ディズニー映画 「リメンバー・ミー」

 舞台はメキシコ。
1年に1度、死者の日に亡くなった人の魂が現世に帰ってきて再会するという、日本のお盆にとても近い概念のストーリー。
主人公はミュージシャンを夢見る少年ミゲル。
でも厳格な家族の掟によって、ギターを弾くどころか音楽を聴くことすら禁じられていた…。
それは、ひいひいじいちゃんが音楽家で、家族を捨てて音楽の道に行ってしまったから。
死者の日にミゲルは古い家族写真をみて、ひいひいじいちゃんが伝説のミュージシャンではないかと推測。
ひょんなことから、先祖たちが暮らす“死者の国”に迷い込んでしまう!そこでひいひいじいちゃんは家族を捨てたわけではなく、家路につく途中に毒殺されたことを知る。
生きている家族は誰もこの事実を知らないから、ひいひいじいちゃんは家族から今だに恨まれ続け、祭壇に写真も飾ってもらえない。
唯一、憶えているひいばあちゃんがもうすぐ死を迎えようとしている。
生きている人全員から忘れられた時には死者の国からも魂は消滅してしまう。
この2度目の死を回避するには、ひいばあちゃんが死んでしまった人を忘れないこと。
「家族を不幸にしたことを恨んでも許さなくてもいいから、忘れないで。
忘れないでいてくれさえすれば、魂は生き続けられるから」と。
家族と先祖を忘れないことの大切さが絶妙に描かれた映画です。
レンタル中
(東京センター 高橋)
[menu][次へ]

残暑を乗り切りましょう

 僕にとって夏は真氣光のグッズが頼りです。
とても汗かきで皮膚が弱いので、オーガニックコットンの氣フェイスタオルが優しく汗を吸い取ってくれて助かります。
また入浴時にシンジュコウ石鹸で洗うと汗疹の痒みが取れて気持ちよく眠れます。
また寝るときは氣大判バスタオルをタオルケット代わりにしてクーラー病対策。
氣グッズを活用して厳しい残暑を乗り切りましょう。
(熊本センター 八木)
[menu][次へ]

ボストンとリオに行って来ます

 今日から私は、アメリカ・ボストンと、ブラジル・リオデジャネイロに行って来ます。
アメリカには、20年以上前から毎年、セミナーに行っていたのですが、今回はそれに付け足して、ブラジルまで足をのばすことになりました。
昨年「ぜひ、リオに来て貰えないか」という話が持ち上がり、私も興味がありましたので、お受けした次第です。
 先代は、1988年日系移民80周年という年に、在ブラジル北海道協会の依頼に応えて、ブラジルはサンパウロに行っています。
翌年も行っていますから、2年に渡って、ブラジル移民のために、ハイゲンキの治療指導会を開催しているのです。
そこで出会ったのが故セルソ・インファント・ビエイラというブラジル人医師でしたが、その方が沖ヨガを習得していたことから先代は沖ヨガ下田道場に行くことになり、現在まで続く龍村先生との真氣光研修講座開催ということに繋がるのです。
本当に縁とは不思議なものです。
 ブラジルは世界最大の日系人居住地であり、1908年以降の約100年間で13万人の日本人が移住し、現在は約160万人(ブラジルの総人口の約0.8%)の日系人が住むということです。
この移民政策の背景にあったのは、日露戦争だったようです。
日本は勝利したけれど賠償金を得られず経済は困窮し農村の貧しさが深刻化したところに、アメリカなどの国が日本人移民を制限したことから、政府は国策としてブラジルへの移民を推奨したと言います。
当時、日本人の多くは、永住ではなく「遠い国だけれどお金を得て日本に戻ろう」と考えていたようですが、その後第二次世界大戦に突入し、日本は敗戦国になってしまいました。
祖国の惨状を知るにつれ、日本に戻っても仕事があるとは思えず、「もうこれはブラジルで生きていくしかない」という覚悟が生まれたのだそうです。
移民の方々はたいへんな苦労をされたと聞いています。
 以前に、私が氣を送っていると、「日本に帰りたい」と言う魂が出てきたことがありました。
辛い、苦しい生活の中、遠い異国の地で故郷を思いながら亡くなった方です。
日本に居る親戚や友人を懐かしむばかりではなく、畑や田んぼ、山々などの風景さえもが愛おしいようでした。
私は、一生懸命に氣を送りながら、「もう自由です。光のほうに行ってください」と言うと、喜びの涙を流しながら消えていかれました。
いつの時代も戦争は、膨大な悲劇を生むものです。
私は、今ある自由と平和に感謝すると共に、今回も縁ある皆様に、たくさんの真氣光を届けたいと思っています。
この出張の様子は、月刊ハイゲンキ8月号でもご紹介しますので、お楽しみに…。
(中川 雅仁)
[menu][次へ]

