2008年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「倉持 仁志」さん

倉持 仁志(くらもち ひとし)さん

1954年栃木県生まれ。宇都宮大学農学部農芸化学科卒。三井石油化学工業株式会社(現三井化学株式会社)で新規除草剤の開発を担当。92年に退社し、宇都宮大学に。97年からイワダレソウの品種改良に取り組む。現在、宇都宮大学雑草科学センター講師。

『驚きと希望。名もない雑草が砂漠を緑化する切り札に!』

野生の馬に導かれてイワダレソウと出あった

中川:
はじめまして。先生のことを紹介した「夢の扉~NEXT DOOR」というテレビ番組の録画を見せていただきました。イワダレソウという雑草を品種改良されて、砂漠の緑化に取り組んでおられるということでしたが、イワダレソウというのはすごい草ですね。驚きました。
倉持:
ありがとうございます。あの番組は2年くらい前に放映されたものです。
イワダレソウとは13年ほどの付き合いですが、やっと多くの人に、その可能性を感じていただけるようになってきました。
中川:
そもそもイワダレソウは、どういう草なんですか。
倉持:
これがイワダレソウです(机の上の鉢にイワダレソウが植えつけられている)。見てお分かりになるように、あまり上に立ち上がらず、横にびっしりと伸びていきます。(鉢をひっくり返して鉢から取り出し、土の部分を見せながら)こういうふうに、びっしりと根が広がっています。根が土をしっかりとつかんでいますよね。この根は、生育環境が良ければ、1.5メートルの深さまで伸びます。この根があるから、土壌の流出を防ぐことができるし、砂漠でも深いところから水分や栄養を吸収できるんですね。
学問的な分類としては、クマツヅラ科に属します。世界中の熱帯、亜熱帯地方に育っていて、日本では、沖縄で多く見られますね。海岸にあることが多い植物です。
中川:
(イワダレソウを触って)これがそうですか。ひんやりして柔らかくて気持ちいいですね。
こんな小さな葉っぱなのに、1.5メートルも根が伸びるというのはすごいですね。これで、砂漠を緑化しようというわけですね。
イワダレソウと先生のご縁というのは、何がきっかけだったのですか。
倉持:
与那国島から、海岸沿いの芝地が雑草だらけになっているので何とかしてくれないかという依頼がありました。私はずっと除草剤を研究してきましたから、それが本来の仕事でした。
除草の仕事が終わってひと息ついていたときでした。
芝地に野生の与那国馬がいるのに気がついたんですね。小さくてかわいい馬でした。
私も動物が好きなものですから、一頭の馬に近づいて行って、なでようと手を出したんですね。そしたら、その馬がさっと逃げて行きました。そして、少し離れたところから、こっちを見ている。
私は、またその馬に近づいて行きました。今度は逃げませんでした。そのときに、何気なく馬の足もとを見たら、そこに見慣れない草があったんです。
びしっと土をつかむように生えている。
それがイワダレソウだったんです。
茎は太いし、引っ張ってみても簡単に抜けません。これは使えるかもしれないと直感的に思ったんですね。それで、宇都宮へ持ち帰りました。
中川:
馬が逃げなかったら出あわなかったかもしれませんね。導かれたようなご縁ですね。
そこからイワダレソウの研究が始まったんですね。
倉持:
関東にはない草だったし、元気そうだったので興味をもったんですね。上に伸びずに横に広がっていく草なので、これは芝の代わりになるんじゃないかと思いました。
中川:
そのときから、先生は環境のことには関心をもっておられたんですか。
倉持:
いえいえ。そのときは、雑草を使うなんて考え方はまるっきりありませんでした。
雑草は、作物の害になるなら、全部殺してしまえという考えでしたから(笑)。
ゴルフ場に生える草は除草し、水田の草も殺してしまう。そればっかりやっていましたから、雑草が役に立つなんてことは、思ってもみませんでした。
そうじゃないよって、馬が教えてくれたんでしょうかね(笑)。
中川:
イワダレソウに出あってから、雑草に対する見方が変わったんですね。
倉持:
そうですね。でも、除草の仕事をやめたわけではありません。管理という面では、ときには除草をする必要もあります。
除草するときと生かすときと、使い道がとても大切だと思っています。
中川:
イワダレソウを宇都宮へ持ち帰って、それからいろいろとご苦労もあったかと思いますが。
倉持:
最初は温室で育てました。これなら芝の代替に使えるという感触を得ました。根っこがすごく伸びるから、土壌流出の防止にもいいなと思った。1年くらい、のめりこんで研究しましたね。
でも、温室の中で見ていても仕方ありません。外で育たないと意味がないわけですから。それで、外の畑に植え付けてみたんです。

(後略)

(2008年10月8日 宇都宮大学雑草科学センターにて)

           

11月 「西本 真司」さん

西本 真司(にしもと しんじ)さん

1961年和歌山県生まれ。近畿大学医学部卒業。熊本大学医学部麻酔科、熊本赤十字病院麻酔科、山鹿市立病院を経て、96年に西本第2クリニックを開業。真氣光によって潰瘍性大腸炎が改善した体験をもとに、2006年7月、父の他界で2つのクリニックを統合した西本クリニックにてホリスティックな医療を展開している。著書に、「潰瘍性大腸炎が治る本」(マキノ出版)(2004)、「潰瘍性大腸炎―医師も患者もこうして治した」(マキノ出版)(2007)がある。

『自らの難病がハイゲンキで快癒し、その効果を医学的に検証した』

患者さんにチラシを見せられ、※移動クリニックに(※現在の気功体験会)

