2005年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

「氣」の無料体験

最寄りのセンターやご自宅から
オンラインでもご参加可能です

ご予約はこちら
電話 「氣」無料体験のご予約はこちら
  1. TOP
  2. お知らせ
  3. 2005年

12月 「大野 勝彦」さん

大野 勝彦(おおの かつひこ)さん

1944年、熊本県生まれ。高校卒業後、農家を営む。1988年、農機具洗浄中に巻き込まれ両手を切断。入院3日目より“湧き出る生”への想いを詩に託す。さらに2ヶ月目には、その喜びを水墨画に表現。退院後、全国各地で講演会、詩画の個展を開催。第9回熊本現代詩新人賞、熊本日日新聞社「豊かさ作文コンクール」グランプリ受賞など。詩画集は『そばにいた青い鳥―失って見えてきたもの』『やっぱ いっしょが ええなあ』など多数。2003年、阿蘇長陽村に「風の丘 阿蘇大野勝彦美術館」開館。2004年、3000回記念講演会「ありがとうがいつか笑顔になった」を米国ロサンゼルスで開催。2005年9月大分県飯田高原に「風の丘 大野勝彦美術館」をオープン。

『両腕を失って気づいた、優しさ、温もり…』

阿蘇に美術館、2年間で5万人の来館者が

中川:
知人から大野さんの詩画集を見せてもらったのですが、そのいきいきとした生命力溢れる絵と詩に感銘しました。それで、是非お目にかかりたいと思ったのです。私共の熊本センターが辛島町にあるのですが、そこから車で1時間半ほどでした。
大野:
稚拙な絵ですが、その中の「ニコニコ」と「ありがとう」を感じとってもらえれば嬉しいと思っています。ここ(美術館の玄関前)の正面は何も遮るものがなく、ほら、どこまでも見渡せるでしょう。阿蘇の外輪山がここだけ切れているのですよ。この地から下の熊本市の方に水が流れて行っています。
ずっと向こうにポールがあり青い旗の下に黄色い三角の旗が見えますか。あの旗が揚がっているときは、私が在館しているという合図です。そのときは、ここにいらした方に無料で20分ほどの講演をしているんです。もう、500回以上喋りましたよ。
中川:
ずいぶんたくさんの方が来館されているのですね。駐車場も広くて、先程も観光バスが止まっていました。素晴らしい眺めですね。広々として、花がとても綺麗で、いやぁ、本当に気持ちがいいです。これだけ広いのに、館内も外周りも良く手入れがされていて、感心しました。
大野:
美術館を建てたのは2年前ですが、今までにお蔭さまで5万人を超える方がいらしてくれました。敷地は約12000坪あります。この美術館を建てたいと言ったときには、知人友人など周りの人たちは皆、「止めた方がいい」と反対でした。建物を創るのもひと仕事ですが、運営していく事、これは並大抵のものではありませんから、皆さんはそれを心配して言ってくれたのです。
中川:
ここに美術館を建てようと決心されたのは、どういういきさつだったのですか。
大野:
これから追々お話しますが、私は45歳のとき事故で両腕を失ってしまったのです。群馬に星野富弘さんという方がいらっしゃるでしょう、入院中、あの方の著書『風の旅』に出合って、溢れる優しさに慟哭しました。そこから私の『風の丘 大野勝彦美術館』が生まれた気がします。
中川:
星野さんの詩画集は、私も何冊か見たことがあります。体育の先生をされていて、授業中にマット運動の模範演技を生徒さんたちに見せているときに、誤って頭から落ちて頚椎を損傷され、首から下の全身麻痺になった方ですね。その後、口に絵筆をくわえて詩画を描かれるようになって、地元に美術館も建てらたのですね。
大野:
そうです。それで、私は星野さんに是非お逢いしたいと思ったのですが、妻が「今のあなたでは逢ってくれませんよ。向こうから断られますよ」と言うのです。それならば、何とか星野さんに逢ってもらえるような人になろう、と一生懸命に生きてきました。
そうしたら、4年後に星野さんが熊本にお出でになり、逢ってくださったのです。そのときに、「あなたの夢は何ですか」と訊かれて、「阿蘇に美術館を建てることです」と答えてしまった。それが美術館建設のきっかけです。
中川:
そうですか。そのとき「断られるだろう」という状況だったのをバネにして、今の大野さんがあるのですね。いっけんマイナスのことをプラスに転換させられたということですね…素晴らしいです。
大野:
2年前に美術館をいよいよ建築しますと発表したら、全国の仲間達が猛反対しましてね。そこで、私は2月3日が誕生日なのですが、その日に私の葬儀をしました。お坊さんにお経もあげてもらって。その葬式の最後に挨拶に立って「今日は生前葬ですが、いつか本物のこの日が必ず来ます。その時、後悔したくありません。お香典はお返しします。どうか、お心だけはお寄せください」と、美術館をどうしても建てたいのだということを参列してくださった皆さんにお伝えし、応援をお願いしたのです。
私の決意を受け止めて、実に多くの方が「大野に美術館を建てさせてやりたい」と思ってくださり、本当に不思議なことがいっぱい起こって、実現したのです。自分は理屈っぽいけれど、その現象は自分の解釈では追いつかんのですよ。
中川:
思いはエネルギーですから。いろいろな方の思いの応援があったのでしょうね。美術館の建設は、ご家族の方もさぞ喜ばれたことでしょう。
大野:
ええ、とても喜んでくれました。でも、残念ながら父は完成を見ずに亡くなってしまいましたが。父は、あの事故のとき、私の切れた腕をタオルで結び、救急車に裸足で乗り込んで…。父は、心労で数日の間に7キロも痩せてしまったんです。もともと50㎏くらいしかなかったのに。どんな思いだったかと考えると、たまらんです。後で親孝行をしよう、後でありがとうを言おう、そう思っていたのですが、今日がその最終日…そうじゃないですか。

(後略)

(2005年8月30日 『風の丘』阿蘇大野勝彦美術館にて 構成 須田玲子)

           