1000号ありがとうございます

 1997年の1月から始めた真氣光ニュースですが、ちょうど1000号になりました。
皆様、いつも読んでいただきありがとうございます。
この原稿を書くにあたり、これまでの私の記事で、節目となる号を読み返してみました。
 1999年7月1日の127号「うまく出来ているとしか、いいようがない」では、このニュースがちょっとしたきっかけで始まることになり、文章を書くという事について、私の記憶を遡って小学校4年生の時の体験を書いておりました。
当時、1時間の必修クラブを選択するということになるのですが、たまたま全員が女子の読書クラブに入ってしまい、女性に免疫のなかった私が緊張状態の中で、ひたすら本を読み感想文を書いていたというものです。
その一見マイナスの体験が、私の「書くことへの抵抗感」をなくし、このニュースの根本にもなっているようです。
 1999年4月22日発行の117号「蕎麦屋の役割」では、私が、たまたま入った北海道東部の蕎麦屋で、そこの経営方針にふれ、真氣光を扱うエスエーエスの役割について感じた事を書いています。
真氣光だけに絞り、それを極限まで追求していくことが大事で、進化し続ける宇宙からの波動をしっかりと受信するということの礎となった話です。
 ところで、原稿を書くことで、一番の問題は、何を書くかということです。
「伝えたいことが定まらないと、書けない」ということになるのですが、既に発行日が決まっています。
遅れるわけにはいきません。
結局いつも時間がないので毎回が真剣勝負になるのですが、我ながら、よくぞ書いてきたものだと思います。
2006年10月12日発行の494号「強い意志が大事」では、原稿が書けない時にハイゲンキのヘッドを使って、何とか乗り越えられた自分の体験を書いています。
どんな人にも当てはまることですが、マイナスの氣が出来ないように引っ張ろうとする時に、それに負けまいと歯を食いしばって努力しようとすること、これはマイナスの氣の支配から卒業する極意です。
 創刊号が36歳の時ですから、当時と比べると少しは成長できたのでしょうか。
書くことで筋道を立てて考えることができるようになり、それにより話すことも出来るようになりました。
書くことは意識するということなので、真氣光のエネルギーが届きやすくなって、そこに作用するマイナスの氣の影響も少なくなります。
まさしく私のためにあった真氣光ニュースです。
2013年3月15日発行の800号「目標も進化していく」では、この5月に1000号になるという予想をしていました。
次の大きな節目2000号は20年後です。
そこまで続くかどうかはわかりませんが、この号は一つの通過点として、これからもお付き合いの程、よろしくお願いします。
(中川 雅仁)
[menu][次へ]

遊び心を持ってやる

 肩が痛くてうつ伏せも一苦労だという方にホワイトセラミックヘッドを使って氣を送った。
ただし、肩に直接ではなく、両足のふくらはぎに当てがい、軽くコロコロ転がした。
数分後、起き上がってというと、さっきまでの苦労は一体何だったのかというほどスムーズに起き上がれた。
「毎日自分でも氣は受けてきたけどこんなことは起きたことない。
この違いは何なの?」と驚きの表情。
そう、ここは名古屋センター、たくさん氣が集まるところ。
そしていつもと違うやり方!これがみそ。
毎日同じやり方も悪くない。
しかし、遊び心を持ってたまには違うやり方をしてみるのもいいのでは?可能性はいつもそばにあるという教訓を互いに得たのでした。
その後、ご夫婦でやり合っているそうで経過もいいようですよ。
(名古屋センター 松本)
[menu][次へ]

