しんきこう - 氣のリラクゼーション SHINKIKO |真氣光 - Page 2

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3月「佐々木 厳」さん

佐々木 厳(ささき・げん)さん

1984年埼玉県川口市生まれ。大学卒業後、花火の道を志し、山梨県内の煙火製造会社に6年勤務。その後、日本の伝統花火「和火」にひかれて独立。和火を専門に研究、和火の魅力や日本の精神文化を広める活動を行っている。山梨県富士川町の自然環境の豊かな場所で花火作りを行っている。魂を癒す花火。

『慰霊・鎮魂・祈りのエネルギーを乗せて』

夜空へ江戸時代の花火はワビサビを感じる和火ばかりだった

中川:
今日は、東京から甲府まで特急で来て、身延線に乗り換え、市川大門という駅で下りました。駅からは佐々木さんの車に乗せてもらって花火工場までうかがったわけですが、ずいぶんと山の中なので驚いています。 ひと通り工場を案内していただきましたが、花火の工場なので、コンクリートで丈夫に作られた建屋がいくつか並んでいて、小さな要塞みたいな感じです。この時期、寒いと思いますが、火気厳禁ですから、暖房も使えない。今日も冷えます。 毎日ここに来られているんですね。
佐々木:
そうです。毎日、ここで花火を作っています。寒いときはしっかりと着込んで働いています。それでも寒いですね(笑)。
中川:
前号で炭焼き職人の原伸介さんにお話をうかがったのですが、その中に和わ火び師しの方とコラボしたという話があって、和火師って何だろうと調べていて佐々木さんに行き着きました。和火というのはあまり聞いたことがないのですが。
佐々木:
原さんとは彼の講演会でお会いして、すっかり意気投合し、私の花火に原さんの炭を使わせていただくことになりました。 和火ですが、日本の伝統的な花火のことを言います。江戸時代までは和火ばかりでした。明治に入って、西洋から、今私たちが見ているような派手な花火が入ってきて、それが主流になりました。西洋の花火を洋火と言っています。
中川:
先ほど、作業場を拝見しましたが、和火の材料は3種類だけなのですね。
佐々木:
そうですね。塩えん硝しょう、硫い黄おう、木炭という3種類の自然原料です。
中川:
塩硝というのは?
佐々木:
硝しょう石せきのことで火薬の原料になります。塩硝と硫黄、木炭を混ぜることで黒色火薬になります。戦国時代には火縄銃を撃つのになくてはならない火薬でした。
中川:
火縄銃に使われていた技術だったんですね。
佐々木:
江戸時代になって戦争がなくなり平和になったので、火縄銃も必要なくなりました。それで、火薬の技術が花火に使われるようになったようです。 洋火は化学薬品が使われていますので、あんなにも華やかに開きます。 和火は暖かみのある赤褐色の灯りと、幽ゆう玄げんな美しさをもつ炭火の火の粉が特徴です。
中川:
今の花火がカラフルで派手なのは、化学物質が燃焼しているからですか。和火は、木炭の粉が燃えるから、オレンジ色の暖かな色になるわけだ。 私も夏には花火を見に行ったりします。きれいはきれいなのですが、上がったあと空に白煙が広がって見えにくくなります。あれは化学薬品のせいなんですね。 長く見ていると、飽きてきたり疲れてきたりします。和火は見たことないのですが、和火と洋火ではエネルギーが違うのかもしれません。
佐々木:
どこの花火会社でも和火は作っています。ただ、花火大会では洋火と洋火の間の休憩の意味合いで上げています。私は、和火だけで十分に楽しんでもらえる自信がありますけど。
中川:
3種類の自然の原料だけでも変化は出せるのですか。
佐々木:
塩硝と炭の配分によって燃焼のスピードが変えられます。炭の原料が松であるかクヌギであるか、ほかのものであるかによって色味が違ってきます。炭の粉の大きさで火の粉が残る時間が違います。細かい粉だとすぐに消えてしまいます。 そういったことを考えながら設計していきます。3種類の原料をいろいろ変化させながら作る花火なので、私は洋火よりも奥行きが表現できると思っています。
中川:
日本の伝統であるワビサビの世界ですね。渋さがあるんでしょうね。
佐々木:
おっしゃる通り、和火にはワビサビだったり幽玄だったり、日本の精神文化が入っています。原さんはそのあたりのことをよくご存じなので、彼の炭を使った和火は本当に気持ちいいですよ。作り手の思いが乗るのだと思います。
中川:
作り手の思いは大切ですね。料理でも、相手のことを思って作るのと、面倒くさいなと思って作るのとでは、エネルギーが全然違います。 ところで、花火はいつごろからあるものなのでしょう。
佐々木:
原型は中国の狼の ろし煙で、狼煙が発展して花火になったと言われています。 狼煙というのは字を見てわかるように、もともとは狼の糞ふんを使っていたそうです。狼の糞を燃やすと、風に流されることなく、まっすぐに上がるのだそうです。それに時間の経過によって色が変わるらしく、何種類かの色の煙を上げることができたとも聞いています。

2024年1月 17日 山梨県南巨摩郡富士川町 にて 構成/小原田泰久

           

1月「原 伸介」さん

原 伸介(はら・しんすけ)さん

1972年横浜市生まれ、横須賀育ち。14歳のときに遊び場だった里山がつぶされ、「将来は山に恩返しをする」と決心。信州大学農学部森林科学科を卒業。1995年に大正生まれの炭焼き職人に出会い、伝統的炭焼き技術を学ぶ。炭焼き歴29年目の現在も、伐採から搬出、炭焼きまでの全てを一貫して行う傍ら、日本の伝統技術や文化・ 人生の素晴らしさを伝える活動に命を燃やしている。主な著書「山の神さまに喚ばれて」《修行編》《独立編》(フーガブックス)「生き方は山が教えてくれました」(かんき出版)など。

