(55)人事を尽くして天命を待つ

 「私は良くなりますか?」という質問をされることがあります。
私も歯痒いのですが、真氣光の効果にはどんなに自信があっても、氣の吸収力はその人次第ですから、「私には結果は分かりませんが、氣をしっかり取り入れてみてください」と、お答えするしかありません。
ところで先日、若い方から「採用してくれるところが今の職場しか無く就職したけれど、自分には合いません。
どうしたら良いでしょう」という質問がありました。
私は「他の所が見つからないなら取り敢えず今の職場で一生懸命やりなさい」と答えたのでした。
 ところで、この二つの質問に関係することは、今の状態に不満があるばかりか、さらに先のことも良く分からないことから生じる不安です。
マイナスの氣の影響を既に受けているから、今現在が自分の希望通りになっていない状態です。
 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。
ことわざ辞典で調べてみると『結果を天命に任せ、悔いの残らないように最大限の努力をすること。「天命」は天によって決められた、人間がどうすることもできない運命。人間は力の限りを尽くしてもうこれ以上はやることはないというところまでやったら、あとは静かに天命を待つしかない。中国で古代から言われている語句』と、説明されています。
 一言で「最大限の努力」と言いますが、それによって人の魂が放つ光のような氣のエネルギーが増えるので、いつまでもその人に影響を与えていたいマイナスの氣にとっては、とても嫌うべきことなのです。
それをされると、波動が合わなくなり、取り付く島がなくなるばかりか、マイナスの氣は光に変わり、明るい方へ行かなければならなくなるわけです。
 逆に考えれば、人事を尽くさない限りは、マイナスの氣は変わらず、プラスの氣の応援も受け難いので天命はやってこないとも言えます。
今、置かれている状況で、どこまでやれば「力の限りを尽くす」ことになるかは定かでなくても、常にその気持ちで行動できるかどうかです。
真氣光を受けるということにも「最大限の努力」が必要な時があります。
もしかしたら、長い人生の中で、不満を感じることで、今が「最大限の努力」を学ぶ時なのかもしれません。
 天命を待つ時がいつなのか?と考えると【試練を乗り越える】その時々にあることでしょう。
しかし、最終的には私は、死に際のことではないかと思うのです。
体を捨てて魂だけの状態になるのですが、その時の氣の状態で、その先が決まってしまうからです。
ですから、その時まで、私もその時々の「最大限」に挑戦して、天命を待ちたいと思っているのです。
(中川 雅仁)
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(54)物は試し

 最近は、料理レシピのアプリが優秀で、私の食生活を大きく向上させてくれています。
料理本からアプリになって利便性が向上しましたが、さらにスマホで動画を視聴できるという点が私には良いようです。
料理を作っているところが1分ほどの動画にまとまっているので、食材をどう切って良いのかもわからない私にとっては、いかにも簡単そうで、敷居が低くなるのです。
「物は試し」と簡単にトライできるというわけです。
 この「物は試し」という発想は、人類の進歩にとって、人の成長にとって、とても大事だと痛感しています。
先代が夢で白髭の老人から教えられ試しに作ってみたのが、氣中継器ハイゲンキだったのですから、これがなければ真氣光も始まっていません。
私も、これまで数々の氣グッズを作ってきましたが、「物は試し」と、やってみたところ、それがとても良い結果に繋がってきたのです。
 ことわざ辞典で調べてみると『とにかく一度試してやってみようということ。
・・・チャレンジ精神を評価しているとも言えよう。
江戸中期からのことわざ』とあります。
ここで、人は、なぜ「試してみよう」と思うか(思えるか)?ということですが、ここに私は、見えない氣の大きな影響があると思っています。
よく鬱病などを患って無気力のような状態になった人の話を聞くと、「試そうなどという発想にならない、だるいし面倒」などマイナスの氣の邪魔ともとれることを言われます。
だから、やってみようという意識の大本にはプラスの氣の応援がないと、なかなかそうは思えないのだと思うのです。
しかし、プラスの氣の応援があっても、その間隙を縫って、マイナスの氣の邪魔があり、時にはやってみたことが失敗に終わることもあるでしょう。
しかし、そこで「失敗が嫌だから、もう何もしない」では、マイナスの氣の思うツボにはまってしまい、魂の成長はありません。
失敗を体験できたことも貴重な学びで、真氣光を受けながら良く考え、さらに「物は試し」を続けることで、精度も上がり効率の良い成長があるのです。
