2004年 - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光

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12月 「尹 基」さん

尹 基(ゆん き)さん

1942年、韓国木浦市で生まれる。1968年、木浦共生園園長に就任。以来、木浦・ソウル・済州島と堺・大阪・神戸などの地域に14の施設をつくる国際ソーシャルワーカーとして活躍中。韓国青少年問題研究所所長、韓国社会福祉士協会会長、ソウル特別市低所得者対策委員などを歴任。日本では「在日韓国老人ホームを作る会」を提唱し、福祉の国際化・文化化・大衆化を推進。現在、「こころの家族」理事長。著書『愛の黙示録(原題・母よ、そして我が子らへ)』(汐文社刊)。『風のとおる道』(中央法規刊)など。

『相互交流し理解することで心の壁を越えられる』

見えないものを大切にし そこから学ぶ

中川:
はじめまして、中川です。今日は快くお引き受けくださいまして有り難うございます。
尹:
送っていただいた会報誌を拝見しました。目に見えないものを大切にしておられる。社会福祉にも関係が深いと思いました。
中川:
“氣”は目に見えませんが、確かに存在していて、人の心もそうですね。心の持ち方をプラスに変えていくことで、いい氣も出るのですよ、ということをお伝えするセミナーなども開催しています。実は今日もその4泊5日のセミナーを終えて、こちらにうかがったのですが。
尹:
そういう施設があるのですか。
中川:
奈良の生駒に研修所があります。また北海道から沖縄まで8ヶ所にセンターがあります。こちらから一番近いのは、谷町4丁目にある「大阪センター」ですね。
尹:
韓国語には、「知恵」を意味する「(スルキ)」、「特技・得手」を意味¥r¥nする「(チャンキ)」、そして「根気」を意味する「(クンキ)」などがあります。日本にも、「気力、気分、気持ち」など、たくさん「気」のつく言葉がありますね。これは余談ですが、私の名前は「ユン・キ」です。「基」と書きますが、発音は同じ“き”ですね。「ユンキ」にも、潤いやゆとりの意味があります。中川さんとお会いするのも何かのご縁かなと、スタッフとも話していたのです。
中川:
私も、よく「ご縁ですね」、と言います。セミナーを受講される方にも、ここに一緒に集まったということは、ご縁があったからだと。尹さんとも、こうしてお目にかかれたご縁を有り難く思います。
尹:
以前に中川さんの会報誌に、私の著書『愛の黙示録』を紹介していただいたのも読みましてね、これはお会いしなければと思いました(編集部注・本誌2002年4月号No・143に掲載)。
中川:
私も『愛の黙示録』を読ませていただきましたが、後に映画化されたそうですね。日韓合同映画で韓国による日本の大衆文化解禁第1号となった作品と聞いています。韓国と日本は以前大変不幸な関係がありました。韓国や朝鮮の人々は、辛く苦しい思いをされた方々が大勢いらっしゃる。そういう歴史をふまえて、お互いに理解し合っていくことがとても大切だと思っています。
お母様が、当時日本が統治していた韓国でキリスト教伝道師のお父様と結婚されて、生涯に3000人の孤児を育てられたそうですね。
尹:
そうです。私の父は韓国人、母は日本人です。私は韓国人だと思っていましたが、日本人なんです。母が一人娘だったので、父が母の戸籍に入ったからです。母の生涯を描いた映画『愛の黙示録』が両国の大衆文化開放のきっかけになりました。民衆レベルで交流し、お互いに理解し合うことが大切だと思っています。
中川:
ご両親のことを少しお話しいただけますか。
尹:
母は高知県に生まれました。祖父は朝鮮総督府木浦府に勤めていました。木浦は朝鮮半島の最南端にある港町です。母も7歳から木浦で暮らすようになり、当時は多くの日本人が住んでいて、母は日本人の学校に通いました。父は「木浦共生園」を設立し、街中の孤児を自分の子供のように思って世話する中で、子供たちに笑顔がないから、どなたか音楽を教えてくれるボランティアはいないかと探していました。
音楽教師だった母が子供たちに音楽を教えるようになったのは1936年です。母は父の生き方に感動し、父と結婚しました。ところが日本は戦争に負け、木浦に住んでいた日本人は皆ひきあげる。その後1950年の朝鮮戦争の時、父は孤児たちの食料を調達に出かけたまま行方不明になったのです。
中川:
長い日本の支配から解放されて、反日感情がすごかった韓国で、お父様がいらっしゃらなくなって、日本人のお母様が大変でしたね。
尹:
ひどい貧困の中で、母はただただ孤児のために一生懸命に生きてきました。母は1968年に56歳で亡くなりました。初の木浦市民葬が営まれ、3万人の市民がお葬式に参列しました。この時、木浦市民から『国籍よりも人間を優先する市民精神』を学びました。

<後略>

(2004年10月13日  大阪府堺市の「故郷の家」にて 構成 須田玲子)

           

11月 「諸橋 楽陽」さん

諸橋 楽陽(もろはし らくよう)さん

1923年新潟県生まれ。25年間印刷会社経営の後、1975年に突如画家として第二の人生をスタートさせ、以来30年間、主に錦鯉の絵を描き続ける。75年から都民展、二科展、イタリア賞展、スペイン美術賞展などに出品し、受賞5回。5年間の公募展活動の後、無所属となり個展主義に徹する。東京銀座をはじめ、札幌から沖縄、台湾などの各デパートにて個展開催70回を数える。78年に結成した親睦団体「ノータリークラブ」の会長。