11月 「白石 康次郎」さん

白石 康次郎(しらいし こうじろう)さん

1967年東京生まれ。海洋冒険家。26歳で単独無寄港世界一周を最年少で成し遂げる。2002年には高校時代からの夢でもあった世界一周ヨットレース「アラウンドアローン」に出場。第4位という好成績を上げる。現在、2006年の世界一周を目指して準備を進める一方で、子どもたちに自然の楽しさや冒険の喜びを伝えるという活動も行っている。「僕たちに夢と勇気を…冒険者」(宝島社)、「アラウンドアローン」「七つの海を越えて」(以上文藝春秋社)などの著書がある。

『夢は、できるできないで決めるものではなく、やりたいかやりたくないかということが基準だと思います。』

高校時代にヨットで世界一周をするという夢を抱く

中川:
白石さんは、冒険家としてヨットで世界一周をされていますが、たった一人でヨットを走らせるというのは、私には想像もできないことですね。
いろいろと危険なことも多いでしょうが、どうしてまたヨットを始めようと思われたのでしょうか。
白石:
小さいころから海や船が大好きで、船で世界一周をしたいと思っていました。父が、横須賀港へ連れていってくれて、そのときに『陸の上でちまちま仕事をするよりも、海や空、こういう広い世界で仕事をするようになれよ』と言った言葉が忘れられないですね。どうせなら世界一周をしようと、そのとき思ったのを覚えています。
その思いが高じて、水産高校へ進学しました。そこで、船や海のことを勉強したかったのです。ヨットに乗る機会もあって、なんて素晴らしいんだと感動しました。
そのあたりから、ヨットにのめりこんでいきました。
中川:
素晴らしい師匠との出会いもありましたよね。
白石:
高校2年のときに、第一回目の世界一周ヨットレースが開催されました。『アラウンドアローン』という単独で世界一周を走るヨットレースです。4年に一度行われるレースで、車で言えば、パリ・ダカのような非常に過酷なレースでいす。約5万キロ、8ヶ月にもわたるレースですから、何が起こるかわかりません。
このレースで、日本人の多田雄幸さんが優勝しました。それを知って、『俺もやってやろう』と奮起したわけです。
でも、どうすればいいのかわからないから、多田さんにいきなり電話をして弟子入りを志願しました。
高校を卒業すると、目標は世界一周ヨットレースですから、就職もせず、多田さんのレースにクルーとして参加したりして、ヨットの腕を磨いてきました。
中川:
高校生のときから人生の目標が定まるというのはすごいことですね。そして、いい師匠にも出会えた。ここまでは順風満帆ですが、ここからいくつもの挫折を味わうことになるんですよね。
白石:
そうなんですよ。第3回のアラウンドアローンのとき、レース中に多田さんが亡くなってしまいました。寒い寒い南氷洋で何度も船がひっくり返ったり、無線が通じなくなったりといったトラブル続きで、第二の停泊地であるシドニーに着いたときにはすっかり意気消沈していました。結局、シドニーから出発することができず、棄権してしまいました。僕は、『日本に帰りたくない』という師匠を残して帰国しました。その後、しばらくして、師匠が自殺したという知らせが届いたのです。
ショックだったですが、僕には世界一周という夢がありましたから、師匠のヨットを修理し、そのヨットで、自分がアラウンドアローンにのぞもうと決めました。
中川:
それで、いよいよ世界一周に挑戦するわけですね。最年少で単独無寄港世界一周とか、念願のアラウンドアローンにも出場して4位に入りましたよね。紆余曲折はありましたが、とてもいい感じで進んできていますよね。
白石:
そんなことないですよ。冷や汗をかくような大変なことの連続でした。師匠の船を修理して世界一周に挑戦したはいいけど、二度も失敗したわけです。みんなに見送られて港を出たのに、のこのこと帰っていくみじめさ。
自分がみじめというより、造船所の親方はじめ、協力してくれたみなさんに申し訳なくて。僕があやまってすむ問題ではないですよ。あれこれ言われるのは親方ですから。
中川:
それはそうですね。白石さんの責任の範囲を大きく超えてしまっているわけですね。それこそ、ヨットを続けていけるかどうかというピンチだったわけですね。
その後のご活躍を聞くと、みじめだったことが見えなくなってしまいますが、そういうピンチというのは、後から考えると、飛躍のきっかけになったりすることがよくあります。白石さんの場合はいかがでしたか。
白石:
確かに、失敗から学ぶことの方が多いですね。成功からはあまり学ばない。成功して何を学んだかといわれても、ただ『よかったね』だけですよ。
失敗から学ぶには、まず失敗は自分の責任だと思うことです。そうじゃないと、何度も繰り返してしまいます。
失敗したのは、何かいけないことがあったからですよ。客観的に見て何がいけなかったのか、分析しなければいけないですね。

(後略)

(2005年7月19日 白石さんが所属する東京・銀座にある㈱スポーツビズにて 構成 小原田泰久)

           

10月 「相田 一人」さん

相田 一人(あいだ かずひと)さん

1955年栃木県足利市生まれ。相田みつをの長男。出版社勤務を経て㈱而今社を設立。平成8年東京銀座に「相田みつを美術館」を開館。平成15年東京国際フォーラムに美術館移転。現在「相田みつを美術館」館長。『いちずに一本道 いちずに一ッ事』『雨の日には…』『しあわせはいつも』『生きていてよかった』などの編集、監修に携わる。著書に『書 相田みつを』(文化出版局)『父 相田みつを』(角川文庫)などがある。