私も自分自身の生活を省みると、まだまだマイナスの氣に邪魔され、時間・お金・自信が無い、未経験・・・などの理由を付け敷居を高くして、試してみようとは思えないことがあります。
邪魔をしているマイナスの氣を意識し、真氣光を受けながら、いろいろなことにチャレンジしたいと思うのです。
そして、さらにもう一つ付け加えると、失敗があるかもしれない他人の「物は試し」を、「いかにプラスの氣の応援を受けながら温かい目で見守れるか」ということも大事ですので、ここにも真氣光の利用を忘れるわけにはいかないのです。
(中川 雅仁)
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(53)隗(かい)より始めよ

 「真氣光で家族を良くしたい」あるいは「私が良くなったので、次には家族や友人を何とかしたい」と言われる方が多いものです。
そのような方は、真氣光の良さを十分に理解したうえで、周りの人にも氣をお分けしたいということなのです。
自分から周りの人へと、良い氣の輪を拡げられるというのが、真氣光の良い所でもあります。
しかし、周りの人が理解してくれなくて、なかなか直ぐには、それが思うようにできないということもあるものです。
 「隗より始めよ」ということわざがありますが、氣の性質を捉えた言葉ですので、きょうは氣の観点から、これについて説明したいと思います。
ことわざ辞典を開くと『(1)大きなことをするには手近なことから始めよということ。(2)何事も、言い出した者から始めよということ。中国・漢代の故事で、郭隗(かくかい)という人が燕(えん)の昭王(しょうおう)の問に答えて、国力を充実する ために賢者を招くには、自分のように優秀ではない者を優遇すればすぐに集まってくる、と言った言葉に由来する。もともとは、まず手始めに私、すなわち隗を用いてみなさい、という意』とあります。
 私は、氣というものは波動的な性質があると、よくお話ししています。
波長の似たものは共鳴したり同調したりするのですが、波長の違うものはそれが難しくなります。
例えば水と混じり易いものはたくさんありますが、水と油のように全く性質が違えば、混じることが無いばかりか、ものによっては交わる・接することもできないこともあるほどです。
ですから真氣光という、プラスの氣が素晴らしいと思っても、それが直ぐに理解出来る人と、そうではない人がいるのです。
しかし、氣は少しずつ浸透するものですから、まず誰かが取り入れることで、周りの人も時間とともに理解できる方向に変化していきます。
さらには真氣光を受けようと「言い始めた」人は、既に何らかのプラスの氣の期待を受けてのことですから、まずは「隗より始めよ」、直ぐにでも出来るところから、じっくり自分自身に真氣光を取り入れることです。
そして、それができたなら、少しずつ周りの人にも、氣グッズなどを利用して真氣光を取り入れた生活をしてもらえるように促すのです。
その方の様子を見ながら、話し過ぎてもいけませんし、まったく話さないのもいけません。
その加減が難しいのですが、自分自身に真氣光の氣のエネルギーの充電ができていると、応援してくれるプラスの氣も周りにたくさん増えるでしょうから、その力もあるのです。
時々、少しずつ話しているうちに、ある時、急に理解を示してくれるときがあるものです。
焦りは禁物、まずは隗より始めよ。
(中川 雅仁)
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(52)善は急げ

 先週、私は「出鼻をくじかれる」とマイナスの氣の関係について話しました。
このようなマイナスの氣の影響を受けないように、昔から人は経験的にいろいろなことわざを残し教訓を与えています。
「善は急げ」という言葉にも、氣の観点から大事なことがあるので解説します。
 ことわざ辞典を調べてみると『良いと思ったことは即座に実行せよということ。通常はこの後に「悪は延べよ」と続けて対句形式で用いることが多い。善の解釈に二通りある、一つは人や社会への善行とする見方。善を行うには己の欲望などに打ち克つ心が必要だから、速やかに実行しないと悪の誘惑に負けるというもの。もう一つは善を自分にとってよいもの、好都合なものといった意に解する。好機は一度逃すと二度と巡って来ないかもしれないから迷わずにやれということになる。江戸時代に多くの用例がある。』とあります。
 私たちの周りには、プラスの氣とマイナスの氣のどちらもが存在していて、両方が私たちに影響を与えています。
プラスの氣は、守護霊のように一生懸命に応援しよう、支えようとしてくれています。
一方マイナスの氣は、先週解説したように、体を失うときに辛い・苦しい気持ちが強く、氣のエネルギーを極端に失ってしまった魂で、自分が不幸だから、その人がいつまでも不幸なままでいて欲しいと画策するというものです。
