しんきこう - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光 - Page 4

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4月「ウォン・ウィンツァン」さん

ウォン・ウィンツァン(うぉんうぃんつぁん)さん

1949年神戸生まれ。19歳でプロとしてジャズやソウルを演奏。87年、瞑想の体験を通して自己の音楽の在り方を確信し、90年にピアノソロ活動開始。サトワミュージックを設立し「フレグランス」をはじめ30作近くのCDをリリース。NHK「目撃!にっぽん」Eテレ「こころの時代」テーマでも知られる。YouTubeではピアノソロ動画が160万回再生突破。

『音楽で自分らしく生きるためのスイッチをオンにする』

コロナがきっかけでYouTubeでの発信が柱になった

中川:
ご無沙汰しています。前回の対談がいつごろだったか調べてみたら、1999年でした。もう23年も前のことなんですね。 実は、私ども真氣光の会員さんで本の編集のお仕事をされている尾崎靖さんから、ウォンさんと親しくしているというお話をお聞きし、その後どうされているかと思って、対談をお願いした次第です。今日はよろしくお願いします。
ウォン:
もう23年もたっていますか。ぼくも会長と再会できてうれしいです。 尾崎さんとは、阿蘇で自然農をやっている野中元(はじめ)さんという共通の友だちがいて知り合いました。野中さんは農家でありながら、カメラマンとしても活躍していますが、ぼくが彼の家にライカのいいカメラを忘れていったことがきっかけでカメラマンになったというのですから面白いでしょ。当時、ぼくは写真に凝っていました。 ちょうど、会長と対談したころじゃないかな。
中川:
そうでしたか。人と人との縁は本当に面白いし、縁によって進む道が決まったりしますからね。 前回は、ウォンさんが音楽家になる経緯とか瞑想で大きく変化した話などお聞きしました。あれから23年。いろいろなことがありました。 特に、2011年の東日本大震災。それにここ2年ほどのコロナ禍。活動にも影響があったし、考えることもおありだったと思いますが。
ウォン:
東日本大震災と原発事故には日本中がショックを受けたと思います。日本全体が追い詰められた感じになっていて、こんなとき自分にできることは何だろうかと考えました。 息子にも相談して、インターネットでライブ配信をすることにしました。 ほぼ毎日、50日間配信しました。ぼくにとっては修行のような毎日でしたが、すごくたくさんの人が喜んでくださって、やって良かったと思いました。 チャリティコンサートも企画しました。500人以上の大きな会場でしたが、すぐに満員になり、義援金もたくさん集まりました。
中川:
あのときは、日本全体が一致団結していましたよね。
ウォン:
すべての日本人が不安や危機感をもっていて、それが一体感を生み出したのだと思いますね。

中川:
今回のコロナ禍ではどうでしょうか。YouTubeではずいぶんとたくさんの方がウォンさんの演奏を聴いているようですが。
ウォン:
2019年まではすごい勢いでコンサートをやっていました。2020年に入ってからコロナが広がり始めたために自粛ムードが出てきて、雲行きが変わってきました。2~3年は動きがとれないのではないかという予感があって、YouTube配信に方向展開することにしました。 音楽活動の柱を、コンサートとCDからYouTubeに移す大きなきっかけがコロナでした。 前々からオンラインを活動拠点にしたいと思っていたので、これだけはコロナのおかげです。
中川:
コロナがオンラインでのコミュニケーションを確立させた感がありますね。私も、オンラインでセミナーやセッションをすることが多くなりました。 だけど、ミュージシャンの方にとっては、YouTubeで聴けるとなるとCDが売れませんから収益という面では厳しいのではないでしょうか。コロナのせいで音楽が衰退してしまっては大変です。
ウォン:
YouTube配信では確かに収益にはなりませんね(笑)。 だけど、まずは聴いてもらわないと話にならないですからね。聴いてもらうための手段としてはYouTubeはいいと思います。 コンサートではある一定の人にしか聴いてもらえないし、遠い人はなかなか会場まで来ることができません。 YouTubeだと全国で聴けます。160万人とか170万人が見てくれるのもありますからすごいと思いますよ。 YouTubeを始めてからいろいろな意味で広がりは出てきています。何しろ顔が出ますから、街を歩いているとウォンさんじゃないですかと声をかけられたりすることもありました。サウナやクリニックでもYouTubeが縁で友だちができました(笑)。



中川:
なるほど。聴衆との距離がものすごく縮まりましたね。

ウォン:
ミュージシャンがオンライン化するのは難しいのではないでしょうか。でも、ぼくの場合はスタジオがあるし、機材もあるし、息子の助けがあって、恵まれています。それに、スタッフがオンラインで広げていくノウハウをしっかり勉強してくれました。スタッフの2人はネットでの配信が得意なので助かっています。 音はCDで聴けるくらいのレベルにはしています。映像もカメラ4台を使っていいのを撮っていますよ。 先ほど言いましたが、写真が趣味だったので、いいレンズがたくさんあって、それが使えるんですね。 YouTubeの広がりで音楽が映像ありきになってきました。音楽よりも映像の制作費の方が高いということも起こってきていますね。

<後略>

東京・新宿区のサトワミュージックにて 構成/小原田泰久

童謡 Doh Yoh vol.1

ウォン・ウィンツァン
サトワミュージック

           

3月「ジョー奥田」さん

ジョー 奥田(じょー おくだ)さん

1954年大阪市生まれ。大阪歯科大学を卒業し歯科医師免許取得。1980年渡米。ロサンゼルスで活動開始。1998年自然音楽家として活動を始める。2013年拠点をハワイ島に移す。世界各地の自然音を録音し、ストーリー性豊かな、新しい自然の音の世界をクリエイトする。2021年日本に戻り、歯科医として医療の分野から自然音による癒しを追求する。