『人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと…』

81 歳の人生、縁に守られ助けられてきた

諸橋:
「月刊ハイゲンキ」、読んでいますよ。みんながいい氣の中で幸せに生きていくことを願って仕事をなさっているそうで、いいことをなさっておいでですね。
中川:
有り難うございます。諸橋さんも親睦会「ノータリークラブ」の会長さんを長年務められているということですが、どういう会なのでしょう。
諸橋:
「人との出会いを大切にして、ユーモアを忘れずに、少しでも楽しい意義ある人生を送りましょう」、ということを目標にしている会です。似たような名前のクラブもありますが、あちらは何ですか会費も高くてお金持ちの人たちが多いようですから、こちらは対抗して庶民的な会を目指して、年会費も5000円です。
中川:
何か、そういうものを創りたい、と思われたきっかけがあったのですか。
諸橋:
絵描きの道に入り、また印刷会社を経営していたので、絵描きさんや書家の方が自分の展覧会の案内状を頼みに見えるんですよ。でも、皆さん「1000枚も刷ったって、配るところに困る」と言うんです。案外、交流範囲が狭いんですね。1000枚で、配るところが無いなんて、寂しいじゃありませんか。私なんて最初から5000枚の案内状を配りました。絵描きが他の絵描きに案内を配ったって、買ってくれる人はありませんし、付き合いは広がりません。全く違ったいろいろな職業の人たちの交流をはかることが、自分の見聞を広めるのに大事であって、楽しいことだと思ったのが原点にありますね。
中川:
今は、異種業間の交流会なども盛んになってきましたが、25年も前から、そういうことに気がついておられたのですね。
諸橋:
そうね、思いついたら、すぐに行動するのが僕のやり方です。もう、「こういうのってイイじゃないの!」と思ったら、やりたくて仕方がなくなってしまいます。「人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと、少しでも楽しい人生を、そして少しでも世のため、人のため、お互いのためになることをしてみよう」ということを趣旨に、みんなに呼びかけて会を立ち上げてしまいました。
中川:
「人の和を大切に、陽気に元気に生き生きと…」ですか、それはいいですね。
諸橋:
それで、どんどん会員が増えて大いに盛り上がってたのですよ。私が経営する印刷会社が参議院会館の中にあったので、代議士の先生や高裁の判事さんとかも入会してくれました。「ノータリー」って、英語にあるんですよ。「公証人」っていう意味で。それで、「それなら私もノータリーですから」と、公証人の方も入会してくれました。この方は亡くなられましたね、とてもいい方だったけれど。
中川:
印刷会社を議員会館の中でなさっていたのですか。
諸橋:
その前から印刷関係をしていたのですが、終戦後まもなく、私が結核を患って療養していたときに、知人から国会の中で奉仕部というのがあって、そこで名刺を印刷する仕事をしないか、と打診されまして。それが、運のつきはじめです。療養している間に、天から降ってくるように仕事が入ってしまうのですから。人間、一生懸命に生きていると必ず実りますねえ。
中川:
結核をなさったのですか、大変でしたね。
諸橋:
私は40歳までに4回結核で療養しています。はじめは軍隊に入る前の若いときです。軍隊には、結核と伝染病の一番重症患者を扱っていた病院に、衛生兵として配属になったんです。間もなく我々も外地に行かされることになったのですが、小隊長だった士官が、私を真っ暗な営庭に呼んで、「これから言うことは決して口外してはならんぞ」と言うんですよ。
そして、「お前らは死に赴くのだ。だが、こんな優秀なヤツを死なせるわけにはいかん」と言って、既往症のある私を招集解除にして病院に入れてくれたんですよ。召集された者たちは、3ヶ月後に東シナ海で撃沈されて、みんな死にました。人生何があるか分かりません。私もあのときに既往症がなかったら22歳で命を終えていたかもしれません。あぁ、これが運のつきはじめかな。
終戦直後は、桜田門から九段下まで歩き回って官庁の印刷の仕事を取ってきては、ひたすらこなしていました。あんまり働きすぎて、また結核を再発させてしまって療養生活していたのですが、あるとき仕事の話で有馬参議院議員に呼ばれて事務所に行ったら、そこで偶然、命の恩人の士官に再会しました。そして、その方が北大の医学部卒で有馬議員の教え子の由、戦後、東京都の医務課長をしていて、中野療養所の転院を勧めてくれたんですよ。
中川:
それは、ご縁ですねえ。
諸橋:
そうね、今年81歳になりましたが、我が人生振り返ってみて、本当に人の出会いによって、助けられてきたと思いますよ。強運なんだねえ。私は天が与えてくれた仕事に対し、常に誠心誠意、一生懸命に積極的にやってきたので、報われたと思っています。

<後略>

(2004年9月6日  東京・中野の諸橋さんのアトリエにて  構成 須田玲子)

           

10月 「坂田 道信」さん

9月 「千野 真沙美」さん

千野 真沙美(ちの まさみ)さん

1969年東京生まれ。3歳より母親の主宰する「谷口バレエ研究所・えぽっく」でバレエを始める。11歳で「くるみ割り人形」のクララ役で初舞台。15歳でオーストリア、ハンガリー公演「ピエールとシベール」「女面」で主役。玉川学園高等部在学中にソ連に短期留学、卒業後「モスクワアカデミー舞踊学校(ボリショイ・バレエ学校)」に国費留学し、主席卒業。1989年「ロシア国立モスクワ音楽劇場ダンチェンコ・バレエ団」にソリストとして入団。1990年「ロシア国立バレエ団」に移籍、現在ソリストとして活躍中。「日本バレエ協会新人賞」「全ロシアバレエコンクール銀賞」など国内外で数々の賞を受賞。モスクワ大学物理数学助教授の夫と5歳の長男との三人家族。