 私たちは、プラスの氣の応援によって、その人の魂の輝きが増える方向に、いろいろなことを実行しようとひらめくものです。
ところが、それに対して、光を増やして貰っては困るマイナスの氣が、ジワジワと邪魔をしてくるのです。
例えば、ことわざ辞典が言うように己の欲望が湧いて来ることもあるでしょうし、出来ない理由がいろいろ思い浮かぶかもしれません。
また、日頃からマイナスの氣の邪魔が多いと、プラスの氣が一生懸命に好機を作ろうとしても、なかなか作れるものではありません。
プラスの氣の気持ちになってみると、やっと苦労して作った好機を簡単に逃されると、また一からやり直しとなるので、かなり辛いことだと思います。
ですから私たちは、二度と巡っては来ないかもしれないぐらいの気持ちで、それを掴もうとすることが大事、つまり善は急げということになるのです。
 また、「悪を延べよ」も大事です。
例えば、勉強しなければいけないのに、見たいテレビ番組があったとします。
録画して先延ばしにすると、本当に見なくてもよいものは、そのうちに忘れてしまうかもしれません。
マイナスの氣の誘惑を遠ざける一つの方法です。
さらには真氣光を受けることでも、マイナスの氣をプラスにできるので、「善は急げ、悪は延べよ」が一層容易になるのです。
(中川 雅仁)
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(51)禍転じて福となる

 寒くなってきました。
ホワイトセラミックヘッドを通電して使った時の温かさが、心地良く感じられる季節に突入です。
このヘッドですが、開発当時、私は大きく振動するヘッドを作りたいと試作したのですが、大きく振動させると振動部に熱が出て、スティックヘッドのような金属では熱が伝わりヘッドが熱くなりすぎて困っていました。
ある時、二つのアイデアを思い付いたのです。
一つは「熱を伝えにくいスポンジでヘッドを作ろう」ということでソフトヘッドができました。
二つめは「どうせ熱が出るのなら積極的に利用して遠赤外線が出るようなセラミックで作ろう」ということから、ホワイトセラミックヘッドができたのです。
 「禍転じて福となる」ということがあるものです。
昔からこのような言葉があるということは、たくさんの人が、この言葉通りの体験をしているということでしょう。
調べてみると、清酒、ブランデー、トランジスタ、ダイナマイト、コーンフレーク、コカコーラの誕生話の裏に、さらにはノーベル賞級の発見にも、失敗したと思っていたら、それが大成功、大発見に繋がったということが、世の中にはたくさんあるのです。
 大発見の話ばかりではなく、禍によって得ることがあるものです。
真氣光を受けるようになって、私も大きく変わりました。
昔は悪いことが起きた時に、「何て不幸なんだ!」と落ち込むことが多かったのですが、真氣光をやるうちに、それが「一見」悪いことに過ぎず、後々考えて見れば、むしろ良いことに繋がっているということを数々体験して、「悪いことが起きても何か意味があることに違いない」と思えるようになり落ち込まなくなったのです。
「不幸だ」と落ち込んでいては、マイナスの氣が集まり、事態はより一層マイナスの方向に行くだけです。
その時に、何か意味があることかもしれないと、慌てず騒がず、心配や不安に陥ることもなく、マイナスの氣を集めないようにしてプラスの氣である真氣光のエネルギーを充電することが大事です。
 12/11は先代の命日です。
先代は、端(はた)から見て「どう見ても不幸な出来事」ということでも、決して悪く考えることなく、「これは自分のために起きたことだ」と自分中心に世の中が回っていると考えるほどの人でした。
私たちは、大きな宇宙の何ものかに生かされていて、どんな人にも、その人を応援しようとするプラスの氣という存在があります。
「神を信じ人を愛す」とは先代の遺した言葉ですが、神のようなそのような存在を信じようとすることです。
すぐに禍の意味を見出せなくても、すぐに福に結びつかなくても、その積み重ねが幸せへと導いてくれるのです。
(中川 雅仁)
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(50)情は人の為ならず

 昨日から、北海道は小樽での真氣光研修講座が始まりました。
施設がある朝里川温泉は、私も昔何回かスキーに来たことがあるところですから、懐かしさが湧いてきて、いつもと少し違う感じがしています。
きょう二日目の朝には、この研修初めての「いいとこ探し」(氣づきの時間)をしました。
皆さん、たくさん良いお話をしてくれましたが、その中に、「こちらの施設は老人ホームが併設されていて、入所者の方とお話する機会がありました。
自分がお話をさせていただいたのですが、その方から感謝され、かえってこちらのほうが嬉しくなりました」という発表がありました。
