2006年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「河崎 義祐 」さん

河崎 義祐(かわさき よしすけ)さん

1936年福井市で生まれる。1960年慶應義塾大学経済学部を卒業し東宝株式会社入社。宣伝部、助監督を経て、1975年「青い山脈」(第14回大阪市民映画祭新人監督賞受賞)で監督デビュー。主な劇場用映画作品に「挽歌」「あいつと私」「若い人」「残照」「青春グラフィティ スニーカー・ぶるーす」など。他にテレビ映画、ビデオ作品、シナリオ作品、戯曲なども多数。主な著書は『母の大罪』『死と共に生きる』(共にエイジ出版)、『映画の創造』(講談社)、『父よあなたは強かったか』(PHP研究所)『映画・出前します』(毎日新聞社)など。1986年ボランティア団体「銀の会」設立。1997年映画の出前サービスを始める。2005年「銀の会」がNPO法人として認可され「シネマネットジャパン」と改称、理事長に。2005年度文化庁映画功労賞受賞。

『感謝と笑いを載せて 映画の出前いたします』

激動の昭和の時代を生き抜いてくれた高齢者の方々に

中川:
遠いところ恐縮です。お待ちしていました。
河崎:
初めまして。千葉茂樹監督(本誌190号巻頭対談ゲスト)からご紹介いただきました。今日はよろしくお願いいたします。
中川:
千葉監督には、十数年来懇意にしていただいています。中川さんの編集部の方から何冊か「月刊ハイゲンキ」を送っていただきましたが、今年の8月号(195号)の渡邊槙夫さんの対談記事を拝見して、胸打たれました。実は私も慶應の経済の出でしてね、渡邊さんは大先輩でいらっしゃるんですよ。また、取材に渡邊さんを訪問されたのが5月22日で、その2日後に中川さんが学徒出陣の記念碑を実際に訪れておられる。「出陣学徒壮行の地」と彫られた碑の前に立たれている中川さんの写真を見て、誠実な方だなぁと感銘し、是非お会いしたくなりました。
河崎:
ええ、還暦を迎えたときにふと思いついたのですよ。寝たきりのお年寄りのために、昔懐かしい映画を出前したら、きっと喜んでいただけるのじゃないかな、と。昭和の時代は激動の時代でした。家も仕事も食糧も何もかも無い大変な時代を生き抜いて、私たちを必死で育ててくれたのが今の高齢者の方々ですから、それこそ先程中川さんがおっしゃったように、その方々に対する感謝を私たちは忘れてはいけない、そう思ってですね。
また、昭和の時代は映画が娯楽の王様と呼ばれていました。それはたくさんの映画ファンの方々がいてくれたからこそですが、その方々に何か恩返しがしたいと思っていたことも「映画の出前」の発想につながりました。公民館や学校での巡回上映はあっても、たった一人の映画ファンのお年寄りのために映画を宅配するというサービスは誰もやっていませんでした。
中川:
それはユニークな活動ですね。映画監督として長年ご活躍され映画のことを熟知していらした河崎さんならではの発想だと思います。
河崎:
10年も自宅で寝たきりだという方のお宅に映画を上映しに行ったときのことですが、途中で隣家の方がお花を持ってお悔やみにいらしたのですよ。朝から見慣れないワゴン車が停まっていて、バタバタと雨戸が閉まりシ〜ンとして物音一つしない。これはきっと亡くなられたのだと誤解されたのですね。そのときは笑い話になりましたが、間もなく本当に亡くなられ、あのときの映画が「人生最後の映画」になってしまったのです。あぁ、もう待ったなしの状況なのだとつくづく思いました。
ホスピスにうかがったとき、あのときは「サウンドオブ ミュージック」でしたが、ご覧になっている方が汗ビッショリになって…。映画を観るというのは、思いのほか体力の要ることなのですね。生命の最後を振り絞って観てくださっているんだ、いいかげんにやってはいけない、とあらためて思い、上映会ごとに気合いを入れました。
中川:
映画を宅配するには、いろいろ機材も必要ですし、要望に応じてアチコチに出掛けて大変でしょう。
河崎:
個人宅ではフィルムの映写機では大きすぎますから、ビデオ上映です。スクリーンやスピーカーのアンプ、ビデオ映写機など、なるべくコンパクトなものを出来る範囲でそろえました。今はDVDに移行してきていますね。私が60歳になり年金が出るようになったので、それを活動資金に当てました。
はじめは全て無料で、お茶菓子も私が持っていっていましたが、あるとき「それでは来ていただいている私たちは、どうお礼の気持ちを表したらいいのですか」と戸惑ったように訊かれて。良かれと思っても押しつけの親切は、相手の方に気持ちの負担をお掛けしてしまうことに気づきました。それで、出前の交通費はいただくことにし、土産のお饅頭もやめて(笑)、上映前後に簡単にその映画に関するエピソードなどをお話することにしました。
中川:
それは良かったですね。皆さん、さぞ喜ばれたことでしょう。ビデオを観るだけならご自分でテレビに映してみることも出来るでしょうけれど、河崎さんならではのお話が聴けるなんて素晴らしいことです。
河崎:
監督の生い立ちや俳優の素顔など、できるだけ人間くさい部分や、私が実際に体験したちょっと面白い話などを紹介したのですが、これが皆さんに喜んでいただけましてね。何年も病気で苦しんでいた方がアハハと笑ってくれたりすると、私も嬉しくなりまして。あぁ、続けていて良かったなと思いますよ。他人の喜びが自分の喜びになる、それがボランティアなのでしょうね。それにしても、笑うということは人を元気にさせますね。
中川:
それは有り難うございます(笑)。
河崎:
“笑い”って、すごい力がありますよね。イギリスなんて、ユーモアやジョークがとても大事にされているじゃありませんか。「ピンチな場面ほどウイットの効いた一言を」というのは、政治家だってそうでしょう。ところが、日本では冗談や笑うことが低く見られてきて、「ふざけんじゃない」なんて叱られたりしてね。これはお殿様に忠義を尽くさなければいけない頃の名残じゃないですか。映画も喜劇映画は、小馬鹿にされてきました。
でもね、日本だって捨てたものじゃありません。私は寄席を“大学院”と呼んでいるんですよ。寄席に行くと実に勉強になります。落語は話術一つで人の心をキュッと掴んでしまって、笑わせてしまうでしょう。笑えるのって知的活動の一つだと思うんですよ。私も“生涯現役”、ここはひとつ、笑いを徹底解剖して研究し、笑いの復権を目指そうと思っているのですよ。

<後略>

(2006年10月18日 長野県安曇野市穂高有明にて構成 須田玲子)

           

11月 「長倉 洋海」さん

長倉 洋海(ながくら ひろみ)さん

1952年北海道釧路市に生まれる。1977年同志社大学法学部卒業後、時事通信社カメラマンを経て、80年よりフリーランスのフォト・ジャーナリストとして活動を始める。アフリカ、中東、中南米、東南アジアなど世界各地の紛争地に生きる人々やアマゾンなどの辺境に暮らす人々の取材を重ねて現在に至る。写真集『獅子よ瞑れ アフガン1980~2002』(河出書房新社)『サルバドル 救世主の国』(宝島社)、著書『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』(徳間書店)『ヘスースとフランシスコーエルサルバトル内戦を生き抜いて』(福音館)『フォト・ジャーナリストの眼』(岩波新書)など多数。1983年の「日本写真協会新人賞」をはじめ「第12回土門拳賞」「産経児童出版文化賞」を受賞。最新刊に「アフガニスタン 山の学校の子どもたち」(偕成社)。

