12月 「鶴亀 彰」さん
鶴亀 彰(つるかめ あきら)さん
1941年鹿児島生まれ。鹿児島ラ・サール高校をへて、京都外国語大学卒業。1966年、旅行会社のアメリカ駐在員となる。以来、41年間アメリカで暮らす。現在、日本からアメリカやメキシコに進出する企業の現地における支援や、アメリカのハイテク・ベンチャー企業の日本市場進出を手伝う。現在はインターネットテレビ局を立ち上げ中。
『戦死した父親に導かれた奇跡の出会い。 第二次世界大戦の傷を癒す』
奇跡的、感動的な出会いが連続して起こる
- 中川:
-
とても感動的な本がありますよ、と紹介されたのが鶴亀さんの『日英蘭奇跡の出会い』(学研)でした。鶴亀さんのお父さんは、第二次世界大戦中、潜水艦の機関長をやっておられたんですよね。
終戦の一年前に、東南アジアで戦死されたわけですが、その父親がどう生きて、どんな亡くなり方をしたのか、その足跡を探す旅をして、そこで題名どおりの奇跡の出会いがあるという話ですね。
とてもすばらしい出会いの連続に感動しながら、一気に読んでしまいました。 - 鶴亀:
-
ありがとうございます。中川会長がおっしゃるように、父の足跡を追ううち驚くような出会いが次々と起こりました。こんなことってあるのだろうかと、自分で体験しておきながら信じられないことの連続でした。
実は、今回、こうやって会長とお会いしているのも、私はすごく奇跡的なご縁だと思っているんです。と言いますのは、対談のご依頼を受けたときに、ハイゲンキマガジンを2冊送っていただきましたよね。そこに、会長とカルロス春日さんとの対談が出ていました。
実は、驚くなかれ、カルロス春日さんのお父さんとはずいぶんと昔からの知り合いなんです。 - 中川:
-
えっ、本当ですか。驚いたなあ(笑)。鶴亀さんは長年、ロスにお住まいに
なっていて、カルロス春日さん親子はメキシコだし、いったい、どういう縁でのお知り合いなんですか? - 鶴亀:
-
私は、25歳のときに仕事でアメリカに渡りまして、2年ほどの予定だったのですが、どういうわけか41年もいることになってしまいました。
1979年に、一年間仕事を休みまして、中南米からヨーロッパ、東南アジアと旅行をしたことがありました。そのときに、メキシコにアパートを借りて一ヶ月滞在しました。そのときに、春日さんのお父さんと出会いました。
カルロス春日シニアは、アメリカ大陸に住む日系人の横のネットワークを作りたいと活動されていました。すばらしい方で、心から尊敬しています。だから、あの中川会長とカルロス春日ジュニアとの対談はとても懐かしい気持ちで読ませていただきました。 - 中川:
-
そうでしたか。何のご縁かはわかりませんが、意味があって、こうやって今日、お話をさせていただいているんでしょうね。
ロスでは、どういうお仕事をされているんですか? - 鶴亀:
- 小さな会社ですが、『YUGOBI(融合美)』という会社を経営しています。日本とアメリカの融合、人間と自然の融合、作る人と買う人の融合とか、融合をテーマにした会社です。具体的には、日本の中小企業で作られたすぐれた商品とか地方の伝統工芸品をインターネットテレビを使ってマーケティングしていこうというものです。
- 中川:
-
融合という言葉はいいですね。われわれも見える世界と見えない世界、物質世界と精神世界を融合しようとしているんだなと、融合という言葉を聞いて、ふっと心に落ちるものがありました。
さて、鶴亀さんのお父さんのお話、奇跡の出会いのお話をお聞きかせください。
どういうことがきっかけで、お父さんのことを調べようとなさったのですか。まだ、最近のことですよね。 - 鶴亀:
-
2003年からですね。私は還暦を過ぎ、ワイフは50代後半に差し掛かっていました。まだ仕事はしていましたが、これからの2人の老後のことを考えるためにしばらく仕事を休んで旅に出ようかということになりました。
それなら世界一周をしようかと話が盛り上がり、3月9日にロスを出発しました。3月10日が私の62回目の誕生日。ハワイでお祝いしようという計画を立てての出発でした。
ハワイでささやかなお祝いをした後、ミクロネシアのボナペへ行きました。地上最後の楽園と呼ばれている島です。その次に行ったのがトラック島でした。ここで、不思議なことが起こったんです。
断っておきますが、私はこのときには父を追い求めようなどと思っていたわけではありませんでしたし、手相や血液型、占いというものには興味ない、非常に現実的な左脳型の人間でしたから、不思議現象など信じる方ではありませんでした。 - 中川:
- 私も同じでした。ご安心ください(笑)。
- 鶴亀:
-
スコールがやんで、やし林の中の散歩に出かけた私は、少し立ち止まって海をながめていました。そしたら、急に一陣の風が私を包み、その瞬間、『60年以上も前に、この地に父も立ったことがある』という強い感覚に襲われました。視覚のようでもあり、聴覚のようでもあり、触覚のようでもあったけど、そうでもないという不思議な感覚です。魂に伝わる感覚でした。ほんの一瞬のことです。1秒の何分の1かの時間だと思います。 - 中川:
- うーん、なるほど。何かメッセージのようなものかもしれませんね。実際に、お父さんはトラック島へ来られていたんですか?