『努力は好きに勝てない。好きを武器に炭焼きを極める』

遊び場の山が崩され、山に恩返しをすると決心

中川:
炭焼き職人さんということで、どんな方だろうと、こちらも勝手にイメージをしていましたが、着物姿とは驚きました(笑)。普段から着物を着られているのですか。
原:
着物は普段着です。炭焼きは作業服に地下足袋ですが。
中川:
山の男というイメージをもっていましたから、着物とは想像もしませんでした(笑)。
原:
父が落語好きで、幼いころから子守歌代わりに落語を聞かされていました。 覚えたのを話すと受けるのでうれしくなって落語が好きになりました。初めて高座に上がったのが3歳のとき。惜しまれて5歳で引退しました(笑)。 落語に親しむことで、話芸だけでなく江戸の価値観が自分の中に入ったような気がします。昭和47年生まれですが、自分だけ元禄生まれみたいな感じで(笑)、まわりとのギャップは大きかったですね。 先生の言っていることもよくわからないし、「勉強していい学校へ行けばいい人生が送れる」みたいなことを言われると、「先生、それはちょいと野暮ってもんじゃねぇですか」なんて思ったりしていました(笑)。 落語には職人が出てきますが、その気風のよさに憧れたりしてましたね。炭焼き職人になったのも、父の落語好きが遠因の一つかもしれません。 とにかく、日本文化が大好きで、着物はぼくにとってはなくてはならないものです。まわりの人にも日本の伝統に少しでも関心をもってもらいたくていつも着物姿でウロウロしています(笑)。
中川:
職人さんというと無口で笑わないようなイメージですが、原 さんはあちこちで講演をされたり、話す機会が多いみたいですね。まだ少ししかお話ししていませんが、とてもお話しのテンポが良くて、こちらも楽しくなってきます。わずか3歳で高座に上がった成果が出ていますね(笑)。
原:
おかげさまでけっこう受けていますね(笑)。
中川:
落語以外にも炭焼きに興味をもった理由はあると思いますが。
原:
出身が神奈川県横須賀市なのですが、小さいころはぎりぎり自然が残っていて、野山を駆け回って遊んでいました。 ところが、ぼくたちはベビーブームの生まれだったので、小学校も中学校も教室が足りないのです。それで、ぼくの大好きだった野山が潰されて、中学校が建てられることになりました。ぼくにとって、人生最大のショック。ものすごい喪失感がありました。 中学3年生の4月から自分の遊び場だった山を崩してできた学校に通い始めることになりましたが、楽しかった野山の変わり果てた姿を見るのがつらくて、いつか山に恩返しをしようと決めたのです。 それが炭焼きをやることになった原 点だと思います。
中川:
それで信州大学に行って、森林科学を勉強することにしたんですね。
原:
その前に高校なんですが、入学して間もなく進路調査用紙が配られて、希望大学・希望職業を書くように言われたことがありました。高校へ入っても山に恩返しをしたいという気持ちがずっとあったので、山の職業を書きたいわけです。でも、横須賀には林業をやるような立派な山もないし、山の職業が思いつかないんですね。山の仕事をしている人なんて見たこともなかったですから。 「山にいる人ってだれだろう」と考えたときに頭に浮かんだのが「仙人」でした。それで、希望職業欄に「仙人」と書きました(笑)。 すぐに先生から呼び出しを受けました「ふざけるな」「ふざけてません」とどちらも引きません。結局、「希望職業・仙人」を3年まで変えませんでした。
中川:
希望職種が「仙人」ですか。先生も面食らったでしょう。
原:
仙人になるにはどこへ行けばいいかと考えたとき、さすがに神奈川には仙人はいないだろう、と。もっと山深いところ、自分の中で一番山のイメージが強かったのが長野県でした。いろいろ調べたら、信州大学農学部に「森林科学科」があることがわかりました。信州→森林→仙人という連想が働いて、ものすごくときめきました。 それで信州大学農学部森林科学科に進路を決めました。
中川:
なるほど。現実的な進路が見つかったわけですね。
原:
でも、入ったはいいけれども、同級生に仙人を目指している者もいないし(笑)、そばに山があるのに実習がないんですよ。板書をノートにとるだけの授業です。こんなことをやりに来たのではない、とすぐに学校へ行かなくなりました。
中川:
期待した内容とはまるで違ったんですね。卒業は?
原:
卒業はしました。親との約束でしたから。 ほかの学科で単位をとってもいいことがわかって、いかに学校へ行かなくても単位が取れるか頭を働かせました。レポートだけで単位がとれるものがけっこうあったので、その授業ばかりを選んで、3年が終了したころには卒業の単位はとれていました。ほとんど大学へ行かずに卒業できました(笑)。

長野県松本市の伊太利亜炭 火焼きレストラン「ドマノマ」にて 構成/小原田泰久

山の神様に喚ばれて

           

11月「竹本 良」さん

竹本 良(たけもと・りょう)さん

1957年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。UFO研究家。科学問題研究家。聖パウロ国際大学サイキックパワー開発研究科主任教授。年末恒例の『ビートたけしの超常現象Xファイル』(テレビ朝日系)ではコメンテーターを務める。著書に『宇宙人革命』(青林堂)、『テロとUFOー世界貿易センタービル「あの瞬間」に現れた謎のUFO』(徳間書店)などがある。

