2007年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「鶴亀 彰」さん

鶴亀 彰(つるかめ あきら)さん

1941年鹿児島生まれ。鹿児島ラ・サール高校をへて、京都外国語大学卒業。1966年、旅行会社のアメリカ駐在員となる。以来、41年間アメリカで暮らす。現在、日本からアメリカやメキシコに進出する企業の現地における支援や、アメリカのハイテク・ベンチャー企業の日本市場進出を手伝う。現在はインターネットテレビ局を立ち上げ中。

『戦死した父親に導かれた奇跡の出会い。 第二次世界大戦の傷を癒す』

奇跡的、感動的な出会いが連続して起こる

中川:
とても感動的な本がありますよ、と紹介されたのが鶴亀さんの『日英蘭奇跡の出会い』(学研)でした。鶴亀さんのお父さんは、第二次世界大戦中、潜水艦の機関長をやっておられたんですよね。
終戦の一年前に、東南アジアで戦死されたわけですが、その父親がどう生きて、どんな亡くなり方をしたのか、その足跡を探す旅をして、そこで題名どおりの奇跡の出会いがあるという話ですね。
とてもすばらしい出会いの連続に感動しながら、一気に読んでしまいました。
鶴亀:
ありがとうございます。中川会長がおっしゃるように、父の足跡を追ううち驚くような出会いが次々と起こりました。こんなことってあるのだろうかと、自分で体験しておきながら信じられないことの連続でした。
実は、今回、こうやって会長とお会いしているのも、私はすごく奇跡的なご縁だと思っているんです。と言いますのは、対談のご依頼を受けたときに、ハイゲンキマガジンを2冊送っていただきましたよね。そこに、会長とカルロス春日さんとの対談が出ていました。
実は、驚くなかれ、カルロス春日さんのお父さんとはずいぶんと昔からの知り合いなんです。
中川:
えっ、本当ですか。驚いたなあ(笑)。鶴亀さんは長年、ロスにお住まいに
なっていて、カルロス春日さん親子はメキシコだし、いったい、どういう縁でのお知り合いなんですか?
鶴亀:
私は、25歳のときに仕事でアメリカに渡りまして、2年ほどの予定だったのですが、どういうわけか41年もいることになってしまいました。
1979年に、一年間仕事を休みまして、中南米からヨーロッパ、東南アジアと旅行をしたことがありました。そのときに、メキシコにアパートを借りて一ヶ月滞在しました。そのときに、春日さんのお父さんと出会いました。
カルロス春日シニアは、アメリカ大陸に住む日系人の横のネットワークを作りたいと活動されていました。すばらしい方で、心から尊敬しています。だから、あの中川会長とカルロス春日ジュニアとの対談はとても懐かしい気持ちで読ませていただきました。
中川:
そうでしたか。何のご縁かはわかりませんが、意味があって、こうやって今日、お話をさせていただいているんでしょうね。
ロスでは、どういうお仕事をされているんですか?
鶴亀:
小さな会社ですが、『YUGOBI(融合美)』という会社を経営しています。日本とアメリカの融合、人間と自然の融合、作る人と買う人の融合とか、融合をテーマにした会社です。具体的には、日本の中小企業で作られたすぐれた商品とか地方の伝統工芸品をインターネットテレビを使ってマーケティングしていこうというものです。
中川:
融合という言葉はいいですね。われわれも見える世界と見えない世界、物質世界と精神世界を融合しようとしているんだなと、融合という言葉を聞いて、ふっと心に落ちるものがありました。

さて、鶴亀さんのお父さんのお話、奇跡の出会いのお話をお聞きかせください。
どういうことがきっかけで、お父さんのことを調べようとなさったのですか。まだ、最近のことですよね。
鶴亀:
2003年からですね。私は還暦を過ぎ、ワイフは50代後半に差し掛かっていました。まだ仕事はしていましたが、これからの2人の老後のことを考えるためにしばらく仕事を休んで旅に出ようかということになりました。
それなら世界一周をしようかと話が盛り上がり、3月9日にロスを出発しました。3月10日が私の62回目の誕生日。ハワイでお祝いしようという計画を立てての出発でした。
ハワイでささやかなお祝いをした後、ミクロネシアのボナペへ行きました。地上最後の楽園と呼ばれている島です。その次に行ったのがトラック島でした。ここで、不思議なことが起こったんです。
断っておきますが、私はこのときには父を追い求めようなどと思っていたわけではありませんでしたし、手相や血液型、占いというものには興味ない、非常に現実的な左脳型の人間でしたから、不思議現象など信じる方ではありませんでした。
中川:
私も同じでした。ご安心ください(笑)。
鶴亀:
スコールがやんで、やし林の中の散歩に出かけた私は、少し立ち止まって海をながめていました。そしたら、急に一陣の風が私を包み、その瞬間、『60年以上も前に、この地に父も立ったことがある』という強い感覚に襲われました。視覚のようでもあり、聴覚のようでもあり、触覚のようでもあったけど、そうでもないという不思議な感覚です。魂に伝わる感覚でした。ほんの一瞬のことです。1秒の何分の1かの時間だと思います。
中川:
うーん、なるほど。何かメッセージのようなものかもしれませんね。実際に、お父さんはトラック島へ来られていたんですか?
鶴亀:
後からいろいろと調べたのですが、父がトラック島へ来たという確かな証拠はまだみつかっていません。
でも、トラック島というのは、日本海軍の本拠地だったし、父が機関長をつとめていた伊百六十六という潜水艦が近くの海域まで来ているという記録があることから、父がトラック島へ立ち寄った可能性は高いと思います。