『舞台上で気持ち良く軽く楽しく踊れること それが最高!』

ロシア国立バレエ団の 日本初公演で来日

中川:
先日、千野皓司監督と対談をさせていただきました(本誌167号に対談記事掲載)。その際に、監督のお嬢さんがロシアでバレエのソリストとしてご活躍で、6月に日本公演で来日されるということをちょっとうかがったものですから、それは是非お目にかかってお話をお聞きしたいと思いまして。
千野:
あ、父が?そうなんですか。知らなかった(笑)。父は父で、映画という自分の世界に脇目もふらず突き進んでいるし、母も私もバレエという世界に没頭していて、姉は画家で…というように、ウチはみんなそれぞれ自分のやりたい世界を持っていて、それ一筋という感じなんですね(笑)。ロシア国立バレエ団が日本公演を行ったのは、今回が初めてで、6月19日から東京、埼玉、千葉、神奈川の6ヶ所で舞台があり、スケジュールがいっぱい。私も両親たちとゆっくり会う暇もないのです。
中川:
芸術家ご一家ですね。数日後には、もうロシアにお帰りだとか。大変お忙しいところを、時間をいただいて有り難うございます。私も6月24日の舞台を拝見させていただきました。実は、私はバレエというものを観たのは初めてなのですよ。踊りといえば、盆踊りくらいで(笑)。随分華やかで美しく、また非常にハードなものなのですね。今こうしてお目にかかると、とても華奢きゃしゃな方なのに、どこにあれだけのエネルギーがあるのかと驚きます。
千野:
私は、今回は「盲目の少女」という、目の見えない少女が恋をするという小作品を踊ったのですが、この作品はもう91年からですから1000回くらいは踊っています。
中川:
そんなに!登場人物も二人だけで舞台装置は何もなく、衣裳も非常にシンプルで、暗闇の中にそこだけスポットライトが当たっていて二人の動きを追っている…それだけなのに、非常に何か雰囲気が感じられ、心惹かれる踊りでした。これも、まさに“氣”でしょう。
千野:
氣…ですか、私はよく知らないのですが、何でしょうか。
中川:
私どもは、見えないもの全てを氣と言っています。物にも人にも氣はあって、絶えず周りのものと氣の交流をしながら生きているわけです。例えば、この花からも(と卓上の紫陽花あじさいを指差して)私たちは氣をもらっています。あぁ、綺麗だなぁ、と思うと心が和みますが、これも氣が関係しているのです。
物や人間、植物、動物ばかりでなく、言葉にも氣があります。いいエネルギーを持っている言葉もあれば、良くないものもあります。「ありがとう」というのは、とてもいい氣の言葉です。いい氣を取り入れて、幸せに生きていこうということなんです…今日は、バレエを知らない人と、氣をご存じない方との対談ですね(笑)。
千野:
ハハハ、それって面白いかも(笑)。
中川:
真沙美さんの日本公演を見た知人が、舞台に真沙美さんが登場するとパッと舞台が明るくなるような、小柄なのに手や足の先の方までオーラーが広がって大きく感じる、というようなことを言っていました。これは、真沙美さん自身が持っていらっしゃる氣を、観客の方が感じるのです。
千野:
そうなんですか、それは嬉しいですね。ロシア人は身体が大きいし手足が長いし、私がその中に入ると、私って小さいなと思って、ちょっとコンプレックスを感じたりしたこともあったのですが。

<後略>

(2004年7月1日 東京・町田市「谷口バレエ研究所」にて 構成 須田玲子)

           

8月 「池辺 晋一郎」さん

池辺 晋一郎(いけべ しんいちろう)さん

1943年茨城県水戸市生まれ。東京芸術大学音楽学部作曲科を経て、71年同大学院研究科修了。大学在学中の66年「クレパ7章」で音楽之友社室内作曲コンクール第1位、「管弦楽のための2楽章 構成」で第35同音楽コンクール作曲部門第1位、68年「交響曲第1番」で音楽之友社作曲賞を受賞し、早くから脚光を浴びる。テレビ、ラジオ、演劇、映画とも頻繁な関わりを持ち、コンサートの企画プロデュースも数多く手がけている。現在、東京オペラシティ音楽監督企画委員等、東京音楽大学教授、日本作曲家協議会会長等々、多くの役職を務める。尾高賞2回、日本アカデミー賞音楽賞8回、放送文化賞等を受賞。2004年4月紫綬褒章受賞。

『作曲は意思を持った「音」と散歩する感覚』

同時進行の作曲16本でもストレスレス!

