2009年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「昇 幹夫」さん

昇 幹夫(のぼり みきお)さん

1947年鹿児島生まれ。九州大学医学部卒業。高校の同期会で8人が 死亡(うち4人が医師)していることにショックを受け、働きすぎを改める ことに。現在、大阪で産婦人科の診療をしながら、「日本笑い学会」副 会長として、笑いの医学的効用を研究。著書に「泣いて生まれて笑って死 のう」(春陽堂 CD付き)「笑って長生き」(大月書店)などがある。

『笑うこと、泣くこと、人に話を聞いてもらうことで免疫は高まる』

笑顔教室で、笑顔や笑いの医学的な効用を話してほしいと言われた

中川:
昇先生は、笑いの効用をテーマに、全国で講演をされたり、本もたくさん出されていますが、お医者さんとしても医療現場で治療をしておられるんですよね。
昇:
しゃべってばかりいるように思われているみたいですが(笑)、私は麻酔科医であり、産科医です。きちんと仕事をしていますよ。医者になって38年、立ちあったお産は5000例以上、その間には、3万リットルを超える輸血をした体験もあるし、いろいろな修羅場を体験してきました。でも、赤ちゃんからは、たくさんのエネルギーをもらいましたね。
中川:
失礼しました。大変な数の講演をこなしているとお聞きしていたので、本職の方はどうしているのかなと思いまして(笑)。先生が、笑いをテーマにされたのは、どういうきっかけだったのでしょうか?
昇:
私は鹿児島生まれなので、人に笑われるなと言われて18歳まできました。そのあとは、福岡ですから、やっぱり笑われるなという風潮がありましたね。九州というのはそういう風土なんです。でも、大阪へ来たらまったく違うわけです。笑ってもらってなんぼじゃというところですから。ここで笑いの快感というのを知ったわけです。「受けた!」という快感ですね。あれは麻薬ですね(笑)。昭和61年でしたが、新聞に「笑顔教室ができて1年」という記事が出ていました。榎本健一(エノケン)という有名なコメディアンがいましたが、その人の弟子で近藤友二さんという方が始めたものでした。彼は営業マンをやっていて、仕事では笑顔が出るのだけれども、家へ帰ると「ふろ」「めし」「寝る」しか言わない生活で、奥さんともほとんど話をしなかったらしいんですね。これじゃいかんというので、笑顔の効用を説こうと教室を開いたんです。そこへ顔を出したのが、笑いにかかわるきっかけでした。
中川:
笑顔の効用ですか。でも、そのころはまだ笑顔とか笑いと医学というのは結びついていないですよね。そういうところに目をつけたというのは、先生の先見性ですね。
昇:
看護師さんなんか、すごく忙しくて、難しい顔をして仕事をしているわけですよ。それでは患者さんもうれしくないし、職場の雰囲気も悪くなるしね。笑顔はいいなと思ったんですね。笑顔教室に出てしばらくしたら、近藤さんから電話がありまして。笑顔がいいことはわかったけれども、どうしていいのか医学的にわかるだろうかと聞かれたんですね。3カ月後に医学的考察を話してくれないかと頼まれたんですが、医学的に笑顔とか笑いを語れと言われても、私たちは病気のことはさんざん勉強してきたけど、健康増進といったことはあまり知らないわけです。でも、頼まれたらやらないとね。

<後略>

(2009年10月23日 大阪 市中央区にあるマイドーム おおさかにて  構成 小原田泰久)

           

11月 「野上 ふさ子」さん

野上 ふさ子(のがみ ふさこ)さん

1949年新潟県生まれ。立命館大学文学部哲学科中退。1984年エコロジー社設立。エコロジー総合誌「生命宇宙」を創刊。1986年動物実験の廃止を求める活動。1996年、包括的な環境・動物保護団体「地球生物会議」を設立し『ALIVE』ほかを発行。著書に「動物実験を考える」「新・動物実験を考える」(ともに三一書房)などがある。