『U F O 、宇宙人を知ることで見えない世界の謎が解ける』

子どものころから数々の神秘体験。UFOは大学から

中川:
最近、ネットニュースでUFOや宇宙人に関する記事がよく流れてきます。NASAが本格的にUFOや宇宙人の研究をしているという話だったり、宇宙人からのメッセージが届く可能性があるとアメリカの大学が発表したとか、メキシコでは宇宙人の遺体が公開されたり。今まではオカルトだとまともには議論されなかったことですが、何か様子が変わってきた気がします。だれか専門家にお話を聞きたいと思っていたところ、そう言えば竹本さんがいるとひらめきました。竹本さんは、阿久津淳さんというペンネームで、ハイゲンキマガジンの創刊当初に連載をしてくださっていました。 今では、テレビのU F O番組にもよく出られていてUFOのことをお聞きするには最適な方だと思い、対談を依頼した次第です。
竹本:
ありがとうございます。ハイゲンキには、初代の編集長の木上さんとのご縁で原稿を書かせてもらっていました。30年近く前になりますかね。先代の会長が亡くなって、真氣光が新しい会長のもとでどう変わっていくのか、とても気になっていましたが、いい形で発展されていて、今回、会長にお会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
竹本さんが連載していたころ、私はまだ父の会社には入っていなくて、真氣光を懐疑的に見ていました(笑)。それでもハイゲンキマガジンは家にあったので毎号目を通していて、竹本さんの記事はとても興味をもって読ませていただきました。あのころは異能の科学者ということで、目に見えない世界を研究していた人たちを紹介してくださっていました。私もエンジニアでしたから、氣のような怪しげな世界に科学的にアプローチしている人たちがいたということに関心をもちました。 
竹本さんは、もともと目に見えない世界のことはお好きだったのですか。
竹本:
いろいろな神秘的な体験をしたのがきっかけだったですかね。 最初は小学生のときでした。江の島に遠足に行ったときのことです。小田急線の特急に乗っていて外を見たら、この場所知っていると思いました。初めて来たところなのにです。いわゆるデジャヴュですね。 変な夢もたくさん見ました。どうしてそんなことがあるのかと神秘の世界、無意識の世界に興味が出てきました。 中学校のときにはラップ音の現象があったり、子どものころからけっこう不思議な現象に囲まれていましたね。でも、学校ではそんなことは教えてくれません。余計に興味が膨らみましたね。 高校でグリークラブ(男性合唱団)に入りました。練習でハモったときに細胞がわななくという体験をしました。
中川:
細胞がわななくんですか。
竹本:
体がぼわーっとなるんですね。とても気持ちがいい。さらに、ミサ曲を歌っていたとき、先生が途中で止めました。その瞬間、頭のてっぺんから何かが突き抜けていくような感覚がありました。ハモったときには何倍もの快感でした。 これは何だろうと知りたくなりました。当時はヒッピーの町だった下北沢の古書店へ行ったら、神秘の世界の本がたくさん置いてあって、チャクラとかクンダリーニといったことも知るわけです。「これかもしれない」と思い、ずいぶんとその手の本を読んで勉強するようになりました。
中川:
U F Oのこともそのころからですか。
竹本:
U F Oは大学に入ってからですね。あるとき、友だちから「変な人が大学の構内を歩いている」という話を聞かされました。その人は卒業しているのによく大学へやって来るのだそうです。着流しに下駄という格好で歩いていて、学生たちに「U F O あるって知っている?」「宇宙人いるって知っている?」と話しかけているって言うんですね。気持ち悪いでしょう(笑)。でも、私は彼にとても興味をもって、友だちに会わせてほしいと頼みました。その先輩というのが、後に日本UFO党という政党を立ち上げた森脇十と九く男おさんでした。 森脇さんの部屋へ行ったときはびっくりしました。3畳間にUFOに関する本がびっしりとありました。全部、英語の本です。国連の資料なんかもありました。 私はUFOのことがアメリカではこんなにも研究されているのに、日本ではまったく翻訳もされていないことを知り、その情報はもっと世に知らせないといけないと思いました。
中川:
そこからUFOの研究が始まったわけですね。
竹本:
そのころ森脇さんは大手の会社を辞めてUFO研究に人生を捧げていました。そんな先輩がいるのに、のほほんとしていていいのかと勉強をし始めました。 森脇さんと一緒に、テレビ局や新聞社などいろいろなメディアに資料をもっていきました。けっこう真剣に聞いてくれたところもあって、NHKのニュースでは5分くらい流してくれたこともありました。動いていれば少しは成果が出るものです。

東京。目黒区の会議室で 構成/小原田泰久

           

9月「舘岡 康雄」さん

舘岡 康雄(たておか・やすを)さん

東京都生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業。日産自動車中央研究所材料研究所に入社し、研究開発部門、生産技術部門などをへて、人事部門で日産ウェイの確立と伝承を推進。その後、静岡大学大学院教授を務める。現在、一般社団法人SHIENアカデミー代表理事。1996年からSHIENに関するワークショップや講演活動を国内外で行っている。主な著書『利他性の経済学:支援が必要となる時代へ』(新曜社)『世界を変えるSHIEN学』(フィルムアート社)。博士(学術)。

『競争の時代は終わった。力を引き出し合うS H I E N の時代へ』

SHIEN学は人間の内側を解放する科学。意識の科学、間の科学

中川:
舘岡先生のお書きになった『世界を変えるSHIEN学』(フィルムアート社)を読ませていただきました。私ども真氣光で言っていることと共通する部分がたくさんあって、ぜひお会いしてお話をうかがいたいと思いました。今日はよろしくお願いします。
舘岡:
ありがとうございます。ずいぶんと前に対談のオファーをいただいていたのにお返事ができずに失礼しました。真氣光のこと、私なりに調べさせていただきました。SHIEN学と似たところがたくさんあって、私も中川会長にお会いできるのを楽しみにしていました。
中川:
先生は大手自動車会社のN社に入社されて、研究開発、生産技術、購買、品質保証、人事といった部門で働いてこられました。N社が経営的に危機を迎え、回復していくという激動の中で、これからの時代は競争ではなく、お互いの力を引き出し合うことが大切だということにお気づきになり、それをSHIEN学ということで学問、科学として提唱されています。 私たちは今、大きなパラダイムシフトの中で、生きているわけですね。
舘岡:
これまでの社会は、お金や物といった目に見えるものが大事にされてきました。これからの時代は、見えないもの、お金に代わるものが大切になると、2006年に『利他性の経済学:支援が必然となる時代へ』(新曜社)という本に書きました。 今、あの本に書いたことに時代が追いついてきています。 これまでの学問は外側ばかりを対象にしてきました。私が提唱しているSHIEN学は人間の内側を見る科学です。意識の科学とか間の科学という言い方もしています。
中川:
間の科学ですか。
舘岡:
現代社会のベースとなってきた西洋科学は一個が最小単位で、一つの会社と別の会社が競争しているとか、一つの国と別の国が争っているというモデルです。 SHIEN学では「間」にこそ実体があると考えます。最小単位は一個一個ではなく「対」なんですね。お互いにしてあげたりしてもらったりするのが自然の姿です。会社でも、社長がいて管理職がいて従業員がいますが、それぞれが個として別々にあるのではなくて、その間に関係性、間があって、してもらったりしてあげたりしているわけです。 私は莫大な借金を抱えて倒産しそうになっているN社がダイナミックな改革によって奇跡的に復活するのを目の当たりにしました。その根底には、大きなパラダイムシフトがありました。その経験がSHIEN学のもとになっています。
中川:
「支援学」ではなく「S H IEN学」と表現しているのはどうしてでしょうか。
舘岡:
「支援」は「難民支援」や「被災地支援」のように、上位者が下位者に、力のあるものがないものに施すという概念です。「SHIEN」は、自分を犠牲にし、人を助ける一方的な「利他」とは異なり「寄り添い」を軸に重なり、互いに行動を起こすことを指します。 重なりのなかったところに重なりをつくり、「させる/させられる」ではなく「してもらう/してあげる」を、双方向に交換する行為のことで、新たな時代に必要される在り方だと考えていただければと思います。それがSHIENということです。
中川:
一方的に片方だけが助けるということはありませんからね。被災地で困っている人を助けるという形であっても、助ける人もいろいろ学んでいることがあったり、感謝されたり、さまざまな感動や喜びをもらったりするものです。支援は一方通行のようなイメージがありますが、SHIENは双方向ということですね。
舘岡:
おっしゃる通りです。私は、N社の復活劇の最中、大学院へ通って、ある研究をまとめていました。社会は「リザルトパラダイム」から「プロセスパラダイム」、「コーズパラダイム」へとシフトしていくというものです。それがSHIEN学の基礎になっています。パラダイムというのは、その時代に共通するものの見方や考え方のことです。 これまではN社を含めた企業社会というのは、常に競争でした。トップダウン方式の働き方で「やらせる/やらせられる」の一方向の考え方です。私は、それを「リザルトパラダイム」、略して「リザパラ」と名付けました。同期はライバルで、他部門も敵だと感じるような関係です。しかし、それでは会社はN社のように行き詰まってしまいます。 本当にいい関係というのは、お互いがお互いの力を必要とし、お互いを活かし合う働き方ができることです。仲間が自分を認め、自分も仲間の力を引き出す。会社が自分を大切にし、自分も納得して心から納得して会社に貢献できるような状態です。N社もそういうパラダイムシフトがあって奇跡的な回復を遂げました。

