ジャーナリスト・関係者からみた「氣」の力
真氣光誕生の瞬間を目撃した、ノンフィクション作家・旭丘光志氏の証言
1938年1月2日、樺太豊原市(現ユジノサハリンスク市)生まれ。ADデザイナー、劇画家、シナリオライターを経て、1977年より小説、評論、ノンフィクションを執筆。ノンフィクションは主に教育分野と医療分野をテーマとしてきた。劇画『ある惑星の悲劇』『レッツゴーJF・ケネディ』、TV『特別機動捜査隊』、小説『中川一郎怪死事件』『アイヌモシリ独立戦争シャクシャイン』、ノンフィクション『山村留学』『つらい痛みが3分で消えた』など著書多数。
現代科学では説明のつかない「氣」の世界。その黎明期の一部始終を、取材者として、また記録者として見つめ続けてきた人物がいます。
ノンフィクション作家の旭丘光志氏です。氣の中継器「ハイゲンキ」誕生の前後から先代・中川雅仁氏を長年にわたり取材し、『つらい痛みが3分で消えた』『医療気功の衝撃』『霊象の真実』など、真氣光にまつわる著作を数多く手がけてきました。1988年12月24日、先代が初めて手から氣を出した歴史的な瞬間にもその場に立ち会い、一部始終を見届けています。
※本記事は、真氣光の黎明期から先代・中川雅仁氏を取材し続けてきたノンフィクション作家・旭丘光志氏の証言、及び2026年1月15日に行われた中川雅仁会長との対談(ハイゲンキマガジン2026年3-4月号掲載)に基づき構成されています。
旭丘氏が先代と出会ったのは1980年代、まだハイゲンキが生まれる前のことでした。当時、先代が扱っていたのは、10数本の針の束をバイブレーターで動かして経穴を刺激する治療器でした。旭丘氏は単なる販売者としてではなく、医師や治療家と協力しながら効果的な治療方法の研究会を主宰する先代の姿を、取材者としての視点から見つめていました。同じ治療器を使っても、先代が施術する場合とそれ以外の人が施術する場合とでは効果に違いが表れるーーその不可解な現象こそが、先代を「氣」の探求へと向かわせるきっかけだったといいます。
折しもアメリカでエイズの蔓延が社会問題となり、日本でも患者が現れ始めた時期でした。針を使う治療器は敬遠されるようになり、先代は新たな道を模索します。そうして誕生したのが、プラスティック製の小さなピラミッドをヘッドに並べた氣の中継器「ハイゲンキ」でした。1986年のことです。
真氣光の大きな転機となったのが、1988年12月24日でした。旭丘氏はこの日の早朝、先代から「夢に現れる白髭の老人から、明日から自分の手から氣を出して治療しなさいと言われた。見てもらいたい」という電話を受け、急遽クリニックへと向かいます。それまで手から氣を出す経験のなかった先代が、はたして本当にできるのかーー旭丘氏は半信半疑のまま会場に足を運びました。
会場では、入退院を繰り返していた一人の女性患者が治療ベッドに座りました。先代が両手を広げて氣を送り始めると、2~3分のうちに患者の体は大きく前に折れ曲がっていきました。その場に居合わせた旭丘氏は、声をあげそうになったと振り返ります。それまで半信半疑だった「夢の老人」の話も、この瞬間に信じざるを得なくなったといいます。
気功の本場である中国では、体内に氣を貯め、それを放射するまでに10年、20年という修行が必要とされてきました。しかし先代は、そうした修行を経ることなく、ある日突然、氣を出せるようになった。それは宇宙にある氣を「中継」するという、それまでにない発想に基づくものでした。旭丘氏はこの出来事を、まさに「氣の世界の革命」だったと語っています。
真氣光の歩みは、順風満帆なものばかりではありませんでした。1989年4月、ハイゲンキは薬事法違反の疑いで摘発され、先代は逮捕されるという事態に見舞われます。前年に先代を取材した著書を世に出したばかりだった旭丘氏は、名誉の問題として、この事件を徹底的に調べ上げました。新聞で「被害者」とされていた人々を自ら探し出して話を聞くと、警察の巧みな誘導によって、実際には効果を実感していた利用者が「被害者」に仕立て上げられていた実態が明らかになったといいます。
先代はその後、最高裁まで争い続けましたが、道半ばで逝去。公訴棄却という形で幕を閉じたこの一件を経て、ハイゲンキは新たな形へと生まれ変わり、2026年の今年40年目を迎えています。旭丘氏は、あのとき先代が引かずに戦い抜いたからこそ、氣の世界は広まり続けることができたのだと振り返ります。
黎明期の熱と混乱を、その目でつぶさに見つめてきた旭丘氏の証言は、真氣光の歴史そのものを物語る、かけがえのない記録となっています。