『命から宇宙まで。広い視野で動物保護を考え、行動する』

1本の残酷なビデオを見て、活動の方向性が決まった

中川:
はじめまして。野上先生は動物の保護を長年やっておられるということですが、私も人間はいつの間にか、生き物の頂点に立つものとしておごり高ぶるようになって、ほかの生き物たちを傷つけてしまっていると思っていました。そういう意味で、今日は先生のお話をお聞きするのが楽しみです。まずは、先生がどうして動物たちの保護を始めたのか、そのきっかけからお話をおうかがいできますでしょうか。
野上:
もともとは環境保護活動を長年やってきまして、1986年にはエコロジー社という出版社を始めました。海外では、西ドイツで緑の党ができるなど、暮らしと政治と環境問題を結びつけようという動きが盛んになってきたころでした。今では、日本でもエコロジーという言葉は浸透してきました。しかし、二酸化炭素とか廃棄物とか、物質的な意味合いでの環境問題が主流ですね。私は、環境の問題は、物質的なものを超えて、生命というものを中心的に考えないと、本当の解決の道はないと思っています。当時も、環境問題というのは、命から宇宙にいたるまで、広い視野で見ていく必要があると考えていたので、雑誌の名前を、エコロジー総合誌「生命宇宙」と名付けました。まだ、エコロジーという言葉が知られていない時代で早すぎたせいか、残念ながら、4号で廃刊になってしまいました。動物保護も新しく起こりつつあった活動のひとつで、1970年代から、動物の権利や保護の運動が世界的に広がっていました。そんなときに、イギリス人の大学の先生から1本のビデオをいただきました。その内容がとてもショッキングで、私のその後の方向性がそれによって決まったと言ってもいいかもしれません。
中川:
どんなビデオだったのですか?
野上:
もともとは環境保護活動を長年やってきまして、1986年にはエコロジー社という出版社を始めました。海外では、西ドイツで緑の党ができるなど、暮らしと政治と環境問題を結びつけようという動きが盛んになってきたころでした。今では、日本でもエコロジーという言葉は浸透してきました。しかし、二酸化炭素とか廃棄物とか、物質的な意味合いでの環境問題が主流ですね。私は、環境の問題は、物質的なものを超えて、生命というものを中心的に考えないと、本当の解決の道はないと思っています。当時も、環境問題というのは、命から宇宙にいたるまで、広い視野で見ていく必要があると考えていたので、雑誌の名前を、エコロジー総合誌「生命宇宙」と名付けました。まだ、エコロジーという言葉が知られていない時代で早すぎたせいか、残念ながら、4号で廃刊になってしまいました。動物保護も新しく起こりつつあった活動のひとつで、1970年代から、動物の権利や保護の運動が世界的に広がっていました。そんなときに、イギリス人の大学の先生から1本のビデオをいただきました。その内容がとてもショッキングで、私のその後の方向性がそれによって決まったと言ってもいいかもしれません。
中川:
どんなビデオだったのですか?
野上:
動物実験のビデオでした。閉ざされた研究室で、猿を使って、脳がどれだけの衝撃に耐えられるかという実験をしていました。ハンマーみたいな道具で、猿の頭を何度も何度もたたくんです。猿が脳挫傷で死んでいくまでの過程を記録したビデオで、研究者が自分たちの資料として撮影したものでした。それが外に出て、アメリカではテレビでも放送され、大騒ぎになっていました。動物実験に対する反対運動が盛んになるきっかけとなるビデオでした。
中川:
それはひどいですね。動物にも感情や心があることを忘れていますよね。
野上:
第二次世界大戦のときは、ナチスがユダヤ人を生体実験し、日本でも731部隊が捕虜を人体実験するなど、人間が人間に対して、とても残虐なことをやってきました。今では、そんなことは許されません。でも、よく考えてみると、戦後になって、かつて人間が人間にやってきたことを、今は動物に置き換えただけではないかという気がしてならないんですね。動物実験というのは、人間の利益のためなら、動物に何をしてもいいという考え方の極致だと思います。ビデオには、研究者たちが笑いながら猿を痛めつける映像が出ていました。良心の呵責などひとかけらもない様子でした。あれは、まさに人間が動物や自然に対して行っている暴力行為の象徴だと思いました。

<後略>

(2009年9月18日 東京都文京区にある「地球生物会議」事務局にて  構成 小原田泰久)

           

10月 「木村 秋則」さん

木村 秋則(きむら あきのり)さん

1949年青森県生まれ。78年ごろから無農薬、無肥料によるりんご栽培を模索し始める。約10年もの収穫ゼロという苦難の道をへて、ついに完全無農薬・無肥料のりんご栽培に成功する。その過程は、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介されて、大きな反響を呼ぶ。著書に、「自然栽培ひとすじ」(創森社)「りんごが教えてくれたこと」(日本経済新聞社)「すべては宇宙の采配」(東邦出版)がある。