『世界の紛争地で生きる人々の 笑顔、涙…を撮り続けて』

大学では探検部、写真を褒められて報道写真家として

中川:
インターネットの富士フイルムのサイトで長倉さんのフォト作品に出合って、人々の表情の豊かさに見入ってしまいました。それで、すぐに写真集『きみが微笑む時』『へスースとフランシスコ』を購入し拝見しました。特に、紛争地に暮らしているのにもかかわらず子供たちの笑顔が実に良くて感動してしまい、長倉さんに是非お会いしたくなったのです。たくさんお聞きしたいことがあるのですが、まず、どうしてこの道に進まれたのでしょうか。大学は法学部ですよね。
長倉:
はい。何となくというか、ツブシがきくということで法学部に行きました。でも、クラブ活動に探検部を選んでしまってからは、結局休学したりで6年間在籍し道が変ってしまったというか…(笑)。
中川:
探検部ですか。それが報道ジャーナリストの道にと繋がっていったのは分かるような気がします。
長倉:
それまでの高校生活というのは、家と学校の往復でしょう。親元を離れて大学に入って初めて、新しい世界に触れたことが大きいと思います。さらに広がりを求めて日本の川をいかだで下ったり、太平洋の孤島でも生活しました。1975年のとき、大学3年生でしたが1年間休学してアフガニスタンに滞在しました。ただ、その感動を自分の中だけで終えるのではなく、他の人にも伝えていきたい、と卒業時には考えるようになりました。
中川:
写真には興味がおありだったのですか。
長倉:
私がアフガニスタンで撮った写真を、取材に来た記者が「いい写真だねえ」と褒めてくれて、嬉しくて天にも昇る気持ちになりました。とりたてて得意なものは何もありませんでしたから、自分は写真に才能があると思い込むようにして(笑)。その後、運良く通信社のカメラマンになれました。褒められるのって、大切なことですよね。そうやって背中を押してもらったお蔭で、今の道を歩き始められたのですから。通信社には79年まで約3年間いました。
そのうちにデスクに言われた仕事をこなすより、自分で世界を見つめたくなり、退社してフリーランスになり世界のあちこちの紛争現場を回って戦場のレポートをしました。初めのうちは報道カメラマンとして世界中に注目されている現場でスクープを決めてアッと言わせたいという思いでした。でも、一つの国に長く滞在するうちに、そこに生活している人は、人間として何を感じながら日々真剣に生き抜こうとしているのかな、と思うようになって、長い時間をかけて彼らを見ていきたいという思いが募ってきました。以前は世界中からジャーナリストがやって来て報道合戦をしていたのに、次に訪れた時には、もうそういう人は誰もいなくなって、でもそこではまだ戦争は続いていて、瓦礫の中でも彼らは私たちと同じように毎日を笑ったり泣いたりして生きているという当たり前のことに気づき、それを何とか写真で伝えたいと。マスコミが取り上げるのは、戦争の表面を伝えているだけではないか、という疑問もありましたから。自分自身の眼でじっくりと物事や人間を見なければ、時代のマスコミの流れに右往左往するだけだ、と感じたのです。
中川:
自分自身の視点を獲得するというのは、大変なことでしょうね。
長倉:
人に出会い、取材をし、さらに発表した写真を大勢の人に見てもらう…そうしていくうちに、自分のスタイルや自分の眼が出来てくるのだと思います。
私はマスードという私と同い年のアフガニスタンの戦士に会いに何度も厳しい旅をして、生活を共にしながら、17年にわたって撮り続けました。彼との生活の中でも自分が随分変わりました。
中川:
ずいぶん長い間、しかもアフガニスタンの戦士を…。あの紛争はいろいろと複雑で分かりにくいのですが、ちょっと説明していただけますか。
長倉:
78年にアフガニスタンにソ連軍が侵攻し、マスードたちはそれに抵抗し、ついにソ連を撤退に追い込んで、一度はイスラム政権ができたのですが、その後はパキスタンの強力な支援を受けるイスラム原理主義のタリバンが力を増しました。しかし、タリバンは女性の権利を剥奪したり、偶像崇拝を排し世界遺産の仏像を破壊したり、近代社会の方針とは逆行する極端な政策をとるなどし、マスードもアフガニスタン人による自主独立を願い、北部同盟を結成しタリバンに抵抗しました。しかし、2001年9月9日、ジャーナリストを装ったテロリストに暗殺されました。アメリカの9・11事件の起こる2日前のことでした。
中川:
よく、そういう戦士の同行取材ができましたね。
長倉:
大国ソ連と、一見無謀とも思える戦いをどうして続けるのか、同年齢の若者が何を思いながら闘っているのかを知れば、分かりにくいこの戦争が見えてくるのではないかと思いました。そういうレポートはあまりありませんでしたから。83年春、さんざん苦労して彼のもとにたどり着き、多少ペルシャ語ができましたので一生懸命に頼み込んで、許可を得ました。行ってみたら、戦士たちは銃を持って戦っていても家族を愛し、鳥のさえずりに耳を傾け、バラの花を口にくわえて詩を口ずさんだり、一見“平和”の中に生きているはずの自分より、よっぽど豊かで人間的だと感じられて、惹かれました。どうして戦いが起きたのかということはそれぞれ違う、その中で人々はどう感じたのかを知っていかないと、次の戦争を止める力になりません。紛争の中に身を置きながら、平和を望み家族と共に過ごしたいと思っている彼らがどうして戦いを続けるのかと取材を続けてきました。
中川:
共感を持ってカメラを向けておられるから、写真を見る人も温かいものを感じるのでしょう。長倉さんは人間がお好きなんだ、という感じがします。
長倉:
戦争の表層よりもその中に生きる人間にだんだん惹かれるようになっていきました。もちろん、初めは文化、習慣、言葉の違いに戸惑い、フラストレーションが溜まり、二度と来るものか、などと思ったりもしましたよ。でも、時間をかけることで、また何度も訪れることで、紛争地に生きる人々が多面的に見えてきたのです。
中川:
人の顔を撮るのは難しいですよね。相手があることですから。カメラを構えると普通なら、戦士ばかりでなく一般の人たちにも警戒されるでしょう。よほど信頼を得られないと許してもらえないでしょう。
長倉:
今はデジタルですから撮ったものはすぐに見せられますが、当時はフィルムでしたからすぐには見せられません。撮られた写真をどう使われるのか不安でしょうし、相手にはメリットは無いわけですよ。それを撮らせてもらう。どうしたら自分の気持ちを証明できるのだろうか。結局、笑みを浮かべる他ありませんでした。でも、それは写真を撮らせてもらいたいという野心ミエミエの笑顔だっただろうと思いますよ(笑)。そんなぎこちない笑顔でも、言葉が通じなくても、笑顔を浮かべて「いいよ」と言ってくれたことに救われました。笑顔というのは凄いんだと思いました。万国共通のパスポートなんですね。私は撮った写真は次に訪れたときに、写っている本人にできるだけ渡すようにしています。写真を受け取ると、大喜びしてくれて…。少年は若者になり、少女は母親になっていたりします。