中川:
お久しぶりです。西本先生は、真氣光とは私以上に長い付き合いですよね。下田や生駒でも楽しい講座をもっていただいたりしました。私たちにとっては、真氣光を理解してくださる、とてもありがたいお医者さんです。先生は、ハイゲンキに関して、いろいろな医学的データをとってくださっていましたよね。あのデータが、これからとても重要な役割を果たすような気がしましてね。それで、今日は、おうかがいしたわけです。先生がハイゲンキをもたれたのは、いつごろのことですか。
西本:
もうずいぶんと前になりますね。熊本県の山鹿市立病院の麻酔科に勤務していたころですから1991年かな。その年に、過労とストレスで、難病に指定されている潰瘍性大腸炎という病気になりまして。今、ものすごく増えている病気です。現代医学では、決定的な治療法がありません。それで、中国気功の本を読んで自己流でやったりしていたんです。そんなときに、入院患者さんから、真氣光の移動クリニックのチラシを見せられました。どんなものだろうと思って、行ってみてびっくりでしたよ。
中川:
潰瘍性大腸炎で大変な思いをしたのは、講座の中でもお聞きしました。ずっとトイレにこもっていたという話、先生は笑いながらお話されていましたが、きっと大変だったのだろうと思ってお聞きしていたのを覚えていますよ。中国気功をやっておられたということは、気功には抵抗がなかったと思うんですが、真氣光は中国気功とはちょっと違いますから、きっと驚くことも多かったと思います。
西本:
いやあ、びっくりですよ。ビデオから氣が出るなんて、考えもしなかったですよ(笑)。まさかと思いながら、目をつむって氣を受けたんですよ。そしたら、突然、腕がぐるぐると回り出して。
中川:
当時、ビデオから氣が出るなんて言っている人はいませんでしたから。言うだけではだれも信じませんよね。でも、体験すると、確かに氣を感じますからね。
西本:
これは一体、何なのだろうと、会場にあった本を全部買ってきました(笑)。ハイゲンキにもとても興味をもちました。手やビデオから出る氣というのは、どこかあいまいなイメージがありますよね。しかし、機械だと、説明しやすいというか、データもとりやすいだろうと、そんなことを思いました。それで、ハイゲンキを購入して、自分の体で試してみたんです。そのころ、下痢や腹痛、血便を抑えるために、サラゾピリンという薬を毎日、8錠飲んでいました。ハイゲンキを毎日使いながら、飲む量を1錠ずつ減らしていったんですね。そしたら、ついに2週間目に薬を飲まなくても下痢も腹痛も血便もなくなってしまったんです。これは、大変なことです。国が指定した難病の症状が薬を飲まなくても治ってしまったのですから。そんなことがあって、92年の3月、伊豆・下田で行われていた『医療氣功師養成講座』に参加して、氣功師の認定もいただいたわけです。
中川:
西洋医学にしか目が向いていなければ、とてもそんな劇的な体験はできなかったでしょうね。きっと、病気を通して、導かれたということもあるのだろうと思います。その後、山鹿市立病院でもハイゲンキを購入してくれましたよね。公立病院で、ハイゲンキを買うというのは、画期的なことです。
西本:
段階があって、最初は自分の機械を使って、希望する患者さんに無料でやってあげていいですかというところから始めました。私の経過がすごく良かったので、院長や上司の先生も理解してくださって、ハイゲンキと氣流測定器の予算を組んでくれました。公立病院にハイゲンキが入ったというのは、それまでもなかったし、あれ以降もないんじゃないですか。患者さんも、いっぱい来てくださったし、とても喜んでくれました。
中川:
西本先生の熱意が通じたんだと思いますよ。現場での治療に加えて、データをしっかりととって、学会でも発表されましたけれど、当時はまだ氣のことはあまり知られてなかったし、けっこう反発もあったんじゃないですか。
西本:
ありましたね。でも、いろんな意見があっていいいし、どんな意見も次への参考になりますから。反発は想定していましたし、それをプラスに生かすことを考えていました。
中川:
まさに、それこそ真氣光の精神だと思いますよ。マイナスのエネルギーがやってきたときこそ、チャンスですからね。実は、西本先生のように、霊的な世界を理解している方だから言えますが、真氣光をやっていると、宇宙からさまざまなメッセージが届きます。最近、ハイゲンキに関するメッセージがとても多くなっているんですね。今、地球の人々は宇宙意識に目覚めないといけないそうです。そのためには、高い次元のエネルギーが必要です。ハイゲンキは、そのエネルギーを注入する役割を与えられているんですね。ハイゲンキによってエネルギーを魂に入れることで、意識が変わっていきます。自分のことばかりを考えるのではなく、他人のこと、動物や植物のこと、地球全体のことを考えられる意識になっていきます。そういう意識をもつ人が一人でも増えてほしいわけです。だから、何とかしてハイゲンキを使ってほしいと、そんなメッセージがくるんですね。ただ、宇宙からのメッセージとか宇宙意識という言い方だと、抵抗があったり、理解できない人がたくさんいます。魂の世界が分かる人ばかりでなく、目に見えるものしか信じない人にも、少しでもハイゲンキの良さを知ってもらうには、西本先生がとったデータがとても重要な役割を果たすようになるんですね。

<後略>

(2008年9月19日 西本第二クリニックにて 構成 小原田泰久)

           