(後略)

(2007年9月26日 新宿ワシントンホテルにて 構成 小原田泰久)

           

11月 「外崎 肇一」さん

外崎 肇一(とのさきけいいち(とのさき けいいち)さん

理学博士。1945年栃木県生まれ。東京教育大学理学部生物学科動物学卒。同大学院博士課程修了。朝日大学歯学部教授、岐阜大学農学部獣医学科教授、岐阜大学大学控教授などを経て、2002年から明海大学教授。嗅覚と味覚の生理学が専門。著書に「がんはにおいでわかる」(光文社)「においと香りの正体」(青春出版社)などがある。

『夢はにおいのわかるロボットを作ること』

においなんか研究するのは頭の悪い証拠

中川:
はじめまして。においのことを研究されている先生がおられるというので、ぜひお会いしてお話をうかがってみたいと、そう思っておうかがいしました。
今日は、よろしくお願いします。
外崎:
こちらこそ、興味をもっていただきましてありがとうございます。台風の中、大変だったでしょう。私も氣功について、いろいろとうかがえればと思います。7〜8年ほど前ですが、私が岐阜大学にいたころ、私の講座の講師がガンになりました。そしたら、女子学生が氣功で治すんだと講習会に行っていました。ひょっとして会長のところへ習いに行ったんじゃないかなあ。残念ながら、その講師は亡くなってしまいましたが。会長は、もともとは工学部だったそうですね。どんな分野を専門にされていたんですか。
中川:
私は、電機メーカーで、マイクロマシンの研究をしていました。
外崎:
最先端じゃないですか。それがなんで氣功をやられるようになったんですか?
中川:
私どもの氣功は真氣光と言って、私の父が始めたものです。私は、また変なことをはじめたと、最初は冷かな目で見ていました(笑)。技術者ですから、氣のような目に見えないものは信じなかったんですね。でも、ストレスで胃を壊して、父がやっている氣功を受けましたら、胃が良くなったんですね。それで、氣功に興味をもって、父の手伝いをするようになりました。1995年に父が急に亡くなって、まだ氣のこともよくわからないうちに跡を継ぐことになりました。それからもう12年ですか。氣のことはいまだによくわからないですけど(笑)。先生は、においの研究をどうして始められたんですか?
外崎:
高校時代、理論物理をやりたいと思っていました。でも、あの学問をやるのは頭のいい人ばっかりなので(笑)、実験物理にしようと決めていたんですね。そのころ、『2001年宇宙の旅』という映画があって、そこでハルというスーパーコンピューターが出てきます。この映画に、きれいなバラの花が出てきたけれど、ハルがそのバラの花のにおいを感じている様子はまったくなかった。そう言えば、鉄腕アトムという漫画でも、アトムがお茶の水博士に、自分も涙を流せるようになりたいと言う場面はあっても、においを感じるようになりたいとは言わなかったなと思ったわけです。どうしてにおいを感じるようにしてほしいとアトムは言わなかったのだろうというのが疑問になって、それならにおいのわかるロボットを作りたい、ロボットに鼻をつけてやろうと、そんなことを決心したわけです。いろいろ調べると、東京教育大学ににおいを研究している先生がいることがわかりました。それで、東京教育大学を第一志望にしました。それがにおいを研究するきっかけですね。
中川:
においを感じるロボットですか。人間には五感というのがありますよね。視覚とか聴覚とか。嗅覚というのは、あまり研究が進んでいないし、研究者も少ないと聞いていますが、そういう分野を専門にするのはけっこう大変なことじゃないですか。
外崎:
アメリカに留学していたとき、偉い先生に言われました。においなんか研究するのは頭の悪い証拠だって(笑)。視覚とか聴覚というのは、そのもととなる光や音の物理化学的性質はよくわかっているわけです。でも、においや味については、ぜんぜんわかっていない。そんなわけのわからない分野を研究するのは生理学研究者としては賢い選択ではないということだったと思います。本当にその通りで、今でもにおいの本質についてはまったくわかっていません。
中川:
氣というのは、あるかどうかわからない。だから、科学の対象にならないとされてきたと思います。でも、においというのは、間違いなくあるものですよね。それでも、科学的に検証されていないわけですね。わかりにくいからという理由で、そんなものを研究するのは頭が悪いというのも、わからないものを明らかにするのが科学の醍醐味だと思うのですが、変な話ですよね。

<後略>

(2007年9月6日 埼玉県坂戸市、明海大学にて 構成 小原田泰久)

           