旧型ハイゲンキに感謝の日々です

 真氣光30周年キャンペーンですが、既に313台をお受けしました。
ありがとうございます。
このキャンペーンは、旧型ハイゲンキを下取りして、新しいものを安く購入していただくというもので、8月末日まで開催しています。
現在、本社の私がいつも居る部屋には、壁に沿って百台ほどの古いハイゲンキが積まれていて、私はその中で仕事をしている状態です。
これは、私が一台一台のハイゲンキにお礼を言って、関係しているご縁のある方に、光の方に行っていただいた上で、処分するようにしているからなのです。
これはどういうことなのか、詳しく説明したいと思います。
 先代は、氣中継器ハイゲンキの本体について神棚のようなものだと説明しておりました。
当時、そのように聞いて分かったつもりでいましたが、本当にその意味が分かったのは、先代が亡くなって2年余り経ってからのことでした。
「腰が痛くなった」という女性が会長セッションに来て、氣を受けるうちに、その人の口を使って、かなり以前の御先祖に当たるお婆さんが出てきたことでした。
そのお婆さんのような魂は「この子のおかげで、我が家に光が来た」と喜んでいたのです。
その女性は、腰が痛くてハイゲンキを使っていたけれど治ってしまったので、ハイゲンキは押し入れの奥に入れて、この数年は全く使っていなかったと言うのです。
その方も、ビックリしていましたが、私の方がハッとさせられました。
ハイゲンキは氣入れをすると常時氣を中継するようになり、使っていなくてもハイゲンキの本体はジワジワ氣を放射していますから所有者の家系にそれが浸透していくのです。
つまりそれによって家族や親戚にも良い氣の影響が及ぶということですから、所有者の2親等までの家族も同等の会員とし、エス・エー・エスができるだけのフォローをする今の会員規約にしたわけです。
これが’98年のことでした。
 私たちには縁の近いところから遠いところまで、たくさんの御先祖を含めた魂たちが関係しています。
氣が浸透していくとは、水が地中奥深くに浸透していくようなもので、例えば地中には砂のような水が浸透しやすいところもあれば、岩盤のような水が浸透し難いところもあります。
私たちの縁ある魂には、強い恨みによって岩盤のような頑な心をもった、氣が浸透しにくい魂のグループもあります。
そこにハイゲンキ本体からの氣の光が差し掛かっている時には、それを光に変えるには少々時間がかかるのです。
つまり、その最中であれば、私が手助けして光に変わっていただく必要があり、それからでないと処分するわけにはいかないということなのです。
(中川 雅仁)
[menu][次へ]

父の日に因んで先代の話

 今週の日曜日は父の日ですね。
お父さんには「感謝」という良い氣を送っていただきたいと思います。
私の父、先代は、仕事ではずいぶん苦労しましたが、家族に対して「働いてやっている」という素振りを少しも見せたことがありませんでした。
真氣光の仕事を始めるまでは、金策に駆け回るということも少なくありませんでしたから、子どもの目には、父がお金を稼いで来るのは母の喜ぶ顔が見たいからだと、映っていたものです。
 父は、もともとは時計の技術者でしたが、結局、時計技術の学校と会社を二つ、作って順調になると駄目(倒産)になるということを経験して、真氣光の前身となる健康器具販売の会社に繋がりました。
最初は、氣とは全く無関係の仕事だったのですが、技術者だったからハイゲンキを作り出すことができましたし、特に2番目の会社、それは店舗の設計施工の会社だったのですが、それをやるようになって見えないエネルギー(氣)の世界を知るようになったようです。
ところでこの会社ですが、知名度も無い会社が儲かるには、お客さんからの注文を黙って待っているわけにはいきません。
父は、出来るだけ安い店を自分で買って、そこを施工して売る、それも出来るだけ高く売るために繁盛店にするというノウハウを付ける工夫をしたのです。
安い値段の店舗とは、人が寄りつかないような店です。
まさしく居心地が悪い、氣の悪い店です。
ある時はレストラン、それが終わると喫茶店、居酒屋、土産物屋など、いろいろな店の店主としてアイデアとノウハウの開発に知恵を振り絞ったというわけです。
結果的に、これが当たって、けっこう儲かったようなのです。
 活気という言葉がありますが、人の集まらないところには、マイナスの氣が集まり、人が集まるところには、プラスの氣つまり良い氣が宿るものです。
「少々氣が悪い所でも、人を呼び込んで良い氣にしてしまえ」と、父は研究していたのです。
父が学んだことは、『土地や家の悪い氣の影響は確かにあって人が集まらない店になるけれど、店のオーナーや従業員の持っている氣のエネルギーつまり一生懸命に工夫・努力する「やる氣」で、何とかできる。
一時的には、悪い氣の影響を受けるが、惜しむことなく努力できることで自分自身の氣が高まり、それが周りの環境にも影響を与えることがある』ということです。
今であれば、さらに真氣光のエネルギーを利用すれば、それをもっと加速させることができると言えるでしょう。
父の日に因み、私はそんな父の背中を見て大きくなれたことにも感謝したいと思うのです。
(中川 雅仁)
[menu][次へ]