10月 「迫田 時雄」さん

迫田 時雄(さこだ ときお)さん

1937年鹿児島生まれ。広島音楽高等学校、武蔵野音楽大学卒。1965 年より3 年間、ウイーン国立音楽大学に留学。1999 年には映画「故郷」で使われたチェロ曲を作曲した(出演もした)。2001年日本障害者ピアノ指導者研究会を設立。2005 年1月「第一回ピアノパラリンピックin Japan」を開催。2005 年、定年により武蔵野音楽大学ピアノ科助教授を退職。第二回ピアノパラリンピック開催へ向けて各国へ働きかけている。

『障害者のすばらしい演奏に聴く人が変わっていく』

カーネギーホールでのコンサートに緊張

中川:
はじめまして。先生のされているピアノパラリンピックについては、以前にこの雑誌(月刊ハイゲンキ誌)で紹介させていただきました。とても反響が大きかったので、私も関心をもっていましたら、この間も、テレビで紹介されていましたね。確かうちの雑誌に出てたなと、改めて思っていたところへ、こうした対談の機会をいただきました。今日は楽しみにしています。よろしくお願いします。
迫田:
こちらこそ、貴重な誌面をいただきまして、ありがとうございました。¥r¥nあの記事を載せていただいたのが3年前ですかね。第一回目のピアノパラリンピックを横浜で開催した後だったかと思います。おかげさまで、来年の9月27日から10月4日には、カナダのバンクーバーで第二回目の大会を開催することになりました。
中川:
それはおめでとうございます。今までになかったことを始められて、それを継続してやっていくのは大変だろうと思います。あと1年ほどですが、準備の方はいかがですか。
迫田:
これがなかなか大変でして。前例が、横浜でやった第一回目の大会だけですから、バンクーバーの方もどう動いていいかわからない部分も多いですね。でも、第一回目が予想以上の出来だったので、協力してくれる方も増えてきました。マスコミでも報道してくれていますし、いい感じではないかなと思います。去年の12月3日には、ニューヨークの国連ハマーショルドホール、5日にはカーネギーホールでのデモンストレーションコンサートを行いました。演奏者が世界8カ国から集まってくれまして、大盛況のコンサートでした。日本でも、NHKがそのときの様子を紹介してくれたりしまして、私たちにとっては、とても有意義なイベントでした。ちょうど、12月3日が国際障害者デーで、日本が障害者条約サインをしたんですね。そんな中で、行事のひとつとして、コンサートを開くことができました。
中川:
あの有名なカーネギーホールですか。よく借りることができましたね。
迫田:
たまたまキャンセルがあったのでしょうか、空いていましてね。みんな緊張していましたよ。私が一番緊張したかな(笑い)。
中川:
先生がピアノパラリンピックをやろうとされたのは、手の不自由なお子さんにピアノを教えたことがきっかけだったですよね。
迫田:
中学生の子だったですね。お母さんからピアノを教えてあげてほしいと依頼を受けまして。私はピアノの教師ですから、中学生にピアノを指導するのは専門です。気楽にどうぞと引き受けたのですが、会ってびっくりです。その子は、左手の指が先天的になかったんです。どうしようかと思ったのですが、片手で弾くというトレーニング法もありましたので、とにかく試行錯誤で指導しました。それからしばらくして、音楽サークルに招待されたときに、とてもピアノの上手な女性に会いました。彼女の左手も指が一本もありませんでした。彼女は、左手の手首を器用に左右に動かして、親指と小指の付け根を使って鍵盤を叩いていました。まったく両手がある人の演奏と違和感がない。違和感がないどころか、彼女の音楽性はすばらしくて、ハートが伝わってきます。10本の指がそろっている人よりもはるかにすばらしい演奏をしてくれました。これだけの才能があるのに、音楽大学は障害があるという理由で、彼女を受け入れませんでした。おかしな話です。障害のある人にもピアノを楽しんでもらいたい。そして、才能があるなら、それを伸ばしてあげたいと思うようになりました。

<後略>

(2008年8月11日 東京都練馬 迫田時雄さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

NPO日本障害者ピアノ指導者研究会

<a href="http://www.ipd-piano.org/index.html" target="_blank">http://www.ipd-piano.org/index.html</a>

           

9月 「石田 秀輝」さん

石田 秀輝(いしだ ひでき)さん

東北大学大学院環境科学研究科教授。工学博士。専門は地質・鉱物学をベースとした材料科学。78年に伊奈製陶株式会社(現・INAX)に入社。同社空間デザイン研究所所長、取締役研究開発センター長を歴任し、2004年9月より現職。「人と地球を考えた新しいものづくり」を提唱。