『無農薬でのりんご栽培もUFO やあの世の体験も、私には同じように真実なのです』

大事なものは、目に見えないところにあると思う

中川:
お久しぶりです。この前に対談でお会いしたのは10年くらい前でしょうか(98年11月号)。あのときの写真を見ると、前歯はありませんでしたが、笑い顔には歯が映っていました。今はもう1本もないとお聞きしていますが(笑)。
木村:
きれいになくなりました(笑)。医者で胃の検査をしたら、胃壁が分厚くなっていると言われてな。かまずに飲み込んでいますから(笑)。
中川:
NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」に出られたのはおととしくらいですか?
木村:
2007年の12月かな。撮影は3ヶ月くらいかかってな。雨が降っても晴れても毎日来るからさあ。朝の5時半くらいには来ているわけ。毎日来られると少し疲れるな(笑)。
木村:
あれから日本中が木村さんに注目するようになって、本が出て、すっかり時の人になりましたね。絶対に不可能だと言われていた無農薬・無肥料でのりんご栽培に挑戦して、最初の畑を無農薬にしてから11年間、大変な苦労をされたというお話は、心打たれるものがあります。私も、あの番組を見て感動しました。その経緯は、「奇跡のりんご」(幻冬舎)という本に詳しく出ていますが、今度、「すべては宇宙の采配」(東邦出版)という本を書かれましたね。宇宙人のこととか、幽霊のこととか、龍のこととか、一般的にはかなり怪しいと考えられていることを書かれていて、思い切ったことをしたなと思いましたが、抵抗はなかったですか?
中川:
賛否両論だな。イメージが壊れるとか、なぜあんな本を出したとか言う人もいたし、逆に、よくぞ書いてくれたって喜んでくれる人もいたり。反応は見事に別れたな。だけどさあ、私は見えない世界が大事になっていると思うのな。スピーチを頼まれるとよく言うんだけど、みなさん、私はあなたを愛しているというとき、5kg愛していますとか、10kg愛していますという会話をしますかって言うのな。愛ははかりでは計れないんですよ。りんごの木でも米でも、土の中は見えないのな。今は、見える部分だけで話しているような気がするのな。大事なものは、目に見えないところにあると思うな。
木村:
そのことは前回もおっしゃっていました。りんごの木も根が大切なんだと言われていたのがとても印象に残っています。私の父も、見えない世界の大切さを、氣という見えないエネルギーを通して訴えようとしていました。私も、その跡を継いで、目に見えない世界の大切さを伝えていきたいと思っているわけです。
中川:
思いは大きなパワーだって思うのな。人間って、窮地に陥ったときに、思いのパワーが最大限に出ると思うな。火事場の馬鹿力みたいなな。生活費を稼ぐため長距離トラックの運転手をしていたときな。10トン車で仏壇を運んでて、きちんとした国道を通れば良かったのによお、近道をしようと山越えをしたのな。兵庫県の加古川に向かっていたときな。場所は岐阜県の神岡鉱山だったな。下り坂で、ブレーキのホースが破れてブレーキがきかなくなったのな。最初はサイドブレーキで坂を下ったけど、サイドブレーキも焼き切れて、急坂を必死で運転したのな。赤信号でも止まれなかったし、急カーブもあったし、一瞬でも間違えばもう死んでしまうという状況な。そのときは、トラックに「頼む」って念じたな。何とか縁石に乗り上げて止まったけどな
木村:
テクニックではなくて思いの力で助かったわけですね。まだ、りんごもできていないし、そんなところで死ぬわけにはいかないですからね。
中川:
止まった場所が、偶然にも、修理工場の前だったわけ。午前1時ごろだったけど、修理工場にまだ残っている人がいて、すぐに修理してもらえてな。あのまま崖から転落して死んでいたらりんごも作れないわけさ。何か、目に見えない力が、私を導いてくれたとしか思えないのな。

<後略>

(2009年8月18日 青森県弘前市の木村さんの自宅近くの喫茶店にて  構成 小原田泰久)

           

9月 「一柳 廣孝」さん

一柳 廣孝(いちやなぎひろたか(いちやなぎ ひろたか)さん

1959年生まれ。名古屋大学大学院博士課程満期退学。横浜国立大学教育人間科学部教授。近代日本における霊や無意識の受け止め方を、文化・文学という側面から研究している。著書に、「霊を読む」(共編蒼丘書林)、「『学校の怪談』はささやく」(編著青弓社)などがある。