<後略>

(2006年8月29日 東京・日比谷公園「松本楼」にて構成 須田玲子)

著書の紹介

「涙 ― 誰かに会いたくて」
長倉 洋海 (著)
(PHPエディターズグループ)

           

10月 「廣澤 英雄」さん

廣澤 英雄(ひろさわ ひでお)さん

1937年茨城県に生まれる。1958年に合気道「龍ヶ崎道場」に入門。1961年から68年までの約7年間、開祖植芝盛平師の弟子(その間、内弟子2年)。1994年に7段を取得。2006年イタリアに招待され合気道の模範演技を披露し指導。現在、茨城県合気道連盟理事、(財)合気会茨城支部道場指導部師範。他に大学や道場、カルチャースクール、クラブなどで合気道を指導。

『競い合わず、宇宙のリズムと 同調している合気道』

タクシーの運転手さんとお客さんとの氣の交流が

中川:
お忙しいところ朝からお越しいただきまして、ありがとうございます。また、大変暑い中、遠方よりいらしていただき恐縮です。
廣澤:
いえいえ、私もお目にかかれるのを楽しみにして来ました。
中川:
私どもの会社は、氣の重要性をお伝えし、日常的に氣を上手に取り入れて心を磨き、より幸せな生活を送りましょうということを提唱している、ちょっと珍しい株式会社(笑)なのです。
先日、うちの会員の山田秀明さんから、廣澤さんをご紹介いただきました。やはり会員の森田さん、樋渡さんと一緒に廣澤さんの道場をお訪ねして、いろいろとお話をうかがい大変感銘を受けたそうで、是非、私にも会ってほしいと連絡をくれたのです。山田さんから話を聞いていて、どうも、廣澤さんのおっしゃっていることが、私どもがお伝えしていることと、とても共通していると感じまして、これは直接お会いしてお話をうかがいたいと思った次第です。
ところで、山田さんとお会いしたのは、何とも面白い偶然だったそうで…(笑)。
廣澤:
そうなんですよ。私は以前からずっとタクシーの運転手をしています。この職業は、深夜も車を走らせて、その翌日は「空け」で休みなんですよ。それで、合気道の練習に通う時間が取れて都合が良かったものですから、長年タクシーの運転手をしていました。今はいくつかの道場で指導もしていて忙しいし、来年で70を迎えますから週に2日だけ運転しています。
タクシーの運転手も「合気」なんですよ。お客さんが乗ってまだ行く先を告げないうちに、もうどこに行くか分かってしまうことがあります。「どこどこですね」などと言うと、ビクッとして「前に、乗りましたか?」と。また、乗り込んだ途端に「銀座の○○のママさんですね」と言って、驚かせてしまったこともあります。スッと心を結ぶと、何か自分にメッセージが届いてそれをキャッチするとでもいいましょうか、そんな感じで分かってしまうのです。
山田さんとお会いしたのは8年程前のことです。突然降ってきた大雨で、山田さんが私の車を停めて乗ってきました。そして、何かのきっかけで私が「痛みや身体の不具合を治すことが出来るけれど、それは宇宙からの氣を中継するだけで私が治しているわけではない」というような話になりまして。降りるときに、お互いに何か感じたのでしょう、名刺を交換したんですよ。それから1年に1度か2度、私が何か氣づくと山田さんに電話し30分ほど話をして…という繋がりでした。そうしたら1ヶ月ほど前にお友達と一緒に道場に会いに来てくれて、話が弾み、こうして中川会長とお会いすることになったというわけです。
中川:
そうでしたか、それもまたご縁ですね。私もタクシーに乗ったときに運転手さんがイライラした感じのときなどには、そっと後ろの座席から氣をお送りしています。そうすると、だんだんと刺々しい雰囲気が和らいで穏やかになって、あぁ氣が届いたなとこちらも嬉しくなったりして。廣澤さんは、反対に運転手さんの立場からお客さんと氣の交流をしていらっしゃるわけですね。
廣澤:
ずいぶん調べられましたね。そうです、開祖を私どもは大先生とお呼びしていますが、大先生より前の武道は、究極的には相手を殺すまでいってしまう剣術、闘技である武術でありました。大先生も戦争中は国の命令で海軍の兵学校などの教師をさせられていましたが、それを嫌っていました。大先生の確立された合気道は「和の武道」です。戦わず、競い合わない。ですから試合はありません。試合は、敵を作ります。試合は「死合い」に通じます。命、今日は取られたけれど、明日は命ある…そんなことはないでしょう。合気道は、敵を作らず勝ち負けはないのです。試合を無くしたということは、無我の境地を確立したということです。
大自然に同化し一体化した動きであり、そこには対立相剋の世界もなく、相手もなく、ただ自己の気が宇宙の気に合いして動くというものです。宇宙のリズムに同調させる。大先生は最後の頃、「宇宙は腹の中にあり」とおっしゃっていました。「武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛練することである」と書き残されてもいます。
中川:
先代も、争う気持ちはマイナスの波動を生み出してしまう、とよく言っていました。オリンピックなど国を挙げて勝つことだけにこだわり、メダルの数だけを競い合っていてはいいことがないと。
廣澤:
形は違っても、それでは国同士のケンカです。合気道はスポーツでもケンカでもありません。昔、私が若い頃ですが、山の中で大きな木を相手に木刀で打ち込んでいたら背後から声が聞こえたんですよ。「周りの木々すべてが敵なら、どうするんだ」と。どうすることもできませんよね、そうか、闘わないのが一番いいんだ、って分かりました。そうでしょう。私は山に入って自然と一体となることに努めていました。合気道は、畳の上だけの鍛錬ではダメですね。それでは勝った、負けたで終わりです。
中川:
廣澤さんが合気道を始められたきっかけは、何だったのですか。
廣澤:
私の先祖、曽祖父ですが関口流柔術をしておりまして、兄弟は柔道の道を進みましたが、私は合気道の方に行ったのです。もともと武道の家系だったということもありますし、合気道は百姓をしながら練習するのに最高だったのです。
大先生の内弟子になったのは、21歳の頃でした。掃除からご飯炊きまで、大先生の身の回りのことを何から何までやり、教えをいただきました。
中川:
内弟子になられたのですか。外から通ってくる外弟子と、寝食を共にして学ぶ内弟子はだいぶ違いますよね。
廣澤:
そうですね。大先生は37年前に亡くなりましたが、私はその直前まで一緒でしたから。大先生は弟子に肩をもませて、ダメな奴にはすぐに「もういい!」と。こう言われたら、役に立たないということなんです。肩をもむときに息を止めて押すと、相手も息を止めてしまって痛い。押そうとすると、抵抗が出来ます。息を吸って押せば、相手も息を吸い、心と心が結ばれる。心を許すと受けとめられる。呼吸なんですよ、呼吸を合わせれば例え棒で押されても大丈夫です。大先生の背中には幾つもタコができていました。心と心の交流を一番大事にされていたのです。
大先生も若い頃は構えていました。でも構えるということは相手にスキを与えてしまうことになります。だから、若い頃の大先生に教わった人と、晩年に教わった人とは違うのです。構えず、迎えに行く。さぁどうぞいらっしゃい、と。そして投げるのではなく導くのです。掴(つか)まれたら、解こうとするのではなく、スウ〜ッと息を吸えばいい、そしてフゥ〜と吐く。
中川:
掴まれたら息を吸って、吐く…ちょっと聞くと簡単そうですね(笑)。
廣澤:
そう、簡単です。でも、そこまで来るのは大変ですが(笑)。押さえよう、勝とう、投げよう、そういう気持ちは合気道にはありません。合気道は競い合わないのです。今年、イタリアに招かれてクロアチア、ブルガリア、南アフリカなど11ヶ国から集まった200人ほどの方々の前で、合気道の実技を見せ指導しました。
肉体を意識していれば投げられると痛い。そして、このヤロウ!という気持ちになる。心を呼吸で結べば、そういう気持ちはパッと消えます。「合気」は「愛」に通じるものであり、人類を仲良く一つ家族にする道です。呼吸している宇宙、その中で人間は生かされています。言葉で説明していても分かりにくいかもしれませんが、ようは心が先なのです。
中川:
何でもそうですね。まず心で、身体は後からついてきます。ですから、その心の部分をどのような状態にもっていくかが大事で、私も「洗心」を心がけることの大切さをお伝えしています。
廣澤:
そうですね。真白い心で立つと周囲の黒い心を浄化できます。泉が湧き出るように浄化できる。中心に立つ者が汚れた心だと、周囲はドロドロになってしまいます。
ところで、頭に思ったことを形に表すこと… で思い出しましたが、私は40年程前に「世界びっくりアワー」というテレビ番組に出演したんです(笑)。頭の中に鶴が羽ばたくイメージが湧き、それを忠実に形に再現しました。紙と針金を使って本物そっくりに鶴が羽ばたくのです。大先生がそれを見て、「それも合気だよ」とおっしゃいました。
頭で思ったことを形に表すことが合気で、合気道は宇宙を神と崇めて、宗教を飛び越えて一つ家族になる、そういうことを身体で表しています。そういうことをイタリアで話しましたら、拍手が起きました。

