12月 「昇 幹夫」さん
昇 幹夫(のぼり みきお)さん
1947年鹿児島生まれ。九州大学医学部卒業。高校の同期会で8人が 死亡(うち4人が医師)していることにショックを受け、働きすぎを改める ことに。現在、大阪で産婦人科の診療をしながら、「日本笑い学会」副 会長として、笑いの医学的効用を研究。著書に「泣いて生まれて笑って死 のう」(春陽堂 CD付き)「笑って長生き」(大月書店)などがある。
『笑うこと、泣くこと、人に話を聞いてもらうことで免疫は高まる』
笑顔教室で、笑顔や笑いの医学的な効用を話してほしいと言われた
- 中川:
- 昇先生は、笑いの効用をテーマに、全国で講演をされたり、本もたくさん出されていますが、お医者さんとしても医療現場で治療をしておられるんですよね。
- 昇:
- しゃべってばかりいるように思われているみたいですが(笑)、私は麻酔科医であり、産科医です。きちんと仕事をしていますよ。医者になって38年、立ちあったお産は5000例以上、その間には、3万リットルを超える輸血をした体験もあるし、いろいろな修羅場を体験してきました。でも、赤ちゃんからは、たくさんのエネルギーをもらいましたね。
- 中川:
- 失礼しました。大変な数の講演をこなしているとお聞きしていたので、本職の方はどうしているのかなと思いまして(笑)。先生が、笑いをテーマにされたのは、どういうきっかけだったのでしょうか?
- 昇:
- 私は鹿児島生まれなので、人に笑われるなと言われて18歳まできました。そのあとは、福岡ですから、やっぱり笑われるなという風潮がありましたね。九州というのはそういう風土なんです。でも、大阪へ来たらまったく違うわけです。笑ってもらってなんぼじゃというところですから。ここで笑いの快感というのを知ったわけです。「受けた!」という快感ですね。あれは麻薬ですね(笑)。昭和61年でしたが、新聞に「笑顔教室ができて1年」という記事が出ていました。榎本健一(エノケン)という有名なコメディアンがいましたが、その人の弟子で近藤友二さんという方が始めたものでした。彼は営業マンをやっていて、仕事では笑顔が出るのだけれども、家へ帰ると「ふろ」「めし」「寝る」しか言わない生活で、奥さんともほとんど話をしなかったらしいんですね。これじゃいかんというので、笑顔の効用を説こうと教室を開いたんです。そこへ顔を出したのが、笑いにかかわるきっかけでした。
- 中川:
- 笑顔の効用ですか。でも、そのころはまだ笑顔とか笑いと医学というのは結びついていないですよね。そういうところに目をつけたというのは、先生の先見性ですね。
- 昇:
-
看護師さんなんか、すごく忙しくて、難しい顔をして仕事をしているわけですよ。それでは患者さんもうれしくないし、職場の雰囲気も悪くなるしね。笑顔はいいなと思ったんですね。笑顔教室に出てしばらくしたら、近藤さんから電話がありまして。笑顔がいいことはわかったけれども、どうしていいのか医学的にわかるだろうかと聞かれたんですね。3カ月後に医学的考察を話してくれないかと頼まれたんですが、医学的に笑顔とか笑いを語れと言われても、私たちは病気のことはさんざん勉強してきたけど、健康増進といったことはあまり知らないわけです。でも、頼まれたらやらないとね。
<後略>
(2009年10月23日 大阪 市中央区にあるマイドーム おおさかにて 構成 小原田泰久)
第二次世界大戦のときは、ナチスがユダヤ人を生体実験し、日本でも731部隊が捕虜を人体実験するなど、人間が人間に対して、とても残虐なことをやってきました。今では、そんなことは許されません。でも、よく考えてみると、戦後になって、かつて人間が人間にやってきたことを、今は動物に置き換えただけではないかという気がしてならないんですね。動物実験というのは、人間の利益のためなら、動物に何をしてもいいという考え方の極致だと思います。ビデオには、研究者たちが笑いながら猿を痛めつける映像が出ていました。良心の呵責などひとかけらもない様子でした。あれは、まさに人間が動物や自然に対して行っている暴力行為の象徴だと思いました。
思いは大きなパワーだって思うのな。人間って、窮地に陥ったときに、思いのパワーが最大限に出ると思うな。火事場の馬鹿力みたいなな。生活費を稼ぐため長距離トラックの運転手をしていたときな。10トン車で仏壇を運んでて、きちんとした国道を通れば良かったのによお、近道をしようと山越えをしたのな。兵庫県の加古川に向かっていたときな。場所は岐阜県の神岡鉱山だったな。下り坂で、ブレーキのホースが破れてブレーキがきかなくなったのな。最初はサイドブレーキで坂を下ったけど、サイドブレーキも焼き切れて、急坂を必死で運転したのな。赤信号でも止まれなかったし、急カーブもあったし、一瞬でも間違えばもう死んでしまうという状況な。そのときは、トラックに「頼む」って念じたな。何とか縁石に乗り上げて止まったけどな
