)さん

昭和14年(1939年)東京生まれ。生後3ヶ月で奉天(今の瀋陽市)に渡る。7歳のときに舞鶴港に引揚げる。小学校4年生のころから漫画を描き始める。17歳で単行本デビュー。「丸出だめ夫」で第5回講談社児童漫画賞受賞。ほかに、「ロボタン」「珍豪ムチャ兵衛」など。31歳のときに、アメリカへヒトコマ漫画の修行に。以来、ヒトコマ漫画の道へ。数々の賞を受賞している。

『丸出だめ夫、戦争体験を伝えるため 「中国引揚げ漫画家の会」を結成』

満州から引き揚げてきた漫画家が集まり、体験を伝える

中川:
森田先生は、終戦直後に満州から引き揚げてこられたそうですが、その体験をお聞きしたいと思ってうかがいました。宜しくお願いします。引き揚げてきたのは、何歳くらいのときのことですか。まだ、小さい時期ですよね。
森田:
僕は、昭和14年生まれですから、7歳のときです。小学校1年生でしたかね。
中川:
昭和14年のお生まれですか。うちの母親と同じですね。母は、樺太からの引き揚げ者です。大変だった話はよく聞きました。森田先生も、辛い思い出がいっぱいあるんでしょうが、漫画家には、満州からの引き揚げ者がけっこうおられて、「中国引揚げ漫画家の会」というのをお作りになったそうですね。
森田:
そうなんですよ。戦後50年を迎えた1995年に結成しました。中国のことは親に聞けばわかるだろうと思っていましたが、その親が亡くなる年齢になってきましてね。僕の親も亡くなって、中国での住所とか帰国のルートもあいまいになってしまったわけです。それで、自分たちの体験を漫画で残せないだろうかということになって、会を作りました。「天才バカボン」の赤塚不二夫さんも、僕と同じ奉天(今の瀋陽市)に住んでいました。年齢は4つ上ですけどね。面白いのは、後からわかったことですが、赤塚さんと「あしたのジョー」を描いたちばてつやの家が500メートルしか離れてなくて、同じ小学校へ通っていたんですね。
中川:
何か運命的なものを感じますよね。それで、先生と赤塚さん、ちばさん、ほかには、どういうメンバーで結成されたんですか。
森田:
いつも飲んで騒いでいる仲間なので敬称は略しますね(笑)。2008年に90歳で亡くなりましたが、「フイチンさん」という名作を描かれた上田トシコ、和光大学の教授だった石子順、「釣りバカ日誌」の北見けんいち、「総務部総務課山口六平太」の高井研一郎、「ダメおやじ」の古谷三敏、動物文字絵をやっている山内ジョージ、アイヌのことなどを描いている横山孝雄、それに赤塚、ちば、僕の10人ですよ。「天才バカボン」「釣りバカ日誌」「ダメおやじ」、それに僕の「丸出だめ夫」でしょ、代表作にバカとかダメがついている漫画家ばかり(笑)。漫画には、ストーリー漫画とギャグ漫画があるんだけど、僕たちのメンバーは、ギャグ漫画家ばかり。ストーリー漫画を描いているのはちばだけですよ。
中川:
でも、漫画というのは、年齢に関係なく、受け入れられやすいですよね。ギャグ漫画だと、深刻な話も、笑いで軽くすることができますしね。先生の描かれた「ぼくの満洲」という漫画も、上下巻ある長い話でしたが、さっと読めました。それでも、とても印象に残るし、当時の満州の状況や引き揚のことがよくわかりました。あのころの影響というのは、先生にとっても大きいんでしょうね。
森田:
まあ、いろんなことがありましたからね。でも、みんなギャグ漫画家ですから、何でも笑いにしようとする。困ったものですよ(笑)。笑いなんていうのは、習って覚えるものじゃないでしょ。いつも、頭を笑いのモードにしておかないといけない。結局、バカかアル中しかギャグ漫画家にはなれない(笑)。
赤塚さんのお父さんは憲兵だったんですね。その父親がモデルになっているのが、「天才バカボン」に出てくるピストルを撃ちまくるおまわりさんですよ。それに、流行語になった「これでいいのだ」というセリフがあるでしょ。あれは、中国語の「没法子(メイファーズ)」からきているんですよね。しょうがないという意味ですが、赤塚さんも苦労した時期があって、そのころ、よくこの言葉をつぶやいたりしていたみたいですね。そんな経験もあって、どんなことがあっても、明るく「これでいいのだ」と肯定していこうというのが彼の生き方になったんでしょうね。お葬式で配られた彼の最期のメッセージにも、「これでいいのだ。さよならだ」と書かれていましたから。
中川:
2009年に南京で「私の八月十五日展」というのを開きましたよね。森田先生たちが、戦争の記憶を伝えようと、当時の思い出を一枚の漫画にして、日本各地で展覧会を開いていたのを中国でやったわけですよね。でも、何と言っても、南京ですからね。「日本」「戦争」とくれば南京大虐殺ということで、反日感情を刺激するような企画だと思います。よくそんなことを企画したし、実現させたと感心しますね。
森田:
決死の覚悟ですよ(笑)。参加した漫画家仲間の中には、家族会議を開いたのもいましたから。私も、生卵をぶつけられるくらいはあると覚悟していました。でも、生卵よりも、大好きなゆで卵の方がいいと、またバカな冗談を言っていましたが(笑)。
中川:
「少年たちの記憶」とか「私の八月十五日」といった画集が出ていますが、これがもともとのきっかけですか。
森田:
順を追ってお話ししますね。「中国引揚げ漫画家の会」が結成されたのが1995年です。そのときに、ぼくたちは満州で体験したことを絵と文字で綴った「ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験」という本を出版しました。先ほど、会長がおっしゃった「ぼくの満洲」の上下巻は、ぼくが描いた漫画で、また別のものです。ややこしくてすいません。
この本を読んでくださった老婦人が、「この本の表紙に描かれていたちばてつやさんの絵が、満洲で死んだ息子にそっくりだ」という連絡をくれました。当時、中国残留孤児の日本国籍取得を支援していた千野誠治氏が、この話を聞いて、「ちば氏の絵をもとに、満州で死んだ子どもたちのためにお地蔵様を建てたい」と言ってきましてね。最初、そのお地蔵様は西多摩霊園に建てられましたが、その後、もっと多くの人が訪れるところに建てたいということで、浅草寺にお願いしました。浅草寺には、毎年100件以上の建立願いが出されるようですが、私たちの願いを快く引き受けてくれて、母子地蔵尊が建てられました。「まんしゅう母子像」と呼ばれています。
ぼくらの呼び掛けで、漫画家だけでなく、作家や俳優、タレントなど、たくさんの人が資金集めに協力してくれました。
このまんしゅう母子像にはいろいろな方がお参りしてくれますが、日本に帰国した残留孤児の人たちも、中国の養父母を思いながら手を合わせてくれていると聞きました。中国の人たちは、自分たちはコーリャンを食べて、孤児たちには白いご飯を食べさせて育ててくれたという話も聞いた事があります。ありがたいことですよね。
ぼくも、ひとつ間違えば、孤児になっていたわけですから、他人ごとではありません。 そこで、ぼくたちは、中国に残された子どもたちと養父母のために、1999年に、柳条湖跡地にある「九・一八記念館(満洲事変記念館)」に「中国養父母に感謝の碑」というのを建立しました。
中川:
そうやって中国とのつながりも出てきたわけですね。
森田:
2001年に「少年たちの記憶」が出版されました。中国引揚げ体験者だけでなく、ほかの後に漫画家になった人たちは昭和20年8月15日をどう過ごしていたのだろうと思って、お地蔵様を建立するときに協力してくれた方々に声をかけて、それぞれの体験を一枚の漫画にして展覧会を開こうということになったわけです。
それが、「わたしの八月十五日の会」なんです。2004年には、「私の八月十五日」という画集も出まして、作家の石川好さんが尽力してくださって、その画集が中国語で出版されました。さらに、中国で展覧会をやろうじゃないかということになり、どうせやるなら、「南京大虐殺記念館」でどうだろうという企画に発展していきました。日本軍の残虐の行為を展示した施設ですよ。そこに、日本人も辛い思いをしたんだという体験を持ち込もうというわけですから、大胆というか、無謀というか…(笑)。
中川:
生卵もゆで卵も飛んでこなかったんですよね(笑)
森田:
予想は大外れ。驚きましたよ。初日だけで2万人もの人が来てくださいまして。3ヶ月の予定が11カ月に延長されて、その期間中に来て下さった方の数は、何と約500万人ですよ。
日本のアニメが中国ではすごく浸透しているということもあったでしょうが、皆さん、非常に冷静に受け止めてくれました。あの展覧会で、日本で空襲があったことを初めて知った方も多かったと思います。中国ではそんなことは教えられていませんから。
うれしかったのは、中国の学生が「この日本人は南京に来た日本兵とは違う人間だ」と涙を流しながら話してくれたことです。
すごく緊張して行ったのですが、やっているのがギャグ漫画の一行ですから、笑いもいっぱいありましたけどね(笑)