<後略>

(2006年8月21日エス・エー・エス東京本社にて 構成 須田玲子)

           

9月 「三木 健」さん

三木 健(みき たけし)さん

1940年沖縄県石垣島生まれ。八重山高等学校、明治大学政経学部卒業。1965年琉球新報社に入社。93年から98年まで編集局長。06年6月まで琉球新報社取締役副社長。ラジオ沖縄取締役会長、石垣市史編集委員、竹富町史編集委員。沖縄県シーカヤッククラブ顧問。著書に『八重山近代民衆史』、『沖縄・西表炭坑史』、『宮良長包-沖縄音楽の先駆-』、『戦場の「ベビー!」タッちゃんとオカァの沖縄戦』など多数。

『埋もれた先人に光を当てて 平和の心を育んでいこう』

「密林に消えた歴史」を掘り起こし西表(いりおもて)島炭坑史を

三木:
遠いところ、ようこそ、三木です。どうして、私の話を?と、少々戸惑っているんですよ。
中川:
初めまして、中川です。実は私どもは「氣」というものを体験し、いい氣を取り入れながら、幸せな生活を送りましょう、ということを学ぶ合宿制のセミナーをしているのですが、その受講生から三木さんのことをうかがったのです。
その方は天野輝代さんといって、70歳位でしょうか。天野さんのお母さんが9歳のときに熊本の自宅から誘拐され、西表島の小さな孤島の内離(うちばなり)島に連れて行かれて、炭鉱で働かせられていた人たちの子供の子守りをさせられていた、というのです。天野さんのお祖父さんが必死で探し、17歳になって一児の母になっていた、天野さんのお母さんを救出したそうです。初めて聞く話で驚いてしまいましたが、「このことは、三木健先生が本に書かれている」、とおっしゃるのですね。それで、早速、インターネットで三木さんの『沖縄・西表炭坑史』を取り寄せて拝読させていただきました。そして、これは是非とも直にお目にかかって、お話をうかがいたいと思った次第です。
三木:
あぁ、そうだったのですか。明治時代から第二次世界大戦の終わり頃まで、本土、九州や台湾から多くの人々をだまして連れて来て、監禁状態で炭坑で働かせた、大変悲惨な事実があるのですよ。ほとんどの人は、故郷に戻れないままに重労働の末に体を壊し、或いはマラリアに罹って亡くなりました。
中川:
三木さんが、この西表炭坑史を書こうと思われたのはどうしてですか。
三木:
私は石垣島で生まれ育ったのですが、高校生のときにクラブの旅行で西表島を訪れたときに、白浜という部落の山の後ろから幽霊が出る、という話を聞いたのです。どうして?と訊くと、炭坑で苦しめられた霊が成仏できずにいるから、というのですね。怖い話だなと思ったものの、そのときはそのままになってしまいました。
それが東京で新聞記者として働いているとき、郷土の歴史を調べる機会があって、そういえば、あの話は何だったんだろう?と思い出しました。東京にいる炭坑関係者が見つかり、話を聞いたのですが、聞けば聞くほど凄(すさ)まじくて…。私もまるで坑道に引きずり込まれるようにして、20数人の方々を訪ね歩き、「生き残り証言」を書くことになったのです。
中川:
その頃は、証言をしてくれる当事者がご存命だったのですね。
三木:
そうです。今から30年前のことでしたから、あのときが直接話を聞ける最後のチャンスでしたね。皆さん、「バナナも米も豊富で食べ物には困らない、賃金ももちろん貰える、などの甘言で連れて来られたら、事実は大違いだった」と。
行くときの運賃や食べ物代が負債となって、島に到着時には既に借金を背負っている。返済のために働き、賃金は炭坑の売店でしか使えない金券ですから、逃走して島外に出たらただの紙切れです。会社が倒産したら、蓄えた金券は使えません。台湾の人はモルヒネを打たれて中毒になり、モルヒネ欲しさに連れて来られたケースも多いのです
中川:
逃亡するにも、島ですから難しかったでしょうね。
三木:
私は「緑の牢獄」と呼んでいます。明治時代は、囚人を使って掘らせていたけれどマラリアで死んでしまい人手が足りなくなって、こういう荒っぽい方法で連れて来るようになったようです。
網屋頭という、炭坑夫の動向の見張り役がいて、逃亡を企てたものは連れ戻され、木に吊るされメッタ打ちにされ、一晩中、蚊にくわれて…。でも、中にごくまれに脱出に成功する者もいて、その圧制の実態が白日の下にさらされることになりました。大正時代の新聞には、その様子が記事にされてたくさん掲載されていますよ。でも、警察と通じていた経営者側は、いつも罪を免れて無傷だったのです。
中川:
私が生まれ育った北海道には炭鉱が多く、戦前戦中には朝鮮や中国から強制連行され著しい人権侵害によって、終戦までにたくさんの人が亡くなったと聞きます。炭鉱には、そんな悲しい歴史が多いようですね…。
三木:
北海道のご出身ですか。私も夕張炭鉱を見に行きましたよ。炭鉱は廃鉱になって忘れられていき、西表島もいまや地元の人たちだって、「炭鉱があったらしいよ」という程度です。西表島の炭鉱は炭層が薄いので、「狸掘り」という方法を採っていました。本坑道はトロッコが入る位の広さはあったのですが、そこから幾本にも枝葉のような狭い坑道が伸びていて、炭坑夫はこの中を横になって寝ながら窮屈な姿勢で掘り進んでいったのです。そして、戦後米軍が接収して民間に再度払い下げられましたが、数年で閉鎖になりました。こうして悲惨極まりない実態があったことは、全く忘れ去られてしまったのです。
私は、この「密林に消えた歴史」を掘り起こして、犠牲になった多くの方々の慰霊を何とか少しでもしなければと思いました。どうやって人々に知ってもらおうかと考えて、今までに、証言集、資料集、写真集、ノンフィクションに纏(まと)めてきました。
中川:
高校生のときに聞いた「幽霊話」が発端で、ライフワークにまで発展していったのですね。
三木:
私もこんなに炭坑史に関わるなんて思ってもいなかったのですが、それこそ霊が呼んだのかもしれませんね。
中川:
負の歴史は重いですが、事実をまず知ることがとても大事だと思います。次世代に伝えていかないと。三木さんがお書きになったことで、亡くなった方々は気持ちが報いられたと喜んでおられると思います。
三木:
こういうものを書いてきたことで、炭坑関係者の遺族の方から「本を読んで、炭坑の全体像が分かりました」とか「お父さんがどこで、どんな生活をしていたか分かりました」という声が寄せられています。台湾の方からもお手紙を戴きました。私は立派な「石の慰霊塔」は創りませんでしたが、書くことで「紙の慰霊碑」を後世に残せたかなと。
中川:
本当にそうですね。書物をお書きになったことで、また多くの方が読んでくださることで、亡くなった方々に光が届きます。