 「情は人の為ならず」ということわざがあります。
「へたに人に情けをかけて助けるのはその人の為にならない、自立を妨げる」と、近年誤解釈されているのですが、本来の意味は「情をかけるのは人の為ではなく自分の為であり、他人のためを思った行動は、その人にとってだけではなく、まわりまわって自分にも返ってくる」という意味ですから、まさしく氣の性質を現す言葉といえます。
このことわざですが、辞典によると、古くは『平治物語』からはじまり、江戸時代、さらには今日にいたるまで常用されてきたとあります。
『平治物語』では、敵軍に追いつめられた時に命を救ってくれた鵜飼を、二十数年後に成功した頼朝が真先に捜し出し、受けた恩に報いたくだりに使われており、「見返りを期待していない鵜飼の無償の情に対する、言わば純粋な恩返し」を表現していると書いてありました。
これは、「自分が良い氣をお分けできると、そちらからまた良い氣が返って来て、もっと幸せを感じられる」ということを、昔から人は体験的に掴んでいたということでしょう。
そして真氣光研修講座は、この「良い氣をお分けできる人」という気功師の養成を目的に始まった講座なのです。
 ところで「なんか最近調子が悪いなぁ」「運がない」「いいことが無い」と感じることはないでしょうか。
氣の観点から言えば、マイナスの氣の影響を受けている状態です。
そのような時こそ、プラスの氣を自分から出せるようにすることで、プラスの氣が集まりやすくなり、目の前のマイナス現象から抜け出しやすくなるということに繋がります。
自分から周りへ、プラスのほうへ向かう為に何かできないか?ちょっとしたことでも良いのです。
何かができることで、氣の流れが変わるものです。
さらに真氣光を利用できることで、さらにそのチャンスは広がるのです。
(中川 雅仁)
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(49) 喉元過ぎれば熱さ忘れる

 先週、たこ焼きを一つ、味見にもらって口に入れたら、これが熱々の代物で、口から出すわけにもいかず、ハフハフ言いながら飲み込んでしまいました。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とは、江戸時代のことわざだそうですが、氣の観点から考えても良く言ったものです。
私の場合は、食道に入ってしまえば何とかなり、結局、味はよくわかりませんでした。
 ところで私は、毎月土曜日か日曜日の午後半日を使って、どこかのセンターから全国に向け、講義をネット配信し遠隔で氣を送る、真氣光レッスンと称する催しをしています。
 先日も日曜日に大阪センターでありましたが、その時に、ある女性が私の「喉元過ぎると…」を思い出させてくれるような質問をしてくれました。
氣のことを知るには、良い教材になりましたので、そんな話をしたいと思います。
彼女の話を要約すると『足の踏み場もないぐらい散らかっている部屋に、エアコンの修理に来てもらわなければならなくなり、恥ずかしい思いをしたのだが、その後に、また会社の人に入ってもらわなければならなくなって二度までも恥ずかしい思いをした。
しかし、「喉元過ぎれば…」で、なかなか掃除ができない』と、こんなことでした。
私は、「熱さ忘れる」のも、「その人に忘れさせようと働くマイナスの氣の影響があるかもしれません」と、回答したのです。
 私たちは、肝に銘じなければならないことでさえも、喉元過ぎれば忘れてしまうことがあります。
その人が良い方向に変わってしまうと、波長が合わなくなり出ていかなければならないので、そのことを分かっているマイナスの氣が、一生懸命邪魔をするように働いて、忘れさせようとするのです。
「二度までも恥ずかしい思いをしているのにも関わらず…」とのことでしたが、それはプラスの氣が「掃除をしないとマイナスの氣の影響をもっと受けてしまうよ」と、言っているのかもしれません。
マイナスの氣の影響を強く受けると、何回も痛い目にあうのに、なかなか変われないようになってしまいます。
また逆に、恨みを持ったマイナスの氣の影響を受けると、人に言われた悪いことが耳につく等、嫌な事、大変だったこと、してもらえなかったこと等が、なかなか忘れられなくなってしまいます。
 ですから、忘れてしまうのも、忘れられないのも、マイナスの氣の影響が考えられますので、それを意識して、まず真氣光を受けてみることです。
そして、一見悪いことから体験して学んだことは頭の中にしっかり残し、自分を変えようと努力するとともに、マイナスの氣を引き寄せるような感情は、なるべく頭に残さないようにすることがポイントなのです。
(中川 雅仁)
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(48)口は災いのもと(幸いのもと?)