『自然の音は神様が作った。だから常に完璧で美しい』

歯科の国家試験に受かったのに、音楽の道を志した

中川:
ジョーさんは自然の音を録音するお仕事をされていて、CDもたくさん出されています。私も何年か前にダウンロードして、疲れたときにはよく聴いています。 聴いているうちに眠くなってきます。体も心もリラックスするのだと思います。 まるで実際にその場にいるような臨場感のある音ですね。
ジョー:
ありがとうございます。「バイノーラルマイク」という特殊なマイクで録音しています。人間の頭の形をしていて、表面も音の反射の具合が人間の皮膚と同じように作られています。精密なゴムの耳がついていて、鼓膜の位置にある高感度のマイクで音を拾いますので、人間の聴覚を正確に再現することができます。 あたかも自然の中に自分がいるかのように聴こえるというのが、私の作品のベースになっています。 屋久島の森や奄美大島の森を体験しようとしてもなかなかできないじゃないですか。肉体的な条件、年齢的な条件で、行きたくても行けない人にも、屋久島や奄美大島やハワイの森の音を体験していただきたいというのがもともとの出発点です。
中川:
プロフィールを拝見すると歯科大学を卒業されているのですが、どうして歯医者さんにならずに自然音楽家の道に進まれたのでしょうか。とても興味深いですね。
ジョー:
歯科大学を卒業して、国家試験を受けて合格したのですが、歯科医にならずに、すぐにアメリカへ渡って音楽の道に進みました。それが1980年ですから約40年前です。 ロスで25年ほど活動し、東京に戻って10年、その後ハワイ島で暮らしていました。2021年11月に東京へ帰ってきました。そして、ある歯科クリニックで仕事を始めました。67歳の新人歯科医です(笑)。
中川:
大変なチャレンジだと思います。国家試験まで合格していたのに音楽の道ですか。よほど音楽が好きだったんですね。
ジョー:
そうですね。大学6年生になると、病院で1年間診療実習があって、その後半に国家試験の勉強をするわけです。国家試験は医大生、歯科大生にとっては一生を左右することですから、私もご飯を食べるとき、寝るとき以外はずっと勉強をしていました。 試験勉強中は合格することだけしか頭にありませんでしたから、自分の将来について考えることはあまりありませんでした。 しかし、試験が終わって発表があるまでに2カ月くらい時間があります。そのときに自分のこれから先の人生についてじっくりと考えました。このまま歯科医になって後悔はないのかと自分の思いを突き詰めていくうちに、どんどん音楽への思いが膨れ上がってきました。 国家試験の発表があって、歯科医の免許がもらえて、ほっとしたのも束の間、やっぱり音楽の道に進もうと決めました。 親はすごく怒っていました(笑)。
中川:
そりゃ怒りますよね。せっかく国家試験に受かったのに歯医者さんにならずに音楽の道ですからね。それもアメリカへ行くわけですよね。
ジョー:
でも、歯科大学で勉強したことは無駄にはなってないと自分では思っています。自然の音を扱うようになって、自分が学んできた医療のベーシックな知識とか、人間との向き合い方がとても役に立っています。 今回、日本に戻ってきて歯科医になろうと思ったのも、今までアーティストというアングルで表現してきたことを、今度は医療者という違った立場で伝えていければと考えてのことです。 自然の音は世界で一番美しいと思います。完璧だからこそ美しい。完璧な音は、人間の肉体にも精神にも、いろいろないい作用をもたらせるはずです。そこにアプローチできれば、医療者としても貢献できるのではないでしょうか。
中川:
自然の音を録ろうと思ったきっかけがあるかと思うのですが。
ジョー:
あるとき、レコード会社から自然の音を録音してほしいと依頼されました。やったことがなかったので試行錯誤しながらやっと録音ができて、ある日、ロスのスタジオで夜中に自分の録った自然の音を聴きました。ものすごくショックを受けました。感動するほど美しかったのです。パーフェクトな美しさでした。 なぜこんなにも美しいのだろう? と考えました。答えはすぐに出ました。神が作った音だから完璧なのです。美しいのです。 人間は音楽や絵画、彫刻など芸術作品を作るとき、完璧を目指すけれどもとても完璧には到達できません。完璧ではないところが人間の美しさであり良さだと思いますが、自然の音は非の打ちどころがありません。人間にはできないことを自然はやってのけていることにすごさを感じました。 そのことがきっかけで、神が作った音の完璧さを意識することができるようになりました。自分のこれまでの録音や編集といった経験、感性を全部注いで作品として自然の音の美しさを伝えたいという思いが湧き上がってきたのです。

<後略>

東京・池袋のSAS東京センターにて 構成/小原田泰久

CD:Tokyo-Forest-24Hours

ジョー奥田

           

2月「松浦 智紀」さん

松浦 智紀(まつうら とものり)さん

1975年埼玉県富士見市生まれ。九州東海大学農学部農学科卒。大学卒業後、福岡県久留米市の食品会社(流通・小売り)に就職。その後帰郷して、(有)サン・スマイルを起業。現在、同社代表取締役。自然栽培パーティ理事など多くの会で中心的な役割を果たす。自社の農園で自然栽培も実践中。

『自然栽培の生産者と自然食を食べたい消費者をつなぐ』

自然栽培がやりたくて九州の大学の農学部へ進学

中川:
自然栽培にはとても興味をもっていて、奇跡のりんごの木村秋則さんはじめ、生産者の方には何人もお話をうかがってきました。松浦さんは、自然栽培で作った作物を小売店に卸すという仕事をされています。 自然栽培の農家さんは少しずつ増えていると思いますが、松浦さんのような方が販売先を開拓しているからこそ、生産者も安心して作ることができるのだと思います。 自然栽培というまだマイナーな分野で生産者と消費者をつなぐというのは、けっこう大変だろうと思います。ご苦労されたこと、やりがいを感じるときといったお話をお聞かせ願えればと思います。
松浦:
ありがとうございます。大学時代から自然栽培にはかかわっていて、もう25年ほどになります。振り返ってみるといろいろなことがありました。