『感動を持って生きる「一生勉強一生青春」』

突然脳出血で父逝去、30代で後を…の共通点が

中川:
先日、この相田さんの美術館内でダライ・ラマ法王生誕70年を祝し、平和を記念して砂曼荼羅が制作されたのですね。その様子を、本誌専属ライターの須田が取材させていただきました(と、本誌9月号をお渡しする)。
相田:
昨年、国際フォーラムで龍村仁監督の映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』が上映されまして、その折に監督が『相田みつを美術館』を訪れてくださって、お目にかかりご縁ができました。
中川:
龍村仁監督には、本誌のこの対談の欄に何度もご登場いただいています。弟さんの龍村修先生には、私共の真氣光研修講座の専任講師として開講当初から大変お世話になっております。
相田:
そうでしたか。龍村監督から砂曼荼羅のお話がありまして、私共は個人美術館なので、そういう企画は初めての試みだったのですが。大勢の方々にご来場いただきまして、本当に良かったです。
中川:
美術館は、以前は銀座にありましたよね。
相田:
はい。父は自分の作品のための施設のようなものは建てなくても良いと言っておりました。「世の中に必要なものだったら、残っていくのだし、どんなに残そうと思っても、必要とされていないものだったら消えてしまうのだから」と。それで、私もはじめは考えていなかったのです。
でも、父の亡くなった後に、全国で遺作展をしましたら、見にいらしてくださった方々が皆さん、「常設の場所はどこですか」「どこに行けば、作品を見られるのですか」と訊ねられるのです。それで、そういう場所が必要かなと思うようになりまして。
郷里が栃木県足利市ですので、本来はそこがいいのでしょうが運営上のことを考えますと、やはり地の利を得ないと無理だろうと。谷間から発信しても高いところにぶつかってうまく伝わりません。それで、東京という高い所から情報を発信していこうと思ったわけです。銀座には画廊がたくさんありますから、私も幼い頃からよく父に連れられて銀座を訪れていました。そういうこともあり、銀座がいいかなと思いまして。開館したのは9年前です。
お蔭様で、たくさんの方にいらしていただいて、そこは300坪ほどでしたが、そのうちに手狭になりまして、どうしようかと考えていたのです。ちょうどそのときに、こちら(東京国際フォーラム)のお話があり一昨年に移転しました。ここは700坪ほどあります。
中川:
お父様は、いつ亡くなられたのですか?
相田:
91年12月です。ある日突然、脳内出血を起こしまして、67歳でした。書家は70代からとも言いますから、父はこれからというときに、しかも新しいアトリエの完成を目の前にして亡くなってしまいました。ですから、父の作品に「一生勉強 一生青春」とありますが、その通りの人生だったと言えるでしょう。私はこんなに早く父の死に遭うなどとは夢にも思いませんでした。私が36歳のときでした。
中川:
そうだったのですか。私の父も95年12月に脳の血管が切れて亡くなりました。同じ年の3月にも倒れたのですが奇蹟的に復帰して、それまでもずっと氣の普及に努めていましたが、復帰してからの半年間は特に、「起こることには、すべて意味があるのだ」ということをしきりに言うようになりました。
今振り返ると、深い潜在意識でというのでしょうか、父は自分の死を知っていたのでは、とも思えるのです。そして、いい氣を取り入れながら意識を高めていくことの大切さを伝えて、59歳で逝ってしまいました。私は翌月に35歳になるときでしたから…何だか相田さんと似ていますね。

(後略)

(2005年8月18日 「相田みつを美術館」にて 構成 須田玲子)

           

9月 「池間 哲郎 」さん

池間 哲郎( いけま てつろう)さん

1954年沖縄生まれ。NGO沖縄アジアチャイルドサポート代表理事。主に、アジア(ベトナム、タイ、フィリピン、カンボジア、モンゴルなど)のゴミ捨て場やスラムなどの貧困地域へ足を運び、そこで見た貧しい人々の過酷な現状や今日を必死で生きる子どもたちの姿に心を動かされる。私たちの「少しだけやさしい心」で、いかに多くの人の命が救われるか、講演、写真、ビデオを通して伝えている

『一番大事なボランティアは、自分自身が一生懸命に生きることです。』

必死に生きる子どもたちの姿に涙が止まらなかった

中川:
池間さんの『あなたの夢はなんですか? 私の夢は大人になるまで生きることです』という本を読ませていただきましたが、最後の方は涙が出て止まりませんでした。本当に大変な思いをしている子どもたちがいるんだなあと、心にずきんときましたね。
この本も池間さんの活動も、多くの人に知っていただきたいと思って、ぜひ対談をとお願いした次第です。いろいろとお話を聞かせてください。
池間:
ありがとうございます。
私は氣のことに関しては素人ですが、氣は間違いなく存在していると思っています。人間は、生きている以上、氣を発するし、氣を受けているはずです。やさしさというのは氣なんじゃないかと思いますね。
今日は、氣のことをいろいろお聞きできると思って、私も楽しみにしています。
中川:
そう言っていただけると光栄です。
私は、心や魂から氣が出ていると考えています。自分が楽しくなれば相手も楽しくなるし、相手が楽しくなれば自分も楽しくなります。これは、氣の影響だと思います。氣は持ちつ持たれつ、与えるばかりでなくもらうこともあって、氣の交流が起こり、お互いに成長していけますね。
ところで、池間さんはもともとビデオ制作の会社の社長さんだそうですが、何がきっかけで海外の子どもたちを撮るようになったのでしょうか?
池間:
話せば長くなるのですが(笑)、私自身のおいたちとも関係があるんですね。
私は沖縄の生まれですが、沖縄の人たちは、本土の人たちにはわからないような体験をしています。貧困があって、戦争では局地戦があり、目の前で家族や友人が殺されていくのを見ています。
そして、何よりも差別がありましたから。アメリカ人からの差別を体で感じていました。
そんなこともあって、差別に対する疑問とか憤りというのは、人並み以上にありました。発展途上国と呼ばれている国々には今も差別があります。そうした国々の差別に対する問題意識は持っていました。
それが大きく膨らんだのは、台湾へ行ったときのことです。売春問題を取材することがあったのですが、そのときに、売春婦の中に10歳にもならない子どもがいるのを知って、これは大変なショックでしたね。
いろいろと調べていくと、彼女たちは山岳民族だとわかりました。差別されている人たちだったのです。それを知って、かつての自分たちの姿とダブりましたね。
でも、そのときは、ここまでのめりこむとは思ってもいませんでしたが(笑)。
中川:
人生というのは、何がきっかけになって大きな変化が起こるかわかりませんね。
池間さんが、今の活動をやっていくことを決断した決定的なことって何だったのか、すごく興味ありますね。
池間:
私のおやじは警察官なんですが、私はおやじに2回捕まるほど、若いころは無茶をやっていました。へたに空手をやっていたものだから、いつも血だらけ。
暴れるばかりで、何をするにもいつも中途半端で、人生を大切にしてなかった。
そんなときに、フィリピンのゴミ捨て場へ行ったわけです。そしたら、3歳、4歳の子どもたちが朝から晩までゴミを拾っていた。もともと映像屋だから、その姿が目に焼きついてしまった。ツメがはがれているとか膿が出ているとか。血だらけ、傷だらけ…。
ふと、こんな小さな子どもがここまでして必死に生きているのかと、胸がいっぱいになってきました。ゴミの中で泣いていましたね。
自分が恥ずかしくなった。一生懸命に生きないと、この子たちに失礼だ。大切なのは真剣に生きることだと気づいた。
そう思ったら、その子たちの命がとても大切になってきた。自分が生きると決めたとたん、その子たちの命が大切に見えてきたんですね。
中川:
そこで出会った少女に、『あなたの夢は何ですか?』って聞いたら、『私の夢は大人になるまで生きることです』っていう答えが返ってきたと本には書かれていましたね。
世界中で、一日で4万人くらいの人が、貧しさのために亡くなっているそうですね。それもほとんど子どもでしょ。
大人になるまで生きるっていうのは、当然のことのように思ってしまうけど、ゴミの山で暮らしている子どもたちにとっては、大人になることが夢なんですね。
日本で暮らしていると想像もできないすさまじい世界ですよね。