中川:
初めまして、中川です。
池辺:
先日は、お宅のマガジンを送っていただきまして、千野皓司監督との対談を拝読しました。監督の映画『血の絆』の音楽を担当したのですけれど、映画完成に13年かかって、監督も大変なお仕事をなさいました。
中川:
池辺先生の音楽が素晴らしかったと、千野監督も喜んでおられました。また、この度は紫綬褒章を受賞されて、おめでとうございます。
池辺:
ありがとうございます。
中川:
大変お忙しくされている中で、お時間をいただいて恐縮です。
池辺:
先程ちょっと数えてみましたら、現時点で並行している純音楽の仕事が16本あるんですよ。純音楽というのはイヤな言い方ですが、純粋に自分の曲を作るという意味で。その他に映画音楽や舞台音楽も作曲していますから。映画ならそのフィルムを見なければなりませんし、演劇なら稽古に立ち会うでしょう。そういう時間も必要です。
中川:
そんなに多くですか。締め切りに間に合わないとか、焦りはありませんか。
中川:
夜寝るときになると、焦りますね。心配になって眠れないけど、そのうち眠ってしまいます(笑)。朝になると、もう心配は消えてしまっていて、どれも大丈夫なような気がする。よく「ストレス」というでしょう、僕は切羽詰ったり、スランプを経験したことはありますが、いわゆるストレスを感じたことはなくて、ストレス自体がどんなものなのかよく分からないんですよ。ストレスレスだな。
池辺:
それは素晴らしいことです。ポジティブで、プラス思考でいらっしゃる。
中川:
楽観的なのでしょう。同時進行で作らなければいけない曲をたくさん抱えていますから、Aが書けなければ、Bを書いて、またAに戻ってみると、出来ちゃう(笑)。僕はこの仕事を40年近くも続けていますが、体調不良で仕事に穴を開けたことは一度もありません。
池辺:
それはすごい。ずっとお丈夫でいらしたのですね。
中川:
いえ、風邪を引いたり、たまには腹痛や熱を出したりすることもあるんですよ。それで友人との飲み会をキャンセルしたことは何度かあるけれども、仕事に差し支えがあったり間に合わなかったことは、今まで一度もないんですよ。ずっと健康だったというわけでなくて、子どもの頃はあまりにも体が弱く病気ばかりしていて、小学校入学が1年遅れたほどです。
池辺:
それは辛かったでしょう。引け目に感じたり、同い年の友だちと一緒に学校に行きたかったという寂しいような気持ちもあったのではないでしょうか。
中川:
いや、それはなかったですねえ。子どもの頃に病気をいっぱいしたから、そのときの貯金があって、そのお蔭で大人になってからは、その利子で元気でいられるんじゃないかと思うんですよ。でも、もうそろそろ貯金が底をついて、無利子になっているかな(笑)。
小学1年生のときからいつも同級生より一つ年上ですから、自然とクラスのまとめ役になっていました。それがずっと続いていて、どうも僕自身の体質になってしまったようで、今は日本作曲家協議会の会長をしていたり、東京オペラシティや紀尾井ホールなどいくつもの音楽ホールでの企画の総まとめ役などをしています。

<後略>

(2004年5月12 日 東京・渋谷にて 構成 須田玲子)

           

7月 「淀川 英司」さん

淀川 英司(よどがわ えいじ)さん

1939年秋田市に生まれる。1970年東北大大学院博士課程修了。同年日本電信電話公社(現NTT)電気通信研究所入所。1986年から1993まで㈱ATR視聴覚機構研究所代表取締役社長。NTT基礎研究所主席研究員を経て現在、工学院大学情報工学科・大学院情報学専攻教授。人間の視覚情報処理、認知科学、知能情報処理の研究に従事。工学博士。

『氣の解明は「心・精神・生命」の理解へのかぎ』

自分の手からの氣を見て健康チェック

中川:
初めまして、中川です。ご多忙の中、ありがとうございます。
淀川:
大学の役員などもしておりますので、何だかすごく忙しくなりまして(笑)。でも、中川さんには以前からお目にかかりたいと思っていました。私は、ずっと氣など見えないものに興味を惹かれておりましたから。
これは、学会誌の「私の意見」というコラムに掲載された、「『気』へのアプローチ」と題した私の小文ですが…95年の3月号ですから、もう10年近く前ですね。
中川:
えっ、「電子情報通信学会誌」ではないですか。私も以前、この学会に入っていましたので、読んでいましたよ。大学を卒業してから、電機会社の研究室に勤めていたものですから。これは、いろいろな情報産業、コンピューターや家電、弱電関係の専門誌ですね。こういう学会誌に、10年も前に氣についてお書きになっていたとは、驚きました。普通は、ないと思いますよ。
私は、仕事のストレスから胃の具合を悪くしまして13年前にその研究所を退職し、父である先代が始めた今の会社に入ったので、この学会誌から縁遠くなってしまって、先生の論文が掲載されたのは知りませんでした。
淀川:
お父様、亡くなられたのですね。お元気なうちに、お会いしたかった。お父さんのご著書も拝読しています。先程も言いましたが、私は見えないものに関心がありましたものですから。
「見えないものに」と言いましたが、私は幼い頃からちょっと、見えていた(笑)。小学校の頃に、先生が教壇に立たれますとね、先生の背後に光が…オーラというのでしょうか、そういうものがはっきりと見えたものです。仏像の後光のように。そういうことは普通のことで、皆も私と同じように見えているものと思っていました。でも、だんだんと、どうもそうじゃないらしいと気がつきまして、そのうちに忘れてしまいました。
中川:
今はいかがですか。
淀川:
それがまた、そういえば…という感じで思い出したのが、10数年前頃ですね。気をつけて見てみたら、子供の頃の方がはっきりはしていましたが、それでもちゃんと見えました。私はそれまで、音声などでコミュニケーションができる秘書ロボットなどの開発のための基礎研究をしてきました。人間の代わりをするような最先端のコンピューターを作るために、手本である人間の脳の機能、特に視覚と聴覚のメカニズムの研究をしてきたのです。
中川:
私も前の会社では、極小ロボットの研究をしていました。
淀川:
そうだったのですか。それで、私は研究すればするほど、コンピューターには真似のできない人間の脳の優秀さを感じましたよ。コンピューターが解析できるのはデジタル情報ですが、人間にはそれ以外の情報である「雰囲気」や「氣」を感じとる能力が備わっているんですね。コンピューターは全体の様子を捉えることが苦手です。例えば、病気の人の血液成分の解析は出来ますが、顔色やしぐさから体調を推し量ることは出来ません。それは何なのかと、本屋に行って氣に関する本を随分買って読みました。
もう亡くなりましたが、日本医科大学の品川嘉也先生が、氣の研究に脳波測定を用いたことなどは、非常に興味深かったです。気功師が一般人に向けて氣を放射している状態で、気功師と氣の受け手の脳波を同時に測定するというものでしたが、双方の脳波に強い同調性が認められたのですね。このことから双方に何らかの情報が伝わっている可能性があるとしているのですが、これは氣の解明への有力な手掛かりとなると思いました。
そして本や論文などを読むだけでなく、自分でも呼吸法を取り入れて朝晩15分ずつ練習するようになりました。わずかな時間ですが続けていくうちに、人間特有の感覚が強化されていくのですね。
朝起きたときに自分の手をかざして見てみると、モヤモヤとした光のようなものが出ているのが分かります。氣なのでしょうね。体調が良いと、その勢いがいいのです。呼吸法を実践するようになってから、まあ概して体調はいいのですが、時折、疲れていたりすると手の周りに見える氣が弱々しいのです。こういうことができると、自分の体調を自分でチェックでき、健康管理するのにいいです。こういうことからも、氣の存在は確信できます。体験は大きいですね。