中川:
高校生のころに、農業、それも自然栽培をやろうと思って、大学は農学部に入ったそうですね。
松浦:
そうです。母がとても病弱でした。全身神経痛と言われていましたが、今で言う化学物質過敏症だったと思います。 スーパーで買った野菜が食べられず、農家から直接、無農薬の野菜を購入して食べていました。 あるとき、台所に一枚のはがきが置いてあるのを見つけました。母が野菜を届けてくれる農家に書いたものでした。何気なく手に取って読んでみたところ、母の感謝の気持ちが綴られていて、農業という仕事はこんなにも人に喜ばれるのだと思ったのがきっかけでしたね。
中川:
それまで農業の体験はなかったんですよね。
松浦:
父はアルミ工場を経営していて、農業とは無関係です。私も、近所の畑で遊んだことはありますが、農作業はやったことがありませんでした。食にもまったく関心がありませんでした。
中川:
熊本の九州東海大学の農学部に進学したわけですが、そこには自然栽培を学ぶコースがあったのですか。
松浦:
高校の先生に聞いてもわからないので自分で調べて、九州東海大学に自然栽培や有機栽培を研究している片野学先生という方がいるとわかって、ここへ行こうと決めました。
中川:
今から25年以上前のことですよね。自然栽培をテーマにしているという先生はあまりいなかったでしょうね。
松浦:
いませんね。片野先生は岩手大学におられるときに大冷害があって、ほとんどの田んぼが全滅したのに、自然栽培の田んぼだけはコメが実ったのを見て、自然栽培の研究を始めたそうです。 もっと本格的に研究をしようと九州東海大学へ来られたのですが、私が入学したころは完全に異端児でした。ある授業で、教授が「うちには片野というとんでもない奴がいる。無農薬という社会の役に立たないことを研究している」と言っていたのがとても印象に残っています。ほとんどの人がそう思っていたんじゃないでしょうか。 そんな状況ですから、大学に自然栽培のコースがあるわけではありませんでした。授業では現代農業のことしか教えてくれません。遺伝子組み換えの実験とかもやりました。 学校の勉強ではやりたいことが学べないとわかったので、片野先生にお願いして、県内を中心に自然栽培や有機栽培をやっている農家さんを回り、無肥料栽培についての論文を書いて卒業したわけです。
中川:
何軒くらいの農家さんを回られたのですか。
松浦:
100軒は回りましたかね。
中川:
当時から、自然栽培や有機栽培をやっている農家さんはけっこうあったんですね。
松浦:
熊本県は環境問題に対してとても意識が高いと思います。水俣病がありましたからね。そういう面では、いい大学に進めたと思っています。

中川:
熊本県には、私ども真氣光の会員さんも多いです。氣のような目に見えない世界のことにも関心が高い県なのかもしれません。野菜を作っていたり、野菜の卸売業をしている方もいます。 100軒も農家を回れば、いろいろな方がいたでしょうね。
松浦:
学生が訪ねて行くと、みなさん大歓迎してくれました。九州ですから、必ず焼酎が出ました(笑)。泊めてくれて、朝方まで飲みながら語り合いました。 どなたもこだわりがあって、みなさん独自の道を進んでおられましたね。もっと協力し合えば、自然栽培や有機栽培は広がるのにと思ったものです。 でも、考えてみれば、当時は無農薬の技術や知識も少なかったから、試行錯誤しながら自分のやり方を築いてきた人ばかりです。まわりの人たちには理解されず、村八分になった人もいました。お前のところが農薬を使わないからうちの父ちゃんが怒っていた、と子どもたちが学校でいじめられたりもしたようです。 家族を守るために、歯を食いしばってやってきた人たちばかりですからね。自立心とか自尊心が強いのが当然だと思います。 そういう人たちの苦労があったからこそ、今になって、彼らの技術を使わせてもらっているという面もありますよね。<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

           

1月「高砂 淳二」さん

高砂 淳二(たかさご じゅんじ)さん

1962年宮城県石巻市生まれ。ダイビング専門誌『ダイビング・ワールド』の専属カメラマンを経て、1989年にフリーカメラマンとして独立。世界100ヶ国を超える国々を訪れ、海中、虹、生き物、風景まで、自然全体のつながりや人とのかかわり合いなどを テーマに撮影活動を行っている。また、数多くの写真集・エッセイを出版している。

『リスペクトと感謝の気持ちをもって「自然」にカメラを向ける』

すべての生き物は役目があって地球上で生きている

中川:
ご無沙汰しています。どれくらいご無沙汰しているか調べてみてびっくりしました。前回、この対談に出ていただいたのが2000年でしたから、21年ぶりということになります。 あのときは写真家になった経緯などお聞きしました。先代のこともご存じだったというお話もされていたのを覚えています。
高砂:
そんなに前のことでしたか。早いですね。あのころから私は氣のことにすごく興味があったので、先代のことも存じ上げていました。先代もそうだし、ハイゲンキという機械にもとても興味がありました。
中川:
対談では、『アシカが笑うわけ』というご著書を紹介しました。あれからいろいろなところへ行かれたでしょうし、さまざまな体験をされたことと思います。
高砂:
『アシカが笑うわけ』のころは海に潜りながら写真を撮ることが多かったのですが、海底に這いつくばっているナマコとか石みたいに動かないサンゴとか人間と遊びたがるイルカなどを見て、なんでこんなにいろいろな生き物がいるのだろうと思っていました。 陸上にも目を向ければ、地球上には数えきれないほどのたくさんの生き物がいるじゃないですか。生き物たちが多種多様な生き方をしているのが不思議でたまらない時期でしたね。
中川:
確かに、地球の上は動物、植物であふれていますね。必要があって、いろいろな生き物がいるんでしょうね。
高砂:
その中に人間もいるわけですが、ほかの生き物から見たら、人間ってすごく不思議な生き物なんじゃないでしょうか。ほかの生き物が人間を見てどう思っているのだろうと想像したことがあります。獲物を追いかけるわけでもないのにわざわざ走ったり、釣った魚を食べずに逃がしたり、動物たちをペットにしてご飯を与えて散歩をさせたり、会社という群れで来る日も来る日も何かを手分けして作り、それを自分では使わずに紙切れと交換して喜んでいる。私たちがナマコを見て不思議だと思う以上に、彼らには人間のことが理解できないんじゃないでしょうか(笑)。
中川:
環境を破壊するのも人間だけだし。
高砂:
その通りですね。そんなことを考えているうち、人間ってなんのためにいるんだろうと気になって仕方なくなったのです。 いくら考えても答えは出ませんでしたが、2000年の夏にハワイの自然を撮影するためにマウイ島にひと月ほど滞在したとき、カイポさんという先住民の男性にお会いしたことがきっかけで、いろいろな疑問が解けていきました。
中川:
どんな方なのですか?
高砂:
薬草やロミロミというハワイの伝統的なマッサージ法で病気の治療をしている方でした。カイポさんを紹介してくれた知人の父親は、病院では治らなかった病状が、彼の治療で劇的に回復したそうなのです。 その話を聞いて、私は彼に弟子入りして、毎日のように彼のもとに通いました。 それまで何度かハワイへは行っていましたが、リゾート地としかとらえていませんでしたから、カイポさんとの出会いはとても新鮮でした。