『夏目漱石や芥川龍之介も霊的なことに興味があった』

子どもは怪談が好き。学校の怪談の本が600万部も売れた。

中川:
先生のことは、1年以上前ですが、読売新聞の「スピリチュアリティの探求者」という連載で拝見しまして、とても興味をもちました。「霊を読む」という本も拝見しまして、こういう学問もあるんだと、驚かされ、ぜひお話をおうかがいしたいと思った次第です。文学研究で、霊をテーマにしようというのはあまりないことだと思いますが、どうして霊を研究対象にされたのか、すごく興味があります。まずは、そこからお聞かせください。
一柳:
もともとは、普通の文学研究をしていたんですよ(笑)。でも、夏目漱石とか芥川龍之介を読んでいますとね、彼らの作品には、霊的なことがチラチラと出てくるんですね。従来の文学研究では、そんなのはノイズ扱いで、研究の対象にはなりません。しかし、あれだけの文豪がどうして霊的なことに興味をもったのか、そこに、私の興味がつながっていきまして。それが、きっかけといえばきっかけですね。
中川:
そうですか。夏目漱石や芥川龍之介の作品に、霊的なことが出てくるんですか。
一柳:
たとえば、漱石の短編「琴のそら音」には、出征した夫の鏡の中に、妻が現れます。妻は夫の留守中にインフルエンザで亡くなってしまったので、お別れに来たというわけです。ほかの作品でも、テレパシーのことが出てきたりしています。芥川龍之介にも、「近頃の幽霊」という随筆があります。彼らも、けっこうこういう世界が好きだったんじゃないかなと思いますね。
中川:
霊的なものへの興味は、時代を超えてあるのだと思いますね。今も、スピリチュアルブームと言われていますし。
一柳:
怪談というのは、だれもが好きですね。江戸時代には、百物語というのがありましてね。一種のイベントですよ。怖い話を100話するわけです。ろうそくを100本灯しておいて、1話終わるごとに消していくわけです。99話が終わると、ろうそくはあと1本。そして、100話目が終わると、ろうそくが全部消えて真っ暗になり、そのときに何か不思議現象が起きるというものです。これは、明治時代になっても行われていました。現代では、実話怪談ブームというのがありまして、実際にあった怖い話をまとめた本がずいぶんと売れました。これも、百物語のひとつかと思います。話も100話にせず、99にとどめてあったりします。不思議現象が起こると困りますから(笑)。90年代の半ばには、学校の怪談ブームというのがありました。いくつかの出版社から出されましたが、全部を合わせると、600万部が出ました。半端な数ではないですね。
中川:
600万部ですか。子どもたちは、怪談を読んで育ってきたわけですね。子どもは怖い話が好きですからね。
一柳:
子どもたちは、そういう本やそれが映画化されたりアニメ化されたものを見て、この世は目に見える部分ばかりではなくて、目に見えない部分と重なり合っているんだということを学習しているところもあると思います。
中川:
でも、成長するにつれて、目に見える部分の比重が大きくなってくるのでしょうかね。先生が教えておられる学生さんなんかどうですか?
一柳:
かつては、大人になると、見えない部分は押さえ込まれることがあったと思いましたが、今は、科学的なものは大事だけれども、そうじゃないものも認めていいのではという重層構造になっているのではないでしょうか。明治以降、科学的合理主義を上から押し付けられて、江戸時代とは枠組みがまったく変わってしまいました。しかし、みんながそれに納得していたかというと、そんなことはなくて、心の奥底には古代から続いている霊魂観や神霊観が残っていて、時代時代によって、それが、形を変えて出てくるということを話すと、学生たちは納得して話を聞きます。霊的なものがあるとかないではなくて、私たちの思いとか感覚を作っている文化として考えると、学生たちもそうだし、学問としても受け入れられやすくなりますね。学問の俎上に乗っけるときは、霊があるかないかという立て方はしません。人が霊的なものがあると信じる背景にはどういう力学が働いていて、それがどうつながって、ブームになっているのかということを考えていきます。たとえば、宮沢賢治に霊能力があったかどうかという話は、文学研究としては意味をもちませんが、彼が特殊な感性で感じ取ったものをどうやって文学として表現したかということになれば、それは立派な学問となるわけです。

<後略>

(2009年7月23日 横浜国立大学教育人間科学部研究室にて 構成 小原田泰久)

           

8月 「野上 照代」さん

野上 照代(のがみ てるよ)さん

1927年東京生まれ。1950年、『羅生門』の撮影のために太秦にやって来た黒澤明監督に、スクリプターとしてつくことになり、以来、『白痴』以外のすべての黒澤作品にかかわる。1984年「父へのレクイエム」で第5回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞の優秀賞を受賞。同作を原作として制作された映画『母べえ』が2008 年1月に公開される。著書に『天気待ち 監督・黒澤明とともに』『蜥蜴の尻っぽ』がある。