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

           

8月「奥山 暁子」さん

奥山 暁子(おくやま・あきこ)さん

幼少のころより、草木や虫たち、動物たちとお話しすることができた。その後、自らの不思議な力のことは忘れて、ごく普通に生き、マスコミの仕事をしていた。40歳ころの大病をきっかけに本来の能力がよみがえり、縄文土器さんたちともお話しできるようになり、縄文土器さんたちから聞いた古代の暮らしと心について伝えている。

『縄文土器に込められた縄文の神々の思いを現代に伝える』

がんになったのがきっかけで縄文土器に興味をもった

中川:
今回の対談のお相手の奥山暁子さんは、真氣光の会員さん、小松八惠子さんのご紹介です。縄文土器とお話ができる方ということですが、最初に、小松さんはどういう経緯で奥山さんとお知り合いになったのか、お聞かせくださいますか。

小松: 
今日は諏訪郡の原村までお越しいただき感謝しております。どうしても会長には奥山さんに会っていただきたかったので、対談が実現してとてもうれしいです。 私は一昨年の2月に腕を骨折して、退院後、ここ「もみの湯」は、自宅から車で3分の所にありましたので、骨折のリハビリを兼ねて通っておりました。その後、昨年の7月からこの施設をお借りして、真氣光サロンもみの湯という、気功整体の仕事をしております。 私が奥山さんのことを知ったのは、昨年「もみの湯」の玄関の所に、原村で奥山さんの「縄文人の健康法」の講演会があるというチラシが置いてあってとても興味があったのですが、その日は都合がつかず、それでも気になって仕方なくて、直接奥山さんに電話をしました。 奥山さんのことを真氣光の仲間にもお話ししたところ、ぜひお会いしたいということでした。奥山さんはその頃、伊東市に住んでいらっしゃいましたが、原村までお越しいただいて少ない人数でしたが、お話を伺うことができました。2回目は、富士見町にある井戸尻考古館を案内していただき、縄文土器さんのお話をお聞きしました。 そのときにすっかり意気投合して、会長に会っていただきたいと思った次第です。 奥山さんも、真氣光のことを以前からご存じで、会長ともお話ししたいとおっしゃってくださいました。
奥山:
八惠子さんのおかげで中川会長にお会いできて光栄です。今日はよろしくお願いします。 私は、もともとは週刊誌の記者をしておりました。ところが、がんが見つかって手術を受け、そのあと、先代の会長から真氣光を学んだ静岡の高橋呑どん舟しゅう先生のお世話になりました。 関英男先生のご著書も拝見し、真氣光が宇宙エネルギーを使ったものだと知ってとても興味をもちました。
中川:
病気がきっかけで大きな変化があったわけですね。
奥山:
そうですね。記者をしているときは、仕事で成功したり、お金をたくさん稼げることが幸せだと思っていました。物質にしか目を向けない唯物論者でした。 しかし、思い返してみると、子どものころはいろいろなものが見えていて、森や木、川、風などの精霊さんと話をしていました。小学校に入って、私には当たり前に見ているものが、ほかの人には見えていないことを知り、自分はおかしいのかなと思うようになって、次第にそうした能力にふたをするようになりました。 がんになって死んじゃうかもと思ったとき、もともとの能力がよみがえったのかもしれません。
中川:
動物や植物とお話をするという話はよく聞きますが、縄文土器と話すというのは初耳です。縄文土器とはどういうきっかけだったのですか。
奥山:
ゆっくり順を追ってお話ししますね(笑)。ずっとサラリーマンをやっていて、たくさんのストレスを抱えて病気になったとき、自分の体の声を聞いてみようと思いました。何をしたいのだろう? と自分に問いかけると、土を触りたいとか、田んぼでバッタをとりたいという意外に素朴な気持ちが湧き上がってきました。 そんなときに、高橋先生の治療院で長野のこのあたりの人と知り合って、長芋掘りにおいでよと誘われました。 すぐに出かけました。これが大きなきっかけになりました。 長芋を掘って、お昼にしましょうというので近くのおそば屋さんに出かけました。 2人で行ったのですが、とても混んでいて4人掛けの席で相席になりました。向かいに座った60代の男性はカメラマンでした。それも、縄文土器を撮影している方だったのです。
中川:
ここで縄文土器との接点ができるのですね。
奥山:
最初は、縄文土器なんて撮ってどうするのだろう、と思っていました。 でも、話を聞くうち、じわじわと興味が湧いてきました。 そのカメラマンは、滋しげ澤ざわ雅人先生というお名前ですが、もともと能面の撮影をされていて、そのときに照明の大切さに気づかれたそうです。 能面はもともとは野外で使われるものだから、電気の光のもとではそのものの本来の姿が見えてこないとおっしゃるんですね。それで、かがり火やたき火を意識して能面に照明を当てると、私たちが電気のもとで見るのとはまったく違う表情が浮かんでくると言うのです。 縄文土器も、能面と同じで博物館の人工的な照明では本当の姿が浮かび上がってこないと気づかれました。縄文時代に製作された土器は自然の光のもとで作られたものですから。それで、できるだけ自然の光、つまりかがり火やたき火、月の光を再現できるような照明を工夫して縄文土器を撮影しようと思ったそうです。 自然の光のもとで縄文土器を撮影すれば、縄文人が森や川や空間の中に見ていた八百万の神々の姿が浮かぶだろうというひらめきというか確信が生まれたとおっしゃっていました。実際に、滋澤先生の写真には縄文人が見ていたであろう神々の姿が写っています。