『自然から学ぼう!  循環型社会を創り出す粋なテクノロジー』

自然界から学ぶネイチャーテクノロジー

中川:
はじめまして。先生のご研究を、新聞記事やホームページで拝見してとても興味をもちました。ひとことで言うと、自然から学ぶもの作りかと思いますが、私ももともとは技術者で、ゾウリムシやミジンコの動きを参考にしてマイクロマシンという小さな機械を開発するという仕事をしていました。
自然というのは、いかに合理的で精密にできているかというのを痛感したのを思い出します。
先生はINAXにおられたそうですが、どうして大学で研究することになったのですか。
石田:
INAXには25年勤めました。50歳を機に会社を辞めて、ここへ来たわけです。
もともとは鉱物をやっていまして、コテコテの技術屋でしたが、90年ごろに、地球の循環が大切だということに気づきました。省資源や省エネルギーも大事だけど、もっと地球の循環に視点を置いて、セラミックを作ったらどうだろうと思うようになったのです。それで、焼かないセラミックというのを考案しました。土は優れた断熱性をもち、土がもつ数ナノメーターの小さな孔は、湿度を自動調整してくれます。この土の構造を維持したまま固めて、壁や天井、床に張ると、エアコンが必要なくなります。
自然の中にヒントになるものはいくらでもあります。会社で自然探検隊というのを作って、たとえば、かたつむりや卵の殻は、汚れがつきにくいことを発見すると、それを参考に汚れない外壁材を作ろうと考えたりしました。
自然の中には学ぶべきことがいっぱいあります。でも、それに気づくには、鳥瞰(ちょうかん)的に広く見る目がなければなりません。今は、問題が起こってそれに対処する教育ばかりが行われていますから、本質を見る目が養われていません。本質を見る目を養う教育、それに研究、そして普及というのを考えて、会社を辞めて大学で勤務することにしました。
中川:
土がエアコン代わりになるというのはすごいですね。かたつむりや卵の殻は確かに汚れがつかないですし。ほかにはどんな技術があるのですか。
石田:
ハスの葉は水をはじきます。葉の表面に微小なでこぼこがたくさんあり、そのすき間に空気が入ることで水が付着しないようになっています。この構造を利用して濡れない布が開発されました。カイコやヤママユガなどの天然のまゆは、紫外線をカットし抗菌性をもっています。この性質は、繊維だとか美容液として使えます。
こうした自然界がもっている高い機能を模した技術をネイチャーテクノロジーと名づけました。高機能というだけでなく、エネルギーや資源を使わないという意味で、循環型社会を作るにはとても役立つ技術です。
中川:
ネイチャーテクノロジーですか。いいネーミングですね。今まで、自然を支配し、搾取して文明を築いていたのに対して、自然から学ぶという姿勢で新しい文化なり文明を作っていくということですね。
石田:
その通りですね。今の文明は、地球上のあらゆる生物に配慮することなく、人間の発展と繁栄を第一目標にしてきました。自然が奴隷のように使えると思っていました。ベーコンやデカルトがそれをとことん突き詰め、彼らの思想が引き金になって産業革命が起こりました。私は、それを地下資源文明と呼んでいるけど、その結果が、高エネルギー消費であり、地球への負荷もどんどんと大きくなってきています。地下資源文明はもう完全に行き詰っています。
これを打破するには、自然から学ぶ姿勢が大切です。それを、私は生命文明と呼んでいます。人間も自然の一部と考え、人間と自然の共生・融合を図るというものです。
中川:
地球温暖化やさまざまな災害によって、何とかしなければという意識は出てきていますからね。物質文明は行き詰っているという実感は出てきているでしょうね。
石田:
意識は高まっているけれども、具体的に何をすればいいかがわかっていません。ゴミを分別するとか、節電するとか、何か夢のない行動しか示されていません。もっと、ワクワクドキドキするものがあってもいいと思うんです。それを提示するのが、テクノロジーの役割だと思います。そこを私はやってみたいと思っているわけです。

<後略>

(2008年7月7日 東北大学大学院環境科学研究科 石田研究室にて 構成 小原田泰久)

           

8月 「宮崎 ますみ」さん

宮崎 ますみ(みやざき ますみ)さん

女優。1968年愛知県生まれ。84年にクラリオンガールに選ばれ、映画、ドラマなどで活躍。94年に結婚し、渡米。2児の母となり2005年に帰国。映画「奇妙なサーカス」に主演。乳がんであることを公表し、現在、女優のほかにも、講演活動やセラピストとしても活躍中。

『すべては完璧なタイミングで起こっている』

副作用の不眠が氣功で改善した

中川:
はじめまして。今日は、わざわざありがとうございます。真氣光については、あまりご存知ないかと思いますが。
宮崎:
雑誌を拝見しましたし、さっき、ハイゲンキという機械の体験をさせていただきました。とても気持ち良かったです。
中川:
そうでしたか。もともとは、私の父が始めたもので、氣功のひとつだと思っていただければいいと思います。ただ、機械から氣が出るとか、一週間で氣が出せるとか、従来の氣功のから言えば、ちょっと常識はずれと言われることがあります。¥r¥n私も、わが父のやっていることでしたが、信じていませんでした(笑い)。でも、仕事で体調が悪くなりまして。ストレスですよね。精神的にも肉体的にもバランスが崩れてしまったんですね。それで、当時は伊豆の下田でやっていた研修に参加しました。そしたら、体調は良くなったし、それに心の持ち方が現実を変えるという考え方が、私のようなサラリーマンにも必要なんじゃないかと感じまオて、それで氣の世界にとても興味をもったということが始まりなんです。
宮崎:
お父様は、ずっと氣功をやっておられたんですか。
中川:
そうなんですよ。まず機械でしたね。この機械があったから、真氣光はとてもいい形で広がったし、先代が亡くなった後、右も左もわからなかった私をずいぶんと助けてくれました。この機械があって、さらに先代のもとで真氣光を学んできた方々が支えになってくれたからこそ、私もやってこれたんだなと感謝しています。
宮崎:
私も氣功には縁が深いんですよ。2年半前に乳がんになって、手術と放射線の後、ホルモン治療を受けたんですね。そしたら、すごく副作用が強くて、夜も眠れないし、つらい毎日を過ごしていました。¥r¥nそんなときに、氣功を習おうと思って、インターネットで調べて、自宅から簡単に通える氣功教室へ行くことにしました。そしたら、氣が体中に充満して、パンパンになった感じなんですね。氣の流し方なんか知らず、ただひたすら氣を入れることばかりやっていましたから。その夜、体が痛いと叫んでいる感じがしました。でも、嫌な感じではなかったですね。それで、とりあえずは寝るかとベッドに入ったら、ぐっすり眠れまして。翌朝は、霧が晴れたようなさわやかな気持ちでした。
中川:
れないというのは辛かったでしょうね。でも、すぐに氣功を習おうと、よく思われましたね。
宮崎:
もともとスピリチュアルなことには興味がありました。15歳で芸能界の仕事を始めて26歳で結婚するまで仕事を続けて、スピリチュアルなことに目覚めれば目覚めるほど、潜在意識が表に出てくれば出てくるほど、当時の私は社会とのバランスがとれなくなっているのを感じていました。これ以上仕事を続けたら自分は死んでしまうのではと追い込まれた状態でしたね。休憩したいなと思ったときに、アメリカに住んでいる日本人と出会って結婚したんです。ロスに住んだのですが、仕事から解放されて、自分を見つめるような時間をたっぷりととれました。自分の癒し作業でしたね。子どもができて、子育てしながら自分を磨く作業をしてくる中で、ヨガやインド哲学を勉強する機会もありましたから、氣功も決してなじみがなかったわけではなかったんです。
中川:
氣功をされて、眠れるようになったことのほかに、何か気づきとか変化はありましたか
宮崎:
ぐっすりと眠れた翌朝ですが、いきなりインスピレーションで「こんなことをしている場合ではない」と感じたんです。こんなことってどんなことだろうと考えたら、それはホルモン治療のことだって思いました。再発を予防するための治療だけど、こんなにも副作用が出ているのは体のバランスを崩しているに違いないから、もうやめようと思いました。お医者さんにも相談しまして、思い切って、ホルモン療法をやめることにしました。これは私にとって大きな選択、決断だったと思っています。
中川:
不安もあっただろうと思いますが、よく決断されましたね。お医者さんは、この治療をすると何%改善されるとか、数字を出してきたんじゃないですか。
宮崎:
その通りですね。10年後に再発しない確率は、何も治療を受けない場合は60%で、5年間ホルモン治療をすると70%に上がると言われました。私は、えーっと思いました。こんなにもつらい思いをしてたったの10%という気持ちでした。人によっては、10%も上がると感じる人もいるんでしょうが。それで、私はホルモン治療をやめて、60%にかけることにしたんです。

