4月「ウォン・ウィンツァン」さん
ウォン・ウィンツァン(うぉんうぃんつぁん)さん
1949年神戸生まれ。19歳でプロとしてジャズやソウルを演奏。87年、瞑想の体験を通して自己の音楽の在り方を確信し、90年にピアノソロ活動開始。サトワミュージックを設立し「フレグランス」をはじめ30作近くのCDをリリース。NHK「目撃!にっぽん」Eテレ「こころの時代」テーマでも知られる。YouTubeではピアノソロ動画が160万回再生突破。
『音楽で自分らしく生きるためのスイッチをオンにする』
コロナがきっかけでYouTubeでの発信が柱になった
- 中川:
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ご無沙汰しています。前回の対談がいつごろだったか調べてみたら、1999年でした。もう23年も前のことなんですね。 実は、私ども真氣光の会員さんで本の編集のお仕事をされている尾崎靖さんから、ウォンさんと親しくしているというお話をお聞きし、その後どうされているかと思って、対談をお願いした次第です。今日はよろしくお願いします。
- ウォン:
- もう23年もたっていますか。ぼくも会長と再会できてうれしいです。 尾崎さんとは、阿蘇で自然農をやっている野中元(はじめ)さんという共通の友だちがいて知り合いました。野中さんは農家でありながら、カメラマンとしても活躍していますが、ぼくが彼の家にライカのいいカメラを忘れていったことがきっかけでカメラマンになったというのですから面白いでしょ。当時、ぼくは写真に凝っていました。 ちょうど、会長と対談したころじゃないかな。
- 中川:
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そうでしたか。人と人との縁は本当に面白いし、縁によって進む道が決まったりしますからね。 前回は、ウォンさんが音楽家になる経緯とか瞑想で大きく変化した話などお聞きしました。あれから23年。いろいろなことがありました。 特に、2011年の東日本大震災。それにここ2年ほどのコロナ禍。活動にも影響があったし、考えることもおありだったと思いますが。
- ウォン:
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東日本大震災と原発事故には日本中がショックを受けたと思います。日本全体が追い詰められた感じになっていて、こんなとき自分にできることは何だろうかと考えました。 息子にも相談して、インターネットでライブ配信をすることにしました。 ほぼ毎日、50日間配信しました。ぼくにとっては修行のような毎日でしたが、すごくたくさんの人が喜んでくださって、やって良かったと思いました。 チャリティコンサートも企画しました。500人以上の大きな会場でしたが、すぐに満員になり、義援金もたくさん集まりました。 - 中川:
- あのときは、日本全体が一致団結していましたよね。
- ウォン:
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すべての日本人が不安や危機感をもっていて、それが一体感を生み出したのだと思いますね。
- 中川:
- 今回のコロナ禍ではどうでしょうか。YouTubeではずいぶんとたくさんの方がウォンさんの演奏を聴いているようですが。
- ウォン:
- 2019年まではすごい勢いでコンサートをやっていました。2020年に入ってからコロナが広がり始めたために自粛ムードが出てきて、雲行きが変わってきました。2~3年は動きがとれないのではないかという予感があって、YouTube配信に方向展開することにしました。 音楽活動の柱を、コンサートとCDからYouTubeに移す大きなきっかけがコロナでした。 前々からオンラインを活動拠点にしたいと思っていたので、これだけはコロナのおかげです。
- 中川:
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コロナがオンラインでのコミュニケーションを確立させた感がありますね。私も、オンラインでセミナーやセッションをすることが多くなりました。 だけど、ミュージシャンの方にとっては、YouTubeで聴けるとなるとCDが売れませんから収益という面では厳しいのではないでしょうか。コロナのせいで音楽が衰退してしまっては大変です。
- ウォン:
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YouTube配信では確かに収益にはなりませんね(笑)。 だけど、まずは聴いてもらわないと話にならないですからね。聴いてもらうための手段としてはYouTubeはいいと思います。 コンサートではある一定の人にしか聴いてもらえないし、遠い人はなかなか会場まで来ることができません。 YouTubeだと全国で聴けます。160万人とか170万人が見てくれるのもありますからすごいと思いますよ。 YouTubeを始めてからいろいろな意味で広がりは出てきています。何しろ顔が出ますから、街を歩いているとウォンさんじゃないですかと声をかけられたりすることもありました。サウナやクリニックでもYouTubeが縁で友だちができました(笑)。