長野県諏訪郡原村のふれあいセンターもみの湯にて 構成/小原田泰久

           

7月「湯川 れい子」さん

湯川 れい子(ゆかわ・れいこ)さん

音楽評論家、作詞家。東京都目黒で生まれ山形県米沢で育つ。1960年ジャズ専門誌『スイングジャーナル』への投稿が認められてジャズ評論家としてデビュー。ラジオのDJやテレビへの出演、雑誌への連載など、国内外の音楽シーンを紹介している。作詞家としても『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル・ジャーニー』『恋に落ちて』などヒット曲多数。主な著書に『音楽は愛』(中高公論新社)『時代のカナリア』(集英社)などがある。

『戦争はダメ!  すべての生き物に 優しい地球であってほしい』

時代のカナリアとしてダメなものは ダメだとはっきり言いたい

中川:
本誌のバックナンバーを調べましたら、湯川先生にはちょうど20年前に対談にご登場いただいています。その前をたどると父である先代と2回、対談してくださっています。先代も、まだまだ氣について理解されなかった時代に、湯川先生と目に見えない世界について思う存分お話ができてうれしかったと思います。
湯川:
先代に2度目にお会いしたのは1990年代の前半だったかと思いますが、ちょうど第一次スピリチュアルブームのときでした。
中川:
1992年ですね。父の主宰していた真氣光研修講座に、私が参加した年です。私は父のやっていることを怪しいと思っていたのですが、仕事のストレスで体調を崩して研修講座を受講することになりました。ずっと技術者として働いてきた私には、見るもの聞くものとても新鮮で、これからの時代に氣はとても重要な役割を果たすと感じ、翌年に父の会社に入社して、以来30年、氣にかかわっています。 ちょうど、私が入社したころは、氣功もブームになっていて、父の活動をNHKが取材に来たりしていました。 1995年12月に父が亡くなり、私が跡を継ぐ形になりました。

湯川:
先代の中川先生とは、成田空港でばったりお会いしたことがありました。確か1995年だと思います。チェルノブイリの原発事故で被ばくした子どもたちを治療してお帰りになったのではなかったでしょうか。 荷物を受け取る台のところでしたが、ひどく疲れておいでのご様子でした。それがお会いした最後でした。
中川:
休みなく世界中を飛び回っていましたからね。 ところで、湯川先生は日本のスピリチュアルの走りですよね。
湯川:
はい。限りなく怪しいところを歩いてきました(笑)。用心してあまりスピリチュアルなことを言わないようにしながら。 風向きが変わったのは1980年代でしたでしょうか。アメリカの女優のシャーリー・マクレーンさんが「アウト・オン・ア・リム」という本で自分の神秘体験を書いて、日本でも大ヒットしました。 それ以来、現実世界できちんと何かをやっていれば、目に見えない世界のことを話してもあまり胡散臭く見られなくなりました。 音楽も目に見えないですよね。当時は音楽で体や心が癒されると言うと変に見られることも多かったのですが、私は1972年から音楽療法に興味をもっていましたから、音楽療法として語れるように勉強しました。
中川:
去年『時代のカナリア』という本を出されました。どういう意味なのだろうと思って読み始めましたが、カナリアは炭鉱で有毒ガスなどを検知するために使われたことから、世の中が変な方向に行きそうになるのをキャッチして知らせる存在として生きていきたいという意味だとわかりました。
湯川:
残念なことに3月にお亡くなりになりましたが、坂本龍一さんが『芸術家、音楽家と言われる人たちは、炭鉱のカナリアです』とおっしゃっていました。 芸術家、音楽家、アーティストと呼ばれる感性が鋭い人たちは、世の中の状況に対して「時代のカナリア」の役目を負っていると思うんですね。 マイケル・ジャクソンは2009年に公開された『マイケル・ジャクソン THIS ISIT』というドキュメンタリー映画の中で、地球が後戻りするには、あと4年しかない、と警告していました。地球の危機を切実に感じ取っていたからです。でも、メディアは彼の少年愛疑惑などをかき立てるだけ。世界はそんなことにしか興味をもたなくって、あのころからあんなに一生懸命に言っていたのに、と悲しくてたまりませんでした。
中川:
「鈍感なカナリア」にはなりたくない、と書かれていますよね。
湯川:
はい。時代の変化、とりわけ時代状況の悪化に対しては、決して黙認するようなカナリアではありたくないと思っています。 私が「これだけはダメ」と考えていることはいくつかありますが、その第一が戦争です。この本を書いたときには、ウクライナの戦争は起こっていませんでしたが、一体人間はいつから戦争をしているのだろうと思って調べてみたら、1万3000年前から、集団で武器を使って同じ人間が産んだ人間と殺し合っているんですね。あらゆる動物がそんなことをしていない。恥ずべきことだと思います。 核兵器もダメ。地球環境汚染もダメ。原発もダメです。時代のカナリアとしてダメなものはダメだとはっきり言って、責任ある行動をしていきたいと思っています。<後略>

東京都目黒区の会議室にて 構成/小原田泰久

湯川れい子さんの著書

『時代のカナリア』(集英社)

           

6月「吉田 明生」さん

吉田 明生(よしだ・あきお)さん

一般社団法人災害防止研究所代表理事。1977 年防衛大学卒業。元陸上 自衛隊第11旅団長、元ゆうちょ銀行社長特命担当顧問。2020年3月に退 職 。 一 般 社 団 法 人 災 害 防 止 研 究 所 を 設 立 。 著 書「 ま ぁ る い 日 本 ~ リ ー ダ ー シップの時代【人を動かす】』『まぁるい日本究極の戦い究極守り』『しなやかで まぁるい心のつくり方』など。<a href="http://saibouken.or.jp">法人災害防止研究所</a>