(後略)

(2006年5月30日 沖縄「琉球新報」本社にて 構成 須田玲子)

著書の紹介

「場の「ベビー!」― タッちゃんとオカアの沖縄戦」
三木 健(著)
ニライ社

           

8月 「渡邊 槇夫」さん

渡邊 槇夫(わたなべ まきお)さん

1923年満州撫順生まれ。1943年慶応大学在学中に学徒出陣、陸軍に入営、志願して第3期特別操縦見習士官となり南方に派遣。ジャワ、スマトラ、ジョホールなど各地を移動し、46年に復員、復学。49年朝日新聞社に入社、記者として新聞、テレビ報道に従事。93年学徒出陣50周年記念碑建立事業に参加。また勤労動員に駆り出された元女学生と元出陣学徒を集めて「戦争と学徒の青春を考える会」を主宰した。

『次世代を担う人々に伝えたい 「学徒出陣」のこと』

男性は学徒出陣、女学生は勤労動員…学校は空っぽに

中川:
国立競技場のマラソン門の脇に学徒出陣の記念碑があり、その建立に渡邊さんがご尽力されたと知り、今日は「学徒出陣」のことについてうかがいたいと思っておじゃまさせていただきました。60年前の太平洋戦争の際には、ペンを捨て戦地に赴いた若い方々が大勢いらした、そういうことを私たちは忘れてはいけないと思うのです。
渡邊:
テレビの戦争に関する番組などで、雨の中を大勢の学生が行進しているフィルムを今までに何度も放映しているので、ご覧になっていらっしゃると思いますが、あれが1943年10月21日に東京の明治神宮外苑競技場…現在の国立競技場ですが、そこで行われた、学徒出陣の壮行会です。
壮行会は全国各地で挙行されましたが、特にこの日の壮行会は、東京、神奈川、埼玉、千葉から77校の学生が集まり分列行進し、それを女学生や後輩男子学生、家族たちが観客席を埋め尽くして見送った大規模なものでした。行進した学生数は伏せられていましたが、約3万5千人といわれています。
あの出陣学徒の総数は何人だったのか、実は政府機関には記録がないので、はっきりとは分かっていないのですが、陸軍8万、海軍2万人のあわせて10万人というのが標準的な概数とされています。戦死者の数はさらに不明で、概数さえ示されていません。実数は敗戦時に、書類と共に焼却されたからだといわれています。
中川:
不明というのは、胸が痛みますね。1943年というと、開戦が1941年12月ですから、学徒出陣は開戦の2年後ですね。
渡邊:
そうです。私はちょうど徴兵適齢の満20歳でしたが、それまでは、大学、予科、専門学校などに在学中の学生は卒業するまで徴集を延期されていたのです。戦局は厳しさを増し、ガダルカナル島からの撤退、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島をはじめ太平洋の島々での玉砕が続いていました。
そんな中で兵役に服さずにいる男子学生の姿は、目障りに感じていた人たちもいたようです。国民の間にも、特に生産力である男子を軍にとられている農、山、漁村では学生に対する不平等感と不満が暗い影となって広がって風当たりが強まっていったように思います。そして、1943年6月25日に戦力増強のための学徒総動員が閣議で本決まりになりました。
女性に対しては、9月には14歳から25歳未満の未婚女性で勤労挺身隊を編成することになりました。男を軍の下に入れて、空いたところを女で埋める、そういうことです。そして、男子学生に対する兵役法上の徴集延期の特典が10月2日についに文科系に対してだけ停止されました。そのわずか2ヵ月後の12月に学生たちは一斉に入隊させられたのです。
中川:
渡邊さんは、そのお一人だったのですね。
渡邊:
そうです。私は慶應義塾大学の経済学部1年でした。2年前の開戦の日、登校したとき、教室は灰色に見えました。私は米国と戦えば負けると思っていたので、これで「死」に向かって行かなくてはならなくなるのだと覚悟をしました。自分の「死」を考えるのは初めてのことです。「死」への階段を一段上がったわけです。
そして、43年9月の学徒の一斉入営が発表されました。この時「いよいよ自由を奪われるのだ」「死に直面することになるのだ」と悟りました。「死」への階段2段目に立ちました。ですからこの後の事態の激化には、心の動揺はそう起きなかったと思っています。
塾長の小泉信三先生は慶應義塾の壮行会で「国のため、しっかり戦ってきてくれ。そして、またここに帰って来い」と言ってくれました。他の大学でも同じで、「帰って来い」「また会おう」という、このなんでもない言葉が出陣学徒には心の大きな支えになったのです。
中川:
「また、ここに帰って来い」…送り出す先生方もどんなお気持ちだったことか。
渡邊:
12月24日には、徴兵適齢が1年引き下げられて19歳となりました。満州事変勃発以来すでに10年。男子の最後の集団である学生が学徒出陣でいなくなってしまった後に残ったのは、子供と女性、男は年を取った人ばかりです。それまでも、一般工場で働いたり、畑を耕したりして生産を支えてきた女性たちは、男たちが担当していた部署の穴埋めに総動員されました。女学生も中学生も、行学一体の標語のもとに勤労動員に駆り出されて武器や弾薬の製造など軍事産業に従事し、学校で勉学どころではなくなりました。
まもなく理科系の学生も軍需工場に動員され、翌年の44年10月には兵役は17歳からとなり、それ以下でも志願すれば軍務につけるようになりました。こうして、学校は空っぽになりました。
太平洋戦争に入る前から、飛行機や武器を作るからと、お寺の鐘、銅像、繊維関係工場の機械などから、底の抜けたヤカンや鉄の火鉢、錆びた針金や釘にいたるまで、徹底的に各家庭から金属が集められました。そのように材料が何もかもない状況で、まともな飛行機など製造できますか。軍需用燃料もなくなり、松の根から航空燃料油を採るということで、農民、それに学徒兵たちも松の根掘りに動員されました。