(後略)

(2011年2月15日 神奈川県横浜市の森田さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

           

4月 「田沼 靖一」さん

田沼 靖一(たぬま せいいち)さん

1952 年山梨県生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。米国国立衛生研究所(NIH)研究員等をへて、現在、東京理科大学薬学部教 授。細胞の生と死を決定する分子メカニズムをアポトーシスの視点から 研究している。主な著書に、「ヒトはどうして死ぬのか」(幻冬舎新書)「ヒ トはどうして老いるのか―老化・寿命の科学」(ちくま新書)「遺伝子の夢 ―死の意味を問う生物学」(NHK ブックス)などがある。

『細胞の死があるから個体は生きられ、個体の死があるから種は繁栄する』

がんやアルツハイマー病は、細胞の死と深くかかわっている

中川:
先生の書かれた「ヒトはどうして死ぬのか」という本を、とても興味深く拝読させていただきました。遺伝子というレベルから死を語るというのは、とても新鮮に感じました。本を読みながら、どこかでこの話を聞いたことがあるなと、気になっていたんですね。しばらく記憶を探っていまして、そう言えば爆笑問題がやっているNHKの番組で、先生が死の話をしていたぞと思い出したんですよ。
2年くらい前ですかね。それで、もっとお話をお聞きしたいなと思っておうかがいしました。今日はよろしくお願いします。
田沼:
こちらこそ、よろしくお願いします。会長が見られたのは、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組ですね。「ヒトはなぜ死ぬのか」というテーマで、2007年の6月に放送されました。会長が読んでくださった本は、去年、出たものです。
中川:
本は「どうして」で、テレビは「なぜ」だったんですね。
田沼:
「どうして」には、「どのようにして」と「なぜ」の両方の意味があると思うんですね。どのようにして死んでいくのかとか、どのようにして老化していくのかというのは、サイエンスになりますね。しかし、なぜ死ぬのかとか、なぜ年をとるのかということになると、人それぞれ考え方が違いますから、多分に哲学的な問題になってきます。
中川:
なるほど。サイエンスだという意味を込めて、ご著書は、「どうして」とされたんですね。でも、死というのは、なかなか科学では扱ってこなかったテーマじゃないでしょうかね。扱いにくいということもあるでしょうしね。
田沼:
死が生命科学で取り上げられるようになったのは、ここ20年ほどじゃないでしょうかね。それまでは、死というのは科学ではとらえられてきませんでした。どうしても、死というと宗教が扱う領域でしたから。
でも、がんとかアルツハイマー病とか、社会問題にもなるような病気が増えてきて、そこに細胞の死が関係しているということがわかって、死が科学的にとらえられるようになってきました。
がんというのは、細胞が死なないから怖いんですね。肝臓の細胞は1年くらいすると疲れてきて新しい細胞にリニューアルされます。しかし、がん細胞はいつまでも増え続けます。死を忘れた細胞ですね。
アルツハイマー病は、その逆で、神経細胞が死んでいくスピードが非常に速まってしまったために起こる病気です。
中川:
がんもアルツハイマー病も、現代人がもっとも恐れる病気ですよね。それが細胞の死と関係があるというのは面白いですね。片方は死を忘れ、片方は死に急ぐという正反対の動きですが。
でも、先生は、どうして死のことを研究しようと思われたのですか。
田沼:
私の専門は、生化学・分子生物学という分野です。研究はもっぱら、「生物の細胞がどのように増殖・分化するか」ということです。つまり、細胞がどのようにして生きているかを解明するための研究でした。
私はまた、遺伝子が傷ついたときに、どのように修復するのかということも研究していました。がんは、細胞内の遺伝子DNAが活性酸素などで傷ついて、それが十分に修復されずに変化してしまい、細胞が無秩序に増殖していくことで発生します。修復能力が高まれば、がんを防ぐことができるわけですね。DNAが修復されるというのは、どういうメカニズムで行われているのか、それが知りたくて研究をしていました。
中川:
つまり、生きるという方向での研究ですね。それが、どう死の研究につながっていったのでしょうか。
田沼:
修復のメカニズムを調べるには、遺伝子を傷つけないといけませんね。放射線や紫外線を当てて、遺伝子に実験的に傷をつけ、どういう酵素が働いて修復されるのかを見ていくわけです。
その実験の過程で、ときには放射線を当て過ぎて、細胞が死んでしまうことがあります。そんなときは、放射線を強くかけすぎた、失敗しちゃった、今度はもう少し弱くしようと、そう考えるのですが、あるとき、ふと思ったことがあったんです。細胞というのは、修復できるとか、修復できないから死んでしまうという判断をどうやってするんだろうと疑問になりました。
修復の限界点というのを細胞は決めているのではないだろうかと思いました。それは、今までのように、生きる方向からの研究ではわからないだろう、それなら死の方向から研究をしようと、そんなことを思ったんです。