中川:
カイポさんからはどんなことを教わったのでしょうか?
高砂:
ハワイでは「アロハ」とあいさつをしますが、とても深い意味があります。ひと言で言うと「愛」なのですが、もっと細かく言えば、アロハは「アロ」と「オハ」と「ハ」に分解されて、「アロ」は目の前のとか、シェアするとかいう意味、「オハ」はあいさつ、喜びなど、「ハ」は、呼吸、神の息吹き、生命などのことです。アロハになると神の息吹を共有する、分かち合うといった意味になります。
中川:
神の息吹を共有し分かち合うことですか。それがアロハなんですね。「ハロー」くらいの軽い気持ちで言っていますが、深い意味があるんですね。
高砂:
私は、アロハこそ人間の役割なのかなと思いました。 それで、私がずっと疑問に感じていた、なぜこんなにたくさんの生き物が地球上にいるのかということをカイポさんに聞いてみました。 カイポさんからはこういう答えが返ってきました。 生き物にはみんな役目があって、パズルのピースが集まって形を作り出すように、地球を成り立たせているのです。 ハイエナやバクテリアだったら大地の掃除をする存在だし、ミミズは土を耕します。なんのためにいるのだろうと思えるような小さな生き物も、自分では気づいていないかもしれませんが、もっと大きい生き物に食べられて栄養を与えるという役目があります。植物は酸素を供給したり、動物に食べられて命を養うという役目があります。 彼らはすべての生き物は意味があって存在するということをまったく疑っていません。食べられるというのも大事な役目だというのは、新しい発見でした。 海に潜っていると、逃げまどって一生を終える小魚たちを見ますが、彼らは逃げながらも嬉々として生きているように見えます。役目を果たしているからなんでしょうね。植物たちも「さあ、食べてください」と言わんばかりに凛として大地から生えているように見えます。

<後略>

東京・渋谷区の高砂さんのご自宅にて 構成/小原田泰久

PLANET OF WATER (NATIONAL GEOGRAPHIC)

高砂 淳二 (著)
ナショナル ジオグラフィック

           

12月「あじろ ふみこ」さん

あじろ ふみこ(あじろ ふみこ)さん

新潟県立高田北城高校卒後、国立清水海員学校・専修科(現・国立清水海上短期大学校)卒。東京港で150人乗り海上バスの船長兼機関長を務める。2000年会社員の夫と結婚、長男・長女二人の発達障害児を育てる。現在、東京都公立学校特別支援教室専門員。著書『母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年』(中央公論新社)

『右往左往の子育て体験。息子も娘も発達障害だった』

すごい勢いで移動して障子をバリバリと破り始めた

中川:
知り合いからあじろさんが書かれた『母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年』(中央公論新社)という本をすすめられました。 2人のお子さんが発達障害ということで、悪戦苦闘の子育てをされた様子が詳しく書かれていてとても興味深かったです。 発達障害のことはあまり知識がありませんでしたが、世間の理解もまだまだだし、悩んでいるお母さん方も多いのではないでしょうか。あじろさんの体験は、こうやればいいのか、こう考えればいいのかと、参考になるかと思います。
あじろ:
ありがとうございます。 これまでは、学校は毎日行かないといけないし、いろいろな方とかかわるのがいいことだとされてきました。それが適応力があるということだったんですね。 ところが、今はコロナ禍で、学校が休みになったり、人とかかわってはいけませんという風潮になっているじゃないですか。真逆ですよね。 適応力があるとされてきた子は戸惑っていると思いますよ。親御さんもそうです。遊ばせる場所がない、学校へ行かなくて大丈夫だろうかと、心配になってしまいます。 だけど、発達障害の子は、家の中でゆっくりできて、友だちと緊張状態の中で付き合う必要がないというのはとても快適です。コロナ禍の社会に適応しているんですね(笑)。 そういうものの見方もあるということを知るのもとても大事かなと思ったりしています。
中川:
確かにそうですね。状況に応じて、プラスがマイナスになったりマイナスがプラスになったりしますね。 息子さんが普通の子とは違うなと感じたのはいつごろですか?
あじろ:
生まれたときから「なんか変」と感じていました。とにかく寝ないで泣きまくるんです。抱っこしているといいのですが、床におろしたとたんにギャーと泣くんです。絶対に寝ない。 家で抱っこしていても泣くようになって、夜風に当たりながら外で抱っこしていたこともありました。 公民館で7 ヵ月から1 歳2ヵ月までの子どもを対象とした子育てサークルに参加しました。 ほとんどの子どもたちはお母さんの膝に乗って絵本を読んでもらったり、おもちゃで遊んでいるのに、うちの息子は絵本やおもちゃには見向きもしませんでした。 すたすたと障子のもとへ向かい、障子を次々と破いていったのです。ものすごいパワーです。 つかまえると大声で泣き、離すと一目散に障子に向かっていって、また破き始める。障子の下の方のマスは全滅でした(笑)。
中川:
それは大変だ。
あじろ:
買い物に連れて行っても大変です。息子がスーパーへ入ったとたんに突進していく場所はお菓子コーナーではなくて鮮魚売り場。ケースの中に入った鮮魚をつかんで大騒ぎするんです。 水たっぷりの樽にドジョウを入れて売っていたことがありました。おもむろに樽に両手を突っ込み水をばしゃばしゃかき混ぜながらドジョウとたわむれ始めました。床は水浸し。ドジョウだって飛び出したりしますよ。必死で止めようとしましたが、全身全霊で号泣ですよ。もう収拾がつきません。ほんの数分が永遠と思うほどの長い時間に思えました(笑)。
中川:
すごいですね。そんな状態だと出かけられなくなりますよね。
あじろ:
息子のように何をするかわからない子どもを育てていると、家に引きこもっていたほうが、他人の目を気にする必要もないし、他人に迷惑をかける心配もないので安心かもしれません。 でもそれって、「しつけもまともにできないダメな親」と非難されるのがいやだというのが本心だと思うんですね。人は体験を積むことで成長する、と私は信じているので、息子をあちこち連れて行きました。
中川:
まわりからいろいろ心ないことも言われたんじゃないですか。
あじろ:
事情を知らない人たちが、目の前で起こった出来事だけで非難を口にするのには参りましたね。上から目線で「私が正してあげる」というある種の正義というんでしょうか、もっと相手の立場に立って、非難ではない別の伝え方があるのではと思いました。 理不尽な非難を受けて、最初は悲しんでいましたが、何度もそういう体験をするうちに、私は「言うのは相手の自由。聞かなかったことにするのは私の自由」と割り切ることができるようになりました。 とにかく何が大切なのかと考えました。私が非難されないのが大切ではなく、息子にいろいろな経験をさせてあげることを優先しよう。そのためには、私が防波堤になる、と覚悟を決めましたね。


<後略>

東京・池袋のSAS東京センターにて 構成/小原田泰久

母、ぐれちゃった。発達障害の息子と娘を育てた16年

あじろ ふみこ (著)
‎ 中央公論新社

           