<後略>

(2008年6月26日 東京池袋の (株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

           

7月 「帯津 良一」さん

帯津 良一(おびつ りょういち)さん

1936年埼玉県生まれ。東京大学医学部卒。東京大学第三外科、共立蒲原病院、都立駒込病院を経て、1982年に埼玉県川越市に帯津三敬病院を開院。2004年東京・池袋に帯津三敬塾クリニックをオープン。現在、帯津三敬病院名誉院長、日本ホリスティック医学協会会長、日本ホメオパシー医学会理事長など。『大養生』(太陽企画出版)『あるがままに生き死を見つめる7つの教え』(講談社)『健康問答』(共著・平凡社)など多数の著書がある。

『倒れるまでまい進する。ゆっくりするのは死んでから。』

先代とは20年前に上海で初めて会った

中川:
ご無沙汰しています。ハイゲンキ誌への原稿、いつもありがとうございます。相変わらず、お忙しそうですね。
帯津:
こちらこそ、ご無沙汰です。なかなか時間がとれずにすいませんでした。今日も、横浜で講演があって、その帰りに寄らせていただきました。会長と、お会いするのは何年ぶりでしたかね。
中川:
もう、ずいぶん、お会いしていませんね。川越の病院へおうかがいして、先生のお部屋でお話をうかがったのを覚えていますが。
帯津:
そうだ、そうだ。確か、漢方薬のことでお見えになりましたね。
中川:
えーっと、あれはまだ先代が亡くなる前のことだったと思います(笑い)。
帯津:
そんな前になりますか(笑い)。いずれにせよ、久しぶりですね。先代が亡くなって13年でしたね。会長も、貫禄が出てきて、ずいぶんと板についてきたじゃないですか。
中川:
いや、まだまだ戸惑うことばかりですが、周りの方に助けられて何とかやっております。¥r¥n先生には、先代のころからお世話になっていますが、先代とお会いになったのは、いつごろのことですか。
帯津:
1988年に、上海で第二回国際気功検討会というのがありまして、私も日本気功協会の山本理事長に誘われて参加したんですね。がん患者を集めて氣功をやっているというのが少しずつ知られるようになった時期で、ぜひ上海でしゃべってほしいと言われましてね。でも、開業医ですから、なかなか病院を空けられません。最初は断っていたんですが、どうしてもと言われるので、しぶしぶ参加しました。そしたら、そこにはなかなか個性的な方が集まっていましてね。中川さんでしょ、それに大阪の吉見猪之助さん、名古屋の林茂美さん、京都の山内直美さん、それに湯浅泰雄先生がいましたね。小原田さんとも、そこではじめて会いました。
中川:
20年前のことですね。先生が病院を開業されたのが1982年でしたよね。それから6年くらいたっていますから、氣功もかなり認知されてきたころでしょうか。
帯津:
そうですね。認知されるまではいかなくても、開業したころとは大分、事情が変わってきていました。
中川:
先生は、中国で氣功のことを知って、がん治療に氣功を取り入れるられたわけですけど、そのへんの経緯を教えていただけますか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
中国へ視察に行ったのは1980年です。都立駒込病院にいたころですね。外科医として、たくさんのがん患者さんの治療をしていて、医療技術も急速に進歩していましたので、がんが撲滅できる日は近いと思っていました。しかし、現実には再発して戻ってくる患者さんがたくさんいて、ちょっと方向性が違うのではと思うようになりました。それで、西洋医学とは考え方の違う中国医学を学んでみようという気持ちになったんです。中国医学というのは、氣功ばかりでなく、漢方薬や鍼灸、食養生といったものがありますね。でも、私は、氣功のことを知って、中国医学のエースは氣功だと思いました。
中川:
中国医学のエースですか。それはまたどうして、そう思われたのですか。
帯津:
私は、若いころ、柔道や空手、柔術をやっていました。柔術が強くなるため呼吸法を習いました。氣功というのは、『調身』『調息』『調心』という三つの要素が必要です。逆に言えば、この三つの要素があれば氣功と言ってもいいわけですね。そう考えると、呼吸法はもちろんですが、柔道も空手も柔術も氣功と相通じるものがあるだろうと思ったんです。姿勢を正して、息を整え、心を落ち着かせるということですね。これは、生きるための基本でもあります。それが医療として行われていることにとても魅力を感じました。