『母べえは、がまん強くて、愚痴も言わずによく働いた』

女性ヒューマンドキュメンタリー大賞を受賞

中川:
今日は、氣という得体の知れない話にお付き合いいただきますが、どうぞ、よろしくお願いします。
野上:
確かに得体が知れないかもしれません(笑)。私には別世界でわからないことだったから、この対談も、一度、お断りしたんですね。失礼しました。送っていただいたバックナンバーを拝見したら、佐藤愛子先生も出てらして。愛子先生は、私にとっては恩人なんですよ。
中川:
ハイゲンキという氣を中継する機械がありましてね。普通は機械から氣が出ると言っても信じてもらえないんですが、佐藤先生はそういうこともあるかもしれないと、すぐに理解してくれました。
野上:
(ハイゲンキの写真を見て)これね。何だか、録音機械みたいね(笑)。これから氣が出るの?私は即物的な人間だから何だか信じられないわね(笑)。でも、愛子先生が、あんなにすばらしい小説をお書きになるのは、氣の力が応援しているからかしら。
中川:
私どもがやっている真氣光を創設したのは私の父なんですが、父は、夢でいろんなことを教えられたと言っていました。それも氣の応援かもしれません。当初は皮膚を集合針で刺激する治療器を売っていたのですが、それだと皮膚を傷つけて血が出たりしますから、エイズや肝炎がうつるのではという懸念があって、どうしたらいいだろうと思っていたら、86年に夢を見て皮膚に傷がつかない構造のハイゲンキを作りました。次に、88年ですが、今度は夢で、ハイゲンキが効き過ぎて弾圧されるから、明日から手から氣を出してみろと言われたみたいで。白いひげの老人が出てくるって言うんですね。 そしたら、本当に氣が出せるようになり、その後、ハイゲンキが薬事法違反ということになりましてね。最初は、効かないものを効くと言って売っているということで詐欺罪と言われたらしいんです。ところが、買った人はみんな元気になって喜んでいましたから、詐欺罪は適用にならなかったんです。私も、機械から氣が出るなんて信じられなかったし、わが親父ながら変なことやってと思っていましたよ(笑)。野上さんは、佐藤先生が恩人だと、さっきおっしゃいましたが。
野上:
そうそう。会長は、『母べえ』を読んでくださったんですね。あれは、1984年の第五回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞で、優秀賞をいただいた作品です。そのときの選者に愛子先生がいらしてね。先生が選んでくださったおかげで、賞金の500万円をいただきました(笑)。応募資格が女性だけなので、それだけで半分は得でしょ。それに、賞金1000万円に目がくらんでね(笑)。ちょうど、『影武者』という映画が終わったところで、次の仕事がないころだったから、ありがたかったですよ。悔しいのは、優秀賞に柴田亮子さんの「かんころもちの島で」と私の作品が選ばれたので、賞金も半分になったこと。500万円でいいじゃないかとみんな言うけど、違いますよね(笑)。5人くらい選者がいて、反対した人もいたけど、私はあなたのが一番いいと思ったのよって、パーティのときに愛子先生から言っていただきました。主催者が狙っていたテレビドラマの原作という面では、私の作品は地味でしたから、愛子先生が押してくださったおかげで受賞できたのだと思っています。
中川:
確か、もともとの題名は「父へのレクイエム」で、お父さんが拘留されたときの家族との往復書簡がもとになっているんでしたよね。
野上:
思想上の理由で、何度も検挙され、1940年には拘置所に入れられました。保釈されるまでの8ヶ月くらいの間、家族と手紙のやり取りをしていて、それを大切に保存してあったんですね。戦後、父はそれを整理して大学ノートに書き写していました。父の書斎には、赤字で「非常持ち出し」と書かれた汚い紙袋が10袋くらい置いてありました。その中の一つにその大学ノートがありました。前から読んでいて、貴重なものだから残しておきたいと思っていたので、それをもとに急いで書いた作品なんです。
中川:
言論の自由がない時代だったじゃないですか。お父さんの活動を見ていると、そういう制約のある時代に一生懸命にやっていますよね。私たちは、今のような自由な時代に何も発信しないのはどうなんだろうと思ってしまいます。自由に発言できる時代になったのも、お父さんのような人たちがいたからこそだということを知れば、意識が変わっていくはずですよ。

<後略>

(2009年5月18日  東宝スタジオにて  構成 小原田泰久)

           

7月 「佐藤 初女」さん

佐藤 初女(さとう はつめ)さん

1921年青森県生まれ。小学校教員、染色工房主宰をへて、83年に 自宅を開放して『弘前イスキア』を開設。92年に岩木山麓に『森の イスキア』を開く。95年に公開された『地球交響曲第二番』で活動 が紹介され、全国の人の共感を呼んだ。『森のイスキア』主宰。著 書に『おむすびの祈り』『初女さんのお料理』などがある。

『毎日の食事を正しくしていれば、苦しいことも乗り越えることができる』

若い人たちは迷っている。相談できる大人がいない

中川:
ごぶさたしています。前に先生と対談させていただいたのは、12年も前のことになります。あのときは、森のイスキアへおうかがいして、おいしいお食事をいただいて。ありがとうございました。
佐藤:
そうですか。12年にもなりますか。確か、あのときはすごい雷があって、停電したのを覚えていますね。
中川:
そうでした。だから、余計に印象に残っています。先生がろうそくをもって来られて、雷のおかげで、忘れられない対談になりました。
先生もお元気そうで、お会いできてとてもうれしいですよ。
あれから、森のイスキアも変わりましたか。
佐藤:
建物の裏に杉林があったのを覚えてらっしゃるでしょうかね。あそこをね、間伐して、散策したり瞑想のできる場所にしました。バーベキューもできます。小さな森と名づけましてね。
会長さんが来られたときには、大きな石はありましたでしょうか。25トンの石です。たぶん、まだなかったと思いますから、12年でずいぶんと変化したんじゃないでしょうか。
中川:
そうですね。そんな大きな石は見ていませんね。
佐藤:
対談の後、東京で会員の皆様にお話をさせていただいたし、生駒も行きましたね。おむすびを作りました。
中川:
会員の皆様も、とても喜んでいました。その後、イスキアツアーを組んで、みんなでおうかがいしました。
佐藤:
会長のご自宅へもお招きいただきまして、本当に懐かしいですね。会長も、貫禄がつきましたね。お元気そうで。
中川:
いやいや、みなさんに助けられながらやっています。
今回は、1週間ほど東京に滞在されているということで、またお会いできる時間を作っていただいて、ありがとうございます。いくつか講演が入っているのですか。
佐藤:
昨日は、聖心女子大での講演がありました。あと、川越と和光ですね。
中川:
全国どころか、海外からも講演の依頼があると聞いています。各地でいろいろな方にお話していて、何か、先生が気になるとか、感じることはありますか。
佐藤:
そうですね。若い人たちが多くなってきましたね。
今は、講演会のとき80%が若い人です。年齢が下がっていますね。20代の方も増えてきています。
私には、若い人には希望があると思えます。迷っているのだけれども、ただ迷っているのではなくて、自分の進む道を見極めたいということで迷っているからです。ただいたずらな迷いではないですね。
今やっていることがいいのか、それとも別の道があるのか、話してその答えをもらいたいと思って、講演に足を運んでくれるんですね。
若い人たちは、なかなか答えを出してくれる大人に出会えないと言っていますね。はっきりと方向を示してくれれば考える。そういう感じですかね。
私は、今というこのときを大事にするようにとお話しています。
中学生であっても高校生であっても大学生であっても同じ悩みをもっているように思います。