10月 「浅川 嘉富」さん

浅川 嘉富(あさかわ よしとみ)さん

1941年山梨県小淵沢に生まれる。1965年東京理科大学・理学部を卒業後、日本火災海上保険株式会社(現、日本興亜損害保険株式会社)に入社。1999年専務取締役在任中に退任。退任後、ペルー、エジプト、メキシコなどの古代遺跡や、南極、北極などの辺境の地を探索。また、およそ40年前にペルーで発見された謎の石「カブレラストーン」の研究に取り組む。取材でアンデスを訪れたことがきっかけでジャングルに学校を建設する活動にも取り組み、既に5校を寄贈。

『石に描かれた絵は、 超古代人が残したメッセージ』

私たちの理解できないことが世の中では起こっている

中川:
はじめまして。浅川さんのご本を拝見しまして、ひとつは超古代文明の話、そして死後の世界の話ですが、ある種、怪しげと思われる話を、とても説得力をもって書かれています。裏づけをとりつつ発表していくという姿勢に、すばらしいなと感じました。
浅川:
ありがとうございます。確か、会長も理科系ですよね。私も理系出身なものですから、論理的に納得できないとがまんできないわけですよ。理系出身の会長が、氣をやっているというのも興味ありますね。どういう経緯があったんですか?
中川:
私どもの真氣光というのは、12年ほど前に亡くなった父が始めたものです。氣功師を養成するという一週間の講座をやっていて、氣功ブームのせいもあったと思うのですが、毎月200人近い人が集まるような盛況ぶりでした。私は、そのころ電機メーカーの技術者でした。父のやっていることについては、父は父、自分は自分の道を生きていけばいいと、まったく無関心でした。ところが、仕事のストレスで胃を悪くしたことがきっかけでしたが、その一週間の講座に出たら、私のそれまでの目に見えるものだけがすべてだという価値観はガラガラと音を立てて崩れてしまいました。その後、父が亡くなったものですから、私があとを継いだわけですが、10数年前の自分から見れば、考えられないようなことをやっているわけです。
浅川:
でも、会長の技術者時代のことは、今に役立っていると思いますよ。私は、長年、金融機関にいましたが、会社員時代の肩書きが、今のバックボーンになっていると感じています。大阪で講演があったとき、ある人が、最初はみんなあまり真剣に聞いていなかったけど浅川さんが経歴を話されたら、急にきちんと聞くようになりましたと教えてくれて、そんなものなんだなと気づきました。
中川:
そうですよね。大手金融機関の専務まで勤められたわけですから。でも、専務という社会的に信用のある職を辞してまで、どうしてこうした今の不思議世界に足を踏み入れたのですか?よほどのことがあったと思うのですが。
浅川:
よく聞かれますね。でも、中学生のころですから、50年も前から、UFOが大好きでした。そのころは空飛ぶ円盤と呼んでいましたが、その研究団体があって、そこの最年少のメンバーでした。そのうち、宇宙人もいるし、地球人もいて、どちらも必ず死ぬはずだけど、死んだら別々の世界に行くのだろうか、それとも一緒になるのだろうかということに興味をもって死後の世界の研究を始めたのです。さらに人間の文明は5000年前に始まったというけど、もっと前にも文明はあったのではということが気になって、UFO、霊的世界、先史文明が、私の三大テーマになったわけです。
中川:
50年前からとはずいぶんと年季が入っていますね。そういったベースがあって、今日につながっているのでしょうが、現役中に霊的世界の本を書かれたのには何か理由があったのでしょうか?
浅川:
15年ほど前でしたね。家内がガンになったんです。彼女は、死後の世界など信じていませんでしたから、ガンを告知されて、相当取り乱しました。私は、死んだらどうなるのかということを、彼女に毎日のように話してあげました。最初は耳を貸さなかった家内でしたが、徐々に耳を傾けるようになり、話の内容も理解するようになってきました。その後二年ほどして亡くなりましたが、本当に安らかな亡くなり方で、きれいな死に顔をしていました。それは荼毘に伏すのがもったいないような顔でした。結婚してはじめて『きれいな人だ』と思いましたね(笑)。
中川:
そういうことがあって、霊的なことを多くの人に知らせたいという気持ちになったわけですね。
浅川:
そうです。人が安らかに亡くなるのに、私の研究してきたことが役に立つならと思いました。それ以上、上の地位に上がってしまうとしばらくは辞められませんから、ここらが潮時だろうと、会社を早めに卒業することにしたわけです。『そろそろ本来の仕事をする時が来たわよ』と、家内が後押ししてくれたような気がしますね。

<後略>

(山梨県北杜市小淵沢町の浅川さんのご自宅にて 構成 小原田泰久)

           

9月 「松谷 みよ子」さん

松谷 みよ子(まつたに みよこ)さん

1926年(大正15年)東京生まれ。1951年「貝になった子供」で児童文学者協会新人賞を受賞。「龍の子太郎」で国際アンデルセン賞優良賞など受賞。「ちいさいモモちゃん」では、第二回野間児童文芸賞を、「モモちゃんとアカネちゃん」では、赤い鳥文学賞を受賞。ほかにも、「私のアンネ・フランク」「ふたりのイーダ」「わたしのいもうと」など200冊を超える著書がある。