- 中川:
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なるほど。聴衆との距離がものすごく縮まりましたね。
- ウォン:
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ミュージシャンがオンライン化するのは難しいのではないでしょうか。でも、ぼくの場合はスタジオがあるし、機材もあるし、息子の助けがあって、恵まれています。それに、スタッフがオンラインで広げていくノウハウをしっかり勉強してくれました。スタッフの2人はネットでの配信が得意なので助かっています。 音はCDで聴けるくらいのレベルにはしています。映像もカメラ4台を使っていいのを撮っていますよ。 先ほど言いましたが、写真が趣味だったので、いいレンズがたくさんあって、それが使えるんですね。 YouTubeの広がりで音楽が映像ありきになってきました。音楽よりも映像の制作費の方が高いということも起こってきていますね。
<後略>
東京・新宿区のサトワミュージックにて 構成/小原田泰久

童謡 Doh Yoh vol.1
ウォン・ウィンツァン
サトワミュージック
歯科大学を卒業して、国家試験を受けて合格したのですが、歯科医にならずに、すぐにアメリカへ渡って音楽の道に進みました。それが1980年ですから約40年前です。 ロスで25年ほど活動し、東京に戻って10年、その後ハワイ島で暮らしていました。2021年11月に東京へ帰ってきました。そして、ある歯科クリニックで仕事を始めました。67歳の新人歯科医です(笑)。
あるとき、レコード会社から自然の音を録音してほしいと依頼されました。やったことがなかったので試行錯誤しながらやっと録音ができて、ある日、ロスのスタジオで夜中に自分の録った自然の音を聴きました。ものすごくショックを受けました。感動するほど美しかったのです。パーフェクトな美しさでした。 なぜこんなにも美しいのだろう? と考えました。答えはすぐに出ました。神が作った音だから完璧なのです。美しいのです。 人間は音楽や絵画、彫刻など芸術作品を作るとき、完璧を目指すけれどもとても完璧には到達できません。完璧ではないところが人間の美しさであり良さだと思いますが、自然の音は非の打ちどころがありません。人間にはできないことを自然はやってのけていることにすごさを感じました。 そのことがきっかけで、神が作った音の完璧さを意識することができるようになりました。自分のこれまでの録音や編集といった経験、感性を全部注いで作品として自然の音の美しさを伝えたいという思いが湧き上がってきたのです。
いませんね。片野先生は岩手大学におられるときに大冷害があって、ほとんどの田んぼが全滅したのに、自然栽培の田んぼだけはコメが実ったのを見て、自然栽培の研究を始めたそうです。 もっと本格的に研究をしようと九州東海大学へ来られたのですが、私が入学したころは完全に異端児でした。ある授業で、教授が「うちには片野というとんでもない奴がいる。無農薬という社会の役に立たないことを研究している」と言っていたのがとても印象に残っています。ほとんどの人がそう思っていたんじゃないでしょうか。 そんな状況ですから、大学に自然栽培のコースがあるわけではありませんでした。授業では現代農業のことしか教えてくれません。遺伝子組み換えの実験とかもやりました。 学校の勉強ではやりたいことが学べないとわかったので、片野先生にお願いして、県内を中心に自然栽培や有機栽培をやっている農家さんを回り、無肥料栽培についての論文を書いて卒業したわけです。
学生が訪ねて行くと、みなさん大歓迎してくれました。九州ですから、必ず焼酎が出ました(笑)。泊めてくれて、朝方まで飲みながら語り合いました。 どなたもこだわりがあって、みなさん独自の道を進んでおられましたね。もっと協力し合えば、自然栽培や有機栽培は広がるのにと思ったものです。 でも、考えてみれば、当時は無農薬の技術や知識も少なかったから、試行錯誤しながら自分のやり方を築いてきた人ばかりです。まわりの人たちには理解されず、村八分になった人もいました。お前のところが農薬を使わないからうちの父ちゃんが怒っていた、と子どもたちが学校でいじめられたりもしたようです。 家族を守るために、歯を食いしばってやってきた人たちばかりですからね。自立心とか自尊心が強いのが当然だと思います。 そういう人たちの苦労があったからこそ、今になって、彼らの技術を使わせてもらっているという面もありますよね。<後略>