11月「立川あゆみ」さん

立川あゆみ(たちかわあゆみ)さん

千葉県八千代市の農家の長女として生まれ、畑を遊び場として育つ。アパレル会社勤務、お笑い芸人、専業主婦、飲食店勤務など、さまざまな職をへて、パクチーの栽培を始める。その間、夫が他界するなどつらいことも体験した。今はパクチーの6次産業化を進め、新聞やテレビ、ネットなどで紹介されるようになった。

『つらさを乗り越え、パクチー栽培でワクワクする毎日』

お笑い芸人、結婚、夫の急死と波乱万丈の20代30代

中川:
Yahooニュースを見ていたら、《元芸人が農業に転身、話題のパクチー自販機で活路「最愛の夫の他界が転機に」》という立川さんに関する記事があって、すぐに読ませていただきました。私はパクチーが大好きです。それでこの記事が目に止まったのだと思います。「元芸人が農業」とか「最愛の夫の他界」というタイトルを見て、きっと波乱万丈の人生を送った方だろうと興味をもちました。パクチーの自販機という発想も面白いなと思いました。
立川:
ありがとうございます。私も氣とか波動には興味があります。会長は氣の専門家ということですが、会長のところへはどんな方が来られるんですか?
中川:
体調が良くない方とか、迷い、悩みがある人が多いですね。氣は生命エネルギーですから、不足したり流れが悪いと体調も悪くなりがちだし、運気も高まりにくいと思います。だから、氣をしっかりと受けていただいて、氣を充電し、流れを良くすることで、いろいろな変化が起こってきます。氣を受けていると、生き方や考え方が変わってきて、つらいことがあっても、押しつぶされるのではなく、それをバネにして一歩二歩と前進できるようになる方も多いですね。立川さんもつらいことがいっぱいあったと思いますが、それを乗り越えて、今は充実した毎日を過ごしておられるのは、氣がしっかりと充電されているからじゃないかと思います。若いころはお笑い芸人を目指していたんですね。
立川:
小さいころから芸能界に興味があって、お笑い芸人になりたいと思っていました。テレビの『オレたちひょうきん族』なんかが流行っていたころです。大阪のNSC(NewStar Creation 吉本総合芸能学院)に受かりました。ダウンタウンさんは、ここの一期生です。千原兄弟さんとかナインティナインさんといったお笑い界で大活躍している人たちが卒業しているところです。でも、両親に反対されて、服飾の専門学校へ進みました。ファッションにも興味がありましたから、卒業後はアパレル関係の会社でデザイナーの仕事をしました。しばらくして吉本興業が東京に進出して銀座七丁目劇場ができました。オーディションがあると知って、お笑い芸人になりたいという気持ちがよみがえり、オーディションを受けました。そしたら受かっちゃったんです。何年かはアパレル会社に勤めながら、舞台に立ってお笑いをしていました。
中川:
それから結婚されたんですね。
立川:
結婚して専業主婦になりました。今は26歳の娘と23歳の息子がいます。
中川:
ご主人は亡くなったとニュースには出ていましたが。
立川:
結婚して12年目。私が33歳のときでした。主人は13歳上の46歳でした。死因は心筋梗塞でした。
中川:
突然だったんですね。
立川:
春分の日に、みんなで息子の野球チームの応援に行きました。そしたら、胸が苦しいからと言って、主人は先に家へ帰りました。心配だったので、しばらくしてから電話をしましたが出ません。メールの返事もありません。おかしいなと思ってあわてて帰ったら、ベッドで亡くなっていたんです。玄関を開けたとき、いつもと違った雰囲気がありました。ああいうときって、119番に連絡するんですよね。でも、慌てていたので110番に通報してしまい、救急に回してもらいました。救急車が来るまで心肺蘇生をしましたが、結局戻ってきませんでした。

中川:
大変だったんですね。お子さんも小学生ですしね。
立川:
3年くらいは突然涙が出てきたりして、精神的に不安定でしたね。いいこと嫌なこと、いろいろあったけれども、いつもそばにいた人がいなくなる喪失感は想像以上でした。たくさんの人に助けてもらったり支えてもらったりしましたが、それでもさみしさはどうしようもなかったですね。子どもたちのケアもしないといけないですしね。子どもたちは、お父さんが突然いなくなった寂しさもあるけれども、親って、お父さんが怒ったらお母さんが慰めるみたいなバランスがあるじゃないですか。それが崩れちゃって、私一人で怒っては慰めるということをやらないといけないので、接し方が難しかったですね。戸惑いばっかりでした。
中川:
お子さんたちもお母さんのことを気遣ってくれたりしたんじゃないですか。
立川:
母と子どもの絆という面では強くなったと思います。ずっと仲のいい親子ですねと言われますから。3人で支え合って生きていこうという意識が自然に芽生えたのだと思います。ただ、子どもたちも精神的に不安定な部分はありました。下の子が4年生のときだったかな。行動が変なので病院へ連れて行ったことがありました。今は、私の仕事を手伝ってくれたりしてとても助かっています。

<後略>

千葉県八千代市のPAKUCISISTERSにて 構成/小原田泰久

           

10月「濁川孝志」さん

濁川孝志(にごりかわ たかし)さん

1954年新潟県生まれ。立教大学で30年以上にわたって教鞭をとり、学生たちに霊性(スピリチュアリティ)について真摯に語りかけている。「霊性の喪失が現代社会のさまざまな問題を生み出している」という確信から、数々のシンポジウムやイベント、講演会を通して霊性の重要性を訴えている。著書に『星野道夫 永遠の祈り』『ガイアの伝言 龍村仁の軌跡』『大学教授が語る霊性の真実』などがある。