<後略>

(2006年5月22日 埼玉県の渡邊槇夫氏のご自宅にて 構成 須田玲子)

           

7月 「星川 淳」さん

星川 淳(ほしかわ じゅん)さん

1952年東京生まれ。作家・翻訳家。九州芸術工科大学、米国ワールドカレッジ・ ウェスト大学中退。インド、アメリカ滞在後、1982年より屋久島在住。“半農半 著”のかたわら、環境問題にも積極的に関与。98年から8年間、屋久町環境審議 会会長。著訳書のテーマは精神世界、環境思想、先住民文化、平和など多岐にわ たる。著書に『魂の民主主義』、『屋久島水讃歌』、『地球生活』、共著に坂本龍一 監修『非戦』、訳書『暴走する文明』、『アメリカ建国とイロコイ民主制』、『一万 年の旅路』など60冊以上。04年、TUP(平和をめざす翻訳者たち)監修『世界は 変えられる』(七つ森書館)に対し日本ジャーナリスト会議より市民メディア賞 受賞。05年12月よりグリーンピース・ジャパン事務局長

『屋久島の半農半著生活から 「グリーンピース・ジャパン事務局長」に』

前回の対談は9年前、映画『地球交響曲』との繋がり

星川:
お久し振りです。
中川:
以前、お話をうかがったのはいつかなと思いましたら、97年なんですよ。97年の12月号で対談させていただきました。
星川:
9年も経ちますか。早いですね。
中川:
そのときの記事のタイトルは、「我々は先祖の大きな祈りの渦の中にいます」でしたが、インディアンの方たちは、重要なことは7代後の子孫のことを考えて決めるとか、5万年くらいの幅の視野が必要だ、などのお話をうかがい感銘を覚えました。
また、龍村仁監督が『地球交響曲 第3番』を撮ろうと着手したときに、星川さんのご著書に出合ったことなどもうかがい、ご縁を感じました。
星川:
そうですね。あの『精霊の橋』は『ベーリンジアの記憶』と改題し文庫本になりましたが、残念ながら今は絶版です。あのとき、監督にハワイ先住民族のナイノア・トンプソンをご紹介し、彼、『地球交響曲 第3番』に登場しているでしょう。いろいろ繋がって広がっていきました。
中川:
星川さんは、『星の航海師―ナイノア・トンプソンの肖像』という本もお書きになっていますね。彼は、タヒチからハワイまでかつて祖先たちが渡ってきた外洋双胴カヌーの航海を今に蘇らせた方ですね。
星川:
ハワイやポリネシアの人々が、自分たちの伝統文化に自信をもち、活性化させていく中で、ナイノアがもう一度道を開いた星や波など自然情報だけを使う長距離航海はその象徴となっているんです。監督も第3番を、「私たちの心の奥に眠っている5000年以上前の記憶を呼び覚まし、地球の心、命の不思議に遠く思いを馳せる 魂のロードムービー」とおっしゃっていました。
中川:
今回は、星川さんが「グリーンピース・ジャパン」の事務局長になられたとうかがい、そのお話もお聞きしたいと思いまして。
星川:
まだ去年の12月に就任したばかりなので、十分なお話が出来るかどうか(微笑)。
中川:
それまでは、ずっと屋久島にお住まいで、 「半農半著」の生活を送っておられたのですね。今は東京ですか。
星川:
20年あまり自然の中の屋久島に住んでいましたから大都会の環境に馴染めず、海に近い湘南に家を借りましたが、事務所がある新宿までの通勤がまた大変で…(苦笑)。屋久島には年に2度、クリスマスから正月にかけてと、夏の休暇しか帰れそうにありません。屋久島の家は果樹園の中にあり、放っておくとあっという間に草に覆われてしまいます。27歳の息子が漁師をしながら最低限の管理はしてくれていますが、休暇で帰ったらまず掃除や草刈がひと仕事でしょう。
中川:
そういう屋久島を出て、グリーンピースのお仕事を引き受けられたのはどうしてですか。
星川:
グリーンピースの初期のメンバーである、カナダ人と日本人の若いカップルが日本で活動をしていらして、70年代半ばに知り合ったのです。私は個人として作家として環境と平和の問題を最大のテーマとしてきました。20代前半にインドのラジニーシの元で学び、その後アメリカに渡って、大学で応用生態学を学んだあと、山の中で電気も水道もガスもない生活を送りました。
そこで感じたのは、人類は自然を支配し、開発し、搾取する技術を追求してきたけれど、あまりの行き過ぎに、現代は人間自身を含めた地球全体が変調をきたしているということでした。そこで、生態系との調和の取れた技術のあり方、文明のあり方を問い直すライフスタイルを身につけたいと思ったのです。アメリカから帰国後に、自然と身近に接する暮らしを続けたいと、屋久島へ移り住みました。
そんなわけでグリーンピースの活動には早くから賛同し、1989年にグリーンピース・ジャパンが出来た当初からサポーター会員となって陰ながら応援してきました。また、屋久島の原生林保護や、隣接する種子島の使用済み核燃料中間貯蔵施設の立地阻止などに際しては、他のNGOと並んでグリーンピース・ジャパンからも有形無形の支援を受けました。

<後略>

(2006月5月16日東京・西新宿「グリーンピース・ジャパン事務局」にて構成 須田玲子)

           

6月 「五十嵐 薫」さん

五十嵐 薫(いがらし かおる)さん

1953年山形県鶴岡市に生まれる。電気通信大学物理工学科卒業。ミネベア(株)に勤務し、電子設計部門を担当。'82年内省セミナーのインストラクターを務める一方、自宅で家庭内暴力、不登校の青少年を育てる。'85年マザー・テレサのもとで奉仕の精神を学ぶ『インド心の旅』を始める。'99年特定非営利活動法人「レインボー国際協会」を創設、理事長。インドのコルカタに、親のない子ども達の家レインボー・ホームと無料クリニックを運営している。東京都府中市在住。