<後略>

(2005年7月5日 SAS東京本社にて 構成 小原田泰久)

           

8月 「興梠 義孝」さん

興梠 義孝(こおろぎ よしたか)さん

1935年宮崎県生まれ。1960年佐賀大学教育学部美術科卒業。高等学校の美術教諭を経て1970年渡米。1972年ミネソタ州ガステバス大学客員教授。1975年東ロサンゼルス大学講師。その後ハワイに移住しハワイ大学講師、ハワイアートアカデミー教授、ハワイ美術院展副理事長、ハワイ日本文化芸能連合会理事・事務長などを歴任し、現在日米交流芸術協会理事長。染色画・アクラス画で日展、光風会展、ハワイ州美術展、日仏現代美術展などに数多く入選・入賞。染色家・画家。

『美術作品を通し日米交流を続けて35年』

美術作品を通し日米交流を続けて35年

中川:
はじめまして。「興梠」の二字で「こおろぎ」さんとお読みするのですか。珍しいお名前ですねえ。
興梠:
ええ。皆さん首を傾げて「ヨロ、キョウロ、オキロ…あれぇ?何と読むのですか?」、と訊ねられます。「コオロギです」と答えるでしょう、そうすると「ご冗談でしょう」と笑って、「本当の読み方を教えてくださいよ」と(笑)。
小学生の頃だって、よくからかわれました。音楽の時間に唱歌『虫の声』で「あれ、コオロギが泣き出した」のところになると、悪ガキたちが力を込めて大合唱するんです。興梠は泣きたくても泣けなかったのです。
中川:
ハハハ、それはお気の毒でした。ご出身は宮崎だそうですが、郷里には多いお名前なのですか。
興梠:
私の出身は、宮崎県でも熊本のすぐ近くの五ヶ瀬町というところです。「興梠」姓は、宮崎県の高千穂地方に500世帯、県外、国外を合わせても550世帯くらいだそうです。猿田彦命の道案内で高千穂に着いた渡来人を迎えた土地の豪族が、興梠一族だったようです。梅原猛さんの著書『天皇家のふるさと日向をゆく』には、「興梠の里」「興梠山」「興梠の 内裏」と、「興梠」がたくさん出てきます。
中川:
それは、高貴なお名前なのですね。興梠さんは、歴史もお詳しいようですね。
興梠:
歴史は大好きです。何故だろうと不思議に思うことをいろいろと調べるでしょう。そうすると、知らなかった史実が次々と分かって興味は尽きません。今は絵を描いていますが、もっと年をとったら、郷里の歴史や今まで訪ね歩いたアメリカやハワイ、メキシコ、フランスなどの歴史の話を書いてみたいな、と思っています。でも、文章力が無いのが残念です。
中川:
いえ、いえ、興梠さんがお書きになったエッセイをいくつか読ませていただきましたが、とても面白かったです。ところで、興梠さんは、随分前にアメリカに渡り、今はハワイに住んでおられるそうですが、最初はどういうきっかけだったのですか?
興梠:
JALがシアトルに飛んだのが1968年なんです。そのときの記念飛行に文化使節として11人が搭乗し、シアトルやロサンゼルスで展覧会を開きました。私もその中の一人だったのです、アクラス画家、染色家としてですね。翌年の夏休みにも渡米して展覧会を開催し、そのまた翌夏に行こうと思ったら、県から「国内ならいいけれど、毎年、海外に研修に行くのは認めない」と言われましてね。当時、県立高校で美術教員をしていましたか
中川:
アクラス画というのは初めて聞きましたけれど、どういうものなのですか。
興梠:
ガラスは割れますから大きな絵は描けません。それで細かいガラスをつなげてステンドグラスが発達しました。アクリル板なら割れないから大きな作品も可能です。それで、アクリルとガラスをつなげて「アクラス画」と呼んでいるのです。完成する絵の裏返しの絵をアクリル板の裏側に描いていくので、ちょっと特殊なんです。でも、展示した絵は汚れませんし、色も褪せません。表面を拭くことだって出来ます。こういう技法で描いているのは、日本に3人くらいしか居ないのではないでしょうか。
中川:
今ほど航空事情も便利ではない35年以上前に、地球の裏側までいらしたのは一大決心だったことでしょう。しかも、県立高校教諭という安定した職を辞していかれたのですから。
興梠:
渡米するときは送別会が開かれて宮崎県知事も出席してくださり、まるで水杯を交わす感じでした。渡米してからは、サンフランシスコやロサンゼルス、ミネソタ、シカゴ、ニュージャージーなどで展覧会を開いたり、大学の客員教授や講師として絵を教えるかたわら、メキシコなどにも足を伸ばして、アチコチ放浪しました。
中川:
いろいろな珍しい経験もなさったことでしょうね。
興梠:
ええ、行く先々で興味深い体験をしました。例えば、メキシコ市からバスで6時間ほど北上した標高4千メートルのガナハトという街の外れの教会には何体ものミイラが展示されていました。ミイラというと、骨、皮、筋だけになった怖い様相のもののように思われがちですが、そこのはそうではありませんでした。
帽子を被ったり服を着たり靴を履いた者もあり、壁に寄りかかったり座っていたり、老若男女さまざまで、ふっくらとして人間そのままでした。今でも教会の墓地の永代供養代が払えない人は、亡くなった後もミイラになって観光客からお金を稼いでいるそうですよ。
メキシコには、350年前に支倉常長に連れて来られて彼の地で死んだ人たちの墓もありました。彼らは、伊達政宗の命令でローマに行き途中メキシコに寄ったときに亡くなったのですね。彼らの墓はみんな日本の方に向いて建っていました。望郷の念を抱きつつ異国の地で亡くなった同胞の御霊を慰めるためなのでしょうね。伊達政宗は、東北の金銀だけではなくて、メキシコの金銀とスペインをバックにして徳川倒幕を考えていたのではという説があるのですが、これらの墓は、それを裏付ける一つの資料といってもいいでしょう。また、メキシコの南部のアオハカというところの古いカトリック教会の壁画には、長崎で処刑された二十六聖人の像が描かれているんですよ。歴史を調べると、いろいろなつながりがあることが分かり驚きます。
中南米の人たちは人懐っこくて、酒を呑み交わして肩を抱き合い歌い踊って…。中には、当時私の住んでいたロサンゼルスのアパートに、ある日突然「お前とまた呑みたくなった」と、5日もかけて車で訪ねて来た人さえいました(笑)。