『若者たちに“霊性”の大切さをわかりやすく伝えたい』

日本人には、見えないものを敬い畏れるという気持ちがある

中川:
 先生の書かれた『大学教授が語る 霊性の真実』(でくのぼう出版)を読ませていただきました。 霊性とかスピリチュアリティといった話は、どうしても非科学的だということで、なかなか学問の対象にはならないと思います。にもかかわらず、20年以上も霊性をテーマに研究をされてきた大学教授というのはどういう方なのか、お会いできるのをとても楽しみにしていました(笑)。
濁川:
 ありがとうございます。私も、氣功にはとても興味があって、論文を書いたこともあります。氣を受ける前と後とでは体や心の状態が変わるという内容です。たとえばせっかちな人が氣を受けることでゆったりと生きるようになったりするのです。 私の方こそ、会長からどんなお話が聞けるのか楽しみにして来ました。
中川:
さっそくですが、先生はなぜ霊性に興味をもたれたのかお聞かせいただけますか。
濁川:
私はもともとの専門は運動生理学でした。運動や山登りが大好きでしたから、人間の体の研究というのはとても面白かったですね。 健康科学という講座をもつことになって、健康は体だけでないだろうと思い始めました。心の健康も大切だし、霊性というのもあるじゃないかと少しずつ膨らんでいきました。気づいたら霊性が中心になっていました。それが40歳くらいでしょうか。 振り返ってみると、子どものころ「自分は何のために生きるのか」とよく考えた記憶があります。自宅の部屋で一人ぼんやりと過ごしていて、なぜかものすごい孤独感に襲われるわけです。そんなとき、人は死んだらどうなるのだろう、なぜ生きないといけないのだろう、宇宙の果てには何があるのだろう、と思ったりしていました。 かなり変わった子どもだったかもしれません(笑)。 20年ほど前、あることで大きなストレスに襲われました。悩みに悩みました。自分は何のために生まれてきたのだろうと毎日、自分に問いかけていました。 そんなときに、同僚が当時福島大学の教授だった飯田史彦先生の『生きがいの創造』(PHP出版)という本を紹介してくれました。「死後の生」や「生まれ変わり」「ソウルメイト」といったスピリチュアルな世界から生きがいについて論じたとても奥深い本でした。この本を読んで私は「これでいいんだ」と思えて、悩みから脱することができました。それがきっかけで、本気で霊性について研究をするようになりました。
中川:
 なるほど。WHOの健康の定義でも霊性を入れようという提案があったということで話題になりました。もう20年以上も前になりますかね。残念ながら、提案だけで終わっているようですが。 私の父である先代の会長が「氣によって霊性を高め、地球の環境を浄化する」とよく言っていたので、私には霊性という言葉に抵抗はないのですが、一般の人にはまだまだすんなりとは受け容れられませんね。 先生は霊性についての講義をしているそうですが、学生さんの受け止め方はどうでしょう。
濁川:
 いきなり生まれ変わりの事例とか臨死体験、幽体離脱といった話をすると、学生は目を白黒させています。そんな話、大学の講義で聴くとは思ってもないでしょうから。 いきなりスピリチュアルな話をするのではなく、講義をする前に、あなたは神社やお寺へ行ったことがありますか?と聞きます。だいたい「ハイ」と答えます。次に「神社やお寺では手を合わせますか?」と聞くと、「ハイ」という返事が返ってきます。「お墓参りをしますか?」「何のためにお墓参りをしますか?」と質問を続けていきます。そんなこと深く考えてない学生がほとんどなので、何のための質問なのかときょとんとしています。
中川:
 習慣だからとか何となくという人がほとんどでしょうね。
濁川:
 日本人の根底には、見えないものを敬い畏れるという気持ちがあるから、神社やお寺で手を合わせたり、お墓参りをするのだと思います。
中川:
 最初に日本人の心というものにアクセスしてから講義に入っていくのですね。
濁川:
 そうですね。3〜4週間講義をしてから、神社やお寺に行って手を合わせたり、お墓参りをする意味を問い直してみます。 半数くらいは、習慣でやっていたことにもこういう意味があったのだと、私が言っているスピリチュアルな内容を受け容れてくれます。残りの半数は理屈としてはわかるけれども理解しがたいとか、にわかには信じられないという反応です。

<後略>

大学教授が語る霊性の真実 ─魂の次元上昇を求めて

濁川孝志 (著)
でくのぼう出版

           

9月「小澤 隆秋」さん

小澤隆秋

小澤 隆秋(おざわ たかあき)さん

1938年(昭和13年)山梨県生まれ。15歳から和菓子職人の道に。10年の修行の後、大手企業の和菓子工場で責任者として和菓子を製造しつつ後進の指導に当たる。15年前から無添加の和菓子作りを始める。山梨県内各地で和菓子教室を開くと、たちまち、50人~100人が集まる人気の教室になった。現在、山梨県甲州市にあるアグリヒーリングヤギーずビレッジで商品販売。

『和菓子作り一筋67年。無添加でおいしい和菓子を広げる』

相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれる

中川:
 先ほど、小澤さんがお作りになった大福と水ようかんをご馳走になりました。とてもおいしかったです。私は和菓子には目がなくて、特にあんこと餅が大好きなので、うれしかったですね。
 小澤さんは長年、和菓子職人として働いてきて、82歳の今も現役で和菓子教室を開いているそうですが、そもそも和菓子職人になったきっかけは何だったのですか?
小澤:
 中学を卒業後、母親が勤めていた和菓子屋さんで、住み込みで働くことになりました。母親がまじめな人だったので、その息子なら安心だろうと、私を雇ってくれました。
 私は高校へ行って勉強をしたかったのですが、母親が『職人になったら定年もなく、いくつになっても働けるから』と言うので、仕方なく決めた道でした。
 2回脱走しましたね(笑)。高校へ行きたいという気持ちが捨てられませんでしたから。
中川:
 2回もですか。
小澤:
 母親に連れ戻されて、『手に職をもつといいから』とこんこんと説得されて、やっと『よし、まじめにやろう』と決めました。あれから67年もたちました。早いですね。
中川:
 修行は大変だったんでしょうね。
小澤:
 いつも言われたのは『人に負けないようにやれ』ということでした。しかし、技術を身につけようとしても先輩は教えてくれませんから、技術は見て盗まないといけません。
 それに上下関係は厳しかったですね。先輩にはぜったいに逆らえないし、仕事が終わるとお湯とタオルを用意して差し出すなど、仕事以外のことで気を使うことがいっぱいありました。
 人のお世話をするのは嫌いではありませんでしたが、先輩だからと言って威張るのはおかしいと思いました。
 自分が上になったらぜったいにこういう真似はしたくなかったですね。このときに、人を大切にしようと心に決めました。
 給料は2年間、一銭も出ませんでした。これもつらかったですね。
 でも、そのおかげで我慢することを覚えました。今考えると、すべてのことがプラスになっているように思いますね。
中川:
 そうですね。どんなことも気づきのチャンスですよね。それにしても15歳で人を大切にしようと決心したのはすごいですね。
小澤:
 経営者は従業員を、先輩は後輩を大切にしないと会社は成長しませんね。上の人が威張っている会社はダメになりますね。
中川:
 そのお店ではどれくらい働いたのですか?
小澤:
 10年間修業をしました。このお店で働いて良かったのは、5年間は工場で和菓子作りをやり、あとの5年間は営業の仕事ができたことです。
 特に、営業で外へ出ていろいろな人とかかわったのは後々、とても役に立ちました。
 人と接することで、人を見る目が養われました。和菓子を作ってばかりだと、技術は上達しても、人間的に成長できなかったのではと思います。
中川:
 営業では、お客さんが何を望んでいるかをキャッチする能力が必要ですよね。相手の氣を感じる力だと、私は思っています。
 人と接することで、相手の気持ちがわかったり、どうしたら自分の気持ちを伝えることができるかと、あれこれ考えますからね。
小澤:
 ちょっとした気づかいで営業の成績を上げることができます。私は、個人のお宅を回って和菓子を売っていましたが、困った人を見ると助けたくなる性格がプラスに働いたことはよくあります。
 道で荷物をもっているおばあちゃんに会うと、ついつい『もってあげましょうか』と声をかけたくなるんです。そのおばあちゃんがお得意様になってくれたこともあります。
 先ほど、人を大切にするという話をしましたが、相手を大切にすれば向こうもこちらを大切にしてくれますね。
中川:
 氣が伝わるんでしょうね。こちらがいい氣を発すると、相手からもいい氣が届けられますね。
小澤:
 私には氣の話はよくわかりませんが、目に見えない何かが伝わるという感覚はわかります。
 父親は大の動物好きで、わが家には馬や牛、ヤギ、ヒツジ、ニワトリ、ミツバチなど、たくさんの生き物がいました。
 動物の世話をするのは子どもたちの役割です。子どもですから、ときどき餌やりを忘れたりしました。父は怒りましたね。ご飯抜きで蔵に放り込まれました。餌をもらえない動物たちの気持ちを、身をもって知りなさいというわけです。そんなこともあって、動物たちとは家族のように接するようになり、動物たちの気持ちもわかるようになってきました。
 彼らは言葉もよくわかっていて、しゃべれませんが、私たちが言っていることは、全部わかっていると思いますよ。やさしく接すれば、彼らはとても喜びます。
中川:
 人を大切にしようと思ったのは、子どものころのそういう体験があったからかもしれませんね。
小澤:
 そう思います。ミツバチもたくさん飼っていましたが、一度も刺されたことがありません。ハチはこちらが何もしなければ絶対に刺しません。ミツバチだけでなくて、アシナガバチやスズメバチも同じです。