<後略>

(2008年4月30日 東京池袋の (株)エス・エー・エス本社にて 構成 小原田泰久)

           

6月 「野口 勲」さん

野口 勲(のぐち いさお)さん

1944年(昭和19年)青梅に生まれる。すぐに飯能に移住。1965年成城大学を中退し、虫プロ出版部に入社、手塚治虫担当となる。1967年虫プロを退社し、種屋をやりつつ編集の仕事に携わる。1974年から野口種苗研究所の仕事に専念。伝統野菜消滅の危機を感じ、固定種の販売をするとともに、その大切さを啓蒙している。

『地球上の生命よ、もっと賢く。小さな種を通して火の鳥の願いを伝えたい』

大学を中退してあこがれの手塚治虫担当に

中川:
はじめまして。今日は、よろしくお願いします。飯能にははじめておうかがいしました。駅前にプリンスホテルがあったり、西武とはゆかりの深いところなんですね。
野口:
ゆかりも何も、もともと、西武鉄道の前身である武蔵野鉄道の本社は飯能にあって、飯能・池袋間というのは大正時代から走っています。最初は、巣鴨まで行く予定だったらしいのですが。
中川:
そうでしたか。存じ上げませんで、失礼しました。野口さんは、飯能でお生まれになって、確か、おじいさんの代から種屋さんをやっておられるとか。
野口:
そうです。ぼくは3代目で、ずっとこの商店街で店を出していたのですが、私どものような零細な種屋は経営も大変だし、インターネットでの商売も増えてきたので、もっと山の方へ引っ越すことが決まっています。今、新しいお店を作っていて、完成次第、引っ越します。
中川:
野口さんは、有名な漫画家の手塚治虫さんのところでお仕事をされていたそうですね。手塚さんとのかかわりからお話をうかがってみたいのですが、子どものころから漫画はお好きだったのですか。
野口:
大好きでした。特に、手塚漫画が好きでした。小学校のときから、夢中になって読んでいました。いろいろな漫画がありましたが、もう一度読むのに耐えられるのは手塚治虫だけでした。何回読んでもあきない。読むたびに新しい発見がある。今でも、ああこんなことだったんだと思うことがありますね。小学生のころは、手塚先生のアシスタントになるのが夢でした。でも、高校生くらいになると、自分に漫画を描く能力がないことがわかってきました。それで、アシスタントではなくて、漫画誌の編集者になって、手塚先生の担当をしようと、方向転換をしたわけです。
中川:
大学は文学部へ行かれて、中退して虫プロへ入社されますよね。夢がかなったわけですけど、種屋さんの跡を継ぐことも期待されていたと思うんですね。二代目のお父さんは反対されたんじゃないですか。
野口:
親父は、農業大学を出て、種屋の跡を継げと言っていましから、がっかりしたでしょうね。大学2年のときに、虫プロの社員募集があったのでとりあえず応募して話を聞いたら、ぼくが望む出版の仕事ではなくて、そのときはお断りしたんです。しばらくしてから出版部の募集があったので、それに応募して採用されました。希望通りに手塚先生の担当をさせてもらったのですが、初日から徹夜でした。鉄腕アトムのアニメがテレビで放映されていたころで、とにかくハードな毎日でした。手塚先生というのは、間違いなく天才でしたね。そばにいても、驚かされることばかりです。それに、子どもみたいに無邪気なところがあって。ああいう人のそばにいられたというのは、ぼくにとっては、大変な財産になりましたね。

<後略>

(2008年3月19日 東京都大田区の 大石さんのご自宅にて 構成 小田原泰久)

           