『災害によって培われてきた日本人のメンタリティを大切にする』

防災グッズは日常的に防災を考えるためのツールになる

中川:
東日本大震災から 年がたちますが、相変わらず地震は多いし、この間はトルコ・シリア大地震がありました。豪雨の被害も毎年出ています。多くの人が災害に対してとても敏感になっています。 吉田さんが代表理事をやられている災害防止研究所の災害へのアプローチの仕方はとてもユニークだと思います。たとえば、防災グッズ展というのを開催されて、防災グッズ大賞を選ぶなど、防災を身近に感じられるように工夫されているような気がします。
吉田:
ありがとうございます。防災グッズ展は防災意識を普及するにはどうしたらいいか、みんなで考えて出てきたアイデアです。 防災の重要性はだれもがわかっていると思います。しかし、教訓ばかりでは聞く方もあきてしまうのではないでしょうか。多くの人が興味をもってくれて、楽しみもあって、長く続くものはないかということで防災グッズに目をつけました。
中川:
災害はないに越したことはありませんが、起こることを前提に準備した方がいいと思います。どんな防災グッズがあるかを調べて、これは使えると思うものをそろえておくといいですね。
吉田:
防災グッズは日常では体験することのない酷な環境で使うもので、これまでの災害を踏まえた上での創意工夫がなされています。そういう意味で、災害の教訓が集約されているのが防災グッズだと思うんですね。
防災グッズを手に取ったときには、どうやって使うのかイメージするわけです。あるいは、どういう状況なのか想像すると思うのです。防災防災と言わなくても、地震があるとこんなことに注意しないといけないと、意識が防災に向くと思います。 
日常的に防災意識を普及するためのツールとして防災グッズという切り口は面白いのでは? というのが、防災グッズ展、防災グッズ大賞を始めた理由です。
中川:
今年も4月1日からエントリーが始まっているようですね。企業や個人からたくさん集まってくるそうですが、吉田さんたちも探したりするのですか。
吉田:
最初の年は、モノマガジン社さんが協力してくれました。防災グッズを取り扱った日本で最初の雑誌ですね。モノマガジンにさまざまな防災グッズが掲載されているので、10数年のバックナンバーからリストを作って、それをベースにして選びました。今は、ネットに出ていますので、応募してくださる企業や個人の方々の商品にプラスして、面白い防災グッズがないか探しています。防災グッズはまだマーケットが小さくて、大きな会社で開発していても、一セクションでやっている程度です。特徴のあるのは小さなメーカーが作っているものが多いですが、営業力が無かったりして、すぐれた防災グッズが世間に知られないまま埋もれていたりします。災害があったときには防災グッズは欠かせません。それがあったことで命が助かる方もいるでしょう。防災グッズ展や防災グッズ大賞を通して、防災グッズがもっと注目されればと願っています。
中川:
吉田さんはもともと陸上自衛隊に勤務されていたそうですね。どうして災害防止研究所を立ち上げようと思われたのですか。
吉田:
東日本大震災があったときに、友だちが「自衛隊が終わったら防災の仕事をしたらどうだ」と言ってくれました。 防災の大切さはわかっていましたが、そのときには自分で取り組もうとは思いませんでした。その後、ゆうちょ銀行に勤め、6~7年たったころにふと浮かんだのが、先ほどの友だちの言葉で、防災のことをあれこれ考え始めました。 防災のことはたくさんの人がやっているので、私の出る幕などないように思っていましたが、災害というのは自然災害ばかりではなく、戦争やテロといった人為的なものも入りますし、事件や事故も災害ですし、最近は地球温暖化が大きな問題になっています。 そう考えると、これからはもっと災害が増える時代がやってくるのではないかと思いました。防災というのを幅広くとらえて、さらにメンタルな面まで踏み込んで災害を防止するということなら、長く自衛隊で働いていた自分にも経験を活かせるかもしれないと思って、この団体を立ち上げました。
中川:
吉田さんのご著書を読ませていただきましたが、メンタルな面に力を入れている印象がありました。 メンタルは大事だと思います。いきなり災害に見舞われれば、だれもがパニックになってしまいます。そのために被害が大きくなったりします。日ごろから冷静に頭の中で考える訓練をしておくことも大切ですね。
吉田:
自衛隊というのは危機管理が主な仕事です。最悪の事態を想定して、危機にどう対処するのかを常に考えてきました。そうした経験や知識が少しは役に立つのではないかと思いました。<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

しなやかで まぁるい心 の作り方: ~災害に備えて、レジリエンスを養う/メンタルヘルスケア

           

5月「菅谷 晃子」さん

菅谷 晃子(すがや・あきこ)さん

千葉県生まれ。引き売り士、講演家、シンガー。小学校5年生からのいじめによりコンプレックスの塊となり、高校を中退する。仕事も続かず、23歳のときから豆腐の引き売りを行う。お客様との支え合いによって生きる楽しさを知る。いじめをなくし高齢者を支える活動はTVでも紹介されている。看取り士の資格も取得。著書『ありがとうは幸せの贈り物 あこのありが豆腐』(三冬社)

『トーフ― ♫  ラッパを吹いて笑顔と幸せを届ける』

「かわいそうだから」から「ありがとう」「助かるよ」へ

中川:
『あこのありが豆腐』(三冬社)という本を読ませてもらいました。わかりやすい文章と漫画でとても読みやすかったです。リヤカーを引いて豆腐を売っている女性と聞いて、どういう経緯でそんな仕事を始めたのだろうと興味をもって読んだのですが、子どものころからいじめられたりして、つらい思いをして、23歳でこの仕事に出あったそうですね。19年もやり続けている中で、さまざまなドラマがあったようで、今日は、そんなお話がお聞きできればと思っています。
あこ:
声をかけていただきありがとうございます。
中川:
名刺を拝見すると、引き売り士、講演家、シンガーとありますが、いろいろなことをやっておられるんですね。
あこ:
週に5日はリヤカーを引いて豆腐やお惣菜、お菓子などを販売しています。休みの水曜日と日曜日には、講演やライブ活動をしています。