<後略>

           

8月「龍村 ゆかり」さん

龍村ゆかり

龍村 ゆかり(たつむら・ゆかり)さん

ドキュメンタリー映画「地球交響曲」プロデューサー イメージメディエーター NVC認定トレーナー候補生。86年よりテレビ番組のディレクターとして数々のドキュメンタリーや情報番組を手がける。91年、のちの夫となる龍村仁と出会い、以降テレビ番組、映画を共に製作。03年映画プロデュース修士修得。チベット砂曼荼羅展などのイベントやCD、ワークショップ等のプロデュースも手がける。この30年は地球交響曲を世に出すことに専念。いのちへの好奇心から脳と心の不思議な仕組みを学び、修復的対話トーキングサークルや共感的コミュニケーションなども伝え始めている。一男一女の母 共著:「地球の祈り」(角川学芸出版)

『何かに導かれるようにして地球交響曲最終章が完成』

小林研一郎指揮の「第九」。地球交響曲の最終章を飾る

中川:
 ついに完成しましたね、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第九番』。先日、拝見しました。とてもいい作品で感動しました。1992年に一番が上映されて約30年になるんですね。
 龍村仁監督には、この対談に何度か登場願っています。今回も第九番が完成したということで、監督にお越しいただこうと思ったら、体調が芳しくないということでお断りの返事があってがっかりしていました。
 龍村ゆかりさんは、監督の奥様であり、この映画には一番からかかわってこられ、九番については、監督の体調不良もあって、上映までこぎつけるのにとても重要な役割を果たしてこられました。大変だったと思います。
 今日は、ゆかりさんに第九番についてお話をお聞きしたいと思います。 
 まず、監督の体調ですが、かなり難しい病気だそうですね。
龍村:
 前頭葉と側頭葉の機能が低下していく病気です。体は元気なのですが、言語を司る部分の機能がダメになっていくということで、うまくコミュニケーションができません。
 2019年2月に骨折で動けなくなったときに検査を受けてわかりました。今思えば、その前から兆候はありましたけどね。
中川:
 第九番のメインの出演者は指揮者の小林研一郎さん。コバケンさんと呼ばれていますが、ベートーヴェンの第九の指揮では世界でも右に出る人はいないと言われています。
 2019年12月25日にサントリーホールで行なわれた第九のコンサート。もちろん、指揮はコバケンさんですが、映画ではコバケンさんはじめ、関係者が大変な準備の末に、コンサートを成功させた様子が描かれています。
 私は12月25日のコンサートにもうかがいましたが、映画を見てこれほどの練習をしたのかとびっくりしたし、それだけ準備をしたからこそ、すばらしい演奏会になったのだと思いました。
 オーケストラと合唱団。総勢何人くらいのコンサートだったのですか?
龍村:
 合唱団だけで200名、オーケストラが80名くらいです。
中川:
 300名近い人が当日に最高の演奏ができるように準備をするわけですからね。すごいなと思いました。
龍村:
 会長はオンラインで映画を見てくださったのですか?
中川:
 そうです。オンラインでやってもらって良かったですよ。仙台から新幹線に乗ったらちょうど始まりました。東京に着くまでじっくりと見させていただきました。
 コバケンさんもベートーヴェンにはすごく思い入れがあると感じましたね。
龍村:
 コバケンさんは今の福島県いわき市のお生まれですが、10歳のときにラジオから流れてきた第九を聴いて、心が震えて涙が止まらなかったとおっしゃっていました。以来、ベートーヴェンに心酔し、第九の世界を追求してきたようです。
中川:
 監督とは同い年で、生まれた月も一緒だそうですね。
 もともとお知り合いだったのですか?
龍村:
 最初のご縁は1974年でした。コバケンさんはブダペスト国際指揮者コンクールで優勝し、一躍ハンガリー中で注目される指揮者になりました。
 そのころ、監督は『地球は音楽だ!』というテレビ番組を作っていました。取材でハンガリーへ行ったときに、監督が言うには、畳二畳ほどの大きさのコバケンさんのポスターが飾ってあって、びっくりしたそうです。そのときに「小林研一郎」という名前がインプットされたみたいですね。
中川:
 50年近く前の話ですね。そのあとも何か接点がありましたか。
龍村:
 第五番でアーヴィン・ラズロ博士を取材しました。ラズロ博士は世界賢人会議「ブダペストクラブ」の創設者です。
 ブダペストクラブを訪ねたとき、壁に飾ってある写真を見ていたら、そこにコバケンさんがいたのです。「また小林研一郎」だと、ただならぬ縁を感じたのではないでしょうか。
 実は第五番にその写真が出ています。
 さらにご縁は深まって、コバケンさんの奥様の櫻子(ようこ)さんが「地球交響曲」をずっと見ていてくださっていたのです。コバケンさんの写真が映画に出ているのにも気がついて、それがきっかけでコンサートにご招待してくださるようになりました。
中川:
 どんどん接近していきますね。監督はコンサートに行ったときに、楽屋で出演を申し込んだそうですね。そのときが初めての直接の出会いだったのですね。
龍村:
 監督としては、出会うべき人に出会ったという感じだったのではなかったでしょうか。櫻子さんのお口添えもあったと思いますが(笑)、コバケンさんは監督の作品をとてもリスペクトしてくださっていて、龍村さんの作る映画であればと承諾してくれました。
 でも、せっかく話が決まったのに監督が骨折してしまって、2年くらいストップしてしまいました。