『生きてきた中でいろいろなものに 出あえたことが作品になった。』

本を読みなさいと、母が本をそろえてくれた

中川:
「はじめまして。今日は、お忙しい中、お時間を作っていただきましてありがとうございます。先生のお書きになられた『ちいさいモモちゃん』、楽しく読ませていただきました」
松谷 :
「ありがとうございます。あの本が出て40年になりますね。モモちゃんシリーズは6冊書きましたが、30年かかっています。おかげさまで、たくさんの人が読んでくださっています。親子2代、あるいはこの本は大人の方も読んでくださっているので、おばあちゃんも含めた3代にわたって読者だったという方もいらしてね」
中川:
「どこの家にも先生の本があるんじゃないでしょうか。先生と対談するんだって話したら、私の知り合いが、お子さんが小さいころに、『いないいないばあ』という本を読んであげたことがあると、けっこう読み込んで、ところどころ破けた本をもってきてくれました。お子さんにせがまれて、何度も何度も読んだのではないかと、ほのぼのとした氣が感じられました」
松谷 :
「赤ちゃんの本を作れって言われたときはどうしうと思いましたけどね。赤ちゃんの本だと、赤とか黄色とか派手な色を使うことが多いんですが、ちょっと違うのを作りたかった。出版社も、本気で作るという姿勢だったし、それも驚きました。40年ほど前の本だけど、今でも読まれています。そんなこと、想像もしませんでした。でも、私の師匠の坪田譲治先生が、『この本は日本中の赤ちゃんが喜びますよ』と言ってくださいました。うれしいことに、本当にそうなりましたね」
中川:
「そもそも、先生が本を書こうとしたきっかけというのは何だったのですか?」
松谷 :
「小さいときから本にはなじんでいました。母が、とにかく本を読みなさいと、たくさんの本をそろえてくれました。日本児童文庫76冊、小学生全集88冊をそろえてくれました。本を読みなさい、家のことはしなくていいからって。家のことは、嫁に行けばできるようになるって言ってね。変な母親でしょ(笑い)」
中川:
「知的な環境にあったんですね。でも、家のことをしなくていいというお母さんは珍しいですね。嫁に行ったら何でもできるようになるからやらなくていいって、昭和の初めですよね、すごいお母さんでしたね」
松谷 :
「自分では家のことをきちんとしている人だったんですよ。とても美人でした。私は似なかったんだけど(笑い)。父と母は金沢の人でした。昔話はしてくれなかったですね。その代わり、母方の縁続きで手伝いに来てくれていた若いお姉さんが、お風呂で髪を洗いながら『しっぺい太郎』の昔話をしてくれましてね。私はその話が蜊Dきで、よく 近所の子どもたちと『しっぺい太郎ごっこ』をして遊びました」
中川:
「そうですか。しっぺい太郎って、どういうお話なんですか?」
松谷 :
「旅のお坊さんが山の中のお堂で一夜を明かすんですが、そのときに、人身御供の娘をさらっていく怪物を見かけるんです。その怪物は『あのこと このこと 聞かせるな 信州信濃の山奥の しっぺい太郎に 聞かせるな』って歌うんです。お坊さんは、その歌を頼りに信州を歩いてしっぺい太郎を探し当てます。しっぺい太郎は犬だったんですね。お坊さんは、その犬を連れて村へ帰り、怪物と退治するという話なんです。7歳か8歳のころですね。6つくらいのときには、自分のノートを作って、ページの片側に文章、別の方に絵を描いて絵本を作っていました。小さいころから書くことが好きだったんですね。そのノートも、戦争で焼けてしまいましたが」

<後略>

(練馬区大泉学園の 松谷みよ子先生のご自宅にて 構成 小原田泰久)

           

8月 「カルロス 春日」さん

カルロス 春日(かるろす かすが)さん

1965年メキシコ生まれ。1991年ラサール大学医学部卒業。1992年真氣光研修講座(下田)に参加。1993年と1995年に「第3回・第4回皇乃子真圧心療道国際大会」でハイゲンキ治療の成果について講演。カルロス春日クリニック院長。