中川:
今に至るまでに悲喜こもごもの物語があったようですが、大きな転機になったのは、フリーペーパーの求人広告だそうですね。
あこ:
小学校5年生のときからいじめにあい、人と話をすることがどんどん苦手になりました。中学生のときには、父親と血がつながっていないこともわかり、「私のことずっとだましていたんだ」と両親に嫌悪感をもち、家を飛び出したこともあります。高校も中退しました。 つらい学校生活から逃れて、やっと自分のやりたいことができると思って働き始めたのですが、もともとのんびりした性格なので、急かされたりすると失敗してしまいます。いくつか仕事を変わりましたが、どれもうまくいきません。何をやってもダメだということでコンプレックスの塊でした。 23歳のとき、何気なくフリーペーパーを見ていたら、そこに「腕よりも、心で販売できる人募集」という求人が目に飛び込んできました。「リヤカーを引いて街へ出て、ぬくもりのある仕事をしてみませんか?」という触れ込みにピンとくるものがあって、「私、腕なんて何もないけれど、心ならきっとある!」と思って、この仕事に飛び込んでみることにしました。
中川:
昔ながらの、ラッパを吹きながらリヤカーを引いて豆腐を売る仕事でしょ。人と話すのが苦手なのによく思い切りましたね。
あこ:
人と話すのは苦手だけどけっこう目立ちたがり屋なんです(笑)。 実際やってみると、見ず知らずの人に声をかけるのは怖かったし、戸惑いました。それでも、珍しさや懐かしさから、商店街のおじさんやおばさんが「がんばっているね」とほめてくれたり、みなさんニコニコしながらお豆腐やお惣菜を買ってくれてうれしかったです。 このころは、どうやったら売れるだろうと一生懸命に考えていて、まだ20代でしたから、かわいい仕草をするとおじさんたちが買ってくれたりしました(笑)。 でも、「かわいそうだから買ってあげるよ」とよく言われることがあって、それには反発を感じましたね。
中川:
一生懸命にがんばっているのだから、「かわいそう」と言われるとむっときますよね。
あこ:
そんなときに川澄さんというおじいさんに会いました。毎週火曜日にコインランドリーの前で待っていてくれて、商品を買ってくれて、帰り際には「あきちゃんありがとう。がんばれよ」と見送ってくれました。寒い冬にはカイロを束でくれたり、暑い夏には一緒にアイスを食べたりしました。 川澄さんのおかげで、毎週、いろいろなお客さんに会えるのが楽しみになって、お客さんのことが大好きになりました。そんな大好きなお客さんを喜ばせるにはどうしたらいいだろうと考えるようになりました。どれだけ売れるかから、どれだけ喜んでもらえるだろうに、考え方が変わりました。 そしたら、「かわいそうだから」と言う人はいなくなって、「ありがとう」とか「助かるよ」という感謝の言葉をいただけるようになって、私も心の底から笑顔が出せるようになりました。
中川:
打算的な付き合いから、心と心のかかわりができるようになったんでしょうね。自分が変わるとまわりが変わるとよく言いますからね。 お客さんはうれしいから「ありがとう」と言うし、あこさんも「ありがとう」と言われてうれしい。相互に「ありがとう」のやり取りがある。いい氣が行ったり来たりしていますね。いい関係ですよ。
あこ:
一週間だれともしゃべらないお年寄りも多くて、短い時間だけど、私と話すのを待ってくれている方もいます。喜んでもらえることがこんなにもうれしいなんて考えたこともなかったです。<後略>

足立区綾瀬 ふれあい貸し会議室 : 綾瀬Aにて 構成/小原田泰久

著書『ありがとうは幸せの贈り物 あこのありが豆腐』(三冬社)

           

4月「和合 治久」さん

和合 治久(わごう・はるひさ)さん

1950年生まれ。東京農工大学大学院修士課程修了後、京都大学にて理学博士号取得。埼玉医科大学教授を経て、現在、埼玉医科大学短期大学名誉教授、松本大学客員教授。免疫音楽医療学、腫瘍免疫学、アレルギー学、動物生体防御学などが専門。著書『免疫力を高めるアマデウスの魔法の音』(アチーブメント出版)『モーツァルトを聴けば免疫力が高まる』(ベストセラーズ)など多数。

『昆虫少年が免疫を研究し、音楽療法の草分けとなる』

未病の段階でブレーキをかけられないかと音楽に着目

中川:
和合先生のことは、内観の石井光あきら先生と中野節子先生からご紹介いただきました。ぜひお話をうかがいたいと、松本の先生のご自宅までお邪魔した次第です。石井先生は、長年私どもの真氣光研修講座の講師をやっていただいています。中野先生には本誌の昨年12月号の対談に出ていただきました。先生方とのお付き合いは長いのですか。 
和合:
いえいえ、まだ2年くらいじゃないでしょうか。私の本を読んでくださったかで、石井先生から連絡がありました。安曇野の内観研修所で初めてお会いして、私が音楽療法のことや「うちにはチョウチョがたくさん来るんですよ」といった話をしたら、ずいぶんと興味をもたれたようで、内観の研修があるたびに、お二人でここへ遊びに来てくださいます。
中川:
チョウチョの話もぜひ聞いてくださいと言われました。チョウチョのことは後程お聞きするとして、まずは音楽療法のお話をお聞かせください。 子どものころから音楽はお好きだったんでしょうね。 

和合:
好きでしたね。中学校のときはブラスバンド部でクラリネットを吹いていました。初代の部長を務めました。 今でも講演のたびに、ハーモニカを持って行って、ぼくの演奏で歌ってくださいと言っています。

中川:
音楽好きが高じて音楽療法の研究を始められたのですか。 
和合:
音楽は好きだったけれども、すぐに音楽療法にいったわけではありません。私の専門は免疫学です。25歳のときからずっと研究してきました。40歳近くになって、21世紀は未病との戦いの時代になると思いました。未病というのは、まだ発病していないけれども、何となく体に不調があるという状態です。検査では異常が見つからなくても、放っておいたらどんどん進んで、病院通い、あるいは入院することになってしまいます。そうなる前の未病の段階でブレーキをかけることはできないかと考えて、そのツールとして何かないかと探していたときに、音楽を聴くことで免疫力が上がればいいということで研究を始めたわけです。
中川:
最初から音楽ではなく、免疫の研究をしている中で、音楽の効果に気づかれたわけですね。今では音楽療法はよく知られていますが、30年以上前のことですから、なかなか理解してもらえなかったのではないでしょうか。
和合:
私が音楽療法を研究し始めたのが、1980年代後半です。その当時、日本では音楽を聴くと免疫力が上がると言っても、変人扱いですよ(笑)。「音楽で病気が治るはずがないよ」というのがほとんどの人の反応でしたね。 けれど、学会ではデータに基づくエビデンスを示して発表しているわけです。協力してくれた看護師や学生が証人としていますから、文句を言われることはありません。それでやっと着目されるようになりました。
中川:
ご自分でも音楽を聴くとリラックスしたりして免疫が上がるのではと感じるところがあったんでしょうね。
和合:
特にクラシック音楽だとリラックスできるという感覚はありました。医学的にも、アメリカでは1950年に北米音楽療法協会が立ち上がって患者さんに音楽を提供して疾病の回復に役立てるという活動が行われていました。でも、患者さんにどんな変化があるかという現象が残っているだけで、データはとられていませんでした。 このときにモーツァルトが使われていたという記録もあって、私はモーツァルトをモデルシステムにしてデータをとってみようと思いつきました。
中川:
未病というのも、当時としては新しい視点だったと思います。
和合:
中国に長春中医薬大学というのがあって、当時、私はその大学の客員教授をやっていました。中国は一人っ子政策でしたから、一人っ子同士が結婚して4人の親の面倒を見ないといけないわけです。親が病気になったら大きな負担になります。だから、未病の段階で対処するということがとても注目されていました。2100年くらい前の後漢の時代では、未病を治療できるドクターが聖人でした。「黄帝内経」という医学書に記されています。中国では、昔から未病への関心が高かったんですね。 私は日本でも同じだと思いました。発病してからでは患者さんも家族も大変です。発病する前に対処することの大切さを感じて、未病対策を考え始めました。今は、未病克服が言われるようになりましたが、あのころは未病という言葉も知られてなかったですね。
中川:
国民医療費は40兆円を超えているそうですし、未病対策はもっともっと広がらないといけないと思います。
和合:
健康保険制度が破綻し、年金も当てにできない。病気になってなんかいられませんよ。音楽は身近で安価で副作用がないじゃないですか。感動もあって継続が可能。それで免疫力が上がるわけです。最高のツールです。<後略>