『マザー・テレサが伝えてくれた二つの言葉』

「アイ サースト!」と叫ぶイエスを見た

中川:
はじめまして。3月号で対談させていただいた千葉茂樹監督から五十嵐さんをご紹介いただきました。
五十嵐:
千葉監督とは、もうかれこれ20年以上のお付き合いになります。私が、自宅で家庭内暴力や登校拒否の子ども達を常時10人ほど預かって生活していたときに、千葉監督が「あなたが預かっている子ども達を、インドに連れて行って、マザー・テレサの施設でボランティアを体験させたらどうかな。日本は望めば誰もがいつでも学校に行ける。インドには貧しくて生きるのが精一杯で、学校に行きたくても行けない子ども達がたくさんいるよ。あなたのところの子ども達も、彼らと接すると、価値観が変わるかもしれない」とおっしゃってくれました。
それで、1985年に少年達を連れてインドに行き、マザー・テレサのところでボランティアをさせていただいたのです。マザーは快く受け入れてくださいました。マザーは1979年に来日したときに、「インドには経済的に恵まれず貧困にあえいでいる人がたくさんいます。でも、日本にも貧しい人は大勢います。あなたの周りに、家庭に、学校に、職場にも。それは、自分なんてこの世に必要がない、と思っている人たちのことです」と、日本人に向けてメッセージを残していきました。
中川:
マザー・テレサに初めてお会いしたときの印象は、いかがでしたか。
五十嵐:
たいへん驚きました。小柄な方なのに、持っている雰囲気がものすごく大きくて温かくて、思わずボロボロと涙があふれ出て、泣いてしまいました。マザーは、「(ドントクライ).(泣かないで)」と言って、自室から小さいメダイ(マリア様が刻まれたペンダント)を持って来られ、それに接吻して私に下さいました。「苦しいとき、このメダイに祈りなさい。あなたの祈りは必ずかなえられる、これは『奇跡のメダイ』です」と言って。それ以来、私はこのメダイを肌身離さず持っています。こうして始まった『インド心の旅』だったのですが、当初は年に1回だったのが、参加者のリクエストに応えているうちに、年に2度、そして3度になり、今は年に6回以上行くようになりました。
中川:
インドで貴重な体験をしてきた子ども達は、その後どんなふうに変わりましたか。
五十嵐:
彼らはものすごく心を揺さぶられて帰国するのですが、残念ながら親や学校の先生は変わっていません。元のままの環境に戻って子ども達は、だんだんとまた以前と同じような生活、思い方に戻っていってしまうんですね。もちろん、大きく変化していく子もいますが…。
マザー・テレサのところでボランティアすることを学ぶ必要があるのは、子ども達よりもむしろ大人の方だと私は思いました。そして講演会に呼ばれるたびに、PTAや学校の先生、看護士さんなど医療関係の方々、福祉に携わる方々にマザー・テレサの精神を訴えていったのです。
中川:
私どもも合宿制の研修講座を毎月開催しています。そこでいい氣をたくさん受けながら、心の持ち方などを学び、感謝の生活の中で幸せに生きていきましょう、というものなのです。最近では、心の不安定な若い人たちも多く参加されるのですが、研修後に帰るとまた以前と同じようになってしまうということも多々あります。親御さんの理解がとっても大事だと言うことを痛感しています。そういうこともあって、親子一緒の受講をお勧めしているのです。
五十嵐:
私は若いとき、様々な問題を抱えた子ども達を預かって、同じ屋根の下で24時間一緒に生きてきました。ある時、「五十嵐さんに預けたうちの子が逃げ帰って来て、家で暴れているので引き取りに来てほしい」、とその子の母親から夜中の2時頃に電話がありました。「連れ帰ってくれって言ったって、自分の子供じゃないか」と思いましたが、とにかく車で駆けつけ、話を聞き、気持ちが落ち着いたところで、「さあ、帰ろう」と手をさしのべました。彼は突然、「イヤだ!」と叫び、持っていた安全剃刀(かみそり)をふりあげました。私の顔の傷はその時に切られたものです。27針縫いました。
彼は、「親は僕を問題児扱いにして、他人の家に預け、自分たちは知らん顔で相変わらずの生き方をしている。そんなことってないじゃないか」と叫んでいたのです。私は病院のベッドの中で考えました。親と子どもはこの世に出てくる前に、大きな約束をし合って出てくる。血みどろになって闘いながらも、そこから学ばなければいけないものがあるはずであり、私が何か良いことをやっているような気持ちで、安易に親子の宿題を奪ってはならないのではないかと。そんな思いに至って、預かっていた子どもを返すことにしたのです。その子が親に対して「I THIRST(アイ サースト).」(私は渇いている)と訴えていたことを私に教えてくれたのがマザー・テレサでした。
中川:
アイ サーストですか。喉が渇いている、何かを懸命に求めている、ということですか。
五十嵐:
そうです。1946年8月、イスラムとヒンズーの激しい争いがコルカタ(旧カルカッタ)で起こりました。ロレット女子修道会の、寮で生活する貧しい子ども達を守るために、マザー・テレサは食糧を求め、コルカタの街を東奔西走しました。過労がたたり持病の気管支炎が再発し、当時の管区長に静養を命じられてダージリンにある観想修道院に向かいました。その途中の列車の中で、突然マザーの目の前に現れ、語りかけてきた人がいたのです。それは十字架で息を引き取る直前のイエス・キリストでした。マザー・テレサに「I THIRST.」(私は渇いている)と語りかけたのです。
あの世に帰る時期が近いと思ったのでしょうか、マザー・テレサは1993年3月25日に遺書と呼んでもおかしくない一通の手紙を、ベナレスから「神の愛の宣教者会」のシスターの方に送りました。マザーが他界したあとに、私は偶然その遺書のコピーを見てしまったのですが、読んでいきながらハンマーで殴られたように愕然としました。自分はそれまで10年以上マザーのもとに通っていながら、何もわかっていなかったと、ベナレスからの手紙を読みながら泣きました。その手紙には、イエス・キリストのことを「Real living person(リアルリビング パーソン)」と書いてありました。1946年9月10日、マザーの目の前に現れたのは、単に聖書に出てくる想像上でのイエスではなく、本当に生きて実在しているイエス・キリストだったのです。こんなことを言っても信じていただけるかわかりませんが、マザー・テレサにとってイエスや聖母マリアは、目に見える、語ることができる、触れることができる、実在の人だったのです。その実在の語りかけに導かれて、生きたマザーはどんなに幸せだったことか…。ここまで確信が持てたら人生に何の不安もありませんよね。
中川:
そうだったのですか。啓示のような声が聞こえたり、見えたりすること、それはあると思います。
五十嵐:
手紙の中でマザー・テレサは「Shy(シャイ)」と言う言葉を使って、「私にイエスやマリアが見えて、話ができることは恥ずかしいことだ」とおっしゃっています。そうでした、マザー・テレサは最期までこのことを人に語らず、あの世に帰っていきました。
中川:
マザーの生涯にわたる、強い信念を持った活動の原点ともいえる出来事だったのですね。
五十嵐:
この時のメッセージが「貧しい人々の中の最も貧しい人に心から仕えること」として、「神の愛の宣教者会」の四つ目の誓願に加えられました。ベナレスの手紙に遺されております。『神の愛の宣教者会』は「I THIRST.」(私は渇いている)という、イエス・キリストの渇きを満たす為、その目的の為だけに聖母マリアが作られた修道会だと。

<後略>

(2006年4月12日 府中市NPOボランティア活動センターにて 構成 須田玲子)

           

5月 「鎌仲 ひとみ」さん

鎌仲 ひとみ(かまなか ひとみ)さん

映像作家、東京工科大学メディア学部助教授。91年、カナダ国立映画制作所へわたり、その後ニューヨークで活動。95年に帰国。映画「ヒバクシャ―世界の終わりに」は、国内外の300ヶ所で上映会が行われた。地球環境映像祭アース・ビジョン大賞などを受賞。今年、新作映画『六ヶ所村ラプソディー』が完成。