<後略>

(2009年5月14日  小さな森 東京(吉田俊雄様宅)にて 構成 小原田泰久)

           

6月 「原田 真二」さん

5月 「多田 千尋」さん

多田 千尋(ただ ちひろ)さん

芸術教育研究所所長。東京おもちゃ美術館館長。1961年東京都生まれ。明治大学法学部卒業後、モスクワ大学系属プーシキン大学に留学し、幼児教育、児童文化、おもちゃなどを学ぶ。20年にわたり、乳幼児から高齢者までの遊び文化・芸術文化および世代間交流の研究と実践に取り組んでいる。『遊びが育てる世代間交流』(黎明書房)など著書多数。早稲田大学講師。

『おもちゃはコミュニケーションを豊かにする生活道具』

人間が初めて出あう芸術はおもちゃだ

中川:
はじめまして。ここはもともと小学校だったんですね。かつての小学校に木のおもちゃという組み合わせはとてもフィットしていますよ。すごく温かみがあって。ほっとする空間ですね。それにしても、ずいぶんとたくさんの人が来られていましたね。
多田:
ありがとうございます。ここへ移ってきて約1年ですが、来館者は約8万人です。一番多い層が0歳から8歳の子どもさんを連れたファミリーです。ファミリーの人に来ていただいて、いろいろと感じて帰っていただきたいと思っていましたので、今のところ目論見どおりです。中川会長は、氣という私にはあまりなじみのない世界で活躍されているようですが、具体的にはどのようなことをやっておられるのですか?
中川:
もともとは父が始めたことです。夢を見て氣が出るようになりまして。よく氣は心と言いますが、私たちが生きる上で、心のもち方はとても大切で、心のもち方が変わればだれでも氣を出せるようになると、1週間の講座を始めました。講座では、この世は物質だけでできているわけではなくて、実は見えない世界のエネルギーこそ本質なんだということを伝えていました。氣を受けると、体が動いたり、病気が回復したりと、不思議な現象が起こります。その体験によって、多くの人が氣の存在を認めるようになります。そして、氣のことを深く理解して心を豊かにすれば、氣も出るようになるということで氣功師を養成していました。実際、その講座でたくさんの氣功師が誕生しています。父は95年に亡くなりました。今は、私が跡を継いで、氣の研修講座を開催したり、氣のグッズを開発したりしています。
多田:
そうでしたか。実は、東京おもちゃ美術館も、私の父が始めたものです。父は、美術教育の専門家で、小学校や中学校の図工や美術の先生を指導するという仕事をしていました。あるとき、ヨーロッパへ行きまして、向こうのおもちゃを見て感動して帰ってきたんです。何気なく出窓やピアノの上に置いてあるおもちゃや赤ちゃんのガラガラのデザインがすばらしいというわけです。人間が生まれて初めて出あうアートはおもちゃだと、興奮して帰ってきたみたいですよ。それがきっかけで、おもちゃ集めが始まって、おもちゃ美術館が作られるということになりました。もっと大きくしていくんだと張り切っていましたが、13年ほど前に64歳で亡くなりました。会長と同じように、私が跡を継ぐことになりました。本当は継ぎたくなかったんですが(笑)。
中川:
私も継ぐつもりなんかなかったんですけど(笑)。もともと電機会社の技術者でしたから。ストレスで体調を壊したことで父のやっている講座を受けたら驚くほどの効果があったし、言っていることも心に響きましたし、これはすごいかもしれないと父の手伝いをするようになりました。氣のことなど、大して理解していないうちに、父が亡くなって、訳もわからず会長になって、右往左往の日々でしたよ。
多田:
私も、8年くらいしか父と一緒に仕事をしていませんでしたし、自覚もなく代表にさせられてしまいました。何だか、境遇が似ていますよね(笑)。

<後略>

(2009年3月24日 『東京おもちゃ美術館』にて 構成 小原田泰久)

           

4月 「小出 裕章」さん

小出 裕章(こいで ひろあき)さん

1949年東京都生まれ。東北大学工学部原子核工学科卒業。同大学院修了。京都大学原子炉実験所助教。原子力の専門家という立場で、原子力の危険性を訴え続けている。著書に「放射能汚染の現実を超えて」(北斗出版)「原子力と共存できるか」(かもがわ出版・共著)などがある。

『原子力をやめさせるために自分の知識を使いたい』

原子力は本当に未来を支えるエネルギー?