<後略>

(2004年3月25日 東京・新宿の工学院大学にて 構成 須田玲子)

           

6月 「楊 名時」さん

楊 名時(よう めいじ)さん

1924年中国山西省生まれ。1948年京都大学法学部政治学科を卒業後、東京中華学校校長をへて、現在大東文化大学名誉教授。楊名時太極拳は、40年余りの間に、世界中に愛好者が広がっている。楊名時八段錦・太極拳師家。朝日カルチャーセンター、NHK文化センターなどの講師を務める。日本空手協会の師範で、空手も7段の腕前。著書に「太極 この道を行く」(海竜社)「幸せを呼ぶ 楊名時八段錦・太極拳」(海竜社)ほか。

『美しい心は、健康を生み、幸福を実感する源になります。』

死は怖くないけど、 生きられるものなら生きたい

中川:
先ほど、先生が指導されている太極拳の教室を拝見しましたが、若い方から年配の方まで、たくさんの方がお稽古されていましたね。みなさん、真剣な顔つきでしたが、とても楽しんでいる雰囲気があって気持ちよく拝見できました。
楊先生は、1924年生まれですから、80歳でいらっしゃいますね。太極拳をする姿は、かくしゃくとされていて、見とれてしまいました。
楊:
ありがとうございます。今日は、教室を見ていただいた上、楽しくお話ができそうで心がウキウキしています。
帯津先生のご紹介ということで、とても楽しみにしています。
中川:
帯津先生には、私どもも先代のころからお世話になっています。
楊先生は、帯津先生の太極拳の師匠でいらっしゃいますよね。
楊:
いえいえ、たまたま私のところで習われたということで、私にとって帯津先生は、かけがえのない友人で主治医で、尊敬する先生です。
今日も、夕方、お会いします。月に二度くらい食事をするのですが、それが楽しみでしてね。もう、恋人に会うような気持ちで、ウキウキしています(笑)。
中川:
それはいいですね。心がウキウキするような友だちがいるというのは、すてきなことだと思います。
帯津先生の本にも書かれていましたが、楊先生は、帯津先生の病院に入院されたことがあるそうですね。腸が破れて大変な状況だったとお聞きしていますが、そのときに『ふたつの希望があります。まず何でもいいから、ゆっくりやってください。今日やらないでいいことは明日に回してください。ふたつ目は、ここで治療がうまくいかないで死んだとしても私は別に何とも思いません。もともと、死ぬときはこの病院でと決めていたのですから。すべて先生にお任せします』と、おっしゃったそうで、帯津先生はその言葉にいたく感動したと本に書かれていました。
死んでもかまいません、お任せしますと言う人はたまにはいても、どんな状態になってもその気持ちを持続できるような人は楊先生以外にはいないとおっしゃっていますね。
楊:
私は帯津先生とは医者と患者という関係を超えて、生きることに対する考え方で波長が合います。
死ぬときは、帯津先生の病院で死のう。そう決めています。あのときも、そんな気持ちでした。
死は必ずやってきます。だから、死ぬことは怖くありません。だからと言って、死にたいわけではありません。生きられるものなら生きたい、治せる病気ならば治していただきたい。
でも、いくら先生が治したい、私も治りたいと思っても、そうはいかない場合もあります。治していただければ感謝しますし、そこで死んだとしても、やはり感謝の気持ちです。
病気をすることで、健康の本当の大切さというのもわかるし、体を病んでいる患者さんの苦労というものもわかります。私も、病気をしたおかげで、その大変さや苦しさが実感としてわかるようになりました。
中川:
すばらしいですね。病気も決して悪者ではない。いろいろな気づきのチャンスですよね。そんなお気持ちで生きておられるから、とてもすばらしい氣を発しておられるのだろうと思います。
楊:
先生にご紹介しておきます。金澤弘和先生です。空手の先生で、私の友だちです。すごい達人で、日本一にもなりました。今は、国際松濤館空手道連盟の会長をしておられます。
中川:
はじめまして。空手ですか。私ども真氣光の仲間にも平野先生という空手で日本一になった方がいます。今は、ハワイにいますけど。
金澤:
平野さんなら私もよく存じていますよ。彼がハワイで活動を始めたころから親しくしています。氣功を始めたと聞いていましたが、そうですか、そちらの氣功ですか。
楊:
これは奇遇ですね。帯津先生のご紹介でお会いしたら、また違うところでの縁があったとは。面白い話しですね。
中川:
近々、ハワイへ行くので、お会いしてくることになっています。
こうした偶然というのは、楽しいですね。自分ではない何かが、こんな縁を作ってくれているような気がしますね。
金澤:
私も、このような対談の場だとは知らずにおうかがいしたのですが、ここで平野さんの知り合いに出会えるとは驚きです。
中川:
神様は本当に楽しい演出をしてくれますよね。私の父がやっていたころは、内氣功と外氣功、武術氣功と医療氣功といった枠があって、その間の壁がずいぶんと厚かったような気がします。でも、平野先生が空手と氣功をやっているように、氣ということでは同じことですから、氣でつながった仲間同士の出会いということで、ワクワクしてしまいます。
楊:
方法は違っても、本質は同じですよ。要は心ですから。