『メキシコで真氣光を 広め続ける日系三世医師』

真氣光専門クリニックにはたくさんのイルカのグッズが

中川:
お久し振りです。私が前回メキシコを訪れたときにお目に掛かった以来ですから、もう10年以上になりますか。
カルロス:
そうですね。お会いできて、本当に嬉しいです。ようこそ、いらっしゃいました。
中川:
素敵なクリニックですね。明るくて、ゆったりとしていて、とても気持ちが良いですね。あぁ(壁に掛かっている額を見つけて)、これは伊豆の下田で真氣光の研修講座を開催していたときに受講された修了書…。
カルロス:
はい。1992年6月に受講しました。
中川:
私は同じ年の5月の受講ですから、ほぼ同じ時期ですね。カルロスさんは、受講後しばらく池袋の東京センターで研修されていたんでしたね。
カルロス:
2ヶ月くらい滞在して、実際にクリニック(現在の東京センター)にいらした方にハイゲンキを当てるなどの実践を通して、氣の医療を学びました。その頃、私は医学部を卒業しインターンをしていましたから、新しい医療の世界と出合って視野が広がり、ちょうどいい時期でした。
中川:
その後メキシコに帰られてクリニックを開業し、以来ずっと今まで真氣光を取り入れた治療をなさっているのですね。
カルロス:
取り入れた治療、というより、真氣光だけの治療です。まず、身体の症状を訴えてこられる患者さんにいろいろお訊きし、その方の生活の仕方や考え方、心のあり方を診ていき、その方の自らの氣づきを促す、そういうような問診をします。それからツボセンサーで照射点を探してハイゲンキを当てて、会長のビデオテープで氣を中継しています。1人に1時間ですから、平日は昼の3時から夜の10時まで、だいたい1日に8人です。土曜日は朝8時から2時か3時くらいですね。
中川:
西洋医学のお医者さんでしたら普通は、1日に何十人も診るから1人当たりの診療時間は短時間ですが、カルロスさんは8人で8時間になってしまいますね
カルロス:
普通は8人の患者さんでは、生活は出来ませんが、父の会社でマネージャーなどの仕事をしているものですから。毎日、朝ミーティングがあります。
中川:
二つのお仕事をされているのですね。患者さんは丁寧にゆっくり診ていただいて喜んでおられるでしょう。
カルロス:
はい。喜んでくれていますよ。身体も心もとても楽になる、と。この大きなイルカの絵は、肺癌の方が良くなられたお礼にと描いてくれたのです。1年くらい通ってこられていたと思いますが、結果としては癌がすっかり消えてお元気になりました。こちらのイルカの絵も、別の方ですが、やはり癌が治ったと喜んで描いてプレゼントしてくれました。
中川:
患者さんの喜びが伝わってくるような、躍動感がある明るい絵ですね。他にも、イルカの絵や置物がいっぱいですね。イルカがお好きなのですか。
カルロス:
そうなんですよ。私は小さい頃からなぜかイルカが大好きなんです。それを知って、患者さんが持ってきてくれるんです。受付のデスクや診察室の棚、私のデスクの上に飾ってある物は、みんな患者さんのプレゼントです。可愛いでしょう。いつの間にか、こんなに増えました(笑)。¥r¥n真氣光に出合ったとき、先代がオーストラリアでイルカと氣の交流をなさったと知って、真氣光は私の大好きなイルカと縁が深いのだとびっくりしました。会長ご夫妻もバハマの海でイルカと泳がれているし、小原田さんもイルカの本を書いていらっしゃるし。不思議ですね。
中川:
小原田泰久さんは、オーストラリア、バハマと同行取材し、その体験をベースに『イルカが人を癒す』『イルカが教えてくれたこと』などの本を著されていますが、最近も本誌に「ジャーナリストが見た真氣光」と題して、そのときのことを書いてくれていました。¥r¥n私も、今回メキシコを訪れる前に、バハマでクルージングでのセミナーをしたのですが、合間に受講生はイルカと交流して楽しかったようですよ。
カルロス:
イルカに囲まれていると、心が和み応援をしてくれている感じがします。

<後略>

(2007年6月4日 メキシコにて  構成 須田玲子)

           

7月 「窪島 誠一郎」さん

窪島 誠一郎(くぼしま せいいちろう)さん

「信濃デッサン館」「無言館」館主。作家。1941年東京生まれ。1979年長野県上田市に夭折画家の作品を展示する「信濃デッサン館」を、1997年には「無言館」を設立する。主な著作として『父への手紙』『「明大前」物語』『「信濃デッサン館」「無言館」遠景』『「無言館」の青春』『雁と雁の子-父・水上勉との日々』など多数。2005年、「無言館」の活動で第53回菊池寛賞を受賞。