中川:
私どもは、「氣」という生命の根源と言われているエネルギーを扱っています。氣というと実体がなくて、怪しげなものととらえられていますが、氣に代表されるような何か目に見えないエネルギーがあることを前提に生きていくと、生き方そのものがとても豊かになってきます。しかし、それは霞を食べて生きていくということではなくて、現実生活をいかに正しく見て、適切な行動がとれるかということがとても大切だと思っています。そういう意味で、月刊ハイゲンキでも、原子力の問題は何度も取り上げています。本当に原子力は安全なの?必要なの?ということを、みんなで考えていくことがとても大切なのではと、問題提起をしているわけです。私は、原子力は、とても危険なものだと感じています。しかし、危険を感覚としてとらえるのも大事だけれども、私はもともとは技術者ですので、きちんと科学的な裏づけのもとで危険を語りたいと思っています。そのために、今日は、先生にレクチャーを受けに来た次第です。よろしくお願いします。
小出:
わざわざお越しくださってありがとうございます。私は、氣については門外漢ですが、原子力の危険性について興味をもってくださっている方は、大歓迎です。何でもお聞きください。
中川:
ありがとうございます。原子力の専門家というと、どうしても原子力発電所を推進する立場にあると思ってしまうのですが、先生が原子力の危険性を語るようになったのは何かきっかけがあったのでしょうか。
小出:
私は、進学先として、東北大学工学部原子核工学科というところを選んだのですが、その動機は原子力をやりたかったからです。1968年に入学しましたが、このころというのは、原子力こそ未来の人類を支えるエネルギーともてはやされていた時代です。私も、原子力に夢をもって入学し、少なくとも最初の1年間は、1時間も休まず授業に出て、勉強にまい進しました。そのころ、東北電力が原子力発電所を作ろうとしていました。女川という世界三大漁場と言われる三陸の豊かな海のあるところに建てるという計画でした。しかし、日本中、原子力には賛成だというムードの中、女川では反対運動が起こったんですね。私はどうしてだろう?と疑問に思いました。いろいろと調べてみると、彼らは、発電所をどうして電気の消費地である仙台ではなくて、100キロも離れた女川へ作るんだと指摘していました。私もその答えを探し求めました。そしてわかったのが、今から思えば当たり前なのですが、危険だから過疎地に押し付けるということだったんですね。
中川:
国や電力会社は、盛んに安全性を強調していますけど、それなら東京とか大阪とか、大都会の真ん中に原子力発電所を作ればいいと思いますよね。
小出:
当時は、大学闘争で、大学とは何か、学問とは何かが問われていましたが、私は女川の件で、その答えを見出しました。自分のやっている原子力工学というのがいわれのない犠牲、しわ寄せの上に成り立っていることに気づいたんです。それを支えているのが学問だった。それに気がついたときに、私としてはとるべき道はひとつしかなくて原子力をやってはいけない、これをやめさせるために、自分のもっている知識を使いたい。そう決意したんです。

<後略>

           

3月 「池川 明」さん

池川 明(いけが わあきら)さん

1954年東京生まれ。帝京大学医学部大学院卒。医学博士。上尾中央総合病院産婦人科部長を経て、1989年に池川クリニックを開設。胎内記憶の研究の第一人者。著書に「胎内記憶」(角川SSC新書)「ママ、さよなら。ありがとう」(リヨン社)「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社)などがある。