『毎日食べるお米が放射能に汚染されても、電気が必要ですか』

ヒバクには、「被爆」と「被曝」の2種類がある

中川:
以前、2003年9月号で鎌仲監督の撮られた『ヒバクシャ』というドキュメンタリー映画をご紹介させていただきました。その後も、核や原子力のことについては、あちこちで耳にする機会があって、今の時代の大変な問題で、だれもが真剣に考えなければならないことだなと感じるようになってきたところです。監督にお会いできるというので楽しみにしていました。
本誌でも原子力のことを連載するようになって、読者の方も関心をもって読んでくださると思います。
ぜひ、一人でも多くの人に、原子力について関心をもってもらいたいと思っています。今、日本でも原子力については、大きな転機に立たされているということを痛感しますから。
鎌仲:
その節はお世話になりました。おかげさまで、『ヒバクシャ』はたくさんの人が見てくださいました。
今回、『六ヶ所村ラプソディー』という映画を撮ったわけですが、『ヒバクシャ』はイラクという遠い国の出来事だったけれども、いよいよ私たち日本人の足もとでも、ヒバクシャが生まれてくる瀬戸際に立たされているわけです。
その情報があまりにもなさすぎます。一方的に原子力に反対するということではありませんが、今何が起こっているのか、事実を知って、それによって原発が必要かどうかを選択する必要があるという思いで、今回の映画は作りました。
中川:
ヒバクというと、二種類あるのだそうですね。『被爆』と『被曝』。原爆なんかで、外から放射線を受けるのが被爆で、放射性の物質を食べ物や空気と一緒にとってしまうことで、体内から放射線にさらされるのが被曝ですね。
チェルノブイリの原発事故でも、被爆よりも被曝による被害の方がずっと大きかった。それは当然で、放射能が四方八方に広がって、それによって被曝した人は世界中にいると言ってもいいでしょうから。
両方を合わせて、ヒバクシャとカタカナで表記しているということでいいですよね。
鎌仲:
そのとおりです。今回の映画の舞台になった六ヶ所村というのは、青森県の下北半島にある人口1万2000人ほどの小さな村です。ここが、日本がエネルギー政策として行おうとしている原子燃料サイクルの中心地になっています。
原子力発電に使うウランを濃縮する工場、原子力発電所から出る高レベルの放射性廃棄物を貯蔵したり、低レベルの放射性廃棄物を埋設したりする施設があって、それに加えて、原子炉で燃やした使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを取り出す再処理工場も稼動しようとしています。そして、このプルトニウムを燃料にして、新型の原発を動かそうという動きがあります。
もちろん、ここで大事故が起きれば大変なことですが、そうでなくても、再処理工場が動き出せば、空気中と海に放射性物質がかなりの量、ばらまかれることになります。
青森県でとれる農作物や海産物の放射能レベルが上がると県も原燃を認めています。
私たちにとって、電気は必要不可欠ですが、安全な作物や海産物と引き換えにしてもいいのかということを考える必要があると思います。
中川:
ヒバクシャというと、一般的には、広島、長崎の原爆のヒバクシャしか浮かびませんが、現代でもヒバクの危険性はあるということですね。
でも、まだ被害者が出たわけでもないし、危険だと言っても実感がありませんよね。
鎌仲:
そうなんですね。今回の映画でも、そこが歯切れの悪さとして残っています。
ただ、アメリカならハンフォードの再処理工場でどんなことが起こったかを見ればわかるし、イギリスならセラフィールドの再処理工場ですね。
『ヒバクシャ』を作るときにハンフォードを取材し、今回はセラフィールドを取材しました。
イギリスのセラフィールド再処理工場は、アイリッシュ海という海に面して建てられています。44年間稼動した結果、アイリッシュ海沿岸は、ほかの海と比べて、放射能濃度が70倍にもなっていることがわかりました。
そのことがわかって、イギリスでは、食品の放射能汚染の基準レベルを上げ、さらには『魚介類は食べなければいい』という選択をしたわけです。
日本だとそんなわけにはいきません。
少なくとも、私はコンブやワカメが大好きですから、それが放射能に汚染されてしまうということは耐えられませんね。
中川:
前回の『ヒバクシャ』と今回の『六ヶ所村ラプソディー』と、原子力関係の映画を続けて撮られているわけですが、どういう経緯から、原子力問題に興味をもたれたのですか。
鎌仲:
私は大学を卒業してからずっとフリーで映画を作る仕事にかかわってきました。
アメリカやカナダに5年ほどいて、95年に日本へ帰ってきて、NHKの番組を作るようになりました。
テレビだと、お金の心配もしなくていいし、黙っていても100万人くらいの人が見てくれます。映画だとお金集めからはじまり、上映をどうするかといったことまで手配する必要がありますので、テレビの仕事は天国のように感じました。
その当時は、医療関係のドキュメンタリーをとっていて、この雑誌で連載されている帯津先生も取材させていただいたことがありました。
98年ですが、イラクに薬を運んでいる人と出会いました。その人は、イラクでは子どもたちのがんが増えていて、薬もないので、ばたばたと亡くなっているんだと、私に話してくれました。
これは、自分の目で見て、世に知らせていかなければならないと思いました。
中川:
その原因が劣化ウラン弾にあったわけですね。
鎌仲:
そのときには、私には劣化ウラン弾の知識などまったくありませんでしたから、ただどういうことが起こっているのか見てみたいということだけでイラクへ行きました。
そしたら、がんになっているのに、病院で何の治療もされずに放っておかれている子どもがたくさんいました。治療されずに死んでいくのはとても非人道的だと思いました。
このことを訴えようと思って、NHKで『戦禍にみまわれた子供たち』という番組を作りました。
中川:
かわいそうな子どもたちがいて、そのことを知らせようとしたことから始まったのですね。徐々にその背後に劣化ウラン弾があることがわかってきてと、鎌仲さんの歩んできた道も、非常にドラマチックに展開していますね。
鎌仲:
本当にそのとおりです。
日本へ帰って来てから、いつもイラクの子どもたちのことが気になっていて、私が普通に生活している間に、子どもたちはどんどんと死んでいっているという思いが、いつも頭の中にありました。
それで、『ヒバクシャ』にも登場願った広島の医師の肥田舜太郎先生に相談したら、『それはヒバクシャだ』って言われたんですね。
ヒバクシャと言われて、私も広島、長崎の原爆ヒバクシャをイメージしました。そのときに、肥田先生からいろいろとお話をうかがって、先ほど言われた二種類のヒバクのことを知ったわけです。
中川:
劣化ウラン弾というのは、確か、ウランを原発の燃料にするために濃縮する際に出てくる燃えないウランでしたよね。
鎌仲:
ウランは、大きくわけるとウラン235とウラン238があって、235の方は核分裂が起こるので原発を燃やす原料になります。この比率を上げるのが濃縮という過程で、そのときに不要になった238が劣化ウラン弾の原料になっています。
原発の燃料にはならないけど、立派な放射性物質ですから、これが武器として使われ、放置されれば、土地や空気が汚染されて、ヒバクシャがいくらでも生まれます。

(後略)

(2006年2月15日 東京・「グループ現代」にて 構成 小原田泰久)

           

4月 「舘野 泉」さん

3月 「千葉 茂樹」さん

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