『「無言館」に満ちる出征 画学生のひたむきな自己表現』

画学生のご遺族の家を北海道から種子島まで訪ね歩く

中川:
初めまして。私どもの会社は、見えないもの、つまり心や魂といったものを含めて“氣”といっているのですが、その“氣”の大切さをお伝えして皆がより幸せに暮らしていきましょうということを広めています。本誌の読者の方から、「無言館」のことを聞きまして、是非、館主の窪島さんにお話をうかがいたいと思った次第です。まず、「無言館」設立の経緯からお話しいただけますか。
窪島:
初めまして。私どもの会社は、見えないもの、つまり心や魂といったものを含めて“氣”といっているのですが、その“氣”の大切さをお伝えして皆がより幸せに暮らしていきましょうということを広めています。本誌の読者の方から、「無言館」のことを聞きまして、是非、館主の窪島さんにお話をうかがいたいと思った次第です。まず、「無言館」設立の経緯からお話しいただけますか。
中川:
亡くなった方が出征前に描いた貴重な作品とはいえ、ご両親が亡くなり更に代が替わっていけば、散逸してしまいますね。
窪島:
今まで自分が正視しないで、蔑ろにしてきた何かを突きつけられて、逃げ出したい感じがありました。僕は戦争が始まった年の生まれだけれど、全く戦争というものから目をそらせて生きてきました。絵描きになりたかったけれど高校中退して水商売をはじめて、高度成長期に金儲けにあくせくして、絵を買い集め34歳で若くして美術館の館主になって。敗戦のリバウンドですからね、あの高度成長期は。その甘い汁だけを吸って上昇志向で生きてきた男ですから。ご遺族と共有できる思いなんてそんなにないんです。いつも自分に自信が無くて、いつも空っぽの自分をそうではないように見せるのに一生懸命で。何かを偽って生きてきた感じ。でも、60を過ぎて所詮、空っぽは空っぽなのだと気づいた。そういう男が、ご遺族の方から「感謝しています」なんて言われる。そして、奇特なことをしている、いいことをしているようにメディアに取り上げられる… そういうのって、いたたまれない気持ちになるんです。もっと適当な人が居るのではという気持ちになりました。
中川:
そうですか。でも、実際にこうして窪島さんが美術館を建ててくださって多くの人がその方々の絵を見ることができるのですから。皆さんの絵は、家族を描いたものが多いですね。身近な一番大事な存在を出征前の短い時間に思いを籠(こ)めて描かれたのでしょう。
窪島:
そう、学生結婚していた妻や、恋人、妹、父母… 自分を愛して支えてくれた、そういう人々への深い感謝、思いやりを描いた。そこには、濃密な凝縮された時間がある。私たちが戦後何十年かで失ってしまった濃密な時間です。何もかも忘れてひたすら絵に打ち込む時間。明日か明後日には死に向かって発つときに凛として背筋を伸ばして、オレは絵を描くんだ、と。それはすごいですよ。それを実際に美術館に来て見て感じてもらいたいんです。たしかに、その“時間”は“氣”そのものですよ。今はインターネットだ、ケータイだとバタバタして落ち着かず、うわべだけのことに振り回されながらみんな死んでいく。そういう我々は、彼らの絵の前で立ちすくまざるを得ない。我々が失ったものの大きさ、それに気づくのですね。ところが、年間10万人も人が来てくれる美術館になってくると、ウワサだけで物事を判断する人たちが、インターネットかなんかで手軽に検索して取材に来る。実際に足を運んで彼らの絵を見て自分で何かを感じる… そういうことをしないままに、分かったつもりになってね。メディアに映像が流れたって、それは単なる情報です。情報は本物とは全く違うんです。もっと本物を見つめる時間を大事にしてもらいたい。世の中全体が空っぽの時代でね、これは自分を含めてですが、どうしようもないな、という気がします。
中川:
「無言館」で二十歳になった人たちの成人式をしておられるということですが、きっかけは今おっしゃったようなお気持ちからですか。
窪島:
みどりの日に成人式を始めて、今年で5回目になります。「無言館」は、ある意味では青春美術館なのです。きっかけといいますか、僕は彼らの絵が戦争回顧の道具になったら可哀想だと思ったんです。こう言っては何ですが、肝心の絵を見ないで、絵にお尻を向けて、涙、涙の反戦平和演説をされてもねえ。確かに彼らは戦争の中で死んでいったのですから、理不尽なあの時代が二度と来ないようにと願うのは当然です。しかし、だからといって彼らは平和運動のため、戦争を語るだけのために絵を描いたのではないんですよ。ひたすら故郷の青い空、愛しい家族を描くことで、自己表現、つまり自分がここに生きている喜びを表現したのです。
中川:
その画学生たちと同じ年頃の若い人たちが成人式に来て、そういう絵を見た感想は如何ですか。
窪島:
多くの人は押し黙ったまま帰りますよ。強烈なインパクトを受けるんでしょうね。中には「自分はまだまだ甘いと感じた」とか「一日一日を大事にしたい」とか言う。言葉は平凡ですが、雲の上の画学生はとても喜んでいるでしょうね。式には、ゲストに映画監督や作家の方をお呼びしてスピーチしていただくのですが、その方達も「自分自身が成人式を迎えたみたいな気がした」と、おっしゃるんです。若いから学ぶのではなく、人は死ぬまで自分を見つめるんですね。ゲストも若者も学ぶ、お互いに。そして、その主役は画学生なんです。ゲストの挨拶もいいですが、亡き画学生の無言の挨拶は大きいです。

<後略>

(2007年4月25日 「信濃デッサン館」にて 構成 須田玲子)

           

6月 「朝日 俊彦」さん

5月 「星野 直子」さん

星野 直子(ほしの なおこ)さん

1969年埼玉県生まれ。女子聖学院短期大学国文科卒業後、書店勤務を経て、1993年に写真家・星野道夫氏と結婚。同年6月にアラスカ・フェアバンクスに移住。1994年長男・翔馬君を出産。1996年ロシア取材中の事故で道夫氏が死去。その後「星野道夫事務所」を設立し作品の管理などを行っている。2005年「星野道夫と見た風景」(新潮社)を刊行。