(後略)

(2011年1月31日 東京理科大学野田キャンパスにて 構成 小原田泰久)

           

3月「天外 伺朗」さん

天外 伺朗(てんげ しろう)さん

東京工業大学電子工学科卒業。工学博士(東北大学)、元ソニー上席常務。ソニーでは、CD、ワークステーションNEWS,犬型ロボットAIBOなどの開発を主導。現在、ホロトロピック・ネットワーク代表。医療、教育、企業経営の改革に取り組んでいる。主な著書に、「運力―あなたの人生はこれで決まる」(祥伝社黄金文庫)「経営者の運力」(講談社)「いのちと気」(共著 ビジネス社)「教育の完全自由化宣言!」(飛鳥新社)など。

『病気は死と直面し意識を変容できる大きなチャンス』

目に見える世界と見えない世界は一体になっている

中川:
今日はとても楽しみにしていました。天外さんと言えば、見えない世界についてたくさんの本を書かれていますし、非常に興味深いネットワークを作られていて、どんなお話がお聞ききできるのかわくわくしながらおうかがいしました。
天外さんは、長年、エンジニアとしてお仕事をされてこられたわけですね。実は、私も氣の世界に入る前には、電機メーカーで技術屋として働いてきました。
私など、父が気功をやっていたにもかかわらず、氣のような見えない世界にはあまり興味を持ちませんでした。その点、天外さんは、お父様が特殊な能力をお持ちで、見えない世界は、ある程度、当たり前のこととして受け止めておられたとお聞きしていますが。
天外:
2006年まで現役で、エンジニアリングとエンジニアリングマネージメントの仕事をやっていました。父は、今で言うサイキックな力がありましたから、私としては、子どものころから、見えない世界があることは刷り込まれていました。ですから、サイキックな現象については、殊更不思議に思うことはありませんでした。そういうことをあまりベラベラとしゃべると人から変な目で見られるということを、後から学んだくらいです。
中川:
見えない世界が別段不思議ではないという状態で、その一方で技術者として、CDやAIBOの開発をされていて、物理的な世界と見えない世界というのは、別々に考えておられたんでしょうか。
天外:
デヴィット・ボームという物理学者がいましたが、彼はホログラフィ宇宙モデルというのを考え出した人で、ノーベル賞こそもらっていませんが、それに匹敵する学者だったと思います。ボームは、目に見える物質世界を明在系、目に見えない世界を暗在系と呼びました。それが別個に存在しているのではなく、一体になって動いているというのが彼の説です。
私は、彼の明在系、暗在系という言葉を、この世とあの世という言い方にしました。つまり、この世の中にあの世があり、あの世の中にこの世があるということになります。ですから、物理の世界と見えない世界は別個に考えるものではないということですね。私は、ずっとそういう感覚でいましたね。
中川:
死んだからあの世へ行くということではなくて、生きているときからあの世にもいるということですね。
天外:
哲学の世界では昔から言われていることです。死んでどこへ行くかと言うと、永遠の時間の中に溶け込んでいくといった言い方がされています。永遠の時間というのは、時間のない世界のことです。時間がないということは、向こう側から見れば死は見えません。こちらから見ると見える。だから、死んだら行くという考え方はおかしいわけです。
中川:
よく、死後の世界はこうだって話が本には出ていますが。実際に行って見てきたという話もあったりしますし。
天外:
向こう側には時間も空間もありません。でも、時間も空間もない世界というのは、私たちには想像もつかないわけです。ですから、こちら側の常識で向こう側も色付けしています。もともと、言語というのは、この世のことを記述するためにあるもので、あちら側のことは言語では説明できません。宗教は、あちら側のことを説きたいのだけれども、言葉で説明できないので、まわりをうろうろしているわけです。
中川:
天外さんは、もともと目に見えない世界になじんでおられたわけですが、改めて勉強したり体験したり、さらにたくさんの本を書かれるようになったきっかけというのはあるんですか。
天外:
私は、ソニーの創業者の井深大という人と非常に近いところで仕事をしていました。彼は、いろいろなことに興味をもつ人で、1984年に、筑波大学で開かれた「科学技術と精神世界」というイベントにも参加したんですね。このイベントはフランス国営テレビと筑波大のジョイントのイベントで、世界中から、科学者、哲学者、心理学者、宗教家を呼んで、非常に盛大に行われました。新体道という武道の青木宏之さんが氣の演武をやって、外国の人たちを驚かせたようですが、その青木さんと井深が親しくなって、青木さんがときどき、ソニーへも来られていました。
そのイベントの内容を、主催者の一人である湯浅泰雄さんという哲学者が5冊の本にまとめました。それを私は井深から、読むようにと渡されまして、読んでみたら、すごく面白くてですね。学者がまとめたものなので、きちんと参考文献も出ていましたから、その文献を片っ端から取り寄せて読みました。ボームのことも、そのときに勉強しました。
中川:
目に見えない世界のことが科学的に説明されるような内容だったんですか。
天外:
いや、科学でもないし、科学的な仮説までもいっていませんね。ボームの言っていることも、私が書いていることも、私は科学的ロマンと呼んでいます。仮説とするには、まだ詰め切らないといけないところがたくさんありますから。