<後略>

(2005年6月1日 SAS東京本社にて 構成 須田玲子)

           

7月 「川嶋 朗」さん

川嶋 朗(かわしま あきら)さん

1957年東京都生まれ。北海道大学医学部卒業後、東京女子医大へ。93年~95年、ハーバード大学へ留学。2003年より、東京女子医大附属青山女性・自然医療研究所自然医療部門責任者。東京女子医大助教授。

『足の腫瘍が統合医療へ、難聴が真氣光へ導いてくれたと思っています』

床屋さんの白衣を見ても泣き出す子だった

中川:
ご無沙汰しています。先生には、ハイゲンキマガジンにも、『ホンネTalk』というコーナーで連載していただいていましたが、会員さんにはとても好評でした。
今、統合医療とか代替療法ということで、医療の世界も大きく変わっていますが、先生はその旗手として雑誌のインタビューなどでよくお見受けします。
真氣光のことを理解していただいているドクターが、医療の最前線で活躍されているのを拝見すると、とても頼もしいし、心強いし、嬉しくなってきます。
川嶋:
ありがとうございます。私にとっても、真氣光は自然医療をやっていくきっかけになってくれた存在ですから、とても大切に思っています。
大学病院勤めですので、いろいろとしがらみもありまして。連載も、もっと続けたかったのですが…。
中川:
このクリニックは間もなく1年ですよね。クリニックというより、すてきなサロンで、照明も間接照明でとても落ち着いていますし、このフカフカのソファ。ここに座って患者さんは先生とお話するのですか。快適すぎて、眠ってしまいそうだなあ(笑)。
川嶋:
いろいろと凝りましたよ。デザイナーに相談したり、家具も一流のものを探したり。これまでの病院とは違ったイメージにしたかったですから。
中川:
病院というのは、ある決まったイメージがありますよね。消毒液の臭いがして、お医者さんや看護師さんが、忙しそうに走り回っている。
急患の人もいるだろうし、容態が急に悪くなる人もいるでしょうから、ゆったりもしていられないのでしょうが、ここに座っていると、どこへ来ているんだろうと戸惑ってしまいます。
それに、先生はいつもこの格好で診療されているのですか。白衣は着られないのですね。
川嶋:
白衣が苦手なんですよ(笑)。子どものころからそうでした。
床屋さんの白衣を見ても泣き出すような白衣嫌いの子でした。どうしてだかわかりませんが、嫌いでしたね。
だから、自分も着ないですね。
いかにもお医者さんと患者さんという関係ではなく、今日、会長が座ってくださっている感じで、気楽にやりましょうという付き合いがしたいんですね。
患者さんも本音を言い、僕も本音が語れたら、お互いがより深くわかり合えるようになりますよね。そしたら、みんながもっと健康でいられるのではないかと思うんですね。
中川:
そうですよね。氣の通い合いがないといい診療はできないと思います。お医者さんに遠慮していたり、緊張していたりすると、氣の流れが滞ってしまいますね。
ここでこうやってリラックスして、先生の笑顔を見ながら、お話をしているだけで、氣が通うのだと思います。
だから、特別な治療をしなくても、お話をしているだけで良くなっていく人もたくさんいるんじゃないですか。
川嶋:
その通りですよ。初診で1時間、再診の方で30分ほどお話しますが、お話だけで良くなっていく方も多いですよ。
これも氣の治療だなと思っています。
中川:
最高の氣の治療ですよ。このクリニック全体にもとてもいい氣が流れているし、ここへ来て、先生とお話するだけで元気になれますね。

<後略>

(2005年4月26日 東京女子医科大学付属 青山自然医療研究所クリニックにて 構成 小原田泰久)

           

6月 「石井 光」さん

石井 光((いしいあきら)さん

東京生まれ。東京大学大学院法学研究科博士課程を修了。現在、青山学院大学法学部教授。犯罪学、犯罪処遇、少年非行の教鞭をとる傍ら、国際内観学会実行委員、日本内観学会副会長、「自己発見の会」常任理事として、オーストリア、アメリカ、カナダなどでも内観研修会を催し、日本で生まれた内観を世界各国に広める。著書に『一週間で自己変革、「内観法」の驚異』(講談社)、『子どもが優しくなる秘けつ』(教育出版)など多数。