『自然を愛した写真家、 星野道夫さんとともに』

人々の感動を呼ぶ写真展

中川:
今日は宜しくお願いします。星野直子さんは写真家・星野道夫さんの奥様でいらっしゃるのですが、実は以前、家内が星野道夫さんの写真展を見せていただいたことがありまして、それが大変に素晴らしく、とても感激しておりました。
星野:
有難うございます。
中川:
今度は横浜でも写真展が開催されるそうですね。
星野:
はい、4月18日から横浜の高島屋で。
中川:
これは全国を回る形で開催されているのですか。
星野:
去年の8月に東京の銀座で始まりまして、その後、大阪、福島、札幌と回って、今度が横浜です。
中川:
私が星野道夫さんのことを初めて聞いたのは映画監督の龍村仁さんからなのですが、映画『地球交響曲第三番』に星野道夫さんの出演が決まっていて、その直前に事故で亡くなられたということでした。当時、龍村監督から「今度の映画は亡くなった方を主役に撮るんだ」という話を、興味深く聞かせていただきました。
星野:
はい、そうでしたね。
中川:
我々は目に見えない心のエネルギーのようなものを氣と呼んでいるんですが、この氣は特別な所にあるものではなく、誰もが持っていて、絵画や音楽など芸術的なものにも宿ることがあるのです。その氣が人の心に届いて、暗い気持ち、悲しい気持ち、苦しい気持ちのときにも作品から光をもらえる…、そういうものが世の中にはたくさんあるわけです。星野道夫さんの写真からも多くの人がエネルギーを受け取って、見た人を変えていくのかなと思います。今日はそれでいろいろお話を聞きたくて、お伺いした次第です。まずはご結婚された経緯からお聞きしたいのですが…。
星野:
私は両親ともにクリスチャンでしたので、ずっと家族で教会に通っていたのですが、その教会の牧師夫人が夫の姉だったのです。それで私の家族と、義姉の家族は親しくしていたのですが、まだ夫には会ったことがありませんでした。それがある日、義姉のほうから「会ってみませんか」と(笑)。それで夫と義姉の家族とが私の実家に遊びに来て、それがお見合いでした。ただ、そんな堅苦しいものではなく、みんなで夫のアラスカの話を聞いたりしていました。
中川:
その時の印象はどんな感じでしたか。
星野:
年が17歳離れていると聞いていたんですが、会ってみると本当に若くって、少年のように一生懸命話をしてくれたのが、すごく印象的でした。
中川:
それで、ご結婚されたわけですが、ご主人が撮影で家を空けられることも多かったのではないですか。
星野:
最初の年はできる限り一緒に行こうと言ってくれて、93年の5月に日本で結婚して、6月にアラスカに行って、もうその年はほとんど、家には少し準備をしに帰るぐらいで、北極圏やアリューシャン列島など、いろんな所に行きました。
中川:
それまでに旅行などはされていたのですか。
星野:
キャンプなどに興味はありましたが、自分一人でザックかついで行くようなことはありませんでした。それで初めてテント、寝袋というのを経験して、それがもう楽しくて(笑)。テントの張り方や、コンロの火のつけ方など、全部一から教えてもらいました。
中川:
その時に撮影された写真もずいぶんとあるのですか。
星野:
はい、写真集の中に「これ一緒に行った時のだな」と思い出すようなものがいくつかあります。

<後略》

(2007年3月6日 星野道夫事務所にて 構成 樋渡正太朗)

           

4月 「寺山 心一翁」さん

寺山 心一翁(てらやま しんいちろう)さん

1936年東京生まれ。1960年早稲田大学第一理工学部卒業。東芝で半導体素子の開発にたずさわった後、1980年寺山コサルタンツオフィスを設立。1984年にがんとなったことがきっかけでホリスティック医学、統合医療の分野で活躍するようになった。現在、ホリスティック経営コンサルタント、フィンドホーン財団評議員などを歴任。