長野県松本市の和合先生のご自宅にて  構成/小原田泰久

免疫力を高めるアマデウスの魔法の音(CD付)

           

3月「丹葉暁弥」さん

丹葉暁弥(たんば・あきや)さん

北海道釧路市の大自然の中で生まれ育つ。自然写真家。シロクマ写真家の第一人者。高校を卒業後東京へ。1995年に野生のペンギンにあいたくて南極へ行く。1998年からはカナダ北部にシロクマにあいに行くようになる。<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4091046525?_encoding=UTF8&psc=1&ref_=cm_sw_r_cp_ud_dp_4ZABCA7960BMP27FE6NR">『HUG! friends まずはハグしよう。』(小学館)</a>、<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4096820857?ref_=cm_sw_r_cp_ud_dp_G4E8H7WKCES5PV4GT0X3">『HUG! earth シロクマと友だちと地球の物語』(小学館)</a>など写真集がある。

『シロクマに出あったことで人生に光が差し込んだ』

ペンギンにあうために南極まで出かけて行った

中川:
丹葉さんは20年以上、シロクマの写真を撮り続けておられるそうで、写真集やカレンダーを拝見したのですが、何とも言えないシロクマたちの表情や仕草に癒されますね。シロクマのお話をいろいろお聞きしたいと思うのですが、その前に、目に異常があって真氣光を受けられたという話からうかがいましょうか。
丹葉:
一昨年でした。朝目覚めたとき、最初に目に入ってきたのがテレビだったのですが、2台に見えました。1台しかないのにです。目をこすったりしたのですが、全然直りません。ほかを見ても、全部、2つに見えるのです。病院へ行ったら複視だって言われました。私の場合、右目の眼球を真ん中から右に動かす筋肉がマヒしていたみたいです。外へ出ると道路も電柱も2つに見えました。右目をふさがないと危なくて仕方ありません。イライラしますしね。こちらへうかがったときも眼帯をしていました。
中川:
病院では治療法はないんですか。
丹葉:
ないですね。自然に治るのを待つしかないと言われました。治療と言っても、ビタミン剤を飲むくらいです。そのことを知り合いに話したら、真氣光がいいんじゃないかとすすめられました。
中川:
それで東京センターへ通われたんですね。
丹葉:
一昨年の年末でした。最後の営業日だったですね。同時に帯状疱疹だと思うのですが、足が痛くて動けなくて、2021年から22年にかけてはさんざんでしたね。年明けから何度か通って、おかげさまで目は良くなりました。
中川:
それは大変でしたね。原因がわからなかったり、治療法がない場合、氣が有効な場合があります。でも、そういうことがあったからお会いできたわけで、縁というのは不思議です。きっと、丹葉さんとシロクマとのご縁にもすてきなストーリーがあると思います。シロクマとの出あいのきっかけから聞かせていただけますか。
丹葉:
最初の出あいは小学校5年生のときです。夏休みの宿題で近くの動物園でお手伝いをすることになり、私がシロクマの担当になりました。シロクマのエサを作ったりしてお世話をしたのですが、このとき大人になったら野生のシロクマを見に行くぞと思いました。
中川:
子どものころの夢がかなったわけですね。
丹葉:
紆余曲折ありましたが(笑)。私は釧路の出身で高校を卒業後、東京へ来ました。学校へ通い、その後、就職をしたのですが、会社にもなかなか適応できず面白くないし、だからと言って、何かやりたいことがあるわけでもあく、非常に悲観的に生きていました。ただ動物は好きで、あるときペンギンにあいに行きたいと思い始めました。
でも、1995年でしたから、インターネットもありませんし、南極に関する本も見つからず、ほとんどあきらめていました。でも、願いは叶うもので、夜の11時からのニュースを見ていたら、キャスターの櫻井よしこさんが「今日の特集は南極観光です」と言うわけです。南極観光ツアーが始まったということで特集を組んだようです。
テレビに釘付けになりました。問い合わせの電話番号が紹介されたので、夜中なのにすぐに電話しました。スタッフの人が残っていて、資料を送ってもらうことにしたのです。
中川:
人生の転機ですね。何気ないことから道は拓けてくるものですね。カメラにも興味があったのですか。
丹葉:
当時はメーカーで技術者をやっていました。実家が写真館だったので、カメラは小さいころから触っていました。でも、南極へ行くのは写真を撮るというよりも、ペンギンにあうのが一番の目的でした。
ロスアンゼルスからブエノスアイレスへ行って、さらに南に移動して、船で南極へという予定だったのですが、オーバーブッキングとかあって、えらく遠回りしました。
中川:
初めての海外旅行だったのですか。
丹葉:
英語もできないし、外国は怖いところだと思っていましたので、海外へ旅行に行こうと思ったことはありませんでした。でも、ペンギンにあえるのですから、そんなこと言っていられません。 
オーバーブッキングがあったせいで、飛行機では隣がアメリカ人でした。ドキドキしていたら、その人が私に話しかけてきました。どうしようと戸惑いながら、片言の英語で、自分は英語も苦手だし、海外旅行は好きじゃないというようなことを話しました。そしたら、「私に任せなさい」と、機内誌を教材にして英語のレッスンをしてくれました。その方は小学校の先生で、教え方がとても上手でした。到着するまで思いのほか楽しい時間が過ごせて、海外旅行が好きになりました(笑)。<後略>

東京・ 池袋のエスエーエス東京センターにて 構成/小原田泰久

           

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