かつては、大人になると、見えない部分は押さえ込まれることがあったと思いましたが、今は、科学的なものは大事だけれども、そうじゃないものも認めていいのではという重層構造になっているのではないでしょうか。明治以降、科学的合理主義を上から押し付けられて、江戸時代とは枠組みがまったく変わってしまいました。しかし、みんながそれに納得していたかというと、そんなことはなくて、心の奥底には古代から続いている霊魂観や神霊観が残っていて、時代時代によって、それが、形を変えて出てくるということを話すと、学生たちは納得して話を聞きます。霊的なものがあるとかないではなくて、私たちの思いとか感覚を作っている文化として考えると、学生たちもそうだし、学問としても受け入れられやすくなりますね。学問の俎上に乗っけるときは、霊があるかないかという立て方はしません。人が霊的なものがあると信じる背景にはどういう力学が働いていて、それがどうつながって、ブームになっているのかということを考えていきます。たとえば、宮沢賢治に霊能力があったかどうかという話は、文学研究としては意味をもちませんが、彼が特殊な感性で感じ取ったものをどうやって文学として表現したかということになれば、それは立派な学問となるわけです。
そうそう。会長は、『母べえ』を読んでくださったんですね。あれは、1984年の第五回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞で、優秀賞をいただいた作品です。そのときの選者に愛子先生がいらしてね。先生が選んでくださったおかげで、賞金の500万円をいただきました(笑)。応募資格が女性だけなので、それだけで半分は得でしょ。それに、賞金1000万円に目がくらんでね(笑)。ちょうど、『影武者』という映画が終わったところで、次の仕事がないころだったから、ありがたかったですよ。悔しいのは、優秀賞に柴田亮子さんの「かんころもちの島で」と私の作品が選ばれたので、賞金も半分になったこと。500万円でいいじゃないかとみんな言うけど、違いますよね(笑)。5人くらい選者がいて、反対した人もいたけど、私はあなたのが一番いいと思ったのよって、パーティのときに愛子先生から言っていただきました。主催者が狙っていたテレビドラマの原作という面では、私の作品は地味でしたから、愛子先生が押してくださったおかげで受賞できたのだと思っています。
そうですね。若い人たちが多くなってきましたね。
そうでしたか。実は、東京おもちゃ美術館も、私の父が始めたものです。父は、美術教育の専門家で、小学校や中学校の図工や美術の先生を指導するという仕事をしていました。あるとき、ヨーロッパへ行きまして、向こうのおもちゃを見て感動して帰ってきたんです。何気なく出窓やピアノの上に置いてあるおもちゃや赤ちゃんのガラガラのデザインがすばらしいというわけです。人間が生まれて初めて出あうアートはおもちゃだと、興奮して帰ってきたみたいですよ。それがきっかけで、おもちゃ集めが始まって、おもちゃ美術館が作られるということになりました。もっと大きくしていくんだと張り切っていましたが、13年ほど前に64歳で亡くなりました。会長と同じように、私が跡を継ぐことになりました。本当は継ぎたくなかったんですが(笑)。
私は、進学先として、東北大学工学部原子核工学科というところを選んだのですが、その動機は原子力をやりたかったからです。1968年に入学しましたが、このころというのは、原子力こそ未来の人類を支えるエネルギーともてはやされていた時代です。私も、原子力に夢をもって入学し、少なくとも最初の1年間は、1時間も休まず授業に出て、勉強にまい進しました。そのころ、東北電力が原子力発電所を作ろうとしていました。女川という世界三大漁場と言われる三陸の豊かな海のあるところに建てるという計画でした。しかし、日本中、原子力には賛成だというムードの中、女川では反対運動が起こったんですね。私はどうしてだろう?と疑問に思いました。いろいろと調べてみると、彼らは、発電所をどうして電気の消費地である仙台ではなくて、100キロも離れた女川へ作るんだと指摘していました。私もその答えを探し求めました。そしてわかったのが、今から思えば当たり前なのですが、危険だから過疎地に押し付けるということだったんですね。
当時は、大学闘争で、大学とは何か、学問とは何かが問われていましたが、私は女川の件で、その答えを見出しました。自分のやっている原子力工学というのがいわれのない犠牲、しわ寄せの上に成り立っていることに気づいたんです。それを支えているのが学問だった。それに気がついたときに、私としてはとるべき道はひとつしかなくて原子力をやってはいけない、これをやめさせるために、自分のもっている知識を使いたい。そう決意したんです。
氣に興味をもったのと同じくらいの時期でした。1999年くらいですから、もう10年になります。¥r¥nある友人の医師から、『氣のことわかりますか?』と質問されて、いろいろと話をしているうちに、『先生、氣が出ていますよ』と言われたのがきっかけで、氣に関心をもちました。手がしびれませんかって聞かれましてね。それまで太極拳をやっていて、手がしびれるような感覚は体験していました。ああ、あれが氣なんだという感じですね。そんなときに、鍼灸師さんや氣とかかわっている人たちから、赤ちゃんには記憶があるとか、赤ちゃんはたくさんの氣をもっているといった話を聞くわけです。大学ではそんなことは習いませんから(笑)、本当かなと思いながら、氣のことや赤ちゃんの記憶についてどんどんと興味が出てきて、ハイゲンキの話を聞いたときも、すぐに欲しいと思って、池袋のセンターへ買いに行ったわけです(笑)。