『腫瘍に向かって、毎日 『ごめんなさい』 『愛している』 と声をかけた』

超多忙だった日々が続き、突然の発病

中川:
はじめまして。先生のお名前はあちこちでお聞きするのですが、こうやってお会いするのははじめてです。今日は、よろしくお願いします。
寺山:
こちらこそよろしくお願いします。やっとお会いできたという思いです。感激しています。
中川:
先代の会長とは、何度か会っておられるとお聞きしていますが。
寺山:
そうなんですよ。だから、ぜひ、今の会長にもお会いしたかった。
お父様は、すごい方でしたね。当時、あんなことできる人、いませんでしたから。両手を広げて氣を送っておられましたが、私は驚きましたよ。
生駒へぜひお越しくださいとお誘いを受けていたのに、なかなか行けないうちにお亡くなりになってしまって。ホントに残念でした。
中川:
父のことはどこでお知りになったんですか。
寺山:
湯川れい子さんにご紹介いただいたいんです。すごい人がいるからと言うんで、池袋の事務所へ連れて行かれて、一緒にお食事をしました。脂の乗ったお肉をおいしそうに食べておられました。その後、ホリスティック医学協会のシンポジウムにお誘いしたり、何度もお会いするチャンスがありました。
中川:
食べることは大好きでしたね。肉食はあまりしない方がいいと言われてもいたようですが、好きなものを食べるという姿勢は変わりませんでした。寺山先生は22年前にがんになられて、そのときは経営コンサルタントをやっておられたとお聞きしましたが。
寺山:
コンピュータ・システムの導入を企業に指導するという仕事をしていました。コンピュータというのが時代の花形になりつつある時代だったので、超多忙な毎日でした。睡眠時間を少しずつ減らしていって、家へ帰らずに仕事をする日がどんどんと増えていきました。¥r¥n当時の私の生活は、タバコは吸わなかったですが、コーヒーが大好きで、一日に10杯から20杯くらい飲み、食事は、肉やうなぎを常食していました。ひどいものでした。事務所が神楽坂にあったので、おいしい店がまわりにたくさんありましたから。便秘がひどくて、痔にも悩まされていました。
中川:
きっと、ストレスも多かったんでしょうね。私も、サラリーマン時代、かなり無理をして、体調を壊しましたから。
寺山:
そういう人ばかりですよ。あのころ、運動不足になるといけないと思ってヨガ教室へ通っていました。そしたら、ヨガの先生が『あなたのオーラがあまりよくありません。チャクラも閉じています』って言うんですね。今ならわかりますが、当時は、変なことを言う人だと思いました。
中川:
そりゃそうでしょうね。オーラやチャクラと言われても、ぴんときませんからね。そして、がんが発病したわけですね。
寺山:
高熱が出て、血便が出て、検査をしたら、すぐに手術だと言われました。でも、仕事がいっぱいありましたから、取りあえずは帰宅して、それから二ヶ月間、死に物狂いで仕事をこなし、新しい仕事は請け負わないようにしました。そして1984年の11月、家内に付き添われて、病院へ行ったわけです。精密検査を受けて、『右の腎臓に腫瘍ができています。手術で摘出しちゃいましょう』と言われました。そのころ、私は医学に関しては無知でしたから、それががんだとは思ってもみませんでした。

<後略>

(2007年2月19日 東京・「超越意識研究所」にて 構成 小原田泰久)

           

3月 「奥田 和子」さん

奥田 和子(おくだ かずこ)さん

1937年福岡県生まれ。広島大学教育学部卒。大阪大学発酵工学科研究員、イギリス・ジョーンモアーズ大学食物・栄養学科客員研究員などを経て、現在甲南女子大学人間科学部人間環境学科教授。学術博士。専門は現代食文化論、食生活デザイン論、調理科学。著書に『現代食生活論―21世紀へ向けての食生活づくり』『震災下の食―神戸からの提言』『なぜ食べるのか聖書と食』『食べること生きること』など。

『「食べること」から 「生きること」を考えてみよう』

命に、食事に携わってくれた人に感謝して戴く

中川:
初めまして。『栄養と料理』という雑誌に、先生の「食べる意味を問い直す」というお話が掲載されているのを目にして、素晴らしいことをおっしゃっている、これは是非お目にかかって、もっとお話をうかがいたいと思いました。
奥田:
あぁ、「宗教に学ぶ『食べ方の英知』」と題した記事ですね。インタビューに来られた方が、私の言いたいことを過不足無く、内容を良くまとめて書いてくださいました。ところで、おたくの雑誌を読んだだけでは、まだよく分からなくて、氣の株式会社?ちょっと大丈夫かな、と思ったんですよ(笑)。
中川:
まあ特殊といえば特殊で、他には無いような会社ですから、皆さんに、すぐには分かっていただけないことも多くて(笑)。ちょうど昨日まで合宿制の研修講座をしていたんですよ。
奥田:
研修講座?氣の出し方などを教えるのですか。
中川:
ハウツー的なことではなく、心の持ち方の勉強ですね。
奥田:
心、ですか。
中川:
そうです。例えば講座では、食事も栄養摂取の「行法」なんです。食べ物は、命を持った生き物で、その命を戴く。私たちは、見えないものを“氣”と言っていて、命も氣なんですね。そして更に、その命が私たちの食事となるには、いろいろな方たちの手を経て届けられます。魚を捕る人、卵を得るために鶏を育てる人、野菜を育てる人、運ぶ人、売買する人、調理する人、盛りつけや配膳をする人…そういう方々の氣もプラスされて、私たちはそれを戴くのですね。
奥田:
分かりやすいですね。私も「食事は命を戴いていることだ」と言っているのですが、その命は氣であって、さらに作ってくださる人たちの氣も加わって価値の高い食物に仕上がっていく、というわけですね。なるほど、それはスゴイじゃないか、と思います。
中川:
一口ご飯やおかずを口に入れたら、お箸を置いて目を瞑って、良く噛んで食事となった食材の命に、そして携わってくれた人たちにも感謝をしながら戴く…ということもしています。厳格な玄米菜食ではないのですが、なるべく野菜中心のものを、食べ過ぎないように適量を戴くということ。そして、大切なのはどんなものでも“感謝”の気持ちで戴くことだと思うのです。
奥田:
今は「金がどれだけかかったか」を、行動するときの心の拠り所にしています。これはコンビニの100 円のおにぎりだから食べ残して捨てても別にかまわない、などとね。“氣”の考え方を導入して、行動指針を決めていく、それは良いことですねえ。

<後略>

(2007年1月17日 甲南女子大学にて 構成 須田玲子)

           

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