『胎児にも意識や記憶がある。もっと魂を見る出産を』

胎児の心臓の部分は温かく感じる

中川:
先生には、2003年に「出産と氣」という特集で月刊ハイゲンキに登場いただいています。お母さんのお腹の中の赤ちゃんにも意識や記憶があるという話、興味深く読ませていただきました。先生は、産婦人科のお医者さんですが、氣のことにも深い理解があって、ハイゲンキをクリニックに置いてくださっているそうですね。私は、赤ちゃんというのは、とてもすばらしい氣をもっていて、お父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに、いろんなことを教えてくれているんだと思うんですね。そういう意味で、先生のやっておられることにすごく関心をもっています。今日、こうやってお話をうかがえるのをとても楽しみにしていました。
池川:
ありがとうございます。わざわざ遠くまでお越しくださって恐縮しています。会長のことは、月刊ハイゲンキを読ませていただいていて、こうやってお会いできるのがうそみたいです(笑)。ハイゲンキは、分娩室と外来に置いてあります。妊婦さんにはどういうものかは話していませんが、知らないうちに氣を受けてくださればと思っています。心強い味方ですよ。
中川:
置いてあるだけでまわりの人たちは心も体もリラックスできて、すごい思い込みやこだわりがある人でも、氣を受けているうちにどんどんと変わっていくんです。もちろん、お腹の中の胎児や生まれたばかりの赤ちゃんも感じ取っているはずですよ。胎児の記憶とか意識とか、そういうことに興味をもたれたのは、どういうきっかけがあったのですか?
池川:
氣に興味をもったのと同じくらいの時期でした。1999年くらいですから、もう10年になります。¥r¥nある友人の医師から、『氣のことわかりますか?』と質問されて、いろいろと話をしているうちに、『先生、氣が出ていますよ』と言われたのがきっかけで、氣に関心をもちました。手がしびれませんかって聞かれましてね。それまで太極拳をやっていて、手がしびれるような感覚は体験していました。ああ、あれが氣なんだという感じですね。そんなときに、鍼灸師さんや氣とかかわっている人たちから、赤ちゃんには記憶があるとか、赤ちゃんはたくさんの氣をもっているといった話を聞くわけです。大学ではそんなことは習いませんから(笑)、本当かなと思いながら、氣のことや赤ちゃんの記憶についてどんどんと興味が出てきて、ハイゲンキの話を聞いたときも、すぐに欲しいと思って、池袋のセンターへ買いに行ったわけです(笑)。
中川:
私も、お腹の中の赤ちゃんは、氣でお母さんやまわりの人たちに何かを伝えていると思うのですが、何か実感されたことはありますか。
池川:
最初、真似事で妊婦さんのお腹に手をかざしてみました。数センチ離れたところに手を置くんですね。そしたら、妊婦さんが温かい感じがするって言うんですね。それで気を良くして何度もやっているうち、ある部分で温かさを感じるようになりました。エコーで調べてみると、そこは心臓だったんです。温かくて私の手をはじき返すようなエネルギーを感じたときには赤ちゃんはとても元気です。一度だけ冷たく吸い込まれるような感じがしたことがありました。夜中にお腹が痛くて来られた方でした。ストレスがあるような気がしたので、聞いてみると、さっき夫婦喧嘩をしたって言うんですね(笑)。夫婦喧嘩をするとお腹が冷えて、赤ちゃんは小さく縮こまってしまうようですね。お腹の中で寒い思いをしているんじゃないでしょうか。
中川:
きっと、敏感にお母さんのストレスを感じ取っているんだと思いますね。お母さんの氣が赤ちゃんにも伝わるんでしょうね。氣を知る前も、ストレスとお腹の中の赤ちゃんの関係なんかを感じたこともありましたか。
池川:
いや、まったくそんなことは考えませんでした(笑)。そもそも、産科が面白いと思ったのは、すごく理詰めでお産が説明できるからでした。たとえば、骨盤の大きさや格好によって、どんなお産になるか説明できるわけです。科学的に説明できるから、気持ちがすっきりするんですね。でも、開業して、助産婦さんにもいろいろと話を聞くようになって、お産はそんなに浅いものではないということがわかってきました。人によって違うんです。中には、途中で引っ込んで行く赤ちゃんもいるんです。子宮の出口も閉じてしまって、一休みというのがあります。普通はそこで帝王切開してしまうわけです。助産師さんに聞くと、これは待っていれば生まれるから大丈夫と言われる。大丈夫かなと思っていると、ちゃんと生まれる。そんな場面を見せられると、経験と勘というのはすごいなと思いますね。
中川:
現場で場数を踏んでわかったことがいっぱいあったわけですね。でも、一休みするというのも、何か意味があってのことなんでしょうね。その意味を考えずに、手術で取り出してしまうというのは、赤ちゃんにとっては不本意なことになりますよね。
池川:
生まれてこないのは、生まれる時期じゃないから休んでいるんだよねと思うんですよ。そう考えれば、今は赤ちゃんが休んでいるから、お母さんも少し寝たらどうと言えるわけですよ。そしたら、しばらくして陣痛がらね。帝王切開しなくても、スムーズに生まれますよね。私の思い込みかもしれませんが、少なくとも、私がかかわった妊婦さんには、赤ちゃんには意識があるし、目に見えない力が応援してくれていると思ってもらえればと思います。そうすれば、元気いっぱいで生きられるんじゃないかな。
中川:
まったくその通りだと思います。でも、胎児に意識があるなんてことは、ほとんどの人が考えないし、怪しい話をしていると思うわけでしょ。よくそういう世界に足を踏み入れて、それを実際の現場で実践してこられたと思いますよ。真氣光でも、先代がだれでも氣が出せるんだと一週間の研修を始めましたが、これもだれも言っていないし、もちろんやっていないことでしたから、ずいぶんと風当たりが強かったようです。どんなことでも、前例のないことを言ったりやったりするのは生半可な気持ちではできません。先生の勇気には感服しますね。大変だっただろうと思いますよ。

<後略>

(2009年1月14日 横浜市金沢区 池川クリニックにて 構成 小原田泰久)

著書の紹介

池川先生の著書「ママ、さよなら。ありがとう」(左)と「胎内記憶」(右)

           

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