<後略>

(2004年3月24日 朝日カルチャーセンターにて 構成 小原田泰久)

           

5月 「宗像 恒次」さん

宗像 恒次(むなかたつねつぐ(むなかた つねつぐ)さん

1948年大阪府豊中市生まれ。東京大学大学院修了。保健学博士、社会学修士。筑波大学大学院教授人間総合科学研究科、ヘルスカウンセリング学会会長。『ストレス解消学』(小学館ライブラリー)『本当の自分をみつける本ーイイコ症候群からの脱却』(PHP研究所)『子供達は成長したがっているー小・中・高教師のためのカウンセリング対話法』(広英社)『男をやめる-人生をもっと豊かに生きるために』(ワニブックス)など、著書多数。毎日新聞に「リレーエッセー 夫の言い分」(毎週金曜日掲載)連載中。

『“want”で生きる 愛の氣が満ちてきます』

気づきがないと本当の解決にはならない

中川:
はじめまして。帯津先生や村上和男先生と一緒に、心と体の関係を研究されているユニークな先生がおられるとお聞きして、ぜひお話をお聞きしたくてお邪魔しました。
宗像:
ありがとうございます。ユニークかどうかはお話をしてみてご判断ください(笑)。中川先生は、氣功の方がご専門とか。
中川:
私の父が始めたことなのですが、5日間の氣の合宿をやっていまして、いろいろと気づきを得ることで、生き方が変わっていって、その結果として幸せになるということをお伝えしています。ですから、いわゆるよく言われている
氣功とは違うかもしれませんが。
宗像:
気づきですか。それなら私のテーマと同じだ。私は、氣功という話をお聞きしていたので、昨日も中国氣功の本を出してきて、勉強をしてきました(笑)。でも、気づきなんてことはどこにも書いてありません。そうですか、気づきですね。それは楽しみになってきました。
中川:
中国の氣功ですか。私の父は、いろいろと鍛錬をしなければならない中国の氣功を見て、自分にはあんな気の長い修行はできないと、独自の氣功を作り上げました。だれでも氣が出せると言い出して、氣の合宿を始めた人です。ですから、せっかく勉強していただいたのですが、あまり役に立たないかもしれません(笑)。私は、氣というのは、決して特別なものではなくて、日常生活の中で、自分が生き方や人間関係を見直していくことから意識しないと、本当のところはわからないんじゃないかと、そんな気がするんですね。氣功というと、難病が治るということで注目されましたが、それは結果であって、それ以前に、生き方というものがあるのではないでしょうか。そんな気持ちでやっています。
宗像:
氣功で、気づきについてお話をされる方は珍しいですね。
氣功の教室に参加したり、スポーツをする人の中には、感情認知困難の強い方がけっこういます。自分の感情を認識することに困難性があって、感情がわからないために気づきが起こってきません。
たとえば、親の仲が悪くて、強いストレスを感じているとき、そのストレスをそのまま脳に伝えると、脳は混乱を起こします。そこで、その防衛手段として、より強い刺激を与えます。その刺激が、氣功だったり、スポーツだったり、マッサージだったりするわけです。自動車を運転しているときには、ほとんど前を見ることに集中しますね。脳に入る情報を制限するわけです。ですから、多くの氣功やスポーツ、マッサージは、ある意味、ストレスをごまかす手段になっていて、一時的にはごまかせますので、気分が良くなったような気持ちになるわけです。
でも、そこには気づきがないから、本当に解決にはなりません。
中川:
父のころから、うるさいほど、気づきの大切さを言ってきました。私は、脳の科学的なメカニズムは知りませんが、気づきこそ、本当の解決につながるというのは科学的にも言えることなのですね。
宗像:
専門用語では、ゲートコントロールと呼んでいます。メントールキャンディーをなめると、嫌なことも一時的に忘れることができますよね。現代人は、メントールキャンディーとか激辛とか映画とか運動とかアロマセラピーとか、刺激を送り込んで、嫌な刺激をブロックしています。メントールキャンディは、ストレスがあるときにはすーっとして気持ちいいけど、ストレスのない時になめると、おいしいと感じないですよ。最近は、少々の刺激ではごまかせないので、抜毛とか、リストカットをしたりする人が増えてきています。だんだんと刺激もエスカレートしてきますね。
中川:
世の中、経済的には豊かになったのに、聞くに耐えないような凄惨な事件や事故が増えていますね。これも、刺激が足りないからですか。
宗像:
たとえば、50歳以上の人は、食うのがやっとだったから、お父さん、お母さんの愛情関係まで問うことはなかった。自分が生きるのに精一杯だったからです。しかし、食べることのできた30歳代より若い人たちは、両親が本当に愛し合っているかどうかをとても重視しています。心の中で、父親と母親の関係を問いかけ続けています。
彼らは、自分が存在している意味を常に考えています。両親が愛し合ってなければ、自分は生まれてくる意味がないとか、望まれていなかったのではないかなどの気持ちがいつも心の中にあって、元気がなかったり、生きる力がない、自分が好きではないという自己否定感の強い子どもがものすごく多くなっています。自分はだめだ。生まれる意味がない。自信がない。自分で自分を痛めつけている人もたくさんいます。
食べ物を食べても、生きる力はつきません。ベースは、お父さん、お母さんが愛し合って、本当に自分の誕生を歓迎してくれていること。生まれてきても、自分の生き方で生きることを認めてくれて、ああしろこうしろとは言われない環境なら生きる力はつきます。
また、何かあっても助けてくれないと、本当に私は望まれて生まれてきているのだろうかと、力がなくなっていきます。そんな子は、体がかちかちですね。不登校を起こしているような子もそうですが、体が硬くて、肩こりがあるという場合がほとんどです。あまりひどいからそのことすら気がつかない。