『石井光先生の「内観」と光を学べる研修講座は最高です』

子どもが優しくなるのには、まず先生が

中川:
石井先生の最新のご著書『子どもが優しくなる秘けつ ―3つの質問(内観)で心を育む』を拝読させていただきました。「子どもが優しくなるにはまず先生が優しくなる必要があるのではないだろうか」と書かれてあって、あぁ、いいなと、とても共感しました。
石井:
この本は、かなり気合いを入れて書いたのですよ(笑)。というのは、一人の先生がこの本を読んで内観を学び、教室で実践してくだされば、何十人、何百人の子どもたち、学生たちの人生が変わっていくからです。
中川:
そうですね。氣も同じことがいえます。学校の先生がプラスの氣である真氣光をたくさん受けて変わっていくと、子どもたちにその氣が伝わって良くなっていきます。家庭でも、親御さんが氣を充電していただくと、お子さんが変わっていきます。石井先生のお書きになっていらっしゃることに、あぁ、一緒だな、いいお話だな、と嬉しく思いました。「かなり気合いを入れて」、ということですから、いっぱい氣が入っていて、読者の皆さんに内容と共に氣も伝わっていくでしょう。素晴らしいことです。
石井:
ありがとうございます。学校の先生が子どもの心を理解せずに自分の価値観をおしつけ、思い通りに相手が動かないと感情的に怒っていたのでは、子どもが優しくなるのは難しいですね。そこをわかっていただきたいと思いまして。
中川:
今は教育現場で多くの問題や事件が起きていますので、出版社の中で、学校教育に内観が必要だと思われた方がいらして、石井先生にこういう本を書いていただけませんかというお話があったのでしょうか。
石井:
そうなのです。編集者が企画を立てて私のところに訪ねて来てくれたのですが、その人はかつて私の授業に出て、記録内観も経験しているんですよ。教育の中に内観を取り入れたらという提案をして、多くの先生方の目に触れるようにしたいという願いが彼の中にありまして、私もそれは素晴らしいと思いましてね。
中川:
石井先生には、生駒の真氣光研修講座で毎回、内観を中心のご講義をしていただいていますが、読者の皆さんに、ちょっと内観についてご説明いただけますか。
石井:
内観というのは、自分の身近な人に対して3つの簡単な質問の答えを探すことによって、自分を見つめる、つまり「内を観る」方法です。1つ目は「していただいたこと」、2つ目は「してさしあげたこと」、そして3つ目が「迷惑をかけたこと」です。この3つを、相手を特定して、小学校に上がるまで、小学生のとき、中学生のとき…というように、年代を区切って観ていくのです。
集中内観というのは、1週間というまとまった時間をとり、朝起きてから夜寝るまで、集中して、この3つの質問に取り組んでいく方法で、内観の基本的なかたちです。内観を行っている間は、ときどき訪れる面接者に自分の気がついたことを報告していくだけで、内観者同士では会話をしません。
内観で思い出したことを他の人に口頭で報告するのではなく、ノートや日記帳に記録していくのが、記録内観です。他には、1日内観、週末内観、集団内観、電話内観などがあり、この頃はパソコン内観なども行われるようになりました。このように、いろいろな方法がありますが、いずれの場合にも、質問は先ほどの3つです。

<後略>

(2005年4月8日 奈良県生駒市・真氣光研修所にて 構成 須田玲子)

           

5月 「龍村 修」さん

龍村 修(たつむら おさむ)さん

1948年兵庫県生まれ。早稲田大学文学部卒業。1973年求道ヨガの世界的権威、沖正弘導師に入門。内弟子幹部として世界中で活躍。85年導師没後、沖ヨガ修道場長を経て、94年龍村ヨガ研究所を創立。現在、龍村ヨガ研究所所長、国際総合生活ヨガ研修会主宰。著書に『深い呼吸でからだが変わる』(草思社刊)『生き方としてのヨガ』(人文書院刊)。

『真のヨガと真氣光を学べる研修講座は最高です』

精神的なものを重視する龍村先生のヨガを

中川:
龍村先生には、真氣光研修講座が伊豆の下田でスタートした当初からご縁をいただいていますから、もう15年以上になります。随分長い年月になりました。いつも有り難うございます。
先生のご著書もたくさんの方に読まれていて、また最近は新聞や雑誌などの取材も多いようですね。『日経ヘルス』には何回も連載されていますし、先日、家内が『家庭画報』の冊子を見ていたらカラーページに先生が写真入りで大きく紹介されていて、「あら、龍村先生!」と驚いていました(笑)。
龍村:
ええ、お蔭様で、月刊『ハイゲンキ』に連載させていただいたものをベースにしてまとめた『生き方としてのヨガ』も2001年に発刊されてコンスタントに読まれていますし、相次いで同じ年に草思社から出版された『深い呼吸でからだが変わる』は4年間で10刷されて売上は32000冊と、随分好評をいただいています。これがひとつの機となって、取材依頼が毎月のように寄せられるようになりました。
『日経ヘルス』からは、去年の夏に釈由美子さんが私のヨガの指導を受けるという形での取材があり、その後、1年の連載が決まって、今年の4月号で6回連載したところです。イラストレーターや、編集の人、カメラマン、ライターと、いつも3、4人で取材にみえて、お金を払って一生徒として私の講座を受講されています。「腹式呼吸をすると腸が動きますよ」と言ったら、「ホントですか?」と大学の研究所に行って、バリウムを呑んで、その動きの科学的データをとったりしているんですよ。大学の教授が「腹式呼吸って、こんなに効果があるの!」と、びっくりしていたりね(笑)。
中川:
最近は、ヨガがブームで、スポーツジムやカルチャースクールなどでも、たくさんヨガ教室が開かれているようですね。身体の健康法として。でも、いろいろとヨガと呼ばれるものがある中で、先生のなさっておられる沖ヨガは、身体を通して心の持ち方を学ぶというところで、真氣光と方向が同じでマッチしていますね。
龍村:
今、世の中は「アンチエイジ」が求められています。老化を遅らせて、肉体的に年より若くいたいという欲求です。それで、美しくなるためのヨガ、痩せるためのヨガ、などと銘打った、エクササイズとしてのヨガがはやっています。でも、ヨガは3千年も4千年も昔からあるのです。そんな頃に、痩せたい、なんていう需要はあったでしょうか(笑)。
ヨガは体操のように見えることをするものだから、多くの人はそのことに目を奪われて、身体のために行っていると思ってしまうようです。「私は身体が硬いからヨガはちょっと…」などと、「私はヒジを痛めているので、ちょっとテニスはできない」というのと同じように使っています。
ヨガの本来の意味は、「神と結ぶ」ということなのです。自分と神を結ぶ行為なのですから、宇宙と一体になるというような感覚が出てくるのです。ポーズはあくまでも、ひとつの手段なのです。自然法則、宇宙法則に気づく、そのための手段ですね。
日本には奈良時代からヨガは伽(ユガ)として入ってきていますが、今流行のヨガはインドから伝えられたものです。地域によって発達の仕方が違っていました。大雑把に言うと、北部は昔からの伝統的な行を通してですが、南部の系統はシステマティックなポーズの修得法が特徴です。A、B、C… というように段階がはっきりしていたために、欧米人に受け入れられやすかったようです。
中川:
身体も使って健康に良さそうですし、ヨガのポーズが、欧米の方たちに東洋的で神秘的に感じられたのでしょう。
龍村:
そうですね。それまで日本には北部系のヨガしか入ってきていませんでしたが、1980年に私の師匠である沖正弘導師が、東京、大阪、名古屋で「ヨガ世界大会」を開催し、北部と南部の両方を紹介指導されました。この南部系のヨガが欧米社会の中心に広まっていって、精神性や瞑想よりはエアロビックのような要素が強くなっていったのが、この頃、女優さんも取り入れているということで人気になっているパワーヨガです。
南部系を基本としたものは、1から10までポーズが決まっていて、連続して行うと2時間もかかります。それを全部通して行ってから、はじめて身体を休めるポーズに入るのですが、これは一般の方にはとてもできません。それでヨガ指導者たちは独自に、幾つかのポーズを組み合わせてバリエーションを決めて教えているようです。
私の指導するヨガの基本は、一つのポーズを行った後は身体を休め、鎮める。動と静ですね、動きの後には緩める。本来は身体を動かしていても、それは「冥想」なのです。呼吸と身体と心、意識を一体化していく。そうしていって徐々に冥想の準備をしていくわけです。呼吸と動作は切り離せません。一緒に行います。パワーヨガも指導させてもらっていますが、修正法を入れた独自の内容で行っています。