(後略)




(2011年1月18日  東京都渋谷区のホロトロピック・ネットワーク事務局にて 構成 小原田泰久)

           

2月 「三上 丈晴」さん

三上 丈晴(みかみ たけはる)さん

1968年青森県生まれ。筑波大学自然学類卒。1991年、(株)学習研究者に入社。歴史群像編集部を経て、ムー編集部に配属。2005年より、月刊ムー編集部に就任。現在に至る。本誌「ムー」が扱うテーマは哲学であると考えている。

『超能力、心霊、UFO、古代文明。 不思議世界を30年以上伝え続ける雑誌』

中高生から70 代、80 代ま で読んでいる不思議な雑誌

中川:
はじめまして。三上さんが編集長をやっておられる「ムー」という雑誌は、不思議な世界をずっとテーマにしていますが、ずいぶんと歴史がありますよね。
三上:
一昨年30周年を迎えました。こちらの真氣光のことも、ずいぶんと前から聞いていますが、どれくらいになるんですか。
中川:
父が始めて、今年で25周年になります。氣というと、あるような、ないようなわからないものですから、信用していただけないことも多いのですが。私は、もともと物理を専門にしていましたので、父が氣のことを盛んに言い出したときも、正直、信じられませんでしたね(笑)。だから、信じない人の気持ちもよくわかります。
「ムー」でよく出ているのは、心霊とかUFOとか、やっぱり怪しい世界で(笑)、なかなか信じてもらえないんじゃないですか。
三上:
両極端ですね。信じている人は信じ切っていますけど、頭から否定する人も多いですから。
中川:
三上さんご自身は、どうだったんですか。不思議な世界がお好きで、「ムー」という雑誌に入ったわけですか。
三上:
子どものころ、テレビでUFOの特番を見ていましたし、ユリ・ゲラーが来日して、スプーンを曲げたりしたのもよくテレビで見ていて、興味は持ちましたよね。
中川:
そうそう、ユリ・ゲラーは大変な話題になりましたね。テレビを見て、スプーン曲げができるようになったという人も出たりしました。超能力はあるとかないとか、論争が起こったのを、よく覚えていますよ。あのころは、年齢に関係なく、ユリ・ゲラーのことを話していましたが、「ムー」の読者というのも年齢はあまり関係ないですか。
三上:
中学コースとか高校コースという雑誌をご存知ないですか。中一コースから高三コースまでありました。学年が上がっていくと、勉強のことばかりではなくて、芸能とかスポーツといったネタが入ってくるんですね。夏場に、ミステリーゾーンとか予言の特集をすると、これがすごい人気で、必ずランキングのトップになるわけです。それで、そういうネタで雑誌を作ろうということで始まったのが「ムー」なんですね。ですから、最初は中高生向けの内容でした。でも、高校を卒業しても、ずっと読み続けてくれる人もたくさんいて、内容も、中高生向けばかりではなく、もっとマニアックなものも入れていかないとということで、幅は広がっていきましたね。今では、中高生はもちろんですが、70代、80代でも読んでくださっています。親子二代にわたって熱心な読者になってくださっている方もいますね。