<後略>

(2004年3月3日 筑波大学大学院東京キャンパスにて 構成 小原田泰久)

           

4月 「千野 皓司」さん

千野 皓司(ちの こうじ)さん

1930年東京生まれ。1954年早稲田大学文学部演劇科卒業。1955年同大学大学院文学研究科中退し、日活撮影所に助監督として入社。67年「東京の田舎っぺ」で監督デビュー。69年「極道ペテン師」(野坂昭如原作)で注目される。72年日活を去りフリーに。テレビ界で活躍し、作品は「密約―外務省機密漏洩事件」(日本テレビ大賞優秀賞・日本映画復興会議奨励賞)、「滋賀銀行九億円横領事件―女の決算」(放送批評懇談会ギャラクシー賞)、「海よ眠れ」(日本ジャーナリスト会議奨励賞、日本テレビ大賞優秀賞他)など多数。日本映画監督協会前専務理事、日本映像職能連合前幹事長

『ミャンマーと日本の深い縁 トウエイ 映画「THWAY―血の絆」完成!』

企画から13年、34年振りの劇場用映画

中川:
初めまして、中川です。知人が監督の「血の絆」の試写会を見て、ミャンマーの風景が素晴らしかったと感激し、映画のパンフレットを買って来てくれました。目を通してみましたら、監督が13年の歳月をかけて完成させたと知り、驚きました。
千野:
そうなんですよ、企画から13年。しかも、実に34年振りの劇場用映画で、昔の仲間たちも仰天していますよ(笑)。
中川:
34年振りといいますと?
千野:
25歳で日活撮影所に助監督として入って、13年目に監督になりました。4作目の「極道ペテン師」で注目され、裕次郎が作った石原プロから「ある兵士の賭け」という映画の監督を依頼されたんです。ベトナム戦争を扱った映画で、一人のアメリカ軍人を追っていったものですが、そうすると、どうしても反戦になります。それをプロデューサーがダメだと言うのでケンカして、おろされてしまった。当時は俳優を貸さない借りないという映画界の五社協定というのがありましたが、石原プロはそれを破棄してマスコミの注目を浴びて破竹の勢いだったんです。その石原プロを敵に回したのだから、映画界から閉め出されてしまいました。
その上、日活がロマンポルノ路線を行く方針を打ち出してきまして、私は子供も持っていますし、映画信念としてやりたくなかった。結局、最後まで抵抗したのは私一人でしたね。
それで、テレビの仕事に移ったんです。石立鉄男のライトコメディ路線、岡田可愛・宮本信子共演の「おひかえあそばせ」、榊原ルミ共演の「気になる嫁さん」、そして杉田かおるが子役で出演した「パパと呼ばないで」、これは随分高い視聴率を取ったものです。
中川:
「パパと呼ばないで」ですか、私も見ていましたよ。ほのぼのとしたホームドラマで、人気番組でしたね。
千野:
これはこれで良かったのかもしれませんが、私は映画が撮りたくて仕方がなかったんです。テレビは16ミリフィルムを使いますが、映画は35ミリでね。35ミリは豊かな映像が撮れるんですよ。
そうこうするうちに、あるプロダクションに誘われて、ノンフィクションドラマを撮ろうということになって、「真相」シリーズとして「吉展ちゃん事件」など4本の企画を出しました。まさか企画として通るとは思わなかったけれど、沢地久枝さんの原作「密約―外務省機密漏洩事件」も出したんです。沖縄返還協定を巡って新聞記者と外務省の女性が情を通じて、という有名な事件です。そうしたらOKになって、これを35ミリで撮らせてもらった。これは後にモスクワ国際映画祭招待作品となって劇場公開になりましたが、政治ドラマですからね、日本では一回の放映で再放映されることはありませんでした。これを話すと一冊の本になるほどのことがありますが、テレビは認可事業ですから、政府が認可を取り消しちゃったらおしまいなんですね。結局テレビ界から2年間干されましたよ。暗黙の制裁ですね。
中川:
映画界を去り、テレビ界で活躍しておられたけれど、今度はテレビ界から閉め出されたわけですか。波瀾万丈ですね。
千野:
ええ。全く仕事がこなくなってしまいました。2年経って痺れを切らし、テレビ朝日に出向いて、「もういいかげんにしろ」と(笑)。それで、いくつかのノンフィクションドラマやサスペンスドラマが撮れるようになり、いずれも視聴率が良かったので、テレビ朝日開局25周年記念番組八時間ドラマ、沢地久枝さん原作の「海よ眠れ」を撮ることになりまして。一人の監督がこれだけの長時間ドラマを撮ったのは、後にも先にも私しか居ません。2年間かかりました。
これが終わった後、テレビの仕事は十分やった、これ以上の作品はできない、やはりもう一度劇場用映画を撮りたい、と思いましてね。テレビ用映画でたくさんの賞をいただき高く評価されたんですが、劇場用映画の監督起用に結びつかないので、自分で創るしかないと思っていたときに、ある会社が、ミャンマーでベストセラーになっている「トウエイTHWAY」という本の映画化を依頼して来ました。
中川:
それは良かったですね。本をお読みになって、ピンときたんですか? いよいよ、待ち望んでいた劇場用映画撮影開始ですね。
千野:
「血の絆」という題で日本語訳が出ていましたが、それを読んだときには、私はあまり感じるものがなかったのですよ。題材に惹かれたのではなく、スポンサーがついていて、とにもかくにも映画が撮れる!ということでスタートしたのです。でも、これが大変なことになるスタートでした(笑)。