<後略>

(2005年3月17日 奈良県生駒市の真氣光研修所にて 構成 須田玲子)

           

4月 「荒 了寛」さん

3月 「三橋 國民」さん

三橋 國民(みつはし くにたみ)さん

大正9年、東京・町田市生まれ。造形美術家。昭和16年に応召し、昭和21年西部ニューギニアで重傷を負いながらも、分隊員40人中ただ二人の生き残り兵として生還。その体験記『鳥の詩』(日本放送出版協会刊)はドラマ化されベストセラーとなる。戦後、東京学芸大学教授・海野建夫氏に師事、工芸美術、彫金、鋳造、石造などを学ぶ。現在、社団法人・光風会名誉会員、社団法人・日展参与などを務める。これまでに日展内閣総理大臣賞、菊花賞、光風会辻永記念賞などを受賞。美術作品集に『南溟の友に』『忘れじのニューギニア』など。近作モニュメントは大阪府忠岡町「平和の鐘」、新幹線福山駅壁画「燦」、津市役所中庭「鳥の詩」、町田市「自由民権の像」、永平寺「道元禅師稚髪像・梵鐘・開山堂」など多数。

『美術、文芸作品を通じ戦争の語り部として僚友の鎮魂60年』

ニューギニアでの体験がドラマに本にと

中川:
ちょうど10年前に三橋さんのご著書『鳥の詩』が刊行され、私共の『月刊ハイゲンキ』に、ライターの須田が紹介させていただきました(編集部注・本誌67号参照)。戦争でニューギニアに2年余り、奇跡的な生還を果たされた壮絶な体験を本当に見事に書かれていて、私も引き込まれるように読ませていただきました。
三橋:
あれは、はじめは自分史のコンクール応募作品だったのです。書き溜めておいた30編の短編を作家の大江健三郎さんが、自分史を超えている文芸作品だと大変ほめてくださった。それがNHKドラマ企画部の人の耳に入りまして、ラジオドラマ化になり五夜連続で放送されました。予想外のすごい反響でした。
その後、一冊の本にまとめて7千部刷ったのですが、発売5日間でなくなってしまいました。出版社が慌てて再版を決め、結局2万部が完売となりました。素人の本でしょう、何で売れているんだ、と出版関係者は驚いていましたが、私は、これはニューギニアの僚友たちがバックアップしてくれているんだと思いました。
中川:
そうですね。帰って来たかった大勢の皆さんの応援が届いているのでしょう。分隊員40名いらした中で、三橋さんともうお一人だけが生還されたそうですね。
三橋:
そうです。全ニューギニアでは16万の日本兵が送り込まれて15万人が亡くなっています。赤道直下でね、中国大陸から遥々やってきた軍馬たちは、異常な南海の高温にやられて次々に倒れ、目的地ニューギニアには一頭も上陸できませんでした。
中川:
三橋さんは、その中で生き抜かれた。
三橋:
三橋さんは、その中で生き抜かれた。
中川:
あるとき、「敵機飛来!」の甲高い声が響きました。マラリアで39度の高熱を出し、ニッパ小屋に寝ていた私は、反射的に飛び起き20メートルほど離れた高射砲台座に向かって突っ走ったのですが、大きな木の切り株にけっつまずいて倒れこんでしまいました。
そこに、ものすごい炸裂音と爆風。私は2メートルほど上空に飛ばされました。その姿を、別の自分が見ているんです。飛ばされている自分の二つの目がまるで、正月に食う“くわい”のように飛び出している。目玉を後ろ側から見たのなんか、初めてですよ。
その瞬間、羽子板絵のように母の顔がパッと浮かび上がってきて、一瞬静止しサァーッと砂が落ちるように掻き消えて、次々と父、兄、姉が現れては消えていきました。これを含めて、4度ばかり死んでいますが、いつでもその瞬間に見えるのは、まず母の顔ですね。
どのくらい経ったか、寒さに身震いして気がつきました。冷たい雨の粒が角膜に絶え間なくぶつかってくる。左胸が激しく痛んでいる。右手で確かめると、マラリアのために着込んでいた分厚い軍服がスパッと裂けていました。「ああ、やられた! オレはこれで死ぬ」と思った、あの絶望感は何とも言い難いですね。震える手をその裂け口から入れて傷を探ると、掌にベットリと血糊が溜まった… はずでした。ところが、濡れていない。探った指先が冷たい金属のような物を捉えている。何だこれは! ぐいっと取り出すと、鉛筆より少し長めで幅2センチほどの金属片でした。25Lロ爆弾が揺れずに定位置に落下するように、爆弾の頭にプロペラがついているんです。
三橋:
あ、そのプロペラの破片だったんですか! 信じられないほど、まさに危機一髪でしたね。守られましたね。
中川:
そう、肌着は全く破れてはいなかった。懐に滑り込むように飛び込んできて、痛みは衝撃の打撲痛だったのです。夕闇の中に金属片を透かして見ると、「U・S AIR FORCE No.…」と刻印されていました。数年前に、ある人に言われたことがありました、「三橋さん、あなたは幸運ではないけれど、強運の人です」って。こういう戦地の体験を振り返ると、全く、我ながら“強運”だと思いますよ。
敵機が行ってしまった後に切り株の反対の側を覗いてみると、さっきまで寝ていたニッパ小屋は跡形もなく吹き飛んでいて、すぐ側に十数メートル径のすり鉢状の大穴があいていて、切り株の肌には鋭い金属片が無数に突き刺さっていました。