- 鶴亀:
-
後からいろいろと調べたのですが、父がトラック島へ来たという確かな証拠はまだみつかっていません。
でも、トラック島というのは、日本海軍の本拠地だったし、父が機関長をつとめていた伊百六十六という潜水艦が近くの海域まで来ているという記録があることから、父がトラック島へ立ち寄った可能性は高いと思います。
(後略)
(2007年9月26日 新宿ワシントンホテルにて 構成 小原田泰久)
こちらこそ、興味をもっていただきましてありがとうございます。台風の中、大変だったでしょう。私も氣功について、いろいろとうかがえればと思います。7〜8年ほど前ですが、私が岐阜大学にいたころ、私の講座の講師がガンになりました。そしたら、女子学生が氣功で治すんだと講習会に行っていました。ひょっとして会長のところへ習いに行ったんじゃないかなあ。残念ながら、その講師は亡くなってしまいましたが。会長は、もともとは工学部だったそうですね。どんな分野を専門にされていたんですか。
においを感じるロボットですか。人間には五感というのがありますよね。視覚とか聴覚とか。嗅覚というのは、あまり研究が進んでいないし、研究者も少ないと聞いていますが、そういう分野を専門にするのはけっこう大変なことじゃないですか。
はじめまして。浅川さんのご本を拝見しまして、ひとつは超古代文明の話、そして死後の世界の話ですが、ある種、怪しげと思われる話を、とても説得力をもって書かれています。裏づけをとりつつ発表していくという姿勢に、すばらしいなと感じました。
15年ほど前でしたね。家内がガンになったんです。彼女は、死後の世界など信じていませんでしたから、ガンを告知されて、相当取り乱しました。私は、死んだらどうなるのかということを、彼女に毎日のように話してあげました。最初は耳を貸さなかった家内でしたが、徐々に耳を傾けるようになり、話の内容も理解するようになってきました。その後二年ほどして亡くなりましたが、本当に安らかな亡くなり方で、きれいな死に顔をしていました。それは荼毘に伏すのがもったいないような顔でした。結婚してはじめて『きれいな人だ』と思いましたね(笑)。
「ありがとうございます。あの本が出て40年になりますね。モモちゃんシリーズは6冊書きましたが、30年かかっています。おかげさまで、たくさんの人が読んでくださっています。親子2代、あるいはこの本は大人の方も読んでくださっているので、おばあちゃんも含めた3代にわたって読者だったという方もいらしてね」
「自分では家のことをきちんとしている人だったんですよ。とても美人でした。私は似なかったんだけど(笑い)。父と母は金沢の人でした。昔話はしてくれなかったですね。その代わり、母方の縁続きで手伝いに来てくれていた若いお姉さんが、お風呂で髪を洗いながら『しっぺい太郎』の昔話をしてくれましてね。私はその話が蜊Dきで、よく 近所の子どもたちと『しっぺい太郎ごっこ』をして遊びました」
2ヶ月くらい滞在して、実際にクリニック(現在の東京センター)にいらした方にハイゲンキを当てるなどの実践を通して、氣の医療を学びました。その頃、私は医学部を卒業しインターンをしていましたから、新しい医療の世界と出合って視野が広がり、ちょうどいい時期でした。
小原田泰久さんは、オーストラリア、バハマと同行取材し、その体験をベースに『イルカが人を癒す』『イルカが教えてくれたこと』などの本を著されていますが、最近も本誌に「ジャーナリストが見た真氣光」と題して、そのときのことを書いてくれていました。¥r¥n私も、今回メキシコを訪れる前に、バハマでクルージングでのセミナーをしたのですが、合間に受講生はイルカと交流して楽しかったようですよ。
初めまして。私どもの会社は、見えないもの、つまり心や魂といったものを含めて“氣”といっているのですが、その“氣”の大切さをお伝えして皆がより幸せに暮らしていきましょうということを広めています。本誌の読者の方から、「無言館」のことを聞きまして、是非、館主の窪島さんにお話をうかがいたいと思った次第です。まず、「無言館」設立の経緯からお話しいただけますか。
みどりの日に成人式を始めて、今年で5回目になります。「無言館」は、ある意味では青春美術館なのです。きっかけといいますか、僕は彼らの絵が戦争回顧の道具になったら可哀想だと思ったんです。こう言っては何ですが、肝心の絵を見ないで、絵にお尻を向けて、涙、涙の反戦平和演説をされてもねえ。確かに彼らは戦争の中で死んでいったのですから、理不尽なあの時代が二度と来ないようにと願うのは当然です。しかし、だからといって彼らは平和運動のため、戦争を語るだけのために絵を描いたのではないんですよ。ひたすら故郷の青い空、愛しい家族を描くことで、自己表現、つまり自分がここに生きている喜びを表現したのです。
去年の8月に東京の銀座で始まりまして、その後、大阪、福島、札幌と回って、今度が横浜です。
最初の年はできる限り一緒に行こうと言ってくれて、93年の5月に日本で結婚して、6月にアラスカに行って、もうその年はほとんど、家には少し準備をしに帰るぐらいで、北極圏やアリューシャン列島など、いろんな所に行きました。
そういう人ばかりですよ。あのころ、運動不足になるといけないと思ってヨガ教室へ通っていました。そしたら、ヨガの先生が『あなたのオーラがあまりよくありません。チャクラも閉じています』って言うんですね。今ならわかりますが、当時は、変なことを言う人だと思いました。
分かりやすいですね。私も「食事は命を戴いていることだ」と言っているのですが、その命は氣であって、さらに作ってくださる人たちの氣も加わって価値の高い食物に仕上がっていく、というわけですね。なるほど、それはスゴイじゃないか、と思います。