<後略>

(2004年1月26日 東京・京橋「㈲血の絆製作委員会」にて 構成 須田玲子)

           

3月 「小口 基實」さん

小口 基實(おぐち もとみ)さん

日本庭園史研究家、造園家。1947年長野県岡谷市に生まれる。東京農業大学卒。1966年より庭の勉強を始める。東京・京都で庭師の修行をし、1974年頃より作庭活動を始める。造った庭は、坪庭から公園まで約350庭。近年は建築・インテリア・町並み造りテレビ番組を手がけ、また年間20、30回の日本文化について講演活動を。ウィーン・シェーンブルン宮殿内に作庭。日本庭園協会賞受賞。長野県景観アドバイザー。NHK『課外授業ようこそ先輩』に出演。近年、京都より古い茶室を自宅に移築。著書に『津軽の庭』『琉球・薩摩の庭園』『庭づくり百科』『庭の文化とその心』など18冊。現在『日本庭園の造り方』英語版を執筆中

『何も無い中に究極の美を表現する日本庭園』

盆栽や庭いじりが好きだった祖父の影響

中川:
お忙しい中、長野からお出でいただきまして有り難うございます。
小口さんをお迎えするのには、私どもの会社内よりも戸外の日本庭園の方がいいかと思い、ここ文京区の「小石川後楽園」にしましたが、晴れて良かったです。
この後楽園は自宅から近くて、私も以前に本誌『月刊ハイゲンキ』の「デジカメ見聞録」で紹介したこともあります。池を巡りながらゆっくりと散策すると、気持ちが落ち着きます。
小口:
そうですね。池を中心にした「廻遊式築山泉水庭園」というのですが、私にとっても小石川後楽園は思い出の庭園です。東京農大の学生のときに、先輩に初めて連れて行ってもらい見せられた日本庭園が、ここなのです。
中川:
そうなんですか。それはご縁がありますね。浜離宮や六義園とか、東京には名庭が幾つもありますから、どこにしようかと思ったのですが。
小口:
私のいわばスタート地点の後楽園で対談できるのは嬉しいことです。「後楽園」という名前がまた、いいんですよ。江戸時代初期に徳川頼房がその中屋敷として造って、二代藩主の光圀の代に完成したのですが、中国の范仲はんちゅう淹えん「岳陽楼記」の一節から取って名付けられたんです。「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」というところです。「天下の楽しみに後れて楽しむ」…いいでしょう。
この名前の由来もそうですが、円月橋、西湖堤など中国の風物を多く取り入れていましてね、中国趣味豊かな庭園となっています。この庭園に限らず、日本人は、外からいいものを持ってきて上手に取り入れて融合させ、元を超えるような日本独自のものに造り上げてしまう、素晴らしい感性を持っているんですね。
中川:
小口さんは、いつ頃から日本庭園に興味を持たれたのですか。
小口:
私がこの道に入ったのは、祖父の影響が大きいといえるでしょうね。ウチは長野の農家なんですが、祖父が農業をする傍ら、庭いじりや盆栽、写真を趣味にしていましてね、私も側についていてその姿を見て、いろいろな話を聞いているうちに、庭やカメラが大好きになっていったようです。私は祖父母に可愛がられまして、母屋に続いている離れで祖父母と川の字になって寝ていたんですよ。
中学生になると、父が作った白菜などの野菜やリンゴをリヤカーに積んで市場に運んでから学校に行きました。そのときに祖父が「これもついでに持って行け」とサツキなどの盆栽の鉢を一つ二つ、リヤカーの上に乗せましてね。
それで、学校の帰りに市場に寄ると、驚きですよ。リヤカーに山積みの野菜の売上より一つ二つの盆栽の値段の方が高いんですから。「よし、将来は野菜より植木や盆栽を育てよう」と決心しました(笑)。
中川:
ハハハ、ついでに運んだお祖父さんの盆栽がね、そうですか。幼い頃から大好きなお祖父さんと過ごした生活の中で、庭や盆栽、植物や自然、日本文化などについての知識や感性が知らず知らず身体に沁み込んで、小口さんの中で育っていったのでしょうね。
小口:
それはありますね。昔の農家は大所帯で隠居所や離れには玄関がありません。ぐるっと庭を廻って、「よぉ、居るかい」と近所のお年寄りたちが声を掛けて、縁側に腰掛けてお茶を飲みながら四方山話をしていくんですよ。その中で教えられることはたくさんありましたね。数限りなく聞いたという感じです。
そもそも縁先で話が進むのを、縁談というでしょう。縁先の話が、「日本文化」の一端を担ってきたのだし。縁は異なもの、味なもの…正に庭用語なんですね。縁は、かかわりあいをいいます。外と内とのかかわりあい、人間と人間とのかかわりあいが「縁」でしょう。

<後略>

(2003年12月18日 東京「小石川後楽園」にて 構成 須田玲子)

           

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