誌面は、超能力、心霊、UFO、古代文明、都市伝説、それに最近ではやっぱりスピリチュアル系と呼ばれる占いやヒーリングですね。
中川:
氣については、けっこう昔から取り上げておられるんですか。
三上:
実用ページで氣の活用法なんかをよくやりますよ。いわゆる特異効能と言われる超能力のような氣についても、昔は、中国の氣功師が編集部を訪ねてきたりしましたよ。
その中で、すごいと思ったのは、厳新という人でした。ある子どもの背中にバレーボール大のこぶがありまして、そこへ彼が氣を送ると、そのこぶがみるみる小さくなるとか、そんな伝説が数えきれないほどある人です。テレポートはよく起こっていたみたいだし、体に電流を流しても平気だったとか、彼に関する伝説はいくらでもありますね。電気を通すことでエネルギーを充電するって言っていました。
中川:
電気を流すというのは、感電しているということですね。それで平気なんですか。
三上:
中国の仙人や氣功師たちは、雷に打たれる修行をする人がいるらしいんですよ。雷のエネルギーを取り込んで、氣のレベルを高めるんでしょうね。
中国には、そういう能力者がいっぱいいて、政治家が彼らを囲っているみたいですね。ヒーリングを受けるだけでなくて、外交のときにも、彼らの能力を利用するのだそうです。外国の要人が中国を訪問すると、たくさんの人が出迎えますね。その中には必ず超能力者がいて、要人の体を透視して、その人が健康かどうかをチェックするわけです。もし、重篤な病気があったり、寿命が長くないようだと、その人のことはあまり相手にしないとか、そんな判断の材料にしているようですよ。
それは、中国ばかりではなく、アメリカでも日本でも、優秀な超能力者を囲っているのは、政治家でも財界の人でも、一種のステイタスになっています。政治家が重要な政治的判断を下すときには、超能力者に相談していると言われていますしね。
中川:
そうですか。だとすると、今の日本には、あまり優秀な超能力者がいないということですかね。政治も社会も混乱していますから(笑)。

(後略)

(2010年12月28日 東京池袋の(株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

           

1月 「樋口 恵子」さん

樋口 恵子(ひぐち けいこ)さん

1932年東京都生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。時事通信社、学研、キャノンをへて、評論活動に入る。東京家政大学名誉教授。NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長。著書に「祖母力」(新水社)「チャレンジ」(グラフ社)「生き上手は老い上手」「女、一生の働き方―貧乏ばあさん(BB)から働くハッピーばあさん(HB)へ」(以上、海竜社)など多数。