数分経つと、敵の偵察機ダグラスA20Aが、先程の戦闘の成果を確認しに来ました。咄嗟に浅井戸に飛び込み、側に吹き飛ばされてあったお盆で頭上に蓋をして、隙間から見上げると、白いマフラーをはためかせて大きなゴーグルをして舐めるように見回しているパイロットが見えるんですよ。そして、私をちゃんと見つけていたんですね。急降下しつつ、7メートルほどの至近距離に25キロ爆弾を落としていきました。グァーン、バリーン! 浅井戸が押し潰されたような衝撃を受けました。私みたいな兵隊一人を殺すのに、こんなにカネかけて浪費することないじゃないですかね。
山の方に逃げた、僚友が「みつはしぃー!」と探しに来て、「あぁ、あいつもとうとうお陀仏か。かわいそうに…」と、しょんぼり佇たたずんでいました(笑)。「勝手に殺すなよ」、と井戸から出てきて、二人でボロボロの天幕を被って辛うじて雨を防ぎ、そのまま丸まって眠ってしまいました。マラリアだし、食べるものもなく極度の空腹と疲労で…。ふと目が覚めたら、潮が満ちて腰まで海に浸かっていました。なぁんにもない海の中で僚友とただ二人…。
何年か前に講演会で、こういう話をしたら、40代くらいのご婦人が、「先生は、フルーツはお嫌いでしたの」と訊くんですよ。「お腹が空いているんだったら嫌いでも食べれば餓えなかったのに」、と。何を考えてんだか。フルーツがたわわに実る南国の島、それは、グアムやハワイの話なの。ニューギニアはそんなものはなかった。木の皮まで剥いで食べてましたよ。嫌いもクソもありますか。
三橋:
今や60歳以下の人はみんな、戦争を知りません。講演会に出向いて聴きに来られるのは関心があるからでしょう。“知る”ということはとても大事なことです。戦争の実態を伝えてくださる三橋さんのお役目は大きいと思います。
中川:
皆さん、現在の自分たちの置かれている状況から考えてモノを言ってしまうんですね。大学生で、「えっ、アメリカと戦争していたことがあるんですか」なんて、ビックリしているのがいて、こっちの方がビックリしてしまいましたよ。
私は大学に行きたかったのですが、中学を卒業したときに兄がちょうど徴兵されていましたから、私は、身体を壊していた父に代わって家業をしていたんです。兄が帰ってきたので猛勉強をして立教と一橋大学を受験しました。立教の合格通知が来た直後、赤紙も来てニューギニアに送られました。その2日後に一橋の合格通知が届いて、母が、「あんなに勉強して一橋に入学したがっていたのに、あの子は、ニューギニアに入学してしまったよ」と言ったそうです。
大学に行きたくても赤紙が来てはね。だから、私は学歴はないのです… それを話したときは、孫のような若い女性が、「そんなこと、私だったら許せない。抗議すればよかったのに」と。抗議するって、アナタ! あの当時、そんなことできるはずもなかったのですよ。
でも、大学に入らなかったから、こうして生き延びているといってもよいかもしれません。大学生になった同期のヤツはみな飛行機乗りになって死んでしまいました。1920年生まれは、人口グラフにすると一番くびれている年なのですよ。一番兵隊に持っていかれたんですね、私たち大正9年生まれは。生き延びた私は、命ある限り彼らの「想い」を伝えてやりたいと思っているんです。
戦後2回、慰霊にニューギニアに行ってきましたが、私たちの布陣していた高射砲陣地には、辿り着けませんでした。ジャングルは50年経ってしまったら、全く様相が変わってしまいます。珊瑚礁ですから根がしっかり張れないで、30メートルもある大木が突然ドタンと倒れて、あの頃、行軍をしていてそれを乗り越えると、もうどちらから来たか、方角が全く判らなくなってしまったものです。
現地の人は今でも、高射砲陣地のあった周辺には近寄りません。高射砲を操作するカタカタという音が聞こえる、幽霊も出ると言って気味悪がって。軍服姿の写真を見せたら、部落のお嬢さんが、「これと同じ服を着ている、痩せた男の人だった」と怖がるんです。
交歓パーティーでパプア族のラジャー… 酋長のことですがね、その人が言ったんですよ。「日本人は、供養をしてあげないから、霊が未ださ迷っているんです。キリスト教、イスラム教、ジャイナ教、仏教… 宗教なんて何でもいい。手を合わせて心を込めて亡くなった人の冥福を祈ってあげてください」と。そして、「日本人は勘違いしている。慰霊と戦争を正当化することとは全く違う。亡くなった人に手を合わせることを忘れてはダメです。当時の若者たちは国の為とだけを信じて戦い、殉じていったのですから…」と。
戦後、占領軍の方針で『戦争史観』というものが失われてしまいました。それでは浮かばれませんよ。日本人だけでも3百万人以上も亡くなっているんです、この戦争で。亡霊となって50年60年もの間さ迷い出現してくる兵士も大変です。
三橋:
まさに、それは魂さんの気持ちだと思います。出てこなければいけない状況で、ずっと待ち続けている。何とか光あるところに帰りたい、と思いながら、いつまでも戦争のさなかに居るんですね。亡くなって、肉体は消えてしまっても、魂は残りますから。戦時中のことが空白になっていて、そのときの兵隊さんの辛い気持ちを感じられないと、祈りも通じません。まず、私たちが知らなければ。

<後略>

(2005年1月19日 東京・町田市の三橋國民さんのご自宅にて 構成 須田玲子)

           

お問い合わせ

各種お問い合わせはこちらより承っております。
よくいただくご質問と、
その答えをよくあるご質問で紹介しています。
お問い合わせの前にご一読ください。

真氣光研修講座に関する
ご予約/お問い合わせ

まずは無料で氣を体験 最寄りのセンターやご自宅からオンラインでもご参加可能です 体験会のご予約はこちらから