 先日3/22は先代の誕生日でした。
私は、すっかりそのことを忘れていたのですが、岡谷で会長セッションがあり、そこに集まってくださっていた会員の皆さんに教えて貰って気がついたのです。
その日は、晴れた良い天気だったのですが、前日に雪が降ったそうで、山が僅かに白く輝いて、とても綺麗でした。
よく先代の命日に雪が降ったりするものですから「先代が雪を降らせたのかな」と、会員の皆さんと話をしたのです。
生きていれば81歳、どんな人になっていたのでしょう?若い頃から白髪でしたので、全く変わらないかもしれないし、ちょっと想像ができません。
いつもニコニコ笑っていて、話を聞いていると、こっちが楽しくなってくる、そんな人ということは変わらないでしょう。
 先代より2歳下、弟にあたる叔父から、先代の小さい頃の話を聞いたことがありました。
先代は、ガキ大将で喧嘩も強く、特に弱い者イジメが許せなかったようで、正しくないということには徹底的に立ち向かう、それを祖父も認めていたようです。
「人にされて嫌なことは絶対に人にしない、人の喜ぶ顔を見るのが嬉しい」私には、そんな少年時代が想像されました。
先代の話は、いつも人をワクワク、楽しくさせるものでした。
逆に先代が、不平、不満、愚痴、陰口、悪口、…そんな話をしているのを聞いたことがありません。
 「口は災いのもと」ということわざがあります。
口から不用意に発した言葉や余計なひとことが災い(不幸な出来事、不運など)をまねく場合が多いという意味で、言葉遣いは慎重にせよということわざです。
もっとも簡単にマイナスの氣を集める方法だと、昔から経験的に知られていたのでしょう。
口から出る言葉は、私たちの周りに存在するマイナスやプラスの氣も聞いています。
不平不満や愚痴、自分が言われて嫌なこと、などマイナスの言葉は、似たような気持ちを持つマイナスの氣を集めてしまいます。
一般的に、このことわざは、「慎重にせよ」ということから、「沈黙は金」つまり「多くを語るな」という、いましめに向かう傾向があります。
しかし、先代のように良いことを口にしていくことは、プラスの氣を集めるとても良い方法なのです。
 また、強くマイナスの氣の影響を受けていると、口から出てくる言葉が、マイナスの言葉になってしまいます。
それが、さらに周りからマイナスの氣を集めるのです。
自分自身の口から出るマイナスの言葉に気がついて、少しずつでも減らすよう努力したいものです。
せっかくプラスの氣である真氣光を受けていても、自らマイナスの氣を集めていては、せっかくの良い氣の効果が現れにくくなるからです。
(中川 雅仁)
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(47)好事魔多し

 私は、いろいろな事をすぐに忘れてしまうので、できるだけメモをとるようにしています。
しかし、笑い事のようですが、なぜ、そこにこんな言葉がメモされているのか、わからないこともあります。
今日は、そんな私のメモにあった言葉、ひらがなで「こうじまおおし」です。
多分、何かのきっかけで耳にして、氣の観点からお話ししたいと思ったのでしょう。
「好事魔多し」この言葉を、ことわざ辞典を調べてみると「よいことには何かと邪魔が入ったり妨げる者が現れたりするものだという意。好事は良いこと。魔は邪悪なことで、ここでは邪魔。…」とあります。
 このことわざは、好調の時には身を律しなさいという教えとも言えます。
よいことがあったと有頂天になっていると、注意を怠り見落とすことが多くなったりすることがあるでしょうし、自分の力を過信しすぎて客観的に自分を見られなくなることで無理をしすぎたり、蔭で支えてくれている人たちへの感謝を忘れてしまったり、周りの人たちの気持ちを考えられなくなるなどということもあります。
私は、この言葉を聞いた時に直ぐ、「魔=邪魔が入ったり、妨げる者が現れたり」とは、まさしくマイナスの氣のことだと思ったのです。
これは見えない光つまり氣のエネルギーを失ってしまった魂のことですが、私たちは知らないうちに影響を受けていることがあります。
 よいことがあってウキウキしているときなどは、魂に光が増えます。