その中に人間もいるわけですが、ほかの生き物から見たら、人間ってすごく不思議な生き物なんじゃないでしょうか。ほかの生き物が人間を見てどう思っているのだろうと想像したことがあります。獲物を追いかけるわけでもないのにわざわざ走ったり、釣った魚を食べずに逃がしたり、動物たちをペットにしてご飯を与えて散歩をさせたり、会社という群れで来る日も来る日も何かを手分けして作り、それを自分では使わずに紙切れと交換して喜んでいる。私たちがナマコを見て不思議だと思う以上に、彼らには人間のことが理解できないんじゃないでしょうか(笑)。
私は、アロハこそ人間の役割なのかなと思いました。 それで、私がずっと疑問に感じていた、なぜこんなにたくさんの生き物が地球上にいるのかということをカイポさんに聞いてみました。 カイポさんからはこういう答えが返ってきました。 生き物にはみんな役目があって、パズルのピースが集まって形を作り出すように、地球を成り立たせているのです。 ハイエナやバクテリアだったら大地の掃除をする存在だし、ミミズは土を耕します。なんのためにいるのだろうと思えるような小さな生き物も、自分では気づいていないかもしれませんが、もっと大きい生き物に食べられて栄養を与えるという役目があります。植物は酸素を供給したり、動物に食べられて命を養うという役目があります。 彼らはすべての生き物は意味があって存在するということをまったく疑っていません。食べられるというのも大事な役目だというのは、新しい発見でした。 海に潜っていると、逃げまどって一生を終える小魚たちを見ますが、彼らは逃げながらも嬉々として生きているように見えます。役目を果たしているからなんでしょうね。植物たちも「さあ、食べてください」と言わんばかりに凛として大地から生えているように見えます。
買い物に連れて行っても大変です。息子がスーパーへ入ったとたんに突進していく場所はお菓子コーナーではなくて鮮魚売り場。ケースの中に入った鮮魚をつかんで大騒ぎするんです。 水たっぷりの樽にドジョウを入れて売っていたことがありました。おもむろに樽に両手を突っ込み水をばしゃばしゃかき混ぜながらドジョウとたわむれ始めました。床は水浸し。ドジョウだって飛び出したりしますよ。必死で止めようとしましたが、全身全霊で号泣ですよ。もう収拾がつきません。ほんの数分が永遠と思うほどの長い時間に思えました(笑)。
事情を知らない人たちが、目の前で起こった出来事だけで非難を口にするのには参りましたね。上から目線で「私が正してあげる」というある種の正義というんでしょうか、もっと相手の立場に立って、非難ではない別の伝え方があるのではと思いました。 理不尽な非難を受けて、最初は悲しんでいましたが、何度もそういう体験をするうちに、私は「言うのは相手の自由。聞かなかったことにするのは私の自由」と割り切ることができるようになりました。 とにかく何が大切なのかと考えました。私が非難されないのが大切ではなく、息子にいろいろな経験をさせてあげることを優先しよう。そのためには、私が防波堤になる、と覚悟を決めましたね。
結婚して専業主婦になりました。今は26歳の娘と23歳の息子がいます。
母と子どもの絆という面では強くなったと思います。ずっと仲のいい親子ですねと言われますから。3人で支え合って生きていこうという意識が自然に芽生えたのだと思います。ただ、子どもたちも精神的に不安定な部分はありました。下の子が4年生のときだったかな。行動が変なので病院へ連れて行ったことがありました。今は、私の仕事を手伝ってくれたりしてとても助かっています。
なるほど。WHOの健康の定義でも霊性を入れようという提案があったということで話題になりました。もう20年以上も前になりますかね。残念ながら、提案だけで終わっているようですが。 私の父である先代の会長が「氣によって霊性を高め、地球の環境を浄化する」とよく言っていたので、私には霊性という言葉に抵抗はないのですが、一般の人にはまだまだすんなりとは受け容れられませんね。 先生は霊性についての講義をしているそうですが、学生さんの受け止め方はどうでしょう。
そうですね。3〜4週間講義をしてから、神社やお寺に行って手を合わせたり、お墓参りをする意味を問い直してみます。 半数くらいは、習慣でやっていたことにもこういう意味があったのだと、私が言っているスピリチュアルな内容を受け容れてくれます。残りの半数は理屈としてはわかるけれども理解しがたいとか、にわかには信じられないという反応です。
いつも言われたのは『人に負けないようにやれ』ということでした。しかし、技術を身につけようとしても先輩は教えてくれませんから、技術は見て盗まないといけません。
私には氣の話はよくわかりませんが、目に見えない何かが伝わるという感覚はわかります。
300名近い人が当日に最高の演奏ができるように準備をするわけですからね。すごいなと思いました。
どんどん接近していきますね。監督はコンサートに行ったときに、楽屋で出演を申し込んだそうですね。そのときが初めての直接の出会いだったのですね。
病弱な子ども時代から始まって、20代後半にはうつになり、ITの仕事でしたから、一日中パソコンの前に座っていたせいで、電磁波の影響を受けて、体がどんどん悪くなっていきました。
確かに、苦しい体験は今に生きていますね。あのころは苦しいだけの毎日でしたが。