5月 「大石 又七」さん

大石 又七(おおいし またしち)さん

1934年静岡県生まれ。53年から第五福竜丸に乗り込む。54年ビキニ環礁でおこなわれたアメリカの水爆実験で被爆。元第五福竜丸乗組員。第五福竜丸平和協会評議員。

『伝えよう核の恐怖。ビキニ事件を忘れてはいけない。』

みんな口をつぐんでしまって話す人がいない

中川:
はじめまして。先ほど、夢の島にある第五福竜丸展示館へ行ってきました。ああ、この船が赤道まで航海し、死の灰をかぶって帰ってきたんだと、木造の福竜丸を感慨深く拝見しました。当事者の方にとっては、私たちの想像を絶するくらいのつらい体験だっただろうと思いますが、福竜丸と大石さんたち乗組員たちは、世の中に核の怖さを知らしめるきっかけになったし、これからも実感をもって伝えていく生き証人なんだと思います。大石さんは、あの展示館で、よくお話をされているんですよね。
大石:
私も、したくてした体験ではありません。たまたまあの日、あの場所にいて被爆したということです。でも、あの事件によって、人生はすっかり変わってしまいました。今は、ビキニ事件のことは、みんな口をつぐんでしまって、話す人がいないんです。私も東京へ隠れるために出てきて、実際、隠れていたのですが、なぜか表へ引っ張り出されるような形になってしまいました。東京だから来やすいのでしょう、マスコミの人たちが一斉に来るようになりました。本心から言えば迷惑なんです(笑い)。知られたくないことだから。自分にも家族にも負担だし。でも、事件そのものに大きな内容があるわけでしょ。年をとってくると大事なことだということがわかってきましてね。言わなきゃいけないなと思うようになってきて、みなさんの前で話をしたり、本を書いたりするようになってきました。
中川:
『ビキニ事件の表と裏』という一番新しい本を読ませていただきましたが、巻末に講話をされたところが紹介されていて、そこを見ると、学校でお話されていることが多いようですね。子どもたちの反応はいかがですか。
大石:
学校は、かなり回っていますね。核のこととか平和のことに関心のある先生方の間で情報が行き来しているみたいですね。でも、ほとんどの人が忘れていることです。もう50年も前のことですから。事件のことを知らない先生ばかりです。まして、子どもたちが知るはずもありません。だから、ビデオなんかで事前学習をしてもらうんです。そうしないとわかってもらえません。子どものときに伝えないと。大人は利害関係を知ってしまうから、危ないと思っても、なかなか反対できません。だから、学校へ行って話すんです。子どもたちは真剣に聞いてくれます。たくさんの感想文ももらっています。中学2年生の女の子が新聞で私のことを知って学校へ呼んでくれました。その子が大人になって、その学校の先生になり、また講演に呼んでくれるという、うれしいつながりも出ています。
中川:
確かに、忘れられているという現実があると思いますね。私も、そんなことがあったなくらいの認識しかありませんでした。でも、大石さんの本を読んだり、展示館でいろいろと見てみると、忘れてはいけないこと、ずっと伝えていかなければならないことがたくさんあることに気づきました。多くの人に知っていただきたいと思って、今回、こうやって対談をお願いしたわけですが、ビキニ事件について、簡単に説明していただけますか。
大石:
1954年(昭和29年)3月1日の夜明け前のことでした。私たちは第五福竜丸という漁船で焼津港を出航し、グアムやサイパンの東側にあるマーシャル諸島でマグロを捕っていました。23人の乗組員がいたのですが、延縄(はえなわ)を海に入れ終えて仮眠をとっていましたら、水平線にすごい閃光が見えたんですね。海底爆発じゃないか、隕石かと大騒ぎになりました。しばらくすると、大音響が海底から突き上げてきました。何か大変なことが起こっているという予感に不安が募りました。2時間ほどたつと、白いものが空からパラパラと降ってきました。雪でも降ってきたかと思いましたが、ここは赤道近くです。雪が降るはずもありません。目や鼻、口、耳、下着の中に入り、チクチクと刺さるような感じがしてイライラしました。目も真っ赤になりました。唇についた粉をなめてみると、ジャリジャリして固くて、味もない。何だろうと思っていました。何も知らないというのは怖ろしいことだと思いますね。その日の夕方から、目まい、頭痛、吐き気、下痢といった体調の異常が起こってきました。二日目ごろから灰が当たったところがプツプツとふくらみ、中に水がたまりはじめました。それは放射線のヤケドでした。一週間くらいたつと髪の毛が抜け始めました。焼津へ帰ってから、あの光と大音響は、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験だと知りました。広島に落とされた原爆の1000倍もの威力の爆弾です。白いものはそのときに吹き飛ばされたサンゴの粉だとわかりました。放射能を含んだ粉でした。
中川:
アメリカは、秘密裏に実験しようということだったのだけど、たまたま福竜丸が被爆したことで、それが公になってしまったんですよね。¥r¥nそれから大変な騒ぎが起こりますね。
大石:
大気圏に上がった死の灰が、雨や雪に混じって日本中に降っていることがわかりました。野菜類も放射能に汚染されているし、マグロも大量に捨てられました。福竜丸が被爆しなければ、みんな何も知らずに雨に当たり、野菜やマグロを食べていただろうと思います。アメリカの学者も、福竜丸が戻らなければ、世界中が惰眠をむさぼっていただろうと言っていますから。ただ、そんな騒ぎになっても、『今の程度のものでは、かなりの大きさの池に赤インキを何滴か落としたものだ』と新聞に寄稿する学者もいて、日本中が混乱していました。

<後略>

(2008年3月19日東京都大田区の大石さんのご自宅にて 構成 小田原泰久)

           

4月 「堀添 勝身」さん

堀添 勝身(ほりぞえ かつみ)さん

1939年宮崎県生まれ。鹿児島ラサール高校をへて慶応大学経済学部卒。1963年「伸び行く青年の会セイユース」創設。朝飯会もスタートさせる。1980年、NGO活動としてモルジブに救援米800俵を送る。2000年JICAよりベトナムに派遣され、日本センターの初代所長を務める。同国政府より教育功労賞を授賞。現在、財団法人ユースワーカー能力開発協会理事長。著書に『ベトナムで生きてみた』(万葉舎)『天風先生の「心の学校」』(中経出版)がある。