『もっとお年寄りに元気になってもらって高齢社会を乗り切る』

働くばあさん、ハッピーばあさん、未来を拓く花咲かばあさん

中川:
ユニークなタイトルの本を出されましたね。「女、一生の働き方」というのがメインタイトルで、これはわかるんですが、サブタイトルの「BBからHBへ」というのが鉛筆みたいで面白いですね(笑)。
樋口:
そうでしょ。BBというのは貧乏ばあさん、HBというのは働くばあさん、ハッピーばあさん、未来をひらく花咲ばあさんという意味なんですよ。
中川:
そうですか。先生がお作りになった言葉ですね。
樋口:
そうです。貧乏ばあさんというと、不快に思う方もおられると思います。しかし、貧乏というのは恥ではなし、日本の女性が年をとってから経済的な困難に直面するのは、その多くが日本社会の構造的な問題です。
私は、貧乏を恐れずに見つめ、貧乏にめげずにきちんと考える力と行動する勇気をもち、みんなの力を集めることで、貧乏をつくり出す構造は乗り越えられると考えています。ばあさんにしても、私は「祖母力」という本を書いたことがありますが、長く女性を生きてきたことにより蓄積された資源があるはずです。料理とか子育てとかね。それを上手に生かしてハッピーになってもらって、花を咲かせてもらいたいという思いを込めて、そう呼んだわけです。昔話だと、「あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」というところから始まるじゃないですか。おじいさんやおばあさんというのは、物語の主役であり、進行係なんですね。
中川:
なるほど。貧乏にしても、ばあさんにしても、決してネガティブな意味で使っているわけではないということですね。社会をもっと良くしていくことは大切だけれども、そのためには、自分自身が、ハッピーで花を咲かせるような存在でないといけないということでしょうね。
樋口:
そうですね。ところで、会長さん、うちの猫がずっと会長さんの椅子の下にいるんですが、この子はすごく恥ずかしがり屋で、お客さんが来ても、すぐに奥へ引っ込んでしまうのですよ。こんなにリラックスしているの初めて見ますよ。これはびっくり、ずいぶんとゆったりと寝転んでしまって。
中川:
いや、すいません、私の尻の下で(笑)。でも、動物は、氣を感じやすいですから…。
樋口:
それでですか。会長さんの氣で気持ちいいんでしょうかね。こんなこと初めてですよ。このままここにいさせてよろしいのでしょうか。
中川:
どうぞ、どうぞ。尻の下で申し訳ないですが(笑)。
樋口:
で、何の話をしていましたっけ(笑)。そうそう、貧乏ばあさんですね。世の中には、元気で働く志のある高齢者はたくさんいます。そういう例を参考にして、働いて端はたを楽らくにし、ハッピーで花を咲かせるばあさんになってもらいたいと思いましてね。これは女性ばかりの問題ではないので、男性も含めて、ハッピーな高齢者になってもらいたいということで書いた本です。
中川:
先生は、高齢社会をよくする女性の会というNPOの理事長をやっておられますが、これはどういう団体なんですか。
樋口:
1982年ですから、ずいぶんと前の話になります。私も50歳くらいで、私たちの世代の女性は、舅、姑の介護に直面していました。当時は、嫁が仕事をやめて介護するのが当たり前でしたし、亭主の方は、口は出すけど手は出さないという状態でしょ。ものすごい辛さの中にいました。そういう女性の声を集めようと集会をやったんですね。そしたら、大変な反響でした。私は、第1回目をやったら、次からは不定期にやればいいと思っていたのですが、まわりがそれを許さなくて、結局、決まった会を作るべきだという話になって、「高齢社会をよくする女性の会」というのを設立しました。以来、毎年、集会をやっていますから、今年が集会は29回目、会の設立から28年ということになります。今年の集会は、大分の別府で開かれ、2400人もの方が集まってくださいましてね。会の設立の最初は、企業団体の支援に頼っていましたが、会員も増えまして、今では、自前で会の運営ができるようになりました。
中川:
この会が設立されて、その流れで、2000年の介護保険が作られたわけですね。
樋口:
法律ができる一つの推進役にはなれたと思います。私も、介護保険の産みの親の一人だと言われるのは、とても光栄です。
あのころは、ずいぶんと感情的な反発もありました。嫁が世話をするのが伝統だ、当たり前だという考え方が主流でしたから。嫁が介護しないのは許せないという感情が出てくるんですね。
ですから、私は言いましたよ。ここは感情よりも勘定だって(笑)。
感情を無視して統計数値で物を言っても説得できないこは重々承知しています。これまでそうやってきたからこれからもという気持ちもわかります。しかし昔は子どもが7人も8人もいたけれども、今は2人しかいないという現実を見る必要はあるわけです。変化を直視しないところに適切な対応はありません。
それに、昔は人生50年でしたから、50歳~ 60歳の舅、姑に、嫁は40歳になっていませんでした。それが、寿命が延びて、80歳を超えた舅、姑に60歳の嫁ということになるわけです。姑を背負おうにも、嫁の方が体調を悪くしていたりするんですね。そういう変化を認めた上で対策を考えていかないと。それを、私は感情より勘定と言ったんです。

(後略)

(2010年10月26日 東京都杉並区の樋口さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

           

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