<後略>

2021年6月3日 東京・エスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

           

7月「笹原 六氣」さん

笹原六氣

笹原 六氣(ささはら・りっきー)さん

1960年東京生まれ。幼少時から病弱で各地の大学病院や湯治場に通う。20代からパソコンにのめり込み、電磁波の影響で目が見えなくなり、右手も動かなくなる。有機農法の師匠と出会い、農業を始める。山梨に移住しアーモンド作りを開始。2021年4月13日に「令和2年度未来につながる持続可能な農業推進コンクール」で関東農政局長賞を受賞。

『苦難の日々を糧にして、今は心を込めてアーモンドを育てている!』

パソコンにのめり込んで体がボロボロになった若いころ

中川:
 山梨県甲斐市にある「リッキーランド」という農園にうかがいました。こちらでは、アーモンドを無農薬で栽培されています。前例のないことなのでさぞかしご苦労もあったかと思いますが、私が気になったのは、農園主の笹原さんのお名前です。
 六氣と書いて「リッキー」さんと読むんですね。
笹原:
 会長のやっておられる真氣光と同じ氣ですよね。私もとても親しみを感じます(笑)。
中川:
 六つの氣というのはどういう意味が込められているのですか。
笹原:
 私は子どものころから病弱でした。あちこちの病院へ行っては新薬を出されて、その影響で体がボロボロになって、内臓の機能がものすごく低下していました。小学校4年のときには腎臓が悪くなって、人工透析を受けるほどでした。
 見かねた親が姓名判断を受けたところ、画数が悪いと言われたことから何度か名前を変えることになりました。
 六氣を名乗るようになったのは30代になってからです。悲惨な人生が続いていましたので、精神世界とか宗教とか哲学とか、心のあり方についてずいぶんと勉強しました。そんな中で五行思想が好きになりました。古代中国の思想で、万物は木・火・土・金・水の5つの元素からなるという説です。私は、それに空を加えて、6つの元素、エネルギーということで六氣としました。
 それからも苦難は続きましたから、改名に即効性があったわけではありませんでしたが、私はこの名前がとても気に入っています。
 会長も、リッキーと呼んでください。
中川:
 そうでしたか。リッキーさんは61歳ですよね。苦難の人生をへて、アーモンドにたどり着いたわけですね。
笹原:
 病弱な子ども時代から始まって、20代後半にはうつになり、ITの仕事でしたから、一日中パソコンの前に座っていたせいで、電磁波の影響を受けて、体がどんどん悪くなっていきました。
 何のために生まれてきたのか、いっそのこと生まれてこなければ良かったのではと、自問自答の繰り返しでした。
 小学校のときから薬には苦しめられてきたので、どんなに苦しくても抗うつ剤や睡眠薬には頼らず、その代わり、新興宗教、伝統宗教、霊能者、超能力者、いろんなところを回りました。オウム真理教にも行きました。まだサリン事件を起こす前でしたが、幸いなことに、相手にされずに追い返されました。
とにかく、なんでこんな思いをしないといけないのか、答えを知りたくて探し回り、40代後半まで模索の旅は続きました。20年間ですね。その間、何度も自殺を試みました。でも、なぜか死ねませんでしたね。
中川:
 20年間とはすごいですね。IT関連の仕事をされていたのですか。
笹原:
 パソコンに救われている感じでしたね。ネットを通してでしたが、社会に参画しているという安心感があったのではないでしょうか。顔も名前も知らない関係でありながら、心の深いところまで話せる友が見つかったりするわけです。自分にとってはありがたいツールだったですね。
 だからこそのめり込んでいきました。毎日16時間、パソコンの前に座っていたこともあります。トイレとお風呂と寝るとき以外はパソコンの前です。こんな異常な生活をしていて何ともないはずがありません。
 体が悲鳴を上げました。目が見えなくなってきたんですね。手術をしましたが、これで一年以内に視力が落ちてきたら失明する、と主治医に言われました。
 私の場合、術後すぐに視力が低下し始めました。ちょうど自動車の免許の更新がありました。視力が悪いので更新ができませんでした。それで、車を売り払って、白い自転車を買いました。
 白い杖をつくのは抵抗があったので、白い自転車を押して歩いていました。
 絶望的な気持ちになりました。徐々に視力が落ちていくというのはものすごい恐怖でした。生きながらにして人生のどん底を味わったという感じです。
 さらに右手が痛くて箸も持てません。手首も曲がらず肩も上がりません。パソコンもできないし、もう何をやっていいかわかりませんでした。このときに何度目かの自殺を試みました。でも、なぜか死なせてもらえませんでした。
中川:
 やるべきことがあって、なかなか死なせてもらえない人もいるかと思います。今のリッキーさんを見ていると、だれもやったことのないアーモンドの無農薬栽培を成功させているのですから、そういう役割があったのかもしれませんね。
笹原:
 確かに、苦しい体験は今に生きていますね。あのころは苦しいだけの毎日でしたが。
 ひとつ発見がありました。視力という一つの感覚が衰えると、別の機能が敏感になるんですね。目が見えなくなって、人の心がわかるようになってきました。
 言っていることと考えていることが違う人がいるじゃないですか。手に取るように、その人が何を思っているかがわかってしまうようになったんです。

<後略>

(2021年5月20日 山梨県甲斐市のリッキーランドにて 構成/小原田泰久)

           

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