『元気があれば国が栄える。今の日本に一番必要なもの。』

元気があれば国が栄える。日本にも元気が必要

中川:
はじめまして。実は、2007年12月号の対談に登場いただいた鶴亀彰さんから、すばらしい活動をしておられる方がいるのでぜひ会ってくださいとご紹介いただきまして。お会いできるのを楽しみにしていました。
堀添:
鶴亀さんは、高校の一年後輩かな。とてもいい本を書かれましたね。中川会長の出されているハイゲンキも読ませていただきました。私は、今、一番必要とされているのは元気だと思っています。それに、会長は元気のというのは元の氣でとても大切なんだと言われていますが、私も合気道をやっていますからまったく同じ考えです。私の方こそ、今日は氣と元気のお話が聞ければと楽しみにしてきました。
中川:
私どものやっている真氣光というのは父が始めました。氣は心なんだ、見えないものを大切にしようよと、そんなことをずっと言っていました。私も、それを引き継いで、もう13年になりますが、氣や心のことを勉強する4日間の講座など見えない世界のことを少しでも知っていただければと、いろんなことをやっているわけです。
堀添:
氣とか元気は、今、とても大切にしなければならないものだと思いますよ。私はベトナムへ43度も行っていますが、あるとき『元気の詩』というのを見つけたんです。これはすばらしいメッセージだと思います。ちょっと紹介しますね。賢材は国家の元気なり元気盛んなれば則ち国勢強を以って隆く、元気飢えれば則ち国勢弱をもって汚る是を以って聖帝明王、材を育て土を取り元気を培植するを以って先の務めと為さざる者なしと言います。 元気があれば国は栄えるんだと、改めて元気の大切さを教えられました。今の日本に一番、必要なことなんじゃないかと思いました。ベトナムで合気道を教えていますが、その合言葉が『元気・勇気・合気』で、道場にも書いて張ってあります。
中川:
元気・勇気・合気ですか。とてもリズムも良くて、唱えるだけで元気が出ますね。でも、どういうことでベトナムへ、そんなに何度も行かれることになったのですか?
堀添:
初めてベトナムへ行ったのが1991年ですが、そのころから毎年、インドネシア、シンガポールなどASEAN5カ国と中国、ネパールといったアジア諸国の青年たちを日本に招待していました。日本をもっと理解してもらいたいというのが目的です。日本の青年たちと合宿をしたり、ホームステイしてもらったりといったことで、交流を図っていたんです。でも、ベトナムの青年だけは招待してなかった。当時のベトナムは、アメリカから経済制裁を受けていたこともあって、このままアジアで孤立させていいのか、同じアジアの人間じゃないかと思ってベトナムを訪問しました。それがきっかけでベトナムと縁ができて、交流が深まるにつれて、彼らがとても家族的で、それこそ元気がいっぱいだとわかったんですね。それですっかり気に入って、何度も足を運ぶことになったわけです。

<後略>

(2008年2月12日 東京・日比谷公園 「松本楼」にて 構成 小原田泰)

           

3月 「細江 英公」さん

細江 英公(ほそえ えいこう)さん

1933年山形県生まれ。『薔薇刑』『鎌鼬』『抱擁』『ガウディの宇宙』『ルナ・ロッサ』『胡蝶の夢』など国際的評価の高い写真集のほか、写詩集『おかあさんのばか』や自伝三部作『なんでもやってみよう―私の写真史』『ざっくばらんに話そう―私の写真観』『球体写真二元論―私の写真哲学』(いずれも窓社)などの著書がある。2003年、日本の写真家としてただ一人、英国王立写真協会創立150周年記念特別勲章を受章。2006年、アメリカ・サン・ディエゴ写真美術館(MoPA)より、Century Award for Life Time Achievement、およびルーシー賞先見的業績部門賞(Lucie Award Visionary)を受賞した。2007年、旭日小綬賞を叙勲。2008年には毎日芸術賞を受賞。現在、清里フォトミュージアム館長。

『核兵器は人間が作ったもの。現代人にやめようという意思があればなくすことができる。』

同じ被写体でも写真家の意識で違う作品になる

中川:
はじめまして。事務所まで押しかけまして申し訳ありません。ここに、先生の写真集が何冊も並んでいますが、『人間写真集』というのがありますね。今日は、先生の『死の灰』という写真集のことをお聞きしようと思っておうかがいしたのですが、人間写真という言葉、気になって仕方ありません。人間写真とはどういうものか、そこからお話をお聞かせいただいていいでしょうか。
細江:
狭いところへ来てくださいましてありがとうございます。人間写真ですが、風景写真とか動物写真というジャンルがありますよね。それと同じ意味で、人間を撮るということですね。人間と言っても、人間をとりまくいろいろなものを削り取って、純粋な形で人間を見て撮りたいということで、そう呼ぶようになりました。4年前に、これからやる写真集や展覧会は、『人間写真集』『人間写真展』と呼ぶことにすると宣言しましてね。宣言した限りはやらなければならない(笑)。
中川:
なるほど。まずは宣言してしまって、逃げられないようにするわけですね。純粋な形で人間を見るとはどういうことですか。深い内面的なものに目を向けるということですか。
細江:
内面的なものの前に、肉体に対する興味がありました。舞踏やモダンダンスを見ると、肉体はすごい表現力をもっているということがわかります。舞踏家の土方巽さんや大野一雄さんと出会って、彼らの踊りにものすごく感動しました。それで、彼らの肉体を撮ることで人間を表現できないものだろうかという思いをもちました。そんな中で気づいたのは、写真は対象があるけれども、対象に対してどんな考え方をもつか、表現者の表現意識が非常に重要だということです。被写体は重要だけど、それを上回る、表現者の思想があるんだなということでした。
中川:
同じ被写体にカメラを向けていても、写真家の意識によって違った作品ができるということですね。まさに、これは氣の世界かもしれません。どんな意識をもって写真を撮るかで、写真に込められる氣の種類はぜんぜん違ってきて、見る人に与える印象や影響はまったく別のものになりますから。

<後略>

(2008年1月21日 東京・新宿区の細江英公写真芸術研究所にて 構成 小原田泰久)

           

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