部屋の光が増え明るくなった分だけ、汚れた部分が鮮明になるように、存在していたマイナスの氣が、浮き上がってくるということがあるものです。
一つには、以前その人が辛い体験をしてマイナスの気持ちになったときに、波長が合って来ていたマイナスの氣です。
そのようなマイナスの氣は、「自分が辛いから、その人も辛いままでずっといてほしい」「自分の辛い気持ちをいつまでも分かって欲しい」「いつまでもそこに居て、この気持ちを分かち合いたい」というような気持ちをもっています。
その人に、よいことがあると、そこには居られなくなるから困るのです。
ですから一生懸命に足を引っ張ろうとします。
もう一つは、その人を恨んでいるマイナスの氣です。
正確には、その人の先祖に恨みを持っているのですが、対象はその人も含めて一族全員で、よいことがあると悪い方に行くように力を振り絞ります。
 このようなマイナスの氣の影響を受けていると、自分の魂の光だけでは、なかなか好転し難いので、外から光をとり入れる真氣光がとても有効です。
ですからまずは、よいことがあるように真氣光を受けるのですが、調子がよいときも真氣光を忘れるわけにはいかないのです。
(中川 雅仁)
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(46) 備えあれば憂いなし

 先週私は、「阿蘇での研修が始まります」と書きましたが、阿蘇山が噴火したのは、その半日余り後、夜半過ぎでした。
窓に何かがバチバチと当たる音で目が覚めたのですが、すぐに「阿蘇山が噴火したので会議室に集まって下さい」と全館放送があったのです。
私たちが研修をやっている会場が解放されていて、そこに70人程の人が集められ、宿の支配人から説明を受けたのでした。
朝になってみないと、どんな状況か分からないということで、皆さんその場で眠れぬ夜を明かしました。
朝、外は火山灰が1cmほど積もっていましたが、噴火はその時の一回のみで、結局私たちは、お昼まで予定通り講座を継続し、午後には熊本市内に宿が取れたので移動することができました。
 ちょうど噴火前、夜の私の講義では、「洗心」の話をしていたのです。
真氣光研修講座行持集「洗心の指標」に掲げられている「心からなくすべき感情」の中に「心配心」というのがあります。
その中でも、取り越し苦労による心配、これは考えても仕方がない、どうしようもないことなのに頭の中で考え心配してしまうというもので、「考えている間ずっとマイナスの氣と波長が合ってしまい、その影響を強く受けてしまいますよ」と話したところだったのです。
先代は「何が起こるかわからないのが人生。
取り越し苦労をするのではなく、一見マイナスな出来事に遭遇した時、冷静かつ瞬時に適切な対応をとる訓練が必要だ。
だから研修講座のスケジュールは前もって公表しない」と、よく言っておりました。
当時、私たちスタッフも、先代の思いつきによる咄嗟のスケジュール変更に、すぐに対応しなければならい事が幾度もあり、これも今考えると訓練を受けていたということだったのです。
 今回の研修ですが、ありがたいことに私たちは、その後も熊本センターに会場を移し、無事に研修講座の全日程を終えることができました。
これも参加者の皆さん全員の「洗心」を見事に実践した素晴らしい対応と、宿のスタッフの皆さん、さらには御先祖をはじめとするプラスの氣という見えない存在のおかげだったのです。
 咄嗟の時に最善の方法をとるには、日頃からモノの備えもありますが、生活の中で良くない出来事に直面した時、どうすればよいかという対策を、慌てることなく順序立てて頭でしっかりと考え対応する練習が大切です。
そして、その実力がついてくれば、心配する必要もまたなくなるでしょう。
私も、まだまだ学びが必要です。
しっかりと準備をすることと、心配してもどうにもならないことは天にお任せすること、この両方を万全にする上でも、毎日の真氣光のエネルギーの充電は欠かせないのです。
(中川 雅仁)
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